人気ブログランキング |

日蓮大聖人『御書』解説

nichirengs.exblog.jp
ブログトップ

<   2015年 07月 ( 63 )   > この月の画像一覧


2015年 07月 31日

法華経は日月と蓮華となり故に妙法蓮華経と名く日蓮又日月と蓮華との如くなりと説く【四条金吾女房御書】

 【四条金吾女房御書】
■出筆時期:文永八年(1271)五月七日 五十歳御作。
■出筆場所:鎌倉 松葉ケ谷の館にて。
■出筆の経緯:本書は四条金吾の妻日眼女が初産の時期が迫りながら、恐らく伸び伸びとなり不安が募ったのだろうと思われるが、大聖人に符(法華経の文を書き記した紙を燃やして灰にしたもの)を願いでた事への返書となっております。
大聖人は「薬なりとも毒を入れぬれば薬の用すくなし、つるぎなれども、わるびれたる人のためには何かせん。就中夫婦共に法華の持者なり、法華経流布あるべきたねをつぐ所の玉の子出で生れん、目出度覚え候ぞ」と、あくまで法華経への強い信仰が大事であることを諭されております。そして符のことについて「口伝相承の事は此の弁公にくはしく申しふくめて候、則如来の使なるべし返す返すも信心候べし」と記し、弁公(日昭上人)に符を持たせるので符の意味についてよく聞くように指導されておられます。
大聖人はその日のうちに同じ鎌倉に住む四条金吾夫妻のもとへ符を届けさせたと思われ、日眼女は翌日八日に無事女の子を出産、大聖人は月満(つきまろ)御前と命名されておられます。

尚、大聖人が符を信徒に与えた事例は極めて少なく、御書を見る限り日眼女の初産の時と南条時光が瀕死に陥ったときの二つが確認できます。この符の効用は、現代医学におけるプラシーボ効果に近いものがあり、日眼女、南条時光の事例でも、符を飲むことで本人の精神力が高まり「自然治癒力」を増大した結果良い効果が得られたと考えられます。
■ご真筆:現存していない。

[四条金吾女房御書 本文]

懐胎のよし承り候い畢んぬ、それについては符の事仰せ候、日蓮相承の中より撰み出して候・能く能く信心あるべく候。

たとへば秘薬なりとも毒を入れぬれば薬の用すくなし、つるぎなれども・わるびれたる人のためには何かせん。

就中夫婦共に法華の持者なり、法華経流布あるべきたねをつぐ所の玉の子出で生れん、目出度覚え候ぞ。色心二法をつぐ人なり争か・をそなはり候べき、とくとくこそ・うまれ候はむずれ。

此の薬をのませ給はば疑いなかるべきなり、闇なれども灯入りぬれば明かなり濁水にも月入りぬればすめり、明かなる事・日月にすぎんや浄き事・蓮華にまさるべきや。法華経は日月と蓮華となり故に妙法蓮華経と名く。日蓮又日月と蓮華との如くなり。信心の水すまば利生の月・必ず応を垂れ守護し給うべし。とくとくうまれ候べし法華経に云く「如是妙法」又云く「安楽産福子」云云。

口伝相承の事は此の弁公にくはしく申しふくめて候、則如来の使なるべし返す返すも信心候べし。

天照太神は玉を・そさのをのみことにさづけて玉の如くの子をまふけたり、然る間日の神・我が子となづけたり、さてこそ正哉吾勝とは名けたれ。

日蓮うまるべき種をさづけて候へば争か我が子にをとるべき、「有一宝珠価直三千」等、「無上宝聚不求自得・釈迦如来皆是吾子」等云云。
日蓮あに此の義にかはるべきや、幸なり幸なりめでたしめでたし・又又申すべく候、あなかしこあなかしこ。

文永八年五月七日           日 蓮花押
四条金吾殿女房御返事


【妙法蓮華経 法師功徳品 第十九】

 若有懐妊者 未弁其男女 
 無根及非人 聞香悉能知
 以聞香力故 知其初懐妊
 成就不成就 安楽産福子

  [和訳]
  
 若し懐妊する者有りて、未だその子が男か女か
 生きているか否か弁えずとも、香を聞いて悉く能知る。
 香を聞く力を以て、其の初めて懐妊することをを知り、
 それが成就するか否か、安楽に福子を生むことを知る。

by johsei1129 | 2015-07-31 20:10 | 四条金吾・日眼女 | Trackback | Comments(0)
2015年 07月 30日

