人気ブログランキング |

日蓮大聖人『御書』解説

nichirengs.exblog.jp
ブログトップ

カテゴリ:池上兄弟( 23 )


2015年 07月 05日

大聖人が池上宗長に持病の下り腹が平癒したことを伝えた書【兵衛志殿御返事】

【兵衛志殿御返事(味噌一桶御書)】
■出筆時期:弘安元年(西暦1278年)六月二六日 五十七歳 御作。
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:本抄は短いご消息文ですが、池上兄弟の弟・宗長から味噌一桶を供養されたことへの返書となっております。本書で大聖人は、晩年苦しめられた持病の下り腹が四条金吾の調合した薬で回復し、また宗長から送られた味噌でさらに心持ちも良くなったと喜ばれ、最後には「今年御つゝがなき事をこそ、法華経に申し上げまいらせ候」と、宗長の安全を祈ったと伝えておられます。尚大聖人はこの書をしたためた前後、六月二十五日から二十七日の三日間で、日女御前、富木常忍、四条金吾、池上宗長、窪尼御前と五通ものご消息文を信徒に送られておられ、信徒を精力的に励まされており、この事実からこの時期、病状が回復していたことがうかがわれます。
■ご真筆:越前市 妙勧寺 所蔵。
f0301354_16122946.jpg

[兵衛志殿御返事((味噌一桶御書) 本文]

みそをけひとつ給び了んぬ。はらのけはさゑもん殿(四条金吾)の御薬になをりて候。

又このみそをなめていよいよ心ちなをり候ひぬ。

あわれあわれ今年御つゝがなき事をこそ、法華経に申し上げまいらせ候へ。恐々謹言。

 六月廿六日                 日 蓮 花 押

   兵 衛 志 殿 御 返 事

by johsei1129 | 2015-07-05 16:12 | 池上兄弟 | Trackback | Comments(0)
2015年 06月 30日

念仏信仰の親を法華経に導いた池上宗長の志を称えた書【兵衛志殿御返事】

【兵衛志殿御返事】
■出筆時期:弘安元年(西暦1278)五月 五十七歳御作。
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:本抄は池上兄弟の弟、池上宗長に対して与えられた消息文です。冒頭の一部は欠損していますが、宗長が身延の草庵にご供養の品々を運ぶのに、馬と人夫を提供したことに対し「たといかまくらにいかなる物を人にたびて候とも、夫と馬となくばいかでか日蓮が命はたすかり候べき<中略>此の歩馬はこんでいこま(金泥駒)となり」と記し、悉達太子(釈尊の幼名)が、出家し王宮を出たときに乗った白馬にも匹敵すると宗仲の志を称えられております。さらに、兄宗仲が二度も父から勘当されながらも、兄弟ともに大聖人に帰依し続け、ついに父を法華経に導いた事を「かしこき上、欲なき身と生まれて三人ともに仏になり給ひ、ちゝかた、はゝかたのるいをもすくい給ふ人となり候ぬ<略>此の事は一代聖教をも引きて百千まいにかくとも、つくべしとはをもわねども・・・」と賛嘆されておられます。

■ご真筆: 京都市妙覚寺 所蔵
f0301354_2217954.jpg


[兵衛志殿御返事 本文]

御ふみにかゝれて候上、大にのあざりのかたり候は、ぜに十余れん並びにやうやうの物ども候ひしかども、たうじはのうどきにて□□□□人もひきたらぬよし□□□も及び候はざりけ□□□□兵衛志殿の御との□□□□御夫馬にても□□□□て候よし申候。
  
 夫百済国より日本国に仏法のわたり候ひしは、大船にのせて此をわたす。今のよど河よりあをみの水海につけて候ものは、車にて洛陽へははこび候。それがごとく、たといかまくらにいかなる物を人にたびて候とも、夫と馬となくばいかでか□□(日蓮)が命はたすかり候べき。□□□(徳勝)童子は土の餅を仏に□□□□□阿育大王と□□□□□□□□□くやうしまいらせ候ひしゆへに、阿育大王の第一の大臣羅提吉となりて一閻浮提の御うしろめ、所謂ををい(大臣)殿の御時の権大天殿のごとし。
  
 此は彼等にはにるべくもなき大功徳。此の歩馬はこんでいこまとなり、此の御との人はしゃのく(車匿)とねり(舎人)となりて、仏になり給ふべしとをぼしめすべし。抑(そもそも)すぎし事なれども、あまりにたうとくうれしき事なれば申す。
 
