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日蓮大聖人『御書』解説

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2016年 01月 31日

GOSHO 上野殿御返事 Persecution by Swords and Staves 2

天竺(てんじく)嫉妬(しっと)の女人あり。男をにくむ故に家内(やうち)の物をことごとく打ちやぶり、其の上にあまりの(はら)(だち)にや、すが(姿)た・けしき(気色)かわり、眼は日月の光のごとく()がやき、くち()は炎を()くがごとし。

Once in India there was a jealous woman who hated her husband so much that she smashed everything in the house. Her excessive rage completely altered her appearance; her eyes blazed like the sun and moon, and her mouth seemed to belch fire.

Once, there was a jealous woman in India who so hated her husband, that in a fit of anger, she destroyed everything in her home. Fury transformed her appearance, her face twisted with rage, her eyes burned like the sun and the moon, and her mouth seemed to spew flames.

すが(姿)たは青鬼赤鬼のごとくにて年来(としごろ)・男のよみ奉る法華経の第五の巻をとり、両の足にてさむざむ(散散)にふみける。

She looked exactly like a blue or red demon. She seized the fifth scroll of the Lotus Sutra, which her husband had been reciting for some years, and trampled it savagely with both feet.

Her image was exactly like that of a red or blue demon. She seized the fifth scroll of the Lotus Sutra, which for years her husband had recited, and brutally stomped on it with both feet.

()の後命つきて地獄にをつ。両の足ばかり地獄にいらず、獄卒(ごくそつ)(てつ)(じょう)をもつて・()てどもいらず、是は法華経をふみし逆縁の功徳による。

Later she died and fell into hell, all of her except for her feet. Though the wardens of hell tried to force them down by beating them with iron staves, her feet remained outside of hell as a result of the relationship, albeit a reverse one, that they had formed with the Lotus Sutra by trampling on it.

Latter she died and fell into hell, all except for her feet. The guards of hell tried to beat them down with iron staves, but were unable to do so because by trampling upon the Lotus Sutra, her feet had formed a relationship with it, and although it was a reverse relationship, they benefited from it.

今日蓮をにく()む故にせうぼう(少輔房)が第五の巻を取りて予がを()てをうつ。是も逆縁となるべきか。

Shō-bō struck me in the face with the fifth scroll of the Lotus Sutra because he hated me. Thus he too has formed a reverse relationship with this sutra.

Out of his hatred for me, Nichiren, Sho-bo struck me in the face with the fifth scroll of the Lotus Sutra. He too has made a reverse relationship with the sutra.


                 つづく Next
解説  全目次 Index All



by johsei1129 | 2016-01-31 14:30 | WRITING OF NICHIREN | Trackback | Comments(0)
2016年 01月 31日

報恩抄文段上 目次

日寛上人 御書講義

   報恩抄文段 上 

序   本抄の大意  
    報恩抄は正しく本門の三大秘法を顕す
    当抄の題号
    当抄の入文  仏弟子、此の大恩を報ぜずんば畜類にも劣るべし


第一段 報恩の道理を明かす

      恥ずべし、恥ずべし、畜生すら恩を報ず


第二段 知恩・報恩を明かす


第三段 一代諸経の勝劣を判ず

     邪法を退治するを報恩と云い、正法を弘通するを謝徳と云う


第四段 在世及び正法時代の値難呵責謗法に四つの所以


第五段 像法正師の弘通と怨嫉

      久遠元初の本仏を貴ばざるは、是れ内智を貴ばざる故なり


六段 真言伝来及び慈覚・智証を責む
    「教を匿さざれ」等の厳命を固く守るべし。命を的に・懸けるべし


第七段 日本に法華の行者なきを明かす

  寛師は大聖人御誕生後、五百年に出現す


        下につづく

 解説    文段 総目次  



by johsei1129 | 2016-01-31 08:12 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
2016年 01月 31日

報恩抄文段下 目次

  日寛上人 御書講義

  
   報恩抄文段 下 

  

第八段  日蓮大聖人の諫暁
  善神必ず謗国を捨離する三つの所以
  弘安の役は、是れ蓮祖の勧誡に依って、神明、国を助くるなり

  

第九段  真言の誑惑を破す
  臨終の時、色の黒きは心、地獄の黒色を画くが故なり
  承久の乱の大旨


第十段  日蓮大聖人の知恩報恩
  孝経に云く「三たび諫めて納れずんば、身を奉じて以て退け」


第十一段 正法を弘通するは謝徳なるを明かす
 
初めに正義を明かすとは

  初めに名通の相を明かすとは

  次に義別の相を明かすとは

  第二に功帰とは又二意を含む。所謂本果本因なり 

  今先聖の未弘に対して、蓮祖弘通の所以を明かすべし

  初めに他方・本化の前三後三とは

  次に迹化・本化の前三後三とは
宗門八箇の法義とは

  三箇の秘法開合の事

  此の一大秘法を開すれば即ち三箇の秘法なり    

  事の戒壇とは即ち富士山天生原に戒壇堂を建立するなり


第十二段  総括 

  三箇の秘法広布の功徳は又参詣の人々の御身にあつまるべきなり


             上にもどる


 御書 本文       御書文段 全目次



by johsei1129 | 2016-01-31 08:11 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
2016年 01月 31日

