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日蓮大聖人『御書』解説

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2015年 03月 28日

立正安国論愚記 八

一、()(よう)()(やく)尽きん
 葉はこれ華中の葉なり。枝葉の葉に同じからず。薬の字は根・枝・葉等を(おさ)むるなり。謂く、根の薬、枝の薬等なり。
一、(ただ)(じょう)居天(ごてん)を除いて
 これ色界十七天の最後の五天なり。三果・四果の聖者の所居なり。性抄(しょうしょう)の意は(くう)居天(ごてん)を指すに似たり。未だ分明(ふんみょう)ならず。
一、七味・三精気。
 (かん)(しん)()()(かん)(じゅう)(たん)、これを七味と謂う云云。
 地精気・衆生精気・法精気、これを三精気と謂う。啓蒙に云く「法精気は仏法の事なり」と。
一、解脱(げだつ)の諸の善論
 此に三意あり。一には通じて仏法を指す、二には(ただ)世間の論を指す、三には()(しゅつ)の論を指す云云。
一、希少(きしょう)にして亦(うま)からず。
 華菓(けか)希少にして味美からず。文に配して見るべし。
一、土地(ことごと)鹹鹵(かんろ)し。
 註に云く「または沙鹵(さろ)(かく)(はく)の地と謂うなり」と云云。
一、剖裂して丘澗(くけん)と成らん。
 本経は「(ほう)」の字なり。「丘」はおか、「澗」はほら。(ただ)これ高下なり。
一、之を()ること(しょう)鹿(ろく)の如くならん。
 一義に云く、僻目(ひがめ)にして人を見ること(ながしめ)に似たり、故に譬う云云。
 一義に云く、獐鹿は鹿の中にも父母を思わず、只(ひと)()ね行く者なり。止一 二十二に云く「獐鹿の(ひと)()ぬるが如し」と云云。
一、二十八宿(しゅく)
 (しゃく)(しゅう)の二音は不可無きなり。(きょう)乗法(じょうほっ)(すう)十一・三十五。
一、(ここ)()って一切の聖人。
 点の如し。(ごん)抄に多く点ず云云。
一、(しか)(ため)に彼の国土の中に来生(らいしょう)して等。
「而も来生することを為して」これ啓蒙の点なり。恐らくは(おだ)やかならざるか。

今謂く、而も為に彼の国土の中に来生して、大利益(りやく)()さん云云。普門(ふもん)品の「而も為に法を説く」の如し。
一、十六の大国等。
 七帖(しちじょう)見聞の四本七十四に云く「万国已上(いじょう)を大国と為し、万已下(いげ)四千已上を中国と為し、三千已下七百已上を小国と為し、六百已下三百已上は小にして国と名づけず、二百已下を粟散(ぞくさん)(こく)名づく」と文。
一、日月度を失い。
 仁王吉蔵疏(にんのうきちぞうしょ)・十六に云く「常道に依らざるを度を失うと名づく」と文。健抄に云く「日月行度(ぎょうど)の道は百八十あり」と云云。その日の行度を失うとは、則ち或は高く或は低く、或は遅く或は(はや)し等なり。所詮、常に異るなり。二十八宿(また)(また)(しか)なり。故に或は非処を出す等なり。

一、南斗(なんじゅ)北斗(ほくと)

