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日蓮大聖人『御書』解説

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カテゴリ:日寛上人 御書文段( 480 )


2020年 01月 31日

法華経題目抄 文段二 「泰山を壊(こぼ)つに非ずんば焉(いずく)んぞ紅海を填(うず)めんや」


一 根本大師門人

  「根本大師」とは即ち伝教大師の御事(おんこと)なり。此れ則ち根本中堂(ちゅうどう)建立の大師なるが故なり。

  問う、何ぞ根本中堂と名づくるや。

  答う、法華止観の観心を根本と()る故なり。故に(つぶさ)には「一乗止観院根本中堂」と云うなり。報恩抄上三十六に云く「日本の(はじめ)第一の根本大師」と云云(けだ)し此の意は、日本国の大師の根本なるが故に根本大師と名づくるか。

  問う、彼は迹化(しゃっけ)の菩薩、此れは本化(ほんげ)の菩薩。何ぞ()の門人と号せんや。

  答う、是れ佐渡已前の故に(しばら)外相(げそう)(じゅん)じて(しか)云うなり。実には是れ本化の菩薩、何ぞ彼の門人と云わん。内証仏法血脈抄(けちみゃくしょう)十八・十八に云く「今外相は天台宗に()る、故に天台を高祖と為す。内証(ひと)り法華に依る、故に釈尊・上行直師(じきし)と為すなり」(新定九五六)略抄。

一 日蓮(せん)文。

  御名乗(なのり)の事、別章の如し云云。

一 南無妙法蓮華経

  問う、始めに七字を()く、何の意ありや。

  答う、是れ題目の中の題目、及び入文に(すす)むる所の題目、(とも)に是れ口唱なることを(あらわ)すなり。

  第三に入文判釈(はんじゃく)とは、当抄大いに(わか)ちて二と為す。初めに信心()(しょう)功徳(くどく)を明かし、次に「問うて云く妙法蓮華経の五字」の下は妙法五字の功徳を明かす。初めの文、亦二。初めに正釈、次に「問うて云く題目」の下は引証(いんしょう)。初めの正釈に亦二。初め行浅(ぎょうせん)()(じん)、次に「問うて云く火火」の下は広釈。

一 問うて云く法華経の(こころ)をもしらず等

  是れ無智(ひら)(しん)じの行浅功深を明かす云云。涅槃経三・六十一に云く「若し善男子善女人有って、此の経名を聞いて()(しゅ)に生ずる者は、()(ことわり)有ること無けん」云云。同疏に云く「()くの如く名を聞いて、自ら悪に()せず、(じん)()()たず」云云。御書十・五十七。

  問う、若し(しか)らば我等衆生一期(いちご)一遍(いっぺん)なりと雖も不退の位(いた)るべきや。

  答えて云く、()し過去の謗法無き人は実に所問の如し。(つい)に不退に到るべし。(しか)るに我等衆生は過去の謗法無量なり。此の謗法の罪(めっ)(がた)し。天台云く泰山(たいざん)(こぼ)つに非ずん(いずくん)ぞ江海(うず)めんや」云云。(いわん)や文に(つい)に到るべし」と云う、(これ)を思い見るべし。

  善無畏抄三十九に云く「謗法(ほうぼう)無くして此の経を持つ女人は十方(じっぽう)虚空(こくう)に充満せる乃至(ないし)十悪・五逆なりとも草木の(つゆ)の大風にあえるなる可し(乃至(ただ)滅し難き者は法華経謗法の罪なり乃至(たと)い八万聖教を読み大地微塵(みじん)塔婆(とうば)を立て大小乗の戒行(つく)し十方世界の衆生を一子の如くに為すとも法華経謗法の罪()ゆべからず、我等・過去・現在・未来の三世の間に仏に成らずして六道の苦を受くる(ひとえ)法華経誹謗(ひぼう)の罪なるべし」云云。故に信力(ごう)(じょう)に妙行を励むべきなり。


                    つづく

法華経題目抄 文段二 「泰山を壊(こぼ)つに非ずんば焉(いずく)んぞ紅海を填(うず)めんや」_f0301354_20300485.jpg
   泰山の南天門。中国山東省。


目次



by johsei1129 | 2020-01-31 06:59 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
2020年 01月 28日