報恩抄文段 下終 三箇の秘法広布の功徳は道善房の御身に帰すべし。若し爾らば、此等の功徳は又参詣の人々の御身にあつまるべきなり。


 第十二段 総 括

一 花は根にかへり

 清原(きよはら)(しげ)(ふじ)の詩に云く「花は根に帰ることを()ゆれども、悔ゆるに(やく)無けん」文。白花(びゃっか)(こう)()を点ずれば、来春は必ず其の花、処々に紅紫を点ず云云。()し紅紫を(もっ)(いろど)(とき)は、来春は其の花、紅紫の色に咲くなりと云云。(これ)を思え。

一 真味(しんみ)は土にとどまる。(注:平成新編は「真味」、御書全集は「(このみ)」と拝する)

 涅槃(ねはん)経第八に云く「薬の真味(とどま)りて山に()り」等云云。「花は根に」より下は一部の総括、御廻向(えこう)の文なり。三箇の秘法広布の功徳は(どう)善房(ぜんぼう)の御身に帰すべしと云云。

  第一に報恩抄全部講談の所以(ゆえん)、講談に三意有り

 一には、仏の本懐に(かな)わんが(ため)なり。筆削(ひっさく)一・三十三に云く「仏、教法を(とど)むる意は伝弘(でんぐ)して展転(てんでん)し、人を()して大果に至らしむるに()り。()伝演(でんえん)せざれば、仏の本懐に(さから)う」等云云。故に知んぬ、若し伝演する(とき)は、仏の本懐に称うことを。

  二には、()(こころざし)(まん)ぜんが為の故に。文の十・二二十八に云く「(ただ)願くは、大法をして(おお)()(せん)することを()せしめん乃至師の志なり」取意。一切(いっさい)の師、弟子を養育する其の志は大法をして弘宣することを()せしめんが為なり。我が師、別して此の志深きが故に云云。

  三には、報恩を(きわ)むるに()せんが為なり。大論に云く「仮使(たとい)頂戴(ちょうだい)して塵劫(じんこう)()、身を床座(しょうざ)()し、三千に(へん)ずるとも、若し法を伝えて衆生(しゅじょう)を利せざれば、畢竟(ひっきょう)()く恩を報ずること無き者なり」文。師匠(ししょう)を頂戴して塵劫を()、釈迦菩薩の如く身を床座とするとも、畢竟、恩を報ずること無し。()し法を伝えて衆生を利せば、畢竟、恩を報ずるなり。

第二に自我偈(じがげ)一万三千巻読誦(どくじゅ)の所以、自我偈を誦するに()いて亦三意あり。(なお)是れ助行なるのみ。

  一には、別して自我偈の功徳広大なるが故に。

法蓮抄十五・二十一に云く「自我偈の功徳は唯仏(ゆいぶつ)与仏(よぶつ)乃能(ないのう)究尽(くじん)なるべし、()れ法華経は一代聖教(しょうぎょう)骨髄(こつずい)なり自我偈は二十八品のたましひなり、三世の諸仏は寿量品(じゅりょうほん)を命とし十方(じっぽう)の菩薩も自我偈を眼目(げんもく)とす、自我偈の功徳をば私に申すべからず次下に分別(ふんべつ)功徳品(くどくほん)()せられたり、()の自我偈を聴聞(ちょうもん)して仏になりたる人人の数をあげて候には小千・大千・三千世界の微塵(みじん)の数をこそ・あげて候へ、()(うえ)薬王品(やくおうほん)已下(いげ)の六品得道のもの自我偈(じがげ)余残(よざん)なり」等云云。

  二には、十方の諸仏は自我偈を()として仏に成り給うが故に。

二十二・二十六に云く「されば十方世界の諸仏は自我偈を師として仏にならせ給う、世界の人の父母の如し乃至之を(もっ)思うに田村(とし)(ひと)なんどの様なる(つわもの)を三千人()みたらん女人あるべし、()の女人を(かたき)とせん人は此の三千人の将軍をか()きに・うくるにあらずや、法華経の自我偈を(たも)つ人を敵とせんは三世の諸仏を敵とするになるべし」文。

