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日蓮大聖人『御書』解説

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2015年 06月 13日

開目抄愚記 上二二  顕本已後も本迹の勝劣は宛然なり

又、啓蒙に云く「(すで)二乗(にじょう)作仏(さぶつ)の下に於て、多宝・分身を引いて真実の(むね)を定めたまえり。故に未だ発迹(ほっしゃく)顕本(けんぽん)せざる時も(まこと)の一念三千にして、二乗作仏も定まれり。(しか)るに今、真の一念三千も顕れず、二乗作仏も定まらずとは、()(じょう)を以て()(じょう)を奪うの辞なり。()くの如くに久成を以て始成を奪う元意は、天台過時の迹を破せんが為なり」と云云。この義は如何(いかん)

  答う、これはこれ曲会(こくえ)私情(しじょう)(びゃっ)(けん)にして、蓮祖違背(いはい)の大罪なり。(およ)そ二乗作仏の下に多(宝)仏分身を引き、真実の旨を定むることは、権迹相対して爾前に望む故なり。故に結文二十一に云く「此の法門は迹門と爾前と相対して」と云云。今「まことの一念三千もあらはれず二乗(にじょう)作仏(さぶつ)も定まらず」とは、本迹相対して本門に望む故なり。故に所対に随ってその義同じからず。妙楽云く「(およ)そ諸法相は所対不同なり」と云云。日講の盲目、この(のり)を知らず。()()いて(しか)らずんば、一代の聖教皆これ真実ならんや。その故は上の内外相対の下六に云く「此の仏陀(ぶつだ)は三十成道より八十御入滅にいたるまで五十年が間・一代の聖教を説き給へり、一字一句・皆真言なり一文(いちもん)一偈(いちげ)・妄語にあらず」等云云
 若しこの文を以て外典外道に対する故なりといわば、何ぞ
()(ぜん)に対して迹門真実といわざらんや。(いわん)やまた、久成を以て始成を奪う(とき)は真の一念三千も(あらわ)れず、二乗作仏も定まらざること、(なんじ)(また)を知れり。若し実に(しか)らずんば、蓮祖何ぞ無実を以て台宗を破すべけんや。

  問う、啓蒙中に諸文の本迹相対の判釈を()する意に云く、それ実に本化の知見に約すれば「如是(にょぜ)我聞(がもん)」の初めより元来一致の妙法なり。(しか)るに諸文の中に本迹の起尽(きじん)を明かすことは、これ機情の移転に約する一往(いちおう)の判釈なり。是れ(なお)開迹顕本すれば一部皆本門なり。故に再往(さいおう)は本迹一致なり。得意抄の意は即ちこれなり等云云。この義は如何(いかん)

  答う、(およ)本化(ほんげ)の知見とは(みょう)(らく)の釈に分明(ふんみょう)なり。故に記九本二に云く「(しか)れども本の弟子は(もと)より近迹(ごんしゃく)を知れり。今の弟子は(なお)遠本に迷えり」と文。意に云く、本化の菩薩は(ただ)遠本を知るのみに(あら)ず、元よりまた近迹をも知れり。(たと)えば「本より迹を()れ、月の水に現るるが如し」というが如し。今の弟子は近迹を知らざるのみに非ず、(なお)(また)遠本にも迷えり。故に「天月を()らず、但池月を観ず」というが如し等云云。故に知んぬ、今日の弟子は遠近(とも)に迷い、本化(ほんげ)の菩薩は本迹倶に(あき)らかなり。何ぞ本化の知見、元来一致といわんや是一。

  (およ)そ吾が祖の一代諸経の浅深(せんじん)勝劣(しょうれつ)を判ずることは、(もっぱ)ら如来の金言を守り、(ひとえ)に今経の明文に()れり。何ぞ機情昇進に約すといわんや是二。

  宗祖の云く、二十三・三十一に云く「日本国中の諸人・一同に如説修行の人と申し候は諸乗一仏乗と開会しぬれば(いず)れの法も皆法華経にして勝劣浅深ある事なし(乃至)()が云く(しか)らず所詮・仏法を修行せんには人の言を用う可らず(ただ)(あお)いで仏の金言をまほるべきなり(乃至)此の経の序分無量義経に(乃至)四十(しじゅう)()(ねん)未顕(みけん)真実」と已上。

