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日蓮大聖人『御書』解説

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カテゴリ:小説 日蓮の生涯 中( 31 )


2019年 12月 13日

四十四、 自界叛逆難の的中

四十四、 自界叛逆難の的中_f0301354_22540268.jpg
「平治物語」 Wikipedia より

そのころ鎌倉では時宗、平頼綱、安達泰盛らが地図をかこんでいた。

地図には日本と隣国の高麗が描かれている。

泰盛が鞭で高麗の南岸をさした。

「漁民に化けた間者からの報告では、今ここで舟の建造がはじまっている」

頼綱が問いただす。

最終的に何艘建造するつもりなのだ。確かな情報はあるのか

「現地の噂によれば数百艘におよぶとか」

「数百層とな」 

 一同が驚きの声をあげた。

時宗が天を仰いで腕組みしたまま沈黙した。

泰盛がつづける。

「元の要求に応えるためには人手が足りず、船造りに従事する高麗人の嘆きは高まっておる。蒙古の兵士が急ぐあまり、女子供まで酷使している報告もある」

 北条宣時がもらす。

「国が亡びた報いでござるな。ここでわれわれが道を誤れば、漢土・高麗の二の舞じゃ」

時宗が憤然とした

「そんなことはわかっている。で、日本への攻撃はいつになる」

泰盛が首をふった。

「いっこうに。今のところ蒙古の本格的な軍団は高麗にきていない様子でござる。今年であるのか来年であるのか」

時宗が指示した。

「斥候をふやせ。海岸は無論のこと、内陸にも人をやって調べろ。協力者をつのるのだ。金はおしむな」

泰盛が平伏した。

時宗がひとりごとのようにいう。

「いつ来るかわからぬ敵を相手にするのは難儀じゃ。そのためには情報がすべて。ところで上陸のさいの手はずは」

平頼綱が答える。

「まず肝心なのは蒙古がどこに攻めてくるかでござる」

頼綱が鞭で九州をさす。

「十中八九、この博多にまちがいはござらぬ」
「なぜ断言できる」

 珍しく時宗が頼綱を問いただす。風雲急を告げる事態に、さすがに真剣にならざるを得ない。

「万が一、蒙古が我々の裏をかいて博多以外に上陸するとすれば、長門でござろう。長門は京鎌倉に近く、彼らにとって日本の中心に近づくことでは好都合であろうが、いかんせん蒙古の軍団が上陸するには港が狭すぎる。あとはこの敦賀が考えられるが、船の移動距離が長すぎる。蒙古兵は騎馬戦にたくみだが船の戦いはないも同然。敦賀はまずあるまい。であるならば九州の海の玄関、博多にまちがいない。蒙古にとってこ博多をおさえれば九州全部をおさえたも同じ。九州をおさえれば高麗、中国の三角地帯の貿易も独占できよう。利にさとい蒙古人にとって、博多はのどから手がでるほどほしいはず」

宣時が意気ごんだ。

「どこから来ようとおなじじゃ。この刀で蹴散らしてくれるわ」

泰盛もつられて威勢よかった。

「馬ならともかく船でくる蒙古など、敵ではないわ」

 そこに使いがやってきて時宗に耳うちした。

時宗の顔色がかわった。

泰盛が恐る恐るきく。

「殿、いかがいたしました」

時宗が一瞬言葉を失ったかのごとく呆然として吐き捨てる。

「名越教時がいくさの準備をしている」

 一同がおどろき、立ち膝となった。

「おのれ教時、やはりそうであったか。北条の身内でありながら、北条に刃向かう愚か者めが」

時宗がとめる。

「まて。ここでせいては事を仕損じる。おちつくのだ。相手は同じ一族。また蒙古の襲来を控えているこの状況で、一つまちがえれば鎌倉はもとより日本の存亡に累がおよぶ」

「さりながら」

「もう少し様子をみよう。決断はこのわしがする」

その北条教時邸には珍客がきていた。

極楽寺良観が(のり)(とき)(とき)(あきら)兄弟の前で談笑していたのである。名越一族はそろって良観を信奉していた。

良観が兄弟にこびた。

「まことにお二人は仲がよい。それに名門のお家柄だけあって品がよろしゅうおわす。さすがこの良観の大檀那ですな。頼もしいかぎりでございます」

兄の時章がていねいにこたえる。

「いいえ、わが名越一族が栄えているのも良観上人のおかげでございます。これからも念仏を唱え、戒律を守ってまいります。どうか上人のご加護を」

時章は弟の真意をただすため、屋敷を訪れていた。

時章は幕府に敵意などない。執権時宗の権力は強大になりすぎていた。かなう相手ではない。それだけに血気にはやる教時をおさえこんで自制させようとしたのである。教時が一歩まちがえれば、自分はもとより長兄の光時もろとも滅亡してしまう。

その緊迫感などないかのように、兄弟が手をあわせた。

良観が機嫌よい。

「さりながら噂というのは、いいかげんなものでございますな」

 教時がきいた。

「なにか良からぬ噂でもございましたか」

「いやいや根も葉もないこと。鎌倉の御所あたりから伝え聞こえてくるのだが、なんでも時章、教時様のご兄弟が武器をたくわえ、執権時宗様に反旗をひるがえすとか」

 教時がなに食わぬ顔でいった。

「ほう、それは奇怪な」

「それに尾ひれをつけて教時様は京都の時輔様と組み、時宗様を倒そうとの野心ありとか。どこでそんな話がでるのか見当がつきませぬ。このご兄弟を見れば、幕府への忠誠は明らかなものを。まことにおかしな話でございまする」