  昔、波羅奈国に摩訶羅王と申す大王をはしき。彼の大王に二の太子あり。所謂善友太子・悪友太子なり。

善友太子の如意宝珠を持ちてをはせしかば、此をとらむがために、をとの悪友太子は兄の善友太子の眼をひき給ひき。昔の大王は今の浄飯王、善友太子は今の釈迦仏、悪友太子は今の提婆達多此なり。兄弟なれども、たからをあらそいて。世々生々にかたきとなりて、一人は仏となり、一人は無間地獄にあり。此は過去の事、他国の事なり。我が朝には一院・さぬきの院の兄弟なりしかども位をあらそいて、ついにかたきとなり給ひて、今に地獄にやをはすらむ。当世めにあたりて、此の代のあやをきも兄弟のあらそいよりをこる。大将殿と申せし賢人も、九郎判官等の舎弟等をほろぼし給ひて、かへりて我が子ども皆所従等に失はれ給ふは眼前の事ぞかし。
  
 とのばら二人は上下こそありとも、とのだにもよくふかく、心まがり、道理をだにもしらせ給はずば、ゑもんの大夫志殿はいかなる事ありとも、をやのかんだうゆるべからず。ゑもんのたいうは法華経を信じて仏になるとも、をやは法華経の行者なる子をかんだうして地獄に堕つべし。とのはあにとをやをそんずる人になりて、提婆達多がやうにをはすべかりしが、末代なれども、かしこき上、欲なき身と生まれて三人ともに仏になり給ひ、ちゝかた、はゝかたのるいをもすくい給ふ人となり候ぬ。又とのゝ御子息等もすへの代はさかうべしとをぼしめせ。

 此の事は一代聖教をも引きて百千まいにかくとも、つくべしとはをもわねども、やせやまいと申し、身もくるしく候へば、事々申さず。あわれあわれ、いつかげざんに入て申し候はん。又むかいまいらせ候ひぬれば、あまりのうれしさに、かたられ候はず候へばあらあら申す。よろずは心にすいしはからせ給へ。

女房の御事同じくよろこぶと申させ給へ。恐々謹言。
  

by johsei1129 | 2015-06-30 22:17 | 池上兄弟 | Trackback | Comments(0)
2015年 06月 24日

池上兄弟の篤信を称えた書【兵衛志殿御返事】

【兵衛志殿御返事】
■出筆時期:弘安元年(西暦1278)十一月二十九日 五十七歳 御作。
■出筆場所:身延山中 館にて。
■出筆の経緯:本抄は池上兄弟の弟、兵衛志宗長に与えられた書です。大聖人は池上兄弟が供養した白厚綿小袖について「兄弟二人のふたつの小袖、わた四十両をきて候が、なつのかたびらのやうにかろく候ぞ。<中略>此の二のこそでなくば今年はこごへしに候なん」と記し、兄弟の真心のご供養の精神を称えられております。また身延の館の様子について「人はなき時は四十人ある時は六十人。<中略>心にはしずかに、あじちむすびて小法師と我が身計り御経よみまいらせんとこそ存じて候に、かかるわづらはしき事候はず、又としあけ候わば、いづくへもにげんと存じ候ぞ」と記し、弟子とその身内が集い活況を呈していることを、面白く記されている貴重な書となっております。
■ご真筆:京都市 立本寺、他四箇所に断簡所蔵。
f0301354_2321825.jpg

[兵衛志殿御返事 本文]


銭六貫文の内一貫次郎よりの分白厚綿小袖一領。四季にわたりて財を三宝に供養し給う。いづれも、いづれも功徳にならざるはなし。但し時に随いて勝劣、浅深わかれて候。うへたる人には衣をあたへたるよりも食をあたへて候は、いますこし功徳まさる。こごへたる人には食をあたへて候よりも衣は又まさる。春夏に小袖をあたへて候よりも秋冬にあたへぬれば又功徳一倍なり。これをもつて一切はしりぬべし。ただし此の事にをいては四季を論ぜず日月をたださず、ぜに、こめ、かたびら、きぬこそで、日日、月月にひまなし。例せばびんばしやらわうの教主釈尊に日日に五百輛の車ををくり、阿育大王の十億の沙金を鶏頭摩寺にせ(施)せしがごとし。大小ことなれども志は彼にもすぐれたり。

 其の上今年は子細候。ふゆと申すふゆ、いづれのふゆか、さむからざる。なつと申すなつ、いづれのなつか、あつからざる。ただし今年は余国はいかんが候らん、このはきゐ(波木井)は法にすぎてかんじ候。ふるきをきな(老)どもにとひ候へば、八十、九十、一百になる者の物語り候は、すべて、いにしへ、これほどさむき事候はず。此のあんじちより四方の山の外、十町、二十町。人かよう事候はねば、しり候はず。きんぺん一町のほどは、ゆき一丈二丈五尺等なり。このうるう十月卅日ゆきすこしふりて候しが、やがてきへ候ぬ。この月の十一日たつの時より十四日まで大雪ふりて候しに、両三日へだてて、すこし雨ふりてゆきかたくなる事金剛のごとし。いまにきゆる事なし。ひるも、よるも、さむくつめたく候事法にすぎて候。さけはこをりて石のごとく。あぶらは金ににたり。なべかまは小し水あればこおりてわれ。かんいよいよかさなり候へば、きものうすく食ともしくして、さしいづるものもなし。

