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日蓮大聖人『御書』解説

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2015年 01月 23日

日蓮大聖人、寿量品の所破・所用を定む 【当流行事抄】寿量品篇十七


問う、方便品に借文と云い、寿量品に所用(しょゆう)と云う、(おのおの)其の謂れ如何(いかん)

答う、方便品は、文は但迹の義を(せん)て本の義を詮せず(しか)も之を借用して以て本の義を顕わす、故に借文という。若し寿量品は文の上は(すなわ)ち是れ脱迹の義を(せん)、文底も亦是れ種本の義を沈む。故に二意倶に文が家の所得なり、何ぞ借用と云わんや、故に直に所用(しょゆう)と云うなり。

問う、寿量読誦の所破所用は前代に未だ聞かず、正しく其の証文如何(いかん)

答う、本尊抄及び血脈抄の中に正しく文上を以って脱益迹門理の一念三千の教相と名づけ、(ただ)文底を以って下種本門事の一念三千の観心と名づく。此れ即ち所破所用の両意文に在りて分明なり、何ぞ更に証文を求めんや。(しか)りと雖も(しばら)く一文を引いて之を示さん。
 本尊抄に云わく「彼は脱、
()れは種なり」云云。「彼は脱」(あに)所破に非ずや、「此れは種」(むし)ろ所用に非ずや。
 本因妙抄に云わく「
今日(こんいち)熟脱の本迹二門を迹と為し、久遠名字の本門を本と為し、信心(ごう)(じょう)(ただ)余念無く、南無妙法蓮華経と唱え奉れば凡身即ち仏身なり」云云。
 又云わく「一代応仏の寿量品を迹と()し、内証の寿量品を本と為す、釈尊久遠名字即の身に約し位に約し南無妙法蓮華経と唱え奉る、是れを出離(しゅつり)生死(しょうじ)の一面と名づく」云云。
 此の二文の正助の二行、所破所用最も之
明著(めいちょ)なり。

問う、有る抄の中に高祖の譲状(ゆずりじょう)を引いて云わく「方便・寿量の読誦(どくじゅ)は在世の一段、一箇の三千心破(しんぱ)の一段是れなり」云云。此の文意(いかん)

答う、両品の三千、事理(こと)なりと雖も(とも)に理の一念三千と名づく、故に一箇の三千と云うなり。読誦の心地所破に()り、故に心破の一段と云うなり。

問う、房州(ぼうしゅう)方の義に云わく「方便・寿量の両品(とも)に所破助行に之を用ゆ」云云、此の義如何。

 答う、(まさ)に是れ所破即助行の義なるべし。若し爾らば(とも)是所破の一義なり、若し所破及び助行と言わば、所破は是れ助行に非ずや。故に知んぬ、(ただ)一義を挙ぐるのみ。


               迹門は実相を顕わす、本門は寿の長遠を顕わす につづく


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by johsei1129 | 2015-01-23 23:17 | 日寛上人 六巻抄 | Trackback | Comments(0)
2015年 01月 23日

寿量品読誦は「所破」「所用」同時なり 【当流行事抄】寿量品篇十六



問う、両種の顕本・体内(たいない)体外(たいげ)の文理分明なること(あたか)も白日の如し、然らば則ち所破所用(しょゆう)(まさ)(つぶ)さに之を聞くべけんや。

答う、(ただ)是れ一返読誦(どくじゅ)の中に此の二意自ら是れ宛然(おんねん)なり。(いわ)く、体内の辺は即ち所破と成り、文底の辺は(すなわ)ち所用と成る、二意有りと雖も是れ前後に非ず、一室の中の明闇(めいあん)来去(らいこ)(まった)く是れ同時なるが如し云云。

問う、(まさ)に体外を破すべき、何ぞ体内を破するや。

答う、体外の寿量は去年(こぞ)(こよみ)の如し、今末法に入りて文底顕われ(おわ)れば一部の始終体内に非ざる無し、体内と云うと雖も(なお)是れ脱迹なり、(なん)ぞ種本に及ばん、(むし)ろ破せざるを得んや。例せば体内の権迹を破するが如し、(なお)体内を破す、況や体外をや。



          日蓮大聖人、寿量品読誦の所破・所用を定む につづく



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by johsei1129 | 2015-01-23 22:25 | 日寛上人 六巻抄 | Trackback | Comments(0)
2015年 01月 22日

「我が内証の寿量品」とは本因妙の事なり 【当流行事抄】寿量品篇十五


 問う、血脈抄に云わく「我が内証の寿量品とは
(だっ)(ちゃく)寿量品の文底本因(ほんにん)(みょう)の事なり」云云。此の文如何(いかん)

