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日蓮大聖人『御書』解説

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カテゴリ:小説 日蓮の生涯 下( 57 )


2020年 01月 25日

七十四、疫病、国土を襲う

さて日本の国情は悪化の一途をたどっていた。

不幸には不幸がかさなる。

国中が蒙古の憂いをかかえ、飢餓に見舞われているときに、新たな災難がふりかかった。

疫病である。

発達した医術などなかった時代である。この悲報は諸国に聞こえ、日蓮の山中にもとどいていた。

建治四年、日蓮五十七歳の時に書かれた手紙に、この時の悲惨な状況が記されている。

又去年の春より今年の二月中旬まで疫病(やくびょう)国に充満す。十家に五家・百家に五十家、皆()み死し、(あるい)はやまねども心は大苦に()へり。やむ者よりも(こわ)し。たまたま生き残りたれども、或は影の如く()ゐし子もなく、眼の如く面をならべし夫妻もなく、天地の如く(たの)みし父母もおはせず、生きても何かせん。心あらん人々(いか)でか()(いと)はざらん。三界無安とは仏説き給ひて候へども法に過ぎて見え候。『松野殿御返事

この疫病は建治三年春から大流行し、死者が続出した。翌年も衰えなかった。くわえてこの年、天候不順で大凶作となった。

朝廷はあわてて改元し、建治あらため弘安の世とした。弘安元年五月十八日には興福寺が観音像をつくり疫病の祈願を修した。さらに朝廷は五月二十六日、二十二社を召して祈願させた。

疫病は豊作ならば蔓延しない。日蓮は病のうえに飢饉がおそってくる様子をしるす。おなじく五十七歳の時に書かれた手紙である。

(こぞ)今年(ことし)は大えき()此の国にをこりて、人の死ぬる事大風に木の()うれ、大雪に草の()るゝがごとし。一人(ひとり)のこ()るべしとも()へず候ひき。しかれども又今年の寒温時にしたがひて、五穀は田畠に()ち草木はやさん(野山)()ひふさがりて尭舜(ぎょうしゅん)(注)の代のごとく、成劫(じようこう)のはじめかとみへて候ひしほどに、八月・九月の大雨大風に日本一同に(みの)らず、ゆきてのこれる万民冬を()ごしがたし。()ぬる寛喜(かんぎ)正嘉(しょうか)にも()え、来たらん三災にもおと()らざるか。自界(じかい)叛逆(ほんぎゃく)して盗賊国に充満し、他界きそ()いて合戦に心を()ひやす。民の心不孝にして父母を見ること他人のごとく、僧尼は邪見にして()(けん)(えん)(こう)との()へるがごとし。慈悲なければ天も此の国を()ぼらず、邪見なれば三宝にもすてられたり。又疫病(やくびょう)もしばらくは()みてみえしかども、鬼神かへり入るかのゆえに、北国も東国も西国も南国も、一同に()なげ()くよしきこへ候。  『上野殿御返事

 誹謗正法がつもれば国に小の三災がおこるという。(こつ)()(ひょう)(かく)・疫病である。

穀貴とは飢饉からはじまる穀物価格の上昇、すなわち猛烈なインフレをいう。兵革とは戦争である。これらはすべて人間が生みだす地獄・餓鬼・畜生の三悪道からおこる。

 日蓮はこの悪心が誹謗正法によってひきおこされるという。

 壊劫(えこう)の時は大の三災をこる、いはゆる火災・水災・風災なり。又減劫(げんこう)の時は小の三災をこる、ゆは()ゆる()飢渴(けかち)疫病(えきびょう)合戦(かっせん)なり。飢渴は大貪(だいとん)よりをこり、やく()()うは()()よりをこり、合戦(かっせん)瞋恚(しんに)よりをこる。今日本国の人々四十九億九万四千八百二十八人の男女、人々ことなれども同じく一つの三毒なり。所謂南無妙法蓮華経を(きょう)として()こる三毒なれば、人ごとに釈迦・多宝・十方(じっぽう)の諸仏を一時に()り、()め、流し、う()なうなり。是即ち小の三災の(ついで)なり。 『曾谷殿御返事

 三大悪である飢餓・疫病・戦争は、人間の内からおきる。外からくるものではない。日蓮は天台の法華文句記をひいてくわしく説く。 

  されば文句(もんぐ)の四に()はく「相とは四濁(しじょく)増劇(ぞうぎゃく)にして()の時に(じゅ)(ざい)せり。瞋恚増劇(しんにぞうぎゃく)にして刀兵(とうひょう)起こり、貪欲(とんよく)増劇にして飢餓(きが)起こり、愚癡(ぐち)増劇にして(しつ)(えき)起こり、三災起こるが故に煩悩(ますます)(さか)んにして(しょ)(けん)転熾(うたたさかん)なり」と。経に「如来(にょらい)現在、猶多怨嫉(ゆたおんしつ)況滅度後(きょうめつどご)」と()ふは是なり。法華不信の者を以て五濁(ごじょく)(しょう)(じゅう)の者とす。経に()はく「五濁の悪世には、但諸欲に(らく)(じゃく)せるを以て、是くの如き等の衆生、終に仏道を求めず」云云。仏道とは法華経の別名なり。天台云はく「仏道とは別して今経を指す」と。『御義口伝上 方便品八箇の大事

四濁とは生命のにごりの諸相をいう。煩悩濁・見濁・衆生濁・命濁である。一切衆生が煩悩と誤った思想にとりつかれると、個々の生命や社会全体、衆生の生命自体がにごる。この四濁がつづくと時代のにごりである劫濁を生み五濁が完成する。

聚在とはあつまること。増劇とはいちじるしく増すことである。怒りが増劇して戦争となり、貪欲が増劇して飢饉となり、愚かさが増劇して疫病となる。

飢饉は連続しておきた。また日本国は二月騒動につづく蒙古来襲の恐怖のため疲弊した。さらにまた病害がまきおこった。釈迦の未来記は恐ろしいほど正確である。

日本国の人々はいまだ妙法に帰依しない。日蓮は正法に背をむける人々を不孝の人という。主師親である教主釈尊にそむくからである。この疫病は日本国の不信が元凶という。

 これをもって案ずるに日本国の人は皆不幸の仁ぞかし。涅槃経の文に不孝の者は大地微塵よりも多しと説き給へり。されば天の日月、八万四千の星(おのおの)いか()りをなし、眼をいか()らかして日本国をにらめ給ふ。今の陰陽師(おんみょうじ)の天変(しき)りなりと奏し(そう)申す是なり。地夭(ちよう)日々に起こりて大海の上に小船を()かべたるが如し、今の日本国の小児(しょうに)(たましい)うし()なひ、女人(にょにん)()()く是なり。 『上野殿御返事

 

「小児は魂をうしなひ」とはどういう病であろう。「女人は血をはく」とは結核のことであろうか。

           七十五、病をしめす につづく


下巻目次

                 注

堯舜

唐尭と虞舜のこと。ともに中国上古の理想的帝王とされる伝説上の人物。史記などでは五帝に含まれる。尭は暦を作り、治水のため舜を起用し、ついで位を舜に譲った。舜は信賞必罰を明らかにし、天下を統一して地方を分治せしめ、()に治水を任せた。のち位を禹に譲った。尭舜の時代は孟子によって理想社会とされ、以後長く中国の政治の手本とされた。



by johsei1129 | 2020-01-25 08:04 | 小説 日蓮の生涯 下 | Trackback | Comments(0)
2019年 12月 22日

最終章 日本の仏法、月氏へ流れる

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                   英語版


日蓮が弘安五年(一二八二年)十月十三日に滅度して以来、本年平成二十九年(二○十七)で七百三十五年になろうとしている。

現在の日本の仏教界の現状を省みると、日蓮が四箇の格言(念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊)で徹底的に破折した鎌倉仏教は、既に形骸化し葬式仏教となり下がり、民衆及び国家権力への精神的影響力は喪失している。
 また釈尊が大集経で予言した仏滅後の「
多造塔寺堅固()」の時代を中心としてつくられた仏教寺院・伽藍は、民衆が仏道を求めて見参する場ではなく、一律に入場料を徴収して拝観させるという、まるで動物園か遊戯施設のごとくに変貌を遂げた。
 出家僧の姿も俗世間を断つ本来の出家とは程遠く、鎌倉仏教の時代は出家僧の常識だった剃髪、非婚、非肉食等の戒律は宗派により多少の濃淡はあっても、ほとんど有名無実化していった。つまり出家とは名ばかりで、これらの僧侶を擁する寺社・仏閣は、そもそも在家の供養を受ける資格はないであろう。
 供養とは、あくまで在家信徒の「三宝 (仏・法・僧)」を敬う思いを表しており、金額の多寡ではなく、それぞれの分に応じて自ら進んで供養するから功徳となる。決して出家僧侶の側が金額を決めて徴収するものではない。
 その状況の中で日蓮の唱えた「南無妙法蓮華経」は信仰の自由が確立した戦後、確実に日本の民衆に浸透していった。戦後、雨後の筍のように発生した新興宗教の大半は「南無阿弥陀仏」ではなく「南無妙法蓮華経」と唱え、法華経を拠り所とした。教外別伝を唱え仏典を否定した禅宗(現在の曹洞宗)でさえ「妙法蓮華経如来寿量品」を読誦するようになった。
 新興宗教の
なかには「佛所護念会」のように日蓮が図現した一機一縁の直筆の本尊を、鎌倉時代から所蔵してきた日蓮系寺院から譲り受け、自宗の本尊とする宗派もでてきた。
 しかし日蓮大聖人、日興上人、日目上人を正当に引き継ぐ日蓮正宗大石寺と決定的に異なるのは、
一閻浮提総与の大御本尊を根本の本尊としていないことと、日蓮から付属を受けた第二祖日興上人、そして一閻浮提の御座主第三祖日目上人の血脈がないことである。それ故、日蓮の本尊を拝みながら同時に神社に参詣するという、日興上人存命時の「波木井実長」と全く同じ謗法を犯していることになる。
 いっぽう日興上人以外の五老僧及び日蓮存命中の強信徒が開基した寺社・仏閣のその後の行方はどうなったであろう。
 その中の多くは日蓮を上行菩薩の再誕として日蓮大菩薩と仰ぎ、一閻浮提総与の大御本尊を根本の本尊とはしていない。
 菩薩とは仏になる前の修業中の身である。かりに日蓮が菩薩であるならば、菩薩が本尊を図現し、末法の衆生に「これは仏の当体であるから、これに題目を唱えることで成仏できる」と説いていることになる。これはとんでもない大増上慢になるであろう。仏になっていない菩薩が己の魂を墨に染め流して本尊を図現するならば、これはあくまで菩薩の境涯を図現したことになる。
 釈尊は妙法蓮華経如来寿量品第十六でこう説いている。

 「如是我成仏已来。甚大久遠。寿命無量。阿僧祇劫。常住不滅。諸善男子。我本行菩薩道。所成寿命。今猶未尽。復倍上数」
 訳「かくの如く我成仏して以来、はなはだ久遠で、寿命は無量阿僧祇劫であり、常に住して滅することはない。諸の善男子よ、我は本より菩薩の道を行じ、仏となって得た寿命はなお未だ尽きず、またその上の倍数の寿命を得ている」

 日蓮はこの文「我本行菩薩道」の文の底に「南無妙法蓮華経」が秘沈していると断言している。つまり久遠元初に釈迦牟尼は南無妙法蓮華経を唱えて成道し、その南無妙法蓮華経を日蓮自身も覚知し本尊として図現したのだ。
 仏道を成就するためには教(仏が覚知した悟り)・行(仏性を覚知するための修行法)・証(その修行で仏となったあかし)が必要となる。釈迦滅後正法千年、像法千年を経て末法に入ると、法華経という教は存在しても、末法での修行法はなく、当然仏というあかしも存在しないことになる。
 日蓮は建長五年の立宗宣言いらい、己心に本尊を想い描き、その本尊に帰命することで、竜の口の首の座の大難を乗り越え、上行菩薩としての迹を払い、末法の本仏としての本地を顕した。
 そして文永八年九月十二日の竜の口から約一ヶ月後の十月九日、佐渡へ出立するまで留め置かれた相模
依智の本間重連邸で、初めて本尊をあらわした。消息を書くために常に備えていた小筆では文字が小さいので、楊の枝をほどいて書き記したと言われている。脇書きに「相州本間依智郷書之」とあり現在、京都立本寺に所蔵されている。日蓮は妙法蓮華経の虚空会の儀式を図現し、その本尊に南無妙法蓮華経と唱えるという修行法を確立し、自らが仏となることで末法において教行証を具現化したのだった。 
 日蓮大聖人が弘安二年十月十二日に建立した「大御本尊」には、釈尊の説いた極説を持し、流布し、後世に伝えようとした仏教徒の情念が結実している。仏滅後、仏典結集のため参集した阿難、摩訶(まか)迦葉(かしょう)を中心とする五百人にも及ぶ仏弟子の阿羅漢たち。妙法蓮華経を漢訳し法華経有縁の国土世間、日本伝来への礎を築いた天才
()()羅什(らじゅう)。激しい法論に真っ向から立ち向かい、妙法蓮華経を体系化し諸教の王と確立した中国の天台大師。日本仏教史上初めて法華経を根本とする大乗戒の勅宣を、自身滅後七日目に賜った日本の伝教大師。
 日蓮はこの釈迦仏法の本流に立った上で、「
仏滅後二千二百三十余年之間、一閻浮提之内未曾有(みぞう)大曼荼羅」を建立した。この大御本尊に帰命せずに「日蓮大菩薩」と崇めることは「法華経を()むると(いえど)(かえ)って法華の心を(ころ)す」と同様、「日蓮を賛むると雖も還って日蓮の心を死す」所業となることは、火を見るよりも明らかであり、人々は成仏への正しい道に迷うことになる。

