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日蓮大聖人『御書』解説

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2015年 09月 21日

身延入山から七年目の大坊建設の経緯と波木井実長の法華経信仰を厳しく咎めた書【地引御書】

【地引御書】
■出筆時期:弘安四年(1281年)十一月二十五日 六十歳御作
■出筆場所:身延山中の大坊にて。
■出筆の経緯:本書は身延山中の草庵の地主南部六郎(波木井実長・さねなが)にあてられた書です。
大聖人が文永11年(1274)の五月十七日に鎌倉から身延山中に居を移され、質素な草庵を設けてから七年目にして十間四面の大坊が完成、その建設過程を詳細に記された書となっております。

大坊の竣工は大聖人御遷化の僅か一年前であった。大聖人はその大坊の完成を祝いに集った檀信徒の様子を「人のまいる事、洛中かまくらのまちの申酉(さるとり)の時のごとし」と記し、その賑やかさはまるで京や鎌倉の申酉(夕方五時頃)ごろのようであると喜ばれておられます。

しかしこの祝いの日に地主の波木井実長の姿がありませんでした。そのこともあり、当日の夜九時頃、三十人程で「一日経(一日で法華経一部の書写する修行」を実施したが、途中で止めたと記しておられます。其の訳は「御きねん(祈念)かなはずば、言(ことば)のみ有て実なく、華咲いて木の実なからんか<中略>此の事叶はずば、今度法華経にては仏になるまじきかと存じ候はん」と諭されると共に「叶て候はば、二人よりあひまいらせて、供養しはてまいらせ候はん」と励まされておられます。

実長の祈念の内容は不明ですが、何故、実長が大坊が完成したという慶事に参加しなかったのかは、恐らくこの大坊建設に実長は殆ど資金を供養していなかったのではないかと推察されます。大聖人は実長の子息が建設のための地ならし、柱を建てる作業に真面目に参加していたことは「次郎殿等の御きうだち(公達)、をやのをほせ(仰せ)と申し、我が心にいれてをはします事なれば」と記されておられます。また大坊の建設費は「坊はかまくらにては一千貫にても大事とこそ申候へ」と記し、鎌倉では一千貫出しても出来ないだろうと人々が申していると記しておられるが、実長に供養の感謝の言葉は全く記されおりません。

通常、大聖人は供養があった時の返書の消息では、最初に供養の品物の種類、数量を全て細かく記して感謝の意を表されておられます。金額の大小に関わらず、もし実長が大坊建設資金として応分の供養をしていたならば、大聖人は本書で必ずそのことに触れていたはずである。7年間も粗末な草庵で過ごされている状態を見て見ぬふりをしていた実長が、檀徒・信徒が募って供養し建設にこぎつけた大坊の落成祝いの場に、出て来る訳には行かなかったのだろう。大聖人はその実長の不誠実な信仰心を喝破し「此の事叶はずば法華経信じてなにかせん。事事又又申すべく候」と念押しされておられます。

そして大聖人御遷化の後、大聖人の遺言でこの大坊(久遠寺)の当主となった第二祖日興上人に違背することになり、日興上人は断腸の思い出、身延離山を決意、南条時光の招きで霊峰富士山の麓上野郷に広布の拠点を設けることになります。
■ご真筆:身延山久遠寺に存在したが明治八年の大火で焼失。

[地引御書 本文]

坊は十間四面に、またひさし(庇)さしてつくりあげ、二十四日に大師講並に延年、心のごとくつかまりて、二十四日の戌亥(いぬい)の時、御所にすゑ(集会)して、三十余人をもつて一日経かきまいらせ、並に申酉の刻に御供養すこしも事ゆへなし。
坊は地びき、山づくり候ひしに、山に二十四日、一日もかた時も雨ふる事なし。十一月ついたちの日、せうばう(小坊)つくり、馬(ま)やつくる。八日は大坊のはしらだて、九日十日ふ(葺)き候ひ了ぬ。しかるに七日は大雨、八日九日十日はくもりて、しかもあたたかなる事、春の終りのごとし。十一日より十四日までは大雨ふり、大雪下て、今に里にきへず。山は一丈二丈雪こほりて、かたき事かねのごとし。 二十三日四日は又そらはれて、さむからず。人のまいる事、洛中かまくらのまちの申酉の時のごとし。さだめて子細あるべきか。

次郎殿等の御きうだち(公達)、をやのをほせ(仰せ)と申し、我が心にいれてをはします事なれば、われと地をひき、はしらをたて、とうびやうえ(藤兵衛)、むま(右馬)の入道、三郎兵衛の尉等已下の人人、一人もそらく(疎略)のぎなし。
坊はかまくらにては一千貫にても大事とこそ申候へ。
ただし一日経は供養しさして候。其の故は御所念の叶はせ給て候ならば供養しはて候はん。
なにと申して候とも、御きねんかなはずば、言のみ有て実なく、華さいてこのみ(木の実)なからんか。
いまも御らんぜよ。此の事叶はずば、今度法華経にては仏になるまじきかと存じ候はん。
叶て候はば、二人よりあひまいらせて、供養しはてまいらせ候はん。
神なら(習)はすは、ねぎ(祢宜)からと申す。此の事叶はずば法華経信じてなにかせん。事事又又申すべく候。
恐々。

十一月二十五日   日 蓮 花押 
南部六郎殿 

by johsei1129 | 2015-09-21 00:10 | 弟子・信徒その他への消息 | Trackback | Comments(0)
2015年 09月 20日

観心本尊抄文段 下二十  「彼は脱、此は種」の御文に三意を含む。


一 在世の本門と末法の初は一同に(じゅん)(えん)なり

此の下は三に在末の本門の異を判じて流通(るつう)の正体を示し、(かん)(じんの)本尊(ほんぞん)結成(けつじょう)す。文(また)二と為す。初めに一往(いちおう)名同(みょうどう)、次に「但し」の下は再往(さいおう)(たい)()なり。

