人気ブログランキング |

日蓮大聖人『御書』解説

nichirengs.exblog.jp
ブログトップ

カテゴリ:観心本尊抄(御書五大部)( 13 )


2019年 10月 19日

末法の法本尊をあきらかにした書【観心本尊抄】 その三

[観心本尊抄 本文] その三
f0301354_17103312.jpg

 又本門十四品の一経に序正流通有り、涌出品(ゆじゅつほん)の半品を序分と為し寿量品と前後の二半と此れを正宗と為す、其の余(よ)は流通分なり、其の教主を論ずれば始成正覚(しじょうしょうかく)の釈尊に非ず、所説の法門も亦天地の如し、十界久遠の上に国土世間既に顕われ一念三千殆んど竹膜(ちくまつ)を隔(へだ)つ、又迹門並びに前四味・無量義経・涅槃(ねはん)経等の三説は悉(ことごと)く随他意の易信易解(いしんいげ)・本門は三説の外の難信難解・随自意なり。

 又本門に於て序正流通有り。過去大通仏の法華経より乃至現在の華厳(けごん)経乃至迹門十四品・涅槃経等の一代五十余年の諸経、十方三世諸仏の微塵(みじん)の経経は、皆寿量の序分なり、一品二半よりの外は小乗教・邪教・未得道教・覆相(ふそう)教と名く。

 其の機を論ずれば徳薄垢重(とくはくくじゅう)・幼稚(ようち)・貧窮(びんぐ)・孤露(ころ)にして禽獣(きんじゅう)に同ずるなり、爾前迹門の円教尚仏因に非ず、何(いか)に況(いわん)や大日経等の諸小乗経をや、何に況や華厳・真言等の七宗等の論師・人師の宗をや、与えて之を論ずれば前三教を出でず奪つて之を云えば蔵通(ぞうつう)に同ず、設(たと)い法は甚深と称すとも未だ種熟脱を論ぜず還(かえ)つて灰断(けだん)に同じ、化の始終無しとは是なり、譬えば王女たりと雖も畜種を懐妊(かいにん)すれば其の子尚旃陀羅(せんだら)に劣れるが如し、此等は且(しばら)く之を閣(お)く、迹門十四品の正宗の八品は一往之を見るに二乗を以て正と為し菩薩凡夫を以て傍と為す、再往之を勘(かんが)うれば凡夫・正像末を以て正と為す正像末の三時の中にも末法の始を以て正が中の正と為す、問うて曰く其の証如何(いか)ん、答えて曰く法師品に云く「而も此の経は如来の現在すら猶怨嫉(おんしつ)多し、況や滅度の後をや」宝塔品(ほうとうぼん)に云く「法をして久住せしむ乃至(ないし)来れる所の化仏当(けぶつ・まさ)に此の意を知るべし」等、勧持安楽等之を見る可し、迹門是くの如し、本門を以て之を論ずれば一向に末法の初を以て正機と為す、所謂一往之を見る時は久種を以て下種と為し大通前四味迹門を熟と為して本門に至つて等妙に登らしむ、再往之を見れば迹門には似ず、本門は序正流通倶(とも)に末法の始を以て詮(せん)と為す、在世の本門と末法の始は一同に純円(じゅんえん)なり、但し彼は脱此れは種なり、彼は一品二半此れは但(ただ)題目の五字なり。

 問うて曰く其の証文如何、答えて云く涌出品に云く「爾(そ)の時に他方の国土の諸(もろもろ)の来れる菩薩摩訶薩(まかさつ)の八恒河沙(ごうがしゃ)の数に過ぎたる大衆の中に於て起立し合掌(がっしょう)し礼を作(な)して仏に白(もう)して言(もう)さく、世尊若し我等に仏の滅後に於て娑婆(しゃば)世界に在つて勤加精進(ごんかしょうじん)して是の経典を護持し読誦し書写し供養せんことを聴(ゆる)し給わば、当に此の土に於て広く之を説きたてまつるべし、爾の時に仏・諸の菩薩摩訶薩衆に告げ給わく、止(やみ)ね善男子・汝等が此の経を護持せんことを須(もち)いじ」等云云、法師より已下五品の経文前後水火なり、宝塔品の末に云く「大音声を以て普(あまね)く四衆に告ぐ、誰か能く此の娑婆国土に於て広く妙法華経を説かんものなる」等云云、設(たと)い教主一仏為りと雖も之を奨勧(しょうかん)し給わば薬王等の大菩薩・梵帝・日月・四天等は之を重んず可き処に多宝仏・十方の諸仏客仏と為(し)て之を諌暁(かんぎょう)し給う、諸の菩薩等は此の慇懃(おんごん)の付属を聞いて「我不愛身命(がふあいしんみょう)」の誓言を立つ、此等は偏(ひとえ)に仏意に叶わんが為なり、而るに須臾(しゅゆ)の間に仏語相違して過八恒沙(かはちごうじゃ)の此の土の弘経を制止し給う、進退惟(こ)れ谷(きわ)まり凡智に及ばず、天台智者大師前三後三の六釈を作つて之を会し給えり、所詮迹化他方の大菩薩等に我が内証の寿量品を以て授与すべからず、末法の初は謗法の国にして悪機なる故に之を止めて地涌千界の大菩薩を召して寿量品の肝心たる妙法蓮華経の五字を以て閻浮(えんぶ)の衆生に授与せしめ給う、又迹化の大衆は釈尊初発心の弟子等に非ざる故なり、天台大師云く「是れ我が弟子なり応(まさ)に我が法を弘むべし」妙楽云く「子父の法を弘む、世界の益有り」、輔正記(ふしょうき)に云く「法是れ久成の法なるを以ての故に久成の人に付す」等云云。
 又弥勒菩薩疑請(みろくぼさつ・ぎしょう)して云く経に云く「我等は復(ま)た仏の随宜(ずいぎ)の所説・仏所出の言未だ曾て虚妄(こもう)ならず・仏の所知は皆悉(ことごと)く通達し給えりと信ずと雖も、然も諸の新発意(しんぽっち)の菩薩・仏の滅後に於て若し是の語を聞かば或は信受せずして法を破する罪業の因縁を起さん、唯然(ただしか)り世尊・願くは為に解説して我等が疑を除き給え及び未来世の諸の善男子此の事を聞き已(おわ)つて亦疑を生ぜじ」等云云、文の意は寿量の法門は滅後の為に之を請ずるなり、寿量品に云く「或は本心を失える或は失わざる者あり乃至心を失わざる者は此の良薬の色香倶に好きを見て即便(すなわち)之を服するに病尽(ことごと)く除癒(のぞこりいえ)ぬ」等云云、久遠下種・大通結縁(けちえん)乃至前四味迹門等の一切の菩薩・二乗・人天等の本門に於て得道する是なり、経に云く「余の心を失える者は其の父の来れるを見て亦歓喜し問訊(もんじん)して病を治せんことを求むと雖も然も其の薬を与うるに而も肯えて服せず、所以(ゆえん)は何(いか)ん毒気深く入つて本心を失えるが故に此の好き色香ある薬に於て美(うま)からずと謂えり乃至我今当(まさ)に方便を設け此の薬を服せしむべし、乃至是の好き良薬を今留めて此に在(お)く汝取つて服す可し、差(いえ)じと憂うること勿れ、是の教を作(な)し已(おわ)つて復(ま)た他国に至つて使を遣わして還つて告ぐ」等云云、分別功徳品に云く「悪世末法の時」等云云。
 問うて曰く、此の経文の遣使還告(けんしげんごう)は如何、答えて曰く四依なり四依に四類有り、小乗の四依は多分は正法の前の五百年に出現す、大乗の四依は多分は正法の後の五百年に出現す、三に迹門の四依は多分は像法一千年・少分(しょうぶん)は末法の初なり、四に本門の四依は地涌千界末法の始に必ず出現す可し、今の遣使還告は地涌なり是好良薬とは寿量品の肝要たる名体宗用教の南無妙法蓮華経是なり、此の良薬をば仏猶迹化に授与し給わず、何に況や他方をや。

