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日蓮大聖人『御書』解説

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2019年 11月 07日

法華経如来寿量品は一代聖教の肝心、三世諸仏の説法の大要なりと説いた【太田左衛門尉御返事】

【太田左衛門尉御返事】
■出筆時期:弘安元年四月二十三日(西暦1278年) 五十七歳 御作。
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:本書を送られた太田左衛門尉(太田乗明)は、祖父が鎌倉幕府の問注所(幕府直轄の司法機関)の執事(長官)を努め、自身も問注所の役人を勤めていた。元は真言信徒であったが、松葉ケ谷の法難で大聖人が近隣の富木常忍のもとに身を寄せられた際、大聖人の説法に触れ帰依することになる。その後は富木常忍ともども大聖人の熱心な信徒となり『三大秘法抄』『転重軽受法門』等の重要法門を記した御書を送られている。本書は太田乗明が五十七になり大厄の年を迎え身心に苦労多く出来(しゅったい)候と伝えた手紙に対しての返書となっている。大聖人は法華経の肝心である方便品、寿量品を説き、また「法華経と申す御経は身心の諸病の良薬なり」と、一層法華経への信仰に励むよう激励されている。
 尚、乗明の子は出家し日高となり、富木常忍が下総・葛飾郡若宮に開基した法華経寺の二代目となり、後に太田家が葛飾郡中山に本妙寺を開基すると若宮の法華経寺と合併させ、現在の中山法華経寺となっている。
■ご真筆: 現存していない。

[太田左衛門尉御返事 本文]

 当月十八日の御状、同じき廿三日の午(うま)の剋計りに到来。軈(やがて)拝見仕(つかまつ)り候い畢んぬ。御状の如く、御布施・鳥目十貫文・太刀・五明(おうぎ)一本・焼香廿両給い候。
 抑(そもそも)専ら御状に云く、某今年は五十七に罷(まか)り成り候へば大厄(たいやく)の年かと覚え候。なにやらんして正月の下旬の比(ころ)より卯月(うづき)の此の比に至り候まで・身心に苦労多く出来候。本より人身を受くる者は必ず身心に諸病相続して五体に苦労あるべしと申しながら更(ことさら)に云云。

 此の事最第一の歎きの事なり。十二因縁と申す法門あり。意は我等が身は諸苦を以て体と為す。されば先世に業を造る故に諸苦を受け、先世の集煩悩が諸苦を招き集め候。過去の二因・現在の五果・現在の三因・未来の両果とて三世次第して一切の苦果を感ずるなり。在世の二乗が此等の諸苦を失はんとて空理に沈み、灰身滅智(けしんめっち)して菩薩の勤行・精進の志を忘れ、空理を証得せん事を真極(しんごく)と思うなり。仏・方等の時、此等の心地を弾呵し給いしなり。然るに生を此の三界に受けたる者、苦を離るる者あらんや。羅漢の応供(おうぐ)すら猶此くの如し。況んや底下の凡夫をや。さてこそいそぎ生死を離るべしと勧め申し候へ。

 此等体(これら・てい)の法門はさて置きぬ。御辺は今年は大厄と云云。昔・伏羲(ふぎ)の御宇に黄河と申す河より亀と申す魚、八卦(はっけ)と申す文(ふみ)を甲に負ひて浮き出でたり。時の人・此の文を取り挙げて見れば、人の生年より老年の終りまで厄(やく)の様を明したり。厄年の人の危ふき事は少水に住む魚を鴟鵲(とび・からす)なんどが伺ひ、燈(ひ)の辺(ほとり)に住める夏の虫の火中に入らんとするが如くあやうし。鬼神ややもすれば此の人の神(たましい)を伺ひ・なやまさんとす。神内(しんない)と申す時は諸の神、身に在り・万事心に叶う。神外(しんげ)と申す時は諸の神・識の家を出でて万事を見聞するなり。
 当年は御辺は神外と申して諸神・他国へ遊行すれば、慎んで除災得楽を祈り給うべし。又木性の人にて渡らせ給へば今年は大厄なりとも春夏の程は何事か渡らせ給うべき。至門性経に云く「木は金に遇つて抑揚し、火は水を得て光滅し、土は木に値いて時に痩せ、金は火に入つて消え失せ、水は土に遇つて行かず」等云云。
 指して引き申すべき経文にはあらざれども、予が法門は四悉檀を心に懸けて申すならば、強(あなが)ちに成仏の理に違わざれば且らく世間普通の義を用ゆべきか。
 然るに法華経と申す御経は身心の諸病の良薬なり。されば経に云く「此の経は則ち為(こ)れ閻浮提(えんぶだい)の人の病の良薬なり。若し人病有らんに是の経を聞くことを得ば、病即消滅して不老不死ならん」等云云。又云く「現世は安穏にして後生には善処ならん」等云云。又云く「諸余の怨敵皆悉く摧滅せん」等云云。
 取分(とりわけ)奉る御守り方便品・寿量品、同じくは一部書きて進らせ度く候へども、当時は去り難き隙(ひま)ども入る事候へば・略して二品奉り候。相構え・相構えて御身を離さず重ねつつ(包)みて御所持有るべき者なり。
 此の方便品と申すは迹門の肝心なり。此の品には仏・十如実相の法門を説きて十界の衆生の成仏を明し給へば、舎利弗等は此れを聞いて無明の惑を断じ、真因の位に叶うのみならず、未来華光如来と成りて成仏の覚月を離垢(りく)世界の暁の空に詠ぜり。十界の衆生の成仏の始めは是なり。当時の念仏者・真言師の人人、成仏は我が依経に限れりと深く執するは、此等の法門を習学せずして・未顕真実の経に説く所の名字計りなる授記を執する故なり。
 貴辺は日来(ひごろ)は此等の法門に迷い給いしかども、日蓮が法門を聞いて賢者なれば本執を忽ちに飜し給いて法華経を持ち給うのみならず、結句は身命よりも此の経を大事と思食す事・不思議が中の不思議なり。是れは偏に今の事に非ず、過去の宿縁開発せるにこそ・かくは思食(おぼし)すらめ。有り難し・有り難し。
 
