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日蓮大聖人『御書』解説

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2026年 04月 25日

弟子の心得 22

 月は山よりいでて山をてらす、わざわい(禍)は口より出でて身をやぶる、さいわい(福)は心よりいでて我をかざる。
 今正月の始めに法華経をくやう(供養)し・まいらせんとをぼしめす御心は、木より花のさき、池より蓮のつぼみ、雪山のせんだんのひらけ、月の始めて出づるなるべし。
 今日本国の法華経をかたきとして・わざわいを千里の外より・まねきよせぬ。此れをもつてをもうに、今又法華経を信ずる人は・さいわいを万里の外よりあつむべし。
 影は体より生ずるもの。法華経をかたきとする人の国は・体にかげのそうがごとく・わざわい来たるべし。法華経を信ずる人は・せんだん(栴檀)に・かをばしさの・そなえたるがごとし。又又申し候べし。

 仏の説いての給はく、火に入りて・やけぬ者はありとも、大水に入りてぬれぬものはありとも、大山は空(そら)へとぶとも、大海は天へあがるとも、末代悪世に入れば須臾の間も法華経は信じがたき事にて候ぞ。
 徽宗(きそう)皇帝は漢土の主(ある)じ、蒙古国に・からめとられさせ給いぬ。隠岐の法王は日本国のあるじ(主)、右京の権大夫(ごんのだゆう)殿に・せめられさせ給いて・島にて・はてさせ給いぬ。
法華経のゆへにてだにも・あるならば即身に仏にもならせ給いなん。わづかの事には身をやぶり命をすつれども、法華経の御ゆへに・あやしのとがにあたらんとおもふ人は候はぬぞ。身にて心みさせ給い候いぬらん。たうとし・たうとし。恐恐謹言。

 末法には法華経の行者必ず出来すべし。但し大難来たりなば強盛の信心弥弥(いよいよ)悦びをなすべし。火に薪(たきぎ)をくわへんにさかんなる事なかるべしや。大海へ衆流(しゅうる)入る、されども大海は河の水を返す事ありや。法華大海の行者に諸河の水は大難の如く入れども・かへす事・とがむる事なし。諸河の水入る事なくば大海あるべからず。大難なくば法華経の行者にはあらじ。天台の云く「衆流海に入り・薪火(たきぎ)を熾(さか)んにす」と云云。
 法華経の法門を一文一句なりとも人に・かたらんは過去の宿縁ふか(深)しとおぼしめすべし。経に云く「亦正法を聞かず。是くの如き人は度し難し」と云云。此の文の意は正法とは法華経なり。此の経をきかざる人は度しがたしと云う文なり。法師品には「若是善男子・善女人・乃至則如来使」と説かせ給いて・僧も俗も・尼も女も、一句をも・人にかたらん人は如来の使ひと見えたり。
 貴辺すでに俗なり・善男子の人なるべし。此の経を一文一句なりとも聴聞(ちょうもん)して神(たましい)にそめん人は生死(しょうじ)の大海を渡るべき船なるべし。妙楽大師云く「一句も神に染ぬれば咸(ことごと)く彼岸を資(たす)く。思惟・修習(しゅい・しゅしゅう)永く舟航に用(ゆう)たり」と云云。生死の大海を渡らんことは妙法蓮華経の船にあらずんば・かなふべからず。

 忠言は耳に逆い、良薬は口に苦(にが)しとは先賢の言なり。やせ病の者は命をきらう、佞人(ねいじん)は諌(いさめ)を用いずと申すなり。

 風は是れ天地の使ひなり。まつり事あらければ風あらしと申すは是なり。

 入阿鼻獄とは涅槃経第十九に云く「仮使(たと)い一人(いちにん)独り是の獄に堕つるも其の身・長大にして八万由延なり。其の中間に遍満して空しき処無し。其の身周匝(しゅうそう)して種種の苦を受く。設い多人有つて身亦遍満すとも相い妨碍(ぼうげ)せず」同三十六に云く「沈没して阿鼻地獄に在つて受くる所の身形・縦広(じゅうこう)八万四千由旬ならん」等云云。普賢経に云く「方等経を謗ずる、是の大悪報・応に悪道に堕つべきこと暴雨にも過ぎ、必定(ひつじょう)して当に阿鼻地獄なり」等とは阿鼻獄に入る文なり。

 彼の提婆・大慢等の無極の重罪を此の日本国四十五億八万九千六百五十九人に対せば軽罪中の軽罪なり。
 問う、其の理如何。
 答う、彼等は悪人為りと雖も全く法華を誹謗する者には非ざるなり。又提婆達多は恒河(ごうが)第二の人にして第三の一闡提(いっせんだい)なり。今日本国四十五億八万九千六百五十九人は皆恒河第一の罪人なり。然れば則ち提婆が三逆罪は軽毛(けいもう)の如し、日本国の上に挙ぐる所の人人の重罪は猶大石(だいせき)の如し。定めて梵釈も日本国を捨て、同生・同名も国中の人を離れ、天照太神・八幡大菩薩も争でか此の国を守護せん。

 爰に貴辺と日蓮とは師檀の一分なり。然りと雖も有漏(うろ)の依身(えしん)は国主に随うが故に・此の難に値わんと欲するか、感涙(かんるい)押え難し。何れの代(よ)にか対面を遂げんや。唯一心に霊山浄土を期(ご)せらる可きか。設い身は此の難に値うとも、心は仏心に同じ。今生は修羅道に交わるとも、後生は必ず仏国に居(こ)せん。恐恐謹言。

 地獄の相重きが中の重きは無間地獄の相なり。彼の無間地獄は縦横二万由旬なり、八方は八万由旬なり。彼の地獄に堕つる人人は一人の身・大にして八万由旬なり。多人も又此くの如し。身のやはらかなる事綿(わた)の如し、火のこわ(強)き事は大風の焼亡の如し・鉄の火の如し。詮を取つて申さば我が身より火の出ずる事十三あり。
 二の火あり、足より出でて頂をとをる。又二の火あり、頂より出でて足をとほる。又二の火あり、背より入りて胸より出(い)ず。又二の火あり胸より入りて背へ出ず。又二の火あり、左の脇より入りて右の脇へ出ず。又二の火あり、右の脇より入りて左の脇へ出ず。亦一の火あり、首(かしら)より下に向いて雲の山を巻くが如くして下る。此の地獄の罪人の身は枯れたる草を焼くが如し。東西南北に走れども逃去(にげさる)所なし。他の苦は且らく之を置く、大火の一苦なり。此の大地獄の大苦を仏委(くわ)しく説き給うならば、我等衆生聞いて皆死すべし。故に仏委しくは説き給う事なしと見えて候。

 今今御覧ぜよ、法華経誹謗の科(とが)と云ひ、日蓮をいやしみし罰と申し、経と仏と僧との三宝誹謗の大科によつて現生には此の国に修羅道を移し、後生には無間地獄へ行き給うべし。此れ又偏に弘法・慈覚・智証等の三大師の法華経誹謗の科と、達磨・善導・律僧等の一乗誹謗の科と、此れ等の人人を結構せさせ給う国主の科と、国を思ひ生処を忍びて兼て勘へ告げ示すを用いずして・還つて怨(あだ)をなす大科、先例を思へば呉王・夫差(ふさ)の伍子胥(ごししょ)が諌(いさめ)を用いずして越王・勾践(こうせん)にほろぼされ、殷の紂王が比干(ひかん)が言(ことば)をあなづりて周の武王に責められしが如し。

 其の上此の処は人倫を離れたる山中なり。東西南北を去りて里もなし。かかるいと心細き幽窟(ゆうくつ)なれども、教主釈尊の一大事の秘法を霊鷲山にして相伝し、日蓮が肉団の胸中に秘して隠し持てり。されば日蓮が胸の間は諸仏入定の処なり。舌の上は転法輪の所、喉(のんど)は誕生の処、口中は正覚の砌(みぎり)なるべし。かかる不思議なる法華経の行者の住処なれば・いかでか霊山浄土に劣るべき。法妙なるが故に人貴し、人貴きが故に所尊しと申すは是なり。
 神力品に云く「若しは林の中に於ても、若しは樹の下に於ても、若しは僧坊に於ても、乃至而般涅槃(ないし・はつねはん)したもう」と云云。此の砌(みぎり)に望まん輩(やから)は無始の罪障忽ちに消滅し、三業の悪・転じて三徳を成ぜん。彼の中天竺の無熱池(むねっち)に臨みし悩者(のうしゃ)が心中の熱気を除愈(じょゆ)して「其の願を充満する事・清涼池の如し」とうそぶきしも、彼れ此れ異なりといへども・其の意(こころ)は争でか替(かわ)るべき。

 今月十四日の御札(ぎょさつ)・同じき十七日到来。又去ぬる後の七月十五日の御消息・同じき二十比(はつかごろ)到来せり。其の外・度度の貴札を賜うと雖も老病為(た)るの上、又不食気(ふしょくげ)に候間・未だ返報を奉らず候条・其の恐れ少からず候。何よりも去ぬる後の七月御状の内に云く、鎮西には大風吹き候て浦浦・島島に破損の船充満の間、乃至京都には思円(しえん)上人・又云く理豈然(り・あにしか)らんや等云云。
 此の事別して此の一門の大事なり、総じて日本国の凶事(きょうじ)なり。仍つて病を忍んで一端(ひとはし)是れを申し候はん。是偏に日蓮を失わんと為(し)て無かろう事を造り出さん事兼ねて知る。其の故は日本国の真言宗等の七宗・八宗の人人の大科・今に始めざる事なり。然りと雖も且く一を挙げて万を知らしめ奉らん。

 王法に背き奉り・民の下知に随う者は、師子王が野狐(やこ)に乗せられて東西南北に馳走するが如し。今生の恥之れを何如(いかん)。急ぎ急ぎ冑を脱ぎ・弓弦(ゆづる)をはづして参参(まいれまいれ)と招きける程に、何(いか)に有りけん、申酉(さるとり)の時にも成りしかば、関東の武士等・河を馳せ渡り・勝ちかかりて責めし間、京方の武者共一人も無く山林に逃げ隠るるの間・四つの王をば四つの島へ放ちまいらせ又高僧・御師・御房達は或は住房を追われ、或は恥辱(ちじょく)に値い給いて今に六十年の間いまだ・そのはぢ(恥)をすすがずとこそ見え候に、今亦彼の僧侶の御弟子達・御祈祷(きとう)承はられて候げに候あひだ、いつもの事なれば秋風に纔(わずか)の水に敵船・賊船なんどの破損仕りて候を・大将軍生取(いけどり)たりなんど申し・祈り成就の由を申し候げに候なり。
 又蒙古の大王の頚(くび)の参りて候かと問い給うべし。其の外はいかに申し候とも御返事あるべからず。御存知のために・あらあら申し候なり。乃至此の一門の人人にも相触(ふ)れ給ふべし。

 一切の花の中に取分(とりわ)けて此の花を法華経に譬へさせ給う事は其の故候なり。
 或は前花後菓と申して花は前(さき)に・菓(み)は後(あと)なり。或は前菓後花と申して菓(み)は前(さき)に・花は後(あと)なり。或は一花多菓・或は多花一菓・或は無花有菓と品品(しなじな)に候へども蓮華と申す花は・菓(み)と花と同時なり。
 一切経の功徳は先(さき)に善根を作(な)して後(のち)に仏とは成ると説く。かかる故に不定なり。法華経と申すは手に取れば其の手・やがて仏に成り、口に唱ふれば其の口即ち仏なり。譬えば天月の東の山の端(は)に出ずれば、其の時・即ち水に影の浮かぶが如く、音とひびきとの同時なるが如し。故に経に云く「若し法を聞くこと有らん者は一(ひとり)として成仏せざること無し」云云。文の心は此の経を持つ人は百人は百人ながら、千人は千人ながら、一人もかけず仏に成ると申す文なり。

