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日蓮大聖人『御書』解説

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2014年 09月 29日

70 兄宗仲の勘当

建築現場で大工たちがいそがしく働く。

作事は足代がくみあげられ、躯体が完成間近である。

兄宗仲が指図する。弟の宗長はその指示をわかりやすく大工に説明した。指図するだけではない。兄弟は大工たちと同じく鋸や金槌で作業にあたった。

当時の大工職人は身分が低い。大工たちは同じ汗を流す兄弟を慕った。

みなの息が合っている。工事ははかどっていた。

これから壁のとりつけがはじまる時だった。

父康光が登場した。

兄弟がいつものようにひかえる。工人たちもあつまって平伏した。

康光が声高に言った。

「この建物は鎌倉殿からじきじきの命をうけ、奉行であるこの康光がうけたまわりしもの。おのおの抜かるでないぞ。とくに火のもとには十分気をつけよ。また本日は、おぬしらに伝えることがある。今日よりこの池上宗仲を勘当することとあいなった。今日の件はこれにて」

康光が去る。

あっという間だった。

当の宗仲は毅然と正面をむいている。

だが弟の宗長をはじめ一同は驚愕した。まさか勘当とは。

落胆する者がいる。みながあっけにとられて、ふらふらと作業場にもどった。

弟の宗長が康光の(たもと)をつかんだ。

「父上、なにとぞお考えのほどを。兄上はつぎの棟梁ではあったはず。ここで兄上を勘当いたしては作事もとどこおります。池上の家名にもかかわること。なにとぞ勘当はお解きになってくださいませ」

康光の返答はこれまでにまして冷酷だった。

「宗仲は人夫におとす」

宗長は最悪の事態になったと困惑する。

こんどは康光が弟の宗長に詰問した。

「宗長、法華経の信心をやめるつもりはないのか。わしとて、このようなことはしたくはなかった。お前の兄が強情なばかりに、こんなことになったのだ。お前だけでもよい。法華経を捨てて、念仏を信ずる気はないのか」

宗長のやさしい性格は好感をもたれている。反面、彼は自分の意思を明確にするのが苦手だった。決意がぐらつくのだ。法華経の信心も兄がはじめたからである。だが今は父の怒りがあっても、兄を慕う気持ちのほうが強かった。
 宗長はいっとき思案のうえ、康光に告げる。

「父上、わたしは日蓮上人を信じております。お願いでございます。どうかこの信心だけはつづけさせてください」

康光は憮然として現場を後にした。

甲州身延の日蓮の館では弟子たちが狭い室内に密集し講義を聞いていた。日蓮の真正面に池上兄弟がいる。

口調はいつになくけわしかった。

「この世界は第六天の魔( )の所領である。一切衆生は無始以来、彼の魔王の眷属です。六道の中に二十五(にじゅうご)()(注)と申す牢をかまえて一切衆生を入れるのみならず、妻子と申す足かせ()をうち、父母主君と申す網を空にはり、(とん)(じん)()(注)の酒を飲ませて仏性の本心をたぼらかす。ただ悪の(さかな)のみをすすめて三悪道の大地に(ふく)()せしむ。たまたま善の心あれば障碍(しょうげ)をなす。法華経を信ずる人をば、いかにもして悪へおとさんと思うに(かな)わざれば、ようやくすかさんがために(そう)()せる華厳経へおとす。または般若経へおとす、また深密経へおとす、また大日経へおとす、善無畏・金剛智・不空・弘法・慈覚・智証これなり。また禅宗へおとす、達磨(だるま)これなり。また観経へすかしおとす悪友は善導・法然これなり。これは第六天の魔王が智者の身にはいって善人をたぼらかすことをいう。法華経第五の巻に『悪鬼其の身に入る』と説くのがこれです。

我らは過去に正法を行じる者に仇をなしていましたが、今かえりて信受すれば過去に人をおとしめる罪によりて、未来に大地獄に堕つべきところを、今生に正法を行ずる功徳強盛なれば、未来の大苦をまねきこして小苦にあう。

このさざまな果報をうける中に、あるいは貧しい家に生まれ、あるいは邪見の家に生まれ、あるいは王難にあう。この中に邪見の家と申すは、正法を誹謗する父母の家である。王難と申すは悪王に生まれあうことをいう」    

日蓮は兄弟をみつめた。

「この二つの大難は、おのおのの身に当たりて思うであろう。過去の謗法の罪を消そうとして邪見の父母に責められている。また法華経の行者をあだむ国主にも遭った。経文明々たり、経文かくかくたり。()

わが身は過去に謗法(ほうぼう)の者であったことを疑ってはなりません。これを疑って、現世の軽い苦しみが忍びがたくて、父上の責めに耐えきれず、思いのほかに法華経を捨てることがあるならば、我が身地獄に()ちるのみならず、父も母も(だい)阿鼻(あび)地獄におちて、ともに悲しむこと疑いなかるべし。大道心と申すはこれです。

おのおの随分に法華経を信じるがゆえに、過去の重罪をせめ出だしたのです。たとえば黒鉄(くろがね)をよくよく(きた)えぬれば、きずあらわる。石は焼けば灰となる。(こがね)は焼けば真金(しんきん)となるように。このたびこそ、まことの御信用はあらわれて法華経の(じゅう)()(せつ)も守護いたすであろう。それにしても心浅からんことは後悔することになる。  

おのおのが責められるのは、つまるところ国主が法華経の(かたき)となったがゆえです。国主が敵となることは念仏者、真言師などの謗法よりおこった。

このたびはこれを忍んで法華経の御利生を試みてくだされ。日蓮もまた強盛に天に申しあげよう。いよいよおじ気づいた心根・姿があってはなりませぬ。女人はかならず心弱いために心をひるがえすであろう。強情に歯がみをして、たゆむ心があってはなりませぬ。たとえば日蓮が(へいの)左衛門尉のもとにてうちふるまい言いしがごとく、少しも怖気(おじけ)づく心なかれ。
()()()()()() なにとなくとも、一度の死は一定(いちじょう)です。色をば()しくて人に笑わせたもうな。

一生の間、賢かった人も一言で身をほろぼすこともある。おのおのも御心のうちは知らず、おぼつかない。

世の中にも兄弟おだやかならぬ例もある。いかなる(ちぎ)りであなたがた兄弟はそのようにむつまじいのか。宗仲殿の父上の勘当はうけたが、弟殿はこのたびは、よも兄にはつかないであろう。そうなれば、いよいよ宗仲殿の親の御不審は、おぼろげでならでは許されぬと思っていたが、まことにてや、同心と申されたという。あまりの不思議さ、未来までの物語、なにごとかこれにすぎよう。

たとえ、どんな煩わしい事があっても夢になして、ただ法華経の事のみ思案してくだされ。中にも日蓮の法門は昔は信じがたかりしが、いまは先々言い置きしこと、すでに合いぬれば(よし)なく謗ぜし人も悔ゆる心あり。たといこれよりのちに信ずる男女ありとも、おのおのには替え思うべからず。始めは信じていながら世間のおそろしさに捨つる人、数を知らず。その中にかえってもとより謗ずる人々よりも、強盛にそしる人々また多くある」

兄弟の馬が山道をおりていく。日蓮の指導をうけ、心は晴れ渡った青空のような気分で身延の険しい山をおりていった。

宗仲が弟、宗長をはげます。

「ここがふんばる時だな」

宗長がうなずいた。

「今日はきてよかったです。兄上、おたがい堕ちないようにいたしましょう」

「そうだな。二人いれば心強い。一人おちてもまだ一人いる」

宗仲と宗長の兄弟は来た時とはうってかわって馬上で高笑いしながら帰途についた。

日蓮と弟子の日朗は、そろって館の外に出て武蔵国へ帰る兄弟を見送った。日朗は兄弟の母方のいとこだった。それだけに池上兄弟の行くすえが不安だった。

「上人、あの兄弟は親の反対をおしきって法華経の信心をとおしていけるのでしょうか」

日蓮は大丈夫だとばかり二度三度黙って頷き、遠くなる二人をいつまでもみつめていた。

兄弟同士が争うことはいつの代でもある。むしろ武家政治の勃興期である鎌倉時代の武士であれば、兄弟で争わないほうがおかしいくらいだ。この点、池上兄弟の仲の良さは、この時代にはきわめて稀有だったといえよう。

日蓮は兄弟で覇権を争った古今の例をひく。

我が朝には一院・さぬきの院は兄弟なりしかども位をあらそいて、ついにかたきとなり給ひて、今に地獄にやをはすらむ。当世()()たりて、此の世のあや()をきも兄弟のあ()そいよりをこる。大将殿と申せし賢人も、九郎(くろう)判官(ほうがん)等の舎弟等をほろぼし給ひて、かへりて我が子ども皆所従等に失はれ給ふは眼前の事ぞかし。『兵衛志殿御返事

一院とは後白河上皇、さぬきの院とは崇徳天皇のことである。兄弟でありながら皇位をあらそって保元の乱をひきおこした。敗れた崇徳天皇は配流先で怨霊になったという。日蓮は「今に地獄にやをはすらむ」といっている。主上であれなんであれ、血で血を洗えば冷徹な結果がまつ。

大将殿とは源頼朝、九郎判官とは義経のことである。頼朝は異常な猜疑心で義経らの兄弟をつぎつぎに滅ぼした。そのゆえか彼の死後、子孫はことごとく滅ぼされ、征夷大将軍として頼朝が開いた鎌倉幕府の実権は、正室政子の本家北条氏に握られてしまう。
 池上兄弟はいかなることになるのか。

日蓮は遠い甲斐の山から兄弟を案じた。

宗仲が勘当になってから、はや二ケ月がたった。

建築現場では棟上げが進んでいく。

池上兄弟が半裸で工人たちにまじった。

兄宗仲は人夫に落ちていた。もう作事奉行の長男ではない。勘当を解くため、あらゆる人々が嘆願したが父の怒りは消えなかった。作事奉行の家の内紛である。鎌倉で噂にしない者はなかった。

夕暮れ時の仕事を終え、疲れきった兄弟が大きな道具箱を肩に背負って帰る。()

西日が二人をまぶしく照らし、後ろに長い影がさした。

宗仲がほほ笑んで弟をはげました。

「しかし人夫にとってはきつい毎日だな。だがわしは負けない。おぬしが棟梁としてしっかり束ねているから心強いぞ」

宗長は申し訳なさそうにうなずくだけだった。

兄弟がわかれた。

弟宗長が一人歩く。いつもとちがう道だった。

途中に酒場がある。

その中に一目で御家人とわかる若者たちが、遊女をまじえて酒を酌みかわしていた。

宗長がぼんやりとその様子をみつめた。

彼らがやけにまぶしくみえる。

それにひきかえ自分は土や汗にまみれている。なぜか恥ずかしい思いがした。

ここで瞬間、宗長は我を忘れた。

どうしたことであろう。

宗長が彼らと愉快に飲んでいる妄想にとらわれた。

兄の宗仲が館に着いた。

妻は出迎えず奥で縫物をしていた。

宗仲はにがみばしった顔で部屋へはいった。

沈黙がつづく。

宗仲が切りだした。

「いつまでだまっているのだ。しかたないではないか。わしとて、どうしてもゆずれぬことがあるのだ」

妻が背中でいった。

「世間で評判でございます。池上の跡取りが人夫におちたと」

下女が膳をはこんできたが豆と汁しかない。

「なんだこれは」

「これから苦しくなります。年貢など当てにできませぬ。それもこれも、あなたの強情からはじまったことでございます」

宗仲が妻に頭をさげた。

「たのむ。こらえてくれ。わしも考えた。自分の気持ちを曲げて、後継ぎになってよいかどうか。やはりひきさがるわけにはいかんのだ」

妻が正面をむいた。

「あなた、そんなに信心が大事なのですか。この家がどうなるのか、わかっておいでですか。よくお考えください。お父様のいうとおり念仏を唱えてもよいではありませぬか」

「なにをいう」

妻が目を細くした。

「形だけ阿弥陀を信じて、内心は法華経を信じるのはいかがでございます。そうなればあなたは池上の棟梁、わたしは・・」

宗仲が箸をおいた。

「それはならぬ。そんな誤魔化しの信心では先が見えている」

妻が反論することもなく奥に引きこもった。

弟宗長が疲れた顔で帰宅した。妻が笑顔でむかえる。

下女が食膳を運んできて、和やかな食事がはじまった。

妻の笑顔が絶えない。

宗長が聞いた。

「どうした。なにかいいことでもあったか」

「いえ、あなたを見直しましたわ」

宗長が首をかしげる。

「あなたはお兄さまが勘当されても、お兄さまに味方されております。今日、市場でうわさを聞きました。お兄さまが勘当されたのだから、弟が跡目をつぐだろうと」

「そうか。そんな話がでているか」

「でもあなたはお兄さまを立てて、信心をたもっていらっしゃる」

宗長が箸をとった。

世間の目が自分にそそいでいる。これからどうしたらよいのか。

この時、玄関に人の気配がした。

身なりのよい若い僧が立っていた。見かけない顔だ。

若い僧はさわやかな声でつげた。

「極楽寺良観様の弟子、入沢入道と申します。ご挨拶にまいりました。お近づきのしるしにこれを」

入沢は籠の中に入った品物をさしだした。その中には輝くばかりに美しい小袖や(かたびら)が何枚もしきつめられていた。

宗長夫妻があっけにとられた。無理もない。こんな家に付け届けなど、未だかつてなかったのだ。

若僧はそそくさと帰った。

夫妻が籠を居間にはこんだ。いやに重い。それもそのはず、籠の底には真新しい銅銭がぎっしりとつめてあった。

「まあ、なんてことでしょう」

妻は目を輝かせたが、宗長はいいようのない不安にかられた。
 極楽寺良観は法華信徒が目の敵にしている相手である。
 それがなぜ。

鎌倉に明るい日ざしが照りつけていた。

貧相な帷子(かたびら)の宗長が、籠をかかえて鎌倉の町をゆく。

彼は表情をこわばらせて極楽寺の境内にはいった。宗長は届け物を返すつもりでやってきた。自分を念仏に改宗させる魂胆だろうがそうはさせない。

極楽寺はまばゆいばかりの金箔で飾られていた。火災で灰燼に帰したことが嘘のようである。

玄関で可憐な少女がむかえた。宗長は驚いた。こんなきれいな娘が世の中にいたのか。

つづいて入沢入道がでてきた。

「これは池上宗長様。よくおこしくださいました。さ、これへ」

少女が突っ立っている宗長の手をとり奥へ誘った。

宗長がどぎまぎしながらあがる。少女が宗長のよごれた草履を見てほほえんだ。

宗長が長い廊下をわたる。彼は細かく装飾された壁面に目をやった。別世界に来たようである。

座敷では良観と身なりのよい武士が談笑していた。

宗長は気おくれしたが、思いきって手をつけ挨拶した。

「池上兵衛(ひょうえ)(さかん)宗長にございます」

見知らぬ武士がかしこまった。

「おお、あなた様が池上殿の新しい跡取りでござるか」

宗長が不意をつかれた。

「いえ、そうではありませぬ」

良観は上機嫌である。

「まあ、それはよいとして食事といたそう」

宗長は届け物をかえすためにきたが意外なことになった。高僧の良観が食事をふるまうという。断ればまた父から叱責をうける。そうこう考えているうちに女たちが食膳をはこんできた。

