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2026年 05月 06日
されば涅槃経に云く「時を知るを以ての故に大法師と名づく」と説かれたり。 今末法は南無妙法蓮華経の七字を弘めて利生得益(りしょう・とくやく)あるべき時なり。されば此の題目には余事を交えば僻事(ひがごと)なるべし。此の妙法の大曼荼羅を身に持ち・心に念じ・口に唱え奉るべき時なり。之に依つて一部二十八品の頂上に南無妙法蓮華経・序品第一と題したり。 一 蓮華 とは本因本果なり。此の本因本果と云うは一念三千なり。本有(ほんぬ)の因・本有の果なり。今始めたる因果に非ざるなり。五百塵点の法門とは此の事を説かれたり。 本因の因と云うは下種の題目なり。本果の果とは成仏なり。因と云うは信心領納(りょうのう)の事なり。此の経を持ち奉る時を本因とす。其の本因のまま成仏なりと云うを本果とは云うなり。 日蓮が弟子檀那の肝要は本果より本因を宗とするなり。本因なくしては本果有る可からず。仍て本因とは慧(え)の因にして名字即の位なり、本果は果にして究竟即の位なり。究竟即とは九識本覚の異名なり。九識本法の都とは法華の行者の住所なり。神力品に云く、若しは山谷曠野(せんごく・こうや)等と説けり。即ち是れ道場と見えたり。豈(あに)法華の行者の住所は生処・得道・転法輪・入涅槃の諸仏の四処の道場に非ずや。 ![]() 一 爾前無得道の事 此の法門は蓮華の二字より起れり。其の故は蓮華の二字を以て云うなり。三世の諸仏の成道を唱うるは蓮華の二字より出でたり。 権教に於て蓮華の沙汰無し。若しありと云うとも有名無実の蓮華なるべし。三世の諸仏の本時の下種を指して華と名け、此の下種の華によつて成仏の蓮を取る。妙法蓮華即ち下種なり、下種即ち南無妙法蓮華経なり。 華は本因・蓮は本果なれば、華の本因を不信謗法の人、豈具足せんや。経に云く「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば、則ち一切世間の仏種を断ぜん」云云。此の蓮華に迷う故に十界具足無し。十界具足せざれば一念三千・跡形無きなり。 一切の法門は蓮華の二字より起れり。一代説教に於て無得道と云うも蓮華の二字より起れり。深く之を案ず可し。 一 如是我聞の事 仰せに云く、如と云うは衆生の如と・仏の如と一如にして無二如なり。然りと雖も九界と仏界と分れたるを是と云うなり。 如は如を不異に名く。即ち空の義なりと釈して少しも・ことならざるを云うなり。所詮・法華経の意は煩悩即菩提・生死即涅槃・生仏不二・迷悟一体といえり。是を如とは云うなり。されば如は実相・是は諸法なり。又如は心法・是は色法、如は寂・是は照なり。如は一念・是は三千なり。今経の心は文文・句句・一念三千の法門なり。 惣じて如是我聞の四字より外は・今経の体全く無きなり。如と妙とは同じ事、是とは法と又同じ事なり。法華経と釈尊と我等との三、全く不同無く・如我等無異なるを如と云うなり。仏は悟り・凡夫は迷なりと云うを是とは云うなり。我聞と云うは、我は阿難なり、聞とは耳の主(じゅ)と釈せり、聞とは名字即なり。 如是の二字は妙法なり。阿難を始めて霊山一会(りょうぜんいちえ)の聴衆・同時に妙法蓮華経の五字を聴聞せり。仍つて我も聞くと云えり。されば相伝の点には如は是なりきと我れ聞くといえり。 所詮末法当今には南無妙法蓮華経を我も聞くと心得べきなり。我は真如法性の我なり。天台大師は同聞衆と判ぜり、同じ事を聞く衆と云うなり。同とは妙法蓮華経なり。聞は即身成仏・法華経に限ると聞くなり云云。 一 十如是の事 仰せに云く、此の十如是は法華経の眼目・一切経の惣要たり。されば此の十如是を開覚しぬれば諸法に於て迷悟無く・実相に於て染浄(せんじょう)無し。之れに依つて天台大師は、止観の十章も此の十如是より釈出せり。然る間・十如是に過ぎたる法門更に以て之れ無し。 爰を以て和尚授けて云く「十大章は是れ全く十如是。若し大意を覚る時、性如是の意を以て下の玄如の図を分別す可し」と。 十如是を十大章に習う事は性如是は大意・相如是は釈名・体如是は体相・力如是は摂法(しょうほう)・作如是は偏円・縁如是は方便・因如是は正観・果報如是は果報・本末究竟如是は旨帰なり。此の中に起教の章は化他利物・果上化用(けた・りもつ・かじょう・けゆう)と云うなり云云。 一 今我喜無畏の事 仰せに云く、此の文は権教を説き畢らせ給いて法華経を説かせ給う時なれば、喜びておそれなしと観じ給えり。其の故は爾前の間は一切衆生を畏れ給えり。若し法華経を説かずして空しくやあらんずらんと思召(おぼしめ)して畏れ深くありと云う文なり。さて今は恐るべき事なく、時節・来つて説く間・畏れなしと喜び給えり。 今日蓮等の類も是くの如く、日蓮も三十二までは畏れありき。若しや此の南無妙法蓮華経を弘めずして・あらんずらんと畏れありき。今は即ち此の恐れ無く・既に末法当時・南無妙法蓮華経の七字を日本国に弘むる間・恐れなし。終には一閻浮提に広宣流布せん事・一定(いちじょう)なるべし云云。 一 有大長者の事 我等衆生の振舞の当体・仏の振舞なり。此の当体のふるまいこそ長者なれ。仍つて観心の長者は我等凡夫なり。然るに末法当今の法華経の行者より外に観心の長者無きなり。 今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者、無上宝聚・不求自得の長者に非ずや。既称此人為仏(きしょうしにん・いぶつ)の六字に心を留めて案ずべきなり云云。 一 等一大車の事 仰せに云く、此の大車とは直至道場(じきし・どうじょう)の大白牛車にして其の疾(はや)きこと風の如し。 所詮南無妙法蓮華経を等一大車と云うなり。等と云うは諸法実相なり。一とは唯有一乗法なり。大とは大乗なり。車とは一念三千なり。仍つて釈には等の字を子等車等と釈せり。子等の等と如我等無異の等とは同なり。車等の等は平等大慧の等なり。 今日蓮等の類い・南無妙法蓮華経と唱え奉る者は男女・貴賤共に無上宝聚・不求自得の金言を持つ者なり。智者・愚者をきらわず共に即身成仏なり云云。 疏の五に云く「一に等子・二に等車、子等しきを以ての故に則ち心等し。一切衆生等しく仏性有るに譬う。仏性同じきが故に等しく是れ子なり。第二に車等とは法等しきを以ての故に仏法に非ざること無し。一切法・皆摩訶衍(まかえん)なるに譬う。摩訶衍同じきが故に等しく是れ大車なり。而して各賜と言うは各々本習(ほんじゅう)に随う。四諦・六度・無量の諸法・各各旧習(おのおの・くじゅう)に於て真実を開示す。旧習同じからず、故に各と言う。皆摩訶衍なり故に大車と言う」云云。 一 其車高広(ごしゃこうこう)の事 仰せに云く、此の車は南無妙法蓮華経なり。即ち我等衆生の体なり。法華一部の総体なり。高広とは仏知見なり。されば此の車を方便品の時は諸仏智慧と説き、其の智慧を甚深無量と称歎(しょうたん)せり。歎の言には甚深無量とほめたり、爰(ここ)には其車と説いて高広とほめたり。 されば文句の五に云く「其車高広の下は如来の知見深遠なるに譬う。横に法界の辺際(へんざい)に周く、堅(たて)に三諦の源底(げんてい)に徹す。故に高広と言うなり」と。 所詮此の如来とは一切衆生の事なり。既に諸法実相の仏なるが故なり。知見とは色心の二法なり。知は心法・見は色法なり。色心二法を高広と云えり。高広即本迹二門なり、此れ即ち南無妙法蓮華経なり云云。 一 乗此宝乗・直至道場の事 仰せに云く、此の経文は我等衆生の煩悩即菩提・生死即涅槃を明かせり。 其の故は文句の五に云く「此の因・易(かわ)ること無きが故に直至と云う」と。 此の釈の心は爾前の心は煩悩を捨てて生死を厭(いと)うて別に菩提涅槃を求めたり。法華経の意は煩悩即菩提・生死即涅槃と云えり。直と即とは同じ事なり。 所詮日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住処即寂光土と心得可きなり。然れば此の実乗に乗じて忽ちに妙覚極果の位に至るを直至道場とは云うなり。直至と云う文の意は四十二位を爰(ここ)にて極めたり。 此の直の一字は地獄即寂光・餓鬼即寂光土なり。法華経の行者の住処、山谷曠野なりとも直至道場なり。道場とは究竟(くきょう)の寂光なり。