 八巻の題目は八八六十四の仏、六十四の満月と成り給へば無間地獄の大闇即大明となりし上、無間地獄は当位即妙・不改本位と申して常寂光の都と成りぬ。我及び罪人とは皆蓮(はちす)の上の仏と成りて只今都率の内院へ上り参り候が、先ず汝に告ぐるなりと云云。
 遺竜が云く、我が手にて書きけり、争(いか)でか君たすかり給うべき。而も我が心よりかくに非ず・いかに・いかにと申せば、父答えて云く、汝はかなし。汝が手は我が手なり、汝が身は我が身なり、汝が書きし字は我が書きし字なり。汝・心に信ぜざれども手に書く故に既にたすかりぬ。譬えば小児の火を放つに・心にあらざれども物を焼くが如し。法華経も亦かくの如し。存外に信を成せば必ず仏になる。又其の義を知りて謗ずる事無かれ。但し在家の事なればいひしこと故(ことさら)大罪なれども懺悔(さんげ)しやすしと云云。
 此の事を大王に申す。大王の言く、我が願・既にしるし有りとて遺竜・弥(いよいよ)朝恩を蒙(こうむ)り、国又こぞつて此の御経を仰ぎ奉る。

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 老病の上、不食気(ふじきげ)いまだ心よからざるゆへに、法門なんどもかきつけて申さずして、さて・はてん事なげき入って候。
 又三嶋の左衛門次郎がもとにて法門・伝へて候ひけるが始中終かきつけて給ひ候はん。其れならず・いづくにても候へ、法門を見候へば心のなぐさみ候ぞ。

 日蓮は所らう(労)のゆへに、人人の御文(ふみ)の御返事も申さず候いつるが、この事は・あまりになげかしく候へば・ふでをとりて候ぞ。これも・よも・ひさしくも・このよに候はじ。一定(いちじょう)五郎殿にいきあいぬと・をぼへ候。母よりさきに・けさん(見参)し候わば、母のなげき申しつたへ候はん。事事又又申すべし。恐恐謹言。

 須達長者と申せし人は月氏第一の長者、ぎをん(祇園)精舎をつくりて仏を入れまいらせたりしかども彼の寺焼けてあとなし。この長者・もと・いを(魚)を・ころしてあきな(商)へて長者となりしゆへに、この寺つゐにうせにき。
 今の人人の善根も又かくのごとく大なるやうなれども、あるひは・いくさ(戦)をして所領を給(たび)、或はゆへなく民をわづらはして・たから(財)をまう(儲)けて善根をなす。此等は大なる仏事とみゆれども仏にもならざる上(うえ)、其の人人あともなくなる事なり

 故に法性の空(そら)に自在にとびゆく車をこそ大白牛車とは申すなれ。我より後に来たり給はん人人は、此の車にめされて霊山へ御出で有るべく候。日蓮も同じ車に乗りて御迎いにまかり向ふべく候。南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経。
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 春のはじめの御悦びは月のみつるがごとく、しを(潮)のさすがごとく、草のかこむが如く、雨のふるが如しと思し食すべし。
 抑(そもそも)八日は各各(おのおの)の御父・釈迦仏の生まれさせ給い候ひし日なり。
 彼の日に三十二のふしぎあり。一には一切の草木に花さき・みなる。二には大地より一切の宝わきいづ。三には一切のでんぱた(田畠)に雨ふらずして水わきいづ。四には夜変じてひるの如し。五には三千世界に歎きのこゑなし。
 是くの如く吉瑞(きつずい)の相のみにて候し。是より已来(このかた)今にいたるまで二千二百三十余年が間・吉事には八日をつかひ給い候なり。
 
 又此の者・敵(嫡)子となりて人もすすめぬに、心中より信じまいらせて・上下万人にあるいはいさ(諫)め・或はをどし候いつるに、ついに捨つる心なくて候へば・すでに仏になるべしと見へ候へば、天魔・外道が病をつけて・をど(威)さんと心み候か。命はかぎりある事なり。すこしもをどろく事なかれ。
 又鬼神め(奴)らめ、此の人をなやますは、剣をさかさま(逆)にのむか、又大火をいだくか、三世十方の仏の大怨敵となるか。あなかしこ・あなかしこ。此の人のやまい(病)を忽ちになをして・かへりてまほり(守)となりて鬼道の大苦をぬくべきか。其の義なくして現在には頭破(ずは)七分の科(とが)に行われ、後生には大無間地獄に堕つべきか。永くとどめよ・とどめよ。日蓮が言(ことば)をいやしみて・後悔あるべし・後悔あるべし。



# by johsei1129 | 2026-04-25 21:55 | 血脈・相伝・講義 | Trackback | Comments(0)
2026年 04月 23日

弟子の心得 21


 四に果海円満とは、諸法の自性を尋ねて悉く本性を捨て、無作(むさ)の三身を成す。法として無作の三身に非ざること無し。故に蓮と名く、

 九に功徳円満。謂く、妙法蓮華経に万行の功徳を具して三力の勝能有るが故に、

 十一に種子円満とは、一切衆生の心性に本(もと)より成仏の種子を具す。権教は種子円満無きが故に皆成仏道の旨を説かず。故に蓮の義無し、
 十二に権実円満。謂く、法華実証の時は実に即して而かも権、権に即して而かも実、権実相即して闕減(けつげん)無き故に、円満の法にして既に三身を具するが故に諸仏・常に法を演説す。
 十三に諸相円満。謂く、一一の相の中に皆八相を具して一切の諸法・常に八相を唱う。
 十四に俗諦円満。謂く、十界・百界乃至三千の本性・常住不滅なり。本位を動せず当体即理の故に。
 十五に内外円満。謂く、非情の外器(げき)に内の六情を具す。有情数(うじょうしゅ)の中に亦非情を具す。余教は内外円満を説かざるが故に草木成仏すること能(あた)わず。草木非成仏の故に亦蓮と名づけず。

 蓮に六の勝能有り。
 一には自性清浄にして泥濁に染まず 理即
 二には華(け)・台(だい)・実(じつ)の三種具足して減すること無し 名字即・諸法即ち是れ三諦と解了するが故に
 三には初め種子より実を成ずるに至るまで華・台・実の三種相続して断ぜず 観行即・念念相続して修し廃するなき故に
 四には華葉の中に在つて未熟の実・真の実に似たり 相似即
 五には花開き蓮現ず分真即、六には花落ちて蓮成ず 究竟即。
 此の義を以ての故に六即の深義は源・蓮の字より出でたり。

 日蓮案じて云く、此の相伝の義の如くんば万法の根源、一心三観・一念三千・三諦・六即・境智の円融・本迹の所詮、源(みなもと)蓮の一字より起こる者なり云云。
 問うて云く、総説の五重玄とは如何。
 答えて云く「総説の五重玄とは妙法蓮華経の五字即五重玄なり。妙は名・法は体・蓮は宗・華は用・経は教なり」又「総説の五重玄に二種有り。一には仏意(ぶっち)の五重玄。二には機情の五重玄なり。
  仏意の五重玄とは諸仏の内証に五眼の体を具する、即ち妙法蓮華経の五字なり、仏眼(ぶつげん)は妙・法眼は
法・慧眼は蓮・天眼は華・肉眼は経なり。
 妙は不思議に名く故に真空冥寂(しんくう・みょうじゃく)は仏眼なり。
 法は分別に名く。法眼は仮なり・分別の形なり。
 慧眼は空なり・果の体は蓮なり。
 華は用なる故に天眼と名く。神通化用(じんつうけゆう)なり。
 経は破迷の義に在り。迷を以て所対と為す故に肉眼と名く。
 仏智の内証に五眼を具する、即ち五字なり、五字又五重玄なり、故に仏智の五重玄と名く。亦五眼即五智なり。法界体性智(ほうかい・たいしょうち)は仏眼・大円鏡智は法眼・平等性智は慧眼・妙観察智は天眼・成所作智(じょうしょ・さち)は肉眼なり。
 問う、一家には五智を立つるや。
 答う、既に九識を立つ故に五智を立つべし。前の五識は成所作智・第六識は妙観察智・第七識は平等性智・第八識は大円鏡智・第九識は法界体性智なり。
 次に機情の五重玄とは機の為に説く所の妙法蓮華経は即ち是れ機情の五重玄なり。

 所詮末法に入つて天真独朗の法門無益なり、助行には用ゆべきなり。正行には唯南無妙法蓮華経なり。

 末法に入つて天真独朗の法を弘めて正行と為さん者は必ず無間大城に墜ちんこと疑ひ無し。貴辺年来(としごろ)の権宗を捨てて日蓮が弟子と成り給う。真実・時国相応の智人なり。総じて予が弟子等は我が如く正理を修行し給え。智者・学匠の身と為りても地獄に墜ちて何の詮か有るべき。所詮・時時念念に南無妙法蓮華経と唱うべし。

 其の上は私に計(ばか)り申すに及ばず候。叶ひ叶はぬは御信心により候べし。全く日蓮がとがにあらず。
 水すめば月うつる、風ふけば木ゆるぐごとく、みなの御心は水のごとし、信のよは(弱)きは・にご(濁)るがごとし。信心のいさぎよきは・す(澄)めるがごとし。木は道理のごとし、風のゆるがすは経文をよむがごとしと・をぼしめせ。恐恐。

 如来は且らく之を置く、滅後一日より正像二千余年の間・仏の御使ひ二十四人なり。所謂第一は大迦葉・第二は阿難・第三は未田地(までんだい)・第四は商那和修・第五は毱多(きくた)・第六は提多迦(だいたか)・第七は弥遮迦(みしゃか)・第八は仏駄難提(ぶつだなんだい)・第九は仏駄密多(ぶつだみった)・第十は脇比丘(きょうびく)・第十一は富那奢(ふなしゃ)・第十二は馬鳴(めみょう)・第十三は毘羅(びら)・第十四は竜樹(りゅうじゅ)・第十五は提婆(だいば)・第十六は羅喉(らご)・第十七は僧佉難提(そうぎゃなんだい)・第十八は僧耶奢(そうぎゃやしゃ)・第十九は鳩摩羅駄(くまらだ)・第二十は闍夜那(じゃやな)・第二十一は盤駄(はんだ)・第二十二は摩奴羅(まぬら)・第二十三は鶴勒夜奢(かくろくやしゃ)・第二十四は師子尊者。
 此の二十四人は金口の記する所の付法蔵経に載す。但し小乗・権大乗経の御使ひなり、いまだ法華経の御使ひにはあらず。

 伝教大師云く「誰か福を捨て罪を慕う者あらんや」云云。福を捨てるとは天台大師を捨てる人なり、罪を慕うとは上に挙ぐる所の法相・三論・華厳・真言の元祖等なり。彼の諸師を捨て一向に天台大師を供養する人の其の福を今申すべし。

 三千大千世界と申すは東西南北・一須弥山・六欲梵天を一四天下となづく。百億の須弥山・四州等を小千と云う、小千の千を中千と云う、中千の千を大千と申す。此の三千大千世界を一にして四百万億那由佗国の六道の衆生を八十年やしなひ、法華経より外の已今当の一切経を一一の衆生に読誦せさせて、三明六通の阿羅漢・辟支仏(びゃくしぶつ)・等覚の菩薩となせる一人の檀那と、世間出世の財(たから)を一分も施さぬ人の法華経計りを一字・一句・一偈(いちげ)持(たも)つ人と相対して功徳を論ずるに、法華経の行者の功徳勝れたる事・百千万億倍なり。天台大師此れに勝れたる事五倍なり。かかる人を供養すれば福を須弥山につみ給うなりと・伝教大師ことはらせ給ひて候。此の由を女房には申させ給へ。恐恐謹言。

 此れを以て思うに法華経の人人は、正直の法につき給ふ故に釈迦仏・猶是をまほり給ふ。況んや垂迹の八幡大菩薩・争でか是をまほり給はざるべき。浄(きよ)き水なれども濁りぬれば月やどる事なし、糞水なれども・すめば影を惜み給はず。濁れる水は清けれども月やどらず、糞水はきたなけれども・すめば影を・をしまず。濁水は智者学匠の持戒なるが法華経に背くが如し、糞水は愚人の無戒なるが貪欲ふかく瞋恚強盛(しんに・ごうじょう)なれども・法華経計りを無二無三に信じまいらせて有るが如し。涅槃経と申す経には法華経の得道の者を列ねて候に、蜣蜋蝮蠍(こうろう・ふくかつ)と申して糞虫を挙げさせ給ふ。竜樹菩薩は法華経の不思議を書き給うに、昆虫と申して糞虫を仏になす等云云。又涅槃経に法華経にして仏になるまじき人をあげられて候には「一闡提の人の阿羅漢の如く大菩薩の如き」等云云。
 此等は濁水は浄けれども月の影を移す事なしと見えて候。されば八幡大菩薩は不正直をにくみて天にのぼり給うとも、法華経の行者を見ては争(いかで)か其の影をば・をしみ給うべき。我が一門は深く此の心を信ぜさせ給うべし。八幡大菩薩は此(ここ)にわたらせ給うなり。疑い給う事なかれ・疑い給う事なかれ。恐恐謹言。
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 しかるに今・日本国の四十五億八万九千六百五十九人の一切衆生、善導・慧心・永観・法然等の大天魔にたぼらかされて釈尊をなげすてて阿弥陀仏を本尊とす。あまりの物のくるわしさに十五日を奪い取つて阿弥陀仏の日となす。八日をまぎらかして薬師仏の日と云云。あまりに・をや(親)を・にく(憎)まんとて八幡大菩薩をば阿弥陀仏の化身と云云。大菩薩を・もてなすやうなれども・八幡の御かたきなり。知らずわ・さでもあるべきに、日蓮・此の二十八年が間・今此三界(こんし・さんがい)の文を引いて此の迷ひをしめせば、信ぜずは・さでこそ有るべきに、い(射)つ・き(切)つ・ころしつ・なが(流)しつ・お(遂)うゆへに八幡大菩薩、宅をやいてこそ天へは・のぼり給いぬらめ。日蓮が・かんがへて候し立正安国論此れなり。

