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日蓮大聖人『御書』解説

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タグ:種々御振舞御書 ( 7 ) タグの人気記事


2017年 01月 13日

種々御振舞御書 要点解説その七

引き続き日蓮大聖人は、三度の国家諌暁を果たすと「三度・国をいさめんに・もちゐずば国をさるべし」との古来からの格言に随い、弟子信徒の教化のために身延山中に入られたことを記すと共に、改めて「聖人去る時は七難必ず起る」と警鐘を鳴らします。
「本よりごせし事なれば三度・国をいさめんに・もちゐずば国をさるべしと、されば同五月十二日にかまくらを・いでて此の山に入る。
同十月に大蒙古国よせて壱岐・対馬の二箇国を打ち取らるるのみならず、太宰府もやぶられて少弐入道・大友等ききにげににげ其の外の兵者ども其の事ともなく大体打たれぬ、又今度よせくるならば・いかにも此の国よはよはと見ゆるなり。
仁王経には「聖人去る時は七難必ず起る」等云云、最勝王経に云く「悪人を愛敬し善人を治罰するに由るが故に乃至他方の怨賊来りて国人喪乱に遇わん」等云云。
仏説まことならば、此の国に一定悪人のあるを国主たつとませ給いて、善人をあだませ給うにや。
大集経に云く「日月明を現ぜず、四方皆亢旱(カウカン:大日照り)す。是くの如く不善業の悪王悪比丘我が正法を毀壊せん」云云。
仁王経に云く「諸の悪比丘多く名利を求め国王・太子・王子の前に於て自ら破仏法の因縁破国の因縁を説く。其の王別えずして此の語を信聴せん。是を破仏法破国の因縁と為す」等云云。
法華経に云く「濁世の悪比丘」等云云、経文まことならば此の国に一定・悪比丘のあるなり、夫れ宝山には曲林をきる、大海には死骸をとどめず、仏法の大海・一乗の宝山には五逆の瓦礫・四重の濁水をば入るれども、誹謗の死骸と一闡提の曲林をば・をさめざるなり。
されば仏法を習わん人・後世をねがはん人は、法華誹謗をおそるべし」と。

さらに大聖人は日本国の諸人が蒙古来襲で嘆いているのは「法華経をさぐる、
弘法等の真言師、法然等の弟子等国中に充満し、諸天が法華経の誓状の通り、頭破作七分の失にあてらるるなり」と断じます。
夫れ人身をうくる事は五戒の力による。五戒を持てる者をば二十五の善神これをまほる上、同生同名と申して二つの天生れしよりこのかた左右のかたに守護するゆへに失なくて鬼神あだむことなし。
しかるに此の国の無量の諸人なげきを・なすのみならず、ゆきつしま(対馬)の両国の人、皆事にあひぬ太宰府又申すばかりなし。此の国はいかなるとがのあるやらん・しらまほほしき事なり、一人・二人こそ失も・あるらめ・そこばくの人人いかん。
これひとへに法華経をさぐる弘法・慈覚・智証等の末の真言師・善導・法然が末の弟子等・達磨等の人人の末の者ども国中に充満せり。故に梵釈・四天等の法華経の座の誓状のごとく頭破作七分の失にあてらるるなり」と。

そして大聖人は本書の終段で「日蓮房をそしれども、頭もわれぬは日蓮房は法華経の行者にはあらざるかと」と論難を立てるとともに、住まいの安房の国からはるか遠くの身延山中に手紙を届けた光日房の信仰の深さを「釈迦仏の御使いか」と称えられて本書を結ばれます。

疑つて云く法華経の行者をあだむ者は頭破作七分ととかれて候に、日蓮房をそしれども頭もわれぬは日、蓮房は法華経の行者にはあらざるかと申すは道理なりとをぼへ候はいかん。

答えて云く、日蓮を法華経の行者にてなしと申さば、法華経をなげすてよとかける法然等・無明の辺域としるせる弘法大師・理同事勝と宣たる善無畏・慈覚等が法華経の行者にてあるべきか。又頭破作七分と申す事はいかなる事ぞ、刀をもてきるやうにわるるとしれるか。
経文には如阿梨樹枝とこそとかれたれ。人の頭に七滴あり七鬼神ありて一滴食へば頭をいたむ三滴を食へば寿絶えんとす。七滴皆食えば死するなり。

