人気ブログランキング |

日蓮大聖人『御書』解説

nichirengs.exblog.jp
ブログトップ

カテゴリ:日寛上人 御書文段( 480 )


2016年 06月 06日

妙法曼荼羅供養見聞筆記 三 大御本尊の守護を説き明かす


一 冥途(めいど)にはとも()しびととなり

  経文に「(やみ)(ともしび)を得たるが如し」文。また云く「(かがりび)の闇を除くが如し」文。

  御書に云く「生死の長夜を照す大燈(だいとう)元品(がんぽん)の無明を切る利剣」等文。  

一 死出(しで)の山にては(りょう)()となり

  日遠の御義に云く「仏説には非ず、されども歌道などには云い(きた)れる」と云云。(ろく)()十九に云く「息もつかず絶え入るなり、さらば其のまま消えもせで、(おも)がはりせず、やがて()けり。之に依って此の山を死出の山とは云うなり」(新定五四)文。地獄に四門有り、一々の門に四増有り。其の中の第三の()刃増(じんぞう)の事か、珠林(じゅりん)十一巻六、往いて見よ。

  「良馬」とは、林四十二巻初の妖怪篇に仏本(ぶっぽん)行集(ぎょうじゅっ)(きょう)を引いて「仏、昔、(けい)()()(おう)の為に、()(せつ)国より五百の商人を()いて大海の彼の岸を渡り、(えん)()(だい)(いた)ことを得たまえり」云云。(つぶさ)には往いて見よ。  

一 天には日月の(ごと)し。

  経に云く「又、(にっ)(てん)()の、能く諸の(やみ)を除くが如く、此の経も(また)(また)(かく)の如し、能く一切の()(ぜん)の闇を破す」文。又云く「又、(しゅう)(せい)の中に、(がっ)(てん)()最も()れ第一なるが如く、此の法華経も亦復是くの如し」文。是れは法に約する文なり。

神力品に云く「日月の光明の能く諸の幽冥(ゆうみょう)を除くが如く、()の人世間に行じて能く衆生の闇を滅す」文。此れは人に約する文なり。

録外二・四十三に云く「法華経は日月と蓮華となり故に妙法蓮華経と名く、日蓮又日月と蓮華との如くなり、信心の水すまば利生の月・必ず応を垂れ守護し給うべし」文。

御書三十三・十一ウの月の(たとえ)の下に云云。同十三。第四、日の(たとえ)下に云云。 

一 須弥山(しゅみせん)の如し

  経に云く「衆山の中に須弥山()れ第一なり。此の法華経も亦復是くの如し」云云文。

  御書三十三・十一に云く「第二に山に譬う(じっ)宝山(ぽうせん)等とは、山の中には須弥山第一なり乃至諸経の往生成仏等の色は、法華経に()えば必ず其の色を失えるなり」文。

一 (しょう)()(かい)の船なり

経に云く「(わた)りに船を得たるが如く」文。

御書三十三・十四ヲに云く「如渡得船と、此の譬の意は生死の大海に乃至(しん)(たん)国に至る(さわり)無きなり」(取意)文。

御書十四・十六、録外二・四十五  

一 成仏得道の導師(どうし)文。

  神力品に云く「諸仏此に於て(さん)菩提(ぼだい)」文。涅槃経に云く「諸仏の師とする所は所謂(いわゆる)法なり」文。普賢経に云く「仏の三種の身は方等より生ず」文。  


                    つづく

御書文段 目次



by johsei1129 | 2016-06-06 22:14 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
2016年 06月 05日

 妙法曼荼羅供養見聞筆記 二 十界の聖衆、本尊と云わるる事は妙法の功徳に依るなり。御書に云く「妙法五字の光明にてらされて本有(ほんぬ)の尊形(そんぎょう)となる是を本尊とは申すなり」


一 当抄は佐渡已後(いご)の御書なり。文の中に真言・天台を(えら)ぶ故なり。

一 入文に三を分つ。初めに標、次に「()()妙法(曼荼羅)」の下は釈、三に「されば此の良薬を持たん女人」の下は結勧なり。  

一 「()()妙法(曼荼羅)」の

釈に亦二。初めに本尊の体徳を示し、次に「此の大(まん)()()」の下は流布(るふ)()(こく)を明かす。

初めの文に亦二。初めに本尊の(たい)を示し、次に「三世」の下は徳用を示すなり。本尊の体は五字七字の妙法なれども、其の()用は「三世の諸仏の御師」「一切の女人の成仏の印文」等となり。

問う、妙法蓮華経の五字、何ぞ本尊の(たい)云うや。

答う、十界所図(しょず)の本尊なれば、十界の聖衆、本尊と云わるることは妙法の功徳によるなり。

故に御書外の二十三・十三ウに云く「妙法五字の光明にてらされて(ほん)()尊形(そんぎょう)となる是を本尊とは申すなり」と文。

(しか)れば十界の聖衆、本尊と云わるる事は妙法の功徳に()るなり。此の時は、妙法は十界を離れず、十界は妙法を離れざるなり。故に妙法蓮華経の五字は本尊の正体(しょうたい)なり。此の本尊に人法(にんぽう)あり。法に約すれば妙法蓮華経なり。人に約すれば(ほん)()無作(むさ)(さん)(じん)なり。無作の三身とは日蓮大聖人是れなり。

御書外の二十二・十五ヲに云く「日蓮がた()しひをすみ()()なが()して・かきて候ぞ信じさせ給へ、仏の()(こころ)は法華経なり日蓮が・たましひは南無妙法蓮華経に・()ぎたるはなし」文。

