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日蓮大聖人『御書』解説

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カテゴリ:日寛上人 御書文段( 480 )


2016年 05月 25日

 妙法曼荼羅供養抄記 終   今に至るまで四百余年。他流は皆是れ似せ薬なるべし。


一 五百塵点(じんてん)文。

  釈尊初発心(しょほっしん)の御弟子の故なり、信心不退の故に一念もわすれず。「仏」とは是れ色相荘厳の仏には非ず。久遠元初の()受用(じゅゆう)(しん)、即ち本化(ほんげ)の御師、本仏なり。師は三徳なり。故に本尊なり。此の本仏は(すなわ)ち妙法の五字なり。故に「仏」とはちこの妙法五字の本尊なり。      

一 ()(いだ)して授けさせ給へり。

  一に乃往(むかし)、過去の宝勝如来の滅後に名医有り。父の流水(るすい)の秘方を伝受し、(しか)も時を以て肝要と為す。(こん)光明(こうみょう)経第三・七十二に出でたり。

  二に天竺の耆婆(ぎば)(とく)(しゃ)()(こく)の大医・(びん)()()の秘方を伝授し、而も薬種を知るを以て肝要と為す。()(にょ)祇域(ぎいき)因縁(いんねん)(きょう)に出でたり。

  三に(しん)(たん)。倉公、扁鵲(へんじゃく)()()。倉公・扁鵲は史記の一伝の書に云云。倉公は元里(げんり)の公乗の陽慶(ようけい)を師とし、黄帝・扁鵲の脈書を伝授するなり。

史記列伝四十五に云く「大倉(たいそう)(こう)とは(せい)の大倉長、(りんし)の人なり。(わか)くして医術を好み、同郡の元里(げんり)の公乗陽慶(ようけい)を師とす。今、年七十余(ことごと)く禁方を以て之(あずか)り、黄帝扁鵲の脈書を伝う。五色の病を()て人の生死を知る」云云。公乗は官なり。扁鵲は黄帝の時の扁鵲なり。

扁鵲 史記列伝四十五・現本は百五初。 扁鵲は勃海(ぼっかい)郡の(てい)の人なり。姓は秦氏、名は越人。(わか)き時、人舎の(おさ)()る。舎の客、長桑()ぎれり。扁鵲(ひと)り奇として常に(つつし)んで遇す。長桑君も(また)扁鵲の常の人に非らざることを知る。出入すること十余年(すなわ)ち扁鵲を呼び、私語(ささや)きて云く「我に禁方有り。(きみ)に伝与せんと欲す。()らすこと無かれ」と。懐中の薬を出して扁鵲に与う。「飲むに上池の水を以てし、三十日せば、(まさ)に物をして知るべし」と。(ことごと)く其の禁方を以て(ことごと)く扁鵲に与う。忽然(こつねん)として見えず。扁鵲、其の言を以て薬を飲む。三十日にして(かき)の一方の人を見て、其の病を知ること明らかなり云云。長桑君の秘方を伝受する故に()く病を知る。趙簡(ちょうかん)()((しん)の大夫病む。人を知らざること五日、秦の穆公(ぼっこう)云云。二日の後、国安否す。)

(かく)起つ、桓公云云。(かわ)()(湯熨(とうい)及ぶ所) 血脈((はり)(せき)及ぶ所) 腸胃(酒醪(さけもろみ)及ぶ所) 骨髄(こつずい)及ばず。

()() (ぱい)(しょう)郡の人なり。(なん)(けい)云う医書あり。是れは戦国の秦の越人(えつじん)扁鵲が(えら)ぶ所なり。一抱子が(なん)(けい)本義(ほんぎ)(げん)(かい)の一初に云く「秦の(たい)()(れい)李醯(りけい)、己れが医業扁鵲に及ばざるを以て(ひそ)かに扁鵲を刺殺す。扁鵲死して後、難経の書を伝えて、華他(これ)を持つ」云云。同二・二に「難経の序に云く、難経は歴代之を一人に伝う。()の華他に至り、其の文を獄下に(もや)す」云云。 

  五百年が間、唯授(ゆいじゅ)一人なり。  

各相伝あり。故に()く身の病を治す。()(にょ)良医(ろうい)の釈尊も(また)上行菩薩に一大事の秘法を伝う。二十二・二十八に云く「教主釈尊の一大事の秘法を(りょう)鷲山(じゅせん)にして相伝し・日蓮が肉団(にくだん)の胸中に秘して(かく)し持てり、されば日蓮が胸の間は諸仏入定(にゅうじょう)の処なり」等云云。

外十六・四十一に云く「日蓮一期(いちご)の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を()(ぞく)す、本門()(つう)の大導師たるべきなり、国主此の法を立てらるれば富士山に本門寺の戒壇を建立(こんりゅう)せらるべきなり、時を待つべきのみ、()の戒法と云うは是なり、就中(なかんづく)我が門弟等此の状を守るべきなり。

  弘安五年(みずの)(えうま)九月 日              日蓮(ざい)()(はん)

             血脈(けちみゃく)の次第 日蓮日興」

  「日興が身に()(たまわ)る所の弘安二年の大御本尊日目に之を授与す本門寺に()け奉る可し」(取意)云云。

  今に至るまで四百余年。他流は皆是れ()せ薬なるべし。

一 されば此の良薬を(たも)たん。

  右現当二世の為に造立すること(くだん)の如し。


日寛上人 文段目次



by johsei1129 | 2016-05-25 21:34 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
2016年 05月 24日

 妙法曼荼羅供養抄記 八 「仏」とは色相荘厳の仏に非ず。妙法五字の本尊を「仏」と云うなり。宗祖云く「釈迦乃至妙法蓮華経五字こそ本仏にてわたらせ給ひ候なり」云云。


一 謀叛(むほん)ををこせる(とが)