観心本尊抄文段 上二一


  第五段 心具の十界を釈す

一 問うて(いわ)く経文並びに天台(てんだい)

此の下は三に(まさ)しく(しゃく)す、二と()す。初めに(しばら)く現見を以て(しん)()の十界を明かし、次に「問うて日く、教主」の下は正しく受持に約して(かん)(じん)を明かすなり。

初めの且く現見を以て心具の十界を示す文、三と為す。初めに六道を示し、次に「問うて曰く、六道に於て」の下は三聖を示し、三に「問うて曰く、十界互具)」の下は仏界を明かす。

初めの六道を示すに、二と為す。初めに問、次に答、二あり。初めに正しく明かし、次に四聖冥伏(みょうぶく)を示す。

一 問うて曰く六道に於て等

此の下は次に三聖を示す、亦二あり。初めに問、次に答、亦二あり。

初めに(まさ)しく明かし、次に「但仏界」の下は仏界に例す。三あり。初めに(かん)(かい)、次に引文、三に「末代」の下は道理なり云云。

一 問うて日く十界()()

此の下は三に仏界を明かす、亦二あり。初めに問、次に答。

初めの問に亦二あり。初めに文を信じ義を疑い、次に「今の時」の下は伏して救助(くじょ)を求む。

次の答に二あり。初めに誡許(かいきょ)、次に「十界互具之を立つ」の下は正しく答う。

初めの誡許に二あり。初めに誡、次に「然りと雖も」の下は許、四あり。初めに略して余縁得道(とくどう)の例を示し、二に「其れ機」の下は機を判じ、三に「其の上」の下は宿因開発(かいはつ)の助縁を明かし、四に(ちな)みに執権(しゅうごん)(ぼう)(じつ)(とが)を破す。

文にいう「過去の下種結縁(けちえん)無き者の(ごん)(しょう)(しゅう)(じゃく)する者」とは、(まさ)()くの如く点ずべきなり。(いわ)く、過去の下種結縁無しと雖も、()し権小に執着せざれば、今日始めて下種結縁して正法の行者(ぎょうじゃ)()る故なり。

文にいう「十界互具(これ)を立つるは石中の火・木中の花」等とは、此の下は、正しく答う、亦三あり。初めに信じ(がた)きを信ずるの現証を引き、次に「尭・舜等の聖人の如き」の下は現事を引いて証し、三に「此等の現証を以て」の下は(けっ)(かん)

初めの文、亦二と為す。初めに通じて十界互具を()げ、次に「人界」の下は別して人界(しょ)()の仏界を示す。

次の文に三あり。初めに尭・舜(ぎょうしゅん)、次に不軽(ふきょう)、三に(しっ)()



                     つづく

上巻 目次



by johsei1129 | 2015-07-30 21:53 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
2015年 07月 29日

総勘文抄五 The Unanimous Declaration5

我が身を生死(しょうじ)凡夫(ぼんぷ)なりと思う時は、夢に(ちょう)と成るが如く僻目(ひがめ)僻思(ひがおもい)なり、

While one believes that one is an ordinary person in the realm of birth and death, this is comparable to dreaming that one is a butterfly, a state of distorted views and distorted thoughts.

我が身は本覚(ほんがく)如来(にょらい)なりと思う時は、(もと)(そう)(しゅう)なるが如し、即身成仏なり 【本文

And when one realizes that one is the Thus Come One of original enlightenment, this state is comparable to the original Chuang Chou,or the attainment of Buddhahood in one’s present form.

故に玄義に云く「末代の学者多く経論の方便(ほうべん)断伏(だんぷく)(しゅう)して諍闘(じょうとう)す、

Hence Profound Meaning states: “Many scholars in this latter age seize on the various methods for cutting off delusion set forth in the sutras and treatises as an expedient means and argue over them.

水の(しょう)(ひやや)かなるが如きも、飲まずんば(いずく)んぞ知らん」本文

But as in the case with water, how can you tell whether it is cold or not unless you drink some?”

総じて一代の聖教は一人の法なれば、我が身の本体を()く能く知る可し、

Broadly speaking, the sacred teachings of the Buddha’s lifetime represent a Law or doctrine pertaining to the individual. One should thus strive to achieve a very clear understanding of one’s own original entity as an individual.

之を悟るを仏と云い、之に迷うは衆生なり 【本文

To awake to that is to be a Buddha, to be confused about that is to be an ordinary living being.

