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日蓮大聖人『御書』解説

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2015年 06月 30日

観心本尊抄文段 上一 暫(しばら)くもこの本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うれば、則ち祈りとして叶(かな)わざるなく、罪として滅せざるなく、福として来(きた)らざるなく、理として顕われざるなきなり。


  観心本尊抄文段 上    

                      富山大石寺二十六世 日寛 謹んで記す


 ()れ当抄に明かす所の観心の本尊とは、一代諸経の中には(ただ)法華経、法華経二十八品の中には(ただ)本門寿量品、本門寿量品の中には但文底(もんてい)深秘(しんぴ)の大法にして本地(ほんち)(ゆい)(みつ)の正法なり。

 此の本尊に(にん)あり(ほう)あり。人は(いわ)く、久遠元(くおんがん)(じょ)境智冥合(きょうちみょうごう)自受用(じじゅゆう)(ほう)(しん)。法は謂く、久遠名字(みょうじ)の本地難思(なんし)の境智の妙法なり。法に(そく)してこれ人、人に即してこれ法、人法の名は(こと)なれども、その(たい)(つね)に一なり。その体は一なりと(いえど)も、(しか)も人法宛然(おんねん)なり。(まさ)に知るべし、当抄は人即法の本尊の御抄なるのみ。

これ(すなわ)ち諸仏諸経の能生(のうしょう)の根源にして、諸仏諸経の()(しゅ)せらるる処なり。

故に十方(じっぽう)三世(さんぜ)(ごう)(しゃ)の諸仏の功徳、十方三世の微塵(みじん)の経々の功徳、皆(ことごと)くこの文底下種の本尊に帰せざるなし。(たと)えば百千枝葉(しよう)同じく一根に(おもむ)くが如し。

故にこの本尊の功徳、無量無辺にして広大深遠の妙用(みょうゆう)あり。故に(しばら)くもこの本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うれば、則ち祈りとして(かな)わざるなく、罪として滅せざるなく、福として(きた)らざるなく、理として(あらわ)れざるなきなり。(みょう)(らく)所謂(いわゆる)正境(しょうきょう)に縁すれば功徳(くどく)(なお)多し」とはこれなり。これ則ち蓮祖出世の本懐(ほんかい)、本門三大秘法の随一、末法下種の正体、行人(ぎょうにん)(しょ)(しゅう)明鏡(みょうきょう)なり。

故に宗祖云く「此の書は日蓮が身に当る一期(いちご)の大事なり」等云云。故に当抄に於て重々の相伝あり。所謂(いわゆる)三種九部の法華経、二百二十九条の口伝(くでん)種脱(しゅだつ)一百六箇の本迹、三大章疏(しょうしょ)七面七重口決(くけつ)(たい)(とう)両家二十四番の勝劣、摩訶(まか)止観(しかん)十重(じゅうじゅう)(けん)(かん)の相伝、四重(しじゅう)興廃(こうはい)、三重の口伝、宗教の五箇、宗旨(しゅうし)の三箇、文上(もんじょう)文底(もんてい)本地(ほんち)垂迹(すいじゃく)自行(じぎょう)()()形貌(ぎょうみょう)種脱、(はん)(しょう)名字(みょうじ)応仏(おうぶつ)昇進(しょうしん)久遠(くおん)元初(がんじょ)名同(みょうどう)(たい)()、名異体同、事理の三千、(かん)(じん)教相(きょうそう)本尊(ほんぞん)七箇の口決(くけつ)三重の相伝、筆法(ひっぽう)の大事、明星(みょうじょう)(じっ)(けん)の伝受、(じん)(じん)(おう)()、宗門の淵底(えんてい)(ただ)我が()の所伝にして諸門流の知らざる所なり。

所以(ゆえ)(にっ)(ちゅう)(にっ)(しん)の博覧も(なお)当抄の元意(がんい)(あきら)むる(あた)わず。(いか)(いわん)(にち)(ごん)(にっ)(ちょう)(にっ)(ちょう)日講(にちこう)等の僻見(びゃっけん)(やから)をや。

この故に宗祖の本懐これが為に(おお)われ、当抄の奥義(おうぎ)(いま)(かつ)(あらわ)れざるなり。故に宗門の流々(りゅうりゅう)(みな)本尊に迷い、(あるい)螺髪(らほつ)応身立像の釈迦を以て本尊と為し、或は(てん)(かん)()受用(じゅゆう)色相(しきそう)荘厳(そうごん)の仏を本尊と為す。これ(しか)しながら、当抄の意をめらざる故なり。

(ただ)房州の(にち)()のみ(ひと)りその大要を得たり。(しか)りと(いえど)も、その(もん)()に至っては、(いま)()(つく)さざるの処あり。学者、文に(のぞ)(よろ)しく之を斟酌(しんしゃく)すべし。

