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日蓮大聖人『御書』解説

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カテゴリ:日寛上人 御書文段( 480 )


2016年 05月 15日

 如説修行抄筆記 十六 玄の八・三十三に云く「若し此の経に依らば則ち天下泰平ならん」


一 されば末法・今の時

此の下は蓮祖は如説修行の人なることを明かす、二あり。初めに(まさ)しく明かし、二に「されば釈尊御入滅」の下は結す。文相の大旨(たいし)「日本国の諸人、誰か経文の如く(ぎょう)ずるや。日蓮は経文の如く修行する故に如説(にょせつ)修行の人なり」と云う意なり。経文の如く修行するが如説修行なり。

一 諸経は無得道(とくどう)文。

之に付いて総破・別破あり。総破は文の如く「諸経は無得道」なり。無量義経の「四十余年には(いま)だ真実を顕さず」「(つい)に無上()(だい)を成ずることを得ず」の文、方便品の「正直捨方便」等の文、「(つい)に小乗を以って衆生を済度したまわず」等の文、「(こん)()三界(さんがい)」已下の文、其の証なり。

別破は「念仏()(けん)・禅天魔・真言亡国・律国賊」と云って破するなり。是れ一往其の便(たよ)りに(ちな)んで名言を立つるなり。実には各々四ケの名言を(こうむ)るなり。

「念仏無間」なることは、三徳有縁の釈尊に背いて他方無縁の教主を(あが)、故に「其の人(みょう)(じゅう)して阿鼻獄に入る」なり。是れ則ち未顕(みけん)真実の三部経を修行する故なり。無量義経に云く「終に無上菩提を成ずることを得ず」と説くなり。「亡国」なることは此土(しど)()(えん)の仏を捨てて他方無縁の仏を信ずる故なり。(たと)えば日本国の王を捨てて他国の王を尊敬するが如きなり。是れ其の国を亡ぼす(ばか)りなり。

御書五・十四に云く「(ほう)(ねん)が念仏宗のはやりて一国を失わんとする」等文。

三十一巻十五に云く「()の国国・禅宗・念仏宗になりて蒙古にほろ()ぼされぬ、日本国は彼の二国のほろぼされんにあに()此の国安穏なるべしや」文。

三十五巻四十一に云く「念仏宗と申すは亡国(ぼうこく)の悪法なり」文。安国論十四、十五に云云。

「天魔」なる事は十一巻四十に云く「(ひとえ)に天魔の(はか)りごとなり」文。
 三十九巻十六に云く「師は魔師、弟子は魔民、一切衆生其の教を信ずるは(さん)()(あるじ)なり」(戎体即身成仏義)文。「国賊」なり。国を誑惑(おうわく)し、人を惑わし、娑婆に()して安楽の法を(すす)む。是れ国民を誑惑するなり。故に「国賊」なり。

「禅天魔」の事は御書三十七・三十二に云く「(これ)又日蓮が私の言に非ず()の宗の人人の云く(きょう)()別伝と云云、仏の遺言に云く我が経の外に正法有りといわば天魔の説なり云云、教外別伝の言(あに)此の(とが)を脱れんや」已上文。

()(けん)」なる事は既に仏説に有り。故に「其の人命終して阿鼻(あび)(ごく)に入る」なり。御書十二巻・二十三、二十四に大旨云云。

「亡国」なる事は御書十三・三十九、四十に云云。五巻十四に云く「禅宗は日本国に充満(じゅうまん)してすでに亡国とならんとはするなり」文。

三十一巻・十四に云く「禅宗等のやつ()ばらには天魔乗りうつりて乃至又国賊なり」(取意)文。

「真言亡国」の事は五巻十九二十四、其の(ほか)の諸御書に云云。
 又無間の事は二十六巻四十九
「天魔」なる事は七巻十八三十七・十に云云。
 国賊なる事、三十七巻九丁に云云。

「律国賊」の事。諸御書に云云。

所詮、法華経に(そむ)けば()(けん)地獄なり。「入阿鼻獄」の経文分明(ふんみょう)なり。此の経を信ぜざる事は第六天の魔王の所以なり。経文には「悪鬼(あっき)(にゅう)()(しん)」云云。御書十六、兄弟抄云云。(また)経に云く「正法治国、邪法乱国」と云云。「正法」とは法華経なり。「邪法」とは爾前経なり。(しか)れば余経を信ずるは亡国の義なり。(また)爾前・今経は勝劣無しと勧め、(あるい)()(どう)()(しょう)、或は時機に叶わずと教えて国民を誑惑(おうわく)する、是れ「国賊」なり。御書の大旨に依って之を示す云云。玄の八・三十三に云く「()し此の経に()らば則ち天下泰平ならん」。御義下四十六に引く。


               つづく


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by johsei1129 | 2016-05-15 09:12 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
2016年 05月 14日

