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日蓮大聖人『御書』解説

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カテゴリ:池上兄弟( 23 )


2016年 03月 15日

池上兄弟の弟、宗長より青鳧五貫文を供養され南無妙法蓮華経を一返唱えたと記された書【兵衛志殿御返事】

【兵衛志殿御返事】
■出筆時期:建治三年(1276)六月十八日 五十六歳御作
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:本抄は短い御消息ですが、池上兄弟の弟・池上宗長より青鳧五貫文をご供養されたことへの返書で、大聖人は「唱え奉る南無妙法蓮華経一返の事」と記され宗長の志に答えられておられます。
尚、青鳧五貫文とは当時の価値でおよそお米五石(約750kg)位となり、金銭としては大きな供養であると考えられます。池上兄弟の父は鎌倉幕府作事奉行(建築・土木の長官)で、広大な所領をもち経済的にはかなり恵まれていたと思われます。また母方の叔父が六老僧の一人日昭で、同じく母方の従兄弟に六老僧の一人日朗がおります。
■ご真筆:京都市 本圀寺所蔵。
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【兵衛志殿御返事 本文】

青鳧五貫文
送り給び了んぬ。唱え奉る
南無妙法蓮華
経一返の事、恐恐。 

六月十八日    日 蓮 花 押
兵衛志殿御返事






by johsei1129 | 2016-03-15 20:20 | 池上兄弟 | Trackback | Comments(0)
2016年 03月 09日

銅の御器二つ供養された池上宗長の女房を釈迦仏が成道するとき乳粥を捧げた牧牛女に匹敵すると称えた【兵衛志殿女房御返事】

【兵衛志殿女房御返事】
■出筆時期:建治三年弘安二年(1277)十一月七日 五十六歳御作
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:本抄は池上兄弟の弟兵衛志殿(池上宗長)の女房から、銅製の器二つをご供養されたことへの返書となっております。
銅製の器二つとは、おそらく身延の草庵の宝殿の左右に据える仏具であろうと思われ、鎌倉時代としては非常に高価なものであったと推察されます。

大聖人は釈尊が仏になる時の修行中、バラモンの難行苦行では悟れないと、その修行を放棄し弱った体を休めていた時「牧牛女(もくごにょ)と申せし女人(仏伝では村長の娘スジャータ)」から牛の乳の粥を供養され体力を回復、その後菩提樹のもとで瞑想し成道したという謂れを説いて、この度銅器二つをはるばる身延の宝前まで届けた兵衛志殿女房は、その牧牛女に匹敵すると称えられておられます。
■ご真筆:現存しておりません。

【兵衛志殿女房御返事 本文】

銅の御器二つ給び畢ぬ。
釈迦仏三十の御年、仏になり始(そ)めてをはし候時、牧牛女と申せし女人、乳のかい(粥)をにて仏にまいらせんとし候ひし程に、いれてまいらすべき器なし。
毘沙門天王等の四天王、四鉢を仏にまいらせたりし、其の鉢をうちかさねてかい(粥)をまいらせしに仏にはならせ給ふ。
其の鉢、後には人ももらざりしかども、常に飯のみ(満)ちしなり。後に馬鳴菩薩と申せし菩薩、伝へて金銭三貫にほうじたりしなり。
今御器二を千里にをくり、釈迦仏にまいらせ給へば、かの福のごとくなるべし。委しくは申さず候。
十一月七日  日蓮花押 
兵衛志殿女房御返事 




by johsei1129 | 2016-03-09 21:10 | 池上兄弟 | Trackback | Comments(0)
2016年 02月 16日

四百万億那由佗国の六道の衆生を八十年養い法華経より外の一切経で菩薩となせる檀那より、法華経計り を一字一句一偈持つ人の功徳は百千万億倍勝れる、と説いた【大夫志殿御返事】

【大夫志殿御返事】
■出筆時期:弘安三年(1280)十二月初旬 五十九歳御作。
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:本抄は池上兄弟の兄、池上宗仲から小袖(こそで)、直垂(ひたたれ)、腰三具等を供養されたことへの返書となっております。
大聖人は本抄後段で「百万億那由佗国の六道の衆生を八十年やしなひ法華経より外の已今当の一切経を一一の衆生に読誦せさせて三明六通の阿羅漢・辟支仏(びゃくしぶつ)・等覚の菩薩となせる一人の檀那と、世間出世の財を一分も施さぬ人の法華経計りを一字・一句・一偈持つ人と相対して功徳を論ずるに、法華経の行者の功徳勝れたる事・百千万億倍なり」と記され、法華経計りを一字・一句・一偈持つ法華経の行者の功徳が甚大であると断じられておられます。また文末で「此の由を女房には申させ給へ」と記されておられるのは恐らく宗仲が女房から法華経をたもつことの功徳について何がしか質問され、それを宗仲が大聖人に問われたものと推察されます。
■ご真筆:京都市妙覚寺(右)、神奈川県妙本寺(左)、他ヶ所にて断簡所蔵。
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[真筆本文緑字]
【大夫志殿御返事 本文】

小袖一つ直垂三具・同じく腰三具等云云、小袖は七貫・直垂並びに腰は十貫・已上十七貫文に当れり。
夫れ以(おもんみ)れば天台大師の御位を章安大師顕して云く「止観の第一に序文を引いて云く安禅として化す、位五品に居したまえり、故に経に云く四百万億那由佗の国の人に施すに一一に皆七宝を与え又化して六通を得しむるすら初随喜の人に如(しか)ざること百千万倍せり況や五品をや、文に云く即如来の使なり如来の所遣(しょけん)として如来の事を行ず」等云云、