文に「在世の本門」と云うは、即ち是れ第四の三段、文上脱益(だっちゃく)の本門なり。「末法の()」とは即ち是れ第五の三段、文底下種の正宗、末法の本門なり。

問う、()(しか)らば、(まさ)に「末法の本門」と云うべし。何ぞ「末法の()」と云うや。

答う、末法の始めは即ち是れ()(おん)(がん)(じょ)なり。(あに)本門に(あら)ずや。是れ久末同の(じん)()(あらわ)すなり。

文に「一同に純円」と云うは、是れに人法有り。

(いわ)く、人に約する(とき)は、在世の本門の教主は久遠(じつ)(じょう)の仏にして、()(じょう)正覚(しょうがく)の方便を()びざる故に純円なり。

末法の本門の教主は久遠元初の名字(みょうじ)(ぼん)(しん)にして、色相(しきそう)荘厳(しょうごん)の方便を帯びざる故に純円なり。

又法に約する(とき)は、在世の本門の所説は十界久遠の三千にして、本無(ほんむ)(こん)()の方便を帯びざる故に純円なり。

末法の本門の所説は「不渡(ふと)()(ぎょう)」の妙法にして、(じゅく)(だつ)の方便を帯びざる故に締円なり。故に純円(みょう)(どう)云うなり。

問う、何ぞ此の下を一往と()し、「但し」の下を再往と為すや。

答う、体異を明かさんが(ため)(しばら)く名同を示す故なり。例せば天台(てんだい)(みょう)(らく)の解釈の如し。(げん)(もん)の第二に今昔(こんじゃく)二円の同異(どうい)を明かして云く「()の妙、()の妙、妙の義(こと)なること無し。(ただ)方便を(たい)するか方便を帯せざるかを以て異なりとするのみ」等云云。疏記(しょき)の第三に法華・無量義の同異を示して云く「彼は出水(しゅっすい)の如し、此れは開敷(かいふ)(ごと)し。所以(ゆえ)(すなわ)()(れん)故華(こけ)と為す。(ただ)未開・当開の別あるのみ」等云云。又云く「(ごん)(じつ)名同、義意不同」と。又云く「一家の釈義、名通義別」と。()し此等の文意を(さと)らば、即ち当文の意を知らん。又略要集、之を思い合すべし。

文に「彼は脱、(これ)は種」等と云うは、此の下は次に再往体異、(また)二と為す。初めに能説(のうせつ)の教主、次に所説の法体(ほったい)なり。

(じゅく)(だつ)の文の中に(すで)に五段あり。当文には略すと(いえど)も、其の義を()くに非ず。故に能説の教主に勝劣(しょうれつ)の義を含み、所説の法体に(また)()(どう)始終(しじゅう)を含むなり云云。(しか)るに辰抄(しんしょう)等の意に「本同(ほんどう)(やく)()」と云云。是れ大謗法の濫觴(らんしょう)、種脱混乱の根源なり。

今此の文を釈するに、(しばら)く三段と為す。初めに文相を(つまび)らかにし、次に種脱を詳らかにし、三に本尊を詳らかにするなり。

初めに文相を詳らかにするとは、此の一文に(また)三意を含む。所謂(いわゆる)文義意是れなり。

初めに文の重とは、(まさ)しく在末の本門の(ことな)りを判ずるなり。(いわ)く、在世の本門の教主は色相(しきそう)荘厳(しょうごん)脱益(だっちゃく)の仏なり。故に「彼は脱」と云うなり。末法の本門の教主は名字(みょうじ)(ぼん)(しん)の下種の仏なり。故に「(これ)は種」と云うなり。

又在世の本門の正宗(しょうしゅう)は文上脱益の品二半なり。故に「彼は(いっ)(ぽん)二半」と云うなり。末法の本門の正宗は文底(もんてい)下種の妙法なり。故に「(これ)(ただ)題目の五字」と云うなり。当に知るべし「我等が内証の寿量品とは(だっ)(ちゃく)寿量の文底の本因(ほんにん)(みょう)の事なり」と云云之を思い合すべし。

次に義の重とは、是れ末法流通(るつう)の正体を示すなり。謂く、在世の本門、脱仏(だつぶつ)所説の正宗は是れ在世脱益の(ため)にして、末法下種の法に(あら)ず、故に流通(るつう)の正体と()さず。末法の本門、下種の仏の所説の正宗(しょうしゅう)は正しく末法下種の為なり、故に末法流通の正体と為す。故に「彼は脱(これ)は種」等と云うなり。

三に意の重とは、観心の本尊を結成(けつじょう)するなり。謂く、在世の本門脱益の人法は是れ教相(きょうそう)の本尊にして観心の本尊に非ず、故に末法の本尊と為さず。末法の本門下種の人法は(まさ)しく是れ観心の本尊なり、故に末法下種の本尊と為すなり。故に「彼は(だつ)、此は種」等と云うなり。

学者(まさ)に知るべし、略釈の中に「此の本門の肝心(かんじん)」と云うは、略して熟脱の本尊を(えら)ぶなり。迹門三段の中に「()(じょう)正覚(しょうがく)の仏・本無(ほんむ)(こん)()の百界千如を説いて」と云うは、是れ熟益(じゅくやく)の本尊を簡ぶ所以(ゆえん)なり。本門三段の中に「念三千(ほとん)(ちく)(まく)(へだ)つ」と云うは、是れ脱益の本尊を(えら)ぶ所以なり。今「彼」「此」と云うは、正しく文上脱益、迹門・理の一念三千の教相の本尊を(えら)んで、文底(もんてい)下種の本門・事の一念三千の観心の本尊を(あらわ)すなり。御相伝の文の釈、略して題の下に是れを引くが如し云云。又問答の起尽(きじん)之を思い合すべし。(あに)前代未聞の本尊に非ずや。

                        つづく





by johsei1129 | 2015-09-20 06:31 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
2015年 09月 19日

十方三世の諸仏の怨敵なれども法華経の一句を信じぬれば諸仏捨て給う事なしと説いた 【治 部房御返事】

【治部房御返事】
■出筆時期:弘安四年(1281年)八月二十二日 六十歳御作
■出筆場所:身延山中の草庵にて。
■出筆の経緯:本書を送られた治部房は南条時光の縁戚・南条平七郎の子息で、駿河在住の弟子日位とされております。
治部房は日興上人が記された「宗祖御遷化記」にも大聖人の御棺を担がれた弟子の一人として加わっており、『墓所可守番帳事』にも名を連ねておられます。※参照【 宗祖御遷化記録】
しかし日興上人が残された『弟子分本尊目録』には、「一、駿河國四十九院の住治部房は、蓮華闍梨(日持)の弟子也。仍て日興之を申し与う、但し聖人御滅後に背き了(おわん)ぬ」と記されており、残念ながら大聖人御遷化後は日興上人に違背されております。

本書で大聖人は「されば我等は過去遠遠劫より菩提をねがひしに<中略>すでに仏になり近づきし時は、一乗妙法蓮華経と申す御経に値いまいらせ候いし時は、第六天の魔王と申す三界の主をはします」と記し「菩提を願って修行し、その果報で一乗妙法蓮華経に縁した時は、必ず第六天の魔王が出現する」と戒められておられます。
恐らく大聖人は、弟子治部房の法華経信仰にいささかの懸念を持たれていたのではないかと推察されます。文中で大聖人は、他の消息では見られないほど数多く法華経の文を引用し、まるで「これでもわからぬのか」と言わんばかりの迫力を感じます。
さらに文末では「法華経のかたきとなる人をば父母なれども殺しぬれば大罪還つて大善根となり候。設い十方三世の諸仏の怨敵なれども、法華経の一句を信じぬれば諸仏捨て給う事なし」と治部房に止めを刺されておられます。

しかし大聖人の厳しくも慈愛溢れる「防非止悪(非道を防ぎ悪行を止める」の指導にも関わらず、治部房は大聖人が御遷化なされると「日蓮一期の弘法」を附属された日興上人に違背されたのは、まことに残念でなりません。

■ご真筆:現存しておりません。
[治部房御返事 本文]

