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日蓮大聖人『御書』解説

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2014年 06月 16日

天台の止観は釈尊滅後の像法時の正観で、末法では妙法蓮華経こそ正観であることを説いた【立正観抄】三

[立正観抄 本文]その三

 問う天台大師真実に此の一言の妙法を証得したまわざるや、答う内証爾らざるなり、外用に於ては之を弘通したまわざるなり、所謂内証の辺をば祕して外用には三観と号して一念三千の法門を示現し給うなり、問う何が故ぞ知り乍ら弘通し給わざるや、答う時至らざるが故に付属に非ざるが故に迹化なるが故なり、問う天台此の一言の妙法を証得し給える証拠之有りや、答う此の事天台一家の祕事なり世に流布せる学者之を知らず潅頂 玄旨の血脈とて天台大師自筆の血脈一紙之有り、天台御入滅の後は石塔の中に之有り伝教大師御入唐の時八舌の鑰を以て之を開き道邃和尚より伝受し給う血脈とは是なり、此の書に云く「一言の妙旨・一教の玄義」文、伝教大師の血脈に云く「夫れ一言の妙法とは両眼を開いて五塵の境を見る時は随縁真如なるべし両眼を閉じて無念に住する時は不変真如なるべし、故に此の一言を聞くに万法茲に達し一代の修多羅一言に含す」文、此の両大師の血脈の如くならば天台大師の血脈相承の最要の法は妙法の一言なり、一心三観とは所詮妙法を成就せん為の修行の方法なり、三観は因の義・妙法は果の義なり但因の処に果有り果の処に因有り因果倶時の妙法を観ずるが故に是くの如き功能を得るなり、爰に知んぬ天台至極の法門は法華本迹未分の処に無念の止観を立てて最祕の大法とすと云える邪義大なる僻見なりと云う事を四依弘経の大薩たは既に仏経に依つて諸論を造る天台何ぞ仏説に背いて無念の止観を立てたまわんや、若し此の止観・法華経に依らずといわば天台の止観・教外別伝の達磨の天魔の邪法に同ぜん都て然る可からず哀れなり哀れなり。

 伝教大師の云く「国主の制に非ざれば以て遵行する無く法王の教に非ざれば以て信受すること無けん」と文、又云く「四依・論を造るに権有り実有り三乗旨を述ぶるに三有り一有り、所以に天台智者は三乗の旨に順じて四教の階を定め一実の教に依つて一仏乗を建つ、六度に別有り、戒度何ぞ同じからん受法同じからず威儀豈同じからんや、是の故に天台の伝法は深く四依に依り亦仏経に順う」文、本朝の天台宗の法門は伝教大師より之を始む若し天台の止観法華経に依らずと云わば日本に於ては伝教の高祖に背き漢土に於ては天台に背く両大師の伝法既に法華経に依る豈其の末学之に違せんや、違するを以て知んぬ当世の天台家の人人・其の名を天台山に借ると雖も所学の法門は達磨の僻見と善無畏の妄語とに依ると云う事、天台伝教の解釈の如くんば己心中の秘法は但妙法の一言に限るなり、然而当世の天台宗の学者は天台の石塔の血脈を秘し失う故に天台の血脈相承の秘法を習い失いて我と一心三観の血脈とて我意に任せて書を造り錦の袋に入れて頚に懸け箱の底に埋めて高直に売る故に邪義国中に流布して天台の仏法破失するなり、天台の本意を失い釈尊の妙法を下す是れ偏えに達磨の教訓・善無畏の勧なり、故に止観をも知らず・一心三観・一心三諦をも知らず一念三千の観をも知らず本迹二門をも知らず相待・絶待の二妙をも知らず法華の妙観をも知らず教相をも知らず権実をも知らず四教・八教をも知らず五時五味の施化をも知らず、教・機・時・国・相応の義は申すに及ばず実教にも似ず権教にも似ざるなり道理なり道理なり。

 天台・伝教の所伝は法華経は禅・真言より劣れりと習う故に達磨の邪義・真言の妄語と打ち成つて権教にも似ず実教にも似ず二途に摂せざるなり、故に大謗法罪顕れて止観は法華経に勝ると云う邪義を申し出して過無き天台に失を懸けたてまつる故に高祖に背く不孝の者・法華経に背く大謗法罪の者と成るなり。

