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日蓮大聖人『御書』解説

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2019年 11月 30日

能く是の経典を受持すること有らん者<略>一切衆生の中に於て亦これ第一なりと説いた【富木殿御返事】

【富木殿御返事】
■出筆時期:弘安四年(西暦1281)十一月二十九日 六十歳御作。
■出筆場所:身延山中 館にて。
■出筆の経緯:本抄は富木常忍が、身延の館で毎月11月24日に行われていた大師講(天台大師の摩訶止観等の講義)へ鵞目一結(銭一結)を供養されたことへの返書となっております。大聖人は法華経法師品第十、薬王第二十三、を引いて「法華最第一なり」と説くとともに、常忍の妻の病状について「此の尼ごぜんは法華経の行者をやしなう事、灯(ともしび)に油をそへ木の根に土をかさぬるがごとし、願くは日月天、其の命にかわり給へと申し候なり」と記し、常忍を支える信仰心を称えるとともに「我身一身の上とをもひ候へば昼夜に天に申し候なり」と励まされています。
尚、文中の「いよ房」は尼ごぜの連れ子で、再婚し常忍の養子となり、後に六老僧の一人日頂上人となります。
富木尼は大聖人の祈りにより二十数年の寿命を延ばし、常忍亡き後は故郷の富士に帰り、日興上人、我が子日頂上人のもとで生涯を全うしております。
■ご真筆: 中山法華経寺 所蔵(重要文化財)
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[富木殿御返事 本文]

 鵞目一結(がもくひとゆい)天台大師の御宝前を荘厳(そうごん)し候い了んぬ、経に云く「法華最第一なり」と、又云く「能く是の経典を受持すること有らん者も亦復是の如し、一切衆生の中に於て亦これ第一なり」と、又云く「其の福復彼れに過ぐ」、妙楽云く「若し悩乱する者は頭(こうべ)七分に破れ、供養すること有らん者は福十号に過ぐ」伝教大師も「讃者は福を安明(あんみょう)に積み謗者は罪を無間に開く」等云云、記の十に云く「方便の極位に居る菩薩猶尚(なお)第五十人に及ばず」等云云。

 華厳経の法慧(ほうえ)功徳林大日経の金剛薩埵(さった)等尚法華経の博地に及ばず、何に況や其の宗の元祖等法蔵善無畏等に於てをや、是れは且(しばら)く之を置く。

 尼ごぜんの御所労の御事我身一身の上とをもひ候へば、昼夜に天に申し候なり、此の尼ごぜんは法華経の行者をやしなう事灯(ともしび)に油をそ(添)へ木の根に土をかさ(培)ぬるがごとし、願くは日月天其の命にかわり給へと申し候なり。

 又をもいわするる事もやと・いよ(伊予)房に申しつけて候ぞ、たのもしとをぼしめせ、恐恐。
       
 十一月二十九日            日 蓮 花押
     富木殿御返事


【法師品 第十】
薬王今告汝 我所説諸経 而於此経中 法華最第一
(和訳)
薬王よ、今汝に告げる。 我(釈尊)がこれまで説いた諸々の経があるが、その中で法華こそが最第一の経である。

【薬王菩薩本事品 第二十三】
有能受持。是経典者。亦復如是。於一切衆生中。亦為第一。
(和訳)
能くこの教典を受持するも、またかくの如し。一切衆生の中に於いて、またこれ第一なり。

by johsei1129 | 2019-11-30 22:17 | 富木常忍・尼御前 | Trackback | Comments(0)
2019年 11月 30日

身延入山から七年目の大坊建設の経緯と波木井実長の法華経信仰を厳しく咎めた書【地引御書】

【地引御書】
■出筆時期:弘安四年(1281年)十一月二十五日 六十歳御作
■出筆場所:身延山中の大坊にて。
■出筆の経緯:本書は身延山中の草庵の地主南部六郎(波木井実長・さねなが)にあてられた書です。
大聖人が文永11年(1274)の五月十七日に鎌倉から身延山中に居を移され、質素な草庵を設けてから七年目にして十間四面の大坊が完成、その建設過程を詳細に記された書となっております。

大坊の竣工は大聖人御遷化の僅か一年前であった。大聖人はその大坊の完成を祝いに集った檀信徒の様子を「人のまいる事、洛中かまくらのまちの申酉(さるとり)の時のごとし」と記し、その賑やかさはまるで京や鎌倉の申酉(夕方五時頃)ごろのようであると喜ばれておられます。

しかしこの祝いの日に地主の波木井実長の姿がありませんでした。そのこともあり、当日の夜九時頃、三十人程で「一日経(一日で法華経一部の書写する修行」を実施したが、途中で止めたと記しておられます。其の訳は「御きねん(祈念)かなはずば、言(ことば)のみ有て実なく、華咲いて木の実なからんか<中略>此の事叶はずば、今度法華経にては仏になるまじきかと存じ候はん」と諭されると共に「叶て候はば、二人よりあひまいらせて、供養しはてまいらせ候はん」と励まされておられます。

実長の祈念の内容は不明ですが、何故、実長が大坊が完成したという慶事に参加しなかったのかは、恐らくこの大坊建設に実長は殆ど資金を供養していなかったのではないかと推察されます。大聖人は実長の子息が建設のための地ならし、柱を建てる作業に真面目に参加していたことは「次郎殿等の御きうだち(公達)、をやのをほせ(仰せ)と申し、我が心にいれてをはします事なれば」と記されておられます。また大坊の建設費は「坊はかまくらにては一千貫にても大事とこそ申候へ」と記し、鎌倉では一千貫出しても出来ないだろうと人々が申していると記しておられるが、実長に供養の感謝の言葉は全く記されおりません。

通常、大聖人は供養があった時の返書の消息では、最初に供養の品物の種類、数量を全て細かく記して感謝の意を表されておられます。金額の大小に関わらず、もし実長が大坊建設資金として応分の供養をしていたならば、大聖人は本書で必ずそのことに触れていたはずである。7年間も粗末な草庵で過ごされている状態を見て見ぬふりをしていた実長が、檀徒・信徒が募って供養し建設にこぎつけた大坊の落成祝いの場に、出て来る訳には行かなかったのだろう。大聖人はその実長の不誠実な信仰心を喝破し「此の事叶はずば法華経信じてなにかせん。事事又又申すべく候」と念押しされておられます。

そして大聖人御遷化の後、大聖人の遺言でこの大坊(久遠寺)の当主となった第二祖日興上人に違背することになり、日興上人は断腸の思い出、身延離山を決意、南条時光の招きで霊峰富士山の麓上野郷に広布の拠点を設けることになります。
■ご真筆:身延山久遠寺に存在したが明治八年の大火で焼失。

[地引御書 本文]

坊は十間四面に、またひさし(庇)さしてつくりあげ、二十四日に大師講並に延年(えんねん)心のごとくつかまりて、二十四日の戌亥(いぬい)の時、御所にすゑ(集会)して、三十余人をもつて一日経か(書)きまいらせ、並に申酉(さるとり)の刻に御供養すこしも事ゆへなし。
坊は地びき、山づくり候ひしに、山に二十四日、一日もかた時も雨ふる事なし。十一月ついたちの日、せうばう(小坊)つくり馬(ま)やつくる。八日は大坊のはしら(柱)だて九日十日ふ(葺)き候ひ了ぬ。しかるに七日は大雨、八日九日十日はくもりて、しかもあたたかなる事、春の終りのごとし。十一日より十四日までは大雨ふり大雪下(ふ)りて今に里にきへず。山は一丈二丈雪こほりてかたき事かねのごとし。 二十三日四日は又そらは(晴)れてさむからず。人のまいる事、洛中かまくら(鎌倉)のまちの申酉の時のごとし。さだめて子細あるべきか。