良観は時勢にまったくの無頓着であった。兄弟の心中などわからない。

三人はそろって笑った。

「さて時間じゃ。そろそろおいとまを」

兄弟は立って良観を見送った。そして部屋にもどったとたん、兄の時章がなじった。

「どういうことだ」

「なにが」

「今の話だ。おぬしが幕府に反旗をひるがえし、いくさの準備をすすめているとな」

「ばかな。つまらんうわさにすぎぬ」

「教時、他人はどうあれ、この兄はだまされんぞ。その目、その匂い、この屋敷の動き。いくさの前の空気ではないか。おぬし本気で戦うのか。われら名越一族のことは考えたのか」

教時がしばらく沈黙し、にやりとした。

「さすがは兄。お見とおしというわけか。いかにもいくさの用意はしておる。しかし準備だけだ」

時章がせまる。

「いかん。準備は反逆と見なされても抗弁できない。思いとどまれ。今からでもおそくない。今ならわしも光時兄もお前をかばうことができる。なんとしてでもやめるのだ」

 教時はおちついていた。

「兄上も光時兄も、今の幕府で事がすすむと思っているのか」

 時章がだまった。

「蒙古の件では力ばかりを誇示し、相手の使者をはねつけることしかできない。われら名越の意見を無視し、平頼綱、安達泰盛など、使用人や外様なぞを用いる愚かさ。これでは国がもたぬ。わしは兵をおこし、執権時宗に一言申しつけるまで。それが叶わねば一戦を交えるまでよ」

「いかん。いくさは勝たねばならぬ。今の幕府は最強なのだ。われらが北条とはいえ、分家の身だ。かなうわけがない」

廊下が騒がしくなってきた。

戸があき、鎧姿の武者があらわれた。兜の緒をしめて太刀をはき、弓をもっている。

時章が仰天した。

武者が教時につげた。

「殿、悪い知らせが」

「なんだ。この鎌倉にこれ以上の悪い事があったか」

「われらの計画が鎌倉殿にもれた様子でござる。いま侍所にぞくぞくと兵があつまっております。もはや一刻の猶予もなりませぬ」

教時は時章にいった。

「兄上、よいものをご覧にいれよう」

教時が廊下を進み、時章が不安げな顔でつづいた。

廊下奥の堅い扉がひらかれた。

そこにはおびただしい数の武士がならんでいた。

「これは」

時章が嘆息した。
 

侍所には兵士がものものしく集まりだした。合戦の空気がいやがうえにも高まり、(とき)のかけ声があいついだ。このざわめきは二十年前の北条時頼と三浦一族の合戦いらいである。

武門の血が沸騰しはじめている。

彼らは斬りあい、射かけあいで功名を立ててきた。その血なまぐさい本能がよみがえった。それをためす時がきたのだ。

執権の間では腕をくむ時宗のまわりに頼綱、泰盛、宣時らの幹部が輪となっている。みな異様に興奮していた。

頼綱が言上した。

「一刻もはやく事態を収拾せねば。このさいでござる。名越の一族は断固として処分するのがよいかと」

泰盛が弁護した。

「いや、彼らは北条の由緒ある一族でござる。ここで争いをおこしては幕府が瓦解するおそれがある。名越によしみをもつ御家人もあまたおる。まずは彼らの言い分を聞くべき」

泰盛は外様御家人の筆頭である。時宗に仕えているが、権力の集中にはあくまで反対である。名越一族を擁護することで権力の均衡をはかり、身の安泰をもくろんでいた。

かたや時宗の筆頭側用人である頼綱は、その魂胆をなじる。

「おじ気づいたか。そのような生ぬるいことでは蒙古に勝てんぞ」

泰盛もかえす。

「おぬしのような短慮では幕府がほろびるわ。蒙古よりもたちが悪いの」

両者が刀を手に立ち膝になった。

時宗が立ちあがった。

「やめんか」

時宗は恐れおののいた。いままでにない姿だった。

「まて。なぜ内輪もめをかさねる。いったいどうしたというのだ。みなまるでなにかにとりつかれたようだ。昨日まであれだけ平穏であったわれらが、今日は血で血を洗う気配だ。どうしたというのだ」

頼綱がおちつきはらった。

「いまはなにをいってもはじまりませぬ。ご決断を」

時宗がしばらく考えこんだあと、頼綱に告げた。

「名越にむかえ。教時の武装を解除させるのだ」

「従わずば」

「かまわん、討て」

頼綱が不気味にほほえみ、泰盛が落胆した。

「しかし誤るな。兄の光時、時章に嫌疑はない。これに乗じて名越一族を討ってはならぬ。よいか」

「御意」

頼綱がすばやく立ち去った。

平頼綱は名越一族をこのさい全滅させるつもりでいた。主君時宗の命令だったが、戦いとなれば多少の暴走はある。教時をはじめ光時、時章兄弟を殺害してしまえば国内の敵はいなくなる。絶好の機会だった。自身の権威も幕府も強大となるのだ。時宗も結果的に喜ぶだろうと。