 涅槃経に仏・未来を記して云く「爾の時に諸の賊、醍醐(だいご)を以ての故に・之に加うるに水を以てす。水を以てする事多きが故に乳・酪・醍醐一切倶(とも)に失す」等云云。

 然るに月氏より漢土に経を渡せる訳人(やくにん)は一百八十七人なり。其の中に羅什(らじゅう)三蔵一人を除きて前後の一百八十六人は純乳に水を加へ、薬に毒を入れたる人人なり。

 当世日本国の真言等の七宗並びに浄土・禅宗等の諸学者等、弘法・慈覚・智証等の法華経最第一の醍醐に、法華第二・第三等の私の水を入れたるを知らず。仏説の如くならば、いかでか一切倶失(くしつ)の大科を脱れん。大日経は法華経より劣る事七重なり、而るを弘法等・顛倒(てんどう)して大日経最第一と定めて日本国に弘通せるは、法華経一分の乳に大日経七分の水を入れたるなり。水にも非ず・乳にも非ず、大日経にも非ず・法華経にも非ず、而も法華経に似て大日経に似たり。
 大覚世尊此の事を涅槃経に記して云く「我が滅後に於て正法・将に滅尽せんと欲す。爾の時に多く悪を行ずる比丘有らん。乃至牧牛女(もくごにょ)の如く、乳を売るに多利を貪らんと欲するを為(もっ)ての故に二分の水を加う。乃至此の乳・水多し。爾の時に是の経閻浮提(えんぶだい)に於て当に広く流布すべし。是の時に当に諸の悪比丘有りて是の経を鈔略(しょうりゃく)し分かって多分と作し、能く正法の色香美味を滅すべし。是の諸の悪人・復是くの如き経典を読誦すと雖も・如来の深密の要義を滅除せん。乃至前(さき)を鈔(とり)て後(あと)に著(つ)け、後を鈔て前に著け、前後を中に著け、中を前後に著けん。当に知るべし是くの如きの諸の悪比丘は・是れ魔の伴侶なり」等云云。

 今日本国を案ずるに、代始まりて已に久しく成りぬ。旧き守護の善神は定めて福も尽き・寿も減じ・威光勢力も衰えぬらん。仏法の味をなめてこそ威光勢力も増長すべきに、仏法の味は皆たが(違)ひぬ、齢はたけぬ。争でか国の災ひを払い、氏子をも守護すべき。其の上謗法の国にて候を・氏神なればとて大科をいましめずして守護し候へば、仏前の起請(きしょう)を毀(やぶ)る神なり。しかれども氏子なれば愛子の失(とが)のやうに・すてずして守護し給いぬる程に、法華経の行者をあだむ国主・国人等を・対治を加えずして守護する失(とが)に依りて・梵釈等のためには八幡等は罰せられ給いぬるか。此事は一大事なり、秘すべし秘すべし。

 今之を案ずるに、日本小国の王となり・神となり給うは小乗には三賢の菩薩、大乗には十信、法華には名字五品の菩薩なり。何なる氏神有りて無尽の功徳を修すとも、法華経の名字を聞かず・一念三千の観法を守護せずんば、退位の菩薩と成りて永く無間大城に沈み候べし。

 而るに法華経の行者を怨(あだ)む人は人天の眼をくじる者なり。其の人を罰せざる守護神は一切の人天の眼をくじる者を結構し給う神なり。而るに弘法・慈覚・智証等は正しく書を作りて法華経を無明の辺域にして明の分位に非ず、後に望れば戯論(けろん)と作る。力者(りきしゃ)に及ばず・履者(はきもの)とりにたらずと・かきつけて四百余年、日本国の上(かみ)一人より下・万民にいたるまで法華経をあなづらせ、一切衆生の眼をくじる者を守護し給うはあに八幡大菩薩の結構にあらずや。
 去ぬる弘長と又去ぬる文永八年九月の十二日に・日蓮一分の失(とが)なくして南無妙法蓮華経と申す大科に・国主のはからいとして八幡大菩薩の御前にひきはらせて、一国の謗法の者どもに・わらわせ給いしは、あに八幡大菩薩の大科にあらずや。其のいましめと・をぼしきは・ただどしうち(同士打)ばかりなり。日本国の賢王たりし上・第一第二の御神なれば八幡に勝れたる神は・よもをはせじ、又偏頗(へんぱ)はよも有らじとは・をもへども、一切経並びに法華経のをきて(掟)のごときんば・この神は大科の神なり。

 「時に応じて尼倶律陀(にくりだ)大いに瞋忿(しんふん)を生ず」等云云。常のごときんば氏神に向いて大瞋恚(しんに)を生ぜん者は今生には身をほろぼし、後世には悪道に堕つべし。然りと雖も尼倶律陀長者・氏神に向て大悪口・大瞋恚を生じて大願を成就し・賢子をまうけ給いぬ。当に知るべし、瞋恚は善悪に通ずる者なり。

 只不軽(ふきょう)のごとく大難には値(あ)うとも・流布せん事疑ひなかるべきに、真言・禅・念仏者等の讒奏(ざんそう)に依りて無智の国主等・留難をなす。此を対治すべき氏神・八幡大菩薩、彼等の大科を治せざるゆへに日蓮の氏神を諌暁(かんぎょう)するは道理に背くべしや。
 我が弟子等が愚案に・をもわく、我が師は法華経を弘通し給うとてひろまらざる上、大難の来たれるは、真言は国をほろぼす・念仏は無間地獄・禅は天魔の所為・律僧は国賊と・の給うゆへなり。例せば道理有る問注(もんじゅう)に悪口(あっく)の・まじわれるがごとしと云云。
 日蓮我が弟子に反詰(はんきつ)して云く、汝若し爾(しか)らば我が問を答えよ。

 天竺(てんじく)国をば月氏国と申す、仏の出現し給うべき名なり。扶桑国(ふそうこく)をば日本国と申す、あに聖人出で給わざらむ。
 月は西より東に向へり、月氏の仏法の東へ流るべき相(そう)なり。日は東より出づ、日本の仏法の月氏へかへるべき瑞相なり。月は光あきらかならず、在世は但八年なり。日は光明(こうみょう)・月に勝(まさ)れり。五五百歳の長き闇を照すべき瑞相なり。
 仏は法華経謗法(ほうぼう)の者を治し給はず、在世には無きゆへに。末法には一乗の強敵(ごうてき)充満すべし、不軽(ふきょう)菩薩の利益(りやく)此れなり。各各我が弟子等、はげませ給へ・はげませ給へ。


 まことのみち(道)は世間の事法にて候。金光明経には「若し深く世法を識(し)らば即ち是れ仏法なり」ととかれ、涅槃経には「一切世間の外道の経書は皆是れ仏説にして外道の説に非ず」と仰せられて候を、妙楽大師は法華経の第六の巻の「一切世間の治生産業は皆実相と相い違背(いはい)せず」との経文に引き合せて心をあらわされて候には、彼れ彼れの二経は深心の経経なれども、彼の経経は・いまだ心あさくして法華経に及ばざれば、世間の法を仏法に依せてしらせて候。法華経はしからず。やがて世間の法が仏法の全体と釈せられて候。
 爾前の経の心心は、心より万法を生ず。譬へば心は大地のごとし、草木は万法のごとしと申す。法華経はしからず。心すなはち大地・大地則ち草木なり。爾前の経経の心は心のすむは月のごとし、心のきよきは花のごとし。法華経はしからず。月こそ心よ、花こそ心よと申す法門なり。
 此れをもつてしろしめせ、白米は白米にはあらず・すなはち命なり。 

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 御衣布(おんころもふ)並びに単衣布(ひとえぎぬふ)給(たび)候い了んぬ。
 抑(そもそも)食は命をつぎ、衣は身をかくす。食を有情に施すものは長寿の報をまねぎ、人の食を奪うものは短命の報をうく。衣を人にほどこさぬ者は世世・存生に裸形(らぎょう)の報をかん(感)ず、六道の中に人道已下は皆・形裸(かたち・はだか)にして生る、天は随生衣(ずいしょうえ)なり

 かるがゆへに今に日本国の寺寺、一万余三千余の社社、四十九億九万四千八百二十八人の一切衆生、皆彼の三大師の御弟子となりて法華最第一の経文、最第二・最第三と・をと(下)されて候なり。されども始めは失(とが)なきやうにて候へども、つゆ(滴)つもりて大海となり、ちり(塵)つもりて大山となる。



# by johsei1129 | 2026-04-23 20:37 | 血脈・相伝・講義 | Trackback | Comments(0)
2026年 04月 22日

弟子の心得 20


 法華経に云く「若し法を聞く者有らば一(ひとり)として成仏せざること無し」云云。
 文字は十字にて候へども法華経を一句よみまいらせ候へば・釈迦如来の一代聖教をのこりなく読むにて候なるぞ。
 故に妙楽大師の云く「若し法華を弘むるは凡そ一義を消するも、皆一代を混じて其の始末を窮めよ」等云云。
 始(し)と申すは華厳経・末(まつ)と申すは涅槃経。華厳経と申すは仏・最初成道の時、法慧・功徳林等の大菩薩・解脱月菩薩と申す菩薩の請(しょう)に趣いて仏前にて・とかれて候。其の経は天竺・竜宮城・兜率天(とそつてん)等は知らず、日本国にわたりて候は六十巻・八十巻・四十巻候。末と申すは大涅槃経、此れも月氏・竜宮等は知らず我が朝には四十巻・三十六巻・六巻・二巻等なり。此れより外の阿含経・方等経・般若経等は五千・七千余巻なり。此れ等の経経は見ず・きかず候へども、但法華経の一字・一句よみ候へば、彼れ彼れの経経を一字も・をとさず・よむにて候なるぞ。譬へば月氏・日本と申すは二字、二字に五天竺・十六の大国・五百の中国・十千の小国・無量の粟散国の大地・大山・草木・人畜等をさまれるがごとし。譬へば鏡はわづ(僅)かに一寸・二寸・三寸・四寸・五寸と候へども、一尺・五尺の人をもうかべ、一丈・二丈・十丈・百丈の大山をもうつす。
 
 されば故阿仏房の聖霊は今いづくにか・をはすらんと人は疑うとも、法華経の明鏡をもつて其の影をうかべて候へば、霊鷲山の山の中に多宝仏の宝塔の内に東むきにをはすと日蓮は見まいらせて候。

 故阿仏房一人を寂光の浄土に入れ給はずば、諸仏は大苦に堕ち給うべし。ただ・をいて物を見よ・ただをいて物を見よ。仏のまこと(実)そら(虚)事は、此れにて見奉るべし。

 尸陀(しだ)山の野干は仏法に値いて生をいとひ、死を願いて帝釈と生れたり。阿仏上人は濁世の身を厭(いと)いて仏になり給いぬ。其の子藤九郎守綱は此の跡をつぎて一向法華経の行者となりて、去年(こぞ)は七月二日・父の舎利を頚(くび)に懸け、一千里の山海を経て甲州・波木井(はきり)身延山に登りて法華経の道場に此れをおさめ、今年は又七月一日(ふづき・ついたち)身延山に登りて慈父のはかを拝見す。子にすぎたる財なし、子にすぎたる財なし。南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経。