撰時抄愚記 上五 時鳥(ほととぎす)は「本尊掛けたか」と鳴く


一 
()(ほと)(とぎす)は春ををくり等

此の下は第三、「况や」は(けつ)なり云云。

「時鳥」は時を知る鳥なり。此の鳥の異名多し。(あるい)子規(しき)、或は杜鵑(とけん)、或は杜宇(とう)、或は(しょっ)(こん)、或は蜀魄(しょくはく)等なり。中に於て今、(ほと)(とぎす)の字を用うるは少しく(こころ)るか。

朗詠(ろうえい)並びに(したごう)和名(わみょう)に時鳥を以て郭公(かっこう)と為す。並びに()に非ず。郭公は()()なり。本草(ほんぞう)綱目(こうもく)()()等の意(しか)なり云云。(こっ)(きょう)一に(これ)を弁ずるが(ごと)し云云。又時鳥と書く事は耕作(こうさく)の時を知って教ゆる故に、別して時鳥と云うなり。

問う、この鳥は春()くとせんや。夏鳴くとせんや。

答う、国に()って同じからず。若し漢土(かんど)に於ては多くは春鳴くと見えたり。文選(もんぜん)二十八・二十三の註に云く「時鳥は春鳴く鳥なり」と云云。()(ぶん)後集(ごしゅう)四十四・六には「春至れば(すなわ)ち鳴く」と云云。又春より夏に至って鳴く(ところ)あり。本草(ほんぞう)四十九・十四に()(ちん)云く「春暮れて即ち鳴き、夏に至って(もっと)(はなは)だし」云云。古詩に云く「如かず、口を()じて残春を過さんには」と云云。

()国に於ては(ろう)(げつ)(ころ)より鳴き始めて、三月の時分には鳴き()むなり。「()(さい)の余春に()くこと(ようや)(まれ)なり」と云う是れなり。三体抄絶句(ぜっく)三十一に云云。

(まさ)に日本に於ては夏至れば則ち鳴くなり。故に詩歌(しいか)(とも)に夏の部に入るるなり。今は和国に約する故に「春を送り」と云うなり。是れ(しか)しながら暖国・寒国の異なりのみ。啓蒙(けいもう)の義は恐らく理を(つく)すに非ざるなり。

問う、()鳥の鳴きよう如何(いかん)

答う、本草に時珍が云く「()の鳴くことは不如(ふにょ)帰去(ききょ)()うが(ごと)」云云。古詩の意皆(しか)なり。又(ごん)抄に云く「早作(そうさく)田過(でんか)()()(じゅく)と鳴くなり」云云。和俗に云く「本尊()けたかと鳴くなり」云云。

(いわ)く、又()人に()って之を聞くこと同じからず。旅客の耳には専ら不如(ふにょ)()と聞こゆ、故に古郷を忍ぶなり。或る宮方(みやかた)の田舎に流されて(えい)じたもう。

鳴けば聞く聞けば都の恋しきに 此の里過ぎて鳴け(ほとと)(ぎす) 云云。

其の里には今に至って此の鳥鳴かずとなん申し伝え(はべ)り。又農人の耳には「早作田過時不熟」と聞く、故に()鳥の鳴くを()って農事を(つと)むるなり。事文後集に云く「(おも)うに(でんか)は其の鳴くを(うかが)いて則ち農事を(おこ)す」と云云。

又我等が耳には「本尊()けたか」と聞くなり。

御遺状に云く「日興が身に()て給わるところの弘安二年の大本尊、日目に(これ)を授与す。本門寺に掛け奉るべし」云云。この鳥の(こころ)に云く「最早(もはや)、広宣流布の時も(きた)るべし、本門寺を建立して本尊掛けたか、本尊掛けたか」と鳴くなり。(しか)れば広宣流布の時を待つ鳥なるが故に時の鳥と云うか云云。此れは是れ観心の釈の(こころ)なるのみ。