 神力品に云く「爾の時に千世界微塵(みじん)等の菩薩摩訶薩(まかさつ)の地より涌出せる者皆仏前に於て一心に合掌し尊顔を瞻仰(せんごう)して仏に白(もう)して言(もう)さく、世尊・我等仏の滅後・世尊分身の所在の国土・滅度の処に於て当に広く此の経を説くべし」等云云、天台の云く「但下方の発誓(ほっせい)のみを見たり」等云云、道暹(どうせん)云く「付属とは此の経をば唯下方涌出の菩薩に付す、何が故に爾(しか)る、法是れ久成の法なるに由るが故に久成の人に付す」等云云、夫(そ)れ文殊師利菩薩(もんじゅしりぼさつ)は東方金色世界の不動仏の弟子・観音は西方無量寿仏の弟子・薬王菩薩は日月浄明徳仏の弟子・普賢菩薩(ふげんぼさつ)は宝威仏(ほういぶつ)の弟子なり、一往釈尊の行化を扶(たす)けん為に娑婆世界に来入す又爾前迹門(にぜんしゃくもん)の菩薩なり、本法所持の人に非れば末法の弘法に足らざる者か、経に云く「爾(そ)の時に世尊乃至(せそんないし)一切の衆の前に大神力を現じ給う、広長舌を出して上梵世に至らしめ乃至十方世界衆(もろもろ)の宝樹の下師子の座の上の諸仏も亦復(またまた)是くの如く広長舌を出し給う」等云云、夫れ顕密二道・一切の大小乗経の中に釈迦諸仏並び坐し舌相梵天(ぜっそうぼんてん)に至る文之無し、阿弥陀経の広長舌相三千を覆(おお)うは有名無実なり、般若経(はんにゃきょう)の舌相三千光を放つて般若を説きしも全く証明に非ず、此は皆兼帯(けんたい)の故に久遠を覆相(ふそう)する故なり、是くの如く十神力を現じて地涌の菩薩に妙法の五字を嘱累(ぞくるい)して云く、経に曰く「爾(そ)の時に仏上行等の菩薩大衆に告げ給わく諸仏の神力は是くの如く無量無辺不可思議なり、若し我れ是の神力を以て無量無辺百千万億阿僧祇劫(あそうぎこう)に於て嘱累(ぞくるい)の為の故に此の経の功徳を説くとも猶尽すこと能(あた)わじ、要を以て之を言わば如来の一切の所有の法・如来の一切の自在の神力・如来の一切の秘要(ひよう)の蔵・如来の一切の甚深の事皆此の経に於て宣示顕説(せんじけんぜつ)す」等云云、天台云く「爾時仏告(にじぶつごう)上行より下は第三結要付属(けっちょうふぞく)なり」云云、伝教云く「又神力品に云く以要言之(いようごんし)・如来一切所有之法・乃至宣示顕説已上経文明かに知んぬ果分の一切の所有の法・果分の一切の自在の神力・果分の一切の秘要の蔵・果分の一切の甚深の事皆法華に於て宣示顕説するなり」等云云、此の十神力は妙法蓮華経の五字を以て上行・安立行・浄行・無辺行等の四大菩薩に授与し給うなり、前の五神力は在世の為、後の五神力は滅後の為なり、爾(しか)りと雖も再往之を論ずれば一向に滅後の為なり、故に次下の文に云く「仏滅度の後に能く此の経を持たんを以ての故に諸仏皆歓喜して無量の神力を現じ給う」等云云。
 
 次下の嘱累品に云く「爾の時に釈迦牟尼仏・法座より起つて大神力を現じ給う、右の手を以て無量の菩薩摩訶薩(ぼさつまかさつ)の頂を摩(な)で乃至今以て汝等に付属す」等云云、地涌の菩薩を以て頭(はじめ)と為して迹化他方乃至・梵釈・四天等に此の経を嘱累し給う・十方より来る諸の分身の仏各本土に還(かえ)り給う乃至多宝仏の塔還つて故(もと)の如くし給う可し等云云、薬王品已下(いげ)乃至涅槃経等は地涌の菩薩去り了つて迹化の衆他方の菩薩等の為に重ねて之を付属し給う。捃拾遺嘱(くんじゅういぞく)是なり。

 疑つて云く、正像二千年の間に地涌千界閻浮提(えんぶだい)に出現して此の経を流通するや、答えて曰く爾(しか)らず、驚いて云く法華経並びに本門は仏の滅後を以て本と為して先ず地涌に之を授与す、何ぞ正像に出現して此の経を弘通せざるや、答えて云く宣(の)べず、重ねて問うて云く如何、答う之を宣べず、又重ねて問う如何、答えて曰く之を宣ぶれば一切世間の諸人・威音王仏(いおんのうぶつ)の末法の如く又我が弟子の中にも粗(ほぼ)之を説かば皆誹謗(ひぼう)を為す可し黙止せんのみ、求めて云く説かずんば汝慳貪(けんどん)に堕せん、答えて曰く進退惟(こ)れ谷(きわま)れり試みに粗之を説かん、法師品に云く「況んや滅度の後をや」寿量品に云く「今留めて此に在(お)く」分別功徳品に云く「悪世末法の時」薬王品に云く「後の五百歳閻浮提(えんぶだい)に於て広宣流布せん」涅槃経に云く「譬えば七子あり父母平等ならざるに非ざれども然れども病者に於て心則(すなわ)ち偏(ひとえ)に重きが如し」等云云、已前(いぜん)の明鏡を以て仏意を推知(すいち)するに仏の出世は霊山(りょうぜん)八年の諸人の為に非ず正像末の人の為なり、又正像二千年の人の為に非ず末法の始め予が如き者の為なり、然れども病者に於いてと云うは滅後法華経誹謗の者を指すなり、「今留在此(こんるざいし)」とは「於此好色香薬而謂不美(おしこうしきかやくにいふみ)」の者を指すなり。

 地涌千界正像に出でざることは正法一千年の間は小乗権大乗なり、機時共に之れ無く四依の大士小権を以て縁と為して在世の下種之を脱せしむ、謗多くして熟益を破る可き故に之を説かず、例せば在世の前四味の機根の如し、像法の中末に観音(かんのん)・薬王(やくおう)・南岳・天台等と示現し出現して迹門を以て面と為し本門を以て裏と為して百界千如・一念三千其の義を尽せり、但理具(ただ・りぐ)を論じて事行の南無妙法蓮華経の五字並びに本門の本尊未だ広く之を行ぜず、所詮円機(えんき)有つて円時(えんじ)無き故なり。

 今末法の初小を以て大を打ち権を以て実を破し、東西共に之を失し天地顛倒(てんとう)せり。迹化の四依は隠れて現前せず、諸天其の国を棄(す)て之を守護せず、此の時地涌の菩薩始めて世に出現し但妙法蓮華経の五字を以て幼稚に服せしむ「謗に因(よ)って悪に堕つは必ず因って益を得(う)」とは是なり。
 我が弟子之を惟(おも)え、地涌千界は教主釈尊の初発心(しょほっしん)の弟子なり、寂滅道場に来らず雙林(そうりん)最後にも訪わず不孝の失之れ有り、迹門の十四品にも来らず本門の六品には座を立つ但八品の間に来還(らいげん)せり、是くの如き高貴の大菩薩・三仏に約束して之を受持す末法の初に出で給わざる可きか。
当(まさ)に知るべし此の四菩薩、折伏(しゃくぶく)を現ずる時は賢王と成つて愚王を誡責(かいしゃく)し、摂受(しょうじゅ)を行ずる時は僧と成つて正法を弘持す。
 
 問うて曰く仏の記文は云何(いかん)、答えて曰く「後の五百歳閻浮提(えんぶだい)に於て広宣流布せん」と、天台大師記して云く「後の五百歳遠く妙道に沾(うる)おわん」妙楽記して云く「末法の初冥利(みょうり)無きにあらず」伝教大師云く「正像稍(やや)過ぎ已(おわ)つて末法太だ近きに有り」等云云、末法太有近の釈は我が時は正時に非ずと云う意なり、伝教大師日本にして末法の始を記して云く「代を語れば像の終り末の初・地を尋れば唐の東・羯(かつ)の西・人を原(たずぬ)れば則ち五濁の生・闘諍(とうじょう)の時なり、経に云く猶多怨嫉(ゆたおんしつ)・況滅度後(きょうめつどご)と此の言良(まこ)とに以(ゆえ)有るなり」

 此の釈に闘諍(とうじょう)の時と云云、今の自界叛逆(じかいほんぎゃく)・西海侵逼(さいかいしんぴつ)の二難を指すなり、此の時地涌千界出現して本門の釈尊を脇士と為す一閻浮提(いちえんぶだい)第一の本尊此の国に立つ可し、月支震旦(がっし・しんたん)に未だ此の本尊有(ましま)さず、日本国の上宮・四天王寺を建立して未だ時来らざれば阿弥陀・他方を以て本尊と為す、聖武天皇・東大寺を建立す華厳経の教主なり未だ法華経の実義を顕さず、伝教大師粗(ほぼ)法華経の実義を顕示す、然りと雖も時未だ来らざるの故に東方の鵝王(がおう)を建立して本門の四菩薩を顕わさず、所詮地涌千界の為に此れを譲(ゆず)り与え給う故なり、此の菩薩仏勅(ぶっちょく)を蒙りて近く大地の下に在り正像に未だ出現せず末法にも又出で来り給わずば大妄語の大士なり、三仏の未来記も亦泡沫(ほうまつ)に同じ。
 此れを以て之を惟(おも)うに正像に無き大地震・大彗星等出来す、此等は金翅鳥(こんじちょう)・修羅(しゅら)・竜神(りゅうじん)等の動変に非ず偏(ひとえ)に四大菩薩を出現せしむ可き先兆(せんちょう)なるか、天台云く「雨の猛(たけ)きを見て竜の大なるを知り花の盛なるを見て池の深きことを知る」等云云、妙楽云く「智人は起を知り蛇は自ら蛇を識(し)る」等云云、天晴れぬれば地明かなり、法華を識る者は世法を得可きか。

 一念三千を識らざる者には仏・大慈悲を起し五字の内に此の珠を裹(つつ)み末代幼稚の頚に懸けさしめ給う、四大菩薩の此の人を守護し給わんこと太公周公(たいこう・しゅうこう)の文王を摂扶(しょうぶ)し、四皓(しこう)が恵帝(けいてい)に侍奉(じぶ)せしに異ならざる者なり。