 天台大師の摩訶止観に云く「身の黒色は地獄の陰に譬う」等云云。
 夫以(それ・おもん)みれば日蓮・幼少の時より仏法を学び候しが念願すらく、人の寿命(いのち)は無常なり、出る気(いき)は入る気を待つ事なし、風の前の露尚譬(なお・たと)えにあらず。 かしこきもはか(愚)なきも・老いたるも若きも定め無き習いなり。されば先(まず)臨終の事を習うて後に他事を習うべしと思いて一代聖教の論師・人師の書釈あらあらかんがへあつめて此を明鏡として・一切の諸人の死する時と並びに臨終の後とに引き向えてみ候へば・すこ(少)しもくもりなし。此の人は地獄に堕ち給う乃至人天とはみ(見)へて候を、世間の人人或は師匠父母等の臨終の相をかくして西方浄土往生とのみ申し候。
 悲いかな師匠は悪道に堕ちて多くの苦しみ・しのびがたければ、弟子はとどまりゐて師の臨終をさんだん(讃嘆)し・地獄の苦を増長せしむる。 譬へばつみふかき者を口をふさいで・きうもん(糾問)し、はれ(腫)物の口をあけずしてやま(悩)するがごとし。

 法華経の第七の巻に云く「我が滅度の後に於て応(まさ)に此の経を受持すべし。是の人仏道に於て決定(けつじょう)して疑有ること無けん」云云。
 一代の聖教いづれもいづれもをろかなる事は候はず、皆我等が親父・大聖教主釈尊の金言なり、皆真実なり、皆実語なり。其の中にをいて又小乗・大乗・顕教・密教・権大乗・実大乗あいわかれて候。仏説と申すは二天・三仙・外道・道士の経経にたいし候へば此等は妄語・仏説は実語にて候。此の実語の中に妄語あり・実語あり、綺語(きご)もあり、悪口もあり。其の中に法華経は実語の中の実語なり、真実の中の真実なり。真言宗と華厳宗と三論と法相と倶舎・成実と律宗と念仏宗と禅宗等は実語の中の妄語より立て出だせる宗宗なり。法華宗は此れ等の宗宗には・にるべくもなき実語なり。法華経の実語なるのみならず、一代妄語の経経すら法華経の大海に入りぬれば・法華経の御力にせめられて実語となり候。いわうや法華経の題目をや。
 白粉(おしろい)の力は漆(うるし)を変じて雪のごとく白くなす。須弥山に近づく衆色は皆金色なり。法華経の名号を持つ人は一生乃至過去遠遠劫の黒業の漆・変じて白業の大善となる。いわうや無始の善根皆変じて金色となり候なり。
 しかれば故聖霊、最後臨終に南無妙法蓮華経ととなへさせ給いしかば、一生乃至無始の悪業変じて仏の種となり給う。煩悩即菩提・生死即涅槃・即身成仏と申す法門なり。

 いうべし・悪心を・をこさんよりも、悪口を・なさんよりも・きらきらとして候経文を出だして汝が信じまいらせたる弘法大師の義をたすけよ。

 問うて云く、汝が此の義は・いかにして・をもひいだしけるぞや。
 答えて云く、伝教大師の釈に云く「当に知るべし此の文は、成仏する所の人を問うて此の経の威勢を顕すなり」と・かかれて候は上の提婆品の我於海中(がおかいちゅう)の経文を・かきのせてあそばして候。釈の心は・いかに人申すとも即身成仏の人なくば用ゆべからずと・かかせ給へり。いかにも純円一実の経にあらずば即身成仏は・あるまじき道理あり。

 教大師は分段の身を捨てても捨てずしても法華経の心にては即身成仏なり。覚大師の義は分段の身をすつれば即身成仏にあらずと・をもはれたるが、あへて即身成仏の義をしらざる人人なり。

 但し一切の諸法に亘りて名字あり。其の名字皆其の体徳を顕はせし事なり。例せば石虎将軍と申すは石の虎を射徹(いとお)したりしかば石虎将軍と申す。的立(まとだて)の大臣(おとど)と申すは鉄的(てってき)を射とをしたりしかば的立の大臣と名く。是皆名に徳を顕はせば今妙法蓮華経と申し候は一部八巻・二十八品の功徳を五字の内に収め候。譬へば如意宝珠の玉に万の宝を収めたるが如し。一塵(いちじん)に三千を尽す法門是なり。

 華厳宗・真言宗・念仏宗・律僧・禅僧等、我が身・持戒正直に智慧いみじく尊しといへども、其の身既に下剋上の家に生れて法華経の大怨敵となりぬ。阿鼻大城を脱るべきや。例せば九十五種の外道の内には正直有智の人多しといへども、二天・三仙の邪法を承けしかば・終には悪道を脱るる事なし。

 爾の時に馬鳴(めみょう)菩薩と申す仏子あり。十方の諸仏に祈願せしかば、白鳥則ち出で来たりて白馬則ち鳴けり。大王此を聞食(きこしめ)し・色も少し出で来たり、力も付き、はだへ(膚)もあざや(鮮)かなり。又白鳥・又白鳥と千の白鳥出現して千の白馬・一時に鶏(にわとり)の時をつくる様に鳴きしかば、大王此の声を聞食(きこしめ)し、色は日輪の如し・膚は月の如し・力は那羅延(ならえん)の如し・謀(はかりごと)は梵王の如し。爾の時に綸言(りんげん)汗の如く出でて返らざれば・一切の外道等其の寺を仏寺となしぬ。

 南無妙法蓮華経と心に信じぬれば、心を宿(やど)として釈迦仏懐まれ給う。始めはしらねども・漸く月重なれば心の仏・夢に見え、悦こばしき心・漸く出来し候べし。

 其の上・即身成仏と申す法門は世・流布の学者は皆一大事とたしなみ申す事にて候ぞ。就中(なかんずく)予が門弟は万事をさしをきて此の一事に心を留む可きなり。建長五年より今、弘安三年に至るまで二十七年の間、在在処処にして申し宣べたる法門繁多なりといへども所詮は只此の一途なり。

 夫れ先ず法華経の即身成仏の法門は竜女を証拠とすべし。
 提婆品に云く「須臾の頃(あいだ)に於て便ち正覚を成ず」等云云。乃至「変じて男子と成る」と。又云く「即ち南方無垢(むく)世界に往く」云云。伝教大師云く「能化の竜女も歴劫(りゃっこう)の行無く、所化の衆生も亦歴劫無し。能化所化倶に歴劫無し。妙法経力・即身成仏す」等云云。
 又法華経の即身成仏に二種あり。迹門は理具の即身成仏、本門は事の即身成仏なり。今本門の即身成仏は当位即妙・本有(ほんぬ)不改と断ずるなれば、肉身を其のまま本有無作の三身如来と云える是なり。此の法門は一代諸教の中に之無し。文句に云く「諸教の中に於て之を秘して伝えず」等云云。

 尚尚(なおなお)即身成仏とは迹門は能入の門、本門は即身成仏の所詮の実義なり。迹門にして得道せる人人・種類種(しゅるいじゅ)・相対種の成仏、何れも其の実義は本門寿量品に限れば常にかく観念し給へ、正観なるべし。

 我が身法華経の行者ならば霊山の教主釈迦・宝浄世界の多宝如来・十方分身の諸仏・本化(ほんげ)の大士・迹化(しゃっけ)の大菩薩・梵・釈・竜神・十羅刹女も定めて此の砌(みぎり)におはしますらん。水あれば魚すむ、林あれば鳥来たる、蓬莱(ほうらい)山には玉多く、摩黎(まり)山には栴檀生ず、麗水(れいすい)の山には金(こがね)あり。今此の所も此くの如し、仏菩薩の住み給う功徳聚(くどくじゅ)の砌(みぎり)なり。多くの月日を送り、読誦し奉る所の法華経の功徳は虚空(こくう)にも余りぬべし。
 然るを毎年・度度の御参詣には、無始の罪障も・定めて今生一生に消滅すべきか。弥(いよいよ)はげむべし・はげむべし。

 夫四十余年の大小・顕密の一切経・並びに真言・華厳・三論・法相・倶舎・成実・律・浄土・禅宗等の仏・菩薩・二乗・梵釈・日月及び元祖等は、法華経に随ふ事なくば何(いか)なる孝養をなすとも我則堕慳貪(が・そくだ・けんどん)の科(とが)・脱るべからず。故に仏・本願に趣いて法華経を説き給いき。而るに法華経の御座には父母ましまさざりしかば、親の生まれてまします方便土と申す国へ贈り給ひて候なり。
 其の御言に云く「而かも彼の土に於いて仏の智慧を求めて是の経を聞くことを得ん」等云云。
 此の経文は智者ならん人人は心をとどむべし。教主釈尊の父母の御ために説かせ給いて候経文なり。此の法門は唯天台大師と申せし人計りこそ知りて・をはし候ひけれ。其の外の諸宗の人人知らざる事なり。日蓮が心中に第一と思ふ法門なり。
 父母に御孝養の意あらん人人は法華経を贈り給べし。教主釈尊の父母の御孝養には法華経を贈り給いて候。

 無量義経の四十余年の文は不動明王の剣索(けんさく)・愛染明王の弓箭(きゅうせん)なり。 故(こ)南条五郎殿の死出の山・三途の河を越し給わん時、煩悩の山賊・罪業の海賊を静めて・事故なく霊山浄土へ参らせ給うべき御供の兵者(つわもの)は、無量義経の四十余年・未顕真実の文ぞかし。

 後七日を仏弟子に渡して祈らせしに、馬鳴(めみょう)と申す小僧一人あり。諸仏の御本尊とし給う法華経を以て七日祈りしかば、白鳥壇上に飛び来たる。此の鳥一声鳴きしかば一馬・一声いななく。大王は馬の声を聞いて病の牀(とこ)より・を(起)き給う。后より始めて諸人、馬鳴に向いて礼拝をなす。白鳥、一・二・三乃至・十・百・千・出来して国中に充満せり。白馬しきりにいななき、一馬・二馬・乃至百千の白馬いななきしかば、大王此の音(こえ)を聞こし食(め)し・面貌(かおかたち)は三十計り、心は日の如く、明らかに政(まつりごと)正直なりしかば、天より甘露ふり下り、勅風・万民をなびかして無量・百歳代(よ)を治め給いき。

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 抑(そもそも)故五郎殿かくれ給いて既に四十九日なり。無常はつねの習いなれども、此の事うち聞く人すら猶忍びがたし。況んや母となり妻となる人をや。心の中をしはかられて候。人の子には幼きもあり、長(おとなし)きもあり、みにく(醜)きもあり、かたわ(不具)なるもある物をすら・思いになるべかりけるにや。をのこご(男子)たる上、かたわ(不具)にもなし、ゆみやにもささいなし。故上野殿には壮(さかん)なりし時、をくれて歎き浅からざりしに、此の子を懐姙せずば



# by johsei1129 | 2026-04-22 16:32 | 血脈・相伝・講義 | Trackback | Comments(0)
2026年 04月 21日

弟子の心得 19

 
 かれは人の上とこそ・みしかども今は我等がみ(身)にかかれり。願くは我が弟子等、大願ををこせ。去年(こぞ)去去年(おととし)のやくびやうに死にし人人の・かずにも入らず。又当時・蒙古のせめに・まぬかるべしともみへず。とにかくに死は一定(いちじょう)なり。其の時のなげきは・たうじ(当時)のごとし。をなじくは、かりにも法華経のゆへに命をすてよ。つゆを大海にあつらへ、ちりを大地にうづむとをもへ。法華経の第三に云く「願くは此の功徳を以て普(あまね)く一切に及ぼし、我等と衆生と皆共に仏道を成ぜん」云云。恐恐謹言。
 十一月六日         日 蓮 花押
上野賢人殿御返事
 此れはあつわらの事のありがたさに申す御返事なり。

 当今は末法の始めの五百年に当りて候。かかる時刻に上行菩薩・御出現あつて南無妙法蓮華経の五字七字を日本国の一切衆生にさづけ給うべきよし・経文分明(ふんみょう)なり。又流罪・死罪に行わるべきよし明らかなり。日蓮は上行菩薩の御使ひにも似たり、此の法門を弘むる故に。
 神力品に云く「日月の光明の能く諸の幽冥(ゆうみょう)を除くが如く、斯(こ)の人世間に行じて能く衆生の闇を滅す」等云云。此の経文に斯人行世間(しにんぎょうせけん)の五(いつつ)の文字の中の・人の文字をば誰とか思(おぼ)し食(め)す。上行菩薩の再誕の人なるべしと覚えたり。
 経に云く「我が滅度の後に於て・応(まさ)に斯の経を受持すべし。是の人仏道に於て決定(けつじょう)して疑ひ有ること無けん」云云。貴辺も上行菩薩の化儀をたすくる人なるべし。

