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日蓮大聖人『御書』解説

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2015年 08月 31日

立正安国論二 On securing the Peace of the Land through the Propagation of True Buddhism 2

(つらつ)()(かん)を傾け(いささ)か経文を(ひら)きたるに、世(みな)正に背き人(ことごと)く悪に帰す、

 I have pondered the matter carefully with what limited resources I possess, and have looked a little at the scriptures for an answer. The people of today all turn their backs upon what is right ; to a person, they give their allegiance to evil.
 When I, with my limited knowledge, read the sutras, I find that all people have gone against the correct Law and become wholly devoted to evil doctrines.

 故に善神は国を捨てて相去り聖人は所を()して(かえ)りたまわず、

 This is the reason that the benevolent deities have abandoned the nation and departed together, that sages leave and do not return.
 This is why all the guardian deities have abandoned this country and sages have left this land, not to return.

 是れを以て魔来り、鬼来り、災起り、難起る、

 And in their stead devils and demons come, and disasters and calamities occur.
 Seizing this opportunity, devils and demons rush in, bringing disasters and calamities.

 言わずんばある可からず、恐れずんばある可からず。

 I can not keep silent on this matter. I can not suppress my fears.
 This is most fearful. We must speak out !


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by johsei1129 | 2015-08-31 22:26 | WRITING OF NICHIREN | Trackback | Comments(0)
2015年 08月 31日

立正安国論一  On securing the Peace of the Land through the Propagation of True Buddhism 1

 旅客来りて(なげ)いて曰く、

Once there was a traveler who spoke these words in sorrow to his host :
A traveler arrived and lamented to the host :

近年より近日に至るまで天変地夭(ちよう)飢饉疫癘(ききんえきれい)(あまね)く天下に満ち、広く地上に(はびこ)る、

In recent years, there have been unusual disturbances in the heavens, strange occurrences on earth, famine and pestilence, all affecting every corner of the empire and spreading throughout the land.
In recent years there have been unusual occurrences in the heavens, and natural disasters on earth. Famine and epidemics rage in all lands beneath the skies and in every corner of the realm.

牛馬(ちまた)(たお)れ、骸骨(みち)()てり、

Oxen and horses lie dead in the streets, and the bones of the stricken crowd the highways.
Dead cattle and horses are everywhere, and human skeletons clutter the streets.

死を招くの(ともがら)既に大半に超え、悲まざるの(やから)(あえ)て一人も無し。

Over half the population has already been carried off by death, and there is hardly a single person who does not grieve.
More than half the population has already perished, and there is not a single person who does not mourn.


  【本文】                 つづく next page
  
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by johsei1129 | 2015-08-31 22:10 | WRITING OF NICHIREN | Trackback | Comments(0)
2015年 08月 30日

開目抄愚記 下二九 「み(見)ん人いかに・をぢぬらむ」とは「不愛身命」の志の決定(けつじょう)せざる人なり。


一 
(かえる)(とし)の二月・雪中にしるして有縁(うえん)の弟子へをくれば等

  (すで)(たつの)(くち)を御(のが)れ、十三日(うま)の時に()()()きたまい、本間六郎が家に入りて二十余日御逗留(とうりゅう)、十月十日に依智を御立ち、同じき二十八日に佐渡に著き給い、十一月(つい)(たち)より塚原に移りたまい、()(ころ)より御(かんが)え、翌年二月御述作し、即ち中務(なかつかさ)三郎(さぶろう)()()(もん)(たま)うなり。佐渡抄十四・九、往いて見よ。

  問う、弟子は定めて是れ有縁(うえん)なり。(あに)弟子の無縁なるものあるべけんや。

  答う、弟子は皆是れ有縁なり。就中(なかんずく)此の三郎左衛門兄弟四人は、(たつの)(くち)の御難の時、一度に腹を切らんと思い定めし人々なり。故に有縁の中の有縁の弟子なり。(まさ)に知るべし「有縁の弟子」とは本仏有縁の弟子なるのみ。

一 ()そろしくて・()そろしからず

  啓蒙(けいもう)に云く「(すで)に幽霊の書なるが故に恐ろしき義なり。年来(としごろ)有縁の師なる故にをそろしからず。常の他人(これ)を見ば、幽霊の書なるが故にいかにをぢぬらん」と云云。

  今(いわ)く、経に云く「濁劫(じょっこう)悪世の中には、多く(もろもろ)恐怖(くふ)有らん乃至(ないし)身命(しんみょう)を愛せず、(ただ)無上道を惜しむ」と云云。此の文の意なり。所謂(いわゆる)、当世の諸人を経文に引き会せ、(まのあ)たり法華の怨敵(おんてき)無間(むけん)罪人(ざいにん)なりと書したまえば、(まこと)に濁劫悪世の中に多く諸の恐怖(くふ)あらん故に、一往は(おそろ)しきに()たり。(しか)りと(いえど)も、日蓮は「不愛身命(しんみょう)但惜(たんじゃく)無上道」の法華経の行者(ぎょうじゃ)なり、何の恐怖(おそろ)しきことか有らん。故に「をそろしくて・をそろしからず」と云云。略して(さき)に之を示す云云。