  正平(しょうへい)将門(まさかど)天慶(てんぎょう)純友(すみとも)等云云。  

一 (すい)(ぶつ)(しん)(けつ)等の重罪等にも超えたり。

 提婆(だいば)の事、法蓮抄十五・三ウ・四ヲの如し。

一 堂塔を焼きはらへる。

 ()の武、周の武、唐の武、守屋(もりや)弗舎(ほっしゃ)(みっ)多羅(たら)  

一 一人(乃至)日本国

 問う、(いか)なる大罪なりや。

 答う、謗法(ほうぼう)なり。

  一には不信謗法。「疑いを生じて信ぜざらん者は、(まさ)に悪道に()つべし」。妙楽云く「不信頓極(とんごく)を名づけて謗実と為す」。

二には()(ぼう)謗法。其の意、知るべし。経に云く「()し人信ぜずして此の経を毀謗せば、即ち一切世間の仏種を断ぜん」云云。

  五逆と謗法と軽重(けいちょう)の事。大論六十二・二十、御書の七に「舌を切らん」。()(じょう)の事。  

一 わが身に(とが)なしと思ひ。

  啓蒙三十三・十二、(せい)(かん)(こう)の病を見る事。

  扁鵲(へんじゃく)(ぼっ)(かい)郡の人、姓は(しん)、名は越人(えつじん)(わか)き時、人の舎の(おさ)()る。舎の客(ちょう)桑君(そうくん)()ぎれり。扁鵲(ひと)り奇とす。常に(つつし)んで(ぐう)す。長桑君も(また)扁鵲の常人に非ざることを知る。出入すること十余年(すなわ)ち扁鵲を呼び(ひそか)に座し語って云く「(われ)禁方(きんぽう)有り。年老ゆ。(きみ)に伝えんと欲す」と。懐中より薬を出し、扁鵲に飲ましむ。其の禁方を(ことごと)く扁鵲に伝え、忽然(こつねん)として見えず。(かく)起つ。桓公(かんこう)(まみ)ゆ。黄帝(こうてい)の扁鵲に類す。故に扁鵲と名づく。

  和気(わけ)・丹波の両流の中に、丹波は後漢の霊帝の後なり。後の丹波(たんばの)(まさ)(ただ)を日本の扁鵲と号す。大抄二十五・二。

  「我が身に(とが)なし」と思うは、桓公の我が身に病無しと思うが如し。  

一 女人よりも

  一に謗法の軽重、二に懺悔(さんげ)の有無。御書十三。 

一 此等は(らい)(びょう)

  三重秘伝に合すべし。御書二十七に「南無妙法蓮華経を(きょう)として乃至()り責め流し失うなり」と。人法体一云云。

一 いよいよ倍増すべし。

  「今末法に入りぬれば余経も乃至(みどり)()(ちち)より(ほか)乃至良薬に又薬を加えぬる事なし」云云  

一 末法の時のために(乃至)授けさせ給へり

  (ここ)に五意あり。高橋抄に「我が滅度の一切衆生は医師(くすし)の習いは病に随って薬を与ふ」と。

外の十二・二十七に「今()の御本尊」云云。五意あり。

一 本因鑑機(自行証得 心中深秘) 

一 多宝如来・十方分身(ふんじん)

  新尼御前。  

一 一の仙薬をとど()め。

  「()」の字に相伝あり。「()好良薬(こうろうやく)(こん)()(ざい)()」は寿量品に説き顕す云云。

「仙薬」と云うは、天台の()の十に云く「金丹を服する者は大仙人と成る」云云。宗祖云く「仙薬は命をのべ」等云云。経に云く「病(そく)消滅、不老不死」と。故に「仙薬」と云う。

  妙法五字の本尊を(じゅ)()すれば、消滅して不老不死の果報を得る故に「仙薬」と名づくるなり。

一 (ほう)()・功徳林。

  何ぞ(しゃっ)()・他方に(さず)けざるや。

両種の前三後一あり。    

一 五百(乃至)一念も仏を・わすれず・まします。

  釈尊初発心(しょほっしん)の御弟子にして、本尊を受持し信心不退なる故なり。「仏」とは色相荘厳の仏に非ず。妙法五字の本尊を「仏」と云うなり。

宗祖云く「釈迦(ない)()妙法蓮華経五字こそ本仏にてわたらせ給ひ候なり」(取意)云云。


                   つづく
日寛上人 文段目次



by johsei1129 | 2016-05-24 20:45 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
2016年 05月 23日

妙法曼荼羅供養抄記 七 諸病の中に法華経を謗ずるは第一の重病なり。諸薬の中に南無第一の良薬なり云云。

 ()(そう)八句を分かちて二と為す

初めに直ちに称歎(しょうたん)

 初めに法体(ほったい)を歎ず 生仏一双  │                

 次に妙用(みょうゆう)を歎ず 山野一双     

次に他に対して歎ず、亦二

初めに法体を歎ず 天地一双                   
次に妙用を歎ず (めい)()一双     

  ()の四本四十四に云く「三界の長途は(まさ)に万行を以て而も資糧()すべし。生死の広海は応に智慧を以て(せん)(ばつ)と為すべし」。

一 二千二百二十余年の(あいだ)