 次に寿量品と申すは本門の肝心なり。又此の品は一部の肝心、一代聖教の肝心のみならず、三世の諸仏の説法の儀式の大要なり。教主釈尊・寿量品の一念三千の法門を証得し給う事は、三世の諸仏と内証等しきが故なり。但し此の法門は釈尊一仏の己証のみに非ず、諸仏も亦然なり。我等衆生の無始已来・六道生死の浪に沈没せしが、今教主釈尊の所説の法華経に値い奉る事は、乃往(むかし)過去に此の寿量品の久遠実成の一念三千を聴聞せし故なり。有り難き法門なり。
 華厳・真言の元祖・法蔵・澄観・善無畏・金剛智・不空等が、釈尊・一代聖教の肝心なる寿量品の一念三千の法門を盗み取りて、本より自(みずから)の依経に説かざる華厳経・大日経に一念三千有りと云つて取り入るる程の盗人にばかされて、末学深く此の見(けん)を執す。墓無し・墓無し。結句は真言の人師の云く「争つて醍醐を盗んで各自宗に名く」と云云。又云く「法華経の二乗作仏・久遠実成は無明の辺域。大日経に説く所の法門は明(みょう)の分位」等云云。華厳の人師云く「法華経に説く所の一念三千の法門は枝葉、華厳経の法門は根本の一念三千なり」云云。是跡形も無き僻見(びゃっけん)なり。真言・華厳経に一念三千を説きたらばこそ、一念三千と云う名目をばつかはめ。おかし・おかし、亀毛兎角(きもう・とかく)の法門なり。
 正しく久遠実成の一念三千の法門は前四味並びに法華経の迹門十四品まで秘(ひめ)させ給いて有りしが、本門正宗に至りて寿量品に説き顕し給へり。此の一念三千の宝珠をば妙法五字の金剛不壊(ふえ)の袋に入れて、末代貧窮(びんぐ)の我等衆生の為に残し置かせ給いしなり。正法・像法に出でさせ給いし論師・人師の中に此の大事を知らず。唯竜樹・天親こそ心の底に知らせ給いしかども・色にも出ださせ給はず。天台大師は玄・文・止観に秘せんと思召ししかども・末代の為にや、止観・十章・第七正観の章に至りて粗書かせ給いたりしかども、薄葉(うすは)に釈を設けて・さて止み給いぬ。但理観の一分を示して事の三千をば斟酌(しんしゃく)し給う。彼の天台大師は迹化(しゃっけ)の衆なり。此の日蓮は本化の一分なれば盛んに本門の事の分を弘むべし。
 然るに是くの如き大事の義理の篭(こも)らせ給う御経を書きて進(まい)らせ候へば・弥(いよいよ)信を取らせ給うべし。勧発品に云く「当に起つて遠く迎えて・当に仏を敬うが如くすべし」等云云。安楽行品に云く「諸天昼夜に常に法の為の故に而も之を衛護す。乃至天の諸の童子以て給使(きゅうじ)を為さん」等云云。譬喩品に云く「其の中の衆生は悉く是れ吾が子なり」等云云。
 法華経の持者は教主釈尊の御子なれば争でか梵天・帝釈・日月・衆星も昼夜・朝暮に守らせ給はざるべきや。厄の年、災難を払はん秘法には法華経に過ぎず。たのもしきかな・たのもしきかな。
 さては鎌倉に候いし時は細細(こまごま)申し承わり候いしかども、今は遠国に居住候に依りて面謁(めんえつ)を期する事・更になし。されば心中に含みたる事も使者玉章(たまぐさ)にあらざれば申すに及ばず。歎かし歎かし。当年の大厄をば日蓮に任せ給へ。釈迦・多宝・十方分身の諸仏の・法華経の御約束の実不実は是れにて量るべきなり。又又申すべく候。