伝教大師天台大師を釈して云く「今吾が天台大師は法華経を説き法華経を釈し群に特秀し唐に独歩す」云云、又云く「明かに知んぬ如来の使なり讃むる者は福を安明(あんみょう)に積み謗(そし)る者は罪を無間に開く」と云云、是の如きは且らく之を置く、滅後一日より正像二千余年の間・仏の御使二十四人なり、所謂第一は大迦葉・第二は阿難・第三は未田地(までんだい)・第四は商那和修・第五は毱多(きくた)・第六は提多迦(だいたか)・第七は弥遮迦(みしゃか)・第八は仏駄難提(ぶつだなんだい)・第九は仏駄密多(ぶつだみった)・第十は脇比丘(きょうびく)・第十一は富那奢(ふなしゃ)・第十二は馬鳴(めみょう)・第十三は毘羅(びら)・第十四は竜樹(りゅうじゅ)・第十五は提婆・第十六は羅喉(らご)・第十七は僧佉難提(そうぎゃなんだい)・第十八は僧耶奢(そうぎゃやしゃ)・第十九は鳩摩羅駄(くまらだ)・第二十は闍夜那(じゃやな)・第二十一は盤駄(はんだ)・第二十二は摩奴羅(まぬら)・第二十三は鶴勒夜奢(かくろくやしゃ)・第二十四は師子尊者、此の二十四人は金口の記する所の付法蔵経に載す。但し小乗・権大乗経の御使なりいまだ法華経の御使にはあらず、三論宗の云く「道朗吉蔵は仏の使なり」法相宗の云く「玄奘慈恩は仏の使なり」華厳宗の云く「法蔵・澄観は仏の使なり」真言宗の云く「善無畏・金剛智・不空・慧果・弘法等は仏の使なり」。

日蓮之を勘えて云く全く仏の使に非ず全く大小乗の使にも非ず、之を供養せば災を招き之を謗ぜば福を至さん、問う汝の自義か答えて云く設い自義為りと雖も有文有義ならば何の科あらん、然りと雖も釈有り伝教大師云く「誰か福を捨て罪を慕う者あらんや」云云。

福を捨てるとは天台大師を捨てる人なり、罪を慕うとは上に挙ぐる所の法相・三論・華厳・真言の元祖等なり、彼の諸師を捨て一向に天台大師を供養する人の其の福を今申すべし。

三千大千世界と申すは東西南北・一須弥山・六欲梵天を一四天下となづく、百億の須弥山・四州等を小千と云う、小千の千を中千と云う、中千の千を大千と申す、此の三千大千世界を一にして四百万億那由佗国の六道の衆生を八十年やしなひ法華経より外の已今当の一切経を一一の衆生に読誦せさせて三明六通の阿羅漢・辟支仏・等覚の菩薩となせる一人の檀那と、世間出世の財を一分も施さぬ人の法華経計りを一字・一句・一偈持つ人と相対して功徳を論ずるに、法華経の行者の功徳勝れたる事・百千万億倍な、天台大師此れに勝れたる事五倍なり、かかる人を供養すれば福を須弥山につみ給うなりと伝教大師ことはらせ給ひて候、此の由を女房には申させ給へ。
恐恐謹言。          
                日蓮花押
大夫志殿御返事


          


by johsei1129 | 2016-02-16 22:32 | 池上兄弟 | Trackback | Comments(0)
2016年 01月 10日

大聖人の病状を知り、当時としては貴重な生和布(なまわかめ)を供養された池上宗仲の師を思う志を称え られた書【大夫志殿御返事】

【大夫志殿御返事】
■出筆時期:弘安四年(1281)十二月十一日日 六十歳御作
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:本抄は池上兄弟の兄・宗仲(大夫志殿)が大聖人の病状を知り、体に良いものとして酒、
味噌また当時としては貴重な生和布(なまわかめ)をご供養されたことへの返書となっております。
大聖人は晩年特に佐渡流罪中の辛労、また身延山中の寒さが影響したのか胃腸が弱り痩せ病、
下痢などの症状になります。
これに対して医術の心得のある四条金吾が煎じた薬で回復したことを記された御書【中務左衛門尉殿御返事(二病抄)】も残されております。

本抄を送られた弘安四年十二月は御遷化なされる十ヶ月ほど前で、病状も一層悪化していたものと思わ
れ、それを知った宗仲は、恐らく親しい医師等に大聖人の病状を伝え、その上で体に良いものを取り揃
え、脚力(飛脚)を使って直ぐに大聖人の下へ届けられたものと思われます。

大聖人は特に生和布に喜ばれるとともに、この宗仲の大聖人を思う志を「生和布は始めてにて候、将又
病の由聞かせ給いて不日に此の物して御使をもつて脚力につかわされて候事心ざし大海よりふかく善根
は大地よりも厚し、かうじんかうじん」と称えられておられます。
■ご真筆:現存しておりません。

【大夫志殿御返事 本文】

聖人(すみざけ)一つつ、味文字一をけ(桶)、生和布一こ。
聖人と味文字は・さてをき候いぬ生和布は始めてにて候。
将又病の由聞かせ給いて、不日に此の物して御使をもつて脚力につかわされて候事心ざし、
大海よりふかく善根は大地よりも厚し、かうじんかうじん、恐恐。