仍つて乗此宝乗の上の乗は法華の行者、此の品の意にては中根の四大声聞なり、惣じて一切衆生の事なり、今末法に入つては日蓮等の類いなり。 宝乗の乗の字は大白牛車の妙法蓮華経なり。然れば上の乗は能乗・下の乗は所乗なり。宝乗は蓮華なり。釈迦・多宝等の諸仏も此の宝乗に乗じ給えり。此れを提婆品に重ねて説く時「若在仏前・蓮華化生」と云云。 釈迦・多宝の二仏は我等が己心なり。此の己心の法華経に値い奉つて成仏するを顕わさんとして釈迦・多宝・二仏・並座(びょうざ)して乗此宝乗・直至道場を顕わし給えり。 此の乗とは車なり、車は蓮華なり。此の蓮華の上の妙法は我等が生死の二法・二仏なり。直至の至は此れより彼(かしこ)へいたるの至るには非ず。住処即寂光と云うを至とは云うなり。 此の宝乗の宝は七宝の大車なり。七宝即ち頭上の七穴・七穴即ち末法の要法・南無妙法蓮華経是なり。此の題目の五字、我等衆生の為には三途の河にては船となり、紅蓮地獄(ぐれんじごく)にては寒さをのぞき、焦熱地獄にては凉風となり、死出の山にては蓮華となり、渇せる時は水となり、飢えたる時は食となり、裸かなる時は衣となり、妻となり子となり、眷属となり家となり、無窮(むぐう)の応用を施して一切衆生を利益し給うなり。直至道場とは是なり。仍つて此の身を取りも直さず寂光土に居るを直至道場とは云うなり。直の字に心を留めて之を案ず可し云云。 一 若人不信 毀謗此経 則断一切 世間仏種の事 仰に云く、此の経文の意は小善成仏を信ぜずんば一切世間の仏種を断ずと云う事なり。 文句の五に云く「今経に小善成仏を明す。此れは縁因を取つて仏種と為す。若し小善の成仏を信ぜずんば則ち一切世間の仏種を断ずるなり」文。 爾前経の心は小善成仏を明さざるなり。法華経の意は一華・一香の小善も法華経に帰すれば大善となる。縦い法界に充満せる大善なりとも・此の経に値わずんば善根とはならず。譬えば諸河の水・大海に入りぬれば鹹(うしほ)の味となる、入らざれば本の水なり。法界の善根も法華経へ帰入せざれば善根とはならざるなり。 されば釈に云く「断一切仏種とは浄名には煩悩を以て如来の種と為す。此れ境界性(きょうがいしょう)を取るなり」と。 此の釈の心は浄名経の心ならば我等衆生の一日一夜に作(な)す所の罪業・八億四千の念慮を起す。余経の意は皆三途の業因と説くなり。法華経の意は此の業因・即ち仏ぞと明せり。されば煩悩を以て如来の種子とすと云うは此の義なり。 此の浄名経の文は正しく文在爾前・義在法華の意なり。此の境界性と云うは末師・釈する時、能生煩悩・名境界性と判ぜり。我等衆生の眼耳(げんに)等の六根に妄執を起すなり。是を境界性と云うなり。権教の意は此の念慮を捨てよと説けり、法華経の心は此の境界性の外に三因仏性の種子なし、是れ即ち三身円満の仏果となるべき種性なりと説けり。 此の種性を権教を信ずる人は之を知らず・此の経を謗るが故に凡夫即極の義をも知らず、故に一切世間の仏種を断ずるなり。されば六道の衆生も三因仏性を具足して終に三身円満の尊容(そんよう)を顕す可き所に、此の経を謗ずるが故に六道の仏種をも断ずるなり。 されば妙楽大師云く「此の経は遍く六道の仏種を開す。若し此の経を謗ずるは義・断に当るなり」と。 所詮日蓮が意は一切の言は十界をさす。此の経を謗ずるは十界の仏種を断ずるなり。されば誹謗の二字を大論に云く「口に謗(そし)るを誹と云い、心に背くを謗と云う」と。仍つて色心三業に経て法華経を謗じ奉る人は入阿鼻獄疑い無きなり。所謂弘法・慈覚・智証・善導・法然・達磨等の大謗法の者なり。今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る、豈三世の諸仏の仏種を継ぐ者に非ずや云云。 一 現世安穏・後生善処の事 仰に云く、所詮此の妙法蓮華経を聴聞し奉るを現世安穏とも後生善処とも云えり。既に上に「是の法を聞き已(おわ)って」と説けり。聞は名字即の凡夫なり。妙法を聞き奉る所にて即身成仏と聞くなり。「若し能く持つこと有らば・即ち仏身を持つなり」とは是なり。 聞く故に・持ち奉るの故に三類の強敵来たる。来たるを以て現世安穏の記文顕れたり。法華の行者なる事疑ひ無きなり。法華の行者はかかる大難に値うべしと見えたり。大難に値うを以て後生善処の成仏は決定せり。是れ豈現世にして安穏なるに非ずや。 後生善処は提婆品に分明に説けり。所詮現世安穏とは法華経を信じ奉れば三途(さんず)八難の苦をはなれ、善悪上下の人までも皆教主釈尊・同等の仏果を得て自身本覚の如来なりと顕す。自身の当体・妙法蓮華経の薬草なれば現世安穏なり。爰(ここ)を開くを後生善処と云うなり。 妙法蓮華経と云うは妙法の薬草なり。所詮現世安穏は色法・後生善処は心法なり。十界の色心・妙法と開覚するを現世安穏・後生善処とは云うなり。所詮法華経を弘むるを以て現世安穏・後生善処と申すなり云云。 一 根茎枝葉(こんきょうしよう)の事 仰せに云く、此の文をば釈には信戒定慧と云云。此の釈の心は、草木は此の根茎枝葉を以て増長と云うなり。仏法修行するも又斯(か)くの如し。 所詮我等衆生・法華経を信じ奉るは根をつけたるが如し。法華経の文の如く是名持戒の戒体を本として正直捨方便・但説無上道の如くなるは戒なり。法華経の文相にまかせて法華三昧を修するは定なり。題目を唱え奉るは慧なり。 所謂(いわゆる)法界悉く生住異滅するは信、己己本分は戒、三世不改なるは定なり・各各の徳義を顕したるは慧なり。是れ即ち法界平等の根茎枝葉なり。是れ即ち真如実相の振舞なり。 所謂戒定慧の三学・妙法蓮華経なり。此れを信ずるを根と云うなり。釈に云く「三学倶に伝うるを名けて妙法と曰う」と云云。 一 根茎枝葉の事 仰せに云く、此れは我等が一身なり。根とは心法なり、茎とは我等が頭より足に至るまでなり、枝とは手足なり、葉とは毛なり、此の四を根茎枝葉と説けり。法界三千・此の四を具足せずと云う事なし。是れ即ち信戒定慧の体にして実相一理の南無妙法蓮華経の体なり。法華不信の人は根茎枝葉ありて増長あるべからず、枯槁(ここう)の衆生なるべし云云。 一 等雨法雨の事 仰せに云く、等とは平等の事なり。善人・悪人・二乗・闡提(せんだい)・正見・邪見等の者にも妙法の雨を惜しまず平等にふらすと云う事なり。されば法の雨を雨(ふら)すと云う時は、大覚世尊ふらしてに成り給えり。さて法の雨ふりてとよむ時は、本より実相平等の法雨は常住本有の雨なれば今始めてふるべきに非ず。 されば諸法実相を譬喩品の時は風月に譬えたり。妙楽大師は何ぞ隠れ・何ぞ顕れんと釈せり。実相の法雨は三世常恒にして隠顕更に無きなり。所詮等の字はひとしくとよむ時は、釈迦如来の平等の慈悲なり。さてひとしきとよむ時は平等大慧の妙法蓮華経なり。ひとしく法の雨をふらすとは能弘(のうぐ)につけたり。ひとしき法の雨ふりたりと読む時は所弘(しょぐ)の法なり。 所詮法と云うは十界の諸法なり。雨とは十界の言語・音声の振舞なり。ふるとは自在にして地獄は洞燃猛火(どうねんもうか)乃至仏界の上の所作音声を等雨法雨とは説けり。此の等雨法雨は法体(ほったい)の南無妙法蓮華経なり。 今末法に入つて日蓮等の類いの弘通する題目は等雨法雨の法体なり。此の法雨・地獄の衆生・餓鬼・畜生等に至るまで同時にふりたる法雨なり。日本国の一切衆生の為に付属し給う法雨は題目の五字なり。所謂日蓮建立の御本尊・南無妙法蓮華経是なり云云。 方便品には本末究竟等と云えり。譬喩品には等一大車と云えり。此の等の字を重ねて説かれたり。或は如我等無異と云えり。此の等の字は宝塔品の「如是如是」と同じなり。所詮等とは南無妙法蓮華経なり。法雨をふらすとは今身より仏身に至るまで持つや否やと云う受持の言語なり云云。 一 如従飢国来(にょじゅう・けこくらい)・忽遇大王膳(こつぐう・だいおうぜん)の事 仰せに云く、此の文は中根の四大声聞・法華に来れる事、譬えば・うえたる国より来たりて大王のそなえに値うが如くの歓喜なりと云えり。 然らば此の文の如くならば法華已前の人は餓鬼界の衆生なり。既に飢国来と説けり。大王膳とは醍醐味なり。中根の声聞・法華に来つて一乗醍醐の法味を得て忽(たちまち)に法王の位に備りたり。忽(こつ)の字は爾前の迂廻道(うえどう)の機に対して忽と云うなり。速疾頓成(そくしつ・とんじょう)の義を忽と云うなり。仮令(たとえ)ば外用(げゆう)の八相を唱うる事は所化をして仏道に進めんが為なり。 所詮末法に入つては謗法の人人は餓鬼界の衆生なり。