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日蓮大聖人『御書』解説

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2014年 04月 28日

人の心を貫く妙法蓮華経は宇宙に遍満し一体であると明した【三世諸仏総勘文教相廃立】三

[三世諸仏総勘文教相廃立 本文] その三

 安楽行品には末法に入つて近来(このごろ)・初心の凡夫・法華経を修行して成仏す可き様を説き置かれしなり、身も安楽行なり口も安楽行なり意も安楽行なり自行の三業も誓願安楽の化他の行も同じく後の末世に於て法の滅せんと欲する時と云云、此は近来の時なり已上四所に有り薬王品には二所に説かれ勧発品には三所に説かれたり、皆近来を指して譲り置かれたる正しき文書を用いずして凡夫の言に付き愚癡の心に任せて三世諸仏の譲り状に背き奉り永く仏法に背かば三世の諸仏・何に本意無く口惜しく心憂く歎き悲しみ思食すらん、涅槃経に云く「法に依つて人に依らざれ」と云云、痛ましいかな悲しいかな末代の学者仏法を習学して還つて仏法を滅す、弘決に之を悲しんで曰く「此の円頓を聞いて崇重せざることは良に近代大乗を習う者の雑濫に由るが故なり況や像末情澆(こころ・うす)く信心寡薄(すくなく)・円頓の教法蔵に溢れ函(はこ)に盈(み)つれども暫くも思惟せず便ち目を瞑(ふさ)ぐに至る徒(いたず)らに生し徒らに死す一に何ぞ痛ましき哉」已上、同四に云く「然も円頓の教は本と凡夫に被むらしむ若し凡を益するに擬せずんば仏・何ぞ自ら法性の土に住して法性の身を以て諸の菩薩の為に此の円頓を説かずして何ぞ諸の法身の菩薩の与に凡身を示し此の三界に現じ給うことを須いんや、乃至一心凡に在れば即ち修習す可し」已上。

 所詮、己心と仏身と一なりと観ずれば速かに仏に成るなり、故に弘決に又云く「一切の諸仏己心は仏心と異ならずと観し給うに由るが故に仏に成ることを得る」と
已上。此れを観心と云う実に己心と仏心と一心なりと悟れば臨終を礙(さ)わる可き悪業も有らず生死に留まる可き妄念も有らず、一切の法は皆是れ仏法なりと知りぬれば教訓す可き善知識も入る可らず思うと思い言うと言い為すと為し儀(ふるま)いと儀う行住坐臥(ぎょうじゅうざが)の四威儀の所作は皆仏の御心と和合して一体なれば過も無く障りも無き自在の身と成る此れを自行と云う、此くの如く自在なる自行の行を捨て跡形も有らざる無明妄想なる僻思の心に住して三世の諸仏の教訓に背き奉れば冥きより冥きに入り永く仏法に背くこと悲しむ可く悲しむ可し、只今打ち返えし思い直し悟り返さば即身成仏は我が身の外には無しと知りぬ。

 我が心の鏡と仏の心の鏡とは只一鏡なりと雖も、我等は裏に向つて我が性の理を見ず、故に無明と云う。如来は面に向つて我が性の理を見たまえり、故に明と無明とは其の体、只一なり。
 鏡は一の鏡なりと雖も向い様に依つて明昧(みょうまい)の差別有り、鏡に裏有りと雖も面の障りと成らず、只向い様に依つて得失の二つ有り。相即融通して一法の二義なり、化他の法門は鏡の裏に向うが如く、自行の観心は鏡の面に向うが如し。化他の時の鏡も自行の時の鏡も、我が心性の鏡は只一にして替ること無し。鏡を即身に譬え、面に向うをば成仏に譬え、裏に向うをば衆生に譬う。
 鏡に裏有るをば性悪を断ぜざるに譬え、裏に向う時・面の徳無きをば化他の功徳に譬うるなり。衆生の仏性の顕れざるに譬うるなり。自行と化他とは得失の力用なり。


玄義の一に云く「薩婆悉達(さるばしった)・祖王の弓を彎(ひい)て満るを名けて力と為す七つの鉄鼓(てっく)を中(やぶ)り一つの鉄囲山(てっちせん)を貫ぬき地を洞(とお)し水輪に徹(とお)る如きを名けて用(ゆう)と為す、自行の力用なり。諸の方便教は力用の微弱なること凡夫の弓箭の如し、何となれば昔の縁は化他の二智を禀けて理を照すこと遍からず、信を生ずること深からず、疑を除くこと尽さず已上化他。

 今の縁は自行の二智を禀(う)けて仏の境界を極め法界の信を起し、円妙の道を増し、根本の惑を断じ、変易(へんにゃく)の生を損す。
但だ生身及び生身得忍の両種の菩薩、倶(とも)に益するのみに非ず、法身と法身の後心との両種の菩薩も亦以て倶に益す、化の功広大に利潤弘深(りにんぐじん)なる蓋(けだ)しこの経の力用なり、已上自行」

 自行と化他との力用勝劣分明なること勿論なり、能く能く之を見よ、一代聖教を鏡に懸(かけ)たる教相なり。
極仏境界とは十如是の法門なり、十界に互に具足して十界・十如の因果・権実の二智・二境は我が身の中に有つて一人も漏るること無しと通達し解了し、仏語を悟り極むるなり。起法界信とは十法界を体と為し十法界を心と為し十法界を形と為したまえりと本覚の如来は我が身の中に有りけりと信ず、増円妙道とは自行と化他との二は相即円融の法なれば珠と光と宝との三徳は只一の珠の徳なるが如し、片時も相離れず仏法に不足無し、一生の中に仏に成るべしと慶喜(きょうき)の念を増すなり。

 断根本惑とは一念無明の眠を覚まして本覚の寤に還れば生死も涅槃も倶に昨日の夢の如く跡形も無きなり、損変易生とは同居土の極楽と方便土の極楽と実報土の極楽との三土に往生せる人・彼の土にて菩薩の道を修行して仏に成らんと欲するの間・因は移り果は易りて次第に進み昇り劫数を経て成仏の遠きを待つを変易の生死と云うなり。下位を捨つるを死と云い上位に進むをば生と云う是くの如く変易する生死は浄土の苦悩にて有るなり、

爰(ここ)に凡夫の我等が此の穢土に於て法華を修行すれば、十界互具・法界一如なれば浄土の菩薩の変易の生は損し、仏道の行は増して変易の生死を一生の中に促(つづ)めて仏道を成ず故に、生身及び生身得忍の両種の菩薩・増道損生するなり。
 法身の菩薩とは生身を捨てて実報土に居するなり。後心の菩薩とは等覚の菩薩なり、但し迹門には生身及び生身得忍の菩薩を利益するなり、本門には法身と後身との菩薩を利益す。

 但し今は迹門を開して本門に摂めて一の妙法と成す故に、凡夫の我等穢土の修行の行の力を以て浄土の十地、等覚の菩薩を利益する行なるが故に、化の功広大なり(化他の徳用)、利潤弘深(自行の徳用)円頓の行者は自行と化他と一法をも漏さず一念に具足して横に十方法界に遍するが故に弘きなり。
 竪には三世に亘つて法性の淵底を極むるが故に深きなり、此の経の自行の力用、此くの如し。
化他の諸経は自行を具せざれば鳥の片翼を以て空を飛ばざるが如し、故に成仏の人も無し。

 今、法華経は自行・化他の二行を開会して不足無きが故に、鳥の二翼を以て飛ぶに障り無きが如く成仏滞(とどこお)り無し。

 薬王品には十喩を以て自行と化他との力用の勝劣を判ぜり。第一の譬に云く、諸経は諸水の如く法華は大海の如し云云 取意。、実に自行の法華経の大海には化他の諸経の衆水を入るること、昼夜に絶えず入ると雖も増ぜず減ぜず不可思議の徳用を顕す。

 諸経の衆水は片時の程も法華経の大海を納るること無し、自行と化他との勝劣是くの如し、一を以て諸(しょ)を例せよ、上来の譬喩は皆仏の所説なり、人の語を入れず此の旨を意得れば、一代聖教、鏡に懸けて陰り無し。此の文釈を見て、誰の人か迷惑せんや、三世の諸仏の総勘文なり、敢て人の会釈を引き入る可からず、三世諸仏の出世の本懐なり、一切衆生・成仏の直道なり。

 四十二年の化他の経を以て立る所の宗宗は華厳・真言・達磨・浄土・法相・三論・律宗・倶舎・成実等の諸宗なり、此等は皆悉く法華より已前の八教の中の教なり、皆是方便なり
兼・但・対・帯の方便誘引なり、三世諸仏の説教の次第なり此の次第を糾して法門を談ず、若し次第に違わば仏法に非ざるなり、一代教主の釈迦如来も三世諸仏の説教の次第を糾して、一字も違わず我も亦是くの如しとて・経に云く「三世諸仏の説法の儀式の如く我も今亦是くの如く無分別の法を説く」已上。

 若し之に違えば永く三世の諸仏の本意に背く、他宗の祖師各我が宗を立て法華宗と諍うこと誤りの中の誤り迷いの中の迷いなり。

 徴佗学(ちょうたがく)の決に之を破して云く山王院「凡そ八万法蔵・其の行相を統(す)ぶるに四教を出でず頭辺(はじめ)に示すが如し蔵通別円は即ち声聞・縁覚・菩薩・仏乗なり真言・禅門・華厳・三論・唯識・律業・成倶(じょうく)の二論等の能所の教理争でか此の四を過ぎん若し過ぐると言わば豈外邪(あにげじゃ)に非ずや若し出でずと言わば便ち他の所期を問い得よ即ち四乗の果なり、然して後に答に随つて極理を推(たず)ね徴(せ)めよ我が四教の行相を以て並べ検(かんが)えて決定せよ彼の所期の果に於て若し我と違わば随つて即ち之を詰めよ、且く華厳の如きは五教に各各に修因・向果有り初・中・後の行・一ならず一教一果是れ所期なるべし若し蔵通別円の因と果とに非ざれば是れ仏教ならざるのみ、三種の法輪・三時の教等・中に就て定む可し汝何者を以てか所期の乗と為るや若し仏乗なりと言わば未だ成仏の観行を見ず若し菩薩と言わば此れ亦即離の中道の異なるなり、汝正しく何れを取るや設し離の辺を取らば果として成ず可き無し、如(も)し即是を要せば仏に例して之を難ぜよ謬つて真言を誦すとも三観一心の妙趣を会せずんば恐くは別人に同じて妙理を証せじ所以に他の所期の極を逐うて理に準じて(我が宗の理なり)徴(せむ)べし、因明の道理は外道と対す多くは小乗及以び別教に在り若し法華・華厳・涅槃等の経に望むれば接引門(しょういんもん)なり権(か)りに機に対して設けたり終に以て引進するなり邪小の徒をして会して真理に至らしむるなり所以に論ずる時は四依撃目(きゃくもく)の志を存して之を執着すること莫れ又須らく他の義を将(も)つて自義に対検して随つて是非を決すべし執して之を怨むこと莫れ大底・他は多く三教に在り円旨至つて少きのみ」先徳大師の所判是の如し、諸宗の所立鏡に懸けて陰り無し末代の学者何ぞ之を見ずして妄りに教門を判ぜんや大綱の三教を能く能く学す可し、頓と漸と円とは三教なり是れ一代聖教の総の三諦なり頓・漸の二は四十二年の説なり円教の一は八箇年の説なり合して五十年なり此の外に法無し何に由つてか之に迷わん、衆生に有る時には此れを三諦と云い仏果を成ずる時には此れを三身と云う一物の異名なり之を説き顕すを一代聖教と云い之を開会(かいえ)して只一の総の三諦と成ずる時に成仏す此を開会と云い此を自行と云う、又他宗所立の宗宗は此の総の三諦を分別して八と為す各各に宗を立つるに依つて円満の理を闕いて成仏の理無し是の故に余宗には実の仏無きなり故に之を嫌う意は不足なりと嫌うなり。

 円教を取つて一切諸法を観ずること円融・円満して十五夜の月の如く不足無く、満足し究竟すれば善悪をも嫌わず折節をも撰ばず静処をも求めず人品をも択(えら)ばず、一切諸法は皆是れ仏法なりと知りぬれば諸法を通達す即ち非道を行うとも仏道を成ずるが故なり、天地水火風は是れ五智の如来なり一切衆生の身心の中に住在して片時も離るること無きが故に世間と出世と和合して心中に有つて心外には全く別の法無きなり故に之を聞く時立所(たちどころ)に速かに仏果を成ずること滞り無き道理至極なり。

 総の三諦とは譬えば珠と光と宝との如し此の三徳有るに由つて如意宝珠と云う故に総の三諦に譬う、若し亦珠の三徳を別別に取り放さば何の用にも叶う可からず隔別(きゃくべつ)の方便教の宗宗も亦是くの如し、珠をば法身に譬え光をば報身に譬え宝をば応身に譬う、此の総の三徳を分別して宗を立つるを不足と嫌うなり之を丸じて一と為すを総の三諦と云う、此の総の三諦は三身即一の本覚の如来なり又寂光をば鏡に譬え、同居と方便と実報の三土をば鏡に遷る像に譬う、四土も一土なり三身も一仏なり今は此の三身と四土と和合して仏の一体の徳なるを寂光(じゃっこう)の仏と云う、寂光の仏を以て円教の仏と為し円教の仏を以て寤の実仏と為す余の三土の仏は夢中の権仏なり、此れは三世の諸仏の只同じ語に勘文し給える総の教相なれば人の語も入らず会釈も有らず、若し之に違わば三世の諸仏に背き奉る大罪の人なり天魔外道なり永く仏法に背くが故に、之を秘蔵して他人には見せざれ若し秘蔵せずして妄りに之を披露せば仏法に証理無く二世に冥加無からん、謗ずる人出来せば三世の諸仏に背くが故に二人乍(なが)ら倶に悪道に堕んと識るが故に之を誡むるなり、能く能く秘蔵して深く此の理(ことわり)を証し三世の諸仏の御本意に相い叶い二聖・二天・十羅刹の擁護を蒙むり、滞り無く上上品の寂光の往生を遂げ須臾の間に九界生死の夢の中に還り来つて身を十方法界の国土に遍じ、心を一切有情の身中に入れて内よりは勧発し外よりは引導し内外相応し因縁和合して自在神通の慈悲の力を施し、広く衆生を利益すること滞り有る可からず。

