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日蓮大聖人『御書』解説

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カテゴリ:弟子・信徒その他への消息( 209 )


2019年 12月 01日

法華経の題目「南妙法蓮華経」を唱える功徳は、それ以前の爾前、権教の題目の功徳と比べ遥に優れていることを示された書【題目功徳御書】

【題目功徳御書】
■出筆時期:詳細は不明です。
■出筆場所:不明です。
■出筆の経緯:九行の断簡が京都本隆寺に残されておりますが、前後の文が不明のため出筆時期及び対告衆の詳細は不明ですが、恐らく信徒に宛てられた消息の一部と思われます。

大聖人は本抄で法華経とそれ以前に説かれた爾前・権教の功徳の優劣について、初心の信徒でも理解できるように分かりやすい喩えで示されておられます。
■ご真筆:京都市 本隆寺(断簡)所蔵。
法華経の題目「南妙法蓮華経」を唱える功徳は、それ以前の爾前、権教の題目の功徳と比べ遥に優れていることを示された書【題目功徳御書】_f0301354_20010951.jpg


















[題目功徳御書 本文]

功徳は先の功徳にたくら(比)ぶれば、
前の功徳は爪上(そうじょう)の土のごとし、法華
経の題目の功徳は十方の土のごとし。
先の功徳は一渧(たい)の水のごとし、題
目の功徳は大海のごとし。先の功徳は
瓦礫(がりゃく)のごとし、題目の功徳は金銀の
ごとし。先の功徳は螢火(けいか)のごとし、
題目の功徳は日月のごとしと申す
経文なり。






by johsei1129 | 2019-12-01 21:24 | 弟子・信徒その他への消息 | Trackback | Comments(0)
2019年 12月 01日

日蓮大聖人最後のご消息文となった【波木井殿御報】

【波木井殿御報】
■出筆時期:弘安五年(西暦1282年)九月十九日 六十一歳御作
■出筆場所:武蔵野国 池上邸にて。
■出筆の経緯:本抄は身延・草庵の地である波木井の地頭・波木井六朗実長に宛てられた消息で、大聖人の病状が思わしくないため同行していた日興上人が大聖人の口述を代筆されておられます。大聖人は九年間住まわれた身延山中からご病気平癒のため弘安五年九月八日、常陸に湯治に赴くこととなり、同月十八日、無事強信徒の池上宗仲邸に到着したことを伝える書となっております。大聖人は本抄で自身の死期が近いことを悟られ『いづくにて死に候とも、はか(墓)をばみのぶさわ(身延沢)にせさせ候べく候』と述べられ、御自身の墓は身延に設けることを実長に伝えておられます。
さらに追記では、せめて「はんぎやう(花押)」を自ら記そうと思われたが、それさえ叶わない病状であることを率直に伝えられております。
尚、本抄は日興上人への相伝書を除き、建長五年四月二十八日の立宗宣言以来、現在確認できるだけでも五百点以上に及ぶ弟子・信徒へのご消息文のなかで最後の書となっております。
■ご真筆: 身延山久遠寺 曽存(明治八年の大火で焼失)。


[波木井殿御報 本文]
      
 畏(かしこ)み申し候。みち(道)のほどべち(程別)事候はで、いけがみ(池上)までつ(著)きて候。みちの間、山と申しかわ(河)と申しそこばく大事にて候いけるを、きうだち(公達)にす(守)護せられまいらせ候いて、難もなくこれまでつきて候事、をそれ入り候ながら悦び存し候。

 さてはやがてかへ(帰)りまいり候はんずる道にて候へども、所らう(労)のみ(身)にて候へば不ぢやう(定)なる事も候はんずらん。さりながらも日本国にそこばく(衆多)もてあつかうて候み(身)を、九年まで御きえ(帰依)候いぬる御心ざし申すばかりなく候へば、いづくにて死に候ともはか(墓)をばみのぶさわ(身延沢)にせさせ候べく候。

 又くりかげ(栗鹿毛)の御馬はあまりをもしろくをぼへ候程に、いつまでもうし(失)なふまじく候。ひたちのゆ(常陸湯)へひかせ候はんと思い候がもし、人にもぞ、とられ候はん。又そのほか(其外)いたはしく、をぼへばゆ(湯)よりかへり候はんほど、かづさ(上総)のもばら(藻原)殿のもとに、あづけをきたてまつるべく候に、しらぬとねり(舎人)をつけて候てはをぼつかなくをぼへ候。まかりかへ(帰)り候はんまで、此のとねりをつけをき候はんとぞんじ候。そのやうを御ぞんぢ(存知)のために申し候、恐恐謹言。
      
九月十九日                        日  蓮
進上 波木井殿御報
所らう(労)のあひだ、はんぎやう(判形)をくはへず候事恐れ入り候。




by johsei1129 | 2019-12-01 15:40 | 弟子・信徒その他への消息 | Trackback | Comments(0)
2019年 12月 01日