此の経に値い奉り・南無妙法蓮華経に値い奉る事は、併(しかしなが)ら大王膳たり。忽遇の遇の字肝要たり。 釈に云く「成仏の難きには非ず。此の経に値うをかたしとす」と云えり。 不軽品に云く「復遇(ぶぐう)常不軽」と云云。 厳王品に云く「生値(しょうち)仏法」云云。 大王の膳に値いたり、最も以て南無妙法蓮華経を信受し奉る可きなり。 此の経文の如くならば法華より外の一切衆生はいかに高貴の人なりとも餓鬼道の衆生なり。十羅刹女は餓鬼界の羅刹(らせつ)なれども法華経を受持し奉る故に餓鬼に即する一念三千なり。法華へ来らずんば何れも餓鬼飢饉の苦しみなるべし。 所詮必ず中根の声聞領解(りょうげ)の言に我が身を餓鬼に類する事は、餓鬼は法界に食(じき)ありと云えども食する事を得ざるなり。諸法実相の一味の醍醐の妙法あれども・終に開覚(かいかく)に能(あた)はざる間・四十余年食にうえたり云云。 一義に云く、序品・方便より諸法実相の甘露顕れて南無妙法蓮華経あれども、広略二重の譬説段まで悟らざるは餓鬼の満満とある食事をくらわざるが如し。 所詮日本国の一切衆生は餓鬼界の衆生なり。大王膳とは所謂南無妙法蓮華経・是なり。遇の字には人法を納めたり。仍つて末に如飢須教食(にょけしゅ・きょうじき)と云えり。う(飢)えたるとも大王の・をしえを待ちて醍醐を食するが如しと云えり。 今南無妙法蓮華経有れども・今身より仏身に至るまでの受持をうけずんば成仏は之れ有るべからず。教とは爾前無得道・法華成仏の事なり。此の教をうけずんば法華経を読誦すとも大王の位に登る事・之れ有る可からず。醍醐は題目の五字なり云云。 一 貧人見此珠・其心大歓喜の事 仰せに云く、此珠とは一乗無価の宝珠なり。貧人とは下根の声聞なり。惣じて一切衆生なり。 所詮末法に入つて此珠とは南無妙法蓮華経なり。貧人とは日本国の一切衆生なり。此の題目を唱え奉る者は心・大歓喜せり。 されば見宝塔と云う見と此珠とは同じ事なり。所詮此珠とは我等衆生の一心なり・一念三千なり。此の経に値い奉る時、一念三千と開くを珠を見るとは云うなり。 此の珠は広く一切衆生の心法なり。此の珠は体中にある財用なり。一心に三千具足の財(たから)を具足せり。此の珠を方便品にして諸法実相と説き、譬喩品にては大白牛車・三草二木・五百由旬の宝塔・共に皆・一珠の妙法蓮華経の宝珠なり。 此の経文・色心の実相歓喜を説けり。見此珠(けんししゅ)の見は色法なり、其心大(ごしんだい)と云うは心法なり。色心共に歓喜なれば大歓喜と云うなり。 所詮此珠と云うは我等衆生の心法なり。仍つて一念三千の宝珠なり。所謂妙法蓮華経なり。今末代に入つて此の珠を顕す事は日蓮等の類いなり。所謂未曾有の大曼荼羅こそ正しく一念三千の宝珠なれ。 見の字は日本国の一切衆生、広くは一閻浮提の衆生なり。然りと雖も其心大歓喜と云う時は日蓮が弟子檀那等の信者をさすなり。所詮煩悩即菩提・生死即涅槃と体達する其の心大歓喜なり。されば我等衆生・五百塵点の下種の珠を失いて、五道・六道に輪廻(りんね)し貧人となる。近くは三千塵点の下種を捨てて備輪諸道(びりんしょどう)せり。之れに依つて貧人と成る。今此の珠を釈尊に値い奉りて見付け得て・本の如く取り得たり。此の故に心大歓喜せり。 末法当今に於いて妙法蓮華経の宝珠を受持し奉りて己心を見るに、十界互具・百界千如・一念三千の宝珠を分明に具足せり。是れ併ら末法の要法たる題目なり云云。 一 如甘露見潅(にょかんろ・けんかん)の事 仰せに云く、甘露とは天上の甘露なり。されば妙楽大師云く「実相常住は甘露の如し。是れ不死の薬なり」云云。此の釈の心は諸法実相の法体をば甘露に譬えたり。甘露は不死の薬と云えり。 所詮妙とは不死の薬なり。此の心は不死とは法界を指すなり。其の故は森羅三千の万法を不思議と歎じたり。生住異滅の当位当位・三世常恒なるを不死と云う。本法の徳として水はくだりつめたく、火はのぼりあつし。此れを妙と云う。此れ即ち不思議なり。此の重を不死とは云うなり。甘露と妙とは同じ事なり。 然らば法界の儘(まま)に閣(さしお)いて・妙法なりと説くを本法とも甘露とも云えり。火は水にきゆる、本法にして不死なり。十界己己の当位・当位の振舞・常住本有なるを甘露とも・妙法とも・不思議とも・本法とも・止観とも云えり。所詮末法に入つて甘露とは南無妙法蓮華経なり。見潅とは受持の一行なり云云。 #
by johsei1129
| 2026-05-06 15:25
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2026年 05月 06日
一 無量義経の事 御義口伝に云く、妙法の序分・無量義経なれば十界悉く妙法蓮華経の序分なり。 一 序品 御義口伝に云く、如是我聞の四字を能く能く心得れば一経無量の義は知られ易きなり。十界互具・三千具足の妙と聞くなり。此の所聞は妙法蓮華と聞く故に妙法の法界互具にして三千清浄なり。此の四字を以て一経の始終に亘るなり。二十八品の文々句々の義理、我が身の上の法門と聞くを如是我聞とは云うなり。其を聞く者は南無妙法蓮華経なり。されば皆成仏道と云うなり。此の皆成の二字は十界三千に亘る可きなり。妙法の皆成なるが故なり。 又仏とは我が一心なり。是又十界三千の心なり。道とは能通に名づくる故に十界の心心に通ずるなり。此の時、皆成仏道と顕るるなり。皆成仏道の法は南無妙法蓮華経なり云々。 一 方便品 御義口伝に云く、此の品には十如是を説く。此の十如是とは十界なり。此の方便とは十界三千なり。既に妙法蓮華経を頂く故に十方仏土中・唯有(ゆいう)一乗法なり。妙法の方便、蓮華の方便なれば秘妙なり清浄なり。妙法の五字は九識、方便は八識なり。八識は迷(まよい)なり、九識は悟(さとり)なり。妙法蓮華経方便品と題したれば迷悟(めいご)不二なり。森羅三千の諸法、此の妙法蓮華経方便に非ずと云う事無きなり。 品は義類同なり。義とは三千なり。類とは互具なり。同とは一念なり。此の一念三千を指して品と云うなり。此の一念三千を三仏合点し給ふなり。仍(よ)つて品品に題せり。所謂南無妙法蓮華経の信の一念より三千具足と聞けたり云云。 一 薬草喩品 御義口伝に云く、妙法の薬草なれば十界三千の毒草(どくそう)、蓮華の薬草なれば本来清浄(しょうじょう)なり。清浄なれば仏なり。 此の仏の説法とは南無妙法蓮華経なり云云。されば此の品には種相体性(しゅ・そう・たい・しょう)の種の字に種類種(しゅるいじゅ)・相対種の二の開会(かいえ)之れ有り。相対種とは三毒即三徳なり。種類種とは始めの種の字は十界三千なり。類とは互具なり。下の種の字は南無妙法蓮華経なり、種類の種なり。十界三千の草木各各なれども、只南無妙法蓮華経の一種なり。毒草も毒木も悉く清浄の草木にして薬草なり云云。 一 五百品 御義口伝に云く、此の品には五百弟子・授記作仏(じゅきさぶつ)すと現文に見えたり。然りと雖も妙法の五百なれば十界三千、皆五百の弟子なり。蓮華の弟子なれば又清浄なり。所詮十界三千・南無妙法蓮華経の弟子に非ずと云う事なし。此の経の授記是なり云云。 一 人記品 御義口伝に云く、此の品には学・無学の聖者来たつて成仏するなり。既に妙法頂戴(ちょうだい)の学・無学なれば十界互具・三千具足の学・無学なり。妙法の学・無学なるが故に不思議十界・煩悩未尽なり。蓮華の学・無学なれば十界三千清浄の開落なり。此の学・無学何物ぞや。学とは法なり、無学とは妙なり。所謂題目なり云云。 一 法師品 御義口伝に云く、妙法の法師なれば十界皆妙法受持の一句一偈の法師なり。蓮華の法師なれば十界三千・清浄の法師なり。十界衆生の色法は能持の人なり、十界の心性は所持の法なり。仍つて色心共に法師にして自行化他を顕すなり。所謂南無妙法蓮華経の法師なるが故なり云云。 一 提婆品 御義口伝に云く、此の品には釈尊の本師・提婆達多(だいばだった)の成仏と文殊師利・教化(きょうけ)の竜女成仏とを説くなり。是れ又妙法蓮華経の提婆・竜女なれば十界三千・皆調達(ちょうだつ)竜女なり。法界の衆生の逆辺は調達なり、法界の貪欲(どんよく)・瞋恚(しんに)・愚癡の方は悉く竜女なり。調達は修徳の逆罪、一切衆生は性徳の逆罪なり。一切衆生は性徳の天王如来なり、調達は修徳の天王如来なり。竜女は修徳の竜女、一切衆生は性徳の竜女なり。 所詮釈尊も文殊も提婆も竜女も一つ種の妙法蓮華経の功能(くのう)なれば本来成仏なり。