()れ時享保(きょうほう)第六(1721年)(たい)(さい)(かのと)(うし)猛夏中旬、総州(ほそ)(くさ)の学校及び当山所栖(しょせい)の学徒等四十余輩、異体同心に、()に当抄を講ぜんことを()う。

(こん)()一途(いちず)にして信心無二なり。余(おもえ)らく、四十余輩(むし)一人(いちにん)に非ずや。或は三四(さんし)並席(びょうせき)(いましめ)(まぬか)れんか。

 この故に老病()うべきなしと雖も、(つい)固辞(こじ)する能わず、(ほぼ)文の起尽(きじん)(わか)ち、(ほぼ)義の綱要を示す。またこれを後代の君子に(おく)(ねんごろ)に三仏の顔貌(げんみょう)を拝せんことを()するのみ。


                   つづく



by johsei1129 | 2015-06-30 22:31 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
2015年 06月 30日

開目抄愚記 上二五

第十七段 難信の相を示す

一 日蓮案じて云く二乗(にじょう)作仏(さぶつ)

  この下は本迹(ほんじゃく)相対の中の第三、難信の相を示すなり。

一 ()(ぜん)・法華相対するに等文

  これ爾前の多説の()(じょう)と法華の一両品の()(じょう)と相対するなり。

一 一向(いっこう)に爾前に同ず

  迹門十四品、(みな)爾前に同ず。これ下の本門の中に対するなり。

一 (ほっ)(しん)の無始・無終等

  文九・二十三に云く「発迹(ほっしゃく)顕本(けんぽん)の三如来は、永く諸経に異なり」と文。次に記九・三十一に云く「法身の非寿は諸経に常に談ず。(ただ)(いま)(かつ)()(じょう)遠寿(おんじゅ)()かず」文。記三下五十四に云く「(ただ)(ほっ)(しん)を以て本と為すは、(いず)れの教にか(これ)無からん」と云云。経に云く「我実に成仏してより已来(このかた)久遠(くおん)なること(かく)(ごと)し」等云云。「我」は即ち法身、「成仏」は報身、「已来」は応身なり。(すで)に「久遠」という、即ちこれ顕本(けんぽん)なり。

一 (ただ)涌出(ゆしゅつ)・寿量等文

  涌出品に云く「我れ伽耶(がや)(じょう)菩提(ぼだい)樹下(じゅげ)に於いて坐して最正覚(さいしょうがく)を成ずることを()て」等云云。寿量品より()(かえ)ってこれを見れば即ち本地(ほんち)の伽耶なり。故に()(じょう)の文なり。(しか)りと(いえど)も、当分にはこれ(けん)(りょう)なるに(あら)ず。故に次下に「汝(ただ)寿量の一品を見て」等というなり。(みょう)(らく)の記一本四十五に云く「但寿量の一文に(まさ)しく本迹を明かす」等云云。文九・十九に云く「()し多に従って少を()つれば、(こうべ)破れて七分と()ること、()梨樹(りじゅ)の枝の如くならん。(たと)えば天子の(みことのり)は、()しは多、若しは少、(とも)()すべからず。之に違すれば罪を得るが如し」と文。録外(ろくげ)・三十九()いて見よ。

           つづく
開目抄愚記 上 目次



by johsei1129 | 2015-06-30 21:39 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
2015年 06月 28日

開目抄愚記 上二四


一 本門にいたりて
()(じょう)正覚(しょうかく)をやぶれば四教の果をやぶる等文

 この下は今本の得を明かす。また二あり。初めに迹を破して本を(あらわ)し、次に「九界も無始(むし)」の下は所詮(しょせん)の三千を明かす。

「然るに善男子、我実に成仏して」の文は即ち始成正覚を破するなり。

「四教の果をやぶる」等とは、即ち玄文第七の本因・本果の下の如し。大師、一に近の故、二に(せん)(じん)不同の故、三に被払(ひふつ)の故の三義を以てこれを破するなり。本果の中には(つぶさ)()(ぜん)・迹門の仏果を()げてこれを破し、本因の広釈の中には(ただ)爾前の因のみ挙げ、迹門の因を挙げず。これ則ち略釈の中に、(すで)に大通の因を挙ぐる故なり。故に「爾前迹門の十界の因果を打ちやぶって」というなり。
 「十界の因果」等とは、これ十界各具の因果に非ず。九界を因と()し、仏界を果と為す。例せば九界を権と為し、仏界を実と為すが如し。()し蔵通二教の中に、依報(えほう)(ただ)六界を明かすのみと(いえど)も、正報には十界を明かすなり。別円は知るべし。上の文に「四教の因果」とはこれ(のう)(せん)の教に約し、今「十界の因果」というはこれ所詮(しょせん)の法に約す。能所(こと)なりと雖も、その意はこれ同じきなり。並びに釈尊の因を()げ、通じて九界を収むるなり。