つづく Next Page


目次 Index



by johsei1129 | 2015-07-29 07:15 | WRITING OF NICHIREN | Trackback | Comments(0)
2015年 07月 28日

開目抄愚記 下六  大疑の下には大悟(たいご)有り


一 日本の聖徳太子

此の下は二に例を引く(おのずか)ら二有り。初には師は(わか)くして弟子は()いたり、次に父は少くして子は老いたるとなり。今(ここ)に例を引くは、恐らく深意あらん。(いわ)く、本経文に父の少くして子の老いたるの(たとえ)を以て、師は(わか)くして弟子の老いたるを疑う。今初めの文は、(しょ)()の師は少く弟子老いたるを例顕(れいけん)し、次の文は(のう)()の父は少くして子老いたるを例顕するなり。

  問う、父少くして子老いたるの(たとえ)は発問の下に在り。何ぞ今、疑念の中に是れを明かすや。

  答う、(まさ)に之を言に発せんとするに、(あに)()ず心中に是れを念ぜざらんや。

一 六歳の太子等

  問う、註に釈書十五初を引いて「太子は()(たつ)二年(みずの)(とみ)正月(ついたち)()まる。同六年冬十月百済(くだら)国、仏の経論等を(みつ)ぐ」云云。「私に五歳の時なり」云云。

  答う、太子伝の上二に「()(たつ)元年(みずのえ)(たつ)正月朔に()まる」と云云。故に六歳の時なり。(いま)此の説に()るなり。啓蒙(けいもう)等も(しか)なり。亦百済の(にち)()を指して「()が弟子」ということは、太子十一歳の時なり。

一 外典()(申す)

  註に云く「(いま)だ出処を知らず」と云云。

一 されば()(ろく)菩薩()疑つて云く等

  此の下は次に発問、亦二あり。初に(まさ)しく明かし、次に「一切の菩薩」の下は、是れ一代第一の(うたがい)なることを示す、亦三と()す。初に(ひょう)、次に「無量義」の下は釈、三に「されば仏・此の疑」の下は結前生後云云。

一 此の(うたがい)・第一の疑なるべし等

  風大なれば波大なり。声大なれば(ひびき)大なり。疑第一なれば則ち(さとり)も亦第一なり。大疑の下には大悟(たいご)有りとは此の(いい)か。

一 歴劫(りゃっこう)(しつ)(じょう)

四十余年の「歴劫」と今の無量義の「疾成」となり。

一 耆婆(ぎば)月光(がっこう)に・をどされて等

  註(およ)び啓蒙の如し。又観経疏(かんぎょうしょ)二十三に云く「剣を(おさ)()を現じ、以て王の忿(いかり)(やす)む」等云云。此の文に(なお)明らかなり。

一 されば(かん)(ぎょう)(どく)(じゅ)せん人等文。

  (げん)()六・三十四に云云、()いて見よ。()二末三十四に云く「法華を除いて(ほか)()一切(いっさい)経には、(ただ)生々に悪を()して相(なや)()えり」等云云。玄の五七十一に云く「()(じょう)即ち(ごう)(どう)とは、悪は是れ善の(たすけ)なり。悪無ければ(また)善も無し乃至提婆(だいば)(だっ)()は是れ善知識なり、(あに)悪は即ち資成なるに非ずや」と云云。是れ今経には善悪(ぜんなく)不二(ふに)(ぎゃく)(そく)()(じゅん)(みょう)()を明かす故なり。


              つづく
開目抄愚記下 目次



by johsei1129 | 2015-07-28 22:38 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
2015年 07月 28日

観心本尊抄文段 上二十  南無妙法蓮華経は常楽我浄なり。


 第四段 広く観心を釈す

一 問うて曰く法華経は(いず)れの文等

此の下は次に広釈(こうしゃく)三あり。初めに引文、二に「問うて日く自他面」の下は難信難解(なんげ)、三に「問うて日く経文」の下は正釈。初めの引文の中に総別有り云云。

文に云く「寿量品に云く、是くの如く(われ)成仏乃至仏界(しょ)()の九界なり」等文。既に「今猶(こんゆう)未尽(みじん)」という。故に知んぬ、因位の万行、果海に流入することを。故に仏界所具の九界と云うなり。証真の文の第六の記に云く「若し酬因(しゅういん)感果(かんか)とは菓成(かじょう)華落(けらく)の如し。若し(しゃっ)()(るい)(とく)と云うは衆流(しゅうる)の海に入るが如し。経に云く『()(ほん)(ぎょう)菩薩(ぼさつ)(どう)(しょ)(じょう)寿命(じゅみょう)今猶未尽』とは即ち是れ流入の義なり」と云云。

