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日蓮大聖人『御書』解説

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2014年 12月 31日

不軽菩薩の不専読誦を説き明かす 【末法相応抄上】五


問う、又云わく「蓮祖は不軽(ふきょう)の跡を(しょう)(けい)とは不軽の不読誦を顕わす、不軽菩薩に(また)読誦の経釈有り、何ぞ之を()(ぞう)するや。不軽品に云わく、先仏(せんぶつ)(みもと)に於いて此の経を受持し読誦し人の為に説く、故に()阿耨(あのく)菩提(ぼだい)を得たり云云。文の十に云わく、読誦経典は即ち了因性、皆行菩薩道は即ち縁因性、不敢(ふかん)軽慢(きょうまん)()()(じん)(きょう)は即ち正因性、文。不軽の三仏性の中に不軽の読誦を()げて了因仏性を証す、汝(ただ)不専読誦の文を見て一部不読を()ること(はなは)()われ無きなり云云、此の難如何(いかん)

答う、一(えい)眼に在り、空華(くうげ)乱墜(らんつい)すと云云、日辰が博学(はくがく)、州の額を県に打つ、前代未聞の珍謬(ちんびゅう)後世不易(ふえき)恥辱(ちじょく)なり。

謂わく、五失有る故に、

一には時節混乱の(とが)()わく「読誦経典即了因性」とは威音(いおん)(のう)仏の像法の時なり。故に文句に不専読誦の下に於いて此の釈を作すなり。()し所引の経文「我於先仏所受持読誦」とは雲自在王の時なり。故に補註(ふちゅう)十-十四に云わく「()し我宿世に於いて受持読誦せずば疾く菩提を得ること(あた)わずとは此れは雲自在王の時を指す」云云。威音王と雲自在王と実に多劫を(へだ)つるなり、(まさ)に経文を見るべし、(なん)ぞ多劫後の事を引いて多劫前の事に()するや。

二には次位混乱の失、()わく、威音王仏の像法の不軽は観行初品の位なり。文十-十六に云わく「不専読誦経典とは初随喜の人の位なり」云云。(また)雲自在王の(みもと)の不軽は是れ初住の位なり、故に経(常不軽品)に云わく「(また)二千億の仏に値い同じく雲自在燈王と号す、此の諸仏の法中に於いて受持読誦して(もろもろ)の四衆の為に此の経典を説く、故に是の(じょう)(げん)清浄(しょうじょう)耳鼻(にび)(ぜつ)(しん)()の諸根清浄を得たり」云云。補註十-十五に云わく「前に六根浄を得たるは是れ十信なり、又六根浄を得たるは恐らくは是れ初住ならん」云云。証真云わく「前に得るは相似(そうじ)、今得るは真位、故に常と云うなり」云云。何ぞ初住の事を以て初品の事に()するや。

三には能所混乱の失、謂わく、不軽は是れ能随喜の人なり、三仏性は是れ所随喜なり、故に文句に云わく「一切の人(みな)三仏性有ることを随喜す」云云、何ぞ所随喜の仏性を以て能随喜の人に()するや。

四には信謗混乱の失、謂わく、(しょ)に云わく「読誦経典即了因性とは是れ謗者四衆の読誦にして不軽の読誦に非ず」。故に玄文第五-七十四に云わく「是の時の四衆衆経を読誦するは即ち了因性」と云云。(なん)ぞ謗者の読誦を以て信者の不軽に擬するや。

五には所例混乱の失、謂わく、吾が祖の諸抄の所例は(ただ)威音王仏像法の不軽に限るなり、(しばら)く一文を引かん。

顕仏未来記二十七-三十に云わく「本門の本尊妙法蓮華経の五字を以て閻浮提(えんぶだい)に広宣流布せしめんか、例せば威音王仏の像法の時、不軽菩薩()(しん)(きょう)(にょ)(とう)の二十四字を以て彼の土に広宣流布して一国の(じょう)(もく)等の大難を招きしが如し。彼の二十四字と此の五字と其の(ことば)異なりと(いえど)も其の(こころ)之同じ。彼の像法の末と此の末法の初めと全く同じ」云云。明文(ここ)に在り、何ぞ(ほしいまま)に雲自在王の(みもと)の不軽の読誦を引いて吾が祖の正義を破らんと欲するや。