弘安元年戊寅(つちのえとら)四月廿三日   日 蓮 花押

太田左衛門尉殿御返事




# by johsei1129 | 2019-11-07 07:06 | 大田乗明・尼御前 | Trackback | Comments(0)
2019年 11月 07日

佐渡から身延の大聖人の元へ度々見参した国府入道を支えた妻、是日尼を称えた【是日尼御書】

【是日尼(ぜにちあま)御書】 
■出筆時期:弘安元年(1278)四月十二日 五十七歳御作。
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:是日尼は国府入道の妻で、阿仏房・千日尼夫妻同様、佐渡流罪中に夫婦ともども念仏を捨て大聖人に帰依した。佐渡流罪中は監視の目を盗んで大聖人に食料などを供養、外護に励んだ強信徒であった。本書は佐渡ご赦免後、阿仏房とともに身延の草庵に見参、「な(菜)つみ、水くみ、たきぎ(薪)こり」と一ヶ月も滞在し、大聖人の身の回りを世話した事は、「これひとへに又尼ぎみの御功徳なるべし」と夫・国府入道(こうにゅうどう)を身延の大聖人のもとへ送り出した是日尼の志を高く称えられるとともに、「御本尊一ぷくかきてまいらせ候」と、夫妻の強い信仰に答え御本尊を授与することを記しておられます。

■ご真筆: 京都市 本満寺所蔵。
佐渡から身延の大聖人の元へ度々見参した国府入道を支えた妻、是日尼を称えた【是日尼御書】_f0301354_1654527.jpg


[是日尼御書 本文]

 さどの国より此の甲州まで入道の来たりしかば、あらふしぎや・とをもひしに、又今年来て・なつ(菜摘)み、水くみ、たきぎ(薪)こり、だん(檀)王の阿志仙人につかへしがごとくして一月に及びぬる不思議さよ。

 ふでをもちてつくしがたし。これひとへに又尼ぎみの御功徳なるべし。
 又御本尊一ぷく(幅)かきてまいらせ候。霊山浄土にては、かならず・かならず・ゆきあひたてまつるべし。恐々謹言。

 卯月十二日    日 蓮 花押

 尼是日




# by johsei1129 | 2019-11-07 06:57 | 弟子・信徒その他への消息 | Trackback | Comments(0)
2019年 11月 07日

願くは法華経のゆへに国主にあだまれて今度生死をはなれ候わばやと説いた【檀越某御返事】

【檀越某御返事(だんのつぼう・ごへんじ)】
■出筆時期:弘安元年(西暦1278年) 五十七歳御作
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:本御書は四条金吾に当てられた書と思われます。既に伊豆・佐渡と、二度の遠島への流罪を受けている大聖人に、鎌倉幕府によりさらに三度目の流罪の動きがある事を金吾が報告した手紙に対しての返書と思われます。
 本書で大聖人は、身を鬼に投げ出して仏の教えを求めた雪山童子、また杖や木、瓦石(がしゃく)をもって迫害された不軽菩薩に自身を儗(なぞ)らへ「願くは法華経のゆへに国主にあだまれて今度・生死をはなれ候わばや」と、どんな策謀にも泰然とした末法の本仏としての無作の三身としての生き様を示すとともに、「御みやづかいを法華経とをぼしめせ。一切世間の治生産業は皆実相と相違背せず」と説き、噂など気にしないで普段の仕事に励むよう金吾を諭されておられます。
■ご真筆: 中山法華経寺所蔵(重要文化財)。
願くは法華経のゆへに国主にあだまれて今度生死をはなれ候わばやと説いた【檀越某御返事】_f0301354_2121717.jpg

[真筆部分:本文緑字の箇所]


[檀越某御返事 本文]

 御文(ふみ)うけ給わり候い了んぬ。日蓮流罪して先先(さきざき)にわざわいども重なりて候に、又なにと申す事か候べきとは・をもへども、人のそん(損)ぜんとし候には不可思議の事の候へば・さが(前兆)候はんずらむ。