 如説修行抄筆記 十五 「末法当時は(中略)南無妙法蓮華経の七字計り此の国に弘まりて利生得益もあり上行菩薩の御利生盛んなるべき時なり」


一 答えて云く

答に二。初めに(しょう)(しゃく)二門の(たい)()を判じ、次に「されば末法・今の時」の下は、蓮祖は末法如説修行の人なることを明かすなり。

初めに亦二。初めに標、次に正しく明かす。初めの標、亦二。初めに一切の経論、二門を()でざるを明かし、次に諸学の不知を標す。

次に「四節」の下は正しく明かすに二。初めに(しょう)(しゃく)二門の大旨を明かし、次に「(しか)るに摂受」の下は諸学の不知を破す。初めの正しく二門の大旨を明かすに二。初めに(たとえ)、次に「仏法も(また)(また)」の下は法に合するなり。

一 春は花さき秋は(このみ)なる

是れは因果の次第なり。春種子を(おろ)し秋菓を取るは(しゅ)(だつ)の次第なり。諸門徒の如く脱益(だっちゃく)の人法の本尊を信ずる者は、秋種子を下す(たぐい)なり。「極寒の時は厚き(きぬ)(ゆう)なり」とは種脱の得益(とくやく)の不同なり。極寒の時は涼風(りょうふう)あれども徳用なく、極熱の時は厚き衣はあれども其の(ゆう)無し。正像二千年は小・権・迹の法、流布(るふ)得益の時なり。法華経はあれども流布の時に(あら)ず。末法の今は小・権・迹の法はあれども、流布得益の時に非ず。本門寿量の妙法、流布得益の時なり。次下(つぎしも)の合法の文、之を思え。

御書二十二・十に云く「末法当時は久遠(くおん)(じつ)(じょう)の釈迦仏・上行菩薩・無辺行菩薩等の(ひろ)めさせ給うべき法華経二十八品の肝心たる南無妙法蓮華経の七字(ばか)此の国に弘まりて()(しょう)得益もあり上行菩薩の御利生(さか)んなるべき時なり」文云云。

一 純円・(いち)(じつ)の法華経

()(もん)の辺は権実本迹なり。(がん)()の辺は種脱本迹なり。「純円」とは本尊抄に云く「在世の本門と末法の(はじめ)は一同に純円なり」文。私に云く、()の記、往いて見よ。


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by johsei1129 | 2016-05-14 10:49 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
2016年 05月 13日

 如説修行抄筆記 十四 末法当今は此の経を受持する一行計(ばか)りにして成仏す可し


一 末法の今の学者等

此の下は修行を明かすに二。初めに他宗の(びゃく)(あん)を挙げ、次に「此等のを()て」の下は今師の修行なり。
 初めの文に二。初めに僻見(びゃっけん)を挙げ、二に「是くの如き」の下は経を引いて謗法堕獄を決定(けつじょう)せり。

今の一致門流の学者、本迹(とも)に法華経なるが故に(みな)得道あるべしと思いて本迹一致と修行するは「()(ぼう)()(きょう)の人なり。「雖讃(すいさん)法華経、(げん)()法華心」の故に(にゅう)阿鼻(あび)(ごく)(うたがい)無き者なり。

次上の二十四に云く「日蓮云く此の経は是れ十界の仏種に通ず、若し此の経を謗せば義()れ十界の仏種を断ずるに当る、是の人()(けん)に於て決定(けつじょう)して()(ざい)、何ぞ出ずる()を得んや」文。此の文言、本門の題目を以て此の経とせる御書の(こころ)なり。前後の御文体、()いて見よ。 

一 難じて云く左様(さよう)

此の下は別して如説修行の相を明かす。即ち本迹相対の意なり。所謂(いわゆる)天台()()摂受(しょうじゅ)の行を破して、末法折伏の修行を明かしたもう。是れ像末相対の本迹なり。
 御書に云く叡山(えいざん)天台宗の過時の迹を破し候なり」「今我等が読む所の迹門にては候はず」文。

問う、当流に於て五種の(みょう)(ぎょう)有りや。

答う、題号の下の如し。(なお)中古の(おきて)に云く「日蓮上人は方便寿量の両品を助行に用いたもうなり。文を見て両品を読むは(どく)、さてそらに自我偈を(じゅ)し、(こん)()三界(さんがい)の文を講じ、塔婆(とうば)などに題目を書写するは受持等の五種の妙行と(こころ)()べきなり」文。「受持無行余行徒然」の故に受持の行肝心(かんじん)なり。