啓蒙の義、笑うべし、笑うべし。「()ん人いかに・をぢぬらむ」とは「不愛身命」の志の決定(けつじょう)せざる人なり。

一 ()れは釈迦・多宝等

  問う、所述付嘱(ふぞく)の意、如何(いかん)

  答う、今(まさ)に引く所の勧持品の経文は、釈迦・多宝・十方の諸仏の、未来日本国の当世に(まさ)に禅・律等の三類の強敵(ごうてき)あって法華の行者日蓮を(あだ)むべきの為体(ていたらく)を写したもう明鏡なり。(しか)れば(すなわ)ち勧持品の経文は、全体が日蓮が身の上の事なり。故に()の経文を日蓮が形見と見るべしとなり。亦復(まさ)に知るべし、勧持品の経文を形見と見るは、(すなわ)ち当抄を形見と見るの義なり。是れ則ち当抄に勧持品の経文を引いて之を(しゃく)する故なり。

一 勧持(かんじ)品に云く等

此の下は次に(まさ)しく経を引いて之を(しゃく)す、文(また)二と()す。初めに経を引き、次に「鷲峯」の下は之を釈す。初めの経を引く、亦二あり。初めに当品(とうほん)を引き、次に「涅槃」の下は助証(じょしょう)。初めの当品を引く、亦二あり。初めに経を引き、次に釈を引く。

一 (ただ)願はくは(うらおも)したもうべからず等

  初めに経を引く、文(また)三と為す。初めの一行は総じて時節を論じ、次に「諸の乃至有らん」の下は別して三類を明かし、三に「濁劫」の下は誹謗(ひぼう)所以(ゆえん)を明かす。

一 (もろもろ)の無智の人(乃至)有らん等

  此の下は別して三類を明かす、(おのずか)ら三あり。初めの一行は俗衆(ぞくしゅ)増上慢(ぞうじょうまん)、次に「悪世」の下の一行は道門増上慢、三に「或は乃至有らん」の下の五行は僣聖(せんしょう)増上慢なり。

一 濁劫(じょっこう)悪世の中等

  此の下は三に誹謗(ひぼう)所以(ゆえん)を明かす、亦二あり。初めに外魔の身に入るが故に、次に「濁世」の下は内心愚癡(ぐち)なるが故なり。三十五・四十五十六・五已下

一 涅槃(ねはん)経の九に云く等

  会疏(えしょ)九・二十一。「(また)云く、()の時」は同巻三十八。

一 世間の荘厳(しょうごん)文飾(もんじき)無義(むぎ)の語を安置す

  啓蒙(けいもう)に点ずるなり。

一 六巻の般泥洹(はつないおん)

  第六巻五の「我如来と」とは、本経に「我(なん)(だち)と」と云うなり。「如来」の二字、伝写の(あやま)りなり。

一 涅槃経に云く、(われ)涅槃の(のち)

  会疏(えしょ)第四十三。

一 袈裟(けさ)()ると雖も(なお)猟師の如く細かく()(おもむ)ろに行くこと猫の(ねずみ)(うかが)うが如し

  点ずるが如し。

           
                   つづく
開目抄愚記下 目次



by johsei1129 | 2015-08-30 17:28 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
2015年 08月 30日

開目抄愚記 下二八 「魂魄(こんぱく)佐渡の国にいたりて」とは、是れ凡夫(ぼんぷ)の魂魄に非ず。久遠名字の本仏の魂魄なり


一 
()(うし)の時に(くび)はねられぬ

()の時」は、鎌倉を引き(いだ)(たてまつ)る時なり。

種々御振舞抄二十三・四十六に云く「さては十二日の夜・武蔵(むさしの)(こう)殿(どの)あづ()かりにて夜半に及び頚を切らんがために鎌倉をいでしに」と云云。夜半は即ち()の時なり。「(うし)の時」は正しく頚の座に()()え奉るなり。

妙法尼抄十三四十三に云く「鎌倉(たつ)の口と申す処に九月十二日の丑の時に頚の座に引きすへられて候いき」と文。

今「子丑」というは、是れ始終を()ぐるなり。「頚はねられぬ」とは、(ただ)の義は頚を()ねらるるに当るなり。例せば「()(みょう)、頚を刎ねらる」の文の如し。是れ則ち「(ぎゅう)()(とう)(じょう)」の文に合するなり。「魂魄(こんぱく)・佐渡の国にいたりて」とは「数数(さくさく)(けん)(ひん)(ずい)」の文に合するなり。故に蓮師は「不愛(ふあい)身命(しんみょう)但惜(たんじゃく)無上(むじょう)(どう)」の法華経の行者(ぎょうじゃ)なること、(たれ)か之を疑うべけんや。(なお)是れ付文の辺なり。

