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日蓮大聖人『御書』解説

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2015年 01月 15日

妙法受持のわれらは久遠元初に種子を得たり 【当流行事抄】寿量品篇三


問う、今日(こんにち)在世得脱の衆生は皆是れ三五下種の(やから)なり、何ぞ久遠元初の下種等と云うや。

答う、三五下種と言うとは(しばら)く是れ当家第一・第二の教相の意なり。若し第三の教相顕われ(おわ)れば在世の衆生は皆悉く久遠元初下種の人なり。(しばら)身子(しんし)の如き鹿(ろく)(おん)断惑(だんなく)(ただ)是れ当分(とうぶん)の断惑にして()(せつ)の断惑に非ず、是れ則ち種子を知らざる故なり。然るに法華に来至(らいし)して大通の種子を覚知す、此れ即ち跨節の断惑なり。(しか)りと(いえど)も若し本門に望むれば(なお)是れ当分の断惑にして跨節の断惑に非ず、未だ久遠の下種を了せざるの故なり。(しか)後本門に至って久遠の下種を顕わす、此れ即ち跨節の断惑なり。然りと雖も若し文底に望むれば(なお)是れ当分の断惑にして跨節の断惑に非ざるなり。若し文底の眼を開いて(かえ)って()の得道を見れば実に久遠元初の下種の位に還って名字妙覚の(ごく)()に至る、此れ即ち真実の跨節の断惑なり。故に経(()()品)に云わく「以信得入」等云云。以信(あに)名字に非ずや、得入は即ち是れ妙覚なり。
 又云わく「
我等(がとう)当信受仏語」云云。
 宗祖釈して云わく「此の無作三身は一字を以て得たり、
所謂(いわゆる)信の一字なり」云云。信は即ち慧の因、名字即なり、無作三身(あに)妙覚に非ずや。身子(すで)(しか)り、一切皆(しか)らん云云。当流深秘(じんぴ)三重相伝云云。


久遠元初下種のわれらが妙覚に至る明文 につづく

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# by johsei1129 | 2015-01-15 21:25 | 日寛上人 六巻抄 | Trackback | Comments(0)
2015年 01月 14日

信心強盛の者は位を経ずして妙覚に至る 【当流行事抄】寿量品篇二


問う、内外の得脱、同とせんや異とせんや。

答う、()れ即ち天地水火の不同なり。
 本尊抄に云わく「久遠を以て下種と
()し、大通・(ぜん)四味(しみ)迹門を(じゅく)と為し、本門に至って(とう)(みょう)に登らしむるを脱と為す」云云。

()して云わく、等覚に登らしむとは即ち体外の(こころ)なり、妙覚に登らしむるとは即ち体内の意なり、若し体外の意は常の所談の如し。在世の衆生、寿量品を聞き(ただ)()(じゅう)乃至等覚に至る、(しか)も妙覚に至るの人は(すべ)て経文に之無きなり。

然るに体内の意は霊山(りょうぜん)一会(いちえ)の無量の菩薩、体内の寿量を聴聞して(ただ)文上脱迹を信ずるのみに非ず、(また)文底秘沈の種本を了し、久遠元初の下種の位に立ち(かえ)って本地難思境智の妙法を信ずる故に皆(ことごと)く名字妙覚の(ごく)()に至るなり、是れ即ち体内得脱の相なり。故に(けい)(けい)の云わく「故に長寿を聞いて(また)宗旨を了す」云云。又云わく「若し(ただ)事中の遠寿(おんじゅ)を信ぜば、何ぞ能く此の諸の菩薩等をして(ぞう)(どう)損生(そんしょう)して極位に至らしめん、故に本地難思の境智を(しん)()す」等云云。
 吾が祖、祈祷抄に諸菩薩皆妙覚の位に
(のぼ)って釈迦如来の悟りと等しと判じたもう是なり。当流の口伝くでん(本因妙口決・富要二巻八三頁)に云わく「等覚一転名字妙覚」云云。




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# by johsei1129 | 2015-01-14 22:08 | 日寛上人 六巻抄 | Trackback | Comments(0)
2015年 01月 13日

文上と文底、天地はるかに異なれり 【当流行事抄】寿量品篇一


第二 寿量品篇

問う、(およ)そ当流の(こころ)は本門寿量品の中に(ただ)文底に依って以って宗旨を立つ。今寿量品を読誦する其の心地、聞くことを得べけんや。

答う、(ただ)是れ文底が家の寿量品を読誦して以って助行と()なり。此に(また)二意有り、一には所破(しょは)の為、二には所用(しょゆう)の為なり。是れ則ち此の品(もと)両種の顕本、体内(たいない)体外(たいげ)等の義を含むが故なり。

問う、両種の顕本其の相、如何(いかん)