 日本国には伝教大師より始めて一向大乗戒を立つるなり。伝教已前には通受戒なり。
 通受戒とは小乗戒を受けては威儀を正し、大乗戒を受けては成仏を期するなり。大小乗の戒を兼ね受くるを通受戒と云ふ。

 疑って云はく、小乗の戒・梵網の戒に何ぞ生身の如来・来たらざるや。
 答へて云はく、小乗の釈迦は灰身滅智(けしんめっち)の仏なり。生身既に破れたり。譬へば水瓶(すいびょう)に清水を入れて他の全瓶に移すが如し。本瓶は既に破れぬ。小乗の釈迦は五分法身の水を以て迦葉・阿難等の全瓶に移して、仏既に灰断(けだん)に入り了んぬ。

 迹門の戒は爾前大小の諸戒には勝ると雖も而も本門戒には及ばざるなり。
 十重禁とは、一には不殺生戒、二には不偸盗戒(ふちゅうとうかい)、三には不邪淫戒、四には不妄語戒、五には不酤酒(ふこしゅ)戒、六には不説四衆過罪戒、七には不自讃毀他(ふじさんきた)戒、八には不慳貪(ふけんどん)戒、九には不瞋恚(ふしんに)戒、十には不謗三宝戒なり。

 謗三宝戒とは、爾前の諸経の心は、仏は不謗三宝戒を持つと説けり。然りと雖も法華の意は、爾前の仏は謗三宝第一なり。所以は何(いかん)。爾前の仏は一往世間の不謗三宝戒を持つに似たりと雖も、未だ出世の不謗三宝戒を持たず。二乗・闡提等の九界の衆生の三宝を謗(そし)りて成仏せしめず。能化の仏・未だ謗三宝罪を免れず、何に況んや所化の弟子をや。然るを今の経に悉く成仏せしむ云云。今身より仏身に至るまで、爾前の謗三宝罪を捨て、法華寿量品の久遠の不謗三宝戒を持つや不や、持つと三返。

 法華経の御敵を御帰依有りしかども是を知る人なければ其の失を知る事もなし。「知人は起を知り、蛇は自ら蛇を識る」とは是なり。日蓮は智人に非ざれども蛇は竜の心を知り、烏(からす)の世の吉凶を計るが如し。此の事計りを勘へ得て候なり。此の事を申すならば須臾に失に当るべし。申さずば又大阿鼻地獄に堕つべし。

 法華経を習うには三の義あり。一には謗人。勝意比丘・苦岸比丘・無垢(むく)論師・大慢婆羅門等が如し。彼等は三衣(さんね)を身に纒(まと)い、一鉢を眼に当てて二百五十戒を堅く持ちて而も大乗の讎敵(しゅうてき)と成りて無間大城に堕ちにき。今日本国の弘法・慈覚・智証等は、持戒は彼等が如く・智慧は又彼(かの)比丘に異ならず。但大日経真言第一・法華経第二・第三と申す事、百千に一つも日蓮が申す様ならば無間大城にやおはすらん。
 此の事は申すも恐れあり。増して書き付くるまでは如何と思い候へども法華経最第一と説かれて候に、是を二三等と読まん人を聞いて人を恐れ・国を恐れて申さずば即是彼怨(そくぜひおん)と申して一切衆生の大怨敵なるべき由・経と釈とにのせられて候へば申し候なり。人を恐れず世を憚(はば)からず云う事・我不愛身命・但惜(たんじゃく)無上道と申すは是なり。不軽菩薩の悪口杖石(あっく・じょうしゃく)も他事に非ず。世間を恐れざるに非ず、唯法華経の責めの苦(ねんごろ)なればなり。例せば祐成(すけなり)・時宗が大将殿の陣の内を簡(えら)ばざりしは、敵の恋しく、恥の悲しかりし故ぞかし。此れは謗人なり。
 謗家と申すは都て一期(いちご)の間法華経を謗せず、昼夜十二時に行ずれども謗家に生れぬれば必ず無間地獄に堕つ。例せば勝意比丘・苦岸比丘の家に生まれて或は弟子となり、或は檀那と成りし者共が・心ならず無間地獄に堕ちたる是なり。譬えば義盛が方の者・軍(いくさ)をせし者はさて置きぬ、腹の内に有りし子も産(うむ)を待たれず母の腹を裂かれしが如し。

 謗国と申すは謗法の者・其の国に住すれば其の一国皆無間大城になるなり。大海へは一切の水集まり、其の国は一切の禍(わざわい)集まる。譬えば山に草木の滋(しげ)きが如し。三災月月に重なり・七難日日に来る。飢渇発(けかち・おこ)れば其の国餓鬼道と変じ、疫病重なれば其の国地獄道となる、軍(いくさ)起れば其の国修羅道と変ず。父母・兄弟・姉妹をば簡(えらば)ず妻とし夫と憑(たの)めば其の国畜生道となる。死して三悪道に堕つるにはあらず、現身に其の国四悪道と変ずるなり。此れを謗国と申す。

 慈恩大師は玄賛十巻を造りて法華経を讃めて地獄に堕つ。此の人は太宗皇帝の御師・玄奘三蔵の上足・十一面観音の後身と申すぞかし。音(こえ)は法華経に似たれども心は爾前の経に同ずる故なり。嘉祥(かじょう)大師は法華玄十巻を造りて既に無間地獄に堕つべかりしが、法華経を読む事を打ち捨てて天台大師に仕えしかば地獄の苦を脱れ給いき。

 悲いかな我等誹謗正法の国に生れて大苦に値はん事よ。設い謗身は脱ると云うとも謗家謗国の失・如何せん。謗家の失を脱れんと思はば父母・兄弟等に此の事を語り申せ。或は悪まるるか・或は信ぜさせまいらするか。謗国の失を脱れんと思はば国主を諌暁し奉りて死罪か流罪かに行(おこな)わるべきなり。我不愛身命・但惜無上道と説かれ、身軽法重・死身弘法と釈せられし是なり。過去遠遠劫より今に仏に成らざりける事は加様の事に恐れて云い出さざりける故なり。未来も亦復是くの如くなるべし。今日蓮が身に当りてつみ知られて候。
 設い此の事を知る弟子等の中にも当世の責(せめ)のおそろしさと申し、露の身の消え難きに依りて・或は落ち、或は心計りは信じ、或はとかうす。御経の文に難信難解と説かれて候が身に当つて貴く覚え候ぞ。謗ずる人は大地微塵の如し、信ずる人は爪上(そうじょう)の土の如し。謗ずる人は大海・進む人は一てい(渧)なり。

 常に仏・禁(いま)しめて言く、何なる持戒・智慧高く御坐(おわ)して一切経並びに法華経を進退せる人なりとも、法華経の敵を見て責め罵(の)り、国主にも申さず・人を恐れて黙止するならば・必ず無間大城に堕つべし。譬えば我は謀叛を発(おこ)さねども、謀叛の者を知りて国主にも申さねば・与同罪は彼の謀叛の者の如し。
 南岳大師の云く「法華経の讎(あだ)を見て呵責(かしゃく)せざる者は謗法の者なり。無間地獄の上に堕ちん」と。
 見て申さぬ大智者は無間の底に堕ちて彼の地獄の有らん限りは出(い)ずべからず。日蓮・此の禁めを恐るる故に国中を責めて候程に、一度ならず流罪・死罪に及びぬ。今は罪も消え・過(とが)も脱れなんと思いて・鎌倉を去りて此の山に入つて七年なり。
        [秋元御書]

 生の難は仏法の定例(じょうれい)・聖賢の御繁盛の花なり。死の後の恥辱(ちじょく)は悪人・愚人・誹謗正法の人・招くわざわいなり。所謂大慢ばら門・須利(しゅり)等なり。
 粗此れを勘えたるに明雲より一向に真言の座主となりて後、今三十余代一百余年が間、一向真言の座主にて法華経の所領を奪えるなり。しかれば此等の人人は釈迦・多宝・十方の諸仏の大怨敵、梵釈・日月・四天・天照太神・正八幡大菩薩の御讎敵(おん・かたき)なりと見えて候ぞ。我が弟子等・此の旨を存じて法門を案じ給うべし。恐々謹言。

 縦ひ世間の悪業衆罪は須弥(しゅみ)の如くなれども、此の経にあひ奉りぬれば諸罪は霜露の如くに法華経の日輪に値い奉りて消ゆべし。
 然れども此の経の十四謗法の中に、一も二も・をか(犯)しぬれば其の罪消えがたし。所以(ゆえん)は何(いか)ん。一大三千界のあらゆる有情を殺したりとも、争か一仏を殺す罪に及ばんや。法華の心に背きぬれば十方の仏の命を失ふ罪なり。此の・をきてに背くを謗法の者とは申すなり。
 地獄おそるべし・炎を以て家とす、餓鬼悲むべし・飢渇にうへて子を食らふ。修羅は闘諍なり。畜生は残害とて互ひに殺しあふ。紅蓮(ぐれん)地獄と申すはくれなゐのはちすとよむ。其の故は余りに寒につ(詰)められてこごむ間、せなか(背中)われて肉の出でたるが紅の蓮に似たるなり。況んや大紅蓮をや。かかる悪所にゆけば王位将軍も物ならず。獄卒の呵責(かしゃく)にあへる姿は猿をまはすに異ならず。此の時は争(いかで)か名聞名利・我慢偏執(がまんへんしゅう)有るべきや。

此の経の行者を一度供養する功徳は、釈迦仏を直ちに八十億劫が間・無量の宝を尽して供養せる功徳に百千万億勝れたりと仏は説かせ給いて候。此の経にあひ奉りぬれば悦び身に余り、左右の眼に涙浮びて釈尊の御恩報じ尽しがたし。かやうに此の山まで度度の御供養は、法華経並びに釈迦尊の御恩を報じ給うに成るべく候。弥(いよいよ)はげませ給うべし、懈(おこた)ることなかれ。皆人の此の経を信じ始むる時は信心有る様に見え候が、中程(なかほど)は信心もよはく、僧をも恭敬(くぎょう)せず、供養をもなさず、自慢して悪見をなす。これ恐るべし・恐るべし。始めより終りまで弥(いよいよ)信心をいたすべし。さなくして後悔やあらんずらん。譬えば鎌倉より京へは十二日の道なり。それを十一日余り歩みをはこびて・今一日に成りて歩みを・さしをきては、何として都の月をば詠(なが)め候べき。何としても此の経の心をしれる僧に近づき、弥(いよいよ)法の道理を聴聞して信心の歩みを運ぶべし。

無常の虎のなく音(こえ)は耳にちかづくといへども聞いて驚くことなし。屠所(としょ)の羊の今・幾日か無常の道を歩まん。雪山の寒苦鳥は寒苦にせめられて夜・明(あけ)なば栖つくらんと鳴くといへども、日出でぬれば朝日のあたたかなるに眠り忘れて・又栖をつくらずして一生虚く鳴くことをう。一切衆生も亦復是くの如し。地獄に堕ちて炎にむせぶ時は、願くは今度人間に生れて諸事を閣(さしお)ひて三宝を供養し、後世菩提をたすからんと願へども、たまたま人間に来たる時は、名聞名利の風はげしく、仏道修行の灯(ともしび)は消えやすし。無益の事には財宝をつくすにおしからず。仏法僧にすこしの供養をなすには是を・ものうく思ふ事、これただごとにあらず。地獄の使ひの・きを(競)ふものなり。寸善尺魔と申すは是なり。

春日大明神の御託宣に云く、飯に銅の炎をば食すとも、心穢(けが)れたる人の物をうけじ。座に銅の焔(ほのお)には坐すとも、心汚れたる人の家にはいたらじ、草の廊(ろう)・萱(かや)の軒にはいたるべしと云へり。縦令(たとい)千日のしめを引くとも、不信の所には至らじ。重服深厚の家なりとも有信の所には至るべし云云。是くの如く善神は此の謗法の国をばなげきて天に上(のぼ)らせ給いて候。心けがれたると申すは法華経を持たざる人の事なり。此の経の五の巻に見えたり。謗法の供養をば銅の焔とこそおほせられたれ。神だにも是くの如し。況んや我等凡夫としてほむら(焔)をば食すべしや。人の子として我が親を殺したらんものの、我に物をえ(得)させんに是を取るべきや。いかなる智者・聖人も無間地獄を遁(のが)るべからず。又それにも近づくべからず。与同罪恐るべし・恐るべし。