三世の諸仏は此れを一大事の因縁と思食(おぼしめ)して世間に出現し給えり、一とは中道なり法華なり大とは空諦なり華厳なり、事とは仮諦なり・阿含・方等・般若なり、已上一代の総の三諦なり、之を悟り知る時仏果を成ずるが故に出世の本懐成仏の直道なり因とは一切衆生の身中に総の三諦有つて常住不変なり此れを総じて因と云うなり、縁とは三因仏性は有りと雖も善知識の縁に値わざれば悟らず知らず顕れず善知識の縁に値えば必ず顕るるが故に縁と云うなり、然るに今此の一と大と事と因と縁との五事和合して値い難き善知識の縁に値いて五仏性を顕さんこと何の滞りか有らんや、春の時来りて風雨の縁に値いぬれば無心の草木も皆悉く萠え出生して華敷(はなさ)き栄えて世に値う気色なり、秋の時に至りて月光の縁に値いぬれば草木皆悉く実成熟して一切の有情を養育し寿命を続き長養し終に成仏の徳用を顕す、之を疑い之を信ぜざる人有る可しや、無心の草木すら猶以て是くの如し、何に況や人倫に於てをや、我等は迷の凡夫なりと雖も一分の心も有り解(げ)も有り善悪も分別し折節を思知る、然るに宿縁に催されて生を仏法流布の国土に受けたり善知識の縁に値いなば因果を分別して成仏す可き身を以て善知識に値うと雖も猶草木にも劣つて身中の三因仏性を顕さずして黙止せる謂れ有る可きや、此の度必ず必ず生死の夢を覚まし本覚の寤に還つて生死の紲(きづな)を切る可し、今より已後は夢中の法門を心に懸く可からざるなり、三世の諸仏と一心と和合して妙法蓮華経を修行し障り無く開悟す可し、自行と化他との二教の差別は鏡に懸けて陰り無し、三世の諸仏の勘文是くの如し、秘す可し秘す可し。

弘安二年己卯十月 日                  日蓮 花押









by johsei1129 | 2014-04-28 20:03 | 血脈・相伝・講義 | Trackback | Comments(0)
2014年 04月 25日

人の心を貫く妙法蓮華経は宇宙に遍満し一体であると明した【三世諸仏総勘文教相廃立】二

[三世諸仏総勘文教相廃立 本文] その二
 二に自行の法とは是れ法華経八箇年の説なり、是の経は寤(うつつ)の本心を説き給う唯衆生の思い習わせる夢中の心地なるが故に夢中の言語を借りて寤の本心を訓(おしう)る故に語は夢中の言語なれども意は寤の本心を訓ゆ法華経の文と釈との意此くの如し。

 之を明め知らずんば経の文と釈の文とに必ず迷う可きなり、但し此の化他の夢中の法門も寤の本心に備われる徳用の法門なれば、夢中の教を取つて寤の心に摂むるが故に四十二年の夢中の化他方便の法門も、妙法蓮華経の寤の心に摂まりて心の外には法無きなり此れを法華経の開会とは云うなり。

 譬えば衆流を大海に納むるが如きなり仏の心法妙・衆生の心法妙と此の二妙を取つて己心に摂むるが故に、心の外に法無きなり。己心と心性と心体との三は己身の本覚の三身如来なり是を経に説いて云く「如是相応身如来、如是性報身如来、如是体法身如来」此れを三如是と云う、此の三如是の本覚の如来は十方法界を身体と為し十方法界を心性と為し十方法界を相好(そうごう)と為す是の故に我が身は本覚三身如来の身体なり、法界に周編して一仏の徳用なれば一切の法は皆是仏法なりと説き給いし
時、其の座席に列りし諸の四衆・八部・畜生・外道等一人も漏れず皆悉く妄想の僻目(ひがめ)・僻思(ひがおもい)・立所(たちどころ)に散止して本覚の寤に還つて皆仏道を成ず。

 仏は寤の人の如く衆生は夢見る人の如し、故に生死の虚夢を醒して本覚の寤に還るを即身成仏とも平等大慧とも無分別法とも皆成仏道とも云う只一つの法門なり。
 十方の仏土は区(まちまち)に分れたりと雖も通じて法は一乗なり、方便無きが故に無分別法なり、十界の衆生は品品に異りと雖も実相の理(ことわり)は一なるが故に無分別なり、百界千如・三千世間の法門殊なりと雖も十界互具するが故に無分別なり。夢と寤と虚と実と各別異なりと雖も一心の中の法なるが故に無分別なり。

 過去と未来と現在とは三なりと雖も一念の心中の理なれば無分別なり、一切経の語は夢中の語とは、譬えば扇と樹との如し法華経の寤の心を顕す言とは譬えば月と風との如し、故に本覚の寤の心の月輪の光は無明の闇を照し実相般若の智慧の風は妄想の塵を払う故に夢の語の扇と樹とを以て寤の心の月と風とを知らしむ是の故に夢の余波を散じて寤の本心に帰せしむるなり、故に止観に云く「月・重山に隠るれば扇を挙げて之に類し風大虚(たいこ)に息(や)みぬれば樹を動かして之を訓ゆるが如し」文、弘決に云く「真常性の月煩悩の山に隠る煩悩一に非ず故に名けて重と為す円音教の風は化を息めて寂に帰す寂理無礙なること猶大虚の如し四依の弘教は扇と樹との如し乃至月と風とを知らしむるなり已上、夢中の煩悩の雲・重畳せること山の如く其の数八万四千の塵労にて心性本覚の月輪を隠す扇と樹との如くなる経論の文字言語の教を以て月と風との如くなる本覚の理を覚知せしむる聖教なり故に文と語とは扇と樹との如し」文、上釈は一往の釈とて実義に非ざるなり月の如くなる妙法の心性の月輪と風の如くなる我が心の般若の慧解とを訓え知らしむるを妙法蓮華経と名く、故に釈籤(しゃくせん)に云く「声色(しょうしき)の近名(ごんみょう)を尋ねて無相の極理に至る」と已上。

 声色の近名とは扇と樹との如くなる夢中の一切経論の言説なり。無相の極理とは月と風との如くなる、寤の我が身の心性の寂光の極楽なり。
 此の極楽とは十方法界の正報の有情と十方法界の依報の国土と和合して、一体三身即一なり、四土不二にして法身の一仏なり。十界を身と為すは法身なり、十界を心と為すは報身なり、十界を形と為すは応身なり。
 十界の外に仏無し仏の外に十界無くして依正不二(えしょうふに)なり、身土不二なり、一仏の身体なるを以て寂光土と云う。是の故に無相の極理とは云うなり。

 生滅無常の相を離れたるが故に無相と云うなり法性(ほっしょう)の淵底(えんでい)・玄宗の極地なり故に極理と云う、此の無相の極理なる寂光の極楽は一切有情の心性の中に有つて清浄無漏(むろ)なり之を名けて妙法の心蓮台とは云うなり、是の故に心外無別法と云う、此れを一切法は皆是仏法なりと通達解了すとは云うなり。

 生と死と二つの理は生死の夢の理なり妄想なり顛倒なり本覚の寤を以て我が心性を糾せば生ず可き始めも無きが故に死す可き終りも無し既に生死を離れたる心法に非ずや、劫火にも焼けず水災にも朽ちず剣刀にも切られず弓箭にも射られず芥子の中に入るれども芥子も広からず心法も縮まらず虚空の中に満つれども虚空も広からず心法も狭からず善に背くを悪と云い悪に背くを善と云う、故に心の外に善無く悪無し此の善と悪とを離るるを無記と云うなり、善悪無記・此の外には心無く心の外には法無きなり故に善悪も浄穢も凡夫・聖人も天地も大小も東西も南北も四維も上下も言語道断し心行所滅す、心に分別して思い言い顕す言語なれば心の外には分別も無分別も無し、言と云うは心の思いを響かして声を顕すを云うなり凡夫は我が心に迷うて知らず覚らざるなり、仏は之を悟り顕わして神通と名くるなり神通とは神(たましい)の一切の法に通じて礙(さわり)無きなり。

 此の自在の神通は一切の有情の心にて有るなり、故に狐狸も分分に通を現ずること皆心の神の分分の悟なり、此の心の一法より国土世間も出来する事なり、一代聖教とは此の事を説きたるなり此れを八万四千の法蔵とは云うなり是れ皆悉く一人の身中の法門にて有るなり、然れば八万四千の法蔵は我身一人の日記文書なり、此の八万法蔵を我が心中に孕み持ち懐き持ちたり我が身中の心を以て、仏と法と浄土とを我が身より外に思い願い求むるを迷いとは云うなり此の心が善悪の縁に値うて善悪の法をば造り出せるなり、

華厳経に云く「心は工(たくみ)なる画師(えし)の種種の五陰を造るが如く一切世間の中に法として造らざること無し心の如く仏も亦爾なり仏の如く衆生も然なり三界唯一心なり心の外に別の法無し心仏及び衆生・是の三差別無し」已上、無量義経に云く「無相・不相の一法より無量義を出生す」已上、無相・不相の一法とは一切衆生の一念の心是なり、文句に釈して云く「生滅無常の相無きが故に無相と云うなり二乗の有余・無余の二つの涅槃の相を離るが故に不相と云うなり」云云、心の不思議を以て経論の詮要と為すなり、此の心を悟り知るを名けて如来と云う之を悟り知つて後は十界は我が身なり我が心なり我が形なり本覚の如来は我が身心なるが故なり之を知らざる時を名けて無明と為す無明は明かなること無しと読むなり、我が心の有様を明かに覚らざるなり、之を悟り知る時を名けて法性と云う、故に無明と法性とは一心の異名なり、名と言とは二なりと雖も心は只一つ心なり斯れに由つて無明をば断ず可からざるなり夢の心の無明なるを断ぜば寤の心を失う可きが故に総じて円教の意は一毫の惑をも断ぜず故に一切の法は皆是れ仏法なりと云うなり、法華経に云く「如是相一切衆生の相好本覚の応身如来・如是性一切衆生の心性本覚の報身如来・如是体一切衆生の身体本覚の法身如来」此の三如是より後の七如是・出生して合して十如是と成れるなり、此の十如是は十法界なり、此の十法界は一人の心より出で八万四千の法門と成るなり、一人を手本として一切衆生平等なること是くの如し、三世の諸仏の総勘文にして御判慥(たし)かに印(おし)たる正本の文書なり仏の御判とは実相の一印なり印とは判の異名なり、余の一切の経には実相の印無ければ正本の文書に非ず全く実の仏無し実の仏無きが故に夢中の文書なり浄土に無きが故なり、十法界は十なれども十如是は一なり譬えば水中の月は無量なりと雖も虚空の月は一なるが如し、九法界の十如是は夢中の十如是なるが故に水中の月の如し仏法界の十如是は本覚の寤の十如是なれば虚空の月の如し、是の故に仏界の一つの十如是顕れぬれば九法界の十如是の水中の月の如きも一も闕減(けつげん)無く同時に皆顕れて体と用と一具にして一体の仏と成る、十法界を互に具足し平等なる十界の衆生なれば虚空の本月も水中の末月も一人の身中に具足して闕くること無し、故に十如是は本末究竟(くきょう)して等しく差別無し、本とは衆生の十如是なり末とは諸仏の十如是なり諸仏は衆生の一念の心より顕れ給えば衆生は是れ本なり諸仏は是れ末なり、然るを経に云く「今此の三界は皆是我が有なり其の中の衆生は悉く是吾が子なり」と已上、

仏成道の後に化他の為の故に迹の成道を唱えて生死の夢中にして本覚の寤を説き給うなり、智慧を父に譬え愚癡を子に譬えて是くの如く説き給えるなり、衆生は本覚の十如是なりと雖も一念の無明眠りの如く心を覆うて生死の夢に入つて本覚の理を忘れ髪筋(かみすじ)を切る程に過去・現在・未来の三世の虚夢を見るなり、仏は寤の人の如くなれば生死の夢に入つて衆生を驚かし給える智慧は夢の中にて父母の如く夢の中なる我等は子息の如くなり、此の道理を以て悉是吾子と言い給うなり、此の理を思い解けば諸仏と我等とは本の故にも父子なり末の故にも父子なり父子の天性は本末是れ同じ、斯れに由つて己心と仏心とは異ならずと観ずるが故に生死の夢を覚まして本覚の寤に還えるを即身成仏と云うなり、即身成仏は今我が身の上の天性・地体なり煩(わずらい)も無く障(さわ)りも無き衆生の運命なり果報なり冥加(みょうが)なり、夫れ以(おもんみ)れば夢の時の心を迷いに譬え寤の時の心を悟りに譬う之を以て一代聖教を覚悟するに跡形も無き虚夢を見て心を苦しめ汗水と成つて驚きぬれば我身も家も臥所(ふしど)も一所にて異らず夢の虚と寤の実との二事を目にも見・心にも思えども所は只一所なり身も只一身にて二の虚と実との事有り之を以て知んぬ可し、九界の生死の夢見る我が心も仏界常住の寤の心も異ならず九界生死の夢見る所が仏界常住の寤の所にて変らず心法も替らず在所も差わざれども夢は皆虚事なり寤は皆実事なり止観に云く「昔荘周と云うもの有り夢に胡蝶と成つて一百年を経たり苦は多く楽は少く汗水と成つて驚きぬれば胡蝶にも成らず百年をも経ず苦も無く楽も無く皆虚事なり皆妄想なり」已上取意、弘決に云く「無明は夢の蝶の如く三千は百年の如し一念実無きは猶蝶に非ざるが如く三千も亦無きこと年を積むに非るが如し」已上、此の釈は即身成仏の証拠なり夢に蝶と成る時も荘周は異ならず寤に蝶と成らずと思う時も別の荘周無し、我が身を生死の凡夫なりと思う時は夢に蝶と成るが如く僻目・僻思なり、我が身は本覚の如来なりと思う時は本(もと)の荘周なるが如し即身成仏なり、蝶の身を以て成仏すと云うに非ざるなり蝶と思うは虚事なれば成仏の言は無し沙汰の外の事なり、無明は夢の蝶の如しと判ずれば我等が僻思は猶昨日の夢の如く性体無き妄想なり誰の人か虚夢の生死を信受して疑を常住涅槃の仏性に生ぜんや、止観に云く「無明の癡惑本より是れ法性なり癡迷(ちめい)を以ての故に法性(ほっしょう)変じて無明と作り諸の顛倒の善・不善等を起す寒来りて水を結べば変じて堅冰(けんぴょう)と作るが如く・又眠来りて心を変ずれば種種の夢有るが如し今当に諸の顛倒は即ち是法性なり一ならず異ならずと体すべし、顛倒起滅すること旋火輪の如しと雖も顛倒の起滅を信ぜずして唯此の心・但是れ法性なりと信ず、起は是れ法性の起、滅は是れ法性の滅なり其れを体するに実には起滅せざるを妄りに起滅すと謂えり只妄想を指すに悉く是れ法性なり、法性を以て法性に繋け法性を以て法性を念ず常に是れ法性なり法性ならざる時無し」已上