()()の女人一人を供養せば、三千人の将軍(みな)悦ぶ。此の自我偈を読めば、(すなわ)ち三世の諸仏は歓喜したまう者なり。

  三には、自我偈を(じゅ)せば則ち(まこと)の孝養に成るが故に。

 又二十三に云く「此の文字の数は五百十字なり、一一(いちいち)の文字変じて日輪となり日輪変じて釈迦如来となり大光明を放って乃至いかなる(ところ)にも過去聖霊のおはすらん処まで尋ね行き給いて彼の聖霊に語り給うらん、我をば誰とか(おぼ)(しめ)す、我は()(なんじ)が子息・法蓮が毎朝(じゅ)する所の法華経の自我偈の文字なり、此の文字は汝が眼とならん、耳とならん、足とならん、手とならんとこそ・ねんごろに語らせ給うらめ、()(とき)・過去聖霊(しょうりょう)は我が子息・法蓮は子にはあらず、(ぜん)知識(ちしき)なりとて裟婆(しゃば)世界に向っておがませ給うらん、是こそ(まこと)の孝養にては候なれ」文。

第三に題目百五十万(べん)()(しょう)所以(ゆえん)、別して唱題の所以なり

 一には、仰いで祖師(そし)の金言を信ずるが故に。

 上の文に云く「一閻浮提(いちえんぶだい)に人ごとに()()無智をきらはず一同に他事をすてて南無妙法蓮華経と唱うべし」云云。

 上野抄に云く「今末法に入りぬれば余経も法華経もせん()なし、(ただ)南無妙法蓮華経なるべし」云云。

 二には、題目は是れ成仏の種子なるが故に。

 本尊抄に云く「在世(ざいせ)の本門と末法の始は一同に純円なり、(ただ)(かれ)は脱、()れは(しゅ)なり、彼は一品(いっぽん)()(はん)此れは(ただ)題目の五字なり」云云。

 秋元抄に云く「三世(さんぜ)十方(じっぽう)の仏は必ず妙法蓮華経の五字を種として仏になり給へり」と云云。

  三には、題目一返(いっぺん)は一部の功徳に当るが故に。

十如是抄に云く「(これ)を信じて一遍(いっぺん)も南無妙法蓮華経と申せば法華経を(さとり)如法(にょほう)に一部をよみ奉るにてあるなり、十遍は十部・百遍は百部・千遍は千部を如法によみ奉るにてあるべきなり」等云云。

故に百五十万遍は百五十万部なり。千部(なお)広大なり。(いわん)や万部をや。万部(なお)(しか)なり、况や十万部をや。(いか)に况や百万部をや。何に况や百五十万部をや云云。

  (しか)れば則ち、此くの如き講談・()(きょう)・唱題の功徳を(もっ)て、報恩謝(ほうおんしゃ)(とく)(ため)に日永上人に供養し奉る。()(しか)らば、蓮祖(れんそ)()の秘法御弘通(ごぐつう)の功徳等、(どう)善房(ぜんぼう)御身(おんみ)(あつま)るが如く、皆(ことごと)く日永上人の御身にあつまるべきなり。又面々の参詣に()るの故に、()くの如き功徳を成就(じょうじゅ)す。若し爾らば、(これ)()の功徳は又参詣の人々の御身にあつまるべきなり。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。




報恩抄文段下 目次



by johsei1129 | 2016-01-31 07:48 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
2016年 01月 30日

GOSHO 上野殿御返事 Persecution by Swords and Staves 1

Persecution by Swords and Staves

Persecution by Swords and Staves

                  弘安二年四月二十日 五十八歳 
                  20 April 1279 (Age:58)

(そもそも)日蓮、種種(しゅじゅ)の大難の中には(たつの)(くち)(くび)の座と東条の難にはすぎず。其の故は諸難の中には(いのち)をすつる(ほど)の大難はなきなり。

The greatest of all the persecutions that I have suffered were the attempted beheading at Tatsunokuchi and the attack at Tōjō. None of the others were direct attempts on my life.

Of the major persecutions that I, Nichiren, have encountered, the most severe were my near beheading at Tatsunokuchi and the attack at Tojo for none of the others came as near to ending my life.

或はのりせめ、或は処をおわれ、無実を云いつけられ、或は面をうたれしなどは物のかずならず。

I have been reviled, denounced, ousted, falsely accused, and struck across the face, but these were all comparatively minor incidents.

I have been cursed, denounced, banished, falsely charged and struck in the face, but these were all minor in comparison.

されば色心の二法よりをこりてそし()られたる者は、日本国の中には日蓮一人なり。ただし、ありとも法華経の故にはあらじ。

I, Nichiren, am the only person in Japan to be abused in both body and mind [on account of the Lotus Sutra]. If anyone else has been slandered as I have, it was not because of the Lotus Sutra.

