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日蓮大聖人『御書』解説

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2024年 10月 25日

現在伝えられている最古の御書【戒体即身成仏義】



現在伝えられている最古の御書【戒体即身成仏義】_f0301354_19540769.jpg
【戒体即身成仏義 その一】

■出筆時期:仁治元三年(1242)  二十一歳御作。
■出筆場所:安房国 清澄寺にて。
■出筆の経緯:現在伝えられている最古の御書で、清澄寺にて是生房連長と名乗られておられた時に「即身成仏」について論じられた書となっております。
■ご真筆:現存しておりません。

【戒体即身成仏義 本文】

戒体即身成仏義

                     安房国清澄山住人 蓮 長 撰

分かって四門と為す
  一には小乗の戒体
  二には権大乗の戒体 
  三には法華開会(かいえ)の戒体 法華・涅槃の戒体少しく不同有り
  四には真言宗の戒体なり
  
 第一に小乗の戒体とは四種有り。五戒は俗男俗女戒、八斎戒は四衆通用、二百五十戒は比丘戒、五百戒は比丘尼戒なり。而るに四種倶に五戒を本と為す。婆娑論に云はく「近事律儀(ごんじりつぎ)は、此の律儀の与(ため)に門と為り・依(え)と為り・加行と為るを以ての故に」云云。近事律儀とは五戒なり。されば比丘の二百五十戒・比丘尼の五百戒も始めは五戒なり。五戒とは諸の小乗経に云はく「一には不殺生戒、二には不偸盗(ちゅうとう)戒、三には不邪婬戒、四には不妄語戒、五には不飲酒(おんじゅ)戒」以上五戒。此の五戒と申すは、色心二法の中には色法なり。殺・盗・婬の三は身に犯す戒、不妄語戒・不飲酒戒は口に犯す戒、身口は色法なり。此の戒を持つに、作無作・表無表と云ふ事あり。作と表と同じ事なり。無作と無表も同じ事なり。表と申す事は、戒を持たんと思ひて師を請ず。中国は十人、辺国は五人。或は自誓戒もあり。道場を荘厳し焼香散華(しょうこう・さんげ)して、師は高座にして戒を説けば、今の受くる者左右の十指を合はせて持つと云ふ。是を表色と云ひ作とも申す。此の身口の表作に依りて、必ず無表無作の戒体は発するなり。

 安房国清澄山住人 蓮 長 撰https://nichirengs.exblog.jp/25778272/




# by johsei1129 | 2024-10-25 19:59 | 重要法門(十大部除く) | Trackback | Comments(0)
2024年 10月 02日

已今当の経文は仏すらやぶりがたし、と説いた【衆生身心御書】

【衆生身心御書】
■出筆時期:弘安元(1278年)春 五十七歳 御作
■出筆場所:鎌倉 草庵にて。
■出筆の経緯:本抄真筆の前後が欠けているため、宛先は不明ですが、文末に「いとまなき時なれども・心ざしのゆくところ・山中の法華経へ・まうそうか・たかんな(孟宗竹の筍)ををくらせ給う。福田によきたねを下させ給うか。なみだもとどまらず」と記されておられるので、強信徒が弘安元年前後は疫病が発生し世の中が苦しんでいる中、孟宗竹の筍を身延山中の大聖人のもとへご供養されたその厚い志を称えて送られた書と思われます。
本書で大聖人は、釈尊の一切経の日本への伝来の経緯を記すとともに、法華経 法師品第十の「已に説き、今説き、当に説かんとす」の文を引き、法華経が諸教の中で最第一であると断じられておられます。
■ご真筆:富士大石寺 所蔵。

[衆生身心御書 本文]

衆生の身心をと(説)かせ給う。其の衆生の心にのぞむとて・と(説)かせ給へば人の説なれども衆生の心をいでず。かるがゆへに随他意の経となづけたり。譬へばさけ(酒)も・この(好)まぬ・をや(親)の・きわめてさけを・このむいとをし(最愛)き子あり。かつ(且)はいとをしみ・かつは心をとらんがために、かれ(彼)にさけをすす(勧)めんがために・父母も酒をこのむよしをするなり。しかるを・はかなき子は父母も酒をこのみ給うとをもへり。

 提謂(だいい)経と申す経は人天の事をとけり。阿含経と申す経は二乗の事をとかせ給う。華厳経と申す経は菩薩のことなり。方等・般若経等は或は阿含経・提謂経にに(似)たり、或は華厳経にもにたり。此れ等の経経は末代の凡夫・これをよ(読)み候へば仏の御心に叶うらんとは行者はをもへども、くはしく・これをろむ(論)ずれば己(おのれ)が心をよむなり。己が心は本よりつた(拙)なき心なれば・はかばかしき事なし。法華経と申すは随自意と申して仏の御心をとかせ給う。仏の御心はよき心なるゆへに、たとい・しらざる人も此の経をよみたてまつれば利益はかりなし。麻の中のよもぎ(蓬)、つつ(筒)の中のくちなは(蛇)、よ(善)き人にむつ(睦)ぶもの、なにとなけれども心も・ふるまひも・言(ことば)も・なを(直)しくなるなり。法華経もかくのごとし。なにとなけれども・この経を信じぬる人をば仏のよき物とをぼすなり。此の法華経に・をひて又機により・時により・国により・ひろ(弘)むる人により・やうやうにかわりて候をば、等覚の菩薩までも・こ(此)のあわひをば・しらせ給わずとみへて候。まして末代の凡夫は・いかでか・ち(は)からひ・を(遂)をせ候べき。
 しかれども人のつかひに三人あり。一人はきわめてこざかしき。一人ははかなくもなし・又こざかしからず。一人はきわめて・はかなく・たしかなる。此の三人に第一はあやまち(過)なし。第二は第一ほどこそ・なけれども・すこしこざかしきゆへに、主の御ことばに私の言をそ(添)うるゆへに・第一のわるきつかい(使)となる。第三はきわめて・はかなくあるゆへに・私の言をまじ(交)へず・きわめて正直なるゆへに、主の言(こと)ばを・たが(違)へず。第二よりもよき事にて候。あやまつて第一にも・すぐれて候なり。第一をば月支の四依にたとう。第二をば漢土の人師にたとう。第三をば末代の凡夫の中に愚癡(ぐち)にして正直なる物にたとう。