是れ人法体一なり。

御義口伝下初に云く「されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり無作の三身の宝号(ほうごう)を南無妙法蓮華経と云うなり。寿量品の()の三大事とは是なり」文。

「是」とは(また)人法一体なり。一体なりと雖も(しか)も人法宛然(おんねん)なり。下も去ってこの意なり云云。  

一 (さん)()の諸仏の御師

涅槃経に云く「諸仏の師とする所は所謂(いわゆる)法なり」文。薬王品下、本疏三十一、末疏六十七に云云。御書二十七終、三十八(こん)珠女(じゅにょ)の事、()いて見よ。  

一 一切(いっさい)の女人の成仏の印文なり

「印文」とは、諸仏の実相の一印なり。経に云く「実相を説くを印と()す」文。

御書十四・三十七に云く「三世の諸仏の総勘(そうかん)(もん)にして御判(たし)かに(おし)たる正本の文書なり仏の御判とは実相の一印なり印とは判の()(みょう)なり」文。

「実相」とは法華経の(ごく)()なり。法華経の極理とは南無妙法蓮華経なり。

御書十六巻に云く「法華経の極理・南無妙法蓮華経」と文。(これ)を思え。

問う、十界(かい)(じょう)の妙法なり。何ぞ別して「女人の成仏」と云うや。

答う、所以(ゆえん)あり。

一には、今は女人の方へ(つかわ)さるる御書なるが故に、所対に随って別して女人と云う。

二には(なん)を以て()(きょう)する義なり。(いわ)く、()(ぜん)経にも一往男子の成仏は許すこと之有り。女人の成仏は一向に之を許さず。(しか)るに今経は、成仏し難き女人(なお)成仏す(いわん)や成仏し易き男子をやと云う意なり云云。

三には、一切衆生を(ことごと)く女人と名づくる義なり。是れ涅槃(ねはん)(ぎょう)の、仏性を見るを以て男子と為し、仏性を見ざるを女人と為すの意なり。(標旨、下の四十に引く)(しか)れば一切衆生に仏性を見ざる辺を以て女人と名づくと雖も、此の経を信ずるに()って成仏得道する者なり。の「此の女人()たせ給へば」等の文も亦是くの如く(こころ)()べきなり。


                         つづく

御書文段 目次



by johsei1129 | 2016-06-05 15:16 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
2016年 06月 04日

 妙法曼荼羅供養見聞筆記 一 妙法蓮華経の本尊に三箇の大法を具足す。一に三を具する証は板御本尊是れなり云云。




 妙法曼荼羅抄供養見聞筆記



一 当抄の大意は、信心の女人の方より本門三()の中の本門の本尊を供養あるに付いて、その御返事に(つかわ)さるるなり。故に入文に「妙法蓮華経の御本尊()(よう)候いぬ」等云云。

一 題号とは、初めに文相を(つまび)らかにし、次に義を釈す。初めに文相を詳らかにすとは、

問う、妙法即(まん)()()、曼陀羅即妙法なり。何ぞ(はん)(じゅう)に「妙法曼陀羅」と題するや。

答う、総じては他宗の曼陀羅を(えら)び、別しては真言の曼陀羅(かん)()。此の故に「妙法曼陀羅」と題するなり。故に入文に「此の(まん)()()は文字は五字七字乃至成仏得道の導師なり」文。是れ則ち他宗の曼陀羅には此の功徳無し。故に下の文に云く「大日如来の()(けん)の印並びに大日の真言・阿弥陀(あみだ)如来の四十八願乃至(やまい)・消滅せざる上・いよいよ倍増すべし」と文。是れ簡異の言なり。之を思え。  

次に義を釈すとは、

問う、本尊と云わずして何ぞ曼陀羅と云うや。

  答う、所以(ゆえん)有り。謂く、曼陀羅の翻名(ほんみょう)に三義有り。即ち本門三箇の秘法を成ず。此の義を顕す故に、別して「妙法曼陀羅」と題するなり。

  問う、その相貌(そうみょう)如何。

  答う、曼陀羅の名義は大日経の第一、具縁真言品に()でたり。  

  一には輪円具足と(ほん)ずるなり。義釈四に云く「輪円輻湊(ふくそう)して大日の心王を(よく)()し、一切衆生をして普門より進趣せしむ、()の故に説いて曼陀羅とするなり」。

  演蜜抄五・二十四に云く「輪円輻湊(ふくそう)と言うは(たとえ)を以て法に顕す。輪は即ち車輪、円は(いわ)く円満、(こしき)()(おおわ)等の(そう)円備する故に。輻湊とは帰会なり。謂く、衆輻は轂に帰会するなり」。

  私に云く、(ふく)はくるまの()、轂はくるまのこし(・・)()(ぼう)はくるまのおおわ(・・・)なり。此等の具足したるを輪円具足と云うなり。是れ則ち当流の本門の本尊なり。本門の本尊とは、十界の聖衆、中央の妙法蓮華経に帰入するなり。十界の聖衆は衆輻(しゅうふく)の如く、中央の五字は(こしき)の如くなり。十界、一界も()れず、皆(ことごと)く妙法蓮華経に帰す、故に即身成仏なり。妙法を離れて十界無く、十界を離れて妙法無し。十界()()・百界千如・一念三千の本尊なり。故に輪円具足の本尊と云うなり。