之に(ちな)んで思い(いだ)せることあり。季吟(きぎん)発句(ほっく)に云く

一声(ひとこえ)に 本迹いかに 時鳥 云云。

()(かつ)て之を伝え聞いて笑って云く

(こえ)は本 (ひびき)は迹よ 時鳥 云云。

古歌に云く「山彦(やまびこ)の答うる山の時鳥 一声(ひとこえ)()けば二声(ふたこえ)ぞきく」。又古詩に云く「雲は老樹を()空山(くうざん)(うち)千声(せんしょう)彷彿(ほうふつ)として一度(ひとたび)飛ぶ」云云。之を思え。此れは是れ本迹(ほんじゃく)の釈の意なるのみ。

一 (にわ)(とり)(あかつき)をまつ

(また)是れ時を知る鳥なり。即ち第五の徳なり。()(ぶん)後集(ごしゅう)に云く「(にわとり)に五徳あり。冠を(いただ)くは文なり。(けづめ)を以て()つは()なり。(いさ)んで(たたか)うは勇なり。食を見て相呼ぶは(じん)なり。夜を守って時を失わざるは(しん)なり」と云云。

問う、この鳥の鳴きよう如何(いかん)

答う、一説に(いわ)く「夜(すで)(あかつき)に近し、我が(すね)即ち(こご)ゆ。里人早く驚きて、夢の世を厭離(おんり)せよと鳴くなり」と。一説に云く「()()()と鳴くなり」と。

故に当山に(おい)ては、鶏鳴(けいめい)に即ち起きて(ほら)を吹き、(かね)()いて勤行を(つと)むるなり。是れ(にわとり)の時を知るが故なり云云。
 彼
(なお)時を失わず、二三子(にさんし)、何ぞ山谷(さんこく)に似たるや。(こく)()に云く「(あさ)(とり)(もよお)せども起きず(ふすま)(よう)して松風(しょうふう)()く」と云云。(つつし)みて(おこた)ること(なか)

 

                    つづく

撰時抄愚記 上五 時鳥(ほととぎす)は「本尊掛けたか」と鳴く_f0301354_20063270.jpg
    ホトトギス

撰時抄愚記上 目次



by johsei1129 | 2020-01-28 06:56 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
2019年 12月 24日

当体義抄文段 目次


   日寛上人 御書講義


当体義抄 文段


当抄を釈せんとするに、須く三門に約すべし

   大   意

   釈   名

   入文判釈


所証の法を明かす

一、法体に約す

二、信受に約す
   法の本尊を証得すれば、我が身全く本門戒壇の本尊と顕るるなり

三、解釈を引いて本有無作の当体蓮華を明かす


能証の人を明かす  

   一、如来の自証化他を明かす
     迹門には兼帯の濁なく、本門には始成の濁なし。故に「清浄」と云う

   二、如来在世の証得の人を明かす

     「常住」とは倶時を顕す。故に因果倶時の当体蓮華なり

   三、末法今時の証得の人を明かす



御書解説     


文段 全目次


当体義抄文段 目次_f0301354_21474522.jpg



by johsei1129 | 2019-12-24 06:09 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
2017年 08月 10日

日寛上人 御書文段 総目次

       
富士大石寺二十六世


日寛上人 御書文段


立正安国論愚記     正徳五年十月二十八日 1715年

撰時抄上愚記      正徳五年十一月十五日

撰時抄下愚記      正徳六年三月十八日  1716年

法華経題目抄文段   享保元年八月十五日  1717年


法華取要抄文段     
享保二年八月十五日


開目抄愚記上      
享保二年頃


開目抄愚記下      
享保二年頃


当体義抄文段      
享保六年二月十六日  1721年


観心本尊抄文段上   
享保六年十一月上旬


観心本尊抄文段下       


報恩抄文段上      
享保七年二月二十四日 1722年


報恩抄文段下      
享保七年三月二十八日


妙法尼抄記        
年次不詳八月廿日


法華取要抄私記      
以下年次不詳


如説修行抄筆記 


妙法曼荼羅供養抄記


妙法曼荼羅供養抄見聞筆記        



六 巻 抄          享保十年  1725年

    

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 富士大石寺 五重塔 日寛上人発願 1749年建立 境内の建物がすべて南向きであるのに対し、唯一五重塔は西を向き、東洋広布・仏法西漸をめざす 



by johsei1129 | 2017-08-10 21:52 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
2017年 01月 14日