一義に云く、「斗」はますなり。「じゅ」ははかるなり。南斗・北斗は七星の事なり。天竺(てんじく)()を付けたるますあり。七星彼に似たり、故に()というなり。

一、国主星等。

国主を守る星等なり。
一、大火(たいか)国を焼き等
 「鬼火」とは、鬼の衆生を(いか)れば悪火(よる)こる。「竜火」とは、霹靂(へきれき)の火を起こす。「天火」とは麋竺(びじく)及び(おう)()が古事の如し。「山神(さんじん)()」は仙人の瞋れば火は(いかり)によって生ず云云。「(じん)()」とは人の(あやま)って火を(はな)つが如し。「樹木(じゅもく)()」とは(こう)(よう)時に過ぎ樹木の火を起す。「賊火」とは賊の火を放つ、即ち賊火と名づく。今処処の意を取る云云。山神に火は註す云云。
一、冬雨ふり・夏雪ふり
 冬連日の雨なり。夏の雪、日本に於ては(まん)寿(じゅ)四年四月、大雪降る。厚さ四尺五寸、日本一覧の図にあり。また(しょう)(へい)元年六月八日、大雪降る。同二年、将門(まさかど)反逆(はんぎゃく)す云云。
一、土山(どせん)石山(しゃくせん)()らし
 後を以て初めに名づくるか。謂く、()って山の如し。故に「土山・石山」等というか。



                           つづく
立正安国論愚記 目次



by johsei1129 | 2015-03-28 10:15 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
2015年 03月 27日

海にあらざればわかめなし<略>法華経にあらざれば仏になる道なかりける、と説いた【四条金吾殿御書】

【四条金吾殿御書(九思一言事)】
■出筆時期:建治四年(西暦1278)一月二十五日 五十七歳御作。
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:本書は四条金吾が前年の6月23日、主君江間氏よりご勘気を蒙り所領を取り上げられ家来の身分を失っていたが、主君の病を献身的に看病したこともあり、半年後にご勘気が解かれる。大聖人はそのことを金吾から聞くとともに、弟子の円教房から江間氏の息子江間四郎の御共の武士の中で金吾殿が一番であるとが鎌倉中の評判であることを聞き、「法華経の御力にあらずや」と喜ぶとともに、今後は同僚の恨みをかうこともあるだろうから十分日頃の行動に注意するよう細々と指示している。この書は弟子の安否を深く気遣う、人間日蓮の一面を垣間見ることができる貴重なご消息文となっている。
■ご真筆: 現存していない。

[四条金吾殿御書(九思一言事)]

鷹取のたけ・身延のたけ・なないたがれのたけ・いいだにと申し、木のもと・かやのね・いわの上・土の上いかにたづね候へども・をひて候ところなし、されば海にあらざれば・わかめなし・山にあらざれば・くさびらなし、法華経にあらざれば仏になる道なかりけるか

 これは・さてをき候いぬ、なによりも承りて・すずしく候事は・いくばくの御にくまれの人の御出仕に人かずに・めしぐせられさせ給いて、一日・二日ならず御ひまもなきよし・うれしさ申すばかりなし、えもんのたいうのをやに立ちあひて上の御一言にてかへりてゆりたると殿のすねんが間のにくまれ・去年のふゆはかうとききしに・かへりて日日の御出仕の御とも・いかなる事ぞ、ひとへに天の御計い法華経の御力にあらずや、其の上円教房の来りて候いしが申し候は、えまの四郎殿の御出仕に御ともの・さふらい二十四・五其の中にしうはさてをきたてまつりぬ、ぬしのせいといひ・かをたましひ・むま下人までも中務のさえもんのじやう第一なり、あはれをとこや・をとこやと・かまくらわらはべは・つじちにて申しあひて候しとかたり候。

 これに・つけてもあまりにあやしく候、孔子は九思一言・周公旦は浴する時は三度にぎり食する時は三度はかせ給う、古の賢人なり今の人のかがみなり。されば今度はことに身をつつしませ給うべし、よるはいかなる事ありとも一人そとへ出でさせ給うべからず、たとひ上の御めし有りともまづ下人をこそへ・つかわして、なひなひ一定を・ききさだめて・はらまきをきて・はちまきし、先後・左右に人をたてて出仕し御所のかたわらに・心よせの・やかたか又我がやかたかに・ぬぎをきて・まいらせ給うべし、家へかへらんにはさきに人を入れてとのわきはしのしたむまやのしり・たかどの一切くらきところを・みせて入るべし・せうまうには我が家よりも人の家よりもあれ・たからを・をしみてあわてて火をけすところへ・づつとよるべからず、まして走り出る事なかれ、出仕より主の御ともして御かへりの時はみかどより馬より・をりて、いとまの・さしあうよし・はうくわんに申して・いそぎかへるべし、上のををせなりとも・よに入りて御ともして御所に・ひさしかるべからず、かへらむには第一・心にふかき・えうじんあるべし、ここをば・かならず・かたきの・うかがうところなり。

