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日蓮大聖人『御書』解説

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カテゴリ:池上兄弟( 23 )


2019年 11月 15日

鎌倉の強信徒池上宗仲に、弟子の僧坊の築造を依頼した書【両人御中御書】

【両人御中御書】
■出筆時期:弘安二年(西暦1279)十月二十日 五十八歳 御作。
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:本書は大国阿闍梨日朗と、池上兄弟の兄宗仲に宛てた書である。
 内容は、下総出身の古参の弟子大進房が熱原法難で敵方に寝返り、法華経信徒を馬に乗り暴徒を指揮して迫害、その時落馬し怪我を負い、それが原因で死去するが、生前法兄である弁阿闍梨日昭に自分の僧坊を譲るという譲状を残していた。
 大聖人はこのことを知り、直ちに今誰も住んでいない僧防を建て壊し、譲状のとおり日昭に渡して日照の僧坊を大きくしなさいと依頼されておられる。
 
 本書では、この頃大聖人の高弟達はそれぞれ僧坊をもち、そこを拠点に布教活動をしていて、弟子が弘教の主体となっていことをうかがわせる。また僧坊の建築に幕府作事奉行(建築・土木部門)の池上家、特に兄宗仲が大きく関わっていたことがわかる貴重な書となっている。
尚、大聖人は生涯最後の二十六日間を池上宗仲の館ですごし、弘安五年十月十三日に御入滅なされる。
■ご真筆: 京都市妙顕寺 所蔵。
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[両人御中御書 本文]

大国阿闍梨、えもん(衛門)のたいう(太夫)志(さかん)殿等に申す。故大進阿闍梨の坊は各各の御計らいに有るべきかと存じ候に、今に人も住せずなんど候なるはいかなる事ぞ。
 ゆづり状のなくばこそ、人人も計らい候はめ。くはしく、うけ給わり候へば、べんの阿闍梨にゆづられて候よし、うけ給わり候き。又いぎ(違義)あるべしとも、をぼへず候。

 それに御用いなきは別の子細の候か、其の子細なくば大国阿闍梨、大夫殿の御計らいとして、弁の阿闍梨の坊へこぼ(毀)ちわたさせ給い候へ。

 心けん(賢)なる人に候へば、いかんがとこそ、をもい候らめ。弁の阿闍梨の坊をすり(修理)してひろくも(漏)らずば、諸人の御ために、御たからにてこそ候はんずらむめ。 
 ふゆはせうまう(焼亡)しげし、もしやけなばそむ(損)と申し人もわらいなん。
 
 このふみ(文書)ついて両三日が内に事切(きれ)て、各各御返事給び候はん。恐恐謹言。

十月廿日                  日  蓮 花 押
両人御中
ゆづり状をたがうべからず。

by johsei1129 | 2019-11-15 06:56 | 池上兄弟 | Trackback | Comments(0)
2019年 11月 12日

父親からの勘当にもめげす法華経信仰を貫いた池上兄弟を称えた書【孝子御書】

■出筆時期:弘安二年(西暦1279年)二月二十八日 五十八歳 御作。
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:本書池上兄弟の弟宗長にあてられたご消息文です。大聖人は池上兄弟の父親が亡くなったとの噂を聞き本当でしょうかと弟の宗長に尋ねられると共に、長年信心に反対してきた父康光を、兄弟が力を合わせて入信させたことを心から喜ばれ、二人の兄弟を真実の孝子であると称えられた書となっております。父康光は幕府の作事奉行を努め、また極楽寺良観の信奉者だったため、大聖人に帰依する長男宗仲を二度も勘当し、弟宗長に家督を譲ることにしたが、宗長も兄に殉じ法華経信仰を貫いたため、ついに父も大聖人に帰依することになった。
■ご真筆: 福井県本妙寺、他二箇所に断簡所蔵。
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[福井県本名寺蔵 ご真筆]

[孝子御書 本文]
御親父御逝去の由、風聞真(まこと)にてや候らん。
貴辺と大夫志(たゆうさかん)の御事は、代末法に入つて生を辺土にうけ、法華の大法を御信用候へば、悪鬼定めて国主と父母等の御身に入りかわり怨(あだ)をなさん事疑なかるべきところに、案にたがふ事なく親父より度度の御かんだう(勘当)をかうほらせ給ひしかども、兄弟ともに浄蔵・浄眼の後身か、将(は)た又薬王薬上の御計らいかのゆへに、ついに事ゆへなく、親父に御かんきをゆりさせ給いて、前(さき)にたてまいらせし御孝養心に任せさせ給いぬるは、あに孝子にあらずや。定めて天よりも悦びをあたへ、法華経十羅刹も御納受あるべし。

其の上貴辺の御事は心の内に感じをもう事候。此の法門、経のごとくひろまり候わば御悦び申すべし。穴賢穴賢、兄弟の御中不和にわたらせ給ふべからず、不和にわたらせ給ふべからず。
大夫志殿の御文(ふみ)にくわしくかきて候きこしめすべし、恐恐謹言。