 まことに恐れ多いことでは有るが、ここで仏教史上における釈尊と日蓮大聖人のこの世に出現した因縁について考察する。

妙法蓮華経 薬草(やくそう)()(ほん)五で「如来説法 一相一味」と説かれている。つまり「諸法の実相」を究めた仏の悟りは、どの仏も同じであると説いている。違いは、説く時代((こう))、その仏が応誕する有縁の国、仏滅後の法が有効に続く期間である。

妙法蓮華経 ()()品第三で釈尊は、智慧第一の舎利(しゃり)(ほつ)に未来世で華光(けこう)如来となると「記別」を与える。そのさい釈尊は、華光如来が出現する仏国土の名を「()()」、劫の名を「大宝荘厳」、華光如来の寿命を「十二小劫」、人民の寿命を「八小劫」と示している。

さらに華光如来が出現し十二小劫を経た時に、堅満菩薩に未来世で「華足安行阿羅訶(あらか)三藐(さんみゃく)三仏陀」となるとの記別を与え、華光如来が滅度の後、正法が三十二小劫、像法が三十二小劫続くと解き明かす。

(ちな)みに現在の地球の仏国土名は「娑婆(しゃば)」、劫の名は「賢劫(けんこう)」である。

釈迦はインドに応誕し、最後の八年間で妙法蓮華経を(りょう)鷲山(じゅせん)で説き、上行菩薩に滅後の妙法蓮華経の弘通(ぐつう)を付属し八十歳で滅度した。釈迦滅後正法千年、像法千年、つまり二千年で釈迦仏法は力を失い末法に入る。そして妙法蓮華経有縁(うえん)の地日本に、上行菩薩の再誕として日蓮大聖人が誕生し、竜の口法難で発迹(ほっしゃく)顕本(けんぽん)し末法の本仏としての本地を顕す。

それでは日蓮滅後、法はどう続いていくのか。日蓮は報恩抄で次のように明確に宣言している。


「日蓮が慈悲(こう)(だい)ならば南無妙法蓮華経は万年の(ほか)・未来までも()()べし、日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり、無間(むけん)地獄の道をふさぎぬ、此の功徳(くどく)は伝教・天台にも超へ竜樹(りゅうじゅ)()(しょう)にもすぐれたり。極楽百年の修行は穢土(えど)の一日の功徳に及ばず、正像二千年の弘通(ぐつう)は末法の一時に劣るか。是れひとへに日蓮が智のかしこきには・あらず、時のしからしむる(のみ)。春は花さき秋は(このみ)なる夏は・あたたかに冬は・つめたし時のしからしむるに有らずや」


 日蓮大聖人は、釈迦滅後の正像二千年の弘通(ぐつう)は末法の一時、つまり日蓮大聖人及び滅後の門下(ゆい)(てい)の弘通に劣る。それは時のしからしむる故であると断言している。

さらに佐渡で記された「顕仏未来記」で次のようにその理由を示されている。


法華経の第七(薬王品第二十三)に云く「我が滅度の後・後の五百歳の中に閻浮提(えんぶだい)に広宣流布して断絶せしむること無けん」等云云。(中略)疑つて云く正像の二時を末法に相対するに、時と機と共に正像は(こと)に勝るるなり、何ぞ其の時機を捨てて(ひとえ)に当時(末法)を指すや、答えて云く仏意測り難し予未だ之を得ず、試みに一義を案じ小乗経を以て之を(かんが)うるに、正法千年は教行証の三つ(つぶさ)さに之を備う、像法千年には教行のみ有つて証無し、末法には教のみ有つて行証無し等云云。


釈尊の法門は、末法では教は存在するが、仏になるための修行方法である「行」は時に叶わず、それ故仏になる衆生も存在しないと断じている。釈尊は法華経で修行法として教を聞き、人に聞かせ、持ち(受持=信じ)、人にも持たせ、書き、人に書かしめ、(はな)、香等で経巻を供養せよと説いている。また大乗経では修行法として「六波羅(はら)(みつ)」の「布施・持戒・忍辱(にんにく)精進(しょうじん)禅定(ぜんじょう)智慧(ちえ)」を示している。

 また釈尊は法華経の結経である「仏説観普賢(ふげん)菩薩行法経(普賢経)」で、仏が入滅された後、どのように修行すればよいかと尋ねる弟子等に、要約すると次のように答える。


普賢(ふげん)菩薩を観想し、

大乗経典を読誦(どくじゅ)し、

大乗の教えを深く思索し、

諸仏を礼拝し、

過去世に作った宿業を懺悔(ざんげ)し、

この修業を繰り返す。


 この修行法は、あくまで王族、長者の出家者でなければ経済的、時間的に叶わない修行であることは言うまでもない。事実、法華経には、善男子、善女子という言葉が度々登場する。この善男女のサンスクリットの意味は、素性の良い男女を指している。つまり過去世に善行を積んだ功徳として、王族長者の一族に誕生した衆生を意味している。その身分以下の衆生は、托鉢(たくはつ)をする出家僧に種々の供養をすることで、功徳を分け与えられるという思想である。現代でも小乗経が流布された東南アジアの仏教国、タイ、ミャンマー等の国では出家僧に対する供養は、信じられないほど熱心に行われている。しかし僧を敬うことはあっても自分たちが自ら経を読誦(どくじゅ)し、教えを想念し他者に布教することはない。家族から僧を出すことは大きな功徳を得られると信じられているが、僧は戒律を守るだけで働くことはできないので、限られた者だけが出家する。

 それに対し日蓮は、僧俗問わず、すべての衆生が法華経を読誦し南無妙法蓮華経と唱え、人にも語ること(布教)を末法の修行であると説いた。

 佐渡で記された「諸法実相抄」で次のように説き、門下に(さと)されている。


 いかにも今度・信心をいたして法華経の行者にてとをり、日蓮が一門となりとをし給うべし、日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか、地涌の菩薩にさだまりなば釈尊久遠(くおん)の弟子たる事あに疑はんや。

経に云く「我久遠(くおん)より(この)かた是等の衆を教化す」とは是なり、末法にして妙法蓮華経の五字を弘めん者は男女はきらふべからず、皆地涌の菩薩の出現に非ずんば唱へがたき題目なり。

日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人・三人・百人と次第に唱へつたふるなり、未来も又しかるべし、是あに地涌(じゆ)の義に非ずや(あまつさ)へ広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を(まと)とするなるべし。

(中略)

(ふみ)には日蓮が大事の法門ども・かきて候ぞ、よくよく見ほど()かせ給へ・(こころ)()させ給うべし、一閻浮提(えんぶだい)第一の御本尊を信じさせ給へ、あひかまへて・あひかまへて・信心つよく候て三仏の守護をかうむらせ給うべし、行学(ぎょうがく)の二道をはげみ候べし、行学()へなば仏法はあるべからず、我もいたし人をも(きょう)()候へ、行学は信心よりをこるべく候、力あらば一文一句なりともかた()らせ給うべし、南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経、恐恐謹言

最後に筆者のつたない体験を紹介してこの小説の終わりとする。

筆者は過日、総本山大石寺を訪れた。

大石寺の緑の山々は霧雨におおわれて間近に迫り、静寂の世界があたりを支配していた。
 たまたま訪れた宿坊は
(とこ)灯坊(ひぼう)という海外信徒専用の宿舎だった。鉄筋の三階建で地下にはシャワー室がある。部屋は十人程度が寝泊まりできるように区切られてあった。様々な国や人種の信徒が集まるため、小部屋にしているのだろう。館内にはインターネットの設備もある。海外信徒の利便を考えて様々な工夫がなされていた。
 その夜、宿坊で御住職の法話があった。この御住職は海外部に所属され、一年の半分以上は外国での布教という。法話の内容も海外での苦労話だった。その口調は淡々としていたが、かえって我々の心に染み入った。
 御住職はインドでの体験を話された。インドにも法華講の信徒は大勢いる。御住職は各地を回って彼らを激励した。
 「いつかは日本へ行き、戒壇の大御本尊様にお目通りできるよう励みましょう」と。
 ところが信徒の中で「自分は日本に行けない」という人がいた。
 そこで御住職は「そんなことはありません、かならず日本に行けますよ」と激励したが、その信徒はどうしても行けないという。金銭的な理由ではないらしい。
 理由を聞いてみると、その信徒はある都市のスラム街の生まれだという。生まれた住所も、両親の名前もはっきりしない。日本でいう戸籍がないのである。したがってパスポートを取得できない。日本に行くどころか、インドの外にもでられない。この信徒は最後に告げた。
「だからわたしは来世で大御本尊様にお目通りするのです」
 日蓮大聖人は流罪地の佐渡で世界広布の予言をしている。

月は西より出でて東を照し、日は東より出でて西を照す、仏法も又以て(くの如し正像には西より東に向い末法には東より西に往く。  「顕仏未来記 文永十年五月十一日

インドで発祥した仏教は日本に伝わった。大聖人の仏法は日本に始まりインドにかえると断言されている。さらに大聖人は自らを旃陀(せんだ)(の生まれと仰せられた。こインドの信徒も低い階層の衆生である
 この信徒が日本に行くことは不可能なのだろうか。望みはないのだろうか。いや、そうではない。大御本尊様の慈悲をもってすれば、必ず日本に行けるはずだ。その可能性はいつか必ず訪れる。
 仏法の発祥地インドでは、釈迦仏法はすっかり廃れてしまったが、そこには再び日本から流布された日蓮大聖人の仏法の萌芽が見えている。大聖人が一人始められた布教の線は、確実に月氏の国に伝わっている。この小説に登場したあらゆる弟子・信徒と同じく、日蓮大聖人をかぎりなく慕い、大御本尊にまみえることを夢に見る人々がインドにおられる。そして我らと同じく南無妙法蓮華経と唱え、生涯信心強盛であることを誓っている。
 今世はむろん来世までも。


              完

下巻目次


 注

 多造塔寺堅固

  釈尊は入滅後の教えの変遷について大集経で、正しく伝わる正法時代が千年、似た教えが伝わる像法時代が千年続き、その後白法穏没する末法に入ると説いている。さらに正法、像法二千年を五百年ごとに区切り次のような時代になると予言している。はじめの五百年を解脱(げだつ)堅固(けんご)といい、仏法で悟りを得る時代、次の五百年は禅定堅固で、禅定(心を定めて想念する)により悟りを得る時代、次の五百年は読誦(どくじゅ)多聞(たもん)堅固で、経文の読誦が盛んに行われる時代、次の五百年は多造(たぞう)塔寺(とうじ)堅固で寺社・仏閣が盛んに建造される時代である。最後の末法の最初の五百年は、闘諍(とうじょう)堅固・白法(びゃくほう)隠没(おんもつ)の時代に入り、争いごとが盛んとなり、白法が隠没する時代であると説いている。
 日蓮大聖人も佐渡流罪中に述作した撰時抄で次のように記している。

「大集経に大覚世尊、月蔵菩薩に対して未来の時を定め給えり。所謂(いわゆる)我が滅度の後の五百歳の中には解脱堅固、次の五百年には禅定堅固已上(いじょう)一千年、次の五百年には読誦多聞堅固、次の五百年には多造塔寺堅固已上二千年、次の五百年には我法の中に於て闘諍言訟(ごんしょう)して白法隠没せん等云云」(撰時抄)



by johsei1129 | 2019-12-22 07:11 | 小説 日蓮の生涯 下 | Trackback | Comments(0)
2019年 12月 17日

九十一、千日尼と阿仏房

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     現在の阿仏坊妙宣寺  Wikipedia より

佐渡で日蓮に帰依した阿仏房と国府入道の夫妻は日蓮を最後まで守りとおした強信者である。夫妻は日蓮が赦免され佐渡を去ったあとも、流罪中に人目を忍んで供養した日々の事を忘れることができなかった。

聞けば日蓮は鎌倉をはなれ、甲州の身延という山にこもったという。日蓮が佐渡をはなれたときは弾圧から解放されたばかりだった。あまりに唐突な別れから一年がすぎた。いとしさは募るばかりだった。

阿仏房と国府入道は甲州行きを決意し準備にとりかかった。

これには妻の力をかりなければならない。千日尼は阿仏房を、是日尼は国府入道をはげまし甲斐へおくった。

日蓮の感激はひとかたでない。

その様子を知るのには、のこされた史料があまりにも少ない。いまはほとんど推測するだけだが、わずかに是日尼へあてた手紙の断片がのこっている。尼のおかげで夫が身延にくることができた。日蓮は妻の功に感謝する。