 もしその義候わば・用いて候はんには百千万億倍のさいわいなり。今度ぞ三度になり候。法華経も・よも日蓮を・ゆるき行者とはをぼせじ。

 釈迦・多宝・十方の諸仏・地涌千界の御利生、今度みはて(見果)候はん。あわれ・あわれ・さる事の候へかし。雪山童子の跡ををひ・不軽菩薩の身になり候はん。いたづらに・やくびやう(疫病)にや・をかされ候はんずらむ。をいじに(老死)にや死に候はんずらむ。あらあさまし・あさまし。

 願くは法華経のゆへに国主に
あだまれて、今度・生死をはなれ候わばや。天照太神・正八幡・日月・帝釈・梵天等の仏前の御ちかい・今度心み候わばや。事事さてをき候いぬ。各各の御身の事は此れより申しはからうべし。さで・をはするこそ法華経を十二時に行ぜさせ給うにては候らめ。あなかしこ・あなかしこ。

 御みやづかい(士官)を法華経とをぼしめせ。「一切世間の治生産業は皆実相と相違背せず」とは此れなり。かへす・がへす御文の心こそ、をもいやられ候へ。恐恐謹言。

 四月十一日     日 蓮 花 押




# by johsei1129 | 2019-11-07 06:54 | 四条金吾・日眼女 | Trackback | Comments(0)
2019年 11月 06日

末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし但南無妙法蓮華経なるべし、と説いた【上野殿御返事】

【上野殿御返事(法要書)】 
■出筆時期:弘安元年(西暦1278年)4月1日 五十七歳 御作。
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:本書は大石寺開基檀那の上野殿(南条時光)に与えられた御消息文で、時光が姪(姉の娘)の姫御前が死去したことを大聖人に伝えた手紙への返書となっております。
 大聖人は、この姫御前から三月の十四、五日頃「病状が急変しこれが最後の手紙となります」と書かれた書が届いていたが「されば・つゐに・はかなくならせ給いぬるか」と嘆かれておられます。さらに時光から臨終に際しこの姫御前が「南無妙法蓮華経」と唱えてなくなったことを知らされ、「此の人は先世の宿業か、いかなる事ぞ。臨終に南無妙法蓮華経と唱えさせ給いける事は一眼のかめの浮木の穴に入り、天より下(くだす)いとの大地のはりの穴に入るがごとし」と、その純粋な信仰心を讃えられておられます。
 さらに文末では「今末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし、但南無妙法蓮華経なるべし<中略>此の南無妙法蓮華経に余事をまじへば・ゆゆしきひが事なり」と諭されておられます。【英語版】
■ご真筆: 現存していない。古写本:日興上人筆(富士大石寺所蔵)

[上野殿御返事(法要書) 本文]
 
 白米一斗・いも一駄・こんにやく五枚・わざと送り給び候い畢んぬ。
 なによりも石河の兵衛入道殿のひめ御前の度度・御ふみをつかはしたりしが、三月の十四五やげ(夜比)にて候しやらむ、御ふみありき。この世の中をみ候に、病なき人も・こねん(今年)なんどをすぐべしともみへ候はぬ上、もとより病(やまい)ものにて候が、すでにきうになりて候、さいごの御ふみなりと・かかれて候いしが、されば・つゐに・はかなくならせ給いぬるか。

 臨終に南無阿弥陀仏と申しあはせて候人は、仏の金言なれば一定(いちじょう)の往生とこそ人も我も存じ候へ。しかれども・いかなる事にてや候いけん、仏のく(悔)ひかへさせ給いて未顕真実・正直捨方便と・とかせ給いて候が・あさましく候ぞ。

 此れを日蓮が申し候へば・そら(虚)事・うわのそらなりと日本国にはいかられ候。此れのみならず・仏の小乗経には十方に仏なし・一切衆生に仏性なしと・とかれて候へども、大乗経には十方に仏まします・一切衆生に仏性ありと・とかれて候へば、たれか小乗経を用い候べき。皆大乗経をこそ信じ候へ。此れのみならず・ふしぎのちがひめ(違目)ども候ぞかし。

 法華経は釈迦仏・已今当の経経を皆く(悔)ひかへし・うちやぶりて、此の経のみ真実なりと・とかせ給いて候いしかば、御弟子等用ゆる事なし。爾の時・多宝仏・証明をくわへ、十方の諸仏・舌を梵天につけ給いき。さて多宝仏はとびらをたて、十方の諸仏は本土に・かへらせ給いて後は、いかなる経経ありて法華経を釈迦仏やぶらせ給うとも、他人わゑ(和会)になりて・やぶりがたし。しかれば法華経已後の経経・普賢経・涅槃経等には法華経をば・ほむる事はあれどもそしる事なし。