北条教時邸では時章が弟を説得していた。

「いかん、幕府に立ちむかってどうする。謀反をおこす気か。やめるのだ、教時」

 教時はどっかりと腰をおろした。

(さい)は投げられた。京都も呼応して行動をおこすとき」

時章の血の気がひいた。

「京都。おぬし、まさか時輔様と・・」

 教時が宙を見て自分にいい聞かせるようにいう。

「世が世ならば、時輔様が執権となるはずであった。時輔様ならば弟時宗にかわって幕府を新しく立て直してくださるだろう。わしはその捨て石となる覚悟である」

この時、所従が告げた。

「殿、侍所から騎馬があらわれたとの知らせでございまする」

教時が反乱軍の将軍として、威厳を醸し出して問いただした。

「して相手方の侍大将は誰だ」

「幕府の元凶、(へい)左衛門尉(さえもんのじょう)こと平頼綱です」

「きおったか。相手にとって不足はない。みなに伝えよ。平頼綱の首を取れと」

鎧姿の武士が勇ましくかけ声をあげた。

幕府の奸臣、平頼綱を打ち取るぞ」
 

当の平頼綱は馬にまたがり若宮大路をすすむ。その直下に騎馬数百騎が従い、さらに雑兵がつづく。

町衆が荷をかついで逃げだしていく。

「いくさじゃ、いくさがはじまった」

あわせるように教時の騎馬も邸からでていく。これにつづく武士団。さらに雑兵。

教時は若宮大路にでた。そしてついに頼綱の一団と遭遇した。

騎馬がいななき、雑兵がさわぐ。

平頼綱が呼びかけた。

「おお、これは名越の跡取り北条教時殿。この昼間に物々しい出でたちでござるな。いずこにお出かけでござる」

教時がかえす。

「これはこれは、侍大将、平の左衛門尉殿。日頃なにかと忙しい貴殿をここでお見かけするのは幸運でござるな」

「冗談はこれくらいにして、教時殿、執権時宗様より武装を解除せよとのお達しでござる。すみやかに命に服されたい」

教時が笑った。

「これは武士の正装でござる。鎌倉殿にまみえるための礼装である。われらはこれから御所にうかがう。左衛門尉、道をあけられい」

頼綱が顔色をかえ怒声をはなった。

「教時、おぬしの魂胆は目に見えているわ。御所を襲い、幕府を転覆するつもりであろう。われらは一歩も引かぬ。ここを通りたいなら踏みこえていけ」

教時の軍団が怒る。彼らはあらんかぎりの罵声を浴びせた。

教時が叫ぶ。

「左衛門尉、よくぞ申した。北条の執事でありながら、北条をほろぼす大悪人。師子身中の虫とはおぬしのことなり。今日こそはその首をかき斬ってしんぜよう」

今度は幕府勢が激高する。緊張は頂点に達した。

教時があやつられたかのように頼綱に斬りかかった瞬間、両軍がはげしくぶつかった。

両者のつもりつもった憤懣が一気に爆発した。

文永十年二月十一日、世にいう二月騒動の勃発である。

鎌倉は逃げまどう町民であふれた。

騎乗の武士が縦横に走りすぎ、従者がつづく。

侍所は騎馬と兵卒でごったがえした。兵士がかけ声をあげ、馬がいななく。

時宗のそばには安達泰盛がひかえた。

注進が大声でつげる。

「ただいま平の左衛門の尉殿、教時殿と合戦におよびました」

泰盛がかっと目をひらく。

「してどちらが優勢だ」

「かいもく見当がつきませぬ」

泰盛がいらだつ。

「それでは注進にならぬわい。はっきりせよ」

時宗が使者の腕をつかんだ。

「もどって左衛門尉に伝えよ。討つは教時のみ、ほかの北条を討ってはならぬ」

白昼の鎌倉で軍兵がはげしく争う。

名越教時を先頭にした軍勢が平頼綱を押していく。馬上の教時が半狂乱で刀を振りかざし、斬ってすすんだ。

「御所はもうすぐだ。(あま)すな者ども、()らすな若党。討てや」

頼綱がこらえながら叫ぶ。

「ひるむな。こらえろ」

この時、侍所から雲のような援軍がかけつけた。頼綱がよろこび、教時が動揺した。こんどは幕府勢が敵をおしていき、ついに教時邸までもどすまでになった。

頼綱が馬上ではげます。

「今だ、押せ押せ。末代まで名をとどめや者ども」

教時勢がつぎつぎとたおれていく。

「いかん。ひけひけ、籠城だ」

教時勢が邸の中へ逃げ込むが、頼綱勢も追いかけて門の前で激戦となった。名越勢は数の上で劣る。大軍をささえきれない。幕府勢はなだれをうって邸内に突撃した。

庭で家屋で斬りあいがはじまった。教時が死にものぐるいで刀をふりまわす。

雑兵が教時を背後から斬りかかったが、一瞬早く兄の時章が体当たりしてかばった。

教時がよろこぶ。兄時章は決戦の面構えである。

「こうなっては運命じゃ。わしの命はお前にあずけたぞ」

時章、教時の兄弟が幕府の大群に猛然といどみかかった。

合戦のどよめきが遠くに聞こえる。

時宗が壁にむかってすわりこんだ。北条どうしが血で血を洗っている。恐れていた事態がついにおきてしまった。

注進が入ってくる。

「左衛門尉さま、形勢不利でありましたが、ようやく逆転、敵をおし返しておりまする」

入れかわりに新たな注進がかけこんでくる。

「ただ今、名越勢は屋敷に逃げこみました。両者はげしく打ちあっております」

泰盛が使者をはげました。

「よし一人ももらすな、のこらず討ちとれ。切り通しのそなえは万全か」

「かためておりまする」

「教時の援軍があるやもしれぬ。そやつらが鎌倉に突入すれば一大事だ。ぬかるな」

注進が去っていく。

室内ががらんとなり、時宗と泰盛だけがのこった。

時宗は壁の前で腰をおろし、頭をさげたままでいた。

泰盛が時宗をはげました。

「殿、ご安心くだされ。幕軍は優勢ですぞ。夜明け前には決着がつくはずでござる」

時宗は下をむいたままつぶやく。

「泰盛、それだけか」

泰盛が怪訝(けげん)な顔をした。

時宗は床の一点を見つめたままだった。

「このいくさ、教時一人がおこしたのではあるまい。諸国に間者を放っていたおぬしだ。このわしに、いまだ知らせぬことがあろう」

泰盛がかしこまり、ぼそりといった。

「殿、じつはこのいくさ、黒幕がおりまする」

沈黙がながれた。

 時宗がしぼるようにいった。

「それはわが兄じゃな」

泰盛がくやしそうにこたえた。

「残念ながら。時輔様は京都で旗揚げをなさる覚悟でござる。買収した公家から密告がありました。幕府に不満をもつ武士どもを糾合し、鎌倉に攻めいる手はずでござる。まことに情けなき次第」