()()の国より此の甲州まで入道の来たりしかば、あらふしぎ(不思議)やとをも()ひしに、又今年来て()つみ、水くみ、た()ぎこり、だん()王の()()仙人(せんにん)につかへしがごとくして一月に及びぬる不思議さよ。()でをもちてつくしがたし。これひとへに又尼ぎみの御功徳なるべし。又御本尊一ぷくかきてまいらせ候。霊山浄土にてはかならずかならず()()ひたてまつるべし。恐々謹言。

卯月十二日          日蓮花押

尼是日               『是日尼御書

「法華経を我が得しことは(たきぎこり()つみ水くみつかへしぞ得し」(拾遺和歌集)

日蓮は奈良時代の高僧行基の和歌をひいている。行基は檀王が阿私仙人につかえたように、日々給仕して法華経を体読したという。

檀王とは釈迦の過去世の姿、阿私仙人は提婆達多の過去世の姿である。妙法蓮華経提婆達多品第十で、檀王は阿私仙人に千年のあいだ身を粉としてつかえ、今の釈迦仏となった。日蓮は国府入道が檀王であり「霊山浄土にてはかならずかならずゆきあひたてまつるべし」と約束している。そしてこの大功徳により是日尼も成仏すると、その志を称えている。

 提婆達多品の阿私仙人の下で檀王が修行した話は、平安時代の歌人藤原俊成も次のように和歌を詠んでいる。

「薪こり峰の木の()をもとめてぞ、()がた()法は聞きはじめける」


国府入道同様、佐渡の法友阿仏房も負けじと日蓮をたずねた。

日蓮の感激はこれまたひとかたでない。そしてその思いは妻、千日尼への深い感謝となった。

千日尼の年齢はさだかでない。だが阿仏房の年からすると、かなりの高齢であったことはまちがいない。

日蓮はつらかった佐渡の日々を述懐した。

  而るに日蓮佐渡国へながされたりしかば、彼の国の守護等は国主の御計らひに随って日蓮をあだむ。万民は其の命に随う。念仏者・禅・律・真言師等は鎌倉よりもいかにもして此へわたらぬやう計れと申しつかわし、極楽寺の良観等は武蔵(むさし)前司(ぜんじ)殿の(わたくし)御教書(みきょうしょ)を申して、弟子に持たせて日蓮をあだみなんとせしかば、いかにも命たすかるべきやうはなかりしに、天の御計らひはさてをきぬ。地頭・地頭等、念仏者・念仏者等、日蓮が庵室に昼夜に立ちそいて、かよ()う人をあるをまどわさんとせめしに、阿仏房にひつ()をしをわせ、夜中に度々御わたりありし事、いつの世かわす()らむ。只悲母(はは)の佐渡国に生まれかわりて有るか。(中略)

  法華経には過去に十万億の仏を供養せる人こそ今生には退せぬとわみへて候へ。されば十万憶供養の女人なり。其の上、人は見る眼の前には心ざし有れども、さしはなれぬれば、心は()すれずともさてこそ候に、去ぬる文永十一年より今年弘安元年まではすでに五箇年が間此の山中に候に、佐渡国より三度まで夫をつかわす。いくらほどの御心ざしぞ。大地よりもあつく大海よりもふかき御心ざしぞかし。『千日尼御前御返事

          

この消息で日蓮は千日尼を「十万億供養の女人」とよんでいる。これほどの賛辞がほかにあろうか。

夫の阿仏房は弘安二年三月二十一日、亡くなった。九十一歳と伝えられる。日蓮はふかい悔やみをのべて回向した。

日蓮は未亡人となった千日尼に手紙を書く。

されば故阿仏房の聖霊は今いづくむにかをはすらんと人は疑ふとも、法華経の明境をもって其の影をうかべて候へば(りょう)鷲山(じゅせん)の山の中に多宝仏の宝塔の内に、東()きにをはすと日蓮は見まいらせて候。若し此の事そら()ごと()にて候わば、日蓮がひがめにては候はず、釈迦如来の『()尊法(そんほう)久後(くご)要当説(ようとうせつ)真実(しんじつ)()御舌(おんした)と、多宝仏(たほうぶつ)の『妙法華経、(かい)()真実(しんじつ)』の舌相(ぜっそう)と、四百万億那( な)()()の国土にあさ()のごとく、()ねのごとく、星のごとく、竹のごとくぞく()()くとすきもなく(つら)なりゐてをはしましゝ諸仏如来の、一仏も()け給はず(こう)長舌(ちょうぜつ)大梵(だいぼん)王宮(のうぐう)()し付けてをはせし御舌(おんした)どもの、く()らの死にてくさ()れたるがごとく、い()しのよりあつまりてくされたるがごとく、皆一時に()ちくされて、十方(じっぽう)世界(せかい)の諸仏如来大妄語の罪に()とされて、寂光の浄土の金るり(瑠璃)の大地、はたと()れて、提婆(だいば)がごとく無間(むけん)大城(だいじょう)にかぱと入り、(ほう)(れん)(こう)比丘尼(びくに)(注)がごとく身より大妄語の猛火ぱといでて、実報(じっぽう)()(おう)(注)の花のその()一時に(かい)じん()の地となるべし。いかでかさる事は候べき。故阿仏房一人を寂光の浄土に入れ給はずば諸仏は大苦に()ち給ふべし。たゞをいて物を見よ物を見よ。仏のま()と・そら()事は此にて見奉るべし。『千日尼御返事


いま阿仏房は霊鷲山にある多宝仏の宝塔の中にいるという。阿仏房はそこで東むきの座にいて成仏しているという。もしこの事がいつわりならば、釈迦をはじめすべての諸仏の舌がくさるという。そしてすべての諸仏が無間地獄に突き落とされるという。阿仏房は必ず成仏するという日蓮の確信が、文中にみなぎっている。
 夫がいかに日蓮を慕っていたかを間近に見ていた千日尼にとって、これほどまでに称える日蓮の手紙は、夫を支えてきた自分自身の人生をも讃えられていると感じいったことだろう。


いへにをとこなければ人のた()しゐなきがごとし。くう()()をばたれ()にか()ゐあわせん。よき物をばたれにかやしなうべき。一日二日たが()いしをだにもをぼつかなしとをもいしに、こぞ(去年)の三月廿一日にわかれにしが、こぞもまちくらせどもみゆる事なし。今年もすで()に七つき()になりぬ。たといわれこそ来たらずとも、いかにをと()づれ()はなかるらん。ちりし花も又さきぬ。をちし(このみ)も又なりぬ。春の風もかわらず、秋のけしきもこぞのごとし。いかにこの一事のみかわりゆきて、本のごとくなかるらむ。月は入りて又いでぬ。雲はきへて又来たる。この人の出でてかへらぬ事こそ天もうらめしく、地もなげかしく候へとこそをぼすらめ。いそぎいそぎ法華経をら()れう()とたのみまいらせ給ひて、り()()ん浄土へまいらせ給ひて、みまいらせさせ給ふべし。 『千日尼御返事

千日尼は日蓮の称賛にこたえるように信心の灯を絶やさない。

彼女は子の遠藤藤九郎守綱に託して、はるか甲斐身延山に夫の遺骨をおさめた。そしてまた翌年、守綱に墓を弔わせている。

おそらく阿仏房は自分の遺骨は佐渡ではなく、はるか離れた日蓮のもとに置くよう遺言していたものと思われる。それほど阿仏房は日蓮に帰依する思いが強かった。またそれを支えた千日尼の信仰心もただものではない。
 守綱青年は千日尼の薫陶もあって強盛な信徒に育った。佐渡・北陸の弘教につとめ、のちに出家して後阿仏房と称した。さらに自邸をあらためて阿仏坊妙宣寺としたといわれる。

日蓮は、夫亡き後も強盛な信をつらぬく千日尼及び子藤九郎守綱への賛辞を惜しまない。


 而るに故阿仏聖霊は日本国北海のい()すの()りしかども、後世ををそれて出家して後世を願ひしが、流人(るにん)日蓮に()ひて法華経を持ち、去年(こぞ)の春仏になりぬ。尸陀(しだ)(さん)()(かん)(注)は仏法に()ひて、生をいとい死を願ひて帝釈(たいしゃく)と生まれたり。阿仏上人は濁世(じょくせ)の身を(いと)ひて仏になり給ひぬ。其の子藤九郎(とうくろう)(もり)(つな)は此の(あと)をつぎて一向法華経の行者となりて、去年は七月二日、父の舎利(しゃり)(くび)()け、一千里の山海を経て甲州波木井身延山に登りて法華経の道場に此をおさめ、今年は又七月一日身延山に登りて慈父のはかを拝見す。子にすぎたる(たから)なし、子にすぎたる財なし。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。  『千日尼御返事

 ちなみに現在の佐渡市・妙宣寺には、日蓮のご消息文三巻(国府尼御前御返事、千日尼御前御返事、千日尼御返事:国重要文化財)と、千日尼、阿仏房にそれぞれ与えられた日蓮直筆の御本尊二幅が所蔵されている。



               九十二、南条時光の信仰 につづく


下巻目次


法蓮香比丘尼

宝蓮香比丘尼とも書く。大仏頂首楞厳経巻八に説かれている尼。大妄語の罪により、体の節節から猛火を出して、生きながらにして無間地獄に堕ちたという。

実報華王

 実報は実報土・蓮華蔵世界、華王は華厳経の教主・盧遮那仏のこと。

 尸陀山の野干

尸陀山はインドの毘摩(びま)大国にあった山。夜干は狐の一種。未曾有経巻上によると、この山に住んでいた野干が師子王に追われて(かれ)井戸に落ち、三日を経て餓死する寸前に、万物の無常を嘆き、仏に帰命して罪障消滅を願う一偈を説いた。これを聞いた帝釈は諸天を率いて説法を請うたといわれる。



by johsei1129 | 2019-12-17 06:46 | 小説 日蓮の生涯 下 | Trackback | Comments(0)
2019年 12月 15日

九十九、通塞の案内者



日蓮はつね日頃、信力強盛な者に成仏の日が絶対にくると明言していた。そして信心ある者の臨終には、自分がかならず現われるといった。日蓮は死にさいし、立ち会うという。まるで冥界の主であるかのように。

このことを弟子檀那の手紙にくりかえし説いている。

但し日蓮をつえ()()らともたのみ給ふべし。けは()しき山、あしき道、つえをつきぬればたをれず。殊に手をひかれぬればまろ()ぶ事なし。南無妙法蓮華経は死出(しで)の山にてはつえはしらとなり給へ。釈迦仏・多宝仏・上行等の四菩薩は手を取り給ふべし。日蓮さきに立ち候はゞ、御(むか)へにまいり候事もやあらんずらん。また先に行かせ給はゞ、日蓮必ず閻魔法王にも(くわ)しく申すべく候。此の事少しもそら()事あるべからず。日蓮法華経の文の如くならば(つう)(そく)の案内者なり。只一心に信心おはして霊山を()し給へ。『弥源太殿御返事

日蓮こいしくをはせば、常に出づる日、ゆうべにいづる月ををがませ給へ。いつとなく日月にかげをうかぶる身なり。又後生には霊山浄土にまいりあひまいらせん。 『国府尼御前御書

()し命ともなるならば法華経ばし(うら)みさせ給ふなよ。又閻魔(えんま)王宮にしては何とか仰せあるべき。をこがましき事とはおぼすとも、其の時は日蓮が檀那なりとこそ仰せあらんずらめ。『一谷入道女房御書

中有(ちゅうう)の道にいかなる事もいできたり候はゞ、日蓮が()()なりとなのらせ給へ、わずかの日本国なれども、さがみ(相模)殿のうちのものと申すをば、さう(左右)なくおそるゝ事候。

日蓮は日本第一の()たう()の法師、たゞし法華経を信じ候事は、一閻浮提第一の聖人なり。其の名は十方の浄土にきこえぬ。定めて天地もしりぬらん。日蓮が弟子となのらせ給はゞ、いかなる悪鬼等なりとも、よも()らぬよしは申さじとおぼすべし。『妙心尼御前御返事

我等は穢土(えど)に候へども心は霊山(りょうぜん)に住むべし。御面(おかお)を見てはなにかせん。心こそ大切に候へ。いつかいつか釈迦仏のをはします霊山会上(えじょう)にま()りあひ候はん。 『千日尼御前御返事

相かまへて相かまへて、自他の生死はしらねども、御臨終のきざみ、生死の中間に、日蓮かならずむか()いにまいり候べし。『上野殿御返事

故に法性(ほっしょう)の空に自在にとびゆく車をこそ(だい)(びゃく)牛車(ごしゃ)とは申すなれ。我より後に来たり給はん人々は、この車にめされて霊山へ御出で有るべく候。日蓮も同じ車に乗りて御迎ひにまかり向かふべく候。 『大白牛車御消息

御義口伝に云はく、(かい)は十界なり、()(にょ)我等(がとう)()()なり、()は極果の住処なり、宝処(ほうしょ)霊山(りょうぜん)り。日蓮等の(たぐい)南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は一同に(かい)()()宝処(ほうしょなり。共の一字は日蓮に共する時は宝処に至るべし、不共ならば阿鼻(あび)大城(だいじょう)()つべし云云。 『御義口伝上 化城喩品 第七 皆共至宝処の事』

弟子たちはこの手紙を読んで奮いたつ。生きては日蓮に随い、死しては日蓮にまみえる。この死への確信があればこそ、今の生が充実するのだ。
 妙法蓮華経 普賢菩薩勧発第二十八には次のように説かれている。