末法今時の受持とは、本門の本尊たる題目の五字を信ずる義なり。釈に云く「信力(しんりき)の故に受け、念力の故に(たも)つ」文。

御義口伝下四十二に云く「五種の修行の中には四種を略して(ただ)受持の一行にして成仏す可しと経文に(まのあた)(これ)れ有り」文。

同三十一に云く「末法当今は此の経を受持する一行(ばか)りにして成仏す可しと定むるなり」文。

故に末法は(ただ)受持の一行なり。此の受持の一行の中に余の四を()す。読誦(どくじゅ)とは南無妙法蓮華経と唱うる事なり。
 故に御義口伝上四十七に「読持此経の事。御義口伝に云く五種の修行の読誦と受持との二行なり、今日蓮等の(たぐ)い南無妙法蓮華経と唱え奉るは読なり、此の経を(たも)つは持なり、此経とは題目の五字なり」云云文。

()(せつ)云わば、御義口伝下十四に云く「末法に入つて説法とは南無妙法蓮華経なり今日蓮等の(たぐ)いの説法是なり」云云文。
 亦上四十八に云く「説とは南無妙法蓮華経なり、今日蓮等の類いは能須(のうしゅ)()(せつ)の行者なり」云云文。

(これ)()の御文言に依るに、末法当今は受持の一行の中に五種の行有るなり。熟益(じゅくやく)の五種の行を破して、種の(いえ)の五種の妙行を立つるなり。題号の下の経文等云云。


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by johsei1129 | 2016-05-13 22:36 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
2016年 05月 12日

 如説修行抄筆記 十三 蓮祖は今日(こんにち)出世あれども本師なり。迹に非ず、末に非ず、久遠最初の本師なり。


一 予が云く(しか)らず

此の下は今師の能判なり。中に於て初めに略釈、次に「我等が本師」の下は広釈なり。三に「此等のを()ての明鏡」の下は結帰なり。(ここ)(また)標・釈・結の三段なり。略釈の中に「然らず」とは、総じて諸宗を非する言なり。「金言を()ほるべきなり」とは如説なり。修行は(おのずか)「仏法を修行せん」の言、之を思え。  

一 我等が本師

此れより(しも)は広く如説修行を明かす。初めに如説、次に「末法の今」の下は修行なり。初めの文に(また)二。初めに在世の始終を挙げ、次に「此の経の序分」の下は勝劣(せん)(じん)を判ずるに二。初めに経文を引き、二に「是より已後(いご)」の下は判談なり。初めに経を引く中に、初めに序分を引き、次に「(しか)して後」の下は正宗を引くなり。 

一 本師。

「本」の字、始めなりや旧なりや。玄の七に云く「本師の十妙を(しょう)(とく)す」文。是れは久遠の釈尊を指して「本師」と云うなり。久遠(くおん)本因の釈迦、師匠の有無に異義あり云云。当抄の意も、滅後の宗祖を以て三世に望みて「本師・釈迦」と云うと、本化(ほんげ)上行を以て久遠に望みて「本師・釈迦」と云うと重々の意あるべし。所詮、今日の師は本師に非ず。末師なるが故に迹の師なるが故に云云。(なお)(また)蓮祖は今日出世あれども本師なり。迹に非ず、末に非ず、久遠最初の本師なり。余所(よそ)の如し云云。  

一 施権(せごん)文。

此の「権」とは同体の権を以て衆生に施したもうなり。衆生(これ)を受けて「(おのおの)自ら実と(おも)う」の(しゅう)をなす故に異体の権と云うなり。仏意同体、機情異体なり。  

一 開権(かいごん)文。

此の「権」とは異体の権なり。之を開して妙体と成さしむ故に所開の権は異体の権なり。(しょ)(けん)の権は同体の権なり。

一 廃権(はいごん)文。

「権として論ずべき無し。義は(はい)に当る」故に異体の権を廃するなり。

問う、無量義経に三開会(かいえ)を明かすや。若し明かすと云わば、()の経に従一出多を明かして(いま)だ従多帰一を明かさず、何ぞ開会の義有らんや。若し明かさずと云わば、今の御文言、(こころ)()難し。如何(いかん)

答う、序正相対の時は無量義経に之を明かさず。三開会は是れ正宗(しょうしゅう)の正意なる故なり。是れ(また)経の平面に約するなり。義意に約すれば三開会有り。三開会を説く所の序なる故に、三開会を判じて(さまた)無し。

(また)文に「()(ほう)便力(べんりき)・四十余年・未顕(みけん)真実」と云う。四十余年方便を説くは(あに)施権に非ずや。方便を方便と説くは豈開権に非ずや。開廃()()なる故に廃権を論ずる事(さまた)無し。此れ義分に約するなり。故に今の文に三開会を判じたもうなり。(しか)れども仏、分明(ふんみょう)に三開会を説き分けたまう事なしといえども、菩薩は上智の故に「以方便力」の一言を聞いて、三の開会と(こころ)()、分け給うなり。二乗は()劣るが故に、正宗に至って(つぶさ)に三開会を聞いて得解(とくげ)するなり云云。