膳には見たこともない魚や珍味がのっている。やがて娘たちが踊りを披露した。

両脇で可憐な娘が酌をした。宗長は竜宮城にいるような思いにとらわれた。

彼は生まれついた時から兄の影にいた。長男と弟の差は歴然としている。兄とはちがい、毎日が食うだけでやっとだった。遊ぶことなど頭にもない。それだけに驚きの連続だった。

月明かりの夜、宗長が帰路についた。

彼は歩きながら酒宴での会話を思いだしていた。

宗長は自分なりにいった。

「良観上人、せっかくですが、某は法華経を捨てるつもりはございませぬ」

良観は聞こえないふりだった。

「今日きてもらったのは、そのことではない。宗長殿、父親の跡目を継いではくれぬか。そなたの兄は日蓮にとりつかれている。もうこの良観が救う手だてはなくなった。もしそなたが父親にしたがわなければ、跡取りはいなくなる。さすれば作事奉行は他人の職となり、池上家も断絶。それではみなが困ること。

考えてみなされ。この世の中は力が支配しておる。兄弟の上下ではない。力ある者が主となれる。頼朝様がそうではなかったか。このわしも財力と人の縁でこのように人から崇められる身となった。しょせん幸せは人からいただくもの。兄を捨てることではない。これからのことを思えば父親に従うことじゃ。兄は兄で自分の運命を選べばよいではないか」

途中に兄の家があった。あかりが見える。

宗長はその光を見ていた。
 

        71 弟の宗長を諌暁 につづく
下巻目次


 二十五有

 三界六道の存在を二十五種に分類したもの。有は生存・存在の意。欲界では四悪趣、四州、六欲天の十四有。色界では大梵天と四禅天および夢想天、五淨(ごじょう)居天(ごてん)の七有。無色界では四空処天の四有。

(とん)(じん)()

煩悩の三毒のこと。一切の煩悩の根本。貪はむさぼり。欲望のこと。瞋は怒り。感情にとらわれ正しい価値判断ができないこと。癡はおろか。目先のことに左右され先が見通せないこと。
日蓮大聖人は妙法によって三毒をのぞくことができるという。

「されば妙法の大良薬を服するは貪瞋癡の三毒の煩悩の病患を除くなり、法華の行者南無妙法蓮華経と唱え奉る者は謗法の供養を受けざるは貪欲(とんよく)の病を除くなり、法華の行者は罵詈(めり)せらるれども忍辱(にんにく)を行ずるは(しん)()の病を除くなり、法華経の行者は是人於仏道決定無有疑と成仏を知るは愚癡(ぐち)の煩悩を治するなり。されば大良薬は末法の成仏の甘露(かんろ)なり。今日蓮等の(たぐい)南無妙法蓮華経と唱え奉るは大良薬の本主なり。」『御義口伝 寿量品二十七箇の大事




by johsei1129 | 2014-09-29 13:08 | 小説 日蓮の生涯 下 | Trackback | Comments(0)
2014年 09月 26日

六十四、四条金吾の格闘

侍たちが昼間から名越光時邸で酒を前に談笑していた。当時の御家人は酒を飲むのも仕事のうちである。

島田入道が顔を赤らめた。

「あまり飲むな、勤務中じゃ」

一同がばつ悪そうに苦笑いをする。

山城入道が舌打ちした。

「心ぼそいのう。むくりの件で毎日だれかが筑紫へ送られておる。明日は我が身かとびくびくじゃ」

「殿は博多防衛の大将の一人だ。いつかはわれわれもお鉢がまわるぞ。博多は遠い。家の者になにかあってもすぐには戻れぬ。難儀だのう」

「それにな、金子の工面も大変だぞ。われわれは殿について行かねばならぬ。だが給わった土地が、ああもせまくては年貢もままならぬわ」

「わしは殿に不平は言いたくない。だがな、殿はあまりにも不公平じゃ」

「なにが」

「考えてもみろ。家中で一番働いているわしらが、なぜ狭い土地しかもてんのだ。それにくらべて、なんの働きもない者が、どうして殿から広い土地をもらうのだ」

「だれのことをいっている」

そこへ四条金吾が通りすぎていく。

島田が小声になった。

「うわさをすれば影じゃ」

「四条か」

「あやつ、殿の病気を治しただけで広い田畑を給わったのだ。刀で武勲をあげたわけではないのに」

「そういえばあやつ、殿の贔屓(ひいき)が厚いばかりに高あがりになっておるな。ほかの連中も文句をいっておったぞ」

「ほかにもあるぞ。ほれ、四条は鎌倉で知らぬ者はない法華の信者だ。あの日蓮が首を斬られんとした時、自分も腹を斬ろうとしたのだ。殿は今でもあのことを苦々しく思っておられるというぞ。それにもかかわらず、臆面にも殿に法華経を勧めているそうな」

「それはまことか。許せんな」

「以前、わしが念仏の話をしておったら四条め、どなりおったわ。あやうく刀をぬくところであった」

「あやつ、殿を主人と思っていないのではないか。殿と話すときも、まるで朋輩(ほうばい)と話しているようだ」

その金吾が主人光時と対面した。

「殿、ご機嫌うるわしゅうございます」

「頼基、役目ご苦労である。今日はもうさがってよいぞ」

金吾がいずまいをただした。

「殿、先日の件、お考えいただきましたか」

「なんであったかな」

「法華経のことでございます」

「おおそうであった。頼基、わしは念仏の教えを捨てるつもりはない。先日も良観様のお話を聞いた。まことにありがたかった。武士として生まれ、明日も知れない毎日で念仏を唱えることがいかに大切か、身をもって知ったわ」

金吾が食いさがった。

「殿、念仏は(かり)の教えでござる。教主釈尊はいまだ阿弥陀経には真実をあらわしていないとおおせですぞ」

「それはなんども聞いた。だがな、わしは念仏を捨てはせぬ。それにな、京から竜象房という僧侶がこられた。ありがたい話が聞けるという。今から楽しみなのじゃ」

金吾がはっきりといった。

「だれの教えであろうと、念仏は無間地獄の振る舞いであります」

ここで物静かな光時がおこりだしてしまった。

「頼基、なにをいう。主人をなじる気か。だまって聞いておればいい気になりおって。さがれ」

金吾は答えることができずに退出した。

すれちがいに島田入道と山城入道が拝謁した。

山城が言上する。

「殿、お話が。四条金吾のことでございます。あやつ、殿に可愛がられているのを幸いに、いささか度を越しているのではないかと」

島田入道も同調した。

「われわれ同僚も、みな四条をきらっております。その点、殿からきつい仕置きがあればよいかとぞんじますが」

光時は大人である。彼は機嫌をなおし、はやる二人をなだめた。

「まあおちつけ。金吾はわしの大切な部下だ。親子二代にわたり、この名越につくしておる。あやつの強情なところは、おまえたちも不満があろう。だがな、どんなことであれ、耳に痛いことをいう者がおればこそ、わが一族も安泰というもの」


光時邸の門に日が傾いた。

金吾が退出しようとした。まわりの武士が金吾の背に後ろ指をさした。島田と山城がその中にいる。

金吾も背後の視線がわかった。たまりかねてふりむく。

「なにかご用でござるかな」

島田がとりつくろった。

「いや、なにもござらぬ。金吾殿、どうかいたしたか」

金吾も挑発した。

「失礼いたした。じつはいま背中に邪気を感じてな」

山城が息まいた。

「ほう、それはかったいな」

金吾が正面をむいた。

「まことに気味わるいものでござる。かげで人をあげつろい、げらげらと低く笑う妙な生き物がいる」

島田の表情がかわった。

「四条、なにをいう。だれのことをいっておるのだ」

「自分の胸に聞いてみよ」 

金吾と島田・山城が対峙した。

 島田と山城が刀をぬこうとするが、同僚が必死に止めた。

金吾は身延の草庵に見参し、日蓮と対面した。金吾にとって自分の不平不満を聞いてくれるのは日蓮しかいない。

「まったく、わが殿は法華経を聞く耳をもちませぬ。同僚もわたしをねたんでいる者ばかりでございます。上人、わたしも年をとりました。宮仕えはここが潮時かと思います。すこし疲れました。長年の奉公で蓄えもできましたので身を引こうと思います。それもこれも、わからず屋の主人がいるばかりに」

「それはなりませぬ」

金吾は意外な返事に驚いた。自分の話に納得してくれるだろうと思っていた。理解してくれていると思っていたのだが。

「日蓮が佐渡の国でも飢え死にせず、この山の中で法華経を読むことができるのは、だれあろう金吾殿の助けがあるからです。その金吾殿の助けはなにゆえぞとたずねたならば、主人光時様のおかげですぞ。金吾殿の父上母上の孝養も、もとをたどれば主人のおかげではないか。そのような人の身内をどんな理由があるにせよ、捨てることができますか。命にかかわることがあっても、捨ててはなりませぬ」

金吾がふてくされた。これではわざわざ来たかいがない。

日蓮はつづける。

「賢人は八風と申して八つの風におかされない人をいう。(うるおい)(おとろえ)毀・誉・称・譏(やぶれ ほまれ たたえ そしり)苦・楽(くるしみ たのしみ)です。おおむねは利あるに喜ばず、衰うるになげかずということです。この八風におかされない人を天は守る。しかるに道理もなく、主をうらみなどすれば、いかに申せども天は守りませんぞ」

金吾は聞く耳をもたない。

「わかりました。上人はわたしと同じ了見だと思っていたのですが残念です」

金吾が立ちあがった。日蓮は金吾が危機の中にはいりつつあることを見てとった。

「まちなさい。これから百日の間は、同僚や他人との酒はひかえなさい。自分の家いがいは外で飲んではならぬ。夜の酒もひかえなさい。主人がお呼びの時は、昼ならば急ぎまいること、夜ならば三度までは病気といってひかえるように。呼び出しが三度をすぎたならば下人や他人を連れて道案内させるようにしなさい。こう慎んでおれば蒙古が攻めてきた時、身内の人の心はもとにもどるであろう」

金吾が聞かないふりをするが、日蓮は忠告をやめない。

「しばらく慎むのです。たとえ主人にあやまちがあったとしても、みだりに身内を出てはなりませんぞ。たとえ身に病がなくとも、(やいと)を一二か所すえて病気といっていなさい」

金吾はなにもいわず山をおりていった。

日蓮は金吾を心配した。このあと鎌倉に人をつかわして動静をさぐったりしたがはっきりしない。

日蓮はさらに高弟の日昭に金吾と接触して報告するよう指示している。また日蓮自身が金吾をいたく案じていることを伝えさせた。


さぶらうざゑ(三郎左衛)もん()どのゝ、このほど人をつかわして候ひしが、()ほせ候ひし事、あまりにかへすがへすをぼつかなく候よし、わざ()と御わたりありて、()こし()して、()つか()わし候べし。又さゑ(左衛)もん()どのにもかくと候へ。『弁殿御消息

数日後、名越光時邸に家来があつまった。

突然の召集である。

四条金吾をはじめ家来が不審がった。参集の理由がわからなかったのである。

光時が登場した。

「このたび、そのほうらの所領替えを行うことになった」

いきなりの達しである。家来集がざわめいた。

「まず四条金吾頼基。伊豆の土地を取りあげ、越後の土地をたまう」

金吾がはっとした。

光時はおかまいなしにいう。

「島田入道。おぬしに伊豆の土地をたまう。以上だ」

一同が驚いた。重臣の金吾が左遷された。越後といえば鎌倉からはるかに遠い。

金吾が思わず光時をとめた。

「殿、おまちくだされ。なにゆえそのような下知を」

光時がけげんな顔をした。

「頼基、不服か」

金吾は食いさがる。

「武士にとっては領地の田畑がもっとも大事でござる。そのような重大なことを、いともたやすく決められるのは心外でございます。前もってお知らせがあってしかりと思いまする」

光時がにらんだ。

「頼基、そのほうこのごろ、いささか高あがりであるぞ。わしの念仏を責め、このたびは領地のことに不満を申すか」

金吾が首をふった。

「殿は病気がちでござる。身に病あっては、金吾は心配でございます。ただでさえ世間は蒙古のことで騒がしくなっております。今の拙者の心はいかなることがおきましても、殿の前で命を捨てんと思っておりまする。もしやの事があれば越後より馳せのぼるのは、はるかなる上おぼつきませぬ。たとえ所領を取りあげられても、今年は殿からはなれませぬ。これよりほかは、いかにおおせをこうむるとも恐れるものではござらぬ。これよりも大事なることは日蓮聖人の事と過去におわす父母の事でござる。殿が金吾を捨てても、命は殿にさしあげまする。後生は日蓮聖人におまかせしておりまする」

光時が怒った。

「だまれ」

山城入道が金吾をなじった。

「金吾、殿のおおせだぞ。なんだその口のききかたは。それでも名越の武士か」

金吾が一喝した。

「だまっていろ。おぬしのでる幕でない」

島田入道が刀をぬき、山城入道も味方した。

金吾も抜刀して二人をにらみつけた。

家来衆が両者をとりかこみ騒然となった。

ここで光時が間にはいってとめた。

「ええい、やめんか」

金吾と日蓮が再度対面した。

金吾は前にもましていきどおった。主人とのいさかいは法華経の信心を超えて、武士の命である所領にまで及んでしまった。金吾も武士である。土地への執着は人一倍強い。

「まったくわが殿にはあきれました。いきなり所領替えを命じておいて、あの島田なんぞに給うとは。越後の土地など収穫は望めませぬ。いやがらせとしかいいようがござらん。上人、わしは宮仕えがいやになりました。上人にもわかっていただけるかと」

日蓮は制した。

「このことは前から推察しておりました。このうえは、たとえ一分の御恩がなくても恨むような主ではない。そのうえ今までたまわった御恩と申し、所領をきらうということは金吾殿の(とが)ではないですか。今の金吾殿は欲と名聞と怒りでうまっている。それでも武士ですかな」

金吾がいきどおった。

「上人。(それがし)は今まで殿につくしてまいりました。その某を、欲と名聞名利に狂っているというのですか。わかりました。これからは私の好きなようにさせていただきますぞ」

日蓮は金吾が出ていくのを静かに見送った。そして所化の日目に指図した。
「三位房を呼んでまいれ」

日蓮は高弟の三位房に指示した。

「金吾殿が心配だ。おぬし鎌倉へおりて見はってまいれ。そして逐一報告いたせ」

三位房が露骨にいやな顔をみせた。

「上人、金吾殿は在家です。わたしが一信徒のために、わざわざ出かけるような必要がございましょうか」

「それはどういう意味かな」

「わたしにとっては金吾殿よりも、もっと格上の御仁を相手にしたほうがよいのではないかと思われるのです。わたくしはこれまで、上人にしたがって仏法の奥底を極めてまいりました。私の実力ならば、それができるはずでございます」