 而るを真言宗の善無畏等・禅宗の祖師等、此れをやぶれり。日本国・皆此の事を信じぬ。例せば将門・貞任(さだとう)なんどに・かたらはれし人人のごとし。日本国すでに釈迦・多宝・十方の仏の大怨敵となりて数年になり候へば、やうやく・やぶれゆくほどに、又かう申す者を御あだ(怨)みあり。わざは(禍)ひに・わざはひのならべるゆえに、此の国土すでに天のせ(責)めを・かほり候はんずるぞ。

 此の人は先世の宿業か、いかなる事ぞ、臨終に南無妙法蓮華経と唱えさせ給いける事は、一眼のかめ(亀)の浮木(うきぎ)の穴に入り、天より下(くだす)いとの大地のはり(針)の穴に入るがごとし。あらふしぎ・ふしぎ。

 又念仏は無間地獄に堕つると申す事をば経文に分明(ふんみょう)なるをばしらずして、皆人・日蓮が口より出でたりとおもへり。天はまつげ(睫毛)のごとしと申すはこれなり。虚空の遠きと・まつげの近きと・人みな・みる事なきなり。此の尼御前は日蓮が法門だに・ひが(僻)事に候はば・よも臨終には正念には住し候はじ。

 又日蓮が弟子等の中に、なかなか法門しりたりげに候人人は・あしく候げに候。南無妙法蓮華経と申すは法華経の中の肝心、人の中の神(たましい)のごとし。此れにものを・ならぶれば、きさき(后)のならべて二王をおとこ(夫)とし、乃至きさきの大臣已下になひなひ・とつ(嫁)ぐがごとし。わざはひ(禍)のみなもとなり。正法・像法には此の法門をひろめず。余経を失わじがためなり。

 今末法に入りぬれば余経も法華経もせん(詮)なし、但南無妙法蓮華経なるべし。かう申し出だして候も、わたくしの計(はからい)にはあらず。釈迦・多宝・十方の諸仏・地涌千界の御計(おはからい)なり。
 此の南無妙法蓮華経に余事をまじ(交)へば、ゆゆしきひが(僻)事なり。日出でぬれば・とほしび(灯)せん(詮)なし。雨のふるに露なにのせんかあるべき。嬰児(みどりご)に乳(ちち)より外のものを・やしな(養)うべきか。良薬に又薬を加えぬる事なし。

 此の女人は・なにとなけれども自然に此の義にあたりて・しををせるなり。たうとし、たうとし。恐恐謹言。

 弘安元年四月一日       日  蓮  花 押

 上野殿御返事




# by johsei1129 | 2019-11-06 19:52 | 南条時光(上野殿) | Trackback | Comments(0)
2019年 11月 06日

已今当の経文は仏すらやぶりがたし、と説いた【衆生身心御書】

【衆生身心御書】
■出筆時期:弘安元(1278年)春 五十七歳 御作
■出筆場所:鎌倉 草庵にて。
■出筆の経緯:本抄真筆の前後が欠けているため、宛先は不明ですが、文末に「いとまなき時なれども・心ざしのゆくところ・山中の法華経へ・まうそうか・たかんな(孟宗竹の筍)ををくらせ給う。福田によきたねを下させ給うか。なみだもとどまらず」と記されておられるので、強信徒が弘安元年前後は疫病が発生し世の中が苦しんでいる中、孟宗竹の筍を身延山中の大聖人のもとへご供養されたその厚い志を称えて送られた書と思われます。
本書で大聖人は、釈尊の一切経の日本への伝来の経緯を記すとともに、法華経 法師品第十の「已に説き、今説き、当に説かんとす」の文を引き、法華経が諸教の中で最第一であると断じられておられます。
■ご真筆:富士大石寺 所蔵。

[衆生身心御書 本文]

衆生の身心をと(説)かせ給う。其の衆生の心にのぞむとて・と(説)かせ給へば人の説なれども衆生の心をいでず。かるがゆへに随他意の経となづけたり。譬へばさけ(酒)も・この(好)まぬ・をや(親)の・きわめてさけを・このむいとをし(最愛)き子あり。かつ(且)はいとをしみ・かつは心をとらんがために、かれ(彼)にさけをすす(勧)めんがために・父母も酒をこのむよしをするなり。しかるを・はかなき子は父母も酒をこのみ給うとをもへり。