 [立正観抄 本文]その四に続く

# by johsei1129 | 2014-06-16 22:47 | Trackback | Comments(0)
2014年 05月 27日

日蓮の法門が出現すると既存仏教は、日出でて後の星の光の如くなると断言した書【三沢抄】三

[三沢抄 本文]その二

 又内房の御事は御年寄らせ給いて御わたりありし労しくおもいまいらせ候いしかども・氏神へまいりてあるついでと候しかば・見参に入るならば・定めて罪ふかかるべし、其の故は神は所従なり法華経は主君なり・所従のついでに主君への・見参は世間にも・をそれ候、其の上尼の御身になり給いては・まづ仏を先とすべし、かたがたの御失がありしかば見参せず候、此の又尼ごぜん一人にはかぎらず、其の外の人人も・下部の湯のついでと申す者をあまた・をひかへして候、尼ごぜんは・親のごとくの御としなり、御なげきいたわしく候いしかども此の義をしらせまいらせんためなり。

 又殿のは・一昨年の見参の後そらごとにてや候いけん御所労と申せしかば・人をつかわして・きかんと申せしに・此の御房たちの申せしはそれはさる事に候へども・人をつかわしたらば・いぶせくやをもはれ候はんずらんと申せしかば・世間のならひは・さもやあるらむ、げんに御心ざしまめなる上・御所労ならば御使も有りなんと・をもひしかども・御使もなかりしかば・いつわりをろかにて・をぼつかなく候いつる上無常は常のならひなれども・こぞことしは世間はうにすぎて・みみへまいらすべしとも・をぼへず、こひしくこそ候いつるに御をとづれあるうれしとも申す計りなし、尼ごぜんにも・このよしをつぶつぶとかたり申させ給い候へ、法門の事こまごまと・かきつへ申すべく候へども事ひさしくなり候へばとどめ候。

 ただし禅宗と念仏宗と律宗等の事は少少前にも申して候、真言宗がことに此の国とたうどとをば・ほろぼして候ぞ、善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵・弘法大師・慈覚大師・智証大師・此の六人が大日の三部経と法華経との優劣に迷惑せしのみならず、三三蔵・事をば天竺によせて両界をつくりいだし狂惑しけるを・三大師うちぬかれて日本へならひわたし国主並に万民につたへ、漢土の玄宗皇帝も代をほろぼし・日本国もやうやくをとろへて八幡大菩薩の百王のちかいもやぶれて・八十二代隠岐の法王・代を東にとられ給いしは・ひとへに三大師の大僧等がいのりしゆへに還著於本人して候、関東は此の悪法悪人を対治せしゆへに十八代をつぎて百王にて候べく候いつるを、又かの悪法の者どもを御帰依有るゆへに一国には主なければ・梵釈・日月・四天の御計いとして他国にをほせつけて・をどして御らむあり、又法華経の行者をつかわして御いさめあるを・あやめずして・彼の法師等に心をあわせて世間出世の政道をやぶり、法にすぎて法華経の御かたきにならせ給う、すでに時すぎぬれば此の国やぶれなんとす。
 
 やくびやうはすでにいくさにせんふせわまたしるしなり、あさまし・あさまし。

二月二十三日                日 蓮 花押
みさわどの

# by johsei1129 | 2014-05-27 19:05 | 重要法門(十大部除く) | Trackback | Comments(0)
2014年 05月 17日

地獄より仏界までの十界の依正の当体悉く一法ものこさず妙法蓮華経のすがたと明かした書【諸法実相抄】二

[諸法実相抄 本文]その二

 日蓮・末法に生れて上行菩薩の弘め給うべき所の妙法を先立て粗ひろめ、つくりあらはし給うべき本門寿量品の古仏たる釈迦仏・迹門宝塔品の時・涌出し給う多宝仏・涌出品の時・出現し給ふ地涌の菩薩等を先作り顕はし奉る事、予が分斉にはいみじき事なり、日蓮をこそ・にくむとも内証には・いかが及ばん、さればかかる日蓮を此の嶋まで遠流しける罪・無量劫にもきへぬべしとも覚へず、譬喩品に云く「若し其の罪を説かば劫を窮むるも尽きず」とは是なり、又日蓮を供養し又日蓮が弟子檀那となり給う事、其の功徳をば仏の智慧にても・はかり尽し給うべからず、経に云く「仏の智慧を以て籌量するも多少其の辺を得ず」と云へり、地涌の菩薩のさきがけ日蓮一人なり、地涌の菩薩の数にもや入りなまし、若し日蓮地涌の菩薩の数に入らば豈に日蓮が弟子檀那・地涌の流類に非ずや、経に云く「能く竊かに一人の為めに法華経の乃至一句を説かば当に知るべし是の人は則ち如来の使・如来の所遣として如来の事を行ずるなり」と、豈に別人の事を説き給うならんや、されば余りに人の我をほむる時は如何様にもなりたき意の出来し候なり、是ほむる処の言よりをこり候ぞかし、末法に生れて法華経を弘めん行者は、三類の敵人有つては供養をいたすべきぞ・かたにかけせなかにをふべきぞ・大善根の者にてあるぞ・一切衆生のためには大導師にてあるべしと・釈迦仏多宝仏・十方の諸仏・菩薩・天神七代・地神五代の神神・鬼子母神・十羅刹女・四大天王・梵天・帝釈・閻魔法王・水神・風神・山神・海神・大日如来・普賢・文殊・日月等の諸尊たちにほめられ奉る間、無量の大難をも堪忍して候なり、ほめられぬれば我が身の損ずるをも・かへりみず、そしられぬる時は又我が身のやぶるるをも・しらず、ふるまふ事は凡夫のことはざなり。