是くの如く法性ならざる時の隙(ひま)も無き理の法性に夢の蝶の如く無明に於て実有の思を生じて之に迷うなり、止観の九に云く「譬えば眠の法・心を覆うて一念の中に無量世の事を夢みるが如し乃至寂滅真如に何の次位か有らん、乃至一切衆生即大涅槃なり復滅す可からず何の次位・高下・大小有らんや、不生不生にして不可説なれども因縁有るが故に亦説くことを得可し十因縁の法・生の為に因と作る虚空に画き方便して樹を種るが如し一切の位を説くのみ」已上、十法界の依報・正報は法身の仏・一体三身の徳なりと知つて一切の法は皆是れ仏法なりと通達し解了する是を名字即と為す名字即の位より即身成仏す故に円頓の教には次位の次第無し・故に玄義に云く「末代の学者多く経論の方便の断伏を執して諍闘す水の性の冷かなるが如きも飲まずんば安んぞ知らん」已上、天台の判に云く「次位の綱目は仁王・瓔珞に依り断伏の高下は大品・智論に依る」已上、仁王・瓔珞・大品・大智度論是の経論は皆法華已前の八教の経論なり、権教の行は無量劫を経て昇進する次位なれば位の次第を説けり今法華は八教に超えたる円なれば速疾頓成にして心と仏と衆生と此の三は我が一念の心中に摂めて心の外に無しと観ずれば下根の行者すら尚一生の中に妙覚の位に入る・一と多と相即すれば一位に一切の位皆是れ具足せり故に一生に入るなり、下根すら是くの如し況や中根の者をや何に況や上根をや実相の外に更に別の法無し実相には次第無きが故に位無し。

総じて一代の聖教は一人の法なれば我が身の本体を能く能く知る可し之を悟るを仏と云い之に迷うは衆生なり此れは華厳経の文の意なり、弘決の六に云く「此の身の中に具(つぶ)さに天地に倣(なら)うことを知る、頭の円(まど)かなるは天に象(かたど)り、足の方なるは地に象ると知り、身の内の空種(うつろ)なるは即ち是れ虚空なり、腹の温かなるは春夏に法(のっ)とり、背の剛きは秋冬に法とり、四体は四時に法とり、大節の十二は十二月に法とり、小節の三百六十は三百六十日に法とり、鼻の息の出入は山沢渓谷の中の風に法とり、口の息の出入は虚空の中の風に法とり、眼は日月に法とり、開閉は昼夜に法とり、髪は星辰に法とり眉は北斗に法とり、脈は江河に法とり、骨は玉石に法とり、皮肉は地土に法とり、毛は叢林(そうりん)に法とり、五臓は天に在つては五星に法とり、地に在つては五岳に法とり、陰・陽に在つては五行に法とり、世に在つては五常に法とり、内に在つては五神に法とり、行を修するには五徳に法とり、罪を治むるには五刑に法とる。

謂く墨・ぎ・非・宮・大辟(たいへき)此の五刑は人を様様に之を傷ましむ其の数三千の罰有り此を五刑と云う主領には五官と為す五官は下の第八の巻に博物誌を引くが如し謂く苟萠(こうぼう)等なり、天に昇つては五雲と曰い化して五竜と為る、心を朱雀(すざく)と為し腎(じん)を玄武と為し肝を青竜と為し肺を白虎と為し脾(ひ)を勾陳と為す」又云く「五音・五明・六藝・皆此れより起る亦復当に内治の法を識るべし覚心内に大王と為つては百重の内に居り出でては則ち五官に侍衛せ為る、肺をば司馬と為し肝をば司徒と為し脾をば司空と為し四支をば民子と為し、左をば司命と為し右をば司録と為し人命を主司す、乃至臍をば太一君等と為すと禅門の中に広く其の相を明す」。

已上、人身の本体委(くわし)く検(けん)すれば是くの如し、然るに此の金剛不壊(ふえ)の身を以て生滅無常の身なりと思う僻思(ひがおもい)は譬えば荘周が夢の蝶の如しと釈し給えるなり、五行とは地水火風空なり五大種とも五薀(おん)とも五戒とも五常とも五方とも五智とも五時とも云う、只一物・経経の異説なり内典・外典・名目の異名なり、今経に之を開して一切衆生の心中の五仏性・五智の如来の種子と説けり是則ち妙法蓮華経の五字なり、此の五字を以て人身の体を造るなり本有常住なり本覚の如来なり是を十如是と云う此を唯仏与仏・乃能究尽と云う、不退の菩薩と極果の二乗と少分も知らざる法門なり然るを円頓の凡夫は初心より之を知る故に即身成仏するなり金剛不壊(ふえ)の体なり、是を以て明かに知んぬ可し天崩れば我が身も崩る可し地裂けば我が身も裂く可し地水火風滅亡せば我が身も亦滅亡すべし、然るに此の五大種は過去・現在・未来の三世は替ると雖も五大種は替ること無し。

正法と像法と末法との三時殊なりと雖も五大種は是れ一にして盛衰転変無し、薬草喩品の疏には円教の理は大地なり円頓の教は空の雨なり亦三蔵教・通教・別教の三教は三草と二木となり、其の故は此の草木は円理の大地より生じて円教の空の雨に養われて五乗の草木は栄うれども天地に依つて我栄えたりと思知らざるに由るが故に三教の人天・二乗・菩薩をば草木に譬えて不知恩と説かれたり、故に草木の名を得・今法華に始めて五乗の草木は円理の母と円教の父とを知るなり、一地の所生なれば母の恩を知るが如く一雨の所潤なれば父の恩を知るが如し、薬草喩品の意・是くの如くなり。

 釈迦如来・五百塵点劫の当初(そのかみ)・凡夫にて御坐せし時、我が身は地水火風空なりと知しめして即座に悟を開き給いき、後に化他の為に世世・番番に出世・成道し在在・処処に八相作仏し王宮に誕生し樹下に成道して、始めて仏に成る様を衆生に見知らしめ、四十余年に方便教を儲け衆生を誘引す。
 其の後方便の諸の経教を捨てて正直の妙法蓮華経の五智の如来の種子の理を説き顕して、其の中に四十二年の方便の諸経を丸かし納れて一仏乗と丸し人一(にんいち)の法と名く一人が上の法なり。
 多人の綺(いろ)えざる正しき文書を造つて慥かな御判の印あり、三世諸仏の手継ぎの文書を釈迦仏より相伝せられし時に、三千三百万億那由佗の国土の上の虚空の中に満ち塞がれる若干の菩薩達の頂を摩(な)で尽して時を指して、末法近来の我等衆生の為に、慥(たし)かに此の由を説き聞かせて仏の譲状を以て末代の衆生に慥かに授与す可しと慇懃(おんごん)に三度まで同じ御語に説き給いしかば、若干の菩薩達・各数を尽して身を曲げ頭を低(た)れ三度まで同じ言に各我も劣らじと事請(ことうけ)を申し給いしかば、仏・心安く思食して本覚の都に還えり給う。
 三世の諸仏の説法の儀式・作法には、只同じ御言に時を指したる末代の譲状なれば、只一向に後五百歳を指して此の妙法蓮華経を以て成仏す可き時なりと、譲状の面に載せられたる手継ぎ証文なり。





by johsei1129 | 2014-04-25 21:04 | 血脈・相伝・講義 | Trackback | Comments(0)
2014年 04月 24日

人の心を貫く妙法蓮華経は宇宙に遍満し一体であると明した【三世諸仏総勘文教相廃立】一

【三世諸仏総勘文教相廃立(さんぜしょぶつそうかんもんきょうそうはいりゅう】
■出筆時期:弘安2年10月(1279)58歳御作 門下の弟子一同にあてられたと思われる。
■出筆場所:身延山中 草庵
■出筆の経緯:
本抄で大聖人は「我が心の妙法蓮華経の一乗は十方の浄土に周編して闕(か)くること無し、十方の浄土の依報・正報の功徳荘厳は我が心の中に有つて片時も離るること無き三身即一の本覚の如来にて是の外には法無し」と述べ、人の心を貫く妙法蓮華経は、人を取り巻く浄土(宇宙)に遍満し心と一体であることを明かし、さらに「此の心の一法より国土世間も出来する事なり、一代聖教とは此の事を説きたるなり。此れを八万四千の法蔵とは云うなり是れ皆悉く一人の身中の法門にて有るなり、然れば八万四千の法蔵は我身一人の日記文書なり」と解き明かし、八万四千法蔵と膨大な釈尊の一代聖教はつまるところ、一人の心を説き明かしている」と明言している。
■ご真筆: 現存していない。

[三世諸仏総勘文教相廃立 本文] その一

                          弘安二年十月 五十八歳御作 日蓮之を撰す

 夫れ一代聖教とは総べて五十年の説教なり是を一切経とは言うなり、此れを分ちて二と為す・一には化他・二には自行なり、一には化他の経とは法華経より前の四十二年の間説き給える諸の経教なり此れをば権教(ごんきょう)と云い亦は方便と名く、此れは四教の中には三蔵教・通教・別教の三教なり・五時の中には華厳・阿含・方等・般若なり法華より前の四時の経教なり、又十界の中には前の九法界なり又夢と寤(うつつ)との中には夢中の善悪なり又夢をば権と云い寤をば実と云うなり、是の故に夢は仮に有つて体性無し故に名けて権と云うなり、寤は常住にして不変の心の体なるが故に此れを名けて実と為す、故に四十二年の諸の経教は生死の夢の中の善悪の事を説く故に権教と言う夢中の衆生を誘引し驚覚して法華経の寤と成さんと思食しての支度方便の経教なり故に権教と言う、斯れに由つて文字の読みを糾して心得可きなり、故に権をば権(かり)と読む、権なる事の手本には夢を以て本と為す又実をば実と読む実事の手本は寤なり、故に生死の夢は権にして性体無ければ権なる事の手本なり故に妄想と云う、本覚の寤は実にして生滅を離れたる心なれば真実の手本なり故に実相と云う、是を以て権実の二字を糾して一代聖教の化他の権と自行の実との差別を知る可きなり、故に四教の中には前の三教と五時の中には前の四時と十法界の中には前の九法界は同じく皆夢中の善悪の事を説くなり故に権教と云う、此の教相をば無量義経に四十余年未顕真実と説き給う已上、未顕真実の諸経は夢中の権教なり故に釈籤(しゃくせん)に云く「性・殊なること無しと雖も必ず幻に藉(よ)りて幻の機と幻の感と幻の応と幻の赴(ふ)とを発(おこ)す・能応と所化(しょけ)と並びに権実に非ず」已上、此れ皆夢幻の中の方便の教なり性雖無殊等とは夢見る心性と寤の時の心性とは只一の心性にして総て異ること無しと雖も夢の中の虚事と寤の時の実事と二事一の心法なるを以て見ると思うも我が心なりと云う釈なり、故に止観に云く「前の三教の四弘・能も所も泯(みん)す」已上、四弘とは衆生の無辺なるを度せんと誓願し・煩悩の無辺なるを断ぜんと誓願し・法門の無尽なるを知らんと誓願し・無上菩提を証せんと誓願す此を四弘と云う、能とは如来なり所とは衆生なり此の四弘は能の仏も所の衆生も前三教は皆夢中の是非なりと釈し給えるなり、然れば法華以前の四十二年の間の説教たる諸経は未顕真実の権教なり方便なり、法華に取寄る可き方便なるが故に真実には非ず、此れは仏自ら四十二年の間説き集め給いて後に、今法華経を説かんと欲して先ず序分の開経の無量義経の時・仏自ら勘文し給える教相なれば人の語も入る可からず不審をも生す可からず、故に玄義に云く「九界を権と為し仏界を実と為す」已上、九法界の権は四十二年の説教なり仏法界の実は八箇年の説・法華経是なり、故に法華経をば仏乗と云う九界の生死は夢の理なれば権教と云い仏界の常住は寤の理なれば実教と云う、故に五十年の説教・一代の聖教・一切の諸経は化他の四十二年の権教と自行の八箇年の実教と合して五十年なれば権と実との二の文字を以て鏡に懸けて陰無し。

