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日蓮大聖人『御書』解説

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2015年 02月 28日

法華経を一字一句も唱え又人にも語り申さんものは教主釈尊の御使なり、と説いた【梵音声御書】

【四条金吾殿御返事(梵音声書)】
■出筆時期:文永九年(西暦1272年)九月 五十一歳 御作。
■出筆場所:佐渡・一谷、一谷入道の屋敷にて。
■出筆の経緯:本書は四条金吾が亡母の三回忌追善供養のために、佐渡の大聖人の元に使いを出したのに答えたたご消息文となります。
本書で大聖人は「梵音声と申すは仏の第一の相なり。<中略>法華経は釈迦如来の書き顕して此の御音を文字と成し給う仏の御心はこの文字に備れり」説いていることから別名を「梵音声御書」と言います。さらに「法華経を一字一句も唱え又人にも語り申さんものは教主釈尊の御使なり、然れば日蓮賤身なれども教主釈尊の勅宣を頂戴して此の国に来れり、此れを一言もそしらん人人は罪を無間に開き一字一句も供養せん人は無数の仏を供養するにもすぎたりと見えたり」と説いて、末法に法華経を説く日蓮を供養する四条金吾は、無数の仏を供養する事に超過するとその志を称えておられる。

■ご真筆: 現存していない。

[四条金吾殿御返事(梵音声御書)本文]

 夫れ斉の桓公と申せし王・紫をこのみて服給いき、楚の荘王と言いし王は女の腰のふとき事を・にくみしかば一切の遊女・腰をほそからせんが・ために餓死しけるもの・おほし、しかれば一人の好む事をば我が心にあはざれども万民随いしなり、たとへば大風の草木をなびかし大海の衆流をひくが如し、風にしたがはざる草木は・をれうせざるべしや、小河・大海におさまらずば・いづれのところにおさまるべきや、国王と申す事は先生に万人にすぐれて大戒を持ち天地及び諸神ゆるし給いぬ、其の大戒の功徳をもちて其の住むべき国土を定む、二人・三人等を王とせず地王・天王・海王・山王等・悉く来臨して・この人をまほる、いかに・いはんや其の国中の諸民・其の大王を背くべしや、此の王はたとひ悪逆を犯すとも一二三度等には左右なく此の大王を罰せず、但諸天等の御心に叶わざるは一往は天変地夭等を・もちて・これをいさむ、事過分すれば諸天・善神等・其の国土を捨離し給う、若しは此の大王の戒力つき期来つて国土のほろぶる事もあり、又逆罪多くにかさまれば隣国に破らるる事もあり、善悪に付て国は必ず王に随うものなるべし。

 世間此くの如し仏法も又然なり、仏陀すでに仏法を王法に付し給うしかればたとひ聖人・賢人なる智者なれども王にしたがはざれば仏法流布せず、或は後には流布すれども始めには必ず大難来る、迦弐志加王は仏の滅後四百余年の王なり健陀羅国を掌のうちににぎれり、五百の阿羅漢を帰依して婆沙論二百巻をつくらしむ、国中総て小乗なり其の国に大乗弘めがたかりき、発舎密多羅王は五天竺を随へて仏法を失ひ衆僧の頚をきる、誰の智者も叶わず。

 太宗は賢王なり玄奘三蔵を師として法相宗を持ち給いき誰の臣下かそむきし、此の法相宗は大乗なれども五性各別と申して仏教中のおほきなるわざはひと見えたり、なを外道の邪法にもすぎ悪法なり、月支・震旦・日本・三国共にゆるさず、終に日本国にして伝教大師の御手にかかりて此の邪法止め畢んぬ、大なるわざはひなれども太宗これを信仰し給いしかば誰の人かこれをそむきし。