 いかにも今度・信心をいたして法華経の行者にてとをり、日蓮が一門となりとをし給うべし、日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか、地涌の菩薩にさだまりなば釈尊久遠の弟子たる事あに疑はんや、経に云く「我久遠より来かた是等の衆を教化す」とは是なり、末法にして妙法蓮華経の五字を弘めん者は男女はきらふべからず、皆地涌の菩薩の出現に非ずんば唱へがたき題目なり、日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人・三人・百人と次第に唱へつたふるなり、未来も又しかるべし、是あに地涌の義に非ずや、剰へ広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的とするなるべし、ともかくも法華経に名をたて身をまかせ給うべし、釈迦仏多宝仏・十方の諸仏・菩薩・虚空にして二仏うなづき合い、定めさせ給いしは別の事には非ず、唯ひとへに末法の令法久住の故なり、既に多宝仏は半座を分けて釈迦如来に奉り給いし時、妙法蓮華経の旛をさし顕し、釈迦・多宝の二仏大将としてさだめ給いし事あに・いつはりなるべきや、併ら我等衆生を仏になさんとの御談合なり。

 日蓮は其の座には住し候はねども経文を見候に・すこしもくもりなし、又其の座にもや・ありけん凡夫なれば過去をしらず、現在は見へて法華経の行者なり又未来は決定として当詣道場なるべし、過去をも是を以て推するに虚空会にもやありつらん、三世各別あるべからず、此くの如く思ひつづけて候へば流人なれども喜悦はかりなしうれしきにも・なみだ・つらきにもなみだなり涙は善悪に通ずるものなり彼の千人の阿羅漢・仏の事を思ひいでて涙をながし、ながしながら文殊師利菩薩は妙法蓮華経と唱へさせ給へば、千人の阿羅漢の中の阿難尊者は・なきながら如是我聞と答え給う、余の九百九十人はなくなみだを硯の水として、又如是我聞の上に妙法蓮華経とかきつけしなり、今日蓮もかくの如し、かかる身となるも妙法蓮華経の五字七字を弘むる故なり、釈迦仏・多宝仏・未来・日本国の一切衆生のために・とどめをき給ふ処の妙法蓮華経なりと、かくの如く我も聞きし故ぞかし、現在の大難を思いつづくるにもなみだ、未来の成仏を思うて喜ぶにもなみだせきあへず、鳥と虫とはなけどもなみだをちず、日蓮は・なかねども・なみだひまなし、此のなみだ世間の事には非ず但偏に法華経の故なり、若しからば甘露のなみだとも云つべし、涅槃経には父母・兄弟・妻子・眷属にはかれて流すところの涙は四大海の水よりもををしといへども、仏法のためには一滴をも・こぼさずと見えたり、法華経の行者となる事は過去の宿習なり、同じ草木なれども仏とつくらるるは宿縁なるべし、仏なりとも権仏となるは又宿業なるべし。

 此文には日蓮が大事の法門ども・かきて候ぞ、よくよく見ほどかせ給へ・意得させ給うべし、一閻浮提第一の御本尊を信じさせ給へ、あひかまへて・あひかまへて・信心つよく候て三仏の守護をかうむらせ給うべし、行学の二道をはげみ候べし、行学たへなば仏法はあるべからず、我もいたし人をも教化候へ、行学は信心よりをこるべく候、力あらば一文一句なりともかたらせ給うべし、南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経、恐恐謹言。