如説修行抄筆記 目次

日寛上人 御書文段



      如説修行抄筆記



一段  この抄の大意および題号の通別を説く
  宗旨の三箇を弘通すれば必ず三類の大難あり

二段  宗教によって宗旨を弘むれば必ず大難あること
  下種無き脱は「超高が位にのぼる」等なり

  

三段  弟子檀那を教誡したもう

  

四段  行者値難を以て末法の行者なることを明かす

  大白牛車に乗じて四方に遊ぶ、此れに乗る事は信心第一なり


五段  経文虚しからざるを明かす 

  「現世安穏」とは天下万民一同に題目を唱うる時なり

六段  正しく如説修行を明かす

七段  摂折二門の大旨を判じ、蓮祖は末法如説修行の人なることを明かす




文段 総目次



by johsei1129 | 2017-01-14 17:00 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
2017年 01月 14日

法華取要抄私記 目次

日寛上人 御書文段



   法華取要抄 私記



  この抄大いに分かちて二と為す所以

一 題目

  一 所抄の題目
  二 能抄の人
   大聖人の法門を自己にまかする人は、沙汰するに足らざるなり
   御本尊を信じ、仰いで妙法の三身如来を顕せ

二 本文

  一 非を捨てて要を取るの意を明かす

  二 爾前と法華との勝劣を明かす

  三 末法の始めには法華の要法を流布せしめるの由来を明かす
   寿量品を説かずんば末代の凡夫皆悪道に墮つ
   日蓮大聖人は題目を本と為し、一部を迹と為したもう
   但声をばかりに「南無妙法蓮華経・日蓮大聖人、未来を救いたまえ」と唱うべし
   法華経を謗ずるは第一の重病なり、題目は第一の良薬なり




文段総目次



by johsei1129 | 2017-01-14 08:31 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
2016年 07月 07日