In the country of Japan, I alone have been subjected to such mental and physical abuse. If anyone else has ever been similarly abused, it was certainly not for the sake of the Lotus Sutra.

さてもさても、わす()れざる事は()うばう(輔房)が法華経の第五の巻を取りて日蓮がつら()をうちし事は、三毒よりをこる処のち()うち()くなり。

 One incident in particular I can never forget is how Shō-bō seized the fifth scroll of the Lotus Sutra and struck me across the face with it. His attack on mestemmed from the three poisons.

There is one attack in particular I can never forget, the time when Sho-bo, motivated by the three poisons, seized the fifth scroll of the Lotus Sutra and struck me across the face with it.


                     つづく Next
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by johsei1129 | 2016-01-30 16:40 | WRITING OF NICHIREN | Trackback | Comments(0)
2016年 01月 30日

報恩抄文段 下三二 事の戒壇とは即ち富士山天生原に戒壇堂を建立するなり


一 (ふたつ)には本門の戒壇

 本門の戒壇に()有り、()有り。理は(いわ)く、道理なり。(また)義の戒壇と名づけん。謂く、戒壇の本尊を書写して(これ)()(たてまつ)(ところ)の山々寺々家々は皆是れ道理の戒壇なり。(まさ)に知るべし「此の処は即ち是れ道場」等云云。

 次に()の戒壇とは即ち富士山(あも)生原(うがはら)に戒壇堂を建立(こんりゅう)するなり。

 外の十六・四十一に御相承を引いて云く「日蓮一期(いちご)弘法(ぐほう)白蓮阿闍(びゃくれんあじゃ)()日興に(これ)を付嘱す、本門弘通(ぐつう)の大導師たるべきなり、国主()の法を立てらるれば富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり、時を待つべきのみ、事の戒法と云うは(これ)なり、就中(なかんづく)我が門弟()此の状を守るべきなり」云云。重重の道理あり。()文底秘沈抄の如し。

一 一同に他事を()てて南無妙法蓮華経と唱うべし

 第三には本門の題目に必ず信行(しんぎょう)()す。信は是れ行の始め、即ち本因妙。(ぎょう)は是れ信の終り、即ち本果(ほんが)(みょう)是れ則ち刹那(せつな)の始終、一念の因果なり。()一上に云く「()に依って信を(おこ)す。信を行の本と()す」文。記の九末に云く「一念(しん)()とは即ち是れ本門(りゅう)(ぎょう)(はじめ)」云云。(あに)刹那の始終に(あら)ずや。

寿量品(じゅりょうほん)に云う「一心に仏を見たてまつらんと(ほっ)して」とは是れ信心なり。「(みずか)身命(しんみょう)()しまず」とは是れ修行なり。

神力品(じんりきほん)に云う「()()に一心に」とは是れ信心なり。「受持(じゅじ)(どく)(じゅ)」とは是れ修行なり。

持妙法華問答抄に「(すべから)く心を(いつ)にして南無妙法蓮華経と我も唱へ他をも(すすめ)んのみこそ今生(こんじょう)人界の思出(おもいで)なるべき」云云。

「心を一にして」とは信心なり。「南無妙法蓮華経と我も唱へ他をも勧ん」とは修行なり。

 寿量品の「色香(しきこう)美味(みみ)」とは「色」は是れ戒壇、「香」は是れ本尊、「美味」は是れ題目なり。「美」は是れ信心なり。「味」は是れ修行なり。()し本門の本尊を信ぜずして唱え行ずるは(うま)からざる味なり。又「是の()良薬(ろうやく)」とは本門の本尊なり。「今(とど)めて(ここ)()く」とは本門の戒壇なり。「(なんじ)取って服すべし」とは本門の題目なり。「取る」は是れ信心なり。「服す」は是れ修行なり。()し本門の本尊を信ぜずして(とな)え行ずるは、取らずして服するなり。

故に知んぬ、(たと)い題目を唱うと(いえど)も、若し本門の本尊を信ぜずして唱え行ずるは、(ただ)是れ宝山(ほうざん)空手(くうしゅ)なり。

故に法蓮抄に云く「信なくして()の経を行ぜんは手なくして宝山に入り、足なくして千里の道を(くわだ)つるが如し」云云。故に(もっぱ)ら本門の本尊を信じて之を唱え行ずべきなり。

当体義抄に「日蓮が一門は乃至当体蓮華を証得(しょうとく)して(じょう)寂光(じゃっこう)の当体の妙理を(あらわ)す事は本門寿量の教主の金言(きんげん)を信じて南無妙法蓮華経と唱うるが故なり」云云。