  (あるい)は三十余年。是れに相伝あり。

問う、何ぞ()(しょう)伝えて弘めざるや。故に先ず世の薬を挙げて(たとえ)と為すなり。

一 (やまい)によりて薬あり軽病には(ぼん)(やく)(乃至)重病には仙薬等云云

 報恩抄下二十七に云く「仙薬は命をのべ凡薬は病をいや()せども(いのち)をのべず」文。薬に上中下あり。故に知んぬ、上薬を仙薬と名づけ、中下を凡薬と名づくるなり。

弘の十・六十九ウに云く「神農(しんのう)経に云く、上薬は命を養う。(いわ)く、五石(ごせき)は形を()り、(ろく)()は命を延ぶ。中薬は性を養う。謂く、合歓(ねぶのき)忿(いか)(のぞ)き、萱草(わすれぐさ)(うれい)を忘る。下薬は病を治す。謂く、大黄(だいおう)は実を除き、当帰(とうき)は痛みを止む」云云。

      ┌─白璞(はくぼく)           ┌─竜伯          

      ├─紫璞(しぼく)            ├─(さん)(せい)          

 五石───┼─石膏(せっこう)       六芝──┼─燕服          

      ├─鍾乳(しょうにゅう)          ├─夜光          

      └─(せき)()            ├─(ぎょく)()          

                      └─(れい)()          

 止観第十・四十八に云く「(きん)(たん)を服せば大仙人と成る」文。

 弘の十・七十に云く「金を飛して丹と為す。故に金丹と()う」文。

金を飛水して薬と為るを金丹と云うなり。愚案五十・二ヲに「(しん)(のう)薬を()む、其の数三百六十五種。()れを本草に上中下の三品に(わか)つ。上薬百二十種、中薬百二十種、下薬百二十五種。是れは多く毒有り」。本草は()()(ちん)明人(みんひと)なり。神農経を釈す、五十二巻あり云云。  

一 人の煩悩(ぼんのう)と罪業の病(かろ)かりしかば等文

「煩悩」は貪瞋癡(とんじんち)なり。業は(しん)に三、()に四なり。

 問う、正像の病軽き所以(ゆえん)如何(いかん)

  答う、(ほん)()()(ぜん)の故なり。譬えば如実性に生まれたるがごとし。

  問う、九宗は判経に(あやま)り多し。何ぞ薬を()ると云わん。若し薬の性を識らずんば、亦病を識るべからず。(ただ)天台のみ正義を得て、()く薬の性を識れるがごとし。何ぞ十宗を通じて智者と名づけ、病に随って薬を与うといわんや。

  能破(のうは)(じは)の事。十二三十二十九ウ、是れ与えて論ずるなり。

  愚案(ぐあん)記の物語の事。

  宋の朱文公、足の病あり。要言十・十三。

    幾載相扶(あいたす)くるは疲(きょう)()る 

 一(しん)還って覚ゆ奇功有ることを 

 門を出でて杖を放てば児童笑う 

 是()れ従前(ぼつそつ)(おきな)ならず

  華陀(かだ) (ぱい)(しょう)(ぐん)の人なり。三国三十三・九、二十二初、関羽。

  前の二類は諸宗の祖師、華陀は天台等のごとし。諸病の中に法華経を(ぼう)ずるは第一の重病なり。諸薬の中に南無第一の良薬なり云云。  

一 今の世(乃至)謗法(ほうぼう)の者

  一には諸宗の凡薬、末法の重病の人に(おう)ぜず。故に「諸宗の機にあらざる上」と云うなり。

二には諸宗の医師(くすし)、不相応の薬を用う。故に却って薬、毒と成って日本国一同に一闡(いっせん)(だい)大謗法の大病人と成るなり。  

一 父母を殺す罪

  大天(だいてん)母に通ず。父帰るに及んで父を殺し、(また)羅漢を殺せるなり。


                  つづく
日寛上人 文段目次 



by johsei1129 | 2016-05-23 21:37 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
2016年 05月 22日

妙法曼荼羅供養抄記 六 「導師を殺して天祠(てんし)を祀(まつ)る。已に道路を迷い失いて趣く所を知らず。窮困(きゅうこん)して皆死す」。他宗他門なり云云。


一 (りょう)()となり。

  「良馬」とは即ち名馬なり。延宝年中に阿蘭陀(おらんだ)より名馬を献ずるに、其の毛、一身しまなり。

半井(ぼく)(よう)の狂歌に云く

しまぎぬをおらんだものと思いしに 

よくよく見れば()まれ()きかな云云。

  ()(だい)()天皇の時、月毛(つきげ)の馬の三寸(ばか)りなるが、一日に八十里を行く馬を献ぜり。出雲(いずも)富田(とだ)()の刻に立ちて(とり)の刻に京に着く。其の道七十六里なり。源平合戦の時の判官(ほうがん)青海(せいかい)()、一の谷を落したるは太夫(たゆう)(ぐろ)(がま)殿の(つき)()、和田が白波(しらなみ)、畠山が秩父鹿毛(かげ)、一の谷を落つる時(よろい)の上に負いたるは三日(みか)(づき)云う名馬なるが故なり。梶原が(たまわ)りたる(する)(すみ)、佐々木に贈りたる(いけづき)、北条の荒磯(あらいそ)、熊谷が権太栗毛(くりげ)、是等は物の数ならず。

  後漢の光武の時も千里の馬を献ず。前漢の文帝の時も千里の馬を奉る。関羽が(せき)()()、玄徳の(てき)()あり。的驢は檀渓(だんけい)を一躍三丈す。是れも数ならず。

  又屈産(こっさん)の乗と云えるは、左伝五の註に「屈は地の名、良馬を生ず」と。又史記の世家の註に「屈産は名馬を出す地なり」。コツとは(コツ)支国の事なり。()()とも()()とも云うなり。長安の西、七千五百里にあり。

  又項羽が(すい)(そう)(こく)の馬なり。伝に云く「時に利あらず、()かず」等云云。是れも物の数ならず。

  周の(ぼく)王の時、()トウ(リカ)騮騄(リュウロク)駬駟(ジシ)。(注:トウは馬偏に盗)太平の十三初。同抄。慈童。魏の文帝の時、(ほう)()八百年まで慈童、少年の(すがた)なり。穆王は八(ひき)(はや)(うま)に乗って、西天十万里の山川を一時に越えて(りょう)鷲山(じゅせん)に参詣せり。