故に南無妙法蓮華経と唱え奉る時は十界同時に成仏するなり。是を妙法蓮華経の提婆達多と云うなり。十界三千・竜女なれば無垢世界に非ずと云う事なし。竜女が一身も本来成仏にして南無妙法蓮華経の当体なり云云。 一 勧持品 御義口伝に云く、此の品の姨母(いも)・耶輸(やしゅ)の記別(きべつ)は十界同時の授記なり。妙法の姨母・妙法の耶輸なる故なり。十界の衆生の心性は所持の経の体なり。是れ即ち勧持の流通なり。心性所持の経を勧持して自行化他に趣くなり。 御義口伝に云く、妙法の安楽行なれば十界三千悉く安楽行なり。自受用の当体なり。身口意・誓願、悉く安楽行なり。蓮華の安楽行なれば三千・十界清浄の修行なり。諸法実相なれば安楽行に非ざること莫し。 本門の心は十界の色心・本来本有(ほんぬ)として真実・大安楽行なり。安楽行の体とは所謂上行所伝の南無妙法蓮華経是なり。霊山浄土に安楽に行詣(ぎょうけい)すべきなり云云。 一 涌出品 御義口伝に云く、此の品は迹門流通(しゃくもん・るつう)の後、本門開顕の序分なり。故に先ず先ず本地無作の三身を顕さんが為に釈尊所具の菩薩本化(ほんげ)の弟子を召すなり。是れ又妙法の従地なれば十界の大地なり。妙法の涌出なれば十界皆涌出なり。十界妙法の菩薩なれば皆・饒益有情界(にょうやく・うじょうかい)の慈悲深重(じんじゅう)の大士なり。蓮華の大地なれば十界の大地なり。蓮華の大地なれば十界涌出の菩薩・本来清浄なり。 所詮悟道(しょせん・ごどう)に約する時は従地とは十界の衆生の大種(大浮)の所生なり。涌出とは十界の衆生の出胎の相なり。菩薩とは十界の衆生本有(ほんぬ)の慈悲なり。此の菩薩に本法の妙法蓮華経を付属せんが為に従地涌出(じゅうじ・ゆじゅつ)するなり。 御義口伝に云く、寿量品とは十界の衆生の本命なり。此の品を本門と云う事は本入門と云う事なり。凡夫の血肉の色心を本有(ほんぬ)と談ずるが故に本門とは云うなり。此の重に至らざるを始覚(しかく)と云い、迹門と云うなり。是を悟るを本覚と云い本門と云うなり。 所謂南無妙法蓮華経は一切衆生の本有の在所なり。爰元(ここもと)を経に我実成仏已来とは云うなり。 一 分別功徳品 御義口伝に云く、此の品は上の品の時、本地無作の三身如来の寿を聞く故に今品にしては上の無作の三身を信解するなり。其の功徳を分別するなり。十界己己当体の三毒煩悩を此の品の時、其の儘(まま)妙法蓮華経の功徳と分別するなり。其の功徳とは本有の南無妙法蓮華経是なり云云。 一 随喜功徳品 御義口伝に云く、妙法の功徳を随喜する事を説くなり。五十展転(てんでん)とは五とは妙法の五字なり、十とは十界の衆生なり、展転とは一念三千なり。教相の時は第五十人の随喜(ずいき)の功徳を校量(きょうりょう)せり。五十人とは一切衆生の事なり。妙法の五十人、妙法の展転なるが故なり。所謂南無妙法蓮華経を展転するなり云云。 一 法師功徳品 御義口伝に云く、無作の三身も如来の寿も、分別功徳も随喜も、我が身の上の事なり。然らば父母所生の六根は清浄にして自在無碍(じざいむげ)なり。妙法の六根なれば十界三千の六根皆清浄なり。蓮華所具の六根なれば全く不浄に非ざるなり。此の六根にて南無妙法蓮華経と見聞覚知(けんもんかくち)する時、本来本有として六根清浄なり云云。 一 不軽品 御義口伝に云く、此の菩薩の礼拝(らいはい)の行とは一切衆生の事なり。自他一念の礼拝なり。父母果縛(ふぼかばく)の肉身を妙法蓮華経と礼拝するなり。仏性も仏身も衆生の当体の色心なり、故に直ちに礼拝を行ずるなり。止観の第二云く、一切衆生の順逆十二因縁を以て二十四の尊像と釈し給うは此の故なり。皆当作仏(かいとうさぶつ)の四字は南無妙法蓮華経の種子に依るなり云々。 一 神力品 御義口伝に云く、十種の神力を現じて上行菩薩に妙法蓮華経の五字を付属し給うなり。神力とは十界三千の衆生の神力なり。凡夫は体の神力、三世の諸仏は用(ゆう)の神力なり。神とは心法、力とは色法なり。力は法なり、神は妙なり。妙法の神力なれば十界悉く神力なり。蓮華の神力なれば十界清浄の神力なり。 惣じて三世の諸仏の神力は此の品に尽くせり。釈尊出世の神力の本意も此の品の神力なり。所謂妙法蓮華経の神力なり。十界皆成(かいじょう)と談ずるより外には、諸仏の神力は之れ有る可からず。一切の法門・神力に非ずと云う事なし云云。 一 厳王品 御義口伝に云く、此の品は二子の教化に依つて父の妙荘厳王、邪見をあらためて正見に住したり。沙羅樹王仏(しゃらじゅおうぶつ)と成るなり。沙羅樹王とは梵語なり。此(ここ)には熾盛光(しじょうこう)と翻ず。一切衆生は是皆・熾盛光より出生したる一切衆生なり。此の故に十界衆生の父なり。熾盛光とは或は大黒天神とも・或は土宮神とも云うなり。然れども父母交会の一念なり。 法華の意は自受用智(じじゅゆうち)なり。忽然火起(こつねん・かき)・焚焼舎宅(ぼんしょう・しゃたく)とは是なり。煩悩の一念の火・起こりて迷悟不二の舎宅を焼くなり。邪見とは是なり。此の邪見を邪見即正と照したるは南無妙法蓮華経の智慧なり。 所謂六凡は父なり、四聖は子なり。四聖は正見、六凡は邪見。故に六道の衆生は皆是れ我が父母とは是なり云云。 一 勧発品 所詮此の品と序品とは生死の二法なり。序品の品は我等衆生の生なり、此の品は一切衆生の死なり。生死一念なるを妙法蓮華経と云うなり。序品の題号は生なり、終の第号は死なり。此の法華経は生死生死と転(めぐ)りたり。 生の故に始めに如是我聞と置く。如は生の義なり。死の故に終りに作礼而去(さらいにこ)と結したり。去は死の義なり。作礼の言は生死の間に成しと成す処の我等衆生の所作なり。此の所作とは妙法蓮華経なり。 #
by johsei1129
| 2026-05-06 10:58
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2026年 05月 04日
第一 普賢(ふげん)菩薩の事 文句の十に云く「勧発(かんぱつ)とは恋法の辞なり」と。 御義口伝に云く、勧発とは勧は化他。発は自行なり。普とは諸法実相・迹門の不変真如の理なり、賢とは智慧の義なり・本門の随縁真如の智なり。然る間・経末に来たつて本迹二門を恋法し給えり。所詮(しょせん)今日蓮等の類い・南無妙法蓮華経と唱え奉る者は普賢菩薩の守護なり云云。 第二 若法華経 行閻浮提(えんぶだい)の事 御義口伝に云く、此の法華経を閻浮提に行ずることは、普賢菩薩の威神の力に依るなり。此の経の広宣流布することは普賢菩薩の守護なるべきなり云云。 第四 是人命終 (ぜにんみょうじゅう) 為千仏授手(い・せんぶつじゅしゅ)の事 御義口伝に云く、法華不信の人は命終の時、地獄に堕在す可し。経に云く「若人不信・毀謗此経・即断一切・世間仏種・其人命終(ごにんみょうじゅう)・入阿鼻獄(にゅうあびごく)」と。法華経の行者は命終して成仏す可し、是人命終為・千仏授手の文是なり。 千仏とは千如の法門なり。謗法の人は獄卒来迎(ごくそつ・らいごう)し、法華経の行者は千仏来迎し給うべし。今日蓮等の類い・南無妙法蓮華経と唱え奉る者は千仏の来迎・疑ひ無き者なり云云。 第五 閻浮提内(えんぶだいない) 広令流布(こうりょう・るふ)の事 御義口伝に云く、此の内の字は東西北の三方を嫌える文なり。広令流布とは法華経は南閻浮提計りに流布す可しと云う経文なり。此の内の字・之を案ず可し。今日蓮等の類(たぐ)い・南無妙法蓮華経と唱え奉る者は、深く之を思う可きなり云云。 第六 此人不久当詣道場の事 御義口伝に云く、此人とは法華経の行者なり。法華経を持ち奉る処を当詣道場と云うなり。此(ここ)を去つて彼(かしこ)に行くには非ざるなり。道場とは十界の衆生の住処を云うなり。今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住処は山谷曠野、皆寂光土なり。此れを道場と云うなり。「此の因・易(あらた)むること無きが故に直至(じきし)と云う」の釈之を思う可し。 此の品の時、最上第一の相伝あり。釈尊八箇年の法華経を八字に留めて末代の衆生に譲(ゆず)り給うなり。八字とは「当に起って遠く迎ふべきこと、仏を敬うが如くすべし」の文なり。此の文までにて経は終はるなり。 当の字は未来なり、当起遠迎(とうきおんごん)とは必ず仏の如くに法華経の行者を敬う可しと云う経文なり。