一 法華経より外の諸経は一分の得益(とくやく)も・あるまじきに

文の上は権実相対なり。元意は本迹相対なるべし。寿量品に「我実に成仏してより已来(このかた)」文。迹門にて不成仏の法なること、此の経文に分明なり。
 十法界抄に云く「()(じつ)成仏(じょうぶつ)とは寿量品已前を未顕真実と云うに非ずや」文。

私に云く、未顕真実の爾前経を修行して成仏せずんば、未顕真実の迹門なる故に迹門無得道なる義()(じょう)せり。故に文相は権実相対なれども、元意は本迹相対なること、妄失(もうしつ)すべからざる者なり。


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by johsei1129 | 2016-05-12 20:53 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
2016年 05月 11日

 如説修行抄筆記 十二  「此の経は相伝に有らざれば知り難し」亦云く「此の法華経は知らずして習い談ずる者は但(ただ)爾前の経の利益なり」云々。


一 問うて云く如説修行等

此の下は如説修行の相を問答するに二あり。初めは総じて権実相対の(こころ)を明かすなり。

是れに二。初めに問、次に答に二。初めに()()を挙げ、次に今師の能判なり云云。総じてとは、今文に「日本国中の諸人」と云い、(また)「総じて一切の諸経」と云うの言、諸宗に(わた)るが故に「総じて明かす」と云うなり。

一 諸乗一仏乗と(かい)()しぬれば(乃至)(せん)(じん)ある事なし

開会の上に(なお)浅深あり。爾前の諸経は所開なり。法華経は能開なり。(すで)に能所不同なり。何ぞ浅深無しと云わんや。

十章抄三十・三十二に云く「法華経は能開・念仏は所開なり乃至(たと)(かい)()をさとれる念仏なりとも(なお)体内の権なり体内の実に及ばず、(いか)(いわん)や当世に開会を心得たる智者も少なくこそをはすらめ」云云。

問う、十六巻四十に云く「法華経は爾前の経を離れず、爾前の経は法華経を離れず、是を妙法と言う、此の(さと)り起りて後は行者・()(ごん)・小乗経を読むとも即ち一切の大乗経を読誦(どくじゅ)し法華経を読む人なり」文。此の文の如くんば開会の後、浅深勝劣無しと見えたり、如何(いかん)

答う、啓蒙二十六・八十三に多義あり。所詮(しょせん)彼の意は開会に於て相待・絶待有り。絶待妙は仏意の内証なり。此の重に入れんが為に相待妙の修行を立てて、()(えら)び妙を取る義なり。今(いわ)く、彼の書は絶待妙を判ず。此の書は相待妙の意なり。絶待妙を以て相待妙を(なん)ずべからず。

問う、若し(しか)らば絶待開会の意に依って爾前経を読むべけんや。

答う、宗祖の御本意、開会の上に於て勝劣を立てたもう事、十章抄等に分明(ふんみょう)なり。一は能開・所開の不同なり。

十八巻・四十三に云く「妙法蓮華経は能開なり南無阿弥陀仏は所開なり」と。

十三巻・二十二に云く「(また)法華経に二事あり一には所開・二には能開」(一代聖教大意)文。

二には権実の不同なり。

三十巻に云く「(たと)い開会をさとれる念仏なりとも(なお)体内の権なり体内の実に及ばず」文。

其の(ほか)体用等の不同あり。既に勝劣有り、何ぞ劣りたる爾前経を読むべきや。

(なお)十六巻の「此の(さと)り起こりて後」と云う「覚」の字の意は、開会を覚悟する義なり。(いわ)く、如何(いか)(よう)に覚るぞならば、十章抄に「開会をさとれる念仏なりとも(なお)体内の権なり」と悟る義なり。故に此れ又勝劣あるの義なり。()し開会の後は権実一体にして一向不同無しと云わば「(おのおの)自ら実と(おも)う」の執情を失わずして、即ち未開会の法にして今師の所破なり。

亦云く「行者・阿含(あごん)・小乗経を読むとも即ち一切の大乗経を読誦(どくじゅ)し法華経を読む人なり」と云う此の読誦し様は、十章抄に「止観一部は法華経の開会の上に建立(こんりゅう)せる文なり、爾前の経経をひき乃至外典を用いて候も爾前・外典の心にはあらず、文をば()れども義をばけづ()()てたるなり乃至諸経を引いて四種を立つれども心は必ず法華経なり」文。此の文に()って之を思え。

法華経の義を成立せんが為に爾前の経文を読む、故に法華の文を読むになるなり。爾前の文義は(とも)に読むに非ず。文は爾前、義意は法華経なり。「爾前は迹門の()()(はん)(もん)と云う(また)「文は爾前に()れども義は法華に在り」(御講聞書)等の意、之を思え。