 真言宗と申すは大日経・金剛頂経・蘇悉地経による・これを大日の三部と号す、玄宗皇帝の御時・善無畏三蔵・金剛智三蔵・天竺より将ち来れり、玄宗これを尊重し給う事・天台・華厳宗等にもこへたり、法相・三論にも勝れて思し食すが故に漢土は総て大日経は法華経に勝るとおもひ日本国・当世にいたるまで天台宗は真言宗に劣るなりとおもふ、彼の宗を学する東寺・天台の高僧等・慢・過慢をおこす、但し大日経と法華経とこれをならべて偏党を捨て是を見れば大日経は螢火の如く法華経は明月の如く真言宗は衆星の如く天台宗は日輪の如し、偏執の者の云く汝未だ真言宗の深義を習いきはめずして彼の無尽の科を申す、但し真言宗・漢土に渡つて六百余年・日本に弘まりて四百余年・此の間の人師の難答あらあら・これをしれり、伝教大師一人・此の法門の根源をわきまへ給う、しかるに当世・日本国第一の科是なり、勝を以て劣と思い劣を以て勝と思うの故に大蒙古国を調伏する時・還つて襲われんと欲す是なり。

 華厳宗と申すは法蔵法師が所立の宗なり、則天皇后の御帰依ありしによりて諸宗・肩をならべがたかりき、しかれば王の威勢によりて宗の勝劣はありけり法に依つて勝劣なきやうなり。
たとひ深義を得たる論師・人師なりといふとも王法には勝がたきゆへに・たまたま勝んとせし仁は大難にあへり、所謂師子尊者は檀弥羅王のために頚を刎ねらる、提婆菩薩は外道のために殺害せらる、竺の道生は蘇山に流され法道三蔵は面に火印をされて江南に放たれたり、而るに日蓮は法華経の行者にもあらず又僧侶の数にもいらず。 然り而して世の人に随て阿弥陀仏の名号を持ちしほどに阿弥陀仏の化身とひびかせ給う善導和尚の云く「十即十生・百即百生・乃至千中無一」と、勢至菩薩の化身とあをがれ給う法然上人此の釈を料簡して云く「末代に念仏の外の法華経等を雑ふる念仏においては千中無一・一向に念仏せば十即十生」と云云、日本国の有智・無智仰いで此の義を信じて今に五十余年・一人も疑を加へず、唯日蓮の諸人にかはる所は阿弥陀仏の本願には「唯五逆と誹謗正法とを除く」とちかひ、法華経には「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば則ち一切世間の仏種を断ず、乃至其の人命終して阿鼻獄に入らん」と説かれたり。此れ善導・法然・謗法の者なれば・たのむところの阿弥陀仏にすてられをはんぬ、余仏・余経においては我と抛ちぬる上は救い給うべきに及ばず、法華経の文の如きは無間地獄・疑なしと云云、而るを日本国は・をしなべて彼等が弟子たるあひだ此の大難まぬかれがたし。
無尽の秘計をめぐらして日蓮をあだむ是なり先先の諸難はさておき候いぬ、去年九月十二日・御勘気をかほりて其の夜のうちに頭をはねらるべきにて・ありしが・いかなる事にやよりけん彼の夜は延びて此の国に来りていままで候に世間にも・すてられ仏法にも・すてられ天も・とぶらはれず二途にかけたるすてものなり、而るを何なる御志にて・これまで御使を・つかはし御身には一期の大事たる悲母の御追善第三年の御供養を送りつかはされたる両三日は・うつつとも・おぼへず、彼の法勝寺の修行がいはをが嶋にて・としごろつかひける童にあひたりし心地なり、胡国の夷陽公といひしもの漢土にいけどられて北より南へ出けるに飛びまひける雁を見てなげきけんも・これには・しかじとおぼへたり。

 但し法華経に云く「若し善男子善女人我が滅度の後に能く竊かに一人の為にも法華経の乃至一句を説かん、当に知るべし是の人は則ち如来の使如来の所遣として如来の事を行ずるなり」等云云、法華経を一字一句も唱え又人にも語り申さんものは教主釈尊の御使なり、然れば日蓮賤身なれども教主釈尊の勅宣を頂戴して此の国に来れり、此れを一言もそしらん人人は罪を無間に開き一字一句も供養せん人は無数の仏を供養するにも・すぎたりと見えたり。

