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日蓮大聖人『御書』解説

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2014年 04月 28日

人の心を貫く妙法蓮華経は宇宙に遍満し一体であると明した【三世諸仏総勘文教相廃立】三

[三世諸仏総勘文教相廃立 本文] その三

 安楽行品には末法に入つて近来(このごろ)・初心の凡夫・法華経を修行して成仏す可き様を説き置かれしなり、身も安楽行なり口も安楽行なり意も安楽行なり自行の三業も誓願安楽の化他の行も同じく後の末世に於て法の滅せんと欲する時と云云、此は近来の時なり已上四所に有り薬王品には二所に説かれ勧発品には三所に説かれたり、皆近来を指して譲り置かれたる正しき文書を用いずして凡夫の言に付き愚癡の心に任せて三世諸仏の譲り状に背き奉り永く仏法に背かば三世の諸仏・何に本意無く口惜しく心憂く歎き悲しみ思食すらん、涅槃経に云く「法に依つて人に依らざれ」と云云、痛ましいかな悲しいかな末代の学者仏法を習学して還つて仏法を滅す、弘決に之を悲しんで曰く「此の円頓を聞いて崇重せざることは良に近代大乗を習う者の雑濫に由るが故なり況や像末情澆(こころ・うす)く信心寡薄(すくなく)・円頓の教法蔵に溢れ函(はこ)に盈(み)つれども暫くも思惟せず便ち目を瞑(ふさ)ぐに至る徒(いたず)らに生し徒らに死す一に何ぞ痛ましき哉」已上、同四に云く「然も円頓の教は本と凡夫に被むらしむ若し凡を益するに擬せずんば仏・何ぞ自ら法性の土に住して法性の身を以て諸の菩薩の為に此の円頓を説かずして何ぞ諸の法身の菩薩の与に凡身を示し此の三界に現じ給うことを須いんや、乃至一心凡に在れば即ち修習す可し」已上。

 所詮、己心と仏身と一なりと観ずれば速かに仏に成るなり、故に弘決に又云く「一切の諸仏己心は仏心と異ならずと観し給うに由るが故に仏に成ることを得る」と
已上。此れを観心と云う実に己心と仏心と一心なりと悟れば臨終を礙(さ)わる可き悪業も有らず生死に留まる可き妄念も有らず、一切の法は皆是れ仏法なりと知りぬれば教訓す可き善知識も入る可らず思うと思い言うと言い為すと為し儀(ふるま)いと儀う行住坐臥(ぎょうじゅうざが)の四威儀の所作は皆仏の御心と和合して一体なれば過も無く障りも無き自在の身と成る此れを自行と云う、此くの如く自在なる自行の行を捨て跡形も有らざる無明妄想なる僻思の心に住して三世の諸仏の教訓に背き奉れば冥きより冥きに入り永く仏法に背くこと悲しむ可く悲しむ可し、只今打ち返えし思い直し悟り返さば即身成仏は我が身の外には無しと知りぬ。

 我が心の鏡と仏の心の鏡とは只一鏡なりと雖も、我等は裏に向つて我が性の理を見ず、故に無明と云う。如来は面に向つて我が性の理を見たまえり、故に明と無明とは其の体、只一なり。
 鏡は一の鏡なりと雖も向い様に依つて明昧(みょうまい)の差別有り、鏡に裏有りと雖も面の障りと成らず、只向い様に依つて得失の二つ有り。相即融通して一法の二義なり、化他の法門は鏡の裏に向うが如く、自行の観心は鏡の面に向うが如し。化他の時の鏡も自行の時の鏡も、我が心性の鏡は只一にして替ること無し。鏡を即身に譬え、面に向うをば成仏に譬え、裏に向うをば衆生に譬う。
 鏡に裏有るをば性悪を断ぜざるに譬え、裏に向う時・面の徳無きをば化他の功徳に譬うるなり。衆生の仏性の顕れざるに譬うるなり。自行と化他とは得失の力用なり。


玄義の一に云く「薩婆悉達(さるばしった)・祖王の弓を彎(ひい)て満るを名けて力と為す七つの鉄鼓(てっく)を中(やぶ)り一つの鉄囲山(てっちせん)を貫ぬき地を洞(とお)し水輪に徹(とお)る如きを名けて用(ゆう)と為す、自行の力用なり。諸の方便教は力用の微弱なること凡夫の弓箭の如し、何となれば昔の縁は化他の二智を禀けて理を照すこと遍からず、信を生ずること深からず、疑を除くこと尽さず已上化他。

 今の縁は自行の二智を禀(う)けて仏の境界を極め法界の信を起し、円妙の道を増し、根本の惑を断じ、変易(へんにゃく)の生を損す。
但だ生身及び生身得忍の両種の菩薩、倶(とも)に益するのみに非ず、法身と法身の後心との両種の菩薩も亦以て倶に益す、化の功広大に利潤弘深(りにんぐじん)なる蓋(けだ)しこの経の力用なり、已上自行」

 自行と化他との力用勝劣分明なること勿論なり、能く能く之を見よ、一代聖教を鏡に懸(かけ)たる教相なり。
極仏境界とは十如是の法門なり、十界に互に具足して十界・十如の因果・権実の二智・二境は我が身の中に有つて一人も漏るること無しと通達し解了し、仏語を悟り極むるなり。起法界信とは十法界を体と為し十法界を心と為し十法界を形と為したまえりと本覚の如来は我が身の中に有りけりと信ず、増円妙道とは自行と化他との二は相即円融の法なれば珠と光と宝との三徳は只一の珠の徳なるが如し、片時も相離れず仏法に不足無し、一生の中に仏に成るべしと慶喜(きょうき)の念を増すなり。

 断根本惑とは一念無明の眠を覚まして本覚の寤に還れば生死も涅槃も倶に昨日の夢の如く跡形も無きなり、損変易生とは同居土の極楽と方便土の極楽と実報土の極楽との三土に往生せる人・彼の土にて菩薩の道を修行して仏に成らんと欲するの間・因は移り果は易りて次第に進み昇り劫数を経て成仏の遠きを待つを変易の生死と云うなり。下位を捨つるを死と云い上位に進むをば生と云う是くの如く変易する生死は浄土の苦悩にて有るなり、

爰(ここ)に凡夫の我等が此の穢土に於て法華を修行すれば、十界互具・法界一如なれば浄土の菩薩の変易の生は損し、仏道の行は増して変易の生死を一生の中に促(つづ)めて仏道を成ず故に、生身及び生身得忍の両種の菩薩・増道損生するなり。
 法身の菩薩とは生身を捨てて実報土に居するなり。後心の菩薩とは等覚の菩薩なり、但し迹門には生身及び生身得忍の菩薩を利益するなり、本門には法身と後身との菩薩を利益す。

 但し今は迹門を開して本門に摂めて一の妙法と成す故に、凡夫の我等穢土の修行の行の力を以て浄土の十地、等覚の菩薩を利益する行なるが故に、化の功広大なり(化他の徳用)、利潤弘深(自行の徳用)円頓の行者は自行と化他と一法をも漏さず一念に具足して横に十方法界に遍するが故に弘きなり。
 竪には三世に亘つて法性の淵底を極むるが故に深きなり、此の経の自行の力用、此くの如し。
化他の諸経は自行を具せざれば鳥の片翼を以て空を飛ばざるが如し、故に成仏の人も無し。

 今、法華経は自行・化他の二行を開会して不足無きが故に、鳥の二翼を以て飛ぶに障り無きが如く成仏滞(とどこお)り無し。

 薬王品には十喩を以て自行と化他との力用の勝劣を判ぜり。第一の譬に云く、諸経は諸水の如く法華は大海の如し云云 取意。、実に自行の法華経の大海には化他の諸経の衆水を入るること、昼夜に絶えず入ると雖も増ぜず減ぜず不可思議の徳用を顕す。

 諸経の衆水は片時の程も法華経の大海を納るること無し、自行と化他との勝劣是くの如し、一を以て諸(しょ)を例せよ、上来の譬喩は皆仏の所説なり、人の語を入れず此の旨を意得れば、一代聖教、鏡に懸けて陰り無し。此の文釈を見て、誰の人か迷惑せんや、三世の諸仏の総勘文なり、敢て人の会釈を引き入る可からず、三世諸仏の出世の本懐なり、一切衆生・成仏の直道なり。

 四十二年の化他の経を以て立る所の宗宗は華厳・真言・達磨・浄土・法相・三論・律宗・倶舎・成実等の諸宗なり、此等は皆悉く法華より已前の八教の中の教なり、皆是方便なり
兼・但・対・帯の方便誘引なり、三世諸仏の説教の次第なり此の次第を糾して法門を談ず、若し次第に違わば仏法に非ざるなり、一代教主の釈迦如来も三世諸仏の説教の次第を糾して、一字も違わず我も亦是くの如しとて・経に云く「三世諸仏の説法の儀式の如く我も今亦是くの如く無分別の法を説く」已上。

 若し之に違えば永く三世の諸仏の本意に背く、他宗の祖師各我が宗を立て法華宗と諍うこと誤りの中の誤り迷いの中の迷いなり。

 徴佗学(ちょうたがく)の決に之を破して云く山王院「凡そ八万法蔵・其の行相を統(す)ぶるに四教を出でず頭辺(はじめ)に示すが如し蔵通別円は即ち声聞・縁覚・菩薩・仏乗なり真言・禅門・華厳・三論・唯識・律業・成倶(じょうく)の二論等の能所の教理争でか此の四を過ぎん若し過ぐると言わば豈外邪(あにげじゃ)に非ずや若し出でずと言わば便ち他の所期を問い得よ即ち四乗の果なり、然して後に答に随つて極理を推(たず)ね徴(せ)めよ我が四教の行相を以て並べ検(かんが)えて決定せよ彼の所期の果に於て若し我と違わば随つて即ち之を詰めよ、且く華厳の如きは五教に各各に修因・向果有り初・中・後の行・一ならず一教一果是れ所期なるべし若し蔵通別円の因と果とに非ざれば是れ仏教ならざるのみ、三種の法輪・三時の教等・中に就て定む可し汝何者を以てか所期の乗と為るや若し仏乗なりと言わば未だ成仏の観行を見ず若し菩薩と言わば此れ亦即離の中道の異なるなり、汝正しく何れを取るや設し離の辺を取らば果として成ず可き無し、如(も)し即是を要せば仏に例して之を難ぜよ謬つて真言を誦すとも三観一心の妙趣を会せずんば恐くは別人に同じて妙理を証せじ所以に他の所期の極を逐うて理に準じて(我が宗の理なり)徴(せむ)べし、因明の道理は外道と対す多くは小乗及以び別教に在り若し法華・華厳・涅槃等の経に望むれば接引門(しょういんもん)なり権(か)りに機に対して設けたり終に以て引進するなり邪小の徒をして会して真理に至らしむるなり所以に論ずる時は四依撃目(きゃくもく)の志を存して之を執着すること莫れ又須らく他の義を将(も)つて自義に対検して随つて是非を決すべし執して之を怨むこと莫れ大底・他は多く三教に在り円旨至つて少きのみ」先徳大師の所判是の如し、諸宗の所立鏡に懸けて陰り無し末代の学者何ぞ之を見ずして妄りに教門を判ぜんや大綱の三教を能く能く学す可し、頓と漸と円とは三教なり是れ一代聖教の総の三諦なり頓・漸の二は四十二年の説なり円教の一は八箇年の説なり合して五十年なり此の外に法無し何に由つてか之に迷わん、衆生に有る時には此れを三諦と云い仏果を成ずる時には此れを三身と云う一物の異名なり之を説き顕すを一代聖教と云い之を開会(かいえ)して只一の総の三諦と成ずる時に成仏す此を開会と云い此を自行と云う、又他宗所立の宗宗は此の総の三諦を分別して八と為す各各に宗を立つるに依つて円満の理を闕いて成仏の理無し是の故に余宗には実の仏無きなり故に之を嫌う意は不足なりと嫌うなり。