白米一斗・茗荷(みょうが)の子・はじかみ一つと送り給び候い畢んぬ。
仏には春の花秋の紅葉・夏の清水・冬の雪を進(まい)らせて候人人皆仏に成らせ給ふ、況や上一人は寿命を持たせ給ひ下万民は珠よりも重くし候稲米(よね)を法華経にまいらせ給う人・争か仏に成らざるべき。其の上世間に人の大事とする事は主君と父母との仰せなり、父母の仰せを背けば不孝の罪に堕ちて天に捨てられ、国主の仰せを用いざれば違勅の者と成りて命をめさる。

されば我等は過去遠遠劫より菩提をねがひしに、或は国をすて或は妻子をすて或は身をすてなんどして、後生菩提をねがひし程に、すでに仏になり近づきし時は、一乗妙法蓮華経と申す御経に値いまいらせ候いし時は、第六天の魔王と申す・三界の主・をはします。

すでに此のもの仏にならんとするに二の失あり、一には此のもの三界を出ずるならば我が所従の義をはなれなん、二には此のもの仏になるならば此のものが父母・兄弟等も又娑婆世界を引き越しなん、いかがせんとて身を種種に分けて・或は父母につき・或は国主につき、或は貴き僧となり、或は悪を勧め・或はおどし・或はすかし、或は高僧或は大僧或は智者或は持斎等に成りて或は華厳或は阿含或は念仏或は真言等を以て法華経にすすめかへて・仏になさじとたばかり候なり。

法華経第五の巻には末法に入りては大鬼神・第一には国王・大臣・万民の身に入りて法華経の行者を或は罵(の)り或は打ち切りて、それに叶はずんば無量無辺の僧と現じて一切経を引いてすかすべし、それに叶はずんば二百五十戒・三千の威儀を備へたる大僧と成りて国主をすかし国母をたぼらかして、或はながし或はころしなんどすべしと説かれて候。

又七の巻の不軽品・又四の巻の法師品・或は又二の巻の譬喩品、或は涅槃経四十巻・或は守護経等に委細に見へて候が、当時の世間に少しもたがひ候はぬ上、駿河の国賀島の荘(しょう)は殊に目の前に身にあたらせ給いて覚へさせ給い候らん。

他事には似候はず、父母・国主等の法華経を御制止候を用い候はねば還つて父母の孝養となり国主の祈りとなり候ぞ、其の上日本国はいみじき国にて候・神を敬ひ仏を崇むる国なり、而れども日蓮が法華経を弘通し候を上一人より下万民に至るまで御あだみ候故に、一切の神を敬ひ一切の仏を御供養候へども其の功徳還つて大悪となり、やいと(灸治)の還つて悪瘡(あくそう)となるが如く薬の還つて毒となるが如し、一切の仏神等に祈り給ふ御祈りは還つて科と成りて此の国既に他国の財と成り候。

又大なる人人皆平家の亡びしが様に百千万億すぎての御歎きたるべきよし、兼てより人人に申し聞せ候畢んぬ。

又法華経をあだむ人の科にあたる分斉をもつて還つて功徳となる分斉をも知らせ給うべし。例せば父母を殺す人は何なる大善根をなせども天・是を受け給う事なし、又法華経のかたきとなる人をば父母なれども殺しぬれば大罪還つて大善根となり候、設い十方三世の諸仏の怨敵なれども法華経の一句を信じぬれば諸仏捨て給う事なし、是を以て推せさせ給へ、御使いそぎ候へば委しくは申さず候、又又申すべく候、恐恐謹言。

八月二十二日    日 蓮花押

治部房御返事

by johsei1129 | 2015-09-19 19:34 | 弟子・信徒その他への消息 | Trackback | Comments(0)
2015年 09月 18日

貴辺と日蓮とは師檀の一分なり<略>後生は必ず仏国に居せん、と説いた【曾谷二郎入道殿御報】

【曾谷二郎入道殿御報】
■出筆時期:弘安四年(1281年)閏(うるう)七月一日 六十歳御作
■出筆場所:身延山中の草庵にて。
■出筆の経緯:本抄は冒頭に「去る七月十九日の消息同卅日到来す」と記されておられるように、曾谷入道から大聖人へ手紙が届き、それへの返書となっております。
大聖人が本抄を記されたのが閏七月一日になっておりますが、この当時は太陰暦で1年が約354日となるため、3年に一度閏月をいれて1年を365日に調整しておりました。そのため七月の後の閏七月となるため、曾谷入道の手紙が到着した翌日に返書をしたためておられ、緊急性があったことが伺えます。

曾谷入道の手紙の内容は、この時期弘安の役で九州では蒙古との戦乱が三ヶ月目に入り鎌倉からも兵を派遣せざる得なくなり、曾谷氏も幕府の意向で出征することになった事の報告と思われます。

大聖人は日本が蒙古襲来という事態に陥ったことについて「疑つて云く日本国の一切衆生の中に或は善人或は悪人あり<中略>何ぞ一業と云うや、答えて云く夫れ小善・小悪は異なりと雖も法華経の誹謗に於ては善人・悪人・智者・愚者倶に妨げ之れ無し、是の故に同じく入阿鼻獄と云うなり」と記し、たとえ善人であろうとも法華経を誹謗するぱ皆一同に入阿鼻となると断じられておられます。

その上で文末では「爰(ここ)に貴辺と日蓮とは師檀の一分なり、然りと雖も有漏(うろ)の依身(えしん)は国主に随うが故に此の難に値わんと欲するか感涙押え難し。何れの代にか対面を遂げんや唯一心に霊山浄土を期せらる可きか、設い身は此の難に値うとも心は仏心に同じ今生は修羅道に交わるとも後生は必ず仏国に居せん」と記し、貴方と日蓮は師と檀那の間柄であり、たとえ国主に随うが故に此の難に遭われ修羅道に交わったとしても「後生は必ず仏国に居せん」と諭されておられます。

尚、弘安の役は、本抄を記された前夜(七月三十日)の台風で蒙古の船団は大破し、残された蒙古軍は本国へ撤退、幸運にも鎌倉幕府の勝利となり、曾谷氏も九州に派遣されることはなかったようです。

蒙古襲来は、大聖人の三度の国家諌暁もあり、また当時の執権北条時宗が自身は法華経に帰依することはなかったが、佐渡流罪を赦免し、大聖人に大寺院の建立を持ちかけるなど事実上法華経の流布を公認し、また厳然と聖人(末法の本仏)が所を辞することなく日本に存在していたことで最悪の事態を免ることができた。

しかし本抄で示された大聖人の金言は、664年後の太平洋戦争の敗北で現実ものとなります。
当時の東条英機軍事政権は、法華経はおろか仏教全体を国家神道の配下に置き、国内を統治し戦争に打って出た。しかしこの当時の日本に決然と国家諌暁をする大聖人門下の檀信徒はおらず、また聖人も所を辞したのか見当たらなかった。まさに本抄の大聖人の金言「小善・小悪は異なりと雖も法華経の誹謗に於ては善人・悪人・智者・愚者倶に妨げ之れ無し、是の故に同じく入阿鼻獄(にゅうあびごく)と云うなり」そのものとなった。
私も大聖人から「貴辺と日蓮とは師檀の一分なり」と称えられるように、本抄で示された大聖人のご金言を日々実践したいと思います。
■ご真筆:現存しておりません。古写本:日興上人筆(北山本門寺蔵)。