十二月十一日    日蓮 花押
大夫志殿御返事

注[脚力]:大化の改新(646年)により西暦701(大宝1)年、通信物を運ぶ「脚力」(飛脚)の制度が定められた。 ※参照「年賀状博物館」より。




by johsei1129 | 2016-01-10 19:01 | 池上兄弟 | Trackback | Comments(0)
2016年 01月 08日

大聖人が池上宗長の女房が子ができないと諦め嘆いていると聞き、今後はあきらめず望みを託して行きなさいと励まされた【兵衛志殿女房御返事】

【兵衛志殿女房御返事】
■出筆時期:弘安二年(1279)十一月二十五日 五十八歳御作
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:本抄は池上兄弟の弟兵衛志殿(宗長)の妻から、「絹の片裏」をご供養されたことへの返書となっております。
大聖人は弟子から宗長の妻が子ができないのですっかり諦めて嘆いていることを聞き、世間でそのように言っていることは嘆かわしいけれど、たとえ今まではそうであっても、これからは子を持つ望みを託していきなさいと慈愛あふれる言葉をかけられておられます。

尚、この消息について、子供が多く暮らし向きが厳しいと嘆いていると解釈されている事例もありますが、子供が多くて嘆くとは不自然であり、池上兄弟の父は鎌倉幕府・作事奉行(建築・土木の長官にあたる)の要職にあり、大聖人への供養も熱心で、経済的には恵まれていたと思われるので、ここは子供ができないことを嘆いていると推察します。
■ご真筆:千葉県 誕生寺(全文)所蔵。
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【兵衛志殿女房御返事 本文】

兵衛志殿女房、絹片裏給い候。
此の御心は法華経の御宝前に申し上げて候、
まこととはをぼへ候はねども此の御房たちの申し候は、御子どもはなし。
よにせけんふつふつとをはすると申され候こそなげかしく候へども、
さりともとをぼしめし候へ、恐恐。
十一月廿五日                   日 蓮 在 御 判
兵韋志殿女房御返事

※注(古語)
[ふつふつ]:ものを勢いよく断ち切る時の時の音及び形容。きっぱりと、すっかり。
[さりとも]:現状と異なることに望みを託す場合に使用。たとえそうであっても。いままではそうでもこれからは。
※全訳読解古語辞典(三省堂)より。







by johsei1129 | 2016-01-08 16:47 | 池上兄弟 | Trackback | Comments(0)
2015年 10月 31日

会い難き法華経の共に離れずば我が身仏に成るのみならず背きし親をも導びきなん、と説いた兵衛志殿御返事】

【兵衛志殿御返事】
■出筆時期:建治三年(1277年)十一月二十日 五十六歳御作
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■執筆の経緯:本抄は池上兄弟の弟宗長に送られた数多くの消息の中で、最も厳しく且つ大聖人の慈愛あふれる指導が記された消息です。
大聖人は兄宗仲が二度目の勘当を受けたことを聞き、「このたびゑもんの志どの(兄宗仲)かさねて親のかんだうあり・とのの御前にこれにて申せしがごとく一定かんだうあるべし、ひやうへの志(さかん)殿をぼつかなし、ごぜんかまへて御心へあるべしと申して候しなり。今度はとのは一定を(落)ち給いぬとをぼうるなり、をち給はんをいかにと申す事はゆめゆめ候はず、但地獄にて日蓮をうらみ給う事なかれ、しり候まじきなり」と記し、この度はとの(宗長)はおちる(退転)だろうが、地獄で日蓮を恨むでないと、宗長の退路を断つべく非情とも言える指導をなされておられます。
さらに本文中段では「武蔵の入道そこばくの所領所従等をすてて遁世あり。ましてわどのばらがわづかの事をへつらひて心うすくて悪道に堕ちて日蓮をうらみさせ給うな」と記され、僅かの利益のため親や世間にへつらって信仰心が薄くて悪道に落ちて日蓮を恨むなと、重ねて厳しく指導されておられます。

しかし一方で「必ず三障四魔と申す障いできたれば賢者はよろこび愚者は退くこれなり。此の事はわざとも申し又びんぎにと・をもひつるに御使ありがたし、堕ち給うならば・よもこの御使は・あらじと・をもひ候へば・もしやと申すなり」と記され、本当に退転するならこの度供養を使わせることはないだろうから、もしや退転しないのではと思うから申し上げるのですと、厳しさの中にも慈愛あふれる言葉をかけられておられます。
さらに文末では「よくよくをもひ切つて一向に後世をたのまるべし、かう申すとも・いたづらのふみなるべしと・をもへば、かくも・ものうけれども・のちのをもひでにしるし申すなり」と、宗長が現世の利益を求めるのでなく、あくまで後生善処を願う決断をすることを促されておられます。
※尚、この池上兄弟の勘当の顛末については小説日蓮<71弟の宗長を諌暁> を参照してください。

■ご真筆:京都市 妙覚寺(全16紙)所蔵。他一箇所にて第11紙末尾2行の断簡所蔵。
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[真筆本文:下記緑字箇所]

[兵衛志殿御返事 本文]  [英語版]

