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日蓮大聖人『御書』解説

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カテゴリ:池上兄弟( 23 )


2019年 12月 01日

大聖人の病状を知り、当時としては貴重な生和布(なまわかめ)を供養された池上宗仲の師を思う志を称え られた書【大夫志殿御返事】

【大夫志殿御返事】
■出筆時期:弘安四年(1281)十二月十一日日 六十歳御作
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:本抄は池上兄弟の兄・宗仲(大夫志殿)が大聖人の病状を知り、体に良いものとして酒、味噌また当時としては貴重な生和布(なまわかめ)をご供養されたことへの返書となっております。
大聖人は晩年特に佐渡流罪中の辛労、また身延山中の寒さが影響したのか胃腸が弱り痩せ病、下痢などの症状になります。
これに対して医術の心得のある四条金吾が煎じた薬で回復したことを記された御書【中務左衛門尉殿御返事(二病抄)】も残されております。

本抄を送られた弘安四年十二月は御遷化なされる十ヶ月ほど前で、病状も一層悪化していたものと思われ、それを知った宗仲は、恐らく親しい医師等に大聖人の病状を伝え、その上で体に良いものを取り揃え、脚力(飛脚)を使って直ぐに大聖人の下へ届けられたものと思われます。

大聖人は特に生和布に喜ばれるとともに、この宗仲の大聖人を思う志を「生和布は始めてにて候、将又病の由聞かせ給いて不日に此の物して御使をもつて脚力につかわされて候事心ざし大海よりふかく善根は大地よりも厚し、かうじんかうじん」と称えられておられます。
■ご真筆:現存しておりません。

【大夫志殿御返事 本文】

聖人(すみざけ)一つつ、味文字(みもじ)一をけ(桶)、生和布一こ。
聖人と味文字は・さてをき候いぬ生和布は始めてにて候。
将又(はたまた)病の由聞かせ給いて、不日に此の物して御使をもつて脚力につかわされて候事心ざし、大海よりふかく善根は大地よりも厚し、かうじん(幸甚)かうじん、恐恐。

十二月十一日    日蓮 花押
大夫志殿御返事

注[脚力]:大化の改新(646年)により西暦701(大宝1)年、通信物を運ぶ「脚力」(飛脚)の制度が定められた。 ※参照「年賀状博物館」より。




by johsei1129 | 2019-12-01 11:15 | 池上兄弟 | Trackback | Comments(0)
2019年 11月 30日

齢既に六十に満ぬ<略>今年は過ぎ候とも一二をば如何か過ぎ候べきと自らの死期を示唆した【八幡宮造営事】

【八幡宮造営事】
■出筆時期:弘安四年(1281年)五月二十六日 六十歳御作
■出筆場所:身延山中の草庵にて。
■出筆の経緯:本抄は、鎌倉幕府作事奉行(建築・土木部門の長官)であった父の家督を継いた池上兄弟が、讒言により半年前の鎌倉の大火で焼失した八幡宮の再建の造営の任から外されたとの報告を受けたことへの返書となっております。
大聖人は冒頭で自身の病状が思わしくなく「齢既に六十にみちぬ、たとひ十に一今年はすぎ候とも一二をばいかでかすぎ候べき」と、例え今年は生き長らえたとしても、そのあと一、二年を過ごすことはできないだろうと、自らの死期を示唆されておられます。釈尊も三ヶ月後には滅度すると弟子に語っており、これは突然なくなって弟子・信徒が嘆くのを和らげるため、覚悟をしておくよう促された仏の深い慈悲であると拝します。
その苦しい中で「此の事大事なれば苦を忍んで申すものうしとおぼすらん一篇きこしめすべし」と、この消息を送ることの重要さを伝えておられます。

本書で大聖人は、池上兄弟が八幡宮造営の任を外されたことについて「かかる者(日蓮)の弟子檀那と成りて候が八幡宮を造りて候へども八幡大菩薩用いさせ給はぬゆへに此の国はせめらるるなりと申さむ時はいかがすべき<中略>(御造営の)はづるるも天の御計いか」と記し、蒙古に攻められた時世間の人々は、大聖人の弟子檀那が建てたからだと非難されたらどうするか、これは天の御計と考えなさい」と諭されておられます。

また文末では「あだみうらむる気色なくて身をやつし、下人をもぐせずよき馬にものらず<中略>此の事一事もたがへさせ給うならば今生には身をほろぼし後生には悪道に堕ち給うべし、返す返す法華経うらみさせ給う事なかれ」と、この度の事を恨むことなく、良い馬に乗らず質素に暮らすよう語りかけるとともに、日蓮の教えに一つでも違うなら、必ず悪道に落ちるのでその時は法華経を恨むでないと厳しく指導されておられます。
■ご真筆:現存しておりません。

[八幡宮造営事出家功徳御書 本文]