[曾谷二郎入道殿御報 本文]

去(いぬ)る七月(ふみづき)十九日の消息同卅日到来す、世間の事は且(しば)らく之を置く専ら仏法に逆うこと、法華経の第二に云く「其人命終入阿鼻獄」等云云、問うて云く其の人とは何等の人を指すや、答えて云く次上に云く「唯我一人・能為救護・雖復教詔・而不信受」と、又云く「若人不信」と、又云く「或復顰蹙(わくぶひんしゅく)」又云く「見有読誦書持経者・軽賤憎嫉(きょうせんぞうしつ)・而懐結恨(にえけっこん)」と、又第五に云く「生疑不信者・即当堕悪道」と、第八に云く「若有人軽毀之言・汝狂人耳・空作是行終無所獲」等云云、其人とは此れ等の人人を指すなり、彼の震旦国の天台大師は南北十師等を指すなり、此の日本国の伝教大師は六宗の人人と定めたるなり、今日蓮は弘法・慈覚・智証等の三大師・並びに三階・道綽・善導等を指して其の人と云うなり、入阿鼻獄とは涅槃経第十九に云く「仮使い一人独り是の獄に堕ち其の身長大にして八万由延なり、其の中間に遍満して空しき処無し、其の身周匝(しゅうそう)して種種の苦を受く設い多人有つて身亦遍満すとも相い妨碍(ぼうげ)せず」同三十六に云く「沈没して阿鼻地獄に在つて受くる所の身形・縦広(じゅうこう)八万四千由旬ならん」等云云、普賢経に云く「方等経を謗ずる是の大悪報悪道に堕つべきこと暴雨にも過ぎ必定(ひつじょう)して当に阿鼻地獄に堕つべし」等とは阿鼻獄に入る文なり。

日蓮云く夫れ日本国は道は七・国は六十八箇国・郡は六百四・郷は一万余・長さは三千五百八十七里・人数は四十五億八万九千六百五十九人・或は云く四十九億九万四千八百二十八人なり、寺は一万一千三十七所・社は三千一百三十二社なり、今法華経の入阿鼻獄とは此れ等の人人を指すなり、問うて云く衆生に於て悪人・善人の二類有り、生処も又善悪の二道有る可し、何ぞ日本国の一切衆生一同に入阿鼻獄の者と定むるや、答えて云く人数多しと雖も業を造ること是れ一なり、故に同じく阿鼻獄と定むるなり。

疑つて云く日本国の一切衆生の中に或は善人或は悪人あり善人とは五戒・十戒・乃至二百五十戒等なり、悪人とは殺生(せっしょう)・偸盗(ちゅうとう)・乃至五逆・十悪等是なり、何ぞ一業と云うや、答えて云く夫れ小善・小悪は異なりと雖も法華経の誹謗に於ては善人・悪人・智者・愚者倶に妨げ之れ無し是の故に同じく入阿鼻獄と云うなり。

問うて云く何を以てか日本国の一切衆生を一同に法華誹謗の者と言うや、答えて云く日本国の一切衆生衆多なりと雖も四十五億八万九千六百五十九人に過ぎず、此等の人人・貴賤上下の勝劣有りと雖も是(か)くの如きの人人の憑(たの)む所は唯三大師に在り師とする所・三大師を離る事無し、余残の者有りと雖も信行・善導等の家を出ず可らざるなり。

問うて云く三大師とは誰人ぞや、答えて曰く弘法・慈覚・智証の三大師なり、疑つて云く此の三大師は何なる重科有るに依つて日本国の一切衆生を経文の其の人の内に入るや、答えて云く此の三大師は大小乗持戒の人・面には八万の威儀を備え或は三千等之を具す顕密兼学の智者なり、然れば則ち日本国四百余年の間・上一人より下万民に至るまで之を仰ぐこと日月の如く之を尊むこと世尊の如し、猶徳の高きこと須弥(しゅみ)にも超え智慧の深きことは蒼海(そうかい)にも過ぎたるが如し、但恨むらくは法華経を大日真言経に相対して勝劣を判ずる時は或は戯論(けろん)の法と云い或は第二・第三と云い或は教主を無明(むみょう)の辺域と名け或は行者をば盗人と名く、彼の大荘厳仏(だいしょうごんぶつ)の末の六百四万億那由佗(なゆた)の四衆の如き各各の業因異りと雖も師の苦岸(くがん)等の四人と倶(とも)に同じく無間地獄に入りぬ、又師子音王仏(おんのうぶつ)の末法の無量無辺の弟子等の中にも貴賤の異有りと雖も同じく勝意(しょうい)が弟子と為るが故に一同に阿鼻大城に堕ちぬ、今日本国亦復是くの如し。

去る延暦弘仁年中・伝教大師・六宗の弟子檀那等を呵責(かしゃく)する語に云く「其の師の堕つる所・弟子亦堕つ弟子の堕つる所・檀越亦堕つ金口の明説慎まざる可(べ)けんや慎まざる可けんや」等云云、疑つて云く汝が分斉(ぶんざい)・何を以て三大師を破するや、答えて云く予は敢て彼の三大師を破せざるなり、問うて云く汝が上の義は如何、答えて云く月氏より漢土・本朝に渡る所の経論は五千七十余巻なり、予粗之を見るに弘法・慈覚・智証に於ては世間の科は且く之を置く仏法に入つては謗法第一の人人と申すなり、大乗を誹謗する者は箭(や)を射るより早く地獄に堕すとは如来の金言なり将又謗法罪の深重は弘法・慈覚等・一同定め給い畢んぬ、人の語は且く之を置く釈迦・多宝の二仏の金言・虚妄ならずんば弘法・慈覚・智証に於ては定めて無間大城に入り、十方分身の諸仏の舌堕落せずんば日本国中の四十五億八万九千六百五十九人の一切衆生は彼の苦岸等の弟子檀那等の如く阿鼻地獄に堕ちて熱鉄の上に於て仰ぎ臥して九百万億歳・伏臥(ふくが)して九百万億歳・左脇(さきょう)に臥して九百万億歳・右脇に臥して九百万億歳是くの如く熱鉄の上に在つて三千六百万億歳なり、然して後・此の阿鼻より転じて他方に生れて大地獄に在りて無数百千万億那由佗歳・大苦悩を受けん、彼は小乗経を以て権大乗を破せしも罪を受くること是くの如し、況や今三大師は未顕真実の経を以て三世の仏陀の本懐の説を破するのみに非ず剰(あまつ)さえ一切衆生成仏の道を失う深重の罪は過・現・未来の諸仏も争(いかで)か之を窮(きわ)むべけんや争か之を救う可けんや。

法華経の第四に云く「已説今説当説・而於其中・此法華経・最為難信難解」又云く「最在其上」並に「薬王十喩」等云云、他経に於ては華厳・方等・般若・深密・大雲・密厳・金光明経等の諸教の中に経経の勝劣之を説くと雖も或は小乗経に対して此の経を第一と曰い或は真俗二諦に対して中道を第一と曰い或は印・真言等を説くを以て第一と為す、此等の説有りと雖も全く已今当の第一に非ざるなり、然而(しか)るに末の論師・人師等謬執(みょうしゅう)の年積り門徒又繁多なり。