 円教を取つて一切諸法を観ずること円融・円満して十五夜の月の如く不足無く、満足し究竟すれば善悪をも嫌わず折節をも撰ばず静処をも求めず人品をも択(えら)ばず、一切諸法は皆是れ仏法なりと知りぬれば諸法を通達す即ち非道を行うとも仏道を成ずるが故なり、天地水火風は是れ五智の如来なり一切衆生の身心の中に住在して片時も離るること無きが故に世間と出世と和合して心中に有つて心外には全く別の法無きなり故に之を聞く時立所(たちどころ)に速かに仏果を成ずること滞り無き道理至極なり。

 総の三諦とは譬えば珠と光と宝との如し此の三徳有るに由つて如意宝珠と云う故に総の三諦に譬う、若し亦珠の三徳を別別に取り放さば何の用にも叶う可からず隔別(きゃくべつ)の方便教の宗宗も亦是くの如し、珠をば法身に譬え光をば報身に譬え宝をば応身に譬う、此の総の三徳を分別して宗を立つるを不足と嫌うなり之を丸じて一と為すを総の三諦と云う、此の総の三諦は三身即一の本覚の如来なり又寂光をば鏡に譬え、同居と方便と実報の三土をば鏡に遷る像に譬う、四土も一土なり三身も一仏なり今は此の三身と四土と和合して仏の一体の徳なるを寂光(じゃっこう)の仏と云う、寂光の仏を以て円教の仏と為し円教の仏を以て寤の実仏と為す余の三土の仏は夢中の権仏なり、此れは三世の諸仏の只同じ語に勘文し給える総の教相なれば人の語も入らず会釈も有らず、若し之に違わば三世の諸仏に背き奉る大罪の人なり天魔外道なり永く仏法に背くが故に、之を秘蔵して他人には見せざれ若し秘蔵せずして妄りに之を披露せば仏法に証理無く二世に冥加無からん、謗ずる人出来せば三世の諸仏に背くが故に二人乍(なが)ら倶に悪道に堕んと識るが故に之を誡むるなり、能く能く秘蔵して深く此の理(ことわり)を証し三世の諸仏の御本意に相い叶い二聖・二天・十羅刹の擁護を蒙むり、滞り無く上上品の寂光の往生を遂げ須臾の間に九界生死の夢の中に還り来つて身を十方法界の国土に遍じ、心を一切有情の身中に入れて内よりは勧発し外よりは引導し内外相応し因縁和合して自在神通の慈悲の力を施し、広く衆生を利益すること滞り有る可からず。

三世の諸仏は此れを一大事の因縁と思食(おぼしめ)して世間に出現し給えり、一とは中道なり法華なり大とは空諦なり華厳なり、事とは仮諦なり・阿含・方等・般若なり、已上一代の総の三諦なり、之を悟り知る時仏果を成ずるが故に出世の本懐成仏の直道なり因とは一切衆生の身中に総の三諦有つて常住不変なり此れを総じて因と云うなり、縁とは三因仏性は有りと雖も善知識の縁に値わざれば悟らず知らず顕れず善知識の縁に値えば必ず顕るるが故に縁と云うなり、然るに今此の一と大と事と因と縁との五事和合して値い難き善知識の縁に値いて五仏性を顕さんこと何の滞りか有らんや、春の時来りて風雨の縁に値いぬれば無心の草木も皆悉く萠え出生して華敷(はなさ)き栄えて世に値う気色なり、秋の時に至りて月光の縁に値いぬれば草木皆悉く実成熟して一切の有情を養育し寿命を続き長養し終に成仏の徳用を顕す、之を疑い之を信ぜざる人有る可しや、無心の草木すら猶以て是くの如し、何に況や人倫に於てをや、我等は迷の凡夫なりと雖も一分の心も有り解(げ)も有り善悪も分別し折節を思知る、然るに宿縁に催されて生を仏法流布の国土に受けたり善知識の縁に値いなば因果を分別して成仏す可き身を以て善知識に値うと雖も猶草木にも劣つて身中の三因仏性を顕さずして黙止せる謂れ有る可きや、此の度必ず必ず生死の夢を覚まし本覚の寤に還つて生死の紲(きづな)を切る可し、今より已後は夢中の法門を心に懸く可からざるなり、三世の諸仏と一心と和合して妙法蓮華経を修行し障り無く開悟す可し、自行と化他との二教の差別は鏡に懸けて陰り無し、三世の諸仏の勘文是くの如し、秘す可し秘す可し。

弘安二年己卯十月 日                  日蓮 花押









by johsei1129 | 2014-04-28 20:03 | 血脈・相伝・講義 | Trackback | Comments(0)
2014年 04月 25日

人の心を貫く妙法蓮華経は宇宙に遍満し一体であると明した【三世諸仏総勘文教相廃立】二

[三世諸仏総勘文教相廃立 本文] その二
 二に自行の法とは是れ法華経八箇年の説なり、是の経は寤(うつつ)の本心を説き給う唯衆生の思い習わせる夢中の心地なるが故に夢中の言語を借りて寤の本心を訓(おしう)る故に語は夢中の言語なれども意は寤の本心を訓ゆ法華経の文と釈との意此くの如し。

 之を明め知らずんば経の文と釈の文とに必ず迷う可きなり、但し此の化他の夢中の法門も寤の本心に備われる徳用の法門なれば、夢中の教を取つて寤の心に摂むるが故に四十二年の夢中の化他方便の法門も、妙法蓮華経の寤の心に摂まりて心の外には法無きなり此れを法華経の開会とは云うなり。

 譬えば衆流を大海に納むるが如きなり仏の心法妙・衆生の心法妙と此の二妙を取つて己心に摂むるが故に、心の外に法無きなり。己心と心性と心体との三は己身の本覚の三身如来なり是を経に説いて云く「如是相応身如来、如是性報身如来、如是体法身如来」此れを三如是と云う、此の三如是の本覚の如来は十方法界を身体と為し十方法界を心性と為し十方法界を相好(そうごう)と為す是の故に我が身は本覚三身如来の身体なり、法界に周編して一仏の徳用なれば一切の法は皆是仏法なりと説き給いし
時、其の座席に列りし諸の四衆・八部・畜生・外道等一人も漏れず皆悉く妄想の僻目(ひがめ)・僻思(ひがおもい)・立所(たちどころ)に散止して本覚の寤に還つて皆仏道を成ず。

 仏は寤の人の如く衆生は夢見る人の如し、故に生死の虚夢を醒して本覚の寤に還るを即身成仏とも平等大慧とも無分別法とも皆成仏道とも云う只一つの法門なり。
 十方の仏土は区(まちまち)に分れたりと雖も通じて法は一乗なり、方便無きが故に無分別法なり、十界の衆生は品品に異りと雖も実相の理(ことわり)は一なるが故に無分別なり、百界千如・三千世間の法門殊なりと雖も十界互具するが故に無分別なり。夢と寤と虚と実と各別異なりと雖も一心の中の法なるが故に無分別なり。

 過去と未来と現在とは三なりと雖も一念の心中の理なれば無分別なり、一切経の語は夢中の語とは、譬えば扇と樹との如し法華経の寤の心を顕す言とは譬えば月と風との如し、故に本覚の寤の心の月輪の光は無明の闇を照し実相般若の智慧の風は妄想の塵を払う故に夢の語の扇と樹とを以て寤の心の月と風とを知らしむ是の故に夢の余波を散じて寤の本心に帰せしむるなり、故に止観に云く「月・重山に隠るれば扇を挙げて之に類し風大虚(たいこ)に息(や)みぬれば樹を動かして之を訓ゆるが如し」文、弘決に云く「真常性の月煩悩の山に隠る煩悩一に非ず故に名けて重と為す円音教の風は化を息めて寂に帰す寂理無礙なること猶大虚の如し四依の弘教は扇と樹との如し乃至月と風とを知らしむるなり已上、夢中の煩悩の雲・重畳せること山の如く其の数八万四千の塵労にて心性本覚の月輪を隠す扇と樹との如くなる経論の文字言語の教を以て月と風との如くなる本覚の理を覚知せしむる聖教なり故に文と語とは扇と樹との如し」文、上釈は一往の釈とて実義に非ざるなり月の如くなる妙法の心性の月輪と風の如くなる我が心の般若の慧解とを訓え知らしむるを妙法蓮華経と名く、故に釈籤(しゃくせん)に云く「声色(しょうしき)の近名(ごんみょう)を尋ねて無相の極理に至る」と已上。

 声色の近名とは扇と樹との如くなる夢中の一切経論の言説なり。無相の極理とは月と風との如くなる、寤の我が身の心性の寂光の極楽なり。
 此の極楽とは十方法界の正報の有情と十方法界の依報の国土と和合して、一体三身即一なり、四土不二にして法身の一仏なり。十界を身と為すは法身なり、十界を心と為すは報身なり、十界を形と為すは応身なり。
 十界の外に仏無し仏の外に十界無くして依正不二(えしょうふに)なり、身土不二なり、一仏の身体なるを以て寂光土と云う。是の故に無相の極理とは云うなり。

 生滅無常の相を離れたるが故に無相と云うなり法性(ほっしょう)の淵底(えんでい)・玄宗の極地なり故に極理と云う、此の無相の極理なる寂光の極楽は一切有情の心性の中に有つて清浄無漏(むろ)なり之を名けて妙法の心蓮台とは云うなり、是の故に心外無別法と云う、此れを一切法は皆是仏法なりと通達解了すとは云うなり。