法華経法師品の謂れを説いて、さじき女房を「過去に十万億の仏をくやうせる人」と 称えた【棧敷女房御返事】

【棧敷女房御返事】
■出筆時期:弘安五年(西暦1282年)二月十七日 六十一歳御作
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:鎌倉に住む強信徒の桟敷(さじき)女房が、白い帷子(かたびら)と布を御供養したのに対し、法華経法師品に説かれている十種の供養の謂れを引いて、棧敷女房は「過去に十万億の仏をくやうせる人」であると称えられておられます。
尚、桟敷女房の夫は、後の六老僧の一人日昭の兄ではないかと伝えられております。
■ご真筆: 和歌山県 了法寺所蔵。
[真筆本文:下記緑字箇所]
法華経法師品の謂れを説いて、さじき女房を「過去に十万億の仏をくやうせる人」と  称えた【棧敷女房御返事】_f0301354_18255704.jpg



















【棧敷女房御返事  本文】

白かたびら(帷子)布一(ぬのひとつ)給い畢んぬ。
法華経を供養申しまいらせ候に、十種くやう(供養)と申す十のやう候。 
其のなかに衣服と申し候は、なににても候へ、僧のき(著)候物をくやうし候。
其の因縁をとかれて候には、過去に十万億の仏をくやうせる人、法華経に近づきまいらせ候とこそとかれて候へ。

あらあら申すべく候へども、身にいたはる事候間・こまやかならず候、恐恐謹言。
二月十七日 日蓮花押
さじきの女房御返事


【妙法蓮華経 法師品第十】
若復有人。受持。読誦。解説。書写。妙法華経。
乃至一偈。於此経巻。敬視如仏。種種供養。
華香瓔珞。抹香。塗香。焼香。繒蓋幢旛。衣服伎楽。
乃至合掌恭敬。薬王。当知是諸人等。已曾供養十万億仏。
於諸仏所。成就大願。愍衆生故。生此人間

[和訳]
若し復人有りて、妙法蓮華経の乃至一偈をも、受持・読誦・解説・書写し、
此の経巻に於いて、仏の如く敬い視て、種種に
華・香・瓔珞(ようらく)・抹香(まっこう)・塗香・焼香・繒蓋(そうがい)・幢幡(どうばん)・衣服・妓楽(ぎがく)を供養し、
乃至、合掌し恭敬すれば、薬王よ、当に知るべし是の諸人等は已に曽て、十万億の仏を供養し、
諸仏の所に於いて大願を成就したまうも、衆生を愍(あわれ)むが故に、ここ(娑婆世界)に人間として生ぜん。





by johsei1129 | 2019-12-01 12:10 | 弟子・信徒その他への消息 | Trackback | Comments(0)
2019年 12月 01日

大聖人御遷化十ヶ月前に病状をおして記された消息【内記左近入道殿御返事】

■出筆時期:弘安五年(1282)一月十四日 六十一歳御作。
■出筆場所:身延山中の館にて。
■出筆の経緯:本抄は大聖人が御遷化なされる九ヶ月前に、内記左近入道に宛てられた消息です。内記左近入道への消息は本抄だけが伝えられており人物の詳細は不明ですが、追伸に「御器の事は越後公御房申し候べし。御心ざしのふかき由、内房へ申させ給ひ候へ」と記されておられる事から駿河国富士郡出身の越後公(日弁)及び駿河・内房の強信徒、内房女房と親しい信徒ではないかと思われます。

大聖人は内記左近入道が去年、身延山中に見参されたことを三千年に一度花が咲くという優曇華(うどんげ)に例えられるとともに、新春の祝を届けられた志を「まことなりけるやとおどろき覚へ候へ」と喜ばれておられます。内記左近入道が届けられた品々の詳細は不明でが「御器の事は越後公御房申し候べし」と記されていることから仏事に使用する何らかの器も含まれていたと思われ、器に関しての謂れは越後公房が話してくれるでしょうと結んでおられます。体調が万全であれば恐らくご自身でその謂れを認められたと思われれますが、この頃の大聖人の体調がきわめて思わしくなかったのではと拝されます。
■ご真筆:堺市 妙国寺(第一紙)所蔵、及び東京都本行寺(第二、第三紙)所蔵。
大聖人御遷化十ヶ月前に病状をおして記された消息【内記左近入道殿御返事】_f0301354_20085411.jpg