  人のさけたばんと申すともあやしみて・あるひは言をいだし・あるひは用いることなかれ。又御をととどもには常はふびんのよしあるべし、つねにゆせにざうりのあたいなんど心あるべし、もしやの事のあらむには・かたきはゆるさじ、我がために・いのちをうしなはんずる者ぞかしと・をぼして、とがありとも・せうせうの失をば・しらぬやうにてあるべし、又女るひはいかなる失ありとも一向に御けうくんまでも・あるべからず、ましていさかうことなかれ。

 涅槃経に云く「罪極て重しと雖も女人に及ぼさず」等云云。文の心はいかなる失ありとも女のとがををこなはざれ、此れ賢人なり此れ仏弟子なりと申す文なり。

 此の文は阿闍世王・父を殺すのみならず母をあやまたむと・せし時・耆婆・月光の両臣がいさめたる経文なり、我が母心ぐるしくをもひて臨終までも心にかけし・いもうとどもなれば失を・めんじて不便というならば母の心やすみて孝養となるべしと・ふかくおぼすべし、他人をも不便というぞかし・いわうや・をとをとどもをや、もしやの事の有るには一所にて・いかにもなるべし、此等こそとどまりゐてなげかんずれば・をもひでにと・ふかくをぼすべし、かやう申すは他事はさてをきぬ、雙六
は二ある石はかけられず、鳥の一の羽にてとぶことなし、将門さだたふがやうなりし・いふしやうも一人は叶わず、されば舎弟等を子とも郎等とも・うちたのみて・をはせば、もしや法華経もひろまらせ給いて世にもあらせ給わば一方のかたうどたるべし。

 すでに・きやうのだいり院のごそかまくらの御所・並に御うしろみの御所・一年が内に二度・正月と十二月とにやけ候いぬ、これ只事にはあらず謗法の真言師等を御師とたのませ給う上かれら法華経をあだみ候ゆへに天のせめ法華経・十羅刹の御いさめあるなり、かへりて大ざんげあるならば・たすかるへんも・あらんずらん、いたう天の此の国ををしませ給うゆへに大なる御いさめあるか、すでに他国が此の国をうちまきて国主・国民を失はん上仏神の寺社・百千万がほろびんずるを天眼をもつて見下して・なげかせ給うなり、又法華経の御名をいういうたるものどもの唱うるを誹謗正法の者どもが・をどし候を天のにくませ給う故なり。

あなかしこ・あなかしこ、今年かしこくして物を御らんぜよ、山海・空市まぬかるところあらば・ゆきて今年はすぎぬべし、阿私陀仙人が仏の生れ給いしを見て、いのちををしみしがごとし・をしみしがごとし、恐恐謹言。

正月二十五日 日 蓮 花押
中務左衛門尉殿

by johsei1129 | 2015-03-27 18:52 | 四条金吾・日眼女 | Trackback | Comments(0)
2015年 03月 25日

Gosho 御義口伝下 Orally Transmitted teachings on the Lotus Sutra Part 2

第廿九法界礼拝住処の事

Point Twenty-nine, concerning the bow of obeisance related to the Dharma-realm

御義口伝に云く、法界に立ちて礼拝するなり、

The Record of the Orally TransmittedTeachings says: The bodhisattva Never Disparaging makes a bow of obeisance from the stand point of the Dharma-realm.

法界とは広きに非ず、狭きに非ず、

The Dharma-realm is neither broad, nor is it narrow.

(そう)じて法とは諸法なり、界とは境界なり、

Essentially, the word “Dharma” of the Dharma-realm stands for all the dharmas, or elements of the phenomenal world,and the word “realm” is the world or state of life in which they dwell.