文永十年太歳癸酉卯月二十五日    日蓮之を註す



【観心本尊抄送状】
f0301354_0225474.jpg

 帷(かたびら)一つ・墨三長(挺)・筆五官(管)給び候い了んぬ。
 観心の法門少少之を注して大田殿・教信御房等に奉る、此の事日蓮身に当るの大事なり之を秘す、無二の志を見ば之を開拓(かいたく)せらる可きか、此の書は難多く答少し未聞の事なれば人耳目(じもく)を驚動(きょうどう)す可きか、設(たと)い他見に及ぶとも三人四人坐を並べて之を読むこと勿(なか)れ。
 仏滅後二千二百二十余年未だ此の書の心有らず、国難を顧(かえり)みず五五百歳を期して之を演説す乞い願くば一見を歴(へ)来るの輩は師弟共に霊山浄土に詣でて三仏の顔貌(げんみょう)を拝見したてまつらん、恐恐謹言。

文永十年太歳癸酉卯月廿六日       日 蓮 花 押   
富木殿御返事




by johsei1129 | 2019-10-19 21:32 | 観心本尊抄(御書五大部) | Trackback | Comments(0)
2019年 10月 19日

末法の法本尊をあきらかにした書【観心本尊抄】 その二

[観心本尊抄 本文] その二

 夫れ智者の弘法三十年・二十九年の間は玄文(げんもん)等の諸義を説いて五時・八教・百界千如を明かし前き五百余年の間の諸非を責め並びに天竺の論師未だ述べざるを顕す、章安大師云く「天竺(てんじく)の大論尚其の類に非ず震旦(しんたん)の人師何ぞ労(わずら)わしく語るに及ばん、此れ誇耀(こよう)に非ず法相の然らしむるのみ」等云云、墓(はか)ないかな天台の末学等華厳(けごん)真言の元祖の盗人に一念三千の重宝を盗み取られて還つて彼等が門家と成りぬ、章安大師兼ねて此の事を知つて歎いて言く「斯の言若し墜(お)ちなば将来悲む可し」云云。

 問うて曰く百界千如と一念三千と差別如何、答えて曰く百界千如は有情界に限り一念三千は情非情に亘る、不審(ふしん)して云く、非情に十如是亘るならば草木に心有つて有情の如く成仏を為す可きや如何、答えて曰く此の事難信難解(なんしんなんげ)なり、天台の難信難解に二有り、一には教門の難信難解、二には観門の難信難解なり、其の教門の難信難解とは一仏の所説に於て爾前(にぜん)の諸経には二乗闡提(せんだい)・未来に永く成仏せず教主釈尊は始めて正覚を成ず、法華経迹本二門に来至(らいし)し給い彼の二説を壊(やぶ)る、一仏二言水火なり誰人か之を信ぜん、此れは教門の難信難解なり、観門の難信難解は百界千如一念三千・非情の上の色心の二法十如是是なり、爾(しか)りと雖も木画(もくえ)の二像に於ては外典内典共に之を許して本尊と為す、其の義に於ては天台一家より出でたり、草木の上に色心の因果を置かずんば木画の像を本尊に恃(たの)み奉ること無益なり、疑つて云く草木国土の上の十如是の因果の二法は何れの文に出でたるや、答えて曰く止観第五に云く「国土世間亦十種の法を具す所以に悪国土・相・性・体・力」等と云云、釈籤(しゃくせん)第六に云く「相は唯色に在り、性は唯心に在り、体・力・作・縁は義色心を兼ね、因果は唯心・報は唯色に在り」等云云、金錍論(こんぺいろん)に云く「乃(すなわ)ち是れ一草・一木・一礫(りゃく)・一塵・各一仏性・各一因果あり縁了(えんりょう)を具足す」等云云。

 問うて曰く出処(しゅっしょ)既に之を聞く観心の心如何、答えて曰く観心とは我が己心を観(かん)じて十法界を見る是を観心と云うなり、譬えば他人の六根を見ると雖も未だ自面(じめん)の六根を見ざれば自具の六根を知らず明鏡に向うの時始めて自具の六根を見るが如し、設い諸経の中に処処(しょしょ)に六道並びに四聖を載すと雖も法華経並びに天台大師所述(しょじゅつ)の摩訶止観(まかしかん)等の明鏡を見ざれば自具の十界・百界千如・一念三千を知らざるなり。

問うて云く法華経は何れの文ぞ天台の釈は如何、答えて曰く法華経第一方便品に云く「衆生をして仏知見(ぶっちけん)を開かしめんと欲す」等云云、是は九界所具の仏界なり、寿量品に云く「是くの如く我成仏してより已来甚(このかた・はなはだ)大に久遠なり寿命(じゅみょう)・無量阿僧祇劫(あそうぎこう)・常住(じょうじゅう)にして滅せず諸の善男子・我本(もと)菩薩の道を行じて成ぜし所の寿命今猶未だ尽きず復上の数に倍せり」等云云、此の経文は仏界所具の九界なり、経に云く「提婆達多(だいばだった)乃至天王如来」等云云、地獄界所具の仏界なり、経に云く「一を藍婆(らんば)と名け乃至汝等但能く法華の名を護持する者は福量るべからず」等云云、是れ餓鬼(がき)界所具の十界なり、経に云く「竜女乃至成等正覚(りゅうにょないしじょうとうしょうかく)」等云云、此れ畜生界所具の十界なり、経に云く「婆稚阿修羅王乃至(ばちあしゅらおう・ないし)一偈一句を聞いて・阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を得べし」等云云、修羅界(しゅらかい)所具の十界なり、経に云く「若し人仏の為の故に乃至皆已に仏道を成ず」等云云、此れ人界所具の十界なり、経に云く「大梵天王乃至我等も亦是くの如く・必ず当に作仏することを得べし」等云云、此れ天界所具の十界なり、経に云く「舎利弗乃至華光如来(しゃりほつ・ないし・けこうにょらい)」等云云、此れ声聞界所具の十界なり、経に云く「其の縁覚を求むる者・比丘比丘尼乃至合掌し敬心を以て具足の道を聞かんと欲す」等云云、此れ即ち縁覚界所具の十界なり、経に云く「地涌千界乃至真浄大法(しんじょうだいほう)」等云云、此れ即ち菩薩所具の十界なり、経に云く「或説己身或説他身」等云云即ち仏界所具の十界なり。

  問うて曰く自他面(じためん)の六根共に之を見る。彼此の十界に於ては未だ之を見ず如何が之を信ぜん、答えて曰く法華経法師品に云く「難信難解」宝塔品に云く「六難九易(ろくなんくい)」等云云、天台大師云く「二門悉(ことごと)く昔と反すれば難信難解なり」章安大師云く「仏此れを将(もっ)て大事と為す、何ぞ解し易きことを得可けんや」等云云、伝教大師云く「此の法華経は最も為れ難信難解なり、随自意(ずいじい)の故に」等云云、夫(そ)れ在世の正機は過去の宿習厚き上教主釈尊・多宝仏・十方分身の諸仏・地涌千界・文殊(もんじゅ)・弥勒(みろく)等之を扶けて諌暁(かんぎょう)せしむるに猶信ぜざる者之れ有り、五千席を去り人天移さる況(いわん)や正像をや、何(いか)に況(いわん)や末法の初をや、汝之を信ぜば正法に非じ。

 問うて曰く、経文並に天台章安等の解釈(げしゃく)は疑網(ぎもう)無し。但し火を以て水と云い墨を以て白しと云う、設(たと)い仏説為りと雖も信を取り難し。今、数(しばし)ば他面を見るに但人界に限つて余界を見ず、自面も亦復是くの如し。如何が信心を立てんや、答う数(しばし)ば他面を見るに或時は喜び或時は瞋(いか)り或時は平に或時は貪(むさぼ)り現じ、或時は癡(おろか)現じ或時は諂曲(てんごく)なり。瞋るは地獄・貪(むさぼ)るは餓鬼・癡(おろか)は畜生・諂曲(てんごく)なるは修羅・喜ぶは天・平かなるは人なり他面の色法に於ては六道共に之れ有り。四聖は冥伏(みょうぶく)して現われざれども委細(いさい)に之を尋ねば之れ有る可し。

 問うて曰く六道に於て分明ならずと雖も粗(ほぼ)之を聞くに之を備うるに似たり、四聖は全く見えざるは如何、答えて曰く前には人界の六道之を疑う、然りと雖も強いて之を言つて相似の言を出だせしなり四聖も又爾(しか)る可きか、試みに道理を添加(てんか)して万か一之を宣べん。所以(ゆえ)に世間の無常は眼前に有り豈人界に二乗界無からんや、無顧(むこ)の悪人も猶妻子を慈愛す菩薩界の一分なり、但(ただ)仏界計り現じ難し九界を具するを以て強いて之を信じ疑惑せしむること勿れ、法華経の文に人界を説いて云く「衆生をして仏知見を開かしめんと欲す」涅槃経(ねはんぎょう)に云く「大乗を学する者は肉眼有りと雖も名けて仏眼と為す」等云云、末代の凡夫出生して法華経を信ずるは人界に仏界を具足する故なり。

 問うて曰く、十界互具の仏語分明なり、然りと雖も我等が劣心(れっしん)に仏法界を具すること信を取り難き者なり。今時之を信ぜずば必ず一闡提(いっせんだい)と成らん願くば大慈悲を起して之を信ぜしめ阿鼻(あび)の苦を救護(くご)したまえ。

答えて曰く、汝既に唯一大事因縁の経文を見聞して之を信ぜざれば釈尊より已下四依の菩薩並びに、末代理即の我等如何が汝が不信を救護(くご)せんや。然りと雖も試みに之を云わん。仏に値いたてまつつて覚らざる者、阿難等の辺にして得道する者之れ有ればなり。其れ機に二有り、一には仏を見たてまつり法華にして得道す。二には仏を見たてまつらざれども法華にて得道するなり。其の上仏教已前(いぜん)は漢土の道士・月支の外道・儒教・四韋陀(しいだ)等を以て縁と為して正見に入る者之れ有り。又利根の菩薩凡夫等の華厳・方等・般若(はんにゃ)等の諸大乗経を聞きし縁を以て、大通久遠の下種を顕示(けんじ)する者多々なり。例せば独覚(どっかく)の飛花落葉(ひけらくよう)の如し。教外の得道是なり。

