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日蓮大聖人『御書』解説

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カテゴリ:弟子・信徒その他への消息( 209 )


2019年 11月 14日

日月の光明の能く諸の幽冥を除くが如く斯の人世間に行じて能く衆生の闇を滅す、と説いた【寂日房 御書】

【寂日房御書】
■出筆時期:弘安二年(西暦1279)九月十六日 五十八歳御作。
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:本抄は日興上人が定めた六人の弟子の一人で大聖人に常随給仕された、寂日房日華上人に宛てられて書です。大聖人は本抄の文末で「此の事寂日房くわしくかたり給へ」と寂日房に指示され、文中では「父母となり其の子となるも必ず宿習なり」と記されていることから、寂日房の両親に本抄で記した法門を説き聞かせなさいと伝えたものと思われます。また大聖人は寂日房に対して「我が滅度の後に於て応に此の経を受持すべし是の人仏道に於て決定(けつじょう)して疑い有ること無けん<中略>かかる者の弟子檀那とならん人人は宿縁ふかしと思うて日蓮と同じく法華経を弘むべきなり」と説いて、法華経弘通に更に励むよう諭されております。
■ご真筆: 現存していない。

[寂日房御書 本文]

 是まで御をとづれ(音信)かたじけなく候、夫れ人身をうくる事はまれなるなり、已にまれなる人身をうけたり又あひがたきは仏法・是も又あへり、同じ仏法の中にも法華経の題目にあひたてまつる結句題目の行者となれり、まことにまことに過去十万億の諸仏を供養する者なり。

 日蓮は日本第一の法華経の行者なり、すでに勧持品の二十行の偈(げ)の文は日本国の中には日蓮一人よめり。
 八十万億那由佗の菩薩は口には宣(のべ)たれども修行したる人一人もなし、かかる不思議の日蓮をうみ出だせし父母は日本国の一切衆生の中には大果報の人なり。父母となり其の子となるも必ず宿習なり、若し日蓮が法華経・釈迦如来の御使ならば父母あに其の故なからんや、例せば妙荘厳王・浄徳夫人・浄蔵・浄眼の如し、釈迦多宝の二仏・日蓮が父母と変じ給うか、然らずんば八十万億の菩薩の生れかわり給うか、又上行菩薩等の四菩薩の中の垂迹か不思議に覚え候、一切の物にわたりて名の大切なるなり、さてこそ天台大師・五重玄義の初めに名玄義と釈し給へり。

 日蓮となのる事自解仏乗(じげぶつじょう)とも云いつべし、かやうに申せば利口げに聞えたれども道理のさすところさもやあらん、経に云く「日月の光明の能く諸の幽冥(ゆうみょう)を除くが如く斯(こ)の人世間に行じて能く衆生の闇を滅す」と、此の文の心よくよく案じさせ給へ。斯人行世間(しにんぎょうせけん)の五の文字は上行菩薩・末法の始の五百年に出現して南無妙法蓮華経の五字の光明をさ(指)しい(出)だして無明煩悩の闇をてらすべしと云う事なり、日蓮は此の上行菩薩の御使として日本国の一切衆生に法華経をうけたもてと勧めしは是なり、此の山にしてもをこたらず候なり、今の経文の次下(つぎしも)に説いて云く「我が滅度の後に於て応に此の経を受持すべし是の人仏道に於て決定して疑い有ること無けん」と云云、かかる者の弟子檀那とならん人人は宿縁ふかしと思うて日蓮と同じく法華経を弘むべきなり、法華経の行者といはれぬる事はや不祥なりまぬかれがたき身なり、彼のはんくわい(樊噲)ちやうりやう(張良)まさかどすみとも(将門・純友)といはれたる者は名を・をしむ故にはぢを思う故に・ついに臆したることはなし、同じはぢなれども今生のはぢは・もののかずならず・ただ後生のはぢこそ大切なれ、獄卒・だつえば(奪衣婆)懸衣翁(けんねおう)が三途河のはた(端)にて・いしやう(衣装)をは(剥)がん時を思食(おぼしめ)して法華経の道場へまいり給うべし、法華経は後生のはぢをかくす衣なり、経に云く「裸者の衣を得たるが如し」云云。

 此の御本尊こそ冥途のいしやうなれ・よくよく信じ給うべし、をとこのはだへ(膚)をかくさざる女あるべしや・子のさむさをあわれまざるをや(親)あるべしや、釈迦仏・法華経はめ(妻)とをや(親)との如くましまし候ぞ、日蓮をたすけ給う事・今生の恥をかくし給う人なり後生は又日蓮御身のはぢをかくし申すべし、昨日は人の上・今日は我が身の上なり、花さけばこのみなり・よめ(嫁)のしうとめ(姑)になる事候ぞ、信心をこたらずして南無妙法蓮華経と唱え給うべし。

 度度(たびたび)の御音信(おとずれ)申しつくしがたく候ぞ、此の事寂日房くわしくかたり給へ。

九月十六日          日 蓮 花押

 【妙法蓮華経 如来神力品 第二十一】

 於如来滅後 知仏所説経 因縁及次第 随義如実説
 如日月光明 能除諸幽冥 斯人行世間 能滅衆生闇
 教無量菩薩 畢竟住一乗 是故有智者 聞此功徳利
 於我滅度後 応受持斯経 是人於仏道 決定無有疑

 [和訳]
如来の滅後に、仏が説く教の因縁と次第を知りて、義に随って実の如くに説かば
 日月の光明が、諸々の幽冥(くらやみ)を能く除くように、此の人は世間に行じて能く衆生の闇を滅し、
 無量の菩薩(求道者)を究極的に一乗(仏道)に住せしめる。是故に、智慧ある者はこの功徳の利を聞いて、
 我が滅度の後に、まさにこの教を受持すべし。此の人は仏道に於いて、必ず悟を得ることに疑いはない。

by johsei1129 | 2019-11-14 20:35 | 弟子・信徒その他への消息 | Trackback | Comments(0)
2019年 11月 14日

御本尊は我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはすと説いた【日女御前御返事】

【日女御前御返事(本尊相貌抄)】
■出筆時期:弘安二年(西暦1279年) 八月二十三日 五十八歳 御作。
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:池上宗仲の妻で強信徒であった日女御前に宛てられた御書。おそらくこの頃、大聖人はご日女御前に本尊をご下付なされたものと思われる。それに対し日女御前がご供養の品々を送られ、大聖人はそのお礼とともに、ご下付された御本尊は「仏(釈尊)滅後二千二百二十余年未曾有の大曼荼羅である」と説くとともに、ご図現された御本尊の相貌の意味について詳細にしるされている。また「この御本尊全く余所に求る事なかれ、只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはします」とご自身の法門の深い内証を解き明かされている。
■ご真筆: 現存しない。

[日女御前御返事(本尊相貌抄)] 本文

御本尊供養の御為に鵞目五貫・白米一駄・菓子其の数送り給び候い畢んぬ。抑(そもそも)此の御本尊は在世五十年の中には八年・八年の間にも(妙法華経)涌出品より属累品まで八品に顕れ給うなり。さて滅後には正法・像法・末法の中には正像二千年にはいまだ本門の本尊と申す名だにもなし。何に況や顕れ給はんをや。又顕すべき人なし。天台妙楽伝教等は内には鑒(かんが)み給へども故こそあるらめ言には出だし給はず。彼の顔淵(がんえん)が聞きし事、意にはさとるといへども言に顕していはざるが如し。然るに仏滅後二千年過ぎて末法の始の五百年に出現せさせ給ふべき由経文赫赫(かくかく)たり明明たり。天台妙楽等の解釈分明なり。