次郎殿等の御きうだち(公達)をや(親)のをほせ(仰)と申し、我が心にいれてをはします事なれば、われと地をひき、はしら(柱)をたて、とうびやうえ(藤兵衛)むま(右馬)の入道、三郎兵衛の尉等已下の人人一人もそらく(疎略)のぎ(義)なし。
坊はかまくらにては一千貫にても大事とこそ申候へ。
ただし一日経は供養しさし(止)て候。其の故は御所念の叶はせ給て候ならば供養しは(畢)て候はん。
なにと申して候とも御きねん(祈念)かなはずば言(ことば)のみ有て実なく華さいてこのみ(木の実)なからんか。
いまも御らんぜよ。此の事叶はずば、今度法華経にては仏になるまじきかと存じ候はん。
叶て候はば二人よりあひまいらせて供養しは(終)てまいらせ候はん。
神なら(習)はすは、ねぎ(祢宜)からと申す。此の事叶はずば法華経信じてなにかせん。事事又又申すべく候。
恐々。

十一月二十五日   日 蓮 花押 
南部六郎殿 

by johsei1129 | 2019-11-30 22:11 | 弟子・信徒その他への消息 | Trackback | Comments(0)
2019年 11月 30日

法華経と申すは手に取れば其の手やがて仏に成り、口に唱ふれば其の口即仏なりと説いた【上野尼御前御返事】

【上野尼御前御返事】
■出筆時期:弘安四年(西暦1281)十一月十五日 六十歳御作。
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:本書は南條時光の母が、父上野入道殿の命日に際し「子息多ければ孝養まちまちなり、然れども必ず法華経に非ざれば謗法になるのでしょうか」と問われ、それへの返書となっております。大聖人は漢の書家・烏竜(おりょう)とその息子・遺竜の例えを引いて、「此の経(法華経)を持つ人は百人は百人ながら、千人は千人ながら、一人もかけず仏に成ると申す文なり」と法華経信仰を貫くよう諭されております。烏竜と遺竜の例えとは、烏竜が「法華経を決して書写してはならない」と遺言し、遺竜もこの遺言を固く守ったため、父の烏竜は地獄に落ちる。しかし遺竜の使えた大王の司馬氏は「せめて法華経の題目を書かずば違勅(いちょく)の科(とが)あり」と責めたため、やむなく子の遺竜は法華経の題号を書きしるす。この事により、烏竜が落ちていた無間地獄は常寂光の都と成ったという。
また大聖人は最後に「此の由を、はわきどの(伯耆殿)よみきかせまいらせ給うべし」と記し、日興上人に詳しくお話させますと気を遣われております。
■ご真筆: 京都市本禅寺 断簡所蔵
法華経と申すは手に取れば其の手やがて仏に成り、口に唱ふれば其の口即仏なりと説いた【上野尼御前御返事】_f0301354_23192964.jpg


[妙法尼御前御返事 本文]

 麞牙(しらよね)一駄四斗定あらひいも(洗芋)一俵、送り給びて南無妙法蓮華経と唱へまいらせ候い了んぬ。
 妙法蓮華経と申すは蓮に譬えられて候、天上には摩訶曼陀羅華(まかまんだらけ)、人間には桜の花、此等はめでたき花なれども、此れ等の花をば法華経の譬には仏取り給う事な。一切の花の中に取分(とりわ)けて此の花を法華経に譬へさせ給う事は、其の故候なり、或は前花後菓と申して花は前(さき)に菓(み)は後(あと)なり、或は前菓後花と申して菓(み)は前(さき)に花は後(あと)なり、或は一花多菓、或は多花一菓、或は無花有菓と品品(しなじな)に候へども蓮華と申す花は菓(み)と花と同時なり。一切経の功徳は先(さき)に善根を作(な)して後(のち)に仏とは成ると説く、かかる故に不定なり。法華経と申すは手に取れば其の手やがて仏に成り、口に唱ふれば其の口即仏なり。譬えば天月の東の山の端(は)に出ずれば、其の時即水に影の浮かぶが如く、音とひびきとの同時なるが如し。

 故に経に云く「若し法を聞くこと有らん者は一として成仏せざること無し」云云。文の心は此の経を持つ人は百人は百人ながら、千人は千人ながら、一人もかけず仏に成ると申す文なり。

 抑(そもそも)御消息を見候へば尼御前の慈父(おんちち)、故(こ)松野六郎左衛門入道殿の忌日と云云。子息多ければ孝養まちまちなり、然れども必ず法華経に非ざれば謗法等云云。釈迦仏の金口の説に云く「世尊の法は久しくして後要(かな)らず当に真実を説きたもうべし」と、多宝の証明に云く、妙法蓮華経は皆是れ真実なりと、十方の諸仏の誓に云く舌相梵天に至る云云、これよりひつじさる(未申)の方に大海をわたりて国あり、漢土と名く、彼の国には或は仏を信じて神を用いぬ人もあり、或は神を信じて仏を用いぬ人もあり、或は日本国も始は、さこそ候いしか。

 然るに彼の国に烏竜(おりょう)と申す手書(てかき)ありき、漢土第一の手なり。例せば日本国の道風(どうふう)・行成(こうぜい)等の如し。此の人仏法をい(忌)みて経をかかじと申す願を立てたり、此の人死期来りて重病をうけ臨終にをよんで子に遺言して云く、汝は我が子なり、その跡絶(あとたえ)ずして又我よりも勝れたる手跡なり。たとひいかなる悪縁ありとも法華経をかくべからずと云云。然して後、五根より血の出ずる事、泉(いずみ)の涌くが如し、舌八つにさけ・身くだけて十方にわか(分)れぬ。然れども一類の人人も三悪道を知らざれば地獄に堕つる先相ともしらず。
其の子をば遺竜(いりょう)と申す、又漢土第一の手跡なり。親の跡を追うて法華経を書かじと云う願を立てたり。其の時大王おはします司馬氏と名く、仏法を信じ殊に法華経をあふぎ給いしが、同じくは我が国の中に手跡第一の者に此の経を書かせて持経とせんとて遺竜を召す。竜申さく、父の遺言あり是れ計りは免し給へと云云。
大王父の遺言と申す故に他の手跡を召して一経をうつし畢んぬ、然りといへ共御心(みこころ)に叶い給はざりしかば、又遺竜を召して言はく、汝親の遺言と申せば朕(われ)ま(枉)げて経を写させず、但八巻の題目計りを勅に随うべしと云云。返す返す辞し申すに王瞋(いか)りて云く、汝が父と云うも我が臣なり、親の不孝を恐れて題目を書かずば違勅の科(とが)ありと、勅定度度(ちょくじょうたびたび)重かりしかば、不孝はさる事なれども当座の責をのが(免)れがたかりしかば、法華経の外題を書きて王へ上(ささ)げ、宅に帰りて父のはか(墓)に向いて血の涙を流して申す様は、天子の責重きによつて亡き父の遺言をたがへて、既に法華経の外題を書きぬ。不幸の責免れがたしと歎きて三日の間、墓を離れず食を断ち既に命に及ぶ。三日と申す寅(とら)の時に已に絶死し畢(おわ)つて夢の如し。虚空を見れば天人一人おはします、帝釈を絵(え)にかきたるが如し、無量の眷属、天地に充満せり。爰(ここ)に竜問うて云く、何(いか)なる人ぞ、答えて云く、汝知らずや我は是れ父の烏竜(おりょう)なり。我人間にありし時外典を執し仏法をかたきとし、殊に法華経に敵をなしまいらせし故に無間に堕つ。日日に舌をぬかるる事、数百度、或は死し或は生き、天に仰き地に伏してなげけども叶う事なし。人間へ告げんと思へども便りなし。汝我が子として遺言なりと申せしかば、其の言(ことば)炎と成つて身を責め、剣と成つて天より雨(ふ)り下(くだ)る。汝が不孝極り無かりしかども我が遺言を違へざりし故に、自業自得果うらみがたかりし所に、金色の仏一体、無間地獄に出現して仮使遍法界(けしへんほうかい)・断善諸衆生・一聞法華経・決定成菩提(けつじょうじょうぼだい)と云云。此の仏、無間地獄に入り給いしかば、大水を大火になげたるが如し。少し苦みや(止)みぬる処に、我合掌して仏に問い奉りて何(いか)なる仏ぞと申せば、仏答えて我は是れ汝が子息遺竜(いりょう)が只今書くところの法華経の題目、六十四字の内の妙の一字なりと言(のたも)ふ。八巻の題目は八八六十四の仏、六十四の満月と成り給へば、無間地獄の大闇即大明となりし上、無間地獄は当位即妙・不改本位と申して常寂光の都と成りぬ。我及び罪人とは皆蓮(はちす)の上の仏と成りて只今都率の内院へ上り参り候が、先ず汝に告ぐるなりと云云。遺竜が云く、我が手にて書きけり争(いか)でか君たすかり給うべき、而も我が心より、かくに非ず・いかに・いかにと申せば、父答えて云く、汝はかなし、汝が手は我が手なり、汝が身は我が身なり・汝が書きし字は我が書きし字なり。汝心に信ぜざれども手に書く故に既にたすかりぬ。譬えば小児の火を放つに、心にあらざれども物を焼くが如し。法華経も亦かくの如し、存外に信を成せば必ず仏になる。又其の義を知りて謗ずる事無かれ、但し在家の事なれば、いひしこと故(ことさら)大罪なれども懺悔(さんげ)しやすしと云云。此の事を大王に申す。大王の言く、我が願既にしるし有りとて遺竜弥(いよいよ)朝恩を蒙(こうむ)り、国又こぞつて此の御経を仰ぎ奉る。