法師品には「此の経巻に於て敬ひ視(み)ること仏の如くす」と云えり。 八年の御説法の口開きは南無妙法蓮華経方便品の諸仏智慧。終はりは当起遠迎・当如敬仏の八字なり。但此の八字を以て法華一部の要路(ようろ)とせり。されば文句の十に云く「当起遠迎・当如敬仏よりは其の信者の功徳を結することを述す」と。法華一部は信の一字を以て本とせり云云。 尋ねて云く、今の法華経に於て序品には首(はじ)めに如の字を置き、終はりの普賢品には去(こ)の字を置く。羅什(らじゅう)三蔵の心地・何(いか)なる表事の法門ぞや。 答へて云く、今の経の法体は実相と久遠との二義を以て正体と為すなり。始めの如の字は実相を表し、終りの去の字は久遠を表するなり。其の故は実相は理なり、久遠は事なり。理は空の義なり、空は如の義なり。之に依って如をば理空に相配するなり。釈に云く「如は不異に名く、即ち空の義なり」と。 久遠は事なり。其の故は本門寿量の心は事円の三千を以て正意と為すなり。去は久遠に当るなり。 去は開の義、如は合の義なり。開は分別の心なり、合は無分別の意なり。此の開合を生仏に配当する時は、合は仏界、開は衆生なり。序品の始めに如の字を顕したるは生仏不二の義なり。 迹門は不二の分なり、不変真如なる故なり。此の如是我聞の如をば不変真如の如と習うなり。空仮中の三諦には如は空、是は中、我聞は仮諦。迹門は空を面(おもて)と為す故に不二の上の而二なり。然る間・而二の義を顕す時、同聞衆を別に列ぬるなり。 さて本門の終りの去は随縁真如にして而二の分なり。仍(よ)つて去の字を置くなり。作礼而去(さらいにこ)の去は随縁真如と約束するなり。本門は而二の上の不二なり。而二不二(ににふに)・常同常別・古今法爾(ここんほうに)の釈之を思う可し。此の去の字は、彼の五千起去の去と習うなり。其の故は五千とは五住の煩悩と相伝する間、五住の煩悩が己心の仏を礼して去ると云う義なり。 如・去の二字は生死の二法なり。伝教云く「去は無来之如来(むらいのにょらい)・無去之円去(むこのえんこ)」等と云云。 如の字は一切法是心の義、去の字は心是一切法の義なり。一切法是心は迹門の不変真如なり、心是一切法は本門の随縁真如なり。然る間、法界を一心に縮むるは如の義なり、法界に開くは去の義なり。三諦三観(さんたいさんがん)の口決相承(ぐけつそうじょう)と意(こころ)同じ云云。 此の妙法等の五字を末法・白法隠没の時、上行菩薩・御出世有つて五種の修行の中には四種を略して但受持の一行にして成仏す可しと・経文に親(まのあた)り之れ有り。夫(さ)れば神力品に云く「於我滅度後(おがめつどご)・応受持斯経(おうじゅじ・しきょう)・是人於仏道(ぜにんの・ぶつどう)・決定無有疑(けつじょうむうぎ)」云云。此の文・明白なり。仍つて此の文をば仏の廻向(えこう)の文と習うなり。 然る間・此の経を受持し奉る心地は如説修行の如なり。此の如の心地に妙法等の五字を受持し奉り、南無妙法蓮華経と唱え奉れば、忽ち無明煩悩の病を悉く去つて妙覚極果(みょうかくごくか)の膚(はだえ)を瑩(みが)く事を顕す故に・さて去(こ)の字を終りに結ぶなり。仍つて上に受持仏語と説けり。 煩悩悪覚の魔王も諸法実相の光に照されて一心一念遍於法界と観達(かんたつ)せらる。然る間・還つて己心の仏を礼す故に、作礼而去(さらい・にこ)とは説き給うなり。「彼彼三千互遍亦爾(ひひさんぜん・ごへんやくに)」の釈・之を思う可し。 秘す可し・秘す可し。唯受一人(ゆいじゅいちにん)の相承(そうじょう)なり。口外す可からず。然らば此の去の字は不去而去の去と相伝するを以て至極と為すなり云云。 第一 無量義経 徳行品第一の事 御義口伝に云く、無量義の三字を本迹・観心(ほんじゃく・かんじん)に配する事、初めの無の字は迹門なり。其の故は理円を面(おもて)とし、不変真如の旨を談ず。迹門は無常の摂属(しょうぞく)なり、常住を談ぜず。但し「是法住法位・世間相常住」と明かせども、是れは理常住にして事常住に非ず、理常住の相を談ずるなり。空は無の義なり。但し此の無は断無の無に非ず、相即の上の空なる処を無と云い、空と云うなり。円の上にて是を沙汰(さた)するなり。本門の事常住・無作(むさ)の三身に対して迹門を無常と云うなり。守護章には「有為(うい)の報仏は夢中の権果、無作の三身は覚前(かくぜん)の実仏」と云云。今日蓮等の類(たぐ)い・南無妙法蓮華経と唱え奉る者は無作の三身・覚前の実仏なり云云。 第二 不断煩悩 不離五欲 得浄諸根 滅除諸罪の事 御義口伝に云く、此の文は煩悩即菩提・生死即涅槃を説かれたり。法華の行者は貪欲(とんよく)は貪欲のまま、瞋恚(しんに)は瞋恚のまま、愚癡(ぐち)は愚癡のまま、普賢菩薩の行法なりと心得可きなり云云。 第三 六念の事 念仏 念法 念僧 念戒 念施 念天なり 御義口伝に云く、念仏とは唯我一人の導師なり。念法とは滅後は題目の五字なり。念僧とは末法にては凡夫僧なり。念戒とは是名持戒(ぜみょうじかい)なり。念施とは一切衆生に題目を授与するなり。念天とは諸天昼夜・常為法故(じょういほうこ)・而衛護之(にえごし)の意(こころ)なり。末法当今の行者の上なり。之を思う可きなり云云。 第四 一切業障海 皆従妄想生 若欲懺悔者 端坐思実相 衆罪如霜露 慧日能消除の事 御義口伝に云く、衆罪とは六根に於て業障(ごうしょう)降り下る事は霜露(そうろ)の如し。然りと雖も慧日を以て能く消除すと云えり。 慧日とは末法当今・日蓮所弘の南無妙法蓮華経なり。慧日とは仏に約し、法に約するなり。釈尊をば慧日大聖尊と申すなり。法華経を又如日天子能除諸闇と説かれたり。末法の導師を如日月光明等と説かれたり。 第五 正法治国 不邪枉(ふじゃおう)人民の事 御義口伝に云く、末法の正法とは南無妙法蓮華経なり。此の五字は一切衆生を・たぼらかさぬ秘法なり。正法を天下一同に信仰せば此の国安穏ならむ。されば玄義に云く「若し此の法に依れば即ち天下泰平」と。此の法とは法華経なり。法華経を信仰せば天下安全たらむ事・疑ひ有る可からざるなり。 #
by johsei1129
| 2026-05-04 19:58
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2026年 05月 04日
第一 其有衆生 聞仏寿命 長遠如是 乃至能生 一念信解 所得功徳 無有限量の事 御義口伝に云く、一念信解の信の一字は一切智慧を受得(じゅとく)する所の因種なり。信の一字は名字即の位なり。仍つて信の一字は最後品の無明を切る利剣なり。 信の一字は寿量品の理顕本を信ずるなり、解とは事顕本を解するなり。此の事理の顕本を一念に信解するなり。一念とは無作本有の一念なり。此くの如く信解する人の功徳は限量有る事・有る可からざるなり。 信の処に解あり、解の処に信あり。然りと雖も信を以て成仏を決定(けつじょう)するなり。今日蓮等の類(たぐ)い・南無妙法蓮華経と唱え奉る者是なり云云。 第二 是則能信受 如是諸人等 頂受此経典の事 御義口伝に云く、法華経を頭に頂くと云う明文なり。如是諸人等の文は広く一切衆生に亘(わた)るなり。然らば三世十方の諸仏は妙法蓮華経を頂き受けて成仏し給う。仍つて上の寿量品の題目を妙法蓮華経と題して次に如来と題したり。秘す可し云云。今日蓮等の類い・南無妙法蓮華経と唱え奉るは此の故なり云云。 第一 妙法蓮華経 随喜(ずいき)功徳の事 御義口伝に云く、随とは事理に随順するを云うなり。喜とは自他共に喜ぶ事なり。事とは五百塵点の事顕本に随順するなり。理とは理顕本に随うなり。 所詮寿量品の内証に随順するを随とは云うなり。然るに自他共に智慧と慈悲と有るを喜とは云うなり。所詮・今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る時、必ず無作三身の仏に成るを喜とは云うなり。 然る間・随とは法に約し、喜とは人に約するなり。人とは五百塵点の古仏たる釈尊。法とは寿量品の南無妙法蓮華経なり。是に随い・喜ぶを随喜とは云うなり。惣じて随とは信の異名なり云云。唯信心の事を随と云うなり。されば二巻には「此の経に随順す。己が智分に非ず」と説かれたり云云。 第一 法師功徳の事 御義口伝に云く、法師とは五種法師なり。功徳とは六根清浄の果報なり。 