問う、経文には(ただ)「菩薩道」という、何ぞ九界等というや。

答う、菩薩はこれ九界の所収なり。故に一を()げて(もろもろ)に例するなり。

一 経に云く、提婆(だいば)(だっ)()乃至地獄界(しょ)()の仏界なり

問う、下の十文並びに「所具の十界」と云う。当文のみ何ぞ「所具の仏界」というや。

 答う、文義()(けん)なり。(いわ)く、()し文に約せば皆(まさ)に当文の如く「所具の仏界」と云うべし。若し義に約せば、皆応に下の文の如く「所具の十界」と云うべし。(なお)仏界を具す、余も皆(また)(しか)るが故なり。故に知んぬ、互いに現わることを。

一 一を(らん)()と名け乃畜是れ餓鬼(がき)界所具の十界なり

(じゅう)羅刹(らせつ)の父は即ち般闍(はんじゃ)()()なり。日我の抄に雑宝蔵経を引くが如し。十羅刹の母は即ちこれ鬼子(きし)母神(もじん)なり。録外(ろくげ)二十五巻の如し。

一 地涌(じゆ)千界(せんがい)乃至(ないし)(しん)(じょう)大法(だいほう)

玄の七三十三に云く「口に真浄大法を(とな)う。真は是れ常なり。略して二徳を挙ぐ。我・楽知るべし、(しか)るに鈍者は文を読みて(なお)(おのずか)ら覚らず」文。故に知んぬ「()(しょう)(しん)(じょう)大法(だいほう)」とは即ち是れ口唱南無妙法蓮華経なり。此れ即ち(じょう)(らく)()(じょう)、即ち是れ南無妙法蓮華経なる故なり。

御義の上四十四に云く「南無とは楽()()(みつ)・妙法とは()波羅蜜・蓮華とは浄波羅蜜・経とは常波羅蜜なり」已上。

問う、南無の二字を以て楽波羅蜜に配する(こころ)如何(いかん)

答う、南無とは帰命(きみょう)の義なり。帰命とは註釈に云く「帰とは帰し(たてまつ)るなり、命とは出入(すいにゅう)の息なり。()()(しん)の衆生は命を以て宝と()す。一切の宝の中に命宝第一なり。(いま)八万第一の命宝を以て、実相の仏に帰したてまつる故に帰命と云う」文。(およ)そ一切有心の衆生は命宝を惜しむを以ての故に諸の苦を生ず。(すで)に命宝を以て妙法蓮華経の仏に帰し(たてまつ)(おわ)んぬ、更に楽の(これ)()ぐる無し。故に南無を以て楽波羅蜜に配するなり。又妙法は法界の全体なり。故に法界に自在なれば()波羅蜜に配す。蓮華は清浄の養なり。経は常の義なり。(じょう)()の如く知るべし。

(しか)れば(すなわ)ち、地涌(じゆ)千界(せんがい)(くち)に南無妙法蓮華経と唱う。地涌は即ち是れ菩薩界、()(しょう)妙法は即ち仏界なり。(なお)仏界を具す、余界も(しか)り。故に「菩薩界所具の十界」と云うなり。

一 或説()(しん)或説他身乃至仏界所具の十界なり

問う、己身・他身は法応の二身、即ち是れ所具の仏界なり。余界(また)然るが故に、所具の十界其の義分明(ふんみょう)なり。

未だ能具の仏界を見ず、如何(いかん)

答う、二箇の「説」の字、即ち是れ能説・能具の仏界なり云云。

一 問うて(いわ)自他面(じためん)の六根等

 此の下は二に難信難解、亦二と()す。初めに問、次に答。初めの問の意は、世間の鏡に(むか)えば則ち自他面の六根共に之を見る。経文の鏡に向うと(いえど)も、彼此(ひし)十界に於ては(まのあた)之を見ず。如何ぞ之を信ぜんと。此の(うたがい)を挙ぐる所以は法体(ほったい)(じん)(じん)称歎(しょうたん)せんが為なり。
 答の文に亦三あり。初めに引文、次に在世を挙げて滅後を(きょう)し、三に「汝之を信ぜば」の下は結歎(けったん)なり。


              つづく

上巻 目次




by johsei1129 | 2015-07-28 07:04 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
2015年 07月 26日

Gosho 総勘文抄四 The Unanimous Declaration4


 一代聖教(しょうぎょう)とは此の事を説きたるなり、

The sacred teachings of the Buddha’s lifetime are devoted to explaining this principle.