地獄界乃至仏界各各(さかい)(のっと)る間不軽菩薩は不軽菩薩の界に法り、上慢の四衆は四衆の界に法るなり、

Each realm or world, from the realm of hell to the state of Buddhahood, has its own patterns or rules (dharmas). Thus, the bodhisattva Never Disparaging conforms to the rules of the realm of the bodhisattva Never Disparaging, while the four kinds of believers of over bearing arrogance conform to the rules of the realm of the four kinds of believers.

(よっ)て法界が法界を礼拝するなり、自他不二の礼拝なり、

In this sense, the Dharma-realm makes a bow of obeisance to the Dharma-realm, abow of obeisance acknowledging the fact that “self” and “others” are in fact not two different things.

其の故は不軽菩薩の四衆を礼拝すれば、上慢の四衆所具の仏性又不軽菩薩を礼拝するなり、

For this reason, when the bodhisattva Never Disparaging makes his bow of obeisance to the four kinds of believers, the Buddha nature inherent in the four kinds of believers of overbearing arrogance bows in obeisance to the bodhisattva Never Disparaging.

鏡に向つて礼拝を成す時、浮べる影又我を礼拝するなり云云。

It is like the situation when one faces a mirror and makes a bow of obeisance: the image in the mirror likewise makes a bow of obeisance to oneself.



解説 Commentary



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by johsei1129 | 2015-03-25 21:14 | WRITING OF NICHIREN | Trackback | Comments(0)
2015年 03月 25日

Gosho 御義口伝下 Orally Transmitted teachings on the Lotus Sutra Part 2

第廿三 無明(むみょう)礼拝(らいはい)住処の事

Point Twenty-three, concerning the bow of obeisance related to ignorance

御義口伝に云く、自他の隔意(きゃくい)を立て彼は上慢の四衆・我は不軽と云う、

The Record of the Orally Transmitted Teachings says: When one sets up distinctions between self and others, then the“others” are the four kinds of believers of overbearing arrogance, and the “I” is the bodhisattva Never Disparaging.

不軽は善人・上慢は悪人と善悪を立つるは無明なり、

To set up distinctions between good and badby regarding the bodhisattva Never Disparaging as a “good” person and the arrogant ones as “bad” persons is a sign of ignorance.

此に立つて礼拝の行を成す時、善悪不二・(じゃ)(しょう)一如(いちにょ)の南無妙法蓮華経と礼拝するなり云云。

But when one recognizes this and performs abow of obeisance, then one is bowing in obeisance to Nam-myoho-renge-kyo, the principle in which good and bad are not two different things, in which correct and incorrect are one and the same.

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解説 Commentary




by johsei1129 | 2015-03-25 21:11 | WRITING OF NICHIREN | Trackback | Comments(0)
2015年 03月 25日

Gosho 御義口伝下 Orally Transmitted teachings on the Lotus Sutra Part 2

第十四 畢是罪已復遇(ございひっちぶぐう)(じょう)不軽(ふきょう)菩薩(ぼさつ)の事

Point Fourteen, on the words

()の罪を()(おわ)って、(また)常不軽菩薩の阿耨多羅三藐三(あのくたらさんみゃくさん)菩提(ぼだい)を教化するに()いにき」

“After they had finished paying for their offenses, they once more encountered the bodhisattva Never Disparaging, who instructed them inanuttara-samyak-sambodhi [supreme perfect enlightenment].”

御義口伝に云く、()し法華誹謗の(とが)を改めて信伏随従(ずいじゅう)する共、浅く有っては無間(むけん)()つ可きなり、

The Record of the Orally Transmitted Teachings says: Though people may regret their error in slandering the Lotus Sutra [ Gohonzon ] and take faith in and give allegiance to the teachings, if their faith is shallow, they will still have to fall into the hell of incessant suffering.

先謗(せんぼう)強きが故に()るなり、

This is due to the vehemence with which they earlier committed slander.

千劫無間地獄に堕ちて後に出づる()有つて又日蓮に()う可きなり、

But after they have been plunged into the hell of incessant suffering for a thousand kalpas and the time has come for their release, then they will meet Nichiren once again.

復遇(ぶぐう)日蓮なるべし。

As the sutra says, “they once more” will encounter Nichiren.