 宗祖の本意分明(ふんみょう)なり。権実相対既に(しか)なり。本迹相対も例して爾なり。寿量品に云く「誠諦(じょうたい)()()」と。また云く「楽於(ぎょうお)小法(しょうぼう)」と。また云く「()(じつ)成仏(じょうぶつ)」と云云。故に知んぬ、爾前・迹門は(ずい)他意(たい)なり、小法なり、未顕真実なることを。本門は随自意なり、大法なり、已顕真実なり。如来の金言、勝劣(しょうれつ)分明なり。何ぞ機情の移転といわんや是三。

 仮令(たとい)開会(かいえ)の迹門なりとも(なお)れ体内の迹なり。体内の本に及ばず。例せば十章抄に「(たと)い開会をさとれる念仏なりとも(なお)体内の(ごん)なり体内の(じつ)に及ばず」というが如し。故に十法界抄に云く「本門(あらわ)(おわ)りぬれば迹門の仏因は即ち本門の仏果なるが故に天月水月本有(ほんぬ)の法と成りて本迹(とも)に三世常住と顕るるなり」と云云。(まさ)に知るべし、三世常住の水月は三世常住の天月に及ばざるなり。別に義章あり、故に略してこれを示す。()し爾らば顕本已後も本迹の勝劣は宛然(おんねん)なり。何ぞ顕本已後(いご)は本迹一致といわんや是四。

 得意抄の意は、方便品の読誦(どくじゅ)心地の中に示すが如し。

               つづく
開目抄愚記 上 目次



by johsei1129 | 2015-06-13 14:24 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
2015年 06月 11日

Gosho 四条金吾殿御返事(不可惜所領事) A Warning against Begrudging One`s Fief.


凡夫のならひ身の上は・はからひがたし、

It is the nature of ordinary people not to know what awaits them in the future.

これを・よくよく・しるを賢人・聖人とは申すなり。

Those who have a full understanding of this are called worthies or sages.

一生はゆめ()の上・明日(あす)()せず・

This life is like a dream. One cannot be sure that one will live until tomorrow.

いかなる乞食には・なるとも法華経にきずをつけ給うべからず

However wretched a beggar you might become, never disgrace the Lotus Sutra [Gohonzon].


     「四条金吾殿御返事(不可惜所領事)」本文

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by johsei1129 | 2015-06-11 21:14 | WRITING OF NICHIREN | Trackback | Comments(0)
2015年 06月 10日

開目抄愚記 上二一

一 (なお)水中の月を見るがごとし

  (まさ)に知るべし、水月はこれ真の月に非ず、故に真の一念三千の(あらわ)れざるに譬うるなり。(また)法体の二失を(あらわ)すなり。

  問う、その相は如何(いかん)

  答う、水月の功能に准ずる故なり。

一には本無(ほんむ)(こん)()。玄七に云く「天月を()らず、(ただ)()(げつ)を観ず」と云云。天月を識らざるは(あに)本無に非ずや。但池月を観ずるは即ちこれ今有なり。

二には有名無実。恵心僧都(そうず)児歌(ちごうた)に云く「手に結ぶ水に宿(やど)れる月影の有るか無きかの世にも住むかな」と云云。月の名はありと(いえど)も、(しか)も実体なき故なり。

一 根なし草の波の上に浮べるににたり

  波に随えばその(ところ)定まらず、故に二乗作仏の定まらざるに(たと)うるなり。例せば小町が歌の如し。(いわ)く「(わび)ぬれば身を(うきぐさ)の根を絶えてさそう水あらばいなんとぞ思う」と云云。また、法体(ほったい)の二失を顕す、これ萍の功能に准ずる故なり。

  一には本無今有。小町の歌に云く「()かなくに何を種とて(うきぐさ)の 波のうねうね()いしげるらん」と云云。久遠(くおん)下種のたねを()かなくに、何を種として二乗(にじょう)作仏(さぶつ)の萍は、波のうねうね生いしげるらん云云。上の句は(ほん)()なり、下の句は(こん)()なり。

