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日蓮大聖人『御書』解説

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2015年 01月 17日

発迹顕本を説き明かす 【当流行事抄】寿量品篇五


問う、大段の第二、文底の顕本若し誠証(じょうしょう)を尋ねられば応に(いず)れの文を出だすべきや。

答う、深く之を秘すと雖も若し(また)伝えずんば当門の法燈何に()ってか光を増さん、故に明文を考えて以って末弟に贈る、公場(こうじょう)に非ざるよりは(みだ)りに之を()ぶる()かれ。
 玄文第七に云わく「若し過去は最初所証の権実の法を名づけて本と
()すなり。本証より已後方便()()し、三を開し一を顕し発迹(」ほっしゃく)顕本(けんぽん)するは(かえ)って最初を指して本と為し、中間(ちゅうげん)の示現、発迹顕本も亦復最初を指して本と為し、今日(こんにち)の発迹顕本も亦最初を指して本と為し、未来の発迹顕本も亦最初を指して本と為す、三世(すなわ)(こと)なれども毘盧(びる遮那(しゃな)一本は異ならず、百千枝葉同じく一根に(おもむ)くが如し」云云。

今此の文を釈するに大に分かって二と為す。
 初めには正釈、次に三世の下は結。初めに正釈の文
(また)分かちて五と為す、一には久遠元初、二に「本証より」の下は本果、三に中間、四に今日、五に未来なり。
 又此の五段
(さら)に分かって二と為す。初めには本地の自行を明かし、次ぎに「本証より」の下は垂迹(すいじゃく)化他を明かす、亦分かって四と為す。()わく、本果・中間(ちゅうげん)今日(こんにち)・未来なり。初めに本果の文亦二と為す、初めに「本証より已後」と云うとは是れ本果の時を示すなり。次ぎに「方便」の下は是れ本果の説法を明かす、文(また)三と為す。初めに「方便()()と云うは是れ四味を明かすなり。
 次に「三を開し一を顕す」とは是れ迹門を明かすなり。
 三に「発迹顕本」等は正しく本門を明かすなり。
(ほつ)とは開なり、謂わく、本果成道の迹を開して久遠元初の本を顕わす故に「(かえ)って最初を指して本と為す」と云うなり。

問う、何ぞ本果を以って垂迹(すいじゃく)に属するや。

答う、本果の儀式(まった)今日(こんにち)に同じ、四味及以(および)迹本二門、今の文に顕然なり、(いわん)や復(しょ)の第一に云わく「本時の四仏は皆是れ本なり」云云、(せん)の第七に云わく「四義深浅(じんせん)不同あり。故に知んぬ、不同なるは定めて迹に属す」云云。

問う、何ぞ本果を以って化他に属するや。

答う、是れ亦前に同じ、既に四教八教有る故なり。(せん)の第七に云わく「最初(じっ)(とく)に亦四教有り」云云。疏記(しょき)第一に云わく「化他は不定(ふじょう)なり、亦八教有り」等云云。

問う、本果は正しく是れ最初成道(じょうどう)なり、何ぞ寿量を説き発迹顕本せんや。故に玄の第七に云わく「必ずしも(みな)顕本せず」と云云。

 答う、若し文上に(じゅん)ぜば実に久本(くほん)の顕わす可き無し、故に顕本せず、若し文底に()らば実に久本の顕わす可き有り、故に顕本と云う、義一概(いちがい)に非ず、故に「不必」と云うなり。


              日蓮大聖人の発迹顕本を説き明かす につづく


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# by johsei1129 | 2015-01-17 15:10 | 日寛上人 六巻抄 | Trackback | Comments(0)
2015年 01月 15日

久遠元初下種のわれらが妙覚に至る明文 【当流行事抄】寿量品篇四


 問う、
(しょ)第一の四節の釈に(じゅん)ずるに、本因本果下種の輩多く近世に得脱す、地涌(じゆ)等是れなり。残る所は今日の序品に()(だつ)す、本種現脱(げんだつ)の人是れなり。故に知んぬ、本因果種の人(なお)迹門正宗に至らず、(いわん)や復久遠元初下種の輩、本門に至りて(まさ)に度脱を得可けんや。

答う、縁微少(みしょう)の故に、退して修せざる故に、(わく)(こう)(じゅう)の故に、根回(こんめぐら)し難き故に塵劫(じんこう)遠々(おんのん)(まさ)に得ることを(さまた)げざるなり。