爰に日蓮いかなる不思議にてや候らん、竜樹天親等・天台妙楽等だにも顕し給はざる大曼荼羅を、末法二百余年の比(ころ)はじめて法華弘通のはた(旌))じるしとして顕し奉るなり。是全く日蓮が自作にあらず、多宝塔中の大牟尼世尊分身の諸仏す(摺)りかたぎ(形木)たたる本尊なり。されば首題の五字は中央にかかり、四大天王は宝塔の四方に坐し・釈迦・多宝・本化の四菩薩肩を並べ、普賢・文殊等・舎利弗・目連等坐を屈し、日天・月天・第六天の魔王・竜王・阿修羅・其の外不動・愛染は南北の二方に陣を取り、悪逆の達多・愚癡の竜女一座をはり、三千世界の人の寿命を奪ふ悪鬼たる鬼子母神・十羅刹女等・加之(しかのみならず)日本国の守護神たる天照太神・八幡大菩薩・天神七代・地神五代の神神、総じて大小の神祇等・体(たい)の神つらなる。其の余の用の神豈もるべきや。宝塔品に云く「諸の大衆を接して皆虚空に在り」云云。此等の仏菩薩・大聖等・総じて序品列坐の二界八番の雑衆等一人ももれず、此の御本尊の中に住し給い妙法五字の光明にてらされて、本有(ほんぬ)の尊形(そんぎょう)となる。是を本尊とは申すなり。

経に云く「諸法実相」是なり。妙楽云く「実相は必ず諸法・諸法は必ず十如乃至十界は必ず身土」云云。又云く「実相の深理本有(ほんぬ)の妙法蓮華経」等と云云。伝教大師云く「一念三千即自受用身(じじゅゆうしん)・自受用身とは出尊形(しゅっそんぎょう)の仏」文。此の故に未曾有の大曼荼羅とは名付け奉るなり。仏滅後・二千二百二十余年には此の御本尊いまだ出現し給はずと云う事なり。

かかる御本尊を供養し奉り給ふ女人、現在には幸(さいわい)をまねぎ後生には此の御本尊左右前後に立ちそひて闇に燈(ともしび)の如く、険難の処に強力(ごうりき)を得たるが如く、彼(かし)こへまはり此(ここ)へより・日女御前をかこみ・まほり給うべきなり。相構え相構えてとわり(遊女)を我が家へよせたくもなき様に、謗法の者をせ(防)かせ給うべし。悪知識を捨てて善友に親近せよとは是なり。

 此の御本尊全く余所(よそ)に求る事なかれ。只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり。是を九識心王真如の都とは申すなり。十界具足とは十界一界もかけず一界にあるなり。之に依つて曼陀羅とは申すなり。曼陀羅と云うは天竺の名なり、此には輪円具足とも功徳聚とも名くるなり。此の御本尊も只信心の二字にをさまれり以信得入とは是なり。

 日蓮が弟子檀那等・正直捨方便・不受余経一偈と無二に信ずる故によつて、此の御本尊の宝塔の中へ入るべきなり。たのもし・たのもし、如何(いか)にも後生をたし(嗜)なみ給ふべし・たしなみ給ふべし、穴賢。南無妙法蓮華経とばかり唱へて仏になるべき事尤も大切なり。信心の厚薄によるべきなり、仏法の根本は信を以て源とす。されば止観の四に云く「仏法は海の如し唯信のみ能く入る」と。弘決の四に云く「仏法は海の如し唯信のみ能く入るとは孔丘(こうきゅう)の言(ことば)尚信を首(はじめ)と為す、況や仏法の深理をや信無くして寧ろ入らんや。故に華厳に信を道の元・功徳の母と為す」等。又止の一に云く「何が円の法を聞き円の信を起し円の行を立て円の位に住せん」弘の一に云く「円信と言うは理に依つて信を起す信を行の本と為す」云云。外典に云く「漢王臣の説を信ぜしかば河上の波忽ちに冰(こお)り李広父の讎(あだ)を思いしかば草中の石羽を飲む」と云えり。所詮・天台妙楽の釈分明に信を以て本とせり。彼の漢王も疑はずして大臣のことばを信ぜしかば立波(たつなみ)こほり行くぞかし。石に矢のたつ是れ又父のかたきと思いし至信の故なり。何に況や仏法においてをや。法華経を受け持ちて南無妙法蓮華経と唱うる即五種の修行を具足するなり。此の事伝教大師入唐して道邃和尚(どうずいわじょう)に値い奉りて五種頓修(とんしゅう)の妙行と云う事を相伝し給ふなり。日蓮が弟子檀那の肝要是より外に求る事なかれ。神力品に云く。委くは又又申す可く候、穴賢穴賢。

弘安二年八月二十三日 日蓮 花押
日女御前御返事




by johsei1129 | 2019-11-14 20:10 | 弟子・信徒その他への消息 | Trackback | Comments(0)
2019年 11月 13日

大聖人が、法華経の御使いとして蒙古襲来への覚悟を弟子に示した書【蒙古事】

【蒙古事】
■出筆時期:弘安二年(1279年)八 月 六 日 五十八歳御作
■出筆場所:身延山中の草庵にて。
■出筆の経緯:本抄は従来「異体同心事」の後半部分として収録されておりましたが、二つの異なる御書が一つにまとめられたことが分かり、前半部分は「異体同心事」とし、後半の箇所は本書の「蒙古事」と名付けられております。
対告衆は、文中に弁阿闍梨日向上人の名が出てきており、また「さては各各としのころ・・・」という記載がありますので、信徒ではなく弟子に向けて著された書と推知致します。

内容も蒙古襲来の時期が迫って来たと記されるとともに、「我が国のほろびん事はあさましけれども、これだにもそら事になるならば・日本国の人人いよいよ法華経を謗して万人無間地獄に堕つべし」と、大胆に大聖人の本意を述べられておられることからも、弟子達に「蒙古襲来にあたって、法華経の御使いとしての覚悟」を明確に説いた手紙であると拝すことができます。
■ご真筆:現存しておりません。
[蒙古事 本文]  [英語版]

さては各各としのころ・いかんがとをぼしつる、もうこ(蒙古)の事すでにちかづきて候か。

我が国のほろ(亡)びん事はあさましけれども、これだにもそら(虚)事になるならば・日本国の人人いよいよ法華経を謗して万人無間地獄に堕つべし、

かれだにもつよ(強)るならば国はほろぶとも謗法はうすくなりなん。譬へば灸治(やいと)をしてやまいをいやし針治(はりたて)にて人をなをすがごとし、当時はなげくとも後は悦びなり。

日蓮は法華経の御使い、日本国の人人は大族王の一閻浮提の仏法を失いしがごとし、蒙古国は雪山(せっせん)の下王(げおう)のごとし天の御使として法華経の行者をあだむ人人を罰せらるるか。

又現身に改悔(かいげ)ををこしてあるならば、阿闍世王の仏に帰して白癩(びゃくらい)をや(治)め、四十年の寿(いのち)をのべ無根の信と申す位にのぼりて現身に無生忍をえたりしがごとし。恐恐謹言。

八 月 六 日               日 蓮 花 押

by johsei1129 | 2019-11-13 22:00 | 弟子・信徒その他への消息 | Trackback | Comments(0)
2019年 11月 13日

願くは此の功徳を以て普く一切に及ぼし我等と衆生と皆共に仏道を成ぜんと説いた【盂蘭盆御書】

【盂蘭盆御書】
■出筆時期:弘安二年(1279年)五十八歳御作
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:本抄は六老僧の一人蓮華阿闍梨日持の弟子で後に大聖人の直弟子となった治部房日位の祖母が、盂蘭盆にあたり白米・焼米・瓜(うり)・茄子(なすび)などを大聖人に供養したことへの返書となっております。

