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日蓮大聖人『御書』解説

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2019年 12月 16日

十九、日蓮、国家諌暁を決断

                     英語版

十九、日蓮、国家諌暁を決断_f0301354_21201033.jpg
モンゴル兵の復元 Wikipedia より

こうしたただならぬ政治状況に、庶民の間でも蒙古来襲の噂がひろまった。

この事は日蓮以外、日本国のだれもが予期しないことだった。
 日蓮は九年前、立正安国論で他国の侵略を予言していた。人々は日蓮の不吉な警告を無視して中傷まで浴びせたが、蒙古の国書到来によって眠りから覚まされた。

 日蓮は釈尊の一切経を読み、経文のとおりに未来を予言した。邪法をそのままにすれば、未だ惹起(じゃっき)しない二つの難がおきる。自界(じかい)叛逆(ほんぎゃく)難、他国侵逼(しんぴつ)難である。

当時朝鮮半島を支配していた高麗は一国をあげて念仏を信奉したために亡国となった。まつりごとの善悪ではない、森羅万象を極めた仏法の正邪によって国の存亡が決まる。

予言はまず他国侵逼の形であらわれた。仏法が正しければ、蒙古の攻めは現実となる。とすれば残るもう一つの難「自界叛逆」が起こるのも必定だった。

日蓮がこの牒状を知ったのは、鎌倉に国書が届いた三ケ月後だった。日蓮はこの年、四十七歳になっていた。文応元年、三十九歳の時、北条時頼に『立正安国論』を献じ九年を経て、今度は時頼の息子時宗に予言的中を告げる蒙古からの国書が届いた。

日蓮の感慨はふかい。

文永六年十二月八日、自ら書写した立正安国論にこの時の思いを奥書として追記している。

文応元年之を(かんが)ふ、正嘉より之を始め文応元年に勘え畢る。

去ぬる正嘉(しょうか)元年八月廿三日戌亥(いぬい)の剋の大地震を見て之を(かんが)ふ。

其の後文応元年七月十六日を以て、宿谷(やどや)禅門に付して故最明寺入道殿(たてまつ)れり。その後文永元年七月五日大明星の時弥々(いよいよ)此の災の根源を知る。文応元年より文永五年(のちの)正月十八日に至るまで九箇年を経て、西方大蒙古国より我が朝(おそ)ふべきの由牒状(ちょうじょう)之を渡す。又同六年重ねて牒状之を渡す。既に勘文之に叶ふ。之に準じて之を思に未来(また)(しか)るべきか。此の書(しるし)有る文なり(ひとえ)に日蓮の力に非ず、法華経の真文感応(かんのう)の致す所か。  立正安国論奥書

「未来も亦然るべきか」に日蓮の思いがつたわる。未来の日本の国主が邪法を奉れば、国難は避けられない、と予言している。

法華経どころか仏教の上に靖国神社を位置づけて崇拝した日本は、太平洋戦争で史上初めて外国に国土を占領された。その靖国神社を今も崇めている現政権は、中国、北朝鮮に日本の領海を脅かされ続けている。


日蓮は決意した。いよいよ立ちあがる時だ。

他国侵逼という国難を乗りきる方法を知るのは、日本国に自分をおいてほかにはいない。
 蒙古襲来は、鎌倉幕府が邪宗を国家鎮護の宗教として据え、かつ多額の布施を邪宗派に施していることが根本原因だ。蒙古から国書が届いた今こそ、執権北条時宗に法華経信仰と邪宗への布施を止めるよう再度の国家諌暁をすべき千載一遇の機会なのだ。

そして邪法を退治するには、国主の前で各宗の僧をあつめ、正邪を決める『公場対決』をする以外に方法はない。
 天台大師も伝教大師も、この対決による決着で法華経を広宣流布し、天下の泰平を開いている。天台大師は法華玄義巻九で「法華折伏・破権門理(法華は折伏にて権門の理を破す)」と説いた。日蓮もまたこの方程式を踏襲した。
 日蓮は自身の著作(御書)で『公場対決』について次のように度々言及している。


()出世(しゅっせ)の邪正を決断せんこと必ず公場なる可きなり。『強仁状御返事


論談を致さゞれば才の長短を表はさず、(けっ)(ちゃく)に交はらざれば智の賢愚を測らず  念仏者追放宣旨御教書事 山門申状

 

ことの邪正是非は一対一の対論で決まる。これを衆目の中で行えば、その差がいっそうきわ立ち、見る者聞く者に利益となる。近代の議会制度はこの精神を体現している。つまり日蓮の考えは、十三世紀の鎌倉時代に民主主義を志向していたことになる。力による決着は永続しない。よりすぐれた人間の智慧の論争が、よりすぐれた結論を引きだす事は自明の理である。

日蓮は釈尊が「唯仏(ゆいぶつ)与仏(よぶつ) 乃能(ないのう)究盡(くじん) 諸法実相()()()()()()()()唯仏と仏のみ、すなわち森羅万象の法を能く極め(つく):妙法蓮華経方便品第二)」と説いた法華経をもって諸宗にいどもうとした。

まず四月、幕府に影響力をもつ法鑒(ほうがん)という僧に手紙をしたため善処をうながした。

日蓮正嘉の大地震、同じく大風、同じく飢饉、正元元年の大疫等を見て記して云はく、他国より此の国を破るべき先相なり。自讃に似たりと雖も、若し此の国土を()()せば復仏法の破滅疑ひ無き者なり。而るに当世高僧は謗法の者同意の者なり復自宗玄底(げんてい)を知らざる者なり。定めて勅宣(ちょくせん)御教書(みぎようしょ)を給ひて此の凶悪祈請(きしょう)するか。(いよいよ)瞋恚(しんに)()し、国土を破壊(はえ)せん(うたがい)無き者なり。

日蓮(また)之を退治するの方之を知る。叡山を除きて日本国には但一人なり(たと)へば日月の二つ無きが如く、聖人肩を並べざるが故なり()し此の妄言(もうげん)ならば、日蓮(たも)つ所の法華経守護の(じゅう)羅刹(らせつ)冶罰之(じばつこれ)(こうむ)らん(ただ)(ひとえ)に国(ため(ほう)の為、人の為にして身の為に之を申さず。

(また)門に対面()故に之を告ぐ、之を用ひざれば定めて後悔有るべし。恐々謹言。

文永五年太歳戊辰四月五日   日蓮花押

法鑒御房                『安国論御勘由来

 しかしいっこうに音沙汰はない。幕府はなにをしているのであろう。危機は迫っている。

四ケ月後の八月二十一日、日蓮はかつて立正安国論をとりついだ幕臣、宿屋入道光則に同様の書をおくった。しかし返事がない。日蓮は蒙古の牒状いらい、さかんに幕臣へ書を送り意見を具申した。光則もその一人だった。だがこれも返事がない。冒頭にそのいきどおりをしるす。

其の(のち)は書・絶えてさず、不審極まり(そもそも)去ぬる正嘉八月二十三日戌亥(いぬいの)刻の大地震、日蓮諸経を引いて之(かんが)へたるに、念宗と禅宗とを御帰依有るがの故に、日本守護の諸大善神瞋恚(しんに)()して起こす所の災ひなり()し此を退治無くんば、他国の為に此の国を破らるべきの由、勘文一通を撰し、正元庚申七月十六日御辺(ごへん)に付け奉りて故最明寺入道殿へ之を進覧すの後九年を経て今年大蒙古国の牒状之有るよし)風聞(ふうぶん)云云文の如くんば彼の国より此の国を責めん事必定なり。而るに日本国中、日蓮一人彼西戎(せいじゆう)調(じよう)(ぶく)するの人たる可しと()ねて之を知り、文に之を勘ふ。

君の為・国の為・神の為・仏の為・内奏(ないそう)()らるべきか。委細(いさい)見参(げんざん)を遂げて申すべく候。恐々謹言。

文永五年八月二十一日       日蓮花押

宿屋左衛門入道殿              『宿屋入道許御状

だが期待とは裏腹に、宿屋はいっこうに日蓮に会おうとはしない。なしのつぶてである。なんということであろう。仏法に盲目であるばかりか、国難にも無神経なのか。

一月後の九月、日蓮は再度、より強い調子で宿屋に書状を送った。官僚として主君に取りつぎせずに放置すれば、事によっては主君に罰せられると。

宿屋にとって耳が痛かったにちがいない。


去ぬる八月の(ころ)()(さつ)を進ぜしむるの後、今月に至るも是非に付け返報(たま)はらず、(うつ)(ねん)散じ難(さん がた)し。怱々(そうそう)の故に亡せしむるか。軽略せらるゝの故に此の一行(おし)むか。本文に云はく「師子(しし)少兎(しょうと)(あなど)らず大象(おそ)れず」云云。若し又万一他国の兵この国を襲ふ出来(しゅったい)せば、知りて奏せざる(とが)(ひとえ)()(へん)(かか)るべし。仏法を学ぶの法は身命を捨て国恩を報ぜんが為なり。全く自身の為に非ず。本文に云はく「雨を見て竜を知り(はちす)を見て池を知る」等云云災難急を見る故に度々(たびたび)之を驚かす。用ひざる而も(しか)之を(いさ)強・・   宿屋入道再御状

現存する書はここで途切れる。日蓮のいきどおりが素直にあらわれている。

 幕府中枢の反応はその後もまったくなかった。日蓮の訴えは執権の耳にとどいていないこれは時宗から「相手にするな」と捨て置かれたか幕府重臣の手で闇に葬られていたかのいずれかであったことは明らかだった。




       二十、北条時宗を諌暁 につづく



by johsei1129 | 2019-12-16 06:11 | 小説 日蓮の生涯 上 | Trackback | Comments(0)
2019年 12月 15日

九十九、通塞の案内者

九十九、通塞の案内者_f0301354_21224750.jpg
ボロブドゥール遺跡  Wikipedia より


日蓮はつね日頃、信力強盛な者に成仏の日が絶対にくると明言していた。そして信心ある者の臨終には、自分がかならず現われるといった。日蓮は死にさいし、立ち会うという。まるで冥界の主であるかのように。

このことを弟子檀那の手紙にくりかえし説いている。

但し日蓮をつえ()()らともたのみ給ふべし。けは()しき山、あしき道、つえをつきぬればたをれず。殊に手をひかれぬればまろ()ぶ事なし。南無妙法蓮華経は死出(しで)の山にてはつえはしらとなり給へ。釈迦仏・多宝仏・上行等の四菩薩は手を取り給ふべし。日蓮さきに立ち候はゞ、御(むか)へにまいり候事もやあらんずらん。また先に行かせ給はゞ、日蓮必ず閻魔法王にも(くわ)しく申すべく候。此の事少しもそら()事あるべからず。日蓮法華経の文の如くならば(つう)(そく)の案内者なり。只一心に信心おはして霊山を()し給へ。『弥源太殿御返事

日蓮こいしくをはせば、常に出づる日、ゆうべにいづる月ををがませ給へ。いつとなく日月にかげをうかぶる身なり。又後生には霊山浄土にまいりあひまいらせん。 『国府尼御前御書

()し命ともなるならば法華経ばし(うら)みさせ給ふなよ。又閻魔(えんま)王宮にしては何とか仰せあるべき。をこがましき事とはおぼすとも、其の時は日蓮が檀那なりとこそ仰せあらんずらめ。『一谷入道女房御書

中有(ちゅうう)の道にいかなる事もいできたり候はゞ、日蓮が()()なりとなのらせ給へ、わずかの日本国なれども、さがみ(相模)殿のうちのものと申すをば、さう(左右)なくおそるゝ事候。

日蓮は日本第一の()たう()の法師、たゞし法華経を信じ候事は、一閻浮提第一の聖人なり。其の名は十方の浄土にきこえぬ。定めて天地もしりぬらん。日蓮が弟子となのらせ給はゞ、いかなる悪鬼等なりとも、よも()らぬよしは申さじとおぼすべし。『妙心尼御前御返事

我等は穢土(えど)に候へども心は霊山(りょうぜん)に住むべし。御面(おかお)を見てはなにかせん。心こそ大切に候へ。いつかいつか釈迦仏のをはします霊山会上(えじょう)にま()りあひ候はん。 『千日尼御前御返事

相かまへて相かまへて、自他の生死はしらねども、御臨終のきざみ、生死の中間に、日蓮かならずむか()いにまいり候べし。『上野殿御返事

故に法性(ほっしょう)の空に自在にとびゆく車をこそ(だい)(びゃく)牛車(ごしゃ)とは申すなれ。我より後に来たり給はん人々は、この車にめされて霊山へ御出で有るべく候。日蓮も同じ車に乗りて御迎ひにまかり向かふべく候。 『大白牛車御消息