 教主釈尊は一代の教主・一切衆生の導師なり、八万法蔵は皆金言・十二部経は皆真実なり、無量億劫より以来持ち給いし不妄語戒の所詮は一切経是なり、いづれも疑うべきにあらず、但是は総相なり別してたづぬれば如来の金口より出来して小乗・大乗・顕密・権経・実経是あり、今この法華経は「正直捨方便等・乃至世尊法久後・要当説真実」と説き給う事なれば誰の人か疑うべきなれども多宝如来・証明を加へ諸仏・舌を梵天に付け給う、されば此の御経は一部なれども三部なり一句なれども三句なり一字なれども三字なり、此の法華経の一字の功徳は釈迦・多宝・十方の諸仏の御功徳を一字におさめ給う、たとへば如意宝珠の如し一珠も百珠も同じき事なり一珠も無量の宝を雨す百珠も又無尽の宝あり、たとへば百草を抹りて一丸乃至百丸となせり一丸も百丸も共に病を治する事これをなじ、譬へば大海の一滴も衆流を備へ一海も万流の味を・もてるが如し。

 妙法蓮華経と申すは総名なり二十八品と申すは別名なり、月支と申すは天竺の総名なり別しては五天竺是なり、日本と申すは総名なり別しては六十六州これあり、如意宝珠と申すは釈迦仏の御舎利なり竜王にこれを給いて頂上に頂戴して帝釈是を持ちて宝をふらす、仏の身骨の如意宝珠となれるは無量劫来持つ所の大戒・身に薫じて骨にそみ一切衆生をたすける珠となるなり。たとへば犬の牙の虎の骨にとく魚の骨のうの気に消ゆるが如し、乃至・師子の筋を琴の絃にかけて・これを弾けば余の一切の獣の筋の絃皆きらざるに・やぶる、仏の説法をば師子吼と申す乃至法華経は師子吼の第一なり。

仏には三十二相そなはり給う一一の相・皆百福荘厳なり、肉髻・白毫なんど申すは菓の如し因位の華の功徳等と成つて三十二相を備え給う、乃至無見頂相と申すは釈迦仏の御身は丈六なり竹杖外道は釈尊の御長をはからず御頂を見奉らんとせしに御頂を見たてまつらず、応持菩薩も御頂を見たてまつらず、大梵天王も御頂をば見たてまつらず、これは・いかなるゆへぞと・たづぬれば父母・師匠・主君を頂を地につけて恭敬し奉りしゆへに此の相を感得せり。

乃至梵音声と申すは仏の第一の相なり、小王・大王・転輪王等・此の相を一分備へたるゆへに此の王の一言に国も破れ国も治まるなり、宣旨と申すは梵音声の一分なり、万民の万言・一王の一言に及ばず、則ち三墳・五典なんど申すは小王の御言なり、此の小国を治め乃至大梵天王三界の衆生を随ふる事・仏の大梵天王・帝釈等をしたがへ給う事もこの梵音声なり、此等の梵音声一切経と成つて一切衆生を利益す、其の中に法華経は釈迦如来の書き顕して此の御音を文字と成し給う仏の御心はこの文字に備れり、たとへば種子と苗と草と稲とは・かはれども心はたがはず。

釈迦仏と法華経の文字とはかはれども心は一つなり、然れば法華経の文字を拝見せさせ給うは生身の釈迦如来にあひ進らせたりと・おぼしめすべし。
此の志佐渡の国までおくり・つかはされたる事すでに釈迦仏知し食し畢んぬ、実に孝養の詮なり、恐恐謹言。

文永九年 月  日                            日 蓮 在 御 判
四条三郎左衛門尉殿御返事

by johsei1129 | 2015-02-28 22:41 | 四条金吾・日眼女 | Trackback | Comments(0)
2015年 02月 28日

Gosho 報恩抄  The Duty of Repaying Good Will

されば花は根にかへり(このみ)は土にとどまる、

Thus, the flower will return to the root and the fruit will remain in the earth.

此の功徳は故道善房の聖霊(しょうりょう)御身(おんみ)にあつまるべし、南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経。

The benefit that I have been speaking of will surely accumulate in the life of the late Dōzen-bō. Nam-myoho-renge-kyo, Nam-myoho-renge-kyo.





本文 Original Text 目次 Table of Contents



by johsei1129 | 2015-02-28 17:22 | WRITING OF NICHIREN | Trackback | Comments(0)
2015年 02月 28日

Gosho 報恩抄 The Duty of Repaying Good Will

求めて云く其の形貌(ぎょうみょう)如何、

Question: What form does it take?