かたがたのものふ二人をもつて、をくりたびて候。その心ざし弁殿の御ふみに申すげに候。
さてはなによりも御ために第一の大事を申し候なり、正法・像法の時は世もいまだをとろへず聖人・賢人も・つづき生れ候き天も人をまほり給いき、末法になり候へば人のとんよくやうやくすぎ候て主と臣と親と子と兄と弟と諍論ひまなし。まして他人は申すに及ばず、これに・よりて天も・その国をすつれば三災七難乃至一二三四五六七の日いでて草木かれうせ小大河もつき大地はすみのごとく・をこり大海はあぶらのごとくになり・けつくは無間地獄より炎いでて上梵天まで火炎・充満すべし、これていの事いでんとて・やうやく世間はをとへ候なり。

皆人のをもひて候は父には子したがひ臣は君にかなひ弟子は師にゐすべからずと云云、かしこき人もいやしき者もしれる事なり、しかれども貪欲瞋恚愚癡と申すさけ(酒)にえいて主に敵し親をかろしめ師をあなづるつねにみへて候、但師と主と親とに随いてあしき事をば諌(いさめ)ば孝養となる事はさきの御ふみにかきつけて候いしかばつねに御らむあるべし。

ただこのたびゑもんの志どの(兄宗仲)かさねて親のかんだうあり・とのの御前にこれにて申せしがごとく一定かんだうあるべし、ひやうへの志殿をぼつかなしごぜんかまへて御心へあるべしと申して候しなり。今度はとのは一定をち給いぬとをぼうるなり、をち給はんをいかにと申す事はゆめゆめ候はず、但地獄にて日蓮をうらみ給う事なかれしり候まじきなり。

千年のかるかやも一時にはひ(灰)となる百年の功も一言にやぶれ候は法のことわりなり
さえもんの大夫殿は今度・法華経のかたきに・なりさだまり給うとみへて候。えもんのたいうの志殿は今度法華経の行者になり候はんずらん。
とのは現前の計(はからい)なれば親につき給はんずらむ。ものぐるわしき人人はこれをほめ候べし。宗盛が親父入道の悪事に随いてしのわら(篠原)にて頚を切られし、重盛が随わずして先に死せし、いづれか親の孝人なる。
法華経のかたきになる親に随いて一乗の行者なる兄をすてば親の孝養となりなんや。せんするところひとすぢにをもひ切つて兄と同じく仏道をなり給へ。

親父は妙荘厳王のごとし兄弟は浄蔵浄眼なるべし、昔と今はかわるとも法華経のことわりは・たがうべからず、当時も武蔵の入道そこばくの所領所従等をすてて遁世あり。ましてわどのばらがわづかの事をへつらひて心うすくて悪道に堕ちて日蓮をうらみさせ給うな。

かへすがへす今度とのは堕べしとをぼうるなり。此の程心ざしありつるがひきかへて悪道に堕ち給はん事がふびんなれば申すなり。百に一つ千に一つも日蓮が義につかんとをぼさば、親に向つていい切り給へ。

親なれば・いかにも順いまいらせ候べきが法華経の御かたきになり給へば・つきまいらせては不孝の身となりぬべく候へば、すてまいらせて兄につき候なり。兄をすてられ候わば兄と一同とをぼすべしと申し切り給へ、すこしも・をそるる心なかれ、過去遠遠劫より法華経を信ぜしかども仏にならぬ事これなり。しをのひると・みつと月の出づると・いると・夏と秋と冬と春とのさかひには必ず相違する事あり凡夫の仏になる又かくのごとし。
必ず三障四魔と申す障(さわり)いできたれば賢者はよろこび愚者は退くこれなり。此の事はわざとも申し又びんぎにと・をもひつるに御使ありがたし、堕ち給うならば・よもこの御使は・あらじと・をもひ候へば・もしやと申すなり。

仏になり候事は此の須弥山にはりをたてて彼の須弥山よりいとをはなちて、そのいとの・すぐにわたりて・はりのあなに入るよりもかたし。
いわうや・さかさまに大風のふきむかへたらんは・いよいよかたき事ぞかし。

経に云く「億億万劫より不可議に至る時に乃ち是の法華経を聞くことを得、億億万劫より不可議に至る諸仏世尊時に是の経を説きたもう・是の故に行者仏滅後に於て是くの如きの経を聞いて疑惑を生ずること勿れ」等云云、此の経文は法華経二十八品の中に・ことにめづらし。

序品より法師品にいたるまで等覚已下の人天・四衆・八部・其のかずありしかども仏は但釈迦如来一仏なり重くてかろきへんもあり。宝塔品より嘱累品にいたるまでの十二品は殊に重きが中の重きなり、其の故は釈迦仏の御前に多宝の宝塔涌現せり月の前に日の出でたるがごとし、又十方の諸仏は樹下に御はします十方世界の草木の上に火をともせるがごとし。此の御前にてせんせられたる文なり。

涅槃経に云く「昔無数無量劫より来た常に苦悩を受く、一一の衆生一劫の中に積む所の骨は王舎城の毘富羅(びふら)山の如く飲む所の乳汁(ちち)は四海の水の如く身より出す所の血は四海の水より多く、父母兄弟妻子眷属の命終に哭泣(こうきゅう)して出す所の目涙(なんだ)は四大海より多く、地の草木を尽くして四寸の籌(かずとり)と為し以て父母を数うも亦尽くすこと能わじ」云云。

此の経文は仏最後に雙林の本に臥てかたり給いし御言なりもつとも心をとどむべし、無量劫より已来(このかた)生(うむ)ところの父母は十方世界の大地の草木を四寸に切りてあてかぞうとも・たるべからずと申す経文なり、此等の父母にはあひしかども法華経にはいまだ・あわず、されば父母はまうけやすし法華経はあひがたし、今度あひやすき父母のことばを・そむきて・あひがたき法華経のともにはなれずば我が身・仏になるのみならず・そむきしをやをもみちびきなん。