御義口伝に云はく、(かい)は十界なり、()(にょ)我等(がとう)()()なり、()は極果の住処なり、宝処(ほうしょ)霊山(りょうぜん)り。日蓮等の(たぐい)南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は一同に(かい)()()宝処(ほうしょなり。共の一字は日蓮に共する時は宝処に至るべし、不共ならば阿鼻(あび)大城(だいじょう)()つべし云云。 『御義口伝上 化城喩品 第七 皆共至宝処の事』

弟子たちはこの手紙を読んで奮いたつ。生きては日蓮に随い、死しては日蓮にまみえる。この死への確信があればこそ、今の生が充実するのだ。
 妙法蓮華経 普賢菩薩勧発第二十八には次のように説かれている。

(にゃく)有人(うにん) 受持(じゅじ)読誦(どくじゅ)()()()(しゅ)。  若し人有りて 受持し読誦し、その義趣を解す

是人命終為( ぜにんみょうじゅうい)千仏授手(せんぶつじゅしゅ)    是の人命終せば、千仏の(みて)を授けて、
 (りょう)不恐怖(ふくふ)不堕(ふだ)(あく)(しゅ)
     恐怖せず、悪趣に堕ちざらしめたもう

法華経を信じる者には臨終の時、千の仏がむかえにきて手をさしのべるという。恐れることなく、悪道にも堕ちさせない。一仏二仏の手ではない、千仏の手がすくいあげるという。当時の強信徒は、臨終の間際に日蓮がこの千仏を率いてやってくると固く信じていた。

逆に謗法不信の者は獄卒がむかえにくるとする。

(けん)()読誦(どくじゅ) 書持(しょじ)経者(きょうしゃ)。  経を読誦し書持すること有らん者を見て、
  軽賎憎嫉(きょうせんぞうしつ) 而懐結恨(にえけっこん)。   軽賎憎嫉して結恨を(いだ)かん。

 此人( しにん)罪報(ざいほう) 汝今復聴(にょこんぶちょう)   此の人の罪報を汝今(また)聴け。
  其人(  ごにん)命終(みょうじゅう) 入阿鼻獄。
 其の人命終して阿鼻獄に入らん。

一方、法華不信の者は捕縛されて牢獄へゆくという。なんという厳しさであろうか。


                百、不滅の滅 につづく


下巻目次



by johsei1129 | 2019-12-15 07:40 | 小説 日蓮の生涯 下 | Trackback | Comments(0)
2019年 12月 14日

九十六、妙覚の山

九十六、妙覚の山_f0301354_21561249.jpg
     チョモランマ(エベレスト) Wikipedia より
      

身延の草庵はひっそりとしていた。

伯耆房が日蓮の部屋にはいった。

朝餉(あさげ)の支度ができました。南条殿が供養されました米をたいて・・」

伯耆房は日蓮が本尊の前で倒れているのを見た。

「お師匠」

伯耆房があわてて日蓮をだきおこす。

「だれか」


 人間だれしもかならず一度は臨終をむかえる。死は不吉だとか、死は思いたくもないとしても、のがれた者はだれもいない。生の行く末が死だと思えば、人生ははかないということになるが、死をむかえる覚悟をしたうえで、ひるがえって生を考えれば、有意義な人生をおくることができる。

 しかし人はそれに気づかない。

日蓮は信徒の松野六郎左衛門入道に手紙をおくった。松野殿は駿河国庵原郡松野の人である。娘が南条時光の父兵衛に嫁いだ縁によって日蓮に帰依した。

子供が多くいる。蓮華寺を建立した長男の六郎左衛門尉、日蓮の高弟でのちの六老僧の一人となる日持そして南条家に嫁いだ娘が知られている。

消息から推測すると、松野はかなり教養の深い人だったと思われる。また彼は日蓮と同年輩だった。それだけに日蓮は松野に親しみをこめ、妙法をたもつ者の生き方を訴える。おなじ老いをむかえる者への手紙である。


 種々の物送り給び候
(おわ)んぬ。山中のすま(住居)ゐ思ひ()らせ給ふて、雪の中ふみ分けて御訪(おんとぶら)ひ候事 御 志( おんこころざし)定めて法華経・(じゅう)羅刹(らせつ)( し)ろし()し候らん。さては涅槃経に云はく「人命の(とど)まらざることは山水にも過ぎたり。今日(こんにち)(そん)すと(いえど)も明日(たも)ち難し」文。摩耶(まや)経に云はく「譬へば旃陀(せんだ)()の羊を()って()()に至るが如く、人命も亦是くの如く歩々(ほほ)死地に近づく」文。法華経に云はく「三界は安きこと無し、(なお)火宅の如し。(しゅう)()充満(じゅうまん)して(はなは)怖畏(ふい)すべし」等云々。此等の経文は我等が慈父大覚世尊、末代の凡夫(ぼんぷ)をいさめ給ひ、いとけなき子どもをさし驚かし給へる経文なり。(しか)りと(いえど)須臾(しゅゆ)も驚く心なく、刹那(せつな)も道心を()こざす、野辺(のべ)に捨てられなば一夜の中にはだかになるべき身をかざ()らんがために、いとまを入れ衣を(かさ)ねんとはげ()む。命終はりなば三日の内に水と成りて流れ、(ちり)と成りて地にまじはり、煙と成りて天にのぼり、あと()もみへずなるべき身を(やしな)はんとて多くの(たから)たく()はふ。    『松野殿御返事
 

われわれは屠殺場へおもむく羊であるという。またこの世界は火炎が充満する苦しみの世界であると。

現代の文明は死から逃避している。人々は死を忌み嫌い、遠ざける。終焉がないかのように。

日蓮は雪山童子の故事をひいて死の尊厳を説いている。くわえて仏法をもとめず、いたずらに生を終える人のはかなさをしるす。おなじ松野への手紙である。


(つらつら)世間を観ずるに、生死無常の理なれば生ずる者は必ず死す。されば()()のあだにはかなき事、譬へば電光(いなびかり)の如く、朝露に向かひて消ゆる似たり。風の前の(ともしび)の消えやすく、芭蕉の葉の破れやすきに異ならず。人皆此の無常を(のが)れず。(つい)に一度は黄泉(よみじ)(たび)(おもむ)くべし。(しか)れば冥土の旅を思ふに、闇々として()らければ日月星宿(せいしゅく)の光もなく、せめて灯燭(とうしょく)とてとも()す火だにもなし。かゝる(くら)き道に又()もなふ人もなし。(しゃば)にある時は、親類・兄弟・妻子・眷属(けんぞく)集まりて父は(あわ)れみの志高く、母は悲しみの情深く、夫妻は偕老同穴(かいろうどうけつ)(ちぎ)りとて、大海にあるえび()は同じ畜生ながら夫妻ちぎり細やかに、一生一処にともなひて離れ去る事なきが如し。鴛鴦(えんおう)(ふすま)の下に枕を並べて遊び(たわむ)る仲なれども、彼の冥途の旅には伴ふ事なし。冥々として(ひと)り行く。誰か来たりて是非を(とぶら)はんや。(あるい)老少(ろうしょう)不定(ふじょう)の境なれば、老いたるは先立ち若きは留まる。是は順次の道理なり。歎きの中にもせめて思ひなぐさむ(かた)も有りぬべし。老いたるは留まり、若きは先立つ。されば恨みの至って恨めしきは幼くして親に先立つ子、(なげ)きの至って歎かしきは老いて子を先立つる親なり。是くの如く生死無常、老少不定の境、あだ()にはかなき世の中に、但昼夜に今生の(たくわ)へをのみ思ひ、朝夕に現世の(わざ)のみなして、仏をも敬はず、法をも信ぜず、無行(むぎょう)無智(むち)にして(いたずら)に明かし暮らして、閻魔(えんま)の庁庭に引き迎えられん時は、何を以てか資糧として三界の長途(ちょうと)を行き、何を以て(せん)(ばつ)として生死の(こう)(かい)を渡りて、実報(じっぽう)寂光(じゃっこう)の仏土に至らんや

 海にいるエビは雄雌そろっておなじ穴にいる。これを偕老同穴という。転じて夫婦仲のむつまじいことをあらわす。夫婦が一生を共にし、おなじ墓穴にはいる意味である。それでも世を去るときは一人なのだ。

 鴛鴦の衾とは男女(とも)()の夜具をいう。鴛鴦とはオシドリのこと。これまた良い夫婦仲の形容詞だが、死にのぞめばはなれてしまう。

 日蓮は仏法の根本命題である死について、若い時から思索をかさねていた。現代人が忘れているテーマである。

例えば日蝕がある。古代の人々は突然太陽が欠け始め、ついには昼なのに真っ暗になると、この世の終わりが来たと恐れをなしたただろう。
 しかし現代の人間は、日蝕は天体の運行で起きる現象で「月が地球と太陽の間に入り、月の影に入った地域では太陽が欠け、あるいは全く見えなくなる」ことを知っている。また将来おきる日食の日時と地球上の位置を正確に知ることができ、日蝕を天体ショーとして楽しんでいる。これは天体の運行という法則を把握しているからできることである。

釈尊は妙法蓮華経方便品第二で「仏所成就。第一希有(けう)難解(なんげ)之法(しほう)唯仏(ゆいぶつ)与仏(よぶつ)乃能(ないのう)究尽(くじん)。諸法実相」と説く。

() 仏が成就した所業とは、最高の稀有で難解な法で、唯、仏と仏のみが、()く諸法の実相を極め尽くしたことである。
 つまり人々は、生と死の法則がわからないので死に対し不安になり恐れる。釈尊も日蓮も命の法則を極めているから死に対し恐れることはないとする。なぜなら仏法は生命は一つでなく、(ほっ)(しん)(ほう)(しん)(おう)(じん)の三身と見る。無始無終の魂魄(こんぱく)である法身、一個の受精卵として母親の胎内で生まれ、老いて朽ち果てていく有始有終の応身、そして修行し悟り、仏となって衆生を救う有始無終の報身。つまり我々が通常、人とみる応身は必ず死んで行くが、魂魄としての法身は現世の所業=善行または悪行の結果を受け、新たな生として誕生するとする。それ故現世での所業が大事になってくる。

日蓮はこの法報応(ほっぽうおう)(さん)(じん)を月に見立てて説いている。


 三身の事、()(げん)経に云く「仏・三種の身は方等(ほうどう)より生ず是の大法印は涅槃(ねはん)海を印す、此くの如き海中より能く三種の仏の清浄の身を生ず、此の三種の身は人天の福田(ふくでん)にして応供(おうぐ)の中の最なり」云云、三身とは一には(ほっ)(しん)如来、二には(ほう)(しん)如来、三には(おう)(じん)如来なり。此の三身如来をば一切の諸仏必ず()()す、(たと)へば月の体は法身、月の光は報身、月の影は応身にたとう。一の月に三のことわりあり、一仏に三身の徳まします。『四條金吾釈迦仏供養事:
建治二年七月十五日』五十五歳御作)

 言い換えると、法身とは生命の本質そのもの、報身は生命の智慧、境涯と言え、応身とは生命の色心(実際に生きている当体)をいう。
 例えば七十五億人とも言われている今生きている地球上の人々には誰しもが生まれたばかりの赤ん坊の瞬間があった。しかしその赤ん坊は今どこにもいない。応身とはまさにそういう身なのだ。それ故恐るべきは死ではなく、現在どのように生きているかを恐るべきなのだ。現在の生き様が次の生を決めるのだから。
 この生命の法を知り尽くした日蓮は、いま妙法蓮華経に帰命しているかどうかを恐れている。
仏法は人間の再誕を説き、
再誕後の世界はその人の臨終の相から予見できるという。日蓮は法華経の鏡で人の死後を当てることができるといった。信じる法の邪正によって臨終の相がきまると。

死をむかえるためによりよい人生をおくる。これはだれしも願うことである。よりよい人生とは、妙法をたもつことで初めて叶えられる。


 とても此の身は
(いたずら)に山野の土となるべし。惜しみても何かせん。惜しむとも惜しみとぐべからず。人久しといえども百年には過ぎず。其の間の事は(ただ)一睡(いっすい)の夢ぞかし。受けがたき人身を受けて(たまたま)出家せる者も仏法を学し謗法の者を責めずして(いたずら)遊戯(ゆげ)雑談(ぞうだん)のみして明かし暮らさん者は、法師の皮を()たる畜生なり。法師の名を借りて世を渡り身を養ふといへども、法師となる義は一つもなし。法師と云ふ名字をぬすめる盗人なり。()づべし恥づべし、恐るべし。