今生身の如来の如くにみえたる極楽寺の良観房よりも、此の経を信じたる男女は座席を高く居(すゆ)ること・こそ候へ。彼の二百五十戒の良観房も、日蓮に会いぬれば腹をたて眼をいからす。是ただごとにはあらず。智者の身に魔の入りかはればなり。譬えば本性よき人なれども、酒に酔いぬればあしき心出来し・人の為にあしきが如し。

天照太神・八幡大菩薩・天に上らせ給はば、其の余の諸神争でか社に留まるべき。縦ひ捨てじと思食すとも・霊山のやくそくのままに某・呵責し奉らば、一日も・やはかおはすべき。譬えば盗人の候に、知れぬ時はかしこ(彼処)や・ここに住み候へども、能く案内知りたる者の・是こそ盗人と・ののしり・どめけば、おもはぬ外に栖を去るが如く、某にささ(支)へられて社をば捨て給ふ。然るに此の国・思いの外に悪鬼神の住家(すみか)となれり。哀れなり・哀れなり。

 此の経の信心と申すは、少しも私なく経文の如くに人の言(ことば)を用ひず、法華一部に背く事無ければ仏に成り候ぞ。仏に成り候事は別の様は候はず。南無妙法蓮華経と他事なく唱へ申して候へば、天然と三十二相・八十種好を備うるなり。如我等無異と申して・釈尊程の仏にやすやすと成り候なり。

 今時の禅宗は大段、仁・義・礼・智・信の五常に背けり。有智(うち)の高徳をおそ(畏)れ、老いたるを敬ひ、幼きを愛するは内外典の法なり。然るを彼の僧家の者を見れば、昨日今日まで田夫野人(でんぷ・やじん)にして黒白を知らざる者も、かちん(褐色)の直綴(じきとつ)をだにも著(き)つれば・うち慢じて・天台真言の有智・高徳の人をあなづり、礼をもせず其の上に居らんと思うなり。是れ傍若無人にして畜生に劣れり。爰を以て伝教大師の御釈に云く、川獺(せんだつ)祭魚のこころざし、林烏(りんう)父祖の食を通ず、鳩鴿(きゅうごう)三枝の礼あり、行雁・連(こうがん・つら)を乱らず、羔羊・踞(こうよう・うずくま)りて乳を飲む。賤しき畜生すら礼を知ること是くの如し。何ぞ人倫に於て其の礼なからんやと・あそばされたり 取意。彼等が法に迷ふ事道理なり。人倫にしてだにも知らず、是れ天魔破旬(はじゅん)のふるまひにあらずや。
是等の法門を能く能く明らめて、一部八巻廿八品を頭(こうべ)にいただき、懈(おこた)らず行なひ給へ。又某を恋しくおはせん時は日日に日を拝ませ給へ。某は日に一度・天の日に影(かげ)をうつす者にて候。
 此の僧によませ・まひらせて聴聞あるべし。此の僧を解悟(げご)の智識と憑(たの)み給いて・つねに法門御たづね候べし。聞かずんば争でか迷闇の雲を払はん、足なくして争でか千里の道を行かんや。返す返す此の書をつねによませて御聴聞あるべし。事事・面の次(ついで)を期し候間、委細には申し述べず候。穴賢穴賢。

易信易解は随他意の故なり。難信難解は随自意の故なり云云。

日蓮読んで云く、外道の経は易信易解・小乗経は難信難解。小乗経は易信易解・大日経等は難信難解。大日経等は易信易解・般若経は難信難解なり。般若と華厳と・華厳と涅槃と・涅槃と法華と・迹門と本門と・重重の難易あり。
 問うて云く、此の義を知つて何の詮か有る。
 答えて云く、生死の長夜を照す大燈(だいとう)・元品の無明を切る利剣は此の法門に過ぎざるか。随他意とは真言宗・華厳宗等は随他意、易信易解なり。仏・九界の衆生の意楽(いぎょう)に随つて説く所の経経を随他意という。譬えば賢父が愚子に随うが如し。仏・仏界に随つて説く所の経を随自意という。譬へば聖父が愚子を随えたるが如きなり。日蓮此の義に付いて大日経・華厳経・涅槃経等を勘え見候に皆随他意の経経なり。

諸経の如くんば、人は五戒・天は十善・梵は慈悲喜捨・魔王には一無遮(いちむしゃ)・比丘の二百五十・比丘尼の五百戒・声聞には四諦(したい)・縁覚には十二因縁・菩薩には六度なり。譬へば水の器(うつわ)の方円に随い、象の敵に随つて力を出だすがごとし。
 法華経は爾らず。八部・四衆皆一同に法華経を演説す。譬へば定木(じょうぎ)の曲りを削り、師子王の剛弱を嫌わずして大力を出すがごとし。此の明鏡を以て一切経を見聞するに、大日の三部・浄土の三部等隠れ無し。
 而るを・いかにやしけん。弘法・慈覚・智証の御義を本としける程に、此の義すでに日本国に隠没して四百余年なり。珠をもつて石にかへ、栴檀(せんだん)を凡木にうれり。仏法やうやく顛倒しければ世間も又濁乱せり。仏法は体のごとし、世間はかげのごとし。体曲れば影ななめなり。

諸大乗経の煩悩即菩提・生死即涅槃の即身成仏の法門はいみじく・をぞたかき・やうなれども此れはあえて即身成仏の法門にはあらず。其の心は二乗と申す者は鹿苑(ろくおん)にして見思(けんじ)を断じて・いまだ塵沙無明(じんじゃ・むみょう)をば断ぜざる者が、我は已に煩悩を尽したり。無余に入りて灰身滅智(けしんめっち)の者となれり。灰身なれば即身にあらず、滅智なれば成仏の義なし。されば凡夫は煩悩業もあり、苦果の依身も失う事なければ煩悩業を種として報身・応身ともなりなん。苦果あれば生死即涅槃とて法身如来ともなりなんと・二乗をこそ弾呵(だんか)せさせ給いしか。さればとて煩悩・業・苦が三身の種とはなり候はず。
 今法華経にして有余・無余の二乗が無き煩悩・業・苦をとり出して即身成仏と説き給う時、二乗の即身成仏するのみならず凡夫も即身成仏するなり。此の法門をだにも・くはしく案じほどかせ給わば、華厳・真言等の人人の即身成仏と申し候は依経に文は候へども・其の義はあえてなき事なり。僻事(ひがごと)の起こり此れなり。

羅什は舌やけず、不空は舌やけぬ。妄語はやけ、実語はやけぬ事顕然なり。月支より漢土へ経論わたす人・一百七十六人なり。其の中に羅什一人計りこそ教主釈尊の経文に私の言入れぬ人にては候へ。一百七十五人の中・羅什より先後・一百六十四人は羅什の智をもつて知り候べし。羅什来たらせ給いて前後一百六十四人が誤りも顕はれ、新訳の十一人が誤りも顕はれ、又こざかしくなりて候も羅什の故なり。此れ私の義にはあらず。感通伝に云く「絶後光前」と云云。前を光らすと申すは後漢より後秦までの訳者、後を絶すと申すは羅什已後・善無畏・金剛智・不空等も羅什の智をうけて・すこしこざかしく候なり。

 感通伝に云く「已下の諸人並びに皆俊(しゅん)なり」されば此の菩提心論の唯の文字は設い竜樹の論なりとも不空の私の言なり。何に況んや次下に「諸教の中に於て闕(か)いて書せず」と・かかれて候、存外のあやまりなり。
 即身成仏の手本たる法華経をば指(さし)をいて、あとかたもなき真言に即身成仏を立て・剰(あまつさ)え唯の一字を・をかるる条・天下第一の僻見(びゃっけん)なり。此れ偏に修羅根性の法門なり。天台智者大師の文句の九に寿量品の心を釈して云く「仏三世に於て等しく三身有り。諸教の中に於て之を秘して伝えず」とかかれて候。此れこそ即身成仏の明文にては候へ。不空三蔵・此の釈を消さんが為に事を竜樹に依せて「唯真言の法の中にのみ即身成仏するが故に是の三摩地の法を説く。諸教の中に於て闕(か)いて書せず」とかかれて候なり。されば此の論の次下に即身成仏をかかれて候が・あへて即身成仏にはあらず、生身得忍に似て候。此の人は即身成仏は・めづらしき法門とはきかれて候へども即身成仏の義はあへて・うかがわぬ人人なり。いかにも候へば二乗成仏・久遠実成を説き給う経にあるべき事なり。天台大師の「於諸教中・秘之不伝」の釈は千且(しゃ)千且。恐恐。
 外典三千余巻は政当(せいどう)の相違せるに依つて代は濁ると明す、内典五千・七千余巻は仏法の僻見(びゃっけん)に依つて代濁るべしとあかされて候。今の代は外典にも相違し、内典にも違背せるかのゆへに、この大科・一国に起りて已に亡国とならむとし候か。不便(ふびん)不便。



# by johsei1129 | 2026-04-21 05:46 | 血脈・相伝・講義 | Trackback | Comments(0)
2026年 04月 18日

弟子の心得 18

 
 去(い)ぬる建長五年 太歳癸丑 四月二十八日に安房の国・長狭郡(ながさごおり)の内・東条の郷、今は郡(こおり)なり。天照太神の御くりや(厨)・右大将(うたいしょうけ)家の立て始め給いし日本第二のみくりや・今は日本第一なり。
 此の郡(こおり)の内・清澄寺と申す寺の諸仏坊の持仏堂の南面にして・午(うま)の時に此の法門申しはじめて今に二十七年、弘安二年 太歳己卯 なり。仏は四十余年・天台大師は三十余年・伝教大師は二十余年に出世の本懐を遂げ給う。其の中の大難申す計りなし。先先に申すがごとし。余は二十七年なり。其の間の大難は各各かつ(且)しろしめせり。

 設い大鬼神のつける人なりとも、日蓮をば梵釈・日月・四天等・天照太神・八幡の守護し給うゆへに・ばつ(罰)しがたかるべしと存じ給うべし。月月・日日につよ(強)り給へ、すこしもたゆ(撓)む心あらば魔たよりをうべし。
 我等凡夫のつたなさは、経論に有る事と遠き事はおそるる心なし。一定(いちじょう)として平等(へいら)も城等(じょうら)もいかりて此の一門をさんざんとなす事も出来せば・眼をひさ(塞)いで観念せよ。当時の人人のつくし(筑紫)へ・かさ(枷鎖)されんずらむ、又ゆく人・又かしこに向える人人を我が身にひきあてよ。当時までは此の一門に此のなげきなし。彼等はげん(現)はかくのごとし、殺されば又地獄へゆくべし。我等現には此の大難に値うとも後生は仏になりなん。設えば灸治(やいと)のごとし。当時はいた(痛)けれども・後の薬なれば・いた(疼)くていたからず。

 穴賢穴賢。此の旨を存じ問注の時・強強(つよづよ)と之を申さば定めて上聞(じょうもん)に及ぶ可きか。又行智・証人立て申さば、彼等の人人・行智と同意して百姓等が田畠数十苅り取る由・之を申せ。若し又証文を出さば謀書(ぼうしょ)の由・之を申せ。事事証人の起請文を用ゆべからず。但し現証の殺害刄傷而已(のみ)。若し其の義に背く者は日蓮の門家に非ず、日蓮の門家に非ず候。恐恐。
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 駿河の国・富士下方(しもかた)滝泉寺の大衆・越後房日弁・下野房(しもずけぼう)日秀等謹んで弁言す。当寺院主代・平左近入道行智・条条の自科を塞(ふさ)ぎ・遮(さえぎ)らんが為に不実の濫訴(らんそ)を致す謂れ無き事。
 訴状に云く、日秀・日弁・日蓮房の弟子と号し、法華経より外の余経或は真言の行人は皆以て今世・後世叶う可からざるの由・之を申す云云 取意
 此の条は日弁等の本師日蓮聖人・去(いぬ)る正嘉以来の大彗星・大地動等を観見し一切経を勘えて云く、当時日本国の体(てい)たらく、権小に執著し実経を失没せるの故に当に前代未有の二難を起すべし所謂自界叛逆難・他国侵逼難なり。仍(よっ)て治国の故を思い、兼日(かねて)彼の大災難を対治せらる可きの由、去る文応年中・一巻の書を上表す。立正安国論と号す 勘え申す所・皆以て符合す。既に金口(きんく)の未来記に同じ、宛(あたか)も声と響(ひびき)との如し。
 外書に云く「未萠(みぼう)を知るは聖人なり」内典に云く「智人は起を知り、蛇は自ら蛇を知る」云云。
 之を以て之を思うに本師は豈聖人なるかな。巧匠(こうしょう)内に在り、国宝外に求む可からず。
 外書に云く「隣国に聖人有るは敵国の憂(うれい)なり」云云。内経に云く「国に聖人有れば天・必ず守護す」云云。外書に云く「世必ず聖智の君有り、而して復賢明の臣有り」云云。
 此の本文を見るに聖人・国に在るは日本国の大喜にして蒙古国の大憂なり。諸竜を駆り催して敵舟を海に沈め、梵釈に仰せ付けて蒙王を召し取るべし。君既に賢人に在(ましま)さば、豈(あに)聖人を用いずして徒(いたずら)に他国の逼(せめ)を憂えん。