例せば悉達太子は浄飯王の嫡子なり国をもゆづり位にもつけんと・をぼして・すでに御位につけまいらせたりしを御心をやぶりて夜中城をにげ出でさせ給いしかば不孝の者なりと・うらみさせ給いしかども仏にならせ給うては・まづ浄飯王・麻耶夫人をこそ・みちびかせ給いしか。

をやという・をやの世をすてて仏になれと申すをやは一人もなきなり、これは・とによせ・かくによせて・わどのばらを持斎・念仏者等が・つくり・をとさんために・をやを・すすめをとすなり、両火房は百万反(べん)の念仏をすすめて人人の内をせきて法華経のたねを・たたんと・はかるときくなり、極楽寺殿はいみじかりし人ぞかし、念仏者等にたぼらかされて日蓮を怨ませ給いしかば我が身といい其の一門皆ほろびさせ給う・ただいまは・へちご(越後)の守殿(こうどの)一人計りなり、両火房を御信用ある人はいみじきと御らむあるか、なごへの一門の善光寺・長楽寺・大仏殿立てさせ給いて其の一門のならせ給う事をみよ、又守殿は日本国の主にてをはするが、一閻浮提のごとくなる・かたきをへさせ給へり。

わどの兄をすてて・あにがあとを・ゆづられたりとも千万年のさかへ・かたかるべし、しらず又わづかの程にや・いかんが・このよならんずらん、よくよくをもひ切つて一向に後世をたのまるべし、かう申すとも・いたづらのふみなるべしと・をもへば、かくも・ものうけれども・のちのをもひでに・しるし申すなり、恐恐謹言。

十一月二十日  日 蓮 花 押
兵衛志殿御返事

by johsei1129 | 2015-10-31 20:40 | 池上兄弟 | Trackback | Comments(0)
2015年 10月 30日

池上宗長に、いよいよ張り上げて責むべし設ひ命に及ぶとも少しも怯む事なかれと説いた【兵衛志 殿御返事】

【兵衛志殿御返事】
■出筆時期:建治三年(1277年)八月二十一日 五十六歳御作
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■執筆の経緯:本抄は池上兄弟の弟、池上宗長に送られた消息です。
池上兄弟の兄宗仲は、前年に熱心な念仏信者の父により勘当され、弟の宗長が父と兄の狭間で法華経信仰が揺れ動くのをみて、大聖人は本書文末で「此れより後も、いかなる事ありとも、すこしもたゆむ事なかれ。いよいよ、はりあげてせむべし。設ひ命に及ぶともすこしもひるむ事なかれ」と記され、法華経信仰を貫き通すよう厳しく指導されておられます。
尚文中「えもんのたいう(兄宗仲)殿の御文と引き合せて心へさせ給へ」とある御文とは兄弟抄のことと思われます。

大聖人が池上兄弟に送られた消息は、圧倒的に弟・宗長(兵衛志殿)に宛てられた書が多く、これは二度の勘当でも大聖人に帰依し続けた兄・宗仲(衛門太夫)には絶対的な信頼を持っていたことと、弟・宗長の揺れ動く信心を如何に心配されていたか、伺い知ることができます。
■ご真筆:京都市 立本寺所蔵。
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[真筆本文:下記緑字箇所]

[兵衛志殿御返事 本文]

鵞目二貫文・武蔵房円日を使にて給び候い畢んぬ。

人王三十六代・皇極天皇と申せし王は女人にてをはしき、其の時入鹿(いるか)の臣(おみ)と申す者あり、あまり・おごりの・ものぐるわしさに王位を・うばはんと・ふるまいしを、天皇王子等不思議とはをぼせしかども・いかにも力及ばざりしほどに、大兄の王子・軽(かる)の王子等なげかせ給いて中臣の鎌子と申せし臣に申しあわせさせ給いしかば、臣申さく・いかにも人力はかなうべしとは・みへ候はず、馬子が例をひきて教主釈尊の御力ならずば叶がたしと申せしかば・さらばとて釈尊を造り奉りて・いのりしかば入鹿ほどなく打れにき、此の中臣の鎌子と申す人は
後には姓をかへて藤原の鎌足と申し内大臣になり大職冠と申す人・今の一の人の御先祖なり、此の釈迦仏は今の興福寺の本尊なり。

されば王の王たるも釈迦仏・臣の臣たるも釈迦仏・神国の仏国となりし事もえもんのたいう殿の御文と引き合せて心へさせ給へ、今代の他国にうばわれんとする事・釈尊を・いるがせにする故なり神の力も及ぶべからずと申すはこれなり。各各は二人は・すでにとこそ人はみしかどもかくいみじくみへさせ給うは・ひとえに釈迦仏・法華経の御力なりと・をぼすらむ、又此れにもをもひ候、後生のたのもしさ申すばかりなし、此れより後も・いかなる事ありとも・すこしもたゆむ事なかれ、いよいよ・はりあげてせむべし、設ひ命に及ぶともすこしも・ひるむ事なかれ、あなかしこ・あなかしこ、恐恐謹言。