御書十三・十二に云く「此の経は相伝に有らざれば知り難し」(一代聖教大意)文。亦云く「此の法華経は知らずして習い談ずる者は(ただ)爾前の経の利益なり」(同)文。

(かい)()の上に於て体内権実の相伝を知らず、開会の後は権実一体の思いをなす者は、爾前経の利益と成るべきなり。是れ権実相対の意なり。之に例するに、開迹(かいしゃく)顕本(けんぽん)の後本迹(ほんじゃく)一体と修行するは、体内本迹の相伝を知らず、開迹顕本の後、本迹一致の思いをなして本門を読むは、爾前・迹門の利益(りやく)なり云云。


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by johsei1129 | 2016-05-11 22:50 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
2016年 05月 10日

 如説修行抄筆記 十一 今時は万民一同に題目を唱えざる故に、如説修行の人に大難有るなり。 


一 か()きは多勢なり

仏敵・法敵有り。主師親の釈尊を捨てて余仏を崇重(そうじゅう)するは仏敵なり。諸経中王の法華経を捨てて諸経を信ずるは法敵なり。「法王の一人」は「(ゆい)()一人(いちにん)」の事なり。

一 法華折伏(しゃくぶく)文。

已下は第二の問意に答う。経文(むな)しからざるを明かすに二。初めに結前生後、次に「天下」の下は(まさ)しく虚しからざるを明かす。

一 天下万民・諸乗(しょじょう)一仏乗と

意の云く「現()安穏」とは天下万民一同に題目を唱うる時なり。(しか)るに(こん)()は万民一同に万民(題目)を唱えざる故に、如説修行の人に大難有るなり。

一 人法(にんぽう)共に不老不死

寿量品の説相、之を思え。「常に(ここ)()って滅せず」「常に(ここ)に住して法を説く」と云云。

御書七に云う「日蓮が慈悲(じひ)(こう)(だい)」とは(にん)なり。「南無妙法蓮華経は万年の(ほか)・未来」とは法なり。三世常住の利益(りやく)なれば不老不死なり。

御書三十八巻・二十ヲに「日蓮が三世の大難を以て」等云云。

問う、人の不老不死とは釈尊の如く顕然(けんねん)なり。法の方は常住の故に不死とは云うべし。何ぞ不老というや。

答えて云く、()(ぜん)経の当分に得益を論ずるは(さかん)なるが如し。無量義経に「未顕真実」と説かるるは、得益を滅せんとする時なれば()いたるが如し。今経に至って破廃せらるるは死するが如し。然るに今、此の法華経には()くの如き等の義無し。故に不老不死というなり。経に云く「闘諍(とうじょう)(けん)()白法(びゃくほう)隠没(おんもつ)」と。是れ爾前経の老なり、死なり。今経に云く「(のち)の五百歳の中に広宣流布乃至断絶せしむること無けん」文。是れ法華経の不老不死なり。

(あるい)一重立ち入って今の御文言を拝見せば、人法共に本因本果の(ことわり)われん等と云う事なり。(いわ)く、不老とは釈尊なり。不死とは上行なり。記の九本三に云く「父は久しく先より種智(げん)(ねん)の薬を服せり。父は老いたれども(わか)きが(ごと)し。子は(また)常住不死の薬力を()けたり。少けれども老いたるが若し」等文。

  又御義口伝下三十三に云く「不老は釈尊、不死は地涌の(たぐい)たり」等文。

  不老不死を以て師弟に配すること分明(ふんみょう)なり。師弟は即本因本果なり。

  百六箇に云く「本果妙の釈尊・本因(ほんにん)(みょう)の上行菩薩を()(いだ)す事は一向に滅後末法利益の為なり」文。

  師弟の御本意、人法共に本因妙を以て、末法の衆生を利益(りやく)したもう(ことわり)顕るる時と云う意あり。(いわ)く、本因本果()()の妙法を修行する故に、人も(また)妙因妙果倶時に感得するなり。当巻十四に云云。「法華折伏」已下の御文言、当巻十三ヲを拝し(あわ)すべし。

  当体義抄にいう「正直に方便を捨て」とは、今の「法華折伏」より「法王の家人(けにん)となし」と云うに当るなり。(かしこ)に「法華経を信じ」と云うは、今の「天下万民」より「繁昌(はんじょう)せん時」までに当るなり。(かしこ)に「南無妙法蓮華経」とは、今「万民一同に」より「唱え奉らば」に当るなり。彼に「煩悩・(ごう)・苦」と云うより「即一心に(ことわり)顕われ」までは、今の文の「人法共に不老不死の(ことわり)顕れん時」と云うに当るなり。彼に「其の人の所住の処は(じょう)寂光(じゃっこう)()」とは、「吹く風枝をならさず」已下の文に当るなり。