問う、尼崎(あまがさき)の相伝に云わく「読誦をするに()いて不専と曰うなり」云云、此の不審如何(いかん)

答う、此の義(はなは)だ非なり。妙楽云わく「(たん)は不雑を顕わし、不専は専に対す」云云。既に「(たん)(ぎょう)礼拝(らいはい)と云う、故に知んぬ、余行を廃するなり。不専と言うは「不敢(ふかん)軽慢(きょうまん)と云うが如く是れ決定なり、故に正経に「不肯(ふこう)読誦(どくじゅ)と云うなり。

   摂受をしりぞけ、折伏門をしめす  につづく

末法相応抄 目次
六巻抄 目次



by johsei1129 | 2014-12-31 22:57 | 日寛上人 六巻抄 | Trackback | Comments(0)
2014年 12月 31日

末法正業の題目を説く 【末法相応抄】四 


 問う、又云わく、
転重軽受鈔十七-二十九に云わく「(いま)日蓮法華経一部読んで候、一句一偈(なお)授記(じゅき)(こうむ)れり、何に(いわん)や一部をやと(いよいよ)(たの)もしく候云云、此の文如何。

答う、此れは是れ身業(しんごう)読誦にして口業(くごう)読誦に非ざるなり。此の抄は文永八年辛未九月十二日(たつの)(ぐち)の後、相州(そうしゅう)()()に二十余日御滞留(たいりゅう)の間、佐州(さしゅう)(うつ)されんとする五日()(ぜん)十月五日の御書なり。此の時法華経一部(みな)御身に当てて之を読む故なり。

是の故に次ぎ上の文に云わく「不軽菩薩・覚徳比丘は身に当てて読み(まい)らせ候、末法に入って日本国当時は日蓮一人と見えて候」云云。前後の文相(もんそう)分明なり、正に是れ身業読誦なり、(なん)ぞ此の文を引いて口業の読誦を証せんや。

下山抄二十六-三十七に「法華経一部読み(まい)らせ」等の文の意も(また)(しか)なり云云。

問う、日辰が御書抄の意に謂わく「身業(すで)(しか)り、口業も亦然らん」云云、此の義如何。

答う、今反難(はんなん)して云わく、()し爾らば不軽菩薩は(ただ)身業に読誦して口業に読誦せざるは如何。

宗祖の云わく不軽(ふきょう)菩薩は身に当てて読み進らせ候」云云。(あに)身業の読誦に非ずや。(また)経(常不軽品)に云わく「不専読誦経典(たん)(ぎょう)礼拝」云云。(むし)ろ口業不読に非ずや、何ぞ必ずしも一例ならんや。

問う、彼の抄次ぎ上に観行即の例を引いて云わく「行ずる(ところ)言う所の如く、言う(ところ)行ずる所の如し」云云。(あに)身口一例に非ずや。

答う、此れは是れ(ずい)()転用(てんゆう)なり、今の所引(しょいん)の意は行者の所行(しょぎょう)は仏の所言の如く、仏の所言は行者の所行の如し云云。仏の所言は即ち是れ経文なり。故に次ぎの文に云わく「彼の経文の如く振舞う事(がた)く候」云云。