今の世の人人は皆頭阿梨樹の枝のごとくに・われたれども悪業ふかくして・しらざるなり
例せば、てをおいたる人の或は酒にゑい、或はねいりぬれば、をぼえざるが如し。又頭破作七分と申すは、或は心破作七分とも申して頂の皮の底にある骨のひびたふるなり。死ぬる時は・わるる事もあり。
今の世の人人は去ぬる正嘉の大地震・文永の大彗星に皆頭われて候なり。其の頭のわれし時せひせひやみ・五臓の損ぜし時あかき腹をやみしなり、これは法華経の行者をそしりしゆへにあたりし罰とはしらずや。

 されば鹿は味ある故に人に殺され、亀は油ある故に命を害せらる。女人はみめ形よければ嫉む者多し。
国を治る者は、他国の恐れあり財有る者は命危し、法華経を持つ者は必ず成仏し候。故に第六天の魔王と申す三界の主此の経を持つ人をば、強に嫉み候なり。
此の魔王疫病の神の目にも見えずして人に付き候やうに、古酒に人の酔い候如く、国主父母妻子に付きて法華経の行者を嫉むべしと見えて候。少しも違わざるは当時の世にて候。

日蓮は南無妙法蓮華経と唱うる故に二十余年所を追はれ、二度まで御勘気を蒙り、最後には此の山にこもる。
此の山の体たらくは西は七面の山、東は天子のたけ北は身延の山、南は鷹取の山、四つの山高きこと天に付き、さがしきこと飛鳥もとびがたし。中に四つの河あり所謂・富士河・早河・大白河・身延河なり。其の中に一町ばかり間の候に庵室を結びて候。

昼は日をみず夜は月を拝せず、冬は雪深く夏は草茂り。問う人希なれば道をふみわくることかたし。
殊に今年は雪深くして人問うことなし。命を期として法華経計りをたのみ奉り候に、御音信ありがたく候。しらず釈迦仏の御使か、過去の父母の御使かと申すばかりなく候、南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経。


 




by johsei1129 | 2017-01-13 22:23 | 重要法門(十大部除く) | Trackback | Comments(0)
2017年 01月 12日

種々御振舞御書 要点解説その六

引き続き日蓮大聖人は佐渡で最初に記された人本尊開顕の書「開目抄」の意義について解き明かします。

さて皆帰りしかば去年の十一月より勘えたる開目抄と申す文二巻造りたり

頚切るるならば日蓮が不思議とどめんと思いて勘えたり。此の文の心は日蓮によりて日本国の有無はあるべし。譬へば、宅に柱なければ・たもたず。人に魂なければ死人なり。日蓮は日本の人の魂なり。
平左衛門既に日本の柱をたをしぬ。只今世乱れてそれともなく・ゆめの如くに妄語出来して、此の御一門(北条氏)どしうちして後には他国よりせめらるべし。例せば立正安国論に委しきが如し。
かやうに書き付けて中務三郎左衛門尉(四条金吾)が使にとらせぬ。

さらに大聖人は「
自界叛逆難」の予言が的中した経緯と佐渡の守護代・六郎左衛門尉(本間重連)が、大聖人の威徳に触れ、今後「念仏申し候まじと」と、法華経に帰依したことをを詳細に記されます。そして「相模守殿(北条時宗)等の(法華経を)用ひ給はざらんには、日本国の人用うまじ。用ゐずば国必ず亡ぶべし」と断じます。


「つきたる弟子等もあらぎ(荒義)かなと思へども、力及ばざりげにてある程に、二月の十八日に島に船つく。鎌倉に軍あり京にもあり、そのやう申す計りなし。六郎左衛門尉・其の夜にはやふねをもつて一門相具してわたる、日蓮にたな心を合せて・たすけさせ給へ。

去る正月十六日の御言(内乱の予言)、いかにやと此程疑い申しつるに、いくほどなく三十日が内にあひ候いぬ、又蒙古国も一定渡り候いなん。念仏無間地獄も一定にてぞ候はんずらん。永く念仏申し候まじと申せしかば、いかに云うとも相模守殿(北条時宗)等の用ひ給はざらんには、日本国の人用うまじ。用ゐずば国必ず亡ぶべし。

日蓮は幼若の者なれども、法華経を弘むれば釈迦仏の御使ぞかし。わづかの天照太神・正八幡なんどと申すは、此の国には重けれども、梵釈・日月・四天に対すれば小神ぞかし。されども此の神人なんどをあやまちぬれば、只の人を殺せるには七人半なんど申すぞかし。太政入道・隠岐法皇等のほろび給いしは是なり。此れはそれにはにるべくもなし、教主釈尊の御使なれば天照太神・正八幡宮も頭をかたぶけ手を合せて地に伏し給うべき事なり。