(にゃく)有人(うにん) 受持(じゅじ)読誦(どくじゅ)()()()(しゅ)。  若し人有りて 受持し読誦し、その義趣を解す

是人命終為( ぜにんみょうじゅうい)千仏授手(せんぶつじゅしゅ)    是の人命終せば、千仏の(みて)を授けて、
 (りょう)不恐怖(ふくふ)不堕(ふだ)(あく)(しゅ)
     恐怖せず、悪趣に堕ちざらしめたもう

法華経を信じる者には臨終の時、千の仏がむかえにきて手をさしのべるという。恐れることなく、悪道にも堕ちさせない。一仏二仏の手ではない、千仏の手がすくいあげるという。当時の強信徒は、臨終の間際に日蓮がこの千仏を率いてやってくると固く信じていた。

逆に謗法不信の者は獄卒がむかえにくるとする。

(けん)()読誦(どくじゅ) 書持(しょじ)経者(きょうしゃ)。  経を読誦し書持すること有らん者を見て、
  軽賎憎嫉(きょうせんぞうしつ) 而懐結恨(にえけっこん)。   軽賎憎嫉して結恨を(いだ)かん。

 此人( しにん)罪報(ざいほう) 汝今復聴(にょこんぶちょう)   此の人の罪報を汝今(また)聴け。
  其人(  ごにん)命終(みょうじゅう) 入阿鼻獄。
 其の人命終して阿鼻獄に入らん。

一方、法華不信の者は捕縛されて牢獄へゆくという。なんという厳しさであろうか。


                百、不滅の滅 につづく


下巻目次



by johsei1129 | 2019-12-15 07:40 | 小説 日蓮の生涯 下 | Trackback | Comments(0)
2019年 12月 14日

九十六、妙覚の山

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     チョモランマ(エベレスト) Wikipedia より
      

身延の草庵はひっそりとしていた。

伯耆房が日蓮の部屋にはいった。

朝餉(あさげ)の支度ができました。南条殿が供養されました米をたいて・・」

伯耆房は日蓮が本尊の前で倒れているのを見た。

「お師匠」

伯耆房があわてて日蓮をだきおこす。

「だれか」


 人間だれしもかならず一度は臨終をむかえる。死は不吉だとか、死は思いたくもないとしても、のがれた者はだれもいない。生の行く末が死だと思えば、人生ははかないということになるが、死をむかえる覚悟をしたうえで、ひるがえって生を考えれば、有意義な人生をおくることができる。

 しかし人はそれに気づかない。

日蓮は信徒の松野六郎左衛門入道に手紙をおくった。松野殿は駿河国庵原郡松野の人である。娘が南条時光の父兵衛に嫁いだ縁によって日蓮に帰依した。

子供が多くいる。蓮華寺を建立した長男の六郎左衛門尉、日蓮の高弟でのちの六老僧の一人となる日持そして南条家に嫁いだ娘が知られている。

消息から推測すると、松野はかなり教養の深い人だったと思われる。また彼は日蓮と同年輩だった。それだけに日蓮は松野に親しみをこめ、妙法をたもつ者の生き方を訴える。おなじ老いをむかえる者への手紙である。


 種々の物送り給び候
(おわ)んぬ。山中のすま(住居)ゐ思ひ()らせ給ふて、雪の中ふみ分けて御訪(おんとぶら)ひ候事 御 志( おんこころざし)定めて法華経・(じゅう)羅刹(らせつ)( し)ろし()し候らん。さては涅槃経に云はく「人命の(とど)まらざることは山水にも過ぎたり。今日(こんにち)(そん)すと(いえど)も明日(たも)ち難し」文。摩耶(まや)経に云はく「譬へば旃陀(せんだ)()の羊を()って()()に至るが如く、人命も亦是くの如く歩々(ほほ)死地に近づく」文。法華経に云はく「三界は安きこと無し、(なお)火宅の如し。(しゅう)()充満(じゅうまん)して(はなは)怖畏(ふい)すべし」等云々。此等の経文は我等が慈父大覚世尊、末代の凡夫(ぼんぷ)をいさめ給ひ、いとけなき子どもをさし驚かし給へる経文なり。(しか)りと(いえど)須臾(しゅゆ)も驚く心なく、刹那(せつな)も道心を()こざす、野辺(のべ)に捨てられなば一夜の中にはだかになるべき身をかざ()らんがために、いとまを入れ衣を(かさ)ねんとはげ()む。命終はりなば三日の内に水と成りて流れ、(ちり)と成りて地にまじはり、煙と成りて天にのぼり、あと()もみへずなるべき身を(やしな)はんとて多くの(たから)たく()はふ。    『松野殿御返事
 

われわれは屠殺場へおもむく羊であるという。またこの世界は火炎が充満する苦しみの世界であると。

現代の文明は死から逃避している。人々は死を忌み嫌い、遠ざける。終焉がないかのように。

日蓮は雪山童子の故事をひいて死の尊厳を説いている。くわえて仏法をもとめず、いたずらに生を終える人のはかなさをしるす。おなじ松野への手紙である。


(つらつら)世間を観ずるに、生死無常の理なれば生ずる者は必ず死す。されば()()のあだにはかなき事、譬へば電光(いなびかり)の如く、朝露に向かひて消ゆる似たり。風の前の(ともしび)の消えやすく、芭蕉の葉の破れやすきに異ならず。人皆此の無常を(のが)れず。(つい)に一度は黄泉(よみじ)(たび)(おもむ)くべし。(しか)れば冥土の旅を思ふに、闇々として()らければ日月星宿(せいしゅく)の光もなく、せめて灯燭(とうしょく)とてとも()す火だにもなし。かゝる(くら)き道に又()もなふ人もなし。(しゃば)にある時は、親類・兄弟・妻子・眷属(けんぞく)集まりて父は(あわ)れみの志高く、母は悲しみの情深く、夫妻は偕老同穴(かいろうどうけつ)(ちぎ)りとて、大海にあるえび()は同じ畜生ながら夫妻ちぎり細やかに、一生一処にともなひて離れ去る事なきが如し。鴛鴦(えんおう)(ふすま)の下に枕を並べて遊び(たわむ)る仲なれども、彼の冥途の旅には伴ふ事なし。冥々として(ひと)り行く。誰か来たりて是非を(とぶら)はんや。(あるい)老少(ろうしょう)不定(ふじょう)の境なれば、老いたるは先立ち若きは留まる。是は順次の道理なり。歎きの中にもせめて思ひなぐさむ(かた)も有りぬべし。老いたるは留まり、若きは先立つ。されば恨みの至って恨めしきは幼くして親に先立つ子、(なげ)きの至って歎かしきは老いて子を先立つる親なり。是くの如く生死無常、老少不定の境、あだ()にはかなき世の中に、但昼夜に今生の(たくわ)へをのみ思ひ、朝夕に現世の(わざ)のみなして、仏をも敬はず、法をも信ぜず、無行(むぎょう)無智(むち)にして(いたずら)に明かし暮らして、閻魔(えんま)の庁庭に引き迎えられん時は、何を以てか資糧として三界の長途(ちょうと)を行き、何を以て(せん)(ばつ)として生死の(こう)(かい)を渡りて、実報(じっぽう)寂光(じゃっこう)の仏土に至らんや

 海にいるエビは雄雌そろっておなじ穴にいる。これを偕老同穴という。転じて夫婦仲のむつまじいことをあらわす。夫婦が一生を共にし、おなじ墓穴にはいる意味である。それでも世を去るときは一人なのだ。

 鴛鴦の衾とは男女(とも)()の夜具をいう。鴛鴦とはオシドリのこと。これまた良い夫婦仲の形容詞だが、死にのぞめばはなれてしまう。

 日蓮は仏法の根本命題である死について、若い時から思索をかさねていた。現代人が忘れているテーマである。

例えば日蝕がある。古代の人々は突然太陽が欠け始め、ついには昼なのに真っ暗になると、この世の終わりが来たと恐れをなしたただろう。
 しかし現代の人間は、日蝕は天体の運行で起きる現象で「月が地球と太陽の間に入り、月の影に入った地域では太陽が欠け、あるいは全く見えなくなる」ことを知っている。また将来おきる日食の日時と地球上の位置を正確に知ることができ、日蝕を天体ショーとして楽しんでいる。これは天体の運行という法則を把握しているからできることである。

釈尊は妙法蓮華経方便品第二で「仏所成就。第一希有(けう)難解(なんげ)之法(しほう)唯仏(ゆいぶつ)与仏(よぶつ)乃能(ないのう)究尽(くじん)。諸法実相」と説く。

() 仏が成就した所業とは、最高の稀有で難解な法で、唯、仏と仏のみが、()く諸法の実相を極め尽くしたことである。
 つまり人々は、生と死の法則がわからないので死に対し不安になり恐れる。釈尊も日蓮も命の法則を極めているから死に対し恐れることはないとする。なぜなら仏法は生命は一つでなく、(ほっ)(しん)(ほう)(しん)(おう)(じん)の三身と見る。無始無終の魂魄(こんぱく)である法身、一個の受精卵として母親の胎内で生まれ、老いて朽ち果てていく有始有終の応身、そして修行し悟り、仏となって衆生を救う有始無終の報身。つまり我々が通常、人とみる応身は必ず死んで行くが、魂魄としての法身は現世の所業=善行または悪行の結果を受け、新たな生として誕生するとする。それ故現世での所業が大事になってくる。

日蓮はこの法報応(ほっぽうおう)(さん)(じん)を月に見立てて説いている。


 三身の事、()(げん)経に云く「仏・三種の身は方等(ほうどう)より生ず是の大法印は涅槃(ねはん)海を印す、此くの如き海中より能く三種の仏の清浄の身を生ず、此の三種の身は人天の福田(ふくでん)にして応供(おうぐ)の中の最なり」云云、三身とは一には(ほっ)(しん)如来、二には(ほう)(しん)如来、三には(おう)(じん)如来なり。此の三身如来をば一切の諸仏必ず()()す、(たと)へば月の体は法身、月の光は報身、月の影は応身にたとう。一の月に三のことわりあり、一仏に三身の徳まします。『四條金吾釈迦仏供養事:
建治二年七月十五日』五十五歳御作)

 言い換えると、法身とは生命の本質そのもの、報身は生命の智慧、境涯と言え、応身とは生命の色心(実際に生きている当体)をいう。
 例えば七十五億人とも言われている今生きている地球上の人々には誰しもが生まれたばかりの赤ん坊の瞬間があった。しかしその赤ん坊は今どこにもいない。応身とはまさにそういう身なのだ。それ故恐るべきは死ではなく、現在どのように生きているかを恐るべきなのだ。現在の生き様が次の生を決めるのだから。
 この生命の法を知り尽くした日蓮は、いま妙法蓮華経に帰命しているかどうかを恐れている。
仏法は人間の再誕を説き、
再誕後の世界はその人の臨終の相から予見できるという。日蓮は法華経の鏡で人の死後を当てることができるといった。信じる法の邪正によって臨終の相がきまると。

死をむかえるためによりよい人生をおくる。これはだれしも願うことである。よりよい人生とは、妙法をたもつことで初めて叶えられる。


 とても此の身は
(いたずら)に山野の土となるべし。惜しみても何かせん。惜しむとも惜しみとぐべからず。人久しといえども百年には過ぎず。其の間の事は(ただ)一睡(いっすい)の夢ぞかし。受けがたき人身を受けて(たまたま)出家せる者も仏法を学し謗法の者を責めずして(いたずら)遊戯(ゆげ)雑談(ぞうだん)のみして明かし暮らさん者は、法師の皮を()たる畜生なり。法師の名を借りて世を渡り身を養ふといへども、法師となる義は一つもなし。法師と云ふ名字をぬすめる盗人なり。()づべし恥づべし、恐るべし。

日蓮はここで妙法をたもつ者の臨終を説いている。妙法を唱えきった者には苦渋に満ちたこの娑婆世界が、実は寂光土であったことがわかるという。

(しか)るに在家の御身は但余念なく南無妙法蓮華経と御唱へありて、僧をも供養し給ふが肝心にて候なり。それも経文の如くならば随力演説も有るべきか。世の中もの()からん時も今生の( く)さへかなしし。()してや来世の苦をやと(おぼ)()しても南無妙法蓮華経と唱へ、悦ばしからん時も今生の悦びは夢の中の夢、霊山浄土の悦びこそ(まこと)の悦びなれと思し食し合はせて又南無妙法蓮華経と唱へ、退転なく修行して最後臨終の時を待って御覧ぜよ。妙覚の山に走り登りて四方をきっと(屹度)見るならば、あら(おも)(しろ)や、法界寂光土にして瑠璃(るり)を以て地とし(こがね)の縄を以て八つの道を(さか)へり。(そら)より四種の花ふり、虚空に音楽聞こえて、諸仏菩薩は常楽我浄の風にそよめき、娯楽快楽(けらく)し給ふぞや。我等も其の数に(つら)なりて遊戯(ゆげ)し楽しむべき事、はや近づけり。信心弱くしてはかゝる目出たき所に行くべからず、行くべからず。不審の事をば尚々(なおなお)承るべく候。(あな)(かしこ)穴賢。