大聖人は本書で、釈尊の十大弟子の一人目連尊者が、地獄に落ちている亡き母を救うため釈尊の説法通り「七月十五日に十方の聖僧をあつめて百味をんじき(飲食)をととのへて」母のく(苦)をは救うべしと、「盂蘭盆」の謂われを記されるとともに、「目連尊者と申す人は法華経と申す経にて正直捨方便とて小乗の二百五十戒立ちどころになげすてて南無妙法蓮華経と申せしかばやがて仏になりて<中略>目連が色身仏になりしかば父母の身も又仏になりぬ」と、南無妙法蓮華経と唱えることが真の盂蘭盆供養であると諭されておられます。

さらに文末では「貴女は治部殿と申す孫を僧にてもち給へり、此僧は無戒なり無智なり二百五十戒一戒も持つことなし三千の威儀一も持たず、智慧は牛馬にるいし威儀は猿猴ににて候へども、あをぐところは釈迦仏・信ずる法は法華経なり<中略>父母・祖父・祖母・乃至七代の末までも・とぶらうべき僧なり、あわれ・いみじき御たからは・もたせ給いてをはします女人かな」と、法華経に帰依した僧を孫に持つことは七代の末まで弔うことになると励まされておられます。しかし残念ながら日興上人の御本尊分与帳には「一、駿河國四十九院の住治部房は、蓮華闍梨の弟子也。仍て日興之を申し与う、但し聖人御滅後に背き了ぬ」と記されており、大聖人御遷化後には日興上人に違背されたと思われます。
■ご真筆:京都市妙覚寺(全文)所蔵(重要文化財)。
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[真筆(第六紙)本文:下記緑字箇所]

[盂蘭盆(うらぼん)御書 本文]

盂蘭盆と申し候事は仏の御弟子の中に目連尊者と申して、舎利弗にならびて智慧第一・神通第一と申して須弥山に日月のならび大王に左右の臣のごとくにをはせし人なり、此の人の父をば吉懺(きっせん)師子と申し母をば青提女(しょうだいにょ)と申す、其の母の慳貪(けんどん)の科(とが)によつて餓鬼道に堕ちて候しを目連尊者のすくい給うより事をこりて候、其の因縁は母は餓鬼道に堕ちてなげき候けれども・目連は凡夫なれば知ることなし、

幼少にして外道の家に入り四ゐ(韋)陀・十八大経と申す外道の一切経をならいつくせども・いまだ其の母の生所をしらず、其の後十三のとし舎利弗とともに釈迦仏にまいりて御弟子となり、見惑をだん(断)じて初果の聖人となり修惑を断じて阿羅漢となりて三明をそなへ六通をへ(得)給へり、天眼をひらいて、三千大千世界を明鏡のかげ(影)のごとく御らむありしかば、大地をみとお(見透)し三悪道を見る事冰(こおり)の下に候魚を朝日にむかいて我等がとを(透)しみるがごとし、其の中に餓鬼道と申すところに我が母あり、の(飲)む事なし食うことなし、皮はきんてう(金鳥)をむしれるがごとく骨はまろき石をならべたるがごとし、頭はまり(鞠)のごとく頚はいと(糸)のごとし腹は大海のごとし、口をはり手を合せて物をこ(乞)へる形は・う(餓)へたるひる(蛭)の人のか(香)をかげるがごとし、先生(せんじょう)の子をみてな(泣)かんとするすがた・う(飢)へたるかたちたとへ(譬)を・とるに及ばず、いかんがかな(悲)しかりけん。

法勝寺の修(執)行舜観(俊寛)が・いわう(硫黄)の嶋にながされてはだかにてかみ(髪)くびつき(頸付)にうちをい・やせをとろへて海へん(辺)に・やすらいてもくづをとりてこし(腰)にまき魚を・一(ひとつ)みつけて右の手にとり口にかみける時、本つか(仕)いしわらわ(童)のたづねゆきて見し時と、目連尊者が母を見しといづれかをろ(疎)かなるべき、かれはいますこしかなしさわまさりけん。
目連尊者はあまりのかなしさに大神通をげんじ給ひ・はん(飯)をまいらせたりしかば、母よろこびて右の手にははんをにぎり左の手にては・はんをかくして口にをし入れ給いしかば、いかんが・したりけんはん(飯)変じて火となり・やがても(燃)へあがり、とうしび(燈心)をあつめて火をつけたるがごとくぱともへあがり、母の身のごこごことやけ候しを目連見給いて、あまりあわてさわぎ大神通を現じて大なる水をかけ候しかば、其の水たきぎ(薪)となりていよいよ母の身のやけ候し事こそあはれには候しが、其の時目連みづからの神通かなわざりしかば・はしりかへり須臾に仏にまいりてなげき申せしやうは、我が身は外道の家に生れて候しが仏の御弟子になりて阿羅漢の身をへ(得)て、三界の生をはなれ三明六通の羅漢とはなりて候へども、乳母の大苦をすくはんとし候に・かへりて大苦にあわせて候は、心うしとなげき候しかば、仏け説いて云く汝が母は・つみふかし・汝一人が力及ぶべからず、又何(いずれ)の人なりとも天神・地神・邪魔・外道・道士・四天王・帝釈・梵王の力も及ぶべからず、七月十五日に十方の聖僧をあつめて百味をんじき(飲食)をととのへて母のく(苦)をはすくうべしと云云。
目連・仏の仰せのごとく行いしかば其の母は餓鬼道一劫の苦を脱れ給いきと、盂蘭盆経と申す経にとかれて候、其によつて滅後末代の人人は七月十五日に
此の法を行い候なり、此は常のごとし。

日蓮案じて云く目連尊者と申せし人は十界の中に声聞道の人・二百五十戒をかたく持つ事石のごとし、三千の威儀を備えてか(欠)けざる事は十五夜の月のごとし、智慧は日ににたり・神通は須弥山を十四さう(市)まき大山をうごかせし人ぞかし、かかる聖人だにも重報の乳母の恩ほう(報)じがたし、あまさへほうぜんとせしかば大苦をまし給いき、いまの僧等の二百五十戒は名計りにて事をかい(戒)によせて人をたぼらかし一分の神通もなし、大石の天にのぼらんと・せんがごとし、智慧は牛にるい(類)し羊にことならず、設い千万人を・あつめたりとも父母の一苦すくうべしや。

せんするところは目連尊者が乳母の苦をすくわざりし事は、小乗の法を信じて二百五十戒と申す持斎にてありしゆへぞかし、されば浄名経と申す経には浄名居士と申す男目連房をせめて云く汝を供養する者は三悪道に堕つ云云、文の心は二百五十戒のたうとき目連尊者をくやうせん人は三悪道に堕つべしと云云、

此又ただ目連一人がきくみみ(耳)にはあらず、一切の声聞乃至末代の持斎等がきくみみなり、此の浄名経と申すは法華経の御ためには数十番の末への郎従にて候、詮するところは目連尊者が自身のいまだ仏にならざるゆへぞかし、自身仏にならずしては父母をだにもすくいがたし・いわうや他人をや。

しかるに目連尊者と申す人は法華経と申す経にて正直捨方便とて、小乗の二百五十戒立ちどころになげすてて南無妙法蓮華経と申せしかば、やがて仏になりて名号をば多摩羅跋栴檀香仏(たまらばせんだんこうぶつ)と申す、此の時こそ父母も仏になり給へ、故に法華経に云く我が願既に満ち衆の望も亦足る云云、目連が色身は・父母の遺体なり目連が色身仏になりしかば父母の身も又仏になりぬ。