(これ)即ち本因本果の法門」とは、また(げん)文第七の如し云云。

一 九界も無始(むし)の仏界に具し等文

 経に本果常住を説いて云く「我実(がじつ)成仏已来(じょうぶついらい)無量(むりょう)無辺(むへん)」と云云。故に「無始の仏界」というなり。経に本因常住を説いて云く「(しょ)(じょう)寿命(じゅみょう)今猶(こんゆう)未尽(みじん)」等云云。故に「無始の九界」というなり。(すで)にこれ本有(ほんぬ)常住(じょうじゅう)の十界()()なり。(あに)(まこと)の一念三千に非ずや。これを事の一念三千と名づくるなり。これ(すなわ)ち本因・本果に約して一念三千を明かす故なり。神力の(しょ)に云く「因果は是れ深事」と云云。()し迹門に於ては諸法実相に約して一念三千を明かす。故に理の一念三千というなり。(まさ)に知るべし、今日、迹本二門の事理の三千は(とも)にこれ理の一念三千なり。文底下種の(じき)(たつ)(しょう)(かん)久遠(くおん)名字(みょうじ)の事の一念三千を(まこと)の事の一念三千と名づくるなり。文の元意、見るべし。(つぶさ)に上の(しゅ)(だつ)相対の下に弁ずるが如し云云、云云。またまた当に知るべし、台家(たいけ)観門の難信難解は、今教門に属するなり。

一 かうて・かえりみれば

  この下は三に諸宗の迷乱なり。

一 華厳(けごん)経の台上等文

  註中に梵網(ぼんもう)経を引くが如し。

一 水中の月に実の月の想いをなし

  註中に()一下二十五の大論僧祇(そうぎ)(りつ)を引くが如し。

一 天月を()らず等文

  (げん)第七、本因妙の下の如し。これ体外(たいげ)の迹に(たと)うるなり。若し本果妙の下に「本より迹を()れ、月の水に現ずるが如し」とは、体内の迹に譬うるなり云云。若し文の元意は、文底(もんてい)下種の本仏を識らず、故に天月をも識らずというなり云云。

            つづく
開目抄愚記 上 目次



by johsei1129 | 2015-06-28 20:42 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
2015年 06月 14日

開目抄愚記 上二三


 問う、また啓蒙に云く「諸文の中に通じて一部を
(たん)じ、一一の文文是れ真仏等と云う。是れ元来一致を示すなり」と云云。この義如何(いかん)

答う、これ権実相対、一往(いちおう)の判釈なり。

問う、本迹決疑抄上三十九に云く「宗祖、諸宗無得道の弘通(ぐつう)()って種種の大難を(こうむ)る。其の功、竜樹・天台に超えたること、皆権実相対の法門に()る。故に権実相対、本迹相対、共に再往の実義なり」と云云。この義如何。

 答う、権実相対一往とは、(ただ)ちに今経の法相(ほっそう)に約す。(いわ)く、権実相対の日は(ただ)()(ぜん)に望んで通じて今経を歎ずるのみ。今経の中に於て(いま)だ本迹を判ぜず。故に義、()(きょう)(あら)ず、故に一往というなり。()し蓮師の所用(しょゆう)に約せば、佐渡已前は(もっぱ)ら権実相対を用う。これ蓮祖の本意に非ず。故に一往というなり。(いわん)や諸宗の中にも禅・念仏を破し、多く権実相対の法門を用うるをや。若し天台(てんだい)・真言の二宗を破するには、多く本迹相対の法門を用う。何ぞ(みな)権実等に()るというや是一。

  (いわん)()が祖、その功、竜樹(りゅうじゅ)天台(てんだい)等に()ゆる所以(ゆえん)(ただ)()く種々の大難を(しの)ぶのみに(あら)ず、また能く本門三箇の秘法を弘通(ぐつう)する故なり。この故に報恩抄に三箇の秘法を釈し(おわ)って云く「此の功徳は伝教・天台にも越へ竜樹・迦葉(かしょう)にもすぐれたり」と云云。また撰時抄上二十三に云く「南無妙法蓮華経と一切衆生にすすめたる人一人もなし、()の徳はたれか一天に眼を合せ四海に肩をならぶべきや」と云云。何ぞ(みな)権実等に()るというや是二。

  (いわん)や佐渡已前に禅・念仏を破するは(ただ)これ序分なり。故に清澄寺(せいちょうじ)二十・三十九に云く「真言宗は法華経を失う宗なり、是は大事なり()ず序分に禅宗と念仏宗の僻見(びゃっけん)を責めて見んと思ふ」と云云。序分(あに)一往に非ずや是三。