御書録外二十三に云く「日蓮いかなる不思議にてや候らん竜樹天親等乃至伝教大師云く『一念三千即()受用(じゅゆう)(しん)・自受用身とは(しゅっ)尊形(そんぎょう)の仏」已上。  

  二には道場と翻ずるなり。演密抄四・二十四に云く「曼陀羅とは、(ここ)には道場と云う。是れ弟子の発心得道に(あずか)る処、之を道場と()う」文。此の妙法の曼陀羅は三世の諸仏の発心(ほっしん)得道の所なり。故に経文には「諸仏(ここ)に於て三菩提を得」文。亦云く「当に知るべし、是の処は即ち是れ道場」文。(しょ)に云く「道場は(かみ)の甚深の()を釈す」文。経に云く「如来の一切の甚深の事」。疏に云く「一切甚深とは、因果は是れ(じん)()なり。此れは妙宗を結す」文。

  私に云く、発心は因なり、得道は果なり。因果は即ち発心得道なり。故に道場という事、此の経釈に分明(ふんみょう)なり。

  当御書に云く「三世の諸仏の(おん)()」(私に云く、発心の師なり)「成仏得道の導師なり」(私に云く、果の師なり)此の文の相は因果の師に配すべし。是れ道場の義に親近(しんごん)なり。是れ則ち本門の戒壇なり。防非止悪を以て戒壇とする故なり。

  此の本尊は、既に三世の諸仏の発心得道の場処なる故に道場と云う。場とは、即ち戒壇の義なり。()(かん)二・十五六に云く「道場は即ち清浄の境界なり。五住の(ぬか)を治して実相の米を顕す。(また)是れ定慧を(もっ)て法身を荘厳するなり」。()(ぎょう)の二本五十五に云く「場は是れ(しょ)()なり、故に浄境を表わす。世に以て殻を治め、及以(および)祭る所を(とも)に名づけて場と()う」。(せつ)(もん)に云く「(たがや)さざるを場と曰う。詩に曰く、九月、場を(きず)以て殻を治すと。今、浄境に依って五住を治す、故に道場と云う」文。

  私に云く、煩悩・(ごう)・苦の三道即ち法身・般若(はんにゃ)解脱(げだつ)の三徳と顕るるが故に、此の本尊即ち道場なり。道場は即ち戒壇なり。  

  三には功徳(くどく)(じゅ)と翻ずるなり。義釈四十に云く「()れ曼陀羅とは、名づけて聚集(じゅしゅう)と為す。今、如来の真実の功徳を以て、集めて一所に()く」文。演密抄に云く「夫れ曼陀羅等とは、曼陀羅は是れ諸仏如来の真実の功徳を蘊集(うんじゅう)積集(しゃくじゅう)るの所なり。故に以て名を為す」文。是れ当流の題目なり。此の本門の題目には、十方三世の諸仏の因果の功徳を()(そく)するなり。故に功徳聚と云うなり。経に云く「具足の道を聞かんと欲す」文。無量義経に云く「未だ六波羅(はら)(みつ)を修行することを得ずと雖も、六波羅蜜()(ねん)に在前す」文。

  本尊抄に云く「文の心は釈尊の因行(いんぎょう)果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば()(ねん)に彼の因果の功徳を譲り与え給う、四大声聞の(りょう)()に云く『()(じょう)宝聚(ほうじゅ)不求(ふぐ)()(とく)』」と云云。故に本門の題目は三世の諸仏の功徳聚なり。此の妙法蓮華経の本尊に此の三()の大法を具足す。此の義を顕さんと欲して「曼陀羅」と題したもうなり。一に三を()する証は御本尊是れなり云云。


                 つづく
御書文段 目次



by johsei1129 | 2016-06-04 18:36 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
2016年 06月 04日

 法華取要抄私記 八 八品は是れ能詮能釈なり。題目は所詮所釈なり。題目を以て下種とする事、本迹倶(とも)に顕然なり。


  問うて云く、次の文に「滅後を以て」等と釈するは如何。

答う、時に約すれば聞分に()って之を弁ず。像法を正機と為し、()(ぜん)と迹門と本門と三教を以て正像末の三時に配当するは是れなり。()し機に依って談ずれば少分なり。()(だつ)(とう)(だつ)相対して之を論ずれば、末法を以て正と為す。其の故は、大段は是れ末法は一向に(ほん)未有(みう)(ぜん)の機なれども、(なお)(ほん)()有善の余類あり。少分たりと雖も、彼の正像已脱の者に対して、末法当脱の機を以て(しょう)するなり。()って末法を以て正と為す云云。

問うて云く、迹門すら(なお)末法を以て正機と為す。何ぞ迹門無得道とわんや。一抄に云く「一向に本門の時なればとて迹門を捨つべきにあらず」文。「捨つべし」と云う経文(これ)無し。

  答えて云く、二意有り。

一には御本意に約して一向に本門寿量品に(かぎ)るなり。

二には(ぼう)()に約して迹門を読むなり。諸御書に此の両筋あり。一概に之を論ずべからず。御書に云く「今の時は(しょう)には本門・(ぼう)には迹門なり」已上。是れ則ち末法は大判に約すれば一向に本門下種の機なれども在世下種あり。此の衆生の為に傍に之を用う。(しか)りと雖も御本意の()(つう)は一向に下種の要法なり。