 坊ははんさくにてかぜゆきたまらず。しきものはなし。木は、さしいづるものもなければ、火もたかず。ふるきあかづきなんどして候、こそで一なんど、きたるものは其身のいろ紅蓮大紅蓮のごとし。こへははは大ばば地獄にことならず。手足かんじてきれさけ人死ぬことかぎりなし。俗のひげをみればやうらく(瓔珞)をかけたり。僧のはなをみればすずをつらぬきかけて候。

 かかるふしぎ候はず候に去年の十二月の卅日より、はらのけの候しが春夏やむことなし。あきすぎて十月のころ大事になりて候しが、すこして平愈つかまつりて候へども、ややもすればをこり候に、兄弟二人のふたつの小袖、わた四十両をきて候が、なつのかたびらのやうにかろく候ぞ。まして、わたうすく、ただぬのものばかりのものをもひやらせ給へ。此の二のこそでなくば今年はこごへしに候なん。

其上兄弟と申し右近の尉の事と申し食もあいついて候。人はなき時は四十人ある時は六十人。いかにせき候へどもこれにある人人のあにとて出来し舎弟とてさしいで・しきゐ候ぬれば・かかはやさに・いかにとも申しへず。心にはしずかにあじちむすびて、小法師と我が身計り御経よみまいらせんとこそ存じて候に、かかるわづらはしき事候はず。又としあけ候わば、いづくへもにげんと存じ候ぞ。かかる・わづらわしき事候はず又又申すべく候。
なによりもえもんの大夫志(たゆう・さかん)と・とのとの御事・ちちの御中と申し上のをぼへと申し面にあらずば申しつくしがたし。 恐恐謹言。

十一月廿九日        日 蓮  花 押
兵衛志殿御返事

by johsei1129 | 2015-06-24 03:22 | 池上兄弟 | Trackback | Comments(0)
2015年 04月 28日

父親からの勘当にもめげす法華経信仰を貫いた池上兄弟を称えた書【孝子御書】

■出筆時期:弘安二年(西暦1279年)二月二十八日 五十八歳 御作。
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:本書池上兄弟の弟宗長にあてられたご消息文です。大聖人は池上兄弟の父親が亡くなったとの噂を聞き本当でしょうかと弟の宗長に尋ねられると共に、長年信心に反対してきた父康光を、兄弟が力を合わせて入信させたことを心から喜ばれ、二人の兄弟を真実の孝子であると称えられた書となっております。父康光は幕府の作事奉行を努め、また極楽寺良観の信奉者だったため、大聖人に帰依する長男宗仲を二度も勘当し、弟宗長に家督を譲ることにしたが、宗長も兄に殉じ法華経信仰を貫いたため、ついに父も大聖人に帰依することになった。
■ご真筆: 福井県本妙寺、他二箇所に断簡所蔵。
f0301354_21364670.jpg

[福井県本名寺蔵 ご真筆]

[孝子御書 本文]
御親父御逝去の由、風聞真にてや候らん。
貴辺と大夫志(たゆうさかん)の御事は、代末法に入つて生を辺土にうけ、法華の大法を御信用候へば、悪鬼定めて国主と父母等の御身に入りかわり怨をなさん事疑なかるべきところに、案にたがふ事なく親父より度度の御かんだうをかうほらせ給ひしかども、兄弟ともに浄蔵・浄眼の後身か、将た又薬王薬上の御計らいかのゆへに、ついに事ゆへなく、親父に御かんきをゆりさせ給いて、前にたてまいらせし御孝養心に任せさせ給いぬるは、あに孝子にあらずや。定めて天よりも悦びをあたへ、法華経十羅刹も御納受あるべし。

其の上貴辺の御事は心の内に感じをもう事候。此の法門、経のごとくひろまり候わば御悦び申すべし。穴賢穴賢、兄弟の御中不和にわたらせ給ふべからず、不和にわたらせ給ふべからず。
大夫志殿の御文にくわしくかきて候きこしめすべし、恐恐謹言。

弘安二年二月二十八日        日 蓮 花 押




by johsei1129 | 2015-04-28 21:54 | 池上兄弟 | Trackback | Comments(0)
2015年 04月 06日

鎌倉の強信徒池上宗仲に、弟子の僧坊の築造を依頼した書【両人御中御書】

【両人御中御書】
■出筆時期:弘安二年(西暦1279)十月二十日 五十八歳 御作。
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:本書は大国阿闍梨日朗と、池上兄弟の兄宗仲に宛てた書である。
 内容は、下総出身の古参の弟子大進房が熱原法難で敵方に寝返り、法華経信徒を馬に乗り暴徒を指揮して迫害、その時落馬し怪我を負い、それが原因で死去するが、生前法兄である弁阿闍梨日昭に自分の僧坊を譲るという譲状を残していた。
 大聖人はこのことを知り、直ちに今誰も住んでいない僧防を建て壊し、譲状のとおり日昭に渡して日照の僧坊を大きくしなさいと依頼されておられる。
 