故に今文に「他事を()てて」とは是れ信心なり。「南無妙法蓮華経と唱う」とは修行なり。

故に()三大秘法を合する(とき)は一大秘法なり。若し開く則は六大秘法なり。(しか)るに常には三大秘法と云うは、広くする則は智をして退(しりぞ)かしめ、略すれば即ち(こころ)(あまね)からざる故に、処中(しょちゅう)()いて三大秘法と云うなり。

 三月二十八日

一 例せば風に(したが)って波の大小あり

 此れは(れん)()慈悲(じひ)広大の故に万年の(ほか)に至るを顕さんが(ため)なり。()ず例を引く。(いわ)く、風大なれば波大なり。日蓮が慈悲広大ならば、妙法は万年の(ほか)流布(るふ)せんと云云。一々の例、皆此の意なり。

 (まさ)に知るべし、(かみ)には三()の秘法を明かし、此の下は蓮祖の(さん)(とく)を明かす。初めに(しん)(とく)、又二。初めに例を引き、「日蓮が慈悲(じひ)」の下は(まさ)しく親徳なり。「日本国の一切(いっさい)衆生(しゅじょう)盲目(もうもく)をひらける」とは()の徳なり。「無間(むけん)地獄(じごく)の道をふさぎぬ」とは主君(しゅくん)の徳なり。道路の(つう)(そく)(あに)()く所従の()る所ならんや。

 (およ)主師(しゅし)(しん)(さん)(とく)を本尊と為すべしとは、諸抄の明文、(きょう)として目前に()り。(しか)るに(かみ)本因(ほんにん)(みょう)の教主釈尊を本尊と為すべしと明かし(おわ)って(すなわ)ち自身の三徳を明かしたもう。故に知んぬ、本因妙の教主釈尊とは、(あに)蓮祖聖人に(あら)ざらんや。故に知んぬ、上に「本門の教主釈尊」と云うは本因妙の教主なること(うた)(もっ)分明(ふんみょう)なり。当流の深義、諸流の及ぶ所に非ず。(あお)いで之を信ずべし。伏して之を思うべし云云。

一 極楽(ごくらく)百年等

 蓮師の天台(てんだい)等に(すぐ)れたまえるは、(ただ)是れ時に()ることを明かすなり。


                    つづく

報恩抄文段下 目次



by johsei1129 | 2016-01-30 15:33 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
2016年 01月 29日

Gosho 南条殿御返事(白麦御書) 五

追伸 

Postscript:

この()()の中は・いみじかりし時は何事かあるべきと()えしかども、当時はことにあぶ()なげ()に・()え候ぞ、

When things are going smoothly in this world of ours, we suppose there is nothing to worry about, but these days the situation seems very threatening indeed.

When times are stable and peaceful, it seems as if nothing is happening; however at such times danger is imminent.

いかなる事ありともなげ()かせ給うべからず、ふつとおも()ひきりてそり()やう()なんども、たが()ふ事あらば・いよい()よ 悦びとこそおもひて・()うそ()ぶきて・これへわたらせ給へ。

Whatever happens, however, you must not despair. Be firm in your approach, and if things should not go as you wish with regard to your lands, then determine to be more contented than ever, adopt an attitude of indifference, and if you like, come here.

No matter what happens, do not despair. Have absolute conviction, even if you encounter difficulties including the loss of your fief. Accept it all with joy and come to visit me here, in high spirits.

所地しらぬ人もあまりにすぎ候ぞ、当時つくし(筑紫) へ・むかひて・なげく人人は・いかばかりとか・おぼす。これは皆日蓮を・かみ()あな()づらせ給いしゆへなり。

There are a great many people nowadays who cannot keep possession of their lands. Think of how grievous it must be for those who these days have to set off for Tsukushi ! And all of this comes about because the authorities treat me with disdain.

The number of people who have lost their land is rising. How deep the grief of those presently assigned to garrison Tsukushi must be. All of this is because those in authority hold me, Nichiren, in disdain.


解 説  全目次 Index All



by johsei1129 | 2016-01-29 22:04 | WRITING OF NICHIREN | Trackback | Comments(0)
2016年 01月 29日

報恩抄文段 下三一  本因妙の教主自受用身は、人法体一にして更に勝劣無し。法に即(そく)して人、人に即して法なり。

  問う、当文の(こころ)如何(いかん)

  答う、大段(だいだん)二義あり。

  一には諸流一同の義に云く、在世の本門の教主釈尊を本尊とすべし。是れ(すなわ)ち色相を以て本尊とすべきなり。戒壇・題目も亦(しか)なり。(いわ)く、在世の本門の戒壇、在世の本門の題目なりと云云。故に諸流一同に色相(しきそう)荘厳(しょうごん)の仏を造立(ぞうりゅう)して本尊と為せり。