弘安二年二月二十八日        日 蓮 花 押




by johsei1129 | 2019-11-12 20:52 | 池上兄弟 | Trackback | Comments(0)
2019年 11月 10日

池上兄弟の篤信を称えた書【兵衛志殿御返事】

【兵衛志殿御返事】
■出筆時期:弘安元年(西暦1278)十一月二十九日 五十七歳 御作。
■出筆場所:身延山中 館にて。
■出筆の経緯:本抄は池上兄弟の弟、兵衛志宗長に与えられた書です。大聖人は池上兄弟が供養した白厚綿小袖について「兄弟二人のふたつの小袖、わた四十両をきて候が、なつのかたびらのやうにかろく候ぞ。<中略>此の二のこそでなくば今年はこごへしに候なん」と記し、兄弟の真心のご供養の精神を称えられております。また身延の館の様子について「人はなき時は四十人ある時は六十人。<中略>心にはしずかに、あじちむすびて小法師と我が身計り御経よみまいらせんとこそ存じて候に、かかるわづらはしき事候はず、又としあけ候わば、いづくへもにげんと存じ候ぞ」と記し、弟子とその身内が集い活況を呈していることを、面白く記されている貴重な書となっております。
■ご真筆:京都市 立本寺、他四箇所に断簡所蔵。
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[兵衛志殿御返事 本文]


銭六貫文の内一貫次郎よりの分白厚綿(あつわた)小袖一領。四季にわたりて財を三宝に供養し給う。いづれも、いづれも功徳にならざるはなし。但し時に随いて勝劣、浅深わかれて候。う(飢)へたる人には衣をあたへたるよりも食をあたへて候は、いますこし功徳まさる。こごへたる人には食をあたへて候よりも衣は又まさる。春夏に小袖をあたへて候よりも秋冬にあたへぬれば又功徳一倍なり。これをもつて一切はしりぬべし。ただし此の事にをいては四季を論ぜず日月をたださず、ぜに、こめ、かたびら(帷子)、きぬこそで(衣小袖)、日日、月月にひまなし。例せばびんばしやらわう(頻婆娑羅王)の教主釈尊に日日に五百輛の車ををくり、阿育(あそか)大王の十億の沙金を鶏頭摩寺にせ(施)せしがごとし。大小ことなれども志は彼にもすぐれたり。

 其の上今年は子細候。ふゆと申すふゆ、いづれのふゆか、さむからざる。なつと申すなつ、いづれのなつか、あつからざる。ただし今年は余国はいかんが候らん、このはきゐ(波木井)は法にすぎてかん(寒)じ候。ふるきをきな(老)どもにとひ候へば、八十、九十、一百になる者の物語り候は、すべて、いにしへ、これほどさむき事候はず。此のあんじち(庵室)より四方の山の外、十町、二十町。人かよう事候はねば、しり候はず。きんぺん一町のほどは、ゆき(雪)一丈二丈五尺等なり。このうるう(閏)十月卅日ゆきすこしふりて候しが、やがてきへ候ぬ。この月の十一日たつ(辰)の時より十四日まで大雪ふりて候しに、両三日へだてて、すこし雨ふりてゆきかた(堅)くなる事金剛のごとし。いまにきゆる事なし。ひるも、よるも、さむくつめたく候事法にすぎて候。さけはこを(凍)りて石のごとく。あぶらは金ににたり。なべかま(鍋釜)は小(すこ)し水あればこおりてわれ。かん(寒)いよいよかさなり候へば、きものうすく食ともしくして、さしいづるものもなし。

 坊ははんさく(半作)にてかぜゆき(風雪)たまらず。しきものはなし。木は、さしいづるものもなければ、火もたかず。ふるきあか(垢)づきなんどして候こそで一(ひとつ)なんどき(著)たるものは其身のいろ紅蓮大紅蓮のごとし。こへ(声)ははは(波波)大ばば(婆婆)地獄にことならず。手足かんじてきれさけ人死ぬことかぎりなし。俗のひげ(鬚)をみればやうらく(瓔珞)をかけたり。僧のはな(鼻)をみればすず(鈴)をつらぬ(つらぬ)きかけて候。

 かかるふしぎ候はず候に去年(こぞ)の十二月の卅日より、はらのけ(下痢)の候しが春夏やむことなし。あき(秋)すぎて十月のころ大事になりて候しが、すこして平愈つかまつりて候へども、ややもすればを(発)こり候に、兄弟二人のふたつの小袖、わた(綿)四十両をきて候が、なつ(夏)のかたびら(帷子)のやうにかろく候ぞ。まして、わたうすく、ただぬのもの(布物)ばかりのものをもひやらせ給へ。此の二(ふたつ)のこそでなくば今年はこご(凍)へし(死)に候なん。

其上(うえ)兄弟と申し右近の尉の事と申し食もあいついて候。人はなき時は四十人ある時は六十人。いかにせ(塞)き候へどもこれにある人人のあに(兄)とて出来し舎弟とてさしいで・しきゐ(来居)候ぬれば・かかはやさに・いかにとも申しへず。心にはしずかにあじち(庵室)むすびて、小法師と我が身計り御経よみまいらせんとこそ存じて候に、かかるわづらは(煩)しき事候はず。又とし(年)あけ候わば、いづくへもにげんと存じ候ぞ。かかる・わづらわしき事候はず又又申すべく候。
なによりもえもん(衛門)の大夫志(たゆう・さかん)と・とのとの御事・ちち(父)の御中と申し上のをぼへと申し面(めん)にあらずば申しつくしがたし。 恐恐謹言。