日蓮は口調を強くする。

「三位房。このたびの金吾殿のことは極めて重大なことになる。おそらく幕府の上層にまで累がおよぶであろう。おぬしの実力がためされる時なのだ」

三位房はしぶしぶ納得した。

「そうまでおおせであれば、出かけてまいります」

日蓮は席を立つ三位房の背をにらんだ。三位房は古参の弟子であり、竜口の法難では殉死しようとしたほどの高弟である。今も日蓮の片腕として力を発揮している。問答も見事であり弟子檀那の信頼も厚かった。

ただ一つの欠点が傲慢だったことである。

日蓮はその気性を幾度か指摘したが、三位房はかわらなかった。きつく叱責しようとして思いとどまっている。その理由は「智慧ある者をそ()ませ給ふか」と弟子檀那から思われるからだったという。直言で知られる日蓮にはめずらしいことだが、あくまで弟子の成長を期待していたのである。しかしこのために三位房はいよいよ慢心がつのった。

金吾は鎌倉の自庭で剣術の訓練をはじめた。

金吾が目かくしをする。家来が木刀で組んで金吾ともみあいとなった。そこへもう一人が金吾の背に上段から打ちこんだ。

金吾はとっさにかわそうとしたが一瞬おそく肩をうたれてしまった。目隠しして背後の敵はかわせるものではない。

金吾はあまりの痛さに思わず顔をしかめる。

金吾は名越の家中に不穏な空気がながれているのを察した。光時以下、総がかりで金吾を追い落そうとしている。味方はいない。多勢に無勢だった。こうなれば剣で身を守るだけだ。自分でまいた種だが己の力にたよるほかはない。

妻の日眼女と娘の(つき)(まろ)が心配そうに見つめる。

金吾はみなの視線を感じた。

「なんのこれしき。心配するでない。さあ、もう一本」

「もう無理でございましょう。何回やってもおなじことです。金吾様の腕をもってしても、目かくしで背後から切りかかる太刀を、よけられるものではございませぬ」

「うるさい。かわさなければ死ぬまでじゃ。もう一本」

金吾はもう既に意地になっていたが、やはりかわしきれず打たれた。

金吾がどなる。

「こら、手加減するな」

ここでようやく小休止となった。

小屋で傷の手当をうけた。痛み止めの薬は飛びあがるほどしみて、さすがの金吾も思わずうなる。

三位房がこのさなかにたずねに来た。彼は金吾の機嫌をうかがった。

「これはこれは。剣術の最中でございましたか」

金吾は不機嫌である。

「三位殿でござるか。かまわぬ。こちらへおすわりあれ」

三位房がさしだされた木椅子にすわった。

金吾が背をさすりながら言う。

「よくおこしになられた。聞いておられるであろう。わしはもうだれの教えもうけぬつもりじゃ。三位房殿、上人からなにか言われたであろうが、わしは聞く耳をもたぬ」

三位房が笑った。

「上人もきびしいお方ですからな。このわたしにもきびしい。さぞ金吾殿には耳の痛いお話でしたでしょうな」

「このごろは面白くないことばかりでな。なにをやってもうまくゆかぬ」

金吾が背中をみせた。

「剣の鍛錬をしてもこのとおりじゃ。貴殿がこられたとて、はかばかしいことは・・」

三位房が話をかえた。

「じつはわたくし、これから桑ヶ谷(くわがやつ)へ出かけようと思いましてな」

「桑ヶ谷」

「さよう。いま鎌倉で評判の念仏僧、竜象房殿の説法をうかがいたいと思いましてな」

金吾が顔をあげた。

「おお、あの竜象房でござるか。極楽寺良観が京から呼びよせたという」

「どんな僧侶かはぞんじませぬ。大仏門の西に止住し、日夜説法をしているようです。彼いわく、現当のため仏法に不審ある人は問答すべき旨、説法するという。鎌倉中の上下万民は竜象房を釈尊のように尊んでいるとか。しかれども問答におよぶ人がないと聞いております。この三位が、かしこへ行き、問答をとげて一切衆生の不審をはらそうと思うのです。ここに伺ったのは、ご一緒にいかがと思いましてな」

金吾はこういうことに目がない。いてもたってもいられない性分なのだ。すぐ立ちあがった。

「ぜひ同行いたそう」

傷の痛みは消えてしまった。

四条金吾は強情さゆえに主人と仲たがいしてしまった。すべては金吾のわがままからきたことである。これは自分でもおさえきれない欲と名聞からでた。

現代でも会社や上司に不満をもつ人はいくらでもいる。鎌倉時代の御家人も同じだった。ただひとつちがうのは、金吾が法華経をかたく(たも)っていたことである。金吾のわがままは、やがて思わぬ方向へすすんでいく。

        65 桑ケ谷の法論 につづく
下巻目次




by johsei1129 | 2014-09-26 13:37 | 小説 日蓮の生涯 下 | Trackback | Comments(0)
2014年 09月 25日

66 桑ヶ谷の法論

時は建治三年(1277)六月九日のことだった。
 竜象房が大仏の門の西、桑ヶ谷で満座の聴衆に説法をはじめた。念仏の尊さについてだった。

鎌倉で竜象房の人気が沸騰している。良観の招きで京都から来たというだけで評判はあがった。鎌倉はいま竜象のありがたい法話と人食い鬼の話でもちきりだった。

この聴衆の中に四条金吾と日蓮門下の三位房日行がいた。

竜象は法話の途中でにこやかに語った。

「この見聞満座の御中でご不審なことがあれば、おおせをうかがいましょう」

ここでさっそく金吾が身をのりだしたが、三位房がおさえて立ちあがった。

三位房はにこやかに語りだした。

「生をうけしより、死はまぬかれることができぬことわりは、はじめて驚くべき事ではございませぬが、ことさら今日本国の災難に死ぬ者があとを絶たず、目の前の無常は人ごとに思い知らされております。しかるところ、京より上人がおくだりあって人々の不審を晴らすとうけたまわりました。ご説法の最中(もなか)にぶしつけな問答などあってはならぬと思いましたが、疑いがあれば(はばか)らず聞いてくださるということ、喜んでおりまする」

竜象房がにこやかにうなずいた。かたや金吾は厳しい目で竜象をみる。

三位房はつづけた。

「まず不審に思えることは、末法に生をうけて片田舎の卑しい身ではありますが、漢土の仏法が幸いにしてこの国にわたり、これらをぜひ信ずべきところ、経典は五千七千と数多いものであります。

しかるに仏ひとりの説でありますから、所詮は一つの経におさまるはずなのに、弘法大師はわが日本国の真言宗の元祖でありますが、法華経は大日経に対すればいつわりの法、迷いの源であると説いております。浄土宗の法然上人いわく、法華経を念仏にたいして捨てよ、閉じよ、さしおき、投げうて、あるいは法華経の行者を群賊の群れなどといっております。また禅宗は仏法の真実は経典とは別に伝わっているのであり、文字を立てるものではないといっている。

教主釈尊は法華経の中で、世尊の法は久しくして後に(かなら)(まさ)に真実を説きたもうべしといい、多宝仏は法華経を(かい)()真実(しんじつ)とされているのに、弘法大師は法華経を戯論(けろん)の法と書いている。しかるに釈尊、多宝仏、十方の諸仏は法華経をほめ、皆これ真実と説いております。いずれを信じてよいのでしょうか。法然上人は法華経を捨てよ、投げうてという。釈迦、多宝、十方分身の諸仏は法華経を(たも)てば一人として成仏しない者はなく、みな仏道を成就するという。仏の言葉と法然上人とは、水と火よりもへだたりがございます。いずれを信ずべきでしょうか。またいずれを捨てればよいのでしょうか。

法華経には『()し人信ぜずして此の経を()(ぼう)せば、一切世間の仏種を断ぜん』とあります。この経文がまことならば、法然上人は無間地獄をまぬかれないのではないでしょうか。かの上人が地獄に()ちるならば末の学者、弟子檀那は自然に悪道に堕ちてしまうことは疑いがありませぬ。これらこそ不審に思います。上人はいかがお思いでしょうか」

竜象がこまった顔をした。

「いにしえの賢人たちをどうして疑うことができましょう。わたしのような凡僧は、仰いで信じ奉るだけでございます」

三位房が突く。

「そのおおせこそ、賢人の言葉とは思われませぬ。だれが今の時、仰がれる人を疑うことがあるでしょうか。ただし涅槃経に仏最後の御遺言として『法に()って人に()らざれ』と見えております。人にあやまりがあれば経典によれ、と仏は説かれました。あなたはよもやあやまりはないであろうと申されました。竜象上人の言葉と仏の金言とをくらべたならば、わたくし三位は如来の金言についていこうと思います」

竜象がたじろいだ。

「人にあやまり多いというのは、いずれの人をいうのですかな」

「さきほど申した弘法大師、法然上人の邪義ではないでしょうか」

竜象が大げさになげいた。

「ああ、それはできぬ。わが朝の人師のことは、かたじけなくも問答してはならないのです。なぜならこの満座の聴衆はみなみなその流れにておわす。鬱憤(うっぷん)出来(しゅったい)すれば、定めてみだりがわしきことになりましょう。おそれあり、おそれあり」

竜象が念仏を唱えだした。唱えることによって問答からのがれるつもりである。

三位房はのがさない。

「人のあやまりとは、だれかというので経文にそむく人を申しあげました。はばかりあってそれはできないとおっしゃることに進退は極まっております。法門と申すは、人をはばかり世を恐れて、仏が説かれたように経文の実義を申さざらんは愚者のきわみである。智者上人とは思われませぬ。悪法が世にひろまり人が悪道に堕ち、国土滅せんとみえるのに、法師の身としてどうして諫めないでおられましょう。まことの聖人ならばどうして身命を惜しんで世を人を恐れることがあるでしょう。正法を弘めてこそ聖人の名を得ることができるのではないのですか」

竜象はまったくの受け身となって首をふった。

「そのような人はこの世にいるわけがない。わたくしは世をはばかり、人を恐れる者でございます。そのようにおおせられる人なども、あなたの言葉のように、おられるわけがありませぬ」

三位房が高らかに言った。

「この方はどうして人の心を知ることができよう。某こそはいま日本国に聞こえたもう日蓮上人の弟子でございます」

驚きの声があがった。

竜象房の顔が恐怖にかわった。音に聞く悪僧ではないか。

四条金吾が胸をはった。
 三位房はよどみない。

「某の師匠、日蓮上人は末代の僧でおわすが、いまどきの高僧のように幕府に媚びることなく人をもへつらわず、いささかなる悪名もたてず、ただこの国に真言・禅・浄土などの悪法ならびに謗法の諸僧が満ち満ちて、上一人をはじめ下万民にいたるまで御帰依あるゆえに、法華経教主釈尊の大怨敵となりて現世には天神地祇(ちぎ)に捨てられ他国のせめにあい、後生には阿鼻大城に堕ちるべき由、経文にまかせて立てたまいしほどに、このこと申さば大いなる(あだ)あるべし、申さずんば仏の責めのがれがたし。世を恐れて申さずんば、我が身悪道に墮つべきとご覧じて、身を捨てて()ぬる建長年中より今年建治三年にいたるまで、二十余年の間あえて怠ることなし。しかれば私の難は数を知らず、国主の勘気は二度におよんだ。

この三位も(いぬ)る文永八年九月十二日の勘気の時は供の一行でありしかば、同罪に行なわれて首をはねられるべきにてありしは、身命を惜しむ者でしょうか」

竜象が口を閉じた。

三位房が竜象を直視した。

「そのようなお智慧では人の不審をはらすというおおせは役にたちませぬ。()(がん)比丘・勝意比丘などは、われ正法を知りて人を助けると言いましたが、我が身も弟子檀那も無間地獄に堕ちました。ご法門の分際で、あまたの人を救おうと説かれるのであれば、師檀ともに無間地獄に堕ちてしまう。今日よりのちは、このような御説法はひかえねばならぬ。

かように申したくはなかったが、悪法をもって人を地獄におとす邪師を見ながら責め顕さずば、かえって仏法の(あだ)となるという仏のいましめ逃れがたいうえ、聴聞の上下みな悪道に堕ちること不憫(ふびん)に思うため申しあげました。

智者と申すのは国の危うきをいさめ、人の邪見をとどめることこそ智者ではないでしょうか。これはいかに(ひが)(ごと)ありとも、世が恐ろしいから諫めないと申されるうえは力およばず。文殊の智慧も()()()(注)の弁舌も及びませぬぞ」

聴衆が歓喜し、三位房日行に手をあわせた。

「日行上人様、今しばらく説法してくださらぬか」

しかし三位房は金吾をうながし、意気揚々と席を立った。

竜象房は満座の中で、なんの返答もできず面目を失った。彼は妬みの目で二人を見送るだけだった。

かたや金吾は爽快だった。久々に気分のはれた思いである。こんなに万事がうまくいくのもめずらしい。こわいくらいだった。

それもそのはず、思わぬ大事件がまちうけていたのである。

鎌倉は月夜に照らされていた。この町のとある廃寺で人影がうごめいていた。

人食いが肉を食べている。そのわきに死体が横たわっていた。鬼は闇の中で口を真っ赤にしながらむしゃぶりついた。

このとき、松明の光がいっせいに男にむけられた。

夜廻りの武士が物とり棒をもって、いっせいに男をかこんだ。

「いたぞ。ここだ」

人食いがおどろいて覆面をかぶり、寺の軒下に逃げこんだ。

夜警の一人が追いつき、棒でおさえこんだが人食いは、しゃにむにふりはらった。この時、覆面がはずれ、顔が月光に照らされた。

鬼は草むらへ転がるように逃げていく。暗いうえに草の丈は腰まである。追っ手はあきらめた。

夜警団がぞくぞくとあつまった。

「おのれ。また逃がしたか」

「手がかりはないのか。なにかのこしていないか、さがせ」

夜警の一人がふるえていた。

「・・顔を見ました」

夜警の(かしら)がよろこんだ。

「なに、でかした。どんな人相だった。見た顔か。特徴は」

「頭を剃っておりました」

「そうか、では乞食坊主にちがいない。人食いは坊主にばけている。そうだ、それにちがいない」

 男が腕を組んだ。

「まってくだされ。あの顔、どこかで見たような気がいたします」

「なに。よし、思いだすのだ」

男はゆっくりと頭を下げ、記憶の糸をたどった。

「桑ケ谷問答」から半月ほどたった六月二十五日、金吾の屋敷に来客があった。金吾の兄妹である。

重苦しい空気がただよった。

金吾には四、五人の兄妹がいたという。親類も大勢いたようである。このなかで金吾の兄は法華経の信心に反対だった。金吾の激しい気性にもあきあきしている。さらに金吾は主人と所領のことでいさかいをおこしているというではないか。彼らはいても立ってもいられない。金吾の田畑からくる年貢は兄妹をうるおしていた。金吾がもめごとをおこしてはこまる。今日という今日は我慢ならず、問いつめにきたのである。