  今(また)(また)(しか)なり。妙法五字の良馬に乗って速やかに霊山浄土に至るべし。

一 天には日月の如し・地には須弥山(しゅみせん)の如し等

 是れ薬王品の第二・第三・第四の譬の意なり。経に「又土山(どせん)黒山(こくせん)(しょう)鉄囲山(てっちせん)、大鉄囲山及び(じっ)宝山(ぽうせん)の衆山の中に、須弥山を第一とするが如く、此の法華経も(また)(また)是くの如し。諸経の中に於て、最も其の(かみ)と為す」云云。

「又衆星の中に、(がっ)天子(てんじ)最第一なるが如く、此の法華経も亦復是くの如し。千万億種の諸経法の中に於て最()れ照明なり」。

「又(にっ)天子(てんじ)の能く諸の(やみ)を除くが如く、この経も復是くの如し。能く一切の不善の闇を破す」。

文の中の「法華経」とは下種の法華経、妙法五字の御本尊の御事(おんこと)なり。  

一 (しょう)()海の(ふね)なり成仏得道の導師なり。

薬王品に云く「(わたり)に船を得たるが如し」云云。故に「生死海の船」と云う。「商人の(あるじ)を得たるが如し」云云。(ずい)(もん)・四十三に云く「経に『商人の主を得たるが如し』とは、商主は必ず能く道の(つう)(そく)及び宝所を知り、彼の商人をして彼の宝を得るに至らしむるが故なり」文。浄名(じょうみょう)に云く「巨海に入らずんば宝を得ず」云云。賢愚経に云く「植を()るは百倍、(しょう)()は千倍、仕官は万倍、海に入るは()(かえ)って無量倍を得」云云。()し導師無くして海に入らば何ぞ宝を得ん。

(ひゃく)()経に云く「昔()(きゃく)有り、一導師を得て引いて広野に至る。一の(てん)()有り。人を(もち)いて(まつ)(おわ)って、然るに後に過ぐることを得。此に於て衆賈、議して云く『我等は皆(しん)たり、如何(いかん)ぞ殺す可き』と。即ち導師を殺して天祠を祀る。(すで)に道路を迷い失いて趣く所を知らず。窮困(きゅうこん)して皆死す」。他宗他門なり云云。

当流は寿量文底の大海に入り、下種の大法を()給いて、我等に之を授与する蓮祖のみ末法の大導師なり。


                      つづく
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by johsei1129 | 2016-05-22 10:09 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
2016年 05月 21日

妙法曼荼羅供養抄記 五  諸門流の曼陀羅には日蓮上人の判なし


一 成仏の印文とは

「印」とは即ち是れ判なり。又是れ決定(けつじょう)の義なり。世の証文の如し。即ち判形(はんぎょう)を以て用いて信と為すなり。譬えば伝国の(ぎょく)()の如し。(命を天に受く。既に寿永く昌んなり。)

  御書三十五・三十四に「又(えん)()王宮にしては何とか仰せあるべき、おこがましき事とはおぼ()すとも其の時は日蓮が檀那なりとこそ仰せあらんずらめ乃至又日蓮が弟子となのるとも日蓮が判を(もた)ざらん者をば御用いあるべからず南無妙法蓮華経」と云云。諸門流の(まん)()()には日蓮聖人の判なし云云、云云。相伝有り。

  当門流の弟子檀那は、御判(たし)かにすわりたる手続(てつぎ)文書(もんじょ)、本門の本尊を受持するが故に、決定(けつじょう)して成仏すること疑無し。

  「我が滅度の後に於て(乃至)決定して疑い有ること無けん」とは是れなり。「(まさ)()の経を受持すべし」とは、応に本尊を受持すべしとなり。「是の人(乃至)決定」とは即ち是れ成仏の印文なり。(ひきがえる)の事。

一 冥途(めいど)にてはともしびとなり。

  荘厳論に云く「命尽き終る時、大黒闇を見れば深岸に墜するが如く、(ひと)り広野を()くに判侶有ること無し」文。

讃歎抄十九に云く「(まさ)しく魂去る時、目に黒闇を見て高き処より底へ()ち入るが如し。(ただ)独り渺々(びょうびょう)たる広き野原に迷うなり。其の時の有様思いやるこそ心細く悲しけれ」云云。

止七四十七に云く「聚斂(しゅうれん)未だ足らざるに(こう)(ぜん)として長く往きぬ。所有の産貨(いたずら)に他の有と為す。冥々(めいめい)として独り行く、誰か是非を()わん」等云云。

牛頭(ごず)(けつ)の初めに云く「所決の法門七百余科、皆是れ生死の野を越ゆる牢強(けんきょう)の目足なり」と。

和泉式部云く「暗きより暗き道にぞ入りぬべき (はる)かに照らせ 山端(やまのは)の月」。

書写山の聖空の事。和語記。

時に此の妙法曼陀羅、大灯明(とうみょう)と成るなり。闇に灯を得たるが如しとは是れなり。 

一 死出(しで)の山。

 讃歎抄に云く「心ならず行く程に死出の山に至る。此の山高くして(けわ)し。獄卒(ごくそつ)()(もよお)されて泣く泣く山路にかかる。岩のかど剣の如くなれば歩まんとすれども歩まれず。此の山遠き八百里、(けわ)しきこと壁に向えるが如し。嶺より(おろ)(あらし)はげしく(はだえ)(とお)し骨髄に入る」(新定五四)等云云。