八月二十一日                    日 蓮 花 押
兵衛志殿御返事


by johsei1129 | 2015-10-30 20:14 | 池上兄弟 | Trackback | Comments(0)
2015年 10月 26日

釈尊と耶輸多羅女のいわれを説いて兵衛志殿女房を称えた書【兵衛志殿女房御書】

【兵衛志殿女房御書】
■出筆時期:建治三年(1277)三月二日 五十六歳御作。
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:本抄は池上兄弟の弟・宗長の妻に送られた消息です。
 宗長がある尼御前を身延の草庵に見参させるため、大事な愛馬を提供されたことを「これは殿はさる事にて女房のはからひか」と、宗長とともに妻の配慮であろうと讃えられておられます。

冒頭では釈尊と出家前の妻・耶輸多羅女(やしょだら)との謂れを説かれ、究極的に耶輸多羅女は釈尊を慕い出家し、法華経勧持品で将来「具足千万光相如来」となるとの記別を受けたことを示されおられます。そして文末では、「此馬も法華経の道なれば百二十年御さかへの後、霊山浄土へ乗り給うべき御馬なり」と記し、この馬を手配し尼御前を大聖人の元に導いた兵衛志殿女房も、耶輸多羅女同様、霊山浄土にこの馬が導いてくれるでしょうと励まされておられます。
■ご真筆:現存しておりません。

[兵衛志殿女房御書 本文]

先度仏器まいらせさせ給い候しが、此度此の尼御前大事の御馬にのせさせ給いて候由承わり候、法にすぎて候御志かな。これは殿はさる事にて女房のはからひか。

昔儒童菩薩と申せし菩薩は、五茎の蓮華を五百の金銭を以てかいとり(買取)、定光菩薩を七日七夜供養し給いき。
女人あり瞿夷となづく、二茎の蓮華を以て自ら供養して云く、凡夫にてあらん時は世世・生生・夫婦とならん、仏にならん時は同時に仏になるべし、此のちかひ(誓)くちずして九十一劫の間・夫婦となる。
結句儒童菩薩は今の釈迦仏、昔の瞿夷は今の耶輸多羅女、今法華経の勧持品にして具足千万光相如来是なり。悉達太子檀特山に入り給しには金泥駒・帝釈の化身、摩騰迦・竺法蘭の経を漢土に渡せしには、十羅刹、化して白馬となり給ふ。

此馬も法華経の道なれば百二十年御さかへの後、霊山浄土へ乗り給うべき御馬なり、恐恐謹言。

建治三年丁丑三月二日        日 蓮 花 押
兵衛志殿女房

【妙法蓮華経 勧持品第十三】
爾時羅睺羅母 耶輸陀羅比丘尼 作是念
世尊於授記中 独不説我名
仏告耶輸陀羅 汝於来世 百千万億
諸仏法中 修菩薩行 為大法師 漸具仏道
於善国中 当得作仏 号具足千万光相如来
<中略>仏寿無量阿僧祇劫

[和訳]
その時羅睺羅(らごら)の母・耶輸陀羅比丘尼はこの念を成していた。
世尊(釈尊)は記を授ける中に於いて、独り我が名を説いていないと。
その思いを察した仏は耶輸陀羅にこう告げた。汝は来世に於いて百千万億の
諸仏と法の中で菩薩行を修め、大法師と為り漸し仏道を具足し
善き国の中に於いて、当に仏と作すことを得て、具足千万光相如来と号するべし。
<中略>その仏の寿命は無量阿僧祇劫なり。

by johsei1129 | 2015-10-26 19:51 | 池上兄弟 | Trackback | Comments(0)
2015年 09月 17日

齢既に六十に満ぬ<略>今年は過ぎ候とも一二をば如何か過ぎ候べきと自らの死期を示唆した【八幡宮造営事】

【八幡宮造営事】
■出筆時期:弘安四年(1281年)五月二十六日 六十歳御作
■出筆場所:身延山中の草庵にて。
■出筆の経緯:本抄は、鎌倉幕府作事奉行(建築・土木部門の長官)であった父の家督を継いた池上兄弟が、讒言により半年前の鎌倉の大火で焼失した八幡宮の再建の造営の任から外されたとの報告を受けたことへの返書となっております。
大聖人は冒頭で自身の病状が思わしくなく「齢既に六十にみちぬ、たとひ十に一今年はすぎ候とも一二をばいかでかすぎ候べき」と、例え今年は生き長らえたとしても、そのあと一、二年を過ごすことはできないだろうと、自らの死期を示唆されておられます。釈尊も三ヶ月後には滅度すると弟子に語っており、これは突然なくなって弟子・信徒が嘆くのを和らげるため、覚悟をしておくよう促された仏の深い慈悲であると拝します。
その苦しい中で「此の事大事なれば苦を忍んで申すものうしとおぼすらん一篇きこしめすべし」と、この消息を送ることの重要さを伝えておられます。

本書で大聖人は、池上兄弟が八幡宮造営の任を外されたことについて「かかる者(日蓮)の弟子檀那と成りて候が八幡宮を造りて候へども八幡大菩薩用いさせ給はぬゆへに此の国はせめらるるなりと申さむ時はいかがすべき<中略>(御造営の)はづるるも天の御計いか」と記し、蒙古に攻められた時世間の人々は、大聖人の弟子檀那が建てたからだと非難されたらどうするか、これは天の御計と考えなさい」と諭されておられます。