問うて云く、本門を正と為すの(こころ)は如何。

答う、一には()(こく)相応の故に。二には付嘱の故に。三には機感相応の故なり。

  問う、本迹の弘通に傍正有りと雖も、既に二門(とも)に用ゆ。(あに)是れ一致に非ずや。

  答う、既に傍正を判じたまえり。勝劣あること顕然(けんねん)なり。何ぞ一致と云わんや。其の上、迹門()得道(とくどう)云えるは、在世下種の余類、末法を脱と為すの一機の為なり。全く本門下種の機には非ざるなり。(しか)れば脱の為には有得道なれども、下種の為には無得道なること分明(ふんみょう)なり。是れを以て正には本門を()(つう)し、傍には迹門を弘通する者なり。

  問うて云く、若し傍に迹門を弘むるならば、太田抄に云く「既に末法に入つて在世の結縁の者は漸漸(ぜんぜん)(すいび)して、権実の二機(ことごと)く尽きぬ」云云。如何(いかん)が之を()(つう)せんや。

答う、此等の御文体は(うば)って之を判じたもうが故なり。

問うて云わく、八品を是れ下種とする姿は如何(いかん)

答えて云く、八品の題目を下種と為すは、既に此の題目を八品に説きたもう間、八品は是能詮(のうせん)能釈(のうしゃく)なり。題目は所詮(しょせん)所釈なり。()って一句一偈八品を聞いて以て題目を信ず、(しか)れば則ち正宗八品たりといえども、文々句々を以て下種とするには非ざるなり。題目を以て下種とする(こと)、本迹(とも)に顕然なり。


               つづく


本書目次                         日寛上人 文段目次



by johsei1129 | 2016-06-04 16:28 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
2016年 06月 03日

 法華取要抄私記 七 妙楽大師云く「脱は現に在りと雖も具に本種を騰ぐ」又云く「故に知んぬ今日の逗会は昔成熟の機に赴く」等云云


 問うて云く、此の(たぐい)は但八品(はっぽん)を聞いて下種と()るのみ。(なお)八品得道の者とは云うべからざる者か。其の故は、八品を聞いて即時得道せる者を八品得道とは云うべけれ、如何(いかん)

答えて云く、既に八品を聞いて仏果の種子を(くだ)し、後に熟脱するも、其の功は八品にある故に、其の本に()って八品得道の者とするなり。例せば、在世の前四味に於て得脱する者も、(なお)八品得道と云うが如し。之を思い案ずべし云云。

問うて云く、此くの如き二類、(とも)に八品得道と云わるる証文は如何。

答えて云く、太田抄に其の証文を(いだ)す。云く「涌出品に云く『是の諸の衆生は、世世より已来(このかた)常に我が()を受く乃至此の(もろもろ)の衆生は、始め我が身を見我が所説を聞いて、即ち皆信受して如来の()に入りにき』等云云、天台釈して云く『衆生(しゅじょう)()(おん)』等云云、妙楽大師の云く『(だつ)は現に在りと雖も(つぶさ)に本種を()ぐ』又云く『故に知んぬ今日(こんにち)(とう)()は昔成熟の機に(おもむ)く』等云云、経釈顕然(けんねん)の上は私の料簡(りょうけん)()たず」已上。  

此の引文は三五下種の得脱の証文とせり。然れば則ち本門は(しばら)之を置く。迹門の大通下種の類は今日得脱する者も「(すい)脱在(だつざい)(げん)()騰本(とうほん)(しゅ)」とて、本種に従って之を弁ず。依って両類(とも)に八品得道と云わるる証文顕然なり。(しか)るに(ごん)抄・啓運等の一致の(やから)は、此の義を(わきま)えざる間、直ちに文面に向って而して案ずれども、(つい)其の旨を得ざるなり。「種熟脱を論ぜず(かえ)って()(だん)に同じ」とは是れなり此の故に始終を案じて文面に向うべし。若し(しか)らずんば、文に向って塵劫を()れども、其の意を得べからざるか云云。

問う、(かみ)(くだん)の両義を以て、今の文に引き向けて傍正を判ずる様は如何。

答う、「上より下に向かって」より下は、大通下種・今日()(だつ)の者に約して判ず。次に「安楽行より」の下は在世下種・滅後為脱の(たぐい)に約して之を判じたもう者なり。

  問うて云く、第一の判の意は如何。

  答えて云く、(ひろ)く二義あり。若し得道の次第(しだい)に約せば、第一は菩薩、第二は二乗、第三は凡夫なり。今の文に「上より下に向かって次第に之を読めば」とは是れなり。若し仏の本意に()いて之を論ぜば、二乗を以て正と為し、菩薩・凡夫を以て傍とするなり。本尊抄に云く「迹門十四品の正宗の八品は一往(いちおう)之を見るに二乗を以て正と為し菩薩凡夫を以て傍と為す」と文。此くの如く傍正ありといえども、大通下種・今日為脱の(たぐい)にして「雖脱在現、具騰本種」の者なり。

  問うて云く、第二の判の意は如何。

  答えて云く、法師品已下は是れ()(つう)段なり。流通に二有り。例せば在世の四信、滅後の()(ぽん)の如し云云。一には在世の流通、二には滅後の流通なり。像法に入って天台の()(つう)是れなり。然れば則ち是れ()し順次に之を論ずる時は、在世の凡夫を以て正と為し、滅後の衆生を以て傍と()宛然(おんねん)なり。若し逆次に之を論ぜば、滅後の凡夫を以て正と為し、在世の衆生を以て傍とするなり。()って今文に判じたもうは此の一意なり。されば「之を論ずれば」とは、文・義・意の中には義を論ずる事なり。世間の人は、安楽(あんらく)(ぎょう)品より正宗の方へ逆次に文を読めば、滅後を以て正と為すと意を得たり。其の事は(はなは)だ誤り、大いなる邪見なり。