此れを八万四千の法蔵とは云うなり、

These are what is known as the storehouse of theeighty-four thousand teachings.

是れ皆(ことごと)く一人の身中の法門にて有るなり、

All these are teachings encompassed within the single entity of an individual.

(しか)れば八万四千の法蔵は我身一人の日記文書(もんじょ)なり、

Hence the storehouse of the eighty-four thousand teachings represents a day-to-day record of one’s own existence.

此の八万法蔵を我が心中に(はら)(たも)(いだ)き持ちたり、

This storehouse of the eighty thousand teachings is embodied in and contained within one’s own mind.

我が身中の心を以て仏と法と浄土とを我が身より(ほか)に思い願い求むるを迷いとは云うなり、

To use the mind to suppose that the Buddha or the Law or the pure land exist somewhere other than in one’s own self and to seek them else where is a delusion.

此の心が善悪の縁に()うて善悪の法をば造り出せるなり

When the mind encounters good or bad causes, it creates and puts forth the aspects of good and bad.

        つづく Next Page

本文】 目次 Index



by johsei1129 | 2015-07-26 21:09 | WRITING OF NICHIREN | Trackback | Comments(0)
2015年 07月 26日

開目抄愚記 下五

第三十段 略開近顕遠を示す

一 仏此の(うたがい)を答えて等

  此の下は次に(まさ)しく説く、亦二あり。初めに(りゃっ)(かい)(ごん)(けん)(のん)、次に「其の後、仏」の下は(こう)(かい)(ごん)(けん)(のん)。初めの文に亦二あり。初めに略開近顕遠、次に「此に弥勒」の下は動執(どうしゅう)生疑(しょうぎ)なり。

一 阿逸(あいっ)()(なん)(だち)

  仏の答の大旨は、涌出(ゆじゅつ)品の中に於ては(ただ)師主の住処を答えて、(いま)因縁(いんねん)の大事を明かさざるなり。今()の中に於ては但師主に答うる文を引くなり。(あるい)は住処の義は自顕すべき故に(しばら)く是れを略するか。

一 (われ)伽耶(がや)(じょう)菩提(ぼだい)樹下(じゅげ)に於て等

  ()如来(にょらい)の密意を尋ぬれば、即ち是れ本地(ほんち)伽耶(がや)なり。(しか)りと(いえど)も、時衆は知らずして(なお)今日の伽耶と(おも)うなり。此の文に(また)相伝有り云云。

一 (しか)して(すなわ)(これ)教化(きょうけ)して初めて道心を(おこ)さしむ等

  問う、地涌(じゆ)の下種は(いず)れの時に()りや。

  答う、記の一の本三十三に云く「地涌は本因果種」と云云。既に(もと)本果()って発心(ほっしん)下種あり。必ず本因在って聞法(もんぼう)下種あらん。此れは是れ台家(たいけ)の意なり。亦当流の相伝有り云云。

一 我久遠より(このかた)

  此の文は正しく略開近顕遠なり。

(およ)そ地涌(せん)(がい)を本化の菩薩と名づくることは、本地に於て教化したもう菩薩なるが故なり。()し其の文拠(もんきょ)を尋ぬれば、即ち今の文是れなり。謂く「我久遠より(このかた)」は即ち是れ本なり。「(これ)()の衆を教化せり」とは即ち是れ化なり。故に本化(ほんげ)というなり。又愚案十七二十五に云云。

一 (ここ)弥勒(みろく)等の大菩薩

  此の下は二に動執生疑、亦二あり。初めに疑念、次に「されば弥勒」の下は発問(はつもん)。初めの疑念に亦二あり。初めに(まさ)しく明かし、次に例を引く。

一 大宝坊・白鷺(びゃくろ)()

  大宝坊は大集経の説処なり。大集経第五初に云く「()(とき)()(そん)(ことさら)に欲色二界の中間、大宝坊中の師子座上に()って、諸の大衆に囲繞(いにょう)せられて法を説く」等文。又第一巻に云く「娑婆(しゃば)世界の大宝坊中」等云云。啓蒙(けいもう)四終、見るべし。

  問う、何ぞ大宝坊と名づくるや。

  答う、第一巻に云く「其の坊四匝(しそう)(びゃく)瑠璃樹(るりじゅ)有り」云云。即ち此の意なり。「白鷺(びゃくろ)()」とは是れ般若(はんにゃ)経の四処十六会の中の一処なり。四処とは一に(じゅ)()(せん)、二には(せっ)(たりん)、三には他化(たけ)自在(じざい)天、四には白鷺池なり。大般若経の五百九十三に云く「如是(にょぜ)我聞(がもん)、一時薄伽(ばが)(ぼん)は王舎城の竹林園の中の白鷺池の(ほとり)に住して(だい)苾芻(びつしゅ)(しゅ)千二百五十人と(とも)なりき」等云云。「薄伽梵(ばがぼん)」とは即ち仏の事なり。三字(とも)濁音(だくおん)なり。太平抄二十五。