  二には有名(うみょう)無実(むじつ)()()()(がん)に云く「浮とは物の水上に浮くが如く()()ざるなり」と文。草ありと(いえど)も、()()(あに)有名無実に(あら)ずや。

(しか)れば(すなわ)ち迹門に諸法実相(じっそう)・一念三千を明かすと(いえど)も、大通下種・二乗作仏を明かすと雖も、未だ発迹顕本せざれば、本無今有・有名無実の一念三千・二乗作仏なり。故に「ま()との一念三千もあらはれず、二乗作仏も定まらず。(なお)水中の月、根なし草の如し」(取意)というなり。(また)(また)(まさ)に知るべし、(のう)(せん)の二乗作仏は(すで)に本無今有・有名無実の故に、所詮(しょせん)の一念三千も本無今有・有名無実なり云云。

  問う、啓蒙(けいもう)五・二十八に云く「未発迹の未の字は本迹一致の証拠なり。(すで)に発迹顕本し(おわ)れば、迹は即ち本なるが故なり」と云云。

  難じて云く、()(しか)らば未顕真実の未の字は、権実一致の証拠ならんや。(すで)に真実を(あらわ)(おわ)れば、権は即ち実なるが故なり。

  日講重ねて云く「権実の例難、(びゃく)(あん)の至りなり。若し必ず一例ならば、(すなわ)ち宗祖は何ぞ()が読む所の迹と名づけて(ただ)迹門を読み、予が()む所の権と名づけて弥陀(みだ)経を読まざるや」と云云。

  今(いわ)く、この難(はなは)だ非なり。何となれば権実・本迹は(とも)法体(ほったい)に約す。故に三時(こと)なりと雖も、その体は(つね)に定まれり。(けだ)()読誦(どくじゅ)は修行に約す。故に時に随い、機に随い、その相同じからず。故に宗祖云く二十三・四十一に云く「法華経は一法なれども機にしたがひ時によりて其の行万差なるべし」と云云。日講は(なお)修行を以て法体に混乱す。(いわん)や三時の()(きょう)を知らんをや。今、権実例難の明文を引いて(すべから)く日講が(もう)(げん)を開くべし。

  玄七・二十三に云く「問う、三世の諸仏(みな)本を顕すとは、最初(じつ)(じょう)()(かん)が本を顕さん。答う、必ずしも(みな)本を顕さず。問う、仏に若し始成・()(じょう)あって発迹(ほっしゃく)・不発迹あらば、亦応(またまさ)に開三顕一、不開三不顕一あるべしや」等云云。

  信解品(しんげほん)疏六・二に云く「()る人の言く、此の品は是れ迹なりと。私に(おもえら)く、義理は(すなわ)(しか)れども、文に()っては便ならず。何となれば仏は未だ本迹を説きたまわず、(なん)(たちま)ちに(あらかじ)め領せん。(かく)ならば未だ三を()せざるに(すで)(まさ)に一を悟るべし」等云云。

  文九・十八に云く「法華に(おん)を開き(おわ)んぬ。(じょう)不軽(ふきょう)(なん)(さら)(ごん)なるや。若し(しか)らば()()一し(おわ)って亦応(またまさ)に会三帰一せざるべしや」と云云。

  記九本三十四に云く「本門顕れ(おわ)って更に近ならば、亦応(またまさ)に迹門も会し已って会せざらんや」等云云。

  また五十四に云く「何を以てか(ねんごろ)に久成の徳を(そし)って釈疑(しゃくぎ)とするや。此れ若し釈疑ならば方便も(また)(また)現相の疑を釈するならん」等云云。

  治病抄に云く「本迹の相違は水火天地の違目(いもく)なり、例せば()(ぜん)と法華経との違目よりも(なお)相違あり」等云云。

  天台(てんだい)章安(しょうあん)(みょう)(らく)・蓮祖、一同に()くの如し、この聖師、皆(びゃく)(あん)ならんや。日講の無間(むけん)の業、(あわれ)むべし、悲しむべし。

             つづく


開目抄愚記 上 目次



by johsei1129 | 2015-06-10 22:29 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
2015年 06月 08日

上野殿御返事 The Workings of Brahma and Shakra


上野殿御返事 (梵釈御計事)

The Workings of Brahmā and Shakra

Reply to Ueno

       建治三年五月十五日 五十六歳御作

   May 15, 1277Age: 56


 



うそぶ()けば大風ふく・竜ぎん()ずれば雲をこる、

 When a tiger roars, gales blow; when a dragon intones, clouds gather.