十一月廿九日        日 蓮  花 押
兵衛志殿御返事

by johsei1129 | 2019-11-10 10:44 | 池上兄弟 | Trackback | Comments(0)
2019年 11月 09日

極楽寺良観の熱心な信者である父を大聖人に帰依させた池上兄弟を称えた書【兵衛志殿御書(親父入信御書)】

【兵衛志殿御書(親父入信御書) 】
■出筆時期:弘安元年(西暦1278年)九月九日 五十七歳御作。
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:本抄は池上兄弟の弟、兵衛志宗長に与えられたご消息文です。池上兄弟の父康光は、幕府作事奉行(建築・土木事業の長)と言う要職についていましたが、念仏僧・極楽寺良観の熱心な信者で、良観を批判する大聖人に帰依する兄宗仲を、家督を継ぐ資格が無いという理由で前年(建治三年)の十一月、二度目の勘当をします。しかしその後兄弟の熱意にうたれついに大聖人に帰依します。

本抄で大聖人は「殿の御心賢くして日蓮がいさめを御もちゐ有りしゆへに、<中略>兄弟の御力にて親父を法華経に入れまいらせさせ給いぬる御計らい、偏に貴辺の御身にあり」と記され、勘当されても法華経信仰を貫いた兄宗仲と違い、法華経信仰を続けるべきか、はたまた父に従うべきか揺らいだ宗長を厳しく指導され、その結果父子ともども大聖人に帰依したことを「殿の御心賢くして日蓮がいさめを御もちゐ有りしゆへ」と讃えられておられます。

さらに文末では「教主釈尊の御使を二度までこうぢをわたし、弟子等をろうに入れ、或は殺し或は害し、或は所国をおひし故に、其の科必ず其の国国万民の身に一一にかかるべし。或は又白癩・黒癩・諸悪重病の人人おほかるべし、我が弟子等・此の由を存ぜさせ給へ」と記し、日蓮並びに弟子たちを弾圧した科は、必ず「還著於本人」の結果が出るので、その理由をよく知っておきなさいと指導されております。また追伸では「総じては我が一門の人人御覧有るべし、他人に聞かせ給うな」と記し、日蓮の弟子信徒以外の者が聞くと誤解する恐れがあるので、口外しないよう厳命されておられます。
■ご真筆: 東京都・池上本門寺所蔵。古写本:日興上人筆(北山本門寺所蔵)
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[真筆箇所本文:志殿と、とのとの御事ふしぎに候。
つねさまには代すえになり候へば聖人賢人もみなかくれ、ただざんじん・ねいじん・わざん・きよ]

[兵衛志殿御書(親父入信御書) 本文]

久しくうけ給わり候はねば・よくおぼつかなく候、何よりも・あはれに・ふしぎなる事は大夫志殿と殿との御事・不思議に候。
常さまには世末になり候へば聖人・賢人も皆かくれ・ただ・ざんじむ(讒人)・ねいじん(佞人)・わざん(和讒)・きよくり(曲理)の者のみこそ国には充満すべきと見へて候へば、喩えば水すくなくなれば池さはがしく、風ふけば大海しづかならず、代の末になり候へば、かんばち(旱魃)えきれい(疫癘)大雨大風ふきかさなり候へば、広き心も・せばくなり、道心ある人も邪見になるとこそ見へて候へ。

されば他人はさてをきぬ父母と夫妻と兄弟と諍う事、れつし(猟師)としか(鹿)と、ねことねずみと、たかときじとの如しと見へて候。

良観等の天魔の法師らが親父左衛門の大夫殿をすかし、わどのばら二人を失はんとせしに、殿の御心賢くして日蓮がいさめを御もちゐ有りしゆへに、二(ふたつ)のわ(輪)の車をたすけ、二(ふたつ)の足の人を・になへるが如く、二(ふたつ)の羽のとぶが如く、日月の一切衆生を助くるが如く、兄弟の御力にて親父を法華経に入れまいらせさせ給いぬる御計らい、偏に貴辺の御身にあり。

又真実の経の御ことはりを代(よ)末になりて仏法あながちに・みだれば、大聖人世に出ずべしと見へて候。喩へば松のしも(霜)の後(のち)に木の王と見へ、菊は草の後に仙草と見へて候。代のおさまれるには賢人見えず、代の乱れたるにこそ聖人愚人は顕れ候へ。

あはれ平の左衛門殿、さがみ殿の日蓮をだに用いられて候いしかば、すぎにし蒙古国の朝使(つかい)のくびは・よも切(きら)せまいらせ候はじ、くやしくおはすらなん。

人王八十一代安徳天皇と申す大王は、天台の座主・明雲等の真言師等・数百人かたらひて源の右将軍頼朝を調伏せしかば、還著於本人とて、明雲は義仲に切られぬ、安徳天皇は西海に沈み給う。人王八十二三四隠岐の法皇・阿波の院・佐渡の院・当今・已上四人・座主慈円僧正・御室・三井等の四十余人の高僧等をもて、平の将軍義時を調伏し給う程に、又還著於本人とて上の四王島島に放たれ給いき。