  太宰(だざい)高遠(たかとお)、夢の告げに云く

古郷(ふるさと)へ行く人もがな告げやらん 

しらぬ山路に(ひと)り迷うと

 千載集(せんざいしゅう)鳥羽(とばの)(いん)

常よりもむつまじき(かな)(ほと)(とぎす)

死出の山路の友とおもえば

生まるる()子を失い給いければ、伊勢

死出の山()えてやきつる時鳥 

恋しき人の上()たらなん

  水戸光圀(みつくに)

時鳥なれ()もひとりはさびしきに

われをいざなえ死出の旅路(たびじ)に  


                    つづく

日寛上人 文段目次



by johsei1129 | 2016-05-21 11:48 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
2016年 05月 20日

妙法曼荼羅供養抄記 四  四悉檀を以て女人成仏を釈す


一 一切の女人の成仏の印文なり

  御書の十九・十五に云わく「後五百歳の南閻(なんえん)()(だい)の一切の女人、法華経を一字一点も説の如く信じ行ぜば、本時(どう)()の安楽世界に住すべし」となり。十九は薬王品の文を消釈す。前後(みな)薬王品の文意に由る。経に云く「若し女人有って、是の(やく)(おう)菩薩(ぼさつ)本事(ほんじ)(ほん)を聞いて、()く受持せん者は(乃至)後の五百歳の中に、若し女人有って、是の経典を聞いて、説の如く修行せば、此に於て命終(みょうじゅう)して即ち安楽世界に()いて」云云。

  問う、(まさ)に「一切衆生の成仏の印文」と云うべし。何ぞ「一切の女人」と云うや。

  答う、実に所聞の如し。実に是れ一切衆生の成仏の印文なり。然るに「女人」と云うは、(ここ)に四義あり。

  一には、本尊供養の()(しゅ)は女人なるが故に、別して女人を歎じて歓喜を生ぜじめたもうなり。

  二には、難成(なんじょう)を挙げて()(じょう)(きょう)するなり。(いわ)く、爾前四十余年の意は女人の成仏を許さず、過失多き故なり。御書十九・五十九の如し。云く「男子・女人其の性(もと)より(わか)れたり・火はあ()たかに・水はつめたし・海人(あま)は魚をとるに・たくみなり。山人(かりうど)は鹿をとるに・かしこし。女人は物をそね()むに・かしこしとこそ経文には・あかされて候へ、いまだ()かず仏法に・かしこしとは、女人の心を清風に(たと)えたり風はつなぐとも・とりがたきは女人の心なり、女人の心をば水にゑが()くに譬えたり、水面には文字とどまらざるゆえなり、女人をば(おう)(にん)に譬えたり。(ある)(とき)(まこと)なり或時は(きょ)なり。女人をば河に譬えたり・一切()がられる・ゆへなり」と。 

  涅槃経に云く「一切の江河必ず()(ごく)有り。一切の女人必ず諂曲(てんごく)有り」云云。

華厳経に云く「女人は地獄の使なり。能く仏の種子を断つ。()(めん)は菩薩に似て、内心は()(しゃ)の如し」云云。

(ごん)(じき)(にょ)経に云く「三世の諸仏の眼は抜けて大地に落つるとも、法界の女人は永く成仏の()無からん」云云。又「女人は大鬼神なり、能く一切の人を(くら)」とも説かれたり。

  (たいらの)(かね)(もり)の歌。みちのく()(とりの)(こおり)くろづかと云う所に、重之が妹数多(あまた)ある故。

みち()のく()のあだちが原の黒つかに 鬼こもれりと云うはまことか

むぐらおいあれたる宿のうれたきに(さびしきに) ひまなく鬼のすだ()くなりけり   業平(なりひら)

あれにけりあわれ(いく)()の宿なれや 住みけん人のをとずれもせず 云云。この歌の返しなり。
   ( 注:この二首は詠み人知らずとして伝えられる。業平の作にあらずか)

竜樹の大論には「一度女人を見れば永く地獄の(ごう)を結ぶ」云云。

 善導(ぜんどう)和尚は謗法なれども女人を見ずして一期生なり云云。

  華厳の(ちょう)(かん)、十願の中に第三に「目に女人を見ざらん」云云。

  南山大師云く「四百四種の病は宿食を根本とし、(さん)()八難の苦は女人を根本とす」と。

高野(こうや)(さん)も女人禁制の山と聞く。

 又女は()(しょう)(さん)(じゅう)(さわり)あり。(えい)(けい)()(さん)(らく)をえたるも、女人の身と生れざるを一の(たのしみ)といえり。

 ()くの如く爾前の諸経に(きら)われたる女人なれども、此の妙法の曼陀羅の力用(りきゆう)に依って竜女のごとく成仏す。(いか)(いわん)や男子をや。故に難成(なんじょう)を挙げて()(じょう)を顕す故なり。  

  三には、末代悪世の衆生は、男女(とも)に女人と名づくるなり。

 是れ即ち悪世の衆生は、男女ともに法華経の行者を怨嫉(おんしつ)する故なり。「()()怨嫉(ソネミアダム)」の故なり。

男女(とも)に清風の(ごと)き故。世の中を渡り、波風もなし。

男女倶に水に()をかく如くなる故。行く水。信心の心留まらざるが故に。

 男女倶に狂人の如くなるが故に。慶安の(はなし)の事。

 男女倶に川の如く曲りたるが故に。泰時、青戸左衛門の事、今(これ)に反す。

華厳経に云わく「女人は地獄の使いなり。能く仏種を()つ」云云。「若し人、信ぜずして此の経を()(ぼう)せば、則ち一切世間の仏種を断ぜん」と。故に知んぬ、男子も女人なり。