                 つづく
本書目次                             日寛上人 文段目次



by johsei1129 | 2016-06-03 22:03 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
2016年 06月 02日

法華取要抄私記 六 迹門・今日(こんにち)得脱の始中終を説く


一 問答に二。初めに問、次に答。答の中に又二。初めに「二意」を(ひょう)()し、二に「上より」の下は正しく傍正を判ず、又二。初めに一往の判、二に「安楽行より」の下は再往(さいおう)の判、此れに三。初めに在滅相対して判じ、二に「滅後を以て」の下は三時相対、三に「末法」の下は末法の一時に(おい)て判ずるなり。法華題目抄ヲ云云。

 問うて云く、八品に二意ある姿は如何(いかん)

  答えて云く、此の二意を弁ぜんと欲せば(すべから)く種熟脱の三義、始中終を(こころ)()べきか。所謂(いわゆる)迹門の意は、過去大通の時に種子を(くだ)し、今日種子を顕して発願を遂ぐるなり。是れ則ち其の一意なり。今日(こんにち)始めて八品を聞きし今日の人天等、(あるい)は一句一偈を聞いて下種と為し、或は熟し、或は脱し乃至正像末に来至(らいし)して法華に入るなり。是れ則ち其の二意なり。此の二意を標示して「八品に二意有り」と遊ばさるるなり。

  問うて云く、既に「八品に二意有り」と云って、次に順逆の二意を以て釈したもう。(しか)る間、(ごん)抄等には八品の当時に二意を作るなり。啓蒙には、正宗と流通と相望(そうもう)て順逆の二意を作りて釈したまえり。

答う、彼等の宗義は文に執して義に背く。故に(つい)其の義を成じ難き者か。所詮、今の文には(ただ)二意ありと標示するのみにして、(いま)其の義の相を明かさざるなり。而も二義の意を以て傍正を判じたまうに(よっ)て「八品に二意有り」と判じたまえり。然れば則ち其の二義の姿を弁ずる時は、(さき)如く三(やく)の始終を以て弁明すべき事顕然(けんねん)なり。 

  問うて云く、若し(しか)らば其の証文(これ)ありや。

答えて云く、之有るべし。本尊抄に迹門の三段を判じたもう中に云く「過去の結縁(けちえん)を尋ぬれば大通十六の(とき)仏果の種子を下し、進んでは華厳経等の(ぜん)四味(しみ)を以て助縁と為して大通の種子を覚知せしむ二乗凡夫等は前四味を以て縁と為して漸漸(ぜんぜん)に法華に来至(らいし)して八品を聞いて開顕を()ぐ」(趣意)已上。是れ初めの一意なり。

  問うて云く「法華に来至して八品を聞いて種を顕す」とは、是れ八品得道なること分明(ふんみょう)なり。前四味に於て得道する者は如何(いかん)是れも八品得道の者と云うきや。

  答えて云く、太田抄に之を()して云く「彼等の衆は時を以て之を論ずれば其の経の得道に似たれども実を以て之を(かんが)うるに三五下種の(ともがら)なり」已上。此の御書の意は「三」とは謂く、迹門の大通の時の下種なり。「五」とは本門久遠五百塵点劫の下種なり。本門は(しばら)之を置く。迹門の大通下種とは、今日四味を以て助縁為して大通の種子を顕す故に、(まこと)には是れ彼の経の得分に非ざるなり。是れ則ち実には八品得道の事なり。其の故は大通覆講(ふっこう)の時、正宗八品を聞いて下種と為して今日得脱(とくだつ)すれば、是れ八品得道と云う者なり。例せば今始めて八品を聞く者、仏果の種子を(くだ)して後、在世・滅後の時に来至して塾脱する(ともがら)を、(なお)是れ八品得道とするが如し云云。

  問うて云く、其の第二の義に証文(これ)有りや。

  答えて云く、其の文分明(ふんみょう)なり。本尊抄に云く「又在世に於て始めて八品を聞く人天等或は一句一偈等を聞て下種とし或は熟し或は脱し或は()(げん)()(はん)等に至り或は正像末等に小権等を以て乃至例せば在世の前四味の者の如し」文。此の文に顕然(けんねん)なり。


                      つづく


本書目次                            日寛上人 文段目次



by johsei1129 | 2016-06-02 21:18 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
2016年 06月 01日

法華取要抄私記 五 末法の初めに法華経の要法を流布せしむるの由来を弁ず


一 「又果位を以て」の下

 五あり。初めに諸仏と釈尊との遠近(おんごん)(ただ)す。

 二に「大日如来」の下は諸仏が釈尊の所従なることを明かす。

 三に「此の土」の下は有縁・無縁を判ず。

 四に「而るに()る人師」の下は他破。

 五に「寿量品」の下は引文なり。

 第二の文に二。初めに十方(じっぽう)の諸仏が釈尊の所従なることを明かし、二に「華厳経」の下は別して多宝も所従なることを明かすなり。

 此の文に二。初めに華厳の()(しゃ)()等は多宝の(きょう)()なることを明かし、二に正しく多宝が所従なることを判じたまうなり。

一 我等が本師

久遠本果の(さん)(じん)如来なり。今日の本果には非ざるなり。

一 天月の万水に(うか)ぶ。

  寿量品に云く「(あるい)は他身を説き」等文。「名字不同」の文云云。

一 釈尊の愛子

  寿量品の「(ある)いは本心を失える、或いは失わざる者」なり。

一 盲者(もうしゃ)見えず

  (せん)の三・百九、記の四本二十に云く「此れ盲者の(あやまち)にして日月の(とが)に非ず」文。大論八の「日()ずれども盲人見えず。便(すなわ)ち世間に日月有ること無しと()う。何の咎か有らんや。又雷電地震聾人(ろうじん)は声を聞かざるが如し。声に何の咎有らんや」文。