 故に三蔵教を修行すること三僧祇・百大劫を歴て終りに仏に成らんと思えば我が身より火を出して灰身(けしん)入滅とて灰と成つて失せるなり、通教を修行すること七阿僧祇・百大劫を満てて仏に成らんと思えば前の如く同様に灰身入滅して跡形も無く失せぬるなり、別教を修行すること二十二大阿僧祇・百千万劫を尽くして終りに仏に成りぬと思えば生死の夢の中の権教の成仏なれば本覚の寤の法華経の時には別教には実仏無し夢中の果なり故に別教の教道には実の仏無しと云うなり、別教の証道には初地に始めて一分の無明を断じて一分の中道の理を顕し始めて之を見れば別教は隔歴不融の教と知つて円教に移り入つて円人と成り已つて別教には留まらざるなり上中下三根の不同有るが故に初地・二地・三地・乃至・等覚までも円人と成る故に別教の面に仏無きなり、故に有教無人と云うなり、故に守護国界章に云く「有為の報仏は夢中の権果前三教の修行の仏、無作(むさ)の三身は覚前の実仏なり後の円教の観心の仏」又云く「権教の三身は未だ無常を免れず前三教の修行の仏実教の三身は倶体倶用なり後の円教の観心の仏」此の釈を能く能く意得可きなり、権教は難行苦行して適(たまたま)仏に成りぬと思えば夢中の権の仏なれば本覚の寤の時には実仏無きなり、極果の仏無ければ有教無人なり況や教法実ならんや之を取つて修行せんは聖教に迷えるなり、此の前三教には仏に成らざる証拠を説き置き給いて末代の衆生に慧解を開かしむるなり九界の衆生は一念の無明の眠(ねむり)の中に於て生死の夢に溺れて本覚の寤を忘れ夢の是非に執して冥きより冥きに入る、是の故に如来は我等が生死の夢の中に入つて顛倒の衆生に同じて夢中の語を以て夢中の衆生を誘い夢中の善悪の差別の事を説いて漸漸に誘引し給うに、夢中の善悪の事重畳して様様に無量・無辺なれば先ず善事に付いて上中下を立つ三乗の法是なり、三三九品なり、此くの如く説き已つて後に又上上品の根本善を立て上中下・三三九品の善と云う、皆悉く九界生死の夢の中の善悪の是非なり今是をば総じて邪見外道と為す捜要記の意、此の上に又上上品の善心は本覚の寤の理なれば此れを善の本と云うと説き聞かせ給し時に夢中の善悪の悟の力を以ての故に寤の本心の実相の理を始めて聞知せられし事なり、是の時に仏説いて言く夢と寤との二は虚事と実事との二の事なれども心法は只一なり、眠の縁に値(あ)いぬれば夢なり眠去りぬれば寤の心なり心法は只一なりと開会せらるべき下地を造り置かれし方便なり此れは別教の中道の理是の故に未だ十界互具・円融相即を顕さざれば成仏の人無し故に三蔵教より別教に至るまで四十二年の間の八教は皆悉く方便・夢中の善悪なり、只暫く之を用いて衆生を誘引し給う支度方便なり此の権教の中にも分分に皆悉く方便と真実と有りて権実の法闕(か)けざるなり、四教一一に各四門有つて差別有ること無し語も只同じ語なり文字も異ること無し斯れに由つて語に迷いて権実の差別を分別せざる時を仏法滅すと云う是の方便の教は唯穢土(えど)に有つて総じて浄土には無きなり法華経に云く「十方の仏土の中には唯一乗の法のみ有つて二無く亦三も無し仏の方便の説をば除く」已上、故に知んぬ十方の仏土に無き方便の教を取つて往生の行と為し十方の浄土に有る一乗の法をば之を嫌いて取らずして成仏す可き道理有る可しや否や、一代の教主釈迦如来・一切経を説き勘文し給いて言く三世の諸仏同様に一つ語一つ心に勘文し給える説法の儀式なれば我も是くの如く一言も違わざる説教の次第なり云云、方便品に云く「三世の諸仏の説法の儀式の如く我も今亦是くの如く無分別の法を説く」已上、無分別の法とは一乗の妙法なり善悪を簡ぶこと無く草木・樹林・山河・大地にも一微塵の中にも互に各十法界の法を具足す我が心の妙法蓮華経の一乗は十方の浄土に周編して闕くること無し十方の浄土の依報・正報の功徳荘厳は我が心の中に有つて片時も離るること無き三身即一の本覚の如来にて是の外には法無し此の一法計り十方の浄土に有りて余法有ること無し故に無分別法と云う是なり、此の一乗妙法の行をば取らずして全く浄土には無き方便の教を取つて成仏の行と為さんは迷いの中の迷いなり、我仏に成りて後に穢土に立ち還りて穢土の衆生を仏法界に入らしめんが為に次第に誘引して方便の教を説くを化他の教とは云うなり、故に権教と言い又方便とも云う化他の法門の有様大体略を存して斯くの如し。

その二に続く

by johsei1129 | 2014-04-24 21:06 | 血脈・相伝・講義 | Trackback | Comments(0)
2014年 04月 21日

十方世界の諸仏は法華経寿量品を師として仏になったと明した書【法蓮抄】三

[法蓮抄 本文] その三
彼の諷誦に云く「慈父閉眼の朝より第十三年の忌辰に至るまで釈迦如来の御前に於て自ら自我偈一巻を読誦し奉りて聖霊に回向す」等云云、当時日本国の人仏法を信じたるやうには見へて候へども古いまだ仏法のわたらざりし時は仏と申す事も法と申す事も知らず候しを守屋と上宮太子と合戦の後信ずる人もあり又信ぜざるもあり、漢土も此くの如し摩騰・漢土に入つて後・道士と諍論あり道士まけしかば始て信ずる人もありしかども不信の人多し、されば烏竜と申せし能書は手跡の上手なりしかば人之を用ゆ、然れども仏経に於てはいかなる依怙ありしかども書かず最後臨終の時・子息遺竜を召して云く汝我が家に生れて芸能をつぐ我が孝養には仏経を書くべからず殊に法華経を書く事なかれ、我が本師の老子は天尊なり天に二つの日なし而に彼の経に唯我一人と説くきくわい第一なり、若し遺言を違へて書く程ならば忽に悪霊となりて命を断つべしと云つて舌八つにさけて頭七分に破れ五根より血を吐いて死し畢んぬ、されども其の子善悪を弁へざれば我が父の謗法のゆへに悪相現じて阿鼻地獄に堕ちたりともしらず遺言にまかせて仏経を書く事なし況や口に誦する事あらんをや、かく過ぎ行く程に時の王を司馬氏と号し奉る御仏事のありしに書写の経あるべしとて漢土第一の能書を尋ねらるるに遺竜に定まりぬ、召して仰せ付けらるるに再三辞退申せしかば力及ばずして他筆にて一部の経を書かせられけるが、帝王心よからず尚遺竜を召して仰せに云く汝親の遺言とて朕が経を書かざる事其の謂無しと雖も且く之を免ず但題目計りは書くべしと三度勅定あり、遺竜猶辞退申す大王竜顔心よからずして云く天地尚王の進退なり、然らば汝が親は即ち我が家人にあらずや、私をもつて公事を軽んずる事あるべからず、題目計りは書くべし若し然らずんば、仏事の庭なりといへども速に汝が頭を刎ぬべしとありければ題目計り書けり、所謂妙法蓮華経巻第一・乃至巻第八等云云、其の暮に私宅に帰りて歎いて云く我親の遺言を背き王勅術なき故に仏経を書きて不孝の者となりぬ天神も地祇も定んで瞋り不孝の者とおぼすらんとて寝る、夜の夢の中に大光明出現せり朝日の照すかと思へば天人一人庭上に立ち給へり又無量の眷属あり、此の天人の頂上の虚空に仏・六十四仏まします、遺竜・合掌して問うて云く如何なる天人ぞや、答えて云く我は是れ汝が父の烏竜なり仏法を謗ぜし故に舌八つにさけ五根より血を出し頭七分に破れて無間地獄に堕ちぬ、彼の臨終の大苦をこそ堪忍すべしともおぼへざりしに無間の苦は尚百千億倍なり、人間にして鈍刀をもて爪をはなち鋸をもて頚をきられ炭火の上を歩ばせ棘にこめられなんどせし人の苦を此の苦にたとへば・かずならず、如何してか我が子に告げんと思いしかどもかなはず、臨終の時・汝を誡て仏経を書くことなかれと遺言せし事のくやしさ申すばかりなし、後悔先にたたず我が身を恨み舌をせめしかども・かひなかりしに昨日の朝より法華経の始の妙の一字・無間地獄のかなへの上に飛び来つて変じて金色の釈迦仏となる、此の仏三十二相を具し面貌満月の如し、大音声を出して説て云く「仮令法界に遍く善を断ちたる諸の衆生も一たび法華経を聞かば決定して菩提を成ぜん」云云、此の文字の中より大雨降りて無間地獄の炎をけす閻魔王は冠をかたぶけて敬ひ獄卒は杖をすてて立てり、一切の罪人はいかなる事ぞとあはてたり、又法の一字来れり前の如し又蓮・又華・又経・此くの如し六十四字来つて六十四仏となりぬ、無間地獄に仏・六十四体ましませば日月の六十四が天に出たるごとし、天より甘露をくだして罪人に与ふ、抑此等の大善は何なる事ぞと罪人等仏に問い奉りしかば六十四の仏の答に云く我等が金色の身は栴檀宝山よりも出現せず是は無間地獄にある烏竜が子の遺竜が書ける法華経八巻の題目の八八・六十四の文字なり、彼の遺竜が手は烏竜が生める処の身分なり、書ける文字は烏竜が書くにてあるなりと説き給いしかば無間地獄の罪人等は我等も娑婆にありし時は子もあり婦もあり眷属もありき、いかに・とぶらはぬやらん又訪へども善根の用の弱くして来らぬやらんと歎けども歎けども甲斐なし、或は一日・二日・一年二年・半劫・一劫になりぬるにかかる善知識にあひ奉つて助けられぬるとて我等も眷属となりてとう利天にのぼるか、先ず汝をおがまんとて来るなりとかたりしかば、夢の中にうれしさ身にあまりぬ、別れて後又いつの世にか見んと思いし親のすがたをも見奉り仏をも拝し奉りぬ、六十四仏の物語に云く我等は別の主なし汝は我等が檀那なり、今日よりは汝を親と守護すべし汝をこたる事なかれ、一期の後は必ず来つて都率の内院へ導くべしと御約束ありしかば遺竜ことに畏みて誓いて云く今日以後外典の文字を書く可からず等云云、彼の世親菩薩が小乗経を誦せじと誓い日蓮が弥陀念仏を申さじと願せしがごとし、さて夢さめて此の由を王に申す、大王の勅宣に云く此の仏事已に成じぬ此の由を願文に書き奉れとありしかば勅宣の如くにし、さてこそ漢土・日本国は法華経にはならせ給いけれ、此の状は漢土の法華伝記に候。

 是は書写の功徳なり、五種法師の中には書写は最下の功徳なり、何に況や読誦なんど申すは無量無辺の功徳なり。今の施主・十三年の間・毎朝読誦せらるる自我偈の功徳は唯仏与仏・乃能究尽なるべし。

 夫れ法華経は一代聖教の骨髄なり自我偈は二十八品のたましひなり、三世の諸仏は寿量品を命とし十方の菩薩も自我偈を眼目とす、自我偈の功徳をば私に申すべからず次下に分別功徳品に載せられたり、此の自我偈を聴聞して仏になりたる人人の数をあげて候には小千・大千・三千世界の微塵の数をこそ・あげて候へ
、其の上薬王品已下の六品得道のもの自我偈の余残なり。
 涅槃経四十巻の中に集りて候いし五十二類にも自我偈の功徳をこそ仏は重ねて説かせ給いしか。されば初め寂滅道場に十方世界微塵数の大菩薩・天人等・雲の如くに集りて候いし大集・大品の諸聖も大日経・金剛頂経等の千二百余尊も過去に法華経の自我偈を聴聞してありし人人、信力よはくして三五の塵点を経しかども今度・釈迦仏に値い奉りて法華経の功徳すすむ故に霊山をまたずして爾前の経経を縁として得道なると見えたり。

 されば十方世界の諸仏は自我偈を師として仏にならせ給う世界の人の父母の如し、今法華経・寿量品を持つ人は諸仏の命を続ぐ人なり、我が得道なりし経を持つ人を捨て給う仏あるべしや、若し此れを捨て給はば仏還つて我が身を捨て給うなるべし、これを以て思うに田村利仁なんどの様なる兵を三千人生みたらん女人あるべし、此の女人を敵とせん人は此の三千人の将軍をかたきに・うくるにあらずや、法華経の自我偈を持つ人を敵とせんは三世の諸仏を敵とするになるべし、今の法華経の文字は皆生身の仏なり我等は肉眼なれば文字と見るなり、たとへば餓鬼は恒河を火と見る・人は水と見・天人は甘露と見る、水は一なれども果報にしたがつて見るところ各別なり、此の法華経の文字は盲目の者は之を見ず肉眼は黒色と見る二乗は虚空と見・菩薩は種種の色と見・仏種・純熟せる人は仏と見奉る、されば経文に云く「若し能く持つこと有るは・即ち仏身を持つなり」等云云、天台の云く「稽首妙法蓮華経一帙・八軸・四七品・六万九千三八四・一一文文・是真仏・真仏説法利衆生」等と書かれて候。

之を以て之を案ずるに法蓮法師は毎朝口より金色の文字を出現す此の文字の数は五百十字なり、一一の文字変じて日輪となり日輪変じて釈迦如来となり大光明を放つて大地をつきとをし三悪道・無間大城を照し乃至東西南北・上方に向つては非想・非非想へものぼりいかなる処にも過去聖霊のおはすらん処まで尋ね行き給いて彼の聖霊に語り給うらん、我をば誰とか思食す我は是れ汝が子息・法蓮が毎朝誦する所の法華経の自我偈の文字なり、此の文字は汝が眼とならん耳とならん足とならん手とならんとこそ・ねんごろに語らせ給うらめ、其の時・過去聖霊は我が子息・法蓮は子にはあらず善知識なりとて娑婆世界に向つておがませ給うらん、是こそ実の孝養にては候なれ。

 抑法華経を持つと申すは経は一なれども持つ事は時に随つて色色なるべし、或は身肉をさひて師に供養して仏になる時もあり、又身を牀として師に供養し又身を薪となし、又此の経のために杖木をかほり又精進し又持戒し上の如くすれども仏にならぬ時もあり時に依つて不定なるべし、されば天台大師は適時而已と書かれ、章安大師は「取捨得宜不可一向」等云云。

 問うて云く何なる時か身肉を供養し何なる時か持戒なるべき、答えて云く智者と申すは此くの如き時を知りて法華経を弘通するが第一の秘事なり、たとへば渇者は水こそ用うる事なれ弓箭兵杖はよしなし、裸なる者は衣を求む水は用なし一をもつて万を察すべし、大鬼神ありて法華経を弘通せば身を布施すべし余の衣食は詮なし、悪王あつて法華経を失わば身命をほろぼすとも随うべからず、持戒精進の大僧等・法華経を弘通するやうにて而も失うならば是を知つて責むべし、法華経に云く「我身命を愛せず但だ無上道を惜しむ」云云、涅槃経に云く「寧ろ身命を喪うとも終に王の所説の言教を匿さざれ」等云云、章安大師の云く「寧喪身命不匿教とは身は軽く法は重し身を死して法を弘む」等云云。

 然るに今日蓮は外見の如くば日本第一の僻人なり我が朝六十六箇国・二の島の百千万億の四衆・上下万人に怨まる、仏法・日本国に渡つて七百余年いまだ是程に法華経の故に諸人に悪まれたる者なし、月氏・漢土にもありとも・きこえず又あるべしとも・おぼへず、されば一閻浮提第一の僻人ぞかし、かかるものなれば上には一朝の威を恐れ下には万民の嘲を顧みて親類もとぶらはず外人は申すに及ばず出世の恩のみならず世間の恩を蒙りし人も諸人の眼を恐れて口をふさがんためにや心に思はねども・そしるよしをなす、数度事にあひ両度御勘気を蒙りしかば我が身の失に当るのみならず、行通人人の中にも或は御勘気或は所領をめされ或は御内を出され或は父母兄弟に捨てらる、されば付きし人も捨てはてぬ今又付く人もなし、殊に今度の御勘気には死罪に及ぶべきがいかが思はれけん佐渡の国につかはされしかば彼の国へ趣く者は死は多く生は稀なり、からくして行きつきたりしかば殺害・謀叛の者よりも猶重く思はれたり、鎌倉を出でしより日日に強敵かさなるが如し、ありとある人は念仏の持者なり、野を行き山を行くにもそばひらの草木の風に随つてそよめく声も、かたきの我を責むるかとおぼゆ、やうやく国にも付きぬ北国の習なれば冬は殊に風はげしく雪ふかし衣薄く食ともし、根を移されし橘の自然にからたちとなりけるも身の上につみしられたり、栖にはおばなかるかやおひしげれる野中の三昧ばらにおちやぶれたる草堂の上は雨もり壁は風もたまらぬ傍に昼夜・耳に聞く者はまくらにさゆる風の音、朝に眼に遮る者は遠近の路を埋む雪なり、現身に餓鬼道を経・寒地獄に堕ちぬ、彼の蘇武が十九年の間・胡国に留められて雪を食し李陵が巌窟に入つて六年蓑をきて・すごしけるも我が身の上なりき。