【内記左近入道殿御返事 本文】

春の始めの御悦び、自他申し籠(こ)め候ひ了んぬ。
抑(そもそも)去年の来臨は曇華(どんげ)の如し。
将又(はたまた)夢か幻(まぼろし)か、疑ひいまだ晴れず候処に、
今年の始め深山(みやま)の栖(すみか)、雪中の室え多国を経ての御使ひ、
山路をふみわけられて候にこそ、
去年の事はまことなりけるや、まことなりけるやとおどろき覚へ候へ。
他行の子細、越後公御房の御ふみに申し候か。恐々謹言。

正月十四日 日蓮 花押
内記左近入道殿御返事
追伸。御器の事は越後公御房申し候べし。御心ざしのふかき由、内房(うつぶさ)へ申させ給ひ候へ。






by johsei1129 | 2019-12-01 12:07 | 弟子・信徒その他への消息 | Trackback | Comments(0)
2019年 12月 01日

法華経と釈迦仏とを御信心有て<略>山中の日蓮に華香を送らせ候、と称えた【八日講御書】

【八日講御書】
■出筆時期:弘安五年(1282年)正月七日 六十一歳御作
■出筆場所:身延山中 館にて。
■執筆の経緯:本抄は、四条金吾が正月八日に信徒が集って新年の祝いをすることを報告し、また大聖人に種々の新年の祝いの供養をされたことへの返書となっております。
大聖人は釈尊の生誕日である四月八日に「三十二のふしぎあり」と記され、その意義ある八日に信徒が集い供養をする事と、同じく「山中の日蓮に華かう(香)ををく(送)らせ候やらん」事を尊い事だと称賛されておられます。
この事は、当時の大半の武士・庶民が、仏教の開祖である香華を蔑(ないがし)ろにし、浄土宗・真言宗の立てる架空の存在である阿弥陀仏、大日如来を敬っている事に対し、日蓮門下の信徒が仏教の正統である釈尊と法華経そして日蓮を供養されていることが、仏教の本流に叶っている事を示されておられると拝されます。
■ご真筆:高知市 要法寺(断簡)所蔵。
法華経と釈迦仏とを御信心有て<略>山中の日蓮に華香を送らせ候、と称えた【八日講御書】_f0301354_18265437.jpg

[真筆本文:下記緑字箇所]

[八日講御書 本文]

満月のごとくなるもちゐ(餅)二十、かんろ(甘露)のごとくなるせいす(清酒)一つつ(筒)給(たび)候い畢んぬ。
春のはじめの御悦びは月のみつるがごとく、しを(潮)のさすがごとく、草のかこむが如く、雨のふるが如しと思し食すべし。

抑(そもそも)八日は各各(おのおの)の御父・釈迦仏の生れさせ給い候し日なり。
彼の日に三十二のふしぎあり・一には一切の草木に花さき・みなる・二には大地より一切の宝わきいづ・三には一切のでんぱた(田畠)に雨ふらずして水わきいづ・四には夜変じてひるの如し・五には三千世界に歎きのこゑなし、是くの如く吉瑞(きつずい)の相のみにて候し、是より已来(このかた)今にいたるまで二千二百三十余年が間・吉事には八日をつかひ給い候なり。

然るに日本国・皆釈迦仏を捨てさせ給いて候に・いかなる過去の善根にてや・法華経と釈迦仏とを御信心ありて・各各あつまらせ給いて八日をくやう(供養)申させ給うのみならず、山中の日蓮に華かう(香)ををくらせ候やらん、たうとし・たうとし、恐恐。

正月七日 日蓮花押
人人御返事

by johsei1129 | 2019-12-01 12:00 | 弟子・信徒その他への消息 | Trackback | Comments(0)
2019年 12月 01日

日蓮はわるき者にて候へども、法華経はいかでかおろかにおはすべきと説いた【西山殿後 家尼御前御返事】

【西山殿後家尼御前御返事】
■出筆時期:弘安四年(1281年) 正月と思われます。 六十歳御作
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■執筆の経緯:本抄は、駿河国・西山に住む寡婦の西山殿後家尼が甘酒一桶、山の芋、ところ(野蛯)を供養されたことへの返書となっております。
ところ(野蛯)とはヤマノイモと同属で、根を灰汁抜きして食用にします。当時は新年を祝う食べ物であったとのことで、甘酒とともに送られているので恐らく新年の祝いとして供養されたとものと思われます。

本抄は、供養とはその大小ではなく、あくまで志の純粋さであることを示された書であると言えます。
後家尼が送られた品々は決して高額なものではないですが、夫と死別し頼りになる者もいなく、経済的にも決して楽ではないと思われる中で供養された事に対し、「人に捨てられたる聖(ひじり・大聖人)の、寒にせめられていかに心苦しかるらんと、思ひやらせ給ひて送られたるか」と、大聖人はその志を思いやり「父母に送られしよりこのかた、かゝるねんごろの事にあひて候事こそ候はね。せめての御心ざしに給び候かと覚えて涙もかきあへ候はぬぞ」と、まるで実の父母から送られたように思われると喜ばれておられます。