 仏在世はしばらく此れををく。仏の御入滅の次の日より一千年をば正法と申す。この正法一千年を二つにわかつ。前の五百年が間は小乗経ひろまらせ給う。ひろめし人人は迦葉・阿難等なり。後の五百年は馬鳴・竜樹・無著・天親等・権大乗経を弘通せさせ給う。法華経をば・かたはし(片端)計りかける論師もあり。又つやつや申しい(出)ださぬ人もあり。正法一千年より後の論師の中には少分を仏説にに(似)たれども多分を・あや(誤)まりあり。あやまりなくして而もた(足)らざるは迦葉・阿難・馬鳴・竜樹・無著・天親等なり。
 像法に入り一千年・漢土に仏法わたりしかば始めは儒家と相論せしゆへに、いとま(間)なきかのゆへに仏教の内の大小・権実の沙汰なし。やうやく仏法流布せし上・月支より・かさねがさね仏法わたり来るほどに、前の人人は・かしこ(賢)きやうなれども・後にわたる経論をもつて・みれば・はかなき事も出来す。又はかなく・をも(思)ひし人人も・かしこくみゆる事もありき。結句は十流になりて千万の義ありしかば愚者はいづれに・つくべしともみへず、智者とをぼしき人は辺執かぎりなし。而れども最極は一同の義あり。所謂一代第一は華厳経・第二は涅槃経・第三は法華経。此の義は上一人より下万民にいたるまで異義なし。大聖とあう(仰)ぎし法雲法師・智蔵法師等の十師の義・一同なりしゆへなり。

 而るを像法の中の陳隋の代に智顗(ちぎ)と申す小僧あり、後には智者大師とがう(号)す。法門多しといへども詮するところ、法華・涅槃・華厳経の勝劣の一つ計りなり。智顗法師云く、仏法さかさまなり云云。陳主・此の事をただ(糾)さんがために南北の十師の最頂たる恵(え)ごう僧上・恵光僧都・恵栄・法歳法師等の百有余人を召し合わせられし時、法華経の中には「諸経の中に於て最も其の上に在り」等云云。又云く「已今当説・最為難信難解」等云云。已とは無量義経に云く「摩訶般若華厳海空」等云云。当とは涅槃経に云く「般若はら(波羅)蜜より大涅槃を出だす」等云云。此の経文は華厳経・涅槃経には法華経勝ると見ゆる事赫赫(かくかく)たり・明明たり。御会通あるべしと・せ(責)めしかば、或は口をと(閉)ぢ・或は悪口をは(吐)き・或は色をへん(変)じなんど・せしかども、陳主立つて三拝し百官掌をあ(合)わせしかば力及ばず・ま(負)けにき。

 一代の中には第一法華経にてありしほどに、像法の後の五百に新訳の経論重ねてわたる。大宗皇帝の貞観三年に玄奘と申す人あり。月支に入りて十七年、五天の仏法を習いきわめて貞観十九年に漢土へわたりしが、深密経・瑜伽論(ゆがろん)・唯識論・法相宗をわたす。玄奘云く「月支に宗宗多しといへども此の宗第一なり」大宗皇帝は又漢土第一の賢王なり、玄奘を師とす。此の宗の所詮に云く「或は三乗方便・一乗真実、或は一乗方便・三乗真実」又云く「五性は各別なり。決定性と無性の有情は永く仏に成らず」等と云云。此の義は天台宗と水火なり。而も天台大師と章安大師は御入滅なりぬ。其の已下の人人は人非人なり。すでに天台宗破れてみ(見)へしなり。

 其の後、則天皇后の御世に華厳宗立つ。前に天台大師にせ(責)められし六十巻の華厳経をば・さしをきて、後に日照三蔵のわたせる新訳の華厳経八十巻をもつて立てたり。此の宗のせん(詮)にいわく、華厳経は根本法輪・法華経は枝末法輪等云云。則天皇后は尼にてをはせしが内外典に・こざかしき人なり。慢心たか(高)くして天台宗をさ(下)げ・をぼしてありしなり。法相といゐ・華厳宗といゐ・二重に法華経かくれさせ給う。
 其の後、玄宗皇帝の御宇に月支より善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵、大日経・金剛頂経・蘇悉地経と申す三経をわたす。此の三人は人がらといゐ・法門といゐ・前前の漢土の人師には対すべくもなき人人なり。而も前になかりし印と真言とを・わたすゆへに、仏法は已前には此の国になかりけりと・をぼせしなり。此の人人の云く、天台宗は華厳・法相・三論には勝れたり。しかれども此の真言経には及ばずと云云。其の後、妙楽大師は天台大師のせめ給はざる法相宗・華厳宗・真言宗をせめ給いて候へども、天台大師のごとく公場にてせめ給はざれば・ただ闇夜のにしき(錦)のごとし。法華経になき印と真言と現前なるゆへに、皆人一同に真言まさりにて有りしなり。