時宗が悲痛な顔をあげた。

「わしはどうしたらよい」

泰盛は必死だった。

「殿、どうかご決断を。わたくしめは御家人の身。殿の身内の処断は、それがしにはできませぬ」

時宗がうめく。

「ならば教えてくれ。なぜ兄弟が争わねばならぬ。血のつながった一族がどうして殺しあいをする。八幡大菩薩はわれらを見捨てたのか。すべての仏に安泰を祈願してなぜ叶わぬ。執権として聞く。なぜだ」

泰盛が涙をもって告げた。

「これも日本国をつかさどるための試練でござる。今、殿におかれましては耐え忍ぶのみ。殿、どうか兄上様に断固とした処置を」

時宗がついに言った。

「泰盛、兄上を討て。いそぎ六波羅に伝えよ。一刻の猶予はならぬ。おくれたならば国土のすべてに逆賊がおこる」

 泰盛がよろこんだ。

「よくぞ決断されました。すぐに手配を」

泰盛が大声で指図した。

「全国の御家人に早馬をたてよ。鎌倉幕府存亡の時である。急ぎ参集せよ。遅参する者は罰するとな」

 外の喧騒はつづいていた。

 時宗の涙が床にぽたりとおちた。

教時邸で激しくぶつかり合った両軍だが教時方がしだいに討たれていった。教時の子、宗教・宗氏も討たれた。

そして教時、時章の兄弟が息も絶え絶えに空き部屋へころがりこんだ。髪は乱れ、血まみれになっている。二人ともすでに体力の限界をこえていた。

兄弟はすわりこんでむかいあった。

教時がぼそりという。

「もはやこれまで」

時章はにこやかだった。

「どうじゃ、満足したか」

「なんの、本家の時宗に一泡吹かせたかったが、これも運命じゃ。しかしすまぬ、兄者を巻きぞえにしてしもうた」

時章が笑った。

「いや、ひさびさに暴れ回ったわ。死ぬのは恐ろしゅうない。武家に生まれた者、いつかはこの日がくるもの。いまはただ、光時兄の無事を祈るのみ」

幕府勢の雄叫びが強くなった。

時章が宙をみた。

「阿弥陀如来のお迎えがきたようだ。そろそろいくか」

教時がうなずく。

「兄者、おたがい短い命であったな。来世でまた会おうぞ」

「おお」

兄弟は刀を互いの胸に深々と刺し、果ててしまった。一瞬の出来事だった。

同時に怒涛の勢いで頼綱が駆けこんできた。

頼綱がくやしがった。

「ええい、自害しおったか。首をとれ。よし、われらは勝ったぞ」

兵士が興奮しきって勝ち鬨をあげた。この歓声が外に波及した。

頼綱が異様な興奮をみせた。

「みなの者、よく聞け。これから名越の大将、北条光時を討つ。あやつこそ幕府をゆるがす張本人だ。早く討って時宗様にきゃつの首をご覧にいれるのだ。行くぞ」

兵士が狂ったように雄叫びをあげ、外にくりだした。そしてわめきながら駆けていく。

名越の筆頭である光時を討つのは、明らかに越権行為である。しかし血に飢えた勢いはだれにも止めることはできない。御内人である頼綱にとって、名越の滅亡は幕府権力を固める絶好の機会である。主君の命令を無視してでも強行せねばならない。結果は事後報告でよいのだ。


                四十五、守護代、本間重連の帰伏 につづく


中巻目次



by johsei1129 | 2019-12-13 22:26 | 小説 日蓮の生涯 中 | Trackback | Comments(0)
2017年 08月 10日

小説 日蓮の生涯 中

作 小杉 貢  監修 三浦 常正   平成二六年一月三日 公開

                                     英語版

小説 日蓮の生涯 中_f0301354_15041009.jpg
                           佐渡ヶ島全景

中巻目次                       


三十五、真冬の佐渡へ

三十六、末法の本仏としての確信

三十七、流罪地、佐渡への船出 

三十八、孤島佐渡での苦境 


三十九、自界叛逆難の予言符合 


四十、
退転する弟子たち 


四十一、
大難をこえる道 


四十二、
阿仏房と怨嫉の島 


四十三、
塚原問答の勝利 


四十四、
自界叛逆難の的中 


四十五、
守護代、本間重連の帰伏 


四十六、
二月騒動の顛末 


四十七、
強信の日妙、山海を渡る 


四十八、
日蓮、佐渡で始めて本尊を図現する 


四十九、
御本尊建立の意義を説き明かす 


五十、
日妙、日蓮より御本尊の下付を約束される 


五十一、
良観の陰謀 


五十二、
留難ふたたび 


五十三、
時宗、赦免を決断 


五十四、
日蓮、佐渡より鎌倉に帰還 


五十五、
最後の諌暁


五十六、
幕府を突き放す 


五十七、
日蓮、鎌倉を去る


五十八、
日蓮、身延山中へ入る 


五十九、
蒙古襲来 


六十、
三度の高名 


六十一、
弟子たちの布教  


六十二、
身延山中に移り住む日蓮  


    
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by johsei1129 | 2017-08-10 21:50 | 小説 日蓮の生涯 中 | Trackback | Comments(6)
2017年 07月 22日

六十二、 身延山中に移り住む日蓮

六十二、 身延山中に移り住む日蓮_f0301354_20595955.png

             (身延山頂から富士山・富士川を望む。山の険しさがわかる)