涅槃経に云わく「一切の江河必ず()(ごく)有り。一切の女人必ず諂曲(てんごく)あり」と。

「此の娑婆国の中の人は多く(へい)(あく)瞋濁(しんじょく)諂曲(てんごく)にして、心不実なる故に」と。故に知んぬ、皆女人なり。

「悪背の中の比丘(びく)は邪智にして心諂曲なり」と。悪世の比丘も女人なり。

四には、蓮祖の門弟は男女(とも)に女人の如し。その故は仏種を懐妊(かいにん)する故に。外十六・二十一に云く「末法の(はじめ)に妙法蓮華経の五字流布(るふ)して日本国の一切衆生が仏の下種を懐妊すべき時なり」と。

此の四義は次の如し。世界・()(にん)・対治・第一義なり。


                      つづく
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by johsei1129 | 2016-05-20 22:25 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
2016年 05月 19日

 妙法曼荼羅供養抄記 三 妙法の五字は三世の諸仏の主師親なり。故に以て本尊と為す。


一 入文の下。  

一 本尊

  主師親を以て本尊と為すなり。(もと)より尊く、(ほん)とし、尊ぶ意なり。 

一 文字は五字七字

  問う、日本国の諸宗、本尊(まちまち)なりと雖も皆仏を以て本尊と為す。蓮師、何ぞ妙法を以て本尊と為したもうや。

  答う(つぶさ)には本尊問答抄の如し。妙法の五字は釈迦・多宝・十方の諸仏の御本尊なるが故なり。故に今文に「三世の諸仏の御師」と云うなり。  

  問う、(まさ)に三世の諸仏の主師親と云うべし。既に三世の諸仏の御本尊なるが故なり。何ぞ(ただ)「御師」と云うや。

  答う、是れ涅槃経の「諸仏の師とする所は所謂(いわゆる)法なり」の文に准ずる故なり。而して其の意は実に三徳を含むなり。故に天台云く「法は()れ聖の師。能生・能養・能成・能栄・法に過ぎたるは()し。故に人は軽く、法は重し」等云云。

文の意は、総じて之を論ずれば(ただ)法は是れ聖の師なり。別して之を論ずれば即ち三徳を含む。謂く、生・養は父母の徳なり。能成は師の徳なり。能栄は主の徳なり。故に(みょう)(らく)(せん)の八に云く「父母に非ざれば以て生ずること無く、師に非ざれば以て成ずること無く、君主に非ざれば以て栄ゆること無し」等云云。此の文に分明(ふんみょう)なり。

  普賢観に云く「此の大乗経典は諸仏の宝蔵、十方三世の諸仏の眼目なり。三世の(もろもろ)の如来を出生(しゅっしょう)する種なり」等云云。「諸仏の宝蔵」とは主の徳なり。「諸仏の眼目」とは師の徳なり。「出生」とは(あに)父母の徳に非ずや。故に妙法の五字は三世の諸仏の主師親なり。故に以て本尊と為す。三徳有りと(いえど)も、総じて之を論ずれば(ただ)是れの師なり。故に「三世の諸仏の御師」等と云うなり。


                     つづく 
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by johsei1129 | 2016-05-19 08:49 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
2016年 05月 18日

 妙法曼荼羅供養抄記 二  此の曼陀羅の功徳広大無辺なる故に、祈りとして叶わざる無く、罪として滅せざる無く、福として来らざる無く、理として顕れざる無し。


一 当抄の題号の事。

  言う所の「妙法」とは、中央に(すで)に妙法蓮華経と題す、故に「妙法曼陀羅」と云うなり。(けだ)し左右の十界は(ただ)是れ中央の南無妙法蓮華経の具徳なるのみ。或は(また)真言宗の(こん)(たい)両部の曼陀羅に(かん)()するが故に「妙法曼陀羅」と云うなり。御書五・十一ウ、三十五・五十ウ、(しき)マンダラの事。

次に「曼陀羅」とは是れ(ぼん)()なり。(ここ)には()徳聚(どくじゅ)(ほん)ずるなり。此れ即ち釈尊因位の万行、果位の万徳の功徳を、一処に(あつ)めて妙法五字に()(そく)するが故なり。
 本尊抄に云く「釈尊の因行(いんぎょう)果徳の二法は妙法蓮華経の五字に()(そく)す我等此の五字を受持すれば()(ねん)()の因果の功徳を(ゆず)り与え給う」等云云。

「釈尊の因行果徳の二法」とは、()し迹門・爾前の意を以て之を論ずれば、教主釈尊は()(じょう)正覚の仏なり。過去の因行を尋ね求むるに、(あるい)(のう)()太子、或は(じゅ)(どう)菩薩、或は尸毘(しび)王、或は(さった)王子。或は(さん)()百劫(ひゃっこう)、或は(どう)()塵劫(じんごう)、或は無量()僧祇(そうぎ)劫、或は初発心時、或は三千塵点(じんてん)の間、七万五千六千七千の仏を供養し(しゃっ)(こう)行満して(いま)教主釈尊と成りたもう。()くの如き因位の諸行、皆(ことごと)く妙法の五字に具足す。故に無量義経に云く「未だ(ろく)()()(みつ)を修行する事を得ずと雖も六波羅蜜()(ねん)に在前す」云云。

()し果位を以て之を論ずれば、教主釈尊は始成正覚の仏、四十余年の間に四教の色身を示現し、爾前・迹門・涅槃経等を演説し、一切衆生を()(やく)す。所謂(いわゆる)華厳の十方台上()舎那(しゃな)()(ごん)経の三十四心断結成道(じょうどう)、方等・般若(はんにゃ)の千仏等、大日・金剛頂等の千二百年余尊、並びに迹門宝塔品の四土の色身、涅槃経の(わっ)(けん)小身大身乃至八十御入滅、舍利を留めて正像末を()(やく)す。