 法華取要抄私記 終 法華経を謗(ぼう)ずるは第一の重病なる事。題目は第一の良薬の事。


一 法華経一部は末法の為に説きたもうと之を判ずる事、七丁已下

付けたり、迹門八品(はっぽん)に二意有る事、七ヲ

付けたり、末法は日蓮を以て正とする事、七ヲ。()(さん)の事、七ウ

一 本門に二意有る事、七ウ

付けたり、(りゃっ)(かい)は脱、広開は末法の為なる事、七ウ

付けたり、略開の心の事、八ウ

付けたり、大衆は本門に入って(みょう)(かく)に入る事、八ウ

付けたり、日蓮、天に向かって日月を見る、生身(しょうしん)の妙覚の仏なる事、八ウ。

付けたり、広開の心は一向(いっこう)に滅後の為なる事、九ヲ

付けたり、()の文の事、八ヲウ

付けたり、法華経を(ぼう)ずるは第一の重病なる事。題目は第一の良薬(ろうやく)の事、十ヲ

付けたり、末法に流布せずんば諸仏菩薩の誓言(せいごん)は虚しき事、

一 多宝の証明等は末法の為の事、十ウ

付けたり、仏在世に無智の者(これ)無き事、十一ヲ

付けたり、経釈(きょうしゃく)の事、十一ヲ

一 正像二千年に残す所の秘法(これ)有りとの判、十一ウ

付けたり、三大秘法の事、十一ウ

付けたり、正像に弘めざる子細(しさい)の事、十一ウ

付けたり、末法に入って一切経は教のみ有って()得道(とくどう)の事、十一ウ

付けたり、逆縁の為には(ただ)題目に限る事、十二ヲ

付けたり、広略を捨てて(よう)を取る事、十二ヲ

一 末法に入り此の法流布の先相(これ)有る事、十二ウ已下

付けたり、必ず之有るべしと云う証文。付けたり、先相(せんそう)見る事、十三ヲ

付けたり、文永十一年に二つの()出現と聞く事、十三ヲ

付けたり、大小の難起こるに因縁(これ)有る事、十四ヲ

付けたり、災難は人に(したが)って大小有るべき事、十五ヲ

付けたり、日月星の難の起こり様に依って国中の諍論(じょうろん)を知る事、十五ヲウ

一 末法の始めには必ず上行菩薩出世して、三つの法門を建立(こんりゅう)して、四海一同に題目を流布せしむべき事、十五ウ

已上

私にいわく、総じて大の法門八()あり。

一は()(ぜん)・法華、勝劣の判。

二は教主の()(えん)・無縁の判。

三は迹門正宗(しょうしゅう)八品(はっぽん)に二意有る判。

四は本門に二意有る判。

五は多宝の証明等は末法の為の判。

六は正像未弘の秘法(これ)有る判。

七は広略を捨てて(よう)を取る事の判。

八は末法に上行菩薩出世して此の経法を(ひろ)めたもう判。

(しか)れば此の抄の大意は、()(ぜん)と法華と勝劣を判じ、末法の初めに上行菩薩出世して、法華経の中にも広略脱の行を捨てて、本門下種の要法を取って流布(るふ)せしむる事を明かす。故に「法華取要抄」と云うなり。以上(おわ)んぬ。



       大石寺興師付嘱(ふぞく)二十六()(ほう)

             日 寛 在判




 本書目次                   日寛上人 文段目次



by johsei1129 | 2016-07-07 22:35 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
2016年 07月 07日

 法華取要抄私記 十八 爾前も法華経も無得道と云うなり。されば南条抄に「余経も法華経も詮(せん)なし」等云云。  


一「教のみ有って得道無し」とは。

啓蒙に云わく「爾前の大小・権実・顕密は(とも)に教は有れども無得道なり」と。

私に云く、此の義不可なり。「大小・権実・顕密」とは法華経も共に収めて(しか)と云うなり。是れ則ち爾前も法華経も無得道と云うなり。されば南条抄に「余経も法華経もせん()なし」等云云。

一「弗舎(ほっしゃ)(みっ)多羅(たら)(おう)」の事。(つぶさ)に啓蒙の如し。

一「本門の三()の法門」の

啓蒙に云わく「本門の言は迹化(しゃっけ)迹門の弘通に対して、末法の(ほん)()弘通の規模を顕さんが為なり。又『予が読む所の迹には非ず』と(えら)ぶが如く、宗家の本迹は本が家の迹にして、一妙法の上の本有の徳用なれば、(いち)()唯本(ゆいほん)の意にて、本門の三大秘法と名を立つる義と両向を以て(こころ)()べきなり。是れ則ち相待(そうたい)絶待(ぜったい)の意なり」と。又(ごん)抄に云わく「略を捨つる時は寿量品も捨つるなり。是れ相対の意なり。宗家の本迹は本地所証の妙法が家の本迹にして、(ほん)()の迹覚本覚を帰示せる体徳の妙用なれば、妙法(そく)本迹、本迹即妙法にして不可思議の重なり。是れ則ち絶待の妙の意なり」云云。又啓蒙に云わく「逆縁の正意の(かた)に約して広宣流布を点示するなり」云云。

私に云わく、三箇の法門、三大秘法抄にあり。是れ則ち一箇の相承なり。()れ本尊とは、総別・人法等と種々の分別あり云云。さて本迹の沙汰は一往再往ともに勝劣なり。総じて五重の勝劣あり。一には(ない)()相対、二には大小相対、三には権実相対、四には本迹相対、五には種脱相対の法門なり。()くの如き重々の相対の上に下種の法を顕すなり。文底(もんてい)とは是れなり。

一 此の御書は正本に年号月日なし。「土木(とき)殿へ」ともなし。後人(これ)を加う。さて年号月日の事は二説あり。一は文永十一(きのえ)(いぬ)五月二十四日、二に同じき正月二十四日と云云。中に於て五月と云う事分明なり。十三丁()いて見よ。正本は中山に有り。