金吾は腕を組んで苦虫をかみつぶしたように目をつぶった。妻の日眼女が気をつかって酒をふるまう。

兄がなげいた。

「まったくお前の強情にもあきれたな。なぜ殿にさからうのだ。所領替えなど、どこの世界にでもある話だ。世間を見ろ。土地も奪われ、露頭に迷う者は数多いというのに、血の気が多すぎるぞ。お前は」

妹が加勢した。

「兄上、四条の一族がつづくのも兄上のお覚悟しだいです。敵ばかりつくらずに、名越の殿様のおっしゃるとおりにしてくださいまし」

「おぬしの信心は今さらどうのこうのといわぬ。法華経を捨てろといえば、また喧嘩になるからな。だがな世間のつきあいも大事なのだ。広く浅く、なにごともなくすごしておれば、つまらぬいさかいもおこらぬ」

「お兄さま。お義姉様がかわいそうです。このままではいただいた土地は全部とりあげられてしまいますよ。わたしたち兄妹はそのおこぼれでやりくりしているというのに、これでは世間に顔むけできませんわ」

金吾がようやく口をひらいた。

「世間とか、幅広くつきあえとか、顔むけできないとか、おぬしら、なにを考えて生きておるのだ」

兄妹があ然とした。

「自分らしくしていなされ。外にばかり顔をむけてはならぬ。わしはわしのままでいく。それがいやななら兄弟の縁を切る」

「なんということを」

この時、屋敷の門で声がした。来客のようである。

所従の爺がむかえにいったが、意外な人物が立っていた。

島田入道、山城入道の二人だった。金吾とは犬猿の仲である。

こんな時にいったいなにごとか。

金吾が怪訝な顔で刀をさし、柄をつかんだままで応対した。

「なに用かな」

島田は懐から書状をとりだした。

「殿からの下し文である」

突然の来訪である。しかも主君光時の書状とはただごとではない。しかたなく金吾は二人をまねきいれた。

島田と山城が居間にははいり、金吾一族は袂をひるがえしてむかえた。

島田が立ったまま主人の下し文を読みあげた。金吾はしかたなく手をついて拝聴する。

驚くべき内容だった。

「一、貴公はさる六月九日、桑ヶ谷竜象上人の御説法のところに参ったとのことだが、おおかた穏便(おんびん)ならざるよし、見聞の人あまねくひとかたならず申しあいしたとのこと驚いている。そなたは徒党を組み、かしこへおしかけ、刀杖をもって出入りしたとのこと。まことに遺憾千万である。

二、余は極楽寺の良観上人こそ釈尊の再来と信じておる。また竜象上人は弥陀如来の再誕と思っている。

三、いかなることも主や親の所存には従うことで仏神の加護もあり、世間の礼にもかなう。だが貴公はすでに主にそむいている。これをなんと考えるのか。

四、以上のゆえをもって四条金吾頼基に命じる。法華経を捨て、阿弥陀仏に仕える誓状を立てよ。それがなくば、今ある所領を取りあげ、役払いとするであろう。誓いのしるしに起請文を用意した。貴公が賢明であることを望む。以上」

島田入道がうやうやしく起請の紙を金吾の前においた。

金吾がすかさず中腰になった。

「またれい。竜象房の一件は殿にお会いしたとき、その様子を申しあげた。また法論の時、その場にこの金吾を知らぬ者はいなかったはず。まったくもって事実と符合(ふごう)しない。ただこのわしを(そね)む者の作りごとであろう。早くその者どもを召しあわせられたい。必ず明らかになるはず」

島田が金吾を見下した。

「これ頭が高い。殿のお言葉であるぞ」

金吾がくやし顔ですわりなおす。

「四条金吾、これは殿の下命である。とくと考えよ」

島田と山城がにこやかに去っていく。

金吾が追いかけた。

「まて。これはおぬしらのたくらみであろう。卑怯だぞ。殿をたばかりおったな」

二人は背をむけたまま去った。

金吾が起請文の前にすわりなおした。

いかつい顔で兄がさとす。

「頼基よ、これは罠でもなんでもない。主人にしたがうのだ。武士は土地あってこそ生きられる。自分の身を守るために起請を書け」

妹もせまった。

「そうです兄上。日蓮など捨てておしまいになってください。起請文を書くまで、わたしはここを動きませんわ」

金吾が思案にくれ、長い沈黙がつづいた。

兄妹のいうとおりである。土地を取りあげられては生きていけない。自分だけではなく、妻子も路頭に迷う。

やがて金吾が口をひらいた。

「わかった。わしも武士のはしくれだ。乞食にはなりとうない。みんな安心してくれ。起請文は書こう」

緊張がほどけた。

兄妹はほっとした顔になった。

逆に妻の日眼女がうつむいたままでいる。幼い娘の(つき)(まろ)が心配になって母に抱きついた。

兄がむやみによろこぶ。

「よかった。これで四条の家も安泰だ。帰って先祖に申しあげよう」

妹もほっとした。

「本当ですわ。どうなるかと思いました。でも安心しましたわ。これで帷子(かたびら)が買えます」

やがて兄妹が静かに去っていった。

彼らが帰ったあと、屋敷全体が沈んだ空気につつまれた。

金吾が白紙の起請状の前で腕を組み、目をつぶった。

起請文はあらゆる神仏に誓いをたてる証文である。御成敗式目にも起請がのせられている。しるされた法を絶対に守るとして北条泰時以下の作成者全員が署名している。それほど起請文のもつ意味は重かった。ひとたび宣言すればもとにはもどせない。

従者の爺が心配そうに見守る。

やがて金吾は持仏堂にむかった。そこには日蓮がしたためた本尊が安置されている。

起請を書けばいっさいが終わる。すべては平穏となるだろう。自分は安楽に土地をもち、一族は生きのびていくことができる。まわりの摩擦もなくなる。すべてが静寂となる。いまその機会はおとずれた。

法華経を捨てるとは日蓮と離れることである。日蓮と離れたならば、いままでとはちがう毎日がまっているだろう。おそらくはまったくちがう人生になるだろう。同僚との争いはなくなり、なれあいの毎日になるだろう。主君には媚びることだけを考えて、毎日の糧にあくせくしてゆくのだろう。

一片の所領とひきかえに、想像もしない人生がまっている。おそらくは味気のない空虚なものであろう。金吾は生気のぬけた自分の姿を想像した。
「日蓮上人なしに己の人生はない」
 金吾はそう決断すると、直ちに「桑ケ谷問答」の顛末と、たとえ所領を召されても決して起請文は書かないと書き記し、主君光時の下し文を添えて日蓮のもとに急使をたてた。急使は翌々日、二十七日の酉の刻(午後六時)には身延の草庵に到着する。
 日蓮はこの金吾からの書状を見て問注所への陳情文『頼基陳状』を「四条中務尉頼基」の名で代筆し金吾に送った。

朝がきた。

従者の爺はねむりこけていた。

金吾が机に正座した。机に置かれた紙にはまだ一文字も記されていない。ここで金吾は日蓮の言葉を思いだした。

浅きは(やす)く深きは(かた)しとは釈迦の所判なり、浅きを去って深きに()くは丈夫(じょうぶ)の心なり。 『顕仏未来記

金吾の心は決まっていた。
 金吾は急使をたてて日蓮に送った文と同様に「たとえ所領を没収されても起請は書かざる」と筆も折らんばかりに力強く書きつけた。
 書き終わってふりむくと日眼女が少し離れて座っていた。彼女の胸には月満御前が眠っている。父親の苦境など知る由もなく、満ち足りた顔で寝ている。

金吾はまるで憑き物がとれたかのように笑顔で語る。

「おきておったか。心配するな。見てのとおりだ。わしの腹はきまっている。それではこれから殿のところへ出かけるとするか」

日眼女は夫の気持ちを察した。名越邸にむかう金吾をいつもどおり見送ったが、目は笑っていない。

名越光時邸には極楽寺良観と竜象房がきていた。くわえて金吾の兄がその場にかしこまっていた。

良観がにこやかである。

「四条金吾が起請文を書いたなら、急いでかたがたにふれまわすのです。これで鎌倉のうちに日蓮の弟子は一人もいなくなる。大いに攻めるのです」

竜象房も満足だった。満座の中で赤恥をかかされた恨みは消えていない。

金吾の兄が光時に言上した。

「殿、弟の数々の無礼をおわびいたします。くわえて所領の安堵をお願いいたします。すでに弟は改心いたしました」

当の光時は咳をしていた。風邪をこじらせていたようである。くわえて金吾の件でも頭を痛めている。

光時は最初、軽い気持ちで金吾をこらしめようと、島田たちの策をとったが、目的は金吾の忠誠をとりもどしたいだけだった。光時は金吾に一目も二目も置いている。これほどの騒ぎになるとは思わなかったのである。金吾は二月騒動のとき、自分のために殉死しようとした忠臣である。それをここまで追いつめてよいものか、一抹の不安があった。

島田が笑顔でやってきた。

「四条金吾の起請文がとどきましたぞ」

緊張の中、島田が書状をひらき、うやうやしく読みだした。

「言上(つかまつ)り候。先だってわざと拙者宅へ使者をお向けくだされ、まことに恐縮しておりまする。また殿には軽いながらもご所労の様子。案じておりまする。さて起請の件、このたびおおせの起請はまったくもって書かざることをお誓い申しあげまする」

読みあげる島田以下、全員が驚愕した。島田はおろおろしながら読んでいく。

「いかにおどされても、所領を捨てても、あくまで法華経を信じとおすことを殿の前で断じてお誓い申しあげまする。念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊にかわるところはございませぬ」

光時がぼう然とし、良観が怒りに大声をあげた。

「殿、即刻四条の土地を取りあげなされ。さらに訴訟じゃ、奉行人に訴えなされ。金吾を地獄におとすのじゃ」

名越光時は明らかに困惑していた。訴訟にまでになろうとは。心ならずも大事になってしまった。

良観と竜象房、島田・山城の一味は、評定で金吾を追いおとすことにきめた。金吾の非を世間に知らせ、金吾と法華経を一気に壊滅しようとした。金吾はしょせん光時の部下にすぎない。勝算は充分にあるとみた。

評定の開始決定は直ちに甲斐の日蓮のもと伝達された。
 日蓮は訴訟においては百戦錬磨である。金吾一人ではこの裁判で論証する力はない。日蓮は良観一味に追い詰められた金吾に、評定での証言方法について一部始終を指示した。金吾はこんどばかりは素直にしたがった。

こうして四条金吾は、はからずも仏法の正邪を決する人となったのである。


           66 金吾の奉行所対決 につづく
 
下巻目次

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釈迦十大弟子の一人。説法第一とされた。満願子・満足・円満等と訳す



by johsei1129 | 2014-09-25 21:40 | 小説 日蓮の生涯 下 | Trackback | Comments(0)
2014年 09月 24日

四十七、強信の日妙、山海を渡る

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                      (日蓮大聖人御一代記より)
 日蓮は佐渡の一の(さわ)入道の屋敷に転居を許された。
 塚原の三昧堂とはうってかわった真新しい堂だった。塚原のあばら家とは見ちがえる建物である
 日蓮への幕府の処遇は、明らかに好転していた。二月騒動以降、幕府内で日蓮の処遇をめぐり、何がしかの動きがあったことが容易に推察された。日蓮は島の中を自由に往来できるようになった。また佐渡の島民とも自由に法華経の説法をすることができた。   

塚原問答以後、しだいに人々が日蓮のもとに集まりだした。彼らは自分たちから進んで日蓮をかこみ説法を聞いた。阿仏房夫妻もその中にいた。

「世間に人の恐るるものは、炎の中と(つるぎ)の影とこの身の死することです。牛馬なお命を惜しむ。いわんや人間をや。(らい)人なお命を惜しむ。いかにいわんや壮人をや。命にすぎたるもののなければこそ、これを布施として仏法を習えばかならず仏となる。身命を捨つる人、他の宝を仏法に惜しむべしや。また財宝を仏法におしまん者、まさる身命を捨つべきや。主君のために命をすてる人は少ないようだがその数は多い。男子は恥に命をすて、女人は男のために命をすてる。世間の浅きことには身命を失いながら、大事の仏法などにはすてることがない。ゆえに仏になる人もいない。

畜生の心は弱きをおどし、強きをおそれる。いまの学者らは畜生のようであります。智者の弱きをあなずり、王法の邪をおそれる。()(しん)と申すのがこれです。悪王の正法をやぶるに、邪法(じゃほう)の僧等が方人(かたうど)をなして智者を失わん時、師子王のごとくなる心をもてる者かならず仏になるべし。例せば日蓮がごとし。これはおごれるのではない。正法をおしむ心の強盛なるゆえです」

島民がぞくぞくと集まってくる。三ヶ月前には想像もできない光景である。

「先日合戦あり。日蓮は聖人ではないが法華経を説のごとく受持すれば聖人のごとし。また世間の作法かねて知ることにより、忠告したことも誤りはなかった。現在に言いのこす言葉の(たが)わざらんをもって後生の疑いをなしてはなりませぬ。日蓮はこの関東の一門の棟梁であり、日月であり鏡であり眼目である。日蓮捨てさる時、七難かならずおこるべしと、去年(こぞ)九月十二日御勘気(ごかんき)こうむりし時、大音声(おんじょう)もって呼ばわりしことはこれです。わずかに六十日、百五十日にしてこのことおこる。これはまだ華報(けほう)である。実果(じっか)の成ぜん時、いかに嘆かわしいことであろう」

武士がたずねた。

「では日蓮殿が智者ならば、なぜこのたびの王難にあわれたのですか」

「日蓮かねてより存知のことです。父母を打つ子あり阿闍(あじゃ)()王なり。仏・阿羅漢を殺し血をいだす者あり、提婆(だいば)(だっ)()これなり。大臣はこれをほめ、瞿伽(くぎゃ)()(注)らはよろこんだ。日蓮は当世にはこの御一門の父母である。仏・阿羅漢のごとし。しかるを流罪して主従ともによろこんでいる。あわれに無慚(むざん)な者たちです。邪法の僧らが自らの災いのすでにあらわれるのをなげいてはいたが、かくなるをいったんはよろこぶでしょう。のちにはかれらがなげきは日蓮が一門に劣るべからず。例せば泰衡(やすひら)(注)が弟を討ち、()(ろう)判官(ほうがん)(注)を討ちてよろこんだように。()()()()

日蓮もまた、かく責められるのも先業なきにあらず。宿業ははかりがたい。くろがねは鍛え打てばつるぎとなる。賢聖は罵詈(めり)して試みるなるべし。このたびの御勘気は日蓮に世間の(とが一分(いちぶん)ありません。ひとえに先業の重罪を今生に消して、後生の三悪道をのがれんとするものです」

日蓮の説法を聞いた佐渡の人々は不思議に思った。

なぜこの人が流罪となったのか。この日蓮という人を流罪したのは鎌倉殿のまちがいではなかったのか。結果、幕府は北条一門の内乱による二月騒動という惨劇をひきおこした。その原因はこの御坊を罪におとした報いではなかったのか。しかも日蓮は鎌倉から一千余里も離れたこの佐渡で騒動を予言したではないか。あまりにも見事に的中したので()謀反(むほん)一味だとの噂がたったほどだった。