 然るに故(こ)五郎殿と入道殿とは尼御前の父なり子なり。尼御前は彼の入道殿のむすめなり。今こそ入道殿は都率(とそつ)の内院へ参り給うらめ。此の由をはわき(伯耆)どのよみきかせまいらせ給うべし。事そうそう(怱怱)にてくはしく申さず候。恐恐謹言

十一月十五日                            日 蓮 花押
上野尼御前御返事

by johsei1129 | 2019-11-30 21:57 | 南条時光(上野殿) | Trackback | Comments(0)
2019年 11月 30日

蒙古軍船の大破は真言宗・思円の蒙古調伏によるという世評を破した書【富城入道殿御返事】

【富城入道殿御返事(承久書)】
■出筆時期:弘安四年(西暦1281)十月二十二日 六十歳 御作。
■出筆場所:身延山中 館にて。
■出筆の経緯:本抄は富木常忍が大聖人に度々「蒙古の船が九州の海上で大破(弘安の役)し、世間では真言宗・思円上人の蒙古調伏の力であると評判になっているが、本当のところはどうなのかと質問したのに対し「それは日蓮を失おうとするたくらみである」と喝破され、それを明らかにするために病をおして本書を記したと大聖人の真意を吐露されておられます。さらに文末では「銭四貫をもちて一閻浮提第一の法華堂造りたりと霊山浄土に御参り候はん時は申しあげさせ給うべし」と、富城常忍のご供養で、これまでの身延の草庵を十間四面の大坊に大改修している事を伝え、その志を称えられております。尚、この大坊は翌月11月23日に完成し、大聖人は当時「身延山久遠寺」と命名されております。
■ご真筆:中山法華経寺 所蔵。

[富城入道殿御返事(承久書) 本文]
 
 今月十四日の御札(ぎょさつ)同じき十七日到来、又去ぬる後の七月十五日の御消息同じき二十比(はつかごろ)到来せり、其の外度度の貴札を賜うと雖も老病為(た)るの上又不食気(ふしょくげ)に候間未だ返報を奉らず候条其の恐れ少からず候、何よりも去ぬる後の七月御状の内に云く鎮西には大風吹き候て浦浦・島島に破損の船充満の間乃至京都には思円(しえん)上人・又云く理豈然(あにしか)らんや等云云。

 此の事別して此の一門の大事なり、総じて日本国の凶事(きょうじ)なり仍つて病を忍んで一端(ひとはし)是れを申し候はん、是偏に日蓮を失わんと為(し)て無かろう事を造り出さん事兼て知る、其の故は日本国の真言宗等の七宗・八宗の人人の大科今に始めざる事なり然りと雖も且く一を挙げて万を知らしめ奉らん。

 去ぬる承久(しょうきゅう)年中に隠岐の法皇義時を失わしめんが為に調伏(じょうぶく)を山の座主・東寺・御室・七寺・園城に仰せ付けられ、仍つて同じき三年の五月十五日鎌倉殿の御代官・伊賀太郎判官光末(みつすえ)を六波羅に於て失わしめ畢んぬ、然る間同じき十九日二十日鎌倉中に騒ぎて同じき二十一日・山道・海道・北陸道の三道より十九万騎の兵者(つわもの)を指し登す、同じき六月十三日其の夜の戌亥(いぬい)の時より青天俄(にわか)に陰(くも)りて震動雷電して武士共首の上に鳴り懸(かか)り鳴り懸りし上・車軸の如き雨は篠(しの)を立つるが如し、爰に十九万騎の兵者等・遠き道は登りたり兵乱に米は尽きぬ馬は疲れたり在家の人は皆隠れ失せぬ冑(かぶと)は雨に打たれて緜(わた)の如し、武士共宇治勢多に打ち寄せて見ければ常には三丁四丁の河なれども既に六丁・七丁・十丁に及ぶ、然る間・一丈・二丈の大石は枯葉の如く浮び五丈・六丈の大木流れ塞(ふさ)がること間(ひま)無し、昔利綱・高綱等が渡せし時には似る可くも無し、武士之を見て皆臆(おく)してこそ見えたりしが、然りと雖も今日を過さば皆心を飜し堕ちぬ可し去る故に馬筏(うまいかだ)を作りて之を渡す処・或は百騎・或は千万騎・此くの如く皆我も我もと度(わた)ると雖も・或は一丁或は二丁三丁渡る様なりと雖も彼の岸に付く者は一人も無し、然る間・緋綴(ひおどし)・赤綴(あかおどし)等の甲(よろい)其の外弓箭(きゅうせん)・兵杖(へいじょう)・白星(しらぼし)の冑(かぶと)等の河中に流れ浮ぶ事は猶長月神無月(かんなづき)の紅葉(もみじ)の吉野・立田の河に浮ぶが如くなり、爰に叡山・東寺・七寺・園城寺等の高僧等之を聞くことを得て真言の秘法・大法の験(しるし)とこそ悦び給いける、内裏の紫宸殿には山の座主・東寺・御室・五壇・十五壇の法を弥(いよいよ)盛んに行われければ法皇の御叡感(えいかん)極り無く玉の厳(かざり)を地に付け大法師等の御足を御手にて摩(なで)給いしかば大臣・公卿等は庭の上へ走り落ち五体を地に付け高僧等を敬い奉る。