  二には当流の(じん)()の意に云く、本門寿量文底の教主釈尊を本尊とすべし。是れ則ち名字(みょうじ)凡夫(ぼんぷ)の当体、本因妙の教主釈尊なり。戒壇・題目も亦(しか)なり。謂く、本門寿量文底の戒壇、本門寿量文底の題目なり。故に開目抄に「本門寿量文底秘沈(ひちん)」と云うは是れなり。

  先ず道理を明かさん。()在世(ざいせ)の本門の教主は(もと)是れ脱益(だっちゃく)()(しゅ)なり。久遠(くおん)本因の教主は本是れ下種(げしゅ)法主(ほっす)なり。今(すで)に末法下種の時なり。何ぞ下種の教主を(さしお)いて、(かえ)って脱仏を以て本尊と()すべけんや。是一。

  (いわん)(また)末法は(ほん)未有(みう)(ぜん)の衆生なり。故に脱益の仏に於ては三徳の(えん)浅し。何ぞ我が三徳の仏を閣いて、他の三徳の仏を以て本尊と為すべけんや是二。

  况や復本尊とは、(まさ)に勝れたるを用うべし。(しか)るに色相(しきそう)荘厳(しょうごん)の仏は(にん)(ぽう)体別なり。故に法に望むれば(すなわ)ち既に師資(しし)、父子、君臣の別あり。

(しばら)く一文を引かん。経に云く「()(また)人有って、七宝(しっぽう)を以て乃至供養(くよう)せん、()の人の所得の功徳(くどく)も、()の法華経の乃至一四(いっし)句偈(くげ)(じゅ)()する()の福の最も多きには()かじ」云云。

文の十・三十一に云く「七宝を四聖に(たてまつ)るは、一偈(いちげ)(たも)つに()かず。法は是れ聖の師なり。能生(のうしょう)(のう)(よう)(のう)(じょう)(のう)(えい)、法に()ぎたるは()し。故に人は軽く法は重し」云云。

(せん)八・二十五に云く「父母に(あら)ざれば以て(しょう)ずること無く、()(ちょう)に非ざれば以て(じょう)ずること無く、君主に非ざれば以て(さか)ること無し」文。

故に人法(にんぽう)の勝劣(あたか)も天地の如し。何ぞ(おと)れる仏を以て本尊と()すべけんや是三。

  (けだ)本因(ほんにん)(みょう)の教主自受用(じじゅゆう)(しん)は、人法(たい)(いつ)にして(さら)に勝劣無し。法に(そく)して人、人に即して法なり。故に経に云く「若しは経巻(きょうかん)所住の(ところ)には乃至()の中には、(すで)に如来の全身(いま)す」云云。天台云く「此の経は是れ(ほっ)(しん)舎利(しゃり)なり」と云云。今「法身」とは(すなわ)ち是れ自受用身なり。宗祖云く「自受用身即一念三千」と。伝教(でんぎょう)云く「一念三千即自受用身」等云云。故に知んぬ、本因(ほんにん)(みょう)の教主釈尊、自受用の全体(すなわ)ち是れ()の一念三千の法の本尊なり。事の一念三千の法の本尊の全体、即ち是れ本因妙の教主釈尊、自受用身なり。譬えば()()(やく)(どう)薬種(やくしゅ)(まった)く是れ童子(どうじ)にして、童子全く是れ薬種なるが如し。

  問う、何が故に体別・体一の(ことなり)ありや。

  答う、若し()()って論ずれば法界に非ざる無し。今、事に()いて論ずるに、差異無きに(あら)ず。(いわ)く、自受用身は(もと)是れ境地冥合(きょうちみょうごう)の真仏なり。故に(たい)(いつ)なり。(たと)えば月と光と冥合するが故に是れ体一なるが如し。若し色相荘厳の仏は世情(せじょう)随順(ずいじゅん)する形貌(ぎょうみょう)なり。故に体別なり。譬えば水月は方円(ほうえん)(うつわ)に移るが故に、天月と体は別なるが如し。

  問う、色相の応仏は世情に随順するの証文如何(いかん)

  答う、教時義に云く「世間(みな)仏に三十二相を具することを知る。()の世情に(したが)って、三十二相を(もっ)て仏と()す」と云云。金剛(こんごう)般若経(はんにゃきょう)に云く「()し三十二相を以て如来を見れば、(てん)(りん)(じょう)(おう)(すなわ)ち是れ如来ならん」文。止の七・六十七に云く「縁の(ため)に同じからず、多少は(かれ)()り」等云云。