野兎のうそぶき驢馬(ろば)いば()うるに・風ふかず雲をこる事なし、

Yet a hare’s squeak or a donkey’s bray causes neither winds nor clouds to arise.

愚者が法華経をよみ賢者が義を談ずる時は国も()わがず事もをこらず、

As long as the foolish read the Lotus Sutra and the worthy lecture on it, the country will remain quiet and undisturbed.

聖人出現して仏のごとく法華経を談ぜん時・一国もさわぎ在世にすぎたる大難()こるべしとみえて候、

But it is stated that, when a sage emerges and preaches the Lotus Sutra exactly as the Buddha did, the nation will be thrown into an uproar, and persecutions greater than those during the Buddha’s lifetime will arise.

 

                           つづく continued

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by johsei1129 | 2015-06-08 21:56 | WRITING OF NICHIREN | Trackback | Comments(0)
2015年 06月 07日

開目抄愚記 上二十 本因・本果を知らざるは邪見なり


  第十六段 爾前・迹門の二失を顕す

一 華厳(けごん)・乃至般若(はんにゃ)

この下は二に今師の能判、また二あり。初めに已迹(いしゃく)(とが)を明かし、次に「本門にいたりて」の下は今本の(とく)を明かす。初めの已迹の失を明かすにまた二あり。初めに()(ぜん)の失を明かし、次に「迹門方便品」の下は迹門の失を明かす。

一 (ぎょう)()を存するが故に

  竹十・十二、註の所引の如し。(まさ)に知るべし、「行布」は即ち差別の異名(いみょう)なり。(いわ)く、昔の経々には十界の差別を存す、故に(なお)(いま)だ九界の権を開せず、故に十界()()の義なし、故に「迹門の一念三千をかくせり」という。北峯(ほっぽう)に云く「三千は是れ不思議の妙境なり。(ただ)法華の開顕、二乗作仏、十界互具に()る。是の故に三千の法は一念(とん)(えん)にして法華(ひと)り妙なり」云云。(つぶさ)()三重秘伝抄の如し。

一 迹門の一念三千をかく()せり等

  (まさ)に知るべし、この中は影略互(ようりゃくご)(けん)なり。何となれば、()(しょう)()(じょう)はこれ(のう)(せん)、事理の三千はこれ所詮(しょせん)なり。記小久成に()るが故に、()く事理の三千を顕すが故なり。故に知んぬ、一念三千・本門久遠は能詮・所詮、文を(あや)なして互顕なり。

一 迹門方便品等

  この下は次に迹門の(とが)を明かす、また二あり。初めに()、次に「しかりと・いえども」の下は(だつ)、これをまた二と為す。初めには法、次には(たとえ)(おのおの)二あり、見るべし。

一 しかりと・いえども・い()発迹(ほっしゃく)(けん)(ぽん)せざれば・(まこと)の一念三千もあらはれず

  宗円記一・三十二に云く「しかりといえどもとは、上を領して下を生ず。(たと)えば奪の辞なり」と云云。竹一本二十に云く「(ほつ)とは開なり」と云云。当に知るべし、爾前の経々には二(しつ)あり。()し迹門の中には一得一失あり。一念三千二乗(にじょう)作仏(さぶつ)と説くはこれ一得なり。(いま)発迹(ほっしゃく)顕本(けんぽん)せざるはこれ一失なり。この失に()るを以ての故に、迹の中の得は(なお)(とが)に属するなり。例せば故に知んぬ、迹も実も本に於ては(なお)虚の義の如し。故に迹門の得失は得失(とも)に失なり。