問う、真間(まま)の供養抄に云わく「法華経一部を仏の御六根に読み入れ進らせて生身(しょうしん)の教主釈尊に成し進らせ返って迎い進らせ給え」等云云、此の文如何。

答う、(しばら)く一縁の(ため)(なお)造仏を歎ず。故に知んぬ、開眼も亦()(よろ)しきに(したが)うか。

宗祖云わく「仏の御意は法華経なり、日蓮が魂は南無妙法蓮華経なり」云云。

問う、又日辰が記に云わく「法蓮慈父(じふ)十三年の為に法華経五部を転読す、()し読誦を以て(ぼう)(ざい)に属せば何ぞ之を責めずして(かえ)って(しょう)(たん)したもうや」云云、此の難如何。

答う、一経読誦を許さざる所以(ゆえん)は是れ正業を妨げ折伏を()ゆるが故なり、(なん)ぞ読誦を以て直ちに謗罪に属せんや、法蓮(いとま)の間に或は一品二品之を読み(つい)に五部と成る。本意に非ずと(いえど)も而も弘通(ぐつう)の初めなり、況や日本国中一同に称名(しょうみょう)念仏三部経等なり、而るに法蓮、妙経を読誦す、(あに)称歎せざらんや。

問う、又云わく「若し不雑(ふざつ)()(ぶん)の四字に依り一部読誦を禁制せば何ぞ(また)方便・寿量を読誦するや、是れ亦題目の外の故なり」云云、此の難如何。

答う、「不雑余文」の四字に()るに非ず、正しく「不許(ふこ)一経読誦」の六字に依るなり。

問う、又云わく「(なお)一経の読誦を許さずとは末法初心の正業に約す、若し助行に至っては之を許すべき旨分明(ふんみょう)なり」云云、此の義如何。

答う、若し(しか)らば其の分明の文如何。

四信抄の意の謂わく「若し正業に於ては専ら題目を持ちて余文を雑えず、若し助業に於いても(なお)一経の読誦を許さず、(いか)に況や五度をや」云云。

  不軽菩薩の不専読誦を説き明かす  につづく

末法相応抄 目次
六巻抄 目次



by johsei1129 | 2014-12-31 19:20 | 日寛上人 六巻抄 | Trackback | Comments(0)
2014年 12月 31日

法華経一部への執着を破す 【末法相応抄】三


 問う、又云わく「蓮祖自筆の
紺紙(こんし)金泥(こんでい)の法華経一部富士重須(おもす)に之在り、書写即読誦なり」云云、此の義如何(いかん)

答う、(ただ)重須に在るのみに非ず又大石にも之有り。所謂(いわゆる)宗祖自筆の一寸八分細字の御経一部一巻、又開山上人自筆の大字、細字の両部是れなり。此れ(また)前の如く自他行業の御暇の時々、或は二行三行五行七行之を書写し、(つい)に以て巻軸(かんじく)を成ず。是れ滅後に留めんが為なり。故に()化他に当る。(なん)ぞ必ずしも書写即読誦と云わんや。

問う、又云わく「(しょう)御影(みえい)の御前に法華一部有り、(だい)曼荼羅(まんだら)の宝前に(また)之を安置し住持毎日三時の勤行は即ち机上(きじょう)の八軸に向かう」等云云、此の事如何。

答う、世人は(ただ)眼に法華経を見て此の経の謂われを知らざる故なり。

秘法抄十五-三十三に云わく「法華経を諸仏出世の大事と説かれて候は、此の三大秘法を含めたる経にて渡らせ給えばなり」云云。(すなわ)ち此の意を以て之を安置(あんち)する者なり。

問う、又云わく「日代は是れ日興の補処(ふしょ)なり。正慶二年二月七日、師入滅の(のち)、御追善の(ため)日代法華一部を石に記して重須(おもす)開山堂の下に納め、之を石経と名づく。其の石の大いさ(たなごころ)の如く或は大小有り、日辰等之を見る、其の石の文、時に観音品(かんのんぼん)なり」云云、此の事如何。

答う、(ひん)(ずい)の現証に由るに(まさ)に是れ迷乱なるべきか。既に是れ補処なり、更に大罪無し。若し迷乱に非ずんば(なん)ぞ之を擯出せん、補処と云うと(いえど)も何ぞ必ずしも(あやま)り無からん、例せば慈覚等の如し云云。