 生と死と二つの理は生死の夢の理なり妄想なり顛倒なり本覚の寤を以て我が心性を糾せば生ず可き始めも無きが故に死す可き終りも無し既に生死を離れたる心法に非ずや、劫火にも焼けず水災にも朽ちず剣刀にも切られず弓箭にも射られず芥子の中に入るれども芥子も広からず心法も縮まらず虚空の中に満つれども虚空も広からず心法も狭からず善に背くを悪と云い悪に背くを善と云う、故に心の外に善無く悪無し此の善と悪とを離るるを無記と云うなり、善悪無記・此の外には心無く心の外には法無きなり故に善悪も浄穢も凡夫・聖人も天地も大小も東西も南北も四維も上下も言語道断し心行所滅す、心に分別して思い言い顕す言語なれば心の外には分別も無分別も無し、言と云うは心の思いを響かして声を顕すを云うなり凡夫は我が心に迷うて知らず覚らざるなり、仏は之を悟り顕わして神通と名くるなり神通とは神(たましい)の一切の法に通じて礙(さわり)無きなり。

 此の自在の神通は一切の有情の心にて有るなり、故に狐狸も分分に通を現ずること皆心の神の分分の悟なり、此の心の一法より国土世間も出来する事なり、一代聖教とは此の事を説きたるなり此れを八万四千の法蔵とは云うなり是れ皆悉く一人の身中の法門にて有るなり、然れば八万四千の法蔵は我身一人の日記文書なり、此の八万法蔵を我が心中に孕み持ち懐き持ちたり我が身中の心を以て、仏と法と浄土とを我が身より外に思い願い求むるを迷いとは云うなり此の心が善悪の縁に値うて善悪の法をば造り出せるなり、

華厳経に云く「心は工(たくみ)なる画師(えし)の種種の五陰を造るが如く一切世間の中に法として造らざること無し心の如く仏も亦爾なり仏の如く衆生も然なり三界唯一心なり心の外に別の法無し心仏及び衆生・是の三差別無し」已上、無量義経に云く「無相・不相の一法より無量義を出生す」已上、無相・不相の一法とは一切衆生の一念の心是なり、文句に釈して云く「生滅無常の相無きが故に無相と云うなり二乗の有余・無余の二つの涅槃の相を離るが故に不相と云うなり」云云、心の不思議を以て経論の詮要と為すなり、此の心を悟り知るを名けて如来と云う之を悟り知つて後は十界は我が身なり我が心なり我が形なり本覚の如来は我が身心なるが故なり之を知らざる時を名けて無明と為す無明は明かなること無しと読むなり、我が心の有様を明かに覚らざるなり、之を悟り知る時を名けて法性と云う、故に無明と法性とは一心の異名なり、名と言とは二なりと雖も心は只一つ心なり斯れに由つて無明をば断ず可からざるなり夢の心の無明なるを断ぜば寤の心を失う可きが故に総じて円教の意は一毫の惑をも断ぜず故に一切の法は皆是れ仏法なりと云うなり、法華経に云く「如是相一切衆生の相好本覚の応身如来・如是性一切衆生の心性本覚の報身如来・如是体一切衆生の身体本覚の法身如来」此の三如是より後の七如是・出生して合して十如是と成れるなり、此の十如是は十法界なり、此の十法界は一人の心より出で八万四千の法門と成るなり、一人を手本として一切衆生平等なること是くの如し、三世の諸仏の総勘文にして御判慥(たし)かに印(おし)たる正本の文書なり仏の御判とは実相の一印なり印とは判の異名なり、余の一切の経には実相の印無ければ正本の文書に非ず全く実の仏無し実の仏無きが故に夢中の文書なり浄土に無きが故なり、十法界は十なれども十如是は一なり譬えば水中の月は無量なりと雖も虚空の月は一なるが如し、九法界の十如是は夢中の十如是なるが故に水中の月の如し仏法界の十如是は本覚の寤の十如是なれば虚空の月の如し、是の故に仏界の一つの十如是顕れぬれば九法界の十如是の水中の月の如きも一も闕減(けつげん)無く同時に皆顕れて体と用と一具にして一体の仏と成る、十法界を互に具足し平等なる十界の衆生なれば虚空の本月も水中の末月も一人の身中に具足して闕くること無し、故に十如是は本末究竟(くきょう)して等しく差別無し、本とは衆生の十如是なり末とは諸仏の十如是なり諸仏は衆生の一念の心より顕れ給えば衆生は是れ本なり諸仏は是れ末なり、然るを経に云く「今此の三界は皆是我が有なり其の中の衆生は悉く是吾が子なり」と已上、

仏成道の後に化他の為の故に迹の成道を唱えて生死の夢中にして本覚の寤を説き給うなり、智慧を父に譬え愚癡を子に譬えて是くの如く説き給えるなり、衆生は本覚の十如是なりと雖も一念の無明眠りの如く心を覆うて生死の夢に入つて本覚の理を忘れ髪筋(かみすじ)を切る程に過去・現在・未来の三世の虚夢を見るなり、仏は寤の人の如くなれば生死の夢に入つて衆生を驚かし給える智慧は夢の中にて父母の如く夢の中なる我等は子息の如くなり、此の道理を以て悉是吾子と言い給うなり、此の理を思い解けば諸仏と我等とは本の故にも父子なり末の故にも父子なり父子の天性は本末是れ同じ、斯れに由つて己心と仏心とは異ならずと観ずるが故に生死の夢を覚まして本覚の寤に還えるを即身成仏と云うなり、即身成仏は今我が身の上の天性・地体なり煩(わずらい)も無く障(さわ)りも無き衆生の運命なり果報なり冥加(みょうが)なり、夫れ以(おもんみ)れば夢の時の心を迷いに譬え寤の時の心を悟りに譬う之を以て一代聖教を覚悟するに跡形も無き虚夢を見て心を苦しめ汗水と成つて驚きぬれば我身も家も臥所(ふしど)も一所にて異らず夢の虚と寤の実との二事を目にも見・心にも思えども所は只一所なり身も只一身にて二の虚と実との事有り之を以て知んぬ可し、九界の生死の夢見る我が心も仏界常住の寤の心も異ならず九界生死の夢見る所が仏界常住の寤の所にて変らず心法も替らず在所も差わざれども夢は皆虚事なり寤は皆実事なり止観に云く「昔荘周と云うもの有り夢に胡蝶と成つて一百年を経たり苦は多く楽は少く汗水と成つて驚きぬれば胡蝶にも成らず百年をも経ず苦も無く楽も無く皆虚事なり皆妄想なり」已上取意、弘決に云く「無明は夢の蝶の如く三千は百年の如し一念実無きは猶蝶に非ざるが如く三千も亦無きこと年を積むに非るが如し」已上、此の釈は即身成仏の証拠なり夢に蝶と成る時も荘周は異ならず寤に蝶と成らずと思う時も別の荘周無し、我が身を生死の凡夫なりと思う時は夢に蝶と成るが如く僻目・僻思なり、我が身は本覚の如来なりと思う時は本(もと)の荘周なるが如し即身成仏なり、蝶の身を以て成仏すと云うに非ざるなり蝶と思うは虚事なれば成仏の言は無し沙汰の外の事なり、無明は夢の蝶の如しと判ずれば我等が僻思は猶昨日の夢の如く性体無き妄想なり誰の人か虚夢の生死を信受して疑を常住涅槃の仏性に生ぜんや、止観に云く「無明の癡惑本より是れ法性なり癡迷(ちめい)を以ての故に法性(ほっしょう)変じて無明と作り諸の顛倒の善・不善等を起す寒来りて水を結べば変じて堅冰(けんぴょう)と作るが如く・又眠来りて心を変ずれば種種の夢有るが如し今当に諸の顛倒は即ち是法性なり一ならず異ならずと体すべし、顛倒起滅すること旋火輪の如しと雖も顛倒の起滅を信ぜずして唯此の心・但是れ法性なりと信ず、起は是れ法性の起、滅は是れ法性の滅なり其れを体するに実には起滅せざるを妄りに起滅すと謂えり只妄想を指すに悉く是れ法性なり、法性を以て法性に繋け法性を以て法性を念ず常に是れ法性なり法性ならざる時無し」已上

是くの如く法性ならざる時の隙(ひま)も無き理の法性に夢の蝶の如く無明に於て実有の思を生じて之に迷うなり、止観の九に云く「譬えば眠の法・心を覆うて一念の中に無量世の事を夢みるが如し乃至寂滅真如に何の次位か有らん、乃至一切衆生即大涅槃なり復滅す可からず何の次位・高下・大小有らんや、不生不生にして不可説なれども因縁有るが故に亦説くことを得可し十因縁の法・生の為に因と作る虚空に画き方便して樹を種るが如し一切の位を説くのみ」已上、十法界の依報・正報は法身の仏・一体三身の徳なりと知つて一切の法は皆是れ仏法なりと通達し解了する是を名字即と為す名字即の位より即身成仏す故に円頓の教には次位の次第無し・故に玄義に云く「末代の学者多く経論の方便の断伏を執して諍闘す水の性の冷かなるが如きも飲まずんば安んぞ知らん」已上、天台の判に云く「次位の綱目は仁王・瓔珞に依り断伏の高下は大品・智論に依る」已上、仁王・瓔珞・大品・大智度論是の経論は皆法華已前の八教の経論なり、権教の行は無量劫を経て昇進する次位なれば位の次第を説けり今法華は八教に超えたる円なれば速疾頓成にして心と仏と衆生と此の三は我が一念の心中に摂めて心の外に無しと観ずれば下根の行者すら尚一生の中に妙覚の位に入る・一と多と相即すれば一位に一切の位皆是れ具足せり故に一生に入るなり、下根すら是くの如し況や中根の者をや何に況や上根をや実相の外に更に別の法無し実相には次第無きが故に位無し。

総じて一代の聖教は一人の法なれば我が身の本体を能く能く知る可し之を悟るを仏と云い之に迷うは衆生なり此れは華厳経の文の意なり、弘決の六に云く「此の身の中に具(つぶ)さに天地に倣(なら)うことを知る、頭の円(まど)かなるは天に象(かたど)り、足の方なるは地に象ると知り、身の内の空種(うつろ)なるは即ち是れ虚空なり、腹の温かなるは春夏に法(のっ)とり、背の剛きは秋冬に法とり、四体は四時に法とり、大節の十二は十二月に法とり、小節の三百六十は三百六十日に法とり、鼻の息の出入は山沢渓谷の中の風に法とり、口の息の出入は虚空の中の風に法とり、眼は日月に法とり、開閉は昼夜に法とり、髪は星辰に法とり眉は北斗に法とり、脈は江河に法とり、骨は玉石に法とり、皮肉は地土に法とり、毛は叢林(そうりん)に法とり、五臓は天に在つては五星に法とり、地に在つては五岳に法とり、陰・陽に在つては五行に法とり、世に在つては五常に法とり、内に在つては五神に法とり、行を修するには五徳に法とり、罪を治むるには五刑に法とる。