過去の下種結縁無き者の権小に執着(しゅうじゃく)する者は、設い法華経に値(あ)い奉れども小権の見を出でず。自見を以て正義と為(す)るが故に還つて法華経を以て或は小乗経に同じ、或は華厳大日経等に同じ或は之を下す。此等の諸師は儒家外道の賢聖より劣れる者なり。此等は且(しば)らく之を置く、十界互具之を立つるは、石中の火、木中の花信じ難けれども、縁に値うて出生すれば之を信ず。人界所具の仏界は、水中の火、火中の水、最も甚だ信じ難し。然りと雖も竜火は水より出で竜水は火より生ず。心得られざれども現証有れば之を用ゆ。

既に人界の八界之を信ず、仏界何ぞ之を用いざらん。尭舜(ぎょうしゅん)等の聖人の如きは、万民に於て偏頗(へんぱ)無し。人界の仏界の一分なり。不軽菩薩は所見の人に於て仏身を見る。悉達太子(しったたいし)は人界より仏身を成ず、此等の現証を以て之を信ず可きなり。

  問うて曰く教主釈尊は此れより堅固に之を秘す三惑已断の仏なり又十方世界の国主・一切の菩薩・二乗・人天等の主君なり。行(みゆき)の時は梵天左に在り帝釈右に侍(は)べり、四衆八部後(しりえ)に聳(したが)い金剛(こんごう)前に導びき、八万法蔵を演説して一切衆生を得脱せしむ。

是くの如き仏陀何を以て我等凡夫の己心に住せしめんや、又迹門爾前の意を以て之を論ずれば教主釈尊は始成正覚の仏なり。過去の因行を尋ね求れば或は能施太子或は儒童菩薩(じゅどうぼさつ)或は尸毘王(しびおう)或は薩埵王子(さったおうじ)或は三祇(さんぎ)・百劫(ひゃっこう)或は動喩塵劫(どうゆじんこう)或は無量阿僧祇劫(あそうぎこう)或は初発心時或は三千塵点等の間七万・五千・六千・七千等の仏を供養し劫を積み行満じて今の教主釈尊と成り給う。
是くの如き因位の諸行は皆我等が己身所具の菩薩界の功徳か。果位を以て之を論ずれば教主釈尊は始成正覚の仏四十余年の間、四教の色身を示現し爾前(にぜん)・迹門(しゃくもん)・涅槃経等を演説して一切衆生を利益し給う。所謂華蔵(けぞう)の時・十方台上の盧舎那(るしゃな)・阿含(あごん)経の三十四心・断結成道(だんけつじょうどう)の仏、方等般若の千仏等、大日・金剛頂(こんごうちょう)の千二百余尊、並びに迹門宝塔品の四土色身、涅槃経の或は丈六(じょうろく)と見る或は小身大身と現じ、或は盧舎那と見る或は身虚空に同じと見る。

四種の身乃至八十御入滅舎利(しゃり)を留めて正像末を利益し給う、本門を以て之れを疑わば教主釈尊は五百塵点已前(ごひゃくじんてんいぜん)の仏なり因位も又是くの如し、其れより已来十方世界に分身し一代聖教を演説して塵数(じんじゅ)の衆生を教化し給う。本門の所化(しょけ)を以て迹門の所化に比校(ひきょう)すれば一渧(たい)と大海と一塵と大山となり、本門の一菩薩を迹門十方世界の文殊観音等に対向(たいこう)すれば猴猿(こうえん)を以て帝釈(たいしゃく)に比するに尚及ばず、其の外十方世界の断惑証果(だんなくしょうか)の二乗並びに梵天・帝釈・日月・四天・四輪王・乃至無間大城の大火炎等此等は皆我が一念の十界か己身の三千か。仏説為りと雖も之を信ず可からず。

 此れを以て之を思うに爾前の諸経は実事なり実語なり。華厳経に云く「究竟(くきょう)して虚妄を離れ染無きこと虚空の如し」と仁王経に云く「源を窮め性を尽して妙智存せり」金剛般若経に云く「清浄の善のみ有り」馬鳴菩薩(めみょう)の起信論に云く「如来蔵の中に清浄の功徳のみ有り」天親菩薩の唯識論(ゆいしきろん)に云く「謂く余の有漏(うろ)と劣の無漏(むろ)と種は金剛喩定(こんごうゆじょう)が現在前する時、極円明純浄(ごくえんみょうじゅんじょう)の本識を引く、彼の依に非ざるが故に皆永く棄捨(きしゃ)す」等云云、爾前の経経と法華経と之を校量するに彼の経経は無数なり時説既に長し一仏二言彼に付く可し。

馬鳴菩薩は付法蔵第十一にして仏記に之れ有り天親は千部の論師・四依の大士なり、天台大師は辺鄙(へんぴ)の小僧にして一論をも宣べず誰か之を信ぜん、其の上多を捨て小に付くとも法華経の文分明ならば少し恃怙(じこ)有らんも法華経の文に何れの所にか十界互具・百界千如・一念三千の分明なる証文之れ有りや、随つて経文を開拓(かいたく)するに「断諸法中悪」等云云、天親菩薩の法華論・堅慧(けんね)菩薩の宝性論に十界互具之れ無く漢土南北の諸大人師・日本七寺の末師の中にも此の義無し但(ただ)天台一人の僻見(びゃっけん)なり伝教一人の謬伝(みょうでん)なり、故に清涼国師の云く「天台の謬(あやま)りなり」慧苑(えおん)法師の云く「然るに天台は小乗を呼んで三蔵教と為し其の名謬濫(みょうらん)するを以て」等云云。
了洪(りょうこう)が云く「天台独り未だ華厳の意を尽さず」等云云、得一が云く「咄(つたな)いかな智公汝は是れ誰が弟子ぞ、三寸に足らざる舌根を以て覆面舌(ふめんぜつ)の所説の教時を謗ず」等云云、弘法大師の云く「震旦(しんたん)の人師等諍(あらそ)つて醍醐(だいご)を盗んで各自宗に名く」等云云、夫れ一念三千の法門は一代の権実に名目を削(けず)り四依の諸論師其の義を載せず漢土日域の人師も之を用いず、如何が之を信ぜん。

 答えて曰く此の難最も甚し最も甚し、但し諸経と法華との相違は経文より事起つて分明なり未顕(みけん)と已顕(いけん)と証明と舌相と二乗の成不と始成と久成と等之を顕わす、諸論師の事、天台大師云く「天親竜樹・内鑒冷然(ないがんれいねん)たり外には時の宜きに適(かな)い各権に拠(よ)る所あり、而るに人師偏に解し学者苟(いやしく)も執し遂に矢石を興し各一辺を保ちて大に聖道に乖(そむ)けり」等云云。

章安大師云く「天竺の大論尚(なお)其の類に非ず真旦(しんたん)の人師何ぞ労(わずら)わしく語るに及ばん、此れ誇耀(こよう)に非ず法相の然らしむるのみ」等云云、天親・竜樹・馬鳴・堅慧(けんね)等は内鑒冷然なり、然りと雖も時未だ至らざるが故に之を宣(の)べざるか、人師に於ては天台已前は或は珠を含み或は一向に之を知らず、已後の人師或は初に之を破して後に帰伏する人有り或は一向用いざる者も之れ有り但し断諸法中悪の経文を会す可きなり、彼は法華経に爾前の経文を載するなり往いて之を見るに経文分明に十界互具之を説く、所謂「欲令衆生開仏知見」等云云、天台此の経文を承けて云く「若し衆生に仏の知見無んば何ぞ開を論ずる所あらん、当に知るべし仏の知見衆生に蘊在(うんざい)することを」云云、章安大師の云く「衆生に若し仏の知見無くんば何ぞ開悟する所あらん、若し貧女に蔵無んば何ぞ示す所あらんや」等云云。

但し会(え)し難き所は上の教主釈尊等の大難なり、此の事を仏遮会(しゃえ)して云く「已今当説最為難信難解(いこんとうせつさいいなんしんなんげ)」と次下の六難九易是なり、天台大師云く「二門悉(ことごと)く昔と反すれば信じ難く解し難し鉾(ほこ)に当るの難事なり」章安大師の云く「仏此れを将(も)つて大事と為す何ぞ解し易きことを得可(うべ)けんや」伝教(でんぎょう)大師云く「此の法華経は最も為(こ)れ難信難解なり随自意(ずいじい)の故に」等云云。

夫(そ)れ仏滅後に至つて一千八百余年・三国に経歴して但三人のみ有つて始めて此の正法を覚知(かくち)せり所謂月支(がっし)の釈尊・真旦(しんたん)の智者大師・日域の伝教此の三人は内典の聖人なり、問うて曰く竜樹天親等は如何、答えて曰く此等の聖人は知つて之を言わざる仁なり、或は迹門の一分之を宣(の)べて本門と観心とを云わず或は機有つて時無きか或は機と時と共に之れ無きか、天台伝教已後(いご)は之を知る者多多なり二聖の智を用ゆるが故なり所謂三論の嘉祥(かじょう)・南三北七の百余人・華厳宗の法蔵・清涼等・法相宗の玄奘(げんじょう)三蔵・慈恩大師等・真言宗の善無畏三蔵・金剛智(こんごうち)三蔵・不空三蔵等・律宗の道宣(どうせん)等初には反逆を存し後には一向に帰伏せしなり。