五月十七日                                      日蓮花押

 追申候、日蓮が相承の法門等・前前かき進らせ候き、ことに此の文には大事の事どもしるしてまいらせ候ぞ 不思議なる契約なるか、六万恒沙の上首・上行等の四菩薩の変化か、さだめてゆへあらん、総じて日蓮が身 に当ての法門わたしまいらせ候ぞ、日蓮もしや六万恒沙の地涌の菩薩の眷属にもやあるらん、南無妙法蓮華 経と唱へて日本国の男女を・みちびかんとおもへばなりか、まことに宿縁のをふところ予が弟子となり給う、此の文あひかまへて秘し給へ、日蓮が己証の法門等かきつけて候ぞ、とどめ畢んぬ。

最蓮房御返事

# by johsei1129 | 2014-05-17 20:19 | 重要法門(十大部除く) | Trackback | Comments(0)
2014年 04月 11日

妙法蓮華経と唱えることで己心中の仏性が呼ばれて必ず顕れる事を明らかにした書【法華初心成仏抄】三

[法華初心成仏抄 本文] その三
 浄土宗の人人・末法万年には余経悉く滅し弥陀一教のみと云ひ又当今末法は是れ五濁の悪世唯浄土の一門のみ有て通入す可き路なりと云つて虚言(そらごと)して大集経に云くと引(ひけ)ども彼の経に都て此文なし、其の上あるべき様もなし仏の在世の御言に当今末法五濁の悪世には但浄土の一門のみ入るべき道なりとは説き給うべからざる道理顕然なり本経には「当来の世・経道滅尽し特(ひと)り此の経を留めて止住する事百歳ならん」と説けり、末法一万年の百歳とは全く見えず、然るに平等覚経・大阿弥陀経を見るに仏滅後一千年の後の百歳とこそ意えられたれ、然るに善導が惑(まど)へる釈をば尤も道理と人・皆思へり是は諸僻案(これびゃくあん)の者なり、但し心あらん人は世間のことはりをもつて推察せよ、大旱魃のあらん時は大海が先にひ(涸)るべきか小河が先にひるべきか仏是を説き給うには法華経は大海なり観経・阿弥陀経等は小河なり、されば念仏等の小河の白法こそ先にひるべしと経文にも説き給いて候ひぬれ、大集経の五箇の五百歳の中の第五の五百歳・白法隠没と云(いえる)と雙観経に経道滅尽と云(いえる)とは但一つ心なり、されば末法には始めより雙観経等の経道滅尽すと聞えたり経道滅尽と云(いえる)は経の利生の滅すと云う事なり、色(しき)の経巻有るにはよるべからず、されば当時は経道滅尽の時に至つて二百歳に余れり、此の時は但法華経のみ利生得益あるべし。

 されば此経を受持して南無妙法蓮華経と唱え奉るべしと見えたり。薬王品には「後の五百歳の中に閻浮提に広宣流布して断絶せしむることなけん」と説き給ひ、天台大師は「後の五百歳遠く妙道に沾ん」と釈し、妙楽大師は「且らく大経の流行す可き時に拠る」と釈して後の五百歳の間に法華経弘まりて其の後は閻浮提の内に絶え失(う)せる事有るべからずと見えたり。
安楽行品に云く「後の末世の法滅せんと欲せん時に於て斯の経典を受持し読誦せん者」文 神力品に云く「爾の時に仏上行等の菩薩大衆に告げたまわく、属累の為の故に此の経の功徳を説くとも猶尽すこと能わじ。

要を以て之を云わば如来の一切の所有の法・如来の一切の自在の神力・如来の一切の秘要の蔵・如来の一切の甚深の事皆此経に於て宣示顕説す」と云云、此等の文の心は釈尊入滅の後・第五の五百歳と説くも来世と云うも濁悪世と説くも正像二千年過ぎて末法の始二百余歳の今時は唯法華経計り弘まるべしと云う文なり、其の故は人既にひが(僻)み法も実にしるしなく仏神の威験もましまさず今生後生の祈りも叶はず、かからん時は・たよりを得て天魔・波旬乱れ入り国土常に飢渇して天下も疫癘し他国侵逼難(たこくしんぴつなん)・自界叛逆難とて我が国に軍(いくさ)合戦常にありて、後には他国より兵(つわもの)どもをそひ来りて此の国を責むべしと見えたり、此くの如き闘諍堅固の時は余経の白法(びゃくほう)は験し失(う)せて法華経の大良薬を以て此の大難をば治すべしと見えたり。

 法華経を以て国土を祈らば上一人より下万民に至るまで悉く悦び栄へ給うべき鎮護国家の大白法なり、但し阿闍世王・阿育大王は始めは悪王なりしかども耆婆大臣の語を用ひ夜叉尊者を信じ給いて、後にこそ賢王の名をば留め給いしか。