 本書では、この頃大聖人の高弟達はそれぞれ僧坊をもち、そこを拠点に布教活動をしていて、弟子が弘教の主体となっていことをうかがわせる。また僧坊の建築に幕府作事奉行(建築・土木部門)の池上家、特に兄宗仲が大きく関わっていたことがわかる貴重な書となっている。
尚、大聖人は生涯最後の二十六日間を池上宗仲の館ですごし、弘安五年十月十三日に御入滅なされる。
■ご真筆: 京都市妙顕寺 所蔵。
f0301354_20483040.jpg

[両人御中御書 本文]

大国阿闍梨、えもんのたいう志殿等に申す。故大進阿闍梨の坊は各各の御計らいに有るべきかと存じ候に、今に人も住せずなんど候なるはいかなる事ぞ。
 ゆづり状のなくばこそ、人人も計らい候はめ。くはしく、うけ給わり候へば、べんの阿闍梨にゆづられて候よし、うけ給わり候き。又いぎあるべしとも、をぼへず候。

 それに御用いなきは別の子細の候か、其の子細なくば大国阿闍梨、大夫殿の御計らいとして、弁の阿闍梨の坊へこぼちわたさせ給い候へ。

 心けんなる人に候へば、いかんがとこそ、をもい候らめ。弁の阿闍梨の坊をすりしてひろくもらずば、諸人の御ために、御たからにてこそ候はんずらむめ。 
 ふゆはせうまうしげし、もしやけなばそむと申し人もわらいなん。
 
 このふみついて両三日が内に事切て、各各御返事給び候はん。恐恐謹言。

十月廿日                  日  蓮 花 押
両人御中
ゆづり状をたがうべからず。

by johsei1129 | 2015-04-06 20:47 | 池上兄弟 | Trackback | Comments(0)
2015年 04月 05日

日月の光明の能く諸の幽冥を除くが如く斯の人世間に行じて能く衆生の闇を滅す、と説いた【斯人行世間事】

右衛門太夫殿御返事(斯人行世間事)】
■出筆時期:弘安二年(西暦1279)十二月三日 五十八歳 御作。
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:本書は武蔵国池上(現、東京都大田区池上)の池上兄弟の兄・宗仲に与えられたご消息文です。

宗仲は鎌倉幕府の作事奉行(建築土木部門)、池上康光の長男で、弟・宗長と二人で池上兄弟と言われている。また六老僧の一人日昭の甥でもあった。大聖人への帰依は康元元(1256)年頃と思われ、鎌倉方面の信徒の重鎮であった。父康光は極楽寺良観の熱心な信徒で、法華経信仰を貫く宗仲には作事奉行の家督は譲れないとして宗仲を二度勘当している。しかし宗仲は、ともする心が折れかかる弟宗長を励まし法華経を貫きとおし、父康光も大聖人に帰依することになる。

 大聖人は、この書をしたためた二ヶ月ほど前の弘安二年十月十二日に出世の本懐たる、一閻浮提(全世界)総与の本門戒壇の大御本尊を建立されている。
そして本書で、妙法蓮華経 如来神力品第二十一で説かれている、釈迦滅後の弘通を付属された地湧の菩薩の上首「上行菩薩」であることを示すとともに、宗仲の強い信仰心に対し「貴辺も上行菩薩の化儀をたすくる人なるべし」と称えられておられる。
■ご真筆: 現存していない。

[右衛門太夫殿御返事(斯人行世間事) 本文]

抑久しく申し承らず候の処に御文到来候い畢んぬ。
 殊にあをきうらの小袖一・ぼうし一・をび一すぢ・鵞目一貫文・くり一篭たしかにうけとり・まいらせ候。当今は末法の始の五百年に当りて候。かかる時刻に上行菩薩・御出現あつて南無妙法蓮華経の五字を日本国の一切衆生にさづけ給うべきよし経文分明なり。又流罪死罪に行わるべきよし明かなり。

 日蓮は上行菩薩の御使にも似たり、此の法門を弘むる故に。神力品に云く「日月の光明の能く諸の幽冥を除くが如く斯の人世間に行じて能く衆生の闇を滅す」等云云。

 此の経文に斯人行世間の五の文字の中の人の文字をば誰とか思し食す。上行菩薩の再誕の人なるべしと覚えたり。経に云く「我が滅度の後に於て応に斯の経を受持すべし是の人仏道に於て決定して疑有ること無けん」云云。