人々は日蓮上人に畏敬の念を抱かずにはいられなかった。

こんどは千日尼がきく。阿仏房の妻である。

質問は切実だった。

「上人様、わたしたち夫婦は長年、念仏を唱えてまいりました。法華経によれば、謗法の罪は千劫たっても消えないとうかがっております。はたしてこの罪は消えることはないのでしょうか」

日蓮がよくぞ難問を問うた」とばかりに二度三度うなずいた。

「日蓮とて過去世は謗法の身であった。この世に生まれてからも念仏を唱え、悪行を積んできた。いま謗法の酔いさめてみれば、酒に酔える者が父母を打ってよろこんでいたが、酔いさめてのち嘆くようなものです。日蓮の過去世より今日までの謗法は恐ろしく深い。佐渡流罪という大難は日蓮が強く法華経の敵を責めたがゆえに、一時に集まりおきました。法華経を(まも)る功徳の力により、地獄に堕ちずして仏となることができるのです。法華経を念じ法華経の行者を護る阿仏房・千日尼夫妻の罪障は、かならず消し去ることができます

日蓮が断言するのを聞き、阿仏房夫妻は思わず手をあわせた。

こうして佐渡は法華経一色に染まった。

一国が妙法に帰依(きえ)するのを広宣流布という。理想郷の実現がせまっていた。

だがこれをうらむ者がいた。

念仏、禅の僧らが建物のかげでささやいた。

「どうする・・このままではわれらは飢え死にするぞ。すでに佐渡の国の者も大半は日蓮についた。なんとかせねば・・」

鎌倉の下町には道の両側に店がならび、人々が群をなしていた。物売りのかけ声が飛びかう。

人々が出店をのぞきこんだ。小町屋とよばれる商店は品物を店先にならべて道をせまくし、所かまわず売り買いが始まる。大都市鎌倉は二月騒動が終息し、平穏にもどろうとしていた。騒動は北条の一族同士が争う血なまぐさい事件だったが、時の流れとともに忘れさられようとしている。庶民は毎日の衣食住に精いっぱいで、権力者どうしの争いにかまっていられない。

日妙親子がこの通りを歩いていた。

母の日妙は(みの)(がさ)わらじを買った。

娘の(おと)御前が楽しそうに店をながめる。乙は子供たちの仲間にはいって遊んだ。日妙がその様子を満足げにながめ、つかの間の幸せな気分に浸っていた。

夕陽が鎌倉の市井を照らす中、笑顔の親子が家に帰ってきた。

日妙は法難のさい、信心に反対する夫と離縁した。今は娘と二人暮らしだが気丈に毎日をやりくりしていた。

その親子が玄関の戸を開けたとたん、足が止まってしまった。

見なれた草履がならんでいる。

日妙が緊張した。両親がきていたのだ。

床の間には経机があり、法華経の経巻が安置されていた。

日妙が父母にうやうやしく手をついた。

「これはこれは。前もってお知らせていただければ、おまちしておりましたものを」

父親が日妙の手にした蓑や草鞋をながめた。

「なんの支度だ。旅でもするのか」

険悪である。

日妙が虚をつかれたようにどぎまぎした。
「いえ、このたびのいくさで思い知りました。なにかあれば鎌倉をでる用意も必要と思いまして」

母親がなげいた。

「そんなことより、女一人でこれからどうするのです。子供も小さいのに」

母親が袖で頬をぬぐう。

日妙が笑顔をつくろった。

「父上様、母上様、心配はございませぬ。まだ多少のたくわえはございます。女だからとて、なんの不足もございませぬ」

なげくのは父親もおなじだった。

「そんなことだから離縁するのだ。もっと男を立てなさい。なぜ別れた」

日妙がきっぱりといった。

「父上、わたしはもう嫁にはいきませぬ。わたしのまわりは不甲斐ない男ばかりでございます。武士だ、侍だといっても、いざとなれば対面を気にして出世しか頭にない人たちです。そんな男にだれがついていきましょう」

「それがいかんのだ」

父親が机の経巻を指さした。

「こんな法華経など、まだもっているのか。日蓮など信じているから、そのような気性になるのだ。親戚はお前のことをなんといっていると思う。日蓮を先にして夫を捨てた悪妻の見本といっているのだ」

娘の(おと)前が日妙をかばった。

「おじいさま、おばあさま。そんなこわい顔で母上をいじめないでください。上人さまのどこがわるいのです。乙にはやさしいお坊様です。おじいさまやおばあさまのように、こわい人ではありませぬ」

 乙御前が日妙にだきついた。

母親がうろたえた。

父親がおちついていった。

「とにかくお前が法華経をたもっているかぎり、財産を分け与えるわけにはいかぬ。お前がどうしても強情をはるならば、親子の縁を絶つまでじゃ。そうなったら幼い子供と二人で生きていかねばならぬ。心細いであろう。どうじゃ、考えなおすことはできぬのか」

沈黙がながれた。

現代とちがって父親の権威は絶大である。当時、土地などの遺産分与の権利は家父長がにぎっていたのである。いったん子に与えても「悔い返し」といって、取りもどす権利があったほどだ。

やがて日妙があきらめたようにうなずいた。

「承知しました。子が親にしたがうのはあたりまえです。これからは日蓮上人と法華経からはなれてまいります」

父母がほっとした。

乙御前がおどろいて日妙の目を見る。

母親がはじめて笑顔をみせた。

「よくぞ申してくれました。それでこそわが娘。そなたはかならず目ざめるものと信じておりました。これでまた、よい縁談もさがすことができます」

父親も表情をゆるめ、懐から銅銭をさしだした。

「これは一部である。そちにとらそう。だが今の言葉、ゆめゆめ忘れるでないぞ」

日妙が沈んだ顔で床に両手をついた。

父母がさわやかに家をでて、親子がのこった。

乙御前が顔をくもらせた。

「お母様」

日妙はやがて笑顔にもどった。乙御前も表情をゆるめる。

母が娘に片目をつぶった。

「ああでもしなかったら帰らないでしょ」

「では・・」

日妙が蓑や草鞋を目の前においた。

「信心はすてませぬ。さあ行きますよ。覚悟はよいですか」

乙御前が目を輝かせた。

「では、わたしもいっしょに」
 日妙がうなずくと同時に乙御前が抱きついた。

翌朝、陽が鎌倉の山あいからのぞきはじめた。

日妙親子が佐渡へ旅立とうとしていた。

見送るのは四条金吾夫妻、土木常忍、太田乗明ら同心の徒である。

日妙親子の笑顔がすがすがしい。

彼女は佐渡行きを決意した。日蓮にどうしても会いにいかねばならない。日妙は日蓮に再会することで、今の自分の悩みが一気に解決できると信じた。

女の身で不安はある。しかも子連れだ。だが日蓮に会いたいという一心が勝った。先に見参した四条金吾には道中の心得や佐渡の様子などを根ほり葉ほり聞いた。日妙はこんどは自分が佐渡に行く番だと決めていた。

太田たちが心配した。鎌倉の騒動が終わったとはいえ、まだ三ケ月しかたっていない。

「大丈夫なのか、女の身で、しかも子まで連れて佐渡に渡るとは危険だ。やめたほうがよい」

四条金吾が大田をおさえた。

「まて。日妙殿の決心はかたいのだ」

金吾がきびしいまなざしで日妙をみつめる。

「どうかご無事で」

日妙が出発のあいさつをした。

「では行ってまいります」

見送る者たちが日妙親子の背中に手をあわせた。金吾の妻、日眼女が袂で涙をふいた。


日妙親子は出発した。

道中は馬に乗り、馬の便のないときは徒歩だった。

当時、鎌倉から佐渡へは十三日の道のりである。母娘二人ではどうだったか。いずれにしても大旅行である。

この道のりは、日蓮がたどった行程でもある。まず鎌倉から相模の国を出て武蔵に入る。広大な関東平野を北上し久米川、児玉をすぎて上野国高崎につく。高崎から西に向かい標高千メートルの碓氷峠を越えて信濃にはいる。宿場は追分、今の軽井沢である。ここからさらに北上し越後にはいる。そして日本海にたどりつく。さらに海沿いを北上し柏崎をとおり寺泊に到着。ここで船にのり佐渡へわたる。だが順風をまたねばならない。「海は荒海」とあるとおり、現代でも欠航があいつぐ波濤だった

日妙親子がはるかな関東平野を歩いていく。頭に笠、肩に荷袋、足に脚絆。その姿が長旅であることをあらわしていた。

はるか後方から騎馬が駆けてきた。武士の馬は日妙の前でとまった。役人のようである。

「そなたら、どこへいく」

日妙が慎重にこたえた。

「おそれいります。信濃まで足をはこびたいと思いまして」

「ほう、それは遠いの。鎌倉で合戦があったばかりだ。なにかと物騒でな。そなたら見たところあまりに不用心じゃ。引きかえす気はないか」

日妙が首をふった。

「信濃に身内がおります。はやり病でどうしても行かねばなりませぬ」

「それはしかたないのう。それでは気をつけられよ」

騎馬が去っていった。

母娘がふたたび進む。

乙御前が不思議そうにきいた。

「お母様、どうしてうそをつくのでございます。わたしたちは佐渡へ行くのでございましょう。身内ではなくて、上人様にお会いするのでございましょう」

 日妙の目がやさしい。

「上人は無実の罪であの島にいるのです。でもおもてむきは罪人。本当のことをいうわけにはいきません」

「お母様、どうして上人様のところにいくのですか」

 日妙が北の空を見つめた。

「あのかたはわたしがお会いした人の中で、なにより尊いのです。あのかたの教えはいまもこの胸に染みついています。上人のすばらしさは、わたしだけが知っています。思えば今まで、むなしい毎日でした。母はこれからあの喜びをとりかえしにいきます。一刻も早く会いにいきたいのです」

 母子が果てしない荒野を行く。

 

 日妙は百姓家に立ちよった。小銭とひきかえに麦飯を買う。

雨が静かにふりはじめた。

その夜、二人は寺の小堂で泊まった。

日妙は乙御前が眠っているそばで空を見あげた。雨がふっては思うようにすすまない。

日妙が袋の中の小銭をかぞえた。路銭が少なくなってきた。もともと無謀な旅であるとはわかっていたが、早くも困難がまちうけた。

くわえて二月騒動のせいだろうか。人々は道を行くにも、泊まる宿でもよそよそしかった。聞いても答える者は少なく、宿を借りようとしても断られることがつづいた。

(ひょう)(かく)の災いは津々浦々におよんでいるようだった。


        四十八、日蓮、始めて佐渡で本尊を図現する につづく


中巻目次

              

        

 瞿伽(くぎゃ)()

 瞿伽(くぎゃ)()尊者ともいう。悪時者・牛守と訳す。釈迦族の出身。提婆達多を師匠とし舎利弗・目連を誹謗して生きながら地獄に()ちた。また死んで大蓮華地獄へ堕ちたといわれる。
  泰衡

 藤原泰衡の事。久承二年(一一五五)~文治五年(一一八九)。鎌倉初期の陸奥の豪族。秀衡(ひでひら)の子。父の遺言によって源義経をかくまっていたが、頼朝の圧迫に耐えられず、ついに衣川(ころもがわ)の館で義経を攻め滅ぼした。しかしまもなく自らも頼朝に攻められ、逃走中、部下に殺されて奥州藤原氏の最後となった。

 九郎判官

源義経のこと。平治元年(一一五九)~文治五年(一一八九)(よし)(とも)の子。幼名を牛若・九郎といった。平治の乱で母・常盤(ときわ)とともに平氏に捕らえられたが、幼いため許されて鞍馬寺(くらまでら)へ入れられた。後にここを脱出して陸奥(むつ)藤原(ふじわら)秀衡(ひでひら)の客分となる。治承四年(一一八○)兄・源頼朝の挙兵に応じ、近江で源義仲(よしなか)を討ち、次いで平氏を一の谷・屋島・壇の浦に攻め、全滅させた。しかしのちに頼朝と不仲となり、ついに頼朝の追討を受けて諸国に逃れ、再び陸奥の秀衡に保護を求めた。秀衡の死後、頼朝の圧迫に耐えきれなくなった泰衡(やすひら)に背かれ、衣川で自害した。






by johsei1129 | 2014-09-24 14:27 | 小説 日蓮の生涯 中 | Trackback | Comments(0)
2014年 09月 17日

日蓮大聖人佐渡ご赦免から三度目の国家諌暁、身延入山までの振る舞いを記した書【光日房御書】三

[光日房御書 本文] その三

 又御消息に云く、人をもころしたりし者なれば、いかやうなるところにか生れて候らん、をほせをかほり候はんと云云。夫れ、針は水にしずむ。雨は空にとどまらず。蟻子を殺せる者は地獄に入り、死にかばねを切れる者は悪道をまぬかれず。何に況や人身をうけたる者をころせる人をや。但し大石も海にうかぶ、船の力なり。大火もきゆる事、水の用にあらずや。小罪なれども懺悔せざれば悪道をまぬがれず。大逆なれども懺悔すれば罪きへぬ。所謂、粟をつみたりし比丘は五百生が間牛となる。瓜をつみし者は三悪道に堕ちにき。羅摩王・抜提王・毘楼真王・那ご沙王・迦帝王・毘舎きゃ王・月光王・光明王・日光王・愛王・持多人王等の八万余人の諸王は、皆父を殺して位につく。善知識にあはざれば罪きへずして阿鼻地獄に入りにき。波羅奈城に悪人あり、其の名をば阿逸多という。母をあひせしゆへに父を殺し妻とせり。父が師の阿羅漢ありて教訓せしかば阿羅漢を殺す。母、又他の夫にとつぎしかば又母をも殺しつ。具に三逆罪をつくりしかば、隣里の人うとみしかば、一身たもちがたくして祇園精舎にゆいて出家をもとめしに、諸僧許さざりしかば、悪心強盛にして多くの僧坊をやきぬ。然れども釈尊に値い奉りて出家をゆるし給にき、北天竺に城あり、細石となづく。彼の城に王あり、竜印という。父を殺してありしかども、後に此れをおそれて彼の国をすてて仏にまいりたりしかば、仏、懺悔を許し給いき。阿闍世王はひととなり三毒熾盛なり、十悪ひまなし。其の上、父をころし母を害せんとし、提婆達多を師として無量の仏弟子を殺しぬ。悪逆のつもりに、二月十五日、仏の御入滅の日にあたりて無間地獄の先相に、七処に悪瘡出生して玉体しづかならず。大火の身をやくがごとく、熱湯をくみかくるがごとくなりしに、六大臣まいりて六師外道を召されて、悪瘡を治すべきやう申しき。今の日本国の人人の、禅師・律師・念仏者・真言師等を善知識とたのみて蒙古国を調伏し、後生をたすからんとをもうがごとし。其の上、提婆達多は阿闍世王の本師なり。外道の六万蔵、仏法の八万蔵をそらにして、世間・出世のあきらかなる事、日月と明鏡とに向うがごとし。今の世の天台宗の碩学の顕密二道を胸にうかべ、一切経をそらんぜしがごとし。此れ等の人人諸の大臣・阿闍世王を教訓せしかば、仏に帰依し奉る事なかりし程に、摩竭提に天変度度かさなり、地夭しきりなる上、大風・大旱ばつ・飢饉・疫癘ひまなき上、他国よりせめられて、すでにかうとみえしに、悪瘡すら身に出ししかば、国土一時にほろびぬとみえし程に、俄に仏前にまいり、懺悔して罪きえしなり。