(また)この(ほっ)()の四文(おのおの)(ほん)()(こん)()、及び有名(うみょう)無実(むじつ)の二失を含むなり。

   問う、迹門の一念三千を何ぞ本無(ほんむ)(こん)()というや。

  答う、(すで)未発迹(みほつしゃく)という、故に今有なり。また未だ顕本せず、故に本無なり。仏界既に(しか)なり。九界もまた爾なり。故に十法界抄に云く「迹門には(ただ)是れ()(かく)の十界()()を説きて未だ必ず本覚(ほんがく)本有(ほんぬ)の十界互具を明さず、故に所化(しょけ)の大衆能化(のうけ)の円仏皆是れ(ことごと)く始覚なり、()(しか)らば本無今有の(とが)何ぞ(まぬか)るることを得んや」と云云。この文、思い合すべし。(あに)()発迹(ほつしゃく)(けん)(ぽん)」の五字、本無今有の失を含むに非ずや。

  問う、亦何ぞ有名(うみょう)無実というや。

  答う、迹門の中に於て一念三千の名ありと(いえど)も一念三千の義なし、故に真の一念三千は(あらわ)れずというなり。十章抄に云く「一念三千の出処は(りゃっ)(かい)(さん)(じゅう)(にょ)実相なれども義分は本門に限る」等云云。これを思い合すべし。

一 二乗(にじょう)作仏(さぶつ)も定まらず

  迹門の二乗作仏は本無今有・有名無実なり。故に「定まらず」というなり。

  問う、迹門の二乗作仏、何ぞ本無今有というや。

  答う、種子を(かく)()するを作仏と名づくるなり。(しか)るに未だ根源の種子を覚知せざる故に(しか)云うなり。
 本尊抄八・二十に云く「久種を以て下種と
()し大通前四味迹門を熟と為して本門に至つて等妙に登らしむるを脱と為す」と云云。(しか)るに迹門に(おい)て未だ久遠(くおん)下種を明かさざるは(あに)本無に(あら)ずや。(しか)るに作仏(さぶつ)というは寧ろ(こん)()に非ずや。玄六・五十四に「失心(しっしん)()失心」と云云。竹六・六十三に云く「本の所受を忘る、故に失心と()う」と云云。竹六・九十の遠益の下の文、これを思い合すべし。(つぶさ)には三重秘伝抄の如し。

  問う、迹門の二乗作仏を何ぞ有名無実というや。

  答う、それ三惑(さんなく)を断ずるを名づけて成仏と為す。(しか)るに迹門の二乗は未だ見思(けんじ)を断ぜず、(いわん)無明(むみょう)を断ぜんや。文九・三十二に云く「今生(こんじょう)に始めて無生(むしょう)(にん)を得、及び未だ得ずとは(ことごと)く此の(いわれ)有るなり」等云云。(なお)(ごん)(じょう)(あい)(ぎょう)す、即ちこれ思惑(しわく)なり。未だ本因・本果を知らず、即ち邪見に当る。豈見惑(けんなく)に非ずや。故に十法界抄に云く「迹門の二乗は未だ見思(けんじ)を断ぜざるは有名無実の故なり」(取意)等云云。

            つづく


開目抄愚記 上 目次



by johsei1129 | 2015-06-07 18:57 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
2015年 06月 06日

開目抄愚記 上一九


一 爾前迹門のききを挙げて云く

  爾前・迹門の間は(ただ)伽耶(がや)()(じょう)()く故なり。初心成仏抄二十二・七に云く「四十二年の(きき)と今経の聴とをばわけ()()らぶべからず」と云云。或る本に「機宜(きぎ)」に作るは不可なり。

一 一切(いっさい)世間の天人等

  問う、何ぞ二乗・菩薩を挙げざるや。

  答う、二乗は開し(おわ)れば即ちこれ菩薩なり。若し諸菩薩は皆、三善道を摂するなり。これ本末の意なり。

十法界抄三十四・三十四に云く「爾前(にぜん)迹門(しゃくもん)の断無明(むみょう)の菩薩を『五十小劫・半日の如しと(おも)えり』と説く」「又天人・修羅に摂し『貪著(とんじゃく)()(よく)(もう)(けん)網中(もうちゅう)(乃至)』と説く」等云云。これ爾前・迹門の菩薩を以て三惑(さんなく)未断(みだん)()すなり。