 貴辺も上行菩薩の化儀をたすくる人なるべし。

弘安二年己卯十二月三日 日 蓮 花 押
右衛門太夫殿御返事

 【妙法蓮華経 如来神力品第二十一】

 於如來滅後 知佛所説經 因縁及次第 随義如實説
 如日月光明 能除諸幽冥 斯人行世間 能滅衆生闇
 敎無量菩薩 畢竟住一乘 是故有智者 聞此功德利
 於我滅度後 應受持斯經 是人於佛道 決定無有疑

 【和訳】
 如来の滅後に於いて、仏が説く所の経の因縁及び次第を知りて、 義に従って実の如く説かば、
 日月の光明が、能く諸の幽冥を除くが如く、斯の人は世間に行じて、衆生の闇を能く滅し、
 無量の菩薩を教え、畢竟(つまるところ)、一乗(仏乗)に住せしめん。是故に有智の者は此の功徳の利を聞きて、
 我が滅度の後に於いて、応に斯の経を受持すべし。是の人は仏道に於いて、決定して疑い有ること無けん(必ず成仏する)。

by johsei1129 | 2015-04-05 21:40 | 池上兄弟 | Trackback | Comments(0)
2015年 04月 01日

日月の光明の能く諸の幽冥を除くが如く斯の人世間に行じて能く衆生の闇を滅すと説いた【斯人行世間事】

【右衛門太夫殿御返事(斯人行世間事)】
■出筆時期:弘安二年(西暦1279年)十二月三日 五十八歳御作。
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:本書は鎌倉武士で強信徒の池上宗仲に宛てた書である。宗仲は幕府作事奉行で極楽寺良観の熱心な信徒であった父康光に、大聖人への帰依を捨てないことで二度にわたり勘当されている。しかし弟宗長を励ましながら、法華経信仰を終生貫き、弘安元年には勘当が解かれ、父も大聖人に帰依することになる。
 本書は非常に短い御書だが、大聖人は上行菩薩の再誕であるとの内証を明かすとともに「貴辺も上行菩薩の化儀をたすくる人なるべし」と、最大限の賞賛をされている。
■ご真筆: 現存していない。

[右衛門太夫殿御返事(斯人行世間事) 本文]

 抑久しく申し承らず候の処に御文到来候い畢んぬ。殊にあをきうらの小袖一・ぼうし一・をび一すぢ・鵞目一貫文・くり一篭、たしかにうけとり・まいらせ候。
 
 当今は末法の始の五百年に当りて候。かかる時刻に上行菩薩・御出現あつて、南無妙法蓮華経の五字七字を日本国の一切衆生にさづけ給うべきよし、経文分明なり。又流罪死罪に行わるべきよし明かなり。日蓮は上行菩薩の御使にも似たり、此の法門を弘むる故に。

 神力品に云く「日月の光明の能く諸の幽冥を除くが如く斯の人世間に行じて能く衆生の闇を滅す」等云云。此の経文に斯人行世間の五の文字の中の人の文字をば誰とか思し食す。上行菩薩の再誕の人なるべしと覚えたり。

経に云く「我が滅度の後に於て応に斯の経を受持すべし、是の人仏道に於て決定して疑有ること無けん」云云。 貴辺も上行菩薩の化儀をたすくる人なるべし。

弘安二年己卯十二月三日         日  蓮  花 押
右衛門太夫殿御返事

by johsei1129 | 2015-04-01 17:34 | 池上兄弟 | Trackback | Comments(0)
2015年 01月 09日

法華経計りを一字・一句・一偈持つ法華経の行者の功徳勝れたる事を説いた【大夫志殿御返事】

大夫志殿御返事】
■出筆時期:弘安三年(西暦1280年) 十二月初旬 五十九歳御作
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:本書は鎌倉武士で、古くから大聖人に帰依し強信徒であった池上兄弟の兄宗仲(大夫志殿)にあてられた書です。本書では妙法蓮華経随喜功徳品第十八に説かれている『四百万億那由佗国の六道の衆生を八十年間養い、且つ法華経以外の一切経でそれらの衆生を阿羅漢(覚者)となした功徳より、法華経の一字・一句・一偈持つ人の功徳は百千万億倍優れている』と説かれた譬喩を記し、かかる人(法華経の行者)を供養すれば福を須弥山につみ給うなり、と説いてこの度の大夫志殿の供養はそれに匹敵することであると賞賛されている。
■ご真筆: 京都市妙覚寺ほか四箇所に断簡所蔵。
f0301354_2214024.jpg

[妙覚寺所蔵ご真筆本文:如来は且置之。滅後の一日より正像末二千二百余年が間仏の御使]