此の大悪法は弘法・慈覚・智証の三大師・法華経最第一の釈尊の金言を破りて、法華最第二・最第三・大日経最第一と読み給いし僻見を御信用有りて、今生には国と身とをほろぼし後生には無間地獄に堕ち給いぬ。

今度は又此の調伏三度なり、今我が弟子等死したらん人人は仏眼をもて是を見給うらん。命つれなくて生(いき)たらん眼(まなこ)に見よ。国主等は他国へ責めわたされ、調伏の人人は或は狂死(くるいじに)或は他国或は山林にかくるべし。

教主釈尊の御使を二度までこうぢ(街路)をわたし、弟子等をろう(牢)に入れ、或は殺し或は害し、或は所国をおひし故に、其の科(とが)必ず其の国国万民の身に一一にかかるべし。或は又白癩・黒癩・諸悪重病の人人おほかるべし、我が弟子等・此の由を存ぜさせ給へ。恐恐謹言。

九月九日          日 蓮 花 押

此の文(ふみ)は別しては兵衛の志殿へ、総じては我が一門の人人御覧有るべし、他人に聞かせ給うな。

by johsei1129 | 2019-11-09 17:41 | 池上兄弟 | Trackback | Comments(0)
2019年 11月 08日

大聖人が池上宗長に持病の下り腹が平癒したことを伝えた書【兵衛志殿御返事】

【兵衛志殿御返事(味噌一桶御書)】
■出筆時期:弘安元年(西暦1278年)六月二六日 五十七歳 御作。
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:本抄は短いご消息文ですが、池上兄弟の弟・宗長から味噌一桶を供養されたことへの返書となっております。本書で大聖人は、晩年苦しめられた持病の下り腹が四条金吾の調合した薬で回復し、また宗長から送られた味噌でさらに心持ちも良くなったと喜ばれ、最後には「今年御つゝがなき事をこそ、法華経に申し上げまいらせ候」と、宗長の安全を祈ったと伝えておられます。尚大聖人はこの書をしたためた前後、六月二十五日から二十七日の三日間で、日女御前、富木常忍、四条金吾、池上宗長、窪尼御前と五通ものご消息文を信徒に送られておられ、信徒を精力的に励まされており、この事実からこの時期、病状が回復していたことがうかがわれます。
■ご真筆:越前市 妙勧寺 所蔵。
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[兵衛志殿御返事((味噌一桶御書) 本文]   [英語版]

みそをけ一(ひとつ)給び了んぬ。はらのけ(下痢)はさゑもん殿(四条金吾)の御薬になを(治)りて候。

又このみそをな(嘗)めていよいよ心ちなをり候ひぬ。

あわれあわれ今年御つゝがなき事をこそ、法華経に申し上げまいらせ候へ。恐々謹言。

 六月廿六日                 日 蓮 花 押

   兵 衛 志 (さかん) 殿 御 返 事

by johsei1129 | 2019-11-08 22:32 | 池上兄弟 | Trackback | Comments(0)
2019年 11月 07日

念仏信仰の親を法華経に導いた池上宗長の志を称えた書【兵衛志殿御返事】

【兵衛志殿御返事】
■出筆時期:弘安元年(西暦1278)五月 五十七歳御作。
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:本抄は池上兄弟の弟、池上宗長に対して与えられた消息文です。冒頭の一部は欠損していますが、宗長が身延の草庵にご供養の品々を運ぶのに、馬と人夫を提供したことに対し「たといかまくらにいかなる物を人にたびて候とも、夫と馬となくばいかでか日蓮が命はたすかり候べき<中略>此の歩馬はこんでいこま(金泥駒)となり」と記し、悉達太子(釈尊の幼名)が、出家し王宮を出たときに乗った白馬にも匹敵すると宗仲の志を称えられております。さらに、兄宗仲が二度も父から勘当されながらも、兄弟ともに大聖人に帰依し続け、ついに父を法華経に導いた事を「かしこき上、欲なき身と生まれて三人ともに仏になり給ひ、ちゝかた、はゝかたのるいをもすくい給ふ人となり候ぬ<略>此の事は一代聖教をも引きて百千まいにかくとも、つくべしとはをもわねども・・・」と賛嘆されておられます。

■ご真筆: 京都市妙覚寺 所蔵
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[兵衛志殿御返事 本文]

御ふみにかゝれて候上、大に(弐)のあざり(阿闍梨)のかたり候は、ぜに十余れん(連)並びにやうやうの物ども候ひしかども、たうじはのうどき(農時)にて□□□□人もひきたらぬよし□□□も及び候はざりけ□□□□兵衛志殿の御との□□□□御夫馬(ふま)にても□□□□て候よし申候。
  
 夫(それ)百済国より日本国に仏法のわたり候ひしは、大船にのせて此をわたす。今のよど(淀)河よりあをみ(近江)の水海につけて候ものは、車にて洛陽へははこび候。それがごとく、たといかまくらにいかなる物を人にたびて候とも、夫(ふ)と馬となくばいかでか□□(日蓮)が命はたすかり候べき。□□□(徳勝)童子は土の餅を仏に□□□□□阿育大王と□□□□□□□□□くやう(供養)しまいらせ候ひしゆへに、阿育大王の第一の大臣羅提吉(らだいきち)となりて一閻浮提の御うしろ(後)め、所謂ををい(大臣)殿の御時の権大夫殿のごとし。
  