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by johsei1129 | 2016-05-10 07:38 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
2016年 05月 09日

 如説修行抄筆記 十  大白牛車に乗じて四方に遊ぶ。此れに乗る事は信心第一なり。


一 仏勅を(こうむ)りて

時に約すれば、経文に「悪世末法の時」と。亦「(のち)の五百歳中広宣流布」文。国土に約すれば、経文に「誰か()娑婆(しゃば)国土に於て」と。又「娑婆世界に(おのずか)ら又六万」文。教に約すれば、宝塔品に「広く妙法華経を説かん」と。涌出(ゆしゅつ)(ほん)に云く「広く此の経を説かん」と。神力(じんりき)(ほん)の四句の要法等云云。

一 法王

薬草品に云く「()を破する法王」文。授記品に云く「大雄猛(だいおうみょう)()(そん) 諸釈の法王」文。

一 経文に任せて権実二教のい()さを起し

  問う、「経文に任せて大小・権実・本迹の(いくさ)」と云うべし。何ぞ(ただ)「権実」と云うや。

  答う、玄義第七・三十六に云く「通じて論ずれば、本迹は(ただ)是れ権実なり」文。故に権実の言に本迹を()ぬるなり。是れ則ち迹権本実の故なり。

一 忍辱(にんにく)(よろい)文。

勧持品に云く「当に忍辱の鎧を()るべし」文

一 妙教の(つるぎ)文。

今経は()く元品の無明(むみょう)を切る利剣なりと云云。十七・三十五

一 妙法五字の旗を指上(さしあげ)

(いくさ)には旗じるしを肝要とす。今(また)()くの如し。権実の法論の場所なれば、未曽(みぞ)()の旗を指し上げて仏法の勝相を表するなり。

人記品の下の啓運抄の終りに、()(ちゅう)を引いて「経に『(しょう)(ばん)』というは、什師の云く『外国には敵を破るに勝つことを得る(とき)は勝幡を()つ。道場には魔を降すに亦()の勝相を表するなり』」等云云。()れを以て当文に合すれば、諸宗は法華経の敵なり。今妙法の旗を以て其の敵を破るなり。是れは(たとえ)の意なり。

亦諸宗は三毒五欲の煩悩なり。(なお)悪鬼(あっき)(にゅう)()(しん)の大魔王なり。今此の法華経は能く煩悩の賊を(くだ)き、四魔を降伏(ごうぶく)するなり。録外二十三、日女御前御書に云く「法華弘通(ぐつう)の旗じるしとして」等云云。合せ見るべし。

一 未顕真実の弓をはり正直捨権の()をはげて

弓あれども箭なければ(せん)無し。箭はあれども弓なければ無用なり。法華経に「正直捨方便」と説きたもうとも、無量義経に「四十余年未顕(みけん)真実」の文無くんば、法華経に指示する処の方便は(いず)れの経ぞや、(はか)り難し。(しか)るに無量義経の文を以て之を見れば、四十余年の諸経(ことごと)く方便なりと知る。故に弓矢具足(ぐそく)するが如し。

二句の文を弓箭(きゅうせん)に相配するに表示ありや。

答えて云く、弓は其の(かたち)曲りて直ならず。四十余年の諸経の不正直なるを未顕真実と説く故に、形を以て(これ)(るい)して「未顕真実の弓」と判じ、()は直なる物なれば正直の法華に対す。正直に方便を捨てて後は(ただ)一実(えん)(どん)の妙法なり。故に各々其の形を以て其の法体(ほったい)の正直・不正直を顕す者なり。(あるい)必ずしも表示を求むべからず。仏意(はか)るべきが故なり。(しょ)の四、御義口伝上二十二云云。

一 大白(だいびゃく)()(しゃ)に打乗って

経に云く「是の宝車に乗じて四方に遊ぶ」文。亦云く「(じょう)()宝乗(ほうじょう)(じき)()道場(どうじょう)」文。「打乗って」とは本門の題目を受持する事なり。御義口伝下四十七。此の宝乗に乗じて(ただ)ちに道場に至るを以て、受持と題目とに判ずるなり。「道場」は極果(ごっか)なり。「乗此」とは因なり。(せん)の五に云く「此の因(かわ)らざる故に(じき)()と云う」と。()れに乗る事は信心第一なり。録外二十五・四。


             つづく


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by johsei1129 | 2016-05-09 06:26 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
2016年 05月 08日

如説修行抄筆記 九 宗教の五箇を以て三類の強敵を示す


一 問うて云く如説修行等

此の下は行者()(なん)を明かすなり。問に二意あり。(いわ)く、三類の強敵有るを以て知んぬ、如説修行の人に非ざる事を是一。(また)大難有るを以て如説修行の行者と云わば「現世安穏」の経文は妄語(もうご)なりや是二。