[大夫志殿御返事 本文]
小袖一つ直垂三具・同じく腰三具等云云、小袖は七貫・直垂並びに腰は十貫・已上十七貫文に当れり、夫れ以れば天台大師の御位を章安大師顕して云く「止観の第一に序文を引いて云く安禅として化す、位五品に居したまえり、故に経に云く四百万億那由佗の国の人に施すに一一に皆七宝を与え又化して六通を得しむるすら初随喜の人に如ざること百千万倍せり況や五品をや、文に云く即如来の使なり如来の所遣として如来の事を行ず」等云云、伝教大師天台大師を釈して云く「今吾が天台大師は法華経を説き法華経を釈し群に特秀し唐に独歩す」云云、又云く「明かに知んぬ如来の使なり讃むる者は福を安明に積み謗る者は罪を無間に開く」と云云、是の如きは且らく之を置く、滅後一日より正像二千余年の間・仏の御使二十四人なり、所謂第一は大迦葉・第二は阿難・第三は未田地・第四は商那和修・第五はさく多・第六は提多迦・第七は弥遮迦・第八は仏駄難提・第九は仏駄密多・第十は脇比丘・第十一は富那奢・第十二は馬鳴・第十三は毘羅・第十四は竜樹・第十五は提婆・第十六は羅ご・第十七は僧ぎゃ難提・第十八は僧ぎゃ耶奢・第十九は鳩摩羅駄・第二十は闍夜那・第二十一は盤駄・第二十二は摩奴羅・第二十三は鶴勒夜奢・第二十四は師子尊者、此の二十四人は金口の記する所の付法蔵経に載す、但し小乗・権大乗経の御使なりいまだ法華経の御使にはあらず、三論宗の云く「道朗吉蔵は仏の使なり」法相宗の云く「玄奘慈恩は仏の使なり」華厳宗の云く「法蔵・澄観は仏の使なり」真言宗の云く「善無畏・金剛智・不空・慧果・弘法等は仏の使なり」

 日蓮之を勘えて云く全く仏の使に非ず全く大小乗の使にも非ず、之を供養せば災を招き之を謗ぜば福を至さん、問う汝の自義か答えて云く設い自義為りと雖も有文有義ならば何の科あらん、然りと雖も釈有り伝教大師云く「誰か福を捨て罪を慕う者あらんや」云云、福を捨てるとは天台大師を捨てる人なり、罪を慕うとは上に挙ぐる所の法相・三論・華厳・真言の元祖等なり、彼の諸師を捨て一向に天台大師を供養する人の其の福を今申すべし、三千大千世界と申すは東西南北・一須弥山・六欲梵天を一四天下となづく、百億の須弥山・四州等を小千と云う、小千の千を中千と云う、中千の千を大千と申す、(注)此の三千大千世界を一にして四百万億那由佗国の六道の衆生を八十年やしなひ法華経より外の已今当の一切経を一一の衆生に読誦せさせて三明六通の阿羅漢・辟支仏・等覚の菩薩となせる一人の檀那と、世間出世の財を一分も施さぬ人の法華経計りを一字・一句・一偈持つ人と相対して功徳を論ずるに、法華経の行者の功徳勝れたる事・百千万億倍なり。天台大師此れに勝れたる事五倍なり、かかる人を供養すれば福を須弥山につみ給うなりと伝教大師ことはらせ給ひて候、此の由を女房には申させ給へ、恐恐謹言。
    
                       日  蓮 花押
大夫志殿御返事  


[妙法蓮華経・随喜功徳品第十八(※注:該当箇所)
仏告弥勒。我今分明語汝。是人以一切楽具。施於四百万億。阿僧祇世界。六趣衆生。又令得阿羅漢果。所得功徳。不如是第五十人。聞法華経一偈。随喜功徳。百分千分。百千万億分。

[和訳]
仏は弥勒菩薩にこのように告げました。私は今、明解にあなたに語ります。是の人(ある長者)が全ての楽具(娯楽のための財)を以て、四百万億阿僧祇の世界の六趣(六道を輪廻する)の衆生に施し、又阿羅漢果(法華経以前の一切経での最高の悟り)を得さしめたとします。それらの施しで得られた功徳は、是の第五十の人(法華経を聞き随喜し次々と人に伝え五十番目に聞いた人)が法華経の一偈を聞いて随喜した功徳には及びません。それどころが、百分・千分・百千万億分の一にも及ばないのです。