  (しん)李斯(りし)()えることあり。臣聞く、強を以て弱を()つは、勇士の土を払うが如く功と()すに()らずと云云。(しか)るに禅・念仏は実にこれ弱敵なり。何ぞ彼を破するを以て本意と()んや。当抄十に云く「六宗・七宗等にもをよばず、いうにかい(甲斐)なき禅宗・浄土宗」と云云。是四。

  況や(にっ)(ちょう)・日講等、常に一往(いちおう)勝劣、再往(さいおう)一致という。(しか)るに今、権実相対、本迹相対、(とも)に再往の実義なりと云云。(あに)自語(じご)相違に非ずや。手を()って笑うべし是五。


             つづく


開目抄愚記 上 目次



by johsei1129 | 2015-06-14 18:11 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
2015年 06月 13日

開目抄愚記 上二二  顕本已後も本迹の勝劣は宛然なり

又、啓蒙に云く「(すで)二乗(にじょう)作仏(さぶつ)の下に於て、多宝・分身を引いて真実の(むね)を定めたまえり。故に未だ発迹(ほっしゃく)顕本(けんぽん)せざる時も(まこと)の一念三千にして、二乗作仏も定まれり。(しか)るに今、真の一念三千も顕れず、二乗作仏も定まらずとは、()(じょう)を以て()(じょう)を奪うの辞なり。()くの如くに久成を以て始成を奪う元意は、天台過時の迹を破せんが為なり」と云云。この義は如何(いかん)

  答う、これはこれ曲会(こくえ)私情(しじょう)(びゃっ)(けん)にして、蓮祖違背(いはい)の大罪なり。(およ)そ二乗作仏の下に多(宝)仏分身を引き、真実の旨を定むることは、権迹相対して爾前に望む故なり。故に結文二十一に云く「此の法門は迹門と爾前と相対して」と云云。今「まことの一念三千もあらはれず二乗(にじょう)作仏(さぶつ)も定まらず」とは、本迹相対して本門に望む故なり。故に所対に随ってその義同じからず。妙楽云く「(およ)そ諸法相は所対不同なり」と云云。日講の盲目、この(のり)を知らず。()()いて(しか)らずんば、一代の聖教皆これ真実ならんや。その故は上の内外相対の下六に云く「此の仏陀(ぶつだ)は三十成道より八十御入滅にいたるまで五十年が間・一代の聖教を説き給へり、一字一句・皆真言なり一文(いちもん)一偈(いちげ)・妄語にあらず」等云云
 若しこの文を以て外典外道に対する故なりといわば、何ぞ
()(ぜん)に対して迹門真実といわざらんや。(いわん)やまた、久成を以て始成を奪う(とき)は真の一念三千も(あらわ)れず、二乗作仏も定まらざること、(なんじ)(また)を知れり。若し実に(しか)らずんば、蓮祖何ぞ無実を以て台宗を破すべけんや。

  問う、啓蒙中に諸文の本迹相対の判釈を()する意に云く、それ実に本化の知見に約すれば「如是(にょぜ)我聞(がもん)」の初めより元来一致の妙法なり。(しか)るに諸文の中に本迹の起尽(きじん)を明かすことは、これ機情の移転に約する一往(いちおう)の判釈なり。是れ(なお)開迹顕本すれば一部皆本門なり。故に再往(さいおう)は本迹一致なり。得意抄の意は即ちこれなり等云云。この義は如何(いかん)

  答う、(およ)本化(ほんげ)の知見とは(みょう)(らく)の釈に分明(ふんみょう)なり。故に記九本二に云く「(しか)れども本の弟子は(もと)より近迹(ごんしゃく)を知れり。今の弟子は(なお)遠本に迷えり」と文。意に云く、本化の菩薩は(ただ)遠本を知るのみに(あら)ず、元よりまた近迹をも知れり。(たと)えば「本より迹を()れ、月の水に現るるが如し」というが如し。今の弟子は近迹を知らざるのみに非ず、(なお)(また)遠本にも迷えり。故に「天月を()らず、但池月を観ず」というが如し等云云。故に知んぬ、今日の弟子は遠近(とも)に迷い、本化(ほんげ)の菩薩は本迹倶に(あき)らかなり。何ぞ本化の知見、元来一致といわんや是一。

  (およ)そ吾が祖の一代諸経の浅深(せんじん)勝劣(しょうれつ)を判ずることは、(もっぱ)ら如来の金言を守り、(ひとえ)に今経の明文に()れり。何ぞ機情昇進に約すといわんや是二。

  宗祖の云く、二十三・三十一に云く「日本国中の諸人・一同に如説修行の人と申し候は諸乗一仏乗と開会しぬれば(いず)れの法も皆法華経にして勝劣浅深ある事なし(乃至)()が云く(しか)らず所詮・仏法を修行せんには人の言を用う可らず(ただ)(あお)いで仏の金言をまほるべきなり(乃至)此の経の序分無量義経に(乃至)四十(しじゅう)()(ねん)未顕(みけん)真実」と已上。