此の法門申し候事すでに廿九年なり、日日の論義月月の難両度の流罪に身つかれ心いたみ候いし故にや此の七八年間が間年年に衰病をこり候いつれどもなのめにて候いつるが、今年は正月より其の気分出来して既に一期をわりになりぬべし、其の上齢(よわい)既に六十にみちぬ、たとひ十に一今年はすぎ候とも一二をばいかでかすぎ候べき。
忠言は耳に逆い、良薬は口に苦(にが)しとは先賢の言なりやせ病の者は命をきらう佞人(ねいじん)は諌(いさめ)を用いずと申すなり。

此の程は上下の人人の御返事申す事なし、心もものうく手もたゆき故なり、しかりと申せども此の事大事なれば苦を忍んで申す、ものうしとおぼすらん一篇きこしめすべし、村上天皇の前(さきの)中書王の書を投げ給いしがごとくなることなかれ。

さては八幡宮の御造営につきて一定(いちじょう)さむそう(讒奏)や有らんずらむと疑いまいらせ候なり、をや(親)と云ひ我が身と申し二代が間きみにめしつかはれ奉りてあくまで御恩のみ(身)なり、設(たとい)一事相違すともなむのあらみ(粗略)かあるべき、わがみ賢人ならば設上(たとい・かみ)よりつかまつるべきよし仰せ下さるるとも一往はなに事につけても辞退すべき事ぞかし、幸に讒臣(ざんしん)等がことを左右によせば悦んでこそあるべきに望まるる事一の失(とが)なり。

此れはさてをきぬ五戒を先生に持ちて今生に人身を得たり、されば云うに甲斐なき者なれども国主等謂(いわれ)なく失にあつれば守護の天いかりをなし給う、況や命をうばわるる事は天の放ち給うなり、いわうや日本国四十五億八万九千六百五十九人の男女をば四十五億八万九千六百五十九の天まほり給うらん、然るに他国よりせめ来る大難は脱るべしとも見え候はぬは、四十五億八万九千六百五十九人の人人の天にも捨てられ給う上、六欲四禅梵釈日月四天等にも放たれまいらせ給うにこそ候いぬれ、然るに日本国の国主等八幡大菩薩をあがめ奉りなばなに事のあるべきと思はるるが、八幡は又自力叶いがたければ宝殿を焼きてかくれさせ給うか、然るに自(みずから)の大科をばかへりみず宝殿を造りてまほらせまいらせむとおもへり。

日本国の四十五億八万九千六百五十九人の一切衆生が釈迦多宝十方分身の諸仏・地涌と娑婆と他方との諸大士十方世界の梵釈日月四天に捨てられまひらせん分斉の事ならば、はづ(僅)かなる日本国の小神天照太神八幡大菩薩の力及び給うべしや。

其の時八幡宮はつくりたりとも此の国他国にやぶられば、くぼ(凹)きところにちり(塵)たまり、ひき(低)きところに水あつまると、日本国の上一人より下万民にいたるまでさた(沙汰)せむ事は兼て又知れり、八幡大菩薩は本地は阿弥陀ほとけにまします、衛門(えもん)の大夫は念仏無間地獄と申す、阿弥陀仏をば火に入れ水に入れ其の堂をやきはらひ念仏者のくびを切れと申す者なり。かかる者の弟子檀那と成りて候が八幡宮を造りて候へども八幡大菩薩用いさせ給はぬゆへに此の国はせめらるるなりと申さむ時はいかがすべき。
然るに天かねて此の事をしろしめすゆへに御造営の大ばんしやう(番匠)をはづされたるにやあるらむ神宮寺の事のはづるるも天の御計(はから)いか。

其の故は、去ぬる文永十一年四月十二日に大風ふきて其の年の他国よりおそひ来るべき前相なり、風は是れ天地の使なりまつり事あらければ、風あらしと申すは是なり。又今年四月廿八日を迎えて此の風ふき来る。而るに四月廿六日は八幡のむね(棟)上(あげ)と承はる、三日の内の大風は疑なかるべし、蒙古の使者の貴辺が八幡宮を造りて此の風ふきたらむに人わらひさた(沙汰)せざるべしや。

返す返す穏便にして、あだみうらむる気色なくて身をやつし下人をもぐせずよき馬にものらず、のこぎり(鋸)かなづち手にもちこし(腰)につけて、つねにえ(咲)めるすがたてにておわすべし。
此の事一事もたがへさせ給うならば今生には身をほろぼし後生には悪道に堕(お)ち給うべし、返す返す法華経うらみさせ給う事なかれ、恐恐。

五月廿六日         日 蓮 花押

大夫志殿
兵衛志殿

by johsei1129 | 2019-11-30 16:45 | 池上兄弟 | Trackback | Comments(0)
2019年 11月 29日

四百万億那由佗国の六道の衆生を八十年養い法華経より外の一切経で菩薩となせる檀那より、法華経計り を一字一句一偈持つ人の功徳は百千万億倍勝れる、と説いた【大夫志殿御返事】