答えて云く(ひとつ)には日本・乃至一閻浮提(いちえんぶだい)・一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし、

Answer: First, Japan and all the other countries throughout Jambudvīpa should all make the Shakyamuni Buddha of the essential teaching their Gohonzon.

所謂(いわゆる)宝塔(ほうとう)の内の釈迦多宝・(そのほか)の諸仏・並に上行等の四菩薩脇士(きょうじ)となるべし、

In other words, the Shakyamuni and ManyTreasures who appear in the treasure tower, all the other Buddhas, and the four bodhisattvas, including Superior Practices,will act as attendants to this Buddha.

(ふたつ)には本門の戒壇、

Second, there is the sanctuary of the essential teaching.

(みつ)には日本・乃至漢土・月氏・一閻浮提に人ごとに有智無智をきらはず一同に他事をすてて南無妙法蓮華経と唱うべし、

Third, in Japan, China, India, and all the other countries of Jambudvīpa,every person, regardless of whether wise or ignorant, will set aside other practices and join in the chanting of Nam-myoho-renge-kyo.

此の事いまだ・ひろまらず、

This teaching has never been taught before.

一閻浮提の内に仏滅後・二千二百二十五年が間一人も唱えず、

Here in the entire land of Jambudvīpa, in all the2,225 years since the passing of the Buddha, not a single person chanted it.

日蓮一人・南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経等と声もをしまず唱うるなり、

Nichiren alone, without sparing his voice,now chants Nam-myoho-renge-kyo,Nam-myoho-renge-kyo.

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by johsei1129 | 2015-02-28 17:18 | WRITING OF NICHIREN | Trackback | Comments(0)
2015年 02月 28日

Gosho 報恩抄 The Duty of Repaying Good Will

されば内証は同じけれども法の流布は迦葉(かしょう)阿難(あなん)よりも馬鳴(めみょう)竜樹(りゅうじゅ)等はすぐれ、馬鳴等よりも天台はすぐれ、天台よりも伝教は超えさせ給いたり、

Thus, although their enlightenment may have been the same, from the point of view of the teaching that they propagated, Ashvaghosha and Nāgārjuna were superior to Mahākāshyapa and Ānanda,T’ien-t’aiwas superior to Ashvaghosha and Nāgārjuna,and Dengyō surpassed T’ien-t’ai.

世末になれば人の智はあさく仏教はふかくなる事なり、

In these latter times, people’s wisdom becomes shallow, while the Buddhist teaching becomes more profound.

例せば軽病は凡薬・重病には仙薬・弱人(よわきひと)には強きかた()うど()有りて(たす)くるこれなり。

To give an analogy, a mild illness can be cured with ordinary medicine, but a severe illness requires an elixir, a man who is weak must have strong allies to help him.

問うて云く天台伝教の弘通(ぐつう)し給わざる正法ありや、

Question: Is there a correct teaching that was not propagated even by T’ien-t’ai and Dengyō?

答えて云く、有り、

Answer: Yes, there is.

求めて云く何物ぞや、

Question: What sort of teaching is it?

答えて云く(みつ)あり、

Answer: It consists of three things.

末法のために仏留め置き給う迦葉・阿難等・馬鳴・竜樹等・天台・伝教等の弘通(ぐつう)せさせ給はざる正法なり、

It was left behind by the Buddha for the sake of those who live in the Latter Day of the Law. It is the correct teaching that was never propagated by Mahākāshyapa or Ānanda, Ashvaghosha or Nāgārjuna,T’ien-t’ai or Dengyō.

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by johsei1129 | 2015-02-28 17:16 | WRITING OF NICHIREN | Trackback | Comments(0)
2015年 02月 28日

Gosho 報恩抄 The Duty of Repaying Good Will


仏法を習い極めんとをもはばいとまあらずば(かな)うべからず

If one hopes to learn and master Buddhism, then one cannot do so without devoting time to the task.

いとまあらんとをもはば父母・師匠・国主等に随いては叶うべからず

And if one wants to have time to spend on theundertaking, one cannot continue to wait on one’s parents, one’s teachers, and one’s sovereign.

是非につけて出離(しゅつり)の道をわきまへざらんほどは父母・師匠等の心に随うべからず

Until one attains the road that leads to emancipation, one should not defer to the wishes and feelings of one’s parents and teachers, no matter how reasonable they maybe.