 答う、此に二意有り、所謂(いわゆる)能所なり。(しばら)く「我実成仏」の文の如し、能詮の辺は(ただ)是れ四字なり、所詮の辺は即ち妙法なり。謂わく、能成は即ち智、所成は即ち境、(あに)本地難思(なんし)境智の妙法に非ずや。故に知んぬ、能詮の辺の二千余字、是れを「我が内証の寿量品」と名づけ、所詮の辺の妙法五字、是れを「本因妙」と名づくるなり、(いま)所詮を以て能詮に名づく、故に「内証の寿量品とは本因妙の事なり」と云うなり。法華一部通じて妙法と名づく、(あに)所を以て能に名づくるに非ずや。



               寿量品読誦は「所破」「所用」同時なり につづく


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by johsei1129 | 2015-01-22 22:12 | 日寛上人 六巻抄 | Trackback | Comments(0)
2015年 01月 22日

文底の顕本を「我が内証の寿量品」と名づく 【当流行事抄】寿量品篇十四


次に「後に化他の為」の下は垂迹化他、(また)分かちて二と為す、初めに本果已後、次に「王宮」の下は今日(こんにち)、亦分かちて二と為す。初めに能説の教主、次に「四十余年」の下は所説の法、亦分かちて二と為す。初めに()(ぜん)、次に「其の後」の下は法華経なり、法華の(もん)略なり、然りと雖も既に「種子の理を説き顕わす」と云う故に文底の顕本皎在(こうざい)目前なり、若し上来の旨を得る(とき)此の文意を知らん云云。

当体義抄に云わく「釈尊五百塵点の当初(そのかみ)此の妙法当体の蓮華を証得し、世々(せせ)番々に成道を唱え能証所証の本理を顕わす」云云。此の文略なりと雖も其の(こころ)前に同じ、初めに本地の自行を明かし、次に垂迹化他を明かすなり。(すで)に「能証所証の本理を顕わす」(あに)文底の顕本に非ずや。此の文底の顕本を(また)我が内証の寿量品」と名づくるなり。



            「我が内証の寿量品」とは本因妙の事なり につづく



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by johsei1129 | 2015-01-22 22:00 | 日寛上人 六巻抄 | Trackback | Comments(0)
2015年 01月 21日

我が身、地水火風空と知るは成仏の種子なり 【当流行事抄】寿量品篇十三


六には謂わく、是れ本地難思境智の妙法を明かすなり。謂わく「五百塵点の当初(そのかみ)故に本地と云う、「知」は謂く能証の智、「我が身」等は是れ所証の境、此の境智(みょう)()内証は(じん)(じん)甚深不可思議なり、故に難思の境智と云うなり。難思は即ち妙なり、境智は即ち法なり。経(方便品)に云わく「我が法は妙にして思い難し」と云云。天台云わく「法如々(にょにょ)境、法如々智」と云云。

応に知るべし、此の本地難思境智の妙法は即ち一切衆生の成仏の種子なり、経(方便品)に云わく「諸仏両足(りょうそく)(そん)法は常に無性なりと知ろしめす」云云。「知」の一字は両処全く同じ、「我が身地水火風空」は即ち「法は常に無性」に同じきなり、(とも)に是れ一切衆生成仏の種子なるが故なり。天台釈して云わく「中道無性は即ち是れ仏種なり」と云云。
 宗祖云わく「地水火風空、
(こん)(きょう)に之を開して一切衆生身中の五仏性、五智の如来の種子と説く、是れ即ち妙法蓮華経の五字なり」云云。


                  文底の顕本を「我が内証の寿量品」と名づく  につづく



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by johsei1129 | 2015-01-21 16:41 | 日寛上人 六巻抄 | Trackback | Comments(0)
2015年 01月 21日

本因本果を弁じて是を当体蓮華と名づく 【当流行事抄】寿量品篇十二


五には謂わく、是れ久遠元初の種家(しゅけ)の本因本果を明かすなり、久遠元初は(つぶさ)に前釈の如きなり。「釈尊凡夫の御時」は名字即下種の位なり、「知」は()わく能証の智、「我が身」等とは是れ所証の境なり。天台釈して云わく「境智和合する(とき)因果有り、境を照らすこと未だ(きわ)まらざるを因と名づけ(みなもと)を尽くすを果と為す」云云。当に知るべし、境智和合の始めを名づけて因と為す、故に照境(しょうきょう)未窮(みぐ)()()と云い、境智和合の終りを名づけて果と為す故に尽源(じんげん)為果(いか)と云うなり、是れ則ち刹那(せつな)始終一念の因果なり。