 今適御勘気ゆりたれども鎌倉中にも且くも身をやどし迹を・とどむべき処なければ・かかる山中の石のはざま松の下に身を隠し心を静むれども大地を食とし草木を著ざらんより外は食もなく衣も絶えぬる処にいかなる御心ねにてかくかきわけて御訪のあるやらん、知らず過去の我が父母の御神の御身に入りかはらせ給うか、又知らず大覚世尊の御めぐみにや・あるらん涙こそ・おさへがたく候へ。

 問うて云く抑正嘉の大地震・文永の大彗星を見て自他の叛逆・我が朝に法華経を失う故としらせ給うゆへ如何、答えて云く此の二の天災・地夭は外典三千余巻にも載せられず三墳・五典・史記等に記する処の大長星・大地震は或は一尺二尺・一丈二丈・五丈六丈なりいまだ一天には見へず地震も又是くの如し、内典を以て之を勘うるに仏御入滅・已後はかかる大瑞出来せず、月支には弗沙密多羅王の五天の仏法を亡し十六大国の寺塔を焼き払い僧尼の頭をはねし時もかかる瑞はなし、漢土には会昌天子の寺院・四千六百余所をとどめ僧尼・二十六万五百人を還俗せさせし時も出現せず、我が朝には欽明の御宇に仏法渡りて守屋・仏法に敵せしにも清盛法師・七大寺を焼き失い山僧等・園城寺を焼亡せしにも出現せざる大彗星なり。

 当に知るべし是よりも大事なる事の一閻浮提の内に出現すべきなりと勘えて立正安国論を造りて最明寺入道殿に奉る、彼の状に云く詮取此の大瑞は他国より此の国をほろぼすべき先兆なり、禅宗・念仏宗等が法華経を失う故なり、彼の法師原が頚をきりて鎌倉ゆゐの浜にすてずば国正に亡ぶべし等云云、其の後文永の大彗星の時は又手ににぎりて之を知る、去文永八年九月十二日の御勘気の時重ねて申して云く予は日本国の棟梁なり我を失うは国を失うなるべしと今は用いまじけれども後のためにとて申しにき、又去年の四月八日に平左衛門尉に対面の時蒙古国は何比かよせ候べきと問うに、答えて云く経文は月日をささず但し天眼のいかり頻りなり今年をばすぐべからずと申したりき、是等は如何にして知るべしと人疑うべし予不肖の身なれども法華経を弘通する行者を王臣人民之を怨む間法華経の座にて守護せんと誓をなせる地神いかりをなして身をふるひ天神身より光を出して此の国をおどす、いかに諌むれども用いざれば結局は人の身に入つて自界叛逆せしめ他国より責むべし。

 問うて云く此の事何たる証拠あるや、答う経に云く「悪人を愛敬し善人を治罰するに由るが故に星宿及び風雨皆時を以て行わず」等云云、夫れ天地は国の明鏡なり今此の国に天災地夭あり知るべし国主に失ありと云う事を鏡にうかべたれば之を諍うべからず国主・小禍のある時は天鏡に小災見ゆ今の大災は当に知るべし大禍ありと云う事を、仁王経には小難は無量なり中難は二十九・大難は七とあり此の経をば一には仁王と名づけ二には天地鏡と名づく、此の国主を天地鏡に移して見るに明白なり、又此の経文に云く「聖人去らん時は七難必ず起る」等云云、当に知るべし此の国に大聖人有りと、又知るべし彼の聖人を国主信ぜずと云う事を。

 問うて云く先代に仏寺を失ひし時何ぞ此の瑞なきや、答えて云く瑞は失の軽重によりて大小あり此の度の瑞は怪むべし、一度二度にあらず一返二返にあらず年月をふるままに弥盛なり、之を以て之を察すべし先代の失よりも過ぎたる国主に失あり、国主の身にて万民を殺し又万臣を殺し又父母を殺す失よりも聖人を怨む事・彼に過ぐる事を、今日本国の王臣並びに万民には月氏・漢土総じて一閻浮提に仏滅後・二千二百二十余年の間いまだなき大科・人ごとにあるなり、譬えば十方世界の五逆の者を一処に集めたるが如し、此の国の一切の僧は皆提婆・瞿伽利が魂を移し国主は阿闍世王・波瑠璃王の化身なり、一切の臣民は雨行大臣・月称大臣・刹陀耆利等の悪人をあつめて日本国の民となせり、古は二人・三人・逆罪不孝の者ありしかばこそ其の人の在所は大地も破れて入りぬれ、今は此の国に充満せる故に日本国の大地・一時にわれ無間に堕ち入らざらん外は一人二人の住所の堕つべきやうなし、例せば老人の一二の白毛をば抜けども老耄の時は皆白毛なれば何を分けて抜き捨つべき只一度に剃捨る如くなり、問うて云く汝が義の如きは我が法華経の行者なるを用いざるが故に天変地夭等ありと、法華経第八に云く「頭破れて七分と作らん」と、第五に云く「若し人悪み罵れば口則ち閉塞す」等云云、如何ぞ数年が間・罵とも怨とも其の義なきや、答う反詰して云く不軽菩薩を毀しし罵詈し打擲せし人は口閉頭破ありけるか如何、問う然れば経文に相違する事如何、答う法華経を怨む人に二人あり、一人は先生に善根ありて今生に縁を求めて菩提心を発して仏になるべき者は或は口閉ぢ或は頭破る、一人は先生に謗人なり今生にも謗じ生生に無間地獄の業を成就せる者あり是はのれども口則ち閉塞せず、譬えば獄に入つて死罪に定まる者は獄の中にて何なる僻事あれども死罪を行うまでにて別の失なし、ゆりぬべき者は獄中にて僻事あれば・これをいましむるが如し、問うて云く此の事第一の大事なり委細に承わるべし、答えて云く涅槃経に云く法華経に云く云云。
                                         日蓮花押





by johsei1129 | 2014-04-21 20:07 | 重要法門(十大部除く) | Trackback | Comments(0)
2014年 04月 20日

十方世界の諸仏は法華経寿量品を師として仏になったと明した書【法蓮抄】二

[法蓮抄 本文] その二
 かかる仏なれば木像・画像にうつし奉るに優填大王の木像は歩をなし摩騰の画像は一切経を説き給ふ、是れ程に貴き教主釈尊を一時二時ならず一日二日ならず一劫が間掌を合せ両眼を仏の御顔にあて頭を低て他事を捨て頭の火を消さんと欲するが如く渇して水ををもひ飢えて食を思うがごとく間無く供養し奉る功徳よりも戯論に一言継母の継子をほむるが如く心ざしなくとも末代の法華経の行者を讃め供養せん功徳は彼の三業相応の信心にて一劫が間生身の仏を供養し奉るには百千万億倍すぐべしと説き給いて候、これを妙楽大師は福過十号とは書れて候なり、十号と申すは仏の十の御名なり十号を供養せんよりも末代の法華経の行者を供養せん功徳は勝るとかかれたり、妙楽大師は法華経の一切経に勝れたる事を二十あつむる其の一なり、已上・上の二つの法門は仏説にては候へども心えられぬ事なり争か仏を供養し奉るよりも凡夫を供養するがまさるべきや、而れども是を妄語と云はんとすれば釈迦如来の金言を疑い多宝仏の証明を軽しめ十方諸仏の舌相をやぶるになりぬべし、若し爾らば現身に阿鼻地獄に堕つべし、巌石にのぼりて・あら馬を走らするが如し心肝しづかならず、又信ぜば妙覚の仏にもなりぬべし如何してか今度法華経に信心をとるべき信なくして此の経を行ぜんは手なくして宝山に入り足なくして千里の道を企つるが如し、但し近き現証を引いて遠き信を取るべし仏の御歳八十の正月一日・法華経を説きおはらせ給て御物語あり、「阿難・弥勒・迦葉我世に出でし事は法華経を説かんがためなり我既に本懐をとげぬ今は世にありて詮なし今三月ありて二月十五日に涅槃すべし」云云、一切内外の人人疑をなせしかども仏語むなしからざればついに二月十五日に御涅槃ありき、されば仏の金言は実なりけるかと少し信心はとられて候、又仏記し給ふ「我滅度の後一百年と申さんに阿育大王と申す王出現して一閻浮提三分の一が主となりて八万四千の塔を立て我が舎利を供養すべし」云云、人疑い申さんほどに案の如くに出現して候いき是よりしてこそ信心をばとりて候いつれ、又云く「我滅後に四百年と申さんに迦弐色迦王と申す大王あるべし五百の阿羅漢を集めて婆沙論を造るべし」と是又仏記のごとくなりき、是等をもつてこそ仏の記文は信ぜられて候へ、若し上に挙ぐる所の二の法門・妄語ならば此の一経は皆妄語なるべし、寿量品に我は過去五百塵点劫のそのかみの仏なりと説き給う我等は凡夫なり過ぎにし方は生れてより已来すらなをおぼへず況や一生・二生をや況や五百塵点劫の事をば争か信ずべきや、又舎利弗等に記して云く「汝未来世に於て無量無辺不可思議劫を過ぎ乃至当に作仏することを得べし号を華光如来と曰わん」云云、又又摩訶迦葉に記して云く「未来世に於て乃至最後の身に於て仏と成為ことを得ん名けて光明如来と曰わん」云云、此等の経文は又未来の事なれば我等凡夫は信ずべしともおぼえず、されば過去未来を知らざらん凡夫は此の経は信じがたし又修行しても何の詮かあるべき是を以て之を思うに現在に眼前の証拠あらんずる人・此の経を説かん時は信ずる人もありやせん。

 今法蓮上人の送り給える諷誦の状に云く「慈父幽霊第十三年の忌辰に相当り一乗妙法蓮華経五部を転読し奉る」等云云、夫れ教主釈尊をば大覚世尊と号したてまつる、世尊と申す尊の一字を高と申す高と申す一字は又孝と訓ずるなり、一切の孝養の人の中に第一の孝養の人なれば世尊と号し奉る、釈迦如来の御身は金色にして三十二相を備へ給ふ、彼の三十二相の中に無見頂相と申すは仏は丈六の御身なれども竹杖外道も其の御長をはからず梵天も其の頂を見ず故に無見頂相と申す是れ孝養第一の大人なればかかる相を備へまします、孝経と申すに二あり一には外典の孔子と申せし聖人の書に孝経あり、二には内典今の法華経是なり、内外異なれども其意は是れ同じ、釈尊・塵点劫の間・修行して仏にならんとはげみしは何事ぞ孝養の事なり、然るに六道四生の一切衆生は皆父母なり孝養おへざりしかば仏にならせ給はず、今法華経と申すは一切衆生を仏になす秘術まします御経なり、所謂地獄の一人・餓鬼の一人・乃至九界の一人を仏になせば一切衆生・皆仏になるべきことはり顕る、譬えば竹の節を一つ破ぬれば余の節亦破るるが如し、囲碁と申すあそびにしちようと云う事あり一の石死しぬれば多の石死ぬ、法華経も又此くの如し金と申すものは木草を失う用を備へ水は一切の火をけす徳あり、法華経も又一切衆生を仏になす用おはします、六道四生の衆生に男女あり此の男女は皆我等が先生の父母なり、一人ももれば仏になるべからず故に二乗をば不知恩の者と定めて永不成仏と説かせ給う孝養の心あまねからざる故なり、仏は法華経をさとらせ給いて六道・四生の父母・孝養の功徳を身に備へ給へり、此の仏の御功徳をば法華経を信ずる人にゆづり給う、例せば悲母の食う物の乳となりて赤子を養うが如し、「今此の三界は・皆是れ我が有なり・其の中の衆生は・悉く是れ吾が子なり」等云云、教主釈尊は此の功徳を法華経の文字となして一切衆生の口になめさせ給う、赤子の水火をわきまへず毒薬を知らざれざも乳を含めば身命をつぐが如し、阿含経を習う事は舎利弗等の如くならざれども華厳経をさとる事解脱月等の如くならざれども乃至一代聖教を胸に浮べたる事文殊の如くならざれども一字一句をも之を聞きし人仏にならざるはなし、彼の五千の上慢は聞きてさとらず不信の人なり、然れども謗ぜざりしかば三月を経て仏になりにき「若しは信じ若しは信ぜざれば即ち不動国に生ぜん」と涅槃経に説かるるは此の人の事なり、法華経は不信の者すら謗ぜざれば聞きつるが不思議にて仏になるなり、所謂七歩蛇に食れたる人一歩乃至七歩をすぎず毒の用の不思議にて八歩をすごさぬなり、又胎内の子の七日の如し必ず七日の内に転じて余の形となる八日をすごさず、今の法蓮上人も又此くの如し教主釈尊の御功徳・御身に入りかはらせ給いぬ、法蓮上人の御身は過去聖霊の御容貌を残しおかれたるなり、たとへば種の苗となり華の菓となるが如し其華は落ちて菓はあり種はかくれて苗は現に見ゆ、法蓮上人の御功徳は過去聖霊の御財なり、松さかふれば柏よろこぶ芝かるれば蘭なく情なき草木すら此くの如し何に況や情あらんをや又父子の契をや。

[法蓮抄 本文] その三に続く




by johsei1129 | 2014-04-20 21:19 | 重要法門(十大部除く) | Trackback | Comments(0)
2014年 04月 19日

十方世界の諸仏は法華経寿量品を師として仏になったと明した書【法蓮抄】一

【法蓮抄(ほうれんしょう】
■出筆時期:建治元年四月(1275年) 五十四歳御作。下総国の強信徒、曾谷法蓮日礼に与えている。
■出筆場所:身延山中 草庵
■出筆の経緯:曾谷入道法蓮が慈父の13回忌にあたり、法華経如来寿量品の自我偈を読誦し回向されたことに対して「十方世界の諸仏は自我偈を師として仏にならせ給う世界の人の父母の如し、今法華経・寿量品を持つ人は諸仏の命を続ぐ人なり」と讃え、「智者と申すは此くの如き時を知りて法華経を弘通するが第一の秘事なり」と諭されている。
■ご真筆:京都本圀寺ほか四ヶ所に断簡所蔵。身延山久遠寺 曽存(明治八年の大火で焼失)