法華経の行者をば梵釈・左右に侍り、日月・前後を照し給ふ。かかる日蓮を用いぬるともあしくうやまはば国亡ぶべし。
何に況や数百人ににくませ、二度まで流しぬ(伊豆・佐渡の流罪)。此の国の亡びん事疑いなかるべけれども、且く禁をなして国をたすけ給へと日蓮がひかうればこそ、今までは安穏にありつれども、はうに過ぐれば罰あたりぬるなり。
又此の度も用ひずば大蒙古国より打手を向けて、日本国ほろぼさるべし。ただ平左衛門尉が好むわざわひなり、和殿原とても此の島とても安穏なるまじきなりと申せしかば、あさましげにて立帰りぬ。
さて在家の者ども申しけるは、此の御房は神通の人にてましますか、あらおそろし・おそろし。今は念仏者をも・やしなひ、持斎をも供養すまじ。念仏者・良観が弟子の持斎等が云く、此の御房は謀叛の内に入りたりけるか、さて且くありて世間しづまる」と。


種々御振舞御書 要点解説その七に続く



by johsei1129 | 2017-01-12 22:53 | 重要法門(十大部除く) | Trackback | Comments(0)
2017年 01月 11日

種々御振舞御書 要点解説その五

引き続き日蓮大聖人は流罪地である佐渡・塚原三枚堂での正月十六日の法論に及んだ経緯について、詳細に記されます。

かくて・すごす程に庭には雪つもりて・人もかよはず堂にはあらき風より外は・をとづるるものなし。眼には止観・法華をさらし口には南無妙法蓮華経と唱へ、夜は月星に向ひ奉りて諸宗の違目と法華経の深義を談ずる程に、年もかへりぬ。

いづくも人の心のはかなさは、佐渡の国の持斎・念仏者の唯阿弥陀仏・生喩房・印性房・慈道房等の数百人より合いて僉議すと承る。聞ふる阿弥陀仏の大怨敵・一切衆生の悪知識の日蓮房、此の国にながされたり・なにとなくとも此の国へ流されたる人の始終いけらるる事なし。設ひいけらるるとも・かへる事なし、又打ちころしたりとも御とがめなし。

塚原と云う所に只一人ありいかにがうなりとも、力つよくとも人なき処なれば集りて、いころせかしと云うものもありけり。又なにとなくとも頚を切らるべかりけるが、守殿の御台所の御懐妊なれば・しばらくきられず終には一定ときく。
又云く六郎左衛門尉殿に申してきらずんば・はからうべしと云う。多くの義の中に・これについて守護所に数百人集りぬ。六郎左衛門尉云く、上より殺しまうすまじき副状下りてあなづるべき流人にはあらず。あやまちあるならば重連が大なる失なるべし。それよりは只法門にてせめよかしと云いければ念仏者等・或は浄土の三部経・或は止観・或は真言等を小法師等が頚にかけさせ、或はわきにはさませて正月十六日にあつまる。

佐渡の国のみならず越後・越中・出羽・奥州・信濃等の国国より集れる法師等なれば。塚原の堂の大庭・山野に数百人・六郎左衛門尉・兄弟一家さならぬもの百姓の入道等かずをしらず集りたり。
念仏者は口口に悪口をなし真言師は面面に色を失ひ天台宗ぞ勝つべきよしを・ののしる。在家の者どもは聞ふる阿弥陀仏のかたきよと・ののしり・さわぎ・ひびく事・震動雷電の如し。

日蓮は暫らく・さはがせて後、各各しづまらせ給へ、法門の御為にこそ御渡りあるらめ悪口等よしなしと申せしかば、六郎左衛門(佐渡の守護代・本間重連)を始めて諸人然るべしとて、悪口せし念仏者をば・そくびをつきいだしぬ。さて止観・真言・念仏の法門一一にかれが申す様を・でつしあげて承伏せさせては・ちやうとはつめつめ、一言二言にはすぎず、鎌倉の真言師・禅宗・念仏者・天台の者よりも・はかなきものどもなれば、只思ひやらせ給へ。
利剣をもて・うりをきり大風の草をなびかすが如し。仏法のおろかなる・のみならず、或は自語相違し、或は経文をわすれて論と云ひ、釈をわすれて論と云ふ。善導が柳より落ち、弘法大師の三鈷を投たる大日如来と現じたる等をば、或は妄語或は物にくるへる処を一一にせめたるに、或は悪口し或は口を閉ぢ、或は色を失ひ、或は念仏ひが事なりけりと云うものもあり。或は当座に袈裟・平念珠をすてて念仏申すまじきよし誓状を立つる者もあり。