  問う、(すで)に四処有り。何ぞ別して白鷺(びゃくろ)()()ぐるや。

  答う、是れ四処の終りなるが故なり。(いわん)(また)其の名、(みやび)(たえ)なるが故なり。(いわん)や亦般若(はんにゃ)経を或は白鷺池経とも名づくるが故なり。

一 しかのごとし

  和語記に云く「しかじかとは、これこれと云う意なり」云云。今(いわ)く「しか」は「さ」に切るなり。故に「さのごとし」と云う意か。常に「しかれば」と云い「されば」と云うと同意なり。

               
                     つづく
開目抄愚記下 目次


by johsei1129 | 2015-07-26 19:14 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
2015年 07月 25日

観心本尊抄文段 上一九  但(ただ)本尊を信じて妙法を唱うれば、則ち本尊の十法界全く是れ我が己心の十法界なり。


第三段 略して観心を釈す

一 問うて日く出処(しゅっしょ)(すで)(これ)聞く観心の()如何

問の意は、一念三千の出処(すで)にこれを聞く、一念三千の観心の(こころ)如何(いかん)となり。故に此の問は初めの一段より起るなり、何ぞ細科とせんや。是の故に此の下は大段の第二、観心の本尊を明かす、亦二と()す。初めに観心を明かし、次に「夫れ始め」の下は本尊を明かす。

初めの観心を明かすに、亦二と為す。初めは略釈(りゃくしゃく)、次に「問うて云く法華経」の下は広釈。

初めの略釈に二あり。初めに問、次に答、三と為す。初めに法、次に(たとえ)、三に「設い」の下は譬を合するなり。

文に云う「我が()(しん)を観じて十法界を見る」とは。

問う、これ台家の観心と()せんや。当家の観心と為せんや。

答う、忠抄・蒙抄等並びに云く「付文(ふもん)の辺は台家の観心、元意(がんい)の辺は当家の観心なり」云云。若し付文の辺は()(しん)(しょ)()(じっ)(ぽう)(かい)を観見する義なり。()の五上の七十四等云云。若し元意の辺は「我が己心を観ず」とは、即ち本尊を信ずる義なり。「十法界を見る」とは、即ち妙法を唱うる義なり。(いわ)く、(ただ)本尊を信じて妙法を唱うれば、則ち本尊の十法界全く是れ我が己心の十法界なるが故なり。

問う、総勘文抄に云く「所詮(しょせん)()(しん)と仏身と一なりと観ずれば(すみや)かに仏に成るなり乃至『一切の諸仏は、己心は仏心に(こと)ならずと観じ給うに()るが故に成仏を()と。(これ)を観心と云う」と云云。此の文意如何。

答う、仏心も妙法五字の本尊なり。己心も亦妙法五字の本尊なり。己心・仏心異なりと(いえど)も、妙法五字の本尊は異らず、故に「一」と云うなり。而して「観」というは、初心の行者()の義を知らざれども(ただ)本尊を信じて妙法を唱うれば、自然(じねん)に「己心と仏心と一なり」と観ずるに(あた)るなり。故に「観心」と云うなり。故に()いて当文に同じきなり。

文に云く「譬えば他人の六根(ろっこん)を見ると雖も、未だ自面(じめん)の六根を見ざれば」等文。

問う、何ぞ自面というや。

答う、此れに二意あり。

一には(おもて)には六根を()(そく)す。故に謂く、(げん)耳鼻(にび)(ぜつ)並びに(しん)あり。(また)色等に縁する時は、意根(また)面に()する故なり。二には面には十界の相を現ずる故に。謂く、(あるい)(いか)り、或は(むさぼ)り、或は(おろ)か、或は諂曲(てんごく)、或は平らか、或は喜び、或は無常、或は慈愛等、並びに是れ面に現ずるが故なり。啓蒙に(しょ)の第三を引く、未だ全く同じからざるなり。