  正業の題目を説く につづく

末法相応抄 目次
六巻抄 目次



by johsei1129 | 2014-12-31 19:15 | 日寛上人 六巻抄 | Trackback | Comments(0)
2014年 12月 31日

日本国一同に日蓮が弟子檀那と為りと説いた【諸人御返事】

【諸人御返事】
■出筆時期:弘安元年(西暦1278年)三月二十一日 五十七歳御作
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:鎌倉幕府が計画していた諸宗派との公場対決(公の場での法論)への日蓮大聖人の気構えを弟子、在家の信徒に宛てた書状となっている。
簡潔な文の中に、この法論で「日本国一同に日蓮が弟子檀那と為り」と記し、揺るぎない自信に満ちあふれている。しかし残念ながらついに公場対決が実現することはなかった。
■ご真筆: 千葉県松戸市 本土寺 全文所蔵。(重要文化財)
日本国一同に日蓮が弟子檀那と為りと説いた【諸人御返事】_f0301354_1994551.jpg


[諸人御返事 本文]

 三月十九日の和風(つかい)並びに飛鳥(ふみ)、同じく二十一日戌(いぬ)の時到来す。
日蓮一生の間の祈請、並びに所願忽ちに成就せしむるか。将又五五百歳の仏記宛かも符契の如し。
所詮真言・禅宗等の謗法の諸人等を召し合せ、是非を決せしめば日本国一同に日蓮が弟子檀那と為り、我が弟子等の出家は主上・上皇の師と為らん、
在家は左右の臣下に列ならん。将又、一閻浮提(※:全世界)皆此の法門を仰がん。幸甚幸甚。

弘安元年三月二十一日戌時   日  蓮 花押

諸人御返事

by johsei1129 | 2014-12-31 18:58 | 弟子・信徒その他への消息 | Trackback | Comments(0)
2014年 12月 31日

一部読誦の執着を破す 【末法相応抄】二


次ぎに外難を遮すとは、 問う、(にっ)(しん)が記に云わく「蓮祖身延九箇年の間読誦する所の法華経一部手に触るる分、黒白色を分かつ。十月中旬二日九年読誦の行功を拝見せしむ」云云、此の事如何(いかん)

答う、人の(ことば)(あやま)り多し、但文理に随わん。

天目(てんもく)日向(にこう)問答記(もんどうき)に云わく「大聖人一期(いちご)の行法は本迹なり、毎日の勤行は方便・寿量の両品なり、御臨終の時(また)(また)(しか)なり」云云。既に毎日の勤行は但是れ方便・寿量の両品なり、何んぞ九年一部読誦と云うや。

(また)身延山抄十八-初に云わく「昼は終日(ひねもす)一乗妙典の御法を論談し、夜は竟夜(よもすがら)要文誦持(じゅじ)の声のみす」(新定二三〇六)云云。既に終日竟夜の御所作、文に在って分明なり、何ぞ一部読誦と云うや。
 又佐渡抄十四-五に云わく「眼に止観・法華を
(さら)し口に南無妙法蓮華経と唱うるなり」云云。
 故に知んぬ、並びに説法習学の
巻舒(けんじょ)に由って(まさ)に触手の分有り、(なん)ぞ一概に読誦に由ると云わんや。(しか)(また)三時の勤行、終日(しゅうにち)(ちゅう)()一乗論談、要文誦持、習学口唱の(ほか)(さら)(おん)(いとま)有れば時々(よりより)或は一品一巻(まさ)に之れを読誦したもうべし。然りと(いえど)も宗祖は是れ四重の浅深、三重の秘法(みなもと)(きわ)め底を尽くし、一代の聖教八宗の章疏(しょうしょ)(むね)()(たなごころ)に握る、故に自他の行業自在無礙(むげ)なること、譬えば魚の水に()れ、鳥の虚空に(かけ)るが如し。故に時々(よりより)に之れを行ずと雖も何んの妨礙(ぼうげ)有らんや、而るに那んぞ蓮師を引いて(たやす)く末弟に()せんや。