 但し初の大難を遮(しゃ)せば無量義経に云く「譬えば国王と夫人と新たに王子を生ぜん若は一日若は二日若は七日に至り若は一月若は二月若は七月に至り若は一歳若は二歳若は七歳に至り復(また)国事を領理(りょうり)すること能わずと雖も已に臣民に宗敬せられ諸の大王の子以て伴侶(はんりょ)と為らん、王及び夫人の愛心偏(ひとえ)に重くして常に与共(とも)に語らん、所以は何ん、稚小なるを以ての故にと云うが如く、善男子是の持経者も亦復是くの如し、諸仏の国王と是の経の夫人と和合して共に是の菩薩の子を生ず、若し菩薩是の経を聞くことを得て若しは一句若しは一偈若しは一転若しは二転若しは十若しは百若しは千若しは万若しは億万恒河沙(おくまんごうがしゃ)・無量無数転せば復真理の極を体すること能わずと雖も、乃至已に一切の四衆八部に宗仰(しゅうごう)せられ諸の大菩薩を以て眷属(けんぞく)と為し乃至常に諸仏に護念せられ慈愛偏(ひとえ)に覆われん、新学なるを以ての故なり」等云云。

普賢(ふげん)経に云く「此の大乗経典は諸仏の宝蔵十方三世の諸仏の眼目なり乃至三世の諸の如来を出生する種なり乃至汝大乗を行じて仏種を断ぜざれ」等云云、又云く「此の方等経は是れ諸仏の眼なり諸仏是に因(よ)つて五眼を具することを得・仏の三種の身は方等従(よ)り生ず是れ大法印にして涅槃海に印す此(か)くの如き海中能く三種の仏の清浄身(しょうじょうしん)を生ず此の三種の身は人天の福田なり」等云云。

 夫(そ)れ以(おもんみ)れば・釈迦如来の一代・顕密・大小の二教・華厳・真言等の諸宗の依経往いて之を勘うるに或は十方台葉(じっぽうだいよう)・毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)・大集雲集(たいしゅううんじゅう)の諸仏如来・般若染浄(はんにゃせんじょう)の千仏示現・大日金剛頂等の千二百尊・但其の近因近果を演説して其の遠因果を顕さず、速疾頓成(そきしつとんじょう)之を説けども三五の遠化を亡失し化導の始終跡を削りて見えず、華厳経・大日経等は一往之を見るに別円四蔵(べつえんしぞう)等に似たれども再往之を勘うれば蔵通(ぞうつう)二教に同じて未だ別円にも及ばず本有の三因之れ無し何を以てか仏の種子を定めん、而るに新訳の訳者等漢土(かんど)に来入するの日・天台の一念三千の法門を見聞して或は自ら所持の経経に添加(てんか)し或は天竺より受持するの由之を称す、天台の学者等或は自宗に同ずるを悦び或は遠きを貴んで近きを蔑(さげす)みし或は旧を捨てて新を取り魔心・愚心出来す、然りと雖も詮ずる所は一念三千の仏種に非ずんば有情の成仏・木画二像の本尊は有名無実なり。

問うて曰く上の大難未だ其の会通(えつう)を聞かず如何。
答えて曰く無量義経に云く「未だ六波羅蜜(はらみつ)を修行する事を得ずと雖も六波羅蜜自然(じねん)に在前す」等云云、法華経に云く「具足の道を聞かんと欲す」等云云、涅槃経に云く「薩とは具足に名く」等云云、竜樹菩薩云く「薩とは六なり」等云云、無依無得大乗四論・玄義記に云く「沙(さ)とは訳して六と云う胡法(こほう)には六を以て具足の義と為すなり」吉蔵疏(きちぞうのじょ)に云く「沙とは翻(ほん)じて具足と為す」天台大師云く「薩とは梵語(ぼんご)なり此には妙と翻(ほん)ず」等云云、私に会通を加えば本文を黷(けがす)が如し爾(しか)りと雖も文の心は釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す、我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う、四大声聞の領解(りょうげ)に云く「無上宝聚(ほうじゅ)・不求自得(ふぐじとく)」云云、我等が己心の声聞界なり、「我が如く等くして異なる事無し我が昔の所願の如き今は已に満足しぬ一切衆生を化して皆仏道に入らしむ」。

妙覚の釈尊は我等が血肉なり因果の功徳は骨髄(こつずい)に非ずや、宝塔品に云く「其れ能く此の経法を護る事有らん者は則ち為れ我及び多宝を供養するなり、乃至亦復諸(また・もろもろ)の来り給える化仏の諸の世界を荘厳し光飾(こうしょく)し給う者を供養するなり」等云云、釈迦・多宝・十方の諸仏は我が仏界なり其の跡を継紹(けいしょう)して其の功徳を受得す「須臾(しゅゆ)も之を聞く・即阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を究竟するを得」とは是なり、寿量品に云く「然るに我実に成仏してより已来・無量無辺百千万億那由佗劫なり」等云云、我等が己心の釈尊は五百塵点(じんでん)乃至所顕の三身にして無始の古仏なり、経に云く「我本菩薩の道を行じて・成ぜし所の寿命・今猶未だ尽きず・復上の数に倍せり」等云云、我等が己心の菩薩等なり、地涌千界の菩薩は己心の釈尊の眷属(けんぞく)なり、例せば大公・周公旦(しゅうこうたん)等は周武(しゅうぶ)の臣下・成王

f0301354_102886.jpg
[真筆第十紙本文:下記緑字箇所(本尊の相貌を顕しておられる)]

幼稚の眷属・武内の大臣は神功皇后の棟梁(とうりょう)・仁徳王子の臣下なるが如し、上行・無辺行・浄行・安立行等は我等が己心の菩薩なり、妙楽(みょうらく)大師云く「当に知るべし身土一念の三千なり故に成道の時此の本理に称うて一身一念法界に遍(あまね)し」等云云。

夫れ始め寂滅道場・華蔵(けぞう)世界より沙羅林(しゃらりん)に終るまで五十余年の間・華蔵・密厳・三変・四見等の三土四土は皆成劫(じょうこう)の上の無常の土に変化する所の方便・実報・寂光・安養(あんよう)・浄瑠璃(じょうるり)・密厳等なり能変の教主涅槃(ねはん)に入りぬれば所変の諸仏随つて滅尽(めつじん)す土も又以て是くの如し。
今本時の娑婆(しゃば)世界は三災を離れ四劫を出でたる常住の浄土なり仏既に過去にも滅せず未来にも生ぜず所化以て同体なり此れ即ち己心の三千具足・三種の世間なり迹門十四品には未だ之を説かず法華経の内に於ても時機未熟の故なるか。

 此の本門の肝心南無妙法蓮華経の五字に於ては仏猶文殊薬王等にも之を付属し給わず何(いか)に況(いわん)や其の已外をや但(ただ)地涌千界を召して八品を説いて之を付属し給う、其の本尊の為体(ていたらく)、本師の娑婆の上に宝塔(ほうとう)空に居し塔中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏・多宝仏・釈尊の脇士(きょうじ)上行等の四菩薩・文殊弥勒(みろく)等は四菩薩の眷属
として末座に居(こ)し、迹化他方の大小の諸菩薩は万民の大地に処して雲閣月卿(うんかくげっけい)を見るが如く十方の諸仏は大地の上に処し給う、迹仏迹土を表する故なり、是くの如き本尊は在世五十余年に之れ無し八年の間にも但八品に限る、正像二千年の間は小乗の釈尊は迦葉(かしょう)・阿難(あなん)を脇士と為し権大乗並に涅槃・法華経の迹門(しゃくもん)等の釈尊は文殊普賢(ふげん)等を以て脇士と為す、此等の仏をば正像に造り画けども未だ寿量の仏有(ましま)さず、末法に来入して始めて此の仏像出現せしむ可きか。

 問う正像二千余年の間は四依の菩薩並びに人師等余仏・小乗・権大乗・爾前・迹門の釈尊等の寺塔を建立すれども本門寿量品の本尊並びに四大菩薩をば三国の王臣倶(とも)に未だ之を崇重せざる由之を申す、此の事粗(ほぼ)之を聞くと雖も前代未聞(みもん)の故に耳目を驚動(きょうどう)し心意を迷惑す、請う重ねて之を説け委細に之を聞かん。

答えて曰く、法華経一部八巻二十八品・進んでは前四味・退いては涅槃経等の一代の諸経惣じて之を括(くく)るに但一経なり、始め寂滅道場より終り般若(はんにゃ)経に至るまでは序分なり無量義経・法華経・普賢経(ふげんきょう)の十巻は正宗なり涅槃経等は流通分なり、正宗十巻の中に於て亦序正流通有り、無量義経並に序品は序分なり、方便品より分別功徳品の十九行の偈に至るまで十五品半は正宗分なり、分別功徳品の現在の四信より普賢経に至るまでの十一品半と一巻は流通分なり。