問う、玄文第七に脱家(だっけ)の本因妙を明かすに即ち四妙を具す、所謂(いわゆる)境智行位なり。今種家の本因妙も(また)四妙を()するや。

 答う、実に所問の如く四妙を具するなり。()わく、釈尊凡夫の御時は即ち是れ位妙なり、知は即ち智妙なり、我が身等は境妙なり、境智合する(とき)()の中に在り、此くの如き四妙は即ち種家の本因妙なり、即座開悟は即ち種家の本果妙なり。 
 又()の因果は即ち是れ本門の当体蓮華なり、釈尊凡夫の御時は即ち当体を示すなり、種家の因果(あに)蓮華に非ずや。玄一に釈して云わく「即ち因果を(べん)じて是を蓮華と名づく」云云。
 宗祖云わく「釈尊久遠塵点の
当初(そのかみ)此の妙法当体蓮華を証得す」とは是れなり。


             我が身は「地水火風空」と知るは成仏の種子なり につづく


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by johsei1129 | 2015-01-21 16:21 | 日寛上人 六巻抄 | Trackback | Comments(0)
2015年 01月 21日

一切の法は皆是仏法なりと知る 【当流行事抄】寿量品篇十一


問う、止観一に云わく「名字の中に於て通達(つうだつ)解了(げりょう)して、一切の法は皆是れ仏法なり」云云。今彼の文と同異如何(いかん)

 答う、其の(ことば)異なりと雖も其の(こころ)是れ同じ、今「釈尊凡夫の御時」と云うは即ち「名字の中に(おい)て」等に同じきなり、今「我が身地水火風空と知ろしめす」と云うは即ち「一切の法は皆是仏法と知る」に同じ。
 ()わく、一切の法の(ほか)我が身無く、我が身の外に一切の法無し、故に我が身(まった)く一切の法なり。地水火風空は即ち妙法五字なり、妙法五字の外に仏法無し、故に五大全く皆是れ仏法なり。故に其の(こころ)是れ同じきなり。然れば(すなわ)ち釈尊名字凡夫の御時、一切の法は皆是れ仏法なり、我が身の五大は妙法の五字なりと知ろしめし(すみや)かに自受用報身を成ず、故に「即座に悟りを開く」と云うなり。
 宗祖云わく「一切の法は皆是れ仏法なりと通達解了す、是れを名字即と()す、名字即の位より即身成仏す、故に(えん)(とん)の教には次位の次第無し」等云云。
 授職抄十七に云わく「天台六即を立てて円人の次位を判ずる、(なお)是れ(えん)(きょう)の教門にして証道の実義に非ず、(いか)に況や五十二位は別教に附ける権門の廃立(はいりゅう)なり」云云。 
 止観の六-二十一に云わく「円人は最も利なり、復是れ実説なり、復(ほん)(ちつ)無し」云云。
 相伝に云わく「寿量品の(こころ)は三世諸仏(ことごと)く名字妙覚の成道なり」(本文未見)云云。尼崎流(あまがさきりゅう)之に同じ云云。



          本因本果を弁じて是を当体蓮華と名づくにつづく



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by johsei1129 | 2015-01-21 09:30 | 日寛上人 六巻抄 | Trackback | Comments(0)
2015年 01月 18日

日蓮大聖人の垂迹化他を説きつくす 【当流行事抄】寿量品篇十


次に(たとえ)の文に百千枝葉の同じく一根に趣くが如しと云うは、横に十方に(へん)(たて)に三世に(わた)り、微塵(みじん)の衆生を利益したもう、垂迹化他の功皆同じく久遠元初の一仏一法の本地に帰趣(きしゅ)するなり。
 総勘文抄に云わく「釈迦如来五百
塵点(じんてん)当初(そのかみ)凡夫(ぼんぶ)にて御座(おわ)せし時、我が身は地水火風空なりと(しろし)めし、即座に悟りを開きたまいき。後に化他の為に世々(せせ)番々(ばんばん)に出世成道(じょうどう)し、在々処々に八相(はっそう)作仏(さぶつ)す。王宮に誕生し、樹下に成道し、始めて仏に成る様を衆生に(けん)()せしめ、四十余年方便教を(もう)けて衆生を誘引(ゆういん)し、其の後方便の教経を捨てて正直(しょうじき)の妙法蓮華経の五智の如来の種子の理を説き顕わす」等云云。

(つつし)んで此の文を釈するに亦分かちて二と為す。初めに本地の自行を明かし、次に「後に化他の為」の下は垂迹化他を明かすなり。初め本地の自行、其の文少なしと(いえど)も而も義意豊富の故に多義を以って之を解す云云。