【大夫志殿御返事】
■出筆時期:弘安三年(1280)十二月初旬 五十九歳御作。
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:本抄は池上兄弟の兄、池上宗仲から小袖(こそで)、直垂(ひたたれ)、腰三具等を供養されたことへの返書となっております。
大聖人は本抄後段で「百万億那由佗国の六道の衆生を八十年やしなひ法華経より外の已今当の一切経を一一の衆生に読誦せさせて三明六通の阿羅漢・辟支仏(びゃくしぶつ)・等覚の菩薩となせる一人の檀那と、世間出世の財を一分も施さぬ人の法華経計りを一字・一句・一偈持つ人と相対して功徳を論ずるに、法華経の行者の功徳勝れたる事・百千万億倍なり」と記され、法華経計りを一字・一句・一偈持つ法華経の行者の功徳が甚大であると断じられておられます。また文末で「此の由を女房には申させ給へ」と記されておられるのは恐らく宗仲が女房から法華経をたもつことの功徳について何がしか質問され、それを宗仲が大聖人に問われたものと推察されます。
■ご真筆:京都市妙覚寺(右)、神奈川県妙本寺(左)、他ヶ所にて断簡所蔵。
四百万億那由佗国の六道の衆生を八十年養い法華経より外の一切経で菩薩となせる檀那より、法華経計り  を一字一句一偈持つ人の功徳は百千万億倍勝れる、と説いた【大夫志殿御返事】_f0301354_22304981.jpg


















[真筆本文緑字]
【大夫志殿御返事 本文】

小袖一つ直垂(ひたたれ)三具・同じく腰三具等云云、小袖は七貫・直垂並びに腰は十貫・已上十七貫文に当れり。
夫れ以(おもんみ)れば天台大師の御位を章安大師顕して云く「止観の第一に序文を引いて云く安禅として化す、位五品に居したまえり、故に経に云く四百万億那由佗の国の人に施すに一一に皆七宝を与え又化して六通を得しむるすら初随喜の人に如(しか)ざること百千万倍せり況や五品をや、文に云く即如来の使なり如来の所遣(しょけん)として如来の事を行ず」等云云、

伝教大師天台大師を釈して云く「今吾が天台大師は法華経を説き法華経を釈し群に特秀し唐に独歩す」云云、又云く「明かに知んぬ如来の使なり讃(ほ)むる者は福を安明(あんみょう)に積み謗(そし)る者は罪を無間に開く」と云云、是の如きは且らく之を置く、滅後一日より正像二千余年の間・仏の御使二十四人なり、所謂第一は大迦葉・第二は阿難・第三は未田地(までんだい)・第四は商那和修・第五は毱多(きくた)・第六は提多迦(だいたか)・第七は弥遮迦(みしゃか)・第八は仏駄難提(ぶつだなんだい)・第九は仏駄密多(ぶつだみった)・第十は脇比丘(きょうびく)・第十一は富那奢(ふなしゃ)・第十二は馬鳴(めみょう)・第十三は毘羅(びら)・第十四は竜樹(りゅうじゅ)・第十五は提婆・第十六は羅喉(らご)・第十七は僧佉難提(そうぎゃなんだい)・第十八は僧耶奢(そうぎゃやしゃ)・第十九は鳩摩羅駄(くまらだ)・第二十は闍夜那(じゃやな)・第二十一は盤駄(はんだ)・第二十二は摩奴羅(まぬら)・第二十三は鶴勒夜奢(かくろくやしゃ)・第二十四は師子尊者、此の二十四人は金口の記する所の付法蔵経に載す。但し小乗・権大乗経の御使なりいまだ法華経の御使にはあらず、三論宗の云く「道朗吉蔵は仏の使なり」法相宗の云く「玄奘慈恩は仏の使なり」華厳宗の云く「法蔵・澄観は仏の使なり」真言宗の云く「善無畏・金剛智・不空・慧果・弘法等は仏の使なり」。

日蓮之を勘えて云く全く仏の使に非ず全く大小乗の使にも非ず、之を供養せば災を招き之を謗ぜば福を至さん、問う汝の自義か答えて云く設い自義為りと雖も有文有義ならば何の科(とが)あらん、然りと雖も釈有り伝教大師云く「誰か福を捨て罪を慕う者あらんや」云云。

福を捨てるとは天台大師を捨てる人なり、罪を慕うとは上に挙ぐる所の法相・三論・華厳・真言の元祖等なり、彼の諸師を捨て一向に天台大師を供養する人の其の福を今申すべし。