問う、元意(がんい)の辺は如何(いかん)

答う、云云(うんぬん)

(かさ)ねて問う、如何。

答う、是れ第一の秘事なりと(いえど)も、略して之を示さん。(なんじ)伏して之を信ずべし。(まさ)に知るべし、此の文の元意は、蓮祖大聖は名字(みょうじ)凡夫の御身の当体、(まった)く是れ久遠元初の自受(じじゅ)(ゆう)(しん)と成り給い、内証真身の成道を唱え、末法下種の本仏と(あらわ)れたもう明文なり。

問う、其の(いわ)如何。

答う、(およ)丑寅(うしとら)の時とは(おん)の終り、(よう)の始め、即ち是れ陰陽の中間(ちゅうげん)なり。(また)是れ死の終り、生の始め、即ち是れ生死の中間なり。古徳の云く「(うし)は是れ大陰の指帰(しき)(とら)は是れ小陽の萌動(ほうどう)なり。生生の始め、死死の終りなり」と云云。

宗祖の外の五・七に云く「相かま()えて相かま()えて自他の生死は()らねども御臨終のきざみ生死の中間に日蓮かならず・むか()いにまいり候べし、三世の諸仏の成道は()うし()()わり・()らのきざ()みの成道なり、仏法の住処は鬼門(きもん)の方に三国とも()にたつなり此等は相承(そうじょう)の法門なるべし」等云云。

故に知んぬ「()(うし)の時」は末法の(れん)()名字(みょうじ)凡身の死の終りなり。故に「(くび)はね()られぬ」と云うなり。寅の時は久遠元初の自受用身の生の始めなり。故に「魂魄(こんぱく)」等と云うなり。

房州日我の本尊抄見聞に云く「開目抄に、魂魄(こんぱく)佐渡の国にいたりてとは、是れ凡夫(ぼんぷ)の魂魄に非ず。久遠名字の本仏の魂魄なり」と云云。

経王抄二十二・十四に云く「此の曼荼羅(まんだら)能く能く信ぜさせ給うべし乃至日蓮がたまし()ひをすみ()()めながして・かきて候ぞ信じさせ給え、仏の御意(みこころ)は法華経なり日蓮が・たまし()ひは南無妙法蓮華経に・すぎたるはなし」と云云。

明星(みょうじょう)(じっ)(けん)の口伝に云く「即ち明星(みょうじょうが)(いけ)を望みたまえば、日蓮が影は即ち今の大曼荼羅なり」(新定二七二二)と云云。

大曼荼羅とは、即ち是れ一念三千即自受(じじゅ)(ゆう)(しん)なり云云。釈尊は、二月八日の明星の()ずる時、霍燃(かくねん)と大悟し給うを成道の相と名づくるなり。明星の出ずる時は、即ち是れ(とら)の刻なり。()が祖(また)(しか)なり。名字(みょうじ)凡夫の当体、(まった)く是れ久遠元初の自受用身と(あらわ)れ、内証真身の成道を唱えたもうなり。故に佐渡已後(いご)に正しく本懐を顕すなり。

(まさ)に知るべし、鬼門は即ち丑寅(うしとら)の方なり。(りょう)鷲山(じゅせん)王舎(おうしゃ)(じょう)の鬼門なり、天台山は(かん)陽宮(ようきゅう)の鬼門なり、比叡(ひえい)山は平安城の鬼門なり。類聚(るいじゅ)第一巻の如し。富士山も(また)王城の鬼門なり。義楚(ぎそ)六帖(ろくじょう)二十一巻の如し。録外第五・七啓運(けいうん)抄三・二十九の如し。()いて見よ。

亦復(まさ)に知るべし、当山の勤行(ごんぎょう)は、往古(おうこ)より今に至るまで(まさ)しく是れ丑寅の時なり。之を思え、之を思え。


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開目抄愚記下 目次



by johsei1129 | 2015-08-30 17:01 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
2015年 08月 30日

開目抄愚記 下二七


  第三十八段 三類の
強敵(ごうてき)(あらわ)

一 已上(いじょう)五箇の(ほう)(しょう)にをどろきて勧持(かんじ)品の()(きょう)あり

是れ(けつ)前生後(ぜんしょうご)の文なり。当に知るべし、(すで)に「五箇の鳳詔」に驚きて、(まさ)に「勧持の弘経」あり。故に今五箇の鳳詔を引く意は、正しく勧持の明鏡(みょうきょう)を顕すに在り。学者()く此の文意を思い、大科の大旨(たいし)を知るべし云云。