さらに文末では「日蓮は日本第一のえせものなり。法華経は一切経にすぐれ給へる経なり。心あらん人金をとらんとおぼさば、ふくろをすつる事なかれ。蓮(はちす)をあいせば池をにくむ事なかれ。わるくて仏になりたらば、法華経の力あらはるべし」と記され、世間からは日蓮は日本第一のえせ(僻)ものなりと思われているが、日蓮が広める法華経は他の一切経に超過する経なので、仏になれば法華経の力厳然と合わられるので法華経信仰を貫くよう諭されておられます。
■ご真筆:現存しておりません。古写本:日興上人筆(富士大石寺蔵)

[西山殿後家尼御前御返事 本文]

あまざけ一をけ(桶)、やまのいも、ところ(野蛯)せうせう(少々)給び了んぬ。

梵網経と申す経には一紙一草と申して、かみ一枚、くさひとつ。大論と申すろん(論)にはつち(土)のもちゐ(餅)を仏にくやう(供養)せるもの、閻浮提の王となるよしをとかれて候。

これはそれにはにるべくもなし。そのうへをとこ(夫)にもすぎわかれ、たのむかた(方)もなきあま(尼)のするが(駿河)の国・西山と申すところより甲斐国のはきゐ(波木井)の山の中にをくられたり。
人にすてられたるひじり(聖=大聖人)の、寒にせめられていかに心ぐるしかるらんと、をも(思)ひやらせ給ひてをくられたるか。

父母にをく(後)れしよりこのかた、かゝるねんごろの事にあひて候事こそ候はね。
せめての御心ざしに給び候かとおぼえて、なみだ(涙)もかきあへ候はぬぞ。

日蓮はわるき者にて候へども、法華経はいかでかおろかにおはすべき。ふくろ(袋)はくさけれども、つゝめる金(こばね)はきよし。池はきたなけれどもはちす(蓮)はしやうじやう(清浄)なり。

日蓮は日本第一のえせ(僻)ものなり。法華経は一切経にすぐれ給へる経なり。心あらん人金(こがね)をとらんとおぼさば、ふくろをすつる事なかれ。蓮(はちす)をあいせば池をにくむ事なかれ。
わるくて仏になりたらば、法華経の力あらはるべし。よって臨終わるくば法華経の名ををりなん。
さるにては日蓮はわるくてもわるかるべし、わるかるべし。恐々謹言。


 月 日
御返事




by johsei1129 | 2019-12-01 11:29 | 弟子・信徒その他への消息 | Trackback | Comments(0)
2019年 12月 01日

我より後に来り給はん人人は此の車にめされて霊山へ御出で有るべく候。日蓮も同じ車に乗りて御迎い にまかり向ふべく候、と自身の滅度を示唆した消息【大白牛車御消息】

【大白牛車(だいびゃくごしゃ)御消息】
■出筆時期:弘安四年(西暦1281) 六十歳御作。
■出筆場所:身延山中 館にて。
■出筆の経緯:本抄の対告衆は不明ですが、在家信徒の何方かに送られた消息と思われます。
大聖人は法華経譬喩品第三に説かれる「三車火宅の譬(注)」を詳細に記されると共に、文末では「法性の空に自在にとびゆく車をこそ大白牛車とは申すなれ。我より後に来り給はん人人は、此の車にめされて霊山へ御出で有るべく候。日蓮も同じ車に乗りて御迎いにまかり向ふべく候」と綴られておられます。
この中で「我より後に来り給はん人人は」の一文は、自らの滅度がそう遠くない事を暗に在家信徒に示唆しているのではと拝されます。
■ご真筆:現存しておりません。

【大白牛車(だいびゃくごしゃ)御消息 本文】

抑(そもそも)法華経の大白牛車と申すは我も人も法華経の行者の乗るべき車にて候なり。
彼の車をば法華経の譬喩品と申すに懇(ねんごろ)に説かせ給いて候、但し彼の御経は羅什・存略の故に委しくは説き給はず、天竺の梵品には車の荘(かざ)り物・其の外(ほか)・聞信戒定進捨慚(もんしんかいじょうしんしゃざん)の七宝まで委しく説き給ひて候を日蓮あらあら披見に及び候。

先ず此の車と申すは縦広五百由旬の車にして金(こがね)の輪を入れ・銀(しろがね)の棟(むなぎ)をあげ・金の繩を以て八方へつり繩をつけ・三十七重のきだはし(階)をば銀を以てみがきたて・八万四千の宝(たから)の鈴を車の四面に懸けられたり、三百六十ながれの・くれなひの錦の旛(はた)を玉のさほ(棹)にかけながし、四万二千の欄干には四天王の番をつけ、又車の内には六万九千三百八十余体の仏・菩薩・宝蓮華に坐し給へり、帝釈は諸の眷属を引きつれ給ひて千二百の音楽を奏し、梵王は天蓋(てんがい)を指し懸け地神は山河・大地を平等に成し給ふ。
故に法性の空(そら)に自在にとびゆく車をこそ・大白牛車とは申すなれ、我より後に来り給はん人人は此の車にめされて霊山へ御出で有るべく候、日蓮も同じ車に乗りて御迎いにまかり向ふべく候、南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経。