三千大千世界と申すは東西南北・一須弥山・六欲梵天を一四天下となづく、百億の須弥山・四州等を小千と云う、小千の千を中千と云う、中千の千を大千と申す、此の三千大千世界を一にして四百万億那由佗国の六道の衆生を八十年やしなひ法華経より外の已今当の一切経を一一の衆生に読誦せさせて三明六通の阿羅漢・辟支仏・等覚の菩薩となせる一人の檀那と、世間出世の財(たから)を一分も施さぬ人の法華経計りを一字・一句・一偈持(げ・たも)つ人と相対して功徳を論ずるに、法華経の行者の功徳勝れたる事・百千万億倍な、天台大師此れに勝れたる事五倍なり、かかる人を供養すれば福を須弥山につみ給うなりと伝教大師ことはらせ給ひて候、此の由を女房には申させ給へ。
恐恐謹言。          
                日蓮花押
大夫志(さかん)殿御返事


          


by johsei1129 | 2019-11-29 20:10 | 池上兄弟 | Trackback | Comments(0)
2019年 11月 23日

日月の光明の能く諸の幽冥を除くが如く斯の人世間に行じて能く衆生の闇を滅すと説いた【斯人行世間事】

【右衛門太夫殿御返事(斯人行世間事)】
■出筆時期:弘安二年(西暦1279年)十二月三日 五十八歳御作。
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:本書は鎌倉武士で強信徒の池上宗仲に宛てた書である。宗仲は幕府作事奉行で極楽寺良観の熱心な信徒であった父康光に、大聖人への帰依を捨てないことで二度にわたり勘当されている。しかし弟宗長を励ましながら、法華経信仰を終生貫き、弘安元年には勘当が解かれ、父も大聖人に帰依することになる。
 本書は非常に短い御書だが、大聖人は上行菩薩の再誕であるとの内証を明かすとともに「貴辺も上行菩薩の化儀(けぎ)をたすくる人なるべし」と、最大限の賞賛をされている。
■ご真筆: 現存していない。

[右衛門太夫殿御返事(斯人行世間事) 本文]   [英語版]

 抑(そもそも)久しく申し承らず候の処に御文(ふみ)到来候い畢んぬ。殊にあを(青)きうら(裏)の小袖一・ぼうし一・をび一すぢ・鵞目一貫文・くり一篭、たしかにうけとり・まいらせ候。
 
 当今は末法の始の五百年に当りて候。かかる時刻に上行菩薩・御出現あつて、南無妙法蓮華経の五字七字を日本国の一切衆生にさづけ給うべきよし、経文分明なり。又流罪死罪に行わるべきよし明かなり。日蓮は上行菩薩の御使にも似たり、此の法門を弘むる故に。

 神力品に云く「日月の光明の能く諸の幽冥(ゆうみょう)を除くが如く斯(こ)の人世間に行じて能く衆生の闇を滅す」等云云。此の経文に斯人行世間(しにんぎょうせけん)の五の文字の中の人の文字をば誰とか思(おぼ)し食(め)す。上行菩薩の再誕の人なるべしと覚えたり。

経に云く「我が滅度の後に於て応に斯の経を受持すべし、是の人仏道に於て決定(けつじょう)して疑(うたがい)有ること無けん」云云。 貴辺も上行菩薩の化儀をたすくる人なるべし。

弘安二年己卯(つちのとう)十二月三日         日  蓮  花 押
右衛門太夫殿御返事

by johsei1129 | 2019-11-23 15:35 | 池上兄弟 | Trackback | Comments(0)
2019年 11月 23日

大聖人が池上宗長の女房が子ができないと諦め嘆いていると聞き、今後はあきらめず望みを託して行きなさいと励まされた【兵衛志殿女房御返事】

【兵衛志殿女房御返事】
■出筆時期:弘安二年(1279)十一月二十五日 五十八歳御作
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:本抄は池上兄弟の弟兵衛志殿(宗長)の妻から、「絹の片裏」をご供養されたことへの返書となっております。
大聖人は弟子から宗長の妻が子ができないのですっかり諦めて嘆いていることを聞き、世間でそのように言っていることは嘆かわしいけれど、たとえ今まではそうであっても、これからは子を持つ望みを託していきなさいと慈愛あふれる言葉をかけられておられます。

尚、この消息について、子供が多く暮らし向きが厳しいと嘆いていると解釈されている事例もありますが、子供が多くて嘆くとは不自然であり、池上兄弟の父は鎌倉幕府・作事奉行(建築・土木の長官にあたる)の要職にあり、大聖人への供養も熱心で、経済的には恵まれていたと思われるので、ここは子供ができないことを嘆いていると推察します。
■ご真筆:千葉県 誕生寺(全文)所蔵。
大聖人が池上宗長の女房が子ができないと諦め嘆いていると聞き、今後はあきらめず望みを託して行きなさいと励まされた【兵衛志殿女房御返事】_f0301354_16470561.jpg




















【兵衛志殿女房御返事 本文】

兵衛志(さかん)殿女房、絹片裏給い候。
此の御心は法華経の御宝前に申し上げて候、
まこととはをぼへ候はねども此の御房たちの申し候は、御子どもはなし。
よにせけんふつふつとをはすると申され候こそなげかしく候へども、
さりともとをぼしめし候へ、恐恐。
十一月廿五日                   日 蓮 在 御 判
兵韋志(さかん)殿女房御返事