続いて大聖人は佐渡の守護代・本間重連(六郎左衛門尉)に鎌倉幕府に内乱が起こることを予言します。これは塚原問答の約一か月後の文永9年(1272年)2月11日に執権北条時宗の命で、北条一門の名越時章・教時兄弟が、また2月15日京にいた異母兄北条 時輔を謀反のかどで討伐した、所謂「二月騒動」で予言が的中することになる。
これにより日蓮が八年前の文応元年7月16日に北条時宗の父北条時頼に献じた『立正安国論』で予言した他国侵逼難と自界叛逆難が的中することになります。
この事は選時抄で示された
未萌(みぼう)をしるを聖人という」そのものです。


 「皆人立ち帰る程に六郎左衛門尉も立ち帰る一家の者も返る、日蓮不思議一云はんと思いて六郎左衛門尉を大庭よりよび返して云くいつか鎌倉へのぼり給うべき、かれ答えて云く下人共に農せさせて七月の比と云云、日蓮云く弓箭とる者は・ををやけの御大事にあひて所領をも給わり候をこそ田畠つくるとは申せ、只今いくさのあらんずるに急ぎうちのぼり高名して所知らぬか、さすがに和殿原はさがみの国には名ある侍ぞかし、田舎にて田つくり・いくさに・はづれたらんは恥なるべしと申せしかば・いかにや思いけめあはててものもいはず、念仏者・持斎・在家の者どもも・なにと云う事ぞやと恠しむ」と。


種々御振舞御書 要点解説その六に続く




by johsei1129 | 2017-01-11 22:44 | 重要法門(十大部除く) | Trackback | Comments(0)
2017年 01月 10日

種々御振舞御書 要点解説その四

竜の口の法難を乗り越えた日蓮大聖人は、幕府の指示により佐渡島の守護代、本間重連の相模・越智の屋敷に移動します。そこで大聖人は「いかに月天いかに月天」と諸天を責め、その結果「天より明星の如くなる大星下りて前の梅の木の枝にかかりてありし」と、竜の口での「光り物」、本間重連の屋敷での「明星の如くなる大星」と、諸天を自在に動かす仏の振る舞いを次のように示します。

大集経には「日月明を現ぜず」ととかれ、仁王経には「日月度を失う」とかかれ、最勝王経には「三十三天各瞋恨を生ず」とこそ見え侍るに、いかに月天いかに月天、とせめしかば、其のしるしにや天より明星の如くなる大星下りて前の梅の木の枝に・かかりてありしかば、もののふども皆えん(縁側)より・とびをり、或は大庭にひれふし(平伏し)、或は家のうしろへにげぬ。やがて即ち天かきくもりて大風吹き来りて、江の島のなるとて空のひびく事・大なるつづみを打つがごとし」


さらに大聖人は越智にとどまっていた二十余日の間に弟子、信徒が持斎念仏者のはかりごとにより無実の罪を着せられたことを次のように示します。
依智にして二十余日・其の間鎌倉に或は火をつくる事・七八度・或は人をころす事ひまなし、讒言の者共の云く日蓮が弟子共の火をつくるなりと、さもあるらんとて日蓮が弟子等を鎌倉に置くべからずとて、二百六十余人しるさる。皆遠島へ遣すべしろうにある弟子共をば頚をはねらるべしと聞ふ、さる程に火をつくる等は持斎念仏者が計事なり、其の余はしげければかかず」

次に大聖人は「十月十日に依智を立つて同十月二十八日に佐渡の国へ著ぬ」と、佐渡流罪の道程を詳細に記されるとともに「仏滅度後・二千二百余年が間・恐らくは天台智者大師も一切世間多怨難信の経文をば行じ給はず数数見擯出の明文は但日蓮一人なり、一句一偈・我皆与授記は我なり阿耨多羅三藐三菩提は疑いなし」と法華経「一切世間多怨難信」
の経文を身読した末法の本仏としての確信を示します。