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by johsei1129 | 2015-03-25 21:09 | WRITING OF NICHIREN | Trackback | Comments(0)
2015年 03月 25日

Gosho 御義口伝下 Orally Transmitted teachings on the Lotus Sutra Part 2


第十三 常不値(ふち)(ぶつ) 不聞法(ふもんぽう) ()(けん)(そう)の事

Point Thirteen, concerning the passage

(とく)大勢(だいせい)()の時の()(しゅう)比丘(びく)比丘尼(びくに)()()(そく)()()()瞋恚(しんに)の心を以て我を軽賤(きょうせん)せしが故に、二百億(こう)に常に仏に()わず、法を聞かず、僧を見ず、

“Gainer of Great Authority, at that time the four kinds of believers, the monks, nuns, laymen, and laywomen, because anger arose intheir minds and they treated me with disparagement and contempt, were for two hundred million kalpas never able to encounter a Buddha, to hear the Law, or to see the community of monks.

千劫阿鼻(あび)地獄に()いて大苦悩を受く」

For a thousand kalpas they underwent great suffering in the Avīchi hell.”

御義口伝に云く、此の文は不軽菩薩を軽賤(きょうせん)するが故に三宝を拝見せざる事、二百億劫地獄に()ちて大苦悩を受くと云えり、

The Record of the Orally TransmittedTeachings says: This passage relates how the four kinds of believers, because they treated the bodhisattva Never Disparaging with disparagement and contempt,were never able to encounter the three treasures for two hundred million kalpas, but fell into hell and underwent great suffering.

今末法に入つて日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者を軽賤(きょうせん)せん事は彼に過ぎたり、

Butnow that we have entered the Latter Day of the Law, those who treat Nichiren and his followers, who chant Nam-myoho-renge-kyo, with disparagement and contempt are even worse than those others.

彼は千劫、此れは至無数劫(しむしゅこう)なり。

Those others suffered for a thousand kalpas,but these will suffer “for a countless number of kalpas”.

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by johsei1129 | 2015-03-25 21:07 | WRITING OF NICHIREN | Trackback | Comments(0)
2015年 03月 25日

Gosho 御義口伝下 Orally Transmitted teachings on the Lotus Sutra Part 2

第十一 於四(おし)衆中(しゅうちゅう)説法(せっぽう)心無所畏(しんむしょい)の事

Point Eleven, on the words “Among the four kinds of believers he preached the Law with no fear in his mind.”

御義口伝に云く、四衆とは日本国の中の一切衆生なり、

The Record of the Orally TransmittedTeachings says: The words “four kinds of believers” refer to all the living beings in the country of Japan.

説法とは南無妙法蓮華経なり、

The words “preached the Law” refer toNam-myoho-renge-kyo.

心無所畏とは今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と()ばわる所の折伏なり云云。

“With no fear in his mind” describes the manner in which Nichiren and his followers now call out Nam-myoho-renge-kyo as they perform their shakubuku practice.


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by johsei1129 | 2015-03-25 21:06 | WRITING OF NICHIREN | Trackback | Comments(0)
2015年 03月 20日