日蓮はここで妙法をたもつ者の臨終を説いている。妙法を唱えきった者には苦渋に満ちたこの娑婆世界が、実は寂光土であったことがわかるという。

(しか)るに在家の御身は但余念なく南無妙法蓮華経と御唱へありて、僧をも供養し給ふが肝心にて候なり。それも経文の如くならば随力演説も有るべきか。世の中もの()からん時も今生の( く)さへかなしし。()してや来世の苦をやと(おぼ)()しても南無妙法蓮華経と唱へ、悦ばしからん時も今生の悦びは夢の中の夢、霊山浄土の悦びこそ(まこと)の悦びなれと思し食し合はせて又南無妙法蓮華経と唱へ、退転なく修行して最後臨終の時を待って御覧ぜよ。妙覚の山に走り登りて四方をきっと(屹度)見るならば、あら(おも)(しろ)や、法界寂光土にして瑠璃(るり)を以て地とし(こがね)の縄を以て八つの道を(さか)へり。(そら)より四種の花ふり、虚空に音楽聞こえて、諸仏菩薩は常楽我浄の風にそよめき、娯楽快楽(けらく)し給ふぞや。我等も其の数に(つら)なりて遊戯(ゆげ)し楽しむべき事、はや近づけり。信心弱くしてはかゝる目出たき所に行くべからず、行くべからず。不審の事をば尚々(なおなお)承るべく候。(あな)(かしこ)穴賢。

                  九十七、身延下山  につづく


下巻目次



by johsei1129 | 2019-12-14 10:36 | 小説 日蓮の生涯 下 | Trackback | Comments(0)
2019年 12月 13日

四十四、 自界叛逆難の的中

四十四、 自界叛逆難の的中_f0301354_22540268.jpg
「平治物語」 Wikipedia より

そのころ鎌倉では時宗、平頼綱、安達泰盛らが地図をかこんでいた。

地図には日本と隣国の高麗が描かれている。

泰盛が鞭で高麗の南岸をさした。

「漁民に化けた間者からの報告では、今ここで舟の建造がはじまっている」

頼綱が問いただす。

最終的に何艘建造するつもりなのだ。確かな情報はあるのか

「現地の噂によれば数百艘におよぶとか」

「数百層とな」 

 一同が驚きの声をあげた。

時宗が天を仰いで腕組みしたまま沈黙した。

泰盛がつづける。

「元の要求に応えるためには人手が足りず、船造りに従事する高麗人の嘆きは高まっておる。蒙古の兵士が急ぐあまり、女子供まで酷使している報告もある」

 北条宣時がもらす。

「国が亡びた報いでござるな。ここでわれわれが道を誤れば、漢土・高麗の二の舞じゃ」

時宗が憤然とした

「そんなことはわかっている。で、日本への攻撃はいつになる」

泰盛が首をふった。

「いっこうに。今のところ蒙古の本格的な軍団は高麗にきていない様子でござる。今年であるのか来年であるのか」

時宗が指示した。

「斥候をふやせ。海岸は無論のこと、内陸にも人をやって調べろ。協力者をつのるのだ。金はおしむな」

泰盛が平伏した。

時宗がひとりごとのようにいう。

「いつ来るかわからぬ敵を相手にするのは難儀じゃ。そのためには情報がすべて。ところで上陸のさいの手はずは」

平頼綱が答える。

「まず肝心なのは蒙古がどこに攻めてくるかでござる」

頼綱が鞭で九州をさす。

「十中八九、この博多にまちがいはござらぬ」
「なぜ断言できる」

 珍しく時宗が頼綱を問いただす。風雲急を告げる事態に、さすがに真剣にならざるを得ない。

「万が一、蒙古が我々の裏をかいて博多以外に上陸するとすれば、長門でござろう。長門は京鎌倉に近く、彼らにとって日本の中心に近づくことでは好都合であろうが、いかんせん蒙古の軍団が上陸するには港が狭すぎる。あとはこの敦賀が考えられるが、船の移動距離が長すぎる。蒙古兵は騎馬戦にたくみだが船の戦いはないも同然。敦賀はまずあるまい。であるならば九州の海の玄関、博多にまちがいない。蒙古にとってこ博多をおさえれば九州全部をおさえたも同じ。九州をおさえれば高麗、中国の三角地帯の貿易も独占できよう。利にさとい蒙古人にとって、博多はのどから手がでるほどほしいはず」

宣時が意気ごんだ。

「どこから来ようとおなじじゃ。この刀で蹴散らしてくれるわ」

泰盛もつられて威勢よかった。

「馬ならともかく船でくる蒙古など、敵ではないわ」

 そこに使いがやってきて時宗に耳うちした。

時宗の顔色がかわった。

泰盛が恐る恐るきく。

「殿、いかがいたしました」

時宗が一瞬言葉を失ったかのごとく呆然として吐き捨てる。

「名越教時がいくさの準備をしている」

 一同がおどろき、立ち膝となった。

「おのれ教時、やはりそうであったか。北条の身内でありながら、北条に刃向かう愚か者めが」

時宗がとめる。

「まて。ここでせいては事を仕損じる。おちつくのだ。相手は同じ一族。また蒙古の襲来を控えているこの状況で、一つまちがえれば鎌倉はもとより日本の存亡に累がおよぶ」

「さりながら」

「もう少し様子をみよう。決断はこのわしがする」

その北条教時邸には珍客がきていた。

極楽寺良観が(のり)(とき)(とき)(あきら)兄弟の前で談笑していたのである。名越一族はそろって良観を信奉していた。

良観が兄弟にこびた。

「まことにお二人は仲がよい。それに名門のお家柄だけあって品がよろしゅうおわす。さすがこの良観の大檀那ですな。頼もしいかぎりでございます」

兄の時章がていねいにこたえる。

「いいえ、わが名越一族が栄えているのも良観上人のおかげでございます。これからも念仏を唱え、戒律を守ってまいります。どうか上人のご加護を」

時章は弟の真意をただすため、屋敷を訪れていた。

時章は幕府に敵意などない。執権時宗の権力は強大になりすぎていた。かなう相手ではない。それだけに血気にはやる教時をおさえこんで自制させようとしたのである。教時が一歩まちがえれば、自分はもとより長兄の光時もろとも滅亡してしまう。

その緊迫感などないかのように、兄弟が手をあわせた。

良観が機嫌よい。

「さりながら噂というのは、いいかげんなものでございますな」

 教時がきいた。

「なにか良からぬ噂でもございましたか」

「いやいや根も葉もないこと。鎌倉の御所あたりから伝え聞こえてくるのだが、なんでも時章、教時様のご兄弟が武器をたくわえ、執権時宗様に反旗をひるがえすとか」

 教時がなに食わぬ顔でいった。

「ほう、それは奇怪な」

「それに尾ひれをつけて教時様は京都の時輔様と組み、時宗様を倒そうとの野心ありとか。どこでそんな話がでるのか見当がつきませぬ。このご兄弟を見れば、幕府への忠誠は明らかなものを。まことにおかしな話でございまする」

良観は時勢にまったくの無頓着であった。兄弟の心中などわからない。

三人はそろって笑った。

「さて時間じゃ。そろそろおいとまを」

兄弟は立って良観を見送った。そして部屋にもどったとたん、兄の時章がなじった。

「どういうことだ」

「なにが」

「今の話だ。おぬしが幕府に反旗をひるがえし、いくさの準備をすすめているとな」

「ばかな。つまらんうわさにすぎぬ」

「教時、他人はどうあれ、この兄はだまされんぞ。その目、その匂い、この屋敷の動き。いくさの前の空気ではないか。おぬし本気で戦うのか。われら名越一族のことは考えたのか」

教時がしばらく沈黙し、にやりとした。

「さすがは兄。お見とおしというわけか。いかにもいくさの用意はしておる。しかし準備だけだ」

時章がせまる。

「いかん。準備は反逆と見なされても抗弁できない。思いとどまれ。今からでもおそくない。今ならわしも光時兄もお前をかばうことができる。なんとしてでもやめるのだ」

 教時はおちついていた。

「兄上も光時兄も、今の幕府で事がすすむと思っているのか」

 時章がだまった。

「蒙古の件では力ばかりを誇示し、相手の使者をはねつけることしかできない。われら名越の意見を無視し、平頼綱、安達泰盛など、使用人や外様なぞを用いる愚かさ。これでは国がもたぬ。わしは兵をおこし、執権時宗に一言申しつけるまで。それが叶わねば一戦を交えるまでよ」

「いかん。いくさは勝たねばならぬ。今の幕府は最強なのだ。われらが北条とはいえ、分家の身だ。かなうわけがない」

廊下が騒がしくなってきた。

戸があき、鎧姿の武者があらわれた。兜の緒をしめて太刀をはき、弓をもっている。

時章が仰天した。

武者が教時につげた。

「殿、悪い知らせが」

「なんだ。この鎌倉にこれ以上の悪い事があったか」

「われらの計画が鎌倉殿にもれた様子でござる。いま侍所にぞくぞくと兵があつまっております。もはや一刻の猶予もなりませぬ」

教時は時章にいった。

「兄上、よいものをご覧にいれよう」

教時が廊下を進み、時章が不安げな顔でつづいた。

廊下奥の堅い扉がひらかれた。

そこにはおびただしい数の武士がならんでいた。

「これは」

時章が嘆息した。
 

侍所には兵士がものものしく集まりだした。合戦の空気がいやがうえにも高まり、(とき)のかけ声があいついだ。このざわめきは二十年前の北条時頼と三浦一族の合戦いらいである。

武門の血が沸騰しはじめている。

彼らは斬りあい、射かけあいで功名を立ててきた。その血なまぐさい本能がよみがえった。それをためす時がきたのだ。

執権の間では腕をくむ時宗のまわりに頼綱、泰盛、宣時らの幹部が輪となっている。みな異様に興奮していた。

頼綱が言上した。

「一刻もはやく事態を収拾せねば。このさいでござる。名越の一族は断固として処分するのがよいかと」

泰盛が弁護した。

「いや、彼らは北条の由緒ある一族でござる。ここで争いをおこしては幕府が瓦解するおそれがある。名越によしみをもつ御家人もあまたおる。まずは彼らの言い分を聞くべき」

泰盛は外様御家人の筆頭である。時宗に仕えているが、権力の集中にはあくまで反対である。名越一族を擁護することで権力の均衡をはかり、身の安泰をもくろんでいた。

かたや時宗の筆頭側用人である頼綱は、その魂胆をなじる。

「おじ気づいたか。そのような生ぬるいことでは蒙古に勝てんぞ」

泰盛もかえす。

「おぬしのような短慮では幕府がほろびるわ。蒙古よりもたちが悪いの」

両者が刀を手に立ち膝になった。

時宗が立ちあがった。

「やめんか」

時宗は恐れおののいた。いままでにない姿だった。

「まて。なぜ内輪もめをかさねる。いったいどうしたというのだ。みなまるでなにかにとりつかれたようだ。昨日まであれだけ平穏であったわれらが、今日は血で血を洗う気配だ。どうしたというのだ」

頼綱がおちつきはらった。

「いまはなにをいってもはじまりませぬ。ご決断を」

時宗がしばらく考えこんだあと、頼綱に告げた。

「名越にむかえ。教時の武装を解除させるのだ」

「従わずば」

「かまわん、討て」

頼綱が不気味にほほえみ、泰盛が落胆した。

「しかし誤るな。兄の光時、時章に嫌疑はない。これに乗じて名越一族を討ってはならぬ。よいか」

「御意」

頼綱がすばやく立ち去った。

平頼綱は名越一族をこのさい全滅させるつもりでいた。主君時宗の命令だったが、戦いとなれば多少の暴走はある。教時をはじめ光時、時章兄弟を殺害してしまえば国内の敵はいなくなる。絶好の機会だった。自身の権威も幕府も強大となるのだ。時宗も結果的に喜ぶだろうと。