 日蓮は甲斐の山奥に安住することになったが、ひもじい暮らしはあいかわらずだった。

食卓には玄米のおこわと、近くの山中から収穫した山菜の入った汁物と大根の漬物が並ぶ。

日蓮と弟子たちが食事を共にした。

日向(にこう)がいう。

「上人、波木井殿はなにか申しておりましたか」

日蓮が豆をふくみながら答える。

「なにを」

「このような食では身がもちませぬ。われらがここに来たとき、波木井殿は食べ物のことは心配せずともよいと申したはずですが」

日蓮の目が笑う。

「波木井殿とて苦しいのだ。年貢がままならねば幕府から(とが)めがある。それに加え、われらのこともやっかいであろう。なにより間借りしている身なのだ。日向よ、ありがたく思わねば」

同じ夜、波木井実長は豪勢な食膳にかこまれていた。日蓮と弟子たちが囲む質素な膳とは対照的だった。

波木井の心根には、日蓮を庇護してやっているという思いがある。彼は日蓮を信奉してはいたが、同時に日蓮の家主でもある。

波木井は思う。

自分と日蓮の立場は同等である。自然、日蓮門下に対する扱いはどうしてもぞんざいとなった。その心情は振舞にあらわれた。実長のこの思いは日蓮がここに住んだ八年間かわらなかった。このため日蓮は口には出さなかったが、衣食について時には窮乏する日々を過ごすこともあった。

信徒から単衣(ひとえぎぬ)一領を送られた時の、返書の消息がのこっている。衣の送り主は駿河の南条一族の一人という。日蓮が身延山に入った翌年の手紙である。ここにその窮状がみてとれる。

かゝる身なれば()()が如く雪を食として命を継ぎ、()(りょう)が如く(みの)をきて世をすごす。山林に交わって(このみ)なき時は空しくして両三日を過ぐ。鹿の皮破れぬれば裸にして三・四月に及べり。かゝる者をば何としてか(あわ)れとおぼしけん。未だ見参(げんざん)にも入らぬ人の(はだえ)を隠す衣を送り給び候こそ、(いか)にとも存じがたく候へ。   『単衣抄

三日食べず、三月のあいだ着るものもない。まして着るものは衣ではなく鹿の皮だったという。くわえて山の冬はきびしい。「飢餓と寒苦」。この二苦は、日蓮が身延山中で過ごした晩年を知る上で、我々現在の信徒が決して忘れてはならない事であろう。

弟子の育成に傾ける熱い思いとは裏腹に、身辺は苦しい日々だった。

日蓮は身延山中に籠ったが、けっして安閑としていたわけではない。弟子の育成、法門の述作、弟子檀那への手紙を次から次へとしたためていた。甲斐身延での述作は現存するだけでも膨大な数にのぼる。日蓮は文永十一年五月十七日に駿河国・波木井に到着してから弘安五年十月十三日に入滅するまでの八年間で、真筆、古写本で確認されている書は三百二十五編にも及ぶ。この中には唯受(ゆいじゅ)人の後継者、日興上人が選定した御書十大部のうち、選時抄、報恩抄、法華取要抄、四信五品抄、下山御消息、本尊問答抄の六抄が述作されている。

この当時、新聞はなくテレビやラジオもない。携帯もなければネットもない。まして唯一の通信手段の紙は貴重だった。日蓮は使い古しの紙まであつめ、書きあげていった。意思伝達の手段は文字と人の口だけである。日蓮は伯耆房をはじめとする弟子たちに、薫陶に薫陶をかさねて各地の布教先へと旅立たせた。

述作については筆をとる前、いかに人の心に伝わっていくか、練りに練って思索をつくした。いったん構想がまとまれば大胆に記述していった。長文の重要法門をしたためる時以外は、ほとんど下書きなどない。すべて頭の中でまとめた。今のわれわれには、とうてい真似はできない。

述作とならんで身魂をくだいたのは本尊の図現だった。

中央に「南無妙法蓮華経日蓮」としたため、そのまわりに己心の十界( )(注)を象徴する如来、菩薩、天人、諸王をしるして弟子檀那にあたえた。

この強い思いを消息の中で訴えている。

日蓮がた()しひをすみ()にそめながしてかきて候ぞ。信じさせ給へ。仏の御心(みこころ)は法華経なり。日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし。妙楽云はく「顕本遠寿(おんじゅ)を以て其の命と為す」と釈し給ふ。    『経王殿御返事

日蓮は一人一人の信徒に仏法の極意を伝えるため、本尊を書きあらわした。「すみにそめながして」とある。全魂をこめたといってよい。日蓮が疲れきって筆が止まったときは、伯耆房に命じて書きあらわしている。この書きあらわすことを御図現という。仏像の造立とおなじ意味である。日蓮は釈迦滅後二千年の末法で、この本尊だけが生きる法であると確信していた。

だが本尊はだれにでもあたえたのではない。

日蓮のあとをついだ伯耆房日興は本尊をうける者の資格をのべている。


在家出家の中に(あるい)身命を捨て或は(きず)(こうむ)()しは又在所を追ひ放たれて、一分信心の有る輩に(かたじけな)くも書写し(たてまつ)り之を授与する者なり。    『富士一跡門徒御存知事

本尊はだれにでもあたえるものではない。

日蓮は大難のつらさに耐えかねて、信心を捨てる者の多さを身にしみて体験した。はじめは熱心で日蓮につくようにみえて、難がおきたとたん、たちまち信心を捨て、一転日蓮を非難する側に回った弟子・信徒のなんと多いことか。そのような者にとって本尊はただの紙きれにすぎない。彼らは法を下げ、人を悪道におとすだけである。