                  九十七、身延下山  につづく


下巻目次



by johsei1129 | 2019-12-14 10:36 | 小説 日蓮の生涯 下 | Trackback | Comments(0)
2017年 11月 18日

補足 日蓮弟子檀那列伝 参考文献

浄顕房・義浄房

日蓮が清澄寺で修行した時の兄弟子で立宗宣言後、日蓮に帰依(きえ)する。師道善房が逝去すると日蓮は師を弔うために「報恩抄」を書き上げ、日向を使者に持たせて浄顕房・義浄房に送られる。さらに「御()へと義成房と二人、此の御房(浄顕房)()()として(かさ)もり()の頂にて二三遍、又故道善御房の御はか()にて一遍よませさせ給いては此の御房にあづけさせ給いて、つねに御聴聞(ちょうもん)候へ」とご指南なされている。尚、道善房死去後、浄顕房は清澄寺の山主となったため、日蓮は清澄寺の代表として浄顕房に報恩抄を預けられた。


工藤左近尉吉隆

天津の人で大聖人の信者であった。文永元年十一月十一日、大聖人を華房(はなぶさ)蓮華寺より自宅に御招待した。その途中小松原で東条左衛門に要撃され、この急を聞いて吉隆が馳せつけ、景信と戦ったが(しゅう)()敵せず、吉隆は鏡忍房と共に身命を捨てて大聖人を御守りした強信者である。(日享)


三位房日行

 下総の出身にして早く大聖人の門に投じ、叡山に留学し秀才に任せてややもすれば宗祖の御意に背くことがあって(しば)(しば)訓戒を(こうむ)るといえども、然も門下に重きをなしていた。為に日興上人富士弘教の補助を命ぜられ、または諸宗問答の主任に当たらしめられたことがある。惜しいかな信念全からず、(かえ)って大聖人弘教の(さまた)げとなって晩年を全うしなかった。(日享)


宿屋左衛門入道光則

 幕府に仕えていた人であり、安国論はこの人によって献上された。その後極楽寺良観等の帰依をやめて大聖人の信仰に入った。(日享)


弥源太入道

 北条の一門で立正安国論当時より大聖人に心を寄せた者である。大石寺にある宗近の名刀は弥源太の奉納したものであるという。(日享)


富木常忍・大田乗明・曾谷教信 

富木常忍は下総国葛西郡若宮に法華堂を建立する。法友・大田乗明の子息日高を後継者として迎え、後に大田乗明が中山に本妙寺を起こすと、日高は若宮の法華堂を本妙寺と合併させる。これが現在の中山法華経寺となる。富木常忍は千葉氏の文書官であったこともあり日蓮から送られた重要御書の厳護に努め、数多くの真筆が所蔵されている。そのなかでも国宝に指定された「立正安国論」と「観心本尊抄」の所蔵は特筆すべきものである。


大田乗明は、日蓮大聖人ご在世当時の信徒の中では最も法門の理解が深かったと思われ、大聖人の内証をしるされた重要御書を送られている。その一つが将来の本門の戒壇を遺命した「三大秘法稟承事」である。弘安六年四月二十六日卒。


曾谷教信は大田乗明同様、富木常忍の屋敷で開かれた「百座説法」で日蓮の法話を聞き帰依したと伝えられている。富木常忍と同じ千葉氏の家臣で常忍は文官だったが教信は武将であった。また嫡男直秀、弟二人が日蓮のもとで出家しており、親子共々、曾谷・大野の自領に寺院を建立している。娘は千葉氏第九代当主千葉(むね)(たね)の長男千葉胤貞に嫁ぎ、姪も千葉氏の第十一代当主千葉貞胤に嫁ぐなど、千葉氏の有力家臣となって千葉氏を日蓮に帰依させる程の影響力を持っていた。教信に与えられた御書は七本伝えられているが、唯一真筆が残っている大田乗明と連名で与えられた「曾谷入道殿許御書」は、日蓮が楷書(かいしょ)の漢文で書かれており、恐らく教信も、日蓮には当時の武士の習いとして楷書の漢文で消息を書いて送られたと推察される。


四条金吾頼基

 父親の代から北条氏一門の名越朝時・光時父子に執事として仕える。

文永八年(一二七一年)の竜の口法難では日蓮の乗った裸馬の手綱を引き、日蓮と殉死しようとした。そのことを機縁として日蓮は佐渡で最初に述作した人本尊開顕の書『開目抄』を頼基に送られた。

日蓮は開目抄で「日蓮といゐし者は去年九月十二日()(うし)の時に(くび)はねられぬ、此れは魂魄(こんぱく)・佐土の国にいたりて返年の二月・雪中にしるして有縁の弟子へ()くれば()そろしくて・()そろしからず。()ん人いかに・をぢぬらむ。此れ (本抄) は釈迦・多宝・十方の諸仏の未来日本国・当世をうつし給う明鏡なり、かたみともみるべし」と記されている。

頼基は晩年、甲斐国(うつ)(ぶさ)(現、山梨県南部町)に内船寺、身延山中に端場坊(現、身延山久遠寺の最古の宿坊)を建立している。尚、鎌倉の頼基の屋敷跡は現在、四条山収玄寺となり、頼基が日蓮から俗日頼として授与された十界曼荼羅(まんだら)の御本尊を安置している。

永仁四年(一二九六年)六十八歳で卒。尚、妻の日眼女は頼基が死去した五年後の正安三年(一三〇一年)に亡くなっている。


池上宗仲

 日蓮大聖人御遷化後、日蓮門下に妙法蓮華経の文字数「六万九千三百四十八文字」分の坪数の土地を寄進し、伽藍(がらん)を建てる。母方の従兄弟であった日朗が開基住職となり、現在の池上本門寺の基礎を築いた。 


船守弥三郎

伊豆の国の伊東在の河名の住人で大聖人の流罪の時に河名の津に上がられた時、官憲の追放に苦しまれしを(ひそか)に保護して遂に入信した人である。俗伝の(まないた)岩は大いなる誤りと思う。(日享)


日妙

 鎌倉に住した寡婦(かふ)であり、大聖人の帰依者であった。(おと)御前という少女を(たずさ)えてはるばる佐渡に大聖人を訪ねたほどの純真者であった。日妙聖人の名はその信念の賜である。後に興師等の化を慕って乙御前と共に重須(おもす)に来る。(日享)


阿仏房日得・千日尼

承久の乱(一二二一年)の謀反により佐渡島に流罪された順徳天皇の従者として佐渡に渡る。仁治三年(一二四二年)、順徳天皇が崩御すると、妻と共に剃髪し自ら阿仏房と号する。浄土宗の熱心な信徒だったが、日蓮が佐渡流罪後、佐渡及び越後の念仏・真言の僧侶との「塚原問答」を聞き日蓮に帰依し、人目を忍んで妻千日尼共々、食料を塚原三昧堂に運び外護に励む。日蓮が赦免となり身延に入ると、老齢の身でありながら三度も身延の草菴を訪ね、時に一月程下働きをしながら日蓮の説法を学ぶ強信徒であった。弘安二年三月二十一日、九十一歳で亡くなるが、息子の藤九郎が同年七月、遺骨を首に下げ身延を訪ね、日蓮の草菴の宝殿に収めた。尚、阿仏房が自宅に開基した「妙宣寺」には、日蓮が阿仏房、千日尼に充てた直筆の御書三本と曼荼羅御本尊が五幅所蔵されている。


国府入道

 国府入道同尼御前は佐渡の国中の国府に住した人であり、夫妻ともに大聖人を外護した純真の信者である。(日享)


大進房

下総出身の長老で、大聖人が佐渡流罪中は法兄日昭と共に鎌倉を守っていた。

建治三年身延より大聖人の御名代として富士の鹿島に(おもむ)き富士方面の弘教に当たられた。しかし富士地方は実相寺竜泉寺を始め、由比・南条・大内等の諸氏の外護を得て興師の教風が牢固としていた、興師より先輩の大進房は俗気の強い人で自分の活躍の場面がないことにより自負心を傷つけられたのであろう、弘安二年熱原法難の際には遂に叛逆して竜泉寺院主代行智の側に立ち、長崎次郎兵衛等と共に乗馬で暴徒を指揮し法華の信者を迫害したが、此の時誤って落馬しそれが原因で死去した。大聖人はこれを「法華の厳罰」と仰せられている。(日享)


高橋六郎兵衛入道

富士郡賀島荘(現今の富士町)の住であり、日興上人の叔母が其の妻である縁に依り興師の門より大聖への強信者であり、西山河合の由比一族は(もと)より岩本実相寺内にも筑前房がり、付近の熱原市庭寺の里民の信徒と連絡し、北方上野南条家西人人四十九院法難熱原法難()()本部であり、今現存であろう。

 (なお)六郎次郎又等も不明所縁であろう。(日享


西山入道

 富士郡の西山(現今の芝富村)の柴川畔に住する人で人名が明確でない。俗伝尽く大内安浄とするのは恐らく誤りで、直近の柴川が富士河に合流する河合に住せし由比氏(興師の外戚)の老翁がそれであろう。

 窪の尼・窪の妙心尼・持妙尼も西山由比の人で持妙尼の新しくて旧き墓が西山本門寺の門先で芝川を渡った所(字を窪という)に現存している。この墓より古器物が出土した事もある。

三沢房は三沢小次郎と云うとの事だが、明確な資料はない。三沢の地は現今の富士郡(ゆず)村大鹿窪一部西山三沢ってい日享


波木井六郎実長

甲斐源氏の南部の一門で四十九院の縁故にてか日興上人と道交ありて大聖の門に入る。波木井(はきり)三郷の地頭で波木井に常住していたので波木井殿が通称であった。大聖が鎌倉を引き上げられて身延山中に入られたのも実長と興師との合議の上の御誘導であった。其の後も深く興師に帰伏して大聖同然の院主と渇仰せしが、誘惑者の為に興師を富士にらしむる程の宗運の不幸を惹起(じゃっき)せしめたのであるが、色法より量より()れば別途である。但し此の間の史談は後世に大いに歪曲(わいきょく)せられている。

諸資料に残る南部六郎・六郎(つね)(なが)は多分(さね)(なが)なるべく又波木井一門次郎三郎兵衛・藤兵衛・右馬入道・弥三郎・弥六郎及び越前房・播磨公等の僧分もある。(日享)


下野坊日秀

熱原竜泉寺の寺家である。日興上人の御教化を受けて後大聖人の直弟に加えられ、弘教の効果甚大なるが為に熱原の法難に遭い(しばら)く真間に避けられたが、日興上人身延離山後には師に随順して大石ヶ原に移り、理境坊を建てて護法の任に当られた。(日享)


少輔房日禅

 富士北部の人で日秀と共に竜泉寺の寺家であったが、法難の当初に熱原を去った。御離山後に西御大坊の前に南の坊を建てて住せられ静岡にも弘教されている。(日享)


神四郎・弥五郎・弥六郎

 此の三人の兄弟は富士郡下方熱原郷の里民で付近の市庭寺(今の伝法村三日市場か)に在りし竜泉寺の寺家僧日秀日弁(日興上人に改宗せし後)等に教化せられて強盛の法華衆となったので竜泉寺の院主代左近入道行智の弾圧に遭い、同士二十余人と鎌倉に拘引(こういん)せられて拷問(ごうもん)を受けたが、少しも信仰を曲げざるに依ってこの三人が張本と指されて斬罪に遇ひ余の十余人は追放の刑を受けた。

 (なお)資料に残る熱原福地(ふち)神主(こうぬし)・六郎吉守・三郎太郎・江美弥次郎・市庭寺の太郎太夫入道・子息弥太郎・又次郎・()四郎入道・田中弥三郎等はこの追放の中で長く苦難をしのんだ人であろう。(日享)


光日房

 光日房は清澄山下の天津の人である。その子弥四郎が青年時代に大聖人に親近し、後に横死したが、その前大聖人に両親の事を申し上げて光日房及びその尼も大聖人の信徒となった。(日享)


妙一尼

 鎌倉に在りし老尼であり、昭師縁故の篤信者であって、佐渡にも一僕を遣わして大聖人の従者とした等の事がある。(日享)


新尼

長狭郡東条は北条の支族名越家の領である、その領家の尼を大尼と言い、その嫁が剃髪(ていはつ)して新尼と言われており、新尼の方が信心強盛であった。(日享)


南条時光

父の南条兵衛七郎ともども親子二代に渡って日蓮に帰依する。所領が上野に在ったため上野殿とも呼ばれていた。日興上人が身延離山を決断すると南条家の領地、大石ヶ原に招聘(しょうへい)し大石寺の開基檀那となる。尚、日興上人の後継者、第三祖日目上人とは縁戚関係にあった。また時光の二人の娘は嫁いで日目上人の後継者、第四祖日道上人、さらに第五祖日行上人を産んでいる。

北条の家臣でありながらも弾圧された熱原の農民を守り通し、日蓮から「上野賢人」と称えられた時光の求道心なくして、今日の日蓮正宗総本山大石寺の興隆は考えられない。


松野六郎左衛門入道

駿河国庵原(いはら)郡松野に住していた強信徒。娘は南条時光の父、南条兵衛七郎に嫁いでいる。つまり南条時光は孫に当たる。また次男は後の六老僧の一人日持である。

松野殿及び妻へは合わせて十三通の消息が伝えられているが、その中でも日蓮に「聖人の唱えさせ給う題目の功徳と我れ等が唱へ申す題目の功徳と(いか)(ほど)の多少候べきや」と問いかけた手紙への返書「十四謗抄」が特筆される。