問う、仮令(たとい)然りと雖も若し明文無くんば有智無智誰か之を信ず可けんや。

答う、明文有りと(いえど)も人之を見ず。宗祖云わく「文は睫毛(まつげ)の如し」と。(まこと)(ゆえ)有るかな、吾今之を示さん、他に向って説くこと(なか)れ云云。

疏の第九に云わく「(しか)るに本門の得道の数、衆経に倍す、(ただ)数多きのみに非ず、又(くん)(じゅう)日久(ひひさ)し、元本(がんぽん)より迹を()れ処々に開引し、中間(ちゅうげん)(あい)()うて数々(しばしば)成熟(じょうじゅく)今日(こんにち)五味に節々(せつせつ)調伏(じょうぶく)収羅(しゅうら)結撮(けっさつ)して法華に()()す」等云云。此の文正しく本門の得道を明かす、文を分かって二と為す。初めに横に多きことを明かし、次ぎに「非但(ひたん)の下は(たて)に久しきことを明かす、(また)分かって三と為す、初めに久遠元初の下種を明かし、二に「元本」の下は本果・中間・今日の調(じょう)(じゅく)を明かし、三に「(しゅう)()の下は体内の寿量の得脱を明かすなり云云。

 初めの文は見る可し。「(くん)(じゅ)(にっ)()とは釈尊久遠元初に一迷先達して余迷(よめい)に教うる時、順逆二縁に始めて仏種を下し、爾来(じらい)其の種漸々(ぜんぜん)に薫修すること五百塵点(じんてん)(ぶう)(ばい)上数(じょうしゅ)塵々(じんじん)劫々(こうごう)久々(くく)遠々(おんのん)なり、故に薫修日久と言うなり。(しか)るに機縁(すで)に熟して仏の出世を感ず。故に久遠元初の本より本果第一番の迹を()れ、五時に経歴(きょうりゃく)して開化引導す。故に「元本垂迹処々開引」と云うなり。元本の二字に(こころ)を留めて見る可し。第二番の後、今日(こんにち)已前、世々番々にして之を調熟す、故に「中間(ちゅうげん)相値(そうち)数々(さくさく)成熟(じょうじゅく)と言うなり。(およ)そ「中間」とは第二番より後、今日(こんにち)已前を(まさ)に中間と名づく、此れは是れ台家(じょう)()法相(ほっそう)なり。故に知んぬ「元本垂迹」等の文は正しく本果第一番に当たるなり、()()の君子深く之を案ず可し。今日(こんにち)四味(しみ)及以(および)迹門(しゃくもん)(また)之を調伏す、故に「今日五味節々調伏」と云うなり。(しか)るに後、体内寿量に至って皆(ことごと)く久遠元初の下種の法華に帰会(きえ)し、名字妙覚の極位に至らしむ、故に「収羅(しゅうら)結撮(けっさつ)帰会法華」と云うなり云云、明文赫々(かくかく)たり、誰か之を信ぜざらんや。


 発迹顕本を説き明かす につづく  


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# by johsei1129 | 2015-01-15 22:22 | 日寛上人 六巻抄 | Trackback | Comments(0)
2015年 01月 15日

妙法受持のわれらは久遠元初に種子を得たり 【当流行事抄】寿量品篇三


問う、今日(こんにち)在世得脱の衆生は皆是れ三五下種の(やから)なり、何ぞ久遠元初の下種等と云うや。

答う、三五下種と言うとは(しばら)く是れ当家第一・第二の教相の意なり。若し第三の教相顕われ(おわ)れば在世の衆生は皆悉く久遠元初下種の人なり。(しばら)身子(しんし)の如き鹿(ろく)(おん)断惑(だんなく)(ただ)是れ当分(とうぶん)の断惑にして()(せつ)の断惑に非ず、是れ則ち種子を知らざる故なり。然るに法華に来至(らいし)して大通の種子を覚知す、此れ即ち跨節の断惑なり。(しか)りと(いえど)も若し本門に望むれば(なお)是れ当分の断惑にして跨節の断惑に非ず、未だ久遠の下種を了せざるの故なり。(しか)後本門に至って久遠の下種を顕わす、此れ即ち跨節の断惑なり。然りと雖も若し文底に望むれば(なお)是れ当分の断惑にして跨節の断惑に非ざるなり。若し文底の眼を開いて(かえ)って()の得道を見れば実に久遠元初の下種の位に還って名字妙覚の(ごく)()に至る、此れ即ち真実の跨節の断惑なり。故に経(()()品)に云わく「以信得入」等云云。以信(あに)名字に非ずや、得入は即ち是れ妙覚なり。
 又云わく「
我等(がとう)当信受仏語」云云。
 宗祖釈して云わく「此の無作三身は一字を以て得たり、
所謂(いわゆる)信の一字なり」云云。信は即ち慧の因、名字即なり、無作三身(あに)妙覚に非ずや。身子(すで)(しか)り、一切皆(しか)らん云云。当流深秘(じんぴ)三重相伝云云。


久遠元初下種のわれらが妙覚に至る明文 につづく

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# by johsei1129 | 2015-01-15 21:25 | 日寛上人 六巻抄 | Trackback | Comments(0)
2015年 01月 14日