一 二月十五日

御入滅に縁有る事。涅槃(ねはん)経三十巻に出でたり。性抄(しょうしょう)十一・十七云云。

一 「問うて云く法華経」の

  第三に末法の初めに法華経の要法を流布(るふ)せしむるの由来を弁ずとは、此の文に三あり。

  初めに総じて在世の法華の儀式は滅後の(ため)なることを明かす。

  二に「問うて云く如来」の下は、末法には法華の要を取って()(つう)すべきの由を弁ず。

  三に「疑つて云く」の下は、末法の始めは上行(じょうぎょう)出世して此の法を流布する時なることを明かす。

初めの文に三。

初めに法華の迹は末法の為なることを明かす。

二に本門の正宗(しょうしゅう)は一向に末法の為なることを明かす。

三に「疑つて云く多宝」の下は、多宝の証明(しょうみょう)等は末法の為なることを明かすなり。

初めの迹の中に三、初めの一の問答は正しく(ぼう)(しょう)を判じ、二の問答は証文、三の一問答は()(さん)の意なり。

証文の中に二。初めには末法を以て(しょう)と為すの証文、二には日蓮を以て正と為すの証文なり。

次に本門の中に三。初めに正しく(ぼう)(しょう)を判じ、二には広く二義を釈す、三は(いん)(もん)なり。釈の中に二あり。

第二の文に二。

初めに末法は要法に限ることを明かす。

二には広略(こうりゃく)を捨てて要法を取る。

初めの文に三。

初めの一問答は、天台・伝教等の未弘(みぐ)の秘法を示す。

二の一問答は、天台・伝教の此の法を弘通せざる(よし)釈す。

三の一問答は、正しく末法は(ただ)要法に限ることを明かすなり。

第三の文に三。初めに末法の初めに要法流布(るふ)の先相有ることを明かす、二には二問答は、大中小の難の起る事の因縁(いんねん)なり。

第一の文に二。初めに文を(いだ)し、二には其の相を弁ず。

第二の文に二。初めに文を出し、二に上行(じょうぎょう)出世の時を明かすなり。


                   つづく



本書目次                            日寛上人 文段目次



by johsei1129 | 2016-06-01 21:55 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
2016年 05月 29日

 法華取要抄私記 四 止観に云く「月重山(じゅうざん)に隠るれば扇を挙げて之に喩(たと)う」云云。是れ則ち法華経を信じ、仰いで妙法の三身如来を顕わせと云う事なり。


一 「此等」の

 正しく取捨の意を明かす、三。初めに帰流。二に「末世」の下は退止なり。三に「(しか)りと雖も」の下は取捨を加うる意を示す。第三の文、又二。初めに迷情の本を出し、二に「驚き騒ぎ」の下は(かん)なり。

一 (あるい)は旧訳

法相(ほっそう)宗なり。「或は新訳」等とは華厳宗等なり。或は「執著(しゅうじゃく)して」等とは総じて諸宗に(わた)り、別して真言を指すべし。(ぜん)無畏(むい)等なり

一 驚き騒ぎ等とは。

  一義に云く、此の二句は禅宗を破すと云云。一義に云く、実に()(ごん)・廃権(りゅう)(じつ)の為の意なり等云云。啓蒙に出でたり。両義ともに(しか)るべからざるか云云。

  今(いわ)く、此の二句は(かん)(ぎょう)なり。初めの二句は情、次の二句は智に約し、後の二句は結なり。初めの二句の意は、自宗の立義の非を(おどろ)(うれ)いて、正しき出離の要法を尋ね求むるなり。是れ則ち(ごん)(きょう)の非を捨てて実教の理を取る事なり。次の二句の意は、止観に云く「月重山(じゅうざん)に隠るれば(おうぎ)を挙げて之に(たと)う」云云。此の意なり。是れ則ち法華経を信じ、仰いで妙法の三身如来を(あらわ)せと云う事なり。(しか)るに此の事を知らず、(みだ)りに是非を論ずるは大いに誤れり。  

一 第二の文に総じて()(ぜん)と法華との勝劣を弁ずと云うとは。

  此の文は二と為す。初めに権実の勝劣を弁じ、二に「今法華経」の下は教主の()(えん)・無縁を明かす。初めの文に三。初めに略して正義を示し、二に「諸の論師」の下は相似(そうじ)の文を()し、三に「所詮」の下は正しく勝劣を弁ず。文を会する中に三。初めに諸師の所述を述べ、二に「所謂(いわゆる)」の下は別して相似の文を引き、三に「此等」の下は(まさ)しく文を会するなり。此れに又二。初めに略して示し、次に「諸経は(あるい)は」の下は釈云云。

一 文を会するに三義あり。総じて爾前経の、法華の()(こん)(とう)に相似の文を会するなり。啓蒙に、初めの二義は(こん)光明(こうみょう)(きょう)を会し、後の一義は華厳の文を会す、余は例知せしむと云うは、文に便(びん)ならざる者なり。