例せば日本国八十一代の安徳天皇と申せし王の御宇に平氏の大将安芸の守清盛と申せし人をはしき。度度の合戦に国敵をほろぼして上(かみ)太政大臣まで官位をきわめ当今はまごとなり。
一門は雲客月卿につらなり、日本六十六国・島二(ふたつ)を掌(たなごころ)の内にかいにぎりて候いしが、人を順うこと大風の草木をなびかしたる・やうにて候しほどに、心をごり身あがり結句は神仏をあなづりて神人と諸僧を手に・にぎらむとせしほどに、山僧と七寺との諸僧のかたきとなりて、結句は去る治承四年十二月二十二日に七寺の内の東大寺・興福寺の両寺を焼きはらいてありしかば・其の大重罪・入道の身にかかりて・かへるとし養和元年潤二月四日身はすみ(炭)のごとく面(かお)は火のごとくすみのをこれるがやうにて結句は炎身より出でてあつちじに(熱死)に死ににき。
其の大重罪をば二男宗盛にゆづりしかば西海に沈むとみへしかども東天に浮び出でて、右大将(うたいしょう)頼朝の御前に縄をつけて・ひきすへて候き、三男知盛は海に入りて魚の糞となりぬ。
四男重衡(しげひら)は其の身に縄をつけて京かまくらを引かれて結句なら七大寺にわたされて、十万人の大衆等・我等が仏のかたきなりとて一刀(ひとたち)づつ・きざみぬ。
悪の中の大悪は我が身に其の苦をうくるのみならず子と孫と末へ七代までもかかり候けるなり。
善の中の大善も又又かくのごとし、目連尊者が法華経を信じまいらせし大善は我が身仏になるのみならず父母仏になり給う。
上七代・下七代・上無量生下無量生の父母等存外に仏となり給う、乃至子息・夫妻・所従・檀那・無量の衆生・三悪道をはなるるのみならず皆初住・妙覚の仏となりぬ。

故に法華経の第三に云く「願くは此の功徳を以て普(あまね)く一切に及ぼし我等と衆生と皆共に仏道を成ぜん」云云。

されば此等をもつて思うに貴女(おんな)は治部殿と申す孫を僧にてもち給へり、此僧は無戒なり無智なり二百五十戒一戒も持つことなし三千の威儀一も持たず、智慧は牛馬にるいし威儀は猿猴(ましら)ににて候へども、あをぐところは釈迦仏・信ずる法は法華経なり、例せば蛇の珠をにぎり竜の舎利を戴くがごとし、藤は松にかかりて千尋(ちひろ)をよぢ鶴は羽を恃(たの)みて万里をかける、此は自身の力にはあらず。治部房も又かくのごとし、我が身は藤のごとくなれども法華経の松にかかりて妙覚の山にものぼりなん、一乗の羽をたのみて寂光の空にもかけりぬべし、此の羽をもつて父母・祖父・祖母・乃至七代の末までも・とぶらうべき僧なり、あわれ・いみじき御たからは・もたせ給いてをはします女人かな、彼の竜女は珠をささげて・仏となり給ふ、此女人は孫を法華経の行者となして・みちびかれさせ給うべし、事事そうそう(匆匆)にて候へば・くはしくは申さず、又又申すべく候。恐恐。

七月十三日       日 蓮花押
治部殿うばごぜん御返事
しらげ牙(白米)一俵・やいごめ(焼米)・うり(瓜)・なすび等仏前にささげ申し上候畢んぬ。



by johsei1129 | 2019-11-13 21:51 | 弟子・信徒その他への消息 | Trackback | Comments(0)
2019年 11月 13日

大聖人の草庵があった身延の沢の様子と暮らし向きを詳細に記した消息文【松野殿女房御返事 】

【松野殿女房御返事】
■出筆時期:弘安二年(1279年)六月二十日 五十八歳御作
■出筆場所:身延山中の草庵にて。
■出筆の経緯:本抄は駿州松野に住まわれていた松野入道の妻に与えられた消息です。尚、娘は南条家に嫁ぎ時光を生んでおります。両家は住まいも近く、普段から法華経信仰の上でも交流が深かったと思われます。
本抄は松野殿の女房から種々のご供養を送られたことへの返書となっており、「女人の御身としてかかる濁世末代に法華経を供養しましませば<中略>釈迦仏は霊山より御手をのべて御頂をなでさせ給うらん」とその志を讃えられておられます。

また前段では、身延山中に設けた草庵での大聖人の暮らし向き、また周辺の詳細な状況を記されておられます。この事は、一往は当時の信徒に身延の状況を伝える趣旨ではありますが、再往は、大聖人滅度後の将来の弟子・信徒が、末法の本仏を渇仰する気持に応えるため、実際の暮らしぶりを詳細に記しておいた大聖人の慈悲であると拝します。
■ご真筆筆:福井県本勝寺(13文字の断簡)所蔵。
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[真筆本文箇所:あらず、天台大師にてはなけれ]
[松野殿女房御返事 本文]
麦一箱・いゑのいも一篭・うり(瓜)一篭・旁(かたがた)の物、六月三日に給(たび)候しを今まで御返事申し候はざりし事恐れ入つて候。

此の身延の沢と申す処は甲斐の国の飯井野(いいの)・御牧・波木井の三箇郷の内・波木井の郷の戌亥(いぬい)の隅にあたりて候。北には身延の嶽(たけ)・天をいただき南には鷹取が嶽・雲につづき東には天子の嶽日とたけをなじ、西には又峨峨(がが)として大山つづきて・しらね(白根)の嶽にわたれり、猨(ましら)のなく音(こえ)天に響き蝉のさゑづり地にみてり、天竺の霊山此の処に来れり唐土の天台山親(まのあた)りここに見る。

我が身は釈迦仏にあらず天台大師にてはなけれども、まかる・まかる昼夜に法華経をよみ朝暮に摩訶止観を談ずれば霊山浄土にも相似たり・天台山にも異ならず。

但し有待(うだい)の依身(えしん)なれば著(き)ざれば風・身にしみ・食(くらわ)ざれば命持ちがたし。灯に油をつがず火に薪を加へざるが如し、命いかでかつぐべきやらん。命続(つぎ)がたく・つぐべき力絶えては、或は一日乃至・五日既に法華経読誦の音も絶えぬべし、止観のまど(窓)の前には草しげりなん。

かくの如く候にいかにして思い寄らせ給いぬらん、兎(うさぎ)は経行の者を供養せしかば天帝哀みをなして月の中にをかせ給いぬ。

今天を仰ぎ見るに月の中に兎あり。
されば女人の御身としてかかる濁世末代に法華経を供養しましませば、梵王も天眼を以て御覧じ帝釈は掌を合わせてをがませ給ひ、地神は御足をいただきて喜び釈迦仏は霊山より御手(みて)をのべて御頂(おんいただき)をなでさせ給うらん。 南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経、恐恐謹言。

弘安二年己卯六月二十日                   日 蓮花押
 松野殿女房御返事

by johsei1129 | 2019-11-13 21:28 | 弟子・信徒その他への消息 | Trackback | Comments(0)
2019年 11月 13日

悪縁にあふて還俗の念起る事浅ましき次第なり<略>薬を捨てて毒をとるが如し、と説いた【出家功 徳御書】

【出家功徳御書】
■出筆時期:弘安二年(1279年)五月 五十八歳御作
■出筆場所:身延山中の草庵にて。
■出筆の経緯:本抄の対告衆の詳細は不明ですが、冒頭で「内内還俗の心中、出来候由風聞候ひけるは、実事にてや候らん虚事にてや候らん。心元なく候間一筆啓せしめ候」と記されておられるように、弟子の中で還俗(出家僧から俗の身に戻る)をする噂を大聖人が憂へ、その相手を直接諌めるべく本抄をしたためられたと思われます。   