一には()わく、是れ久遠元初の自受用身を明かすなり、(まさ)に知るべし、五百塵点は即ち是れ久遠なり、「当初」の二字(あに)元初に非ずや。言う所の「知」とは即ち是れ能称(のうしょう)如々(にょにょ)の智なり、我身等は是れ所称(しょしょう)如々(にょにょ)(きょう)なり、境智相称(あいかな)う、(あに)自受用報身に非ずや。(しょ)の第九に云わく「如来は如実に三界の相を知見す、如々の智、如々の境に(かな)う、此れは是れ報身如来の義なり」等云云。

問う、(しょ)に三界の相を知見すと云うと、今の我が身地水火風と知ると云うと、同じと()んや異と為んや。

答う、其の言異なると雖も其の(こころ)是れ同じ、()わく、三界の五大(とも)に法界なるが故なり、妙楽釈して云わく「(とも)に三界と云う、法界に非ざるなし」云云。当家深秘(しんぴ)の御相伝(御本尊七箇之相承)に云わく「我が身の五大は即ち法界の五大なり、法界の五大即ち我が身の五大なり」云云。

二には謂わく、是れ(ほん)(ごく)(ほっ)(しん)を明かすなり、謂わく、五百塵点の当初の故に本極と云うなり。「知」は謂わく、能如(のうにょ)の智即ち是れ智法身、「我が身」等は所如(しょにょ)の境即ち是れ理法身、境智倶に法身の故に法身と称するなり。玄第七に云わく「本極法身微妙(みみょう)深遠(じんのん)云云。(こん)光明(こうみょう)に云わく「(ゆい)()如々(にょにょ)、如々智」云云、唯有如々は境法身なり、如々智は即ち智法身なり。故に天台の文九-二十一に云わく「法如々の境、法如々の智」云云。玄に微妙深遠と云うは、微妙は総じて法身を(たん)ず、微妙浄法身の如し、深遠は別して境智を(たん)ず。故に妙楽云わく「理深く、時遠し、故に深遠(じんのん)と云う」云云。当に知るべし、玄文に本極法身と云うは即ち是れ久遠元初の自受用身の御事なり、久遠は即ち本、元初は即ち極、自受用は即ち(ほっ)(しん)なるが故なり。

三には()わく、是れ久遠元初の無作三身を明かすなり、久遠元初は前に(じゅん)じて知る可し、無作三身は即ち是れ自受用報身一体三身の徳なり、「知」は謂わく(のう)(じょう)の智、此れ即ち無作の報身なり、「我が身」等は(しょ)(じょう)の境、此れ即ち無作の法身なり、境智合する(とき)必ず大悲有り、大悲は必ず(ゆう)を起こす、起用は即ち是れ無作の応身なり、(たと)えば(かん)(がい)相応せば必ず含蔵(ごんぞう)の用有り、所蔵の物(まさ)に外に(たす)くる()えたるが如し。止観六に云わく「境に()くを法身と()し、智に就くを報身と為し、起用を応身と為す」云云。

又此の三身は即ち三徳三章なり。謂わく、無作の法身は即ち法身の徳、是れ妙体なり。無作の報身は即ち般若(はんにゃ)の徳、是れ妙宗なり。無作の応身は即ち解脱(げだつ)の徳、是れ妙用(みょうゆう)なり。無作三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり、()(こう)良薬(ろうやく)結要(けっちょう)付嘱(ふぞく)、之を思い合わす可し、之を思い合わす可し。

 四には()わく、是れ久遠元初の名字の報身を明かすなり、久遠元初は准説(じゅんせつ)して知る可し、「釈尊凡夫の御時」(あに)名字に非ずや。「知」「我が身」等とは即ち是れ境智和合、(むし)ろ報身に非ずや。若し証文を()わば此の文を()だす可し。


                    一切の法は皆是仏法なりと知る につづく


六巻抄 目次


by johsei1129 | 2015-01-18 20:41 | 日寛上人 六巻抄 | Trackback | Comments(0)
2015年 01月 18日

日蓮大聖人は久遠元初を以て本地となす 【当流行事抄】寿量品篇九


次に「三世は(すなわ)(こと)なれどもの下は結文なり、文(おのずか)ら二と為す、初めに法、次に()なり。初めに法の中に「毘盧(びる)遮那(しゃな)と云うは(ここ)(ほっ)(しん)(ほん)ず、是れ単の法身に非ず。故に記の第三に云わく「(ただ)法身を以て本とせば(いず)れの教にか之無からん」云云、故に知んぬ、(きょう)()和合は自受用身なり、学者(すべから)く知るべし、初めの正釈の中に能証(のうしょう)の人を()げず、但所証(しょしょう)の法を挙ぐ、故に「最初所証」等と云うなり。今結文の中に所証の法を()げず、但能証の人を挙ぐ、故に「毘盧遮那」等と云うなり。実に是れ能証・所証体一なり、是れ体一なりと(いえど)も而も人法宛然(えんねん)なり。故に知んぬ、釈結の二文人法()(けん)、是の故に明きらかに知んぬ、久遠元初は人法(とも)に本なり、本果已後は人法倶に迹なり。