  次に文相に(しょう)せん。「本門の教主釈尊」とは、是れ標の文にして人の本尊なり。「所謂(いわゆる)宝塔」の下は、是れ釈の文にして法の本尊なり。即ち本尊抄の文に同じ、少しく略なるのみ。(すで)人の本尊を標して、法の本尊を以て(これ)を釈す。故に知んぬ「本門の教主釈尊」とは、即ち是れ人法体一の遠元(くおんがん)(じょ)自受用報(じじゅゆうほう)(しん)本因(ほんにん)(みょう)の教主釈尊なり。意に云く、本因妙の教主釈尊の全体、即ち是れ一念三千の法の本尊なり。故に本尊とすべしと云云。()色相(しきそう)荘厳(しょうごん)の脱仏を(もっ)て「本門の教主釈尊」と名づけば、(すで)に是れ(にん)(ぽう)体別にして勝劣(しょうれつ)も亦雲泥(うんでい)なり。何ぞ一念三千の法の本尊を以て(これ)を釈すべけんや。之を思え、之を思え。

故に知んぬ「本門の教主釈尊」とは本門寿量文底、本因妙の教主釈尊なること、其の義(うた)た明らかなり。

 問う、若し(しか)らば、本因妙の教主釈尊を以て本尊と為すべし。何ぞ(れん)()を以て本尊と為すや。

 答う、云云。()末法相応抄の如し。啓蒙(けいもう)十五・七十三に多義あり云云。


                    つづく

報恩抄文段下 目次



by johsei1129 | 2016-01-29 21:52 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
2016年 01月 28日

報恩抄文段 下三十  若(も)し三箇の秘法を開せば則ち六義を成ず。謂(いわ)く本尊に人法あり、戒壇に事理あり。題目に信行(しんぎょう)あり。

    

     ()の一大秘法を開すれば(すなわ)ち三箇の秘法なり



 寿量品に云く「()()良薬(ろうやく)を、今(とど)めて(ここ)()く、(なんじ)取って服すべし。()えじと(うれ)うること(なか)れ」文。

「是の好き良薬」とは本門の本尊なり。

本尊抄に云く「()好良薬(こうろうやく)とは寿量品の肝要(かんよう)たる名体(みょうたい)宗用(しゅうゆう)(きょう)の南無妙法蓮華経(これ)なり、()の良薬をば仏(なお)迹化(しゃっけ)(じゅ)()し給わず、(いか)(いわん)や他方をや」云云。

文の意に云く、此の本門の本尊をば迹化に授与せず、(ただ)地涌(じゆ)千界(せんがい)に授与すと。故に天台(てんだい)云く「()枢柄(すうへい)()って(しか)して(これ)を授与す」文。本尊の授与書云云。

「今留めて此に在く」とは本門の戒壇なり。「今」とは末法なり。「此に在く」とは一閻浮提(いちえんぶだい)の中には日本国、日本国の中には駿州(すんしゅう)富士山なり云云。

(なんじ)取って服すべし」とは本門の題目なり。「汝」とは末法の衆生なり。「取って」とは信受(しんじゅ)の義なり。大論の一・十九に云く「経中に信を()いて手と()。手有って宝山の中に入り、自在(じざい)()く取る。()し手()くんば取る(ところ)有ること(あた)わざるが如し」文。「服す」とは、南無妙法蓮華経と(とな)うる義なり。故に天台云く「修行を服と名づく」と云云。

 (しか)るに日本国中の諸学者、此の(むね)を知らず。(ただ)当流の信者のみ(ぶっ)()出世(しゅっせ)の本懐に相称(あいかな)えり。()宿縁(しゅくえん)(あら)ずんば(いずくん)ぞ此の(じん)(みょう)を聞くことを得んや。

   三月二十七日

一 本門の教主釈尊を本尊とすべし

 若し三箇の秘法を開せば(すなわ)ち六義を成ず。(いわ)く本尊に人法(にんぽう)あり、戒壇に事理(じり)あり。理は謂く、道理なり。題目に信行(しんぎょう)あり。文に(のぞ)んで之を釈せん。

 第一に「本尊に人法あり」とは、(すで)に観心本尊抄には法の本尊に(やく)す。故に彼の十七に云く「()の本尊の為体(ていたらく)本師の裟婆(しゃば)の上に宝塔(ほうとう)(くう)()塔中(たっちゅう)の妙法蓮華経の左右に釈迦牟(しゃかむ)尼仏(にぶつ)多宝仏(たほうぶつ)・釈尊の脇士(きょうじ)上行(じょうぎょう)等の四菩薩」等云云。(けだ)し今文に(おい)ては、人の本尊に約す。故に「本門の教主釈尊を本尊とすべし」と云うなり。