一 諸経は或は等文

  一義に云く「対揚(たいよう)」とは説法に約し、「対向」は人と約するなりと。一義に云く、二(とも)に人と約す。則ち対告(たいごう)の義なりと。啓蒙の意なり。

  私に云く、此の所の釈は、次上の「所対を見て経経の勝劣を(わきま)うべきなり」と云う事を(つぶさ)に釈したもう。然るに小乗の如きは二乗凡夫に対して之を説き、権大乗の如きは菩薩に対して之を()ぶ。法華経の如きは涌出の菩薩に対して之を説き給うなり。(よっ)て其の所対を見て権実の勝劣を弁ずべきなり。

一 教主の有縁・無縁を明かす中に四。

初めに双標。二に「(ぼん)(のう)」の下は権果に約して判じ、三に「又諸仏」の下は迹因(しゃくいん)に約して判じ、四に「又果位を以て」の下は(もん)()に約して判ずるなり。

一 二十種。

記の六の本に出でたり。

一 梵王(ぼんのう)云く

 ()の一に云く「大覚世尊は劫を積み、行を満じて六年に(わた)る。以て見を伏し、一指を挙げて而して魔を(くだ)す」文。()の一上十九に云云。れ権果に約して釈し給うなり。

一 「又諸仏」の下、又三。

初めに正しく有縁・無縁を判じ、二に引文、三に他破なり。「釈尊の因位」とは()(じょう)品を見るべし。(こん)()三界(さんがい)」等の文と云云。


                   つづく


本書目次                             日寛上人 文段目次



by johsei1129 | 2016-05-29 13:46 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
2016年 05月 28日

法華取要抄私記 三  大聖人の法門を自己にまかする人は、沙汰(さた)するに足らざるなり。


一 ()(おもんみ)れば

発句(ほっく)なり。「(がっ)()」とは天竺(てんじく)の総名なり。「西天」とは、天竺に来西南北中央の五国あり。仏は中央に出世して説法したもう。今「西天」と云うは、(かん)()・日本に対して総じて月氏の事を西天と遊ばさるるなり。是れ則ち仏教西天より東国に流布(るふ)する故なり。玄の一に釈して云く「大法東漸(とうぜん)」と云云。

されば漢土には仏滅後一千一十五年に当りて、後漢第二の明帝の永平十年(ひのと)()に始めて渡る。日本には人王(にんのう)三十代欽明天皇の(ぎょ)()、像法の(まつ)四百余年に渡れり。「経論五千巻」は()(やく)なり。「七千巻」は新訳なり。

一 「(その)中」の

二に、取捨の意を加うるに三。初めに諸宗其の義を(ふん)()するを標し、ニに「所謂(いわゆる)」の下は其の相を出し、三に「此等」の下は正しく取捨の意を明かすなり。

一 勝劣(しょうれつ)(せん)(じん)

(ごん)抄に云く「勝劣・浅深・難易・()後の四を教・行・理・位の四に配当して見る可し」云云。啓蒙に云く「或は難易は法体(ほったい)なり。前後は時節なり」と。

私に云く、()の三は真分なり。「先後」は経論の先後なるべし。「経」は五十年説法の次第か。「論」は四依の論師の述作の次第なり。()くの如く法門を自己にまかする人は、沙汰(さた)するに足らざるなり。一宗を立つる人、其の義を紛乱(ふんらん)紕誤(ひご)するなり。悲しむべきなり。

一 之を(わきま)うことは者(乃至)之を知る者

此の両点は啓蒙の点なり。一義に云く、此の両点一義を成ずるなり。其の故は二()の「者」の字を用の字と見る故なりと已上、啓蒙。

(いわ)く、ニ箇の「者」の字は、是れ体の字にして則ち人を指すなり。(よっ)て「之を弁ずる者は」と点ずべきなり。下も(また)是くの如し云云。

一 紛紕(ふんぴ)

「紛」とは雑なり、乱なり、(みょう)なり。此れ則ち其の義を雑乱(ぞうらん)して(あやま)りにする意なり。

一 ()(ごん)宗の云く

祖師は、天竺には()(みょう)菩薩・竜樹(りゅうじゅ)菩薩・(てん)(じん)菩薩なり。漢土には()(じゅん)()(ごん)・法蔵・(ちょう)(かん)なり。是れ(ぼん)の三、()の四の祖師と云うなり。日本には人王四十五代(しょう)()(ぎょ)()なり。

一 法相(ほっそう)宗。

天竺には弥勒(みろく)無著(むじゃく)・世親・提婆(だいば)菩薩の四人なり。唐には戒賢論師・玄奘(げんじょう)三蔵・慈恩大師・()(ほう)法師の四人なり。日本には道昭法師なり。

一 三論宗。

中論・百論・十二門論に大論を加えて四論なり。祖師は竜樹菩薩・清弁(しょうべん)著薩・智光論師・()(じょう)法師なり。日本には観勒(かんろく)僧正(そうじょう)百済(くだら)国より伝来したまえり。