文に云く「明鏡(めいきょう)に向うの時、始めて自具の六根を見る」と文。(まさ)に知るべし、向背(こうはい)は信・不信の異名(いみょう)なり。言う所の明鏡とは、()付文(ふもん)の辺は文の如く法華止観(しかん)を指すなり。伝教(でんぎょう)云く「一乗の独円は、動と静と無碍(むげ)なり、鏡像円融三諦」等云云。道宣(どうせん)()、智者大師の所釈を(さん)して云く「行人(ぎょうにん)の心鏡、()()明灯(みょうとう)」と云云。(これ)()は法華止観(しかん)を明鏡に(たと)うる文なり。

()し元意の辺は(まさ)しく本尊を以て明鏡に譬うるなり。

御義の下二十二に云く「南無妙法蓮華経と唱え奉る者の(けう)の地とは末法弘通(ぐつう)の明鏡たる本尊なり」等云云。

上二十七に云く「(そう)じて鏡像の譬とは自浮(じふ)自影(じよう)の鏡の事なり。此の鏡とは一心の鏡なり。(そう)じて鏡に付いて重重の相伝(これ)有り所詮(しょせん)鏡の能徳とは万像を浮ぶるを本とせり。妙法蓮華経の五字は万像を浮べて一法も残る物(これ)無し。又云く鏡に於て五鏡(これ)有り。妙の鏡には法界(ほっかい)の不思議を浮べ・法の鏡には法界の体を浮べ・蓮の鏡には法界の果を浮べ・華の鏡には法界の因を浮べ・経の鏡には万法の言語を浮べたり乃至我等衆生の五体五輪、妙法蓮華経と浮び()でたる間宝塔(ほうとう)品を以て鏡と習うなり乃至自浮自影の鏡とは南無妙法蓮華経是なり」と。

修禅寺決三十に云く「玄師の伝に自影自浮の大鏡(これ)有り。一念三千の観を成ず。自影自浮とは、釈迦如来、大蘇(だいそ)法華道場に於て智者大師の(ため)に大鏡を授け一念三千を伝う。()の鏡の事とは日光に向うの時、十界の形像を現ず。一鏡に十界を現ずる故に一念三千の(じん)()なり」等云云。故に知んぬ、自影自浮の鏡とは事の一念三千の南無妙法蓮華経の本尊なることを。

                 つづく

上巻 目次



by johsei1129 | 2015-07-25 23:28 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
2015年 07月 25日

開目抄愚記 下四  開近顕遠は文底秘沈の三箇の秘法を顕わす

一 虚空(こくう)霊山(りょうぜん)諸菩薩(諸大菩薩)文。

  問う、虚空(こくう)の諸菩薩とは(まさ)に是れ「諸の大衆(だいしゅ)を接して、皆虚空に()きたまう」の諸菩薩なるべし。霊山(りょうぜん)の諸菩薩とは是れ(いか)なる菩薩ぞや。

  答えて云く、応に是れ宝塔(ほうとう)品に来集(らいじゅう)せる分身(ふんじん)侍者(じしゃ)なるべし。

  問う、五百問論の下十八に「分身の侍者は(くう)()す」と云えり。今何ぞ霊山の諸菩薩と云わんや。

  答う、分身(すで)に霊山に在り。侍者(あに)虚空に住せんや。(いわん)(また)下の品に涌出の菩薩を見て(おのおの)()の仏を問うに、(あに)空より地に向かって是れを問うべけんや。故に知んぬ、分身の侍者は(なお)霊山に居するなり。

  (ただ)し五百問論の意は、分身は(すで)に高座有り、侍者は(すなわ)ち高座無し、故に分身の高座の(かず)に等しく()()(じゅん)の空に居すべしとなり。故に空に居すと云うなり。(しか)りと(いえど)も、諸の大衆を接して皆虚空に()かんことを望む。(なお)是れ霊山なり。故に今は霊山の諸菩薩というなり。(まさ)に知るべし、此の一句は総じて比校(ひきょう)なり。

一 十六の大菩薩

  問う、前後(みな)四数を()げて比校す。今何ぞ(しか)らずや。

 答う、今文も亦是れ四数なり。(いわ)く、東方の四菩薩、南方の四菩薩、西方の四菩薩、北方の四菩薩なるが故なり。文は(ただ)是れ略して十六というのみ。

一 海人(あま)が皇帝に(むか)い奉る等

 「海人」は卑賤(ひせん)(ごく)、「皇帝」は(そん)()の極なる故なり。

一 商山(しょうざん)()(こう)文。

  「四皓」の事、(つぶさ)に註(およ)び啓蒙の如し。又啓蒙三十・一六十三。

一 弥勒(みろく)菩薩・心に(ねん)(ごん)