 又宇治勢田(うじせた)にむかへたる公卿・殿上人は冑(かぶと)を震い挙げて大音声を放つて云く義時・所従の毛人(えびす)等慥(たしか)に承われ昔より今に至るまで王法に敵を作(な)し奉る者は何者か安穏なるや、狗犬(くけん)が師子を吼(ほ)えて其の腹破れざること無く修羅が日月を射るに其の箭還(や・かえ)つて其の眼に中(あた)らざること無し遠き例(ためし)は且く之を置く、近くは我が朝に代始まつて人王八十余代の間・大山の皇子(みこ)・大石の小丸を始と為て二十余人王法に敵を為し奉れども一人として素懐を遂げたる者なし皆頚(くび)を獄門に懸けられ骸(かばね)を山野に曝(さら)す、関東の武士等・或は源平・或は高家等先祖相伝の君を捨て奉り伊豆の国の民為(た)る義時が下知(げち)に随う故にかかる災難は出来するなり、王法に背き奉り民の下知に随う者は師子王が野狐(やこ)に乗せられて東西南北に馳走するが如し今生の恥之れを何如(いかん)、急ぎ急ぎ冑を脱ぎ弓弦(ゆづる)をはづして参参(まいれまいれ)と招きける程に、何(いか)に有りけん申酉(さるとり)の時にも成りしかば関東の武士等・河を馳せ渡り勝ちかかりて責めし間京方の武者共一人も無く山林に逃げ隠るるの間、四つの王をば四つの島へ放ちまいらせ又高僧・御師・御房達は或は住房を追われ或は恥辱(ちじょく)に値い給いて今に六十年の間いまだ・そのはぢ(恥)をすすがずとこそ見え候に、今亦彼の僧侶の御弟子達・御祈祷(きとう)承はられて候げに候あひだ、いつもの事なれば秋風に纔(わずか)の水に敵船・賊船なんどの破損仕りて候を大将軍生取(いけどり)たりなんど申し祈り成就の由を申し候げに候なり。

 又蒙古の大王の頚(くび)の参りて候かと問い給うべし、其の外はいかに申し候とも御返事あるべからず、御存知のためにあらあら申し候なり。乃至此の一門の人人にも相触(ふ)れ給ふべし。

 又必ずしいぢ(椎地)の四郎が事は承り候い畢んぬ、予既に六十に及び候へば天台大師の御恩報じ奉らんと仕り候あひだ、みぐるしげに候房をひ(引)きつくろ(繕)い候ときに・さくれう(作料)におろ(下)して候なり、銭四貫をもちて一閻浮提第一の法華堂造りたりと霊山浄土に御参り候はん時は申しあげさせ給うべし、恐恐。

十月二十二日         日 蓮 花押
進上富城入道殿御返事

by johsei1129 | 2019-11-30 21:40 | 富木常忍・尼御前 | Trackback | Comments(0)
2019年 11月 30日

一切の事は国により時による事なり、仏法は此の道理をわきまうべきにて候、と説いた【上野殿御返事 】

【上野殿御返事】
■出筆時期:弘安四年年(1281)九月二十日 六十歳御作
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:本抄をしるされた弘安四年九月は、大聖人が御遷化なされる約一年前で、南条時光(上野殿)も大聖人の病状のことは伝え聞いていたと思われ、滋養に良い、いも・ごぼう・大根を身延山中に届けられます。
本抄はその時光の真心のご供養にいする返書となっております。大聖人は「千金の金をもてる者もう(飢)えてしぬ。一飯をつと(苞)につつめる者に、これをと(劣)れり」と記され、師の体を気遣う時光のご供養の品々は、時に適ったものであると称えられておられます。
さらに結びでは「一切の事は国により時による事なり、仏法は此の道理をわきまうべきにて候」と短いながら自身滅後の広宣流布を託す、時光に重々の指導ををなされておられます。

尚、御年四十一歳(弘長二年二月十日)に流罪地の伊豆・伊東で著された【教機時国抄】では、「仏教を弘めん人は必ず時を知るべし、譬えば農人の秋冬田を作るに種と地と人の功労とは違わざれども一分も益無く還つて損す一段を作る者は少損なり。一町二町等の者は大損なり、春夏耕作すれば上中下に随つて皆分分に益有るが如し、仏法も亦復是くの如し、時を知らずして法を弘めば益無き上還つて悪道に堕するなり」と説かれておられます。
■ご真筆:現存しておりません。

【上野殿御返事 本文】

いゑ(家)のいも(芋)一駄・ごばう(牛蒡)一つと(注:苞)・大根六本。
いもは石のごとし、ごばうは大牛の角のごとし、大根は大仏堂の大くぎ(釘)のごとし。あぢわひは忉利天の甘露のごとし。

石を金にかうる国もあり・土をこめ(米)にうるところもあり。千金の金をもてる者もう(飢)えてしぬ。
一飯をつと(苞)につつめる者に、これをと(劣)れり。

経に云く「うえたるよ(世)には、よね(米)たつとし」と云云。一切の事は国により時による事なり、仏法は此の道理をわきまうべきにて候、又又申すべし、恐恐謹言。

弘安四年九月廿日 日 蓮 花 押
上野殿御返事

※注一つと(苞):食料品を運ぶためにわらなどを束ねたもの。この当時の人々はその苞(つと)に食品を包んで運んだ。



by johsei1129 | 2019-11-30 21:24 | 南条時光(上野殿) | Trackback | Comments(0)
2019年 11月 30日

教主釈尊の一大事の秘法を霊鷲山にして相伝し日蓮が肉団の胸中に秘して隠し持てりと説いた【南条殿御返事】

【南条殿御返事】
■出筆時期:弘安四年(西暦1281年)九月十一日 六十歳御作
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:本書は大聖人が御遷化なされるほぼ一年前、強信徒南条時光(上野賢人)に与えられた書である。本書で大聖人は、ご供養の品々を届けた時光の使いのものより時光が病状であることを聞き、いそぎ療治をして大聖人の下を参詣されるよう促している。また強信徒の時光だからこそ、「教主釈尊の一大事の秘法を霊鷲山にして相伝し日蓮が肉団の胸中に秘して隠し持てり・・・中略・・・かかる不思議なる法華経の行者の住処なればいかでか霊山浄土に劣るべき」と自らが末法の本仏であると言う内証を明らかにしている、極めて重要なご消息文となっている。
■ご真筆: 現存しておりません。

[南条殿御返事]

塩一駄・大豆一俵、とつさか(鶏冠菜)一袋、酒一筒・給び候。上野の国より御帰宅候後は未だ見参に入らず候。牀敷(ゆかしく)存じ候いし処に品品の物ども取り副(そ)え候いて御音信に預り候事、申し尽し難き御志にて候。

 今申せば事新しきに相似て候へども、徳勝童子は仏に土の餅を奉りて阿育大王と生れて南閻浮提を大体知行すと承り候。土の餅は物ならねども仏のいみじく渡らせ給へば・かくいみじき報いを得たり。然るに釈迦仏は、我を無量の珍宝を以て億劫の間・供養せんよりは・末代の法華経の行者を一日なりとも供養せん功徳は百千万億倍・過ぐべしとこそ説かせ給いて候に、法華経の行者を心に入れて数年供養し給う事有り難き御志かな。金言の如くんば定めて後生は霊山浄土に生れ給うべし、いみじき果報なるかな。

 其の上此の処は人倫を離れたる山中なり。東西南北を去りて里もなし。かかる、いと心細き幽窟(ゆうくつ)なれども教主釈尊の一大事の秘法を霊鷲山にして相伝し、日蓮が肉団の胸中に秘して隠し持てり。されば日蓮が胸の間は諸仏入定の処なり。舌の上は転法輪の所、喉(のんど)は誕生の処、口中は正覚の砌(みぎり)なるべし。かかる不思議なる法華経の行者の住処なれば、いかでか霊山浄土に劣るべき。法妙なるが故に人貴し・人貴きが故に所尊しと申すは是なり。