※注(古語)
[ふつふつ]:ものを勢いよく断ち切る時の時の音及び形容。きっぱりと、すっかり。
[さりとも]:現状と異なることに望みを託す場合に使用。たとえそうであっても。いままではそうでもこれからは。
※全訳読解古語辞典(三省堂)より。







by johsei1129 | 2019-11-23 15:17 | 池上兄弟 | Trackback | Comments(0)
2019年 11月 15日

鎌倉の強信徒池上宗仲に、弟子の僧坊の築造を依頼した書【両人御中御書】

【両人御中御書】
■出筆時期:弘安二年(西暦1279)十月二十日 五十八歳 御作。
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:本書は大国阿闍梨日朗と、池上兄弟の兄宗仲に宛てた書である。
 内容は、下総出身の古参の弟子大進房が熱原法難で敵方に寝返り、法華経信徒を馬に乗り暴徒を指揮して迫害、その時落馬し怪我を負い、それが原因で死去するが、生前法兄である弁阿闍梨日昭に自分の僧坊を譲るという譲状を残していた。
 大聖人はこのことを知り、直ちに今誰も住んでいない僧防を建て壊し、譲状のとおり日昭に渡して日照の僧坊を大きくしなさいと依頼されておられる。
 
 本書では、この頃大聖人の高弟達はそれぞれ僧坊をもち、そこを拠点に布教活動をしていて、弟子が弘教の主体となっていことをうかがわせる。また僧坊の建築に幕府作事奉行(建築・土木部門)の池上家、特に兄宗仲が大きく関わっていたことがわかる貴重な書となっている。
尚、大聖人は生涯最後の二十六日間を池上宗仲の館ですごし、弘安五年十月十三日に御入滅なされる。
■ご真筆: 京都市妙顕寺 所蔵。
鎌倉の強信徒池上宗仲に、弟子の僧坊の築造を依頼した書【両人御中御書】_f0301354_20483040.jpg

[両人御中御書 本文]

大国阿闍梨、えもん(衛門)のたいう(太夫)志(さかん)殿等に申す。故大進阿闍梨の坊は各各の御計らいに有るべきかと存じ候に、今に人も住せずなんど候なるはいかなる事ぞ。
 ゆづり状のなくばこそ、人人も計らい候はめ。くはしく、うけ給わり候へば、べんの阿闍梨にゆづられて候よし、うけ給わり候き。又いぎ(違義)あるべしとも、をぼへず候。

 それに御用いなきは別の子細の候か、其の子細なくば大国阿闍梨、大夫殿の御計らいとして、弁の阿闍梨の坊へこぼ(毀)ちわたさせ給い候へ。

 心けん(賢)なる人に候へば、いかんがとこそ、をもい候らめ。弁の阿闍梨の坊をすり(修理)してひろくも(漏)らずば、諸人の御ために、御たからにてこそ候はんずらむめ。 
 ふゆはせうまう(焼亡)しげし、もしやけなばそむ(損)と申し人もわらいなん。
 
 このふみ(文書)ついて両三日が内に事切(きれ)て、各各御返事給び候はん。恐恐謹言。

十月廿日                  日  蓮 花 押
両人御中
ゆづり状をたがうべからず。

by johsei1129 | 2019-11-15 06:56 | 池上兄弟 | Trackback | Comments(0)
2019年 11月 12日

父親からの勘当にもめげす法華経信仰を貫いた池上兄弟を称えた書【孝子御書】

■出筆時期:弘安二年(西暦1279年)二月二十八日 五十八歳 御作。
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:本書池上兄弟の弟宗長にあてられたご消息文です。大聖人は池上兄弟の父親が亡くなったとの噂を聞き本当でしょうかと弟の宗長に尋ねられると共に、長年信心に反対してきた父康光を、兄弟が力を合わせて入信させたことを心から喜ばれ、二人の兄弟を真実の孝子であると称えられた書となっております。父康光は幕府の作事奉行を努め、また極楽寺良観の信奉者だったため、大聖人に帰依する長男宗仲を二度も勘当し、弟宗長に家督を譲ることにしたが、宗長も兄に殉じ法華経信仰を貫いたため、ついに父も大聖人に帰依することになった。
■ご真筆: 福井県本妙寺、他二箇所に断簡所蔵。
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[福井県本名寺蔵 ご真筆]