 像法の中に日本国に仏法わたり所謂(いわゆる)欽明天皇の六年なり。欽明より桓武にいたるまで二百余年が間は三論・成実・法相・倶舎・華厳・律の六宗・弘通せり。真言宗は人王四十四代・元正天皇の御宇にわたる。天台宗は人王第四十五代・聖武天王の御宇にわたる。しかれども・ひろまる事なし。桓武の御代に最澄法師、後には伝教大師とがうす。入唐已前に六宗を習いきわむる上、十五年が間・天台・真言の二宗を山にこもり給いて御覧ありき。入唐已前に天台宗をもつて六宗をせめしかば七大寺皆せめられて最澄の弟子となりぬ。六宗の義やぶ(破)れぬ。後・延暦廿三年に御入唐、同じき廿四年御帰朝。天台・真言の宗を日本国にひろめたり。但し勝劣の事は内心に此れを存じて人に向つてとかざるか。
 同代に空海という人あり後には弘法大師とがうす。延暦廿三年に御入唐、大同三年御帰朝。但真言の一宗を習いわたす。此の人の義に云く法華経は尚(なお)華厳経に及ばず、何に況んや真言にをひてをや。

 伝教大師の御弟子に円仁という人あり。後に慈覚大師とがうす。去ぬる承和五年の御入唐、同十四年に御帰朝。十年が間・真言・天台の二宗をがく(学)す。日本国にて伝教大師・義真・円澄に天台・真言の二宗を習いきわめたる上、漢土にわたりて十年が間・八箇の大徳にあひて真言を習い、宗叡・志遠等に値い給いて天台宗を習う。日本に帰朝して云く、天台宗と真言宗とは同じく醍醐なり、倶に深秘なり等云云。宣旨を申して・これにそ(添)う。
 其の後円珍と申す人あり。後には智証大師とがうす。入唐已前には義真和尚の御弟子なり。日本国にして義真・円澄・円仁等の人人に天台・真言の二宗習いきわめたり。其の上、去ぬる仁嘉三年に御入唐、同貞観元年に御帰朝。七年が間・天台・真言の二宗を法全(ほっせん)・良諝等の人人に習いきわむ。天台・真言の二宗の勝劣は鏡をかけたり。後代に一定(いちじょう)あらそ(争)ひありなん、定むべしと云つて天台・真言の二宗は譬へば人の両の目・鳥の二の翼のごとし。此の外異義を存ぜん人人をば祖師伝教大師にそむ(背)く人なり、山に住むべからずと宣旨を申しそへて弘通せさせ給いき。されば漢土日本に智者多しといへども此の義をやぶる人はあるべからず。此の義まことならば習う人人は必ず仏にならせ給いぬらん。あがめさせ給う国王等は必ず世・安穏にありぬらんとをぼゆ。

 但し予が愚案は人に申せども、御もち(用)ゐあるべからざる上、身のあだ(仇)となるべし。又きかせ給う弟子檀那も安穏なるべからずと・をもひし上、其の義又たが(違)わず。但此の事は一定(いちじょう)仏意には叶わでもや・あるらんとをぼへ候。法華経一部・八巻・二十八品には此の経に勝れたる経をはせば、此の法華経は十方の仏あつまりて大妄語をあつめさせ給えるなるべし。随つて華厳・涅槃・般若・大日経・深密等の経経を見るに「諸経の中に於て最も其の上に在り」の明文をやぶりたる文なし。随つて善無畏等・玄奘等・弘法・慈覚・智証等、種種のたくみ(巧)あれども法華経を大日経に対して・やぶりたる経文は・いだし給わず。但印・真言計りの有無をゆへ(所以)とせるなるべし。数百巻のふみをつくり、漢土・日本に往復して無尽のたばかりをなし・宣旨を申しそへて・人を・をどされんよりは経文分明(ふんみょう)ならば・たれ(誰)か疑ひをなすべき。
 つゆ(露)つもりて河となる、河つもりて大海となる。塵つもりて山となる、山かさなりて須弥山となれり。小事つもりて大事となる、何に況んや此の事は最も大事なり。疏(じょ)をつくられけるにも両方の道理・文証をつく(尽)さるべかりけるか。又宣旨も両方を尋ね極めて分明(ふんみょう)の証文をか(書)きのせて・いま(誡)しめあるべかりけるか。

 已今当の経文は仏すら・やぶりがたし。何に況んや論師・人師・国王の威徳をもつて・やぶるべしや。已今当の経文をば梵王・帝釈・日月・四天等、聴聞して各各の宮殿にかきとどめて・をは(在)するなり。まことに已今当の経文を知らぬ人の有る時は、先の人人の邪義は・ひろまりて失(とが)なきやうにては・ありとも、此の経文を・つよく立て退転せざるこわ(強)物出来しなば大事出来すべし。いや(鄙)しみて或はの(詈)り・或は打ち・或はながし・或は命をた(断)たんほどに、梵王・帝釈・日月・四天をこりあひて此の行者のかたうど(方人)を・せんほどに、存外に天のせめ来たりて民もほろび・国もやぶれんか。法華経の行者はいや(卑)しけれども・守護する天こわし。例せば修羅が日月をの(呑)めば頭七分にわる、犬は師子をほゆれば・はらわた(腸)くさる。今・予(よ)みるに日本国かくのごとし。又此れを供養せん人人は法華経供養の功徳あるべし。伝教大師釈して云く「讚めん者は福を安明に積み、謗ぜん者は罪を無間に開かん」等云云。