同十月十日に依智を立つて同十月二十八日に佐渡の国へ著ぬ、十一月一日に六郎左衛門が家のうしろ塚原と申す山野の中に洛陽の蓮台野のやうに死人を捨つる所に一間四面なる堂の仏もなし、上はいたまあはず四壁はあばらに雪ふりつもりて消ゆる事なし、かかる所にしきがは打ちしき蓑うちきて夜をあかし日をくらす、夜は雪雹雷電ひまなし昼は日の光もささせ給はず心細かるべきすまゐなり、彼の李陵が胡国に入りてがんくつにせめられし法道三蔵の徽宗皇帝にせめられて面にかなやきをさされて江南にはなたれしも只今とおぼゆ、あらうれしや檀王は阿私仙人にせめられて法華経の功徳を得給いき、不軽菩薩は上慢の比丘等の杖にあたりて一乗の行者といはれ給ふ。

今日蓮は末法に生れて妙法蓮華経の五字を弘めてかかるせめにあへり、仏滅度後・二千二百余年が間・恐らくは天台智者大師も一切世間多怨難信の経文をば行じ給はず数数見擯出の明文は但日蓮一人なり、一句一偈・我皆与授記は我なり阿耨多羅三藐三菩提は疑いなし
、相模守殿こそ善知識よ平左衛門こそ提婆達多よ念仏者は瞿伽利尊者・持斎等は善星比丘なり、在世は今にあり今は在世なり、法華経の肝心は諸法実相と・とかれて本末究竟等とのべられて候は是なり、摩訶止観第五に云く「行解既に勤めぬれば三障・四魔・紛然として競い起る」文、又云く「猪の金山を摺り衆流の海に入り薪の火を熾にし風の求羅を益すが如きのみ」等云云、釈の心は法華経を教のごとく機に叶ひ時に叶うて解行すれば七つの大事出来す、其の中に天子魔とて第六天の魔王或は国主或は父母或は妻子或は檀那或は悪人等について或は随つて法華経の行をさえ或は違してさうべき事なり、何れの経をも行ぜよ仏法を行ずるには分分に随つて留難あるべし、其の中に法華経を行ずるには強盛にさうべし、法華経を・をしへの如く時機に当つて行ずるには殊に難あるべし、故に弘決の八に云く「若し衆生生死を出でず仏乗を慕わずと知れば魔・是の人に於て猶親の想を生す」等云云、釈の心は人・善根を修すれども念仏・真言・禅・律等の行をなして法華経を行ぜざれば魔王親のおもひをなして人間につきて其の人をもてなし供養す世間の人に実の僧と思はせんが為なり、例せば国主のたとむ僧をば諸人供養するが如し。

されば国主等のかたきにするは既に正法を行ずるにてあるなり、釈迦如来の御ためには提婆達多こそ第一の善知識なれ、
今の世間を見るに人をよくなすものはかたうどよりも強敵が人をば・よくなしけるなり、眼前に見えたり此の鎌倉の御一門の御繁昌は義盛と隠岐法皇ましまさずんば争か日本の主となり給うべき、されば此の人人は此の御一門の御ためには第一のかたうどなり、日蓮が仏にならん第一のかたうどは景信・法師には良観・道隆・道阿弥陀仏と平左衛門尉・守殿ましまさずんば争か法華経の行者とはなるべきと悦ぶ」と。

種々御振舞御書 要点解説その五に続く


 



by johsei1129 | 2017-01-10 23:00 | 重要法門(十大部除く) | Trackback | Comments(0)
2017年 01月 09日

種々御振舞御書 要点解説その三

引き続き日蓮大聖人は、竜の口まで裸馬に乗せられて行く途中、馬から降りて八幡大菩薩を叱りつけ、さらに「今日蓮は日本第一の法華経の行者なり、其の上身に一分のあやまちなし」と宣言します。

 この八幡大菩薩を叱りつけ且「日本第一の法華経の行者なり、其の上身に一分のあやまちなし」と宣言する事は、この時すでに日蓮大聖人は、末法の本仏の自覚のもとに振る舞われていたと強く推知いたします。まさに「仏演説するに、違いなく咎なし」そのものです。

さては十二日の夜・武蔵守殿のあづかりにて夜半に及び頚を切らんがために鎌倉をいでしに、わかみやこうぢ(若宮小路)にうちいでて、四方に兵のうちつつみて・ありしかども、日蓮云く「各各さわがせ給うな、べちの事はなし。八幡大菩薩に最後に申すべき事あり」とて馬よりさしをりて高声に申すやう、「いかに八幡大菩薩はまことの神か、和気清丸が頚を刎られんとせし時は長一丈の月と顕われさせ給い、伝教大師の法華経をかうぜさせ給いし時は、むらさきの袈裟を御布施にさづけさせ給いき。
今日蓮は日本第一の法華経の行者なり、其の上身に一分のあやまちなし。日本国の一切衆生の法華経を謗じて無間大城におつべきを・たすけんがために申す法門なり。