一 真言宗。

三経一論あり。祖師は竜樹菩薩・竜智者薩・金剛智三蔵・(ぜん)無畏(むい)三蔵・不空三蔵恵果(けいか)和尚・弘法大師なり。

一 禅宗。

迦葉(かしょう)菩薩・達磨(だるま)慧可(えか)等なり。

一 浄土宗。

三経一論。祖師は曇鸞(どんらん)道綽(どうしゃく)・善導和尚(わじょう)(ほう)(ねん)上人等なり。

一 ()(しゃ)宗。

四阿含(なら)びに倶舎論を以て所依と為す。祖師は世親菩薩、旧には天親と云うなり。

一 (じょう)(じつ)宗。

成実論を以て(しょ)()と為す。呵利(かり)跋摩(ばつま)三蔵(これ)を立つるなり。

一 律宗。

成実の内、道宣(どうせん)律師是れなり。

(あるい)此の四宗の中の立義不同なり。然れども大旨(たいし)は同じきなり。(よっ)て「華厳宗」と遊ばさるるは同義を示すなり。「或は云く或は云く」と遊ばさるるは、異義を(ひょう)給えり。(しか)るに啓蒙に「種種」と出せるは一意に当らざるなり。

一 (しかる)に「彼れ彼れ」の

  宗々の祖師を(いだ)すなり。上には諸宗の立義を出すなり。


                     つづく


本書目次                           日寛上人 文段目次



by johsei1129 | 2016-05-28 17:33 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
2016年 05月 26日

 法華取要抄私記 一  三大秘法抄に云く「法華経を諸仏出世の一大事と説かせ給いて侯は此の三大秘法を含めたる経にて渡らせ給えばなり、秘す可し秘す可し」



  法華取要抄私記
   日寛之を記す

 


一 此の抄は大いに(わか)つに二あり。初めに題目に二。初めに所抄の題目、二に能抄の人なり。次に本文に三。初めに非を捨てて要を取るの意を明かす。二に「今(すえ)の論師・本の人師の邪義を捨て置いて」の下は()(ぜん)と法華との勝劣を弁ず。三に「問うて云く法華経」の下は、別して末法の初めには法華の要法を流布(るふ)せしむるの由来を明かす云云。  

  啓蒙二十・二に云く「此の抄、大いに分ちて三。初めに教法の権実、教主の()(えん)()(えん)を述す。ニに『間うて云く法華』の下は、此の経の所被(しょひ)は滅後末()を以て正とすることを明かす。三に『問うて()く如来』の下は、正像未弘(みぐ)()法流布の時に当ることを弁ず」云云。  

  私に難じて云く「問うて云く法華」より上には、問答(これ)無し。然れば十七番の問答は此の料簡(りょうけん)なり。故に(もっと)も一段と取るべき事顕然(けんねん)なり。何ぞ(かみ)に対して大段の科目とするや。其の上、初めの「()(おもんみ)れば」より下の「智人なり」に至るまでは、分明(ふんみょう)に法華の要を取るべき意を示したもうと見えたり。何ぞ上を大段の科とせざるや。(なお)()(もう)(さら)に一科を示するのみ。後()之を(あじわ)え。今、其の旨を弁明するなり。  

  問うて云く、汝が取る所の第一の科文は、取捨(しゅしゃ)の意を述ぶと見えたり。何ぞ大段の科と()んや。  

答えて云く、文の面は(ただ)権実を述するの(こころ)を示す様に見えたり。されども其の意は広く下に(かん)するなり。非を捨てて理を教うると見るなり。是れ則ち初めに取捨の意を示し、次に(まさ)しく権実の取捨の後に問答料簡(りょうけん)して、迹門の非を捨て本門下種の要法を取る。是れ則ち此の()中終(ちゅうじゅう)なり。  

  問う、啓蒙第二の料簡は如何(いかん)

  答えて云く、大いに誤れり。されば法華経一部とは、総じて申さば末法に本門の題目を修行すべき(ところ)を説きたまう。故に法華経一部は末法の為なれども、全く広の文を行ぜよと()うには非ざるなり。

 四信五品抄に云く「合せて十六(ぽん)半・此の中に末法に入って法華を修行すべき相貌(そうみょう)分明なり是に(なお)(こと)()かずんば()(げん)経・()(はん)経等を引き(きた)りて之れを糾明(きゅうめい)せんに其の(かく)れ無きか」已上。全く一致と云うには非ざるなり。(ただ)今の抄の意は迹門の正宗(しょうしゅう)・本門の正宗は末法の為と判じ給えり。是れ機に随い時に()る故なり。

されば本尊抄には迹門八品を聞いて下種と為し、(なお)末法に至る機を判じ給えり。(よっ)て在世下種とは、(いま)末法に得脱する者の為ぞと云うことを判じたもう時、末法の為と云えり。されば末法なればとて一向に下種の機(ばか)りには非ず。(しか)れども大判の時は一向に下種の機とするなり。て一返には判じ難し。(しか)るを一判とするは非なり。

さて本門の正宗は一向に末法下種の者の為なり。(よっ)て「一向に滅後の為」と判じたもうは是れなり。さればとて、一(ぽん)二半を修行して下種とせよと云う事には非ず。されば此の一品二半には、別して三大秘法を含めたる経なるに()って「一向に滅後の為」と判じたもう。文底(もんてい)の大事とは是れなり。されば総じて申さば、法華経一部は三大秘法を含蔵(がんぞう)したる経なり。(しゃく)を払って寿量の一品を取る、(ただ)此の一品に限り候。迹門()(みょう)無実の法門とは是れなり。

其の上、寿量一品の中にも文上と文底等(これ)有り云云。三大秘法抄に云く「法華経を諸仏出世の一大事と説かせ給いて侯は此の三大秘法を含めたる経にて(わた)らせ給えばなり、秘す可し秘す可し」已上。


                     つづく
本書目次                          日寛上人 文段目次 



by johsei1129 | 2016-05-26 22:15 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)