 (ひろ)く教主釈尊を論ずれば(すなわ)ち多義あり。

若し色相(しきそう)荘厳(しょうごん)(じょう)(ろく)一里の劣応(れっとう)(じん)は、即ち是れ三蔵の教主釈尊なり。若し丈六一里の身相(しんそう)()び、十里百億の色相を現ずるは、即ち是れ勝応(しょうおう)(じん)にして(つう)(きょう)の教主釈尊なり。若し十蓮華蔵微塵(みじん)の色相を荘厳するは即ち是れ()受用報(じゅゆうほう)(しん)、別教の教主釈尊なり。若し()(ぜん)の円の教主釈尊は即ち是れ別教の教主の摂属(しょうぞく)なり。故に玄文の第七には、華厳(けごん)の教主を(もっ)(ただ)別教の教主に属するなり。(さき)劣応(れっとう)・勝応・報身を開して即ち是れ(ほっ)(しん)なるは、今経の迹門の(おう)(そく)の教主釈尊なり。

劣応・勝応・報身・法身(こと)なりと(いえど)も、()(じょう)の辺は違目(いもく)し。是れ熟益(じゅくやく)の教主にして並びに是れ(しゃく)(ぶつ)なり。若し今日(こんにち)色相荘厳の三蔵の応仏、次第(しだい)昇進(しょうしん)して始成の三身を開し、別して久遠本果の自受用(じじゅゆう)(しん)(あらわ)れたもうは、即ち是れ応仏昇進の自受用身、色相荘厳(しょうごん)の尊容、在世本門の教主釈尊なり。若し釈尊五百塵点劫の当初(そのかみ)、凡夫の御時、無教の時、即ち内薫(ないくん)自悟(じご)一迷先(いちめいせん)(だつ)・以教余迷の教主釈尊は、即ち是れ本門寿量の文底(もんてい)久遠元(くおんがん)(じょ)自受用報(じじゅゆうほう)(しん)名字(みょうじ)凡夫(ぼんぷ)の当体、本因(ほんにん)(みょう)の教主釈尊なり。

故に教主釈尊に()いては()くの如き多義あり、一様の(かん)()すべからざる者なり。(しか)るに()(ぜん)・迹門の熟益(じゅくやく)の教主は今の所論に(あら)ず云云。


                      つづく


 報恩抄文段下 目次



by johsei1129 | 2016-01-28 22:53 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
2016年 01月 28日

GOSHO 南条殿御返事(白麦御書) 四

阿那律がひゑ()はん()は、へん()じてうさ()ぎとなる、うさぎ・へんじて死人となる、死人へん()じて(こがね)となる、(ゆび)をぬきて()りしかば又いできたりぬ、王の()めのありし時は死人となる、かくのごとく・つきずして九十一劫なり。

Aniruddha’s meal of millet changed and became a hare, then the hare changed and became a dead man, the dead man changed and became gold. Whenever Aniruddha pulled off one of the [golden man’s] fingers and sold it, a new finger would appear, and when the ruler tried to seize the gold, it changed once more into a dead man. And so this fortune continued for the space of ninety-one kalpas.

The millet that was offered by Aniruddha changed into a rabbit. The rabbit transformed into a human corpse and the corpse into a golden statue. Whenever Aniruddha broke off a finger from the statue and sold it, the statue’s finger grew back again. The king attempted to appropriate the statue but each time he touched it, it would turn back into a corpse. In this way, Aniruddha’s good fortune was inexhaustible for ninety-one kalpas.

()なん()と申せし人の石をとりしかば、(こがね)となりき、(こん)ぞく()王は、い()ごを金となし給いき。

When a man named Mahānāma picked up stones, they turned to gold, and King Golden Grains could turn grains of sand into gold.

Whenever Mahanama picked up a stone, it would change into gold and King Konzoku also could transform common sand into gold.

今のむぎ()は法華経のもん()()なり、又は女人の御ためにはか()みとなり身のかざりとなるべし・男のためにはよろ()ひとなり、かぶ()ととなるべし。守護神となりて弓箭(ゆみや)の第一の名をとるべし、南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経、恐恐(きょうきょう)謹言(きんげん)

 And now this wheat of yours has become the words and letters of the Lotus Sutra. Or again it may become a mirror for a woman to use to adorn herself, and for a man it may become armor and a helmet, or it maybe come a guardian deity who will make you foremost among the wielders of bow and arrow. Nam-myoho-renge-kyo, Nam-myoho-renge-kyo! With my deep respect

Your offering of barley at this time is transformed into the words of the Lotus Sutra. The Lotus Sutra’s words are essential as are mirror and make up for a woman and helmet for a man. They will become your protectors and you will gain a reputation as the finest archer. Nam-Myoho-Renge-Kyo, Nam-Myoho-Renge-Kyo. With my deepest respect

七月二日                   日蓮 花押

The second day of the seventh month     Nichiren

南条殿御返事

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by johsei1129 | 2016-01-28 22:12 | WRITING OF NICHIREN | Trackback | Comments(0)