所詮・今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は六根清浄なり。されば妙法蓮華経の法の師と成つて大なる徳(さいわい)有るなり。功は幸(さいわい)と云う事なり。 又は悪を滅するを功(く)と云い、善を生ずるを徳(とく)と云うなり。功徳とは即身成仏なり又六根清浄なり。法華経の説文の如く修行するを六根清浄と得意可きなり云云。 第二 六根清浄の事 御義口伝に云く、眼(まなこ)の功徳とは法華不信の者は無間に堕在し、信ずる者は成仏なりと見るを以て眼の功徳とするなり。法華経を持ち奉る処に眼の八百の功徳を得るなり。眼とは法華経なり。此の大乗経典は諸仏の眼目と云へり。 今・日蓮等の類い・南無妙法蓮華経と唱え奉る者は眼の功徳を得るなり云云。耳・鼻・舌・身・意、又又此くの如きなり云云。 第三 又如浄明鏡(うにょ・じょうみょうきょう)の事 御義口伝に云く、法華経に鏡の譬(たとえ)を説く事・此の明文なり。六根清浄の人は瑠璃明鏡(るり・みょうきょう)の如く三千世界を見ると云う経文なり。 今・日蓮等の類(たぐ)い・南無妙法蓮華経と唱え奉る者は、明鏡に万像を浮ぶるが如く知見するなり。此の明鏡とは法華経なり。別しては宝塔品なり。又は我が一心の明鏡なり。 所詮(しょせん)瑠璃と明鏡との二つの譬へを説かれたり、身根清浄の下なり。色心不二なれば何れも清浄の徳分なり。浄とは不浄に対して浄と云うなり。明とは無明に対して明と説くなり。鏡とは一心なり。浄は仮諦、明は空諦、鏡は中道なり。悉見諸色像(しっけんしょしきぞう)の悉(ことごとく)は十界なり。 所詮・浄明鏡とは色心の二法、妙法蓮華経の体なり。浄明鏡とは信心なり云云。又三千大千世界を知見するとは三世間の事なり。 第八 心不浄者の事 御義口伝に云く、謗法の者は色心二法共に不浄なり。先ず心法不浄の文は今此の心不浄者なり。又身不浄の文は譬喩品に「身常臭処(しんじょう・しゅうしょ)垢穢不浄(くえ・ふじょう)」と云えり。 今日蓮等の類い・南無妙法蓮華経と唱え奉る者は色心共に清浄なり。身浄は法師功徳品に云く「若持法華経・其身甚清浄」の文なり。心浄とは提婆品に云く「浄心信敬」と云云。浄とは法華経の信心なり、不浄とは謗法なり云云。 第十 聞其所説(もんご・しょせつ) 皆信伏随従(かいしんぷく・ずいじゅう)の事 御義口伝に云く、聞とは名字即なり。所詮(しょせん)は而強毒之(にごうどくし)の題目なり。皆とは上慢の四衆等なり。信とは無疑曰信(むぎわっしん)なり。伏とは法華に帰伏するなり。随とは心を法華経に移すなり。従とは身を此の経に移すなり。 所詮・今日蓮等の類い・南無妙法蓮華経と唱え奉る行者は末法の不軽菩薩なり。 第十一 於四衆中説法 心無所畏(しんむしょい)の事 御義口伝に云く、四衆とは日本国の中の一切衆生なり。説法とは南無妙法蓮華経なり。心無所畏とは今日蓮等の類い・南無妙法蓮華経と呼ばわる所の折伏なり云云。 第十二 常不軽菩薩 豈異人乎(きいにんこ) 則我身是の事 御義口伝に云く、過去の不軽菩薩は今日の釈尊なり。釈尊は寿量品の教主なり。寿量品の教主とは我等法華経の行者なり。さては我等が事なり。今・日蓮等の類(たぐい)は不軽なり云云。 第十四 畢是罪已(ございひっち) 復遇(ぶぐう)常不軽菩薩の事 御義口伝に云く、若し法華誹謗の失(とが)を改めて信伏随従する共、浅く有りては無間に堕つ可きなり。先謗強きが故に依るなり。千劫無間地獄に堕ちて後に・出づる期(ご)有つて又日蓮に値(あ)う可きなり。復遇日蓮なるべし。 第十六 此品の時の不軽菩薩の体の事 御義口伝に云く、不軽菩薩とは十界の衆生なり。三世常住の礼拝の行を立つるなり。吐く所の語言は妙法の音声なり。獄卒が杖を取つて罪人を呵責(かしゃく)するが体の礼拝なり。敢へて軽慢(きょうまん)せざるなり。罪人・我を責め成すと思えば不軽菩薩を呵責するなり。折伏の行是なり。 第二十三 無明 礼拝住処の事 御義口伝に云く、自他の隔意(きゃくい)を立て、彼は上慢の四衆、我は不軽と云う。不軽は善人、上慢は悪人と善悪を立つるは無明なり。此(ここ)に立つて礼拝の行を成す時、善悪不二・邪正一如の南無妙法蓮華経と礼拝するなり云云。 第二十七 礼拝住処 分真即の事 御義口伝に云く、菩薩は分真即の位と定むるなり。此の位に立つて理即の凡夫を礼拝するなり。之に依つて理即の凡夫なる間、此の授記を受けずして無智の比丘と謗じたり云云。 第二十九 法界 礼拝住処の事 御義口伝に云く、法界に立って礼拝するなり。法界とは広きに非ず、狭きに非ず。惣(そう)じて法とは諸法なり、界とは境界なり。地獄界乃至仏界、各各界を法(のっと)る間、不軽菩薩は不軽菩薩の界に法り、上慢の四衆は四衆の界に法るなり。仍(よっ)て法界が法界を礼拝するなり。自他不二の礼拝なり。其の故は不軽菩薩の四衆を礼拝すれば、上慢の四衆所具の仏性・又不軽菩薩を礼拝するなり。鏡に向つて礼拝を成す時、浮べる影・又我を礼拝するなり云云。 第六 娑婆(しゃば) 是中有仏 名釈迦牟尼仏の事 御義口伝に云く、本化弘通(ほんげ・ぐつう)の妙法蓮華経の大忍辱(にんにく)の力を以て弘通(ぐつう)するを娑婆と云うなり。忍辱は寂光土なり。此の忍辱の心を釈迦牟尼仏と云えり。娑婆とは堪忍世界(かんにんせかい)と云うなり云云。 第七 斯人行世間 能滅衆生闇の事 御義口伝に云く、斯人とは上行菩薩なり。世間とは大日本国なり。衆生闇とは謗法の大重病なり。能滅の体は南無妙法蓮華経なり。今日蓮等の類(たぐ)い是なり云云。 第八 畢竟(ひっきょう)住一乗〇是人於仏道 決定無有疑の事 御義口伝に云く、畢竟とは広宣流布なり、住一乗とは南無妙法蓮華経の一法に住す可きなり、是人とは名字即の凡夫なり、仏道とは究竟即(くきょうそく)なり、疑とは根本疑惑の無明を指すなり。末法当今は此の経を受持する一行計りにして成仏す可しと定むるなり云云。 第二 十喩の事 御義口伝に云く十喩とは十界なり、此の山の下に地獄界を含めり、川流江河(せんるごうが)餓鬼畜生を摂(せっ)せり、日月の下(もと)に修羅(しゅら)を収めたり、帝釈・梵天は天界なり、凡夫人とは人間なり、声聞とは四向四果の阿羅漢なり、縁覚とは辟支仏中(ひゃくしぶつちゅう)と説かれたり、菩薩は菩薩為第一と云えり、仏界は如仏為諸法王と見えたり。此の十界を十喩と挙げて教相を分別して、さて妙法蓮華経の於一仏乗より分別説三する時、此くの如く挙げたり。仍(よ)つて一念三千の法門なり。一念三千は抜苦与楽(ばっくよらく)なり。 第六 若人有病 得聞是経 病即消滅 不老不死の事 文句 の十に云く、此に観解(かんげ)を須(もち)ゆべしと。 御義口伝に云く、若人とは上・仏果より下・地獄の罪人まで之を摂(せっ)す可きなり。病とは三毒の煩悩・仏菩薩に於ても亦之れ有るなり。不老は釈尊、不死は地涌の類たり。是は滅後当今の衆生の為に説かれたり。然らば病とは謗法なり。此の経を受持し奉る者は病即消滅・疑ひ無きなり。今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者是なり云云。 第一 妙音菩薩の事 御義口伝に云く、妙音菩薩とは十界の衆生なり。妙とは不思議なり。音とは一切衆生の吐く所の語言音声が妙法の音声なり。三世常住の妙音なり。所用に随つて諸事を弁ずるは慈悲なり。是を菩薩と云うなり。 又云く、妙音とは今日蓮等の類い・南無妙法蓮華経と唱え奉る事は、末法当今の不思議の音声なり。其の故は煩悩即菩提・生死即涅槃の妙音なり云云。 第二 肉髻白毫(にくけい・びゃくごう)の事 御義口伝に云く、此の二つの相好は孝順師長(こうじゅん・しちょう)より起れり。法華経を持ち奉るを以て一切の孝養の最頂(さいちょう)とせり。 又云く、此の白毫とは父の婬(いん)なり。肉髻(にくけい)とは母の婬なり。赤白(せきびゃく)二渧(たい)、今経に来つて肉髻・白毫の二相と顕れたり。 又云く肉髻は随縁真如の智なり。白毫は不変真如の理なり。今日蓮等の類い・南無妙法蓮華経と唱え奉るは此等の相好(そうごう)を具足するなり。 我等が生の始めは赤色肉髻(しゃくしき・にくけい)なり。死後の白骨は白毫相なり。生の始めの赤色は随縁真如の智。死後の白骨は不変真如の理なり。秘す可し・秘す可し云云。 一 無尽意菩薩(むじんにぼさつ)の事 御義口伝に云く、無尽意とは円融(えんゆう)の三諦なり。