爰に日蓮彼の依経に無きの由を責むる間・弥(いよい)よ瞋恚(しんに)を懐(いだ)いて是非を糺明(きゅうめい)せず唯大妄語を構えて国主・国人等を誑惑(おうわく)し日蓮を損ぜんと欲す衆千の難を蒙らしむるのみに非ず両度の流罪剰え頚(くび)の座に及ぶ是なり、此等の大難忍び難き事・不軽の杖木にも過ぎ将又勧持の刀杖にも越えたり、又法師品の如きは「末代に法華経を弘通(ぐつう)せん者は如来の使なり・此の人を軽賤するの輩の罪は教主釈尊を一中劫蔑如(べつじょ)するに過ぎたり」等云云、今日本国には提婆達多(だいばだった)・大慢婆羅門等が如く無間地獄に堕つ可き罪人・国中・三千五百八十七里の間に満つる所の四十五億八万九千六百五十九人の衆生之れ有り、彼の提婆・大慢等の無極の重罪を此の日本国四十五億八万九千六百五十九人に対せば軽罪中の軽罪なり、問う其の理如何、答う彼等は悪人為りと雖も全く法華を誹謗する者には非ざるなり又提婆達多は恒河(ごうが)第二の人にして第三の一闡提(いっせんだい)なり、今日本国四十五億八万九千六百五十九人は皆恒河第一の罪人なり然れば則ち提婆が三逆罪は軽毛の如し日本国の上に挙ぐる所の人人の重罪は猶大石の如し定めて梵釈も日本国を捨て同生同名も国中の人を離れ天照太神・八幡大菩薩も争か此の国を守護せん。

去る治承等の八十一・二・三・四・五代の五人の大王と頼朝・義時と此の国を御諍い有つて天子と民との合戦なり、猶鷹駿(ようしゅん)と金鳥(こんちょう)との勝負の如くなれば天子・頼朝等に勝たんこと必定なり決定なり、然りと雖も五人の大王は負け畢(おわ)んぬ、兎・師子王に勝ちしなり、負くるのみに非ず剰え或は蒼海に沈み或は島島に放たれ、誹謗法華未だ年歳を積まざる時・猶以て是くの如し、今度は彼に似る可らず彼は但国中の災い許りなり、其の故は粗之を見るに蒙古の牒状(ちょうじょう)已前に去る正嘉(しょうか)・文永等の大地震・大彗星の告げに依つて再三之を奏すと雖も国主敢て信用無し、然るに日蓮が勘文粗仏意(ほぼ・ぶっち)に叶うかの故に此の合戦既に興盛なり、此の国の人人・今生には一同に修羅道に堕し後生には皆阿鼻大城に入らん事疑い無き者なり。

爰に貴辺と日蓮とは師檀の一分なり、然りと雖も有漏の依身は国主に随うが故に此の難に値わんと欲するか感涙(かんるい)押え難し、何れの代(よ)にか対面を遂げんや唯一心に霊山浄土を期せらる可きか、設い身は此の難に値うとも心は仏心に同じ今生は修羅道に交わるとも後生は必ず仏国に居せん、恐恐謹言。

弘安四年閏七月一日       日 蓮 花押
曾谷二郎入道殿御返事

by johsei1129 | 2015-09-18 20:38 | 曾谷入道 | Trackback | Comments(0)
2015年 09月 18日

関心本尊抄文段 下一九  文底下種の三段は三世の諸仏の微塵(みじん)の経々一塵(いちじん)も余すことなく、十方法界の仏法の露一滴も漏もらさず、皆咸(ことごと)く文底下種の序・流通なり。


文に云う「本門は序正流通(るつう)(とも)に末法の始を以て(せん)と為す」等とは、

問う、(いま)流通段に属する所の本門とは、文底下種の本門とせんや、文上脱益(だっちゃく)の本門とせんや。()し文底下種の本門と云わば、即ち是れ第五の三段の正宗(しょうしゅう)なり。何ぞ流通と云わん。若し文上の脱益の本門と云わば即ち是れ在世脱益の為なり。何ぞ末法を(せん)と為すと云わんや。

答う、文上脱益の本門に(また)二意あり。には脱益当分、二には種家の脱益なり。今は種家の脱益の本門を以て流通(るつう)段に属するなり。迹門の中に例して(まさ)此の義を(りょう)すべし。種本脱迹、是れを思い合すべし。

血脈抄に云く「下種の仏は(てん)(げつ)脱仏(だつぶつ)()(げつ)」等云云。(まさ)に知るべし、文底下種の本門は天月の如し。即ち是れ第五の三段の正宗(しょうしゅう)なり。文上脱益(だっちゃく)の本門は()(げつ)の如し。(けだ)し脱益の当分は「不識(ふしき)(てん)(げつ)(たん)(かん)()(げつ)」なり。若し種家の脱益は「従本(じゅうほん)垂迹(すいじゃく)如月(にょげつ)現水(げんすい)」なり。学者()(よろ)しく是れを思うべし。

(しか)れは(すなわ)ち迹本二門通じて流通(るつう)に属すること、明文(みょうもん)白義(あたか)日月(にちがつ)の如し。(しか)るに日忠抄に云く「三世(とも)に上行付属の辺を流通に属す」云云。又破決の第四に云く「常の如く十一品半を流通段と()す」云云。並びに是れ文外の推度(すいたく)なり。又日我抄に云く「一品二半の寿量の序正の時は流通の沙汰(さた)之無し。脱益の寿量品は在世正宗(しょうしゅう)にて終るが故なり」等云云。

(いわ)わく、(すで)に「又本門に於て序正流通有り」と云う。何ぞ「流通の沙汰之無し」と云わんや。標の文既に(しか)なり、釈の段(また)然るべし。何ぞ流通を欠かんや。(いわん)(また)脱益の寿量は在世の正宗に終ると(いえど)も、内証の寿量は(まった)く末法の(ため)なり。如何(いかん)ぞ内証の寿量の流通段を明かさざらんや。況や(にち)()の義は流れ有って(みなもと)無きに似たり。学者之を思え。

亦復(まさ)に知るべし、文底下種の三段とは、正宗は(さき)の如く久遠(くおん)元初(がんじょ)(ゆい)(みつ)の正法を以て正宗と為す。総じて代五十余年の諸経、十方三世の微塵(みじん)の経々、並びに八宗の章疏(しょうじょ)を以て、(あるい)は序分に属し、或は流通に属す。謂く、彼の体外(たいげ)の辺は以て序分と()し、彼の体内の辺は以て流通に属するなり。其の証は如何(いかん)。謂く、序分は前の如し。