弘安二年は熱原の法難が勃発した年で、日興上人の教化で、天台宗滝泉寺の僧が次々と大聖人が門下に下りました。そのため院主代の行智はその動きを止めるべく、大聖人の弟子信徒への圧迫を強めます。その際、行智に唆されて大聖人門下の大進坊、三位房が退転するという事態に陥ります。この行智の迫害に恐れをなし、弟子の中に還俗を考えた僧侶が出てきたものと思われます。 大聖人は本抄で「されば人身をうくること難く、人身をうけても出家と成ること尤も難し<中略>還俗の念起る事浅ましき次第なり<略>薬を捨てて毒をとるが如し」と、還俗することを強く諌めておられます。さらに文末では「我が身は天よりもふらず地よりも出でず。父母の肉身を分たる身なり、我が身を損ずるは父母の身を損ずるなり」と記し、還俗は最大の親不孝であると諭されます。またこの出家についてですが、鎌倉時代は宗派を問わず仏教が民衆の精神的支柱であり、世俗の仕事は早めに子供に譲り、自身は出家し仏門に入ることが通例でした。例えば、大聖人が「立正安国論」を献上した北条時頼は、二十九歳で家督を六歳の時宗に譲り、自身は出家し最明寺入道と名乗っております。

それでは現代における出家の意味は、狭義では出家し僧になることですが、広義の意味では大聖人の教えを人生の基盤にすること、つまり入信を意味すると拝せます。また本抄の大聖人の還俗への戒めは、大聖人の教えに背き「退転」することと配すべきと考えられます。
■ご真筆:現存しておりません。
[出家功徳御書 本文]

近日(このごろ)誰やらん承りて申し候は・内内還俗(げんぞく)の心中・出来(しゅったい)候由風聞候ひけるは・実事(まこと)にてや候らん虚事(そらごと)にてや候らん・心元(こころもと)なく候間一筆啓せしめ候、凡(およそ)父母の家を出でて僧となる事は必ず父母を助くる道にて候なり、出家功徳経に云く「高さ三十三天に百千の塔婆を立つるよりも一日出家の功徳は勝れたり」と、されば其の身は無智無行にもあれかみ(髪)をそり袈裟をかくる形(かたち)には天魔も恐をなすと見えたり、大集経に云く「頭を剃り袈裟を著くれば持戒及び毀戒も天人供養す可し則ち仏を供養するに為りぬ」云云、又一(ある)経の文に有人(あるひと)海辺をとをる一人の餓鬼あつて喜び踊れり、其の謂(いわ)れを尋ぬれば我が七世の孫今日出家になれり其の功徳にひかれて出離生死せん事喜ばしきなりと答へたり、されば出家と成る事は我が身助かるのみならず親をも助け上(かみ)無量の父母まで助かる功徳あり、されば人身をうくること難く人身をうけても出家と成ること尤も難し、然るに悪縁にあふて還俗(げんぞく)の念起る事浅ましき次第なり金を捨てて石をとり薬を捨てて毒をとるが如し、我が身悪道に堕つるのみならず六親眷属をも悪道に引かん事不便(ふびん)の至極なり。

其の上在家の世を渡る辛労一方(ひとかた)ならずやがて必ず後悔あるべし、只親のなされたる如く道をちがへず出家にてあるべし、道を違へずば十羅刹女の御守り堅かるべし、道をちがへたる者をば神も捨てさせ給へる理(ことわ)りにて候なり、大勢至経に云く「衆生五の失(とが)有り必ず悪道に堕ちん一には出家還俗の失なり」、又云く「出家の還俗は其の失五逆に過ぎたり」、五逆罪と申すは父を殺し母を殺し仏を打ち奉りなんどする大なる失を五聚(いつつ・あつ)めて五逆罪と云うなり、されば此の五逆罪の人は一中劫の間・無間地獄に堕ちて浮ぶ事なしと見えたり。

然るに今宿善薫発して出家せる人の還俗の心付きて落つるならば・彼の五逆罪の人よりも罪深くして大地獄に堕つべしと申す経文なり、能く能く此の文を御覧じて思案あるべし、我が身は天よりもふらず地よりも出でず父母の肉身を分(わけ)たる身なり、我が身を損ずるは父母の身を損ずるなり、此の道理を弁へて親の命(おおせ)に随ふを孝行と云う親の命(おおせ)に背くを不孝と申すなり、所詮心は兎(と)も角も起れ身をば教の如く一期(ご)出家にてあらば自ら冥加も有るべし、此の理(ことわり)に背きて還俗(げんぞく)せば仏天の御罰を蒙り現世には浅ましくなりはて後生には三悪道に堕ちぬべし、能く能く思案あるべし、身は無智無行にもあれ形(かたち)出家にてあらば里にも喜び某(われ)も祝著たるべし、況や能き僧にて候はんをや、委細の趣・後音を期し候。

弘安二年五月 日  日蓮 花押

by johsei1129 | 2019-11-13 21:22 | 弟子・信徒その他への消息 | Trackback | Comments(0)
2019年 11月 12日

法華経は仏にまさらせ給う事、星と月とともしびと日とのごとし、又御心ざしもすぐ れて候、と説かれた【窪尼御前御返事】

【窪尼御前御返事(虚御教書)】
■出筆時期:弘安二年(西暦1279)五月四日 五十八歳御作。
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:本抄は日興上人のおばで駿河・富士郡の故高橋入道の御家尼・窪尼御前御がご供養の品々をご供養されたことへの返書となっております。

大聖人は5月(現在では6月)という農家の繁忙期で、さらに宮の造営(富士浅間神社)という経済的にも負担の大きい時期に、窪尼が身延の大聖人のことを思いやり数々のご供養を為された事を、徳勝童子が釈迦仏に砂の餅を供養されたことで阿育大王になった謂れを引かれて「御志殊にふかし」と称えられておられます。

また「法華経は仏にまさらせ給う事、星と月とともしびと日とのごとし、又御心ざしもすぐれて候。されば故入道殿も仏にならせ給うべし。又一人をはする姫御前も、命も長く幸いも有りてさる人の娘なりと聞こえさせ給うべし」と記され、衆生を仏に為す法華経は、ともしびと日との如く仏に優っており、法華経の宝前に供養された窪尼の供養も優れている」と、故高橋入道と残された一人娘に思いを馳せ、窪尼を励まされておられます。
■ご真筆:山梨県妙了寺(断簡) 所蔵。古写本:日興上人筆(富士大石寺(全文)所蔵)
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[真筆本文:下記緑字箇所]
[窪尼御前御返事 本文]

御供養の物数のままに慥(たしか)に給い候、当時は五月の比(ころ)おひにて民のいとまなし、其の上宮の造営にて候なり。かかる暇(いとま)なき時、山中の有り様思ひやらせ給いて送りたびて候事、御志殊にふかし。

阿育大王と申せし王はこの天の日のめぐらせ給う一閻浮提を大体しろしめされ候いし王なり。此の王は昔徳勝とて五(いつつ)になる童(わらべ)にて候いしが、釈迦仏にすな(砂)のもち(餅)ゐをまいらせたりしゆへに、かかる大王と生れさせ給う。此の童はさしも心ざしなし・たわふれなるやうにてこそ候いしかども、仏のめでたくをはすればわづかの事も、ものとなりて・かかるめでたき事候。まして法華経は仏にまさらせ給う事、星と月とともしびと日とのごとし、又御心ざしもすぐれて候。されば故入道殿も仏にならせ給うべし。又一人をはする・ひめ御前も、いのちもながく・さひわひ(幸)もありて・さる人の・むすめなりと・きこえさせ給うべし。当時もおさなけれども母をかけてすごす女人なれば父の後世をもたすくべし。