本門を以て之を談ずれば教主釈尊は五百塵点劫(じんてんごう)已前の仏なり。因位も()くの如し。其れより已来(このかた)十方世界に分身(ふんじん)して一代聖教を演説し、塵数(じんじゅ)の衆生を教化す。()くの如き果位の万徳、皆(ことごと)く妙法の五字に具足す。故に「釈尊の因行(いんぎょう)果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す」と云うなり

  問う、因行果徳の二法、妙法の五字に具足する其の(いわれ)は如何。

  答う、此の妙法の(まん)()()は文底下種の大法なり。
 故に宗祖云く三世十方の仏は必ず妙法蓮華経の五字を種として仏になり給へり」等云云。(たと)えば(とう)()一入(ひとしお)
再入(ふたしお)(くれない)の華も、千()・万顆の緑の(このみ)も、皆(ことごと)く種子の中に具足するが如し。因位の万行の(はな)も、果位の万徳の(このみ)も、皆咸く文底(もんてい)下種の妙法の五字に具足するなり。

(なお)尼倶類(にくる)(じゅ)如し、(けだ)しその種子は芥子(けし)の三分の一の如き、而して根茎(こんきょう)()(よう)を生じ、(つい)には大樹と成りて五百乗の車を(いん)(ふう)す。()くの如き大樹の華も菓も、皆咸く種子の中に具足す。華は根に帰り、(だつ)(しゅ)(かえ)是れなり。故に天台云く「百千枝葉同じく一根に(おもむ)くが如し」等云云。 

故に文底下種の大法は要中の要なり。是の故に此の妙法の曼陀羅は、無量無辺の因果の功徳の(あつ)()る故に功徳(くどく)(じゅ)(ほん)ずるなり。故に此の曼陀羅の()(どく)広大無辺なる故に、祈りとして(かな)わざる無く、罪として滅せざる無く、福として(きた)らざる無く、理として顕れざる無し。(しか)れば我等此の曼陀羅を受持すれば、自然(じねん)に彼の因果の功徳を譲り与えたもう。故に「我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を(ゆず)り与え給う」等と云うなり。

次に「供養(くよう)」とは、()の四末五十八に云く「(しも)を以て(かみ)(すす)むるを供と為し、()を以て尊を(たす)くるを養と()う」等云云。(もん)の三・三に云く「供養とは三業(さんごう)に通じて皆()れ供養なり。別して論ずれば、其の依報(えほう)を施すを供養と名づく」等云云。

「三業に通じて」とは、心に本尊を信ずるは()(ごう)供養なり。口に妙法を唱うるは()(ごう)供養なり。身に曼陀羅を(らい)するは身業(しんごう)供養なり。「其の依報を施す」とは即ち是れ四事供養なり。謂く、()(ぶく)()()飲食(おんじき)・医薬等なり。

日女抄に云く「御本尊供養の御為に()(もく)五貫・白米(いち)()・菓子其の数送り給び候い(おわ)んぬ」云云。

録内二十三・三十八に「法華経の御本尊供養の御(そう)膳料(ぜんりょう)米一駄蹲鵄(いものかしら)一駄送り()び候ひ畢ぬ」云云。三業の供養肝心なり。

一に糞掃(ふんぞう)()、二に(じょう)乞食(こつじき)、三に一座食、四に(じょう)露座(ろざ)、五に塩及び五味を受けず。


                       つづく

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by johsei1129 | 2016-05-18 22:03 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
2016年 05月 17日

 妙法曼荼羅供養抄記 一 「寿量品の肝要たる南無妙法蓮華経」とは、即ち是れ文底秘沈の三大秘法の随一、本門の本尊の御事なり。故に「肝要」と云うなり。


 妙法曼荼羅供養抄

 

一 当抄大意の事

 (およ)そ妙法の曼荼羅(まんだら)とは、即ち是れ我等が受持し奉る所の三大秘法の随一、本門寿量の肝心、文底秘沈の大法、本地難思境智の冥合(みょうごう)、久遠元初の()受用(じゅゆう)報身の当体、事の一念三千、無作(むさ)(ほん)()の妙法蓮華経の御本尊の御事なり。是れ即ち釈尊出世の本懐、多宝証明の本意、分身(ふんじん)舌相(ぜっそう)の本意、本化(ほんげ)()(しゅつ)の本意、天台未弘(みぐ)の大法、蓮祖弘通の骨目(こつもく)、末法の我等が現当二世を成就(じょうじゅ)する秘法の中の大秘法なり。

問う、釈尊出世の本懐は、(ただ)法華経を説いて在世の衆生を脱せしめんが為なりや。

答う、一往は然りと雖も実に本意を尋ぬれば、(ただ)是れ末法今時の我等衆生に本門の本尊を受持せしめんが為なり。故に経に云く「()()き良薬を、今(とど)めて(ここ)()く」と。又云く「悪世末法の時」「(のち)の五百歳中広宣流布」等云云。宗祖、此等の経意に(じゅん)じ、判じて云く「法華経を諸仏出世の一大事と説かせ給いて候は()の三大秘法を含めたる経にて渡らせ給えばなり」等と云云。  