日蓮が図現した御本尊の中に、日興が筆を入れ、日蓮が花押をしるした師弟合作の御本尊が現存する。この御本尊は代々つたわり江戸時代、今の仙台染師町の仏眼寺に安置されていた。

寛永十三年(一六三六)、火災がおこり、この本尊にも火がせまったが、自ら飛び去って類焼をまぬがれたという。本尊は近隣の木にかかっていた。当時の信徒は「飛び曼荼羅」として御本尊の功力を称賛した。また大名の伊達家は藩の宝として尊崇したと伝えられている。

日蓮は弟子に本尊を(たも)たせ、強信の徒にとどけた。法華経流布の勢いは拡大していく。すでに日本国の十人に一人が南無妙法蓮華経と唱えつつあった。日蓮が良観との降雨祈祷合戦に勝利した時の勢いを上回るほどだった。

日蓮は大難をのりこえて信心をたもった者に本尊を下付しつづけた。この時下付した御本尊は、それぞれに弟子、信徒の授与名をいれた、いわば一機一縁の御本尊であった。その証拠に阿仏房へ御本尊を下付した時の消息文には「あまりにありがたく候へば、宝塔(御本尊)をかきあらはしまいらせ候ぞ。子にあらずんば、ゆづることなかれ。信心強盛の者に非ずんば見することなかれ」(阿仏房御書)と記している。つまりこれらの本尊はあくまで一機一縁の本尊で、全世界の人々が一同に拝し奉る御本尊ではない。
 教主釈尊は二千二百年前、法華経で遺言した。


我が滅度の後、()の五百歳の中に、(えん)()(だい)に広宣流布して、断絶して悪魔、魔民、諸天、竜、夜叉(やしゃ)鳩槃荼(くはんだ)等に、其の便(たより)を得せしむること無かれ。   「薬王菩薩本事品第二十三」

日蓮は自覚していた。

一閻浮提総与、すなわち全世界の一切衆生にあたえる本尊の図現が近くなっていることを。またそれが生涯をかけた目的、つまり末法の本仏としての出世の本懐を遂げることであることも。


                         六十三、四条金吾、身延山中の日蓮に見参 につづく


 中巻目次  


  十界

十種類の衆生の境界のこと。十法界ともいう。仏法で一個の生命体、生命現象を時間的な流れの観点から解明したもので、瞬間瞬間の時間の流れの中にあらわれる生命の境地を、十種に分別したもの。十法界の名称を境涯の低い界からあげれば、地獄界・餓鬼(がき界・畜生界・修羅(しゅら)界・人界・天界・声聞(しょうもん)界・(えん)(がく界・菩薩界・仏界の十となる。また仏界は悟りで、ほかの九界は迷いであるから九迷一悟といい、十界のおのおのが他の九界をそなえる。この十界の境涯について日蓮大聖人は『観心本尊抄』で簡明に解き明かしている。


(しばしば)他面を見るに、(ある)時は喜び、或時は(いか)り、或時は(たい)らかに、或時は(むさぼ)り現じ、或時は(おろ)か現じ、或時は諂曲(てんごく)なり。瞋るは地獄・貪るは餓鬼・癡かは畜生・諂曲なるは修羅、喜ぶは天、平らかなるは人なり。他面の色法に於ては六道共に之有り、四聖(注)は冥伏(みょうぶく)して現われざれども委細(いさい)に之を(たず)ぬれば之有る可し。

<中略> 所以(ゆえ)世間の無常は眼前に有り、(あに)人界に二乗界無からんや。無顧(むこ)の悪人も(なお)妻子を慈愛す菩薩界の一分なり。(ただ)仏界(ばか)り現じ(がた)し。九界を()するを以て()いて之を信じ疑惑せしむること(なか)れ。法華経の文に人界を説いて云く「衆生をして(ぶつ)()(けん)を開かしめんと欲す」。涅槃(ねはん)経に云く「大乗を学する者は肉眼(にくげん)有りと(いえど)も名けて仏眼と為す」等云云。末代の凡夫(ぼんぶ)出生して法華経を信ずるは人界に仏界を具足(ぐそく)する故なり」


再注


  四聖 

 六道(地獄・餓鬼(がき)・畜生・修羅(しゅら)・人・天)輪廻(りんね)を脱した声聞(しょうもん)(えん)(がく)・菩薩・仏の四つの境涯。釈尊は妙法蓮華経方便品第二で始めて衆生に仏界が冥伏(みょうぶく)していることを解き明かし、仏はその仏界を開き、示し、悟らせ、仏道に入らしめる(開示(かいじ)()(にゅう))という「一大事因縁」で娑婆(しゃば)世界に出現したと説いた。




by johsei1129 | 2017-07-22 23:47 | 小説 日蓮の生涯 中 | Trackback | Comments(0)
2017年 07月 22日

六十一、 弟子たちの布教

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                      (蒙古に備える武士たち。石垣は防塁とみられる)

 太平洋のさざ波が相州鎌倉によせる。

 この鎌倉の侍所に武士や町人がおしよせていた。かれらは建物にむかって怒声を発していた。異様な光景だった。

 主の時宗にではない。ここに蒙古の使節が滞在していたからである。

 蒙古は昨年の十月に博多を襲撃して焼きはらったばかりだった。この文永の役とよばれる戦いで日本は人的・物的に大きな被害をこうむった。

 その蒙古が日本に使節を派遣したのである。彼らは文永の役の勝者として譲歩をせまった。威圧的な訪問だった。

 鎌倉の人々が蒙古をゆるせないのは当然であった。

 その蒙古の使者は杜世忠を正使とする五人だった。

 彼らはこの年の四月十五日に長門国室津(山口県下関市)に上陸するやいなや、捕らわれの身となって太宰府におくられた。そして八月になって太宰府から鎌倉に護送されたのである。