南三・北七を捨てて智ぎ法師を用ひ給いし陳主・六宗の碩徳を捨てて最澄法師を用ひ給いし桓武天皇は、今に賢王の名を留め給へり、智ぎ法師と云うは後には天台大師と号し奉る、最澄法師は後には伝教大師と云う是なり、今の国主も又是くの如し、現世安穏後生善処なるべき此の大白法を信じて国土に弘め給はば、万国に其の身を仰がれ後代に賢人の名を留め給うべし。知らず、又無辺行菩薩の化身にてやましますらん。

又妙法の五字を弘め給はん智者をばいかに賤くとも上行菩薩の化身か、又釈迦如来の御使かと思うべし。又薬王菩薩・薬上菩薩・観音勢至の菩薩は、正像二千年の御使なり。此等の菩薩達の御番は早過たれば上古の様に利生有るまじきなり。されば当世の祈を御覧ぜよ一切叶はざる者なり。

末法今の世の番衆は上行・無辺行等にてをはしますなり。此等を能能明らめ信じてこそ法の験も仏菩薩の利生も有るべしとは見えたれ。譬えばよき火打とよき石のかどと・よきほくち(火口)と此の三寄り合いて火を用ゆるなり、祈も又是くの如しよき師と・よき檀那と・よき法と此の三寄り合いて祈を成就し国土の大難をも払ふべき者なり。

よき師とは指したる世間の失無くして聊(いささか)のへつらうことなく少欲知足にして慈悲有らん僧の経文に任せて法華経を読み持ちて人をも勧めて持たせん僧をば仏は一切の僧の中に吉第一の法師なりと讃められたり、吉檀那とは貴人にもよらず賤人をもにくまず上にもよらず下をもいやしまず一切・人をば用いずして一切経の中に法華経を持たん人をば一切の人の中に吉人なりと仏は説給へり。吉法とは此の法華経を最為第一の法と説かれたり、已説の経の中にも今説の経の中にも当説の経の中にも此の経第一と見えて候へば吉法なり。

禅宗・真言宗等の経法は第二・第三なり殊に取り分けて申せば真言の法は第七重の劣なり、然るに日本国には第二・第三乃至第七重の劣の法をもつて御祈祷あれども未だ其の証拠をみず、最上第一の妙法をもつて御祈祷あるべきか、是を正直捨方便・但説無上道・唯此一事実と云へり誰か疑をなすべきや。

 問うて云く無智の人来りて生死を離るべき道を問わん時は何れの経の意をか説くべき仏如何が教へ給へるや。
答えて云く法華経を説くべきなり、所以に法師品に云く「若(も)し人有つて何等の衆生か未来世に於て当に作仏することを得べきと問わば応に示すべし、是の諸人等未来世に於て必ず作仏することを得ん」と云云、安楽行品に云く「難問する所有らば小乗の法を以て答えず但大乗を以て而も為に解説(げせつ)せよ」云云、此等の文の心は何なる衆生か仏になるべきと問わば法華経を受持し奉らん人必ず仏になるべしと答うべきなり是れ仏の御本意なり。

之に付て不審あり衆生の根性区(まちまち)にして念仏を聞かんと願ふ人もあり法華経を聞かんと願ふ人もあり、念仏を聞かんと願ふ人に法華経を説いて聞かせんは何の得益かあるべき、又念仏を聞かんが為に請じたらん時にも強て法華経を説くべきか、仏の説法も機に随いて得益有るをこそ本意とし給うらんと不審する人あらば云うべし、元より末法の世には無智の人に機に叶ひ叶はざるを顧みず但強いて法華経の五字の名号を説いて持たすべきなり、其の故は釈迦仏・昔不軽菩薩と云はれて法華経を弘め給いしには男女・尼法師がおしなべて用ひざりき、或は罵られ毀られ或は打れ追はれ一しなならず、或は怨まれ嫉まれ給いしかども少しもこりもなくして強いて法華経を説き給いし故に今の釈迦仏となり給いしなり、不軽菩薩を罵りまいらせし人は口もゆがまず打ち奉りしかいなもすくまず、付法蔵の師子尊者も外道に殺されぬ。
又法道三蔵も火印を面にあてられて江南に流され給いしぞかし、まして末法にかひなき僧の法華経を弘めんにはかかる難あるべしと経文に正く見えたり、されば人是を用ひず機に叶はずと云へども強いて法華経の五字の題名を聞かすべきなり、是ならでは仏になる道はなきが故なり、又或人不審して云く、機に叶はざる法華経を強いて説いて謗ぜさせて・悪道に人を堕さんよりは、機に叶へる念仏を説いて・発心せしむべし、利益もなく謗ぜさせて返つて地獄に堕さんは法華経の行者にもあらず邪見の人にてこそ有るらめと不審せば、云うべし経文には何体にもあれ末法には強いて法華経を説くべしと仏の説き給へるをばさていかが心うべく候や。