 神力品に云く「若しは林の中に於ても若しは樹の下に於ても、若しは僧坊に於ても、乃至而般涅槃(はつねはん)したもう」と云云。此の砌(みぎり)に望まん輩(やから)は無始の罪障忽に消滅し、三業の悪転じて三徳を成ぜん。彼の中天竺の無熱池に臨みし悩者(のうしゃ)が心中の熱気を除愈(じょゆ)して其の願を充満する事清涼池の如しとうそぶきしも、彼れ此れ異なりといへども、其の意は争でか替(かわ)るべき。

  彼の月氏の霊鷲山は本朝此の身延の嶺(みね)なり。参詣遥かに中絶せり急急に来臨を企つべし。是にて待ち入つて候べし。哀哀(あわれあわれ)申しつくしがたき御志かな、御志かな。

弘安四年九月十一日 日 蓮 花 押
南条殿御返事

御使の申し候を承り候。是の所労難儀のよし聞え候。いそぎ療治をいたされ候いて、御参詣有るべく候。



by johsei1129 | 2019-11-30 21:21 | 南条時光(上野殿) | Trackback | Comments(0)
2019年 11月 30日

十方三世の諸仏の怨敵なれども法華経の一句を信じぬれば諸仏捨て給う事なしと説いた 【治 部房御返事】

【治部房御返事】
■出筆時期:弘安四年(1281年)八月二十二日 六十歳御作
■出筆場所:身延山中の草庵にて。
■出筆の経緯:本書を送られた治部房は南条時光の縁戚・南条平七郎の子息で、駿河在住の弟子日位とされております。
治部房は日興上人が記された「宗祖御遷化記」にも大聖人の御棺を担がれた弟子の一人として加わっており、『墓所可守番帳事』にも名を連ねておられます。※参照【 宗祖御遷化記録】
しかし日興上人が残された『弟子分本尊目録』には、「一、駿河國四十九院の住治部房は、蓮華闍梨(日持)の弟子也。仍て日興之を申し与う、但し聖人御滅後に背き了(おわん)ぬ」と記されており、残念ながら大聖人御遷化後は日興上人に違背されております。

本書で大聖人は「されば我等は過去遠遠劫より菩提をねがひしに<中略>すでに仏になり近づきし時は、一乗妙法蓮華経と申す御経に値いまいらせ候いし時は、第六天の魔王と申す三界の主をはします」と記し「菩提を願って修行し、その果報で一乗妙法蓮華経に縁した時は、必ず第六天の魔王が出現する」と戒められておられます。
恐らく大聖人は、弟子治部房の法華経信仰にいささかの懸念を持たれていたのではないかと推察されます。文中で大聖人は、他の消息では見られないほど数多く法華経の文を引用し、まるで「これでもわからぬのか」と言わんばかりの迫力を感じます。
さらに文末では「法華経のかたきとなる人をば父母なれども殺しぬれば大罪還つて大善根となり候。設い十方三世の諸仏の怨敵なれども、法華経の一句を信じぬれば諸仏捨て給う事なし」と治部房に止めを刺されておられます。

しかし大聖人の厳しくも慈愛溢れる「防非止悪(非道を防ぎ悪行を止める」の指導にも関わらず、治部房は大聖人が御遷化なされると「日蓮一期の弘法」を附属された日興上人に違背されたのは、まことに残念でなりません。

■ご真筆:現存しておりません。
[治部房御返事 本文]

白米(しらよね)一斗・茗荷(みょうが)の子・はじかみ一つと(苞)送り給び候い畢んぬ。
仏には春の花秋の紅葉(もみじ)・夏の清水・冬の雪を進(まい)らせて候人人皆仏に成らせ給ふ、況や上(かみ)一人は寿命を持たせ給ひ下(しも)万民は珠よりも重くし候稲米(よね)を法華経にまいらせ給う人・争か仏に成らざるべき。其の上世間に人の大事とする事は主君と父母との仰せなり、父母の仰せを背けば不孝の罪に堕ちて天に捨てられ、国主の仰せを用いざれば違勅の者と成りて命(いのち)をめ(召)さる。

されば我等は過去遠遠劫より菩提をねがひしに、或は国をすて或は妻子をすて或は身をすてなんどして、後生菩提をねがひし程に、すでに仏になり近づきし時は、一乗妙法蓮華経と申す御経に値いまいらせ候いし時は、第六天の魔王と申す・三界の主・をはします。

すでに此のもの仏にならんとするに二の失あり、一には此のもの三界を出ずるならば我が所従の義をはな(放)れなん、二には此のもの仏になるならば此のものが父母・兄弟等も又娑婆世界を引き越しなん、いかがせんとて身を種種に分けて・或は父母につき・或は国主につき、或は貴き僧となり、或は悪を勧め・或はおどし・或はすかし、或は高僧或は大僧或は智者或は持斎等に成りて或は華厳或は阿含或は念仏或は真言等を以て法華経にすすめかへて・仏になさじとたば(欺)かり候なり。

法華経第五の巻には末法に入りては大鬼神・第一には国王・大臣・万民の身に入りて法華経の行者を或は罵(の)り或は打ち切りて、それに叶はずんば無量無辺の僧と現じて一切経を引いてすかすべし、それに叶はずんば二百五十戒・三千の威儀を備へたる大僧と成りて国主をすかし国母をたぼらかして、或はながし或はころしなんどすべしと説かれて候。

又七の巻の不軽品・又四の巻の法師品・或は又二の巻の譬喩品、或は涅槃経四十巻・或は守護経等に委細に見へて候が、当時の世間に少しもたがひ候はぬ上、駿河の国賀島(かしま)の荘(しょう)は殊に目の前に身にあたらせ給いて覚へさせ給い候らん。

他事には似候はず、父母・国主等の法華経を御制止候を用い候はねば還つて父母の孝養となり国主の祈りとなり候ぞ、其の上日本国はいみじき国にて候・神を敬ひ仏を崇(あが)むる国なり、而れども日蓮が法華経を弘通し候を上一人より下万民に至るまで御あだみ候故に、一切の神を敬ひ一切の仏を御供養候へども其の功徳還つて大悪となり、やいと(灸治)の還つて悪瘡(あくそう)となるが如く薬の還つて毒となるが如し、一切の仏神等に祈り給ふ御祈りは還つて科(とが)と成りて此の国既に他国の財と成り候。

又大なる人人皆平家の亡びしが様に百千万億すぎての御歎きたるべきよし、兼てより人人に申し聞せ候畢んぬ。

又法華経をあだむ人の科にあたる分斉をもつて還つて功徳となる分斉をも知らせ給うべし。例せば父母を殺す人は何(いか)なる大善根をなせども天・是を受け給う事なし、又法華経のかたきとなる人をば父母なれども殺しぬれば大罪還つて大善根となり候、設い十方三世の諸仏の怨敵なれども法華経の一句を信じぬれば諸仏捨て給う事なし、是を以て推せさせ給へ、御使いそぎ候へば委しくは申さず候、又又申すべく候、恐恐謹言。

八月二十二日    日 蓮花押

治部房御返事

by johsei1129 | 2019-11-30 18:10 | 弟子・信徒その他への消息 | Trackback | Comments(0)
2019年 11月 30日