信心強盛の者は位を経ずして妙覚に至る 【当流行事抄】寿量品篇二


問う、内外の得脱、同とせんや異とせんや。

答う、()れ即ち天地水火の不同なり。
 本尊抄に云わく「久遠を以て下種と
()し、大通・(ぜん)四味(しみ)迹門を(じゅく)と為し、本門に至って(とう)(みょう)に登らしむるを脱と為す」云云。

()して云わく、等覚に登らしむとは即ち体外の(こころ)なり、妙覚に登らしむるとは即ち体内の意なり、若し体外の意は常の所談の如し。在世の衆生、寿量品を聞き(ただ)()(じゅう)乃至等覚に至る、(しか)も妙覚に至るの人は(すべ)て経文に之無きなり。

然るに体内の意は霊山(りょうぜん)一会(いちえ)の無量の菩薩、体内の寿量を聴聞して(ただ)文上脱迹を信ずるのみに非ず、(また)文底秘沈の種本を了し、久遠元初の下種の位に立ち(かえ)って本地難思境智の妙法を信ずる故に皆(ことごと)く名字妙覚の(ごく)()に至るなり、是れ即ち体内得脱の相なり。故に(けい)(けい)の云わく「故に長寿を聞いて(また)宗旨を了す」云云。又云わく「若し(ただ)事中の遠寿(おんじゅ)を信ぜば、何ぞ能く此の諸の菩薩等をして(ぞう)(どう)損生(そんしょう)して極位に至らしめん、故に本地難思の境智を(しん)()す」等云云。
 吾が祖、祈祷抄に諸菩薩皆妙覚の位に
(のぼ)って釈迦如来の悟りと等しと判じたもう是なり。当流の口伝くでん(本因妙口決・富要二巻八三頁)に云わく「等覚一転名字妙覚」云云。




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# by johsei1129 | 2015-01-14 22:08 | 日寛上人 六巻抄 | Trackback | Comments(0)
2015年 01月 13日

文上と文底、天地はるかに異なれり 【当流行事抄】寿量品篇一


第二 寿量品篇

問う、(およ)そ当流の(こころ)は本門寿量品の中に(ただ)文底に依って以って宗旨を立つ。今寿量品を読誦する其の心地、聞くことを得べけんや。

答う、(ただ)是れ文底が家の寿量品を読誦して以って助行と()なり。此に(また)二意有り、一には所破(しょは)の為、二には所用(しょゆう)の為なり。是れ則ち此の品(もと)両種の顕本、体内(たいない)体外(たいげ)等の義を含むが故なり。

問う、両種の顕本其の相、如何(いかん)

答う、法は是れ一法なり、是れ一法なりと(いえど)も時に随い、機に随って義は則ち無量なり。

今両種の顕本と言うは一には()わく、文上の顕本、二には謂わく、文底の顕本なり。

文上の顕本とは久遠本果の成道(じょうどう)を以て本地の自行と名づけ、()の本果の本を顕わすを文上の顕本と名づくるなり。文底の顕本とは久遠元初の成道を以て本地の自行と名づけ、此の久遠元初を顕わすを文底の顕本と名づくるなり。(しばら)く我実成仏の文の如き、()し久遠本果の成道を我実成仏と説くと言わば、即ち是れ文上の顕本なり、若し久遠元初の成道を我実成仏と説くと言わば、即ち是れ文底の顕本なり、両種の顕本其の相()くの如し。

文上の顕本に(また)二意有り、一には謂わく体外(たいげ)、二には謂わく体内(たいない)なり。

問う、体内・体外其の相如何(いかん)

答う、是れは則ち、顕と未顕と、知と不知と、天地(はる)かに異なり。謂わく、文底(いま)だ顕われざるを名づけて体外と為す、(なお)天月を()らず(ただ)()(げつ)を観ずるが如し。文底(すで)に顕わるれば即ち体内と名づく、池月は即ち是れ天月の影と識るが如し。(しばら)く我実成仏の文の如し。若し本地第一・本果自行の成道を我実成仏と説くと言わば、即ち是れ体外(たいげ)の寿量品なり。若し迹中最初の本果()()の成道を我実成仏と説くと言わば、即ち是れ体内の寿量品なり。内外殊なりと雖も(とも)脱迹(だっしゃく)と名づく、是れ文底の種本(しゅほん)に対する故なり。(まさ)に知るべし、迹門(すで)内外(ないげ)有り、今の脱迹(あに)(しか)らざらんや。若し体外の寿量品は天台(じょう)()の釈の如し、若し体内(たいない)の寿量品は血脈抄に本果を迹と名づくるが如し云云。



 信心強盛の者は位を経ずして妙覚に至る につづく



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# by johsei1129 | 2015-01-13 22:07 | 日寛上人 六巻抄 | Trackback | Comments(0)