 ひへ(稗)のはん(飯)を辟支仏(ひゃくしぶつ)に供養せし人は宝明如来となり、つちのもちゐ(餅)を仏に供養せしかば閻浮提の王となれり。設いこう(功)をいたせども・まこと(誠)ならぬ事を供養すれば、大悪とは・なれども善とならず。設い心をろ(愚)かに・すこしきの物なれども、まことの人に供養すれば・こう(功)大なり。何に況んや心ざしありて、まことの法を供養せん人人をや。
 其の上・当世は世みだれて民の力よわ(弱)し。いとまなき時なれども・心ざしのゆくところ・山中の法華経へ・まうそう(孟宗)が・たかんな(竹の子)を・をくらせ給う。福田によきたねを下させ給うか。なみだもとどまらず。


【妙法蓮華経 法師品 第十】

薬王今告汝 我所説諸経 而於此経中 法華最第一
爾時仏復告 薬王菩薩摩訶薩 我所説経典
無量千万億 已説 今説 当説 而於其中 此法華経
最為難信難解 薬王 此経是諸仏 秘要之蔵
不可分布 妄授与人 諸仏世尊 之所守護
従昔已来 未曾顕説 而此経者 如来現在
猶多怨嫉 況滅度後

[和訳]
 薬王(菩薩)よ、今汝に告ぐ、 我(釈尊)説ける所の諸の経あり 而して此の経の中に於いて法華が最も第一である。
爾時(そのとき)、仏は復た薬王菩薩摩訶薩告げたまいり、我が説く所の経典は、
無量千万億あり、已に説き、今説き、当に説かんとするものあり、而して其の中に於いて此の法華経は
最も信じ難く、解し難きなり。薬王よ、此の経は是れ諸仏の 秘要の蔵なれば、
分布して妄(みだり)に人に授与すべからずなり。諸仏世尊の守護する所なれば、
昔より已来(このかた)、未だ嘗(かつ)て顕(あらわ)に説かざりしなり。而して此の経は、如来の現在すら
猶(な)を怨嫉が多く、況や(如来)滅度の後は云うまでもない。




# by johsei1129 | 2024-10-02 16:35 | 弟子・信徒その他への消息 | Trackback | Comments(0)
2024年 10月 02日

日本国一同に日蓮が弟子檀那と為りと説いた【諸人御返事】

【諸人御返事】
■出筆時期:弘安元年(西暦1278年)三月二十一日 五十七歳御作
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:鎌倉幕府が計画していた諸宗派との公場対決(公の場での法論)への日蓮大聖人の気構えを弟子、在家の信徒に宛てた書状となっている。
 簡潔な文の中に、この法論で「日本国一同に日蓮が弟子檀那と為り」と記し、揺るぎない自信に満ちあふれている。しかし残念ながらついに公場対決が実現することはなかった。
■ご真筆: 千葉県松戸市 本土寺 全文所蔵。(重要文化財)
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[諸人御返事 本文]

 三月十九日の和風(つかい)並びに飛鳥(ふみ)、同じく二十一日戌(いぬ)の時到来す。
 日蓮一生の間の祈請、並びに所願忽ちに成就せしむるか。将又五五百歳の仏記宛(あた)かも符契の如し。
 所詮真言・禅宗等の謗法の諸人等を召し合せ、是非を決せしめば日本国一同に日蓮が弟子檀那と為り、我が弟子等の出家は主上・上皇の師と為らん。在家は左右の臣下に列ならん。将又一閻浮提(※:全世界)皆此の法門を仰がん。幸甚幸甚。

 弘安元年三月二十一日戌時     日  蓮 花押

 諸人御返事




# by johsei1129 | 2024-10-02 15:49 | 弟子・信徒その他への消息 | Trackback | Comments(0)
2024年 10月 02日

釈尊ほどの仏を<略>供養し奉るよりも<略>法華経の行者を供養せん功徳はすぐれたりと説いた国府尼御前御書

【国府尼御前御書】
■出筆時期:文永十一年(西暦1274年)六月十六日 五十三歳御作
■出筆場所:身延山中 草案にて。
■出筆の経緯:本書は文永十一年三月、佐渡赦免となつた大聖人が身延山中で草庵を構えられた頃、佐渡で大聖人を外護された国府入道が見参し、妻と阿仏房の尼御前との供養の品を届けられたことへの返書となっている。
大聖人は法華経法師品第十を引いて「人有つて仏道を求めて一劫の中に於て合掌して我(釈尊)が前に在つて無数の偈を以て讃めん、是の讃仏に由るが故に無量の功徳を得ん。持経者を歎美せんは其の福復た彼(釈尊を讃える)に過ぎん」と説き、法華経の行者に供養する功徳は釈尊を一劫という、はてしなく長いあいだ称える功徳に優ると、国府入道夫妻が佐渡の地で、人目を忍んで夜中に大聖人のもとに食を届けてくれた志を称えれておられる。

[妙法蓮華経法師品第十の該当する偈]
有人求仏道 而於一劫中 合掌在我前 以無数偈讃
由是讃仏故 得無量功徳 歎美持経者 其福復過彼

■ご真筆: 佐渡・妙宣寺 所蔵。
釈尊ほどの仏を<略>供養し奉るよりも<略>法華経の行者を供養せん功徳はすぐれたりと説いた国府尼御前御書_f0301354_22571368.jpg

[国府尼御前御書 本文]