 これらはさてをき候いぬ。人のをやは悪人なれども、子善人なればをやの罪ゆるす事あり。又子悪人なれども親善人なれば、子の罪ゆるさるる事あり。されば故弥四郎殿は設い悪人なりとも、うめる母、釈迦仏の御宝前にして昼夜なげきとぶらはば、争か彼人うかばざるべき。いかにいわうや、彼の人は法華経を信じたりしかば、をやをみちびく身とぞなられて候らん。法華経を信ずる人は、かまへてかまへて法華経のかたきををそれさせ給へ。念仏者と持斎と真言師と、一切南無妙法蓮華経と申さざらん者をば、いかに法華経をよむとも法華経のかたきとしろしめすべし。かたきをしらねば、かたきにたぼらかされ候ぞ。あはれあはれ、けさん(見参)に入りてくわしく申し候はばや。又これよりそれへわたり候三位房・佐度公等に、たびごとにこのふみをよませてきこしめすべし。又この御文をば明慧房にあづけさせ給うべし。なにとなく我が智慧はたらぬ者が、或はをこづき、或は此文をさいかくとしてそしり候なり。或はよも此の御房(日蓮)は弘法大師にはま(優)さらじ、よも慈覚大師にはこ(超)へじなんど、人くらべをし候ぞ。かく申す人をばものしらぬ者とをぼすべし。

建治二年丙太子歳三月 日            日 蓮 花 押
                       甲州南部波木井の郷山中

by johsei1129 | 2014-09-17 21:22 | 弟子・信徒その他への消息 | Trackback | Comments(0)
2014年 09月 14日

日蓮大聖人佐渡ご赦免から三度目の国家諌暁、身延入山までの振る舞いを記した書【光日房御書】一

【光日房御書(こうにちぼうごしょ】
■出筆時期:建治二年丙太子歳三月(西暦1276年)、五十五歳 御作。大聖人と同郷の安房・天津の女性信徒・光日房に宛てられた。
■出筆場所:身延山 草庵にて。
■出筆の経緯:はじめに子の弥四郎が同郷の大聖人に親近し、その後弥四郎の勧めで昔より尊敬していた日蓮大聖人に帰依した。大聖人が佐渡に流されるや、人に託して御供養の衣を送られたほどの大聖人への強い信仰を持った女性信徒であった。
本書は、武士である子の弥四郎が事件に遭遇、人を殺め自らは横死、この事について光日房は「人をもころしたりし者なればいかやうなるところにか生れて候らん」と、我が子弥四郎の後生はどうなるのか大聖人に問われ、それへの返書となっている。大聖人は光日房へ本書の他、光日上人御返事、光日尼御返事に加え、末法の御本仏の振る舞いを記された重要御書である「種種御振舞御書」も宛てられている。
また本抄では佐渡流罪からご赦免を経て三度目の国家諌暁、身延入山までの末法の本佛としての振る舞いについて詳しく記されている。
■ご真筆: 曽存:身延山(明治8年の火災で大半が焼失)、 一部、三条本成寺に所蔵。
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[光日房御書ご真筆]

[光日房御書 本文]その一

去る文永八年太歳辛未九月のころより御勘気をかほりて、北国の海中佐渡の嶋にはなたれたりしかば、なにとなく相州・鎌倉に住しには、生国なれば安房の国はこひしかりしかども、我が国ながらも、人の心もいかにとや、むつびにくくありしかば、常にはかよう事もなくしてすぎしに、御勘気の身となりて死罪となるべかりしが、しばらく国の外にはなたれし上は、をぼろげならではかまくらへはかへるべからず。かへらずば又父母のはかをみる身となりがたしとをもひつづけしかば、いまさらとびたつばかりくやしくて、などかかかる身とならざりし時、日にも月にも海もわたり、山をもこえて父母のはかをもみ、師匠のありやうをもとひ、をとづれざりけんとなげかしくて、彼の蘇武が胡国に入りて十九年、かりの南へとびけるをうらやみ、仲丸が日本国の朝使としてもろこしにわたりてありしが、かへされずしてとしを経しかば、月の東に出でたるをみて、我が国みかさの山にも此の月は出でさせ給いて、故里の人も只今月に向いてながむらんと、心をすましてけり。此れもかくをもひやりし時、我が国より或人のびんにつけて衣をたびたりし時、彼の蘇武がかりのあし、此れは現に衣あり。にるべくもなく心なぐさみて候しに、日蓮はさせる失あるべしとはをもはねども、此の国のならひ、念仏者と禅宗と律宗と真言宗にすかされぬるゆへに、法華経をば上にはたうとむよしをふるまい、心には入らざるゆへに、日蓮が法華経のいみじきよし申せば、威音王仏の末の末法に、不軽菩薩をにくみしごとく、上一人より下万人にいたるまで、名をも・きかじ、まして形をみる事はをもひよらず、さればたとひ失なくとも、かくなさる上はゆるしがたし。ましていわうや日本国の人の父母よりもをもく、日月よりもたかくたのみたまへる念仏を無間の業と申し、禅宗は天魔の所為、真言は亡国の邪法、念仏者・禅宗・律僧等が寺をばやきはらひ、念仏者どもが頚をはねらるべしと申す上、故最明寺・極楽寺の両入道殿を阿鼻地獄に堕ち給いたりと申すほどの大禍ある身なり。此れ程の大事を上下万人に申しつけられぬる上は、設ひそらごとなりとも此の世にはうかびがたし。いかにいわうやこれはみな朝夕に申し、昼夜に談ぜしうへ、平左衛門尉等の数百人の奉行人に申しきかせ、いかにとがに行わるとも申しやむまじきよし、したたかにいゐきかせぬ。されば大海のそこのちびきの石はうかぶとも、天よりふる雨は地にをちずとも日蓮はかまくらへは還るべからず。

但し法華経のまことにおはしまし、日月我をすて給はずば、かへり入りて又父母のはかをもみるへんもありなんと、心づよくをもひて梵天・帝釈・日月・四天はいかになり給いぬるやらん。天照太神・正八幡宮は此の国にをはせぬか。仏前の御起請はむなしくて、法華経の行者をばすて給うか。もし此の事叶わずば、日蓮が身のなにともならん事はをしからず。各各現に教主釈尊と多宝如来と十方の諸仏の御宝前にして誓状を立て給いしが、今日蓮を守護せずして捨て給うならば正直捨方便の法華経に大妄語を加へ給へるか。十方三世の諸仏をたぼらかし奉れる御失は提婆達多が大妄語にもこへ、瞿伽利尊者が虚誑罪にもまされり。設ひ大梵天として色界の頂に居し、千眼天といはれて須弥の頂におはすとも、日蓮をすて給うならば、阿鼻の炎にはたきぎとなり、無間大城にはいづるごおはせじ。此の罪をそろしとおぼさば、いそぎいそぎ国土にしるしをいだし給え、本国へかへし給へと高き山にのぼりて大音声をはなちてさけびしかば、九月の十二日に御勘気、十一月に謀反のものいできたり、かへる年の二月十一日に、日本国のかためたるべき大将どもよしなく打ちころされぬ。天のせめという事あらはなり。此れにやをどろかれけん、弟子どもゆるされぬ。

 而れどもいまだゆりざりしかば、いよいよ強盛に天に申せしかば頭の白き烏とび来りぬ。彼の燕のたむ太子の馬、烏のれい、日蔵上人の「山がらす、かしらもしろくなりにけり、我がかへるべき時やきぬらん」とながめし此れなりと申しもあへず。文永十一年二月十四日の御赦免状、同三月八日に佐渡の国につきぬ。同十三日に国を立ちてまうらというつにをりて、十四日はかのつにとどまり、同じき十五日に越後の寺どまりのつにつくべきが、大風にはなたれさいわひにふつかぢをすぎて、かしはざきにつきて、次の日はこうにつき、十二日をへて三月二十六日に鎌倉へ入り、同じき四月八日に平左衛門尉に見参す。本よりごせし事なれば日本国のほろびんを助けんがために、三度いさめんに御用いなくば山林にまじわるべきよし存ぜしゆへに、同五月十二日に鎌倉をいでぬ。

[光日房御書 本文] 二に続く





by johsei1129 | 2014-09-14 21:52 | 弟子・信徒その他への消息 | Trackback | Comments(0)
2014年 09月 09日

法華経の行者を供養する功徳は釈迦仏を無量の宝を尽して供養せる功徳に勝れたりとあかした【新池御書】二

[新池御書 本文]その二

 噫(ああ)、過ぎし方の程なきを以て知んぬ、我等が命(いのち)今幾程もなき事を。春の朝(あした)に花をながめし時、ともなひ遊びし人は、花と共に無常の嵐に散りはてて、名のみ残りて其の人はなし。花は散りぬといへども又こん(来)春も発(ひら)くべし。されども消えにし人は亦いかならん世にか来るべき。秋の暮に月を詠めし時、戯(たわむ)れむつびし人も、月と共に有為(うい)の雲に入りて後、面影ばかり身にそひて物いふことなし。月は西山に入るといへども、亦こん秋も詠むべし。然れどもかくれし人は今いづくにか住みぬらん、おぼつかなし。無常の虎のなく音(こえ)は耳にちかづくといへども聞いて驚くことなし。屠所(としょ)の羊の今幾日か無常の道を歩まん。雪山の寒苦鳥は寒苦にせめられて、夜明(あけ)なば栖つくらんと鳴くといへども、日出でぬれば朝日のあたたかなるに眠り忘れて又栖をつくらずして一生虚く鳴くことをう。一切衆生も亦復是くの如し。地獄に堕ちて炎にむせぶ時は、願くは今度人間に生れて諸事を閣(さしお)ひて三宝を供養し、後世菩提をたすからんと願へども、たまたま人間に来る時は、名聞名利の風はげしく、仏道修行の灯は消えやすし。無益の事には財宝をつくすにおしからず。仏法僧にすこしの供養をなすには是をものうく思ふ事、これただごとにあらず。地獄の使のきをふものなり。寸善尺魔と申すは是なり。

 其の上此の国は謗法の土なれば、守護の善神は法味にうへて社(やしろ)をすて天に上り給へば、悪鬼入りかはりて多くの人を導く。仏陀は化をやめて寂光土へ帰り給へば、堂塔・寺社は徒(いたずら)に魔縁の栖と成りぬ。国の費(つい)え民の歎きにて、いらか(甍)を並べたる計りなり。是れ私の言にあらず経文にこれあり、習ふべし。 諸仏も諸神も謗法の供養をば全く請け取り給はず、況や人間としてこれをうくべきや。春日大明神の御託宣に云く、飯に銅の炎をば食すとも、心穢(けが)れたる人の物をうけじ。座に銅の焔(ほのお)には坐すとも、心汚れたる人の家にはいたらじ。草の廊(ろう)、萱(かや)の軒にはいたるべしと云へり。縦令(たとい)千日のしめを引くとも、不信の所には至らじ。重服深厚の家なりとも有信の所には至るべし云云。是くの如く善神は此の謗法の国をばなげきて天に上(のぼ)らせ給いて候。心けがれたると申すは法華経を持たざる人の事なり。此の経の五の巻に見えたり。謗法の供養をば銅焔とこそおほせられたれ。神だにも是くの如し。況や我等凡夫としてほむら(焔)をば食すべしや。人の子として我が親を殺したらんものの、我に物をえ(得)させんに是を取るべきや。いかなる智者聖人も無間地獄を遁るべからず。又それにも近づくべからず与同罪恐るべし恐るべし。

[新池御書 本文]その三に続く




by johsei1129 | 2014-09-09 23:06 | 弟子・信徒その他への消息 | Trackback | Comments(0)
2014年 09月 09日

七、三災七難 (大災害が日本を襲う)

日蓮が切通しを歩く。

鎌倉から武蔵をぬけて下総へ、東京湾を一周する道をとった。鎌倉で布教した信徒にこの方面の縁者が多い。道行くかたわらこの一帯を布教してまわったのである。

だが日蓮の意気込みを削ぐかのように、荒涼とした風景がつづいた。

田畑が荒れている。

まわりを見わたすと、やせ細った馬が道端に倒れている。今にも餓死しようとしていた。

日蓮が思わず眉をひそめる。

女の泣き声がどこからか、風にのって聞こえてきた。その哀調は悲しむようであり、恨むようであった。ただごとではない響きだ。

声の聞こえる方を向くと、一町ほど先に朽ちかけた百姓の母屋がぽつんとある

日蓮は誘われたようにこの家をたずねた。

玄関の戸を開け、中をのぞき込むと母親らしき女泣きくずれていた。そばには幼子が伏せている。
 日蓮がかけよった。

「いかがいたした」

女は日蓮の法衣を見て手をあわせた。何日食べていないのか痩せこけてげっそりとしていた

「お坊様、いま子供が亡くなりました」

「なんと不憫な。この子はなんと申す」

「まだ名前はつけておりません」

日蓮は子供のそばにひざまずくと合掌し「南無妙法蓮華経」と数回唱え、子供の死を弔った

日蓮は女にたずねた。

「父親はどうなされた」

「私を捨てて出ていきました。この飢饉で食べるものが尽きて、もうここには住めないと。わたしは子供をおいていくわけにもいかず、残っておりました」

「それはひどい」

「その上、はやり病がおきて、村の者はだれもいなくなりました」

日蓮が籠からにぎり飯をさしだす。

あ、これを食べて元気を出し、この子が来世に仏国土に生まれるよう南無妙法蓮華経と唱えるのです

 母親は泣きじゃくりながら子供の口元に握り飯を置き、日蓮の姿が見えなくなるまで南無妙法蓮華経と唱え続けた。


日蓮はさらに暗い殺伐とした空の下を行く。

歩み続けていくと、やがて異様なにおいがしてきた。いまだ体験したことのない臭気だった。

見ると、村のはずれで人々がすわりこみ、生き物を焼いているようだった。

そのまわりで女子供や年寄りが泣いていた。

近よって焼き場を見ると、なんとそれは何人もの死体であった。

「どういたした」

 うずくまった翁の返事が力ない。

「はやり病でございます。この一帯は疫病が充満しておりますだで。死人はすぐ焼けとの守護代様のご命令でこれで数え切れぬほどの・・」

老人がはずれの小屋を指さした。

日蓮は小屋の中に骸骨が充満しているのを見て愕然とした。

後ずさりし、ひざをくずす。

「なんということだ」

百姓がつぶやいた。

「作物はとれず、疫病が蔓延しておる。この村は全滅です」

この時、大地がたてにゆれた。そして強い横ゆれがおきた。かなり大きな地震だ。焼き場の山がくずれ、火の粉が飛びかった。

女子供が日蓮にしがみついた。

村人たちが絶叫し逃げまどう。

日蓮が揺れに負けまいと仁王立ちになった。

鎌倉に帰っても状況は変わらなかった。切通しの両側には無数の乞食がひざをかかえ、延々とならんでいた。みなぐったりとして動かない。

食を乞う声がひびく。

「お恵みを、お恵みを・・」 

日蓮が厳しい眼差しで周囲を見わたした。助けようとしてもなすすべがなかった。

田園地帯には二つの太陽があらわれたという。

百姓は枯れはてた田畑で太陽を指さしなげく。

祈祷師は太陽にむかって手を合わせた。

 