又法華経等の十巻に於ても二経有り各序正流通を具するなり、無量義経と序品は序分なり方便品より人記品に至るまでの八品は正宗分なり、法師品より安楽行品に至るまでの五品は流通分なり、其の教主を論ずれば始成正覚の仏・本無今有の百界千如を説いて已今当(いこんとう)に超過(ちょうか)せる随自意・難信難解の正法なり、過去の結縁を尋れば大通十六の時仏果の下種を下し、進んでは華厳経等の前四味を以て助縁と為して大通の種子を覚知(かくち)せしむ、此れは仏の本意に非ず但毒発(どくほつ)等の一分なり、二乗凡夫等は前四味を縁と為し漸漸(ぜんぜん)に法華に来至して種子を顕わし開顕を遂ぐるの機是なり、又在世に於て始めて八品を聞く人天等或は一句一偈等を聞て下種とし或は熟し或は脱し或は普賢(ふげん)・涅槃(ねはん)等に至り或は正像末等に小権等を以て縁と為して法華に入る、例せば在世の前四味の者の如し。

[観心本尊抄 本文] その三に続く



by johsei1129 | 2019-10-19 18:10 | 観心本尊抄(御書五大部) | Trackback | Comments(0)
2016年 11月 23日

観心本尊抄 要点解説 その十

日蓮大聖人は『此の時地涌の菩薩始めて世に出現し、但妙法蓮華経の五字を以て幼稚に服せしむ』と断じ、次に御本尊が出現する時、建立する人、有縁の国、及びその瑞相について経、天台・妙楽等の釈を引いて詳細に示します。

問うて曰く仏の記文は云何答えて曰く「後の五百歳閻浮提に於て広宣流布せん」と、天台大師記して云く「後の五百歳遠く妙道に沾おわん」
妙楽記して云く「末法の初冥利無きにあらず」伝教大師云く「正像稍過ぎ已つて末法太だ近きに有り」等云云。末法太有近の釈は我が時は正時に非ずと云う意なり。
伝教大師日本にして末法の始を記して云く「代を語れば像の終り末の初、地を尋れば唐の東・羯の西、人を原れば則ち五濁の生・闘諍の時なり。経に云く猶多怨嫉・況滅度後と、此の言良とに以有るなり

 此の釈に闘諍の時と云云、今の自界叛逆・西海侵逼の二難を指すなり。
此の時地涌千界出現して本門の釈尊を脇士と為す一閻浮提第一の本尊此の国に立つ可し。

月支震旦に未だ此の本尊有さず、日本国の上宮・四天王寺を建立して未だ時来らざれば阿弥陀・他方を以て本尊と為す。聖武天皇・東大寺を建立す、華厳経の教主なり。未だ法華経の実義を顕さず。伝教大師粗法華経の実義を顕示す、然りと雖も時未だ来らざるの故に東方の鵝王を建立して本門の四菩薩を顕わさず。所詮地涌千界の為に此れを譲り与え給う故なり。
此の(地涌の)菩薩、仏勅を蒙りて近く大地の下に在り、正像に未だ出現せず、末法にも又出で来り給わずば大妄語の大士なり。三仏の未来記も亦泡沫に同じ。

此れを以て之を惟うに正像に無き大地震・大彗星等出来す。此等は金翅鳥・修羅・竜神等の動変に非ず、偏に四大菩薩を出現せしむ可き先兆なるか。
天台云く「雨の猛きを見て竜の大なるを知り花の盛なるを見て池の深きことを知る」等云云。
妙楽云く「智人は起を知り蛇は自ら蛇を識る」等云云、天晴れぬれば地明かなり法華を識る者は世法を得可きか。

一念三千を識らざる者には仏、大慈悲を起し五字の内に此の珠を裹み末代幼稚の頚に懸けさしめ給う。
四大菩薩の此の人を守護し給わんこと太公周公の文王を摂扶し、四皓が恵帝に侍奉せしに異ならざる者なり』と。ここで観心本尊抄は完結します。

「一念三千を識らざる者には仏」とは、日蓮大聖人ご自身です。
「五字の内に此の珠を裹み」とは妙法蓮華経の五字に、末法の本仏日蓮大聖人の魂(=仏の慈悲)を
裹んでいる『曼荼羅御本尊』となります。
また「末代幼稚の頚に懸けさしめ給う」の末代幼稚とは末法の衆生であり、「頚に懸けさしめ給う」とは、当時の人々の習慣として、遺骨などの非常に大事なものは自分の首に懸けて運んだことから、このご本尊は非常に大切なものであることを門下に示しておられます。

遺骨を自分の首に懸けて運んだ事例は、阿仏房の息子が佐渡から阿仏房の遺骨を身延の大聖人の草庵に持ち寄ったことを大聖人が「千日尼御返事」で記されておられます。
「其の子藤九郎守綱は此の跡をつぎて一向法華経の行者となりて、去年は七月二日の舎利を頚に懸け、一千里の山海を経て甲州・波木井身延山に登りて法華経の道場に此れをおさめ」と。

観心本尊抄 要点解説 完。





by johsei1129 | 2016-11-23 00:41 | 観心本尊抄(御書五大部) | Trackback | Comments(0)
2016年 11月 21日

観心本尊抄 要点解説 その九

日蓮大聖人は『我等が己心の釈尊は五百塵点乃至所顕の三身にして無始の古仏なり』と断じた次に、末法に出現する本尊の相妙をあきらかにしていきます。

『此の本門の肝心南無妙法蓮華経の五字に於ては仏猶文殊薬王等にも之を付属し給わず、何に況や其の已外をや、但、地涌千界を召して八品を説いて之を付属し給う。

其の本尊の為体、本師の娑婆の上に宝塔空に居し、塔中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏・多宝仏、釈尊の脇士上行等の四菩薩、文殊弥勒等は四菩薩の眷属として末座に居し、迹化他方の大小の諸菩薩は万民の大地に処して雲閣月卿を見るが如く、十方の諸仏は大地の上に処し給う。迹仏迹土を表する故なり。

是くの如き本尊は在世五十余年に之れ無し。八年の間にも但八品に限る。正像二千年の間は小乗の釈尊は迦葉・阿難を脇士と為し、権大乗並に涅槃・法華経の迹門等の釈尊は文殊普賢等を以て脇士と為す。此等の仏をば正像に造り画けども、未だ寿量の仏有さず。末法に来入して始めて此の仏像出現せしむ可きか。
<中略>
地涌千界正像に出でざるは、正法一千年の間は小乗権大乗なり。機時共に之れ無く四依の大士小権を以て縁と為して在世の下種之を脱せしむ、謗多くして熟益を破る可き故に之を説かず。

例せば在世の前四味の機根の如し、像法の中末に観音・薬王・南岳・天台等と示現し出現して迹門を以て面と為し本、門を以て裏と為して、百界千如・一念三千其の義を尽せり。但理具を論じて事行の南無妙法蓮華経の五字並びに本門の本尊未だ広く之を行ぜず。所詮円機有つて円時無き故なり。
今末法の初小を以て大を打ち、権を以て実を破し、東西共に之を失し天地顛倒せり。迹化の四依は隠れて現前せず、諸天其の国を棄て之を守護せず。

此の時地涌の菩薩始めて世に出現し、但妙法蓮華経の五字を以て幼稚に服せしむ「因謗堕悪必因得益(注)」とは是なり。
我が弟子之を惟(おも)え、地涌千界は教主釈尊の初発心の弟子なり。寂滅道場に来らず雙林最後にも訪わず不孝の失之れ有り迹門の十四品にも来らず、本門の六品には座を立つ但八品の間に来還せり、是くの如き高貴の大菩薩・三仏に約束して之を受持す、末法の初に出で給わざる可きか。
当に知るべし、此の四菩薩折伏を現ずる時は賢王と成つて愚王を誡責し、摂受を行ずる時は僧と成つて正法を弘持す』と。

注「因謗堕悪必因得益」:天台第六祖・妙楽大師「法華文句記」からの引用。謗法の因で悪に堕ちても、必ずその因によって利益を得るという意。妙法蓮華経 不軽菩薩品二十にも説かれている。日蓮大聖人は、妙法蓮華経を説かれて、たとえ批判し反逆する末法の衆生でも、この逆縁で未来世に妙法に縁を結び仏道に入り作仏すると説いた。毒鼓の縁(どっくのえん)とも言う。


観心本尊抄 要点解説その十に続く





by johsei1129 | 2016-11-21 18:43 | 観心本尊抄(御書五大部) | Trackback | Comments(0)
2016年 11月 20日

観心本尊抄 要点解説 その八

日蓮大聖人は、衆生に仏界が備わっていることを解き明かすと、次に「此れより堅固に之を秘す」として、いよいよ仏界とは『妙法連義経』であると言う核心に迫っていきます。

『 問うて曰く教主釈尊は此れより堅固に之を秘す三惑已断の仏なり、又十方世界の国主・一切の菩薩・二乗・人天等の主君なり。行の時は梵天左に在り、帝釈右に侍べり、四衆八部後に聳い、金剛前に導びき、八万法蔵を演説して一切衆生を得脱せしむ。是くの如き仏陀、何を以て我等凡夫の己心に住せしめんや』
  (中略)
『普賢経に云く「此の大乗経典(法華経)は諸仏の宝蔵十方三世の諸仏の眼目なり。乃至三世の諸の如来を出生する種なり。乃至汝大乗を行じて仏種を断ぜざれ」等云云。
又云く「此の方等経(法華経)は是れ諸仏の眼なり諸仏是に因つて五眼を具することを得・仏の三種の身は方等従り生ず是れ大法印にして涅槃海に印す、此くの如き海中能く三種の仏の清浄身を生ず。此の三種の身は人天の福田なり」等云云。
 (中略)
然りと雖も詮ずる所は一念三千の仏種に非ずんば有情の成仏・木画二像の本尊は有名無実なり。
(中略)
私に会通を加えば本文を黷が如し。爾りと雖も文の心は、
釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う。
四大声聞の領解に云く「無上宝聚・不求自得」云云。我等が己心の声聞界なり。
「我が如く等くして異なる事無し。我が昔の所願の如き今は已に満足しぬ、一切衆生を化して皆仏道に入らしむ」。