外典(げてん)に云く聖人は一千年に一たび出で、賢人は五百年に一たび出づ、

The secular classics of China claim that a sage will appear once every thousand years, and a worthy once every five hundred.

黄河(こうが)涇渭(けいい)ながれを・わけて五百年には(なかば)(かわ)()み、千年には共に清むと申すは一定(いちじょう)にて候けり

In the Yellow River where the Ching and Wei rivers flow into it, the flow of the two tributary rivers remains separate. But it is said that, once every five hundred years, one side of the river will flow clear, and once every thousand years, both sides of the river will flow clear.

伝教大師せめて云く「法華経を()むると(いえど)(かえっ)て法華の心を(ころ)す」等云云、

The GreatTeacher Dengyō criticized it, saying, “Though he praises the Lotus Sutra, he destroys its heart.”

此等をもつておもうに法華経をよみ讃歎(さんたん)する人人の中に無間地獄は多く有るなり。

If we consider these examples carefully, we will realize that, among those who read the Lotus Sutra and sing its praises, there are many who are destined for the hell of incessant suffering.

人死して後・色の黒きは地獄の(ごう)と定むる事は仏陀(ぶつだ)の金言ぞかし

We have the Buddha’s own golden word for it that, if a person’s skin turns black after he dies, it is a sign that he has done something that destined him for hell.

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by johsei1129 | 2015-02-28 17:10 | WRITING OF NICHIREN | Trackback | Comments(0)
2015年 02月 28日

Gosho 報恩抄 The Duty of Repaying Good Will


()老狐(ろうこ)は塚をあとにせず(はく)()(もう)(ほう)が恩を()うず

The old fox never forgets the hillock where he was born; the white turtle repaid the kindness he had received from Mao Pao.

畜生すらかくのごとしいわうや人倫をや、

If even lowly creatures know enough to dot his, then how much more should human beings!

されば古への賢者()(じょう)といゐし者は剣をのみて()(はく)が恩にあて、()う演と申せし臣下は腹をさひて(えい)()(こう)(きも)を入れたり、

Thus Yü Jang, a worthy man of old, fell on his sword in order to repay the debt he owed his lord Chih Po, and the minister Hung Yen for similar reasons cut open his stomach and inserted the liver of his dead lord, Duke Yi of Wei.

いかにいわうや仏教をならはん者、父母・師匠・国恩をわするべしや、

What can we say, then, of persons who are devoting themselves to Buddhism? Surely they should not forget the debts of gratitude they owe to their parents, their teachers, and their country.

此の大恩をほうぜんには必ず仏法をならひきはめ智者とならで(かな)うべきか、

But if one intends to repay these great debts of gratitude, one can hope to do so only if one learns and masters Buddhism, becoming a person of wisdom.

(たと)へば(しゅう)(もう)をみちびかんには(いき)(めくら)の身にては(きょう)()をわたしがたし、

If one does not, one will be like a man who attempts to lead a company of the blind over bridges and across rivers when he himself has sightless eyes.

方風を(わきま)えざらん大舟は諸商を導きて宝山にいたるべしや、

Can a ship steered by someone who cannot even tell the direction of the wind ever carry the traveling merchants to the mountains where treasure lies?


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by johsei1129 | 2015-02-28 14:24 | WRITING OF NICHIREN | Trackback | Comments(0)
2015年 02月 27日

大闇をば日輪やぶる女人の心は大闇のごとし法華経は日輪のごとし、と説いた【同生同名御書】

【同生同名御書】
■出筆時期:文永九年(西暦1272年)四月 五十一歳 御作。
■出筆場所:佐渡・一の谷、一谷入道の屋敷にて。
■出筆の経緯:本書は大聖人が塚原三昧堂から一谷入道の屋敷へ移居された頃、四条金吾が鎌倉から大聖人の元を訪れている。その金吾を佐渡へ送り出した妻の志を称えて、したためたご消息文で、金吾が鎌倉に戻る時に託されています。
本書では「日蓮が大難に遭う中、人目をもはばからず、命をもおしまず法華経を御信用ある事ただ事ともおぼえず」と、金吾の妻の信心の強さを称えるとともに、冒頭で「大闇をば日輪やぶる女人の心は大闇のごとし法華経は日輪のごとし」と説いて、法華経への信仰を貫き通すことを諭しておられます。
■ご真筆: 現存していない。