北条教時邸では時章が弟を説得していた。

「いかん、幕府に立ちむかってどうする。謀反をおこす気か。やめるのだ、教時」

 教時はどっかりと腰をおろした。

(さい)は投げられた。京都も呼応して行動をおこすとき」

時章の血の気がひいた。

「京都。おぬし、まさか時輔様と・・」

 教時が宙を見て自分にいい聞かせるようにいう。

「世が世ならば、時輔様が執権となるはずであった。時輔様ならば弟時宗にかわって幕府を新しく立て直してくださるだろう。わしはその捨て石となる覚悟である」

この時、所従が告げた。

「殿、侍所から騎馬があらわれたとの知らせでございまする」

教時が反乱軍の将軍として、威厳を醸し出して問いただした。

「して相手方の侍大将は誰だ」

「幕府の元凶、(へい)左衛門尉(さえもんのじょう)こと平頼綱です」

「きおったか。相手にとって不足はない。みなに伝えよ。平頼綱の首を取れと」

鎧姿の武士が勇ましくかけ声をあげた。

幕府の奸臣、平頼綱を打ち取るぞ」
 

当の平頼綱は馬にまたがり若宮大路をすすむ。その直下に騎馬数百騎が従い、さらに雑兵がつづく。

町衆が荷をかついで逃げだしていく。

「いくさじゃ、いくさがはじまった」

あわせるように教時の騎馬も邸からでていく。これにつづく武士団。さらに雑兵。

教時は若宮大路にでた。そしてついに頼綱の一団と遭遇した。

騎馬がいななき、雑兵がさわぐ。

平頼綱が呼びかけた。

「おお、これは名越の跡取り北条教時殿。この昼間に物々しい出でたちでござるな。いずこにお出かけでござる」

教時がかえす。

「これはこれは、侍大将、平の左衛門尉殿。日頃なにかと忙しい貴殿をここでお見かけするのは幸運でござるな」

「冗談はこれくらいにして、教時殿、執権時宗様より武装を解除せよとのお達しでござる。すみやかに命に服されたい」

教時が笑った。

「これは武士の正装でござる。鎌倉殿にまみえるための礼装である。われらはこれから御所にうかがう。左衛門尉、道をあけられい」

頼綱が顔色をかえ怒声をはなった。

「教時、おぬしの魂胆は目に見えているわ。御所を襲い、幕府を転覆するつもりであろう。われらは一歩も引かぬ。ここを通りたいなら踏みこえていけ」

教時の軍団が怒る。彼らはあらんかぎりの罵声を浴びせた。

教時が叫ぶ。

「左衛門尉、よくぞ申した。北条の執事でありながら、北条をほろぼす大悪人。師子身中の虫とはおぬしのことなり。今日こそはその首をかき斬ってしんぜよう」

今度は幕府勢が激高する。緊張は頂点に達した。

教時があやつられたかのように頼綱に斬りかかった瞬間、両軍がはげしくぶつかった。

両者のつもりつもった憤懣が一気に爆発した。

文永十年二月十一日、世にいう二月騒動の勃発である。

鎌倉は逃げまどう町民であふれた。

騎乗の武士が縦横に走りすぎ、従者がつづく。

侍所は騎馬と兵卒でごったがえした。兵士がかけ声をあげ、馬がいななく。

時宗のそばには安達泰盛がひかえた。

注進が大声でつげる。

「ただいま平の左衛門の尉殿、教時殿と合戦におよびました」

泰盛がかっと目をひらく。

「してどちらが優勢だ」

「かいもく見当がつきませぬ」

泰盛がいらだつ。

「それでは注進にならぬわい。はっきりせよ」

時宗が使者の腕をつかんだ。

「もどって左衛門尉に伝えよ。討つは教時のみ、ほかの北条を討ってはならぬ」

白昼の鎌倉で軍兵がはげしく争う。

名越教時を先頭にした軍勢が平頼綱を押していく。馬上の教時が半狂乱で刀を振りかざし、斬ってすすんだ。

「御所はもうすぐだ。(あま)すな者ども、()らすな若党。討てや」

頼綱がこらえながら叫ぶ。

「ひるむな。こらえろ」

この時、侍所から雲のような援軍がかけつけた。頼綱がよろこび、教時が動揺した。こんどは幕府勢が敵をおしていき、ついに教時邸までもどすまでになった。

頼綱が馬上ではげます。

「今だ、押せ押せ。末代まで名をとどめや者ども」

教時勢がつぎつぎとたおれていく。

「いかん。ひけひけ、籠城だ」

教時勢が邸の中へ逃げ込むが、頼綱勢も追いかけて門の前で激戦となった。名越勢は数の上で劣る。大軍をささえきれない。幕府勢はなだれをうって邸内に突撃した。

庭で家屋で斬りあいがはじまった。教時が死にものぐるいで刀をふりまわす。

雑兵が教時を背後から斬りかかったが、一瞬早く兄の時章が体当たりしてかばった。

教時がよろこぶ。兄時章は決戦の面構えである。

「こうなっては運命じゃ。わしの命はお前にあずけたぞ」

時章、教時の兄弟が幕府の大群に猛然といどみかかった。

合戦のどよめきが遠くに聞こえる。

時宗が壁にむかってすわりこんだ。北条どうしが血で血を洗っている。恐れていた事態がついにおきてしまった。

注進が入ってくる。

「左衛門尉さま、形勢不利でありましたが、ようやく逆転、敵をおし返しておりまする」

入れかわりに新たな注進がかけこんでくる。

「ただ今、名越勢は屋敷に逃げこみました。両者はげしく打ちあっております」

泰盛が使者をはげました。

「よし一人ももらすな、のこらず討ちとれ。切り通しのそなえは万全か」

「かためておりまする」

「教時の援軍があるやもしれぬ。そやつらが鎌倉に突入すれば一大事だ。ぬかるな」

注進が去っていく。

室内ががらんとなり、時宗と泰盛だけがのこった。

時宗は壁の前で腰をおろし、頭をさげたままでいた。

泰盛が時宗をはげました。

「殿、ご安心くだされ。幕軍は優勢ですぞ。夜明け前には決着がつくはずでござる」

時宗は下をむいたままつぶやく。

「泰盛、それだけか」

泰盛が怪訝(けげん)な顔をした。

時宗は床の一点を見つめたままだった。

「このいくさ、教時一人がおこしたのではあるまい。諸国に間者を放っていたおぬしだ。このわしに、いまだ知らせぬことがあろう」

泰盛がかしこまり、ぼそりといった。

「殿、じつはこのいくさ、黒幕がおりまする」

沈黙がながれた。

 時宗がしぼるようにいった。

「それはわが兄じゃな」

泰盛がくやしそうにこたえた。

「残念ながら。時輔様は京都で旗揚げをなさる覚悟でござる。買収した公家から密告がありました。幕府に不満をもつ武士どもを糾合し、鎌倉に攻めいる手はずでござる。まことに情けなき次第」

時宗が悲痛な顔をあげた。

「わしはどうしたらよい」

泰盛は必死だった。

「殿、どうかご決断を。わたくしめは御家人の身。殿の身内の処断は、それがしにはできませぬ」

時宗がうめく。

「ならば教えてくれ。なぜ兄弟が争わねばならぬ。血のつながった一族がどうして殺しあいをする。八幡大菩薩はわれらを見捨てたのか。すべての仏に安泰を祈願してなぜ叶わぬ。執権として聞く。なぜだ」

泰盛が涙をもって告げた。

「これも日本国をつかさどるための試練でござる。今、殿におかれましては耐え忍ぶのみ。殿、どうか兄上様に断固とした処置を」

時宗がついに言った。

「泰盛、兄上を討て。いそぎ六波羅に伝えよ。一刻の猶予はならぬ。おくれたならば国土のすべてに逆賊がおこる」

 泰盛がよろこんだ。

「よくぞ決断されました。すぐに手配を」

泰盛が大声で指図した。

「全国の御家人に早馬をたてよ。鎌倉幕府存亡の時である。急ぎ参集せよ。遅参する者は罰するとな」

 外の喧騒はつづいていた。

 時宗の涙が床にぽたりとおちた。

教時邸で激しくぶつかり合った両軍だが教時方がしだいに討たれていった。教時の子、宗教・宗氏も討たれた。

そして教時、時章の兄弟が息も絶え絶えに空き部屋へころがりこんだ。髪は乱れ、血まみれになっている。二人ともすでに体力の限界をこえていた。

兄弟はすわりこんでむかいあった。

教時がぼそりという。

「もはやこれまで」

時章はにこやかだった。

「どうじゃ、満足したか」

「なんの、本家の時宗に一泡吹かせたかったが、これも運命じゃ。しかしすまぬ、兄者を巻きぞえにしてしもうた」

時章が笑った。

「いや、ひさびさに暴れ回ったわ。死ぬのは恐ろしゅうない。武家に生まれた者、いつかはこの日がくるもの。いまはただ、光時兄の無事を祈るのみ」

幕府勢の雄叫びが強くなった。

時章が宙をみた。

「阿弥陀如来のお迎えがきたようだ。そろそろいくか」

教時がうなずく。

「兄者、おたがい短い命であったな。来世でまた会おうぞ」

「おお」

兄弟は刀を互いの胸に深々と刺し、果ててしまった。一瞬の出来事だった。

同時に怒涛の勢いで頼綱が駆けこんできた。

頼綱がくやしがった。

「ええい、自害しおったか。首をとれ。よし、われらは勝ったぞ」

兵士が興奮しきって勝ち鬨をあげた。この歓声が外に波及した。

頼綱が異様な興奮をみせた。

「みなの者、よく聞け。これから名越の大将、北条光時を討つ。あやつこそ幕府をゆるがす張本人だ。早く討って時宗様にきゃつの首をご覧にいれるのだ。行くぞ」

兵士が狂ったように雄叫びをあげ、外にくりだした。そしてわめきながら駆けていく。

名越の筆頭である光時を討つのは、明らかに越権行為である。しかし血に飢えた勢いはだれにも止めることはできない。御内人である頼綱にとって、名越の滅亡は幕府権力を固める絶好の機会である。主君の命令を無視してでも強行せねばならない。結果は事後報告でよいのだ。


                四十五、守護代、本間重連の帰伏 につづく


中巻目次



by johsei1129 | 2019-12-13 22:26 | 小説 日蓮の生涯 中 | Trackback | Comments(0)
2019年 12月 13日

GOSHO 上野殿御返事 Two Kinds of Faith 1

Two kinds of Faith

Two Kinds of faith

            建治四年二月二十五日 五十七歳御作

       25 February 1278 (Age:57

GOSHO 上野殿御返事 Two Kinds of Faith 1_f0301354_21251837.jpg
               アショーカ王 碑文  Wikipedia より

蹲鴟(いものかしら)くし()()き・焼米・栗・た()んな・()づつ()給び候い了んぬ。

I have received your offerings of taros, skewer-dried persimmons, parched rice, chestnuts, bamboo shoots, and bamboo containers of vinegar.

I have received your offering of taro, skewer-dried persimmons, roasted rice, chestnuts, bamboo sprouts and bamboo containers of vinegar.

月氏に阿育(あそか)大王と申す王をはしき、一閻浮提(えんぶだい)四分の一をたなご()ころににぎ()り、竜王をしたがへて雨を心にまかせ、鬼神をめしつかひ給いき。

There was once a ruler in India named Ashoka the Great. He reigned over a quarter of the land of Jambudvīpa and, accompanied by the dragon kings, controlled the rain at his will. He even used demons to do his bidding.

In India, there once lived a king named Ashoka the Great. Clinching a quarter of the world in the palms of his hands, he conquered the dragon kings who, as vassals, produced rain at his command. Even powerful demons did his bidding.

始は悪王なりしかども後には仏法に帰し、六万人の僧を日日に供養し、八万四千の石の塔をたて給う。

At first he was a merciless ruler, but later he converted to Buddhism. He made offerings to sixty thousand monks each day and erected eighty-four thousand stone stupas.

Although in the beginning he was a tyrant, following his conversion to Buddhism he made daily offerings to sixty thousand priests and erected eighty-four thousand stone stupas.

此の大王の過去をたづぬれば仏の在世に徳勝童子・無勝童子とて二人のをさ()なき人あり、土の餅を仏に供養し給いて一百年の内に大王と生れたり。

On inquiring into the previous lifetime of this great sovereign, we find that in the days of Shakyamuni Buddha there were two little boys called Virtue Victorious and Invincible who once offered the Buddha a mud pie. Because of this act of sincerity, the boy Virtue Victorious was reborn within one hundred years as King Ashoka.

Delving into this great king’s previous incarnations, we find that the time of Shakyamuni Buddha, there were two boys, Tokusho Doji and Musho Doji, who offered to the Buddha a mud pie they had made. As a result of this meritorious deed, Tokusho Doji was, within one hundred years, reborn as the great king Ashoka.