立正安国論愚記 七

一、(あく)(しゅ)増長(ぞうちょう)
 これはこれ四悪趣なり。「生死の河に()つ」とは、上の六凡を以て通じて生死と為し、四聖の用を以て涅槃と為すなり。性抄(しょうしょう)分明(ふんみょう)ならざるに似たり云云。
一、()くの如き()を見て
 性抄に云く「即ち正法の流を失うの事なり」と云云。この義、未だ(うま)からず。
 今(いわ)く、但これ「未だ(かつ)流布(るふ)せしめず」等の事なり。已下は神聖捨去(しゃこ)の正引なり。
一、擁護(おうご)の心無けん
 持経者に於てまた両向あり。開目抄の意は、謗法の世をば守護神()て去る、故に正法の行者に(しるし)なし等云云。八幡抄の意は、その国を捨去すと雖も、若し正法の行者あれば即ち其の(いただき)に宿る等云云。これ共業(ぐごう)別感(べっかん)に由る故なり。
一、当に種種の災禍(さいか)有って等
 「当」の字は「国位」に(かん)すべし。性抄は但「災禍」のみに冠するなり。
一、彗星(すいせい)(しばしば)出で
 「彗」は(ほうき)(だけ)なり。これ大火兵乱の(あく)(ずい)なり。左伝二十三・二十二に云く「申須(しんしゅ)云く、彗は旧を除き新を()所以(ゆえん)なり。諸侯其れ火災あらんか」と文。史記百十八・七に云く「建元(けんげん)六年彗星見ゆ。(わい)南王(なんおう)心に(あや)しむ。或る(ひと)王に説いて云く、()(いくさ)起る、彗星出でて長きこと数尺、然るに(なお)血を流すこと千里、今彗星の長きこと天に(わた)る、天下に兵(まさ)に大に起るべし」と云云。(また)大論二・四に「仏の涅槃の時、彗星昼に出ず」と云云。
一、両日並び現じ
 (ぎょう)の時、十の日並び現ずること註の如し。劫末に七の日現るること涅槃経の如し云云。文永五年五月八日、両の日出ず。同六年二月十一日、三の月(日)並び出ず。その後、百三代()花園(はなぞの)御宇(ぎょう)長禄(ちょうろく)二年、同三年、続けて両の日出ず云云。(かん)(しょう)三年、三の日並び出で、同四年正月(さく)(じつ)には三の日並び出ず云云。
一、薄蝕(はくしょく)(つね)無く
 従義に云く「体現じて光なきを薄と為し、正()けて体を損ずるを蝕と為す」と云云。晦朔(かいさく)の日蝕、(ぼう)(じつ)の月蝕はこれ恒なり。臨時の食あり、これ恒なきなり。
一、黒白(こくびゃく)()(こう)文。
釈名に云く「純陽、陰を攻むるの気なり」と云云。並びに註中の如し。啓蒙に云云。朝抄の「(ひきがえる)の気とは、未だ本拠を(かんが)えず」と。啓蒙の中に種々の事あり、往いて見よ。
一、井の内に声を(おこ)

啓蒙の一義に云く「地動に由り水声を発す」と云云。この義、(うま)からず云云。

七月二十四日

一、大集経に云く等
 (ごん)抄に云く「月蔵(がつぞう)分第二、建立寺塔品の文」とは不可なり。月蔵経並びに十法滅尽品二十七紙の文なり。
一、(しゅ)(ほつ)(そう)皆長く
 元照の発真抄上末二十六に云く「()鬚爪髪(ことごと)(みな)長利なるは法滅の相なり」と文。律の中に明かす「(ひと)(あら)(むぎ)(いた)るならば則ち之を剃除(ていじょ)せよ」と。元照云く「爪極めて長くも一麦にして当に()るべし」と云云。若し鬚髪爪長くば、これ沙門の常儀に(たが)いて外道に似る、故にこれ法滅の相なり。健抄に「還俗(げんぞく)の義」というは不可なり。

問う、この三の表示如何。

答う、一義に云く、これ三惑増長を表す。髪はこれ見思(けんじ)、鬚はこれ塵沙(じんじゃ)、爪はこれ無明(むみょう)。真言には、これを三妄執(もうしゅう)と謂う。謂く、()妄執・(さい)妄執・()妄執と云云。今謂く、若し当文()らば、恐らくは三毒増長を表するか。髪は以て(とん)を表し、見て愛を生ずるが故に。爪はこれ(じん)を表し、堅利なるを以ての故に。鬚はまた()を表す。要覧上に云く「其の好形(こうぎょう)(こぼ)ち、鬚髪を(てい)(じょ)す。過去に諸仏、即ち発願(ほつがん)して云く、今落髪す、故に願わくは一切衆生と煩悩を断除せんと。今此の鬚髪を彼の煩悩に(たと)う」等云云文。今下の経文に云く「(とん)(じん)()倍増」等云云。これを思え。
一、大なる声あって地を(ふる)
註に云く「天雷()に徹して其の()転ずること(なお)水車の如し」と云云。健抄に云く「昔、天狗(てんぐ)流星という者、響き(わた)りて有りけり」と云云。弘の五の中・三に、「天狗流行(るぎょう)し地(しばしば)振動す」と文。健抄の意はこの文に依るか。この義、大旨に(こた)うるなり。