この抄で日蓮は「勝劣あるべからず候、其の故は愚者の持ちたる金も智者の持ちたる金も、愚者の(とも)せる火も智者の然せる火も其の差別なきなり、但し此の経の心に背いて唱へば其の差別有るべきなり。(中略) 有る人此れを分つて云く『()きに悪因を列ね次ぎに悪果を列ぬ悪の因に十四あり・一に憍慢(きょうまん)・二に懈怠(けたい)・三に計我・四に浅識・五に(じゃく)(よく)・六に不解(ふげ)・七に不信・八に顰蹙(ひんしゅく)・九に疑惑・十に誹謗(ひぼう)・十一に軽善・十二に憎善・十三に(しつ)(ぜん)・十四に(こん)(ぜん)なり』此の十四誹謗は在家出家に亘るべし恐る可し恐る可し」と諭されている。


五老僧のその後


日昭

五老僧の中で最も早くから日蓮門下に連なった最年長の日昭は、大聖人滅後鎌倉浜土の法華寺を拠点として布教を行った。

現在、静岡県三島市玉沢にある妙法華寺が日昭門流の本山とされる。ここには日蓮が生涯所持していた法華経並びに法華経開結全十巻(注法華経)を所蔵している。

尚、この注法華経は、日興上人が記された「宗祖御遷化記録」に

一、御所持佛教事

   御遺言云

   佛者釈迦

     立像墓所傍可立置云々。

   経者私集最要文

     名注法花経

   同籠置墓所寺六人香花當番時

   可被見之。自餘聖教者非沙汰之限云々。

   仍任御遺言所記如件。

とあり、身延久遠寺の墓所の寺に置くようにと、宗祖日蓮大聖人から遺言されているが、後日、日朗が偽りの遺言状を作り、身延久遠寺から持ち去ったものである。


日朗

縁戚関係にあった池上宗仲が寄進した土地に立てた仏閣の開山となる。これは現在池上本門寺となっている。日朗は重須(おもす)の日興上人を二度訪ねたと伝えられている。また叔父日昭から、「弟子を叡山の戒壇で得度させてもよいか」と問われ、「富士の戒壇で日興上人を戒師として得度させるのが良い」と返答している手紙が伝えられている。

日朗は、日興上人が日蓮の正当な後継者であると認識していたと思われる。


日頂

日蓮大聖人より「器用の弟子」と称えられた日頂は、日蓮滅後、養父の富木常忍と対立し、永仁元年(一二九三)日興に師事し、重須(おもす)本門寺で弟子の育成、弘教に励むことになる。尚、日頂の弟、(にっ)(ちょう)も正安二年(一三〇〇)日向と義絶し日興に師事、日興が定めた新六老僧の一人となり、重須談所の学頭となる。また日興の命で「富士一跡門徒存知事」の草稿を書き上げている。


日持

南條家と姻戚関係にある松野六郎左衛門の次男として生を受け、当初日興の下で得度し日蓮門下に連なっていたが、大聖人滅後は日興と別れ海外布教を目指し北樺太に渡る。その後満州に渡ったとも、蝦夷地で没したとも伝えられているが消息は不明となっている。


日向

 弘安五年六上足の第四に列し、墓輪番に加わったが、(ようや)く弘安八年頃身延に上り院主日興上人より学頭職に補せられたのに、鎌倉方面の軟風をもって地頭波木井日円を誘惑し、自らも亦非行多く身延汚辱の因となった。ただし延山院主職は長からずして上総に退隠したと伝えられている。(日享)



   小説日蓮の生涯 参考文献


「平成新編 日蓮大聖人御書」監修阿部日顕 編集藤木日潤 大石寺

「新編日蓮大聖人御書全集」 堀日亨編 日蓮正宗大石寺版 発行創価学会

「日寛上人文段集」 創価学会教学部編 聖教新聞社

「富士宗学要集」 全十巻 堀日亨編 創価学会

「熱原法難史」 堀慈琳 興門史料刊行会

「真訓両読 妙法蓮華経並開結」 細井日達編 創価学会

「新編 妙法蓮華経並開結」編者阿部日顕 大石寺

「日蓮大聖人 御書辞典」 創価学会教学部編

「日蓮正宗 富士年表」 富士学林

 法華経(上・中・下)訳者:坂本幸男(鳩摩羅什原本)、岩本裕(梵語原典)岩波書店 

図解ブッダの教え 監修者 田上太秀 西東社
「ブッダ大いなる旅路」全3巻 監修高橋直道 日本放送出版協会


「現代語訳 吾妻鑑」 全十六巻 五味文彦・本郷和人・西田智弘編 吉川弘文館

「日本の時代史8 京・鎌倉の王権」 五味文彦編 吉川弘文館

「日本の時代史9 モンゴルの襲来」 近藤成一編 吉川弘文館

「日本の中世1 中世のかたち」 石井進 中央公論社

「中世を読み解く 古文書入門」 石井進 東京大学出版会

「鎌倉武士の実像 合戦と暮らしのおきて」 石井進 平凡社

「中世政治社会思想 上」 日本思想大系21 石井進ほか編 岩波書店

「朝日百科 日本の中世」 朝日新聞社

「蒙古の襲来」 海音寺潮五郎 河出文庫

「執権北条時宗と蒙古襲来」 谷口研語 成美文庫

「忍性 慈悲ニ過ギタ」  松尾剛次 ミネルヴァ書房

「もっと行きたい鎌倉 歴史散歩」 奥富敬之 新人物文庫

「一度は歩きたい鎌倉 史跡散歩」 奥富敬之・奥富雅子 新人物文庫

「最澄」(人物叢書) 田村晃祐 吉川弘文館

「現代語訳 平家物語」 全三巻 中山義秀訳 河出文庫

「中世的世界の形成」 石母田正 岩波文庫
「教行信証」親鸞 金子大栄校訂 岩波書店

ウィキペディア(Wikipedia)日本語版https://ja.wikipedia.org/



by johsei1129 | 2017-11-18 19:16 | 小説 日蓮の生涯 下 | Trackback | Comments(0)
2017年 11月 18日

小説 日蓮の生涯 下

 作 小杉 貢  監修 三浦 常正  平成二十六年 (二〇一四) 一月三日 公開

                                     英語版
小説 日蓮の生涯 下_f0301354_22305464.jpg
下巻目次

 

六十四、四条金吾の格闘 

六十五、桑ケ谷の法論  

六十六、金吾の奉行所対決  

六十七、四条金吾の蘇生 







七十四、疫病、国土を襲う  

七十五、病をしめす 

七十六, 熱原の三烈士 

七十七、法華講衆の苦闘 









八十六、亡国の始まり 

八十七、鎌倉幕府の最後 




九十一、千日尼と阿仏房 

九十二、南条時光の信仰 

九十三、青年時光への薫陶 

九十四、南条一族の病魔 

九十五、時光の蘇生 

九十六、妙覚の山 

九十七、身延下山 


九十九、通塞の案内者  

百、不滅の滅  


百二、五老僧の邪義 








                       

        


by johsei1129 | 2017-11-18 01:25 | 小説 日蓮の生涯 下 | Trackback | Comments(0)
2017年 11月 17日

百七、一閻浮提の座主 日目上人

日興の跡を継いだ日目も師日蓮の意思を厳格に受け継いだ。鎌倉の武家・京の公家へと為政者への(かん)(ぎょう)を続け、その回数は実に四十二度にも及んだ。

正安元年(一二九九)六月の奏聞のときには、永年の願いであった公場対決が実現し、京都六波羅探題(はらたんだい)において、北条宗宣(十一代執権)が帰依する念仏僧・十宗房道智を完膚なきまでに論破する。

元弘三年(正慶二年一三三三年)には百五十年間続いた鎌倉幕府が滅亡し、京都に天皇を頂点とする政治体制が敷かれることになった。これは日本の国主が、北条一門が担った執権から天皇に遷移したことを意味していた。

日目上人はすでに七十四歳という高齢だったが、今こそ天奏すべきとの決意を固め、翌十一月、弟子の日尊、日郷を供として京都へ向かった。しかし途中、美濃の垂井(たるい)(現在の岐阜県垂井町)の宿に至って病床に伏され、日尊、日郷に天奏の完遂と、後継者の日道上人への遺言を残して十一月十五日、七十四歳で入滅する。

その後、日尊は日目の遺命を守り上洛。また日郷は日目の遺骨を抱いて十二月に大石寺へ帰山し、下之坊に埋葬する。日尊は京都に残り、翌年の建武元年(一三三四年)に代奏を果たす。

以下に日目の天奏の申状を記す。


 日蓮聖人の弟子日目誠惶(せいこう)誠恐(せいきょう)謹んで(もう)す。殊に天恩を(こうむ)り、()つは一代説教の前後に任せ、且つは三時()(きょう)の次第に准じて正像所弘の爾前(にぜん)迹門(しゃくもん)の謗法を退治し、末法当季の妙法蓮華経の正法を(あが)められんと()うの状()え進ず

一巻 立正安国論 祖師日蓮聖人文応元年の(かん)(もん
 一通 先師日興上人申状(しんじょう) 元徳二年
 一、 三時弘経の次第 

右、謹んで案内を(かんが)えたるに、一代の説教は(ひと)り釈尊の遺訓なり、取捨(しゅしゃ)(よろ)しく仏意に任すベし、三時の弘経は則ち如来の(ごう)(ちょく)なり、進退全く人力に非ず。(そもそも)一万余宇の寺塔を建立して、恒例の講経(りょう)()を致さず、三千余の社壇を崇めて如在の礼奠(れいてん)怠懈(たいげ)せしむることなし。(しか)りと雖も顕教密教の護持も叶わずして、国土の災難日に随って増長し、大法秘法の祈祷も(しるし)なく、自他の反逆(とし)()うて(ごう)(じょう)なり、神慮(はか)られず仏意思い難し。(つらつら)微管(びかん)を傾け(いささ)か経文を(ひら)きたるに、仏滅後二千余年の間、正像末の三時流通の(ほど)、迦葉・竜樹・天台・伝教の残したもうところの秘法三つあり、所謂(いわゆる)法華本門の本尊と戒壇と妙法蓮華経の五字となり。之を(しん)(ぎょう)せらるれば、天下の安全を致し国中の逆徒を(しず)めん、此の条如来の金言分明(ふんみょう)なり大師の解釈炳焉(へいえん)たり。就中(なかんずく)我が朝は是れ神州なり、神は非礼を受けず、三界は皆仏国なり、仏は則ち謗法を(いまし)む。(しか)れば則ち爾前(にぜん)迹門(しゃくもん)の謗法を退治せば、仏も(よろこ)び神も慶ぶ。法華本門の正法を立てらるれば、人も栄え国も栄えん。望み()う、(こと)に天恩を(こうむ)り諸宗の悪法を棄捐(きえん)せられ、一乗妙典を崇敬(すうぎょう)せらるれば、金言しかも(あやま)たず、妙法の唱え(えん)()に絶えず、玉体(つつが)()うして宝祚(ほうそ)の境、天地と(さかい)無けん。日目、先師の地望を遂げんがために、後日の天奏に達せしむ。誠惶(せいこう)誠恐(せいきょう)謹んで(もう)す。  元弘三年十一月     日目

この日蓮・日興の精神をあやまたず記した申状は、ついに日目の手で届けられることはなかった。天奏を目前にして、臨終を迎える心情はどうだったのか。日目を看取った日郷が、門流の者に語った伝承をもとに綴った記録がのこる。
                 

目上(もくじょう)御遺言に曰く、此の申状奏せずして(つい)に臨終す。此の土の受生(じゅしょう)所用(しょゆう)無しと(いえど)も、今一度人間に生れ、此の状を奏すべし。若し此の状奏聞の人、未来に()いて(これ)有らば、日目が再来と知るべし。 富要四巻「申状見聞」

訳「この申状を奏進できず、ついに臨終を迎えることは、まことに無念の極みである。此の土に生を受けて以来、自分には取り立てての功績はなかったが、今一度人間に生を受け、なんとしてもこの申状を奏したい。もしもこの状を奏聞する者が将来・未来に現われたならば、日目の再来と知るべきである」

いらい日蓮正宗では広宣流布の代に、日目上人が現われるという言い伝えがある。



          最終章 日本の仏法、月氏へ流れる につづく


下巻目次



by johsei1129 | 2017-11-17 21:22 | 小説 日蓮の生涯 下 | Trackback | Comments(0)
2017年 11月 17日

百六、日興遺誡置文(にっこうゆいかいおきぶみ)

                                 英語版


日興は死去の一月前、遺言をのこす。

それは未来の弟子への戒めである。あわせて二十六ケ条。この二十六条のひとつひとつが先師日蓮への敬慕に満ちている。すべて未来の日蓮門下にあてたものである。

内容は日蓮仏法の真髄がこめられている。伊豆流罪、佐渡ヶ島で常随給仕し、日蓮が身延山中で草庵を構えると、甲斐国の布教に邁進、日蓮に影の形に従うがごとくの生涯だった日興だからこそ残せた指針であった。