                     法華経一部への執着を破す  につづく
  
末法相応抄 目次  六巻抄 目次



by johsei1129 | 2014-12-31 16:24 | 日寛上人 六巻抄 | Trackback | Comments(0)
2014年 12月 30日

日寛上人、われら末弟に正邪をしめす 【末法相応抄上】一


  末法相応抄第四

春雨昏々(こんこん)として山院寂々たり、客有り(だん)著述に(およ)。客の曰わく、永禄の初め洛陽の(しん)、造読論を述べ(もっぱ)ら当流を難ず、爾来(じらい)百有六十年なり、而して後門葉の学者(よも)(はびこ)り。其の間一人も之に(むく)いざるは何ぞや。予(おも)く、当家の書生の彼の難を見るや、また闇中の(つぶて)の一も(あた)ることを得ざるが如く、吾に()いて害無きが故に酬いざるか。

客の曰わく、(たと)い中らずと雖も而も(また)遠からず、恐らくは後生(こうせい)の中に(まど)いを生ずる者無きに非ず、(いずく)んぞ之を(つまび)らかにして幼稚の(たす)()さざるや。二三子も亦復(またまた)(ことば)を同じうす。予左右を(かえり)みて欣々(きんきん)(ぜん)たり。(つい)に所立の意を示して以て一両の難を(しゃ)す。余は風を望む、所以(ゆえ)に略するのみ。

末法相応抄上
                     日寛謹んで記す

問う、末法初心の行者に一経の読誦(どくじゅ)を許すや(いな)や。

答う、許すべからざるなり、(まさ)に此の義を明かさんとするに初めに文理を立て次ぎに外難(げなん)を遮す。

初めに文理とは、一には正業(しょうごう)の題目を妨ぐる故に、四信五品抄十六-六十八に(もん)九-八十を引いて云わく「初心は縁に紛動(ふんどう)せられ正業を修するを(さまた)(おそ)る、直ちに専ら此の経を持つは即ち上供養なり、()を廃し理を存ずれば所益()()なり」云云。直専(じきせん)()()(きょう)とは一経に(わた)るに非ず、専ら題目を持って余文を雑えず、(なお)一経の読誦を許さず、(いか)(いわん)んや五度をや 以上。

二には末法は折伏の時なるが故に、経(常不軽品)に曰わく「専らに経典を読誦せずして(ただ)礼拝を行ず」云云。記の十-三十一に云わく「不専等とは不読誦を顕わす故に不軽(ふきょう)を以て(せん)と為して但礼と云う」云云。

聖人知三世抄二十八-九に云わく「日蓮は不軽の(あと)(しょう)(けい)す」等云云。

開山上人の五人所破抄に云わく「今末法の()を迎えて折伏の相を論ぜば一部読誦を専らにせず、(ただ)五字の題目を唱え諸師の邪義を責むべし」云云。

 三には多く此の経の()われを知らざるが故に、一代大意抄十三-二十二に云わく「此の法華経は謂われを知らずして習い読む者は(ただ)()(ぜん)(きょう)の利益なり」云云。深秘の相伝に三重の謂われ有り云云。



                     一部読誦の執着を破す  につづく

末法相応抄 目次
六巻抄 目次


by johsei1129 | 2014-12-30 22:47 | 日寛上人 六巻抄 | Trackback | Comments(0)
2014年 12月 29日