 提謂(だいい)経と申す経は人天の事をとけり。阿含経と申す経は二乗の事をとかせ給う。華厳経と申す経は菩薩のことなり。方等・般若経等は或は阿含経・提謂経にに(似)たり、或は華厳経にもにたり。此れ等の経経は末代の凡夫・これをよ(読)み候へば仏の御心に叶うらんとは行者はをもへども、くはしく・これをろむ(論)ずれば己(おのれ)が心をよむなり。己が心は本よりつた(拙)なき心なれば・はかばかしき事なし。法華経と申すは随自意と申して仏の御心をとかせ給う。仏の御心はよき心なるゆへに、たとい・しらざる人も此の経をよみたてまつれば利益はかりなし。麻の中のよもぎ(蓬)、つつ(筒)の中のくちなは(蛇)、よ(善)き人にむつ(睦)ぶもの、なにとなけれども心も・ふるまひも・言(ことば)も・なを(直)しくなるなり。法華経もかくのごとし。なにとなけれども・この経を信じぬる人をば仏のよき物とをぼすなり。此の法華経に・をひて又機により・時により・国により・ひろ(弘)むる人により・やうやうにかわりて候をば、等覚の菩薩までも・こ(此)のあわひをば・しらせ給わずとみへて候。まして末代の凡夫は・いかでか・ち(は)からひ・を(遂)をせ候べき。
 しかれども人のつかひに三人あり。一人はきわめてこざかしき。一人ははかなくもなし・又こざかしからず。一人はきわめて・はかなく・たしかなる。此の三人に第一はあやまち(過)なし。第二は第一ほどこそ・なけれども・すこしこざかしきゆへに、主の御ことばに私の言をそ(添)うるゆへに・第一のわるきつかい(使)となる。第三はきわめて・はかなくあるゆへに・私の言をまじ(交)へず・きわめて正直なるゆへに、主の言(こと)ばを・たが(違)へず。第二よりもよき事にて候。あやまつて第一にも・すぐれて候なり。第一をば月支の四依にたとう。第二をば漢土の人師にたとう。第三をば末代の凡夫の中に愚癡(ぐち)にして正直なる物にたとう。

 仏在世はしばらく此れををく。仏の御入滅の次の日より一千年をば正法と申す。この正法一千年を二つにわかつ。前の五百年が間は小乗経ひろまらせ給う。ひろめし人人は迦葉・阿難等なり。後の五百年は馬鳴・竜樹・無著・天親等・権大乗経を弘通せさせ給う。法華経をば・かたはし(片端)計りかける論師もあり。又つやつや申しい(出)ださぬ人もあり。正法一千年より後の論師の中には少分を仏説にに(似)たれども多分を・あや(誤)まりあり。あやまりなくして而もた(足)らざるは迦葉・阿難・馬鳴・竜樹・無著・天親等なり。
 像法に入り一千年・漢土に仏法わたりしかば始めは儒家と相論せしゆへに、いとま(間)なきかのゆへに仏教の内の大小・権実の沙汰なし。やうやく仏法流布せし上・月支より・かさねがさね仏法わたり来るほどに、前の人人は・かしこ(賢)きやうなれども・後にわたる経論をもつて・みれば・はかなき事も出来す。又はかなく・をも(思)ひし人人も・かしこくみゆる事もありき。結句は十流になりて千万の義ありしかば愚者はいづれに・つくべしともみへず、智者とをぼしき人は辺執かぎりなし。而れども最極は一同の義あり。所謂一代第一は華厳経・第二は涅槃経・第三は法華経。此の義は上一人より下万民にいたるまで異義なし。大聖とあう(仰)ぎし法雲法師・智蔵法師等の十師の義・一同なりしゆへなり。

 而るを像法の中の陳隋の代に智顗(ちぎ)と申す小僧あり、後には智者大師とがう(号)す。法門多しといへども詮するところ、法華・涅槃・華厳経の勝劣の一つ計りなり。智顗法師云く、仏法さかさまなり云云。陳主・此の事をただ(糾)さんがために南北の十師の最頂たる恵(え)ごう僧上・恵光僧都・恵栄・法歳法師等の百有余人を召し合わせられし時、法華経の中には「諸経の中に於て最も其の上に在り」等云云。又云く「已今当説・最為難信難解」等云云。已とは無量義経に云く「摩訶般若華厳海空」等云云。当とは涅槃経に云く「般若はら(波羅)蜜より大涅槃を出だす」等云云。此の経文は華厳経・涅槃経には法華経勝ると見ゆる事赫赫(かくかく)たり・明明たり。御会通あるべしと・せ(責)めしかば、或は口をと(閉)ぢ・或は悪口をは(吐)き・或は色をへん(変)じなんど・せしかども、陳主立つて三拝し百官掌をあ(合)わせしかば力及ばず・ま(負)けにき。

 一代の中には第一法華経にてありしほどに、像法の後の五百に新訳の経論重ねてわたる。大宗皇帝の貞観三年に玄奘と申す人あり。月支に入りて十七年、五天の仏法を習いきわめて貞観十九年に漢土へわたりしが、深密経・瑜伽論(ゆがろん)・唯識論・法相宗をわたす。玄奘云く「月支に宗宗多しといへども此の宗第一なり」大宗皇帝は又漢土第一の賢王なり、玄奘を師とす。此の宗の所詮に云く「或は三乗方便・一乗真実、或は一乗方便・三乗真実」又云く「五性は各別なり。決定性と無性の有情は永く仏に成らず」等と云云。此の義は天台宗と水火なり。而も天台大師と章安大師は御入滅なりぬ。其の已下の人人は人非人なり。すでに天台宗破れてみ(見)へしなり。