無とは空諦、尽とは仮諦、意とは中道なり。観世音とは観は空諦、世は仮諦、音は中道なり。妙法蓮華経とは妙とは空諦、法蓮華は仮諦、経とは中道なり。三諦法性の妙理を三諦の観世音と三諦の無尽意に対して説き給うなり。 今日蓮等の類い・南無妙法蓮華経と唱え奉る者は末法の無尽意(むじんに)なり。所詮(しょせん)無とは我等が死の相なり。尽とは我等が生の相なり。意とは我等が命根なり。然る間一切の法門・境智冥合等の法門、意の一一字に之を摂入(しょうにゅう)す。 此の意とは中道法性なり。法性とは南無妙法蓮華経なり。仍(よ)つて意の五字なり。我等が胎内の五位の中には第五番の形なり。其の故は第五番の姿は五輪なり。五輪即ち妙法等の五字なり。此の五字、又意の字なり。仏意とは妙法の五字なり。此の事・別に之無し。 仏の意とは法華経なり。是を寿量品にして是好良薬とて三世の諸仏の好(このみ)もの・良薬と説かれたり。森羅三千の諸法は意の一字には過ぎざるなり。此の仏の意を信ずるを信心とは申すなり。されば心は有分別なり。倶に妙法の全体なり云云。 第三 念念勿生疑(ねんねんもつしょうぎ)の事 御義口伝に云く、念念とは一の念は六凡なり。一の念は四聖なり。六凡四聖の利益を施(ほどこ)すなり。疑心を生ずること勿(なか)れ云云。 又云く念念とは前念後念なり。又云く妙法を念ずるに疑ひを生ず可からず云云。又三世常住の念念なり。之に依つて上の文に是故衆生念と。 今日蓮等の類い・南無妙法蓮華経と唱え奉りて・念念勿生疑の信心に住す可きなり。煩悩即菩提・生死即涅槃、疑ひ有る可からざるなり云云。 第四 二求両願の事 御義口伝に云く、二求とは求男・求女なり。求女とは世間の果報。求男とは出世の果報。仍(よ)つて現世安穏は求女の徳なり。後生善処は求男の徳なり。求女は竜女が成仏・生死即涅槃を顕すなり。求男は提婆が成仏・煩悩即菩提を顕すなり。我等が即身成仏を顕すなり。 今日蓮等の類(たぐ)い南無妙法蓮華経と唱え奉る行者は、求男求女を満足して父母の成仏決定(けつじょう)するなり云云。 第一 陀羅尼(だらに)の事 御義口伝に云く、陀羅尼とは南無妙法蓮華経なり。其の故は陀羅尼は諸仏の密語(みつご)なり。題目の五字・三世の諸仏の秘密の密語なり。 今日蓮等の類い・南無妙法蓮華経と唱え奉るは陀羅尼を弘通するなり。捨悪持善(しゃあく・じぜん)の故なり云云。 第三 鬼子母神(きしもじん)の事 御義口伝に云く、鬼とは父なり。子とは十羅刹女なり。母とは伽利帝母(かりたいも)なり。逆次(ぎゃくじ)に次第する時は、神とは九識なり。母とは八識へ出づる無明なり。子とは七識・六識なり。鬼とは五識なり。流転門の時は悪鬼なり、還滅門(げんめつもん)の時は善鬼なり。仍つて十界互具・百界千如の一念三千を、鬼子母神・十羅刹女と云うなり。 三宝荒神(さんぽうこうじん)とは十羅刹女の事なり。所謂・飢渇神(けかつじん)・貪欲神(とんよくじん)・障碍神(しょうげじん)なり。今法華経の行者は三毒即三徳と転ずる故に三宝荒神に非ざるなり。荒神とは法華不信の人なり、法華経の行者の前にては守護神なり云云。 身延草庵跡 #
by johsei1129
| 2026-05-04 16:32
| 血脈・相伝・講義
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2026年 05月 03日
第一 南無妙法蓮華経 如来寿量品第十六の事 文句の九に云く「如来とは、十方三世の諸仏・二仏・三仏・本仏・迹仏の通号なり。別しては本地三仏の別号なり。寿量とは詮量(せんりょう)なり。十方三世諸仏の功徳を詮量す。故に寿量品と云う」と。 御義口伝に云く、此の品の題目は日蓮が身に当る大事なり。神力品の付属是なり。 如来とは釈尊、惣じては十方三世の諸仏なり、別しては本地無作の三身なり。 今日蓮等の類いの意は惣じては如来とは一切衆生なり。別しては日蓮の弟子檀那なり。されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり。無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり。寿量品の事の三大事とは是なり。 六即の配立(はいりゅう)の時は此の品の如来は理即の凡夫なり。頭(こうべ)に南無妙法蓮華経を頂戴し奉る時・名字即なり。其の故は始めて聞く所の題目なるが故なり。聞き奉りて修行するは観行即なり。此の観行即とは事の一念三千の本尊を観ずるなり。さて惑障を伏するを相似即と云うなり。化他に出づるを分真即と云うなり。無作の三身の仏なりと究竟したるを究竟即の仏とは云うなり。 惣じて伏惑を以て寿量品の極とせず、唯凡夫の当体・本有の儘(まま)を此の品の極理と心得可きなり。無作の三身の所作は何物ぞと云う時、南無妙法蓮華経なり云云。 第二 如来秘密 神通之力の事 御義口伝に云く、無作三身の依文(えもん)なり。此の文に於て重重の相伝之有り。神通之力とは、我等衆生の作作発発(ささほつほつ)と振舞う処を神通と云うなり。獄卒の罪人を苛責する音(こえ)も皆神通之力なり。生住異滅の森羅三千の当体・悉く神通之力の体なり。 今日蓮等の類いの意は、即身成仏と開覚するを如来秘密・神通之力とは云うなり。成仏するより外(ほか)の神通と秘密とは之れ無きなり。此の無作の三身をば一字を以て得たり。所謂信の一字なり。仍(よ)つて経に云く「我等当信受仏語」と。信受の二字に意を留む可きなり。 第三 我実成仏已来 無量無辺等の事 御義口伝に云く、我実とは釈尊の久遠実成道なりと云う事を説かれたり。 然りと雖も当品の意は我とは法界の衆生なり。十界己己を指して我と云うなり。実とは無作三身の仏なりと定めたり。此れを実と云うなり。成とは能成所成なり。成は開く義なり。法界無作の三身の仏なりと開きたり。仏とは此れを覚知するを云うなり。已とは過去なり。来とは未来なり。已来の言の中に現在は有るなり。我実と成(ひら)けたる仏にして、已も来も無量なり無辺なり。百界千如・一念三千と説かれたり。百千の二字は百は百界、千は千如なり。此れ即ち事の一念三千なり。 今日蓮等の類い・南無妙法蓮華経と唱え奉る者は寿量品の本主なり。惣じては迹化の菩薩、此の品に手をつけ・いろ(綺)うべきに非ざる者なり。彼は迹表本裏(しゃくひょう・ほんり)、此れは本面迹裏。 然りと雖も而も当品は末法の要法に非ざるか。其の故は此の品は在世の脱益なり。題目の五字計り・当今の下種なり。然れば在世は脱益、滅後は下種なり。仍て下種を以て末法の詮と為す云云。 第五 若仏久住於世 薄徳之人 不種善根 貧窮下賤(びんぐ・げせん) 貪著(とんじゃく)五欲 入於憶想(にゅうお・おくそう) 妄見網中の事 御義口伝に云く、此の経文は仏・世に久住したまわば、薄徳の人は善根を殖(う)ゆ可からず。然る間・妄見網中と説かれたり。所詮此の薄徳とは在世に漏れたる衆生、今・滅後日本国に生れたり。所謂念仏・禅・真言等の謗法なり。不種善根とは善根は題目なり。不種とは未だ持たざる者なり。憶想とは捨閉閣抛(しゃへいかくほう)・第三の劣等、此くの如きの憶想なり。妄とは権教、妄語の経教なり。見は邪見なり。法華最第一の一を第三と見るが邪見なり。網中とは謗法不信の家なり。今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は、かかる妄見の経・網中(もうちゅう)の家を離れたる者なり云云。 第七 或失本心 或不失者(わくふ・しっしゃ)の事 御義口伝に云く、本心を失うとは謗法なり。本心とは下種なり。不失とは法華経の行者なり。失とは本(もと)有る物を失う事なり。今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉るは本心を失わざるなり云云。 第八 擣簁和合(とうし・わごう) 与子令服(よし・りょうぶく)の事 御義口伝に云く、此の経文は空仮中の三諦・戒定慧の三学なり・色香美味の良薬なり。擣(とう)は空諦なり。簁(し)は仮諦なり。和合は中道なり。与は授与なり。子は法華の行者なり。服すると云うは受持の義なり。是を此大良薬・色香美味・皆悉具足(かいしつ・ぐそく)と説かれたり。 皆悉の二字、万行万善・諸波羅蜜を具足したる大良薬たる南無妙法蓮華経なり。