鎌倉時代は武士が台頭した下克上が特徴とされるが、同時に大災害が頻発した時代でもあった。

 例えば日蓮が立正安国論をした建長五年から翌年の建長六年にかけて、建長五年六月十日鎌倉大地震、建長六年一月十日鎌倉大火、五月九日大風により幕府政所(まんどころ)の文書散失、五月十一日京都大地震、七月一日鎌倉大風雨と、立て続けに災難が発生している。

日蓮はこの災難を複数の書にくりかえし記している。

旅客()たりて(なげ)いて(いわ)く、近年より近日に至るまで、天変・地夭(ちよう)飢饉(ききん)疫癘(えきれい)(あまね)く天下に満ち、広く地上に(はびこ)る。牛馬(ちまた)(たお)れ、(がい)(こつ)道に()てり、死を招くの(ともがら)既に大半に超え、之を悲しまざるの(やか)(らあ)えて一人(いちにん)も無し。


(いよいよ)飢疫に(せま)り、乞客(こつかく)()(あふ)れ死人(まなこ)に満てり。()せる(しかばね)(ものみ)と為し、並べる(かばね)を橋と()す。『立正安国論


今此の国土に種種の災難起こることを見聞するに所謂(いわゆる)建長八年八月自り正元二年二月に至るまで、大地震・非時の大風・大飢饉・大疫病等種種の災難連連として今に絶えず、大体国土の人数尽くべきに似たり。之に依って種種の祈請を致す人之多しと雖も其の験無きか。  『災難対治抄


而るに当世は随分国土の安穏を祈ると(いえど)も、去ぬる正嘉(しょうか)元年には大地大いに動じ、同二年に大雨大風(みょう)(じつ)を失へり。定めて国を(ほろぼ)すの悪法此の国に有るかと(かんが)ふるなり。 守護国家論

死骸は物見台となり、橋となっているという。この悲惨な様子は誇張ではない。

日蓮が生まれる四十年前、鴨長(かものちょう)(めい)は「方丈記」で京都の飢饉の様子を記録している。この具体的な記述は現代のわれわれを震撼させる。


 また養和のころとか、久しくなりて覚えず、二年があひだ、世の中飢渇(けかち)して、あさましき事(はべ)りき。或は春・夏ひでり、或は秋、大風・洪水など、よからぬ事どもうち続きて、五穀ことごとくならず。むなしく春かへし、夏植うるい()なみありて、秋刈り冬収むるぞめきはなし。

これによりて、国々の民、或は地を棄てて境を出で、或は家を忘れて山に住む。さまざまの御(いのり)はじまりて、なべてならぬ法ども行はるれど、更にそのしるしなし。京のならひ、何わざにつけても、みなもとは、田舎をこそ頼めるに、絶えて(のぼ)るものなければ、さのみやは(みさお)もつくりあへん。念じわびつつ、さまざまの財物、かたはしより捨つるがごとくすれども、更に目見立つる人なし。たまたま()ふるものは、金を軽くし、粟を重くす。乞食、路のほとりに多く、(うれ)へ悲しむ声耳に満てり。 「方丈記 養和の飢饉()」より。


このあと長明は大地震の様子をえんえんと述べる。天変地異が人々を絶望させた。

日蓮が北条時頼(最明寺入道)に立正安国論を献上したのは、正嘉年間におきた大地震がきっかけだった。

朝廷や幕府はこの災害に無策だったわけではない。祈祷や秘法がさかんに行われたが効果はあがらない。

さらに元号の改変を行ったがこれも効き目はなかった。

現代の日本は天皇が崩御すると改元する。

だがこの時代はちがった。

天変地異、疫病、凶作がきっかけで、なんども変更された。為政者も必死の思いで災難からぬけだそうとしていたのだ。

ちなみに日蓮は貞応元年に生まれ、六十一歳で亡くなったが、この間、二十二回にわたり年号が変わっている。

元仁、嘉禄、安貞、寛喜、貞永、天福、文暦、嘉禎、暦仁、延応、仁冶、寛元、宝治、建長、康元、正嘉、正元、文応、弘長、文永、建治、弘安である。おぼえきれるものではない。

わずか六十一年でこれだけの年号が変わっている。

この二十二の元号の中で一番長く続いたのは文永年間だったが、それでも十一年で改元された。

なお、日本の歴史上もっとも長く続いた年号は昭和で、六十三年続いた。


元号の読み名には、なんとしても世を安穏にしたいという為政者の願望がうかがわれる。

こうして人々は、末法という言葉の重みをひしひしと感じていたのである。 

若宮大路のむこうに八幡宮が見える。

 鎌倉幕府の政務・財務をつかさどる政所(まんどころ)では会議が始まっていた。

北条時頼、時輔・時宗の兄弟、時頼の叔父の北条重時、安達泰盛がいならぶ。下座には陰陽(おんよう)()が控えていた。

時頼はいらだって徘徊した。

「この国は天変・地震・飢謹・疫病に取りつかれている。いったい、どうなっておるのだ。神、仏から見捨てられたのか」

北条重時が各地の御家人から届いた書状を見ながらつぶやいた。

「関東で餓死者一万人。疫病に倒れた者二万。さらに二つの太陽があらわれ、黒白の虹がでたとのことです」

時頼の怒りは、やり場がない。

「これ以上悪いことはないといっていいほどだ。われら北条が天下をおさめて以来の危機である。地方に逆族の反乱がおこっても不思議ではないぞ」

 重時が憮然として答えた。

「今は祈ることしかできないのが現状でござろう」

「ならば京・鎌倉の寺社の祈祷はどうなっておる」

「本年一月には六斎日・二季彼岸()の殺生禁止をすでに命じており、六月には諸国の寺社に(しつ)(えき)退治の祈祷を命じております」

「それがなぜ通じない。かえって災難を増長させておるではないか。陰陽師、どうなっておるのだ。なにか良くなる策はないのか」

 陰陽師六壬式盤(りくじんちょくばん)(注)に目をやり、答える

「恐れ入りまする。今はただ、この国土に魔が入り、鬼がはびこっているとしかいいようがございませぬ」

 これを聞いていた時頼が言い放った。

陰陽師にも策がないなら、わしが決断するだけだ。米倉を開き、乞食にほどこせ。各地の薬草を取り集めよ。商人どもを使え。全国のすべての寺社に祈祷をつづけさせよ」

鎌倉の蓮花寺に聴衆がつめかけていた。念仏宗の大寺院である。

人々はこの苦しい世を乗りこえるには念仏にすがるしかないと参詣した。

聴衆の中に薄墨の法衣と袈裟をまとった日蓮がいる。

やがて黒衣の僧侶、然阿が説法をはじめた。

然阿は正式の名を然阿良忠という。石見(島根県)の出身。十六才で出家。円信・信蓮に従って倶舎、天台を学び、密蔵・源朝に従って密教を修行した。その後、弁阿聖光の立義を聞いて築後へ行き、その弟子となる。仁治元年(一二四○年)北条経時の要請で鎌倉に蓮花寺(のちの光明寺)を開き、授戒している。また後嵯峨天皇に円頓戒を授けて香衣を給わったという。鎌倉を代表する念仏僧である。       
 その然阿が静かに語りだす。

「この世は苦しみで満ちている。この苦しみから逃れるには、南無阿弥陀仏と唱えるしかない。ほかの教えは捨てるのです。われわれ凡夫に叶う教えは南無阿弥陀仏しかない。ほかの教えは理想が高すぎる。われわれは法華経も華厳経もわからない。これらを捨て去って南無阿弥陀仏とだけ唱えておれば往生できるのです」

ここで日蓮が声をあげた。

「すばらしい。まことにすばらしい」

然阿がほほえんで会釈した。日蓮はその笑顔をとらえた。

「成仏の教えは南無阿弥陀仏しかないとか、法華経などの教典を捨てよとは大胆ですな。その教えはだれがどこで説いたのですかな」

「お若い方。よくぞ聞かれました。阿弥陀経でございます」

日蓮は腕をくんで感心した。

「不思議ですな。阿弥陀経とは釈迦の説法のうちでも(ごん)大乗経といって法華経、涅槃(ねはん)経等の(じつ)大乗経と比べ一段程度の低い教えです。それを根拠に成仏は南無阿弥陀仏と唱えるしかないとか、ほかの経をすべて捨てるというのは仏教の開祖釈尊を(さげす)むことになるのではないかな。そもそも阿弥陀経に、他の経はてすべて捨てよと説かれておられるのかな

念阿が一瞬、気色ばんだ。

「いやいや、それはちがう。法然上人が申されておる。われらはそれに従うまで」

「惜しいかな。せっかく叡山で修業したにもかかわらず、法然上人は低い教えに執着し釈迦の仏法をまげてしまった。無間(むけん)地獄にひとしい罪である。それを教える者も、人々を地獄に引き入れる悪人でありましょう」

然阿が興奮しだした。

「そなたはだれだ。名をなのれ」

日蓮は聴衆にむかっていった。

「みなさん、わたしは松葉ヶ谷に住む日蓮と申す僧でございます。今の話をくわしく聞きたければ、いつでもわたしのところへおこしくだされ」

満座の怒号の中、然阿の弟子が日蓮を堂内から追い出す。

 日蓮は堂々と去っていった。

日蓮は法華経を弘めるかたわら、他宗の寺におもむき、さかんに法論をしかけていった。

 その甲斐があり、松葉ヶ谷の日蓮の草庵にはしだいに大勢の聴衆がつめかけるようになっていった。

日蓮が草庵を訪れた人々に力強く話す。

「教主釈尊は説法をはじめて四十余年の後、未だ真実を顕していないとして法華経を説かれました。したがって法華経以前に説かれた阿弥陀経は、法華経で説かれた最高の悟りは含まれない方便の教えであり、法華経こそ八万法蔵といわれる一切経の王であり釈尊の究極の教えであります。それ故、法華経の題号である妙法蓮華経と唱えなければ末法の衆生が成仏することは叶いません。

法然上人はこの法華経を「捨閉(しゃへい)閣抛(かくほう)」つまり、捨て、閉じ、(さしお)き、(なげう)って念仏を唱えよと言います。それ故、釈尊の最高の教えを誹謗(ひぼう)する法然上人の南無阿弥陀仏を唱えれば、無間地獄に陥るのは必定(ひつじょう)なのです」

 念仏の僧侶たちは日蓮にかなわなかった。

日蓮は経文を先として念仏の邪義を攻めたので念仏者は反抗できなかったのである。

 昔から法然の念仏を批判した者は多かった。念仏禁止の宣旨もでた。比叡山もかつては念仏を弾圧したが、勢いは止まらず法然の教えは広まった。それを日蓮は食いとめはじめた。

日蓮はその理由を次のように語っている。

  (とし)三十二建長五年の春の(ころ)より念仏宗と禅宗とをせめはじめて、後に真言宗等をせむるほどに、念仏者等始めにはあなづる。日蓮いかにかしこくとも明円(みょうえん)房・(こう)(いん)僧上(注)・顕真座主(ざす)(注)()()()()()()等にはすぐべからず。彼の人々だにも始めは法然上人をなん()ぜしが、後にみな堕ちて(あるい)は上人の弟子となり、或は門家(もんけ)となる。日蓮は彼がごとし。(われ)()めん、我つめんとはやりし程に、いにしへの人々は但法然をなんじて、善導(ぜんどう(注)道綽(どうしゃく)等をせめず。又経の権実をいわざりしかばこそ、念仏者はをご()りけれ。今日蓮は()()・法然等をば無間地獄(注)()につきをとして、(もっぱ)ら浄土の三部経を法華経にをしあ(推合)はせてせむるゆへに、(ほたる)()に日月、江河に大海のやうなる上、念仏は仏のしばらくの戯論(けろん)の法、実にこれをもって生死をはなれんとをも()わば、大石を船に造りて大海をわたり、大山を()なて険難を越ゆるがごとしと難ぜしかば、(おもて)()かうる念仏者なし。   『破良観等御書

明円、公胤、顕真はいずれも念仏に帰伏した僧である。なかでも顕真は天台座主でありながら念仏にひかれて宗旨替えをした。

念仏者たちは日蓮も同じだと思っていた。師の法然を責めても勝つわけがないと。

 だが日蓮の手法はちがう。

法華経を至高とし、念仏者がすがる浄土三部経を戯論(けろん)くだし、法然の師である中国の善導までふくめて無間(むけん)と破折した。釈尊の一切経および梵・漢の主要な論・釈を把握した上で諸宗派の僧を攻めていったのである。

日蓮は十六の年で得度し、三十二で立宗するまで、またそれ以降も内外の典籍を研鑽し続けていた。当然ながら善導の書も読みこんでいる。この日蓮の研鑽の成果は正安国論を始め、生涯書きのこした五百以上に及ぶ著作(御書)に次第に明らかにされていくことになる。

日が傾いていた。

馬上の武士、四条金吾が鎌倉の街を悠然と進んでいた。

従者が馬の口をとる。

金吾が自邸の門をくぐり、大声で呼んだ。

「いま帰ったぞ」

妻の日眼女がでてきた。

「お帰りなさいませ」

「子の様子はどうじゃ」

二人が家の奥に入っていく。

部屋の戸を開けると幼子が布団に寝ている。

金吾が寝顔をのぞきこんだ。

いかつい金吾が慈愛にあふれた表情をみせた。

妻の日眼女がつぶやくように言った。

「少し良くなったようですが」

「もう少し様子を見た方がよいか。一進一退だのう」

「申しわけありません。私がいたらぬばかりに」

「おぬしのせいではない。世間でも、はやり病がまん延しておる。いくら防いでもこればかりはどうにもならぬ」

金吾の部屋には小さな土びんがずらりとならんでいた。

金吾は薬草に長じていた。今でいう薬剤師であり、医師でもあった。主君の病を治した実績がある。

彼は小さじで薬を盛りながら調合し、皿に盛った。そして日眼女に薬をわたした。

「明日の朝、これを娘に」

日眼女がうなずいた。

 四条金吾は北条光時(名越光時とも)に仕える幕府御家人である。光時の父は名君北条泰時の弟朝時だった。北条の直系ではない。だが北条と名のるだけでも人々に重きを置かれた。