三大秘法の「教法流布の先後」を知る 【依義判文抄】終


 第五に教法流布の前後を知る
とは、太田抄に云わく「迦葉(かしょう)・阿難は小乗教を弘通し、竜樹(りゅうじゅ)無著(むちゃく)は権大乗を()ぶ、南岳・天台は観音・薬王の化身として小大・権実・迹本二門、化導の始終・師弟の遠近(おんごん)等悉く之を宣ぶ、其の上()(こん)(とう)の三説を立てて一代超過の(よし)を判ず。然りと雖も広略を以て本と()し肝要なる(あた)わず、自身之を存ずと雖も()えて他伝に及ばず」云云。

既に像法の中に於て広略二門を弘通す。故に知んぬ、今末法に於て(まさ)(ただ)要法を弘通すべきなり。此くの如く知るを則ち之教法流布の前後を知ると謂うなり。

問う、宗教の五義最も(こう)(ねん)なり、正しく其の証文如何。

答えて云わく、文(寿量品)に云わく「()良薬を(いま)留めて此に()、汝取りて服す可し、()えじと(うれ)うる勿れ」文。
 応に知るべし「
()(こう)良薬(ろうやく)は即ち是れ教を明かす、他の毒薬に対して是好良薬と云う故に勝劣分明なり。
 「
今留(こんる)の二字は即ち時を明かすなり、滅後の中にも別して末法を指すなり。
 「
(ざい)()の両字は是れ国を明かすなり、閻浮提(えんぶだい)の中に別して日本を指すなり、「(にょ)の一字は即ち機を明かすなり、三時の中に別して末法の衆生なり。

御義口伝に云わく「是好良薬は(あるい)は経教、末法に於て南無妙法蓮華経なり、今留とは末法なり、在此とは日本国なり、汝とは末法の衆生なり」略抄。若し四義を(りょう)則ち前後は其の中に在り。神力品(じんりきぼん)に云わく「如来の滅後に於て仏の所説の経の因縁及び次第を知りて義に随って如実に説く」云云。(まさ)に知るべし「於如来滅後」は即ち時を知るなり「知仏所説経」は即ち是れ教を知るなり「因縁」亦感応(かんのう)名づく、即ち機を知るなり「及」は即ち国を知るなり「次第」は即ち教法流布(るふ)の前後を知るなり。


  依義判文抄
(おわ)りぬ

                         六十一歳 日 寛(花押)

享保(きょうほう)十-乙巳年四月中旬、大石の大坊に於て之を書す


  【末法相応抄】日寛上人、われら末弟に正邪をしめす につづく


 依義判文抄 目次
  六巻抄 目次



by johsei1129 | 2014-12-29 21:17 | 日寛上人 六巻抄 | Trackback | Comments(0)
2014年 12月 28日

三大秘法の「時」と「国」を知る 【依義判文抄】二二


 第三に時を知る
とは、今末法に入り一切の仏法悉く皆(めつ)(じん)す。故に大集経に「(ごの)五百歳白法(びゃくほう)隠没(おんもつ)と云うなり。正に()の時に当たりて三大秘法広宣流布す、故に薬王品に「(ごの)五百歳広宣流布」と説くなり、宗祖云わく(ごの)五百歳に一切の仏法滅する時、上行菩薩に妙法蓮華経の五字を持たしめ、謗法一闡提(いっせんだい)(やから)白癩病(びゃくらいびょう)の良薬と為す」云云。(つぶ)さには撰時抄の如し。此くの如く知るを則ち(これ)時を知ると謂うなり。

第四に国を知るとは、通じて之を論ずれば法華有縁(うえん)の国なり、別して之を論ずれば本門の三大秘法広宣流布の根本の妙国なり。
 日本の名に
(しばら)く三意有り。
 一には
(しょ)()の法を表わして日本と名づくるなり。謂わく、日は是れ(のう)()本は是れ(しょ)()法譬倶(ほっぴとも)に挙げて日本と名づくるなり。経(薬王品)に云わく「又(にっ)天子(てんし)()(もろもろ)の闇を除くが如し」云云。