                      つづく Next

解説  全目次 Index All



by johsei1129 | 2019-12-13 06:57 | WRITING OF NICHIREN | Trackback | Comments(0)
2019年 12月 08日

国家諌暁(信仰の誤りを正す)の書『立正安国論』 その①

【立正安国論(りっしょうあんこくろん】
■出筆時期:文応元年7月16日(西暦1260年8月31日)、日蓮大聖人39歳の時自らが持参し、当時鎌倉幕府の実質的な最高権力者であった北条時頼(元執権))に提出。
■出筆場所:駿河国、実相寺(現在静岡県富士市)、及び鎌倉
■出筆の経緯:
当時鎌倉にいた日蓮大聖人は地震・暴風雨・飢饉・疫病などの災害が起きるのは、法華経を信ぜず、浄土宗(法然の念仏宗)などの誤った教えを信じていることにあるとして、当時、民衆に広まっていた念仏、武士に多く信仰されていた禅宗、その他律宗、真言宗の4つの宗派を批判。

 これらの誤った宗派に政治的保護、布施による経済的支援をするならば、薬師経に説かれている七難のうち既に五難は起こり、残された二難(他国侵逼難と自界叛逆難)が起きるので、直ちにこれらの宗派への国家による保護を取りやめなければならないと訴えた。

 日蓮大聖人は4つの宗派を禁止せよと訴えたのではなく、あくまで鎌倉幕府による政治的保護をやめることを訴えた。民衆個々の信仰に対してはあくまで自らと弟子(僧侶)による法華経の布教活動で正していった。
この諌暁の結果、禅宗を信仰していた鎌倉幕府の役人及び時頼の怒りを引き起こし、日蓮大聖人は翌年伊豆に流罪となる。
 尚、日蓮大聖人が立正安国論出筆のために訪れた実相寺には、円珍が唐より招来した釈尊の一切経が所蔵されており、日蓮大聖人はその経蔵に篭もり一切経を閲読し立正安国論を著した。

 また後の後継者となる日興上人とはその時に出会い、日興上人は日蓮の威徳に触れ直ちに弟子になられた。さらに後には実証寺で学ぶ多くの学徒が日蓮大聖人の弟子になったと言われている。
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<立正安国論 ご真筆[巻頭部分] 中山法華経寺所蔵 国宝>

[立正安国論本文]
旅客来りて嘆いて曰く、近年より近日に至るまで天変地妖・飢饉疫癘(えきれい)・遍く天下に満ち広く地上に迸(はびこ)る。牛馬巷(ちまた)に倒れ骸骨路に充てり、死を招くの輩(ともがら)既に大半に超え、悲しまざるの族(やから)敢えて一人も無し。
然る間或いは利剣即是の文を専にして西土教主の名を唱え、或いは衆病悉除の願を持ちて東方如来の教を誦し、或は病即消滅不老不死の詞(ことば)を仰いで法華真実の妙文を崇め、或は七難即滅七福即生の句を信じて百座百講の儀を調え、有るは秘密真言の教に因て五甁(ごびょう)の水を灌(そそ)ぎ、有るは座禅入定の儀を全(まっとう)して空観の月を澄し、若しくは七鬼神の号を書して一千門に押し、若しくは五大力の形を図して万戸に懸け、若しくは天神千祇を拝して四角四界の祭祀を企て、若しくは万民百姓を哀れで国主・国宰の徳政を行う。然りと雖も唯肝胆を摧(くだ)くのみにして弥(いよいよ)飢疫に逼(せま)られ、乞客目に溢れ死人眼に満てり。臥せる屍(しかばね)を観(ものみ)と為し、並べる尸(かばね)を橋と作す。惟(おもん)みれば夫れ二離壁(じりへき)を合せ、五緯珠(たま)を連ぬ。三宝も世に在(いま)し、百王未だ窮まらざるに此の世早く衰え、その法何ぞ廃(すた)れたる、是れ何なる禍(わざわい)に依り、是れ何なる誤りに由るや。
 主人の曰く、独り此の事愁いて胸臆(くおく)に憤俳(ふんぴ)す。客来つて共に嘆く、しばし談話を致さん、それ出家して道に入る者は法に依って仏を期するなり。而るに今神術も協わず、仏威も験しなし、具(つぶさ)に当世の体を観るに愚にして後世の疑を発す、然れば即ち円覆(えんぷ)を仰いで恨みを呑み、方載(ほうざい)に俯して慮(うらおもい)を深くす。情(つらつ)ら微管を傾け、聊(いささ)か経文を披きたるに世皆正に背き、人悉く悪に帰す、故に善神は国を捨てて相去り、聖人は所を辞して還りたまわず、是れを以て魔来り鬼来り災起り難起る。言わずんはある可からず、恐れずんはある可からず。

 客の曰く天下の災・国中の難・余独り嘆くのみに非ず衆皆悲しむ、今蘭室に入って芳詞を承るに神聖去り災難並び起るとは何れの経に出でたるや其の証拠を聞かん。

 主人の曰く其の文繁多にして其の証弘博(ぐばく)なり。金光明経に云く「其の国土に於て此の経有りと雖も未だ甞(かつ)て流布せしめず、捨離の心を生じて聴聞せん事を楽わず、亦供養し尊重し讃歎せず、四部の衆・持経の人を見て亦復た尊重し乃至供養すること能わず、遂に我れ等及び余の眷属無量の諸天をして此の甚深の妙法を聞くことを得ざらしめ、甘露の味に背き、正法の流を失い威光及以び勢力有ること無からしむ、悪趣を増長し人天を損減し生死の河に墜ちて涅槃の路に乖かん、世尊我等四王並びに諸の眷属及び薬叉等斯くの如き事を見て其の国土を捨てて擁護の心無けん、但だ我等のみ是の王を捨棄するに非ず、必ず無量の国土を守護する諸大善神有らんも 皆悉く捨去せん、既に捨離し已りなば其の国当に種種の災禍有つて国位を喪失すべし、一切の人衆皆善心無く唯繋縛(けいばく)殺害瞋諍(しんじょう)のみ有つて互に相讒諂(ざんてん)し枉(ま)げて辜(つみ)無きに及ばん、疫病流行し彗星数(しばし)ば出で、両日並び現じ薄蝕恒無く、黒白の二虹不祥の相を表わし、星流れ地動き井の内に声を発し、暴雨・悪風・時節に依らず、常に飢饉に遭つて苗実成(みょうじつみの)らず、多く他方の怨賊有つて国内を侵掠(しんりゃく)し、人民諸の苦悩を受け土地所楽の処有ること無けん」已上。

②に続く



by johsei1129 | 2019-12-08 20:01 | 立正安国論(御書五大部) | Trackback | Comments(0)
2019年 12月 05日

末法本門「法華寿量品の久遠の受戒」の化儀・作法を著された書【本門戒体抄】

【本門戒体抄】

■出筆時期:弘安二年(西暦1279) 五十八歳御作
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:末法の本仏日蓮大聖人の法門を受戒する際の化儀・作法を示された書です。
百六箇抄種の本迹二十一、下種の戒体の本迹 に、「爾前迹門の戒躰は権実雑乱(ぞうらん)、本門の戒躰は純一無雑の大戒なり。勝劣は天地・水火尚及ばず、具に戒躰抄の如し云云」とあり、本抄がそれにあたります。大聖人は小乗の戒、大乗戒を具に示すとともに、末法本門の受戒について、第一不殺生戒から第十不謗三宝戒まで、十項目の受戒の化儀・作法を示されておられます。
■ご真筆:現存しておりません。

【本門戒体抄 本文】

 大乗戒並びに小乗戒の事。
 凡(およ)そ二百五十戒を受くれば大僧の名を得るなり。受戒は辺国は五人、中国は十人なり。十人とは三師七証なり。三師とは和尚と阿闍梨(あじゃり)と教授となり。十人共に五徳を具す。二百五十戒を別解脱戒と云ひ、亦は具足戒とも云ふなり。小乗の五戒を受くるを優婆塞(うばそく)・優婆夷(うばい)と云ふなり。八斎戒も亦是くの如し。五戒を受くるに必ず二師有り。二師とは和尚と阿闍梨となり。八斎戒も亦是くの如し。小乗戒は経巻有りと雖(いえど)も師資相承無き者には戒を授けざるなり。菩薩の前にしても仏の前に非ざれば戒を授けざるなり。
 大乗戒の事。師は必ず五徳を具する僧なり。常には一師二師なり。一師とは名目梵網経に出づ。二師とは和尚と阿闍梨となり。
 具に十重禁戒を受くるを大僧と名づくるなり。亦具足戒とも云ふなり。一戒二戒を受くるをば具足戒とは云はざるなり。日本国には伝教大師より始めて一向大乗戒を立つるなり。伝教已前には通受戒なり。

通受戒とは、小乗戒を受けては威儀を正し、大乗戒を受けては成仏を期するなり。大小乗の戒を兼ね受くるを通受戒と云ふ。日本国には小乗の別解脱戒の弘まることは鑑真和尚の時より始まれり。鑑真已前は沙弥戒なり。
千里の内に五徳を具せし僧無くんば自誓受戒す。自誓受戒とは道場に座して一日二日乃至一年二年罪障を懺悔す。普賢文殊等来たりて告げて、毘尼薩(びにさ)毘尼薩と云はん時自誓受戒すべし。即ち大僧と名づく。

毘尼薩毘尼薩とは滅罪滅罪と云ふ事なり。若し五徳を具する僧有れば、好相を見ざれども受戒するなり。十重禁戒を破る者も懺悔すれば之を授く。四十八軽も亦復是くの如し。五逆七逆は論なり。経文分明ならず、授けざるは道理なり。
仏は則ち盧舎那仏・二十余の菩薩・羅什三蔵・南岳・天台乃至道邃・伝教大師等なり。達磨・不空は天竺より此の戒を受けたり。已上常人の義なり。  

日蓮云はく、彼は梵網の意か。伝教大師の顕戒論に云はく「大乗戒に二有り。一には梵網経の大乗。二には普賢経の大乗なり。普賢経は一向自誓受戒なり」と。常人は梵網千里の外の自誓受戒と普賢経の自誓受戒と之同じと思へるなり。日蓮云はく、水火の相違なり。所以は何ん。伝教大師の顕戒論に二義有り。一には梵網経の十重戒、四十八軽戒の大僧戒。二には普賢経の大僧戒なり。梵網経の十重禁・四十八軽戒を以て眷属戒と為すなり。法華経・普賢経の戒を以て大王戒と為すなり。小乗の二百五十戒等は民戒、梵網経の戒は臣戒、法華経普賢経の戒は大王戒なり云云。

普賢経の戒師は、千里の外にも千里の内にも、五徳有るも五徳無きも、等覚已下の生身の四依の菩薩等を以て全く伝受戒師に用ふべからず。受戒には必ず三師一証一伴なり。已上五人なり。三師とは一は生身の和尚は霊山浄土の釈迦牟尼如来なり。響きの音に応ずるが如く、清水に月の移るが如く、法華経の戒を自誓受戒する時必ず来たり給ふなり。然れば則ち何ぞ生身の釈迦牟尼如来を捨てゝ更に等覚の元品未断の四依等を用ゐんや。若し円教の四依有らば伝戒の為に之を請ずべし、伝受戒の為には之を用ふべからず。
  疑って云はく、小乗の戒、梵網の戒に何ぞ生身の如来来たらざるや。答へて云はく、小乗の釈迦は灰身滅智の仏なり、生身既に破れたり。譬へば水瓶に清水を入れて他の全瓶に移すが如し、本瓶は既に破れぬ。小乗の釈迦は五分法身の水を以て迦葉・阿難等の全瓶に移して、仏既に灰断(けだん)に入り了んぬ。乃至仏・四果・初果・四善根・三賢及以(および)博地(はくじ)の凡夫、二千二百余年の間、次の瓶に五分法身の水を移せば前瓶は即ち破壊す。是くの如く展転するの程に、凡夫の土器の瓶に此の五分法身の水を移せば、未だ他瓶に移さゞるの前に五分法身の水漏失す。更に何れの水を以てか他の瓶に移さんや。小乗の戒体も亦復是くの如し。正像既に尽きぬ。末法の濁乱には有名無実なり。二百五十戒の僧等は、但土器の瓶のみ有りて全く五分法身の水無きなり。是くの如き僧等は、形は沙門に似れども戒体無きが故に天之を護らず。唯悪行のみを好みて愚人を誑惑するなり。

 梵網大乗の戒は、譬へば金銀の瓶に仏性法身の清水を入れて亦金銀の瓶に移すが如し。終には破壊すべしと雖も瓦器土器に勝れて其の用強し。故に小乗の二百五十戒の僧の持戒よりも、梵網大乗の破戒の僧は国の依怙と為る。然りと雖も此の戒も終に漏失すべきものなり。
普賢経の戒は、正像末の三時に亘って生身の釈迦如来を以て戒師と為す。故に等覚已下の聖凡の師を用ゐざるなり。小乗の劣応身、通教の勝応身、別教の台上の盧遮那、爾前の円教の虚空為座の毘盧遮那仏、猶以て之を用ゐず。何に況んや其の已下の菩薩・声聞・凡夫等の師をや。但法華迹門の四教開会の釈迦如来、之を用ゐて和尚と為すなり。二は金色世界の文殊師利菩薩、之を請じて阿闍梨と為す。四味三教並びに爾前の円教の文殊には非ず。此は法華迹門の文殊なり。三は都史多天宮の弥勒慈尊、之を請じて教授と為す。小乗未断惑の弥勒、乃至通・別・円等の弥勒には非ず。亦無著菩薩、阿輸舎国に来下して授けし所の大乗師の弥勒にも非ず。此は迹門方便品を授くる所の弥勒なり。已上三師なり。一証とは十方の諸仏なり。此は則ち小乗の七証に異なるなり。一伴とは同伴なり。同伴とは同じき受戒の者なり。法華の序品に列なる所の二乗・菩薩・二界八番の衆なり。今の戒は、小乗の二百五十戒等並びに梵網の十重禁・四十八軽戒・華厳の十無尽戒・瓔珞の十戒等を捨てゝ、未顕真実と定め畢って、方便品に入って持つ所の五戒・八戒・十善戒・二百五十戒・五百戒乃至十重禁戒等なり。経に「是名持戒」とは則ち此の意なり。迹門の戒は爾前大小の諸戒には勝ると雖も而も本門戒には及ばざるなり。
  