 又大蒙古国よりこの国をせむるならば、天照太神・正八幡とても安穏におはすべきか。其の上・釈迦仏・法華経を説き給いしかば多宝仏・十方の諸仏・菩薩あつまりて日と日と月と月と星と星と鏡と鏡とをならべたるがごとくなりし時、無量の諸天並びに天竺・漢土・日本国等の善神・聖人あつまりたりし時、各各・法華経の行者にをろかなるまじき由の誓状まいらせよと、せめられしかば一一に御誓状を立てられしぞかし。

さるにては日蓮が申すまでもなし、いそぎいそぎこそ誓状の宿願をとげさせ給うべきに、いかに此の処には・をちあわせ給はぬぞと・たかだかと申す。さて最後には日蓮・今夜・頚切られて霊山浄土へ・まいりてあらん時は、まづ天照太神・正八幡こそ起請を用いぬかみにて候いけれとさしきりて、教主釈尊に申し上げ候はんずるぞいたしと・おぼさば、いそぎいそぎ御計らいあるべしとて又馬にのりぬ」と。


次に日蓮大聖人は付き添っていた熊王(
)に、強信徒で鎌倉武士の中務三郎左衛門尉(四条金吾)に、ご自身が竜の口で処刑されることを知らせるよう、指示します。※の日法上人で、仏師として戒壇の大御本尊を彫る役割を果たすことになる。

これは「聖人横死せず」を確信している日蓮大聖人が、仏の振る舞いを信徒に明らかにするべく手配したものと推察されます。
そして「江のしまのかたより月のごとく・ひかりたる物まりのやうにて辰巳のかたより戌亥のかたへ・ひかりわたる」ことにより、日蓮大聖人は竜の口での処刑を免れ、末法の本仏として諸天をも動かす厳然たる振舞を見せることになります。

「ゆいのはまに・うちいでて御りやうのまへに・いたりて又云くしばし・とのばら・これにつぐべき人ありとて、中務三郎左衛門尉と申す者のもとへ熊王と申す童子を・つかわしたりしかば、いそぎいでぬ。今夜頚切られへ・まかるなり。この数年が間・願いつる事これなり。此の娑婆世界にして・きじとなりし時は・たかにつかまれ、ねずみとなりし時は・ねこにくらわれき、或はめこのかたきに身を失いし事・大地微塵より多し。

法華経の御ためには一度だも失うことなし、されば日蓮貧道の身と生れて父母の孝養・心にたらず国の恩を報ずべき力なし。
今度頚を法華経に奉りて其の功徳を父母に回向せん、其のあまりは弟子檀那等にはぶくべしと申せし事これなりと申せしかば、左衛門尉・兄弟四人・馬の口にとりつきて・こしごへたつの口にゆきぬ、此にてぞ有らんずらんと・をもうところに案にたがはず兵士どもうちまはり・さわぎしかば、左衛門尉申すやう只今なりとなく。

日蓮申すやう不かくのとのばらかな、これほどの悦びをば・わらへかし、いかに・やくそくをば・たがへらるるぞと申せし時、江のしまのかたより月のごとく・ひかりたる物まりのやうにて辰巳のかたより戌亥のかたへ・ひかりわたる、十二日の夜のあけぐれ人の面も・みへざりしが物のひかり月よのやうにて人人の面もみなみゆ、太刀取目くらみ・たふれ臥し兵共おぢ怖れ・けうさめて一町計りはせのき、或は馬より・をりて・かしこまり或は馬の上にて・うずくまれるもあり、日蓮申すやう・いかにとのばら・かかる大禍ある召人にはとをのくぞ近く打ちよれや打ちよれやと・たかだかと・よばわれども・いそぎよる人もなし、さてよあけば・いかにいかに頚切べくはいそぎ切るべし夜明けなばみぐるしかりなんと・すすめしかども・とかくのへんじもなし」と。




 種々御振舞御書 要点解説その四に続く






by johsei1129 | 2017-01-09 22:31 | 重要法門(十大部除く) | Trackback | Comments(0)
2017年 01月 08日