 五人は幕府が用意した豪勢な客間にそろって着席していた。

 正使の杜正忠は蒙古人である。副使は中国人、ほか朝鮮人一名、ウイグル人二名だった。

 五人はみないらだっていた。正規の使節だというのに事実上、罪人同様のあつかいである。

「いったいどうなっているのだ。何日またせるのだ。われらは蒙古皇帝の使者としてきたのだ。なのに毎日毎日、意味のない挨拶ばかりだ。はやく切りあげたほうがよくはないか」

 杜世忠がなだめた。

「まあまて。ここが我慢の時だ。歳月を要するのは覚悟したことではないか。国どうしがふたたび(やいば)を交えるのか、和解におわるのか。鎌倉幕府の決断をまとうではないか」

 別室では幕府の中枢が会議をしていた。会議は連日連夜にわたっていた。

 いつものように瞑目する北条時宗を中心として安達泰盛、平頼綱、北条光時らが参集した。

 重苦しい雰囲気がみなぎる。

 歳の離れた妹が時宗の妻となっている外戚、安達泰盛が言上した。

「蒙古とは和睦すべきでござろう。いま日本国をとりまく情勢は緊迫しておりまする。蒙古は漢土で南宋を滅ぼす勢いでござる。このままいけば、再度わが国に攻めいるのは必至。今はいちおう和睦といたし、時間をかせぐのが最善の策と思われます」

 平頼綱もめずらしく同調した。

「今はそうするしかございませぬ。文永のいくさでは天候が味方し、きゃつらは退散しましたが、残念ながら軍配は蒙古にあった。いくさの作法もちがえば、手にとる武器もまったくちがう。今戦えば九州武士団は全滅もありうる。北条を守るためにも今は和平に応じ、貿易を開始するのが妥当でござろう」

 この二人の意見が日本国内の共通した認識だった。日本全体がおびえている。それもこれも去年の文永の役と呼ばれる戦いで、思いもかけない敗北を喫したからである。もう一戦交えれば、それこそ滅亡になりかねない。現に漢土・朝鮮は滅亡しかかっている。

 甲斐の山奥にいる日蓮は戦いの前からこのことを察知していた。日妙にあてた消息にいう。


 当世の人々の(もう)()国をみざりし時のお()りは、御覧ありしやうにかぎ()りもなかりしぞかし。去年の十月よりは一人もおごる者なし。()こし()しゝやうに、日蓮一人計りこそ申せしが、()()だに()たる程ならば、(おもて)をあはする人もあるべからず。(ただ)さる()の犬をおそれ、か()るの蛇をおそるゝが如くなるべし。是(ひとえ)に釈迦仏の御使ひたる法華経の行者を、一切の真言師・念仏者・律僧等ににくませて我と損じ、ことさらに天のにくまれを()ほれる国なる故に、皆人臆病になれるなり。譬へば火が水をおそれ、木が(かね)()ぢ、(きじ)(たか)をみて魂を失ひ、ね()みが猫に攻めらるゝが如し。一人もたすかる者あるべからず。()の時はいかゞせさせ給ふべき。(いくさ)には大将軍を魂とす。大将軍()くしぬれば歩兵(つわもの)臆病なり。  『乙御前御消息

 幕府の首脳会議では時宗の動向に注目があつまっていた。

 重臣たちの議論が一段落すると、彼は突然立ちあがって怒りだした。

「おぬしら臆病風に吹かれしや。それでも鎌倉武士か。昨年の筑紫攻撃は国辱である。おぬしらは蒙古の申し状をみたのか。臣下の礼をしなければ攻撃するという。それが日本国の主に対する態度か。おのおの覚悟を決めよ。無礼者には無礼でたちむかえ。力でくる者には力でこたえるのだ」

 泰盛がおそるおそる聞いた。

「では五人の使者は」

「打ち首といたす」

 泰盛はこれで北条も終わりだとばかり表情が暗い。いっぽう時宗の性格を知り尽くしている頼綱は、予想どおりとばかり、ほくそ笑んだ。

 時宗はすでに戦いに突入したかのように、矢継ぎ早に命じる。

「蒙古は再度筑紫をねらうであろう。九州の守護に命じて再度守りをかためるよう指示を出せ。全国の神社仏閣に蒙古退治の祈祷をさせよ。北条一門は太宰府に陣をとれ。御家人は兵士を動員し博多に向かわせろ」

 勇ましい返事とともに所従が散った。

 杜世忠ら五人は死罪と決まった。

 群衆が竜の口の刑場にむらがり、喝采をあげていた。文永の役の恨みが晴らされる時だった。

 蒙古の使者五人が正座した。彼らの背後に介錯人が立つ。

 正使の杜世忠は宙を見てなげいた。

「国を出るとき妻子にいった。大役を果たして故郷に(にしき)をかざるであろうと。だがそれもかなわぬこととなった。これで蒙古と日本はいくさになる。この国がどのような報いをうけるのか、見とどけたかったが」

 彼は悲痛な思いで辞世の句をうたった。

 出門妻子贈寒衣  門を出ずれば妻子寒衣を贈る。

 問我西行幾日帰  我に問う、西行し幾日にして帰る。

 来時儻佩黄金印  来る時もし黄金の印を()びれば。

 莫見蘇秦不下機  蘇秦を見て(はた)()ざるなからん。

(家を出るとき、妻子は衣をくれてわたしにいった。いつお帰りですか。あなたが帰ってきたとき、黄金の印を身につけていたならば、蘇秦の妻のように(はた)を織り続けることはありません)

 蘇秦とは中国戦国時代の外交家である。無類の弁舌家だった。彼は無名だったころ、大国の秦に対抗するため諸国を遊説して抗戦を説いた。だが家に帰っても妻は機を織りつづけて夫を無視したという。