十重禁とは、一には不殺生戒、二には不偸盗戒、三には不邪淫戒、四には不妄語戒、五には不酒戒、六には不説四衆過罪戒、七には不自讃毀他戒、八には不慳貪戒、九には不瞋恚戒、十には不謗三宝戒なり。
  
第一に不殺生戒とは、爾前の諸経の心は仏は不殺生戒を持つと説けり。然りと雖も法華経の心は爾前の仏は殺生第一なり。所以は何。爾前の仏は一往世間の不殺生戒を持つに似たりと雖も、未だ出世の不殺生戒を持たず。二乗・闡提・無性有情等の九界の衆生を殺して成仏せしめず。能化の仏未だ殺生罪を免れず、何に況んや所化の弟子をや。然るを今の経に悉く成仏せしむ云云。
今身より仏身に至るまで、爾前の殺生罪を捨て、法華寿量品の久遠の不殺生戒を持つや不や、持つと三返。

第二に不偸盗戒とは、爾前の諸経の心は仏は不偸盗戒を持つと説けり。然りと雖も法華の心は爾前の仏は偸盗第一なり。所以は何。爾前の仏は一往世間の不偸盗戒を持つに似たりと雖も、未だ出世の不偸盗戒を持たず。二乗・闡提等の九界の衆生の仏性の玉を盗んで成仏せしめず。能化の仏未だ偸盗罪を免れず、何に況んや所化の弟子をや。然るを今の経に悉く成仏せしむ云云。
今身より仏身に至るまで、爾前の偸盗罪を捨て、法華寿量品の久遠の不偸盗戒を持つや不や、持つと三返。

第三に不邪淫戒とは、爾前の諸経の心は仏は不邪淫戒を持つと説けり。然りと雖も法華の心は爾前の仏は邪淫第一なり。所以は何。爾前の仏は一往世間の不邪淫戒を持つに似たりと雖も、未だ出世の不邪淫戒を持たず。二乗・闡提等の九界の衆生の仏性の智水を犯して成仏せしめず。能化の仏未だ邪淫罪を免れず、何に況んや所化の弟子をや。然るを今の経に悉く成仏せしむ云云。今身より仏身に至るまで、爾前の邪淫罪を捨て、法華寿量品の久遠の不邪淫戒を持つや不や、持つと三返。

第四に不妄語戒とは、爾前の諸経の心は仏は不妄語戒を持つと説けり。然りと雖も法華の心は爾前の仏は妄語第一なり。所以は何。爾前の仏は一往世間の不妄語戒を持つに似たりと雖も未だ出世の不妄語戒を持たず。二乗・闡提等の九界の衆生の色心を破りて成仏せしめず。能化の仏未だ妄語罪を免れず、何に況んや所化の弟子をや。然るを今の経に悉く成仏せしむ云云。今身より仏身に至るまで、爾前の妄語罪を捨て、法華寿量品の久遠の不妄語戒を持つや不や、持つと三返。

第五に不酤酒(ふこしゅ)戒とは、爾前の諸経の意は仏は不酤酒戒を持つと説けり。然りと雖も法華経の心は爾前の仏は酤酒第一なり。所以は何。爾前の仏は一往世間の不酤酒戒を持つに似たりと雖も、未だ出世の不酤酒戒を持たず。二乗・闡提等の九界の衆生をして無明の酒を飲ましめて成仏せしめず。能化の仏未だ酤酒罪を免れず、何に況んや所化の弟子をや。然るを今の経に悉く成仏せしむ云云。今身より仏身に至るまで、爾前の酤酒罪を捨て、法華寿量品の久遠の不酤酒戒を持つや不や、持つと三返。

第六に不説四衆過罪戒とは、爾前の諸経の心は仏は不説過罪戒を持つと説けり。然りと雖も法華経の心は爾前の仏は説過罪第一なり。所以は何。爾前の仏は一往世間の不説過罪戒を持つに似たりと雖も、未だ出世の不説過罪戒を持たず。二乗・闡提等の九界の衆生の過罪を説きて成仏せしめず。能化の仏未だ説過罪を免れず、何に況んや所化の弟子をや。然るを今の経に悉く成仏せしむ云云。今身より仏身に至るまで、爾前の説過罪を捨て、法華寿量品の久遠の不説過罪戒を持つや不や、持つと三返。

第七に不自讃毀他戒とは、爾前の諸経の心は仏は不自讃毀他戒を持つと説けり。然りと雖も法華の意は、爾前の仏は自讃毀他第一なり。所以は何。爾前の仏は一往世間の不自讃毀他戒を持つに似たりと雖も、未だ出世の不自讃毀他戒を持たず。二乗・闡提等の九界の衆生を毀りて成仏せしめず。能化の仏未だ自讃毀他罪を免れず、何に況んや所化の弟子をや。然るを今の経に悉く成仏せしむ云云。
今身より仏身に至るまで、爾前の自讃毀他罪を捨て、法華寿量品の久遠の不自讃毀他戒を持つや不や、持つと三返。

第八に不慳貪戒とは、爾前の諸経の心は仏は不慳貪戒を持つと説けり。然りと雖も法華の心は爾前の仏は慳貪第一なり。所以は何。爾前の仏は一往世間の不慳貪戒を持つに似たりと雖も、未だ出世の不慳貪戒を持たず。二乗・闡提等の九界の衆生の仏性の玉を慳みて成仏せしめず。能化の仏未だ慳貪罪を免れず、何に況んや所化の弟子をや。然るを今の経に悉く成仏せしむ云云。
今身より仏身に至るまで、爾前の慳貪罪を捨て、法華寿量品の久遠の不慳貪戒を持つや不や、持つと三返。

第九に不瞋恚戒とは、爾前の諸経の心は仏は不瞋恚戒を持つと説けり。然りと雖も法華の意は、爾前の仏は瞋恚第一なり。所以は何。爾前の仏は一往世間の不瞋恚戒を持つに似たりと雖も、未だ出世の不瞋恚戒を持たず。二乗・闡提等の九界の衆生を瞋りて成仏せしめず。能化の仏未だ瞋恚罪を免れず、何に況んや所化の弟子をや。然るを今の経に悉く成仏せしむ云云。
今身より仏身に至るまで、爾前の瞋恚罪を捨て、法華寿量品の久遠の不瞋恚戒を持つや不や、持つと三返。

第十に不謗三宝戒とは、爾前の諸経の心は仏は不謗三宝戒を持つと説けり。然りと雖も法華の意は、爾前の仏は謗三宝第一なり。所以は何。爾前の仏は一往世間の不謗三宝戒を持つに似たりと雖も、未だ出世の不謗三宝戒を持たず。二乗・闡提等の九界の衆生の三宝を謗りて成仏せしめず。能化の仏未だ謗三宝罪を免れず、何に況んや所化の弟子をや。然るを今の経に悉く成仏せしむ云云。
今身より仏身に至るまで、爾前の謗三宝罪を捨て、法華寿量品の久遠の不謗三宝戒を持つや不や、持つと三返。





by johsei1129 | 2019-12-05 21:48 | 血脈・相伝・講義 | Trackback | Comments(0)
2019年 12月 04日

立正安国論による国家諌暁に備えた書【念仏者追放宣旨事】

【念仏者追放宣旨事】
■出筆時期:正元元年(1259年)三十八歳 御作
■出筆場所:鎌倉 松葉ケ谷の草庵にて。
■出筆の経緯:本抄は「浄土三部の外は衆経を棄置すべし」と仏法を破壊する説を唱えた法然の専修念仏を対治する目的で、延暦寺から出された念仏禁止の奏上、またそれに呼応した幕府の宣旨等をとりまとめた書となっております。大聖人は本書を記した翌年に「立正安国論」を時の最高権力者・北条時鎌に提出しますが、本書はその準備の意味もあって著されたと思われます。
■ご真筆:現存しておりません。


[念仏者追放宣旨事 本文]

念仏者・追放せしむる宣旨・御教書・五篇に集列する勘文状

夫れ以(おもん)みれば仏法流布の砌(みぎり)には天下静謐(せいひつ)なり神明仰崇(ぎょうそ)の界には国土豊饒(ぶにょう)なり、之に依つて月氏より日域に覃(およ)んで君王より人民に至るまで此の義改むること無き職として然り。

爰(ここ)に後鳥羽院の御宇に源空法師と云う者あり道俗を欺くが故に専修を興して顕密の教理を破し男女を誑(たぶら)かすが故に邪義を構えて仏神の威光を滅し常に四衆を誘(いざな)うて云く、浄土三部の外は衆経を棄置(きち)すべし唱名一行の外は余行を廃退すべし矧(いわ)んや神祇冥道(じんぎみょうどう)の恭敬に於ておや況(いわん)や孝養報恩の事善に於ておや之を信ぜざる者は本願を疑うなりと、爰に頑愚の類は甚深の妙典を軽慢し無智の族は神明の威徳を蔑如(べつじょ)す、就中(なかんずく)止観・遮那(しゃな)の学窓に臨む者は出離を抑(おさ)ゆる癡人なり三論・法相の稽古を励む者は菩提を塞(ふさ)ぐ誑人なりと云云。

之に依つて仏法・日に衰え迷執・月に増す然る間・南都北嶺の明徳・奏聞を経て天聴に達するの刻(きざみ)・源空が過咎遁(かぐ・のが)れ難きの間・遠流(おんる)の宣(せん)を蒙(こう)むり配所の境に赴(おもむ)き畢(おわ)んぬ、其の後門徒猶(なお)勅命を憚(はばか)からずして弥(いよいよ)専修を興すること殆ど先代に超えたり違勅の至り責めても余り有り故に重ねて専修を停廃し源空の門徒を流罪すべきの由・綸言頻(りんげん・しきり)に下る又関東の御下知・勅宣に相添う。

門葉等は遁(のが)るべきの術を失い或は山林に流浪(るろう)し或は遠国に逃隠(とういん)す、爾してより華夷(かい)・称名を抛(なげう)ちて男女・正説に帰する者なり然るに又近来先規を弁えざるの輩・仏神を崇めざるの類・再び専修の行を企て猶邪悪を増すこと甚し。

日蓮不肖なりと雖も且は天下の安寧(あんねい)を思うが為・且は仏法の繁昌を致さんが為に強(あなが)ちに先賢の語を宣説し称名の行を停廃せんと欲し又愚懐(ぐかい)の勘文を添え頗(すこぶ)る邪人の慢幢(まんどう)を倒さんとす、勘注の文繁くして見難し知り易からしめんが為に要を取り諸を省き略して五篇を列ぬ、委細の旨は広本に在(お)くのみ。

奏状篇詮を取りて之を注す委くは広本に在り南都の奏状に云く。

一、謗人謗法の事
 右源空・顕密の諸宗を軽んずること土の如く沙(すな)の如く智行の高位を蔑(ないがし)ろにすること蟻(ぎ)の如く螻(ろう)の如し、常に自讃して曰く広く一代聖教を見て知れるは我なり能く八宗の精微(せいび)を解する者は我なり我諸行を捨つ況(いわん)や余人に於ておやと、愚癡の道・俗・之を仰ぐこと仏の如く弟子の偏執遥に其の師に超え檀那の邪見弥(いよいよ)本説に倍し一天四海漸く以て徧し事の奇特を聞くに驚かずんば有る可からず其の中殊に法華の修行を以て専修の讐敵となす、或は此の経を読む者は皆地獄に堕すと云い或は其の行を修せん者は永く生死に留まると云い或は僅に仏道の結縁を許し或は都て浄土の正因を嫌う、然る間・本八軸十軸の文を誦し千部万部の功を積める者も永く以て廃退し剰(あまつさ)え前非を悔ゆ、捨つる所の本行の宿習は実に深く企つる所の念仏の薫習(くんじゅう)は未だ積まず中途に天を仰いで歎息する者多し、此の外・般若・華厳の帰依・真言・止観の結縁・十の八九皆棄置(きち)す之を略す