文に「一本異ならず」と云うは、

問う、(およ)そ寿量品の意は唯釈迦一仏とやせん、別に余仏有りとやせん、()し唯一仏なりと言わば玄文第七に正しく東方の善徳仏及び神力品の十方諸仏を以って便(すなわ)ち余仏となす、若し余仏有りと云わば(なん)ぞ「毘盧(びる)遮那(しゃな)一本」等と云うや。

答う、(けだ)し文上の意は久遠の本果を以て本地(ほんち)とするが故に余仏有り、何となれば本果は実に是れ垂迹(すいじゃく)なり、故に本果の釈尊は万影の中の一影、百千枝葉の中の一枝葉なり、故に本果の釈尊の外(さら)に余仏有るなり、(けだ)し文底の意は久遠元初を以て本地と為す、故に唯一仏のみにして余仏無し、何となれば本地自受(じじゅ)(ゆう)(しん)は天の一月の如く、()の一根の如し、故に余仏無し。当に知るべし、余仏は皆是れ自受用身の垂迹なり。
 故に日眼女抄に云わく「寿量品に云わく、
或説(わくせっ)()(しん)或説他身云云、東方の善徳仏・中央の大日如来・十方(じゅっぽう)の諸仏・過去の七仏・三世の諸仏・上行菩薩等乃至天照太神・八幡大菩薩()の本地は教主釈尊なり、例せば釈尊は天の一月、諸仏菩薩等は(ばん)(すい)に浮かべる影なり」等云云。



          日蓮大聖人の垂迹化他を説きつくす につづく



当流行事抄 目次  六巻抄 目次



by johsei1129 | 2015-01-18 16:36 | 日寛上人 六巻抄 | Trackback | Comments(0)
2015年 01月 17日

【当流行事抄】

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                 図 日蓮大聖人御一代記より

第一 方便品篇 

一 一生むなしく過ごさば万劫かならず悔ゆ

二 方便品読誦は「所破」と「借文」同時一体なり
三 天月を見ずして但池月を見ることなかれ
四 教の浅深を知らざれば理の浅深を知る者なし
五 文は迹門にあり、義は本門にあり
六 方便品読誦の意味を説き明かす 
七 勤行は「方便品の長行を習い誦むべし

第二 寿量品篇

一 上と文底、天地はるかに異なれり 
二 信心強盛の者は位を経ずして妙覚に至る 
三 妙法受持のわれらは久遠元初に種子を得たり
四 久遠元初下種のわれらが妙覚に至る明文
五 発迹顕本を説き明かす
六 日蓮大聖人の発迹顕本を説き明かす
七 日は大聖人、月は釈尊 種脱相対の手本なり
八 竜の口の発迹顕本を説き明かす
九 日蓮大聖人は久遠元初を以て本地となす
十 日蓮大聖人の垂迹化他を説きつくす
十一 一切の法は皆是仏法なりと知る
十二 本因本果を弁じて是を当体蓮華と名づく
十三 我が身は「地水火風空」と知るは成仏の種子なり
十四 文底の顕本を「我が内証の寿量品」と名づく
十五 「我が内証の寿量品」とは本因妙の事なり
十六 寿量品読誦は「所破」「所用」同時なり
十七 日蓮大聖人、寿量品読誦の所破・所用を定む
十八 迹門は実相を顕わす、本門は寿の長遠を顕わす

第三 唱題篇

一 久遠元初の三宝を信じ奉るべし
二 末法の仏法僧は自我偈の文に顕然なり
 末法出現の三宝、その体最も明らかなり
 六老の次第は受戒の前後に由り、伝法の有無は智徳の浅深に依る
五 大御本尊脇士の左右尊卑を説く
 末法我等の正行は但妙法五字に限
七 成仏種子の法体は唯妙法の五字に限る
 七字は仏界、我等衆生は九界、真実の十界互具なり
 唱題の功徳は即身成仏にあり
 丑寅の勤行を説いて当流の行事を結す


六巻抄 目次



by johsei1129 | 2015-01-17 23:19 | 日寛上人 六巻抄 | Trackback | Comments(0)