 此は彼等にはにるべくもなき大功徳。此の歩馬はこんでいこま(金泥馬)となり、此の御との人はしゃのく(車匿)とねり(舎人)となりて、仏になり給ふべしとをぼしめすべし。抑(そもそも)すぎし事なれども、あまりにたうとくうれしき事なれば申す。
 
  昔、波羅奈国に摩訶羅王と申す大王をはしき。彼の大王に二(ふたり)の太子あり。所謂善友(ぜんう)太子・悪友(あくう)太子なり。

善友太子の如意宝珠を持ちてをはせしかば、此をとら(盗)むがために、をと(弟)の悪友太子は兄の善友太子の眼をひき給ひき。昔の大王は今の浄飯王、善友太子は今の釈迦仏、悪友太子は今の提婆達多此なり。兄弟なれども、たからをあらそいて。世々生々にかたきとなりて、一人は仏となり、一人は無間地獄にあり。此は過去の事、他国の事なり。我が朝には一院・さぬきの院の兄弟なりしかども位をあらそいて、ついにかたきとなり給ひて、今に地獄にやをはすらむ。当世め(眼)にあたりて、此の代のあやを(危)きも兄弟のあらそいよりをこる。大将殿と申せし賢人も、九郎判官等の舎弟等をほろぼし給ひて、かへりて我が子ども皆所従等に失はれ給ふは眼前の事ぞかし。
  
 とのばら二人は上下こそありとも、とのだにもよくふかく、心まがり、道理をだにもしらせ給はずば、ゑもんの大夫志殿はいかなる事ありとも、をやのかんだうゆ(許)るべからず。ゑもんのたいうは法華経を信じて仏になるとも、をやは法華経の行者なる子をかんだうして地獄に堕つべし。とのはあにとをやをそん(損)ずる人になりて、提婆達多がやうにをはすべかりしが、末代なれども、かしこき上、欲なき身と生まれて三人ともに仏になり給ひ、ちゝかた(父方)、はゝかたのるいをもすくい給ふ人となり候ぬ。又とのゝ御子息等もすへの代はさかうべしとをぼしめせ。

 此の事は一代聖教をも引きて百千まいにか(書)くとも、つくべしとはをもわねども、やせやまいと申し、身もくるしく候へば、事々申さず。あわれあわれ、いつかげざん(見参)に入て申し候はん。又むかいまいらせ候ひぬれば、あまりのうれしさに、かたられ候はず候へばあらあら申す。よろずは心にすい(推)しはか(量)らせ給へ。

女房の御事同じくよろこぶと申させ給へ。恐々謹言。
  

by johsei1129 | 2019-11-07 21:20 | 池上兄弟 | Trackback | Comments(0)
2019年 11月 03日

会い難き法華経の共に離れずば我が身仏に成るのみならず背きし親をも導びきなん、と説いた兵衛志殿御返事】

【兵衛志殿御返事】
■出筆時期:建治三年(1277年)十一月二十日 五十六歳御作
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■執筆の経緯:本抄は池上兄弟の弟宗長に送られた数多くの消息の中で、最も厳しく且つ大聖人の慈愛あふれる指導が記された消息です。
大聖人は兄宗仲が二度目の勘当を受けたことを聞き、「このたびゑもんの志どの(兄宗仲)かさねて親のかんだうあり・とのの御前にこれにて申せしがごとく一定かんだうあるべし、ひやうへの志(さかん)殿をぼつかなし、ごぜんかまへて御心へあるべしと申して候しなり。今度はとのは一定を(落)ち給いぬとをぼうるなり、をち給はんをいかにと申す事はゆめゆめ候はず、但地獄にて日蓮をうらみ給う事なかれ、しり候まじきなり」と記し、この度はとの(宗長)はおちる(退転)だろうが、地獄で日蓮を恨むでないと、宗長の退路を断つべく非情とも言える指導をなされておられます。
さらに本文中段では「武蔵の入道そこばくの所領所従等をすてて遁世あり。ましてわどのばらがわづかの事をへつらひて心うすくて悪道に堕ちて日蓮をうらみさせ給うな」と記され、僅かの利益のため親や世間にへつらって信仰心が薄くて悪道に落ちて日蓮を恨むなと、重ねて厳しく指導されておられます。

しかし一方で「必ず三障四魔と申す障いできたれば賢者はよろこび愚者は退くこれなり。此の事はわざとも申し又びんぎにと・をもひつるに御使ありがたし、堕ち給うならば・よもこの御使は・あらじと・をもひ候へば・もしやと申すなり」と記され、本当に退転するならこの度供養を使わせることはないだろうから、もしや退転しないのではと思うから申し上げるのですと、厳しさの中にも慈愛あふれる言葉をかけられておられます。
さらに文末では「よくよくをもひ切つて一向に後世をたのまるべし、かう申すとも・いたづらのふみなるべしと・をもへば、かくも・ものうけれども・のちのをもひでにしるし申すなり」と、宗長が現世の利益を求めるのでなく、あくまで後生善処を願う決断をすることを促されておられます。
※尚、この池上兄弟の勘当の顛末については小説日蓮<71弟の宗長を諌暁> を参照してください。