種々御振舞御書 要点解説その二

つづいて日蓮大聖人は「法華経の肝心・諸仏の眼目たる妙法蓮華経の五字・末法の始に一閻浮提にひろまらせ給うべき瑞相に日蓮さきがけしたり」と示すと共に、竜の口の法難を招来した末法の本仏としての振る舞いを、時系列に沿って詳細に示され、「日蓮これを見てをもうやう日ごろ月ごろ・をもひまうけたりつる事はこれなり。さいわひなるかな法華経のために身をすてん事よ」と、末法の本仏としての確信を宣言なされます。

仏滅後・二千二百二十余年が間・迦葉・阿難等・馬鳴・竜樹等・南岳・天台等・妙楽・伝教等だにも・いまだひろめ給わぬ法華経の肝心・諸仏の眼目たる妙法蓮華経の五字・末法の始に一閻浮提にひろまらせ給うべき瑞相に日蓮さきがけしたり。
<中略>

故最明寺入道殿・極楽寺入道殿を無間地獄に堕ちたりと申し、建長寺・寿福寺・極楽寺・長楽寺・大仏寺等をやきはらへと申し、道隆上人・良観上人等を頚をはねよと申す、御評定になにとなくとも日蓮が罪禍まぬかれがたし。但し上件の事・一定申すかと召し出てたづねらるべしとて召し出だされぬ、奉行人の云く上のをほせ・かくのごとしと申せしかば・上件の事・一言もたがはず申す。但し最明寺殿・極楽寺殿を地獄という事は・そらごとなり、此の法門は最明寺殿・極楽寺殿・御存生の時より申せし事なり。

 詮ずるところ、上件の事どもは此の国ををもひて申す事なれば世を安穏にたもたんと・をぼさば、彼の法師ばらを召し合せて・きこしめせ、さなくして彼等にかわりて理不尽に失に行わるるほどならば、国に後悔あるべし。
日蓮・御勘気をかほらば仏の御使を用いぬになるべし。梵天・帝釈・日月・四天の御とがめありて遠流・死罪の後、百日・一年・三年・七年が内に自界叛逆難とて此の御一門どしうちはじまるべし。其の後は他国侵逼難とて四方より・ことには西方よりせめられさせ給うべし、其の時後悔あるべしと平左衛門尉に申し付けしかども、太政入道のくるひしやうに・すこしもはばかる事なく物にくるう」と。


 「去文永八年辛太未歳九月十二日・御勘気(竜の口の法難)をかほる。其の時の御勘気のやうも常ならず法にすぎてみゆ、了行が謀反ををこし大夫の律師が世をみださんと・せしを・めしとられしにもこえたり。
平左衛門尉、大将として数百人の兵者にどうまろきせてゑぼうしかけして眼をいからし声をあらうす、大体・事の心を案ずるに太政入道の世をとりながら国をやぶらんとせしににたり、ただ事ともみへず。

日蓮これを見てをもうやう日ごろ月ごろ・をもひまうけたりつる事はこれなり。さいわひなるかな法華経のために身をすてん事よ、くさきかうべをはなたれば沙に金をかへ石に珠をあきなへるがごとし。

続いて大聖人は、竜の口の法難での平左衛門尉一味の暴挙について克明に記されると共に「極楽寺良観との降雨の対決」についても詳しく記されます。

「さて平左衛門尉が一の郎従・少輔房と申す者はしりよりて、日蓮が懐中せる法華経の第五の巻を取り出しておもてを三度さいなみて、さんざんとうちちらす。又九巻の法華経を兵者ども打ちちらして・あるいは足にふみ・あるいは身にまとひ・あるいはいたじき・たたみ等・家の二三間にちらさぬ所もなし。
日蓮・大高声を放ちて申す、あらをもしろや平左衛門尉が・ものにくるうを見よ、とのばら但今日本国の柱をたをすと・よばはりしかば、上下万人あわてて見えし。

日蓮こそ御勘気をかほれば・をくして見ゆべかりしに・さはなくして、これはひがことなりとや・をもひけん。兵者どものいろこそ・へんじて見へしか。十日並びに十二日の間・真言宗の失・禅宗・念仏等・良観が雨ふらさぬ事・つぶさに平左衛門尉に・いゐきかせてありしに、或はどつとわらひ、或はいかりなんど・せし事どもはしげければ・しるさず。
せんずるところは六月十八日より七月四日まで良観が雨のいのりして日蓮に支へられてふらしかね、あせをながし・なんだのみ下して雨ふらざりし上、逆風ひまなくてありし事・三度まで・つかひをつかわして一丈のほりを・こへぬもの十丈・二十丈のほりを・こうべきか、いづみしきぶ(和泉式部
)身にして八斎戒にせいせるうたをよみて雨をふらし、能因法師が破戒の身として・うたをよみて天雨を下らせしに、いかに二百五十戒の人人・百千人あつまりて、七日二七日せめさせ給うに雨の下らざる上に、大風は吹き候ぞ。これをもつて存ぜさせ給へ、各各の往生は叶うまじきぞとせめられて、良観がなきし事・人人につきて讒せし事・一一に申せしかば、平左衛門尉等かたうどし・かなへずして・つまりふしし事どもはしげければかかず」と。