此の下は勧持品の明鏡を引いて三類の強敵(ごうてき)に対して法華の行者を顕す、亦二あり。初めに三類の強敵、次に「当世」の下は法華の行者を顕すなり。初めの三類の強敵、(また)二有り。初めに経を引いて之を釈する意を示し、次に「勧持」の下は正しく経を引いて之を釈す。

一 明鏡の経文を(いだ)して等

此の下は正しく経を引いて之を釈する意を示すなり。(ここ)(また)三と為す。初めに所述解釈(げしゃく)の意を示し、次に「日蓮」の下は所述不怖(ふふ)の意を示し、三に「此れは釈迦」の下は所述付嘱(ふぞく)の意を示す。

問う、所述解釈の意、如何(いかん)

答う、(ここ)に即ち経文に引き合せて三類の強敵の謗法(ほうぼう)を知らしむ、即ち解釈の大意なり。「禅」は即ち華洛(からく)聖一(しょういち)等、「律」は即ち鎌倉の(りょう)(かん)等。此の禅・律の二宗は即ち是れ第三の僣聖(せんしょう)増上慢(ぞうじょうまん)なり。「念仏」は即ち(ほう)(ねん)(ぼう)等の無戒(むかい)邪見(じゃけん)の者、即ち第二の道門(どうもん)増上慢なり。「並びに大檀那」とは()の禅・律・念仏に御帰依(ごきえ)の国王大臣等なり。此等の三類の謗法を知らしむるは、即ち今の解釈(げしゃく)の大意なり。

一 日蓮といゐし者等

問う、所述不怖(ふふ)の意、如何(いかん)

答う、(すで)に此の抄の中に、天下御帰依の禅・律・念仏等の大僧並びに国王・大臣等を法華経の怨敵(おんてき)無間(むけん)の罪人と述べ給うが故に(かさ)ねて大難の来たらんことは必定なり。此の故に一往(いちおう)おそろしきに()たり。(しか)るに日蓮は(すで)(くび)をはねられ、魂魄(こんぱく)のみ佐渡にいたって、是れをしるして有縁の弟子へおくれば、(たと)い後難来るというとも(おそろ)しからざるなり云云。

一 九月十二日

御法則抄に云く「十二日は還滅(げんめつ)の十二因縁を表すなり」と云云。


                つづく
開目抄愚記下 目次



by johsei1129 | 2015-08-30 16:52 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
2015年 08月 30日

開目抄愚記 下二六


一 
涅槃(ねはん)経四十巻の現証は此の品にあり

  問う、常には涅槃経に闡提(せんだい)を治すという。何ぞ此の(ほん)を以て現証とせんや。

  答う、涅槃経の中には(ただ)闡提成仏の道理のみを明かして、闡提成仏の現証を明かさず。(いわ)く、()の経の始終(しじゅう)に闡提の得記(とっき)作仏(さぶつ)の相無く、五十二類の中にも之を列せず。(あまつさ)え第九巻には「(ただ)(いき)(めくら)一闡提(いっせんだい)を除く」と説き、(かえ)って治すべからずと云う。(しか)るに常には涅槃経に闡提を治すと云うことは、是れ「一切の衆生(ことごと)く仏性あり」と説いて仏性の(へん)ずるを明かすが故なり。座に()って経を聞くの(とく)(やく)()うには(あら)ず。(げん)九・五十五、玄私九・五十二、()いて見よ。

一 五逆・七逆・謗法(ほうぼう)・闡提等

  会疏(えしょ)十・四十云云。又「一切」の句頭に「然れば則ち」の意を入れて見るべし。次上を釈成(しゃくじょう)する文なり。

一 毒薬変じて甘露(かんろ)()る等

  涅槃経北本の第八初に云く「善男子、方等経は(なお)甘露の如く、(また)毒薬の如し」と云云。之を信ずれば則ち甘露と()り、之を(そし)れば則ち毒薬と成るが故なり。是れは今文の意に非ず。当文の意は、即ち大論の「()く毒を変じて薬と()す」の文に()なり。御書三十八・二十八云云。

一 或は改転(かいてん)の成仏にして

  問う、改転の意、如何(いかん)

  答う、諸大乗の意は、(さら)に女身を改め、男子と転じて成仏すべきの故に「改転の成仏」というなり。悪人作仏(さぶつ)、畜類の成仏も(これ)に准じて知るべし。東陽(ちゅう)(じん)口伝(くでん)に云く「他経に悪人等に記するは、即ち善人に記すると(これ)を習うなり。其の故は悪人、悪念を(ひるがえ)して善人と()り、仏に成るべきが故なり」と云云。御書三十八・二十七に云く「東陽の忠尋と申す人こそ此の法門はすこ()しあやぶまれて候」等云云。

一 一念三千の成仏にあらざれば有名(うみょう)無実(むじつ)の成仏往生(おうじょう)なり

  東陽の口伝に云く「()(ぜん)は一人出過(しゅつか)の成仏、法華は十界一念の成仏なり。十界一念と開きたる時、十界同時に成仏するなり。故に妙楽(みょうらく)云く『(まさ)に知るべし、身土乃至(ないし)一身一念法界に(あまね)し』と」等云々。