謂く墨・ぎ・非・宮・大辟(たいへき)此の五刑は人を様様に之を傷ましむ其の数三千の罰有り此を五刑と云う主領には五官と為す五官は下の第八の巻に博物誌を引くが如し謂く苟萠(こうぼう)等なり、天に昇つては五雲と曰い化して五竜と為る、心を朱雀(すざく)と為し腎(じん)を玄武と為し肝を青竜と為し肺を白虎と為し脾(ひ)を勾陳と為す」又云く「五音・五明・六藝・皆此れより起る亦復当に内治の法を識るべし覚心内に大王と為つては百重の内に居り出でては則ち五官に侍衛せ為る、肺をば司馬と為し肝をば司徒と為し脾をば司空と為し四支をば民子と為し、左をば司命と為し右をば司録と為し人命を主司す、乃至臍をば太一君等と為すと禅門の中に広く其の相を明す」。

已上、人身の本体委(くわし)く検(けん)すれば是くの如し、然るに此の金剛不壊(ふえ)の身を以て生滅無常の身なりと思う僻思(ひがおもい)は譬えば荘周が夢の蝶の如しと釈し給えるなり、五行とは地水火風空なり五大種とも五薀(おん)とも五戒とも五常とも五方とも五智とも五時とも云う、只一物・経経の異説なり内典・外典・名目の異名なり、今経に之を開して一切衆生の心中の五仏性・五智の如来の種子と説けり是則ち妙法蓮華経の五字なり、此の五字を以て人身の体を造るなり本有常住なり本覚の如来なり是を十如是と云う此を唯仏与仏・乃能究尽と云う、不退の菩薩と極果の二乗と少分も知らざる法門なり然るを円頓の凡夫は初心より之を知る故に即身成仏するなり金剛不壊(ふえ)の体なり、是を以て明かに知んぬ可し天崩れば我が身も崩る可し地裂けば我が身も裂く可し地水火風滅亡せば我が身も亦滅亡すべし、然るに此の五大種は過去・現在・未来の三世は替ると雖も五大種は替ること無し。

正法と像法と末法との三時殊なりと雖も五大種は是れ一にして盛衰転変無し、薬草喩品の疏には円教の理は大地なり円頓の教は空の雨なり亦三蔵教・通教・別教の三教は三草と二木となり、其の故は此の草木は円理の大地より生じて円教の空の雨に養われて五乗の草木は栄うれども天地に依つて我栄えたりと思知らざるに由るが故に三教の人天・二乗・菩薩をば草木に譬えて不知恩と説かれたり、故に草木の名を得・今法華に始めて五乗の草木は円理の母と円教の父とを知るなり、一地の所生なれば母の恩を知るが如く一雨の所潤なれば父の恩を知るが如し、薬草喩品の意・是くの如くなり。

 釈迦如来・五百塵点劫の当初(そのかみ)・凡夫にて御坐せし時、我が身は地水火風空なりと知しめして即座に悟を開き給いき、後に化他の為に世世・番番に出世・成道し在在・処処に八相作仏し王宮に誕生し樹下に成道して、始めて仏に成る様を衆生に見知らしめ、四十余年に方便教を儲け衆生を誘引す。
 其の後方便の諸の経教を捨てて正直の妙法蓮華経の五智の如来の種子の理を説き顕して、其の中に四十二年の方便の諸経を丸かし納れて一仏乗と丸し人一(にんいち)の法と名く一人が上の法なり。
 多人の綺(いろ)えざる正しき文書を造つて慥かな御判の印あり、三世諸仏の手継ぎの文書を釈迦仏より相伝せられし時に、三千三百万億那由佗の国土の上の虚空の中に満ち塞がれる若干の菩薩達の頂を摩(な)で尽して時を指して、末法近来の我等衆生の為に、慥(たし)かに此の由を説き聞かせて仏の譲状を以て末代の衆生に慥かに授与す可しと慇懃(おんごん)に三度まで同じ御語に説き給いしかば、若干の菩薩達・各数を尽して身を曲げ頭を低(た)れ三度まで同じ言に各我も劣らじと事請(ことうけ)を申し給いしかば、仏・心安く思食して本覚の都に還えり給う。
 三世の諸仏の説法の儀式・作法には、只同じ御言に時を指したる末代の譲状なれば、只一向に後五百歳を指して此の妙法蓮華経を以て成仏す可き時なりと、譲状の面に載せられたる手継ぎ証文なり。





by johsei1129 | 2014-04-25 21:04 | 血脈・相伝・講義 | Trackback | Comments(0)
2014年 04月 24日

人の心を貫く妙法蓮華経は宇宙に遍満し一体であると明した【三世諸仏総勘文教相廃立】一

【三世諸仏総勘文教相廃立(さんぜしょぶつそうかんもんきょうそうはいりゅう】
■出筆時期:弘安2年10月(1279)58歳御作 門下の弟子一同にあてられたと思われる。
■出筆場所:身延山中 草庵
■出筆の経緯:
本抄で大聖人は「我が心の妙法蓮華経の一乗は十方の浄土に周編して闕(か)くること無し、十方の浄土の依報・正報の功徳荘厳は我が心の中に有つて片時も離るること無き三身即一の本覚の如来にて是の外には法無し」と述べ、人の心を貫く妙法蓮華経は、人を取り巻く浄土(宇宙)に遍満し心と一体であることを明かし、さらに「此の心の一法より国土世間も出来する事なり、一代聖教とは此の事を説きたるなり。此れを八万四千の法蔵とは云うなり是れ皆悉く一人の身中の法門にて有るなり、然れば八万四千の法蔵は我身一人の日記文書なり」と解き明かし、八万四千法蔵と膨大な釈尊の一代聖教はつまるところ、一人の心を説き明かしている」と明言している。
■ご真筆: 現存していない。

[三世諸仏総勘文教相廃立 本文] その一

                          弘安二年十月 五十八歳御作 日蓮之を撰す

 夫れ一代聖教とは総べて五十年の説教なり是を一切経とは言うなり、此れを分ちて二と為す・一には化他・二には自行なり、一には化他の経とは法華経より前の四十二年の間説き給える諸の経教なり此れをば権教(ごんきょう)と云い亦は方便と名く、此れは四教の中には三蔵教・通教・別教の三教なり・五時の中には華厳・阿含・方等・般若なり法華より前の四時の経教なり、又十界の中には前の九法界なり又夢と寤(うつつ)との中には夢中の善悪なり又夢をば権と云い寤をば実と云うなり、是の故に夢は仮に有つて体性無し故に名けて権と云うなり、寤は常住にして不変の心の体なるが故に此れを名けて実と為す、故に四十二年の諸の経教は生死の夢の中の善悪の事を説く故に権教と言う夢中の衆生を誘引し驚覚して法華経の寤と成さんと思食しての支度方便の経教なり故に権教と言う、斯れに由つて文字の読みを糾して心得可きなり、故に権をば権(かり)と読む、権なる事の手本には夢を以て本と為す又実をば実と読む実事の手本は寤なり、故に生死の夢は権にして性体無ければ権なる事の手本なり故に妄想と云う、本覚の寤は実にして生滅を離れたる心なれば真実の手本なり故に実相と云う、是を以て権実の二字を糾して一代聖教の化他の権と自行の実との差別を知る可きなり、故に四教の中には前の三教と五時の中には前の四時と十法界の中には前の九法界は同じく皆夢中の善悪の事を説くなり故に権教と云う、此の教相をば無量義経に四十余年未顕真実と説き給う已上、未顕真実の諸経は夢中の権教なり故に釈籤(しゃくせん)に云く「性・殊なること無しと雖も必ず幻に藉(よ)りて幻の機と幻の感と幻の応と幻の赴(ふ)とを発(おこ)す・能応と所化(しょけ)と並びに権実に非ず」已上、此れ皆夢幻の中の方便の教なり性雖無殊等とは夢見る心性と寤の時の心性とは只一の心性にして総て異ること無しと雖も夢の中の虚事と寤の時の実事と二事一の心法なるを以て見ると思うも我が心なりと云う釈なり、故に止観に云く「前の三教の四弘・能も所も泯(みん)す」已上、四弘とは衆生の無辺なるを度せんと誓願し・煩悩の無辺なるを断ぜんと誓願し・法門の無尽なるを知らんと誓願し・無上菩提を証せんと誓願す此を四弘と云う、能とは如来なり所とは衆生なり此の四弘は能の仏も所の衆生も前三教は皆夢中の是非なりと釈し給えるなり、然れば法華以前の四十二年の間の説教たる諸経は未顕真実の権教なり方便なり、法華に取寄る可き方便なるが故に真実には非ず、此れは仏自ら四十二年の間説き集め給いて後に、今法華経を説かんと欲して先ず序分の開経の無量義経の時・仏自ら勘文し給える教相なれば人の語も入る可からず不審をも生す可からず、故に玄義に云く「九界を権と為し仏界を実と為す」已上、九法界の権は四十二年の説教なり仏法界の実は八箇年の説・法華経是なり、故に法華経をば仏乗と云う九界の生死は夢の理なれば権教と云い仏界の常住は寤の理なれば実教と云う、故に五十年の説教・一代の聖教・一切の諸経は化他の四十二年の権教と自行の八箇年の実教と合して五十年なれば権と実との二の文字を以て鏡に懸けて陰無し。