釈迦仏・不軽菩薩・天台・妙楽・伝教等はさて邪見の人・外道にて・おはしまし候べきか、又悪道にも堕ちず三界の生を離れたる二乗と云う者をば仏のの給はく設ひ犬野干の心をば発すとも二乗の心をもつべからず五逆十悪を作りて地獄には堕つとも二乗の心をばもつべからずなんどと禁められしぞかし、悪道におちざる程の利益は争でか有るべきなれども其れをば仏の御本意とも思し食さず地獄には堕つるとも仏になる法華経を耳にふれぬれば是を種として必ず仏になるなり。

されば天台妙楽も此の心を以て強いて法華経を説くべしとは釈し給へり。譬えば、人の地に依りて倒れたる者の返つて地をおさへて起が如し、地獄には堕つれども疾く浮んで仏になるなり。

当世の人・何となくとも法華経に背く失に依りて地獄に堕ちん事疑いなき故に、とてもかくても法華経を強いて説き聞かすべし、信ぜん人は仏になるべし謗ぜん者は毒鼓の縁となつて仏になるべきなり。
何にとしても仏の種は法華経より外になきなり、権教をもつて仏になる由だにあらば、なにしにか仏は強いて法華経を説いて謗ずるも信ずるも利益あるべしと説き我不愛身命とは仰せらるべきや、よくよく此等を道心ましまさん人は御心得あるべきなり。


# by johsei1129 | 2014-04-11 20:00 | 重要法門(十大部除く) | Trackback | Comments(0)
2014年 04月 07日

月氏国から東に渡ってきた仏法は、日出ずる国・日本から西に広まっていくことを示した書【諫暁八幡抄】四

[諫暁八幡抄 本文]その四

 
今又日本国・一万一千三十七の寺、並びに三千一百三十二社の神は国家安穏のために・あがめられて候。而るに其の寺寺の別当等・其の社社の神主等(かんぬしら)はみなみな・あがむるところの本尊と神との御心に相違せり。彼れ彼れの仏と神とは其の身・異体なれども其の心同心に法華経の守護神なり。別当と社主等は或は真言師・或は念仏者・或は禅僧・或は律僧なり。皆一同に八幡等の御かたきなり。謗法(ほうぼう)不孝の者を守護し給いて正法の者を或は流罪・或は死罪等に行なわするゆへに・天のせめを被(かお)り給いぬるなり。

 我が弟子等の内・謗法の余慶(よけい)有る者の思いて・いわく、此の御房は八幡をかたきとすと云云。これいまだ道理有りて法の成就せぬには本尊をせむるという事を存知せざる者の思いなり。
 付法蔵経と申す経に大迦葉(だいかしょう)尊者の因縁を説いて云く「時に摩竭(まかつ)国に婆羅門(ばらもん)有り。尼倶律陀(にくりだ)と名づく。過去の世に於て久しく勝業を修し、多く財宝に饒(ゆた)かにして巨富無量なり。摩竭王に比するに千倍勝れりと為す。財宝饒かなりと雖も子息有る事無し。自ら念(おも)わく、老朽して死の時・将(まさ)に至らんとす。庫蔵の諸物・委付する所無し。

 其の舎(いえ)の側に於て樹林神有り。彼の婆羅門・子を求むるが為の故に即ち往(ゆい)て祈請す。年歳を経歴(きょうりゃく)すれども微応(みおう)も無し。時に尼倶律陀・大いに瞋忿(しんふん)を生じて樹神に語りて曰く、我・汝に事(つかえ)てより来(このかた)、已に年歳を経れども都(すべ)て一の福応を垂るるを見ず。今当に七日至心に汝に事(つか)うべし。若し復(また)験(しるし)無ければ、必ず相・焼剪(しょうせん)せん。