  大意抄十三・二十一に云く「法華経()(ぜん)の諸経は十界()()を明かさざれば仏に成らんと願うには必ず九界を(いと)う。妙楽大師は厭離(おんり)(だん)()の仏と名づく。されば法華経()(ぜん)には実の凡夫(ぼんぷ)が仏に成りたりける事は無きなり。九界を離れたる仏無き故に、往生(おうじょう)したる実の凡夫も無し。人界(にんかい)を離れたる菩薩界も無きが故に」(取意)と。

私に云く、(たと)えば手中の物を忘れて外を(たず)ぬれば、則ち(たと)い百千(こう)()ると(いえど)も、之を得ること(あた)わざるが如し。又猿を離れて生肝(いきぎも)無きが如し。(あに)有名(うみょう)無実(むじつ)の成仏往生」に(あら)ずや。

一 儒家(じゅけ)(きょう)養等

  「(きょう)」の字は啓蒙(けいもう)の義、可なり。科段は之を略す。


                     つづく
開目抄愚記下 目次



by johsei1129 | 2015-08-30 14:25 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
2015年 08月 28日

観心本尊抄文段 下九

 
  第八段 広く本尊を釈す


一 問うて(いわ)く正像二千余年の間等

此の下は次に広く(しゃく)す、二と()す。初めに問、次に答。
 初めの問、二と為す。初めに所聞を(ちょう)じ、次に「此の事」の下は請益(しょうやく)なり。

初めの文に「本門寿量品の本尊」と云うは、是れ正釈の中の人即法の本尊を牒ずるなり。「(なら)びに四大菩薩」とは、是れ(けつ)(もん)の中の法即人の本尊を牒ずるなり。

問う、「本門寿量品の本尊」とは、(まさ)是れ本門寿量の教主、色相(しきそう)荘厳(しょうごん)の釈尊なるべし。「並びに四大菩薩」とは、(また)応に身皆金色、三十二相の四脇士(きょうじ)なるべし。何ぞ当文を以て人法に配すべけんや。

答う、前に(すで)に明かす所の本尊の為体(ていたらく)、塔中の妙法蓮華経は本尊の正体なり。釈迦・多宝は妙法蓮華経の脇士(きょうじ)なり。四大菩薩は(また)釈迦・多宝の脇士なり。()(しか)らば(いま)何ぞ正体の本尊を()げずして(ただ)両重の脇士のみを(ちょう)ずるや。(いわん)や所難の義勢の如くんば、(ただ)是れ「彼は(だつ)」の本尊にして「此は(しゅ)」の本尊に(あら)ず。問答の起尽(きじん)如何(いかん)是れを通ぜんや。

問う、(いま)法即人の本尊を四大菩薩と云う(こころ)如何(いかん)

答う、是れ(しょう)(ぜん)顕後(けんご)の徳有るが故なり。(いわ)く、前の自受用(じじゅゆう)を摂し、後の日蓮を(あらわ)す故なり。
 故に「名異(みょうい)(たい)(どう)」の相伝に云く本地(ほんち)自受用(ほう)(しん)垂迹(すいじゃく)上行(じょうぎょう)菩薩の再誕(さいたん)・本門の大師日蓮」等云云。

問う、若し爾らば(まさ)に「並びに上行菩薩」と云うべし。何ぞ「四大菩薩」と云うや。

答う、「四大菩薩」と云うと(いえど)も、意は別して上行に()り。故に言は総、意は別なり。故に救護(くご)本尊に「上行菩薩世に出現」と云うなり。下の文に云く「此の時地涌(じゆ)の菩薩始めて世に出現し」と云云。(また)云く「此の時地涌千界(せんがい)出現」等。之に准じて知るべし。

一 答えて(いわ)法華経部八巻等

此の下は次に答(おのずか)ら五あり。

初めに代の三段、次に十巻の三段、三に迹門の三段、四に本門の三段、五に文底の三段なり。(まさ)に知るべし、第内外(ないげ)相対、第二は(ごん)(じつ)相対、第三は権迹相対、第四は本迹(ほんじゃく)相対、第五は種脱相対なり。

有る時、()して云く、答の文、亦二と()す。

初めに往総の三段、次に「又法華経に於て」の下は再往別の三段。

初めの総の三段、(また)二あり。初めに代三段、次に経三段。

次に別の三段(また)三と為す。初めに迹門熟益(じゅくやく)の三段、次に本門脱益(だっちゃく)の三段、三には文底下種の三段なり。

(およ)そ総の三段は別の三段を(あらわ)さんが(ため)なり。故に往と名づくるなり。別の三段は(まさ)しく本尊を明かす、故に再往と云うなり。

別の三段の中に於て、迹門熟益の三段は今家(こんけ)(しょ)(りゅう)の第の教相、(すなわ)ち熟益の本尊を明かすなり。

次に本門脱益の三段は今家所立の第二の教相、即ち(すなわ)脱益の本尊を明かすなり。

三に文底下種の三段は今家所立の第三の教相、即ち下種の本尊を明かすなり。代聖教の方寸(ほうすん)を知るべし云云。



          
つづく


文段下 目次



by johsei1129 | 2015-08-28 23:10 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
2015年 08月 26日