[同生同名御書 本文]


 大闇をば日輪やぶる、女人の心は大闇のごとし法華経は日輪のごとし、幼子は母をしらず母は幼子をわすれず、釈迦仏は母のごとし、女人は幼子のごとし。二人たがひに思へば・すべてはなれず一人は思へども一人思はざれば・あるときはあひ・あるときはあわず。仏は・をもふものの・ごとし女人は・をもはざるものの・ごとし。我等仏を・をもはば・いかでか釈迦仏・見え給はざるべき。
 石を珠といへども珠とならず、珠を石といへども石とならず。権経の当世の念仏等は石のごとし、念仏は法華経ぞと申すとも法華経等にあらず。又法華経をそしるとも珠の石とならざるがごとし。

 昔唐国に徽宗皇帝と申せし悪王あり。道士と申すものにすかされて仏像・経巻をうしなひ僧尼を皆還俗せしめしに一人として還俗せざるものなかりき。其の中に法道三蔵と申せし人こそ、勅宣をおそれずして面にかなやきを・やかれて江南と申せし処へ流されて候いしが、今の世の禅宗と申す道士の法門のやうなる悪法を御信用ある世に生れて、日蓮が大難に値うことは法道に似たり。おのおの・わずかの御身と生れて鎌倉にゐながら人目をも・はばからず命をも・おしまず法華経を御信用ある事ただ事とも・おぼえず。但おしはかるに濁水に玉を入れぬれば水のすむがごとし。しらざる事を・よき人に・おしえられて其のままに信用せば道理に・きこゆるがごとし。釈迦仏・普賢菩薩・薬王菩薩・宿王華菩薩等の各各の御心中に入り給へるか。

 法華経の文に閻浮提に此の経を信ぜん人は普賢菩薩の御力なりと申す是なるべし。女人は・たとへば藤のごとし、をとこは松のごとし須臾も・はなれぬれば立ちあがる事なし。
はかばかしき下人もなきに、かかる乱れたる世に此のとのをつかはされたる心ざし、大地よりも・あつし、地神定めてしりぬらん、虚空よりも・たかし、梵天帝釈もしらせ給いぬらん。

 人の身には同生同名と申す二のつかひを、天生るる時よりつけさせ給いて、影の身に・したがふがごとく須臾も・はなれず、大罪・小罪・大功徳・小功徳すこしも・おとさず、かはる・かはる天にのぼて申し候、と仏説き給う。
 此の事ははや天も・しろしめしぬらん、たのもしし・たのもしし。

四月 日              日 蓮 花押
四条金吾殿女房御返事

此の御文は藤四郎殿の女房と常によりあひて御覧あるべく候。

by johsei1129 | 2015-02-27 23:03 | 四条金吾・日眼女 | Trackback | Comments(0)
2015年 02月 27日

Gosho 撰時抄 The Selection of the Time


衆流(しゅうる)あつまりて大海となる、微塵(みじん)つもりて須弥山(しゅみせん)となれり、

 Little streams come together to form the great ocean, and tiny particles of dust accumulate to form Mount Sumeru.

日蓮が法華経を信じ始めしは日本国には一(たい)・一微塵のごとし、

 When I, Nichiren, first took faith in the Lotus Sutra, I was like a single drop of water or a single particle of dust in all the country of Japan.


法華経を二人・三人・十人・百千万億人・唱え伝うるほどならば、妙覚の須弥山ともなり
大涅槃(だいねはん)の大海ともなるべし、


 But later, when two people, three people, ten people, and eventually a hundred, a thousand, ten thousand, and a million people come to recite the Lotus Sutra [Gohonzon] and transmit it to others, then they will form a Mount Sumeru of perfect enlightenment, an ocean of great nirvana.


仏になる道は此れよりほかに又もとむる事なかれ。


 Seek no other path by which to attain Buddhahood!


されば我が弟子等心みに法華経のごとく身命もおしまず修行して此の(たび)仏法を心みよ。


 Therefore, I say to you, my disciples, try practicing as the Lotus Sutra teaches, exerting yourselves without begrudging your lives! Test the truth of Buddhism now!