四条金吾も二代続いた光時の家来として鎌倉で名を知られていたが、とりわけ有名だったのは、その性きわめて強情短気だったことである。

居間の中央に大きな囲炉裏がある。

下女が夕飯の支度をはじめた。

金吾が飯をとった。

日眼女がその横で機嫌をとる。

「いかがでございました。今日は」

金吾はぶっきらぼうに答える。

「なにもない。単調な宮仕えだ。光時様も北条の分家とはいえ、お元気であらせられる。今のところは安泰であろう」

「今のところは・・」

「執権時頼様が引退されたあとはどうなるかわからぬ。いまや本家に権力が集中しておる。これからは、われら分家の家臣はいつどうなるかわからぬ」

「まさかいくさでも」

「わしも武士のはしくれ。その時は覚悟せねばならぬ」

日眼女がしんみりとしたが、気を取り直して酒をとり、金吾の杯にそそいだ。

「さあさあ、心配事はよそにおいて」

日眼女がにこやかに金吾を見つめた。

「あのお坊様のお話をまたしてください」

金吾は露骨にいやな顔をした。

「もうしとうはない」

 日眼女はかまわず話を続ける。

「あの日はたいそう怒ってましたわね。お坊様に・・」

「日蓮という僧侶はわしの暴言にも、たじろがなかった。骨のある僧かもしれぬ」

「あなたの話を聞いていると、まるであなたを僧侶にしたようなお方ですわね」

金吾は思い出していた。

日蓮の言葉が耳にのこっている。

「男ははじ()に命をすて、女は男の為に命を()つ」

いっぽう、日蓮の信徒となった富木常忍は鎌倉の千葉邸に勤めていた。富木は日蓮より六歳年上である。それだけに分別にも長けた人物だった。

富木の主君千葉氏は全国に所領をもっていた。下総をはじめとして畿内、九州にまで領地があった。常忍は千葉氏の披官として訴訟の取扱、年貢の徴収、輸送、財政の管理など多忙であった。

富木の父はもともと因幡(鳥取)の出である。因幡国の富城郡に本領があった。父が千葉家に仕えたため、子の常忍も関東入りして出仕することになった。

富木親子は有能な官僚だった。承久の戦乱はとうに終わり、治世の安定が急務の時である。千葉氏のような実力者は才能ある文官を求めていたのである。

その千葉邸では事務官が机を並べ、書き物をしていた。そのあわただしさは現代の会社とかわらない。広間には馬や荷車が忙しく出入りしていた。

事務室では富木常忍が机で文書を(したた)めている。その横で同僚が書類に目を通していた。彼は届いたばかりの下し文を読んでいた。苦い顔である。

「また鎌倉殿から作事の下命じゃ」

 みなが「またか」とばかりに顔を見合せる。

「おいおい、千葉家が守護とはいえ、財政は逼迫しておる。なんとかことわる手はないのか。どこだ、作事は」

「京都、蓮華王院」

「それはまた、たいそう金のかかること」

常忍が思案する。

「まず殿の上洛の算段をせねばならぬ。少なく見積もって二百貫」

同僚がなげいた。

「ないぞ、ないぞ、そんな金は下総にも、鎌倉にも」

三人が腕を組んだ。

常忍が口をひらく。

「では九州の年貢から調達するのはどうだ」

同僚が手を打った。

「そうであった。金は商人から借り入れし、決済は九州で取り立てさせよう」

地方の財政難は今に始まったものではない。中世人も苦労していた。彼らは()(しゃく)という商人や運送業者を駆使して幕府の指示をこなしていたのである。年貢の収穫が遠隔地であれば馬借が取り立てる。為替の一種だった。

同僚がぼやいた。

「しかし物入りだのう。わが殿は京都の大番役を務めたばかりではないか。つぎからつぎへと責められるな。鎌倉殿は人使いが荒すぎるぞ」

常忍がたしなめた。

「これこれ。滅多なことを申すでない。殿が安泰でいられるのも鎌倉殿のおかげではないか。われわれは殿のために、あらゆる手段で策を講じなければ」

 同僚たちが一同に笑った。

富木殿、お説ごもっともです。我ら一同しかと承りました。法華宗(ごう)信徒の富木殿にはかないません

富木の法華信仰は有名である。みな苦笑しながら仕事にもどった。

彼らは文書を整理し、使い古しの紙は捨てていた。この紙を常忍がひろいあつめた。

同僚が怪訝(けげん)な顔をした。使用済の紙など、なんに使うのか。

松葉ヶ谷の草庵に夕日がさしていた。

日蓮が筆をとる。

常忍から届けられた使い古しの紙に筆を入れている。表は書き込まれていたが、裏面はまだ使える。この紙は常忍たち千葉家の役人が使っていたものである。

当時、紙は貴重だった。()き返しといって再利用していたほどである。

常忍は雑紙の束をとどけ、日蓮と弟子たちはこの雑紙の裏に仏典や天台教学を書き写し、研鑽していたのである。余談だが、このおかげで表面に書かれていた千葉家の文書が現代まで伝わり、鎌倉時代を知る貴重な紙背資料となっている。


                八、日蓮を生涯支えた弟子、信徒の誕生につづく
上巻目次


 注

六斎日・二季彼岸

仏教用語で、毎月八・十四・十五・二十三・二十九・三十日を「六斎日」、春秋二季にある彼岸の期間を「二季彼岸」と称し、持戒清浄で過ごす日とされていた。

六壬式盤

陰陽(おんみょう)()が使用した占いの道具。文字・図が記された四角い盤の上に、邦楽等が記された円盤上の物が乗っている。

公胤僧上

 平安末期から鎌倉前期にかけての天台宗の僧。源氏将軍の威光をうけ、しばしば鎌倉へ下向した。北条政子の依頼により源頼家の遺児である公暁を弟子としてあずかっている。一方で後鳥羽上皇の信任も厚かった。法然が選択集をあらわしたとき「浄土決疑抄」を執筆して非難したが、のちに法然に会って法門を聞くにおよんで帰依したという。

顕真

大治五年(一一三○)~建久三年(一一九ニ)比叡山延暦寺第六十一代座主。美作守藤原顕能の子。比叡山に登って顕教を座主の明雲に学び、密灌(みつかん)(密教の秘密灌頂という儀式)を法印相実から受ける。後に法然の専修念仏の義を信じ、余行を捨てて専ら念仏三昧にふけった。文治六年(一一九○)三月に天台座主となり、建久元年(一一九○)五月、権僧正となったが、同三年十一月没す。

善導

大業九年(六一三)~永隆二年(六八一)。中国浄土教善道流の祖。姓は朱氏。臨淄(山東省)、または泗州(安徽省)の生まれといわれる。道綽(五六二~六四五)のもとで観無量寿経を学び、念仏を行じた。師の没後、光明寺で称名念仏の弘教に努めた。最後はこの世が苦しみに満ちているとして極楽往生を願い、柳の木から身を投げて死去した。

「此の身諸苦に逼迫せられて情偽反易し、暫くも休息すること無し。乃ち所居の寺の前の柳樹に登りて、西に向かって願って云はく、仏の威神(しばしば)以て我を摂し、観音勢至も亦来たって我を助けたまへ。此の心をして正念を失はざらしめ恐怖を起こさず。弥陀の法の中に於て以て退堕を生ぜざらんと。願し(おわ)って其の樹の上に極まり身を投じて自ら絶えぬ」(類聚伝)

無間地獄

 八大地獄(八熱地獄ともいう)の一つ。大阿鼻地獄ともいう。間断なく大苦を受けるのでこの名がある。欲界の最底部にあり、縦横八万由旬で周囲に七重の鉄の城があるという。五逆罪(殺父・殺母・殺阿羅漢・(すい)(ぶつ)(しん)(けつ)・破和合僧)の一つを犯す者と、正法誹謗の者はこの地獄に堕ちるとされる。

「法華経二の巻に云はく『其の人(みょう)(じゅう)して阿鼻獄(あびごく)に入らん』云云。阿鼻地獄と申すは天竺の言、唐土日本には無間と申す。無間はひまなしとかけり。一百三十六の地獄の中に一百三十五はひま候。十二時の中にあつけれども、又すゞしき事もあり。()へがたけれども、又ゆるくなる時もあり。此の無間地獄と申すは十二時に一時(ひととき)かた時も大苦ならざる事はなし。故に無間地獄と申す。此の地獄は此の我等が居て候大地の底、二万()(じゅん)をすぎて最下(さいげ)の処なり」 『光日上人御返事



by johsei1129 | 2014-09-09 13:08 | 小説 日蓮の生涯 上 | Trackback | Comments(0)
2014年 09月 09日

法華経の行者を供養する功徳は釈迦仏を無量の宝を尽して供養せる功徳に勝れたりとあかした【新池御書】一

【新池御書(にいけごしょ】
■出筆時期:弘安三年二月(西暦1280年)、五十九歳御作 鎌倉幕府直参の武士、新池左衛門尉に与えられた。
■出筆場所:身延山 草庵にて。
■出筆の経緯:遠江国磐田郡(現、静岡県)に住まわれていた鎌倉幕府の武士新池左衛門尉に、法華経を持つ僧に供養する功徳を説くとともに、伝教大師の「法華経を讃すと雖も還つて法華の心を死(ころ)す」の文を引き、「法華の心に背きぬれば還つて釈尊・十方の諸仏を殺すに成りぬ」と諭し、「始より終りまで弥(いよいよ)信心をいたすべし」と法華経の信仰を生涯貫くよう励まされている。尚、新池左衛門尉は文永十一年に大聖人が身延へ入山されて間もなくころ、大聖人に帰依している。
■ご真筆: 現存しない。

[新池御書 本文]その一

 うれしきかな末法流布に生れあへる我等、かなしきかな今度此の経を信ぜざる人人。抑(そもそも)人界に生を受くるもの誰か無常を免れん。さあらんに取つては何ぞ後世のつとめを・いたさざらんや。倩(つらつら)世間の体を観ずれば、人皆口には此の経を信じ手には経巻をにぎるといへども、経の心にそむく間、悪道を免れ難し。譬えば人に皆五臓あり、一臓も損ずれば其の臓より病出て来て余の臓を破り、終に命を失うが如し。爰を以て伝教大師は「法華経を讃すと雖も還つて法華の心を死(ころ)す」等云云。文の心は法華経を持ち読み奉り讃むれども、法華の心に背きぬれば還つて釈尊・十方の諸仏を殺すに成りぬと申す意なり。縦ひ世間の悪業衆罪は須弥の如くなれども、此の経にあひ奉りぬれば、諸罪は霜露の如くに法華経の日輪に値い奉りて消ゆべし。然れども此の経の十四謗法の中に、一も二もをか(犯)しぬれば其の罪消えがたし。所以(ゆえん)は何(いか)ん、一大三千界のあらゆる有情を殺したりとも、争か一仏を殺す罪に及ばんや。法華の心に背きぬれば、十方の仏の命を失ふ罪なり。此のをきてに背くを謗法の者とは申すなり。地獄おそるべし、炎を以て家とす、餓鬼悲むべし、飢渇にうへて子を食らふ。修羅は闘諍なり。畜生は残害とて互に殺しあふ。紅蓮(ぐれん)地獄と申すはくれなゐのはちすとよむ。其の故は余りに寒につめられてこごむ間、せなか(背中)われて肉の出でたるが紅の蓮に似たるなり。況や大紅蓮をや。かかる悪所にゆけば、王位将軍も物ならず、獄卒の呵責(かしゃく)にあへる姿は猿をまはすに異ならず。此の時は争(いかで)か名聞名利・我慢偏執(がまんへんしゅう)有るべきや。

思食(おぼしめ)すべし、法華経をしれる僧を不思議の志にて一度も供養しなば、悪道に行くべからず。何に況や十度・二十度乃至五年・十年・一期生の間供養せる功徳をば、仏の智慧にても知りがたし。此の経の行者を一度供養する功徳は、釈迦仏を直ちに八十億劫が間、無量の宝を尽して供養せる功徳に百千万億勝れたりと仏は説かせ給いて候。此の経にあひ奉りぬれば悦び身に余り、左右の眼に涙浮びて釈尊の御恩報じ尽しがたし。かやうに此の山まで度度の御供養は、法華経並に釈迦尊の御恩を報じ給うに成るべく候。弥(いよいよ)はげませ給うべし、懈(おこた)ることなかれ。皆人の此の経を信じ始むる時は信心有る様に見え候が、中程(なかほど)は信心もよはく、僧をも恭敬(くぎょう)せず、供養をもなさず、自慢して悪見をなす。これ恐るべし恐るべし。始より終りまで弥信心をいたすべし。さなくして後悔やあらんずらん。譬えば鎌倉より京へは十二日の道なり。それを十一日余り歩(あゆみ)をはこびて、今一日に成りて歩をさしをきては、何として都の月をば詠(なが)め候べき。何としても此の経の心をしれる僧に近づき、弥法の道理を聴聞して、信心の歩を運ぶべし。




by johsei1129 | 2014-09-09 00:25 | 弟子・信徒その他への消息 | Trackback | Comments(0)
2014年 09月 04日

日興上人が、先師日蓮の門下が厳守すべきと記した二十六ヶ条の遺言【日興遺誡置文】その四

[日興遺誡置文 本文]その四  [英語版]

一、論議講説等を好み自余を交ゆ可からざる事。
 ※注(自余を交ゆ):先師日蓮大聖人の法門をひたすら談じ、説法すべきで、その際自余(我見)を交えてはならないと諌めておられます。

一、未だ広宣流布せざる間は身命(しんみょう)を捨て随力弘通(ずいりきぐつう)を致す可き事。
大聖人は松野殿御返事(十四誹謗抄)にて「然るに在家の御身は但余念なく南無妙法蓮華経と御唱えありて僧をも供養し給うが肝心にて候なり、それも経文の如くならば随力演説も有るべきか」と、説かれておられます。
さらに椎地四郎殿御書にても「僧も俗も尼も女も一句をも人にかたらん人は如来の使と見えたり」と説かれ、随力弘通をご指南なされておられます。

一、身軽法重の行者に於ては下劣の法師為りと雖も当如敬仏の道理に任せて信敬(しんぎょう)を致す可き事。
※注(身軽法重):法の流布のためには自身の身はたとえ朽ち果てても構わない、という強い求道の姿勢。
    (当如敬仏):まさに仏の如くに敬う。
 大聖人は新池御書 で「後世を願はん者は名利名聞を捨てて、何に賎しき者なりとも法華経を説かん僧を生身の如来の如くに敬ふべし、是れ正く経文なり」と説き、信徒に対し、身分の高い低いではなく、正しい法門を説く者こそ如来の如く敬うべだと諭しておられます。

一、弘通の法師に於ては下輩為りと雖も老僧の思を為す可き事。

一、下劣の者為りと雖も我より智勝れたる者をば仰いで師匠とす可き事。
注:上記三条項は、身分の高低ではなく、優れた法門=妙法蓮華経を説く人こそ敬うべだということを示しておられます。

一、時の貫首(かんず)為りと雖も仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事。

一、衆議為りと雖も仏法に相違有らば貫首之を摧(くじ)く可き事。
※上記二条項は、仏法における「依法不依人=法に依って人に依らざれ」の大原則を示しておられます。
  たとえ僧侶・信徒の頂点に立つ時の貫首(管主)と言えど、また多数の者による結論であっても、法門に相違しているならばそれは用いてはならない、と強く戒めておられます。

[日興遺誡置文 本文]その五に続く




by johsei1129 | 2014-09-04 21:05 | 日興上人 | Trackback | Comments(0)