 其の後、則天皇后の御世に華厳宗立つ。前に天台大師にせ(責)められし六十巻の華厳経をば・さしをきて、後に日照三蔵のわたせる新訳の華厳経八十巻をもつて立てたり。此の宗のせん(詮)にいわく、華厳経は根本法輪・法華経は枝末法輪等云云。則天皇后は尼にてをはせしが内外典に・こざかしき人なり。慢心たか(高)くして天台宗をさ(下)げ・をぼしてありしなり。法相といゐ・華厳宗といゐ・二重に法華経かくれさせ給う。
 其の後、玄宗皇帝の御宇に月支より善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵、大日経・金剛頂経・蘇悉地経と申す三経をわたす。此の三人は人がらといゐ・法門といゐ・前前の漢土の人師には対すべくもなき人人なり。而も前になかりし印と真言とを・わたすゆへに、仏法は已前には此の国になかりけりと・をぼせしなり。此の人人の云く、天台宗は華厳・法相・三論には勝れたり。しかれども此の真言経には及ばずと云云。其の後、妙楽大師は天台大師のせめ給はざる法相宗・華厳宗・真言宗をせめ給いて候へども、天台大師のごとく公場にてせめ給はざれば・ただ闇夜のにしき(錦)のごとし。法華経になき印と真言と現前なるゆへに、皆人一同に真言まさりにて有りしなり。

 像法の中に日本国に仏法わたり所謂(いわゆる)欽明天皇の六年なり。欽明より桓武にいたるまで二百余年が間は三論・成実・法相・倶舎・華厳・律の六宗・弘通せり。真言宗は人王四十四代・元正天皇の御宇にわたる。天台宗は人王第四十五代・聖武天王の御宇にわたる。しかれども・ひろまる事なし。桓武の御代に最澄法師、後には伝教大師とがうす。入唐已前に六宗を習いきわむる上、十五年が間・天台・真言の二宗を山にこもり給いて御覧ありき。入唐已前に天台宗をもつて六宗をせめしかば七大寺皆せめられて最澄の弟子となりぬ。六宗の義やぶ(破)れぬ。後・延暦廿三年に御入唐、同じき廿四年御帰朝。天台・真言の宗を日本国にひろめたり。但し勝劣の事は内心に此れを存じて人に向つてとかざるか。
 同代に空海という人あり後には弘法大師とがうす。延暦廿三年に御入唐、大同三年御帰朝。但真言の一宗を習いわたす。此の人の義に云く法華経は尚(なお)華厳経に及ばず、何に況んや真言にをひてをや。

 伝教大師の御弟子に円仁という人あり。後に慈覚大師とがうす。去ぬる承和五年の御入唐、同十四年に御帰朝。十年が間・真言・天台の二宗をがく(学)す。日本国にて伝教大師・義真・円澄に天台・真言の二宗を習いきわめたる上、漢土にわたりて十年が間・八箇の大徳にあひて真言を習い、宗叡・志遠等に値い給いて天台宗を習う。日本に帰朝して云く、天台宗と真言宗とは同じく醍醐なり、倶に深秘なり等云云。宣旨を申して・これにそ(添)う。
 其の後円珍と申す人あり。後には智証大師とがうす。入唐已前には義真和尚の御弟子なり。日本国にして義真・円澄・円仁等の人人に天台・真言の二宗習いきわめたり。其の上、去ぬる仁嘉三年に御入唐、同貞観元年に御帰朝。七年が間・天台・真言の二宗を法全(ほっせん)・良諝等の人人に習いきわむ。天台・真言の二宗の勝劣は鏡をかけたり。後代に一定(いちじょう)あらそ(争)ひありなん、定むべしと云つて天台・真言の二宗は譬へば人の両の目・鳥の二の翼のごとし。此の外異義を存ぜん人人をば祖師伝教大師にそむ(背)く人なり、山に住むべからずと宣旨を申しそへて弘通せさせ給いき。されば漢土日本に智者多しといへども此の義をやぶる人はあるべからず。此の義まことならば習う人人は必ず仏にならせ給いぬらん。あがめさせ給う国王等は必ず世・安穏にありぬらんとをぼゆ。