『妙覚の釈尊は我等が血肉なり因果の功徳は骨髄に非ずや。宝塔品に云く「其れ能く此の経法を護る事有らん者は、則ち為れ我及び多宝を供養するなり。乃至亦復諸の来り給える化仏の諸の世界を荘厳し光飾し給う者を供養するなり」等云云。
釈迦・多宝・十方の諸仏は我が仏界なり其の跡を継紹して其の功徳を受得す。「須臾も之を聞く・即阿耨多羅三藐三菩提を究竟するを得」とは是なり。寿量品に云く「然るに我実に成仏してより已来・無量無辺百千万億那由佗劫なり」等云云。
我等が己心の釈尊は五百塵点乃至所顕の三身にして無始の古仏なり。経(如来寿量品)に云く「我本菩薩の道を行じて・成ぜし所の寿命・今猶未だ尽きず・復上の数に倍せり」等云云。我等が己心の菩薩等なり、地涌千界の菩薩は己心の釈尊の眷属なり』

[妙法蓮華経妙 如来寿量品第十六]

諸善男子。我本行菩薩道。所成寿命。
今猶未尽。復倍上数。然今非実滅度。
而便唱言。当取滅度。如来以是方便。教化衆生。
[和訳]

諸の善男子よ。我、本より菩薩の道を行じて成ぜし所の寿命は、
今も猶、未だ尽きず、復た上の数に倍せり。然して今、実に滅度するに非ずとも、
而して、便ち「当に滅度を取る」と唱えて言う。如来はこの方便を以て、衆生を教化せり。


観心本尊要点解説 その九に続く




by johsei1129 | 2016-11-20 21:28 | 観心本尊抄(御書五大部) | Trackback | Comments(0)
2016年 11月 19日

観心本尊抄 要点解説 その七

日蓮大聖人は次に「十界互つ具の仏語分明なり。然りと雖も我等が劣心に仏法界を具すること信を取り難き者なり」と、論難を立て末法の衆生に仏界が備わっていることを比喩を用いて深く論じていきます。

『問うて曰く、十界互具の仏語分明なり、然りと雖も我等が劣心に仏法界を具すること信を取り難き者なり。今時之を信ぜずば必ず一闡提(注1)と成らん願くば大慈悲を起して之を信ぜしめ阿鼻の苦を救護したまえ。

答えて曰く、汝既に唯一大事因縁の経文を見聞して之を信ぜざれば、釈尊より已下四依の菩薩並びに、末代理即(注2)の我等如何が汝が不信を救護せんや。然りと雖も試みに之を云わん。仏に値いたてまつつて覚らざる者、阿難等の辺にして得道する者之れ有ればなり。其れ機に二有り、一には仏を見たてまつり法華にして得道す。二には仏を見たてまつらざれども法華にて得道するなり。其の上仏教已前は漢土の道士・月支の外道・儒教・四韋陀等を以て縁と為して正見に入る者之れ有り。又利根の菩薩凡夫等の華厳・方等・般若等の諸大乗経を聞きし縁を以て、大通久遠の下種を顕示する者多々なり。例せば独覚の飛花落葉の如し、教外の得道是なり。

過去の下種結縁無き者の権小に執着する者は、設い法華経に値い奉れども小権の見を出でず。自見を以て正義と為るが故に還つて法華経を以て或は小乗経に同じ、或は華厳大日経等に同じ或は之を下す。此等の諸師は儒家外道の賢聖より劣れる者なり。此等は且らく之を置く、十界互具之を立つるは、石中の火、木中の花信じ難けれども、縁に値うて出生すれば之を信ず。人界所具の仏界は、水中の火、火中の水、最も甚だ信じ難し。然りと雖も竜火は水より出で竜水は火より生ず。心得られざれども現証有れば之を用ゆ。

既に人界の八界之を信ず、仏界何ぞ之を用いざらん。尭舜等(注3)の聖人の如きは、万民に於て偏頗無し。人界の仏界の一分なり。不軽菩薩は所見の人に於て仏身を見る。悉達太子(注4)は人界より仏身を成ず、此等の現証を以て之を信ず可きなり。


注1 一闡提:大般涅槃経で釈尊が在家信徒・純陀に対して次のように説いている。「仏の教えを誹謗し懺悔せず、四重禁を犯し五逆罪を為しても全く恐れず、嘘をついて周囲の人々を惑わし、悪に染まった心を直さず、仏法を信じないと公然と言うものを一闡提という」と。
   つまり仏法不信の者を指す。法華経以前で釈尊は、一闡提・女人・二乗(声聞・縁覚)は不作仏と説いていたが、法華経ですべての衆生
   は仏界を有し「如我等無異(我如く等しくして異なる無からしむ)として全て法華経を受持することで作仏すると説いた。
注2 末代理即:天台教学で、仏の悟りに至るまでの六段階の境地。理即は法華経を受持していないが理としては仏界を有している衆生のこ     と。名字即(法華経を初めて受持した段階)、さらに観行即(仏性を内観する境地)、相似即・分真即と修行が進み、究竟即(仏の悟りの境地)に到る。       
注3 尭舜:中国の神話に登場する君主、尭と舜。徳をもって天下を治めたとされる。
注4 悉達太子:釈尊が出家前、釈迦族の太子だったときの名前。


観心本尊抄 要点解説その八に続く






by johsei1129 | 2016-11-19 16:48 | 観心本尊抄(御書五大部) | Trackback
2016年 11月 18日

観心本尊抄 要点解説 その六

日蓮大聖人は「観門の難信難解は百界千如一念三千にして、非情の上の色心の二法十如是是なり」と質した後、本尊を縁として衆生の己心の仏界を開く原理を解き明かすために「十界互具」について論を展開します。

『問うて曰く出処既に之を聞く観心の心如何。答えて曰く観心とは我が己心を観じて十法界を見る是を観心と云うなり。譬えば他人の六根(※眼,耳,鼻,舌, 身,意の感応力)を見ると雖も、未だ自面の六根を見ざれば自具の六根を知らず、明鏡に向うの時始めて自具の六根を見るが如し。
設い諸経の中に処処に六道並びに四聖を載すと雖も、法華経並びに天台大師所述の摩訶止観等の明鏡を見ざれば、自具の十界・百界千如・一念三千を知らざるなり。

問うて云く法華経は何れの文ぞ、天台の釈は如何。答えて曰く法華経第一(巻)方便品(注1)に云く「衆生をして仏知見を開かしめんと欲す」等云云。是は九界所具の仏界なり。
寿量品に云く「是くの如く我成仏してより已来甚大に久遠なり寿命・無量阿僧祇劫、常住にして滅せず。諸の善男子、我本菩薩の道を行じて成ぜし所の寿命今猶未だ尽きず復上の数に倍せり」等云云。此の経文は仏界所具の九界なり。
経に云く「提婆達多乃至天王如来」等云云、地獄界所具の仏界なり。
経に云く「一を藍婆と名け乃至汝等但能く法華の名を護持する者は福量るべからず」等云云、是れ餓鬼界所具の十界なり。
経に云く「竜女乃至成等正覚」等云云、此れ畜生界所具の十界なり。
耨多羅三藐三菩提を得べし」等云云、修羅界所具の十界なり。
経に云く「若し人仏の為の故に乃至皆已に仏道を成ず」等云云、此れ人界所具の十界なり。
経に云く「大梵天王乃至我等も亦是くの如く、必ず当に作仏することを得べし」等云云。此れ天界所具の十界なり。
経に云く「舎利弗乃至華光如来」等云云、此れ声聞界所具の十界なり。
経に云く「其の縁覚を求むる者、比丘比丘尼乃至合掌し敬心を以て具足の道を聞かんと欲す」等云云、此れ即ち縁覚界所具の十界なり。
経に云く「地涌千界乃至真浄大法」等云云、此れ即ち菩薩所具の十界なり。
経に云く「或説己身或説他身」等云云、即ち仏界所具の十界なり。

ここで大聖人は『 問うて曰く自他(自分・他人)面の六根共に之を見る。彼此の十界に於ては未だ之を見ず、如何が之を信ぜん』と、敢えて論難を立ててから、己心の十界についてさらに深く論を展開していきます。

『答えて曰く法華経法師品に云く「難信難解」宝塔品に云く「六難九易」等云云、天台大師云く「二門悉く昔と反すれば難信難解なり」。
章安大師云く「仏此れを将て大事と為す何ぞ解し易きことを得可けんや」等云云、伝教大師云く「此の法華経は最も為れ難信難解なり随自意の故に」等云云。
(中略)
『答う数ば他面を見るに或時は喜び或時は瞋り或時は平に或時は貪り現じ、或時は癡現じ或時は諂曲なり。瞋るは地獄・貪るは餓鬼・癡は畜生・諂曲なるは修羅・喜ぶは天・平かなるは人なり。
他面の色法に於ては六道共に之れ有り。四聖は冥伏して現われざれども委細に之を尋ねば之れ有る可し。