種々御振舞御書 要点解説その三に続く



by johsei1129 | 2017-01-08 20:49 | 重要法門(十大部除く) | Trackback | Comments(0)
2017年 01月 07日

種々御振舞御書 要点解説その一

本書は建治2年3月(1276)日蓮大聖人55歳の時、同郷の安房の国(千葉県南部)に住み、夫と子供をうしなった身でありながらも強信徒であった光日房にあてられた書となります。

日蓮大聖人は
本書の冒頭で、文永五年後の正月十八日、大蒙古国より日本国を襲うという国書が届き、大聖人が応元年に北条時頼に献じた「立正安国論」がすこしもたがわず符合した事を示し、この事は「仏の未来記にもをとらず末代の不思議なに事かこれにすぎん」と断じます。ところが実際は幕府から全く音沙汰がないため「其の年の末十月に十一通の状をかきて・かたがたへをどろかし」と当時の状況を示します。
続いて大聖人は、幕府から全く音沙汰がないのは「此れひとへに日本国の上下万人・一人もなく法華経の強敵となりて、としひさしくなりぬれば、大禍のつもり大鬼神の各各の身に入る上へ蒙古国の牒状に正念をぬかれてくるうなり」と、示します。
さらに鎌倉幕府は「いよいよ・ふびんにをぼへて名をもをしまず命をもすてて強盛に申しはりしかば<中略>いよいよ・あだをなし・ますますにくみて御評定に僉議あり、頚をはぬべきか、鎌倉ををわるべきか、弟子檀那等をば所領あらん者は所領を召して頚を切れ、或はろうにてせめ・あるいは遠流すべし等」と当時の幕府の対応を示すとともに、この事はもとより日蓮は望んでいたことだと明言し、次のよう甚甚の内相を解き明かします。

「日蓮悦んで云く本より存知の旨なり、雪山童子は半偈のために身をなげ常啼菩薩は身をうり善財童子は火に入り楽法梵士は皮をはぐ薬王菩薩は臂をやく不軽菩薩は杖木をかうむり師子尊者は頭をはねられ提婆菩薩は外道にころさる、此等はいかなりける時ぞやと勘うれば天台大師は「時に適うのみ」とかかれ章安大師は「取捨宜きを得て一向にすべからず」としるされ、法華経は一法なれども機にしたがひ時によりて其の行万差なるべし。
仏記して云く「我が滅後・正像二千年すぎて末法の始に此の法華経の肝心題目の五字計りを弘めんもの出来すべし、其の時悪王・悪比丘等・大地微塵より多くして或は大乗或は小乗等をもつて・きそはんほどに、此の題目の行者にせめられて在家の檀那等をかたらひて或はのり或はうち或はろうに入れ或は所領を召し或は流罪或は頚をはぬべし、などいふとも退転なく・ひろむるほどならば・あだをなすものは国主は・どし打ちをはじめ餓鬼のごとく身をくらひ後には他国よりせめらるべし。
これひとへに梵天・帝釈・日月・四天等の法華経の敵なる国を他国より責めさせ給うなるべし」ととかれて候ぞ」と。

さらに大聖人は門下の弟子信徒に次のように厳しく諭します。
「各各我が弟子となのらん人人は一人もをくしをもはるべからず。をやををもひ、めこををもひ、所領をかへりみること・なかれ。
無量劫より・このかた、をやこのため所領のために命すてたる事は大地微塵よりも・をほし。法華経のゆへには・いまだ一度もすてず、法華経をばそこばく行ぜしかども、かかる事出来せしかば退転してやみにき。
譬えばゆをわかして水に入れ火を切るにとげざるがごとし。、各各思い切り給へ此の身を法華経にかうるは石に金をかへ糞に米をかうるなり
」と。


種々御振舞御書 要点解説その二に続く





by johsei1129 | 2017-01-07 21:08 | 重要法門(十大部除く) | Trackback | Comments(0)