日 蓮 花押



※注:「三車火宅の譬」とは、法華経に説かれている[法華七喩]の一つです。

この例え話は、ある長者の大きな古びた屋敷で火事が発生し、長者は子供達に逃げるよう呼びかけたが、子供達は遊びに夢中になり父である長者の言うことを聞かない。
そこで長者は一計を案じ、子供たちに「お前たちが欲しがっていた羊車・鹿車・牛車を門の外に置いたから早い者勝ちで与える」と伝え、無事火宅から誘い出すことができた。
無事に脱出した子供は長者に「約束した羊車・鹿車・牛車を与えてください」と言うと、長者は全ての子供に約束していた羊車・鹿車・牛車よりはるかに立派な「大白牛車を与えた」と云う内容です。

この譬喩で説かれる燃え盛る屋敷(火宅)は娑婆世界(三界)を意味し、遊びに夢中になる子供達は六道輪廻に喘ぐ衆生を意味し、羊車・鹿車・牛車は六道から脱するために説いた声聞・縁覚・菩薩(三乗)を意味します。
また最終的に子供たちに与えた「大白牛車」は一乗法、つまり仏乗を意味します。

この「三車火宅の譬」は、法華経以前(爾前経)に声聞・縁覚・菩薩の三乗の教えを説いた釈尊が、今法華経で一乗法を説く意味を「三車火宅の譬」で解き明かしています。

釈尊はこの「三車火宅の譬」を説いたあと舎利弗に、この長者は子供達に嘘を付いたことになるのかと問いかけ、舎利弗は「長者は子供を火宅から救済したのですから、例え最小の一車を与えずとも虚妄ならず」と返答します。
それに対して釈尊は次のとおり如来としての真意を解き明かします。

[妙法蓮華経 譬喩品第三]
仏告舎利弗。善哉善哉。如汝所言。舎利弗。
如来亦復如是。則為一切。世間之父。於諸怖畏。
衰悩憂患。無明暗蔽。永尽無余。而悉成就。
無量知見。力。無所畏。有大神力。及智慧力。
具足方便。智慧波羅蜜。大慈大悲。常無懈倦。
恒求善事。利益一切。而生三界。朽故火宅。
為度衆生。生老病死。憂悲苦悩。愚癡暗蔽。
三毒之火。教化令得。阿耨多羅三藐三菩提。
[和訳]
仏(釈尊)、舎利弗に告げる。善い哉な、善い哉な。汝(舎利弗)の言うが如し。舎利弗よ、
如来はまた是の如く、一切世間の父と為りて、諸の怖畏(ふい)、
衰悩、憂患、無明(むみょう)、暗蔽(あんぺい)を永く尽くして余すことなく、
悉く、無量の知見、力、無所畏を成就し、大神力及び智慧力を有し、
方便・智慧波羅蜜を具足し、大慈大悲をもって常に懈倦(けげん)無く、
恒に善事を求め、一切を利益せん。而して三界の朽ち故(ふ)りたる火宅に生ずるは、
衆生の生老病死・憂悲苦悩・愚癡暗蔽・三毒の火を度(救済)し、
教化し、阿耨多羅三藐三菩提(究極の悟り)を得さ令(し)めんがためなり。




by johsei1129 | 2019-12-01 11:24 | 弟子・信徒その他への消息 | Trackback | Comments(0)
2019年 12月 01日

善根と申すは大なるによらず又ちいさきにもよらず、国により人により時により、やうやうにかわりて 候、と説かれた【窪尼御前御返事】

【窪尼御前御返事】

■出筆時期:弘安四年(西暦1281)十二月二十七日  六十歳御作。
■出筆場所:身延山中 館にて。
■出筆の経緯:本抄は大聖人が御遷化なされる十ヶ月前に認められた消息です。
大聖人はこの年の冬の厳しさについて文中で「としのさむき(寒き)事生れて已来いまだおぼへ候わず、ゆき(雪)なんどのふりつもりて候事おびただし。心ざしある人も、とぶ(訪)らひがたし」と記されておられます。
その中で窪尼は、恐らく新年を迎えるための数多くの品々を身延山中の大聖人の元へ届けられたと思われ、その志を大聖人は冒頭で「善根と申すは大なるによらず又ちいさきにもよらず、国により人により時により、やうやうにかわりて候」と善根について分別されるとともに「此れは日蓮を御くやうは候はず、法華経の御くやうなれば釈迦仏・多宝仏・十方の諸仏に此の功徳はまかせまいらせ候」と称えられておられます。
■ご真筆:現存しておりません。古写本:日興上人筆(富士大石寺所蔵)。