■ご真筆:京都市 妙覚寺(全16紙)所蔵。他一箇所にて第11紙末尾2行の断簡所蔵。
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[真筆本文:下記緑字箇所]

[兵衛志殿御返事 本文]  [英語版]

かたがたのものふ(物夫)二人をもつて、をくりたびて候。その心ざし弁殿の御ふみに申すげに候。
さてはなによりも御ために第一の大事を申し候なり、正法・像法の時は世もいまだをとろへず聖人・賢人も・つづき生れ候き天も人をまほり給いき、末法になり候へば人のとんよく(貪欲)やうやくすぎ候て主と臣と親と子と兄と弟と諍論ひまなし。まして他人は申すに及ばず、これに・よりて天も・その国をすつれば三災七難乃至一二三四五六七の日いでて草木か(枯)れうせ小大河もつ(尽)き大地はすみのごとく・をこり大海はあぶらのごとくになり・けつくは無間地獄より炎(ほのお)いでて上梵天まで火炎・充満すべし、これてい(是体)の事いでんとて・やうやく世間はをと(衰)へ候なり。

皆人のをもひて候は父には子したがひ臣は君にかなひ弟子は師にゐ(違)すべからずと云云、かしこき人もいやしき者もしれる事なり、しかれども貪欲瞋恚愚癡と申すさけ(酒)にえいて主に敵し親をかろしめ師をあな(侮)づるつねにみへて候、但師と主と親とに随いてあしき事をば諌(いさめ)ば孝養となる事はさきの御ふみにかきつけて候いしかばつねに御らむあるべし。

ただこのたびゑもんの志どの(兄宗仲)かさねて親のかんだうあり・とのの御前にこれにて申せしがごとく一定かんだうあるべし、ひやうへの志殿をぼつかなしごぜん(御前)かまへて御心へあるべしと申して候しなり。今度はとのは一定をち給いぬとをぼうるなり、をち給はんをいかにと申す事はゆめゆめ候はず、但地獄にて日蓮をうらみ給う事なかれしり候まじきなり。

千年のかるかや(苅茅)も一時にはひ(灰)となる百年の功も一言にやぶれ候は法のことわりなり。
さえもんの大夫殿は今度・法華経のかたきに・なりさだまり給うとみへて候。えもんのたいうの志殿は今度法華経の行者になり候はんずらん。
とのは現前の計(はからい)なれば親につき給はんずらむ。ものぐるわしき人人はこれをほめ候べし。宗盛が親父(おや)入道の悪事に随いてしのわら(篠原)にて頚を切られし、重盛が随わずして先(さき)に死せし、いづれか親の孝人なる。
法華経のかたきになる親に随いて一乗の行者なる兄をすてば親の孝養となりなんや。せんするところひとすぢにをもひ切つて兄と同じく仏道をな(成)り給へ。

親父は妙荘厳王(みょうしょうごんのう)のごとし兄弟は浄蔵浄眼なるべし、昔と今はかわるとも法華経のことわりは・たがうべからず、当時も武蔵の入道そこばくの所領所従等をすてて遁世あり。ましてわどの(和殿)ばらがわづかの事をへつらひて心うすくて悪道に堕ちて日蓮をうらみさせ給うな。

かへすがへす今度とのは堕(おつ)べしとをぼうるなり。此の程心ざしありつるがひきかへて悪道に堕ち給はん事がふびんなれば申すなり。百に一つ千に一つも日蓮が義につかんとをぼさば、親に向つていい切り給へ。

親なれば・いかにも順いまいらせ候べきが法華経の御かたきになり給へば・つきまいらせては不孝の身となりぬべく候へば、すてまいらせて兄につき候なり。兄をすてられ候わば兄と一同とをぼすべしと申し切り給へ、すこしも・をそるる心なかれ、過去遠遠劫より法華経を信ぜしかども仏にならぬ事これなり。しを(潮)のひると・みつと月の出づると・いると・夏と秋と冬と春とのさかひ(境)には必ず相違する事あり凡夫の仏になる又かくのごとし。
必ず三障四魔と申す障(さわり)いできたれば賢者はよろこび愚者は退くこれなり。此の事はわざとも申し又びんぎ(便宜)にと・をもひつるに御使ありがたし、堕ち給うならば・よもこの御使は・あらじと・をもひ候へば・もしやと申すなり。

仏になり候事は此の須弥山にはり(針)をたてて彼の須弥山よりいと(糸)をはなちて、そのいとの・すぐにわたりて・はりのあな(穴)に入るよりもかたし。
いわうや・さかさまに大風のふきむかへたらんは・いよいよかたき事ぞかし。

経に云く「億億万劫より不可議に至る時に乃ち是の法華経を聞くことを得、億億万劫より不可議に至る諸仏世尊時に是の経を説きたもう・是の故に行者仏滅後に於て是くの如きの経を聞いて疑惑を生ずること勿れ」等云云
、此の経文は法華経二十八品の中に・ことにめづらし。