問う、多宝の証明、分身の舌相も(また)在世の衆生の為なりや。

答う、一往は(しか)りと雖も、実に本意を尋ぬれば、末法今時の衆生に本門の本尊を信受せしめんが為なり。何となれば、在世の衆生は久遠()(らい)調(じょう)()調(じょう)(よう)(ともがら)なり。故に一人に於ても無智の者(これ)無し。(しばら)(しゃ)()(ほつ)・目連等の如きは、現在を以て之を論ずれば智慧第一・神通(じんつう)第一の大聖なり。過去を以て之を論ずれば、(こん)(りゅう)()(せい)(りゅう)()仏なり。未来を以て之を論ずれば、()(こう)如来、光明如来等なり。霊山(りょうぜん)を以て之を論ずれば、三惑頓尽(とんじん)の大菩薩、本を以て之を論ずれば、内秘(ないひ)()(げん)の古菩薩なり。文殊(もんじゅ)()(ろく)等の大菩薩は過去の古仏の現在の応生(おうしょう)なり。梵釈・日月・四天等は、初成()(ぜん)の大聖なり。故に仏の在世には一人に於ても無智の者之無し。誰人の(うたがい)を晴らさんが為に多宝仏の証明を借り、諸仏(した)(いだ)し給わんや。随って経文には「況滅(きょうめつ)度後(どご)」「令法(りょうぼう)()(じゅう)」等云云。此等の経文を以て之を案ずるに、(ひとえ)に末法今時の我等衆生に本門の本尊を信ぜしめんが為なり。 

故に宗祖云く「実には釈迦・多宝・十方の諸仏・寿量品の肝要(かんよう)たる南無妙法蓮華経の五字を信ぜしめんが為なりと出し給う(こう)長舌(ちょうぜつ)なり」等云云。「寿量品の肝要たる南無妙法蓮華経」とは、即ち是れ文底秘沈の三大秘法の随一(ずいいち)、本門の本尊の御事なり。故に「肝要」と云うなり。(まさ)に知るべし、肝要とは即ち是れ文底、文底とは即ち是れ肝要なり。本化涌出の本意も()くの如し。
 故に撰時抄に云く「寿量品の南無妙法蓮華経の末法に流布(るふ)せんずるゆへに、此の菩薩を召し出されたる」等云云。

  然れば則ち此の妙法の曼荼羅は、釈迦・多宝・分身・地涌の御本懐、正像未弘(みぐ)の大法、末法流布の大白法、我等衆生の現当二世を成就(じょうじゅ)する秘法の中の大秘法なり。誰か之を信ぜざるべけんや。


                  つづく

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by johsei1129 | 2016-05-17 22:18 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
2016年 05月 16日

 如説修行抄筆記 終  本門の本尊を念じ、本門の本尊に向い、口に南無妙法蓮華経と唱うる時は、身口意の三業に折伏を行ずる者なり、身口意の三業に法華を信ずる人なり云云。 


一 (こえ)も惜まず

宝塔品の「大音声(おんじょう)を以って(あまね)く四衆に告げたまわく」の経文に合すべし。

一 天台(てんだい)大師。

摂受(しょうじゅ)の時、折伏有り。折伏の時、摂受有るなり。書三・四十九に云云。

一 ()(おう)の大難

(しゅ)(だつ)相対なり。天台・伝教等は種熟の異なり。本迹・事理の不同なり。

二十八巻に云く「天台・伝教等の御時(おんとき)には理なり、今は()なり、観念すでに勝る故に大難又色まさる、彼は迹門(しゃくもん)の一念三千・此れは本門の一念三千なり」文。

一 (あわれ)なるかな等

此の下は(けっ)(かん)なり。第三巻終、合せ見るべし。

一 (いち)()を過ぐる事

此の下は(かい)(かん)なり。初めは誡門、「(たと)(くび)をば」の下は勧門なり。「ゆめゆめ退する心なかれ恐るる心なかれ」とは勧持品の「(まさ)忍辱(にんにく)(よろい)()るべし」及び涌出品の「精進(しょうじん)の鎧を()」の文の意なり。啓運抄三十九・十に云く「瞋恚(しんに)剣をば忍辱の鎧(これ)を防ぐ。()(だい)剣をば精進の剣(これ)を防ぐ」文。

今の御文言の意、当に精進の鎧を()るべし。退する心無く、忍辱の鎧を著れば、恐るる心無ければなり云云。 

一 南無妙法蓮華経。

御書五・二十八、九に云く「南無妙法蓮華経乃至日蓮の御房」。「南無日蓮聖人」等文。人法一()の御本尊の事なり。今の文に「南無妙法蓮華経」は法、「釈迦・多宝」は人なり。「霊山」と云うは娑婆(しゃば)(そく)寂光(じゃっこう)なり。

祖師(そし)御約束の事。

録外五・七に云く「相かまへて相かまへて自他の生死(しょうじ)()らねども御臨終のきざみ中間(ちゅうげん)に日蓮かならず・むか()いにまいり候べし」文。

「手をとり肩に引()けて」等文。此れ法師品の「即ち如来の肩に()(たん)せらるることを()ん」の文の意なり云云。

一 二聖・二天・(じゅう)()刹女(せつにょ)

陀羅尼(だらに)品の(たい)()なり。経に云く「焼香、(ばん)(がい)」文。

一 此の書御身(おんみ)を離さず常に()(らん)有る可く候。

啓蒙・(ごん)抄の意は、(たと)い常に此の書を(くび)にかけ懐中(かいちゅう)したりとも、此の書の(こころ)を忘れて折伏修行せざれば「離さず」に非ずと云云。

私に云く、常に心に折伏を忘れて四()の名言を思わずんば、心が謗法(ほうぼう)なるなり。口に折伏を言わずんば、口が謗法に同ずるなり。手に数珠(じゅず)を持ちて本尊に向わずんば、身が謗法に同ずるなり。

故に法華本門の本尊を念じ、本門寿量の本尊に向い、口に法華本門寿量文底(もんてい)下種・()の一念三千の南無妙法蓮華経と唱うる時は、(しん)()()三業(さんごう)に折伏を行ずる者なり。是れ(すなわ)ち身口意の三業に法華を信ずる人なり云云。
  

見聞(けんもん)(おわ)んぬ。                     

            ()(ざん)二十六世()(ほう) (だい)()日寛 在判




本書目次                       日寛上人 文段目次



by johsei1129 | 2016-05-16 21:40 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)