[法蓮抄 本文] その一
 夫れ以れば法華経第四の法師品に云く「若し悪人有つて不善の心を以て一劫の中に於て現に仏前に於て常に仏を毀罵せん其の罪尚軽し若し人一つの悪言を以て在家・出家の法華経を読誦する者を毀めせん其の罪甚だ重し」等云云、妙楽大師云く「然も此の経の功高く理絶えたるに約して此の説を作すことを得る余経は然らず」等云云、此の経文の心は一劫とは人寿八万歳ありしより百年に一歳をすて千年に十歳をすつ此くの如く次第に減ずる程に人寿十歳になりぬ、此の十歳の時は当時の八十の翁のごとし、又人寿十歳より百年ありて十一歳となり又百年ありて十二歳となり乃至一千年あらば二十歳となるべし乃至八万歳となる、此の一減一増を一劫とは申すなり、又種種の劫ありといへども且く此の劫を以て申すべし、此の一劫が間・身口意の三業より事おこりて仏をにくみたてまつる者あるべし例せば提婆達多がごとし、仏は浄飯王の太子・提婆達多は斛飯王の子なり、兄弟の子息なる間仏の御いとこにて・をはせしかども今も昔も聖人も凡夫も人の中をたがへること女人よりして起りたる第一のあだにてはんべるなり、釈迦如来は悉達太子としてをはしし時提婆達多も同じ太子なり、耶輸大臣に女あり耶輸多羅女となづく五天竺第一の美女・四海名誉の天女なり、悉達と提婆と共に后にせん事をあらそひ給いし故に中あしくならせ給いぬ、後に悉達は出家して仏とならせ給い提婆達多・又須陀比丘を師として出家し給いぬ、仏は二百五十戒を持ち三千の威儀をととのへ給いしかば諸の天人これを渇仰し四衆これを恭敬す、提婆達多を人たとまざりしかばいかにしてか世間の名誉・仏にすぎんと・はげみしほどにとかう案じいだして仏にすぎて世間にたとまれぬべき事五つあり、四分律に云く一には糞掃衣・二には常乞食・三には一座食・四には常露座・五には塩及び五味を受けず等云云、仏は人の施す衣をうけさせ給う提婆達多は糞掃衣、仏は人の施す食をうけ給う提婆は只常乞食、仏は一日に一二三反も食せさせ給い提婆は只一座食、仏は塚間・樹下にも処し給い提婆は日中常露座なり、仏は便宜にはしを復は五味を服し給い提婆はしを等を服せず、かうありしかば世間・提婆の仏にすぐれたる事・雲泥なり、かくのごとくして仏を失いたてまつらんとうかがひし程に頻婆舎羅王は仏の檀那なり日日に五百輛の車を数年が間・一度もかかさずおくりて仏並びに御弟子等を供養し奉る、これをそねみ・とらんがために未生怨太子をかたらいて父・頻婆舎羅王を殺させ我は仏を殺さんとして或は石をもつて仏を打ちたてまつるは身業なり、仏は誑惑の者と罵詈せしは口業なり、内心より宿世の怨とをもひしは意業なり三業相応の大悪此れにはすぐべからず、此の提婆達多ほどの大悪人・三業相応して一中劫が間釈迦仏を罵詈・打杖し嫉妬し候はん大罪はいくらほどか重く候べきや、此の大地は厚さは十六万八千由旬なりされば四大海の水をも九山の土石をも三千の草木をも一切衆生をも頂戴して候へども落ちもせずかたぶかず破れずして候ぞかし、しかれども提婆達多が身は既に五尺の人身なりわづかに三逆罪に及びしかば大地破れて地獄に入りぬ、此の穴・天竺にいまだ候・玄奘三蔵・漢土より月支に修行して此れをみる西域と申す文に載せられたり、而るに法華経の末代の行者を心にも・をもはず色にもそねまず只たわふれてのりて候が上の提婆達多がごとく三業相応して一中劫・仏を罵詈し奉るにすぎて候ととかれて候、何に況や当世の人の提婆達多がごとく三業相応しての大悪心をもつて多年が間・法華経の行者を罵詈・毀辱・嫉妬・打擲・讒死・歿死に当てんをや。

 問うて云く末代の法華経の行者を怨める者は何なる地獄に堕つるや、答えて云く法華経の第二に云く「経を読誦し書持すること有らん者を見て軽賤憎嫉して結恨を懐かん乃至其の人命終して阿鼻獄に入らん一劫を具足して劫尽きなば復死し展転して無数劫に至らん」等云云、此の大地の下・五百由旬を過ぎて炎魔王宮あり、その炎魔王宮より下・一千五百由旬が間に八大地獄並びに一百三十六の地獄あり、其の中に一百二十八の地獄は軽罪の者の住処・八大地獄は重罪の者の住処なり、八大地獄の中に七大地獄は十悪の者の住処なり、第八の無間地獄は五逆と不孝と誹謗との三人の住処なり、今法華経の末代の行者を戯論にも罵詈・誹謗せん人人はおつべしと説き給へる文なり、法華経の第四法師品に云く「人有つて仏道を求めて一劫の中に於て乃至持経者を歎美せんは其の福復彼に過ぎん」等云云、妙楽大師云く「若し悩乱する者は頭七分に破れ供養する有らん者は福十号に過ぐ」等云云、夫れ人中には転輪聖王・第一なり此の輪王出現し給うべき前相として大海の中に優曇華と申す大木生いて華さき実なる、金輪王出現して四天の山海を平になす大地は緜の如くやはらかに大海は甘露の如くあまく大山は金山・草木は七宝なり、此の輪王須臾の間に四天下をめぐる、されば天も守護し鬼神も来つてつかへ竜王も時に随つて雨をふらす、劣夫なんども・これに従ひ奉れば須臾に四天下をめぐる、是れ偏に転輪王の十善の感得せる大果報なり、毘沙門等の四大天王は又これには似るべくもなき四天下の自在の大王なり、帝釈はとう利天の主・第六天の魔王は欲界の頂に居して三界を領す、此れは上品の十善戒・無遮の大善の所感なり、大梵天王は三界の天尊・色界の頂に居して魔王・帝釈をしたがへ三千大千界を手ににぎる、有漏の禅定を修行せる上に慈・悲・喜・捨の四無量心を修行せる人なり、声聞と申して舎利弗・迦葉等は二百五十戒・無漏の禅定の上に苦・空・無常・無我の観をこらし三界の見思を断尽し水火に自在なり故に梵王と帝釈とを眷属とせり、縁覚は声聞に似るべくもなき人なり仏と出世をあらそふ人なり、昔猟師ありき飢えたる世に利たと申す辟支仏にひえの飯を一盃供養し奉りて彼の猟師・九十一劫が間・人中・天上の長者と生る、今生には阿那律と申す天眼第一の御弟子なり、此れを妙楽大師釈して云く「稗飯軽しと雖も所有を尽し及び田勝るるを以ての故に勝るる報を得る」等云云、釈の心はひえの飯は軽しといへども貴き辟支仏を供養する故にかかる大果報に度度生るとこそ書かれて候へ、又菩薩と申すは文殊・弥勒等なり、此の大菩薩等は彼の辟支仏に似るべからざる大人なり、仏は四十二品の無明と申す闇を破る妙覚の仏なり、八月十五夜の満月のごとし、此の菩薩等は四十一品の無明をつくして等覚の山の頂にのぼり十四夜の月のごとし、仏と申すは上の諸人には百千万億倍すぐれさせ給へる大人なり、仏には必ず三十二相あり其の相と申すは梵音声・無見頂相・肉髻相・白毫相・乃至千輻輪相等なり、此の三十二相の中の一相をば百福を以て成じ給へり、百福と申すは仮令大医ありて日本国・漢土・五天竺・十六の大国・五百の中国・十千の小国・乃至一閻浮提・四天下・六欲天・乃至三千大千世界の一切衆生の眼の盲たるを本の如く一時に開けたらんほどの大功徳を一つの福として此の福百をかさねて候はんを以て三十二相の中の一相を成ぜり、されば此の一相の功徳は三千大千世界の草木の数よりも多く四天下の雨の足よりもすぎたり、設い壊劫の時僧ぎゃ陀と申す大風ありて須弥山を吹き抜いて色究竟天にあげて・かへつて微塵となす大風なり、然れども仏の御身の一毛をば動かさず仏の御胸に大火あり平等大慧・大智光明・火坑三昧と云う、涅槃の時は此の大火を胸より出して一身を焼き給いしかば六欲・四海の天神・竜衆等・仏を惜み奉る故にあつまりて大雨を下し三千の大地を水となし須弥は流るといへども此の大火はきへず、仏にはかかる大徳ましますゆへに阿闍世王は十六大国の悪人を集め一四天下の外道をかたらひ提婆を師として無量の悪人を放ちて仏弟子をのりうち殺害せしのみならず、賢王にて・とがもなかりし父の大王を一尺の釘をもつて七処までうちつけ、はつけにし生母をば王のかんざしをきり刀を頭にあてし重罪のつもりに悪瘡七処に出でき、三七日を経て三月の七日に大地破れて無間地獄に堕ちて一劫を経べかりしかども仏の所に詣で悪瘡いゆるのみならず無間地獄の大苦をまぬかれ四十年の寿命延びたりき、又耆婆大臣も御つかひなりしかば炎の中に入つて瞻婆長者が子を取り出したりき、之を以て之を思うに一度も仏を供養し奉る人はいかなる悪人女人なりとも成仏得道疑無し、提婆には三十相あり二相かけたり所謂白毫と千輻輪となり、仏に二相劣りたりしかば弟子等軽く思いぬべしとて螢火をあつめて眉間につけて白毫と云ひ千輻輪には鍛冶に菊形をつくらせて足に付けて行くほどに足焼て大事になり結句死せんとせしかば仏に申す、仏御手を以てなで給いしかば苦痛さりき、ここにて改悔あるべきかと思いしにさはなくして瞿曇が習ふ医師はこざかしかりけり又術にて有るなど云ひしなり、かかる敵にも仏は怨をなし給はず何に況や仏を一度も信じ奉る者をば争でか捨て給うべきや。

[法蓮抄 本文] その二に続く




by johsei1129 | 2014-04-19 20:55 | 重要法門(十大部除く) | Trackback | Comments(0)
2014年 04月 14日

末法の法華経の行者に難が降りかかるのは必定と、門下の弟子・信徒を諭した書【如説修行抄】

【如説修行抄(にょせつしゅぎょうしょう】
■出筆時期:文永十年(西暦1273年)五月、五十二歳御作 門下一同に与えた御書。
■出筆場所:佐渡ヶ島 一谷(いちのさわ)
■出筆の経緯:大聖人に数々の大難が降りかかり佐渡に流罪になると、弟子・信徒の中に動揺し信仰を止める動きが起こる。この事態に対し、大聖人は法華経を引用し「末法流布の時・生を此の土に受け此の経を信ぜん人は如来の在世より猶多怨嫉の難甚しかるべしと見えて候なり」と末法の法華経の行者に難が降りかかるのは必定であり、それに耐えて布教に励むことにより「万民一同に南無妙法蓮華経と唱え奉らば吹く風枝をならさず雨壤を砕かず、代は羲農の世となりて今生には不祥の災難を払ひ長生の術を得、人法共に不老不死の理顕れん時を各各御覧ぜよ」と伝え、弟子たちに妙法蓮華経の布教に励むよう諭す目的で本書をしたためた。
■ご真筆:現存しておりません。古写本:日尊書写(茨城県富久寺所蔵)。

[如説修行抄 本文] 

夫れ以んみれば末法流布の時・生を此の土に受け此の経を信ぜん人は如来の在世より猶多怨嫉の難甚しかるべしと見えて候なり、其の故は在世は能化の主は仏なり弟子又大菩薩・阿羅漢なり、人天・四衆・八部・人非人等なりといへども調機調養して法華経を聞かしめ給ふ猶怨嫉多し、何に況んや末法今の時は教機時刻当来すといへども其の師を尋ぬれば凡師なり、弟子又闘諍堅固・白法隠没・三毒強盛の悪人等なり、故に善師をば遠離し悪師には親近す、其の上真実の法華経の如説修行の行者の師弟檀那とならんには三類の敵人決定せり。
 されば此の経を聴聞し始めん日より思い定むべし況滅度後の大難の三類甚しかるべしと、然るに我が弟子等の中にも兼て聴聞せしかども大小の難来る時は今始めて驚き肝をけして信心を破りぬ、兼て申さざりけるか経文を先として猶多怨嫉況滅度後・況滅度後と朝夕教へし事は是なり・予が或は所を・をわれ或は疵を蒙り・或は両度の御勘気を蒙りて遠国に流罪せらるるを見聞くとも今始めて驚くべきにあらざる物をや。

 問うて云く如説修行の行者は現世安穏なるべし何が故ぞ三類の強敵盛んならんや、答えて云く釈尊は法華経の御為に今度・九横の大難に値ひ給ふ、過去の不軽菩薩は法華経の故に杖木瓦石を蒙り・竺の道生は蘇山に流され法道三蔵は面に火印をあてられ師子尊者は頭をはねられ天台大師は南三・北七にあだまれ伝教大師は六宗ににくまれ給へり、此等の仏菩薩・大聖等は法華経の行者として而も大難にあひ給へり、此れ等の人人を如説修行の人と云わずんばいづくにか如説修行の人を尋ねん、然るに今の世は闘諍堅固・白法隠没なる上悪国悪王悪臣悪民のみ有りて正法を背きて邪法・邪師を崇重すれば国土に悪鬼乱れ入りて三災・七難盛に起れり、かかる時刻に日蓮仏勅を蒙りて此の土に生れけるこそ時の不祥なれ、法王の宣旨背きがたければ経文に任せて権実二教のいくさを起し忍辱の鎧を著て妙教の剣を提げ一部八巻の肝心・妙法五字の旗を指上て未顕真実の弓をはり正直捨権の箭をはげて大白牛車に打乗つて権門をかつぱと破りかしこへ・おしかけ・ここへ・おしよせ念仏・真言・禅・律等の八宗・十宗の敵人をせむるに或はにげ或はひきしりぞき或は生取られし者は我が弟子となる、或はせめ返し・せめをとしすれども・かたきは多勢なり法王の一人は無勢なり今に至るまで軍やむ事なし。

 法華折伏・破権門理の金言なれば終に権教権門の輩を一人もなく・せめをとして法王の家人となし天下万民・諸乗一仏乗と成つて妙法独り繁昌せん時、万民一同に南無妙法蓮華経と唱え奉らば吹く風枝をならさず雨壤を砕かず、代は羲農の世となりて今生には不祥の災難を払ひ長生の術を得、人法共に不老不死の理顕れん時を各各御覧ぜよ現世安穏の証文疑い有る可からざる者なり。