 阿仏御房の尼ごぜん(御前)よりぜに(銭)三百文。同心なれば此の文を二人して人によませて・きこしめせ。

 単衣(ひとえぎぬ)一領・佐渡の国より甲斐の国・波木井(はきり)の郷の内の深山まで送り給(たび)候い了んぬ。
 法華経・第四法師品に云く「人有つて仏道を求めて一劫の中に於て合掌して我が前に在つて無数の偈(げ)を以て讃めん。是の讃仏(さんぶつ)に由るが故に無量の功徳を得ん。持経者を歎美せんは其の福復(ま)た彼に過ぎん」等云云。
 文の心は釈尊ほどの仏を三業相応して一中劫が間・ねんごろに供養し奉るよりも、末代悪世の世に法華経の行者を供養せん功徳は・すぐれたりと・とかれて候。まこと(実)しからぬ事にては候へども、仏の金言にて候へば疑うべきにあらず。
 其の上・妙楽大師と申す人、此の経文を重ねて・やわ(解)らげて云く「若(も)し毀謗(きぼう)せん者は頭(こうべ)七分に破れ、若し供養せん者は福十号に過ぎん」等云云。釈の心は末代の法華経の行者を供養するは、十号を具足しまします如来を供養したてまつるにも其の功徳すぎたり。又濁世(じょくせ)に法華経の行者あらんを留難をなさん人は頭七分にわるべしと云云。

 夫れ日蓮は日本第一のゑせ(僻)ものなり。其の故は天神七代は・さておきぬ、地神五代も又はかりがたし。人王始まりて神武より今に至るまで九十代、欽明天王(皇)より七百余年が間、世間につけ仏法によりても、日蓮ほど・あまねく人にあだ(怨)まれたるものは候はじ。守屋が寺塔をやき、清盛入道が東大寺・興福寺を失(う)せし、彼等が一類は彼がにくまず。将門(まさかど)・貞たう(任)が朝敵と成りし、伝教大師の七寺にあだまれし、彼等もいまだ日本一州の比丘(びく)・比丘尼・優婆塞(うばそく)・優婆夷(うばい)の四衆には・にくまれず。日蓮は父母・兄弟・師匠・同法(朋)・上一人・下万民・一人ももれず、父母のかたき(敵)のごとく、謀反強盗(むほん・ごうとう)にも・すぐれて・人ごとに・あだをなすなり。されば或時は数百人にの(詈)られ、或時は数千人に取りこめられて刀杖(とうじょう)の大難にあう。所を・をはれ国を出ださる。結句は国主より御勘気二度、一度は伊豆の国・今度は佐渡の嶋なり。

 されば身命をつ(続)ぐべき・かつて(資糧)もなし、形体を隠(かく)すべき藤(ふじ)の衣(ころも)ももたず、北海の嶋に・はなたれしかば彼の国の道俗は相州の男女よりも・あだをなしき。野中(のなか)に捨てられて・雪にはだ(肌)へをまじえ、くさ(草)をつ(摘)みて命をささ(支)えたりき。彼の蘇夫(そぶ)が胡国に十九年・雪を食うて世をわたりし、李呂(陵)が北海に六ケ年・がんくつ(岩窟)にせめられし、我は身にて・しられぬ。これは・ひとえに我が身には失(とが)なし。日本国を・たすけんと・をもひしゆへなり。

 しかるに尼ごぜん並(なら)びに入道殿は彼の国に有る時は人め(目)を・をそれて夜中に食ををくり、或る時は国のせめ(責)をも・はばか(憚)らず身にも・か(代)わらんと・せし人人なり。さればつら(痛)かりし国なれども・そ(剃)りたるかみ(髪)をうしろ(後)へひかれ・すすむあし(足)もかへりしぞかし。いかなる過去のえん(縁)にてや・ありけんと・おぼつかなかりしに、又いつしか・これまで・さしも大事なるわが夫(おとこ)を御つかい(使)にて・つかはされて候。ゆめ(夢)か・まぼろし(幻)か、尼ごぜんの御すがたをば・みまいらせ候はねども、心をば・これに・とどめをぼへ候へ。

 日蓮をこい(恋)しく・をはしせば、常に出ずる日・ゆうべに・いづる月を・をが(拝)ませ給え。いつ(何時)となく日月にかげ(影)をう(浮)かぶる身なり。又後生には霊山(りょうぜん)浄土に・まいりあひ・まひらせん。南無妙法蓮華経。

六月十六日             日 蓮  花押

さどの国のこう(国府)の尼御前




# by johsei1129 | 2024-10-02 10:04 | 弟子・信徒その他への消息 | Trackback | Comments(0)
2024年 10月 01日

人の心を貫く妙法蓮華経は宇宙に遍満し一体であると明した【三世諸仏総勘文教相廃立】三

[三世諸仏総勘文教相廃立 本文] その三
 安楽行品には末法に入つて近来(このごろ)・初心の凡夫、法華経を修行して成仏す可き様を説き置かれしなり。身も安楽行なり、口も安楽行なり、意も安楽行なり。自行の三業も・誓願安楽の化他の行も同じく後の末世に於て法の滅せんと欲する時と云云。此は近来(このごろ)の時なり。已上四所に有り。薬王品には二所に説かれ、勧発品には三所に説かれたり。皆近来を指して譲り置かれたる正しき文書を用いずして凡夫の言に付き、愚癡の心に任せて三世諸仏の譲り状に背き奉り、永く仏法に背かば三世の諸仏、何(いか)に本意無く・口惜しく・心憂く・歎き悲しみ思食(おぼしめ)すらん。
 涅槃経に云く「法に依つて人に依らざれ」と云云。痛ましいかな・悲しいかな、末代の学者・仏法を習学して還つて仏法を滅す。弘決に之を悲しんで曰く「此の円頓を聞いて崇重(そうじゅう)せざることは、良(まこと)に近代大乗を習う者の雑濫(ぞうらん)に由るが故なり。況んや像末・情澆(こころ・うす)く・信心寡薄(すくなく)、円頓の教法・蔵に溢れ・函(はこ)に盈(み)つれども暫くも思惟(しゅい)せず、便ち目を瞑(ふさ)ぐに至る。徒(いたず)らに生し徒らに死す。一に何ぞ痛ましき哉」已上
 同四に云く「然も円頓の教は本(も)と凡夫に被(こう)むらしむ。若し凡を益するに擬せずんば仏・何ぞ自ら法性の土に住して・法性の身を以て諸の菩薩の為に此の円頓を説かずして、何ぞ諸の法身の菩薩の与(ため)に凡身を示し・此の三界に現じ給うことを須(もち)いんや。乃至一心凡に在れば即ち修習す可し」已上。