 故に三蔵教を修行すること三僧祇・百大劫を歴て終りに仏に成らんと思えば我が身より火を出して灰身(けしん)入滅とて灰と成つて失せるなり、通教を修行すること七阿僧祇・百大劫を満てて仏に成らんと思えば前の如く同様に灰身入滅して跡形も無く失せぬるなり、別教を修行すること二十二大阿僧祇・百千万劫を尽くして終りに仏に成りぬと思えば生死の夢の中の権教の成仏なれば本覚の寤の法華経の時には別教には実仏無し夢中の果なり故に別教の教道には実の仏無しと云うなり、別教の証道には初地に始めて一分の無明を断じて一分の中道の理を顕し始めて之を見れば別教は隔歴不融の教と知つて円教に移り入つて円人と成り已つて別教には留まらざるなり上中下三根の不同有るが故に初地・二地・三地・乃至・等覚までも円人と成る故に別教の面に仏無きなり、故に有教無人と云うなり、故に守護国界章に云く「有為の報仏は夢中の権果前三教の修行の仏、無作(むさ)の三身は覚前の実仏なり後の円教の観心の仏」又云く「権教の三身は未だ無常を免れず前三教の修行の仏実教の三身は倶体倶用なり後の円教の観心の仏」此の釈を能く能く意得可きなり、権教は難行苦行して適(たまたま)仏に成りぬと思えば夢中の権の仏なれば本覚の寤の時には実仏無きなり、極果の仏無ければ有教無人なり況や教法実ならんや之を取つて修行せんは聖教に迷えるなり、此の前三教には仏に成らざる証拠を説き置き給いて末代の衆生に慧解を開かしむるなり九界の衆生は一念の無明の眠(ねむり)の中に於て生死の夢に溺れて本覚の寤を忘れ夢の是非に執して冥きより冥きに入る、是の故に如来は我等が生死の夢の中に入つて顛倒の衆生に同じて夢中の語を以て夢中の衆生を誘い夢中の善悪の差別の事を説いて漸漸に誘引し給うに、夢中の善悪の事重畳して様様に無量・無辺なれば先ず善事に付いて上中下を立つ三乗の法是なり、三三九品なり、此くの如く説き已つて後に又上上品の根本善を立て上中下・三三九品の善と云う、皆悉く九界生死の夢の中の善悪の是非なり今是をば総じて邪見外道と為す捜要記の意、此の上に又上上品の善心は本覚の寤の理なれば此れを善の本と云うと説き聞かせ給し時に夢中の善悪の悟の力を以ての故に寤の本心の実相の理を始めて聞知せられし事なり、是の時に仏説いて言く夢と寤との二は虚事と実事との二の事なれども心法は只一なり、眠の縁に値(あ)いぬれば夢なり眠去りぬれば寤の心なり心法は只一なりと開会せらるべき下地を造り置かれし方便なり此れは別教の中道の理是の故に未だ十界互具・円融相即を顕さざれば成仏の人無し故に三蔵教より別教に至るまで四十二年の間の八教は皆悉く方便・夢中の善悪なり、只暫く之を用いて衆生を誘引し給う支度方便なり此の権教の中にも分分に皆悉く方便と真実と有りて権実の法闕(か)けざるなり、四教一一に各四門有つて差別有ること無し語も只同じ語なり文字も異ること無し斯れに由つて語に迷いて権実の差別を分別せざる時を仏法滅すと云う是の方便の教は唯穢土(えど)に有つて総じて浄土には無きなり法華経に云く「十方の仏土の中には唯一乗の法のみ有つて二無く亦三も無し仏の方便の説をば除く」已上、故に知んぬ十方の仏土に無き方便の教を取つて往生の行と為し十方の浄土に有る一乗の法をば之を嫌いて取らずして成仏す可き道理有る可しや否や、一代の教主釈迦如来・一切経を説き勘文し給いて言く三世の諸仏同様に一つ語一つ心に勘文し給える説法の儀式なれば我も是くの如く一言も違わざる説教の次第なり云云、方便品に云く「三世の諸仏の説法の儀式の如く我も今亦是くの如く無分別の法を説く」已上、無分別の法とは一乗の妙法なり善悪を簡ぶこと無く草木・樹林・山河・大地にも一微塵の中にも互に各十法界の法を具足す我が心の妙法蓮華経の一乗は十方の浄土に周編して闕くること無し十方の浄土の依報・正報の功徳荘厳は我が心の中に有つて片時も離るること無き三身即一の本覚の如来にて是の外には法無し此の一法計り十方の浄土に有りて余法有ること無し故に無分別法と云う是なり、此の一乗妙法の行をば取らずして全く浄土には無き方便の教を取つて成仏の行と為さんは迷いの中の迷いなり、我仏に成りて後に穢土に立ち還りて穢土の衆生を仏法界に入らしめんが為に次第に誘引して方便の教を説くを化他の教とは云うなり、故に権教と言い又方便とも云う化他の法門の有様大体略を存して斯くの如し。

その二に続く

by johsei1129 | 2014-04-24 21:06 | 血脈・相伝・講義 | Trackback | Comments(0)
2014年 04月 08日

月氏国から東に渡ってきた仏法は、日出ずる国・日本から西に広まっていくことを示した書【諫暁八幡抄】五

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[諫暁八幡抄(大石寺蔵)御真筆・第41紙]


[諫暁八幡抄 本文]その五
 平城(へいぜい)天皇の御宇に八幡の御託宣に云く「我は是れ日本の鎮守八幡大菩薩なり百王を守護せん誓願あり」等云云、今云く人王八十一・二代隠岐の法皇・三・四・五の諸王已に破られ畢んぬ残の二十余代・今捨て畢(おわ)んぬ、已に此の願破るるがごとし、日蓮料簡して云く百王を守護せんというは正直の王・百人を守護せんと誓い給う、八幡の御誓願に云く「正直の人の頂を以て栖(すみか)と為し、諂曲(てんごく)の人の心を以て亭(やどら)ず」等云云、夫れ月は清水に影をやどす濁水にすむ事なし、王と申すは不妄語の人・右大将家・権の大夫殿は不妄語の人・正直の頂八幡大菩薩の栖む百皇の内なり、正直に二あり一には世間の正直・王と申すは天・人・地の三を串(つらぬ)くを王と名づく、天・人・地の三は横なりたつてんは縦なり、王と申すは黄帝・中央の名なり、天の主・人の主・地の主を王と申す、隠岐の法皇は名は国王・身は妄語の人なり横人なり、権の大夫殿は名は臣下・身は大王・不妄語の人・八幡大菩薩の願い給う頂きなり、二には出世の正直と申すは爾前・七宗等の経論釈は妄語・法華経・天台宗は正直の経釈なり、本地は不妄語の経の釈迦仏・迹には不妄語の八幡大菩薩なり、八葉は八幡・中台は教主釈尊なり、四月八日・寅の日に生まれ八十年を経て二月十五日申の日に隠れさせ給う、豈(あ)に教主の日本国に生まれ給うに有らずや、大隅の正八幡宮の石の文に云く「昔し霊鷲山(りょうじゅせん)に在つて妙法華経を説き今正宮の中に在て大菩薩と示現す」等云云、法華経に云く「今此三界」等云云、又「常に霊鷲山に在り」等云云、遠くは三千大千世界の一切衆生は釈迦如来の子なり、近くは日本国・四十九億九万四千八百二十八人は八幡大菩薩の子なり、今日本国の一切衆生は八幡をたのみ奉るやうにもてなし釈迦仏をすて奉るは影をうやまつて体をあなづり子に向いて親をの(詈)るがごとし、本地は釈迦如来にして月氏国に出でて正直捨方便の法華経を説き給い、垂迹(すいじゃく)は日本国に生れては正直の頂きにすみ給う、諸の権化の人人の本地は法華経の一実相なれども垂迹の門は無量なり、所謂跋倶羅(はくら)尊者は三世に不殺生戒を示し鴦崛摩羅(おうくつまら)は生生に殺生を示す、舎利弗は外道となり、是くの如く門門不同なる事は本凡夫にて有りし時の初発得道(しょほつとくどう)の始を成仏の後・化他門に出で給う時我が得道の門を示すなり、妙楽大師云く「若し本に従て説かば亦是れ昔殺等の悪の中に於て能く出離するが故なり是の故に迹中に亦殺を以て利他の法門と為す」等云云、今八幡大菩薩は本地は月支の不妄語の法華経を迹に日本国にして正直の二字となして賢人の頂きにやどらんと云云、若し爾(しか)らば此の大菩薩は宝殿をやきて天にのぼり給うとも法華経の行者・日本国に有るならば其の所に栖み給うべし。

 法華経の第五に云く諸天昼夜に常に法の為の故に而も之を衛護す、経文の如くんば南無妙法蓮華経と申す人をば大梵天・帝釈・日月・四天等・昼夜に守護すべしと見えたり、又第六の巻に云く「或は己身を説き或は他身を説き或は己身を示し或は他身を示し或は己事を示し或は他事を示す」文、観音尚三十三身を現じ妙音又三十四身を現じ給ふ教主釈尊何ぞ八幡大菩薩と現じ給はざらんや・天台云く「即是れ形を十界に垂れて種種の像を作す」等云云。

 天竺(てんじく)国をば月氏国と申すは仏の出現し給うべき名なり、扶桑国(ふそうこく)をば日本国と申すあに聖人出で給わざらむ、月は西より東に向へり月氏の仏法の東へ流るべき相(そう)なり、日は東より出づ日本の仏法の月氏へかへるべき瑞相なり、月は光あきらかならず在世は但八年なり、日は光明(こうみょう)・月に勝(まさ)れり五五百歳の長き闇を照すべき瑞相なり、仏は法華経謗法(ほうぼう)の者を治し給はず在世には無きゆへに、末法には一乗の強敵(ごうてき)充満すべし不軽(ふきょう)菩薩の利益此れなり、各各我が弟子等はげませ給へはげませ給へ。

  弘安三年太歳庚辰十二月 日 日蓮花押




by johsei1129 | 2014-04-08 20:25 | 重要法門(十大部除く) | Trackback | Comments(0)
2014年 04月 07日

月氏国から東に渡ってきた仏法は、日出ずる国・日本から西に広まっていくことを示した書【諫暁八幡抄】四

[諫暁八幡抄 本文]その四
 今又日本国・一万一千三十七の寺・並に三千一百三十二社の神は国家安穏のために・あがめられて候、而るに其の寺寺の別当等・其の社社の神主等(かんぬしら)はみなみな・あがむるところの本尊と神との御心に相違せり、彼れ彼れの仏と神とは其の身異体なれども其の心同心に法華経の守護神なり、別当と社主等は或は真言師或は念仏者或は禅僧或は律僧なり皆一同に八幡等の御かたきなり、謗法(ほうぼう)不孝の者を守護し給いて正法の者を或は流罪或は死罪等に行なわするゆへに天のせめを被り給いぬるなり。

我が弟子等の内・謗法の余慶(よけい)有る者の思いていわく、此の御房は八幡をかたきとすと云云、これいまだ道理有りて法の成就せぬには本尊をせむるという事を存知せざる者の思いなり。
 付法蔵経と申す経に大迦葉(かしょう)尊者の因縁を説いて云く「時に摩竭(まかつ)国に婆羅門(ばらもん)有り、尼倶律陀(にくりだ)と名づく過去の世に於て久しく勝業を修し、多く財宝に饒(ゆた)かにして巨富無量なり摩竭王に比するに千倍勝れりと為す、財宝饒かなりと雖も子息有る事無し自ら念(おも)わく老朽して死の時将(まさ)に至らんとす庫蔵の諸物委付する所無し。