 宗祖の本意分明(ふんみょう)なり。権実相対既に(しか)なり。本迹相対も例して爾なり。寿量品に云く「誠諦(じょうたい)()()」と。また云く「楽於(ぎょうお)小法(しょうぼう)」と。また云く「()(じつ)成仏(じょうぶつ)」と云云。故に知んぬ、爾前・迹門は(ずい)他意(たい)なり、小法なり、未顕真実なることを。本門は随自意なり、大法なり、已顕真実なり。如来の金言、勝劣(しょうれつ)分明なり。何ぞ機情の移転といわんや是三。

 仮令(たとい)開会(かいえ)の迹門なりとも(なお)れ体内の迹なり。体内の本に及ばず。例せば十章抄に「(たと)い開会をさとれる念仏なりとも(なお)体内の(ごん)なり体内の(じつ)に及ばず」というが如し。故に十法界抄に云く「本門(あらわ)(おわ)りぬれば迹門の仏因は即ち本門の仏果なるが故に天月水月本有(ほんぬ)の法と成りて本迹(とも)に三世常住と顕るるなり」と云云。(まさ)に知るべし、三世常住の水月は三世常住の天月に及ばざるなり。別に義章あり、故に略してこれを示す。()し爾らば顕本已後も本迹の勝劣は宛然(おんねん)なり。何ぞ顕本已後(いご)は本迹一致といわんや是四。

 得意抄の意は、方便品の読誦(どくじゅ)心地の中に示すが如し。

               つづく
開目抄愚記 上 目次



by johsei1129 | 2015-06-13 14:24 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
2015年 06月 11日

Gosho 四条金吾殿御返事(不可惜所領事) A Warning against Begrudging One`s Fief.


凡夫のならひ身の上は・はからひがたし、

It is the nature of ordinary people not to know what awaits them in the future.

これを・よくよく・しるを賢人・聖人とは申すなり。

Those who have a full understanding of this are called worthies or sages.

一生はゆめ()の上・明日(あす)()せず・

This life is like a dream. One cannot be sure that one will live until tomorrow.

いかなる乞食には・なるとも法華経にきずをつけ給うべからず

However wretched a beggar you might become, never disgrace the Lotus Sutra [Gohonzon].


     「四条金吾殿御返事(不可惜所領事)」本文

全巻目次 Index All



by johsei1129 | 2015-06-11 21:14 | WRITING OF NICHIREN | Trackback | Comments(0)
2015年 06月 10日

開目抄愚記 上二一

一 (なお)水中の月を見るがごとし

  (まさ)に知るべし、水月はこれ真の月に非ず、故に真の一念三千の(あらわ)れざるに譬うるなり。(また)法体の二失を(あらわ)すなり。

  問う、その相は如何(いかん)

  答う、水月の功能に准ずる故なり。

一には本無(ほんむ)(こん)()。玄七に云く「天月を()らず、(ただ)()(げつ)を観ず」と云云。天月を識らざるは(あに)本無に非ずや。但池月を観ずるは即ちこれ今有なり。

二には有名無実。恵心僧都(そうず)児歌(ちごうた)に云く「手に結ぶ水に宿(やど)れる月影の有るか無きかの世にも住むかな」と云云。月の名はありと(いえど)も、(しか)も実体なき故なり。

一 根なし草の波の上に浮べるににたり

  波に随えばその(ところ)定まらず、故に二乗作仏の定まらざるに(たと)うるなり。例せば小町が歌の如し。(いわ)く「(わび)ぬれば身を(うきぐさ)の根を絶えてさそう水あらばいなんとぞ思う」と云云。また、法体(ほったい)の二失を顕す、これ萍の功能に准ずる故なり。

  一には本無今有。小町の歌に云く「()かなくに何を種とて(うきぐさ)の 波のうねうね()いしげるらん」と云云。久遠(くおん)下種のたねを()かなくに、何を種として二乗(にじょう)作仏(さぶつ)の萍は、波のうねうね生いしげるらん云云。上の句は(ほん)()なり、下の句は(こん)()なり。

  二には有名(うみょう)無実(むじつ)()()()(がん)に云く「浮とは物の水上に浮くが如く()()ざるなり」と文。草ありと(いえど)も、()()(あに)有名無実に(あら)ずや。

(しか)れば(すなわ)ち迹門に諸法実相(じっそう)・一念三千を明かすと(いえど)も、大通下種・二乗作仏を明かすと雖も、未だ発迹顕本せざれば、本無今有・有名無実の一念三千・二乗作仏なり。故に「ま()との一念三千もあらはれず、二乗作仏も定まらず。(なお)水中の月、根なし草の如し」(取意)というなり。(また)(また)(まさ)に知るべし、(のう)(せん)の二乗作仏は(すで)に本無今有・有名無実の故に、所詮(しょせん)の一念三千も本無今有・有名無実なり云云。