 樹神・聞き已(おわっ)て甚だ愁怖(しゅうふ)を懐き四天王に向つて具(つぶさ)に斯(こ)の事を陳ぶ。是に於て四王・往(ゆい)て帝釈に白す。帝釈・閻浮提の内を観察するに、福徳の人の彼の子と為るに堪ゆる無し。即ち梵王に詣で・広く上の事を宣ぶ。爾の時に梵王・天眼を以て観見するに、梵天の当に命終に臨む有り。而して之に告げて曰く、汝・若し神を降さば宜しく当に彼の閻浮提界の婆羅門の家に生ずべし。梵天対(こたえ)て曰く、婆羅門の法・悪邪見多し。我・今其の子と為る事・能(あたわ)ざるなり。
 梵王復言く、彼の婆羅門・大威徳有り。閻浮提の人・往て生ずるに堪ゆる莫(な)し。汝・必ず彼(かしこ)に生ぜば・吾れ相護りて終に汝をして邪見に入らしめざらん。梵天曰く、諾(だく)。敬(つつし)んで聖教を承(う)けん。是に於て帝釈即ち樹神に向つて斯くの如き事を説く。樹神歓喜して尋(つ)いで其の家に詣(いた)って婆羅門に語らく、汝・今復恨みを我れに起こす事なかれ。郤(さっ)て後七日、当に卿が願を満たすべし。七日に至て已に婦娠(つま・はら)む事有るを覚え、十月を満足して一男児を生めり、乃至今の迦葉是なり」云云。
 「時に応じて尼倶律陀(にくりだ)大いに瞋忿(しんふん)を生ず」等云云。常のごときんば氏神に向いて大瞋恚(しんに)を生ぜん者は今生には身をほろぼし、後世には悪道に堕つべし。然りと雖も尼倶律陀長者・氏神に向て大悪口・大瞋恚を生じて大願を成就し・賢子をまうけ給いぬ。当に知るべし、瞋恚は善悪に通ずる者なり。

 今日蓮は去(い)ぬる建長五年 癸丑 四月二十八日より今年弘安三年 太歳庚辰 十二月にいたるまで二十八年が間又他事なし。只妙法蓮華経の七字五字を日本国の一切衆生の口に入れんと・はげむ計(ばか)りなり。此れ即ち母の赤子の口に乳を入れんとはげむ慈悲なり。

 此れ又時の当たらざるにあらず、已に仏記の五五百歳に当れり。天台・伝教の御時は時・いまだ来たらざりしかども、一分の機ある故に少分流布せり。何に況んや今は已(すで)に時いたりぬ、設(た)とひ機なくして水火をなすとも、いかでか弘通せざらむ。只不軽(ふきょう)のごとく大難には値(あ)うとも・流布せん事疑ひなかるべきに、真言・禅・念仏者等の讒奏(ざんそう)に依りて無智の国主等・留難をなす。此を対治すべき氏神・八幡大菩薩、彼等の大科を治せざるゆへに日蓮の氏神を諌暁(かんぎょう)するは道理に背くべしや。尼倶律陀長者が樹神をいさむるに・異ならず。
 蘇悉地(そしっち)経に云く「本尊を治罰する事・鬼魅(きみ)を治するが如し」等云云。文の心は経文のごとく所願を成ぜんがために数年が間・法を修行するに、成就せざれば本尊を・或は・しば(縛)り・或は打ちなんどせよととかれて候。相応和尚の不動明王をしばりけるは此の経文を見たりけるか。

 此は他事には・にるべからず。日本国の一切の善人は、或は戒を持ち、或は布施を行じ、或は父母等の孝養のために寺塔を建立し、或は成仏得道の為に妻子をやしなうべき財(たから)を止めて諸僧に供養をなし候に、諸僧謗法の者たるゆへに謀反の者を知らずして・やど(宿)したるがごとく、不孝の者に契(ちぎり)をなせるがごとく、今生には災難を招き、後生も悪道に堕ち候べきを扶(たす)けんとする身なり。而るを日本国の守護の善神等、彼等にくみして正法の敵となるゆへに此をせむるは経文のごとし。道理に任せたり。

 我が弟子等が愚案に・をもわく、我が師は法華経を弘通し給うとてひろまらざる上、大難の来たれるは、真言は国をほろぼす・念仏は無間地獄・禅は天魔の所為・律僧は国賊と・の給うゆへなり。例せば道理有る問注(もんじゅう)に悪口(あっく)の・まじわれるがごとしと云云。