答う、法は是れ一法なり、是れ一法なりと(いえど)も時に随い、機に随って義は則ち無量なり。

今両種の顕本と言うは一には()わく、文上の顕本、二には謂わく、文底の顕本なり。

文上の顕本とは久遠本果の成道(じょうどう)を以て本地の自行と名づけ、()の本果の本を顕わすを文上の顕本と名づくるなり。文底の顕本とは久遠元初の成道を以て本地の自行と名づけ、此の久遠元初を顕わすを文底の顕本と名づくるなり。(しばら)く我実成仏の文の如き、()し久遠本果の成道を我実成仏と説くと言わば、即ち是れ文上の顕本なり、若し久遠元初の成道を我実成仏と説くと言わば、即ち是れ文底の顕本なり、両種の顕本其の相()くの如し。

文上の顕本に(また)二意有り、一には謂わく体外(たいげ)、二には謂わく体内(たいない)なり。

問う、体内・体外其の相如何(いかん)

答う、是れは則ち、顕と未顕と、知と不知と、天地(はる)かに異なり。謂わく、文底(いま)だ顕われざるを名づけて体外と為す、(なお)天月を()らず(ただ)()(げつ)を観ずるが如し。文底(すで)に顕わるれば即ち体内と名づく、池月は即ち是れ天月の影と識るが如し。(しばら)く我実成仏の文の如し。若し本地第一・本果自行の成道を我実成仏と説くと言わば、即ち是れ体外(たいげ)の寿量品なり。若し迹中最初の本果()()の成道を我実成仏と説くと言わば、即ち是れ体内の寿量品なり。内外殊なりと雖も(とも)脱迹(だっしゃく)と名づく、是れ文底の種本(しゅほん)に対する故なり。(まさ)に知るべし、迹門(すで)内外(ないげ)有り、今の脱迹(あに)(しか)らざらんや。若し体外の寿量品は天台(じょう)()の釈の如し、若し体内(たいない)の寿量品は血脈抄に本果を迹と名づくるが如し云云。



 信心強盛の者は位を経ずして妙覚に至る につづく



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# by johsei1129 | 2015-01-13 22:07 | 日寛上人 六巻抄 | Trackback | Comments(0)
2015年 01月 13日

日蓮大聖人佐渡ご赦免から三度目の国家諌暁、身延入山までの振る舞いを記した書【光日房御書】二

[光日房御書 本文] その二

 但し本国にいたりて今一度、父母のはか(墓)をもみんと・をもへども、にしき(錦)をきて故郷へはかへれといふ事は内外のをきてなり。させる面目もなくして本国へいたりなば、不孝の者にてやあらんずらん。これほどの・かた(難)かりし事だにもやぶれて、かまくらへかへり入る身なれば、又にしきをきるへんもやあらんずらん。其の時、父母のはかをも・みよかしと、ふかくをもうゆへに・いまに生国へはいたらねども、さすがこひしくて、吹く風・立つくも(雲)までも東のかたと申せば、庵(いおり)をいでて身にふれ、庭に立ちてみるなり。かかる事なれば故郷の人は設い心よせにおもはぬ物なれども、我が国の人といへば・なつかしくて・はんべるところに、此の御ふみを給びて心もあらずして・いそぎ・いそぎ・ひらきてみ候へば、をととしの六月の八日に、いや(弥)四郎に・をく(後)れてと・かかれたり。御ふみも・ひらかざりつるまでは・うれしくてありつるが、今・此のことばをよみてこそ・なにしに・かくいそぎ・ひらきけん。うらしま(浦島)が子のはこ(箱)なれや、あけて・くやしきものかな。

 我が国の事はう(憂)く・つらくあたりし人のすへまでも・をろかならず・をもうに、ことさら此の人は形も常の人にはすぎてみへ、うちをもひたるけしきも・かたく(頑固)なにもなしと見えしかども、さすが法華経のみざ(御座)なれば・しらぬ人人あまたありしかば言もかけずありしに、経はてさせ給いて皆人も立ちかへる。此の人も立ちかへりしが使ひを入れて申せしは、安房の国のあまつ(天津)と申すところの者にて候が、をさなくより御心ざし・をもひまいらせて候上、母にて候人も・をろかならず申し、なれなれしき申し事にて候へども・ひそかに申すべき事の候。さきざき・まひりて次第になれまいらせてこそ申し入るべきに候へども、ゆみやとる人に・みやづかひて・ひま候はぬ上、事きうになり候いぬる上は・をそれをかへりみず申すと、こまごまときこえしかば、なにとなく生国の人なる上、そのあたり(辺)の事は・はばかるべきにあらずとて入れたてまつりて、こまごまと・こしかた(過方)・ゆくすへ・かたりて、のちには世間無常なり、いつと申す事をしらず。其の上・武士に身をまかせたる身なり。又ちかく申しかけられて候事・のがれがたし。さるにては後生こそ・をそろしく候へ。たすけさせ給へと・きこへしかば、経文をひいて申しきかす。彼のなげき申せしは、父はさてをき候いぬ、やもめ(寡婦)にて候・はわ(母)をさしをきて、前に立ち候はん事こそ不孝にをぼへ候へ。もしやの事候ならば、御弟子に申しつたへてたび候へと、ねんごろにあつら(誂)へ候いしが、そのたびは事ゆへなく候へけれども、後にむなしくなる事のいできたりて候いけるにや。