一 此の法華経は()(ぜん)の諸経・諸宗に超過して勝れたることを判ず。

付けたり、諸宗の(りゅう)()の事、初丁

付けたり、()(こん)(とう)の三字第一なる事、二丁ウ

付けたり、諸経に已今当相似(そうじ)の文を()する事、三丁ヲ

付けたり、所対を見て経々の勝劣(しょうれつ)を弁ずべきこと、三丁ウ

一 教主の()(えん)無縁の判四丁ヲウ。「今法華経」の下、一に権果に約し、二に迹因に約し、三に本果に約す。

付けたり、大日如来・阿弥陀(あみだ)如来は我等が本師釈尊の所従なる事、五ヲ

付けたり、弥陀・釈迦とは宿(むか)()の生養(えん)異なりて父子の義を生ぜざる事、五ヲ

付けたり、華厳経の十方台上の盧舎那(るしゃな)、大日経・金剛(こんごう)(ちょう)(きょう)の両界の大日、多宝の(きょう)()の事、五ウ

付けたり、多宝も釈迦の(しょ)(じゅう)の事、五ウ

付けたり、釈尊の忌日(きじつ)を他仏に()うるは誤りなる事、六ウ


               つづく


本書目次                     日寛上人 文段目次



by johsei1129 | 2016-07-07 21:12 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
2016年 07月 06日

 法華取要抄私記 十七 当家の法門は一切の仏・菩薩等をなげすてて、但(ただ)声をばかりに「南無妙法蓮華経・日蓮大聖人、南無妙法蓮華経・日蓮大聖人、未来を救いたまえ」と唱うべしと云う事なり。


 されば末法の本尊とは、本門の南無妙法蓮華経日蓮大聖人是れなり。是れ我等が為の能引(のういん)なり。十界の聖衆は、是れ日蓮(たい)()の十界の聖衆なり。日蓮体具の十界を顕す時に、釈迦・多宝等の十界の聖衆を書き顕し給う者なり。

されば(のう)()の人(すで)に下種の(ほっす)なる間、所具の釈迦・多宝等の十界の聖衆も皆悉く生身の妙覚の仏なり。(ほん)()の菩薩なり。本有の声聞なり乃至本有の提婆(だいば)なり。然れば則ち、本門下種の南無妙法蓮華経日蓮聖人より(ほか)に全く一法も無し。()って南無妙法蓮華経日蓮聖人を以て本尊と為し、能引とするが故に「所化(しょけ)以て同体なり」とは遊ばされたり。

(ただ)し観心本尊抄の文は一往(いちおう)文の上を遊ばされたり。全く文底(もんてい)の大事を遊ばされず。されば自ら(いま)だ遊ばされざることわりなり。()し御自身に、我を以て本尊とせよと遊ばされたらば、(いず)れの人か之を信ずべけんや。此れを以て文底に秘して、文の上を遊ばされたり。されば当家(とうけ)の習う法門は是れなり。

然るに一致宗は、吾が祖を習い失うて本尊に迷う。如何(いかん)が成仏すべけんや。されば撰時抄の下二十八に云く「上一人より下万民に至るまで一切の仏寺一切の神寺をばなげすてて、各各声をつる(連合)べて南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経と唱え(たなごころ)を合わせてたすけ給え、日蓮の()(ぼう)・日蓮の御房とさけび候はん」云云。

報恩抄の下三十四に云わく「(ひとつ)には日本乃至一閻(いちえん)()(だい)・一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし。所謂(いわゆる)宝塔(ほうとう)の内の釈迦・多宝・(そのほか)の諸仏(ならび)に上行等の四菩薩(きょう)()となるべし」文已上。此の御書に「本門の教主釈尊」とは久遠名字の釈尊なり。是れ則ち今日(こんにち)の日蓮聖人、()(たい)()(ゆう)(ただ)一体の御形なり。()って末法には我が身を本尊とせよと云う事を「本門の教主釈尊を本尊とすべし」とは遊ばされたり。(しか)れば則ち今日の宝塔の中の釈迦・多宝も、此の本仏の臣下・大臣なり。(いわん)や其の已外をや。(ここ)を以て「釈迦・多宝(そのほか)」とは遊ばされたり。全く今日(こんにち)の応仏昇進の釈迦・多宝を以て本尊とせよと遊ばされたるには(あら)ず。

(しか)るを一致の(やから)脱仏を以て下種の本尊と為すと云えるは(かわら)を以て玉と為し、石を以て(こがね)に執するに似たり。されば撰時抄の御文体は、上も下も智者も愚者も、末法に入って上行出世の後は、一切の仏・菩薩、一切の明神・天神(てんじん)等をなげすてて、(ただ)声をばかりに「南無妙法蓮華経・日蓮大聖人、南無妙法蓮華経・日蓮大聖人、未来を救いたまえ」と唱うべしと云う事なり。