 日蓮我が弟子に反詰(はんきつ)して云く、汝若し爾(しか)らば我が問を答えよ。一切の真言師・一切の念仏者・一切の禅宗等に向って南無妙法蓮華経と唱え給えと勧進(かんじん)せば・彼等の云く、我が弘法大師は法華経と釈迦仏とを戯論(けろん)・無明の辺域・力者・はき(履)物とりに及ばずと・かかせ給いて候。物の用にあわぬ法華経を読誦せんよりも、其の口に我が小呪(しょうじゅ)を一反も見つべし。
 一切の在家の者の云く、善導和尚は法華経をば千中無一・法然上人は捨閉閣抛(しゃへいかくほう)・道綽禅師(どうしゃく・ぜんし)は未有一人得者と定めさせ給へり。汝がすすむる南無妙法蓮華経は我が念仏の障(さわ)りなり、我等・設(たと)い悪をつくるとも・よも唱えじ。
 一切の禅宗の云く、我が宗は教外別伝と申して一切経の外(ほか)に伝へたる最上の法門なり。一切経は指のごとし、禅は月のごとし。天台等の愚人は指をまほつて月を亡(うしな)いたり。法華経は指なり、禅は月なり。月を見て後は・指は何のせん(詮)か有るべきなんど申す。
 かくのごとく申さん時は、いかにとしてか南無妙法蓮華経の良薬をば彼れ等が口には入るべき。

 仏は且(しば)らく阿含(あごん)経を説き給いて後、彼の行者を法華経へ入れんと・たばかり給いしに、一切の声聞等・只阿含経に著して法華経へ入らざりしをば、いかやうにか・たばから(謀)せ給いし。此をば仏・説いて云く「設ひ五逆罪は造るとも・五逆の者をば供養すとも・罪は仏の種とはなるとも、彼れ等が善根は仏種とならじ」とこそ説かせ給ひしか。
 小乗・大乗はかわれども同じく仏説なり。大が小を破して小を大となすと、大を破して法華経に入ると、大小は異なれども法華経へ入れんと思う志は是一つなり。されば無量義経に大を破して云く「未顕真実」と。法華経に云く「此の事は為(さだめ)て不可なり」等云云。仏自ら云く「我世に出でて華厳・般若等を説きて法華経をとかずして入涅槃(にゅうねはん)せば、愛子に財(たから)を・をしみ、病者に良薬をあたへずして死にたるがごとし。仏自ら地獄に堕つべし」と云云。不可と申すは地獄の名なり。況んや法華経の後、爾前(にぜん)の経に著して法華経へうつらざる者は大王に民の従がはざるがごとし、親に子の見(まみ)へざるがごとし。設(たと)い法華経を破せざれども、爾前の経経をほむるは法華経をそしるに当たれり。妙楽云く「若し昔を称歎せば・豈(あ)に今を毀(そし)るに非ずや」文。
 又云く「発心せんと欲すと雖も偏円を簡(えら)ばず、誓ひの境を解(さと)らざれば未来・法を聞くとも何ぞ能(よ)く謗(そしり)を免れん」等云云。真言の善無畏・金剛智・不空・弘法・慈覚・智証等は設(た)とい法華経を大日経に相対して勝劣を論ぜずして大日経を弘通すとも、滅後に生まれたる三蔵・人師なれば謗法はよも免れ候はじ。何に況んや善無畏等の三三蔵は法華経は略説・大日経は広説と同じて、而かも法華経の行者を大日経えすかし入れ、弘法等の三大師は法華経の名をかきあげて戯論(けろん)なんどかかれて候大科を明らめずして・此の四百余年一切衆生を皆謗法の者となせり。
 例せば大荘厳仏の末の四比丘が六百万億那由佗(なゆた)の人を皆無間地獄に堕せると、師子音王仏の末の勝意比丘が無量無辺の持戒の比丘・比丘尼・うばそく(優婆塞)・うばい(優婆夷)を皆阿鼻(あび)大城に導きしと、今の三大師の教化に随いて日本国四十九億九万四千八百二十八人・或は云く日本紀に行基の人数に云く・男女四十五億八万九千六百五十九人云云の一切衆生・又四十九億等の人人、四百余年に死して無間地獄に堕ちぬれば、其の後・他方世界よりは生れて又死して無間地獄に堕ちぬ。かくのごとく堕つる者は大地微塵よりも多し。此れ皆三大師の科(とが)ぞかし。
 此れを日蓮此等を大いに見ながらいつわり・をろかにして申さずば、倶(とも)に堕地獄の者となつて一分の科なき身が十方の大阿鼻獄を経(へ)めぐるべし。いかでか身命をすてて・よばわらざるべき。涅槃経に云く「一切衆生異の苦を受くるは・悉く是如来一人の苦なり」等云云。日蓮云く、一切衆生の同一苦は・悉く是日蓮一人の苦と申すべし。

[諫暁八幡抄 本文]その五に続く




# by johsei1129 | 2014-04-07 22:17 | 重要法門(十大部除く) | Trackback | Comments(0)