問うて云く如説修行の行者と申さんは何様に信ずるを申し候べきや、答えて云く当世・日本国中の諸人・一同に如説修行の人と申し候は諸乗一仏乗と開会しぬれば何れの法も皆法華経にして勝劣浅深ある事なし、念仏を申すも真言を持つも・禅を修行するも・総じて一切の諸経並びに仏菩薩の御名を持ちて唱るも皆法華経なりと信ずるが如説修行の人とは云われ候なり等云云、予が云く然らず所詮・仏法を修行せんには人の言を用う可らず只仰いで仏の金言をまほるべきなり我等が本師・釈迦如来は初成道の始より法華を説かんと思食しかども衆生の機根未熟なりしかば先ず権教たる方便を四十余年が間説きて後に真実たる法華経を説かせ給いしなり、此の経の序分無量義経にして権実のはうじを指て方便真実を分け給へり、所謂以方便力・四十余年・未顕真実是なり、大荘厳等の八万の大士・施権・開権・廃権等のいはれを心得分け給いて領解して言く法華経已前の歴劫修行等の諸経は終不得成・無上菩提と申しきり給ひぬ、然して後正宗の法華に至つて世尊法久後・要当説真実と説き給いしを始めとして無二亦無三・除仏方便説・正直捨方便・乃至不受余経一偈と禁め給へり、是より已後は唯有一仏乗の妙法のみ一切衆生を仏になす大法にて法華経より外の諸経は一分の得益も・あるまじきに末法の今の学者・何れも如来の説教なれば皆得道あるべしと思いて或は真言・或は念仏・或は禅宗・三論・法相・倶舎・成実・律等の諸宗・諸経を取取に信ずるなり。

是くの如き人をば若人不信・毀謗此経・即断一切世間仏種・乃至其人命終・入阿鼻獄と定め給へり、此等のをきての明鏡を本として一分もたがえず唯有一乗法と信ずるを如説修行の人とは仏は定めさせ給へり。

 難じて云く左様に方便権教たる諸経諸仏を信ずるを法華経と云はばこそ、只一経に限りて経文の如く五種の修行をこらし安楽行品の如く修行せんは如説修行の者とは云われ候まじきか如何、答えて云く凡仏法を修行せん者は摂折二門を知る可きなり一切の経論此の二を出でざるなり、されば国中の諸学者等仏法をあらあら学すと云へども時刻相応の道をしらず四節・四季・取取に替れり、夏は熱く冬はつめたく春は花さき秋は菓なる春種子を下して秋菓を取るべし秋種子を下して春菓を取らんに豈取らる可けんや、極寒の時は厚き衣は用なり極熱の夏はなにかせん、凉風は夏の用なり冬はなにかせん、仏法も亦復是くの如し小乗の流布して得益あるべき時もあり、権大乗の流布して得益あるべき時もあり、実教の流布して仏果を得べき時もあり、然るに正像二千年は小乗権大乗の流布の時なり、末法の始めの五百年には純円・一実の法華経のみ広宣流布の時なり、此の時は闘諍堅固・白法隠没の時と定めて権実雑乱の砌なり、敵有る時は刀杖弓箭を持つ可し敵無き時は弓箭兵杖何にかせん、今の時は権教即実教の敵と成るなり、一乗流布の時は権教有つて敵と成りて・まぎらはしくば実教より之を責む可し、是を摂折二門の中には法華経の折伏と申すなり、天台云く「法華折伏・破権門理」とまことに故あるかな、然るに摂受たる四安楽の修行を今の時行ずるならば冬種子を下して春菓を求る者にあらずや、〓の暁に鳴くは用なり宵に鳴くは物怪なり、権実雑乱の時法華経の御敵を責めずして山林に閉じ篭り摂受を修行せんは豈法華経修行の時を失う物怪にあらずや、されば末法・今の時・法華経の折伏の修行をば誰か経文の如く行じ給へしぞ、誰人にても坐せ諸経は無得道・堕地獄の根源・法華経独り成仏の法なりと音も惜まずよばはり給いて諸宗の人法共に折伏して御覧ぜよ三類の強敵来らん事疑い無し。

 我等が本師・釈迦如来は在世八年の間折伏し給ひ天台大師は三十余年・伝教大師は二十余年・今日蓮は二十余年の間権理を破す其の間の大難数を知らず、仏の九横の難に及ぶか及ばざるは知らず、恐らくは天台・伝教も法華経の故に日蓮が如く大難に値い給いし事なし、彼は只悪口・怨嫉計りなり、是は両度の御勘気・遠国に流罪せられ竜口の頚の座・頭の疵等其の外悪口せられ弟子等を流罪せられ篭に入れられ檀那の所領を取られ御内を出だされし、是等の大難には竜樹・天台・伝教も争か及び給うべき、されば如説修行の法華経の行者には三類の強敵打ち定んで有る可しと知り給へ、されば釈尊御入滅の後二千余年が間に如説修行の行者は釈尊・天台・伝教の三人は・さてをき候ぬ、末法に入つては日蓮並びに弟子檀那等是なり、我等を如説修行の者といはずば釈尊・天台・伝教等の三人も如説修行の人なるべからず、提婆・瞿伽利・善星・弘法・慈覚・智証・善導・法然・良観房等は即ち法華経の行者と云はれ、釈尊・天台・伝教・日蓮並びに弟子・檀那は念仏・真言・禅・律等の行者なるべし、法華経は方便権教と云はれ念仏等の諸経は還つて法華経となるべきか、東は西となり西は東となるとも大地は持つ所の草木共に飛び上りて天となり天の日月・星宿は共に落ち下りて地となるためしはありとも・いかでか此の理あるべき。

 哀なるかな今・日本国の万民・日蓮並びに弟子檀那等が三類の強敵に責められ大苦に値うを見て悦んで笑ふとも昨日は人の上・今日は身の上なれば日蓮並びに弟子・檀那共に霜露の命の日影を待つ計りぞかし、只今仏果に叶いて寂光の本土に居住して自受法楽せん時、汝等が阿鼻大城の底に沈みて大苦に値わん時我等何計無慚と思はんずらん、汝等何計うらやましく思はんずらん、一期を過ぐる事程も無ければいかに強敵重なるとも・ゆめゆめ退する心なかれ恐るる心なかれ、縦ひ頚をば鋸にて引き切り・どうをばひしほこを以て・つつき・足にはほだしを打つてきりを以てもむとも、命のかよはんほどは南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経と唱えて唱へ死に死るならば釈迦・多宝・十方の諸仏・霊山会上にして御契約なれば須臾の程に飛び来りて手をとり肩に引懸けて霊山へ・はしり給はば二聖・二天・十羅刹女は受持の者を擁護し諸天・善神は天蓋を指し旛を上げて我等を守護して慥かに寂光の宝刹へ送り給うべきなり、あらうれしや・あらうれしや。

文永十年癸酉五月日     日蓮 花押
人々御中へ
此の書御身を離さず常に御覧有る可く候






by johsei1129 | 2014-04-14 20:55 | 重要法門(十大部除く) | Trackback | Comments(0)
2014年 04月 13日

妙法蓮華経と唱えることで己心中の仏性が呼ばれて必ず顕れる事を明らかにした書【法華初心成仏抄】五

[法華初心成仏抄 本文] その五

 問うて云く凡そ仏法を能く心得て仏意に叶へる人をば世間に是を重んじ一切是を貴む、然るに当世法華経を持つ人人をば世こぞつて悪み嫉み軽しめ賤み或は所を追ひ出し、或は流罪し供養をなすまでは思いもよらず怨敵の様ににくまるるは、いかさまにも心わろくして仏意にもかなはず・ひがさまに法を心得たるなるべし、経文には如何が説きたるや、答えて云く経文の如くならば末法の法華経の行者は人に悪まるる程に持つを実の大乗の僧とす、又経を弘めて人を利益する法師なり、人に吉と思はれ人の心に随いて貴しと思はれん僧をば法華経のかたき世間の悪知識なりと思うべし、此の人を経文には猟師の目を細めにして鹿をねらひ猫の爪を隠して鼠をねらふが如くにして在家の俗男・俗女の檀那をへつらい・いつわり・たぼらかすべしと説き給へり、其の上勧持品には法華経の敵人三類を挙げられたるに、一には在家の俗男・俗女なり此の俗男・俗女は法華経の行者を憎み罵り打ちはり・きり殺し所を追ひ出だし或は上へ讒奏して遠流し・なさけなくあだむ者なり、二には出家の人なり此の人は慢心高くして内心には物も知らざれども智者げにもてなして世間の人に学匠と思はれて法華経の行者を見ては怨み嫉み軽しめ、賤み犬野干よりも・わろきようを人に云いうとめ法華経をば我一人心得たりと思う者なり、三には阿練若(あれんにゃ)の僧なり此の僧は極めて貴き相を形に顕し三衣・一鉢を帯して山林の閑かなる所に篭り居て在世の羅漢の如く諸人に貴まれ仏の如く万人に仰がれて法華経を説の如くに読み持ち奉らん僧を見ては憎み嫉んで云く大愚癡の者・大邪見の者なり総て慈悲なき者・外道の法を説くなんど云わん、上一人より仰いで信を取らせ給はば其の已下万人も仏の如くに供養をなすべし、法華経を説の如くよみ持たん人は必ず此の三類の敵人に怨まるべきなりと仏説き給へり。

 問うて云く仏の名号を持つ様に法華経の名号を取り分けて持つべき証拠ありや如何、答えて云く経に云く「仏諸の羅刹女に告げたまわく善き哉善き哉汝等但能く法華の名を受持する者を擁護せん福量る可からず」と云云此の文の意は十羅刹の法華の名を持つ人を護らんと誓言を立て給うを大覚世尊讃めて言く善き哉善き哉汝等南無妙法蓮華経と受け持たん人を守らん功徳いくら程とも計りがたく・めでたき功徳なり神妙なりと仰せられたる文なり、是れ我等衆生の行住坐臥に南無妙法蓮華経と唱ふべしと云う文なり。

凡そ妙法蓮華経とは我等衆生の仏性と梵王・帝釈等の仏性と舎利弗・目連等の仏性と文殊・弥勒等の仏性と三世の諸仏の解(さとり)の妙法と一体不二なる理を妙法蓮華経と名けたるなり、故に一度妙法蓮華経と唱うれば一切の仏・一切の法・一切の菩薩・一切の声聞・一切の梵王・帝釈・閻魔・法王・日月・衆星・天神・地神・乃至地獄・餓鬼・畜生・修羅・人天・一切衆生の心中の仏性を唯一音に喚び顕し奉る功徳・無量無辺なり、我が己心の妙法蓮華経を本尊とあがめ奉りて我が己心中の仏性・南無妙法蓮華経とよびよばれて顕れ給う処を仏とは云うなり、譬えば篭の中の鳥なけば空とぶ鳥のよばれて集まるが如し、空とぶ鳥の集まれば篭の中の鳥も出でんとするが如し口に妙法をよび奉れば我が身の仏性もよばれて必ず顕れ給ふ、梵王・帝釈の仏性はよばれて我等を守り給ふ、仏菩薩の仏性はよばれて悦び給ふ、されば「若し暫くも持つ者は我れ則ち歓喜す諸仏も亦然なり」と説き給うは此の心なり、されば三世の諸仏も妙法蓮華経の五字を以て仏に成り給いしなり三世の諸仏の出世の本懐・一切衆生・皆成仏道の妙法と云うは是なり。是等の趣きを能く能く心得て仏になる道には我慢偏執の心なく南無妙法蓮華経と唱へ奉るべき者なり。

                                              日蓮在御判

by johsei1129 | 2014-04-13 20:55 | 重要法門(十大部除く) | Trackback | Comments(0)
2014年 04月 12日

妙法蓮華経と唱えることで己心中の仏性が呼ばれて必ず顕れる事を明らかにした書【法華初心成仏抄】四

[法華初心成仏抄 本文] その四
 問うて云く無智の人も法華経を信じたらば即身成仏すべきか、又何れの浄土に往生すべきぞや、答えて云く法華経を持つにおいては深く法華経の心を知り止観の坐禅をし一念三千・十境・十乗の観法をこらさん人は実に即身成仏し解を開く事もあるべし、其の外に法華経の心をもしらず無智にしてひら信心の人は浄土に必ず生べしと見えたり、されば生十方仏前と説き或は即往安楽世界と説きき、是の法華経を信ずる者の往生すと云う明文なり、之に付いて不審あり其の故は我が身は一にして十方の仏前に生るべしと云う事心得られず、何れにてもあれ一方に限るべし正に何れの方をか信じて往生すべきや、答えて云く一方にさだめずして十方と説くは最もいはれあるなり、所以に法華経を信ずる人の一期終る時には十方世界の中に法華経を説かん仏のみもとに生るべきなり、余の華厳・阿含・方等・般若経を説く浄土へは生るべからず、浄土十方に多くして声聞の法を説く浄土もあり辟支仏の法を説く浄土もあり或は菩薩の法を説く浄土もあり、法華経を信ずる者は此等の浄土には一向生れずして法華経を説き給う浄土へ直ちに往生して座席に列りて法華経を聴聞してやがてに仏になるべきなり、然るに今世にして法華経は機に叶はずと云いうとめて西方浄土にて法華経をさとるべしと云はん者は阿弥陀の浄土にても法華経をさとるべからず十方の浄土にも生るべからず、法華経に背く咎重きが故に永く地獄に堕つべしと見えたり、其人命終入阿鼻獄と云へる是なり。