 所詮、己心と仏身と一なりと観ずれば速かに仏に成るなり。故に弘決に又云く「一切の諸仏、己心は仏心と異ならずと観じ給うに由るが故に仏に成ることを得る」と
已上。此れを観心と云う。実に己心と仏心と一心なりと悟れば臨終を礙(さ)わる可き悪業も有らず、生死に留まる可き妄念も有らず、一切の法は皆是れ仏法なりと知りぬれば教訓す可き善知識も入る可らず、思うと思い・言うと言い・為すと為し・儀(ふるま)いと儀う・行住坐臥(ぎょうじゅうざが)の四威儀の所作は皆仏の御心と和合して一体なれば、過(とが)も無く・障(さわ)りも無き自在の身と成る。此れを自行と云う。此くの如く自在なる自行の行を捨て、跡形も有らざる無明妄想なる僻思(ひがおもい)の心に住して三世の諸仏の教訓に背き奉れば、冥(くら)きより冥きに入り、永く仏法に背くこと・悲しむ可く・悲しむ可し。
 只今打ち返えし・思い直し・悟り返さば、即身成仏は我が身の外には無しと知りぬ。

 我が心の鏡と仏の心の鏡とは只一鏡なりと雖も・我等は裏に向つて我が性の理を見ず。故に無明と云う。如来は面(おもて)に向つて我が性の理を見たまえり。故に明と無明とは其の体只一なり。
 鏡は一の鏡なりと雖も・向い様に依つて明昧(みょうまい)の差別有り。鏡に裏有りと雖も面(おもて)の障りと成らず。只向い様に依つて得失の二つ有り。相即融通して一法の二義なり。化他の法門は鏡の裏に向うが如く、自行の観心は鏡の面に向うが如し。化他の時の鏡も自行の時の鏡も、我が心性の鏡は只一にして替ること無し。鏡を即身に譬え、面に向うをば成仏に譬え、裏に向うをば衆生に譬う。
 鏡に裏有るをば性悪を断ぜざるに譬え、裏に向う時・面の徳無きをば化他の功徳に譬うるなり。衆生の仏性の顕はれざるに譬うるなり。自行と化他とは得失の力用(りきゆう)なり。


 玄義の一に云く「薩婆悉達(さるばしった)・祖王の弓を彎(ひい)て満つるを名けて力と為す。七つの鉄鼓(てっく)を中(やぶ)り、一つの鉄囲山(てっちせん)を貫ぬき、地を洞(とお)し、水輪に徹(とお)る如きを名けて用(ゆう)と為す 自行の力用なり。諸の方便教は力用(りきゆう)の微弱なること・凡夫の弓箭(きゅうせん)の如し。何となれば昔の縁は化他の二智を禀(う)けて理を照すこと遍からず、信を生ずること深からず、疑ひを除くこと尽さず 已上化他。今の縁は自行の二智を禀(う)けて仏の境界を極め、法界の信を起し、円妙の道を増し、根本の惑を断じ、変易(へんにゃく)の生を損す。但だ生身(しょうしん)及び生身得忍の両種の菩薩、倶(とも)に益するのみに非ず、法身と法身の後心との両種の菩薩も亦以て倶に益す。化の功(こう)広大に利潤弘深(りにん・ぐじん)なる。蓋(けだ)し玆(こ)の経の力用なり 已上自行

 自行と化他との力用勝劣分明なること勿論なり。能く能く之を見よ。一代聖教を鏡に懸(かけ)たる教相なり。
 極仏境界とは十如是の法門なり。十界に互ひに具足して十界・十如の因果・権実の二智・二境は我が身の中に有つて一人も漏るること無しと通達し・解了し・仏語を悟り極むるなり。
 起法界信とは十法界を体と為し、十法界を心と為し、十法界を形と為したまえる本覚の如来は我が身の中に有りけりと信ず。
 増円妙道とは自行と化他との二は相即円融の法なれば、珠と光と宝との三徳は只一の珠の徳なるが如し。片時も相離れず仏法に不足無し。一生の中に仏に成るべしと慶喜(きょうき)の念を増すなり。
 断根本惑とは一念無明の眠を覚まして本覚の寤に還れば、生死も涅槃も倶に昨日の夢の如く・跡形も無きなり。
 損変易生(そんへん・にゃくしょう)とは同居土の極楽と方便土の極楽と実報土の極楽との三土に往生せる人・彼の土にて菩薩の道を修行して仏に成らんと欲するの間・因は移り・果は易(かわ)りて次第に進み昇り、劫数を経て成仏の遠きを待つを変易の生死と云うなり。下位を捨つるを死と云い・上位に進むをば生と云う。是くの如く変易する生死は浄土の苦悩にて有るなり、爰(ここ)に凡夫の我等が此の穢土に於て法華を修行すれば、十界互具・法界一如なれば浄土の菩薩の変易の生は損し、仏道の行は増して変易の生死を一生の中に促(つづ)めて仏道を成ず故に、生身及び生身得忍の両種の菩薩・増道損生するなり。
 法身の菩薩とは生身を捨てて実報土に居するなり。後心(ごしん)の菩薩とは等覚の菩薩なり。但し迹門には生身及び生身得忍の菩薩を利益するなり。本門には法身と後身との菩薩を利益す。但し今は迹門を開して本門に摂(おさ)めて一の妙法と成す故に、凡夫の我等・穢土の修行の行の力を以て浄土の十地等覚の菩薩を利益する行なるが故に、化の功広大なり 化他の徳用。
 利潤弘深とは 自行の徳用 円頓の行者は自行と化他と一法をも漏(もら)さず一念に具足して、横に十方法界に遍するが故に弘きなり。竪には三世に亘つて法性の淵底を極むるが故に深きなり。此の経の自行の力用、此くの如し。
 化他の諸経は自行を具せざれば鳥の片翼(へんよく)を以て空を飛ばざるが如し。故に成仏の人も無し。今、法華経は自行・化他の二行を開会して不足無きが故に・鳥の二翼を以て飛ぶに障り無きが如く成仏・滞(とどこお)り無し。