から(唐)国にせいし(西施)と申せし女人は、わかなを山につ(摘)みて、を(老)ひたるはわ(母)をやしなひき。天あはれみて越王と申す大王のかり(狩)せさせ給いしが、みつけてきさき(妃)となりにき。これも又かくのごとし・をやを・やしなふ女人なれば天もまほらせ給うらん仏もあはれみ候らん。一切の善根の中に孝養父母は第一にて候なれば・まして法華経にてをはす、金(こがね)のうつわ(器)ものに・きよき水を入れたるがごとく・すこしもも(漏)るべからず候、めでたし・めでたし、恐恐謹言。

五月四日日 蓮 花 押
くぼの尼御前御返事





by johsei1129 | 2019-11-12 22:01 | 弟子・信徒その他への消息 | Trackback | Comments(0)
2019年 11月 12日

法華経は随自意なり一切衆生を仏の心に随へたり、と説いた御書【新池殿御消息】

【新池殿御消息(にいけどのごしょうそく)】
■出筆時期:弘安2年(西暦1279年)5月2日 五十八歳御作
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■鎌倉幕府直参武士(御家人)で地頭であった新池左衛門尉が、亡くなった子の追善のため米三石(現在の約300㌔)をご供養されたことへの返書となっております。新池左衛門尉は遠江国磐田郡新池(現静岡県袋井市)に居住されていて、日興上人の教化により妻の新池尼ともども大聖人に帰依されたと思われます。本書で大聖人は「諸経は随他意なり仏一切衆生の心に随ひ給ふ故に、法華経は随自意なり一切衆生を仏の心に随へたり、諸経は仏説なれども是を信ずれば衆生の心にて永く仏にならず、法華経は仏説なり仏智なり一字一点も是を深く信ずれば我が身即仏となる」と法華経への一途な信仰をするよう諭されておられます。尚、新池左衛門尉は弘安三年二月には長文の 「新池御書」を送られているほどの強信徒でありました。
■ご真筆: 現存しておりません。

[新池殿御消息 本文]

八木(こめ)三石送り給い候。今一乗妙法蓮華経の御宝前に備へ奉りて南無妙法蓮華経と只一遍唱えまいらせ候い畢んぬ、いとをしみ(最愛)の御子を霊山浄土へ決定無有疑と送りまいらせんがためなり。
抑(そもそも)因果のことはりは華と果(このみ)との如し。千里の野の枯れたる草に螢(ほたる)火の如くなる火を一つ付けぬれば、須臾に一草・二草・十・百・千万草につきわたりても(燃)ゆれば十町・二十町の草木、一時にやけつきぬ。竜は一渧(てい・しずく)の水を手に入れて天に昇りぬれば三千世界に雨をふらし候。小善なれども法華経に供養しまいらせ給いぬれば功徳此くの如し。

 仏滅後・一百年と申せしに月氏国に阿育大王と申せし王ましましき、一閻浮提・八万四千の国を四分が一御知行ありき、竜王をしたがへ鬼神を召し仕はせ給う。六万の羅漢を師として八万四千の石塔を立て十万億の金(こがね)を仏に供養し奉らんと誓はせ給いき。かかる大王にてをはせし其の因位の功徳をたづぬれば、ただ土の餅一(ひとつ)・釈迦仏に供養し奉りし故ぞかし。釈迦仏の伯父(おじ)に斛飯(こくぼん)王と申す王をはします。彼の王に太子あり阿那律となづく、此の太子生れ給いしに御器(ごき)一つ持ち出でたり、彼の御器に飯あり食すれば又出でき又出でき終に飯つくる事なし。故にかの太子のをさな(幼)名をば如意となづけたり。法華経にて仏に成り給ふ普明如来是なり。此の太子の因位を尋ぬれば、う(飢)へたる世にひえ(稗)の飯を辟支仏(びゃくしぶつ)と申す僧に供養せし故ぞかし。辟支仏を供養する功徳すら此くの如し、況や法華経の行者を供養せん功徳は無量無辺の仏を供養し進(まい)らする功徳にも勝れて候なり。

抑日蓮は日本国の者なり。此の国は南閻浮提七千由旬の内に八万四千の国あり、十六の大国・五百の中国・十千の小国・無量の粟散(ぞくさん)国あり。其の中に月氏国と申す国は大国なり。彼の国に五天竺あり、其れより東海の中に小島あり日本国是なり。中天竺よりは十万余里の東なり。仏教は仏滅度後正法一千年が間は天竺にとど(留)まりて余国にわたらず、正法一千年の末・像法に入つて一十五年と申せしに漢土へ渡る。漢土に三百年すぎて百済国に渡る、百済国に一百年已上一千四百十五年と申せしに、人王三十代・欽明天皇の御代に日本国に始めて釈迦仏の金銅の像と一切経は渡りて候いき。今七百余年に及び候、其の間一切経は五千余巻或は七千余巻なり。宗は八宗・九宗・十宗なり。国は六十六箇国・二つの島・神は三千余社・仏は一万余寺なり。男女よりも僧尼は半分に及べり、仏法の繁昌は漢土にも勝れ天竺にもまさ(勝)れり。

 但し仏法に入つて諍論あり。浄土宗の人人は阿弥陀仏を本尊とし、真言の人人は大日如来を本尊とす、禅宗の人人は経と仏とをば閣(さしお)いて達磨(だるま)を本尊とす。余宗の人人は念仏者、真言等に随へられ何れともなけれども、つよ(強)きに随ひ多分に押されて阿弥陀仏を本尊とせり。現在の主師親たる釈迦仏を閣(さしお)きて他人たる阿弥陀仏の十万億の他国へにげ行くべきよしを、ねがはせ給い候。阿弥陀仏は親ならず主ならず師ならず。されば一経の内、虚言(そらごと)の四十八願を立て給いたりしを、愚(おろか)なる人人実と思いて物狂はしく金拍子をたたきおど(踊)りはねて念仏を申し、親の国をばいと(厭)ひ出でぬ。来迎(らいごう)せんと約束せし阿弥陀仏の約束の人は来らず、中有のたびの空(そら)に迷いて謗法の業にひかれて三悪道と申す獄屋(ひとや)へおもむけば、獄卒・阿防・羅刹悦びをなし、とら(捉)へから(搦)めてさひなむ事限りなし。

 これをあらあら経文に任せてかたり申せば、日本国の男女、四十九億九万四千八百二十八人ましますが、某(それがし)一人を不思議なる者に思いて、余の四十九億九万四千八百二十七人は皆敵と成りて、主師親の釈尊をもちひぬだに不思議なるに、かへりて或はのり、或はうち、或は処を追ひ、或は讒言して流罪し死罪に行はるれば、貧なる者は富めるをへつらひ、賤き者は貴きを仰ぎ、無勢は多勢にしたがう事なれば、適(たまたま)法華経を信ずる様なる人人も世間をはばかり人を恐れて多分は地獄へ堕つる事不便なり。