また文末では「あだみうらむる気色なくて身をやつし、下人をもぐせずよき馬にものらず<中略>此の事一事もたがへさせ給うならば今生には身をほろぼし後生には悪道に堕ち給うべし、返す返す法華経うらみさせ給う事なかれ」と、この度の事を恨むことなく、良い馬に乗らず質素に暮らすよう語りかけるとともに、日蓮の教えに一つでも違うなら、必ず悪道に落ちるのでその時は法華経を恨むでないと厳しく指導されておられます。
■ご真筆:現存しておりません。

[八幡宮造営事出家功徳御書 本文]

此の法門申し候事すでに廿九年なり、日日の論義月月の難両度の流罪に身つかれ心いたみ候いし故にや此の七八年間が間年年に衰病をこり候いつれどもなのめにて候いつるが、今年は正月より其の気分出来して既に一期をわりになりぬべし、其の上齢(よわい)既に六十にみちぬ、たとひ十に一今年はすぎ候とも一二をばいかでかすぎ候べき。
忠言は耳に逆い、良薬は口に苦(にが)しとは先賢の言なりやせ病の者は命をきらう佞人(ねいじん)は諌(いさめ)を用いずと申すなり。

此の程は上下の人人の御返事申す事なし、心もものうく手もたゆき故なり、しかりと申せども此の事大事なれば苦を忍んで申す、ものうしとおぼすらん一篇きこしめすべし、村上天皇の前(さきの)中書王の書を投げ給いしがごとくなることなかれ。

さては八幡宮の御造営につきて一定(いちじょう)さむそう(讒奏)や有らんずらむと疑いまいらせ候なり、をや(親)と云ひ我が身と申し二代が間きみにめしつかはれ奉りてあくまで御恩のみなり、設(たとい)一事相違すともなむのあらみ(粗略)かあるべき、わがみ賢人ならば設上(たとい・かみ)よりつかまつるべきよし仰せ下さるるとも一往はなに事につけても辞退すべき事ぞかし、幸に讒臣(ざんしん)等がことを左右によせば悦んでこそあるべきに望まるる事一の失(とが)なり。

此れはさてをきぬ五戒を先生に持ちて今生に人身を得たり、されば云うに甲斐なき者なれども国主等謂(いわれ)なく失にあつれば守護の天いかりをなし給う、況や命をうばわるる事は天の放ち給うなり、いわうや日本国四十五億八万九千六百五十九人の男女をば四十五億八万九千六百五十九の天まほり給うらん、然るに他国よりせめ来る大難は脱るべしとも見え候はぬは、四十五億八万九千六百五十九人の人人の天にも捨てられ給う上、六欲四禅梵釈日月四天等にも放たれまいらせ給うにこそ候いぬれ、然るに日本国の国主等八幡大菩薩をあがめ奉りなばなに事のあるべきと思はるるが、八幡は又自力叶いがたければ宝殿を焼きてかくれさせ給うか、然るに自(みずから)の大科をばかへりみず宝殿を造りてまほらせまいらせむとおもへり。

日本国の四十五億八万九千六百五十九人の一切衆生が釈迦多宝十方分身の諸仏・地涌と娑婆と他方との諸大士十方世界の梵釈日月四天に捨てられまひらせん分斉の事ならば、はづ(僅)かなる日本国の小神天照太神八幡大菩薩の力及び給うべしや。

其の時八幡宮はつくりたりとも此の国他国にやぶられば、くぼきところにちりたまり、ひききところに水あつまると、日本国の上一人より下万民にいたるまでさた(沙汰)せむ事は兼て又知れり、八幡大菩薩は本地は阿弥陀ほとけにまします、衛門(えもん)の大夫は念仏無間地獄と申す、阿弥陀仏をば火に入れ水に入れ其の堂をやきはらひ念仏者のくびを切れと申す者なり。かかる者の弟子檀那と成りて候が八幡宮を造りて候へども八幡大菩薩用いさせ給はぬゆへに此の国はせめらるるなりと申さむ時はいかがすべき。
然るに天かねて此の事をしろしめすゆへに御造営の大ばんしやうをはづされたるにやあるらむ神宮寺の事のはづるるも天の御計(はから)いか。

其の故は、去ぬる文永十一年四月十二日に大風ふきて其の年の他国よりおそひ来るべき前相なり、風は是れ天地の使なりまつり事あらければ、風あらしと申すは是なり。又今年四月廿八日を迎えて此の風ふき来る。而るに四月廿六日は八幡のむね上(あげ)と承はる、三日の内の大風は疑なかるべし、蒙古の使者の貴辺が八幡宮を造りて此の風ふきたらむに人わらひさた(沙汰)せざるべしや。

返す返す穏便にして、あだみうらむる気色なくて身をやつし下人をもぐせずよき馬にものらず、のこぎりかなづち手にもちこし(腰)につけて、つねにえ(咲)めるすがたてにておわすべし。
此の事一事もたがへさせ給うならば今生には身をほろぼし後生には悪道に堕(お)ち給うべし、返す返す法華経うらみさせ給う事なかれ、恐恐。

五月廿六日         日 蓮 花押

大夫志殿
兵衛志殿

by johsei1129 | 2015-09-17 20:11 | 池上兄弟 | Trackback | Comments(0)
2015年 08月 02日

極楽寺良観の熱心な信者である父を大聖人に帰依させた池上兄弟を称えた書【兵衛志殿御書(親父入信御書)】

【兵衛志殿御書(親父入信御書) 】
■出筆時期:弘安元年(西暦1278年)九月九日 五十七歳御作。
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:本抄は池上兄弟の弟、兵衛志宗長に与えられたご消息文です。池上兄弟の父康光は、幕府作事奉行(建築・土木事業の長)と言う要職についていましたが、念仏僧・極楽寺良観の熱心な信者で、良観を批判する大聖人に帰依する兄宗仲を、家督を継ぐ資格が無いという理由で前年(建治三年)の十一月、二度目の勘当をします。しかしその後兄弟の熱意にうたれついに大聖人に帰依します。