 薬王品には十喩を以て自行と化他との力用(りきゆう)の勝劣を判ぜり。第一の譬に云く、諸経は諸水の如く・法華は大海の如し云云
取意。実に自行の法華経の大海には化他の諸経の衆水(しゅすい)を入るること・昼夜に絶えず入ると雖も増ぜず・減ぜず・不可思議の徳用(とくゆう)を顕はす。諸経の衆水は片時の程も法華経の大海を納るること無し。自行と化他との勝劣是くの如し。
 一を以て諸(しょ)を例せよ。上来の譬喩は皆仏の所説なり、人の語を入れず。此の旨を意得(こころう)れば一代聖教・鏡に懸けて陰(くも)り無し。此の文釈(もんしゃく)を見て誰の人か迷惑せんや。三世の諸仏の総勘文なり。敢へて人の会釈を引き入る可からず。三世諸仏の出世の本懐なり。一切衆生・成仏の直道なり。

 四十二年の化他の経を以て立つる所の宗宗は華厳・真言・達磨・浄土・法相・三論・律宗・倶舎・成実等の諸宗なり。此等は皆悉く法華より已前の八教の中の教なり。皆是方便なり。
兼・但・対・帯の方便誘引なり、三世諸仏の説教の次第なり。此の次第を糾して法門を談ず。若し次第に違わば仏法に非ざるなり。一代教主の釈迦如来も三世諸仏の説教の次第を糾して一字も違わず、我も亦是くの如しとて経に云く「三世諸仏の説法の儀式の如く、我も今・亦是くの如く無分別の法を説く」已上。
 若し之に違えば永く三世の諸仏の本意に背く。他宗の祖師・各我が宗を立て法華宗と諍うこと・誤りの中の誤り、迷いの中の迷いなり。

 徴佗学(ちょうたがく)の決に之を破して云く 山王院「凡そ八万法蔵・其の行相を統(す)ぶるに四教を出でず。
頭辺(はじめ)に示すが如し。蔵通別円は即ち声聞・縁覚・菩薩・仏乗なり。真言・禅門・華厳・三論・唯識・律業・成倶(じょうく)の二論等の能所の教理争でか此の四を過ぎん。若し過ぐると言わば豈外邪(あに・げじゃ)に非ずや。若し出でずと言わば便ち他の所期(しょご)を問い得よ 即ち四乗の果なり。然して後に答へに随つて極理を推(たず)ね徴(せ)めよ。我が四教の行相を以て並べ検(かんが)えて決定せよ。彼の所期の果に於て、若し我と違わば随つて即ち之を詰めよ。且く華厳の如きは五教に各各に修因・向果有り。初・中・後の行・一ならず。一教一果是れ所期なるべし。若し蔵通別円の因と果とに非ざれば是れ仏教ならざるのみ。三種の法輪・三時の教等・中(なか)に就て定む可し。汝(なんじ)何者を以てか所期の乗と為(す)るや。若し仏乗なりと言わば未だ成仏の観行を見ず。若し菩薩と言わば此れ亦即離の中道の異なるなり。汝正しく何れを取るや。設(も)し離の辺を取らば果として成ず可き無し。如(も)し即是を要とせば仏に例して之を難ぜよ。謬つて真言を誦すとも三観一心の妙趣を会せずんば、恐くは別人に同じて妙理を証せじ。所以(ゆえ)に他の所期の極を逐うて理に準じて 我が宗の理なり 徴(せむ)べし。因明(いんみょう)の道理は外道と対す。多くは小乗及以(およ)び別教に在り。若し法華・華厳・涅槃等の経に望むれば接引門(しょういんもん)なり。権(か)りに機に対して設けたり、終に以て引進するなり。邪小の徒をして会して真理に至らしむるなり。所以(ゆえ)に論ずる時は四依撃目(しえ・きゃくもく)の志を存して之を執着すること莫れ。又須らく他の義を将(も)つて自義に対検して随つて是非を決すべし。執して之を怨むこと莫れ 大底・他は多く三教に在り。円旨至つて少きのみ
 先徳大師の所判是の如し。諸宗の所立(しょりゅう)鏡に懸けて陰り無し。末代の学者何ぞ之を見ずして妄りに教門を判ぜんや。大綱の三教を能く能く学す可し。