釈尊には十大弟子がいたという。智慧第一と謳われ、方便品第二の対告衆となった舎利弗。釈尊に二十七歳の時から常随給仕し、滅後の仏典結集で「かくの如く我聞きき」と釈迦の説法を読み上げた声聞第一の阿難。仏を除けば説法で超える者はいないと賞賛された説法第一の富楼那。

日興はある意味、釈迦の十大弟子すべての資質を兼ね備えていたとさえ思える。

後代の弟子檀那は、いまでもこの遺言を鏡のごとくあおぐ。まさしく末法万年への金科玉条であり、この条項を弟子信徒が守ることで、未来の広宣流布の扉が開かれる。

ではつぎにその全文をしるす。

()(おもん)みれば末法弘通の(けい)(じつ)は極悪謗法の闇を照らし、久遠(くおん)寿量(じゅりょう)の妙風は伽耶(がや)(しじ)(ょう)(注)の(ごん)門を吹き払う、於戯(ああ)仏法に()うこと(まれ)にして(たと)へを(どん)()(はなしべ)()(たぐい)浮木(うきぎ)穴(注)()に比せん、(なお)以て()らざる者か。(ここ)に我等宿縁深厚なるに依って幸ひに此の経に()い奉ることを()、随って後学の為に条目を筆端に染むる事、(ひとえ)に広宣流布の金言を仰がんが為なり。

一、富士の立義(いささ)かも先師の御弘通に()せざる事。

一、五人の立義一々(いちいち)に先師の御弘通に違する事。

一、御書(いず)れも偽書に()し当門流を毀謗(きぼう)せん者之有るべし、()し加様の悪侶出来せば親近(しんごん)すべからざる事。

一、偽書を造って御書と号し本迹一致の修行を致す者は師子身中の虫と心()べき事。

一、謗法を呵責(かしゃく)せずして遊戯(ゆげ)雑談(ぞうだん)()()並びに外書(げしょ)歌道を好むべからざる事。

一、檀那の社参物詣(ものもうで)を禁ず可し、(いか)(いわ)んや其の器にして一見と称して謗法を致せる悪鬼乱入の寺社に(もう)づべけんや、返す返すも口惜(くちお)しき次第なり。是全く()()に非ず、経文御抄等に任す云云

一、器用の弟子に於ては師匠の諸事を許し(さしお)き、御抄以下の諸聖教(しょしょうぎょう)を教学すべき事。

一、学問未練(みれん)にして名聞名利の大衆は、()が末流に叶ふべからざる事。

一、予が後代の徒衆等権実を(わきま)へざるの間は、父母師匠の恩を振り捨て出離証(しゅつりしょう)( どう)の為に本寺に(もう)で学問すべき事。

一、義道の(らっ)()(注)無くして天台の学問すべからざる事。

一、当門流に於いては御抄を心肝に染め(ごく)()を師伝して、若し(ひま)有らば台家を聞くべき事。

一、論議講説等を好み自余を交ゆべからざる事。

一、未だ広宣流布せざる間は身命(しんみょう)を捨て、随力(ずいりき)弘通(ぐつう)を致すべき事。

一、身軽法重の行者に於ては下劣の法師たりと雖も、当如(とうにょ)敬仏(きょうぶつ)の道理に任せて(しん)(ぎょう)を致すべき事。

一、弘通(ぐつう)の法師に於ては下輩たりと(いえど)も、老僧の思いを為すべき事。

一、下劣の者たりと雖も我より智勝れたる者をば仰いで師匠とすべき事。

一、時の(かん)()(注)たりと雖も仏法に相違して己義を(かま)へば、之を用ふべからざる事。

一、衆義たりと雖も、仏法に相違有らば貫主之を(くじ)くべき事。

一、衣の墨、黒くすべからざる事。

一、(じき)(とつ)(注)を著すべからざる事。

一、謗法(ほうぼう)と同座すべからず、与同罪を恐るべき事。

一、謗法の供養を()くべからざる事。

一、(とう)(じょう)等に於ては仏法守護の為に之を許す、但し出仕の時節は帯すべからざるか。若し其れ大衆等に於ては之を許すべきかの事。

一、若輩(じゃくはい)たりと雖も高位の檀那より末座に()くべからざる事。

一、先師の如く()()()も聖僧たるべし。但し時の(かん)()(あるい)は習学の仁に於ては、(たと)ひ一旦の媱犯(ようはん)有りと雖も、衆徒に差し置くべき事。

一、巧於(ぎょうお)難問答の行者に於ては先師の如く(しょう)(がん)すべき事。

右の条目大略()くの如し、(まん)(ねん)救護(くご)の為に二十六箇条を置く。後代の学侶、()へて疑惑を生ずること(なか)れ。此の内一箇条に於ても犯す者は日興が末流に有るべからず。()って定むる所の条々(くだん)の如し。

元弘三年癸酉正月十三日  日興花押   『日興遺誡置文

 

 この二十六条の遺誡(ゆいかい)は日興の独自の考えではない。あくまで師日蓮の教えを集約したもので、各条項の根拠は日蓮が残した御書に全てあり、全条項に末法の本仏日蓮の教えを一字一句(たが)えてはならないという求道心に貫かれている。それは冒頭の条項「富士の立義(いささ)かも先師の御弘通に()せざる事」に(あらわ)されている。

 さらに


 一、身軽法重の行者に於ては下劣の法師たりと雖も、当如(とうにょ)敬仏(きょうぶつ)の道理に任せて(しん)(ぎょう)を致すべき事。

 一、弘通(ぐつう)の法師に於ては下輩たりと(いえど)も、老僧の思いを為すべき事。

 一、下劣の者たりと雖も我より智勝れたる者をば仰いで師匠とすべき事。


この三条項は、立場の違い、身分の違いにこだわること無く、師、日蓮の義を習得し、その義に随順している者こそ師匠として仰ぎ敬うべきであり、日蓮が打ち立てた「法」を根本とせよという、日興の後世の弟子信徒に託した強い思いが伝わってくる。


 一、時の(かん)()たりと雖も仏法に相違して己義を(かま)へば、之を用ふべからざる事。

 一、衆義たりと(いえど)も、仏法に相違有らば貫主(これ)(くだ)くべき事。


この二条項は、日蓮が報恩抄で次のように解き明かした「()(ほう不依(ふえ)(にん」の原理を明確に体現している。


涅槃(ねはん)経と申す経に云く「法に()つて人に依らざれ」等云云。依法と申すは一切経、不依人と申すは仏を除き奉りて(ほか)普賢(ふげん)菩薩・文殊(もんじゅ)()()菩薩乃至(かみ)にあぐるところの諸の人師なり。


日興の御葬送は元弘三年(正慶二年)二月八日に行われた。この時の「御葬送次第」は日興が自ら日蓮の「御葬送次第」を記録した「宗祖()遷化(せんげ)記録」に準じて、日興より新六老僧に指名されていた日郷が「日興上人御遷化次第」として筆録、現在保田妙本寺に所蔵されている。

日郷が記した次の「日興上人御遷化次第」には、日興を取り巻く当時の弟子信徒、例えば南条時光の子息三名、若くしてなくなった兄の子等が数多く連なっていることがわかる。


 日興上人御遷化次第(※日文字の法号は当方で追記)


 正慶二年発酉二月六日(うし)(※七日未明)

 於駿河國富士山麓重須(おもす)郷日興上人御歳八十八而御遷化

 同八日(とり)時入棺

 同(いぬ)時御葬送次第


 先火    三郎太郎入道

 次外居   弥太郎入道

 次大宝花  孫四郎入道

 次(はた)    左 同

       右 和泉又次郎

 次燈    楡井三郎入道

 次香    由比四郎入道

 次鐘    石河四郎    

 次花    西山彦八

 次花    南條左衛門三郎 

 同    秋山与一太郎

 同    小野寺太郎

 同    石河孫次郎

 同    由比大九郎

 同    由比孫五郎

 同    南條左衛門七郎

 同    左衛門太郎

 同    同 彦次郎

次文机  山本又次郎入道

次花瓶  由比弥五郎

次御経  秋山与一入道

次御本尊 石河三郎

次見影  南條左衛門五郎

 次旅籠馬 馬木三郎入道  

次引馬  弥平次

 次引馬  鍛冶入道

 次御乗馬 源内 


     淡路公

        因幡公

        如寂房(日満)

     左  按察公

        大進公(日助)

        式部阿闍梨(日妙)

 前陳 上蓮坊(日仙)

        三位阿闍梨(日潤)

        大武公(日寿)

     右  美濃公

        周防公

        性善房

        尾張公


        幸松丸

        幸乙丸

        竹乙丸

        藤壽丸

 御輿     犬房丸

        乙若丸

        牛若丸

        虎松丸


        侍従公(日朝)

        刑部公

     左  讃岐公(日源)

        同圓公

        日善阿闍梨

 後陳 蓮蔵坊(日目)

        伊予阿闍梨(日代)

        宰相阿闍梨(日郷)

     右  伊賀阿闍梨(日世)

        大夫公(日尊)

        大智坊

        大武公


 餘ノ大衆ハ他行云々

 次天蓋(てんがい)      曽根助

 次太刀      小木五郎

 次刀       和泉又二郎   

 次手

 次弓箭(きゅうせん)      石河小三郎

 次笠       奥五郎二郎入道

 次袋       源太郎

 次草履      又四郎

 次足駄      藤内入道

 次後陣火     紀藤三郎

   御遺物配分事 ()


 正慶二年二月 日 

 [奥書] 右之遷化次第者日郷上人之御筆無粉者也 

 日興上人が末法の本仏日蓮大聖人の正当な後継者であることは文証、理証、現証の観点から(かんが)みて、疑いの余地はない。

例えば日興上人が永仁六年(一二九八)に記された『白蓮(びゃくれん)弟子分与御筆御本尊目録事』には、六十六幅の御本尊を日興上人が、弟子信徒のために授与を日蓮に願い出たことが記されている。このような日蓮自筆本尊の授与を「申し与へ」ている事実は五老僧には全く見られず、日蓮は日興のみに許していたと断定できる。

さらに現在確認されている日蓮直筆の御本尊は百三十余に及んでいるが、この御本尊に日興上人が授与者名等の添え書きを追記している事例が多数見受けられるが、五老僧が添え書きを書き込んでいる事例は全く存在しない。例えば佐渡の阿仏房に授与され、現在佐渡市妙宣寺に所蔵されている御本尊には「佐渡國(ほっ)()東梁(とうりょう)阿佛房彦如寂房日滿相傳(そうでん)之」の日興上人の添え書きが書き込まれている。

また現在、玉沢妙法華寺に所蔵されている注法華経(日蓮が生涯所持していた妙法蓮華経並開結十巻)の行間、背面に二千百七箇所、関連する諸経・天台の文句(もんぐ)(げん)()止観(しかん)等々の文文を日蓮が自ら書き込んでいるが、日興上人が書き込んだ事例が三ヶ所ある。これも五老僧が書き込んだ箇所は全く見られない。

この事例とは逆に、日興上人が書写した「立正安国論」の背面に、蒙古が日本に向かう夢を日蓮が記した「夢想御書」が発見されている。  

これらの事実から見て、日蓮の伊豆流罪、佐渡流罪に、身に影が寄り添うように常随(じょうずい)給仕(きゅうじ)をしてきた日興が「師弟不二」を体現していたと言っても過言ではない。

御本尊書写についても、日興は現在確認されているだけでも、生涯三百二幅もの御本尊を書写し、門下の弟子信徒に授与している。

それに比して五老僧が書写したご本尊はごくわずかしか残されていない。日朗二十一幅、日昭二幅、日向二幅のみである。また日頂は晩年の永仁元年(一二九三年)、養父常忍と義絶し、日興が開基した重須(おもす)談所に赴き、日興に師事している。尚、日持は蝦夷・樺太に布教に行き御本尊の書写は確認されていない。

富士一跡門徒存知事で日興は、師日蓮が図現された御本尊に対する五老僧の姿勢を次のように(いさ)めている。


一、五人一同に云く、本尊に於ては釈迦如来を(あが)め奉る可しとて既に立てたり、(したが)つて弟子檀那等の中にも造立供養の御書之れ在りと云云、(しか)る間・(さかん)に堂舎を造り或は一(たい)を安置し(あるい)は普賢文殊を(きょう)()とす、()つて聖人御筆の本尊に於ては彼の仏像の後面に()け奉り又は堂舎の(ほぞおの)に之を捨て置く。

一、御筆の本尊を以て(かた)()(きざ)み不信の(やから)に授与して軽賤(きょうせん)する(よし)・諸方に其の聞え有り所謂(いわゆる)日向(にこう)・日頂・日春等なり。


五老僧にとって本尊はあくまで釈迦仏で、彼らは「(日蓮)聖人御筆の本尊に於ては彼の仏像の後面に懸け奉り」と記している。

このような五人の本尊に対する姿勢は、日朗が開基した池上本門寺の現在の姿そのものである。

池上本門寺の本堂には、日蓮の御影(みえい)を安置し、日蓮自筆の十界曼荼羅(まんだら)を掲げているがその曼荼羅の前に堂々と釈迦仏を本尊として安置している。至極残念なことだが、これは日朗が日蓮の本義を理解していなかったことの何よりの証左となる。