本抄で大聖人は「殿の御心賢くして日蓮がいさめを御もちゐ有りしゆへに、<中略>兄弟の御力にて親父を法華経に入れまいらせさせ給いぬる御計らい、偏に貴辺の御身にあり」と記され、勘当されても法華経信仰を貫いた兄宗仲と違い、法華経信仰を続けるべきか、はたまた父に従うべきか揺らいだ宗長を厳しく指導され、その結果父子ともども大聖人に帰依したことを「殿の御心賢くして日蓮がいさめを御もちゐ有りしゆへ」と讃えられておられます。

さらに文末では「教主釈尊の御使を二度までこうぢをわたし、弟子等をろうに入れ、或は殺し或は害し、或は所国をおひし故に、其の科必ず其の国国万民の身に一一にかかるべし。或は又白癩・黒癩・諸悪重病の人人おほかるべし、我が弟子等・此の由を存ぜさせ給へ」と記し、日蓮並びに弟子たちを弾圧した科は、必ず「還著於本人」の結果が出るので、その理由をよく知っておきなさいと指導されております。また追伸では「総じては我が一門の人人御覧有るべし、他人に聞かせ給うな」と記し、日蓮の弟子信徒以外の者が聞くと誤解する恐れがあるので、口外しないよう厳命されておられます。
■ご真筆: 東京都・池上本門寺所蔵。古写本:日興上人筆(北山本門寺所蔵)
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[真筆箇所本文:志殿と、とのとの御事ふしぎに候。
つねさまには代すえになり候へば聖人賢人もみなかくれ、ただざんじん・ねいじん・わざん・きよ]

[兵衛志殿御書(親父入信御書) 本文]

久しくうけ給わり候はねば・よくおぼつかなく候、何よりも・あはれに・ふしぎなる事は大夫志殿と殿との御事・不思議に候。
常さまには世末になり候へば聖人・賢人も皆かくれ・ただ・ざんじむ・ねいじん・わざん・きよくり(曲理)の者のみこそ国には充満すべきと見へて候へば、喩えば水すくなくなれば池さはがしく、風ふけば大海しづかならず、代の末になり候へば、かんばちえきれい大雨大風ふきかさなり候へば、広き心も・せばくなり、道心ある人も邪見になるとこそ見へて候へ。

されば他人はさてをきぬ父母と夫妻と兄弟と諍う事、れつし(猟師)としか(鹿)と、ねことねずみと、たかときじとの如しと見へて候。

良観等の天魔の法師らが親父左衛門の大夫殿をすかし、わどのばら二人を失はんとせしに、殿の御心賢くして日蓮がいさめを御もちゐ有りしゆへに、二のわの車をたすけ、二の足の人を・になへるが如く、二の羽のとぶが如く、日月の一切衆生を助くるが如く、兄弟の御力にて親父を法華経に入れまいらせさせ給いぬる御計らい、偏に貴辺の御身にあり。

又真実の経の御ことはりを代末になりて仏法あながちに・みだれば、大聖人世に出ずべしと見へて候。喩へば松のしもの後に木の王と見へ、菊は草の後に仙草と見へて候。代のおさまれるには賢人見えず、代の乱れたるにこそ聖人愚人は顕れ候へ。

あはれ平の左衛門殿、さがみ殿の日蓮をだに用いられて候いしかば、すぎにし蒙古国の朝使のくびは・よも切せまいらせ候はじ、くやしくおはすらなん。

人王八十一代安徳天皇と申す大王は、天台の座主・明雲等の真言師等・数百人かたらひて源の右将軍頼朝を調伏せしかば、還著於本人とて、明雲は義仲に切られぬ、安徳天皇は西海に沈み給う。人王八十二三四隠岐の法皇・阿波の院・佐渡の院・当今・已上四人・座主慈円僧正・御室・三井等の四十余人の高僧等をもて、平の将軍義時を調伏し給う程に、又還著於本人とて上の四王島島に放たれ給いき。

此の大悪法は弘法・慈覚・智証の三大師・法華経最第一の釈尊の金言を破りて、法華最第二・最第三・大日経最第一と読み給いし僻見を御信用有りて、今生には国と身とをほろぼし後生には無間地獄に堕ち給いぬ。

今度は又此の調伏三度なり、今我が弟子等死したらん人人は仏眼をもて是を見給うらん。命つれなくて生たらん眼に見よ。国主等は他国へ責めわたされ、調伏の人人は或は狂死或は他国或は山林にかくるべし。

教主釈尊の御使を二度までこうぢをわたし、弟子等をろうに入れ、或は殺し或は害し、或は所国をおひし故に、其の科必ず其の国国万民の身に一一にかかるべし。或は又白癩・黒癩・諸悪重病の人人おほかるべし、我が弟子等・此の由を存ぜさせ給へ。恐恐謹言。

九月九日          日 蓮 花 押

此の文は別しては兵衛の志殿へ、総じては我が一門の人人御覧有るべし、他人に聞かせ給うな。

by johsei1129 | 2015-08-02 19:09 | 池上兄弟 | Trackback | Comments(0)