一 皆今(乃至)と(おも)えり等

  健抄(ごんしょう)の意に云く「本迹勝劣は機情昇進(しょうしん)の一辺なり。故に皆謂えりと云う」と云云。啓蒙(けいもう)に難じて云く「(すで)に始成の説を聞き、即ち近情に(しゅう)す。何ぞ妙法を(えら)んで(ただ)機情のみを取らんや」と。

一 (しか)るに善男子・我実に成仏して

  この下は破権(はごん)(けん)(のん)なり。

  文九・二十二に云く「(しか)るに善男子の下は、執を破し迷を()ることを明かし、以て久遠(くおん)(ほん)を顕す」と云云。

(いわ)く「執を破し迷を遣ることを明かす」とは、即ち「然るに」に字の意を示すなり。(およ)そ「然るに」と言うは、上を(りょう)して下を生ずるの辞なり。上を領するが故に執迷といい、下を生ずるが故に破遣(はけん)というなり。「以て久遠を顕す」とは、即ち「我実に成仏して」の文なり。(ずい)(もん)(おだ)やかならず、(つぶさ)に文句の記の如し。

一 我実に成仏してより已来(いらい)無量無辺

  日健(にちごん)抄に一致相伝の義を示す。意に云く、この文、本迹一致の証拠なり。謂く「我実」は即ちこれ本門、「成仏」は即ちこれ迹門なり。又「我実成仏」は本門、「已来無量無辺」等は迹門なり。既に「本迹一致に説を(まじ)えたり」等云云。

  今破して云く、日健は盲虫、深く名利(みょうり)(ふけ)り、来生を怖れず、聖師の明判を捨て、愚人の相伝を執す、悲しいかな云云。

天台大師は玄文の第七に、正しく本地(ほんち)の三身を配して「我は是れ法身、成仏は報身、已来は応身なり」と云云。「成仏」の二字は既に本地の報身なり。何ぞ是れ迹門ならんや。「已来」はこれ本地の応身なり。何ぞこれを以て迹門と()んや。(いわん)や天台大師はこの文を科して「()(きん)(けん)(のん)」云云。迹の(ごん)(じょう)を破して、本の遠成(おんじょう)(あらわ)すが故なり。況や天台大師、(しょ)の第一に於て(まさ)しくこの文に()って迹門を権経方便と名づけ、本門を実経真実と名づくるをや。故に文に「約本開権顕実」というなり。智雲師云く「本の文に実成久遠と云う。何ぞ直ちに経文に依って(これ)を名づけざらんや」等云云。

宗祖はこの文に拠って迹門を未顕(みけん)真実と名づくるなり。故に十法界抄に云く「我実成仏は寿量品已前を未顕真実と云うに非ずや」と云云。自余(じよ)はこれを略す云云。

            つづく


開目抄愚記 上 目次



by johsei1129 | 2015-06-06 21:39 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
2015年 06月 06日

開目抄愚記 上一八


一 
仁王(にんのう)般若経

  彼の経の序品の文なり。科註上二十七、(げん)私十・四十。

一 此等は言うにたらず等

この下は迹門、また二あり。初めに序分、次に「法華経」の下は正宗

一 華厳の唯心(ゆいしん)法界(ほうかい)文。

華厳(けごん)二十六・三に云く「三界は唯一心、心外に別の法なし」等云云。同疏抄三十七上六十九。

一 方等・般若経等

句を隔てて見るべし。謂く、方等の海印(かいいん)三眛(ざんまい)、般若の混同無二なり。

  問う、海印三眛の法門はこれ華厳経に()でたり。故に五教章上に云く「()遮那(しゃな)の内証を海印三眛等と名づく」と云云。また伝教大師、無量義経の註釈中二十七に、華厳海空の文を釈して云く「海印三眛を名づけて海空と為す」等云云。何ぞ「方等の海印」等というや。