 其の舎の側に於て樹林神有り彼の婆羅門子を求むるが為の故に即ち往(ゆい)て祈請す年歳を経歴すれども微応無し、時に尼倶律陀大に瞋忿(しんふん)を生じて樹神に語て曰く、我汝に事(つかえ)てより来(このかた)已に年歳を経れども都(すべ)て一の福応を垂るるを見ず今当に七日至心に汝に事うべし。

 若し復験(またしるし)無ければ必ず相焼剪(しょうせん)せん、樹神聞き已(おわっ)て甚だ愁怖(しゅうふ)を懐き四天王に向つて具(つぶさ)に斯(こ)の事を陳ぶ、是に於て四王往て帝釈に白す・帝釈閻浮提の内を観察するに・福徳の人の彼の子と為るに堪ゆる無し即ち梵王に詣で広く上の事を宣ぶ、爾の時に梵王天眼を以て観見するに梵天の当に命終に臨む有り而て之に告げて曰く、汝若し神を降さば宜しく当に彼の閻浮提界の婆羅門の家に生ずべし、梵天対(こたえ)て曰く婆羅門の法悪邪見多し我今其子と為る事能(あたわ)ざるなり。
 梵王復言く、彼の婆羅門大威徳有り閻浮提の人往て生ずるに堪ゆる莫(な)し汝必ず彼(かしこ)に生ぜば吾れ相護りて終に汝をして邪見に入らしめざらん。

梵天曰く諾(だく)・敬て聖教を承けん、是に於て帝釈即樹神に向つて斯の如き事を説く樹神歓喜して尋て其の家に詣で婆羅門に語らく汝今復恨を我れに起す事なかれ郤て後七日当に卿が願を満すべし、七日に至て已に婦身む事有るを覚え十月を満足して一男児を生めり乃至今の迦葉是なり」云云、「時に応じて尼倶律陀大に瞋忿を生ず」等云云、常のごときんば氏神に向いて大瞋恚(しんに)を生ぜん者は今生には身をほろぼし後世には悪道に堕つべし、然りと雖も尼倶律陀長者・氏神に向て大悪口大瞋恚を生じて大願を成就し賢子をまうけ給いぬ、当に知るべし瞋恚は善悪に通ずる者なり。

 今日蓮は去(い)ぬる建長五年癸丑四月二十八日より今年弘安三年太歳庚辰十二月にいたるまで二十八年が間又他事なし、只妙法蓮華経の七字五字を日本国の一切衆生の口に入れんとはげむ計(ばか)りなり。
此れ即母の赤子の口に乳を入れんとはげむ慈悲なり、此れ又時の当らざるにあらず已に仏記の五五百歳に当れり。
天台・伝教の御時は時いまだ来らざりしかども一分の機ある故に少分流布せり、何に況や今は已(すで)に時いたりぬ設(た)とひ機なくして水火をなすともいかでか弘通せざらむ。
只不軽(ふきょう)のごとく大難には値(あ)うとも流布せん事疑なかるべきに、真言・禅・念仏者等の讒奏(ざんそう)に依りて無智の国主等・留難をなす。此を対治すべき氏神・八幡大菩薩・彼等の大科を治せざるゆへに日蓮の氏神を諌暁(かんぎょう)するは道理に背くべしや。
尼倶律陀長者が樹神をいさむるに・異ならず、蘇悉地(そしっち)経に云く「本尊を治罰する事鬼魅(きみ)を治するが如し」等云云。

文の心は経文のごとく所願を成ぜんがために数年が間・法を修行するに成就せざれば本尊を或はしばり或は打ちなんどせよととかれて候、相応和尚の不動明王をしばりけるは此の経文を見たりけるか。

此は他事にはにるべからず日本国の一切の善人は或は戒を持ち或は布施を行じ或は父母等の孝養のために寺塔を建立し、或は成仏得道の為に妻子をやしなうべき財を止めて諸僧に供養をなし候に、諸僧謗法の者たるゆへに謀反の者を知ずしてやど(宿)したるがごとく不孝の者に契(ちぎり)をなせるがごとく今生には災難を招き後生も悪道に堕ち候べきを扶(たす)けんとする身なり。而るを日本国の守護の善神等・彼等にくみして正法の敵となるゆへに此をせむるは経文のごとし道理に任せたり。

我が弟子等が愚案にをもわく我が師は法華経を弘通し給うとてひろまらざる上、大難の来れるは真言は国をほろぼす、念仏は無間地獄・禅は天魔の所為・律僧は国賊との給うゆへなり。例せば道理有る問注(もんじゅう)に悪口のまじわれるがごとしと云云。

日蓮我が弟子に反詰して云く、汝若し爾(しか)らば我が問を答えよ一切の真言師・一切の念仏者・一切の禅宗等に向て南無妙法蓮華経と唱え給えと勧進(かんじん)せば彼等の云く我が弘法大師は法華経と釈迦仏とを・戯論(けろん)・無明の辺域・力者・はき(履)物とりに及ばずと・かかせ給いて候、物の用にあわぬ法華経を読誦せんよりも其の口に我が小呪(しょうじゅ)を一反も見つべし一切の在家の者の云く善導和尚は法華経をば千中無一・法然上人は捨閉閣抛(しゃへいかくほう)・道綽禅師(どうしゃくぜんし)は未有一人得者と定めさせ給へり汝がすすむる南無妙法蓮華経は我が念仏の障りなり我等設(たと)い悪をつくるともよも唱えじ一切の禅宗の云く我が宗は教外別伝と申して一切経の外に伝へたる最上の法門なり一切経は指のごとし禅は月のごとし天台等の愚人は指をまほつて月を亡(うしな)いたり法華経は指なり禅は月なり月を見て後は指は何のせん(詮)か有るべきなんど申す、かくのごとく申さん時はいかにとしてか南無妙法蓮華経の良薬をば彼れ等が口には入るべき。

仏は且(しば)らく阿含(あごん)経を説き給いて後彼の行者を法華経へ入れんと・たばかり給いしに一切の声聞等・只阿含経に著して法華経へ入らざりしをば・いかやうにか・たばから(謀)せ給いし、此をば仏説いて云く「設ひ五逆罪は造るとも五逆の者をば供養すとも罪は仏の種とはなるとも彼れ等が善根は仏種とならじ」とこそ説かせ給しか、小乗・大乗はかわれども同じく仏説なり大が小を破して小を大となすと大を破して法華経に入ると大小は異なれども法華経へ入れんと思う志は是一つなり、されば無量義経に大を破して云く「未顕真実」と、法華経に云く「此の事は為(さだめ)て不可なり」等云云、仏自ら云く「我世に出でて華厳・般若等を説きて法華経をとかずして入涅槃(ねはん)せば愛子に財ををしみ病者に良薬をあたへずして死にたるがごとし仏自ら地獄に堕つべし」と云云、不可と申すは地獄の名なり況や法華経の後・爾前(にぜん)の経に著して法華経へうつらざる者は大王に民の従がはざるがごとし親に子の見(まみ)へざるがごとし、設(たと)い法華経を破せざれども爾前の経経をほむるは法華経をそしるに当たれり、妙楽云く「若し昔を称歎せば豈(あ)に今を毀(そし)るに非ずや」文、又云く「発心せんと欲すと雖も偏円を簡(えら)ばず誓の境を解(さと)らざれば未来法を聞くとも何ぞ能(よ)く謗を免れん」等云云、真言の善無畏・金剛智・不空・弘法・慈覚・智証等は設とい法華経を大日経に相対して勝劣を論ぜずして大日経を弘通すとも滅後に生まれたる三蔵・人師なれば謗法はよも免れ候はじ、何に況や善無畏等の三三蔵は法華経は略説・大日経は広説と同じて而かも法華経の行者を大日経えすかし入れ、弘法等の三大師は法華経の名をかきあげて戯論(けろん)なんどかかれて候大科を明らめずして此の四百余年一切衆生を皆謗法の者となせり、例せば大荘厳仏の末の四比丘が六百万億那由佗(なゆた)の人を皆無間地獄に堕せると、師子音王仏の末の勝意比丘が無量無辺の持戒の比丘・比丘尼・うばそく・うばいを皆阿鼻(あび)大城に導きしと、今の三大師の教化に随いて日本国四十九億九万四千八百二十八人或は云く日本紀に行基の人数に云く男女四十五億八万九千六百五十九人云云の一切衆生又四十九億等の人人四百余年に死して無間地獄に堕ちぬれば其の後他方世界よりは生れて又死して無間地獄に堕ちぬ、かくのごとく堕つる者は大地微塵よりも多し此れ皆三大師の科(とが)ぞかし、此れを日蓮此に大に見ながらいつわりをろかにして申さずば倶(とも)に堕地獄の者となつて一分の科なき身が十方の大阿鼻獄を経(へ)めぐるべし、いかでか身命をすててよばわらざるべき
涅槃経に云く「一切衆生異の苦を受くるは悉く是如来一人の苦なり」等云云、日蓮云く一切衆生の同一苦は悉く是日蓮一人の苦と申すべし。

[諫暁八幡抄 本文]その五に続く




by johsei1129 | 2014-04-07 22:17 | 重要法門(十大部除く) | Trackback | Comments(0)
2014年 04月 06日