                     

                      つづく
立正安国論愚記 目次



by johsei1129 | 2015-03-20 22:09 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
2015年 03月 20日

一生は夢の上明日を期せず、如何なる乞食には成とも法華経に疵をつけ給うべからずと説いた【不可惜所領事】

【四条金吾殿御返事(不可惜所領事)】
■出筆時期:建治3年(1277)7月 五十六歳御作
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:本書は大聖人の直弟子、日行と念仏僧・竜象房との「桑ヶ谷問答」に四条金吾が参加したことで、念仏を信仰する主君の江間氏から説法の座で狼藉を働いたと誤解され、法華経信仰を捨てるという起請を書くよう迫られた金吾が大聖人に対したとえ所領を失っても起請は書かないと報告したことに対する大聖人の返書となっている。大聖人は所領を失っても起請は書かないとする金吾の志を「(三千年に一度花が咲くという)優曇華のさきたるをみるか」と讃えられるとともに「一生はゆめの上、明日をごせず。いかなる乞食にはなるとも法華経にきずをつけ給うべからず」と法華経信仰を貫くよう厳しく諭されている。
■ご真筆: 大分市 常妙寺他一箇所、断簡所蔵。
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真筆断簡の本文:『末代の凡夫いかでか此経の行者となるべき。設日蓮一人は杖木瓦礫悪口王難をもしのぶとも、妻子を』

[四条金吾殿御返事(不可惜所領事) 本文]

 去月二十五日の御文・同月の二十七日の酉の時に来りて候。仰せ下さるる状と又起請かくまじきよしの御せいじやうとを見候へば優曇華のさきたるをみるか赤栴檀のふたばになるをえたるか。めづらし・かうばし、三明六通を得給う上・法華経にて初地・初住にのぼらせ給へる証果の大阿羅漢・得無生忍の菩薩なりし舎利弗・目連・迦葉等だにも娑婆世界の末法に法華経を弘通せん事の大難こらへかねければ・かなふまじき由・辞退候いき。まして三惑未断の末代の凡夫が争(いかで)か此経の行者となるべき、設い日蓮一人は杖木・瓦石・悪口・王難をも忍ぶとも妻子を帯せる無智の俗なんどは争か叶うべき、中中・信ぜざらんはよかりなん・すへ・とをらずしばしならば人に・わらはれなんと不便にをもひ候いしに、度度の難・二箇度の御勘気に心ざしを・あらはし給うだにも不思議なるに、かく・おどさるるに二所の所領をすてて法華経を信じ・とをすべしと御起請候事いかにとも申す計りなし。

 普賢・文殊等なを末代はいかんがと仏思し食して妙法蓮華経の五字をば地涌千界の上首・上行等の四人にこそ仰せつけられて候へ。只事の心を案ずるに日蓮が道をたすけんと上行菩薩・貴辺の御身に入りかはらせ給へるか又教主釈尊の御計いか、彼の御内の人人うちはびこつて良観・竜象が計ひにてや・ぢやうあるらん。起請をかかせ給いなば・いよいよかつばらをごりて・かたがたに・ふれ申さば鎌倉の内に日蓮が弟子等一人もなく・せめうしなひなん。凡夫のならひ身の上は・はからひがたし、これを・よくよく・しるを賢人・聖人とは申すなり。

 遠きをば・しばらく・をかせ給へ、近きは武蔵のかう殿・両所をすてて入道になり結局は多くの所領・男女のきうだち御ぜん等をすてて御遁世と承わる、とのは子なし・たのもしき兄弟なし・わづかの二所の所領なり。一生はゆめの上・明日をごせず・いかなる乞食には・なるとも法華経にきずをつけ給うべからず。されば同くは・なげきたるけしきなくて此の状に・かきたるが・ごとく・すこしも・へつらはず振舞仰せあるべし、中中へつらふならば・あしかりなん、設ひ所領をめされ追い出し給うとも十羅刹女の御計いにてぞ・あるらむと・ふかくたのませ給うべし。