  答う、海印三眛の法門は(もと)方等大集経十三・二十三に出でたり。而して華厳師(これ)を借用するなり。玄真記第十・二十四に云く「海印三眛とは大集経十四に云く『一切の色像(しきぞう)、海中に皆菩薩を現ず。此の三眛を得て()一切(いっさい)衆生(しゅじょう)の心行を知る』と云云。華厳(けごん)宗の師はこの海印を借りて互融の義を釈す」已上。故に註釈の文は(しばら)く彼の師に准じて以て経文を(しょう)するなり。

  証真は(すで)に大集経を以て海印三眛の本拠(ほんきょ)()す。故に(いま)(ほう)(とう)に配するなり。朝抄(ちょうしょう)は不可なり。

般若(はんにゃ)の混同無二とは金錍論(こんぺいろん)十二に云く「般若は諸法混同無二」等云云。標指上五終に云く「般若経中始めは色心より(しゅ)()に終る。八十余科の一切の諸法を混同して一と為す」等云云。

一 (あるい)()(けん)真実(しんじつ)

  註釈中十六に云く「但随(ただずい)()方便(ほうべん)帯権(たいごん)の一乗を説くのみにて、(ずい)()真実(しんじつ)捨権(しゃごん)の一乗を顕さず。故に『未顕真実』と云うなり」略抄。

一 迹門八品等

  (ただ)正宗のみを()ぐ、故に八品というなり。これ序分の無量義を望んで来るが故なり。

一 久遠寿量をば秘せさせ給いて

  これ法華経の内に於ても時機未熟(みじゅく)の故なり。本尊抄八・十六。

一 されば弥勒(みろく)菩薩等

  この下は今本久遠、また二あり。初めに(うたがい)()げ、次に「教主釈尊此等の(うたがい)」の下は正しく答うなり。

一 遠からず道場に座して

  菩提道場の伽耶(がや)城を去ること、(つづ)むるに二十里あり。故に「遠からず」というなり。

一 教主釈尊此等の(うたがい)

  この下、正しく答う。また二あり。初めに(しゅう)(ごん)(いわれ)、次に「正しく此の疑」の下は破権(はごん)(けん)(のん)なり。初めの執近の謂にまた二あり。初めは能迷の衆、次に「皆(乃至)(おも)」の下は迷遠の(いわれ)なり。


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by johsei1129 | 2015-06-06 21:35 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
2015年 06月 06日

四信五品抄六 On the Four Stages of Faith and Five Stages of Practice 6

(みょう)(らく)の云く「若し悩乱(のうらん)する者は頭七分に破れ、供養すること有る者は福十号に()ぐ」と、

 Miao-lo writes, “Those who vex or trouble [the practitioners of the Lotus Sutra] will have their heads split into seven pieces, but those who give alms to them will enjoy good fortune surpassing the ten honorable titles.”


優陀(うだ)(えん)王は賓頭盧(びんずる)尊者(そんじゃ)蔑如(べつじょ)して七年の内に身を喪失(そうしつ)し、

 King Udayana behaved insolently toward the Venerable Pindolabhāradvāja, and within seven years lost his life.

相州(そうしゅう)は日蓮を流罪して百日の内に兵乱に()えり。

 The lord of Sagami condemned Nichiren to exile, and within a hundred days armed rebellion broke out in his domain.

 経に云く「若し(また)是の経典(きょうてん)(じゅ)()する者を見て其の()(あく)(いだ)さん、(もし)は実にもあれ若は不実にもあれ、此の人現世に白癩(びゃくらい)(やまい)()乃至(ないし)諸悪重病あるべし」

 The sutrasays: “If anyone sees a person who accepts and upholds this sutra and tries to expose the faults or evils of that person, whether what he speaks is true or not, he will in his present existence be afflicted with white leprosy. . . . and other severe and malignant illnesses.”

 又云く「当に世世に眼無かるべし」等云云、

 It also says,“That person will be born eyeless in existence after existence.”

明心(みょうしん)(えん)()とは現に白癩(びゃくらい)()道阿(どうあ)()無眼(むげん)の者と成りぬ、

 Myōshin and Enchi contracted white leprosy in their present lifetime, while Dōamidabutsu lost his sight.