若し流通の意は、宗祖云く「此の大法を弘通(ぐつう)せしむるの法には必ず代の聖教を安置し八宗の章疏(しょうじょ)を習学すべし」等云云。即ち此の文の意なり。

故に知んぬ、今は(ただ)迹本二門を用いて流通(るつう)するは(なお)是れ文略なり。(すなわ)ち知んぬ、今此の三段は三世の諸仏の微塵(みじん)の経々(いち)(じん)も余すことなく、十方法界の仏法の露(いっ)(てき)()らさず、皆(ことごと)く文底下種の序・流通なり。()くの如き法相(ほっそう)(あに)前代未聞(みもん)に非ずや。古来(こらい)の学者、(いま)此の旨を(りょう)せざるなり。

            つづく

文段下 目次



by johsei1129 | 2015-09-18 07:24 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
2015年 09月 18日

観心本尊抄文段 下一八

一 本門を以て(これ)を論ずれば等

此の下は次に本門なり。血脈抄(しゅ)二十に云く「後の十四品皆流通(るつう)の本迹。本果(ほんが)(みょう)の釈尊本因(ほんにん)妙の上行菩薩を召し(いだ)す事は一向(いっこう)に滅後末法利益の(ため)なり、(しか)る間・日蓮修行の時は、後の十四品(みな)滅後の流通分なり」等云云。

本門(また)二と為す。初めに正釈、次に引証(いんしょう)。初めの正釈、三と為す。初めに(ひょう)、次に「所謂」の下は釈、三に「在世の本門」の下云云。

初めの標の文に「一向(いっこう)」等と云うは、(けだ)し迹門は通じて滅後の為、別して末法の為なり。本門は(しか)らず、向に末法の初めを以て正と為すなり。

次に「所謂」の下は釈、亦二と為す。初めに一往(いちおう)在世の正宗を示し、次に再往末法の流通(るつう)を示す。

初めの文に云く「()(しゅ)を以て下種と為し、大通・(ぜん)四味(しみ)・迹門を(じゅく)と為し、本門に至って等妙に(のぼ)らしむるを脱と()す」(取意)とは、

問う、此の文は一類に約すとせんや、総じて一切に(わた)るとせんや。

答う、(まさ)しく是れ切に亘るなり。其の故は本門を以て(すで)に両意と為す。往在世の(ため)、再往末法の為云云。(あに)(ただ)類のみを()げて之を判ずべけんや。(いわん)や迹門の往既に切に亘る、本門の(あに)(しか)らざらんや。故に下の文に「病(ことごと)(のぞ)こり()えぬ」の文を引いて云く「久遠下種・大通結縁(けちえん)乃至(ないし)前四味・迹門等の一切の菩薩・二乗・人天等の本門に於て得道する是なり」云云。即ち此の文に同じ。(あに)切に亘るに(あら)ずや。

問う、今日の二乗等は是れ大通下種・迹門(とく)(だつ)の人なり。何ぞ大通・迹門を以て熟益(じゅくやく)に属すべけんや。故に知んぬ、今文は(まさ)類に約すべし。故に(にっ)(ちょう)決疑(けつぎ)抄の意は、此の文を以て四節の中の第節、本種現脱の類と為すなり。如何(いかん)

答う、二乗等は是れ大通下種迹門得脱とは、是れ天台(てんだい)の第二、今家の第教相(きょうそう)の意なり。此れは是れ一往(いちおう)なり。若し天台の第三、今家の第二の教相の意は、()の二乗等も実に是れ久遠下種の人なり。故に大通を以て(なお)熟益(じゅくやく)に属するなり。(また)迹門得脱とは、(ただ)是れ当分の得脱にして()(せつ)の得脱に非ず。此れ即ち久遠(くおん)下種を明かさざる故なり。故に迹門を以て(なお)熟益に属するなり。日(なお)天台の教相を知らず、(いわん)や当家の教相を知らんや。(いわん)や四節の中の第一節は序品得脱の人なり。故に「今日(こんにち)雨華(うけ)動地(どうち)」等と云う。何ぞ本門得脱の人とせんや。澄、尚台家(たいけ)に暗し、況や当家を(さと)らんや。

問う、今日(こんにち)の本門に妙覚の益なし、何ぞ「等妙」と云うや。

答う、文上の所談は実に所問の如し。若し文底の意は、(みな)名字妙覚の位に至るが故なり。取要抄愚記の如し云云。

文に云う「再往之を見れば」等とは、此の下は次に再往末法流通(るつう)を明かすなり。

「迹門には似ず」とは、若し迹門の意は流通段より立ち(かえ)って之を見れば末法の(ため)なり。本門は(しか)らず。始め序分より(ただ)ちに末法の為なり。故に「似ず」と云うなり。仏の本化を()すは、(あに)末法の為に非ずや。

                 つづく
文段下 目次




by johsei1129 | 2015-09-18 07:23 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
2015年 09月 17日

齢既に六十に満ぬ<略>今年は過ぎ候とも一二をば如何か過ぎ候べきと自らの死期を示唆した【八幡宮造営事】

【八幡宮造営事】
■出筆時期:弘安四年(1281年)五月二十六日 六十歳御作
■出筆場所:身延山中の草庵にて。
■出筆の経緯:本抄は、鎌倉幕府作事奉行(建築・土木部門の長官)であった父の家督を継いた池上兄弟が、讒言により半年前の鎌倉の大火で焼失した八幡宮の再建の造営の任から外されたとの報告を受けたことへの返書となっております。
大聖人は冒頭で自身の病状が思わしくなく「齢既に六十にみちぬ、たとひ十に一今年はすぎ候とも一二をばいかでかすぎ候べき」と、例え今年は生き長らえたとしても、そのあと一、二年を過ごすことはできないだろうと、自らの死期を示唆されておられます。釈尊も三ヶ月後には滅度すると弟子に語っており、これは突然なくなって弟子・信徒が嘆くのを和らげるため、覚悟をしておくよう促された仏の深い慈悲であると拝します。
その苦しい中で「此の事大事なれば苦を忍んで申すものうしとおぼすらん一篇きこしめすべし」と、この消息を送ることの重要さを伝えておられます。

本書で大聖人は、池上兄弟が八幡宮造営の任を外されたことについて「かかる者(日蓮)の弟子檀那と成りて候が八幡宮を造りて候へども八幡大菩薩用いさせ給はぬゆへに此の国はせめらるるなりと申さむ時はいかがすべき<中略>(御造営の)はづるるも天の御計いか」と記し、蒙古に攻められた時世間の人々は、大聖人の弟子檀那が建てたからだと非難されたらどうするか、これは天の御計と考えなさい」と諭されておられます。

また文末では「あだみうらむる気色なくて身をやつし、下人をもぐせずよき馬にものらず<中略>此の事一事もたがへさせ給うならば今生には身をほろぼし後生には悪道に堕ち給うべし、返す返す法華経うらみさせ給う事なかれ」と、この度の事を恨むことなく、良い馬に乗らず質素に暮らすよう語りかけるとともに、日蓮の教えに一つでも違うなら、必ず悪道に落ちるのでその時は法華経を恨むでないと厳しく指導されておられます。
■ご真筆:現存しておりません。

[八幡宮造営事出家功徳御書 本文]