序品より法師品にいたるまで等覚已下の人天・四衆・八部・其のかずありしかども仏は但釈迦如来一仏なり重くてかろきへんもあり。宝塔品より嘱累品にいたるまでの十二品は殊に重きが中の重きなり、其の故は釈迦仏の御前に多宝の宝塔涌現せり月の前に日の出でたるがごとし、又十方の諸仏は樹下に御はします十方世界の草木の上に火をともせるがごとし。此の御前にてせん(選)せられたる文なり。

涅槃経に云く「昔無数無量劫より来(このか)た常に苦悩を受く、一一の衆生一劫の中に積む所の骨は王舎城の毘富羅(びふら)山の如く飲む所の乳汁(ちち)は四海の水の如く身より出す所の血は四海の水より多く、父母兄弟妻子眷属の命終に哭泣(こうきゅう)して出す所の目涙(なんだ)は四大海より多く、地の草木を尽くして四寸の籌(かずとり)と為し以て父母を数うも亦尽くすこと能わじ」云云。

此の経文は仏最後に雙林の本(もと)に臥(ふし)てかたり給いし御言(みことば)なりもつとも心をとどむべし、無量劫より已来(このかた)生(うむ)ところの父母は十方世界の大地の草木を四寸に切りてあ(推)てかぞうとも・たるべからずと申す経文なり、此等の父母にはあ(値)ひしかども法華経にはいまだ・あわず、されば父母はまうけやすし法華経はあひがたし、今度あひやすき父母のことばを・そむきて・あひがたき法華経のとも(友)にはなれずば我が身・仏になるのみならず・そむきしをや(親)をもみちびきなん。

例せば悉達太子は浄飯王の嫡子なり国をもゆづり位にもつけんと・をぼして・すでに御位につけまいらせたりしを御心をやぶりて夜中城をにげ出でさせ給いしかば不孝の者なりと・うらみさせ給いしかども仏にならせ給うては・まづ浄飯王・麻耶夫人をこそ・みちびかせ給いしか。

をや(親)という・をやの世をすてて仏になれと申すをやは一人もなきなり、これは・とによせ・かくによせて・わどのばらを持斎・念仏者等が・つくり・をとさんために・をやを・すすめをとすなり、両火房は百万反(べん)の念仏をすすめて人人の内をせ(塞)きて法華経のたねを・たたんと・はかるときくなり、極楽寺殿はいみじかりし人ぞかし、念仏者等にたぼらかされて日蓮を怨ませ給いしかば我が身といい其の一門皆ほろびさせ給う・ただいまは・へちご(越後)の守殿(こうどの)一人計りなり、両火房を御信用ある人はいみじきと御らむあるか、なごへの一門の善光寺・長楽寺・大仏殿立てさせ給いて其の一門のならせ給う事をみよ、又守殿は日本国の主にてをはするが、一閻浮提のごとくなる・かたきをへ(得)させ給へり。

わどの兄をすてて・あにがあとを・ゆづられたりとも千万年のさかへ・かたかるべし、しらず又わづかの程にや・いかんが・このよ(此世)ならんずらん、よくよくをもひ切つて一向に後世をたのまるべし、かう申すとも・いたづらのふみ(文)なるべしと・をもへば、かくも・もの(懶)うけれども・のちのをもひでに・しるし申すなり、恐恐謹言。

十一月二十日  日 蓮 花 押
兵衛志殿御返事

by johsei1129 | 2019-11-03 22:56 | 池上兄弟 | Trackback | Comments(0)
2019年 11月 03日

銅の御器二つ供養された池上宗長の女房を釈迦仏が成道するとき乳粥を捧げた牧牛女に匹敵すると称えた【兵衛志殿女房御返事】

【兵衛志殿女房御返事】
■出筆時期:建治三年弘安二年(1277)十一月七日 五十六歳御作
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:本抄は池上兄弟の弟兵衛志殿(池上宗長)の女房から、銅製の器二つをご供養されたことへの返書となっております。
銅製の器二つとは、おそらく身延の草庵の宝殿の左右に据える仏具であろうと思われ、鎌倉時代としては非常に高価なものであったと推察されます。

大聖人は釈尊が仏になる時の修行中、バラモンの難行苦行では悟れないと、その修行を放棄し弱った体を休めていた時「牧牛女(もくごにょ)と申せし女人(仏伝では村長の娘スジャータ)」から牛の乳の粥を供養され体力を回復、その後菩提樹のもとで瞑想し成道したという謂れを説いて、この度銅器二つをはるばる身延の宝前まで届けた兵衛志殿女房は、その牧牛女に匹敵すると称えられておられます。
■ご真筆:現存しておりません。