by johsei1129 | 2015-01-09 22:18 | 池上兄弟 | Trackback | Comments(0)
2014年 05月 22日

法華経は教主釈尊の師で一字一句も捨てる事は父母を殺す罪に過ぎると説いた書【兄弟抄】五

[兄弟抄] 本文 その五

 西域と申す文にかきて候は月氏に婆羅なつ斯国・施鹿林と申すところに一の隠士あり仙の法を成ぜんとをもう、すでに瓦礫を変じて宝となし人畜の形をかえけれどもいまだ風雲にのつて仙宮にはあそばざりけり、此の事を成ぜんがために一の烈士をかたらひ長刀をもたせて壇の隅に立てて息をかくし言をたつ、よひよりあしたにいたるまで・ものいはずば仙の法・成ずべし、仙を求る隠士は壇の中に坐して手に長刀をとつて口に神呪をずうす約束して云く設ひ死なんとする事ありとも物言う事なかれ烈士云く死すとも物いはじ、此の如くして既に夜中を過ぎて夜まさにあけんとする時、如何が思いけん烈士大に声をあげて呼はる、既に仙の法成ぜず、隠士烈士に言つて云く何に約束をばたがふるぞ口惜しき事なりと云う、烈士歎いて云く少し眠つてありつれば昔し仕へし主人自ら来りて責めつれども師の恩厚ければ忍で物いはず、彼の主人怒つて頚をはねんと云う、然而(されど)又ものいはず、遂に頚を切りつ中陰に趣く我が屍を見れば惜く歎かし然而物いはず、遂に南印度の婆羅門の家に生れぬ入胎出胎するに大苦忍びがたし然而息を出さず、又物いはず已に冠者となりて妻をとつぎぬ、又親死ぬ又子をまうけたり、かなしくもありよろこばしくもあれども物いはず此くの如くして年六十有五になりぬ、我が妻かたりて云く汝若し物いはずば汝がいとをしみの子を殺さんと云う、時に我思はく我已に年衰へぬ此の子を若し殺されなば又子をまうけがたしと思いつる程に声をおこすと・をもへば・をどろきぬと云いければ、師が云く力及ばず我も汝も魔に・たぼらかされぬ終に此の事成ぜずと云いければ、烈士大に歎きけり我心よはくして師の仙法を成ぜずと云いければ、隠士が云く我が失なり兼て誡めざりける事をと悔ゆ、然れども烈士師の恩を報ぜざりける事を歎きて遂に思ひ死にししぬとかかれて候、仙の法と申すは漢土には儒家より出で月氏には外道の法の一分なり、云うにかひ無き仏教の小乗阿含経にも及ばず況や通別円をや況や法華経に及ぶべしや、かかる浅き事だにも成ぜんとすれば四魔競て成じかたし、何に況や法華経の極理・南無妙法蓮華経の七字を始めて持たん日本国の弘通の始ならん人の弟子檀那とならん人人の大難の来らん事をば言をもつて尽し難し心をもつて・をしはかるべしや。

 されば天台大師の摩訶止観と申す文は天台一期の大事・一代聖教の肝心ぞかし、仏法漢土に渡つて五百余年・南北の十師・智は日月に斉く徳は四海に響きしかどもいまだ一代聖教の浅深・勝劣・前後・次第には迷惑してこそ候いしが、智者大師再び仏教をあきらめさせ給うのみならず、妙法蓮華経の五字の蔵の中より一念三千の如意宝珠を取り出して三国の一切衆生に普く与へ給へり、此の法門は漢土に始るのみならず月氏の論師までも明し給はぬ事なり、然れば章安大師の釈に云く「止観の明静なる前代に未だ聞かず」云云、又云く「天竺の大論尚其の類に非ず」等云云、其の上摩訶止観の第五の巻の一念三千は今一重立ち入たる法門ぞかし、此の法門を申すには必ず魔出来すべし魔競はずは正法と知るべからず、第五の巻に云く「行解既に勤めぬれば三障四魔紛然として競い起る乃至随う可らず畏る可らず之に随えば将に人をして悪道に向わしむ之を畏れば正法を修することを妨ぐ」等云云、此の釈は日蓮が身に当るのみならず門家の明鏡なり謹んで習い伝えて未来の資糧とせよ。此の釈に三障と申すは煩悩障・業障・報障なり、煩悩障と申すは貪瞋癡等によりて障礙出来すべし、業障と申すは妻子等によりて障礙出来すべし、報障と申すは国主父母等によりて障礙出来すべし、又四魔の中に天子魔と申すも是くの如し今日本国に我も止観を得たり我も止観を得たりと云う人人誰か三障四魔競へる人あるや、之に随えば将に人をして悪道に向わしむと申すは只三悪道のみならず人天・九界を皆悪道とかけり、されば法華経を除きて華厳・阿含・方等・般若・涅槃・大日経等なり、天台宗を除きて余の七宗の人人は人を悪道に向わしむる獄卒なり、天台宗の人人の中にも法華経を信ずるやうにて人を爾前へやるは悪道に人をつかはす獄卒なり。