 此の下は疑問、亦二あり、初めに疑念、次に「あまりの不審さに」の下は発問なり。(まさ)に言に発すべき事を、()ず心中に是れを念ず、故に「念言」というか。

一 雨の(たけ)を見て等

  文九五に云く「雨の猛きを見て竜の大なるを知り、(はな)(さか)んなるを見て池の深きを知る。(おう)虚空(こくう)に満つるを見れば、(すなわ)ち真の法界に()つるを知るなり」と文。

  此の本文の意は、菩薩の(まさ)多きを見れば仏の真身の久しく満つることを知るなり。(みょう)(らく)の云う「成仏(すで)に久しければ化迹(けしゃく)必ず多し」云云とは即ち此の意なり。()し当文の意は、諸菩薩の(そん)()なるを見て師の仏の(なお)(まさ)に尊貴なるべきを知るなり。故に転用するに()たり。

一 あまりの不審(いぶかし)さに等

  此の下は次に発問なり。

一 仏力(ぶつりき)にや有りけん等

  問う、経文に仏加の相を見ず、如何(いかん)

  答う、大論五十三・二十六に云く「弥勒(みろく)等の諸菩薩・梵天(ぼんてん)(のう)等、(ぶつ)()()けざれば(なお)(とい)を得る(あた)わず。何ぞ(いわん)(しゅ)菩提(ぼだい)をや」等云云。故に知んぬ、諸の菩薩の発問は通じて皆仏力に()るなり。(いわん)(また)今経は如来出世の大事なり。仏力に由らずして()んぞ問うことを得べけんや。例せば(だい)楽説(ぎょうせつ)の如し。

文の八・三十八に云く「楽説、仏の神力を()くるとは、塔を開かんと欲せば(すべから)く仏を集むべし。仏を集むれば即ち付属せんとす。付属するには即ち下方を召す。下方()ずる(とき)(まさ)(ごん)を開して(おん)を顕すべし。此れは是れ大事の由なり、(あに)仏の神力の之を問わしむるに(あら)ずや」と云云。

  楽説(すで)(しか)なり、弥勒(みろく)も亦(しか)なり。遠由(おんゆ)(なお)(しか)なり、況や(ごん)()をや。(いか)に況や(かい)(ごん)(けん)(のん)(すなわ)ち文底秘沈の三箇の秘法、亦(まさ)に之を顕すべし、(あに)大事の中の大事に非ずや。(いずく)んぞ仏力(ぶつりき)に非ずして是れを問うことを得べけんや。故に(いま)「仏力」というなり。

一 無量千万億等

  是れ師主の住処・因縁(いんねん)を問う。其の文見るべし。

一 「智人は()を知る蛇は自ら蛇を()る」等

  記の九本二十の文なり。()し本文に在っては、是れ徴起の文なり。妙楽、此の下に不知の義を答出せり。(しか)りと雖も、宗祖の意は此の徴起の文の裏を以て直ちに迹化の不知の義を(あらわ)すなり。文意に云く、智人は()を知り、蛇は自ら蛇を()る。迹化の愚人(ぐにん)(あに)本化を知らんや等云云。(つぶさ)撰時抄下二十三に今文の意を(しゃく)するが如し。啓蒙(けいもう)の義は不可なり。

                つづく
開目抄愚記下 目次



by johsei1129 | 2015-07-25 16:00 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
2015年 07月 25日

総勘文抄 三 The Unanimous Declaration3


 十界の(ほか)に仏無し、仏の外に十界無くして()(しょう)不二なり、身土不二なり、

Outside of the Ten Worlds there is no Buddha, outside ofthe Buddha there are no Ten Worlds. The living beings and their environments are not two things, and one’s self and the land one inhabits are not two things.

一仏の身体なるを以て寂光土(じゃっこうど)と云う、是の故に無相の極理とは云うなり、

Because the phenomenal realm of the ten directions is the body of a single Buddha, it is called the Land of Tranquil Light, and for this reason it represents the ultimate principle that is without marks.

生滅無常の(そう)を離れたるが故に無相と云うなり、

It is separate from the marks of the impermanence of birth and extinction, and therefore it is called “without marks.”

法性の淵底(えんてい)・玄宗の極地(ごくち)なり故に極理と云う

It is the utmost depth of the essential nature of phenomena and the ultimate of profound Buddhist principles and hence it is called the ultimate principle.

                つづく Next Page

本文】 目次 Index



by johsei1129 | 2015-07-25 13:44 | WRITING OF NICHIREN | Trackback | Comments(0)