[孝子御書 本文]
御親父御逝去の由、風聞真(まこと)にてや候らん。
貴辺と大夫志(たゆうさかん)の御事は、代末法に入つて生を辺土にうけ、法華の大法を御信用候へば、悪鬼定めて国主と父母等の御身に入りかわり怨(あだ)をなさん事疑なかるべきところに、案にたがふ事なく親父より度度の御かんだう(勘当)をかうほらせ給ひしかども、兄弟ともに浄蔵・浄眼の後身か、将(は)た又薬王薬上の御計らいかのゆへに、ついに事ゆへなく、親父に御かんきをゆりさせ給いて、前(さき)にたてまいらせし御孝養心に任せさせ給いぬるは、あに孝子にあらずや。定めて天よりも悦びをあたへ、法華経十羅刹も御納受あるべし。

其の上貴辺の御事は心の内に感じをもう事候。此の法門、経のごとくひろまり候わば御悦び申すべし。穴賢穴賢、兄弟の御中不和にわたらせ給ふべからず、不和にわたらせ給ふべからず。
大夫志殿の御文(ふみ)にくわしくかきて候きこしめすべし、恐恐謹言。

弘安二年二月二十八日        日 蓮 花 押




by johsei1129 | 2019-11-12 20:52 | 池上兄弟 | Trackback | Comments(0)
2019年 11月 10日

池上兄弟の篤信を称えた書【兵衛志殿御返事】

【兵衛志殿御返事】
■出筆時期:弘安元年(西暦1278)十一月二十九日 五十七歳 御作。
■出筆場所:身延山中 館にて。
■出筆の経緯:本抄は池上兄弟の弟、兵衛志宗長に与えられた書です。大聖人は池上兄弟が供養した白厚綿小袖について「兄弟二人のふたつの小袖、わた四十両をきて候が、なつのかたびらのやうにかろく候ぞ。<中略>此の二のこそでなくば今年はこごへしに候なん」と記し、兄弟の真心のご供養の精神を称えられております。また身延の館の様子について「人はなき時は四十人ある時は六十人。<中略>心にはしずかに、あじちむすびて小法師と我が身計り御経よみまいらせんとこそ存じて候に、かかるわづらはしき事候はず、又としあけ候わば、いづくへもにげんと存じ候ぞ」と記し、弟子とその身内が集い活況を呈していることを、面白く記されている貴重な書となっております。
■ご真筆:京都市 立本寺、他四箇所に断簡所蔵。
池上兄弟の篤信を称えた書【兵衛志殿御返事】_f0301354_2321825.jpg

[兵衛志殿御返事 本文]


銭六貫文の内一貫次郎よりの分白厚綿(あつわた)小袖一領。四季にわたりて財を三宝に供養し給う。いづれも、いづれも功徳にならざるはなし。但し時に随いて勝劣、浅深わかれて候。う(飢)へたる人には衣をあたへたるよりも食をあたへて候は、いますこし功徳まさる。こごへたる人には食をあたへて候よりも衣は又まさる。春夏に小袖をあたへて候よりも秋冬にあたへぬれば又功徳一倍なり。これをもつて一切はしりぬべし。ただし此の事にをいては四季を論ぜず日月をたださず、ぜに、こめ、かたびら(帷子)、きぬこそで(衣小袖)、日日、月月にひまなし。例せばびんばしやらわう(頻婆娑羅王)の教主釈尊に日日に五百輛の車ををくり、阿育(あそか)大王の十億の沙金を鶏頭摩寺にせ(施)せしがごとし。大小ことなれども志は彼にもすぐれたり。

 其の上今年は子細候。ふゆと申すふゆ、いづれのふゆか、さむからざる。なつと申すなつ、いづれのなつか、あつからざる。ただし今年は余国はいかんが候らん、このはきゐ(波木井)は法にすぎてかん(寒)じ候。ふるきをきな(老)どもにとひ候へば、八十、九十、一百になる者の物語り候は、すべて、いにしへ、これほどさむき事候はず。此のあんじち(庵室)より四方の山の外、十町、二十町。人かよう事候はねば、しり候はず。きんぺん一町のほどは、ゆき(雪)一丈二丈五尺等なり。このうるう(閏)十月卅日ゆきすこしふりて候しが、やがてきへ候ぬ。この月の十一日たつ(辰)の時より十四日まで大雪ふりて候しに、両三日へだてて、すこし雨ふりてゆきかた(堅)くなる事金剛のごとし。いまにきゆる事なし。ひるも、よるも、さむくつめたく候事法にすぎて候。さけはこを(凍)りて石のごとく。あぶらは金ににたり。なべかま(鍋釜)は小(すこ)し水あればこおりてわれ。かん(寒)いよいよかさなり候へば、きものうすく食ともしくして、さしいづるものもなし。

 坊ははんさく(半作)にてかぜゆき(風雪)たまらず。しきものはなし。木は、さしいづるものもなければ、火もたかず。ふるきあか(垢)づきなんどして候こそで一(ひとつ)なんどき(著)たるものは其身のいろ紅蓮大紅蓮のごとし。こへ(声)ははは(波波)大ばば(婆婆)地獄にことならず。手足かんじてきれさけ人死ぬことかぎりなし。俗のひげ(鬚)をみればやうらく(瓔珞)をかけたり。僧のはな(鼻)をみればすず(鈴)をつらぬ(つらぬ)きかけて候。