さらに日朗、日昭、日向(にこう)(わず)かな数しか御本尊を書写していないのは、そもそも日蓮から御本尊書写の相伝がなく、見よう見まねでわずかに書写し、もっぱら日蓮が図現した本尊を形木に彫み、()って自らの信徒に授与したものと推察される。


                 
         百七 一閻浮提の座主 日目上人 につづく


下巻目次

                                        


 伽耶(がや)() (じょう)

釈迦が伽耶城近くの菩提樹の下で初めて悟りを開いたこと。久遠寿量に対する語。伽耶は仏陀伽耶(ぶっだがや)ともいい、釈迦が正覚を成した所。始成は()(じょう)正覚(しょうかく)のこと。

 浮木の穴
法華経妙荘厳王品二十七にある。一眼の亀が海中の浮木にあうことのむずかしさを説いて、衆生が正法にめぐりあい、受持することの困難さを説く。

「御義口伝に云はく、()とは小孔(しょうく)大孔(だいく)の二つ(これ)有り。小孔とは四十余年の経教なり、大孔とは法華経の題目なり。(いま)日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉るは大孔なり。一切衆生は(いち)(げん)の亀なり。栴檀(せんだん)浮木(うきき)とは法華経なり。生死(しょうじ)の大海に大孔ある浮木は法華経に之在り云云。」『厳王品三箇の大事 第二 浮木孔(ぶもっく)の事』

 (らっ)()

「らっきょ」とも読む。落ち着き。終結。物事を徹底して見極めることをいう。

 (かん)()

本来は貫籍(戸籍)の上首の意。①かしらに立つ人。頭領。②天台宗の座主の異称。のちに各宗総本山や大寺の管長の称ともなる。

 (じき)(とつ)

僧衣の一種。上衣と下衣を直接に綴じ合わせたことからこの名がある。直綴は腰から下に(ひだ)のある法衣で、諸宗で一般に用いられ、一般に『ころも』と称される。日蓮正宗では直綴の着用を禁じ、薄墨の素絹のみを衣とし着用する。『当家三衣抄』参照



by johsei1129 | 2017-11-17 13:02 | 小説 日蓮の生涯 下 | Trackback | Comments(0)
2017年 11月 16日

百三、正義を伝うる者

日興は波木井実長に反省を求め、懺悔(ざんげ)をしるして師日蓮の仏前にそなえることをすすめた。

しかし実長には聞こえない。

彼は腹立ちまぎれに、自分は日向を師匠としていると声高にいったという。地頭の名聞からか、地主である(おご)りからか、自分は仏法を理解していると思ったか、実長には日興の諫言が耳にはいらない。

だからといって日興は実長を責めたりはしない。かりそめにも師の日蓮を九年にわたり養った檀那である。日興も実長から恩をうけたのだ。いつかは目覚めて改心するかもしれないからだった。

かわりに日興は日向(にこう)をはじめとした五老僧をきびしく糾弾している。人を導くはずの者が、師に敵対するとはなにごとか。

日興は今さらながら師の言葉をかみしめた。

外道悪人は如来の正法を破りがたし。仏弟子等必ず仏法を破るべし。「師子身中の虫の師子を()む」等云云  『佐渡御書

身延は謗法の山と化した。日蓮の仏法が日蓮の弟子によって滅びようとしている。

日興はもはや自分がこの地にいることはできないとさとった。地頭の供養を断って去ることは、艱難がまちかまえていることを意味したが妥協はできない。日蓮の法をあやまたず、つぎの世にのこしていくためだった。

後代、このような日興を(かたく)なであると批判する者がいるが、その言葉の中身は五老僧とおなじ水準である。かれらには法を守る責任が欠けているのである。

その五老僧は転落していった。

かれらは日蓮亡きあと、まず自分の名をかえた。日蓮の弟子とは名のらず、天台沙門といった。退転した三位房が慢心のあまり、名をかえたのと似ている。

つぎに折伏を用いず世間と妥協した。他宗に加わり国家安泰の祈祷を行った。あの竜の口の法難の時、退転した弟子たちが「我等はやは()らかに法華経を弘むべし」といったのとおなじである。

すべては身の安全をはかるためだった。

日蓮の教えはいまだに世の批判をうけている。五老僧は強情な日蓮とは一線を画して非難を避けた。保身をはかり、謗法の供養をうけるために日蓮の義を捨てた。こうして国家を祈り、名をあげようとした。日向が天長地久と祈ったように。

日興はいきどおる。


祈国の段亦以て不審なり。所以は(いかん)、文永免許の(いにしえ)先師()()の分既に以て顕はれ(おわ)んぬ、何ぞ(せん)(しょう)道門の怨敵(おんてき)に交はり坐して(とこしなえ)に天長地久の御願を祈らんや  『五人所破抄

師日蓮は佐渡流罪赦免のおり、幕府から蒙古退治の祈祷を依頼された。このとき日蓮は条件として諸宗の僧の首を刎ねることを申しでた。邪宗をともにする祈祷は、逆に国を滅ぼすからである。日蓮は諸宗退治が許されないと知るや、鎌倉を去り身延の山中に入った。これが日蓮の精神である。

五老僧はすすんで増上慢の僧とともに国を祈った。立正安国の精神は踏みにじられたのである。

彼らの無智は信じがたい。

五人は日蓮の著作などはないという。耳を疑う言葉である。

彼の五人一同の義に云はく、聖人御作(おんさく)()書釈(しょしゃく)は之無き者なり。縦令(たとい)少々之有りと雖も、或は在家の人の為に、仮文字を以て仏法の因縁を(ほぼ)之を示し、若しは俗男俗女の一毫(いちごう)の供養を(ささ)ぐる消息(しょうそく)(へん)(さつ)に施主分を書きて愚痴(ぐち)の者を引摂(いんじょう)し給へり。而るに日興は聖人の御書と号して之を談じ之を詠む、是先師の恥辱を顕はす云云。故に諸方に散在する処の御筆をば或は()かえ()しに成し、或は火に焼き(おわ)んぬ。此くの如く先師の跡を破滅する故に(つぶさ)に之を(しる)して後代(こうだい)()(きょう)と為すなり。  『富士一跡門徒存知事

五人は日蓮が弟子檀那にのこした仮名文字の書をみとめない。

仏法といえば漢字で表現していた時代である。五老僧は仮名文字の消息など、知恵の足らない在家信徒にあたえた手紙であり、供養の礼をしるしたものばかりで、価値はないばかりか、師の恥をさらすものだとした。それなのに日興はありがたく読み談じている。五人は俗男俗女を相手にする日興を軽蔑した。それはとりもなおさず、一閻浮堤広宣流布をめざした師日蓮を見下したものとなった。

五人は日蓮の書をすき返してもとの白紙にもどしたり、焼却している。後代の弟子にとって、目をおおうばかりの所業がなされていた。

五人はつねに日蓮のそばにいたわけではない。遠くはなれた地にいるために、師の教えを体読できなかった。仏法の真髄を学ぶには劣悪な環境だった。彼らにも言い分はあろう。だが百歩ゆずって彼らの言い分をみとめても、日蓮亡きあと、五人は日興を手本にして正義をつぐべきだったのだ。彼らの心地に「当如敬仏」の精神はなかった。求道心の一分でもあれば、日興を師範として仏法を学ぶべきだったのだ。

かたや日興は仏法の破滅をおそれ、立正安国論をはじめとする著作の目録をのこした。この目録がなければ、それこそ日蓮の書は五人のいうとおり、皆無となったであろう。現存する書は偽物とされ、仏法は跡形もなくなっていたろう。もちろんこの小説もない。日興と五人はかくも大きなへだたりである。雲泥の差とはこのことではないか。

謗法の者はまず三悪道におちるという。

日興はその証人として身延山を謗法の山にかえた民部日向の所行をしるす。

殊に去る卯月(うづき)朔日(ついたち)より諸岡(もろおか)入道の門下に候小家に籠居して画工を招き寄せ、曼荼羅(まんだら)を書きて同八日仏生日と号して、民部は入道の室内にして一日一夜説法して布施を(かか)へ出すのみならず、酒を興ずる間、入道其の心中を知りて妻子を喚び出して酒を勧むる間、酔狂(すいきょう)の余りに一声を()げたる事、所従眷属の嘲笑(ちょうしょう)口惜(くちお )しとも申す計りなし、日蓮の御(はじ)何事か之に過ぎんや、此の事は世に以て隠れ無し、人皆知る所なり。

かりにも日蓮門下と名のる者が、見苦しく布施をかかえ、酔態をさらして嘲笑をうける。日蓮からあとを託された日興にとって、これほどの屈辱はない。

日興は日向の醜態がやがて地頭の耳に入るであろうという。実長はそのうちに日向を見捨てるであろうと。


 ところで直弟子の中から六老僧を指名した日蓮は、自身滅度の後の遺弟の行く末をどのように考えていたのであろうか。()遷化(せんげ)の二日前に池上邸で日興に口伝(くでん)した血脈抄(けちみゃくしょう)本因妙抄」に次のように極めて厳しい考えを示している。

(釈尊)(じゅく)(だつ)の教主・(それがし)(日蓮)は下種の法主(ほっす)なり、彼の一品(いっぽん)二半()舎利(しゃり)(ほつ)等の為には観心たり、我等凡夫(ぼんぷ)の為には教相たり、理即・短妄(たんもう)の凡夫の為の観心は、余行に渡らざる南無妙法蓮華経是なり。

()くの如く深義を知らざる僻人(びゃくにん)出来(しゅったい)して予が(りゅう)()は教相辺外と思う可き者なり、此等は皆宿業の(つたな)き修因感果の()(ごく)せるなるべし。

()の天台大師には三千人の弟子ありて章安(しょうあん)一人(ろう)(ねん)なり。伝教大師は三千人の衆徒を置く、義真()已後は其れ無きが如し。今以て()くの如し。数輩の弟子有りと(いえど)も疑心無く正義を伝うる者は(まれ)にして、一二の小石の如し。秘す可きの法門なり」


本抄文中の一二の小石とは、日興上人、日目上人であると強く推察される。日蓮は生前、日興を除いた五老僧が「疑心無く正義を伝うる者」とはならないことを已に喝破(かっぱ)していたのだ。

その証左として、現在まで続く五老僧の流れをくむ日蓮系各派は、弘安二年の本門戒壇の大御本尊を信奉せず、多くは釈迦の立像を本尊としている。日蓮直筆の(まん)()()本尊を掲げていても、本仏は釈迦像なのである。

まして日蓮が広宣流布の(あかつき)に戒壇を建立すべきと三大秘法稟承事」に記して遺弟に託したことなど僧侶も信徒も誰ひとりとして知る由もなかった。


(前略)霊山(りょうぜん)浄土(じょうど)に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべきものか。時を待つべきのみ。事の戒法と申すは是なり。三国並びに一閻浮提(えんぶだい)の人、懺悔(さんげ)滅罪の戒法のみならず大梵天(だいぼんてん)(のう)帝釈(たいしゃく)等の来下(らいげ)して踏み給ふべき戒壇なり(中略)年来(としごろ)己心に秘すと雖も此の法門を書き付て留め置ずんば門家の遺弟等定めて無慈悲の讒言(ざんげん)を加う可し、其の後は何と()ゆとも叶うまじきと存ずる間、貴辺に対し書き送り候、一見の後・秘して他見有る可からず口外も(せん)無し(後略)


     

          百四、日興、身延離山 に続く


下巻目次


 一品二半

 妙法蓮華経・(じゅう)()()(しゅっ)(ほん)第十五の後半の半品(はんぽん)、如来寿量品第十六の一品、分別功徳品第十七の前半の半品を合わせて一品(いっぽん)二半。日蓮は観心本尊抄で、この一品二半が妙法蓮華経の極説中の極説であるとし、これ以外は法華経と言えど小乗経であると断じ、さらに末法においては「(ただ)題目の五字なり」と解き明かした

 「本門に(おい)(じょ)(しょう)流通(るつう)有り、過去大通仏(だいつうぶつ)の法華経より乃至(ないし)現在の華厳(けごん)経乃至迹門(しゃくもん)十四品涅槃(ねはん)経等の一代五十余年の諸経、十方三世諸仏の微塵(みじん)の経経は皆寿量の序分なり。一品二半よりの外は小乗教・邪教・未得道教・覆相(ふぞう)教と名く(中略) 在世の本門と末法の(はじめ)は一同に純円なり、(ただ)し彼(釈尊)は脱、此れ(日蓮)は種なり。彼は一品二半、此れは但題目の五字なり。」『観心尊抄』

 義真

 天応元年(七八一) - 天長十年(八三三)

 平安時代前期の天台宗の僧。奈良興福寺で法相を学び、(がん)(じん)の弟子から受戒される。その後最澄に師事し、延暦二十三年、中国語の通訳として最澄にともない唐へ渡り、最澄と同じく道邃(どうずい)から円頓戒を授戒し帰国する。弘仁十三年、最澄が没した後、比叡山大乗戒壇初の授戒の伝戒師となり、二年後の天長元年(八二四年)、初代の天台座主(ざす)に就任する。著書に「天台法華宗義集」がある。





by johsei1129 | 2017-11-16 22:45 | 小説 日蓮の生涯 下 | Trackback | Comments(0)