【窪尼御前御返事 本文】

しなじなのものをくり給(たび)て候。
善根と申すは大なるによらず又ちいさきにもよらず・国により人により時により・やうやうにかわりて候。
譬へばくそ(糞)をほして・つきくだき・ふるいてせんだん(栴檀)の木につくり・又女人・天女・仏につくりまいらせて候へども火をつけて・やき候へばべち(別)の香なし・くそくさし、そのやうに・ものをころし・ぬすみをしてそのはつを(初穂)をとりて功徳善根をして候へども・かへりて悪となる。
須達長者と申せし人は月氏第一の長者ぎをん(祇園)精舎をつくりて仏を入れまいらせたりしかども彼の寺焼けてあとなし。
この長者もといを(魚)を・ころしてあきな(商)へて長者となりしゆへに、この寺つゐにうせにき。
今の人人の善根も又かくのごとく・大なるやうなれども・あるひは・いくさ(戦)をして所領を給(たび)、或はゆへなく民をわづらはして・たから(財)をまう(儲)けて善根をなす。此等は大なる仏事とみゆれども仏にもならざる上(うえ)其の人人あともなくなる事なり。

又人をも・わづらはさず我が心もなを(直)しく我とはげみて善根をして候も仏にならぬ事もあり。いは(弱)くよきたね(種)をあ(悪)しき田にうえぬれば・たねだにもなき上かへりて損となる。まことの心なれども供養せらるる人だにも・あしければ功徳とならず、かへりて悪道におつる事候。

此れは日蓮を御くやう(供養)は候はず、法華経の御くやうなれば釈迦仏・多宝仏・十方の諸仏に此の功徳はまか(任)せまいらせ候。

抑(そもそも)今年の事は申しふりて候上、当時はとし(歳)のさむき事生れて已来いまだおぼへ候わず、ゆき(雪)なんどのふりつもりて候事おびただし、心ざしある人もとぶらひがたし、御をとづれ、をぼろげ(注)の御心ざしにあらざるか、恐恐謹言。

十二月二十七日 日 蓮 花 押
くぼの尼御前御返事

注[をぼろげ]:普通を意味し、「をぼろげの御心ざしにあらざるか」で普通でない、格別の志であろうとの意になります。




by johsei1129 | 2019-12-01 11:20 | 弟子・信徒その他への消息 | Trackback | Comments(0)
2019年 11月 30日

身延入山から七年目の大坊建設の経緯と波木井実長の法華経信仰を厳しく咎めた書【地引御書】

【地引御書】
■出筆時期:弘安四年(1281年)十一月二十五日 六十歳御作
■出筆場所:身延山中の大坊にて。
■出筆の経緯:本書は身延山中の草庵の地主南部六郎(波木井実長・さねなが)にあてられた書です。
大聖人が文永11年(1274)の五月十七日に鎌倉から身延山中に居を移され、質素な草庵を設けてから七年目にして十間四面の大坊が完成、その建設過程を詳細に記された書となっております。

大坊の竣工は大聖人御遷化の僅か一年前であった。大聖人はその大坊の完成を祝いに集った檀信徒の様子を「人のまいる事、洛中かまくらのまちの申酉(さるとり)の時のごとし」と記し、その賑やかさはまるで京や鎌倉の申酉(夕方五時頃)ごろのようであると喜ばれておられます。

しかしこの祝いの日に地主の波木井実長の姿がありませんでした。そのこともあり、当日の夜九時頃、三十人程で「一日経(一日で法華経一部の書写する修行」を実施したが、途中で止めたと記しておられます。其の訳は「御きねん(祈念)かなはずば、言(ことば)のみ有て実なく、華咲いて木の実なからんか<中略>此の事叶はずば、今度法華経にては仏になるまじきかと存じ候はん」と諭されると共に「叶て候はば、二人よりあひまいらせて、供養しはてまいらせ候はん」と励まされておられます。

実長の祈念の内容は不明ですが、何故、実長が大坊が完成したという慶事に参加しなかったのかは、恐らくこの大坊建設に実長は殆ど資金を供養していなかったのではないかと推察されます。大聖人は実長の子息が建設のための地ならし、柱を建てる作業に真面目に参加していたことは「次郎殿等の御きうだち(公達)、をやのをほせ(仰せ)と申し、我が心にいれてをはします事なれば」と記されておられます。また大坊の建設費は「坊はかまくらにては一千貫にても大事とこそ申候へ」と記し、鎌倉では一千貫出しても出来ないだろうと人々が申していると記しておられるが、実長に供養の感謝の言葉は全く記されおりません。