宗祖云わく「日蓮云わく、日は本門に(たと)うるなり」云云。日は文底独一本門に譬うるなり、四条抄に「名の目出度(めでた)きは日本第一」と云う是れなり云云。

二に(のう)()の人を表わして日本と名づくるなり。謂わく、日蓮の本国の故なり。

故に顕仏未来記に云わく「天竺(てんじく)・漢土に亦法華経の行者之有るか如何。答えて云わく、四天下(てんげ)の中に全く二の日無し、四海の内(あに)両主有らんや」云云。故に知んぬ、此の国は日蓮の本国なり云云。

三には本門流布(るふ)の根本を表して日本と名づくるなり。謂わく、日は(すなわ)ち文底独一の本門三大秘法なり、本は即ち此の秘法広宣流布の根本なり、故に日本と云うなり。(まさ)に知るべし、月は西より東に向う、日は東より西に入る、之を思い合わすべし。(しか)れば則ち日本国は本因妙の教主日蓮大聖の本国にして本門の三大秘法広宣流布の根本の妙国なり。

問う、()(しか)らば蓮祖出世の後、(まさ)に日本と名づくべし、何ぞ開闢(かいびゃく)已来(いらい)日本国と名づくるや。

答う、是れ(れい)(ずい)感通(かんつう)嘉名(かめい)早く立つる故なり、例せば不害国の名の如し。記の一末に云わく「摩訶提(まかだ)此に不害と云う。(こう)(しょ)より已来(いらい)刑殺無き故なり、阿闍世に至りて指を()るを刑と()す、後自ら指を()痛し、(また)此の刑を()む。仏(まさ)に其の地に生まるべき故に吉兆(きっちょう)(あらかじ)(あら)わる、所以(ゆえ)に先ず不害国の名を置く」等云云。
 今
(また)是くの如し。蓮祖当に此の国に生まれ独一本門の妙法を弘通(ぐつう)すべき故に吉兆預め彰わる。所以に先より日本国の名を置くなり、彼此(ひし)異なりと雖も其の(おもむき)是れ同じきなり、(あに)之を信ぜざるべけんや。此くの如く知るを(すなわ)(これ)国を知ると()うなり。


    三大秘法の「教法流布の先後」を知る につづく


依義判文抄 目次 六巻抄 目次



by johsei1129 | 2014-12-28 21:55 | 日寛上人 六巻抄 | Trackback | Comments(0)
2014年 12月 28日

三大秘法の「機」を知る 【依義判文抄】二一


 第二に機を知る
とは、太田抄に云わく「正像二千余年に(なお)下種の者あり、今既に末法に入って在世(ざいせ)結縁(けちえん)の者は漸々(ぜんぜん)衰微(すいび)して権実の二機皆(ことごと)く尽きぬ、彼の不軽(ふきょう)菩薩(どっ)()()たしむるの時なり」云云。
 今謹んで案じて曰く、文に
()(けん)あり、謂わく「正像二千余年」等とは(ただ)過去の下種を挙げて在世の結縁(けちえん)を略す。
 「今既に末法に入り」等とは但在世の結縁を
()げて過去の下種を略し、互いに之を顕わすなり。
 「権実二機」とは権は即ち
熟益(じゅくやく)の機、実は即ち脱益(だっちゃく)の機なり、「毒鼓」は即ち是れ下種の機なり。故に文意の云わく、正像二千年に(なお)過去下種在世結縁の者有り、今既に末法に入る、過去()(しゅ)、在世結縁の者漸々に衰微し(じゅく)(だつ)の二機皆悉く尽きぬ、彼の不軽菩薩世に出現して下種せしむるの時なり云云。証真云わく「聞法を下種と()す、了因(りょういん)の種なるが故に、発心(ほっしん)を結縁と為す、仏果(ぶつか)の縁なるが故に」云云。