  問う、啓蒙(けいもう)五・二十八に云く「未発迹の未の字は本迹一致の証拠なり。(すで)に発迹顕本し(おわ)れば、迹は即ち本なるが故なり」と云云。

  難じて云く、()(しか)らば未顕真実の未の字は、権実一致の証拠ならんや。(すで)に真実を(あらわ)(おわ)れば、権は即ち実なるが故なり。

  日講重ねて云く「権実の例難、(びゃく)(あん)の至りなり。若し必ず一例ならば、(すなわ)ち宗祖は何ぞ()が読む所の迹と名づけて(ただ)迹門を読み、予が()む所の権と名づけて弥陀(みだ)経を読まざるや」と云云。

  今(いわ)く、この難(はなは)だ非なり。何となれば権実・本迹は(とも)法体(ほったい)に約す。故に三時(こと)なりと雖も、その体は(つね)に定まれり。(けだ)()読誦(どくじゅ)は修行に約す。故に時に随い、機に随い、その相同じからず。故に宗祖云く二十三・四十一に云く「法華経は一法なれども機にしたがひ時によりて其の行万差なるべし」と云云。日講は(なお)修行を以て法体に混乱す。(いわん)や三時の()(きょう)を知らんをや。今、権実例難の明文を引いて(すべから)く日講が(もう)(げん)を開くべし。

  玄七・二十三に云く「問う、三世の諸仏(みな)本を顕すとは、最初(じつ)(じょう)()(かん)が本を顕さん。答う、必ずしも(みな)本を顕さず。問う、仏に若し始成・()(じょう)あって発迹(ほっしゃく)・不発迹あらば、亦応(またまさ)に開三顕一、不開三不顕一あるべしや」等云云。

  信解品(しんげほん)疏六・二に云く「()る人の言く、此の品は是れ迹なりと。私に(おもえら)く、義理は(すなわ)(しか)れども、文に()っては便ならず。何となれば仏は未だ本迹を説きたまわず、(なん)(たちま)ちに(あらかじ)め領せん。(かく)ならば未だ三を()せざるに(すで)(まさ)に一を悟るべし」等云云。

  文九・十八に云く「法華に(おん)を開き(おわ)んぬ。(じょう)不軽(ふきょう)(なん)(さら)(ごん)なるや。若し(しか)らば()()一し(おわ)って亦応(またまさ)に会三帰一せざるべしや」と云云。

  記九本三十四に云く「本門顕れ(おわ)って更に近ならば、亦応(またまさ)に迹門も会し已って会せざらんや」等云云。

  また五十四に云く「何を以てか(ねんごろ)に久成の徳を(そし)って釈疑(しゃくぎ)とするや。此れ若し釈疑ならば方便も(また)(また)現相の疑を釈するならん」等云云。

  治病抄に云く「本迹の相違は水火天地の違目(いもく)なり、例せば()(ぜん)と法華経との違目よりも(なお)相違あり」等云云。

  天台(てんだい)章安(しょうあん)(みょう)(らく)・蓮祖、一同に()くの如し、この聖師、皆(びゃく)(あん)ならんや。日講の無間(むけん)の業、(あわれ)むべし、悲しむべし。

             つづく


開目抄愚記 上 目次



by johsei1129 | 2015-06-10 22:29 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
2015年 06月 08日

上野殿御返事 The Workings of Brahma and Shakra


上野殿御返事 (梵釈御計事)

The Workings of Brahmā and Shakra

Reply to Ueno

       建治三年五月十五日 五十六歳御作

   May 15, 1277Age: 56


 



うそぶ()けば大風ふく・竜ぎん()ずれば雲をこる、

 When a tiger roars, gales blow; when a dragon intones, clouds gather.

野兎のうそぶき驢馬(ろば)いば()うるに・風ふかず雲をこる事なし、

Yet a hare’s squeak or a donkey’s bray causes neither winds nor clouds to arise.

愚者が法華経をよみ賢者が義を談ずる時は国も()わがず事もをこらず、

As long as the foolish read the Lotus Sutra and the worthy lecture on it, the country will remain quiet and undisturbed.

聖人出現して仏のごとく法華経を談ぜん時・一国もさわぎ在世にすぎたる大難()こるべしとみえて候、

But it is stated that, when a sage emerges and preaches the Lotus Sutra exactly as the Buddha did, the nation will be thrown into an uproar, and persecutions greater than those during the Buddha’s lifetime will arise.