開目抄愚記 下二五 悪に対して善顕われ已(おわ)んぬれば、悪の全体即ち是れ善なり。故に善悪不二(ふに)と云う。


  第三十七段 二箇の
(かん)(ぎょう)を引き一代成仏・不成仏を判ず

一 宝塔(ほうとう)品の三箇の(ごう)(ちょく)の上等

  此の下は次に二箇の(かん)(ぎょう)を引いて一代の成仏・不成仏を判ず、亦三あり。初めに(ひょう)、次に「提婆」の下は(しゃく)、三に終りの一句は結文なり。釈の中に(また)二あり。初めに経意を釈し、次に「儒家」の下は成・不成を判じて孝・不孝を示す。初めの(きょう)()を釈するにも、亦二あり。初めに悪人作仏、次に女人(にょにん)成仏。経意を釈すとは(おのおの)一を挙げて(もろもろ)に例す故なり。即ち是れ経意なり。

一 提婆(だいば)(だっ)()一闡提(いっせんだい)

  問う、達多は是れ逆罪の人なり。何ぞ一闡提と云うや。

  答う、提婆は是れ一代(ほう)(ぼう)の人にして一切の諸善を断ず。故に(また)一闡提と名づくるなり。涅槃(ねはん)(しょ)に云く「若し説法を為すとも更に誹謗(ひぼう)闡提(せんだい)の罪を起す、(ぜん)(しょう)調達(ちょうだつ)等の如きなり」と云云。

一 天王(てんのう)如来(にょらい)と記せられる

  浄名(じょうみょう)疏の九・六に云く「(また)悪に非ざれば以て善を顕すこと無し。()の故に調達(ちょうだつ)無数劫(むしゅこう)より(このかた)常に釈迦と共に菩薩道を行ず。(ひとたび)は仏道を行じ(ひとたび)は非道を行じ、更に(あい)啓発して法華に明かす所の如し」等云云。悪に対して善(あらわ)(おわ)んぬれば、悪の全体即ち是れ善なり。故に善悪(ぜんなく)不二(ふに)と云う。(じゃ)(しょう)一如(いちにょ)(ぎゃく)(そく)()(じゅん)も之に准じて知るべし。

此の事、爾前に(いま)だ之を説かず、故に()二の末三十四に云く「法華には(また)『調達に由って相好(そうごう)()(そく)す』と云い、余の一切経には(ただ)生々(しょうじょう)悪を()す』と云うは、(すなわ)教化(きょうけ)(ごん)(じつ)不同なればなり」と文。記の三下三十五、亦三十四。

佐渡抄五に云く「日蓮が仏にならん第一のかた()うど()(かげ)(のぶ)、法師には(りょう)(かん)道隆(どうりゅう)・道阿弥陀仏と(へいの)左衛(さえ)門尉(もんのじょう)(こう)殿(どの)ましまさずんば(いかで)か法華経の行者(ぎょうじゃ)とはなるべき」と云云。即ち此の意なり。

問う、提婆は無間(むけん)に在って記別を受くるや、今経の座に来って記別を受くるや。

答う、(こと)定判し難し。啓蒙(けいもう)中に四釈に准ずる義あり。()いて見よ云云。

題目抄に云く「提婆達多は(乃至)()()無信(むしん)の者、今に阿鼻(あび)大城に()りと聞く」等云云。()し此の文に()れば、今経の座に無きなり。

()()呵責謗法滅罪抄外の十六・二十四に云く「提婆達多は仏の御敵・四十余年の経経にて捨てられ、臨終(りんじゅう)()くして大地破れて無間地獄に行きしかども法華経にて()(かえ)されて天王如来と記せらる」等云云。房州(ぼうしゅう)(にち)()が提婆品下、私に云く「彼の調達が阿鼻の淵底(えんでい)より召し(いだ)されしは、(ひとえ)に末代の手本なり」と云云。此等の意に准ずれば、提婆は座に()りと見えたり。

  今(しばら)く一意を以て之を()()す。()外用(げゆう)の達多の辺に()れば、(なお)無間に在り。若し内証の法身の菩薩の辺に拠れば、何ぞ此の座に(きた)るを(さまた)ぐべけんや。更に(かんが)えよ。


           つづく
開目抄愚記下 目次



by johsei1129 | 2015-08-26 22:46 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
2015年 08月 24日