 国中の疫病(やくびょう)頭破(ずは)(ぶん)なり

 The epidemics that afflict our nation are punishments of the kind described as “the head being split into seven pieces.”

 罰を以て徳を推するに、我が門人等は福過(ふくか)(ごう)疑い無き者なり。

 And if we surmise the degree of benefit according to the degree of punishment, then there can be no doubt that my followers “will enjoy good fortune surpassing the ten honorable titles.”



           「四信五品抄」 本文
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by johsei1129 | 2015-06-06 16:21 | WRITING OF NICHIREN | Trackback | Comments(0)
2015年 06月 06日

四信五品抄五 On the Four Stages of Faith and Five Stages of Practice 5

()う国中の諸人我が末弟等を(かろん)ずる事(なか)れ、

 Therefore, I entreat the people of this country: Do not look down upon my disciples!

 進んで過去を(たず)ぬれば八十万億劫(まんのくこう)に供養せし大菩薩なり、(あに)熈連(きれん)一恒(いちごう)の者に非ずや、

 If you inquire into their past, you will find that they are great bodhisattvas who have given alms to Buddhas over a period of eight hundred thousand million kalpas, and who have carried out practices under Buddhas as numerous as the sands of the Hiranyavati and Ganges rivers.

退(しりぞ)いて未来を論ずれば八十年の布施(ふせ)(ちょう)()して五十の功徳(くどく)(そな)う可し、

 And if we speak of the future, they will been dowed with the benefit of the fiftieth person, surpassing that of one who gave alms to innumerable livingbeings for a period of eighty years.

 天子の襁褓(むつき)(まとわ)れ大竜の始めて生ずるが如し、蔑如(べつじょ)すること(なか)れ蔑如すること勿れ、

 They are like an infant emperor wrapped in swaddling clothes, or a great dragon who has just been born. Do not despise them ! Do not look on them with contempt !



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by johsei1129 | 2015-06-06 16:15 | WRITING OF NICHIREN | Trackback | Comments(0)
2015年 06月 06日

四信五品抄四 On the Four Stages of Faith and Five Stages of Practice 4


 問う何が故ぞ題目に万法を含むや、

Question: Why do you say that all teachings are contained within the daimoku?

 答う章安(しょうあん)の云く「(けだ)(じょ)(おう)とは経の(げん)()(じょ)す、玄意は文の心を(じゅつ)す、文の心は迹本(しゃくほん)()ぎたるは()し」

 Answer: Chang-an writes: “Hence [T’ien-t’ai’s explanation of the title in] the preface conveys the profound meaning of the sutra. The profound meaning indicates the heart of the text, and the heart of the text encompasses the whole of the theoretical and essential teachings.”

 妙楽の云く「法華の文心を(いだ)して諸教の所以(ゆえん)を弁ず」云云、

 And Miao-lo writes, “On the basis of the heart of the text of the Lotus Sutra, one can evaluate all the other various teachings of the Buddha.”

濁水(じょくすい)心無けれども月を得て自ら()めり

 Though muddy water has no mind, it can catch the moon’s reflection and so naturally becomes clear.

 草木雨を得(あに)(さとり)有つて花さくならんや

 When plants and trees receive the rainfall, they can hardly be aware of what they are doing, and yet do they not proceed to put forth blossoms?

 妙法蓮華経の五字は経文に非ず其の義に非ず、(ただ)一部の(こころ)なるのみ、

 The five characters of Myoho-renge-kyo do not represent the sutra text, nor are they its meaning. They are nothing other than the intent of the entire sutra.
 The five characters of Myoho-Renge-Kyo are not merely the text of the sutra, nor its meaning. They are nothing other than the intent of the Lotus Sutra.

 初心の行者()の心を知らざれども(しか)(これ)を行ずるに自然(じねん)に意に当るなり。

 So, even though the beginners in Buddhist practice may not understand their significance, by practicing these five characters, they will naturally conform to the sutra’s intent.



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by johsei1129 | 2015-06-06 16:13 | WRITING OF NICHIREN | Trackback | Comments(0)