通常、大聖人は供養があった時の返書の消息では、最初に供養の品物の種類、数量を全て細かく記して感謝の意を表されておられます。金額の大小に関わらず、もし実長が大坊建設資金として応分の供養をしていたならば、大聖人は本書で必ずそのことに触れていたはずである。7年間も粗末な草庵で過ごされている状態を見て見ぬふりをしていた実長が、檀徒・信徒が募って供養し建設にこぎつけた大坊の落成祝いの場に、出て来る訳には行かなかったのだろう。大聖人はその実長の不誠実な信仰心を喝破し「此の事叶はずば法華経信じてなにかせん。事事又又申すべく候」と念押しされておられます。

そして大聖人御遷化の後、大聖人の遺言でこの大坊(久遠寺)の当主となった第二祖日興上人に違背することになり、日興上人は断腸の思い出、身延離山を決意、南条時光の招きで霊峰富士山の麓上野郷に広布の拠点を設けることになります。
■ご真筆:身延山久遠寺に存在したが明治八年の大火で焼失。

[地引御書 本文]

坊は十間四面に、またひさし(庇)さしてつくりあげ、二十四日に大師講並に延年(えんねん)心のごとくつかまりて、二十四日の戌亥(いぬい)の時、御所にすゑ(集会)して、三十余人をもつて一日経か(書)きまいらせ、並に申酉(さるとり)の刻に御供養すこしも事ゆへなし。
坊は地びき、山づくり候ひしに、山に二十四日、一日もかた時も雨ふる事なし。十一月ついたちの日、せうばう(小坊)つくり馬(ま)やつくる。八日は大坊のはしら(柱)だて九日十日ふ(葺)き候ひ了ぬ。しかるに七日は大雨、八日九日十日はくもりて、しかもあたたかなる事、春の終りのごとし。十一日より十四日までは大雨ふり大雪下(ふ)りて今に里にきへず。山は一丈二丈雪こほりてかたき事かねのごとし。 二十三日四日は又そらは(晴)れてさむからず。人のまいる事、洛中かまくら(鎌倉)のまちの申酉の時のごとし。さだめて子細あるべきか。

次郎殿等の御きうだち(公達)をや(親)のをほせ(仰)と申し、我が心にいれてをはします事なれば、われと地をひき、はしら(柱)をたて、とうびやうえ(藤兵衛)むま(右馬)の入道、三郎兵衛の尉等已下の人人一人もそらく(疎略)のぎ(義)なし。
坊はかまくらにては一千貫にても大事とこそ申候へ。
ただし一日経は供養しさし(止)て候。其の故は御所念の叶はせ給て候ならば供養しは(畢)て候はん。
なにと申して候とも御きねん(祈念)かなはずば言(ことば)のみ有て実なく華さいてこのみ(木の実)なからんか。
いまも御らんぜよ。此の事叶はずば、今度法華経にては仏になるまじきかと存じ候はん。
叶て候はば二人よりあひまいらせて供養しは(終)てまいらせ候はん。
神なら(習)はすは、ねぎ(祢宜)からと申す。此の事叶はずば法華経信じてなにかせん。事事又又申すべく候。
恐々。

十一月二十五日   日 蓮 花押 
南部六郎殿 

by johsei1129 | 2019-11-30 22:11 | 弟子・信徒その他への消息 | Trackback | Comments(0)
2019年 11月 30日

十方三世の諸仏の怨敵なれども法華経の一句を信じぬれば諸仏捨て給う事なしと説いた 【治 部房御返事】

【治部房御返事】
■出筆時期:弘安四年(1281年)八月二十二日 六十歳御作
■出筆場所:身延山中の草庵にて。
■出筆の経緯:本書を送られた治部房は南条時光の縁戚・南条平七郎の子息で、駿河在住の弟子日位とされております。
治部房は日興上人が記された「宗祖御遷化記」にも大聖人の御棺を担がれた弟子の一人として加わっており、『墓所可守番帳事』にも名を連ねておられます。※参照【 宗祖御遷化記録】
しかし日興上人が残された『弟子分本尊目録』には、「一、駿河國四十九院の住治部房は、蓮華闍梨(日持)の弟子也。仍て日興之を申し与う、但し聖人御滅後に背き了(おわん)ぬ」と記されており、残念ながら大聖人御遷化後は日興上人に違背されております。