聖人知三世抄に云わく「日蓮は一閻浮提(いちえんぶだい)第一の聖人なり」云云。


               つづく


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by johsei1129 | 2016-07-06 16:22 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
2016年 07月 06日

 法華取要抄私記 十六  御本尊に迷う輩(やから)の邪曲・僻見(びゃっけん)をしるす


一 総じて此の一段の御法門について、一致宗の云える事あり。

啓蒙の二十・二十六已下に、()(じょう)()(しょ)九ヲを引き(おわ)って云わく「此の一段の(たい)()は本迹観心の奥義を以て納得すべし。(たい)()所判の在世の脱の類に権者実者を明かし、能引・所引を論ずる意なり。又本迹にも新聖旧聖の品を()かてり。我が()一往弁じたもう時は、本迹二門に当機を立てて、迹門八品に()(もん)の法を聞いて入実し、本門(りゃっ)(かい)に来たって増道するの(おもむき)を弁じたもうなり。今此の一段は、再往滅後(しょう)()の義に約して、在世の二乗等を総じて能引としたまえり。されば釈尊の出世、多宝の証明等、皆(ひとえ)に我等が為なりと信得に及ばせば、勇猛の安心に住して下種得脱の大利を得ん事(たなごころ)を指すが如くならん。是れ当家観心の深意なり」と。又云わく「当家の行者は他の本迹高広の()(きゅう)聖応(しょうおう)を妙経の五字の要法に収め、無二の信力に住して自己の色心即妙法の全体なりと心得れば、自他不二・(めい)()一体にして三力相応し、即身成仏の素懐を(たちま)ちに()ぐる初心相応の易行観心なり。(なお)立ち入って深く心得る義を云わば、本尊抄に云わく『今本()娑婆(しゃば)世界は三災を離れ○迹仏迹土を表する故なり』以上。是れ則ち十界具足の為体(ていたらく)にして無始(ほん)()なり。されば舎利弗等乃至提婆(だいば)等に至るまで(みな)本有の眷属なり。されば世々番々に本懐を()げたもう時に至っては、本()十界の相貌(そうみょう)を顕して無始迷倒の衆生を引き入れ、本有無作(むさ)の己心に具足の本尊に(かい)()せしめたもう。『所化(しょけ)以て同体』とは此の意なり。是れ則ち本尊と自己と一体不二の玄旨、観心本尊の奥蔵(おうぞう)なり。されば在世の儀式を能引とし、末法の衆生を所引としたもう元意、恐らくは(ここ)に在るべきか」已上略抄。

私に云わく、(これ)()の義は邪義なり。

()ず一は在世の儀式を能引とし、末法の衆生を所引とす。二は他の本迹高広の()(きゅう)の聖応等を妙法五字に収めて、自己の色心即妙法の全体と()すれば成仏するなりと。三は大師の判釈を以て例して吾が祖の(りゅう)()を判ずる事已上。

此の三解の法門、大いに邪曲なり。甚だ僻見(びゃっけん)なり。されば本尊とは、劣を捨てて勝を取って本尊とするなり。但し小乗の(やから)は小乗の本尊なり。大乗の輩は大乗の本尊なり。迹門(しゃくもん)の行者は迹門の本尊なり。本門の行者は本門の本尊なり。(だつ)の行者は脱の本尊なり。下種の行者は下種の本尊なるべし。

されば在世の儀式、塔中(たっちゅう)の釈迦・多宝・上行等、文殊・(しゃ)()(ほつ)等の十界の聖衆は、脱益(だっちゃく)の者の為の能引なるべし。何ぞ此の義を以て我等が為の能引とせんや。()し我等が為に(だつ)の衆を能引とせば能所不対なり。何を以て成仏せんや。其の上、阿難・目連等、()(みょう)・竜樹等、天台・伝教等は小乗・権大乗・迹門の()(つう)にして熟脱の導師なり。是等の大小・権実の導師も我等が為の能引か。()し能引に非ずと云わば、何ぞ本尊に之を書き(たてまつ)らんや。若し能引と云わば、大小・権実混乱の本尊か、如何(いかん)


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by johsei1129 | 2016-07-06 15:56 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)