月氏国から東に渡ってきた仏法は、日出ずる国・日本から西に広まっていくことを示した書【諫暁八幡抄】三

[諫暁八幡抄 本文]その三
 而るを大菩薩の此の袈裟をはぎかへし給わざるは第一の大科なり、此の大菩薩は法華経の御座にして行者を守護すべき由の起請をかきながら数年が間・法華経の大怨敵を治罰せざる事不思議なる上、たまたま法華経の行者の出現せるを来りて守護こそなさざらめ、我が前にして、国主等の怨(あだ)する事・犬の猿をかみ蛇の蝦(かわず)をのみ鷹の雉(きじ)を師子王の兎を殺すがごとくするを一度もいましめず、設いいましむるやうなれども・いつわりをろかなるゆへに梵釈・日月・四天等のせめを八幡大菩薩かほり給いぬるにや、例せば欽明天皇・敏達(びたつ)天皇・用明天皇・已上三代の大王・物部大連(もののべのおおむらじ)・守屋(もりや)等がすすめに依りて宣旨を下して金銅の釈尊を焼き奉り堂に火を放ち僧尼をせめしかば天より火下(ふり)て内裏(だいり)をやく、其の上日本国の万民とがなくして悪瘡をやみ死ぬること大半に過ぎぬ、結句三代の大王・二人の大臣・其の外多くの王子・公卿等・或は悪瘡或は合戦にほろび給いしがごとし、其の時日本国の百八十(ももやそ)の神の栖(すみ)給いし宝殿皆焼け失せぬ釈迦仏に敵する者を守護し給いし大科なり、又園城寺は叡山(えいざん)已前の寺なれども智証大師の真言を伝えて今に長吏とがう(号)す叡山の末寺たる事疑いなし、而るに山門の得分たる大乗の戒壇を奪い取りて園城寺に立てて叡山に随わじと云云、譬へば小臣が大王に敵し子が親に不幸なるがごとし、かかる悪逆の寺を新羅大明神みだれがわしく守護するゆへに度度・山門に宝殿を焼(やか)る、此(かく)のごとし、今八幡大菩薩は法華経の大怨敵を守護して天火に焼かれ給いぬるか、例せば秦の始皇の先祖・襄王(じょうおう)と申せし王・神となりて始皇等を守護し給いし程に秦の始皇・大慢をなして三皇五帝の墳典(ふんでん)をやき三聖の孝経等を失いしかば沛(はい)公と申す人・剣をもつて大蛇を切り死(ころし)ぬ秦皇の氏神是なり、其の後秦の代ほどなくほろび候いぬ此れも又かくのごとし、安芸(あき)の国いつく島の大明神は平家の氏神なり平家ををごらせし失(とが)に伊勢太神宮・八幡等に神うちに打ち失われて其の後平家ほどなく・ほろび候いぬ此れも又かくのごとし。

 法華経の第四に云く「仏滅度の後能く其の義を解せんは是れ諸の天人世間の眼なり」等云云、日蓮が法華経の肝心たる題目を日本国に弘通し候は諸天・世間の眼にあらずや、眼には五あり所謂・肉眼・天眼・慧眼・法眼・仏眼なり、此の五眼は法華経より出生せさせ給う故に普賢経に云く「此の方等経は是れ諸仏の眼なり諸仏是れに因て五眼を具する事を得給う」等云云、此の方等経と申すは法華経を申すなり、又此の経に云く「人天の福田・応供(おうぐ)の中の最なり」等云云、此等の経文のごとくば妙法蓮華経は人天の眼(まなこ)・二乗・菩薩の眼・諸仏の御眼なり、而るに法華経の行者を怨(あだ)む人は人天の眼をくじる者なり、其の人を罰せざる守護神は一切の人天の眼をくじる者を結構し給う神なり、而るに弘法・慈覚・智証等は正しく書を作りて法華経を無明の辺域にして明の分位に非ず後に望れば戯論(けろん)と作る力者(りきしゃ)に及ばず履者(はきもの)とりにたらずと・かきつけて四百余年、日本国の上(かみ)・一人より下・万民にいたるまで法華経をあなづらせ一切衆生の眼をくじる者を守護し給うはあに八幡大菩薩の結構にあらずや、去ぬる弘長と又去ぬる文永八年九月の十二日に日蓮一分の失なくして南無妙法蓮華経と申す大科に国主のはからいとして八幡大菩薩の御前にひきはらせて一国の謗法の者どもに・わらわせ給いしは・あに八幡大菩薩の大科にあらずや、其のいましめとをぼしきは・ただどしうち(同士打)ばかりなり、日本国の賢王たりし上・第一第二の御神なれば八幡に勝れたる神はよもをはせじ、又偏頗(へんぱ)はよも有らじとは・をもへども一切経並に法華経のをきてのごときんば・この神は大科の神なり、日本六十六箇国二つの島一万一千三十七の寺寺の仏は皆或は画像或は木像或は真言已前の寺もあり或は已後の寺もあり、此等の仏は皆法華経より出生せり、法華経をもつて眼とすべし、所謂「此の方等経は是れ諸仏の眼なり」等云云、妙楽云く「然も此の経は常住仏性を以て咽喉と為し一乗の妙行を以て眼目と為し再生敗種を以て心腑(しんぷ)と為し顕本遠寿(けんぽんおんじゅ)を以て其の命と為す」等云云。

而るを日本国の習い真言師にもかぎらず諸宗一同に仏眼の印をもつて開眼し大日の真言をもつて五智を具すと云云 此等は法華経にして仏になれる衆生を真言の権経にて供養すれば還(かえ)つて仏を死(ころ)し眼をくじり寿命(いのち)を断ち喉(のんど)をさきなんどする人人なり、提婆(だいば)が教主釈尊の身より血を出し阿闍世(あじゃせ)王の彼の人を師として現罰に値(あ)いしにいかでか・をとり候べき、八幡大菩薩は応神天皇・小国の王なり阿闍世王は摩竭(まかつ)大国の大王なり天と人と王と民との勝劣なり、而れども阿闍世王・猶釈迦仏に敵をなして悪瘡身に付き給いぬ、八幡大菩薩いかでか其の科(とが)を脱るべき、去ぬる文永十一年に大蒙古よりよせて日本国の兵(つわもの)を多くほろぼすのみならず八幡の宮殿すでにやかれぬ、其の時何ぞ彼の国の兵を罰し給はざるや、まさに知るべし彼の国の大王は此の国の神に勝れたる事あきらけし、襄王(じょうおう)と申せし神は漢土の第一の神なれども沛公(はいこう)が利劒に切られ給いぬ。

 此れをもつてをもうべし道鏡法師・称徳天皇の心よせと成りて国王と成らんとせし時清丸(きよまろ)・八幡大菩薩に祈請せし時八幡の御託宣に云く「夫れ神に大小好悪有り乃至彼は衆(おお)く我は寡(すくな)し邪は強く正は弱し乃ち当に仏力の加護を仰て為めに皇緒(こうちょ)を紹隆(しょうりゅう)すべし」等云云、当に知るべし八幡大菩薩は正法を力として王法を守護し給いけるなり、叡山・東寺等の真言の邪法をもつて権の大夫殿を調伏せし程に権(ごん)の大夫殿はかたせ給い隠岐(おき)の法皇はまけさせ給いぬ還著於本人(げんちゃくおほんにん)此れなり。

[諫暁八幡抄 本文]その四に続く


by johsei1129 | 2014-04-06 21:00 | 重要法門(十大部除く) | Trackback | Comments(0)
2014年 04月 05日

月氏国から東に渡ってきた仏法は、日出ずる国・日本から西に広まっていくことを示した書【諫暁八幡抄】二

[諫暁八幡抄 本文]その二
然るに月氏より漢土に経を渡せる訳人は一百八十七人なり其の中に羅什(らじゅう)三蔵一人を除きて前後の一百八十六人は純乳に水を加へ薬に毒を入たる人人なり、此の理を弁へざる一切の人師末学等設い一切経を読誦し十二分経を胸に浮べたる様なりとも生死を離る事かたし又現在に一分のしるしある様なりとも天地の知る程の祈(いのり)とは成る可からず。
 魔王・魔民等・守護を加えて法に験(しるし)の有様なりとも終には其の身も檀那も安穏なる可からず、譬ば旧医の薬に毒を雑へて・さしをけるを旧医の弟子等・或は盗み取り或は自然に取りて人の病を治せんが如し、いかでか安穏なるべき。
 
 当世日本国の真言等の七宗並に浄土・禅宗等の諸学者等、弘法・慈覚・智証等の法華経最第一の醍醐に法華第二・第三等の私の水を入れたるを知らず仏説の如くならば・いかでか一切倶失(くしつ)の大科を脱れん。
 大日経は法華経より劣る事七重なり而るを弘法等・顛倒して大日経最第一と定めて日本国に弘通せるは法華経一分の乳に大日経七分の水を入れたるなり、水にも非ず乳にも非ず大日経にも非ず法華経にも非ず、而も法華経に似て大日経に似たり。

 大覚世尊此の事を涅槃経に記して云く「我が滅後に於て正法将に滅尽せんと欲す、爾の時に多く悪を行ずる比丘有らん、乃至牧牛(もくご)女の如く乳を売るに多利を貪らんと欲するを為(もっ)ての故に二分の水を加う、乃至此の乳水多し、爾の時に是の経閻浮提(えんぶだい)に於て当に広く流布すべし、是の時に当に諸の悪比丘有て是の経を鈔略(しょうりゃく)し分て多分と作し能く正法の色香美味を滅すべし、是の諸の悪人復是くの如き経典を読誦すと雖も如来の深密の要義を滅除せん、乃至前を鈔(とり)て後に著(つ)け後を鈔て前に著け前後を中に著け中を前後に著けん当に知るべし是くの如きの諸の悪比丘は是れ魔の伴侶なり」等云云。

 今日本国を案ずるに代始まりて已に久しく成りぬ旧き守護の善神は定めて福も尽き寿も減じ威光勢力も衰えぬらん、仏法の味をなめてこそ威光勢力も増長すべきに仏法の味は皆たが(違)ひぬ齢はたけぬ争でか国の災を払い氏子をも守護すべき、其の上謗法の国にて候を氏神なればとて大科をいましめずして守護し候へば仏前の起請(きしょう)を毀(やぶ)る神なり、しかれども氏子なれば愛子の失(とが)のやうに・すてずして守護し給いぬる程に法華経の行者をあだむ国主・国人等を対治を加えずして守護する失に依りて梵釈等のためには八幡等は罰せられ給いぬるか此事は一大事なり秘すべし秘すべし、有る経の中に仏・此の世界と他方の世界との梵釈・日月・四天・竜神等を集めて我が正像末の持戒・破戒・無戒等の弟子等を第六天の魔王・悪鬼神等が人王・人民等の身に入りて悩乱せんを見乍(なが)ら聞き乍ら治罰せずして須臾(しゅゆ)もすごすならば必ず梵釈等の使をして四天王に仰せつけて治罰を加うべし、若し氏神・治罰を加えずば梵釈・四天等も守護神に治罰を加うべし梵釈又かくのごとし、梵釈等は必ず此の世界の梵釈・日月・四天等を治罰すべし、若し然らずんば三世の諸仏の出世に漏れ永く梵釈等の位を失いて無間大城に沈むべしと釈迦多宝十方の諸仏の御前にして起請を書き置れたり。