霊山(りょうぜん)浄土(じょうど)の教主釈尊・(ほう)(じょう)世界の多宝仏・十方分身の諸仏・地涌(じゆ)千界(せんがい)の菩薩等・梵釈・日月・四天等・(みょう)()(けん)に助け給はずば一時一日も安穏なるべしや。

 If Shakyamuni Buddha, the lord of teachings, of the pure land of Eagle Peak, Many Treasures Buddha of the World of Treasure Purity, the Buddhas of the ten directions who are Shakyamuni’s emanations, the bodhisattvas as numerous as the dust particles of a thousand worlds who sprang up out of the earth, Brahmā and Shakra, the gods of the sun and moon, and the four heavenly kings do not, conspicuously or inconspicuously, give me their protection and lend me aid, then they will never know a single day or a single hour of peace and safety !

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by johsei1129 | 2015-02-27 22:03 | WRITING OF NICHIREN | Trackback | Comments(0)
2015年 02月 27日

Gosho 撰時抄  The Selection of the Time



 今日本国の高僧等も南無日蓮聖人ととなえんとすとも南無
(ばか)りにてやあらんずらんふびんふびん。

 And soon the eminent priests of Japan will no doubt be trying to cry out, “Namu Nichiren Shōnin (Devotion to the Sage Nichiren)!” But most likely they will only have time enough to utter the one word, “Namu!” How pitiful, how pitiful!


外典(げてん)(いわ)未萠(みぼう)をしるを聖人という、

 In the secular texts it says, “A sage is one who fully understands those things that have not yet made their appearance”.

 In the texts of non-Buddhist it says, “A saint is one who knows sign”.

 内典に云く三世を知るを聖人という。

 And in the Buddhist texts it says, “A sage is one who knows the three existences of life—past, present, and future”.

 And in the Buddhist texts it says, “A saint is one who knows the past, present, and future”.



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by johsei1129 | 2015-02-27 21:57 | WRITING OF NICHIREN | Trackback | Comments(0)
2015年 02月 27日

Gosho 撰時抄 The Selection of the Time


(きん)(めい)より当帝にいたるまで七百余年いまだきかずいまだ見ず、南無妙法蓮華経と唱えよと他人をすすめ、我と唱えたる智人なし、

 In all the seven hundred and more years from the time of Emperor Kimmei to the present emperor , such a thing has never been seen or heard of, namely, a wise man who urges others to chant Nam-myoho-renge-kyo and who chants it himself.

 For seven hundred-odd years, from the time of Emperor Kimmei up to the present reigning emperor, who have never seen or heard of anybody who is wise enough to chant Nam-Myoho-Renge-kyo and urge others to do the same.

 日出でぬれば星かくる、賢王来れば愚王ほろぶ、

 When the sun rises, the stars go into hiding. When a worthy king appears, foolish kings perish.

 When the sun rises, the stars disappear. When a wise king emerges, a foolish one falls.

 実経流布せば権経のとどまり智人・南無妙法蓮華経と唱えば愚人の此れに随はんこと、影と身と声と響とのごとくならん、

 When the true sutra is spread widely, the provisional sutras will cease to circulate, and when a man of wisdom chants Nam-myoho-renge-kyo, those ignorant of it will follow after him as shadows follow a form and echoes follow a sound.

 When the true teaching spreads, the provisional teachings die out. If a man of wisdom chants Nam-Myoho-Renge-Kyo, even a fool follows him. This is like a shadow accompanying the body or an echo following the voice.

 日蓮は日本第一の法華経の行者なる事あえて疑ひなし、

 There can be no room to doubt that I, Nichiren, am the foremost votary of the Lotus Sutra in all of Japan.

 There is not the slightest doubt that I, Nichiren, am the first and foremost votary of the Lotus Sutra in all of Japan.

 これをもつてすいせよ、漢土月支(がっし)にも一閻浮提の内にも肩をならぶる者は有るべからず。

 Indeed, from this we may assume that, even in China and India and throughout Jambudvīpa, there is no one who can stand side by side with me.

 Based on what I say in this letter, you should realize that in China, India, and throughout the entire world, there is no one equal to Nichiren.

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by johsei1129 | 2015-02-27 21:48 | WRITING OF NICHIREN | Trackback | Comments(0)