答に二意あり。初めに行者値難を明かし、次には経文(むな)しからざるを明かす云云。此の一段の問答(もんどう)開目抄下巻三十九・四十を合せ見るべし。

一 「答えて云く」の()

此の下は行者値難を明かす、二あり。初めに例を()げ、次に「(しか)るに今」の下は値難あることを以て末法の行者なることを明かす。
 初めの文に
亦二。初めに(まさ)く例を挙げ、次に「此れ等の人人」の下は反詰(はんきつ)なり。
 初めに例を挙ぐるに三。初めに現在、二に過去、三に「(じく)道生(どうしょう)」の下は未来なり。是れ(すなわ)ち釈尊の三世なり。

問う、過去・現在と次第(しだい)せざるや。

現顕なるに約して先ず現在を挙ぐるなり。
 御書三十八・十九に云く「日蓮は三世の大難に()い候ぬと存じ候、其の故は現在の大難は(いま)の如し、過去の難は」等云云。
 此れに例して知るべし。

一 (じく)道生(どうしょう)文。

此の下は啓蒙に二義を挙げたり。
 一は、道生等の三人は(つう)()の仏法に付いて難に値うの例に(いだ)したもう云云。
 二は、三人の本意も法華に成るべき故に天台・伝教(いち)()(いだ)したもうと云云。啓蒙の取捨(しゅしゃ)の如く、後の義()なり。今の結文に「(これ)()の仏菩薩」等と云云。
 開目抄下四十に云く「此等は一乗の持者にあらざるか」文。啓蒙九巻、()いて見よ。

一 (しか)るに今の世は等

此の下は()(なん)を以て末法の行者なることを明かす、二あり。初めは値難の所以(ゆえん)なり。次に「日蓮」の下は末法の行者なることを明かす。

問う、()の下は値難の文無し。何ぞ値難を以て末法の行者なることを明かすと云うや。

答う、問難に「如説の行者は現世安穏なるべし」とは、末法の法華経の行者を問うなり。答の(たい)()、先ず在世及び正像二時の法華の行者の値難を(いだ)し、次に「然るに今」と云うは、(まさ)しく末法の行者の値難を述べて問難を答うるなり。「然るに今」等の意に云く「在世及び正像の間の法華の行者、既に値難有り。(いわん)や末法の今は、時を論ずれば闘諍(とうじょう)(けん)()・白法隠没の時なり。国を論ずれば謗法(ほうぼう)の悪国なり。()を論ずれば謗法の悪臣・悪民なり。法を論ずれば邪法なり。師を論ずれば邪師なり。故に正像の行者を見て必ず大難を致す。三類の強敵(ごうてき)有るを以て法華の行者なることを知るべし。『況滅(きょうめつ)度後(どご)』の経文に附合するが故なり」と云う大旨なり。

一 末法の行者、難に値う所以は、時・機・国・法・師、(とも)に悪邪充満するが故なり。正法の行者を見て種々の難をなすなり。(いわ)く、是れ(また)宗教の五箇なり。初めの「闘諍堅固」等とは第三の時なり。「悪国」とは第四の国なり。「悪王・悪臣・悪民」とは第二の機なり。「正法を(そむ)きて」の下は第五の教法流布の前後なり。第一の教を挙げざる事は、(こん)()の弘通第一の勝教なるが故に(ここ)には挙げざるなり云云。


            つづく


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by johsei1129 | 2016-05-08 08:16 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
2016年 05月 07日

 如説修行抄筆記 八  松葉ヶ谷、伊豆配流、小松原、竜口・佐渡流罪、是れを四箇の大難とすべきか。猶考うべし。


一 (あるい)は両度の()(かん)()文。

一度は(こう)(ちょう)元年辛酉(かのととり)五月十二日、伊豆の伊東へ流されたもう。四恩抄の大旨云云。一度は文永八年辛未(かのとひつじ)九月十二日、(たつの)(くち)より(ただ)ちに佐渡へ流さるるなり。

 開目抄上三十一に云く「少少の難は・かずしらず大事の難・四度なり」文。之に付いて四()の大難に異説あり。一には伊東配流、小松原、(たつの)(くち)、佐渡流罪、是れを四度とするなり。

御書二十二・三十一に云く「弘長元年辛酉(かのととり)五月十二日には伊豆(いず)の国へ流罪、文永元年甲子(きのえね)十一月十一日頭にきず()()ほり左の手を打ちをらる、同文永八年辛未(かのとひつじ)九月十二日佐渡の国へ(はい)()(くび)の座に(のぞ)む、其の外に弟子を殺され切られ(おい)(だし)くわ()れう()等かずをしらず」文。此の文は佐渡流罪と竜口は別にして四()度とする様なり。