本書で大聖人は「されば我等は過去遠遠劫より菩提をねがひしに<中略>すでに仏になり近づきし時は、一乗妙法蓮華経と申す御経に値いまいらせ候いし時は、第六天の魔王と申す三界の主をはします」と記し「菩提を願って修行し、その果報で一乗妙法蓮華経に縁した時は、必ず第六天の魔王が出現する」と戒められておられます。
恐らく大聖人は、弟子治部房の法華経信仰にいささかの懸念を持たれていたのではないかと推察されます。文中で大聖人は、他の消息では見られないほど数多く法華経の文を引用し、まるで「これでもわからぬのか」と言わんばかりの迫力を感じます。
さらに文末では「法華経のかたきとなる人をば父母なれども殺しぬれば大罪還つて大善根となり候。設い十方三世の諸仏の怨敵なれども、法華経の一句を信じぬれば諸仏捨て給う事なし」と治部房に止めを刺されておられます。

しかし大聖人の厳しくも慈愛溢れる「防非止悪(非道を防ぎ悪行を止める」の指導にも関わらず、治部房は大聖人が御遷化なされると「日蓮一期の弘法」を附属された日興上人に違背されたのは、まことに残念でなりません。

■ご真筆:現存しておりません。
[治部房御返事 本文]

白米(しらよね)一斗・茗荷(みょうが)の子・はじかみ一つと(苞)送り給び候い畢んぬ。
仏には春の花秋の紅葉(もみじ)・夏の清水・冬の雪を進(まい)らせて候人人皆仏に成らせ給ふ、況や上(かみ)一人は寿命を持たせ給ひ下(しも)万民は珠よりも重くし候稲米(よね)を法華経にまいらせ給う人・争か仏に成らざるべき。其の上世間に人の大事とする事は主君と父母との仰せなり、父母の仰せを背けば不孝の罪に堕ちて天に捨てられ、国主の仰せを用いざれば違勅の者と成りて命(いのち)をめ(召)さる。

されば我等は過去遠遠劫より菩提をねがひしに、或は国をすて或は妻子をすて或は身をすてなんどして、後生菩提をねがひし程に、すでに仏になり近づきし時は、一乗妙法蓮華経と申す御経に値いまいらせ候いし時は、第六天の魔王と申す・三界の主・をはします。

すでに此のもの仏にならんとするに二の失あり、一には此のもの三界を出ずるならば我が所従の義をはな(放)れなん、二には此のもの仏になるならば此のものが父母・兄弟等も又娑婆世界を引き越しなん、いかがせんとて身を種種に分けて・或は父母につき・或は国主につき、或は貴き僧となり、或は悪を勧め・或はおどし・或はすかし、或は高僧或は大僧或は智者或は持斎等に成りて或は華厳或は阿含或は念仏或は真言等を以て法華経にすすめかへて・仏になさじとたば(欺)かり候なり。

法華経第五の巻には末法に入りては大鬼神・第一には国王・大臣・万民の身に入りて法華経の行者を或は罵(の)り或は打ち切りて、それに叶はずんば無量無辺の僧と現じて一切経を引いてすかすべし、それに叶はずんば二百五十戒・三千の威儀を備へたる大僧と成りて国主をすかし国母をたぼらかして、或はながし或はころしなんどすべしと説かれて候。

又七の巻の不軽品・又四の巻の法師品・或は又二の巻の譬喩品、或は涅槃経四十巻・或は守護経等に委細に見へて候が、当時の世間に少しもたがひ候はぬ上、駿河の国賀島(かしま)の荘(しょう)は殊に目の前に身にあたらせ給いて覚へさせ給い候らん。

他事には似候はず、父母・国主等の法華経を御制止候を用い候はねば還つて父母の孝養となり国主の祈りとなり候ぞ、其の上日本国はいみじき国にて候・神を敬ひ仏を崇(あが)むる国なり、而れども日蓮が法華経を弘通し候を上一人より下万民に至るまで御あだみ候故に、一切の神を敬ひ一切の仏を御供養候へども其の功徳還つて大悪となり、やいと(灸治)の還つて悪瘡(あくそう)となるが如く薬の還つて毒となるが如し、一切の仏神等に祈り給ふ御祈りは還つて科(とが)と成りて此の国既に他国の財と成り候。

又大なる人人皆平家の亡びしが様に百千万億すぎての御歎きたるべきよし、兼てより人人に申し聞せ候畢んぬ。

又法華経をあだむ人の科にあたる分斉をもつて還つて功徳となる分斉をも知らせ給うべし。例せば父母を殺す人は何(いか)なる大善根をなせども天・是を受け給う事なし、又法華経のかたきとなる人をば父母なれども殺しぬれば大罪還つて大善根となり候、設い十方三世の諸仏の怨敵なれども法華経の一句を信じぬれば諸仏捨て給う事なし、是を以て推せさせ給へ、御使いそぎ候へば委しくは申さず候、又又申すべく候、恐恐謹言。

八月二十二日    日 蓮花押

治部房御返事

by johsei1129 | 2019-11-30 18:10 | 弟子・信徒その他への消息 | Trackback | Comments(0)