 但し日蓮が愚眼にてやあるらん、又宿習にてや候らん、法華経最第一、已今当説難信難解、唯我一人能為救護と説かれて候文は、如来の金言なり敢て私の言にはあらず。当世の人は人師の言を如来の金言と打ち思ひ、或は法華経に肩を並べて斉(ひと)しと思ひ、或は勝れたり或は劣るなれども機にかなへりと思へり。しかるに如来の聖教に随他意随自意と申す事あり。譬えば子の心に親の随うをば随他意と申す、親の心に子の随うをば随自意と申す。諸経は随他意なり、仏一切衆生の心に随ひ給ふ故に。法華経は随自意なり、一切衆生を仏の心に随へたり。諸経は仏説なれども是を信ずれば衆生の心にて永く仏にならず、法華経は仏説なり仏智なり一字一点も是を深く信ずれば我が身即仏となる。譬えば白紙を墨に染むれば黒くなり黒漆(うるし)に白き物を入るれば白くなるが如し。毒薬変じて薬となり、衆生変じて仏となる故に妙法と申す。

 然るに今の人人は高きも賤きも現在の父たる釈迦仏をばかろ(軽)しめて、他人の縁なき阿弥陀、大日等を重んじ奉るは是れ不孝の失(とが)にあらずや、是れ謗法の人にあらずや、と申せば日本国の人、一同に怨ませ給うなり。其れもことはりなり、まがれる木はすなを(直)なる繩をにくみ、いつは(偽)れる者はただ(直)しき政りごとをば心にあはず思うなり。 

 我が朝人王・九十一代の間に謀叛の人人は二十六人なり。所謂大山の王子、大石の小丸、乃至将門すみとも悪左府等なり。此等の人人は吉野とつ(十津)河の山林にこもり筑紫・鎮西の海中に隠るれば、島島のえびす浦浦のもののふどもうたんとす。然れどもそれは貴き聖人、山山・寺寺・社社の法師・尼・女人はいたう敵と思う事なし。日蓮をば上下の男女・尼・法師貴き聖人なんど伝はるる人人は殊に敵となり候。

 其の故は、いづれも後世をば願へども男女よりは僧・尼こそ願ふ由はみえ候へ。彼等は往生はさてをきぬ、今生の世をわたるなかだち(中人)となる故なり。智者聖人又我好我勝(われよし・われすぐれ)たりと申し、本師の跡と申し、所領と申し、名聞利養を重くしてまめやかに道心は軽し。仏法はひがさまに心得て愚癡の人なり。謗法の人なりと言をも惜まず人をも憚らず、当知是人仏法中怨の金言を恐れて、我是世尊使処衆無所畏と云う文に任せていたくせむる間、未得謂為得・我慢心充満の人人争かにくみ嫉(ねた)まざらんや。されば日蓮程天神七代・地神五代、人王九十余代にいまだ此れ程法華経の故に三類の敵人にあだまれたる者なきなり。

 かかる上下万人一同のにくまれ者にて候に、此れまで御渡り候いし事、おぼろげの縁にはあらず宿世の父母か昔の兄弟にておはしける故に思い付かせ給うか。又過去に法華経の縁深くして今度仏にならせ給うべきたね(種)の熟せるかの故に、在俗の身として世間ひまなき人の公事(くじ)のひまに思い出ださせ給いけるやらん。

 其の上遠江の国より甲州波木井の郷身延山へは道三百余里に及べり。宿宿のいぶせさ・嶺に昇れば日月をいただき、谷へ下(くだ)れば穴へ入るかと覚ゆ。河の水は矢を射るが如く早し、大石ながれて人馬むかひ難し。船あやうくして紙を水にひた(浸)せるが如し。男は山かつ女は山母(やまうば)の如し。道は縄の如くほそく、木は草の如くしげし。かかる所へ尋ね入らせ給いて候事、何なる宿習なるらん。釈迦仏は御手を引き帝釈は馬となり梵王は身に随ひ日月は眼となりかはらせ給いて入らせ給いけるにや、ありがたしありがたし。事多しと申せども此の程風おこりて身苦しく候間、留め候い畢んぬ。

弘安二年己卯五月二日 日 蓮 花押
新池殿御返事



by johsei1129 | 2019-11-12 21:55 | 弟子・信徒その他への消息 | Trackback | Comments(0)
2019年 11月 12日

南無妙法蓮華と弥陀念仏は師子と犬と日輪と星との光くらべのごとしと説いた【松野殿後家尼御前御返事】

【松野殿後家尼御前御返事】
■出筆時期:弘安二年三月二十六日(西暦1279年) 五十八歳 御作。
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:本書を送られた松野殿後家尼は六老僧の一人、蓮華阿闍梨日持上人の母であり、また娘は南条兵衛七郎に嫁ぎ、同じく駿河に住む南条家とは姻戚関係にあった。尚、夫松野六郎左衛門は駿河国松野に永精寺(現静岡市蓮永寺)を建立、日持が永精寺一世となっている。 本書は後家尼御前の度々のご供養について「法華経の第四の巻には釈迦仏・凡夫の身にいりかはらせ給いて法華経の行者をば供養すべきよしを説かれて候、釈迦仏の御身に入らせ給い候か」と讃えられると共に、末代に南無妙法蓮華経と唱へることは「仏(釈尊)のたとへを説かせ給うに一眼の亀の浮木の穴に値(あ)いがたきにたとへられる」ほど有難い事であると説いている。
■ご真筆: 現存していない。

[松野殿後家尼御前御返事 本文]

 法華経第五の巻安楽行品に云く、文殊師利此法華経は無量の国の中に於て乃至名字をも聞くことを得べからず云云。此の文の心は我等衆生の三界六道に輪回(りんね)せし事は或は天に生れ、或は人に生れ、或は地獄に生れ、或は餓鬼に生れ、畜生に生れ無量の国に生をうけて無辺の苦しみをうけてたの(楽)しみにあひしかども一度も法華経の国には生ぜず。たまたま生れたりといへども南無妙法蓮華経と唱へず。となふる事はゆめ(夢)にもなし人の申すをも聞かず。仏のたとへを説かせ給うに一眼の亀の浮木の穴に値いがたきにたとへ給うなり。心は大海の中に八万由旬の底(そこ)に亀と申す大魚あり。手足もなくひれ(鰭)もなし、腹のあつき事はくろがねのやけるがごとし、せなか(背中)のこう(甲)のさむき事は雪山ににたり。此の魚の昼夜朝暮のねがひ時時剋剋の口ずさみには腹をひやしこう(甲)をあたためんと思ふ。赤栴檀(しゃくせんだん)と申す木をば聖木と名つく、人の中の聖人なり。余の一切の木をば凡木と申す、愚人の如し。此の栴檀の木は此の魚の腹をひやす木なり。あはれ此の木にのぼりて腹をば穴に入れてひやしこう(甲)をば天の日にあてあた(暖)ためばやと申すなり。自然のことはりとして千年に一度出る亀なり。しかれども此の木に値(あう)事かたし。大海は広し亀はちいさし浮木はまれ(稀)なり。たとひよ(余)のうきき(浮木)にはあへども栴檀にはあはず。あへども亀の腹をえり(彫)はめたる様にがい分に相応したる浮木の穴にあひがたし、我が身をち入りなばこう(甲)をもあたためがたし、誰か又とりあぐべき。又穴せば(狭)くして腹を穴に入れえずんば波にあらひをとされて大海にしづみなむ。たとひ不思議として栴檀の浮木の穴にたまたま行きあへども我一眼のひがめる故に浮木(うきぎ)西にながるれば東と見る、故にいそいでの(乗)らんと思いておよげば弥弥(いよいよ)とをざかる。東に流るを西と見る南北も又此くの如し云云。浮木にはとをざかれども近づく事はなし。是の如く、無量無辺劫にも一眼の亀の浮木の穴にあひがたき事を仏説き給へり。此の喩をとりて法華経にあひがたきに譬ふ、設ひあへどもとな(唱)へがたき題目の妙法の穴にあひがたき事を心うべきなり、大海をば生死の苦海なり亀をば我等衆生にたとへたり。手足のなきをば善根の我等が身にそな(具)はらざるにたとへ、腹のあつきをば我等が瞋恚(しんに)の八熱地獄にたとへ、背のこう(甲)のさむきをば貪欲の八寒地獄にたとへ、千年大海の底にあるをば我等が三悪道に堕ちて浮(うか)びがたきにたとへ、千年に一度浮ぶをば三悪道より無量劫に一度人間に生れて釈迦仏の出世にあひがたきにたとう。余の松木ひ(檜)の木の浮木にはあひやすく栴檀にはあひがたし。一切経には値いやすく法華経にはあひがたきに譬へたり。たとひ栴檀には値うとも相応したる穴にあひがたきに喩うるなり。設ひ法華経には値うとも肝心たる南無妙法蓮華経の五字をとなへがたきにあ(値)ひたてまつる事のかたきにたとう。東を西と見、北を南と見る事をば我れ等衆生かし(賢)こがほに智慧有る由をして勝を劣と思ひ劣を勝と思ふ。得益なき法をば得益あると見る、機にかなはざる法をば機にかなう法と云う。真言は勝れ法華経は劣り、真言は機にかなひ法華経は機に叶はずと見る是なり。