母の骨は子の骨なり<中略>母と子と倶に霊山浄土へ参り給うべし、と称えた【光日上人御返事】

【光日上人御返事】
■出筆時期:弘安四年(1281)八月八日 六十歳御作。
■出筆場所:身延山中 館にて。
■出筆の経緯:光日上人は大聖人と同じ安房国・天津(あまつ)に住んでいた女性信徒で光日房と称されていた。光日房は子息の弥四郎が最初に大聖人様に帰依、その弥四郎の勧めで入信し、生涯大聖人に帰依し続けた強信徒であった。
建治二年に、佐渡ご赦免から三度目の国家諌暁、身延入山までの本仏としての振る舞を詳細に記した 「光日房御書」をはじめ、少なくとも四通の御書を送られていることが確認されている。
本書では、亡くなった弥四郎の勧めで法華経を信じたのであるから、「子の肉は母の肉・母の骨は子の骨なり<中略>母と子と倶に霊山浄土へ参り給うべし」と励まされておられます。
■ご真筆:身延久遠寺に存在したが明治八年の大火で焼失。

[光日上人御返事 本文]

法華経二の巻に云く「其の人命終して阿鼻獄に入らん云云。阿鼻地獄と申すは天竺の言(ことば)・唐土・日本には無間と申す、無間はひまなしとかけり。一百三十六の地獄の中に一百三十五はひま候、十二時の中にあつ(熱)けれども又すずしき事もありた(堪)へがたけれども又ゆるくなる時もあり、此の無間地獄と申すは十二時に一時(ひととき)かた時も大苦ならざる事はなし故に無間地獄と申す。此の地獄は此の我等が居て候大地の底・二万由旬をすぎて最下の処なり、此れ世間の法にもかろき物は上に、重き物は下にあり、大地の上には水あり地よりも水かろし、水の上には火あり水よりも火かろし、火の上に風あり火よりも風かろし、風の上に空あり風よりも空かろし、人をも此の四大を以て造れり悪人は風と火と先ず去り、地と水と留まる故に人死して後重きは地獄へ堕つる相なり、善人は地と水と先ず去り風火留る重き物は去りぬ軽き物は留まる故に軽し人天へ生まるる相なり、地獄の相重きが中の重きは無間地獄の相なり、彼の無間地獄は縦横二万由旬なり八方は八万由旬なり、彼の地獄に堕つる人人は一人の身大にして八万由旬なり多人も又此くの如し、身のやはらかなる事綿(わた)の如し火のこわ(強)き事は大風の焼亡の如し鉄の火の如し、詮を取つて申さば我が身より火の出ずる事十三あり。

二の火あり足より出でて頂をとをる・又二の火あり頂より出でて足をとほる・又二の火あり背より入りて胸より出(い)ず・又二の火あり胸より入りて背へ出ず・又二の火あり左の脇より入りて右の脇へ出ず・又二の火あり右の脇より入りて左の脇へ出ず・亦一の火あり首(かしら)より下に向いて雲の山を巻くが如くして下る、此の地獄の罪人の身は枯れたる草を焼くが如し東西南北に走れども逃去(にげさる)所なし、他の苦は且らく之を置く大火の一苦なり此の大地獄の大苦を仏委しく説き給うならば我等衆生聞いて皆死べし故に仏委しくは説き給う事なしと見えて候。

今日本国の四十五億八万九千六百五十八人の人人は皆此の地獄へ堕ちさせ給うべし。されども一人として堕つべしとはおぼさず。例せば此の弘安四年五月以前には、日本の上下万人一人も蒙古の責めにあふべしともおぼさざりしを日本国に只(ただ)日蓮一人計りかかる事・此の国に出来すべしとしる。

其の時日本国の四十五億八万九千六百五十八人の一切衆生・一人もなく他国に責められさせ給いて、其の大苦は譬へばほうろく(焙烙)と申す釜に水を入れてざつこ(雑魚)と申す小魚をあまた入れて枯れたるしば(柴)木をたかむが如くなるべしと申せば、あらおそろし・いまいまし・打ちはれ所を追へ流せ殺せ信ぜん人人をば田はたを・とれ財を奪へ所領をめせと申せしかども、此の五月よりは大蒙古の責めに値いてあきれ迷ふ程にさもやと思う人人もあるやらん、にがにがしうして・せめたくはなけれども有る事なればあたりたり・あたりたり、日蓮が申せし事はあたりたり・ばけ(化)物のもの申す様にこそ候めれ。

去る承久の合戦に隠岐の法皇の御前にして京の二位殿なんどと申せし、何もしらぬ女房等の集りて王を勧め奉り、戦(いくさ)を起して義時に責められ・あはて給いしが如し、今今御覧ぜよ法華経誹謗の科(とが)と云ひ日蓮をいやしみし罰と申し経と仏と僧との三宝誹謗の大科によつて現生には此の国に修羅道を移し、後生には無間地獄へ行き給うべし。此れ又偏に弘法・慈覚・智証等の三大師の法華経誹謗の科と達磨・善導・律僧等の一乗誹謗の科と此れ等の人人を結構せさせ給う国主の科と、国を思ひ生処を忍びて兼て勘へ告げ示すを用いずして還つて怨(あだ)をなす大科、先例を思へば呉王・夫差の伍子胥が諌(いさめ)を用いずして越王・勾践(こうせん)にほろぼされ、殷の紂王が比干(ひかん)が言(ことば)をあなづりて周の武王に責められしが如し。

而るに光日尼御前はいかなる宿習にて法華経をば御信用ありけるぞ。又故弥四郎殿が信じて候しかば子の勧めか此の功徳空しからざれば、子と倶に霊山浄土へ参り合せ給わん事疑いなかるべし。烏竜(おりゅう)と云いし者は法華経を謗じて地獄に堕ちたりしかども其の子に遺竜(いりゅう)と云いし者・法華経を書きて供養せしかば親・仏に成りぬ。又妙荘厳王は悪王なりしかども御子の浄蔵・浄眼に導かれて娑羅樹王仏(しゃらじゅおうぶつ)と成らせ給う。

其の故は子の肉は母の肉・母の骨は子の骨なり。松栄(さかう)れば柏悦ぶ芝か(枯)るれば蘭な(泣)く、情無き草木すら友の喜び友の歎き一つなり、何に況や親と子との契り胎内に宿して九月を経て生み落し数年まで養ひき。彼にに(荷)なはれ彼にとぶら(弔)はれんと思いしに彼をとぶらふうらめしさ、彼如何(いかん)があらんと思うこころぐるしさ・いかにせん・いかにせん、子を思う金鳥は火の中に入りにき、子を思いし貧女は恒河(ごうが)に沈みき、彼の金鳥は今の弥勒菩薩なり彼の河に沈みし女人は大梵天王と生まれ給えり、何に況や今の光日上人は子を思うあまりに法華経の行者と成り給ふ。母と子と倶に霊山浄土へ参り給うべし、其の時御対面いかにうれしかるべき・いかにうれしかるべき、恐恐。

八月八日                       日 蓮 花押
光日上人御返事

by johsei1129 | 2019-11-30 18:04 | 弟子・信徒その他への消息 | Trackback | Comments(0)
2019年 11月 30日

貴辺と日蓮とは師檀の一分なり<略>後生は必ず仏国に居せん、と説いた【曾谷二郎入道殿御報】

【曾谷二郎入道殿御報】
■出筆時期:弘安四年(1281年)閏(うるう)七月一日 六十歳御作
■出筆場所:身延山中の草庵にて。
■出筆の経緯:本抄は冒頭に「去る七月十九日の消息同卅日到来す」と記されておられるように、曾谷入道から大聖人へ手紙が届き、それへの返書となっております。
大聖人が本抄を記されたのが閏七月一日になっておりますが、この当時は太陰暦で1年が約354日となるため、3年に一度閏月をいれて1年を365日に調整しておりました。そのため七月の後の閏七月となるため、曾谷入道の手紙が到着した翌日に返書をしたためておられ、緊急性があったことが伺えます。