十八巻十三に云く「或は(くび)をきられんとし、或は流罪両度に及べり」文。此の文(また)別に挙げたり。

亦一説に、松葉()(やつ)の夜打ちを加えて竜口・佐渡を合するなり。

 私に云く、竜口・佐渡流罪は一処なり。二十六巻三十八に云く「去る文永八年九月十二日に()て一分の(とが)もなくして佐土の国へ流罪せらる、外には(おん)()(きこ)えしかども内には頚を切ると定めぬ予又(かね)て此の事を推せし」等云云。此の文を以て考うるに、佐渡流罪と竜口と内外の沙汰(さた)不同なり。故に別に之を()げたもうか。諸抄の御妙判に「国主より御勘気二度」とあり。此れ伊豆と佐渡となり。(しか)るに佐渡流罪の日限を九月十二日と遊ばされたり。次上(つぎかみ)に引く御書に云云。

十八巻十九に云く「()ぬる文永八年九月十二日には御かん()()をかほりて北国佐渡の島にうつ()されて候いしなり」文。

十三巻四十二に云く「()ぬる文永八年九月十二日に佐渡の国に流さる」文。

十三巻四十二に「念仏者等此の(よし)を聞きて上下の諸人をかたらひ打ち殺さんとせし程に・かなはざりしかば、長時(ながとき)武蔵(むさし)(こう)殿(どの)は極楽寺殿の御子なりし故に親の御心を知りて理不(りふ)(じん)に伊豆の国へ流し給いぬ」文。

二十六・三十六に云く「(しょう)()元年に書を一巻注したりしを故最明寺の入道殿に奉る乃至夜中に日蓮が小庵(しょうあん)に数千人押し寄せて殺害せんとせしかども乃至日蓮が(いま)だ生きたる不思議なりとて伊豆の国へ流しぬ」文。

此等の大旨を見るに、夜打ちを加えて四箇の大難とすべきか。(なお)考うべし云云。


             つづく


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by johsei1129 | 2016-05-07 10:52 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
2016年 05月 07日

 如説修行抄筆記 七  興目両師は不惜身命(ふしゃくしんみょう)なり。御相伝に「日目は毎度幡(はた)さしなれば浄行菩薩か。日興先をかくれば無辺行菩薩か。其の外(ほか)の臆病者共等」


一 されば此の経

此れより下は二に弟子檀那を教誡したもうなり。中に於て初めは総じて教誡し、次に「(しか)るに我が弟子」の下は不信の人を挙げ、別して教誡したまうなり。此れに亦二。初めには不信の人を挙げ、次に「(かね)て申さざりけるか」の下は教誡、亦二。初めに(けん)(じつ)の教えを挙げ、次に「予が(あるい)は」の下は重ねて教誡したまうなり云云。此の(たい)()題号に合す。初めは如説、「予が或は」の下は修行なり。(いわ)く、弟子檀那に対し三類の大難有るべしと教ゆるは説法なり。(みずか)ら説の如く大難に()うは修行なり。

一 三類(さんるい)文。

記の八に云く「文に三。初めの一行は通じて邪人を明かす、即ち俗衆(ぞくしゅ)なり。次の一行は道門増上慢(ぞうじょうまん)の者を明かし、三に七行は(せん)(しょう)の増上慢の者を明かす。此の三の中に初めの者は忍ぶ可し。次の者は(さき)に過ぎたり。第三最も(はなは)だし」文。

一 (しか)るに我が弟子等の中にも

檀那を(ひと)しゅうするなり。開目抄下四十六に云く「我並びに我が弟子・諸難ありとも疑う心なくば()(ねん)に仏界にいたるべし乃至妻子を()便(びん)と・をもうゆへ現身にわか()れん事を・なげくらん」文。

此の文は初めに弟子、次に「妻子」の下は檀那なり。(また)当巻四十二に「各各(おのおの)我が弟子となの(名乗)らん人人」等文。当抄次上(つぎかみ)に「行者の師弟檀那」と云云。之を以て之を思うに檀那を(ひと)しゅうするなり。興目(こうもく)両師は()(しゃく)身命(しんみょう)なり。御相伝に「日目は毎度(はた)さしなれば(じょう)(ぎょう)菩薩か。日興先をかくれば()(へん)(ぎょう)菩薩か。其の(ほか)の臆病者共等」(新定二七一八)云云。又十七・二十六云云。

一 (あるい)は所を・をわれ

此れは清澄(せいちょう)(ざん)及び鎌倉等の所々なり。七巻二十四に云く「日蓮は(かげ)(のぶ)にあだまれて清澄(きよすみ)山を()でしにかく()しおきてしの()び出でられたり」等云云。

一 或は(きず)(こうむ)

房州(ぼうしゅう)東条小松原の御難なり。文永元年甲子(きのえね)十一月十一日(さる)(とり)の時なり。御書二十巻二十五丁云云。


                つづく


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by johsei1129 | 2016-05-07 01:33 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)