此の法門申し候事すでに廿九年なり、日日の論義月月の難両度の流罪に身つかれ心いたみ候いし故にや此の七八年間が間年年に衰病をこり候いつれどもなのめにて候いつるが、今年は正月より其の気分出来して既に一期をわりになりぬべし、其の上齢(よわい)既に六十にみちぬ、たとひ十に一今年はすぎ候とも一二をばいかでかすぎ候べき。
忠言は耳に逆い、良薬は口に苦(にが)しとは先賢の言なりやせ病の者は命をきらう佞人(ねいじん)は諌(いさめ)を用いずと申すなり。

此の程は上下の人人の御返事申す事なし、心もものうく手もたゆき故なり、しかりと申せども此の事大事なれば苦を忍んで申す、ものうしとおぼすらん一篇きこしめすべし、村上天皇の前(さきの)中書王の書を投げ給いしがごとくなることなかれ。

さては八幡宮の御造営につきて一定(いちじょう)さむそう(讒奏)や有らんずらむと疑いまいらせ候なり、をや(親)と云ひ我が身と申し二代が間きみにめしつかはれ奉りてあくまで御恩のみなり、設(たとい)一事相違すともなむのあらみ(粗略)かあるべき、わがみ賢人ならば設上(たとい・かみ)よりつかまつるべきよし仰せ下さるるとも一往はなに事につけても辞退すべき事ぞかし、幸に讒臣(ざんしん)等がことを左右によせば悦んでこそあるべきに望まるる事一の失(とが)なり。

此れはさてをきぬ五戒を先生に持ちて今生に人身を得たり、されば云うに甲斐なき者なれども国主等謂(いわれ)なく失にあつれば守護の天いかりをなし給う、況や命をうばわるる事は天の放ち給うなり、いわうや日本国四十五億八万九千六百五十九人の男女をば四十五億八万九千六百五十九の天まほり給うらん、然るに他国よりせめ来る大難は脱るべしとも見え候はぬは、四十五億八万九千六百五十九人の人人の天にも捨てられ給う上、六欲四禅梵釈日月四天等にも放たれまいらせ給うにこそ候いぬれ、然るに日本国の国主等八幡大菩薩をあがめ奉りなばなに事のあるべきと思はるるが、八幡は又自力叶いがたければ宝殿を焼きてかくれさせ給うか、然るに自(みずから)の大科をばかへりみず宝殿を造りてまほらせまいらせむとおもへり。

日本国の四十五億八万九千六百五十九人の一切衆生が釈迦多宝十方分身の諸仏・地涌と娑婆と他方との諸大士十方世界の梵釈日月四天に捨てられまひらせん分斉の事ならば、はづ(僅)かなる日本国の小神天照太神八幡大菩薩の力及び給うべしや。

其の時八幡宮はつくりたりとも此の国他国にやぶられば、くぼきところにちりたまり、ひききところに水あつまると、日本国の上一人より下万民にいたるまでさた(沙汰)せむ事は兼て又知れり、八幡大菩薩は本地は阿弥陀ほとけにまします、衛門(えもん)の大夫は念仏無間地獄と申す、阿弥陀仏をば火に入れ水に入れ其の堂をやきはらひ念仏者のくびを切れと申す者なり。かかる者の弟子檀那と成りて候が八幡宮を造りて候へども八幡大菩薩用いさせ給はぬゆへに此の国はせめらるるなりと申さむ時はいかがすべき。
然るに天かねて此の事をしろしめすゆへに御造営の大ばんしやうをはづされたるにやあるらむ神宮寺の事のはづるるも天の御計(はから)いか。

其の故は、去ぬる文永十一年四月十二日に大風ふきて其の年の他国よりおそひ来るべき前相なり、風は是れ天地の使なりまつり事あらければ、風あらしと申すは是なり。又今年四月廿八日を迎えて此の風ふき来る。而るに四月廿六日は八幡のむね上(あげ)と承はる、三日の内の大風は疑なかるべし、蒙古の使者の貴辺が八幡宮を造りて此の風ふきたらむに人わらひさた(沙汰)せざるべしや。

返す返す穏便にして、あだみうらむる気色なくて身をやつし下人をもぐせずよき馬にものらず、のこぎりかなづち手にもちこし(腰)につけて、つねにえ(咲)めるすがたてにておわすべし。
此の事一事もたがへさせ給うならば今生には身をほろぼし後生には悪道に堕(お)ち給うべし、返す返す法華経うらみさせ給う事なかれ、恐恐。

五月廿六日         日 蓮 花押

大夫志殿
兵衛志殿

by johsei1129 | 2015-09-17 20:11 | 池上兄弟 | Trackback | Comments(0)
2015年 09月 16日

Gosho 御義口伝(就註法華経口伝)上 Orally Transmitted teachings on the Lotus Sutra Part 1


諸法の心とは妙法蓮華経なり

The heart or core of all phenomena is Myoho-renge-kyo.


伝教云く
「法華経を()むると(いえど)(かえ)つて法華の心を(ころ)す」と、

The Great Teacher Dengyō says, “Though he praises the Lotus Sutra, in fact he kills the heart of the Lotus.”

死の字に心を留めて之を案ず可し。

You should let your mind dwell in particular on the word “ kill."

所詮日蓮等の(たぐ)いを以て如是我聞(にょぜがもん)の者と云う可きなり云云。

In effect, then, Nichiren and his followers are persons to whom the phrase “This is what I heard” may apply.



          つづく next


【本文】  目次 Index



by johsei1129 | 2015-09-16 21:13 | WRITING OF NICHIREN | Trackback | Comments(0)
2015年 09月 16日

僧も俗も尼も女も一句をも人に語らん人は如来の使と見えたり、と説いた【椎地四郎殿御書】

【椎地四郎殿御書】
■出筆時期:弘安四年(1281年)四月二十八日 六十歳御作
■出筆場所:身延山中の草庵にて。
■出筆の経緯:本書は鎌倉武士と思われる椎地四郎に宛てられた消息です。椎地四郎の詳細は不明ですが、四条金吾及び富木常忍への消息に椎地四郎の名が出てきますので、この二人とはかなり親密な交流があったものと思われます。※参照[富城入道殿御返事]

本書冒頭で大聖人は「先日御物語の事について彼の人の方へ相尋ね候いし処、仰せ候いしが如く少しもちがはず候いき、これにつけても・いよいよ・はげまして法華経の功徳を得給うべし。師曠(しこう)が耳・離婁(りろう)が眼のやうに聞見させ給へ」と記されておられますが、本書を記した時期は弘安の役(弘安4年5月21)の直前で、恐らく鎌倉幕府の動向について大聖人に報告された内容が「少しも違わずその通りであった」と褒め称える文となっております。尚、文中の「師曠が耳・離婁が眼」についてですが、師曠・離婁は、聴覚・視覚に優れた中国古代の伝説の人物で、大聖人は椎地四郎に、今後も師曠・離婁の耳と目で調査し幕府の動向を報告してくれるよう励まされたと拝されます。 
 