曾谷入道の手紙の内容は、この時期弘安の役で九州では蒙古との戦乱が三ヶ月目に入り鎌倉からも兵を派遣せざる得なくなり、曾谷氏も幕府の意向で出征することになった事の報告と思われます。

大聖人は日本が蒙古襲来という事態に陥ったことについて「疑つて云く日本国の一切衆生の中に或は善人或は悪人あり<中略>何ぞ一業と云うや、答えて云く夫れ小善・小悪は異なりと雖も法華経の誹謗に於ては善人・悪人・智者・愚者倶に妨げ之れ無し、是の故に同じく入阿鼻獄と云うなり」と記し、たとえ善人であろうとも法華経を誹謗するぱ皆一同に入阿鼻となると断じられておられます。

その上で文末では「爰(ここ)に貴辺と日蓮とは師檀の一分なり、然りと雖も有漏(うろ)の依身(えしん)は国主に随うが故に此の難に値わんと欲するか感涙押え難し。何れの代にか対面を遂げんや唯一心に霊山浄土を期せらる可きか、設い身は此の難に値うとも心は仏心に同じ今生は修羅道に交わるとも後生は必ず仏国に居せん」と記し、貴方と日蓮は師と檀那の間柄であり、たとえ国主に随うが故に此の難に遭われ修羅道に交わったとしても「後生は必ず仏国に居せん」と諭されておられます。

尚、弘安の役は、本抄を記された前夜(七月三十日)の台風で蒙古の船団は大破し、残された蒙古軍は本国へ撤退、幸運にも鎌倉幕府の勝利となり、曾谷氏も九州に派遣されることはなかったようです。

蒙古襲来は、大聖人の三度の国家諌暁もあり、また当時の執権北条時宗が自身は法華経に帰依することはなかったが、佐渡流罪を赦免し、大聖人に大寺院の建立を持ちかけるなど事実上法華経の流布を公認し、また厳然と聖人(末法の本仏)が所を辞することなく日本に存在していたことで最悪の事態を免ることができた。

しかし本抄で示された大聖人の金言は、664年後の太平洋戦争の敗北で現実ものとなります。
当時の東条英機軍事政権は、法華経はおろか仏教全体を国家神道の配下に置き、国内を統治し戦争に打って出た。しかしこの当時の日本に決然と国家諌暁をする大聖人門下の檀信徒はおらず、また聖人も所を辞したのか見当たらなかった。まさに本抄の大聖人の金言「小善・小悪は異なりと雖も法華経の誹謗に於ては善人・悪人・智者・愚者倶に妨げ之れ無し、是の故に同じく入阿鼻獄(にゅうあびごく)と云うなり」そのものとなった。
私も大聖人から「貴辺と日蓮とは師檀の一分なり」と称えられるように、本抄で示された大聖人のご金言を日々実践したいと思います。
■ご真筆:現存しておりません。古写本:日興上人筆(北山本門寺蔵)。

[曾谷二郎入道殿御報 本文]

去(いぬ)る七月(ふみづき)十九日の消息同卅日(みそか)到来す、世間の事は且(しば)らく之を置く専ら仏法に逆うこと、法華経の第二に云く「其人命終入阿鼻獄」等云云、問うて云く其の人とは何等の人を指すや、答えて云く次上に云く「唯我一人・能為救護・雖復教詔・而不信受」と、又云く「若人不信」と、又云く「或復顰蹙(わくぶひんしゅく)」又云く「見有読誦書持経者・軽賤憎嫉(きょうせんぞうしつ)・而懐結恨(にえけっこん)」と、又第五に云く「生疑不信者・即当堕悪道」と、第八に云く「若有人軽毀之言・汝狂人耳・空作是行終無所獲」等云云、其人とは此れ等の人人を指すなり、彼の震旦国の天台大師は南北十師等を指すなり、此の日本国の伝教大師は六宗の人人と定めたるなり、今日蓮は弘法・慈覚・智証等の三大師・並びに三階・道綽・善導等を指して其の人と云うなり、入阿鼻獄とは涅槃経第十九に云く「仮使い一人独り是の獄に堕ち其の身長大にして八万由延なり、其の中間に遍満して空しき処無し、其の身周匝(しゅうそう)して種種の苦を受く設い多人有つて身亦遍満すとも相い妨碍(ぼうげ)せず」同三十六に云く「沈没して阿鼻地獄に在つて受くる所の身形・縦広(じゅうこう)八万四千由旬ならん」等云云、普賢経に云く「方等経を謗ずる是の大悪報悪道に堕つべきこと暴雨にも過ぎ必定(ひつじょう)して当に阿鼻地獄に堕つべし」等とは阿鼻獄に入る文なり。

日蓮云く夫れ日本国は道は七・国は六十八箇国・郡は六百四・郷は一万余・長さは三千五百八十七里・人数は四十五億八万九千六百五十九人・或は云く四十九億九万四千八百二十八人なり、寺は一万一千三十七所・社は三千一百三十二社なり、今法華経の入阿鼻獄とは此れ等の人人を指すなり、問うて云く衆生に於て悪人・善人の二類有り、生処も又善悪の二道有る可し、何ぞ日本国の一切衆生一同に入阿鼻獄の者と定むるや、答えて云く人数多しと雖も業を造ること是れ一なり、故に同じく阿鼻獄と定むるなり。

疑つて云く日本国の一切衆生の中に或は善人或は悪人あり善人とは五戒・十戒・乃至二百五十戒等なり、悪人とは殺生(せっしょう)・偸盗(ちゅうとう)・乃至五逆・十悪等是なり、何ぞ一業と云うや、答えて云く夫れ小善・小悪は異なりと雖も法華経の誹謗に於ては善人・悪人・智者・愚者倶に妨げ之れ無し是の故に同じく入阿鼻獄と云うなり。

問うて云く何を以てか日本国の一切衆生を一同に法華誹謗の者と言うや、答えて云く日本国の一切衆生衆多なりと雖も四十五億八万九千六百五十九人に過ぎず、此等の人人・貴賤上下の勝劣有りと雖も是(か)くの如きの人人の憑(たの)む所は唯三大師に在り師とする所・三大師を離る事無し、余残の者有りと雖も信行・善導等の家を出ず可らざるなり。

問うて云く三大師とは誰人ぞや、答えて曰く弘法・慈覚・智証の三大師なり、疑つて云く此の三大師は何(いか)なる重科有るに依つて日本国の一切衆生を経文の其の人の内に入るや、答えて云く此の三大師は大小乗持戒の人・面には八万の威儀を備え或は三千等之を具す顕密兼学の智者なり、然れば則ち日本国四百余年の間・上一人より下万民に至るまで之を仰ぐこと日月の如く之を尊むこと世尊の如し、猶徳の高きこと須弥(しゅみ)にも超え智慧の深きことは蒼海(そうかい)にも過ぎたるが如し、但恨むらくは法華経を大日真言経に相対して勝劣を判ずる時は或は戯論(けろん)の法と云い或は第二・第三と云い或は教主を無明(むみょう)の辺域と名け或は行者をば盗人と名く、彼の大荘厳仏(だいしょうごんぶつ)の末の六百四万億那由佗(なゆた)の四衆の如き各各の業因異りと雖も師の苦岸(くがん)等の四人と倶(とも)に同じく無間地獄に入りぬ、又師子音王仏(おんのうぶつ)の末法の無量無辺の弟子等の中にも貴賤の異有りと雖も同じく勝意(しょうい)が弟子と為るが故に一同に阿鼻大城に堕ちぬ、今日本国亦復是くの如し。