 かかるふしぎ候はず候に去年(こぞ)の十二月の卅日より、はらのけ(下痢)の候しが春夏やむことなし。あき(秋)すぎて十月のころ大事になりて候しが、すこして平愈つかまつりて候へども、ややもすればを(発)こり候に、兄弟二人のふたつの小袖、わた(綿)四十両をきて候が、なつ(夏)のかたびら(帷子)のやうにかろく候ぞ。まして、わたうすく、ただぬのもの(布物)ばかりのものをもひやらせ給へ。此の二(ふたつ)のこそでなくば今年はこご(凍)へし(死)に候なん。

其上(うえ)兄弟と申し右近の尉の事と申し食もあいついて候。人はなき時は四十人ある時は六十人。いかにせ(塞)き候へどもこれにある人人のあに(兄)とて出来し舎弟とてさしいで・しきゐ(来居)候ぬれば・かかはやさに・いかにとも申しへず。心にはしずかにあじち(庵室)むすびて、小法師と我が身計り御経よみまいらせんとこそ存じて候に、かかるわづらは(煩)しき事候はず。又とし(年)あけ候わば、いづくへもにげんと存じ候ぞ。かかる・わづらわしき事候はず又又申すべく候。
なによりもえもん(衛門)の大夫志(たゆう・さかん)と・とのとの御事・ちち(父)の御中と申し上のをぼへと申し面(めん)にあらずば申しつくしがたし。 恐恐謹言。

十一月廿九日        日 蓮  花 押
兵衛志殿御返事

by johsei1129 | 2019-11-10 10:44 | 池上兄弟 | Trackback | Comments(0)
2019年 11月 09日

極楽寺良観の熱心な信者である父を大聖人に帰依させた池上兄弟を称えた書【兵衛志殿御書(親父入信御書)】

【兵衛志殿御書(親父入信御書) 】
■出筆時期:弘安元年(西暦1278年)九月九日 五十七歳御作。
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:本抄は池上兄弟の弟、兵衛志宗長に与えられたご消息文です。池上兄弟の父康光は、幕府作事奉行(建築・土木事業の長)と言う要職についていましたが、念仏僧・極楽寺良観の熱心な信者で、良観を批判する大聖人に帰依する兄宗仲を、家督を継ぐ資格が無いという理由で前年(建治三年)の十一月、二度目の勘当をします。しかしその後兄弟の熱意にうたれついに大聖人に帰依します。

本抄で大聖人は「殿の御心賢くして日蓮がいさめを御もちゐ有りしゆへに、<中略>兄弟の御力にて親父を法華経に入れまいらせさせ給いぬる御計らい、偏に貴辺の御身にあり」と記され、勘当されても法華経信仰を貫いた兄宗仲と違い、法華経信仰を続けるべきか、はたまた父に従うべきか揺らいだ宗長を厳しく指導され、その結果父子ともども大聖人に帰依したことを「殿の御心賢くして日蓮がいさめを御もちゐ有りしゆへ」と讃えられておられます。

さらに文末では「教主釈尊の御使を二度までこうぢをわたし、弟子等をろうに入れ、或は殺し或は害し、或は所国をおひし故に、其の科必ず其の国国万民の身に一一にかかるべし。或は又白癩・黒癩・諸悪重病の人人おほかるべし、我が弟子等・此の由を存ぜさせ給へ」と記し、日蓮並びに弟子たちを弾圧した科は、必ず「還著於本人」の結果が出るので、その理由をよく知っておきなさいと指導されております。また追伸では「総じては我が一門の人人御覧有るべし、他人に聞かせ給うな」と記し、日蓮の弟子信徒以外の者が聞くと誤解する恐れがあるので、口外しないよう厳命されておられます。
■ご真筆: 東京都・池上本門寺所蔵。古写本:日興上人筆(北山本門寺所蔵)
極楽寺良観の熱心な信者である父を大聖人に帰依させた池上兄弟を称えた書【兵衛志殿御書(親父入信御書)】_f0301354_19112362.jpg

[真筆箇所本文:志殿と、とのとの御事ふしぎに候。
つねさまには代すえになり候へば聖人賢人もみなかくれ、ただざんじん・ねいじん・わざん・きよ]

[兵衛志殿御書(親父入信御書) 本文]

久しくうけ給わり候はねば・よくおぼつかなく候、何よりも・あはれに・ふしぎなる事は大夫志殿と殿との御事・不思議に候。
常さまには世末になり候へば聖人・賢人も皆かくれ・ただ・ざんじむ(讒人)・ねいじん(佞人)・わざん(和讒)・きよくり(曲理)の者のみこそ国には充満すべきと見へて候へば、喩えば水すくなくなれば池さはがしく、風ふけば大海しづかならず、代の末になり候へば、かんばち(旱魃)えきれい(疫癘)大雨大風ふきかさなり候へば、広き心も・せばくなり、道心ある人も邪見になるとこそ見へて候へ。