 頓と漸と円とは三教なり。是れ一代聖教の総の三諦なり。頓・漸の二は四十二年の説なり、円教の一は八箇年の説なり、合して五十年なり。此の外に法無し。何に由つてか之に迷わん。衆生に有る時には此(これ)を三諦と云い、仏果を成ずる時には此れを三身と云う。一物の異名なり。之を説き顕すを一代聖教と云い、之を開会(かいえ)して只一の総の三諦と成ずる時に成仏す。此(こ)こを開会と云い此を自行と云う。又他宗所立の宗宗は此の総の三諦を分別して八と為す。各各に宗を立つるに依つて円満の理を闕(か)いて成仏の理無し。是の故に余宗には実の仏無きなり。故に之を嫌う意(こころ)は不足なりと嫌うなり。
 円教を取つて一切諸法を観ずること円融・円満して十五夜の月の如く・不足無く満足し究竟すれば善悪をも嫌わず、折節をも撰ばず、静処をも求めず、人品(じんぴん)をも択(えら)ばず、一切諸法は皆是れ仏法なりと知りぬれば諸法を通達す。即ち非道を行うとも仏道を成ずるが故なり。天地水火風は是れ五智の如来なり。一切衆生の身心の中に住在して片時も離るること無きが故に、世間と出世と和合して心中に有つて心外(しんげ)には全く別の法無きなり。故に之を聞く時・立所(たちどころ)に速かに仏果を成ずること・滞り無き道理至極なり。

 総の三諦とは譬えば珠(たま)と光と宝との如し。此の三徳有るに由つて如意宝珠と云う。故に総の三諦に譬う。若し亦・珠の三徳を別別に取り放さば、何の用にも叶う可からず。隔別(きゃくべつ)の方便教の宗宗も亦是(か)くの如し。珠をば法身(ほっしん)に譬え、光をば報身に譬え、宝をば応身に譬う。此の総の三徳を分別して宗を立つるを不足と嫌うなり。之を丸(がん)じて一と為すを総の三諦と云う。此の総の三諦は三身即一の本覚の如来なり。
 又寂光をば鏡に譬え、同居(どうこ)と方便と実報の三土をば鏡に遷る像(かたち)に譬う。四土も一土なり。三身も一仏なり。今は此の三身と四土と和合して仏の一体の徳なるを寂光(じゃっこう)の仏と云う。寂光の仏を以て円教の仏と為し、円教の仏を以て寤の実仏と為す。余の三土の仏は夢中の権仏なり。
 此れは三世の諸仏の只同じ語に勘文し給える総の教相なれば人の語も入らず・会釈も有らず、若し之に違わば三世の諸仏に背き奉る大罪の人なり・天魔外道なり、永く仏法に背くが故に之を秘蔵して他人には見せざれ。若し秘蔵せずして妄りに之を披露せば、仏法に証理無く、二世に冥加(みょうが)無からん。謗ずる人出来せば三世の諸仏に背くが故に・二人乍(なが)ら倶に悪道に堕(おち)んと識るが故に之を誡むるなり。能く能く秘蔵して深く此の理(ことわり)を証し、三世の諸仏の御本意に相い叶い、二聖(にしょう)・二天・十羅刹の擁護を蒙むり、滞り無く上上品の寂光の往生を遂げ、須臾の間に九界生死の夢の中に還り来たつて身を十方法界の国土に遍じ、心を一切有情の身中に入れて、内よりは勧発し・外よりは引導し、内外相応し・因縁和合して自在神通の慈悲の力を施し、広く衆生を利益すること滞り有る可からず。

 三世の諸仏は此れを一大事の因縁と思食(おぼしめ)して世間に出現し給えり。一とは中道なり・法華なり、大とは空諦なり・華厳なり、事とは仮諦なり・阿含・方等・般若なり。已上一代の総の三諦なり。之を悟り知る時・仏果を成ずるが故に出世の本懐・成仏の直道なり。因とは一切衆生の身中に総の三諦有つて常住不変なり、此れを総じて因と云うなり。縁とは三因仏性は有りと雖も善知識の縁に値わざれば悟らず・知らず・顕はれず。善知識の縁に値えば必ず顕はるるが故に縁と云うなり。
 然るに今・此の一と大と事と因と縁との五事和合して値い難き善知識の縁に値いて、五仏性を顕さんこと・何の滞りか有らんや。春の時来りて風雨の縁に値いぬれば、無心の草木も皆悉く萠え・出生して華敷(はな・さ)き栄えて世に値う気色なり。秋の時に至りて月光の縁に値いぬれば、草木皆悉く実成熟(み・じょうじゅく)して一切の有情を養育し、寿命を続きて長養し、終に成仏の徳用を顕す。之を疑い・之を信ぜざる人有る可しや。無心の草木すら猶以て是くの如し、何に況んや人倫に於てをや。
 我等は迷の凡夫なりと雖も一分の心も有り・解(げ)も有り、善悪も分別し・折節を思ひ知る。然るに宿縁に催されて生を仏法流布の国土に受けたり。善知識の縁に値いなば因果を分別して成仏す可き身を以て善知識に値(あ)うと雖も、猶草木にも劣つて身中の三因仏性を顕さずして黙止(もだ)せる謂(いわ)れ・有る可きや。此の度必ず必ず生死の夢を覚まし、本覚の寤に還つて生死の紲(きづな)を切る可し。今より已後は夢中の法門を心に懸(か)く可からざるなり。三世の諸仏と一心と和合して妙法蓮華経を修行し、障(さわ)り無く開悟す可し。
 自行と化他との二教の差別は鏡に懸けて陰(くも)り無し。三世の諸仏の勘文是くの如し。秘す可し・秘す可し。

 弘安二年己卯(つちのとう)十月 日   日蓮  花押




# by johsei1129 | 2024-10-01 15:26 | 血脈・相伝・講義 | Trackback | Comments(0)