 伯耆房(ほうきぼう)等、深く此の旨を存じて問注を遂(と)ぐ可し。平金吾に申す可き様は、文永の御勘気の時・聖人の仰せ忘れ給うか、其の殃(わざわい)未だ畢(おわ)らず重ねて十羅刹の罰を招き取るか。最後に申し付けよ。恐恐謹言。

 夫れ運きはまりぬれば兵法もいらず、果報つきぬれば所従もしたがはず。

 彼の天は剣形(けんぎょう)を貴辺にあたへ此(ここ)へ下(くだ)りぬ。此の日蓮は首題の五字を汝にさづく、法華経受持のものを守護せん事疑ひあるべからず。まりし天も法華経を持ちて一切衆生をたすけ給う。「臨兵闘者皆陣列在前(りんぴょうとうしゃ・かいじんれつざいぜん)」の文も法華経より出でたり。「若説俗間経書・治世語言・資生業等・皆順正法」とは是なり。
 これに・つけても・いよいよ強盛に大信力をいだし給へ。我が運命つきて諸天守護なしとうらむる事あるべからず。
将門は・つはものの名をとり・兵法の大事をきはめたり。されども王命にはまけぬ。はんくわひ(樊噲)・ちやうりやう(張良)もよしなし・ただ心こそ大切なれ。いかに日蓮いのり申すとも不信ならば、ぬ(濡)れたる・ほくちに・火をうちかくるが・ごとくなるべし。
 はげみをなして強盛に信力をいだし給うべし。すぎし存命不思議とおもはせ給へ。なにの兵法よりも法華経の兵法をもちひ給うべし。「諸余怨敵・皆悉摧滅」の金言むなしかるべからず。兵法剣形の大事も此の妙法より出でたり。ふかく信心をとり給へ、あへて臆病にては叶うべからず候。恐恐謹言。

 又夢をば権と云い、寤をば実と云うなり。是の故に夢は仮に有つて体性無し。故に名けて権と云うなり。寤は常住にして不変の心の体なるが故に此れを名けて実と為す。故に四十二年の諸の経教は生死(しょうじ)の夢の中の善悪の事を説く、故に権教と言う。夢中の衆生を誘引し驚覚して法華経の寤と成さんと思食(おぼしめ)しての支度方便の経教なり。故に権教と言う。斯れに由つて文字の読みを糾して心得可きなり。故に権をば権(かり)と読む。権なる事の手本には夢を以て本と為す。又実をば実(まこと)と読む。実事の手本は寤(うつつ)なり。故に生死の夢は権にして性体無ければ権なる事の手本なり。故に妄想(もうぞう)と云う。本覚の寤は実にして生滅を離れたる心なれば真実の手本なり。故に実相と云う。是を以て権実の二字を糾して一代聖教の化他の権と自行の実との差別を知る可きなり。故に四教の中には前の三教と五時の中には前の四時と十法界の中には前の九法界は同じく皆夢中の善悪の事を説くなり。故に権教と云う。此の教相をば無量義経に「四十余年未顕真実と説き給う」已上

 故に止観に云く「前の三教の四弘・能も所も泯(みん)す」已上
 四弘とは衆生の無辺なるを度せんと誓願し、煩悩の無辺なるを断ぜんと誓願し、法門の無尽なるを知らんと誓願し、無上菩提を証せんと誓願す。此を四弘(しぐ)と云う。能とは如来なり、所とは衆生なり。此の四弘は能の仏も所の衆生も前三教は皆夢中の是非なりと釈し給えるなり。

 故に守護国界章に云く「有為の報仏は夢中の権果 前三教の修行の仏、無作(むさ)の三身は覚前の実仏なり 後の円教の観心の仏」又云く「権教の三身は未だ無常を免れず 前三教の修行の仏 実教の三身は倶体倶用なり 後の円教の観心の仏
 此の釈を能く能く意得(こころう)可きなり。権教は難行苦行して適(たまたま)仏に成りぬと思えば夢中の権(かり)の仏なれば本覚の寤の時には実仏無きなり。極果の仏無ければ有教無人なり。況んや教法実ならんや。之を取つて修行せんは聖教に迷えるなり。此の前三教には仏に成らざる証拠を説き置き給いて末代の衆生に慧解(えげ)を開かしむるなり。

 是の方便の教は唯穢土(えど)に有つて総じて浄土には無きなり。
 法華経に云く「十方の仏土の中には唯一乗の法のみ有つて二無く亦三も無し。仏の方便の説をば除く」已上
 故に知んぬ、十方の仏土に無き方便の教を取つて往生の行と為し、十方の浄土に有る一乗の法をば之を嫌いて取らずして成仏す可き道理・有る可しや否や。
 一代の教主釈迦如来・一切経を説き勘文し給いて言く、三世の諸仏同様に一つ語(ことば)一つ心に勘文し給える説法の儀式なれば、我も是くの如く一言も違わざる説教の次第なり云云。
 方便品に云く「三世の諸仏の説法の儀式の如く、我も今亦是くの如く無分別の法を説く」已上。
 無分別の法とは一乗の妙法なり。善悪を簡(えら)ぶこと無く、草木・樹林(じゅりん)・山河・大地にも一微塵の中にも互ひに各十法界の法を具足す。我が心の妙法蓮華経の一乗は十方の浄土に周遍して闕(か)くること無し。十方の浄土の依報・正報の功徳荘厳は我が心の中に有つて片時も離るること無き三身即一の本覚の如来にて・是の外(ほか)には法無し。此の一法計り十方の浄土に有りて余法有ること無し。故に無分別法と云う是なり。此の一乗妙法の行をば取らずして全く浄土には無き方便の教を取つて成仏の行と為さんは迷いの中の迷いなり。我・仏に成りて後に穢土に立ち還りて穢土の衆生を仏法界に入らしめんが為に次第に誘引して方便の教を説くを化他の教とは云うなり。故に権教と言い又方便とも云う。化他の法門の有様・大体略を存して斯くの如し。

 仏は寤の人の如く・衆生は夢見る人の如し。故に生死の虚夢(こむ)を醒して本覚の寤に還るを即身成仏とも・平等大慧とも・無分別法とも・皆成仏道とも云う。只一つの法門なり。
 十方の仏土は区(まちまち)に分れたりと雖も通じて法は一乗なり。方便無きが故に無分別法なり。十界の衆生は品品に異なりと雖も・実相の理(ことわり)は一なるが故に無分別なり。百界千如・三千世間の法門殊なりと雖も十界互具するが故に無分別なり。夢と寤と虚と実と各別異(おのおの・べつい)なりと雖も一心の中の法なるが故に無分別なり。過去と未来と現在とは三なりと雖も・一念の心中の理(ことわり)なれば無分別なり。

 月の如くなる妙法の心性の月輪と・風の如くなる我が心の般若の慧解(えげ)とを訓え知らしむるを妙法蓮華経と名く。
 故に釈籤(しゃくせん)に云く「声色(しょうしき)の近名(ごんみょう)を尋ねて無相の極理に至る」と已上。
 声色の近名とは扇と樹との如くなる夢中の一切経論の言説なり。無相の極理とは月と風との如くなる寤の我が身の心性の寂光の極楽なり。
 此の極楽とは十方法界の正報の有情と十方法界の依報の国土と和合して一体三身即一なり。四土不二にして法身の一仏なり。十界を身と為すは法身(ほっしん)なり、十界を心と為すは報身なり、十界を形と為すは応身なり。十界の外(ほか)に仏無し・仏の外に十界無くして依正不二(えしょうふに)なり・身土不二なり。一仏の身体なるを以て寂光土と云う。是の故に無相の極理とは云うなり。生滅無常の相を離れたるが故に無相と云うなり。法性(ほっしょう)の淵底(えんでい)・玄宗の極地なり、故に極理と云う。此の無相の極理なる寂光の極楽は一切有情の心性の中に有つて清浄無漏(むろ)なり。之を名けて妙法の心蓮台とは云うなり。是の故に心外無別法と云う。此れを一切法は皆是仏法なりと通達解了すとは云うなり。

 此の自在の神通は一切の有情の心にて有るなり。故に狐狸(こり)も分分に通を現ずること・皆心の神(たましい)の分分の悟りなり。此の心の一法より国土世間も出来する事なり。一代聖教とは此の事を説きたるなり。此れを八万四千の法蔵とは云うなり。是れ皆悉く一人の身中の法門にて有るなり。然れば八万四千の法蔵は我身一人の日記文書なり。此の八万法蔵を我が心中に孕(はら)み持ち・懐(いだ)き持ちたり。我が身中の心を以て・仏と・法と・浄土とを我が身より外に思い願い求むるを迷いとは云うなり。此の心が善悪の縁に値うて善悪の法をば造り出せるなり、

 心の不思議を以て経論の詮要と為すなり。此の心を悟り知るを名けて如来と云う。之を悟り知つて後は、十界は我が身なり・我が心なり・我が形なり・本覚の如来は我が身心なるが故なり。之を知らざる時を名けて無明と為す。無明は明かなること無しと読むなり。我が心の有様を明らかに覚らざるなり。之を悟り知る時を名づけて法性(ほっしょう)と云う。故に無明と法性とは一心の異名なり。名と言とは二なりと雖も心は只一つ心なり。斯れに由つて無明をば断ず可からざるなり。夢の心の無明なるを断ぜば・寤の心を失う可きが故に。総じて円教の意は一毫の惑をも断ぜず。故に一切の法は皆是れ仏法なりと云うなり。
 法華経に云く「如是相 一切衆生の相好・本覚の応身如来・如是性 一切衆生の心性・本覚の報身如来・如是体 一切衆生の身体・本覚の法身如来
 此の三如是より後の七如是・出生して合して十如是と成れるなり。此の十如是は十法界なり。此の十法界は一人の心より出で八万四千の法門と成るなり。一人を手本として一切衆生平等なること是くの如し。三世の諸仏の総勘文にして御判・慥(たし)かに印(おし)たる正本の文書なり。仏の御判とは実相の一印なり、印とは判の異名なり。余の一切の経には実相の印無ければ正本の文書に非ず、全く実の仏無し。実の仏無きが故に夢中の文書なり。浄土に無きが故なり。

 仏は寤の人の如くなれば・生死の夢に入つて衆生を驚かし給える。智慧は夢の中にて父母の如く、夢の中なる我等は子息の如くなり。此の道理を以て悉是吾子と言い給うなり。此の理を思い解けば諸仏と我等とは本の故にも父子なり、末の故にも父子なり。父子の天性(てんせい)は本末是れ同じ。斯れに由つて己心と仏心とは異ならずと観ずるが故に、生死の夢を覚まして本覚の寤に還(か)えるを即身成仏と云うなり。即身成仏は今我が身の上の天性・地体なり。煩(わずらい)も無く、障(さわ)りも無き衆生の運命なり・果報なり・冥加(みょうが)なり。