 人間に生をうけたる人、上下につけて・うれへなき人はなけれども、時にあたり・人人にしたがひて・なげき・しなじななり。譬へば病のならひは何(いずれ)の病も重くなりぬれば、是にすぎたる病なしと・をもうがごとし。主のわかれ、をやのわかれ、夫妻のわかれ、いづれかおろかなるべき。なれども主は又他の主もありぬべし。夫妻は又かはりぬれば、心をやすむる事もありなん。をやこのわかれこそ月日のへだつるままに・いよいよ・なげきふかかりぬべくみへ候へ。をやこのわかれにも、をやはゆきて子はとどまるは、同じ無常なれども・ことはり(理)にもや。をひたるはわは・とどまりて、わきき子のさきにたつ、なさけなき事なれば神も仏もうらめしや。いかなれば、をやに子をかへさせ給いて・さきにはたてさせ給はず、とどめをかせ給いて・なげかさせ給うらんと心うし。
 心なき畜生すら子のわかれ・しのびがたし。竹林精舎の金鳥は・かひこ(卵)のために身をやき、鹿野苑(ろくやおん)の鹿は胎内の子ををしみて王の前にまいれり。いかにいわうや心あらん人にをいてをや。されば王陵が母は子のためになつき(頭脳)をくだき、神尭(しんぎょう)皇帝の后は胎内の太子の御ために腹をやぶらせ給いき。此等ををもひつづけさせ給はんには、火にも入り・頭をもわりて我が子の形をみるべきならば・をしからずとこそ・おぼすらめと、をもひやられて・なみだもとどまらず。


# by johsei1129 | 2015-01-13 14:37 | 弟子・信徒その他への消息 | Trackback | Comments(0)
2015年 01月 12日

方便品読誦の意味を説き明かす 【当流行事抄】方便品篇六


問う、日辰造読論(ぞうどくろん)の中に当山鎮師(ちんし)の記を引いて云わく「日代云わく、迹門は施迹(せしゃく)の分には捨つべからず云云、日道師云わく、施開廃(せかいはい)(とも)に迹門は捨つ可し」已上。又日道師、日尊師に(こた)うる書に云わく「或は天目(てんもく)に同じ迹門を()むべからず、或は鎌倉方に同じて迹門に得道有り等云云、日道一人正義を立て候」略抄。天目に同ずる者は讃州(さんしゅう)の日仙なり、鎌倉方に同ずる者は即ち日代師なり。此の義如何(いかん)云云。

問う、日尊師実録に云わく「迹門は衆生(しゅじょう)(ほう)(みょう)、本門は仏法(ぶっぽう)(みょう)、観心は即ち心法(しんぽう)(みょう)なり。方便品には心法(しょ)()の衆生法妙を説き、寿量品には心法所具の仏法妙を説く。題目は心法の直体(じきたい)なり。()くの如き深意を知らずして所破の為に之を読む」等云云。実録は即ち是れ日大の所述なり。此の義如何(いかん)云云。

今更に未解(みげ)の者の為に要を取りて之を言わば、(しばら)く「唯仏(ゆいぶつ)与仏(よぶつ)等の一文の如き(ひろ)く之を論ずれば(すなわ)(しか)も多意を成す。

謂わく、所破(しょは)の辺、自ら二意を含む。

一には体外(たいげ)の迹門、即ち是れ今日(こんにち)始成正覚の仏の所証の法なり、在々処々多く此の意に()る。

二には体内(たいない)の迹門、此れ即ち従本(じゅうほん)垂迹(すいじゃく)の仏の所証の法なり、読誦の意正しく(ここ)に在り。

(しゃく)(もん)の辺も又両意を含む。

一には近く久遠(くおん)本果所証の法を顕わすなり、通得引用多く此の意に拠る。

二には遠く久遠名字の所証の法を顕わすなり、読誦の意正しく(ここ)に在り云云。

当に知るべし、()し文底の眼を開く(とき)此の文即ち是れ久遠名字の本仏、唯仏与仏乃能(ないのう)究尽(くじん)なり云云。

            方便品読誦に「一念三千」を得たり につづく



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# by johsei1129 | 2015-01-12 20:14 | 日寛上人 六巻抄 | Trackback | Comments(0)