観心本尊抄文段 下八  正像には「造り画く」と云い、末法には「出現」と云う


 問う、(かつ)て師説を聞くに当流の本尊は人法体なりと。今(また)師説に同じ、故に(あえ)是れを疑うべからず。(しか)りと(いえど)も、時々(よりより)諸経の明文を開き、(いささ)疏釈(しょしゃく)(げん)()(うかが)うに、人法の勝劣(しょうれつ)(なお)天地の如し。供養の功徳(また)水火に似たり。(しばら)文を引いて以て明答を待つ。

()(げん)観経に云く「此の大乗経典は諸仏の宝蔵なり。十方三世の諸仏の(げんもく)なり。三世の諸の如来を出生する種なり」云云。薬王品に云く「若し(また)人有って七宝(しっぽう)を以て三千大千世界を()てて、仏、及び大菩薩、辟支仏(びゃくしぶつ)、阿羅漢に供養せん。是の人の所得の功徳も、此の法華経の、乃至、一四(いちし)句偈(くげ)を受持する、()の福の最も多きには()かじ」等云云。

文の十に云く「七宝を四聖に奉るは一()を持つに()かず。法は是れ聖の師、能生(のうしょう)・能成・能栄、法に過ぎたるは()し。故に人は軽く法は重し」等云云。妙楽云く「四不同と(いえど)も、法を以て本と()す」等云云。(せん)の八・二十五に云く「父母に非ざれば以て生ずること無く、師長に非ざれば以て(じょう)ずること無く、君主に非ざれば以て栄うること無し」等云云。其の(ほか)是れを略す。此等の文に准ずるに法は是れ諸仏の主師親なり。(あに)勝劣天地に非ずや。

方便品に云く「法を聞いて歓喜し()めて乃至言をも発せば(すなわ)()(すで)切三世の仏を供義するなり」と云云。

宝塔品に云く「其れ()く此の経法を(まも)ること有らん者は則ち()れ我及び多宝を供養するなり」云云。陀羅尼(だらに)品に云く「八百万億那由佗(なゆた)恒河沙(ごうがしゃ)等の諸仏を供養せん。乃至()く是の経に於て、乃至一四句偈を受持せん、功徳(はなは)だ多し」と云云。

(ぜん)(じゅう)天子(てんじ)(きょう)に云く「法を聞いて謗を生じ、地獄に()つとも恒沙(ごうしゃ)の仏を供養するに勝る」と云云。

名疏(みょうしょ)の十に云く「実相は()れ三世の諸仏の母なり。乃至、仏母(ぶつも)の実相を供養せば(すなわ)ち三世十方の仏所に(おい)(とも)に功徳を得」等云云。余の文は之を略す。(あに)供養の功徳水火に(あら)ずや。

答う、所引の経釈は(みな)文上(じゅく)(だつ)の人法に約す、故に勝劣(しょうれつ)有り。()し文底下種の本尊は人の(ほか)に法なく、法の外に人無し。人(まった)是れ法、法全く是れ人。人法の名は(こと)なれども、其の(たい)(つね)に一なり。今(また)明文を引いて(すべから)く汝が疑網(ぎもう)を断ずべし。

法師品に云く「若しは経巻所住の処、此の中には、(すで)に如来の全身(いま)す」と云云。天台云く「此の経は是れ法身の舎利(しゃり)」等云云。今「法身」とは是れ自受(じじゅ)(ゆう)(しん)なり。宝塔品に云く「若し能く(たも)つこと有らば則ち仏身を持つなり」云云。観()(げん)経に云く「此の経を持つ者は則ち仏身を持つ」云云。文の第十に云く「法を(たも)つは即ち仏身を持つ」と云云。

涅槃(ねはん)経には如来行を()べ、今経には安楽行と云う。天台()して云く「如来は是れ人、安楽は是れ法。如来は()れ安楽の人、安楽は是れ如来の法。総じて(これ)を言わば()の義(こと)ならず」云云。妙楽の云く「如来と涅槃と人法の名(こと)なれども大理は(べつ)ならず。人(そく)法の故に」と云云。

会疏(えしょ)の十三に云く「如来は即ち是れ人の醍醐(だいご)一実諦(いちじったい)は是れ法の醍醐。醍醐の人、醍醐の法を説く。醍醐の法、醍醐の人と()る。人と法とにして二無し」等云云。略法華経に云く「六万九千三八四、一一文文()れ真仏」と云云。此等の文意、実には下種の本尊、人法体一の(じん)()(あらわ)すなり。経に云く「心に仏を見たてまつらんと(ほっ)して、自身命(しんみょう)()しまず。時に我及び衆僧、(とも)(りょう)鷲山(じゅせん)()ず」云云。此の(まさ)しく人法体を顕す。之を思え、之を思え。