 日蓮はながされずして・かまくらにだにも・ありしかば・有りし・いくさに一定打ち殺されなん。此れも又御内にては・あしかりぬべければ釈迦仏の御計いにてや・あるらむ。陳状は申して候へども又それに僧は候へども・あまりのおぼつかなさに三位房をつかはすべく候に・いまだ所労きらきらしく候はず候へば・同事に此の御房をまいらせ候、だいがくの三郎殿か・たきの太郎殿か・とき殿かに・いとまに随いて・かかせてあげさせ給うべし、これはあげなば事きれなむ・いたう・いそがずとも内内うちを・したため・又ほかの・かつばらにも・あまねく・さはがせて・さしいだしたらば若(もし)や此の文かまくら内にも・ひろうし上へもまいる事もやあるらん、わざはひの幸はこれなり。

 法華経の御事は已前に申しふりぬ、しかれども小事こそ善よりは・をこて候へ。大事になりぬれば必ず大なる・さはぎが大なる幸となるなり、此の陳状・人ごとに・みるならば彼等がはぢあらわるべし、只一口に申し給へ我とは御内を出て所領をあぐべからず、上より・めされいださむは法華経の御布施・幸と思うべしと・ののしらせ給へ、かへすがへす奉行人に・へつらうけしきなかれ、此の所領は上より給たるにはあらず、大事の御所労を法華経の薬をもつて・たすけまいらせて給て候所領なれば召すならば御所労こそ又かへり候はむずれ、爾時は頼基に御たいじゃう(怠状)候とも用ひまいらせ候まじく候とうちあて・にくさうげにて・かへるべし。

 あなかしこ・あなかしこ・御よりあひあるべからず、よるは用心きびしく夜廻(よまわり)の殿原かたらいて用ひ常には・よりあはるべし今度御内をだにも・いだされずば十に九は内のものねらひなむかまへて・きたなきしにすべからず。

建治三年丁丑七月            日 蓮  花押
四条金吾殿御返事

by johsei1129 | 2015-03-20 21:40 | 四条金吾・日眼女 | Trackback | Comments(0)
2015年 03月 19日

Gosho 御義口伝下 Orally Transmitted teachings on the Lotus Sutra Part 2

第二 六根清浄(しょうじょう)の事

Point Two, regarding the purification of the six sense organs

御義口伝に云く、眼の功徳とは法華不信の者は無間(むけん)堕在(だざい)し、信ずる者は成仏なりと見るを以て眼の功徳とするなり、

The Record of the Orally Transmitted Teachings says: the term “eye benefits” means the ability to see that those who do not believe in the Gohonzon will fall into the hell of incessant suffering,and that those who do believe in it will attain Buddhahood.

法華経を持ち奉る処に眼の八百の功徳を得るなり、

By upholding the Gohonzon, one can obtain the eight hundred eye benefits.

眼とは法華経なり、

The word “eye” refers to the Gohonzon.

此の大乗経典は諸仏の眼目と、

“The Great Gohonzon is . . . the eye of the Buddhas.”

今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は眼の功徳を得るなり云云、

Now when Nichiren and his followers chant Nam-myoho-renge-kyo, they are obtaining these eye benefits.

()()(ぜつ)(しん)()又又此くの如きなり云云。

And the same applies to the benefits associated with the ear, nose, tongue, body, and mind.

今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者の希有(けう)の地とは末法弘通の明鏡たる本尊なり

Now the “rare ground” occupied by Nichiren and his followers, who chant Nam-myoho-renge-kyo, is the Gohonzon, the bright mirror to be broadly disseminated in the Latter Day of the Law.

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解説 Commentary


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by johsei1129 | 2015-03-19 22:01 | WRITING OF NICHIREN | Trackback | Comments(0)