 

                           つづく continued

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by johsei1129 | 2015-06-08 21:56 | WRITING OF NICHIREN | Trackback | Comments(0)
2015年 06月 07日

開目抄愚記 上二十 本因・本果を知らざるは邪見なり


  第十六段 爾前・迹門の二失を顕す

一 華厳(けごん)・乃至般若(はんにゃ)

この下は二に今師の能判、また二あり。初めに已迹(いしゃく)(とが)を明かし、次に「本門にいたりて」の下は今本の(とく)を明かす。初めの已迹の失を明かすにまた二あり。初めに()(ぜん)の失を明かし、次に「迹門方便品」の下は迹門の失を明かす。

一 (ぎょう)()を存するが故に

  竹十・十二、註の所引の如し。(まさ)に知るべし、「行布」は即ち差別の異名(いみょう)なり。(いわ)く、昔の経々には十界の差別を存す、故に(なお)(いま)だ九界の権を開せず、故に十界()()の義なし、故に「迹門の一念三千をかくせり」という。北峯(ほっぽう)に云く「三千は是れ不思議の妙境なり。(ただ)法華の開顕、二乗作仏、十界互具に()る。是の故に三千の法は一念(とん)(えん)にして法華(ひと)り妙なり」云云。(つぶさ)()三重秘伝抄の如し。

一 迹門の一念三千をかく()せり等

  (まさ)に知るべし、この中は影略互(ようりゃくご)(けん)なり。何となれば、()(しょう)()(じょう)はこれ(のう)(せん)、事理の三千はこれ所詮(しょせん)なり。記小久成に()るが故に、()く事理の三千を顕すが故なり。故に知んぬ、一念三千・本門久遠は能詮・所詮、文を(あや)なして互顕なり。

一 迹門方便品等

  この下は次に迹門の(とが)を明かす、また二あり。初めに()、次に「しかりと・いえども」の下は(だつ)、これをまた二と為す。初めには法、次には(たとえ)(おのおの)二あり、見るべし。

一 しかりと・いえども・い()発迹(ほっしゃく)(けん)(ぽん)せざれば・(まこと)の一念三千もあらはれず

  宗円記一・三十二に云く「しかりといえどもとは、上を領して下を生ず。(たと)えば奪の辞なり」と云云。竹一本二十に云く「(ほつ)とは開なり」と云云。当に知るべし、爾前の経々には二(しつ)あり。()し迹門の中には一得一失あり。一念三千二乗(にじょう)作仏(さぶつ)と説くはこれ一得なり。(いま)発迹(ほっしゃく)顕本(けんぽん)せざるはこれ一失なり。この失に()るを以ての故に、迹の中の得は(なお)(とが)に属するなり。例せば故に知んぬ、迹も実も本に於ては(なお)虚の義の如し。故に迹門の得失は得失(とも)に失なり。

(また)この(ほっ)()の四文(おのおの)(ほん)()(こん)()、及び有名(うみょう)無実(むじつ)の二失を含むなり。

   問う、迹門の一念三千を何ぞ本無(ほんむ)(こん)()というや。

  答う、(すで)未発迹(みほつしゃく)という、故に今有なり。また未だ顕本せず、故に本無なり。仏界既に(しか)なり。九界もまた爾なり。故に十法界抄に云く「迹門には(ただ)是れ()(かく)の十界()()を説きて未だ必ず本覚(ほんがく)本有(ほんぬ)の十界互具を明さず、故に所化(しょけ)の大衆能化(のうけ)の円仏皆是れ(ことごと)く始覚なり、()(しか)らば本無今有の(とが)何ぞ(まぬか)るることを得んや」と云云。この文、思い合すべし。(あに)()発迹(ほつしゃく)(けん)(ぽん)」の五字、本無今有の失を含むに非ずや。

  問う、亦何ぞ有名(うみょう)無実というや。

  答う、迹門の中に於て一念三千の名ありと(いえど)も一念三千の義なし、故に真の一念三千は(あらわ)れずというなり。十章抄に云く「一念三千の出処は(りゃっ)(かい)(さん)(じゅう)(にょ)実相なれども義分は本門に限る」等云云。これを思い合すべし。

一 二乗(にじょう)作仏(さぶつ)も定まらず

  迹門の二乗作仏は本無今有・有名無実なり。故に「定まらず」というなり。

  問う、迹門の二乗作仏、何ぞ本無今有というや。

  答う、種子を(かく)()するを作仏と名づくるなり。(しか)るに未だ根源の種子を覚知せざる故に(しか)云うなり。
 本尊抄八・二十に云く「久種を以て下種と
()し大通前四味迹門を熟と為して本門に至つて等妙に登らしむるを脱と為す」と云云。(しか)るに迹門に(おい)て未だ久遠(くおん)下種を明かさざるは(あに)本無に(あら)ずや。(しか)るに作仏(さぶつ)というは寧ろ(こん)()に非ずや。玄六・五十四に「失心(しっしん)()失心」と云云。竹六・六十三に云く「本の所受を忘る、故に失心と()う」と云云。竹六・九十の遠益の下の文、これを思い合すべし。(つぶさ)には三重秘伝抄の如し。