一、霊神を蔑如する事
 右我が朝は本是れ神国なり百王彼の苗裔(びょうえい)を承(う)けて四海其の加護を仰ぐ、而るに専修の輩永く神明を別(わきま)えず権化(ごんげ)・実類を論ぜず宗廟(そうびょう)・祖社を恐れず若し神明を憑(たの)まば魔界に堕すと云云。
実類の鬼神に於ては置いて論ぜざるか権化の垂迹(すいじゃく)に至つては既に是れ大聖なり、上代の高僧皆以て帰伏す行教(ぎょうきょう)和尚・宇佐の宮に参るに釈迦三尊の影・月の如くに顕れ仲算(ちゅうざん)大徳・熊野山に詣るに飛滝千仭(ひりゅうせんじん)の水・簾(すだれ)の如くに巻く、凡そ行基(ぎょうき)・護命(ごみょう)・増利(ぞうり)・聖宝(しょうほう)・空海・最澄・円珍等は皆神社に於て新に霊異(れいい)を感ず是くの若(ごと)きは源空に及ばざるの人か又魔界に堕つ可きの類か之を略す

山門の奏状に云く。
一、一向専修の党類・神明に向背する不当の事。
 右我が朝は神国なり神道を敬うを以て国の勤めと為す謹んで百神の本を討(たず)ぬるに諸仏の迹に非ること無し、所謂(いわゆる)伊勢大神宮・八幡・加茂・日吉・春日等は皆是れ釈迦・薬師・弥陀・観音等の示現なり各宿習の地を卜(し)め専ら有縁の儀を調う乃至其の内証に随いて彼の法施を資け念誦・読経・神に依つて事異なり世を挙げて信を取り人毎に益を被(こうむ)る、而るに今専修の徒・事を念仏に寄せて永く神明を敬うこと無し、既に国の礼を失い仍(なお)神を無(なみ)するの咎あり、当に知るべし有勢の神祇(じんぎ)定めて降伏の眸(まなじり)を回らして睨(にら)みたまわん之を略す

一、一向専修和漢の例快からざる事
 右慈覚大師の入唐巡礼記を按(あん)ずるに云く唐の武宗皇帝会昌(えしょう)元年章敬寺の鏡霜法師(きょうそうほっし)に勅令して諸寺に於て弥陀念仏の教を伝え寺毎に三日巡輪して絶えず同じく二年廻鶻(かいかつ)国の軍兵等・唐の界(さかい)を侵(おか)す同じく三年河北の節度使・忽ち乱を起す其の後大蕃国更に命を拒(こば)む廻鶻国重ねて地を奪いぬ、凡そ兵乱秦項(しんこう)の代に同じく災火邑里(さいかゆうり)の際に起る何(いか)に況(いわん)や武宗大に仏法を破し多く寺塔を滅す撥乱(はつらん)すること能わずして遂に以て事有り已上取意、是れ則ち恣(ほしいまま)に浄土の一門を信じて護国の諸教を仰がざるに依つてなり而るに吾朝一向専修を弘通してより以来・国衰微に属し俗多く艱難す已上之を略す、又云く音の哀楽を以て国の盛衰を知る詩の序に云く治世の音は安んじて以て楽しむ其の政和げばなり乱世の音は怨んで以て怒る其の政乖(そむ)けばなり亡国の音は哀んで以て思う其の民困(くるし)めばなりと云云、近代念仏の曲を聞くに理世撫民(ぶみん)の音に背き已に哀慟(あいどう)の響を成す是れ亡国の音なる可し是四、已上奏状。

山門の奏状詮を取る此の如し。
又大和の荘の法印俊範(しゅんぱん)・宝地房の法印宗源(そうげん)・同坊の永尊竪者(ようそんりっしゃ)後に僧都と云う並に題者なり等源空が門徒を対治せんが為に各各子細を述ぶ其の文広本に在り、又諸宗の明徳面面に書を作りて選択集(せんちゃくしゅう)を破し専修を対治する書籍世に伝う。

宣旨篇
南都北嶺の訴状に依つて専修を対治し行者を流罪す可きの由度度の宣旨の内今は少を載せ多を省く委(くわし)くは広本に在り。
永尊竪者の状に云く弾選択(だんせんちゃく)等上送せられて後・山上に披露す弾選択に於ては人毎に之を翫(もてあそ)び顕選択は諸人之を謗ず法然上人の墓所は感神院の犬神人(つるめそう)に仰付て之を破郤(はきゃく)せしめ畢(おわ)んぬ其の後奏聞に及んで裁許(さいきょ)を蒙り畢んぬ、七月の上旬に法勝寺の御八講(みはっこう)の次(ついで)山門より南都に触れて云く清水寺・祇園の辺・南都山門の末寺たるの処に専修の輩身を容れし草菴(そうあん)に於ては悉(ことごと)く破郤(はきゃく)せしめ畢んぬ其の身に於ては使庁に仰せて之を搦(から)め取らるるの間・礼讃の声黒衣の色・京洛の中に都(すべ)て以て止め畢んぬ、張本三人流罪に定めらると雖も逐電(ちくでん)の間未だ配所に向わず山門今に訴え申し候なり。

此の十一日の僉議(せんぎ)に云く法然房所造の選択は謗法の書なり天下に之を止め置く可からず仍つて在在所所の所持並に其の印板を大講堂に取り上げ三世の仏恩を報ぜんが為に焼失すべきの由奏聞仕り候い畢んぬ重ねて仰せ下され候か、恐恐。

嘉禄三年十月十五日
専修念仏の張本成覚法師・讃岐(さぬき)の大手嶋(じま)に経回すと云云実否分明ならず慥(たしか)に検知(けんち)を加えらる可きの由・山門の人人申す相尋ね申さしめ給う可きの由殿下の御気色候(うかが)う所なり仍つて執達件(しったつくだん)の如し。

嘉禄三年十月二十日 参議範輔(のりすけ)在り判
修理権亮(ごんのすけ)殿

関東より宣旨の御返事
 隆寛律師(りゅうかんりっし)の事、右大弁宰相家(うだいべんさいしょうけ)の御奉書披露候い畢んぬ、件の律師去る七月(ふづき)の比(ころ)・下向(げこう)せしむ鎌倉近辺に経回すると雖も京都の制符に任せ念仏者を追放せらるるの間奥州の方へ流浪せしめ畢んぬ云云、早く在所を尋ね捜して仰せ下さるるの旨に任せ対馬の嶋に追遣()可きなり、此の旨を以て言上せしむ可きの状鎌倉殿の仰せに依つて執達件(しったつくだん)の如し。
嘉禄三年十月十五日 武蔵守在り判
相模守在り判
掃部助(かもんのすけ)殿
修理亮(しゅりのすけ)殿

専修念仏の事、停廃(ていはい)の宣下重畳の上偸(ひそ)かに尚興行するの条更に公家の知(しろ)しめす所にあらず偏に有司の怠慢たり早く先符に任せて禁遏(きんあつ)せらる可し、其の上衆徒の蜂起に於ては宜(よろし)く制止を加えしめ給うべし天気に依つて言上件の如し、信盛・頓首恐惶謹言
嘉禄三年六月二十九日 左衛門権佐信盛奉
進上 天台座主大僧正御房政所
右弁官下(べんかんくだ)す    延暦寺

 早く僧の隆寛・幸西(こうさい)・空阿弥陀仏の土縁を取り進(まいら)すべき事の書・権大納言(ごんだいなごん)源朝臣雅親勅(みなもとのあそんまさちか)を宣奉(せんぶ)するに件の隆寛等の坐(つみ)せらるること配流宜(はいるよろ)く彼の寺に仰せて度縁を取り進(まいら)せしむ可し、者(てい)れば宜(よろし)く承知して宣(せん)に依つて之を行うべし違失ある可からず。
嘉禄三年七月六日   左太史小槻宿禰(おつぎすくね)在り判
           左少弁藤原朝臣在り判

 大政官の符(ふ)・五畿内の諸国司(こくし)まさに宜く専修念仏の興行を停廃し早く隆寛・幸西・空阿弥陀仏等の遺弟の留まる処に禁法を犯す所の輩を捉え搦むべきの事。
弘仁聖代の格条(かくじょう)眼に在り左大臣勅を宣奉し宜く五畿七道に課(おお)せて興行の道を停廃し違犯(いはん)の身を捉え搦むべし、者(てい)れば諸国司宜く承知して宣に依つて之を行え符(ふ)到らば奉行を致せ。
嘉禄三年七月十七日
  修理右宮城使正四位下行右中弁藤原朝臣
  修理東大寺大仏長官正五位下左大史兼備前権介小槻宿禰
 専修念仏興行の輩(ともがら)停止す可きの由五畿七道に宣下(せんげ)せられ候い畢んぬ、且(か)つは御存知有る可く候、者(てい)れば綸言此(りんげんかく)の如し之を悉(つまびらか)にせよ、頼隆・誠恐頓首(せいきょうとんしゅ)謹言。
嘉禄三年七月十三日   右中弁頼隆在り判
進上 天台座主大僧正御房政所
隆寛対馬の国に改めらる可きの由宣下せられ畢んぬ、其の由御下知有る可きの旨仰せ下さる所に候なり此の趣を以て申し入れしめ給う可きの状件の如し。
右中弁頼隆在り判

中納言律師御房
 隆寛律師専修の張本たるに依つて山門より訴え申すの間・陸奥(みちのく)に配流(はいる)せられ畢んぬ而るに衆徒尚(なお)申す旨有り仍つて配所を改めて対馬の嶋に追い遣(や)らる可きなり、当時東国の辺に経回(きょうかい)すと云云不日に彼の島に追い遣らる可きの由関東に申さる可し、者(てい)れば殿下の御気色に依つて執達件の如し。
嘉禄三年九月二十六日 参議在り判
修理権亮殿

専修念仏の事、京畿七道に仰せて永く停止せらる可きの由・先日宣下せられ候い畢んぬ、而るに諸国に尚其の聞え有りと云云、宣旨の状を守りて沙汰致す可きの由・地頭・守護所等に仰付けらる可きの由・山門訴え申し候御下知有る可く候、此の旨を以て沙汰申さしめ給う可きの由殿下の御気色候所なり、仍つて執達件の如し。
嘉禄三年十月十日 参議在り判
武蔵守殿

 嵯峨に下されし院宣
 近頃破戒不善の輩厳禁に拘(かか)わらず猶専修念仏を企つるの由其の聞え有り、而るに先師法眼(ほうげん)存日の時・清涼寺の辺に多く以て止住すと云云、遺跡を相継ぎて若し同意有らば彼の寺の執務縦(たと)い相承(そうじょう)の理を帯すとも免許の義有る可からざるなり、早く此の旨を存して禁止せしめ給う可し院宣此くの如し仍つて執達件の如し。
建保七年二月四日    按 察 使(あぜち)在り判
治部卿律師御房
謹んで請う 院宣(いんぜん)一紙


右当寺四至の内に破戒不善の専修念仏の輩法に任せて制止ある可く候更に以て芳心(ほうしん)有る可からず候、若し猶寺家の力に拘わらずんば事の由を申し上ぐ可く候、謹んで請(う)くる所件の如し。
建保七年閏二月四日    権律師良暁
左弁官下す 綱所

 まさに諸寺の執務人に下知して専修念仏の輩を糾断(きゅうだん)せしむべき事。
 右・左大臣勅を宣奉(せんぶ)す、専修念仏の行は諸宗衰微(すいび)の基(もとい)なり、仍つて去る建永二年の春厳制五箇条の裁許を以てせる官符の施行先に畢んぬ、傾く者は進んでは憲章(けんしょう)を恐れず退いては仏勅を憚(はばか)からず或は梵宇(ぼんう)を占め或は聚洛(じゅらく)に交わる破戒の沙門(しゃもん)・党を道場に結んで偏(ひとえ)に今按(きんあん)の佯(いつわり)を以てす仏号を唱えんが為に妄りに邪音を作し将に蕩(とろか)して人心を放逸(ほういつ)にせんとす、見聞満座の処には賢善の形を現ずと雖も寂寞破窓(じゃくばくはそう)の夕には流俗の睡りに異ならず是れ則ち発心の修善に非ず濫行(らんぎょう)の奸謀(かんぼう)を企つるなり豈仏陀の元意僧徒の所行と謂わんや。
 宜しく有司に仰せて慥(たしか)に糾断(きゅうだん)せしむべし若し猶違犯(いはん)の者は罪科の趣き一(ひとえ)に先符に同じ但し道心修行の人をして以て仏法違越(いおつ)の者に濫(らん)ぜしむること莫(なか)れ更に弥陀の教説を忽(ゆるが)せにするに非ず只釈氏の法文を全からしめんとなり、兼ては又諸寺執務の人・五保監行(けんぎょう)の輩聞知して言わずんば与同罪曾つて寛宥(かんゆう)せざれ、者(てい)れば宜しく承知して宣旨に依つて之を行うべし。
建保七年閏二月八日    太史小槻宿禰(おつぎすくね)在り判
謹んで請(う)く 綱所