()(めい)(しゃく)に云く「十界()()(まさ)に円仏と名づく」云云。伝教大師、秘密荘厳論(しょうごんろん)に云く「念三千即自受(じじゅ)(ゆう)(しん)」等云云。
 宗祖云く「自受用身(そく)念三千」等云云。
 諸法実相抄に云く「釈迦・多宝の二仏と云うも(ゆう)の仏なり、妙法蓮華経こそ本仏にては御座(おわし)候へ」と云云。明星(みょうじょう)(じっ)(けん)口伝(くでん)に云云。日蓮在判(ざいはん)口伝(くでん)に云云。(これ)()は直ちに是れ人法体の明文なり。

問う、今「寿量の仏」及び「此の仏像」等と云うは、(まさ)是れ本門寿量の教主釈尊の色相(しきそう)荘厳(しょうごん)画像(えぞう)・木像なるべし。何となれば聖教(しょうぎょう)(もっ)て正像末に配するに、正像は是れ小権迹の時なり。末法今時は是れ本門の時なり。故に正像に於ては、既に小権迹の仏を造り(えが)いて以て本尊と為す。故に末法に於ては応に(すべから)く本門寿量の教主釈尊を造り画き、以て本尊と為すべき故なり。何が故に(しか)らざるや。

答う、実に所問の如し。末法今時は本門の時なり。

(しか)るに宗祖云く「本門に(おい)て亦二の意あり。には在世の衆生の為、二には滅後末法の為なり」云云。

故に今日寿量の教主、色相荘厳の仏は在世脱益(だっちゃく)の本尊なり。文底下種の本仏は滅後末法の本尊なり。故に三時の相配、是れ相違に(あら)ざるなり。又「仏像」の言は木画(もくえ)に限るに非ず。故に天台(てんだい)云く「(ねん)(とう)仏の時に、縁熟すれば仏像を以て(これ)を化す」と云云。(いわん)(また)正像には「造り(えが)く」と云い、末法には「出現」と云う、深く之を思うべし。

下の文に云く「此の時地涌(じゆ)の菩薩始めて世に出現し」等云云。救護(くご)本尊(ほんぞん)に云く「上行菩薩()に出現し始めて(これ)()(せん)す」と云云。三処の「出現」、三処の「始」の字、之を思い合すべし。


                     つづく

文段下 目次



by johsei1129 | 2015-08-24 23:10 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
2015年 08月 24日

観心本尊抄文段 下七


一 ()くの如き本尊等

此の下は三に末法出現を結するに亦三と()す。初めに在世の希有(けう)を示し、次に正像未有(みう)を示し、三に末法出現を結するなり。

文の(こころ)は、是くの如きの寿量品の本尊は在世四十余年に(これ)無し。八年の間にも(ただ)八品に限る。正像二千年の間、小権迹の仏をば(つく)(えが)けども、(いま)だ是くの如きの寿量品の仏(ましま)さず。末法に来入(らいにゅう)して始めて此の寿量品の仏像出現せしむべきか云云。故に始終(しじゅう)、相続の文なり。(いずく)んぞ八品(しょ)(けん)の本尊、但八品に限ると言うべけんや。何ぞ(みだ)りに通別を作るべけんや。(あわれ)むべし、悲しむべし。

文に云く「正像二千年の間は小乗の釈尊は迦葉(かしょう)阿難(あなん)(きょう)()()し」等とは、釈門(しゃくもん)正統(しょうとう)の第三・三十五に云く「(いま)殿中に釈迦・文殊(もんじゅ)()(げん)・阿難・迦葉・梵王・金剛を(もう)くるは此の土の像なり。阿難は合掌(がっしょう)す、是れ仏の堂弟なればなり。()異儀に(あら)ず。迦葉は拳を(ささ)ぐ、(もと)外道の様なればなり。(しばら)く本習に付して威を以て衆を来す。若し声聞の人を以て(たす)くれば(すなわ)ち迦葉左に()し、阿難右に居す。若し菩薩の人を以て輔くれば則ち文殊左に居し、()(げん)右に居す」と云云。

文に云く「未だ寿量の仏(ましま)さず、乃至始めて此の仏像」とは、

問う、前に明かす所は(まさ)しく是れ法の本尊なり。何ぞ「寿量品の仏」及び「仏像」等と云うや。

答う、是れ人法体一の(じん)()を顕すなり。前に人(そく)法に約して正しく本尊の相貌(そうみょう)を明かす。今は法即人に約して末法出現を結するなり。(きわ)めて其の体を論ずれば人法体なり。(いわ)く、前に明かす所の本尊の為体(ていたらく)(いち)(ごう)も動かず、(まった)是れ()(おん)元初(がんじょ)自受(じじゅ)(ゆう)(しん)の当体の相貌なり。故に今「寿量品の仏」及び「()の仏像」と云うなり。

 
                 
                      つづく
文段下 目次



by johsei1129 | 2015-08-24 23:08 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)