 今二人の人人は隠士と烈士とのごとし一もかけなば成ずべからず、譬えば鳥の二つの羽人の両眼の如し、又二人の御前達は此の人人の檀那ぞかし女人となる事は物に随つて物を随える身なり夫たのしくば妻もさかふべし夫盗人ならば妻も盗人なるべし、是れ偏に今生計りの事にはあらず世世・生生に影と身と華と果と根と葉との如くにておはするぞかし、木にすむ虫は木をはむ・水にある魚は水をくらふ・芝かるれば蘭なく松さかうれば柏よろこぶ、草木すら是くの如し、比翼と申す鳥は身は一つにて頭二つあり二つの口より入る物・一身を養ふ、ひほくと申す魚は一目づつある故に一生が間はなるる事なし、夫と妻とは是くの如し此の法門のゆへには設ひ夫に害せらるるとも悔ゆる事なかれ、一同して夫の心をいさめば竜女が跡をつぎ末代悪世の女人の成仏の手本と成り給うべし、此くの如くおはさば設ひいかなる事ありとも日蓮が二聖・二天・十羅刹・釈迦・多宝に申して順次生に仏になし・たてまつるべし、心の師とは・なるとも心を師とせざれとは六波羅蜜経の文なり。

 設ひ・いかなる・わづらはしき事ありとも夢になして只法華経の事のみさはぐらせ給うべし、中にも日蓮が法門は古へこそ信じかたかりしが今は前前いひをきし事既にあひぬればよしなく謗ぜし人人も悔る心あるべし、設ひこれより後に信ずる男女ありとも各各にはかへ思ふべからず、始は信じてありしかども世間のをそろしさにすつる人人かずをしらず、其の中に返つて本より謗ずる人人よりも強盛にそしる人人又あまたあり、在世にも善星比丘等は始は信じてありしかども後にすつるのみならず返つて仏をはうじ奉りしゆへに仏も叶い給はず無間地獄にをちにき、此の御文は別してひやうへの志殿へまいらせ候、又太夫志殿の女房兵衛志殿の女房によくよく申しきかせさせ給うべし・きかせさせ給うべし・南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経。

文永十二年四月十六日              日 蓮 花 押

by johsei1129 | 2014-05-22 19:50 | 池上兄弟 | Trackback | Comments(0)
2014年 05月 21日

法華経は教主釈尊の師で一字一句も捨てる事は父母を殺す罪に過ぎると説いた書【兄弟抄】四

[兄弟抄] 本文 その四

 釈迦如来は太子にて・をはせし時・父の浄飯王・太子を・をしみたてまつりて出家をゆるし給はず、四門に二千人の・つわものをすへて・まほらせ給ひしかども、終に・をやの御心をたがへて家を・いでさせ給いき、一切は・をやに随うべきにてこそ候へども・仏になる道は随わぬが孝養の本にて候か、されば心地観経には孝養の本をとかせ給うには棄恩入無為・真実報恩者等云云、言は・まことの道に入るには父母の心に随わずして家を出て仏になるが・まことの恩をほうずるにてはあるなり、世間の法にも父母の謀反なんどを・をこすには随わぬが孝養とみへて候ぞかし、孝経と申す経に見へて候、天台大師も法華経の三昧に入らせ給いて・をはせし時は父母・左右のひざに住して仏道をさえんとし給いしなり、此れは天魔の父母のかたちをげんじてさうるなり。

 白ひすくせいが因縁は・さきにかき候ぬ、又第一の因縁あり、日本国の人王・第十六代に王をはしき応神天王と申す今の八幡大菩薩これなりこの王の御子二人まします嫡子をば仁徳・次男は宇治王子天王・次男の宇治の王子に位をゆづり給いき、王ほうぎよならせ給いて後・宇治の王子の云く兄位につき給うべし、兄の云く、いかに・をやの御ゆづりをば・もちゐさせ給わぬぞ、かくのごとく・たがいにろむじて、三箇年が間・位に王をはせざりき、万民のなげき・いうばかりなし・天下のさいにて・ありしほどに、宇治の王子云く我いきて・あるゆへにあに位に即き給わずといつて死させ給いにき、仁徳これを・なげかせ給いて又ふししづませ給いしかば、宇治の王子いきかへりて・やうやうに・をほせをかせ給いて・又ひきいらせ給いぬ、さて仁徳・位につかせ給いたりしかば国をだやかなる上しんら・はくさひ・かうらいも日本国にしたがひて・ねんぐを八十そうそなへけると・こそみへて候へ。

 賢王のなかにも・兄弟をだやかならぬれいもあるぞかし・いかなるちぎりにて兄弟かくは・をはするぞ浄蔵・浄眼の二人の太子の生れかはりて・をはするか・薬王・薬上の二人か、大夫志殿の御をやの御勘気はうけ給わりしかどもひやうへの志殿の事は今度は・よも・あにには・つかせ給はじ・さるにては・いよいよ大夫志殿のをやの御不審は・をぼろげにては・ゆりじなんど・をもつて候へば・このわらわの申し候は・まことにてや候らん、御同心と申し候へば・あまりの・ふしぎさに別の御文をまいらせ候、未来までの・ものがたりなに事か・これにすぎ候べき。

[兄弟抄] 本文 その五に続く
 

by johsei1129 | 2014-05-21 20:44 | 池上兄弟 | Trackback | Comments(0)