【兵衛志殿女房御返事 本文】

銅(かね)の御器二つ給び畢ぬ。
釈迦仏三十の御年、仏になり始(そめ)てをはし候時、牧牛(もくご)女と申せし女人、乳(ち)のかい(粥)をに(煮)て仏にまいらせんとし候ひし程に、いれてまいらすべき器なし。
毘沙門天王等の四天王、四鉢を仏にまいらせたりし、其の鉢をうちかさねてかい(粥)をまいらせしに仏にはならせ給ふ。
其の鉢、後には人もも(盛)らざりしかども、常に飯(いい)のみ(満)ちしなり。後に馬鳴菩薩と申せし菩薩、伝へて金銭三貫にほう(報)じたりしなり。
今御器二を千里にをくり、釈迦仏にまいらせ給へば、かの福のごとくなるべし。委しくは申さず候。
十一月七日  日蓮花押 
兵衛志(さかん)殿女房御返事 




by johsei1129 | 2019-11-03 22:12 | 池上兄弟 | Trackback | Comments(0)
2019年 11月 03日

池上宗長に、いよいよ張り上げて責むべし設ひ命に及ぶとも少しも怯む事なかれと説いた【兵衛志 殿御返事】

【兵衛志殿御返事】
■出筆時期:建治三年(1277年)八月二十一日 五十六歳御作
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■執筆の経緯:本抄は池上兄弟の弟、池上宗長に送られた消息です。
池上兄弟の兄宗仲は、前年に熱心な念仏信者の父により勘当され、弟の宗長が父と兄の狭間で法華経信仰が揺れ動くのをみて、大聖人は本書文末で「此れより後も、いかなる事ありとも、すこしもたゆむ事なかれ。いよいよ、はりあげてせむべし。設ひ命に及ぶともすこしもひるむ事なかれ」と記され、法華経信仰を貫き通すよう厳しく指導されておられます。
尚文中「えもんのたいう(兄宗仲)殿の御文と引き合せて心へさせ給へ」とある御文とは兄弟抄のことと思われます。

大聖人が池上兄弟に送られた消息は、圧倒的に弟・宗長(兵衛志殿)に宛てられた書が多く、これは二度の勘当でも大聖人に帰依し続けた兄・宗仲(衛門太夫)には絶対的な信頼を持っていたことと、弟・宗長の揺れ動く信心を如何に心配されていたか、伺い知ることができます。
■ご真筆:京都市 立本寺所蔵。
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[真筆本文:下記緑字箇所]

[兵衛志殿御返事 本文]

鵞目二貫文・武蔵房円日を使(つかい)にて給び候い畢んぬ。

人王三十六代・皇極天皇と申せし王は女人にてをはしき、其の時入鹿(いるか)の臣(おみ)と申す者あり、あまり・おごりの・ものぐる(狂)わしさに王位を・うばはんと・ふるまいしを、天皇王子等不思議とはをぼせしかども・いかにも力及ばざりしほどに、大兄(おおえ)の王子・軽(かる)の王子等なげかせ給いて中臣の鎌子と申せし臣に申しあわせさせ給いしかば、臣申さく・いかにも人力はかなうべしとは・みへ候はず、馬子が例をひきて教主釈尊の御力ならずば叶(かなえ)がたしと申せしかば・さらばとて釈尊を造り奉りて・いのりしかば入鹿ほどなく打れにき、此の中臣の鎌子と申す人は後には姓をかへて藤原の鎌足と申し内大臣になり大職冠と申す人・今の一(藤原)の人の御先祖なり、此の釈迦仏は今の興福寺の本尊なり。

されば王の王たるも釈迦仏・臣の臣たるも釈迦仏・神国の仏国となりし事もえもんのたいう殿の御文(ふみ)と引き合せて心へさせ給へ、今代(きんだい)の他国にうばわれんとする事・釈尊を・いるがせにする故なり神の力も及ぶべからずと申すはこれなり。各各は二人は・すでにとこそ人はみ(見)しかどもかくいみじくみへさせ給うは・ひとえに釈迦仏・法華経の御力なりと・をぼすらむ、又此れにもをもひ候、後生のたのもしさ申すばかりなし、此れより後も・いかなる事ありとも・すこしもたゆ(弛)む事なかれ、いよいよ・はりあげてせむべし、設ひ命に及ぶともすこしも・ひるむ事なかれ、あなかしこ・あなかしこ、恐恐謹言。

八月二十一日                    日 蓮 花 押
兵衛志殿御返事


by johsei1129 | 2019-11-03 20:06 | 池上兄弟 | Trackback | Comments(0)
2019年 10月 30日

池上兄弟の弟、宗長より青鳧五貫文を供養され南無妙法蓮華経を一返唱えたと記された書【兵衛志殿御返事】

【兵衛志殿御返事】
■出筆時期:建治三年(1276)六月十八日 五十六歳御作
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:本抄は短い御消息ですが、池上兄弟の弟・池上宗長より青鳧五貫文をご供養されたことへの返書で、大聖人は「唱え奉る南無妙法蓮華経一返の事」と記され宗長の志に答えられておられます。
尚、青鳧五貫文とは当時の価値でおよそお米五石(約750kg)位となり、金銭としては大きな供養であると考えられます。池上兄弟の父は鎌倉幕府作事奉行(建築・土木の長官)で、広大な所領をもち経済的にはかなり恵まれていたと思われます。また母方の叔父が六老僧の一人日昭で、同じく母方の従兄弟に六老僧の一人日朗がおります。
■ご真筆:京都市 本圀寺所蔵。
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【兵衛志殿御返事 本文】

青鳧(せいふ)五貫文
送り給び了んぬ。唱え奉る
南無妙法蓮華
経一返の事、恐恐。 

六月十八日    日 蓮 花 押
兵衛志(さかん)殿御返事






by johsei1129 | 2019-10-30 22:00 | 池上兄弟 | Trackback | Comments(0)