 但し予が愚案は人に申せども、御もち(用)ゐあるべからざる上、身のあだ(仇)となるべし。又きかせ給う弟子檀那も安穏なるべからずと・をもひし上、其の義又たが(違)わず。但此の事は一定(いちじょう)仏意には叶わでもや・あるらんとをぼへ候。法華経一部・八巻・二十八品には此の経に勝れたる経をはせば、此の法華経は十方の仏あつまりて大妄語をあつめさせ給えるなるべし。随つて華厳・涅槃・般若・大日経・深密等の経経を見るに「諸経の中に於て最も其の上に在り」の明文をやぶりたる文なし。随つて善無畏等・玄奘等・弘法・慈覚・智証等、種種のたくみ(巧)あれども法華経を大日経に対して・やぶりたる経文は・いだし給わず。但印・真言計りの有無をゆへ(所以)とせるなるべし。数百巻のふみをつくり、漢土・日本に往復して無尽のたばかりをなし・宣旨を申しそへて・人を・をどされんよりは経文分明(ふんみょう)ならば・たれ(誰)か疑ひをなすべき。
 つゆ(露)つもりて河となる、河つもりて大海となる。塵つもりて山となる、山かさなりて須弥山となれり。小事つもりて大事となる、何に況んや此の事は最も大事なり。疏(じょ)をつくられけるにも両方の道理・文証をつく(尽)さるべかりけるか。又宣旨も両方を尋ね極めて分明(ふんみょう)の証文をか(書)きのせて・いま(誡)しめあるべかりけるか。

 已今当の経文は仏すら・やぶりがたし。何に況んや論師・人師・国王の威徳をもつて・やぶるべしや。已今当の経文をば梵王・帝釈・日月・四天等、聴聞して各各の宮殿にかきとどめて・をは(在)するなり。まことに已今当の経文を知らぬ人の有る時は、先の人人の邪義は・ひろまりて失(とが)なきやうにては・ありとも、此の経文を・つよく立て退転せざるこわ(強)物出来しなば大事出来すべし。いや(鄙)しみて或はの(詈)り・或は打ち・或はながし・或は命をた(断)たんほどに、梵王・帝釈・日月・四天をこりあひて此の行者のかたうど(方人)を・せんほどに、存外に天のせめ来たりて民もほろび・国もやぶれんか。法華経の行者はいや(卑)しけれども・守護する天こわし。例せば修羅が日月をの(呑)めば頭七分にわる、犬は師子をほゆれば・はらわた(腸)くさる。今・予(よ)みるに日本国かくのごとし。又此れを供養せん人人は法華経供養の功徳あるべし。伝教大師釈して云く「讚めん者は福を安明に積み、謗ぜん者は罪を無間に開かん」等云云。

 ひへ(稗)のはん(飯)を辟支仏(ひゃくしぶつ)に供養せし人は宝明如来となり、つちのもちゐ(餅)を仏に供養せしかば閻浮提の王となれり。設いこう(功)をいたせども・まこと(誠)ならぬ事を供養すれば、大悪とは・なれども善とならず。設い心をろ(愚)かに・すこしきの物なれども、まことの人に供養すれば・こう(功)大なり。何に況んや心ざしありて、まことの法を供養せん人人をや。
 其の上・当世は世みだれて民の力よわ(弱)し。いとまなき時なれども・心ざしのゆくところ・山中の法華経へ・まうそう(孟宗)が・たかんな(竹の子)を・をくらせ給う。福田によきたねを下させ給うか。なみだもとどまらず。


【妙法蓮華経 法師品 第十】

薬王今告汝 我所説諸経 而於此経中 法華最第一
爾時仏復告 薬王菩薩摩訶薩 我所説経典
無量千万億 已説 今説 当説 而於其中 此法華経
最為難信難解 薬王 此経是諸仏 秘要之蔵
不可分布 妄授与人 諸仏世尊 之所守護
従昔已来 未曾顕説 而此経者 如来現在
猶多怨嫉 況滅度後

[和訳]
 薬王(菩薩)よ、今汝に告ぐ、 我(釈尊)説ける所の諸の経あり 而して此の経の中に於いて法華が最も第一である。
爾時(そのとき)、仏は復た薬王菩薩摩訶薩告げたまいり、我が説く所の経典は、
無量千万億あり、已に説き、今説き、当に説かんとするものあり、而して其の中に於いて此の法華経は
最も信じ難く、解し難きなり。薬王よ、此の経は是れ諸仏の 秘要の蔵なれば、
分布して妄(みだり)に人に授与すべからずなり。諸仏世尊の守護する所なれば、
昔より已来(このかた)、未だ嘗(かつ)て顕(あらわ)に説かざりしなり。而して此の経は、如来の現在すら
猶(な)を怨嫉が多く、況や(如来)滅度の後は云うまでもない。




# by johsei1129 | 2019-11-06 19:35 | 弟子・信徒その他への消息 | Trackback | Comments(0)