 されば思いよらせ給へ仏、月氏国に出でさせ給いて一代聖教を説かせ給いしに、四十三年と申せしに始めて法華経を説かせ給ふ。八箇年が程、一切の御弟子皆如意宝珠のごとくなる法華経を持ち候き。然れども日本国と天竺とは二十万里の山海をへだてて候しかば、法華経の名字をだに聞くことなかりき。釈尊御入滅ならせ給いて一千二百余年と申せしに漢土へ渡し給ふ。いまだ日本国へは渡らず、仏滅後一千五百余年と申すに日本国の第三十代・欽明天皇と申せし御門(みかど)の御時、百済国より始めて仏法渡る。又上宮太子と申せし人唐土より始めて仏法渡させ給いて其れより以来今に七百余年の間、一切経並に法華経はひろまらせ給いて、上一人より下万人に至るまで心あらむ人は法華経を一部或は一巻或は一品持ちて或は父母の孝養とす。されば我等も法華経を持つと思う。しかれども未だ口に南無妙法蓮華経とは唱へず、信じたるに似て信ぜざるが如し。譬えば一眼の亀のあひがたき栴檀の聖木にはあいたれどもいまだ亀の腹を穴に入れざるが如し。入れざればよしなし須臾に大海にしづみなん。我が朝七百余年の間此の法華経弘まらせ給いて、或は読む人、或は説く人、或は供養せる人、或は持つ人稲麻竹葦よりも多し。然れどもいまだ阿弥陀の名号を唱うるが如く南無妙法蓮華経とすすむる人もなく唱うる人もなし。一切の経一切の仏の名号を唱うるは凡木にあうがごとし。未だ栴檀ならざれば腹をひやさず、日天ならざれば甲をもあたためず、但目をこやし心を悦ばしめて実なし、華さいて菓(このみ)なく言のみ有りてしわざなし。但日蓮一人ばかり日本国に始めて是を唱へまいらする事、去ぬる建長五年の夏のころより今に二十余年の間、昼夜朝暮に南無妙法蓮華経と是を唱うる事は一人なり。念仏申す人は千万なり。予は無縁の者なり、念仏の方人(かたうど)は有縁なり高貴なり。然れども師子の声には一切の獣(けもの)声を失ふ、虎の影には犬恐る。日天東に出でぬれば万星の光は跡形もなし。法華経のなき所にこそ弥陀念仏はいみじかりしかども、南無妙法蓮華経の声出来しては、師子と犬と日輪と星との光くらべのごとし。譬えば鷹と雉(きじ)との・ひとしからざるがごとし、故に四衆とりどりにそねみ上下同くにくむ、讒人国に充満して奸人土(ところ)に多し、故に劣を取りて勝をにくむ。譬えば犬は勝れたり師子をば劣れり、星をば勝れ日輪をば劣るとそし(誹)るが如し。然る間邪見の悪名世上に流布し、ややもすれば讒訴し、或は罵詈せられ、或は刀杖の難をかふる、或は度度流罪にあたる。五の巻の経文にすこしもたがはず。さればなむだ(涙)左右の眼にうかび悦び一身にあまれり。

 ここに衣は身をかくしがたく食は命をささへがたし。例せば蘇武が胡国にありしに雪を食として命をたもつ。伯夷は首陽山にすみし蕨(わらび)ををりて身をたすく、父母にあらざれば誰か問うべき、三宝の御助にあらずんばいかでか一日片時も持つべき、未だ見参にも入らず候人のかやうに度度御をとづれのはんべるはいかなる事にやあやしくこそ候へ。法華経の第四の巻には釈迦仏凡夫の身にいりかはらせ給いて法華経の行者をば供養すべきよしを説かれて候。釈迦仏の御身に入らせ給い候か、又過去の善根のもよをしか。竜女と申す女人は法華経にて仏に成りて候へば、末代に此の経を持ちまいらせん女人をまほらせ給うべきよし誓わせ給いし。其の御ゆかりにて候か、貴し貴し。

弘安二年己卯三月二十六日   日  蓮  花押
松野殿後家尼御前御返事

by johsei1129 | 2019-11-12 21:09 | 弟子・信徒その他への消息 | Trackback | Comments(0)
2019年 11月 10日

大学と申す人は、ふつうの人には似ず、日蓮が御勘気の時、身を捨てかたうどして候ひし人なり 、と記した【大学殿事】

【大学殿事】
■出筆時期:弘安元年(1278年)二月二十五日 五十七歳御作
■出筆場所:身延山中の草庵にて。
■出筆の経緯:本抄は幕府儒官で強信徒の大学三郎に宛てられた書です。原文はかなりの長文と思われますが、重要な箇所が断簡として残されております。その箇所は大学三郎が大聖人の竜ノ口の法難時に、四条金吾と同様に、大学三郎自らの死を賭して立ち会われたことを伺わせる貴重な書となっております。
大聖人は本抄で、大学三郎が竜ノ口の法難の際「御(日蓮上人)ためにはくびもきられ、遠流にもなり候へ。かわる事ならばいかでかかわらざるべき」と言われたと示されておられます。

また大聖人は立正安国論を北条時宗に献上する際、事前に大学三郎に見せており、門下の中でも学識の優れた信徒であったと言えます。
■ご真筆:妙成(みょうじょう)寺所蔵。
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[大学殿事 本文]
 
(この前の文は残されておりません)
いのりなんどの仰せかう(蒙)ほるべしとをぼへ候はざりつるに、をほ(仰)せた(給)びて候事のかたじけなさ。
かつはし(師)なり、かつは弟子なり、かつはだんな(檀那)なり。御ためにはくび(頸)もき(切)られ、遠流にもなり候へ。
かわる事ならばいかでかかわらざるべき。されども此の事は叶ふまじきにて候ぞ。
 
大がく(学)と申す人は、ふつうの人にはに(似)ず、日蓮が御かんきの時身をすてかたうど(方人)して候ひし人なり。

此の仰せは城(じょう)殿の御計らひなり。城殿と大学殿は知音(ちいん)にてをはし候。
其の故は大がく殿は坂東第一の御てかき(手書)、城介(じょうのすけ)殿は御て(手)をこの(好)まるる人なり。
  (この後の文も残されておりません)






by johsei1129 | 2019-11-10 20:17 | 弟子・信徒その他への消息 | Trackback | Comments(0)