若し他門流の如く在世の聞法下種を許さば(おそ)らくは大過を(じょう)ぜんか。何となれば(すで)に三周の声聞は三千(さんぜん)塵点(じんてん)経歴(きょうりゃく)し、本種現脱の人は五百塵点を経歴す、今日(こんにち)在世下種の人、何ぞ(わず)かに二千余年の間に皆悉く尽きんや。故に知んぬ、釈尊の御化(ごけ)(どう)は久遠元初に始まり、正像二千年に終るなり、此に相伝有り云云。故に末法の衆生は皆是れ本未(ほんみ)()(ぜん)にして最初下種の直機(じっき)なり。

問う、経(法師品)に云わく「(すで)()て十万億の仏を供養す」等云云。故に知んぬ、末法と云うと雖も何ぞ必ずしも皆是れ本未(ほんみ)()(ぜん)ならんや。

答う、(いま)当流の意に(じゅん)ずるに是れ熟脱の仏に約するが故に之を供養すと(いえど)も仏種を(じょう)
 問う、十万億の仏、()んぞ皆熟脱の仏ならんや。

 答う、是れ経論の(つね)の談に()る故なり。
 謂わく、経論常に色相荘厳を以て説き名づけて仏と為す、今
(あに)(しか)らざらんや。既に是れ色相荘厳の身体なり、寧ろ熟脱の仏に非ずや。況や(また)宗祖の云わく「法華経の題目は過去に十万億生身の仏に()い奉り功徳を成就せる人、初めて妙法蓮華経の(みな)を聞き、始めて信を致すなり」云云。初めて妙名を聞き、始めて信を致すとは即ち是れ今日(こんにち)最初(さいしょ)聞法(もんぼう)名字(みょうじ)下種(げしゅ)の位なり。故に知んぬ、過去供養は皆熟脱の仏なることを。是の故に末法の衆生は皆本未有善、最初下種の機縁(きえん)なり。妙楽曰く「()は熟脱、()は下種」云云。
 宗祖云わく
本化(ほんげ)弘通(ぐつう)所化(しょけ)の機は法華本門の直機なり」等云云。此くの如く知るは、(すなわ)ち之を機を知ると()うなり。


               三大秘法の「時」と「国」を知る  につづく

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by johsei1129 | 2014-12-28 18:18 | 日寛上人 六巻抄 | Trackback | Comments(0)
2014年 12月 28日

三大秘法の「教」を知る  【依義判文抄】二十


 問う、宗旨の三箇、経文に分明なり、宗教の五箇の証文
如何(いかん)

答う、当流の五義は永く諸門に異なる、故に(すべから)く先ず五義を(あき)らめて後に証文を(たず)ぬべし云云。

問う、若し(しか)らば宗教の五箇其の義如何。

答う、(いま)略して要を取り、応に其の相を示すべし、此の五義を以て(よろ)しく三箇を弘むべし云云。()れ宗教の五箇とは所謂(いわゆる)教・機・時・国・教法流布の前後なり。

第一に教を知るとは、即ち一代諸経の浅深(せんじん)勝劣(しょうれつ)を知るなり。大師は五時八教を以て一代聖教を判じ、吾祖は三重の秘伝を以て八万(はちまん)法蔵(ほうぞう)を暁らむ云云。

開山上人の実相寺(じっそうじ)申状に云わく「大覚世尊、霊山(りょうぜん)虚空(こくう)二処(にしょ)三会(さんね)二門(にもん)八年の間三重の秘法を説き(きわ)むと雖も、仏滅後二千二百三十余年の間(しか)も之を伝えず、第三の秘法今に残る所なり」云云。権実・本迹・種脱云云。云云。

 宗祖云わく「日蓮が法門は第三の法門なり、世間に(ほぼ)一二をば申せども第三をば申さず候」云云。此くの如く知るを(すなわ)ち之を教を知ると()うなり。


               三大秘法の「機」を知る  につづく


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by johsei1129 | 2014-12-28 15:28 | 日寛上人 六巻抄 | Trackback | Comments(0)