さらに「大難なくば法華経の行者にはあらじ<中略>法華経の法門を一文一句なりとも人にかた(語)らんは過去の宿縁ふかしとおぼしめすべし」と断じ、一層法華経信仰に励むよう諭されておられます。
また文末の「抑(そもそも)法華経の如渡得船(にょととくせん)の船と申す事は<中略>上行等の四菩薩は函蓋(かんがい)相応して・きりきりとこぎ給う所の船を如渡得船の船とは申すなり、是にのるべき者は日蓮が弟子・檀那等なり」の文は、名文と言われる大聖人の御書の中でも名文中の名文といってよく、末法の弟子・信徒の一分として心躍るものを感じます。
■ご真筆:現存しておりません。

[椎地四郎殿御書 本文]

先日御物語の事について彼の人の方へ相尋ね候いし処・仰せ候いしが如く少しもちがはず候いき、これにつけても・いよいよ・はげまして法華経の功徳を得給うべし、師曠が耳・離婁が眼のやうに聞見させ給へ。

末法には法華経の行者必ず出来すべし、但し大難来りなば強盛の信心弥弥(いよいよ)悦びをなすべし、火に薪(たきぎ)をくわへんにさかんなる事なかるべしや、大海へ衆流(しゅうる)入る・されども大海は河の水を返す事ありや、法華大海の行者に諸河の水は大難の如く入れども・かへす事とがむる事なし、諸河の水入る事なくば大海あるべからず。

大難なくば法華経の行者にはあらじ、天台の云く「衆流海に入り薪火(たきぎ)を熾(さか)んにす」と云云、法華経の法門を一文一句なりとも人に・かたらんは過去の宿縁ふかしとおぼしめすべし、経に云く「亦不聞正法如是人難度」と云云、此の文の意は正法とは法華経なり、此の経をきかざる人は度しがたしと云う文なり、法師品には若是善男子善女人乃至則如来使と説かせ給いて、僧も俗も尼も女も一句をも人にかたらん人は如来の使と見えたり、貴辺すでに俗なり善男子の人なるべし、此の経を一文一句なりとも聴聞(ちょうもん)して神(たましい)にそめん人は生死(しょうじ)の大海を渡るべき船なるべし、妙楽大師云く「一句も神に染ぬれば咸(ことごと)く彼岸を資(たす)く、思惟(しゅい)・修習永く舟航に用(ゆう)たり」と云云、生死の大海を渡らんことは妙法蓮華経の船にあらずんば・かなふべからず。

抑法華経の如渡得船の船と申す事は・教主大覚世尊・巧智無辺(ぎょうちむへん)の番匠(ばんしょう)として四味八教の材木を取り集め・正直捨権とけづりなして邪正(じゃしょう)一如ときり合せ・醍醐一実(だいごいちじつ)のくぎを丁(ちょう)と・うつて生死の大海へ・をしうかべ・中道一実のほばしらに界如三千の帆をあげて・諸法実相のおひて(追風)をえて・以信得入の一切衆生を取りのせて・釈迦如来はかぢを取り・多宝如来はつなで(綱手)を取り給へば・上行等の四菩薩は函蓋相応して・きりきりとこぎ給う所の船を如渡得船の船とは申すなり、是にのるべき者は日蓮が弟子・檀那等なり、能く能く信じさせ給へ、四条金吾殿に見参候はば能く能く語り給い候へ、委くは又又申すべく候、恐恐謹言。

四月二十八日    日 蓮 花 押
椎地四郎殿え


【妙法蓮華経 方便品第二】

 深著虚妄法 堅受不可捨
 我慢自矜高 諂曲心不実
 於千万億劫 不聞仏名字
 亦不聞正法 如是人難度

  [和訳]
   
  虚妄の法に深く(執)著し、(この虚妄の法)を堅く受けて捨てようとせず、
  我慢(高慢)で、自から矜(誇)り高く、諂曲にして心は不実なり。
  千万億劫という長いあいだ、仏の名字さえ聞くことはない
  亦、正法をも聞かず、是の如き人は度す(教化する)こと難し。

by johsei1129 | 2015-09-16 20:36 | 弟子・信徒その他への消息 | Trackback | Comments(0)
2015年 09月 15日

末代悪世に入れば須臾の間も法華経は信じがたき事にて候ぞ、と説いた【上野殿御返事(法華経難信事)】

【上野殿御返事(法華経難信事)】
■出筆時期:弘安四年(1281年)三月十八日 六十歳御作
■出筆場所:身延山中の草庵にて。
■出筆の経緯:本書は上野殿(南条時光)に、四ヶ月前に亡くなられた末の弟・故五郎のことに触れられて与えられた消息ですが、本書を著した五日前にも、時光の母上野尼御前に故五郎のことに触れられて慰めの消息を送られておられます。七ヶ月前に時光は五郎を伴って身延の草庵に見参しており、その時大聖人にお目通りされておられます。
大聖人はその時の五郎の印象が強かったのか、五郎の思い出に触れられた消息は本書を含め八通も残されておられます。

本書で大聖人は「火に入りてやけぬ者はありとも<略>末代悪世に入れば須臾の間も法華経は信じがたき事にて候ぞ<略>法華経の御ゆへに、あやしのとが(尖)にあたらんとおもふ人は候はぬぞ。身にて心みさせ給い候いぬらん。たうとし・たうとし」と記し、熱原の法難以降、時光が幕府の圧力に怯(ひる)むことなく、農民信徒の外護にあたった功績を最大限に讃えられておられます。
尚、冒頭の神主は法華経に帰依したことで非難され時光が保護した浅間神社の神主と思われます。※参照[上野殿御返事]
■ご真筆:現存しておりません。古写本:日興上人筆(富士大石寺蔵:非一般公開)

[上野殿御返事(法華経難信事) 本文]

蹲鴟(いも)一俵給び了んぬ。
又かうぬし(神主)のもとに候、御乳塩(白馬と思われます)一疋、並びに口付一人候。

さては故五郎殿の事は・そのなげき(嘆き)ふりずとおもへども、(故五郎殿の)御けさん(見参)は・はるかなるやうにこそ・おぼえ候へ。なをも、なをも法華経をあだむ事は・た(断)えつとも見え候はねば、これよりのちも・いかなる事か候はんずらめども、いままでこらへさせ給へる事まことしからず候。

仏の説いての給はく、火に入りて・やけぬ者はありとも、大水に入りてぬれぬものはありとも、大山は空へとぶとも、大海は天へあがるとも、末代悪世に入れば須臾の間も法華経は信じがたき事にて候ぞ。

徽宗(きそう)皇帝は漢土の主(ある)じ・蒙古国に・からめとられさせ給いぬ。隠岐の法王は日本国のあるじ・右京の権大夫殿に・せめられさせ給いて・島にてはてさせ給いぬ。法華経のゆへにてだにも・あるならば即身に仏にもならせ給いなん。

わづかの事には身をやぶり命をすつれども、法華経の御ゆへに・あやしのとが(尖)にあたらんとおもふ人は候はぬぞ。身にて心みさせ給い候いぬらん。たうとし・たうとし、恐恐謹言。

弘安四年三月十八日       日 蓮 花 押
上野殿御返事

by johsei1129 | 2015-09-15 22:08 | 南条時光(上野殿) | Trackback | Comments(0)