  問う、迹門の二乗作仏を何ぞ有名無実というや。

  答う、それ三惑(さんなく)を断ずるを名づけて成仏と為す。(しか)るに迹門の二乗は未だ見思(けんじ)を断ぜず、(いわん)無明(むみょう)を断ぜんや。文九・三十二に云く「今生(こんじょう)に始めて無生(むしょう)(にん)を得、及び未だ得ずとは(ことごと)く此の(いわれ)有るなり」等云云。(なお)(ごん)(じょう)(あい)(ぎょう)す、即ちこれ思惑(しわく)なり。未だ本因・本果を知らず、即ち邪見に当る。豈見惑(けんなく)に非ずや。故に十法界抄に云く「迹門の二乗は未だ見思(けんじ)を断ぜざるは有名無実の故なり」(取意)等云云。

            つづく


開目抄愚記 上 目次



by johsei1129 | 2015-06-07 18:57 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
2015年 06月 06日

開目抄愚記 上一九


一 爾前迹門のききを挙げて云く

  爾前・迹門の間は(ただ)伽耶(がや)()(じょう)()く故なり。初心成仏抄二十二・七に云く「四十二年の(きき)と今経の聴とをばわけ()()らぶべからず」と云云。或る本に「機宜(きぎ)」に作るは不可なり。

一 一切(いっさい)世間の天人等

  問う、何ぞ二乗・菩薩を挙げざるや。

  答う、二乗は開し(おわ)れば即ちこれ菩薩なり。若し諸菩薩は皆、三善道を摂するなり。これ本末の意なり。

十法界抄三十四・三十四に云く「爾前(にぜん)迹門(しゃくもん)の断無明(むみょう)の菩薩を『五十小劫・半日の如しと(おも)えり』と説く」「又天人・修羅に摂し『貪著(とんじゃく)()(よく)(もう)(けん)網中(もうちゅう)(乃至)』と説く」等云云。これ爾前・迹門の菩薩を以て三惑(さんなく)未断(みだん)()すなり。

一 皆今(乃至)と(おも)えり等

  健抄(ごんしょう)の意に云く「本迹勝劣は機情昇進(しょうしん)の一辺なり。故に皆謂えりと云う」と云云。啓蒙(けいもう)に難じて云く「(すで)に始成の説を聞き、即ち近情に(しゅう)す。何ぞ妙法を(えら)んで(ただ)機情のみを取らんや」と。

一 (しか)るに善男子・我実に成仏して

  この下は破権(はごん)(けん)(のん)なり。

  文九・二十二に云く「(しか)るに善男子の下は、執を破し迷を()ることを明かし、以て久遠(くおん)(ほん)を顕す」と云云。

(いわ)く「執を破し迷を遣ることを明かす」とは、即ち「然るに」に字の意を示すなり。(およ)そ「然るに」と言うは、上を(りょう)して下を生ずるの辞なり。上を領するが故に執迷といい、下を生ずるが故に破遣(はけん)というなり。「以て久遠を顕す」とは、即ち「我実に成仏して」の文なり。(ずい)(もん)(おだ)やかならず、(つぶさ)に文句の記の如し。

一 我実に成仏してより已来(いらい)無量無辺

  日健(にちごん)抄に一致相伝の義を示す。意に云く、この文、本迹一致の証拠なり。謂く「我実」は即ちこれ本門、「成仏」は即ちこれ迹門なり。又「我実成仏」は本門、「已来無量無辺」等は迹門なり。既に「本迹一致に説を(まじ)えたり」等云云。

  今破して云く、日健は盲虫、深く名利(みょうり)(ふけ)り、来生を怖れず、聖師の明判を捨て、愚人の相伝を執す、悲しいかな云云。

天台大師は玄文の第七に、正しく本地(ほんち)の三身を配して「我は是れ法身、成仏は報身、已来は応身なり」と云云。「成仏」の二字は既に本地の報身なり。何ぞ是れ迹門ならんや。「已来」はこれ本地の応身なり。何ぞこれを以て迹門と()んや。(いわん)や天台大師はこの文を科して「()(きん)(けん)(のん)」云云。迹の(ごん)(じょう)を破して、本の遠成(おんじょう)(あらわ)すが故なり。況や天台大師、(しょ)の第一に於て(まさ)しくこの文に()って迹門を権経方便と名づけ、本門を実経真実と名づくるをや。故に文に「約本開権顕実」というなり。智雲師云く「本の文に実成久遠と云う。何ぞ直ちに経文に依って(これ)を名づけざらんや」等云云。

宗祖はこの文に拠って迹門を未顕(みけん)真実と名づくるなり。故に十法界抄に云く「我実成仏は寿量品已前を未顕真実と云うに非ずや」と云云。自余(じよ)はこれを略す云云。

            つづく


開目抄愚記 上 目次



by johsei1129 | 2015-06-06 21:39 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)