されば他人はさてをきぬ父母と夫妻と兄弟と諍う事、れつし(猟師)としか(鹿)と、ねことねずみと、たかときじとの如しと見へて候。

良観等の天魔の法師らが親父左衛門の大夫殿をすかし、わどのばら二人を失はんとせしに、殿の御心賢くして日蓮がいさめを御もちゐ有りしゆへに、二(ふたつ)のわ(輪)の車をたすけ、二(ふたつ)の足の人を・になへるが如く、二(ふたつ)の羽のとぶが如く、日月の一切衆生を助くるが如く、兄弟の御力にて親父を法華経に入れまいらせさせ給いぬる御計らい、偏に貴辺の御身にあり。

又真実の経の御ことはりを代(よ)末になりて仏法あながちに・みだれば、大聖人世に出ずべしと見へて候。喩へば松のしも(霜)の後(のち)に木の王と見へ、菊は草の後に仙草と見へて候。代のおさまれるには賢人見えず、代の乱れたるにこそ聖人愚人は顕れ候へ。

あはれ平の左衛門殿、さがみ殿の日蓮をだに用いられて候いしかば、すぎにし蒙古国の朝使(つかい)のくびは・よも切(きら)せまいらせ候はじ、くやしくおはすらなん。

人王八十一代安徳天皇と申す大王は、天台の座主・明雲等の真言師等・数百人かたらひて源の右将軍頼朝を調伏せしかば、還著於本人とて、明雲は義仲に切られぬ、安徳天皇は西海に沈み給う。人王八十二三四隠岐の法皇・阿波の院・佐渡の院・当今・已上四人・座主慈円僧正・御室・三井等の四十余人の高僧等をもて、平の将軍義時を調伏し給う程に、又還著於本人とて上の四王島島に放たれ給いき。

此の大悪法は弘法・慈覚・智証の三大師・法華経最第一の釈尊の金言を破りて、法華最第二・最第三・大日経最第一と読み給いし僻見を御信用有りて、今生には国と身とをほろぼし後生には無間地獄に堕ち給いぬ。

今度は又此の調伏三度なり、今我が弟子等死したらん人人は仏眼をもて是を見給うらん。命つれなくて生(いき)たらん眼(まなこ)に見よ。国主等は他国へ責めわたされ、調伏の人人は或は狂死(くるいじに)或は他国或は山林にかくるべし。

教主釈尊の御使を二度までこうぢ(街路)をわたし、弟子等をろう(牢)に入れ、或は殺し或は害し、或は所国をおひし故に、其の科(とが)必ず其の国国万民の身に一一にかかるべし。或は又白癩・黒癩・諸悪重病の人人おほかるべし、我が弟子等・此の由を存ぜさせ給へ。恐恐謹言。

九月九日          日 蓮 花 押

此の文(ふみ)は別しては兵衛の志殿へ、総じては我が一門の人人御覧有るべし、他人に聞かせ給うな。

by johsei1129 | 2019-11-09 17:41 | 池上兄弟 | Trackback | Comments(0)
2019年 11月 08日

大聖人が池上宗長に持病の下り腹が平癒したことを伝えた書【兵衛志殿御返事】

【兵衛志殿御返事(味噌一桶御書)】
■出筆時期:弘安元年(西暦1278年)六月二六日 五十七歳 御作。
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:本抄は短いご消息文ですが、池上兄弟の弟・宗長から味噌一桶を供養されたことへの返書となっております。本書で大聖人は、晩年苦しめられた持病の下り腹が四条金吾の調合した薬で回復し、また宗長から送られた味噌でさらに心持ちも良くなったと喜ばれ、最後には「今年御つゝがなき事をこそ、法華経に申し上げまいらせ候」と、宗長の安全を祈ったと伝えておられます。尚大聖人はこの書をしたためた前後、六月二十五日から二十七日の三日間で、日女御前、富木常忍、四条金吾、池上宗長、窪尼御前と五通ものご消息文を信徒に送られておられ、信徒を精力的に励まされており、この事実からこの時期、病状が回復していたことがうかがわれます。
■ご真筆:越前市 妙勧寺 所蔵。
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[兵衛志殿御返事((味噌一桶御書) 本文]   [英語版]

みそをけ一(ひとつ)給び了んぬ。はらのけ(下痢)はさゑもん殿(四条金吾)の御薬になを(治)りて候。

又このみそをな(嘗)めていよいよ心ちなをり候ひぬ。

あわれあわれ今年御つゝがなき事をこそ、法華経に申し上げまいらせ候へ。恐々謹言。

 六月廿六日                 日 蓮 花 押

   兵 衛 志 (さかん) 殿 御 返 事

by johsei1129 | 2019-11-08 22:32 | 池上兄弟 | Trackback | Comments(0)