 問うて云く即往安楽世界阿弥陀仏と云云、此の文の心は法華経を受持し奉らん女人は阿弥陀仏の浄土に生るべしと説き給へり念仏を申しても阿弥陀の浄土に生るべしと云ふ、浄土既に同じ念仏も法華経も等と心え候べきか如何、答えて云く観経は権教なり法華経は実教なり全く等しかるべからず其の故は仏世に出でさせ給いて四十余年の間・多くの法を説き給いしかども二乗と悪人と女人とをば簡(きら)ひはてられて成仏すべしとは一言も仰せられざりしに此の経にこそ敗種の二乗も三逆の調達も五障の女人も仏になるとは説き給い候つれ、其の旨経文に見えたり、華厳経には「女人は地獄の使なり仏の種子を断ず外面は菩薩に似て内心は夜叉の如し」と云へり、銀色女経には三世の諸仏の眼は抜けて大地に落つるとも法界の女人は永く仏になるべからずと見えたり、又経に云く「女人は大鬼神なり能く一切の人を喰う」と、竜樹菩薩の大論には一度女人を見れば永く地獄の業を結ぶと見えたり・されば実にてやありけん善導和尚は謗法なれども女人をみずして一期生と云はれたり、又業平が歌にも葎(むぐら)をいて・あれたるやどのう(憂)れたきは・かりにも鬼の・す(集)だくなりけりと云うも女人をば鬼とよめるにこそ侍れ、又女人には五障三従と云う事有るが故に罪深しと見えたり、五障とは一には梵天王・二には帝釈・三には魔王・四には転輪聖王・五には仏にならずと見えたり、又三従とは女人は幼き時は親に従いて心に任せず、人となりては男に従いて心にまかせず、年よりぬれば子に従いて心にまかせず加様に幼き時より老耄に至るまで三人に従て心にまかせず思う事をもいはず見たき事をもみず聴問したき事をもきかず是を三従とは説くなり、されば栄啓期が三楽を立てたるにも女人の身と生れざるを一の楽みといへり、加様に内典・外典にも嫌はれたる女人の身なれども此の経を読まねども・かかねども身と口と意とにうけ持ちて殊に口に南無妙法蓮華経と唱へ奉る女人は在世の竜女・憍曇弥(きょうどんみ)・耶輸陀羅(やしゅたら)女の如くに・やすやすと仏になるべしと云う経文なり、又安楽世界と云うは一切の浄土をば皆安楽と説くなり、又阿弥陀と云うも観経の阿弥陀にはあらず、所以に観経の阿弥陀仏は法蔵比丘の阿弥陀・四十八願の主十劫成道の仏なり、法華経にも迹門の阿弥陀は大通智勝仏の十六王子の中の第九の阿弥陀にて法華経大願の主の仏なり、本門の阿弥陀は釈迦分身の阿弥陀なり随つて釈にも「須く更に観経等を指すべからざるなり」と釈し給へり。

 問うて云く経に難解難入と云へり世間の人・此の文を引いて法華経は機に叶はずと申し候は道理と覚え候は如何、答えて云く謂れなき事なり其の故は此の経を能(よく)も心えぬ人の云う事なり、法華より已前の経は解り難く入り難し法華の座に来りては解り易く入り易しと云う事なり、されば妙楽大師の御釈に云く「法華已前は不了義なるが故に・故に難解と云う即ち今の教には咸く皆実に入るを指す故に易知と云う」文、此の文の心は法華より已前の経にては機つたなくして解り難く入り難し、今の経に来りては機賢く成りて解り易く入り易しと釈し給へり、其の上難解難入と説かれたる経が機に叶はずば先念仏を捨てさせ給うべきなり、其の故は雙観経に「難きが中の難き此の難に過ぎたるは無し」と説き阿弥陀経には難信の法と云へり、文の心は此の経を受け持たん事は難きが中の難きなり此れに過ぎたる難きはなし難信の法なりと見えたり。

 問うて云く経文に「四十余年未だ真実を顕さず」と云い、又「無量無辺不可思議阿僧祇劫を過るとも終に無上菩提を成ずることを得じ」と云へり、此の文は何体(いかてい)の事にて候や、答えて云く此の文の心は釈迦仏・一期五十年の説法の中に始めの華厳経にも真実をとかず中の方等・般若にも真実をとかず、此の故に禅宗・念仏・戒等を行ずる人は無量無辺劫をば過ぐとも仏にならじと云う文なり、仏四十二年の歳月を経て後・法華経を説き給ふ文には「世尊の法は久くして後に要らず当に真実を説き給うべし」と仰せられしかば、舎利弗等の千二百の羅漢・万二千の声聞・弥勒等の八万人の菩薩・梵王・帝釈等の万億の天人・阿闍世王等の無量無辺の国王・仏の御言を領解する文には「我等昔より来数(このかた・しばしば)世尊の説を聞きたてまつるに未だ曾つて是くの如き深妙の上法を聞かず」と云つて、我等仏に離れ奉らずして四十二年・若干の説法を聴聞しつれども・いまだ是くの如き貴き法華経をばきかずと云へる、此等の明文をば・いかが心えて世間の人は法華経と余経と等しく思ひ剰(あまつさ)へ機に叶はねば闇の夜の錦・こぞの暦なんど云ひて、適(たまたま)持つ人を見ては賤(いやし)み軽しめ悪み嫉み口をすくめなんどする是れ併(しかしなが)ら謗法なり争(いかで)か往生成仏もあるべきや、必ず無間地獄に堕つべき者と見えたり。

[法華初心成仏抄 本文] その五に続く




by johsei1129 | 2014-04-12 19:31 | 重要法門(十大部除く) | Trackback | Comments(0)
2014年 04月 11日

妙法蓮華経と唱えることで己心中の仏性が呼ばれて必ず顕れる事を明らかにした書【法華初心成仏抄】三

[法華初心成仏抄 本文] その三
 浄土宗の人人・末法万年には余経悉く滅し弥陀一教のみと云ひ又当今末法は是れ五濁の悪世唯浄土の一門のみ有て通入す可き路なりと云つて虚言(そらごと)して大集経に云くと引ども彼の経に都て此文なし、其の上あるべき様もなし仏の在世の御言に当今末法五濁の悪世には但浄土の一門のみ入るべき道なりとは説き給うべからざる道理顕然なり本経には「当来の世・経道滅尽し特(ひと)り此の経を留めて止住する事百歳ならん」と説けり、末法一万年の百歳とは全く見えず、然るに平等覚経・大阿弥陀経を見るに仏滅後一千年の後の百歳とこそ意えられたれ、然るに善導が惑へる釈をば尤も道理と人・皆思へり是は諸僻案の者なり、但し心あらん人は世間のことはりをもつて推察せよ、大旱魃のあらん時は大海が先にひるべきか小河が先にひるべきか仏是を説き給うには法華経は大海なり観経・阿弥陀経等は小河なり、されば念仏等の小河の白法こそ先にひるべしと経文にも説き給いて候ひぬれ、大集経の五箇の五百歳の中の第五の五百歳・白法隠没と云と雙観経に経道滅尽と云とは但一つ心なり、されば末法には始めより雙観経等の経道滅尽すと聞えたり経道滅尽と云は経の利生の滅すと云う事なり、色の経巻有るにはよるべからず、されば当時は経道滅尽の時に至つて二百歳に余れり、此の時は但法華経のみ利生得益あるべし。

 されば此経を受持して南無妙法蓮華経と唱え奉るべしと見えたり。薬王品には「後の五百歳の中に閻浮提に広宣流布して断絶せしむることなけん」と説き給ひ、天台大師は「後の五百歳遠く妙道に沾ん」と釈し、妙楽大師は「且らく大経の流行す可き時に拠る」と釈して後の五百歳の間に法華経弘まりて其の後は閻浮提の内に絶え失せる事有るべからずと見えたり。
安楽行品に云く「後の末世の法滅せんと欲せん時に於て斯の経典を受持し読誦せん者」文 神力品に云く「爾の時に仏上行等の菩薩大衆に告げたまわく、属累の為の故に此の経の功徳を説くとも猶尽すこと能わじ。

要を以て之を云わば如来の一切の所有の法・如来の一切の自在の神力・如来の一切の秘要の蔵・如来の一切の甚深の事皆此経に於て宣示顕説す」と云云、此等の文の心は釈尊入滅の後・第五の五百歳と説くも来世と云うも濁悪世と説くも正像二千年過ぎて末法の始二百余歳の今時は唯法華経計り弘まるべしと云う文なり、其の故は人既にひがみ法も実にしるしなく仏神の威験もましまさず今生後生の祈りも叶はず、かからん時は・たよりを得て天魔・波旬乱れ入り国土常に飢渇して天下も疫癘し他国侵逼難(たこくしんぴつなん)・自界叛逆難とて我が国に軍(いくさ)合戦常にありて、後には他国より兵どもをそひ来りて此の国を責むべしと見えたり、此くの如き闘諍堅固の時は余経の白法(びゃくほう)は験し失せて法華経の大良薬を以て此の大難をば治すべしと見えたり。

 法華経を以て国土を祈らば上一人より下万民に至るまで悉く悦び栄へ給うべき鎮護国家の大白法なり、但し阿闍世王・阿育大王は始めは悪王なりしかども耆婆大臣の語を用ひ夜叉尊者を信じ給いて、後にこそ賢王の名をば留め給いしか。

南三・北七を捨てて智ぎ法師を用ひ給いし陳主・六宗の碩徳を捨てて最澄法師を用ひ給いし桓武天皇は、今に賢王の名を留め給へり、智ぎ法師と云うは後には天台大師と号し奉る、最澄法師は後には伝教大師と云う是なり、今の国主も又是くの如し、現世安穏後生善処なるべき此の大白法を信じて国土に弘め給はば、万国に其の身を仰がれ後代に賢人の名を留め給うべし。知らず、又無辺行菩薩の化身にてやましますらん。

又妙法の五字を弘め給はん智者をばいかに賤くとも上行菩薩の化身か、又釈迦如来の御使かと思うべし。又薬王菩薩・薬上菩薩・観音勢至の菩薩は、正像二千年の御使なり。此等の菩薩達の御番は早過たれば上古の様に利生有るまじきなり。されば当世の祈を御覧ぜよ一切叶はざる者なり。

末法今の世の番衆は上行・無辺行等にてをはしますなり。此等を能能明らめ信じてこそ法の験も仏菩薩の利生も有るべしとは見えたれ。譬えばよき火打とよき石のかどと・よきほくち(火口)と此の三寄り合いて火を用ゆるなり、祈も又是くの如しよき師と・よき檀那と・よき法と此の三寄り合いて祈を成就し国土の大難をも払ふべき者なり。

よき師とは指したる世間の失無くして聊(いささか)のへつらうことなく少欲知足にして慈悲有らん僧の経文に任せて法華経を読み持ちて人をも勧めて持たせん僧をば仏は一切の僧の中に吉第一の法師なりと讃められたり、吉檀那とは貴人にもよらず賤人をもにくまず上にもよらず下をもいやしまず一切・人をば用いずして一切経の中に法華経を持たん人をば一切の人の中に吉人なりと仏は説給へり。吉法とは此の法華経を最為第一の法と説かれたり、已説の経の中にも今説の経の中にも当説の経の中にも此の経第一と見えて候へば吉法なり。

禅宗・真言宗等の経法は第二・第三なり殊に取り分けて申せば真言の法は第七重の劣なり、然るに日本国には第二・第三乃至第七重の劣の法をもつて御祈祷あれども未だ其の証拠をみず、最上第一の妙法をもつて御祈祷あるべきか、是を正直捨方便・但説無上道・唯此一事実と云へり誰か疑をなすべきや。

 問うて云く無智の人来りて生死を離るべき道を問わん時は何れの経の意をか説くべき仏如何が教へ給へるや。
答えて云く法華経を説くべきなり、所以に法師品に云く「若(も)し人有つて何等の衆生か未来世に於て当に作仏することを得べきと問わば応に示すべし、是の諸人等未来世に於て必ず作仏することを得ん」と云云、安楽行品に云く「難問する所有らば小乗の法を以て答えず但大乗を以て而も為に解説(げせつ)せよ」云云、此等の文の心は何なる衆生か仏になるべきと問わば法華経を受持し奉らん人必ず仏になるべしと答うべきなり是れ仏の御本意なり。

之に付て不審あり衆生の根性区(まちまち)にして念仏を聞かんと願ふ人もあり法華経を聞かんと願ふ人もあり、念仏を聞かんと願ふ人に法華経を説いて聞かせんは何の得益かあるべき、又念仏を聞かんが為に請じたらん時にも強て法華経を説くべきか、仏の説法も機に随いて得益有るをこそ本意とし給うらんと不審する人あらば云うべし、元より末法の世には無智の人に機に叶ひ叶はざるを顧みず但強いて法華経の五字の名号を説いて持たすべきなり、其の故は釈迦仏・昔不軽菩薩と云はれて法華経を弘め給いしには男女・尼法師がおしなべて用ひざりき、或は罵られ毀られ或は打れ追はれ一しなならず、或は怨まれ嫉まれ給いしかども少しもこりもなくして強いて法華経を説き給いし故に今の釈迦仏となり給いしなり、不軽菩薩を罵りまいらせし人は口もゆがまず打ち奉りしかいなもすくまず、付法蔵の師子尊者も外道に殺されぬ。
又法道三蔵も火印を面にあてられて江南に流され給いしぞかし、まして末法にかひなき僧の法華経を弘めんにはかかる難あるべしと経文に正く見えたり、されば人是を用ひず機に叶はずと云へども強いて法華経の五字の題名を聞かすべきなり、是ならでは仏になる道はなきが故なり、又或人不審して云く、機に叶はざる法華経を強いて説いて謗ぜさせて・悪道に人を堕さんよりは、機に叶へる念仏を説いて・発心せしむべし、利益もなく謗ぜさせて返つて地獄に堕さんは法華経の行者にもあらず邪見の人にてこそ有るらめと不審せば、云うべし経文には何体にもあれ末法には強いて法華経を説くべしと仏の説き給へるをばさていかが心うべく候や。

釈迦仏・不軽菩薩・天台・妙楽・伝教等はさて邪見の人・外道にて・おはしまし候べきか、又悪道にも堕ちず三界の生を離れたる二乗と云う者をば仏のの給はく設ひ犬野干の心をば発すとも二乗の心をもつべからず五逆十悪を作りて地獄には堕つとも二乗の心をばもつべからずなんどと禁められしぞかし、悪道におちざる程の利益は争でか有るべきなれども其れをば仏の御本意とも思し食さず地獄には堕つるとも仏になる法華経を耳にふれぬれば是を種として必ず仏になるなり。

されば天台妙楽も此の心を以て強いて法華経を説くべしとは釈し給へり。譬えば、人の地に依りて倒れたる者の返つて地をおさへて起が如し、地獄には堕つれども疾く浮んで仏になるなり。

当世の人・何となくとも法華経に背く失に依りて地獄に堕ちん事疑いなき故に、とてもかくても法華経を強いて説き聞かすべし、信ぜん人は仏になるべし謗ぜん者は毒鼓の縁となつて仏になるべきなり。
何にとしても仏の種は法華経より外になきなり、権教をもつて仏になる由だにあらば、なにしにか仏は強いて法華経を説いて謗ずるも信ずるも利益あるべしと説き我不愛身命とは仰せらるべきや、よくよく此等を道心ましまさん人は御心得あるべきなり。


by johsei1129 | 2014-04-11 20:00 | 重要法門(十大部除く) | Trackback | Comments(0)