 宣旨一通載せらるるはまさに諸寺の執務(しゅうむ)人に下知して専修念仏の輩を糾断(きゅうだん)せしむべき事。
 右宣旨の状に任せ諸寺に告げ触る可きの状謹んで請くる所件の如し。

 建保七年閏二月二十二日之を行う。
 頃年以来無慚(むざん)の徒・不法の侶・如如の戒行を守らず処処の厳制を恐れず恣(ほしいまま)に念仏の別宗を建て猥(みだ)りに衆僧の勤学を謗ず、しかのみならず内には妄執(もうしゅう)を凝らして仏意に乖(そむ)き外には哀音を引いて人心を蕩(とろ)かす遠近併(おんごんしかしなが)ら専修の一行に帰し緇素(しそ)殆んど顕密の両教を褊(さみ)す仏法の衰滅(すいめつ)而も斯に由る自由の奸悪(かんあく)誠に禁じても余り有り。
 是を以て教雅(きょうが)法師に於ては本源を温(たず)ねて遠流し此の外同行の余党等慥(たし)かに其の行を帝土の中に停廃し悉(ことごと)く其の身を洛陽(らくよう)の外に追郤(ついきゃく)せよ但し或は自行の為或は化他の為に至心(ししん)専念・如法修行の輩(ともがら)に於ては制の限りに在らず。
  天福二年六月晦日   藤原中納言権弁奉る
  天福二年文暦と改む四条院の御宇後堀河院の太子なり、武蔵前司入道殿の御時。
 祇園(ぎおん)の執行に仰せ付けらるる山門の下知(げち)状。

 大衆の僉議(せんぎ)に云く専修念仏者・天下に繁昌す是れ則ち近年山門無沙汰の致す所なり、件の族(やから)は八宗仏法の怨敵なり円頓行者の順魔(じゅんま)なり、先ず京都往返の類・在家称名の所に於ては例に任せ犬神人(つるめそう)に仰せて宜しく停止せしむべし云云、者(てい)れば大衆僉議の旨斯(か)くの如し早く先例に任せ犬神人等に仰せ含めて専修念仏者を停止せしめ給う可し云云、恐恐謹言。
  延応二年五月十四日   公文勾当審賢(くもんこうとうしんけん)
四条院の御宇武蔵前司殿の御時。

 謹上 祇園の執行法眼御房
 逐つて申す、去る夜・大衆僉議(せんぎ)して先ず此の異名に於て殊に犬神人に付けて之を責む可きの由仰せ含めぬ仍つて実名之を獻ず、専修念仏の張本の事・唯仏(ゆいぶつ)・鏡仏(きょうぶつ)・智願(ちがん)・定真(じょうしん)・円真・正(しょう)阿弥陀仏・名(みょう)阿弥陀仏・善慧(ぜんね)・道弁・真如堂狼藉(ろうぜき)の張本なり已上、唐橋油小路(からはしあぶらのこうじ)並に八条大御堂六波羅(おおみどうろくはら)の総門の向いの堂・已上・当時興行の所なり。
 延暦寺 別院雲居(うんご)寺
 早く一向専修の悪行を禁断す可き事

 右頃年以来、愚蒙(ぐもう)の結党(けっとう)・姧宄(かんき)の会衆(えしゅ)を名けて専修と曰い闐閭(てんりょ)に旁(あま)ねし心に一分の慧解無く口に衆罪の悪言を吐き言を一念十声(じっしょう)の悲願に寄せて敢て三毒五蓋(ごがい)の重悪を憚からず盲瞑(もうみょう)の輩是非を弁えず唯情に順ずるを以て多く愚誨(ぐかい)に信伏す、持戒修善の人を笑うて之を雑行と号し鎮国護王(ちんこくごおう)の教を謗りて之を魔業と称す諸善を擯棄(ひんき)し衆悪を選択し罪を山岳に積み報(むくい)を泥梨(ないり)に招く毒気深く入つて禁じても改むること無く偏(ひとえ)に欲楽(よくらく)を嗜(たしな)んで自ら止むこと能わず、猶蒼蝿(そうよう)の唾の為に黏(ねや)さるるが如く、何ぞ狂狗(きょうく)の雷を逐(お)うて走るに異ならん、恣(ほしい)ままに三寸の舌を振いて衆生の眼目を抜き五尺の身を養わんが為に諸仏の肝心を滅す、併(しかしなが)ら只仏法の怨魔(えんま)と為り専ら緇門(しもん)の妖怪(ようかい)と謂う可し。
 是を以て邪師存生の昔は永く罪条に沈み、滅後の今は亦屍骨(しこつ)を刎(はね)らる其の徒・住蓮(じゅうれん)と安楽とは死を原野に賜い成覚(じょうかく)と薩生(さっしょう)とは刑を遠流に蒙(こうむ)りぬ此の現罰を以て其の後報を察す可し、方(まさ)に今且(いまかつ)は釈尊の遺法を護らんが為且(かつ)は衆生の塗炭(とたん)を救わんが為に宜(よろし)く諸国の末寺・荘園(しょうえん)・神人・寄人等に仰せて重ねて彼の邪法を禁断すべし縦(たと)い片時と雖も彼の凶類を寄宿せしむ可からず縦(たと)い一言と雖も其の邪説を聴受(ちょうじゅ)す可からず、若し又山門所部の内に専修興行の輩有らば永く重科に処して寛宥(かんゆう)有ること勿れ、者(てい)れば三千衆徒の僉議(せんぎ)に依つて仰す所件の如し。
延応二年
山門申状

 近来二つの妖怪(ようかい)有り人の耳目を驚かす所謂達磨(だるま)の邪法と念仏の哀音となり。
 顕密の法門に属せず王臣の祈請(きしょう)を致さず誠に端拱(たんこう)にして世を蔑(あなど)り暗証にして人を軽んず小生の浅識を崇(あが)めて見性成仏の仁と為し耆年(ぎねん)の宿老(しゅくろう)を笑うて螻蟻蟁蝱(るぎもんもう)の類に擬(ぎ)す論談を致さざれば才の長短を表さず決択(けっちゃく)に交らざれば智の賢愚を測らず、唯牆壁(しょうびゃく)に向うて独り道を得たりと謂い三依纔(わず)に紆(まど)い七慢専ら盛なり長く舒巻(じょかん)を抛(なげう)つ附仏法の外道吾が朝に既に出現す、妖怪の至り慎まずんばあるべからず何ぞ強(あなが)ちに亡国流浪の僧を撰んで伽藍伝持の主と為さんや。
 御式目に云く右大将家以後・代代の将軍並に二位殿の御時に於ての事・一向に御沙汰を改ること無きか、追加の状に云く嘉禄元年より仁治に至るまで御成敗の事・正嘉二年二月十日評定、右自今以後に於ては三代の将軍並に二位家の御成敗に準じて御沙汰を改むるに及ばずと云云。
 念仏停廃(ていはい)の事、宣旨御教書の趣(おもむ)き南都北嶺の状粗(ほぼ)此くの如し、日蓮尫弱(おうじゃく)為りと雖も勅宣並に御下知の旨を守りて偏(ひとえ)に南北明哲の賢懐(けんかい)を述ぶ猶此の義を棄置(きち)せらるるに非ずんば綸言(りんげん)徳政を故(はか)らる可きか将(は)た御下知を仰せらるる可きか、称名念仏の行者又賞翫(しょうがん)せらると雖も既に違勅の者なり関東の御勘気未だ御免許をも蒙らず何ぞ恣(ほしいまま)に関東の近住を企てんや、就中武蔵前司殿の御下知に至りては三代の将軍並に二位家の御沙汰に準じて御沙汰を改むること有る可からずと云云。
 然るに今念仏者何の威勢に依つてか宣旨に背くのみに非ず御下知を軽蔑(けいべつ)して重ねて称名念仏の専修を結構(けっこう)せん人に依つて事異なりと云う此の謂在るか、何ぞ恣(ほしいまま)に華夷(かい)縦横の経回を致さんや。
勘文篇
念仏者追放宣旨御教書の事

by johsei1129 | 2019-12-04 22:32 | 重要法門(十大部除く) | Trackback | Comments(0)
2019年 12月 02日

日興上人が、先師日蓮の門下が厳守すべきと記した二十六ヶ条の遺言【日興遺誡置文】その五

[日興遺誡置文 本文]その五  [英語版]

一、衣の墨・黒くすべからざる事。
[四菩薩造立抄]に下記の御文があり、当時日蓮大聖人は白小袖・薄墨染衣・同色の袈裟を法衣として身に着けていたことがわかります。
白小袖一・薄墨染衣一・同色の袈裟一帖・鵞目一貫文給び候、今に始めざる御志言を以て宣べがたし何れの日を期してか対面を遂げ心中の朦朧(もうろう)を申し披(ひらかば)や」

一、直綴(じきとつ)を着す可からざる事。
※注(直綴) :上衣の役目をもつ褊衫(へんさん)と下衣の役目をもつ裙(もすそ)をつづり合わせて作った僧衣。

上記の二条項で日興上人は門下の弟子(僧)に対し、先師日蓮同様、身繕いは質素を旨とすべきであると戒めている。
大聖人は普段雑泥色(現在の薄墨色)の単衣(ひとえぎぬ)を身につけていたと云う。これは釈尊及び当時の弟子ら求道者が、『糞掃衣(ふんぞうえ):ボロ布を洗ってつづり合わせて作った衣』をまとっていた精神を継承していることを意味している。現代の派手な僧衣をまとって自らを飾っている僧侶は、既に仏となって衆生を救済しようとする求道者の道から、遥かに遠のいている位置に存在していると言わざるえない。

一、謗法と同座す可からず与同罪(よどうざい)を恐る可き事。

一、謗法の供養を請(う)く可からざる事。

一、刀杖等に於ては仏法守護の為に之を許す。
但し出仕の時節は帯す可からざるか、若し其れ大衆等に於ては之を許す可きかの事。


一、若輩為(た)りと雖も高位の檀那自り末座に居る可からざる事。

一、先師の如く予が化儀も聖僧為(た)る可し。但し時の貫首(かんず)或は習学の仁に於ては設い一旦の媱犯(ようはん)有りと雖も衆徒に差置く可き事。

一、巧於難問答(ぎゅうおなんもんどう)の行者に於ては先師の如く賞翫(しょうがん)す可き事。

右の条目大略此くの如し、万年救護(くご)の為に二十六箇条を置く。後代の学侶敢(あえ)て疑惑を生ずる事勿(なか)れ。此の内一箇条に於ても犯す者は日興が末流に有る可からず。仍つて定むる所の条条件(くだん)の如し。

元弘三年癸酉(みずのととり)正月十三日  日 興 花押


[日興遺誡置文 本文] 完。


by johsei1129 | 2019-12-02 22:17 | 日興上人 | Trackback | Comments(0)
2019年 12月 02日

日興上人が、先師日蓮の門下が厳守すべきと記した二十六ヶ条の遺言【日興遺誡置文】その三

[日興遺誡置文 本文]その三  [英語版]

一、学問未練(みれん)にして名聞名利の大衆は予が末流に叶う可からざる事。
大聖人は松野殿御返事 にて「末世には狗犬(くけん)の僧尼は恒沙(ガンジス川の無数の砂)の如し、と仏(釈尊)は説かせ給いて候なり。文の意は末世の僧・比丘尼は名聞名利に著し、上には袈裟衣を著たれば形は僧・比丘尼に似たれども内心には邪見の剣を提げて我が出入する檀那の所へ余の僧尼をよせじと無量の讒言を致す」と、末法には名聞冥利の僧・尼がガンジス川の無数の砂のように数多く出現することを示し、日興上人もこの事を受け継ぎ弟子・信徒を諌めている。

一、予が後代の徒衆等権実を弁えざる間は父母師匠の恩を振り捨て、出離証道(しゅつりしょうどう)の為に本寺に詣で学文す可き事。
※注(父母師匠の恩を振り捨て)について日蓮大聖人の報恩抄その一を参照~ してください。

一、義道の落居(らっこ)無くして天台の学文す可からざる事。
※注(義道の落居):大聖人の法門の習得。

一、当門流に於ては御書を心肝に染め極理を師伝して若し間(ひま)有らば台家を聞く可き事。
※注:大聖人は立正観抄の冒頭で「当世天台の教法を習学するの輩多く、観心修行を貴んで法華本迹二門を捨つと見えたり」と記し、仏法を学ぶ者が法華経を捨て天台の教門に傾倒する姿勢を強く戒めている。
立正観抄本文・その一を参照~

[日興遺誡置文 本文]その四に続く

by johsei1129 | 2019-12-02 22:14 | 日興上人 | Trackback | Comments(0)