去る延暦弘仁年中・伝教大師・六宗の弟子檀那等を呵責(かしゃく)する語に云く「其の師の堕つる所・弟子亦堕つ弟子の堕つる所・檀越亦堕つ金口の明説慎まざる可(べ)けんや慎まざる可けんや」等云云、疑つて云く汝が分斉(ぶんざい)・何を以て三大師を破するや、答えて云く予は敢て彼の三大師を破せざるなり、問うて云く汝が上の義は如何、答えて云く月氏より漢土・本朝に渡る所の経論は五千七十余巻なり、予粗之を見るに弘法・慈覚・智証に於ては世間の科は且く之を置く仏法に入つては謗法第一の人人と申すなり、大乗を誹謗する者は箭(や)を射るより早く地獄に堕すとは如来の金言なり将又謗法罪の深重は弘法・慈覚等・一同定め給い畢んぬ、人の語は且く之を置く釈迦・多宝の二仏の金言・虚妄ならずんば弘法・慈覚・智証に於ては定めて無間大城に入り、十方分身の諸仏の舌堕落せずんば日本国中の四十五億八万九千六百五十九人の一切衆生は彼の苦岸等の弟子檀那等の如く阿鼻地獄に堕ちて熱鉄の上に於て仰ぎ臥して九百万億歳・伏臥(ふくが)して九百万億歳・左脇(さきょう)に臥して九百万億歳・右脇に臥して九百万億歳是くの如く熱鉄の上に在つて三千六百万億歳なり、然して後・此の阿鼻より転じて他方に生れて大地獄に在りて無数百千万億那由佗歳・大苦悩を受けん、彼は小乗経を以て権大乗を破せしも罪を受くること是くの如し、況や今三大師は未顕真実の経を以て三世の仏陀の本懐の説を破するのみに非ず剰(あまつ)さえ一切衆生成仏の道を失う深重の罪は過・現・未来の諸仏も争(いかで)か之を窮(きわ)むべけんや争か之を救う可けんや。

法華経の第四に云く「已説今説当説・而於其中・此法華経・最為難信難解」又云く「最在其上」並に「薬王十喩」等云云、他経に於ては華厳・方等・般若・深密・大雲・密厳・金光明経等の諸教の中に経経の勝劣之を説くと雖も或は小乗経に対して此の経を第一と曰い或は真俗二諦に対して中道を第一と曰い或は印・真言等を説くを以て第一と為す、此等の説有りと雖も全く已今当の第一に非ざるなり、然而(しか)るに末の論師・人師等謬執(みょうしゅう)の年積り門徒又繁多なり。

爰に日蓮彼の依経に無きの由を責むる間・弥(いよい)よ瞋恚(しんに)を懐(いだ)いて是非を糺明(きゅうめい)せず唯大妄語を構えて国主・国人等を誑惑(おうわく)し日蓮を損ぜんと欲す衆千の難を蒙らしむるのみに非ず両度の流罪剰え頚(くび)の座に及ぶ是なり、此等の大難忍び難き事・不軽の杖木にも過ぎ将又勧持の刀杖にも越えたり、又法師品の如きは「末代に法華経を弘通(ぐつう)せん者は如来の使なり・此の人を軽賤するの輩の罪は教主釈尊を一中劫蔑如(べつじょ)するに過ぎたり」等云云、今日本国には提婆達多(だいばだった)・大慢婆羅門等が如く無間地獄に堕つ可き罪人・国中・三千五百八十七里の間に満つる所の四十五億八万九千六百五十九人の衆生之れ有り、彼の提婆・大慢等の無極の重罪を此の日本国四十五億八万九千六百五十九人に対せば軽罪中の軽罪なり、問う其の理如何、答う彼等は悪人為りと雖も全く法華を誹謗する者には非ざるなり又提婆達多は恒河(ごうが)第二の人にして第三の一闡提(いっせんだい)なり、今日本国四十五億八万九千六百五十九人は皆恒河第一の罪人なり然れば則ち提婆が三逆罪は軽毛(けいもう)の如し日本国の上に挙ぐる所の人人の重罪は猶大石(だいせき)の如し定めて梵釈も日本国を捨て同生同名も国中の人を離れ天照太神・八幡大菩薩も争か此の国を守護せん。

去る治承等の八十一・二・三・四・五代の五人の大王と頼朝・義時と此の国を御諍い有つて天子と民との合戦なり、猶鷹駿(ようしゅん)と金鳥(こんちょう)との勝負の如くなれば天子・頼朝等に勝たんこと必定なり決定なり、然りと雖も五人の大王は負け畢(おわ)んぬ、兎・師子王に勝ちしなり、負くるのみに非ず剰え或は蒼海に沈み或は島島に放たれ、誹謗法華未だ年歳を積まざる時・猶以て是くの如し、今度は彼に似る可らず彼は但国中の災い許りなり、其の故は粗之を見るに蒙古の牒状(ちょうじょう)已前に去る正嘉(しょうか)・文永等の大地震・大彗星の告げに依つて再三之を奏すと雖も国主敢て信用無し、然るに日蓮が勘文粗仏意(ほぼ・ぶっち)に叶うかの故に此の合戦既に興盛なり、此の国の人人・今生には一同に修羅道に堕し後生には皆阿鼻大城に入らん事疑い無き者なり。

爰に貴辺と日蓮とは師檀の一分なり、然りと雖も有漏(うろ)の依身(えしん)は国主に随うが故に此の難に値わんと欲するか感涙(かんるい)押え難し、何れの代(よ)にか対面を遂げんや唯一心に霊山浄土を期(ご)せらる可きか、設い身は此の難に値うとも心は仏心に同じ今生は修羅道に交わるとも後生は必ず仏国に居(こ)せん、恐恐謹言。

弘安四年閏七月一日       日 蓮 花押
曾谷二郎入道殿御返事

by johsei1129 | 2019-11-30 16:59 | 曾谷入道 | Trackback | Comments(0)
2019年 11月 30日

身延草庵の地主、波木井実長から清酒一瓶子を供養されたことを喜ばれた書【御所御返事】

【御所御返事】
■出筆時期:弘安四年(1281)七月二十七日 六十歳御作。
■出筆場所:身延山中の館にて。
■出筆の経緯:身延草庵の地主で文永六年日興の教化で大聖人に帰依した波木井実長(はきりさねなが)から清酒(すみざけ)一瓶子(へいし・酒壺)を供養されたことへ返書となっております。
大聖人は「これほどの良きさけ今年はみず候」と喜ばれるとともに「はんれう(半量)にとゞめて候)と記されご自身の体調を気遣われていたと拝されます。
波木井実長は残念ながら大聖人御遷化後、六老僧の一人日向の影響を受け神社への参拝を繰り返し謗法に陥ります。
※波木井実長の謗法の経緯については『小説日蓮の生涯(下)101 地頭の謗法』を参照して下さい。
■ご真筆:東京都 兜木家(二紙)所蔵。
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【御所御返事 本文】

清酒(すみざけ)一へいし(瓶子)かしこまて給び候ひ了んぬ。
これほどのよ(良)きさけ今年はみず候。
へいししはられ候、はんれう(半量)にとゞ(止)めて候。
恐々謹言

七月廿七日 日蓮 花押
御所御返事




by johsei1129 | 2019-11-30 16:51 | 弟子・信徒その他への消息 | Trackback | Comments(0)