 今之を案ずるに日本小国の王となり神となり給うは小乗には三賢の菩薩・大乗には十信・法華には名字五品の菩薩なり、何なる氏神有りて無尽の功徳を修すとも法華経の名字を聞かず一念三千の観法を守護せずんば退位の菩薩と成りて永く無間大城に沈み候べし、故に扶桑(ふそう)記に云く「又伝教大師八幡大菩薩の奉為(おんため)に神宮寺に於て、自ら法華経を講ず、乃ち聞き竟(おわり)て大神託宣すらく我法音を聞かずして久しく歳年を歴(へ)る幸い和尚に値遇して正教を聞くことを得たり兼て我がために種種の功徳を修す至誠随喜す何ぞ徳を謝するに足らん、兼て我が所持の法衣有りと即ち託宣の主自ら宝殿を開いて手ら紫の袈裟(けさ)一つ紫の衣一を捧げ和尚に奉上す大悲力の故に幸に納受を垂れ給えと、是の時に禰宜(ねぎ)・祝(はぶり)等各歎異して云く元来是の如きの奇事を見ず聞かざるかな、此の大神施し給う所の法衣今山王院に在るなり」云云、今謂く八幡は人王第十六代・応神天皇なり其の時は仏経無かりしかば此に袈裟衣有るべからず、人王第三十代欽明天皇の治三十二年に神と顕れ給い其れより已来弘仁五年までは禰宜・祝等次第に宝殿を守護す、何(いずれ)の王の時・此の袈裟を納めけると意(こころ)へし而して禰宜等云く元来見ず聞かず等云云、此の大菩薩いかにしてか此の袈裟・衣は持ち給いけるぞ不思議なり不思議なり。

 又欽明より已来弘仁五年に至るまでは王は二十二代・仏法は二百六十余年なり、其の間に三論・成実・法相・倶舎・華厳・律宗・禅宗等の六宗七宗・日本国に渡りて八幡大菩薩の御前にして経を講ずる人人・其の数を知らず、又法華経を読誦する人も争でか無からん、又八幡大菩薩の御宝殿の傍には神宮寺と号して法華経等の一切経を講ずる堂・大師より已前に是あり、其の時定めて仏法を聴聞し給いぬらん何ぞ今始めて我法音を聞かずして久しく年歳を歴る等と託宣し給ふべきや、幾(いくば)くの人人か法華経・一切経を講じ給いけるに何ぞ此の御袈裟・衣をば進らさせ給はざりけるやらん、当に知るべし伝教大師已前は法華経の文字のみ読みけれども其の義はいまだ顕れざりけるか、去ぬる延暦二十年十一月の中旬の比・伝教大師比叡山にして南都・七大寺の六宗の碩徳(せきとく)・十余人を奉請して法華経を講じ給いしに、弘世(ひろよ)・真綱(まつな)等の二人の臣下此の法門を聴聞してなげいて云く「一乗の権滞を慨(なげ)き三諦の未顕を悲しむ」又云く「長幼三有の結を摧破(さいは)し猶未だ歴劫(りゃっこう)の轍(てつ)を改めず」等云云、其の後延暦二十一年正月十九日に高雄寺(たかおでら)に主上(しゅじょう)・行幸ならせ給いて六宗の碩徳と伝教大師とを召し合はせられて宗の勝劣を聞し食ししに南都の十四人皆口(くち)を閉ぢて鼻のごとくす、後に重ねて怠状(たいじょう)を捧げたり、其の状に云く「聖徳の弘化より以降(このか)た今に二百余年の間・講ずる所の経論其の数多し、彼れ此れ理を争い其の疑未だ解けず而も此の最妙の円宗猶未だ闡揚(せんよう)せず」等云云、此れをもつて思うに伝教大師已前には法華経の御心いまだ顕れざりけるか、八幡大菩薩の見ず聞かずと御託宣有りけるは指(さす)なり指なり白(あきらか)なり白なり。

 法華経第四に云く「我が滅度の後に能(よ)く竊(ひそか)に一人の為にも法華経を説かん、当に知るべし是の人は則ち如来の使なり乃至如来則ち衣を以て之れを覆(おお)い給うべし」等云云、当来の弥勒仏(みろくぶつ)は法華経を説き給うべきゆへに釈迦仏は大迦葉(かしょう)尊者を御使として衣を送り給ふ、又伝教大師は仏の御使として法華経を説き給うゆへに八幡大菩薩を使として衣を送り給うか、又此の大菩薩は伝教大師已前には加水の法華経を服してをはしましけれども先生(せんしょう)の善根に依つて大王と生れ給いぬ、其の善根の余慶(よけい)・神と顕れて此の国を守護し給いけるほどに今は先生の福の余慶も尽きぬ、正法の味も失せぬ謗法(ほうぼう)の者等・国中に充満して年久しけれども日本国の衆生に久く仰がれてなじみ(親近)せし大科あれども捨てがたく・をぼしめし、老人の不幸の子を捨てざるが如くして天のせめに合い給いぬるか、又此の袈裟は法華経最第一と説かん人こそ・かけまいらせ給うべきに伝教大師の後は第一の座主(ざす)義真和尚・法華最第一の人なれば・かけさせ給う事其の謂(いわれ)あり、第二の座主・円澄大師は伝教大師の御弟子なれども又弘法大師の弟子なり・すこし謗法ににたり、此の袈裟の人には有らず、第三の座主・円仁慈覚大師は名は伝教大師の御弟子なれども心は弘法大師の弟子・大日経第一・法華経第二の人なり、此の袈裟は一向にかけがたし、設(たと)いかけたりとも法華経の行者にはあらず、其の上又当世の天台座主は一向真言の座主なり、又当世の八幡の別当は或は園城寺の長吏或は東寺の末流なり、此れ等は遠くは釈迦・多宝・十方の諸仏の大怨敵(おんてき)・近くは伝教大師の讐敵(しゅうてき)なり、譬へば提婆達多(だいばだった)が大覚世尊の御袈裟をかけたるがごとし、又猟師が仏衣を被(き)て師子の皮をは(剥)ぎしがごとし、当世叡山の座主は伝教大師の八幡大菩薩より給(たび)て候し御袈裟をかけて法華経の所領を奪ひ取りて真言の領となせり、譬へば阿闍世王の提婆達多を師とせしがごとし。

[諫暁八幡抄 本文]その三に続く




by johsei1129 | 2014-04-05 21:32 | 重要法門(十大部除く) | Trackback | Comments(0)
2014年 04月 04日

月氏国から東に渡ってきた仏法は、日出ずる国・日本から西に広まっていくことを示した書【諫暁八幡抄】一

【かんぎょうはちまんしょう】
英文版
■出筆時期:弘安三年十二月(西暦1280年) 五十九歳御作
■出筆場所:身延山 草庵にて述作
■出筆の経緯:ご自身滅後の後の布教を託す、門下の弟子檀那等にあてた書。
本書の最後に『月は西より東に向へり月氏の仏法の東へ流るべき相なり、日は東より出づ日本の仏法の月氏へかへるべき瑞相なり、月は光あきらかならず在世は但八年なり、日は光明・月に勝れり五五百歳の長き闇を照すべき瑞相なり、仏は法華経謗法の者を治し給はず在世には無きゆへに、末法には一乗の強敵充満すべし不軽菩薩の利益此れなり、各各我が弟子等はげませ給へはげませ給へ』と書き記している。この意味は、仏法は月子国(インド)から東に向かい、末法に入り日出づ国である扶桑国(日本)に渡ってきた。このことは末法万年に亘り、太陽が東からでて西に向かうように、日本から西方に仏法が広まっていく瑞相であるとして、弟子たちに日蓮亡き後、末法万年に亘って仏法を世界に広めることに務めるよう励まされている。

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■ご真筆: 大石寺所蔵。

[諫暁八幡抄 本文]その一
 夫れ馬は一歳二歳の時は設(たと)いつがいのびまろすね(円脛)にすねほそくうでのびて候へども病あるべしとも見えず、而れども七八歳なんどになりて身もこへ血ふとく上かち下をくれ候へば小船に大石をつめるがごとく小き木に大なる菓(このみ)のなれるがごとく多くのやまい出来して人の用にもあわず力もよわく寿(いのち)もみじかし、天神等も又かくのごとし成劫(じょうこう)の始には先生の果報いみじき衆生生れ来る上・人の悪も候はねば身の光もあざやかに心もいさぎよく日月のごとくあざやかに師子象のいさみをなして候いし程に成劫やうやくすぎて住劫になるままに前の天神等は年かさなりて下旬の月のごとし今生れ来れる天神は果報衰減し下劣の衆生多分は出来す、然る間一天に三災やうやくをこり四海に七難粗出現せしかば一切衆生始めて苦と楽とををもい知る。

 此の時仏出現し給いて仏教と申す薬を天と人と神とにあたへ給いしかば燈(ともしび)に油をそへ老人に杖をあたへたるがごとく天神等還(かえ)つて威光をまし勢力を増長せし事成劫のごとし仏教に又五味のあぢわひ分れたり在世の衆生は成劫ほどこそなかりしかども果報いたうをとろへぬ衆生なれば五味の中に何の味をもなめて威光勢力をもまし候き、仏滅度の後正像二千年過て末法になりぬれば本の天も神も阿修羅・大竜等も年もかさなりて身もつかれ心もよはくなり又今生れ来る天人・修羅等は或は小果報或は悪天人等なり、小乗・権大乗等の乳・酪(らく)・生蘇(しょうそ)・熟蘇味(じゅくそみ)を服すれども老人に麤食(そじき)をあたへ高人に麦飯等を奉るがごとし、而るを当世此を弁(わきま)えざる学人等古にならいて日本国の一切の諸神等の御前にして阿含経・方等・般若・華厳・大日経等を法楽し倶舎(ぐしゃ)・成実(じょうじつ)・律・法相・三論・華厳・浄土・禅等の僧を護持の僧とし給える、唯老人に麤食を与へ小児に強飯(こわきはん)をくくめるがごとし、何に況や今の小乗経と小乗宗と大乗経と大乗宗とは古の小大乗の経宗にはあらず、天竺より仏法・漢土へわたりし時・小大の経経は金言に私言まじはれり、宗宗は又天竺・漢土の論師・人師或は小を大とあらそい或は大を小という或は小に大をかきまじへ或は大に小を入れ或は先きの経を後とあらそい或は後を先とし或は先を後につけ或は顕経を密経といひ密経を顕経という。譬へば乳に水を入れ薬に毒を加うるがごとし。

 涅槃経に仏・未来を記して云く「爾の時に諸の賊醍醐(だいご)を以ての故に之に加うるに水を以てす水を以てする事多きが故に乳酪醍醐一切倶(とも)に失す」等云云、阿含小乗経は乳味のごとし方等・大集経・阿弥陀経・深密経・楞伽経・大日経等は酪味のごとし、般若経等は生蘇味の如く華厳経等は熟蘇味の如く法華・涅槃経等は醍醐味の如し、設い小乗経の乳味なりとも仏説の如くならば争(いか)でか一分の薬とならざるべき、況や諸の大乗経をや何に況や法華経をや。

[諫暁八幡抄 本文]その二に続く





by johsei1129 | 2014-04-04 22:48 | 重要法門(十大部除く) | Trackback | Comments(3)