色香等とは一色一香・無非中道にして草木成仏なり。されば題目の五字に一法として具足せずと云う事なし。若し服する者は速除苦悩なり。 されば妙法の大良薬を服するは貪瞋癡の三毒の煩悩の病患を除くなり。法華の行者南無妙法蓮華経と唱え奉る者、謗法の供養を受けざるは貪欲の病を除くなり。法華の行者、罵詈(めり)せらるゝも忍辱(にんにく)を行ずるは瞋恚(しんに)の病を除くなり。法華経の行者、是人於仏道・決定無有疑(けつじょうむうぎ)と成仏を知るは愚癡の煩悩を治するなり。 されば大良薬は末法の成仏の甘露なり。今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉るは大良薬の本主なり。 第十 是好良薬(ぜこう・ろうやく) 今留在此(こんる・ざいし) 汝可取服(にょか・しゅぶく) 勿憂不差(もっつ・ふさい)の事 御義口伝に云く、是好良薬とは或は経教、或は舎利なり。さて末法にては南無妙法蓮華経なり。好とは三世諸仏の好み物は題目の五字なり。今留とは末法なり。此とは一閻浮提の中には日本国なり。汝とは末法の一切衆生なり。取は法華経を受持する時の儀式なり。服するとは唱え奉る事なり。服するより無作の三身なり。始成正覚の病患差(びょうげん・いゆ)るなり。今日蓮等の類い・南無妙法蓮華経と唱え奉る是なり。 第十一 自我得仏来の事 御義口伝に云く、一句三身の習いの文と云うなり。自とは九界なり。我とは仏界なり。此の十界は本有無作の三身にして来たる仏なりと云えり。自も我も得たる仏来たれり。十界本有の明文なり。我は法身、仏は報身、来は応身なり。此の三身・無始無終の古仏にして自得なり。無上宝聚・不求自得(ふぐ・じとく)之を思う可し。然らば即ち顕本遠寿(けんぽん・おんじゅ)の説は永く諸教に絶えたり。今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉るは自我得仏来の行者なり云云。 第十四 時我及衆僧 倶出霊鷲山(くしゅつ・りょうじゅせん)の事 御義口伝に云く、霊山一会・儼然未散(りょうぜんいちえ・げんねんみさん)の文なり。時とは感応末法の時なり。我とは釈尊、及とは菩薩、聖衆を衆僧と説かれたり。倶とは十界なり。霊鷲山とは寂光土なり。時に我も・及も・衆僧も倶に霊鷲山に出ずるなり。秘す可し・秘す可し。 本門事の一念三千の明文なり。御本尊は此の文を顕はし出だし給うなり。されば倶とは不変真如の理なり。出とは随縁真如の智なり。倶とは一念なり。出とは三千なり云云。 又云く、時とは本時・娑婆世界の時なり。下は十界宛然(おんねん)の曼陀羅を顕す文なり。其の故は時とは末法第五時の時なり。我とは釈尊、及は菩薩、衆僧は二乗、倶とは六道なり。出とは霊山浄土に列出するなり。霊山とは御本尊並びに日蓮等の類い・南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住所を説くなり云云。第十五 衆生見劫尽〇而衆見焼尽の事 御義口伝に云く、本門寿量の一念三千を頌する文なり。大火所焼時とは実義には煩悩の大火なり。我此土安穏とは国土世間なり。衆生所遊楽とは衆生世間なり。宝樹多華菓とは五陰世間なり。是れ即ち一念三千を分明(ふんみょう)に説かれたり。 又云く、上の件(くだん)の文は十界なり。大火とは地獄界なり。天皷(てんく)とは畜生なり。人と天とは人天の二界なり。天と人と常に充満するなり。雨曼陀羅華(うまんだらけ)とは声聞界なり。園林とは縁覚界なり。菩薩界とは及の一字なり。仏界とは散仏なり。修羅と餓鬼界とは憂怖(うふ)諸苦悩・如是悉充満の句に摂するなり。此等を是諸罪衆生と説かれたり。然りと雖も此の寿量品の説顕われては、則皆見我身(そっかいけん・がしん)とて一念三千なり。今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者是なり云云。 第十六 我亦為世父(がやくいせぶ)の事 御義口伝に云く、我とは釈尊、一切衆生の父なり。主師親に於て仏に約し、経に約す。 仏に約すとは迹門の仏の三徳は今此三界の文是なり。本門の仏の主師親の三徳は、主の徳は我此土安穏の文なり。師の徳は常説法教化の文なり。親の徳は此の我亦為世父の文是なり。妙楽大師は寿量品の文を知らざる者は不知恩の畜生と釈し給えり。 経に約すれば「諸経中王」は主の徳なり。「能救(のうぐ)一切衆生」は師の徳なり。「又如大梵天王・一切衆生之父」の文は父の徳なり。 今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は一切衆生の父なり。無間地獄の苦を救う故なり云云。涅槃経に云く「一切衆生の異の苦を受くるは悉く是れ如来一人の苦」と云云。日蓮が云く一切衆生の異の苦を受くるは悉く是れ日蓮一人の苦なるべし。 第十八 行道不行道の事 御義口伝に云く、十界の衆生の事を説くなり。行道は四聖、不行道は六道なり。又云く、行道は修羅人天、不行道は三悪道なり。 所詮末法に入つては法華の行者は行道なり、謗法の者は不行道なり。道とは法華経なり。天台云く「仏道とは別して今の経を指す」と。今日蓮等の類い・南無妙法蓮華経と唱え奉るは行道なり、唱えざるは不行道なり云云。 第十九 毎自作是念(まいじさぜねん)の事 御義口伝に云く、毎とは三世なり。自とは別しては釈尊、惣じては十界なり。是念とは無作本有(むさ・ほんぬ)の南無妙法蓮華経の一念なり。作とは此の作は有作(うさ)の作に非ず、無作本有の作なり云云。 広く十界本有に約して云わば、自とは万法己己の当体なり。是念とは地獄の呵責(かしゃく)の音、其の外一切衆生の念念・皆是れ自受用(じじゅゆう)報身の智なり。是を念とは云うなり。今日蓮等の類い・南無妙法蓮華経と唱え奉る念は大慈悲の念なり云云。 第二十 得入無上道等の事 御義口伝に云く、無上道とは寿量品の無作の三身なり。此の外に成就仏身・之れ無し。今日蓮等の類い・南無妙法蓮華経と唱え奉る者は成就仏身・疑ひ無きなり云云。 御義口伝に云く、自とは九界なり。我とは仏身なり。偈とはことわるなり。本有(ほんぬ)と・ことわりたる偈頌(げじゅ)なり。深く之を案ず可し。偈(ことわり)様とは南無妙法蓮華経なり云云。 第二十一 自我偈(じがげ)の事 御義口伝に云く、自とは九界なり。我とは仏身なり。偈とはことわるなり。本有(ほんぬ)と・ことわりたる偈頌(げじゅ)なり。深く之を案ず可し。偈(ことわり)様とは南無妙法蓮華経なり云云。 第二十二 自我偈始終の事 御義口伝に云く、自とは始めなり。速成就仏身の身は終りなり。始終自身なり。中の文字は受用なり。仍つて自我偈は自受用身(じじゅ・ゆうしん)なり。法界を自身と開き、法界自受用身なれば自我偈に非ずと云う事なし。 自受用身(ほしいままに・うけ・もちいる・み)とは一念三千なり。伝教云く「一念三千即自受用身、自受用身とは尊形(そんぎょう)を出でたる仏と。出尊形仏とは無作の三身と云う事なり」云云。今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者是なり云云。 第二十三 久遠の事 御義口伝に云く、此の品の所詮は久遠実成なり。久遠とは・はたらかさず、つくろわず、もとの儘(まま)と云う義なり。 無作の三身なれば初めて成ぜず、是れ働かざるなり。卅二相(さんじゅうにそう)八十種好(しゅごう)を具足せず、是れ繕(つくろ)わざるなり。本有常住の仏なれば本(もと)の儘(まま)なり、是を久遠と云うなり。 第二十五 建立御本尊等の事 御義口伝に云く、此の本尊の依文(えもん)とは如来秘密・神通之力の文なり。 戒定慧(かいじょうえ)の三学は、寿量品の事の三大秘法是れなり。日蓮慥(たしか)に霊山に於て面授口決(めんじゅ・ぐけつ)せしなり。本尊とは法華経の行者の一身の当体なり云云。 第二十七 無作三身の事 種子尊形三摩耶(さまや) 御義口伝に云く、尊形とは十界本有の形像なり。三摩耶とは十界所持の物なり。種子とは信の一字なり。所謂南無妙法蓮華経、改めざるを云うなり。三摩耶とは合掌なり。秘す可し・秘す可し云云。 #
by johsei1129
| 2026-05-03 16:01
| 血脈・相伝・講義
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