 「起は是れ法性の起、滅は是れ法性の滅なり。其れを体するに実には起滅せざるを妄りに起滅すと謂えり。只妄想を指すに悉く是れ法性なり。法性を以て法性に繋け、法性を以て法性を念ず。常に是れ法性なり、法性ならざる時無し」已上。
 是くの如く法性ならざる時の隙(ひま)も無き理の法性に、夢の蝶の如く無明に於て実有(じつう)の思ひを生じて之に迷うなり。
 止観の九に云く「譬えば眠りの法・心を覆うて一念の中に無量世の事を夢みるが如し・乃至寂滅真如に何の次位か有らん・乃至一切衆生即大涅槃なり・復(また)滅す可からず。何の次位・高下・大小有らんや。不生不生(ふしょう・ぶしょう)にして不可説なれども因縁有るが故に亦説くことを得可し。十因縁の法・生の為に因と作(な)る。虚空に画き、方便して樹を種(うゆ)るが如し。一切の位を説くのみ」已上
 十法界の依報・正報は法身の仏・一体三身の徳なりと知つて・一切の法は皆是れ仏法なりと通達し解了する是を名字即と為す。名字即の位より即身成仏す。故に円頓の教には次位の次第無し。
 故に玄義に云く「末代の学者多く経論の方便の断伏を執して諍闘す。水の性の冷やゝかなるが如きも飲まずんば安(いずく)んぞ知らん」已上
 天台の判に云く「次位の綱目は仁王・瓔珞に依り、断伏の高下は大品・智論に依る」已上。
 仁王・瓔珞(ようらく)・大品・大智度論、是の経論は皆法華已前の八教の経論なり。権教の行は無量劫を経て昇進する次位なれば位の次第を説けり。
 今法華は八教に超えたる円なれば速疾頓成にして心と仏と衆生と此の三は我が一念の心中に摂めて心の外に無しと観ずれば、下根の行者すら尚一生の中に妙覚の位に入る。一と多と相即すれば一位に一切の位・皆是れ具足せり。故に一生に入るなり。下根すら是くの如し、況んや中根の者をや、何に況んや上根をや。実相の外に更に別の法無し。実相には次第無きが故に位無し。

 然るに此の金剛不壊(ふえ)の身を以て生滅無常の身なりと思う僻思(ひがおもい)は、譬えば荘周が夢の蝶の如しと釈し給えるなり。
 五行とは地水火風空なり。五大種とも・五薀(おん)とも・五戒とも・五常とも・五方とも・五智とも・五時とも云う。只一物・経経の異説なり、内典・外典・名目の異名なり。今経に之を開して一切衆生の心中の五仏性・五智の如来の種子と説けり。是則ち妙法蓮華経の五字なり。此の五字を以て人身の体を造るなり。本有常住なり・本覚の如来なり。是を十如是と云う。此を唯仏与仏・乃能究尽と云う。不退の菩薩と極果の二乗と少分(すこし)も知らざる法門なり。然るを円頓の凡夫は初心より之を知る故に即身成仏するなり、金剛不壊(ふえ)の体なり。

 今法華に始めて五乗の草木は円理の母と円教の父とを知るなり。一地の所生なれば母の恩を知るが如く、一雨の所潤(しょにん)なれば父の恩を知るが如し。薬草喩品の意(こころ)・是くの如くなり。
 釈迦如来・五百塵点劫の当初(そのかみ)・凡夫にて御坐(おわ)せし時、我が身は地水火風空なりと知(しろ)しめして即座に悟(さとり)を開き給いき。後に化他の為に世世・番番に出世・成道し、在在・処処に八相作仏し、王宮に誕生し、樹下に成道して始めて仏に成る様を衆生に見知らしめ、四十余年に方便教を儲け衆生を誘引す。其の後・方便の諸の経教を捨てて正直の妙法蓮華経の五智の如来の種子の理を説き顕して・其の中に四十二年の方便の諸経を丸(まろ)かし納れて一仏乗と丸(がん)し、人一(にんいち)の法と名く。一人が上の法なり。
 多人の綺(いろ)えざる正しき文書を造つて慥(たし)かな御判の印あり。三世諸仏の手継(てつ)ぎの文書(もんじょ)を釈迦仏より相伝せられし時に、三千三百万億那由佗の国土の上の虚空の中に満ち塞(ふさ)がれる若干(そこばく)の菩薩達の頂を摩(な)で尽して、時を指して末法近来(このごろ)の我等衆生の為に、慥(たし)かに此の由を説き聞かせて仏の譲状(ゆずりじょう)を以て末代の衆生に慥かに授与す可しと・慇懃(おんごん)に三度まで同じ御語に説き給いしかば、若干の菩薩達・各(おのおの)数を尽して身を曲げ、頭を低(た)れ、三度まで同じ言に各我も劣らじと事請(ことうけ)を申し給いしかば、仏・心安く思食(おぼしめ)して本覚の都に還えり給う。
 三世の諸仏の説法の儀式・作法には只同じ御言に時を指したる末代の譲状なれば、只一向に後五百歳を指して此の妙法蓮華経を以て成仏す可き時なりと、譲状の面(おもて)に載せられたる手継(てつ)ぎ証文なり。

 痛ましいかな・悲しいかな、末代の学者・仏法を習学して還つて仏法を滅す。
 弘決に之を悲しんで曰く「此の円頓を聞いて崇重(そうじゅう)せざることは、良(まこと)に近代大乗を習う者の雑濫(ぞうらん)に由るが故なり。況んや像末・情澆(こころ・うす)く・信心寡薄(すくなく)、円頓の教法・蔵に溢れ・函(はこ)に盈(み)つれども暫くも思惟(しゅい)せず、便ち目を瞑(ふさ)ぐに至る。徒(いたず)らに生し徒らに死す。一に何ぞ痛ましき哉」已上

 所詮、己心と仏身と一なりと観ずれば速かに仏に成るなり。
 故に弘決に又云く「一切の諸仏、己心は仏心と異ならずと観じ給うに由るが故に仏に成ることを得る」と 已上
 此れを観心と云う。実に己心と仏心と一心なりと悟れば臨終を礙(さ)わる可き悪業も有らず、生死に留まる可き妄念も有らず、一切の法は皆是れ仏法なりと知りぬれば教訓す可き善知識も入る可らず、思うと思い・言うと言い・為すと為し・儀(ふるま)いと儀う・行住坐臥(ぎょうじゅうざが)の四威儀の所作は皆仏の御心と和合して一体なれば、過(とが)も無く・障(さわ)りも無き自在の身と成る。此れを自行と云う。此くの如く自在なる自行の行を捨て、跡形も有らざる無明妄想なる僻思(ひがおもい)の心に住して三世の諸仏の教訓に背き奉れば、冥(くら)きより冥きに入り、永く仏法に背くこと・悲しむ可く・悲しむ可し。

 化他の諸経は自行を具せざれば鳥の片翼(へんよく)を以て空を飛ばざるが如し。故に成仏の人も無し。今、法華経は自行・化他の二行を開会して不足無きが故に・鳥の二翼を以て飛ぶに障り無きが如く成仏・滞(とどこお)り無し。
 薬王品には十喩を以て自行と化他との力用(りきゆう)の勝劣を判ぜり。第一の譬に云く、諸経は諸水の如く・法華は大海の如し云云
取意。実に自行の法華経の大海には化他の諸経の衆水(しゅすい)を入るること・昼夜に絶えず入ると雖も増ぜず・減ぜず・不可思議の徳用(とくゆう)を顕はす。諸経の衆水は片時の程も法華経の大海を納るること無し。自行と化他との勝劣是くの如し。
 一を以て諸(しょ)を例せよ。上来の譬喩は皆仏の所説なり、人の語を入れず。此の旨を意得(こころう)れば一代聖教・鏡に懸けて陰(くも)り無し。此の文釈(もんしゃく)を見て誰の人か迷惑せんや。三世の諸仏の総勘文なり。敢へて人の会釈を引き入る可からず。三世諸仏の出世の本懐なり。一切衆生・成仏の直道なり。

 円教を取つて一切諸法を観ずること円融・円満して十五夜の月の如く・不足無く満足し究竟すれば善悪をも嫌わず、折節をも撰ばず、静処をも求めず、人品(じんぴん)をも択(えら)ばず、一切諸法は皆是れ仏法なりと知りぬれば諸法を通達す。即ち非道を行うとも仏道を成ずるが故なり。天地水火風は是れ五智の如来なり。一切衆生の身心の中に住在して片時も離るること無きが故に、世間と出世と和合して心中に有つて心外(しんげ)には全く別の法無きなり。故に之を聞く時・立所(たちどころ)に速かに仏果を成ずること・滞り無き道理至極なり。
 総の三諦とは譬えば珠(たま)と光と宝との如し。此の三徳有るに由つて如意宝珠と云う。故に総の三諦に譬う。若し亦・珠の三徳を別別に取り放さば、何の用にも叶う可からず。隔別(きゃくべつ)の方便教の宗宗も亦是(か)くの如し。珠をば法身(ほっしん)に譬え、光をば報身に譬え、宝をば応身に譬う。此の総の三徳を分別して宗を立つるを不足と嫌うなり。之を丸(がん)じて一と為すを総の三諦と云う。此の総の三諦は三身即一の本覚の如来なり。

 又寂光をば鏡に譬え、同居(どうこ)と方便と実報の三土をば鏡に遷る像(かたち)に譬う。四土も一土なり。三身も一仏なり。今は此の三身と四土と和合して仏の一体の徳なるを寂光(じゃっこう)の仏と云う。寂光の仏を以て円教の仏と為し、円教の仏を以て寤の実仏と為す。余の三土の仏は夢中の権仏なり。
 此れは三世の諸仏の只同じ語に勘文し給える総の教相なれば人の語も入らず・会釈も有らず、若し之に違わば三世の諸仏に背き奉る大罪の人なり・天魔外道なり、永く仏法に背くが故に之を秘蔵して他人には見せざれ。若し秘蔵せずして妄りに之を披露せば、仏法に証理無く、二世に冥加(みょうが)無からん。謗ずる人出来せば三世の諸仏に背くが故に・二人乍(なが)ら倶に悪道に堕(おち)んと識るが故に之を誡むるなり。能く能く秘蔵して深く此の理(ことわり)を証し、三世の諸仏の御本意に相い叶い、二聖(にしょう)・二天・十羅刹の擁護を蒙むり、滞り無く上上品の寂光の往生を遂げ、須臾の間に九界生死の夢の中に還り来たつて身を十方法界の国土に遍じ、心を一切有情の身中に入れて、内よりは勧発し・外よりは引導し、内外相応し・因縁和合して自在神通の慈悲の力を施し、広く衆生を利益すること滞り有る可からず。

 三世の諸仏は此れを一大事の因縁と思食(おぼしめ)して世間に出現し給えり。一とは中道なり・法華なり、大とは空諦なり・華厳なり、事とは仮諦なり・阿含・方等・般若なり。已上一代の総の三諦なり。之を悟り知る時・仏果を成ずるが故に出世の本懐・成仏の直道なり。因とは一切衆生の身中に総の三諦有つて常住不変なり、此れを総じて因と云うなり。縁とは三因仏性は有りと雖も善知識の縁に値わざれば悟らず・知らず・顕はれず。善知識の縁に値えば必ず顕はるるが故に縁と云うなり。
 然るに今・此の一と大と事と因と縁との五事和合して値い難き善知識の縁に値いて、五仏性を顕さんこと・何の滞りか有らんや。春の時来りて風雨の縁に値いぬれば、無心の草木も皆悉く萠え・出生して華敷(はな・さ)き栄えて世に値う気色なり。秋の時に至りて月光の縁に値いぬれば、草木皆悉く実成熟(み・じょうじゅく)して一切の有情を養育し、寿命を続きて長養し、終に成仏の徳用を顕す。之を疑い・之を信ぜざる人有る可しや。無心の草木すら猶以て是くの如し、何に況んや人倫に於てをや。
 我等は迷の凡夫なりと雖も一分の心も有り・解(げ)も有り、善悪も分別し・折節を思ひ知る。然るに宿縁に催されて生を仏法流布の国土に受けたり。善知識の縁に値いなば因果を分別して成仏す可き身を以て善知識に値(あ)うと雖も、猶草木にも劣つて身中の三因仏性を顕さずして黙止(もだ)せる謂(いわ)れ・有る可きや。此の度必ず必ず生死の夢を覚まし、本覚の寤に還つて生死の紲(きづな)を切る可し。今より已後は夢中の法門を心に懸(か)く可からざるなり。三世の諸仏と一心と和合して妙法蓮華経を修行し、障(さわ)り無く開悟す可し。
 自行と化他との二教の差別は鏡に懸けて陰(くも)り無し。三世の諸仏の勘文是くの如し。秘す可し・秘す可し。



# by johsei1129 | 2026-04-18 21:35 | 血脈・相伝・講義 | Trackback | Comments(0)