 問うて曰く六道に於て分明ならずと雖も粗之を聞くに之を備うるに似たり。四聖(注2)は全く見えざるは如何。
答えて曰く前には人界の六道之を疑う、然りと雖も強いて之を言つて相似の言を出だせしなり。四聖も又爾る可きか試みに道理を添加して万か一之を宣べん。
所以に世間の無常は眼前に有り豈人界に二乗界無からんや。無顧の悪人も猶妻子を慈愛す菩薩界の一分なり。但仏界計り現じ難し、九界を具するを以て強いて之を信じ疑惑せしむること勿れ。法華経の文に人界を説いて云く「衆生をして仏知見を、開かしめんと欲す」。涅槃経に云く「大乗を学する者は肉眼有りと雖も名けて仏眼と為す」等云云。
末代の凡夫、出生して法華経を信ずるは、人界に仏界を具足する故なり

注1:法華経巻一、方便品第二 
[原文]
舎利弗。云何名諸仏世尊。唯以一大事因縁故。出現於世。
諸仏世尊。欲令衆生。開仏知見。使得清浄故。出現於世。
欲示衆生。仏知見故。出現於世。
欲令衆生。悟仏知見故。出現於世。
欲令衆生。入仏知見道故。出現於世
[和訳]
舎利弗よ、いかなるにより諸の仏世尊は、唯、一大事因縁の故を以て、この世に出現したと名づくのか。
諸の仏世尊は、衆生をして、仏知見を開き、清浄なることを得さ使めんとしてこの世に出現したのだ。
衆生をして、仏知見を示さんと欲して、この世に出現したのだ。
衆生をして、仏知見を悟らしめんとして、この世に出現したのだ。
衆生をして、仏知見に入らせしめんとして、この世に出現したのだ。

注2:四聖   衆生は通常、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六道の境涯を流転している。その六道から脱した次の四つの境涯を指す。声聞(仏の声を理解し、又他へ聞かせる境涯)、縁覚(独覚とも言う。自らの力で縁に触れ一定の悟りを得る境涯。例えばニュートンがリンゴが木から落ちるのを見て万有引力の法則を発見したことの様な境涯)、菩薩(他者を救済しようとする境涯。)、仏界(釈尊は法華経で、全ての衆生は仏界を有しており、それを開き悟ることで仏になると解き明かした)


観心本尊抄 要点解説 その七に続く





by johsei1129 | 2016-11-18 21:15 | 観心本尊抄(御書五大部) | Trackback | Comments(0)
2016年 11月 17日

観心本尊抄 要点解説 その五

日蓮大聖人は本抄冒頭で天台大師の最高峰「摩訶止観」(天台大師の説法を弟子の章安が筆録)を引用し、天台教学の中核「一念三千」の法門を示し、衆生に仏界の生命が存在することを詳細に解き明かします。

『摩訶止観第五に云く、 「夫れ一心に十法界を具す。一法界に又十法界を具すれば百法界なり。一界に三十種の世間を具すれば百法界に即三千種の世間を具す。世間と如是と一なり、開合の異なり。此の三千、一念の心に在り。若し心無んば已みなん。介爾(けに)も心有れば即ち三千を具す。乃至、所以(ゆえ)に称して不可思議境と為す意此に在り」等云云。或本に云く「一界に 三種の世間を具す」と。』

続いて一念三千は有情・非情に亘る事を、問答方式で順次解き明かします。

『問うて曰く百界千如と一念三千と差別如何、答えて曰く百界千如は有情界に限り一念三千は情非情に亘る。不審して云く、非情に十如是亘るならば草木に心有つて有情の如く成仏を為す可きや如何。
答えて曰く、此の事難信難解なり。天台の難信難解に二有り。一には教門の難信難解、二には観門の難信難解なり。其の教門の難信難解とは、一仏の所説に於て爾前の諸経には二乗、闡提は未来に永く成仏せず、教主釈尊は始めて正覚を成じ、法華経迹本二門に来至し給い彼の二説を壊る。一仏二言水火なり、誰人か之を信ぜん。此れは教門の難信難解なり。

観門の難信難解は百界千如一念三千にして、非情の上の色心の二法十如是是なり。爾りと雖も木画の二像に於ては、外典内典共に之を許して本尊と為す。其の義に於ては天台一家より出でたり。草木の上に色心の因果を置かずんば、木画の像を本尊に恃み奉ること無益なり。

疑つて云く、草木国土の上の十如是の因果の二法は何れの文に出でたるや。答えて曰く、止観第五に云く「国土世間亦十種の法を具す。所以(いわゆる)悪国土・相・性・体・力」等と云云。釈籤(※)第六に云く「相は唯色に在り、性は唯心に在り、体・力・作・縁は義色心を兼ね、因果は唯心・報は唯色に在り」等云云。金ぺい論(※)に云く「乃ち是れ一草・一木・一礫・一塵・各一仏性・各一因果あり縁了を具足す」等云云。

注(※)釈籤:中国天台第六祖・荊渓湛然(妙楽大師)の著述で、天台『法華玄義』の註釈書。
注(※)金ぺい論:妙楽大師の著述、「金錍論十不二門」の略名。

観心の本尊抄 要点解説その六に続く






by johsei1129 | 2016-11-17 19:02 | 観心本尊抄(御書五大部) | Trackback | Comments(0)
2016年 11月 16日

観心本尊抄 要点解説 その四

日蓮大聖人は本抄のはじめに紙幅に本尊を図現することの根拠として、有情・非情に渡って仏界(仏の命・境涯)が存在することを解き明かしていきます。

一般的にはこの世の存在を生物・無生物として分類するが、仏法では有情・非情と分別する。つまり人間いえば、髪・爪は非情となり、人間は有情・非情の混在した存在と見る。

この事について日蓮大聖人は「三世諸仏総勘文教相廃立」で次のように説かれておられます。
「総じて一代の聖教は一人の法なれば我が身の本体を能く能く知る可し。之を悟るを仏と云い之に迷うは衆生なり。此れは華厳経の文の意なり。

弘決の六に云く「此の身の中に具さに天地に倣うことを知る。頭の円かなるは天に象り、足の方なるは地に象ると知り、身の内の空種なるは即ち是れ虚空なり。腹の温かなるは春夏に法とり、背の剛きは秋冬に法とり、四体は四時に法とり、大節の十二は十二月に法とり、小節の三百六十は三百六十日に法とり、鼻の息の出入は山沢渓谷の中の風に法とり、口の息の出入は虚空の中の風に法とり、眼は日月に法とり、開閉は昼夜に法とり、髪は星辰に法とり、眉は北斗に法とり、脈は江河に法とり、骨は玉石に法とり、皮肉は地土に法とり、毛は叢林に法とり。
五臓は天に在つては五星に法とり、地に在つては五岳に法とり、陰・陽に在つては五行に法とり、世に在つては五常に法とり、内に在つては五神に法とり、行を修するには五徳に法とり、罪を治むるには五刑に法とる」と。

観心本尊抄 要点解説その五に続く。





by johsei1129 | 2016-11-16 21:12 | 観心本尊抄(御書五大部) | Trackback | Comments(0)
2016年 11月 15日

観心本尊抄 要点解説 その三

日蓮大聖人は開目抄と同様に、本抄も自ら題号を名づけられました。
そしてこの「如来滅後五五百歳始観心本尊抄」という題号にこそ、本抄の核心が込められております。

如来滅後とは、月氏国応誕の釈尊滅後の意で、五五百歳とは釈尊が大集経で説いた仏法の弘通の過程を五百年単位で記した予言です。
その内容は、釈尊滅後の五百年間は「解脱堅固(げだつけんご)」で次の五百年は「禅定堅固(ぜんじょうけんご)」となり、以上正法千年(=釈尊の教えが正しく伝わる期間)となります。さらに次の五百年は「読誦多門堅固」となり、次の五百年は「多造塔寺堅固」で、以上像法千年((=釈尊の教えそのものではなく似た教えが伝わる期間)となります。
そして正像二千年で釈尊の白法は功力を失い隠没し、末法に入り「闘諍言訟(とうじょうごんしょう)」の五百年を迎えます。

つまり観心本尊抄は、日蓮大聖人が五番目の五百歳である闘諍言訟の時代(日本では武士の台頭による下剋上の時代)に仏法流布の歴史上始めて「観心本尊」を図現なされることを明かされた書であることを宣言為される意であります。

実際に仏法伝搬の過程は大集経の予言通り展開されていきます。釈尊滅後は主に小乗経が東アジアに伝播していきます。その後「読誦多門堅固」の時代に入ると「西遊記」に象徴されるように、中国から訳僧が月氏国(インド)に渡り、釈尊の一切経を持ち帰り漢訳が盛んにおこなわれ、それともない仏道修行として八万法蔵とも言われる仏典が東南アジア、中国、日本で読誦されます。その後東南アジア、中国、日本は、国自体が仏教国となり、国王の意志の元、数多くの仏教伽藍が建立される「多造塔寺堅固」の時代に入ります。

尚、大集経に説かれている正法・像法という仏説は法華経でも釈尊は説かれております。
例えば妙法蓮華経 譬喩品第三で釈尊が舎利弗に将来「華光如来」となるという記別を与える時に、釈尊は、
「舎利弗 是華光仏 滅度之後 正法住世 三十二小劫 像法住世 亦三十二小劫」と説き、華光仏が滅度した後、正法が世に住すること 三十二小劫、像法が世に住すること亦、三十二小劫続くと示しております。


観心本尊抄 要点解説その四に続く



 


by johsei1129 | 2016-11-15 22:20 | 観心本尊抄(御書五大部) | Trackback | Comments(0)