 杜世忠は蘇秦の弁舌で、なんとしても鎌倉幕府を説得したかった。だがそれはむなしくなった。

 杜世忠の願望を断ち切るかのように、太刀取り人の剣が振りおろされた。

 蒙古退治の兵隊が鎌倉大路をすすむ。騎馬の軍団のあとに所従がゆく。

 行く先は鎌倉から約千キロ離れた、はるか彼方の九州大宰府である。

 沿道には妻子たちが涙で行進を見送った。兵の中から耐えきれず妻子と抱きあう者がいた。彼らは顔と顔をあわせ、目と目をあわせてなげいた。

鎧の武士がむりやり彼らを引きはなした。

 日蓮はこのやりきれない情景を手紙にのこしている。宛先は富木常忍の妻である。常忍の妻は病気だった。日蓮は彼女に病で苦しむとき、筑紫にむかう人々のつらさを思って嘆かないよう激励している。あわせてこの国が日蓮を苦しめた報いをうけているということも。

なによりもをぼ()つか()なき事は御所労なり。かまへてさもと三年、はじめのごとくに、()()せさせ給へ。病なき人も無常(むじょう)まぬかれがたし。但しとしのはてにはあらず。法華経の行者なり。非業の死にはあるべからず。よも業病(ごうびょう)にては候はじ。(たと)ひ業病なりとも、法華経の御力たのもし。阿闍(あじゃ)()王は法華経を持ちて四十年の命をのべ、(ちん)(しん)は十五年の命をのべたり。尼ごぜん又法華経の行者なり。御信心は月のまさるがごとく、しを()のみつがごとし。いかでか病も()せ、寿ものびざるべきと(ごう)(じょう)にをぼしめし、身を持し、心に物をなげかざれ。なげき出で()る時は、ゆき(壱岐)つしま(対馬)の事、だざ(大宰)ひふ()の事、かまく(鎌倉)らの人々の天の(たのしみ)()とにありしが、当時()()しへむかへば、()ゞまるめこ(女子)ゆく()をと()こ、()なるゝときはかわ()はぐ()がごとく、かを()とかをとをとりあ(取合)わせ、目と目とをあわせてなげきしが、次第にはなれて、()()のはま、()()ら、こし()()へ、さかわ(酒匂)()こね()ざか()。一日二日すぐるほどに、()ゆみあゆみと()ざかるあゆみも、かわ()も山もへだ()て、雲もへだつれば、うち()うものはな()だなり、ともなうものは()げきなり、いかにかなしかるらん。かくなげかんほどに、もう()()のつわもの()めきたらば、山か海も()どり()か、ふね()の内か、()うら()いかにて()()にあはん。これひとへに、(とが)もなくて日本国の一切衆生の父母となる法華経の行者日蓮をゆへもなく、或は()り、或は打ち、或は()()をわたし、ものにくる()いしが、十羅刹のせめを()ほりてなれる事なり。又々これより百千万億倍たへがたき事どもいで来るべし。かゝる不思議を目の前に御らんあるぞかし。我等は仏に疑ひなしとをぼせば、なにのな()きかあるべき。き()きになりてもなにかせん、天に生れてもようしなし。竜女があとをつぎ、摩訶波舎波提(まかはじゃはだい)比丘尼(びくに)れち()につらなるべし。あらうれしあらうれし。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経と唱へさせ給へ。恐々(きょうきょう)謹言(きんげん)。  『富木尼御前御書

 鎌倉幕府より全国の寺社に敵国降伏の祈祷が命じられた。

 建治元年一月には、東寺の長者道宝が伊勢大神宮に参籠し敵国調伏を祈願した。東寺は真言宗の本山である。また同じ年の十月には全国の十二社が敵国降伏を祈っている。

 どの寺院でもきらびやかな袈裟をまとった高僧が宗徒をあつめて異国降伏を祈った。

 だが日蓮は日本国がかえって絶望的な状況にむかっているという。
 武蔵国在住の信徒で、父が幕府作事奉行であった池上宗長への手紙にしるす。

今度(このたび)は又此の調伏三度なり。今我が弟子等死したらん人々は仏限をもて是を見給ふらん。命つれなくて生きたらん(まなこ)に見よ。国主等は他国に責めわたされ、調伏の人々は(あるい)は狂死、或は他国或は山林に()くるべし。教主釈尊の御使ひを二度までこうじ(街路)をわたし、弟子等をろう()に入れ、或は殺し或は害し、或は(とこ)()()ひし故に、其の(とが)必ず国々万民の身に一々にかゝ()るべし。或は又白癩(びゃくらい)黒癩(こくらい)・諸悪重病の人々おほ()かるべし。我が弟子等此の由を存ぜさせ給へ。恐々謹言。

 九月九日                    日蓮花押

 此の文は別しては兵衛(ひょうえ)(さかん)殿へ、総じては我が一門の人々御覧有るべし。他人に聞かせ給ふな。  『兵衛志殿御書』(弘安元年御作)

「調伏三度なり」という。一度目は源平の戦い、二度目は承久の戦いである。いずれも邪宗、とりわけ真言の祈祷に頼ったために平家も後鳥羽上皇も敗れた。

 蒙古調伏の祈禱もまた真言によってなされようとしている。滅亡は明かだった。

 ちなみに源平の戦いは武士同士の争い。承久の合戦は武士と朝廷の争いだった。三度目は朝廷内の闘諍である。規模が大きくなるにつれ、惨状が目も当てられないことになっていく。

「他人に聴かせ給ふな」とは日本国が亡国となることを他人にあらかさまに語ってはならないということである。法華経を誹謗する人々に真実を告げても、今となっては無意味である。それよりも日蓮の門下は日本の滅亡を覚悟しておくように促している。


 博多湾では炎天下、兵士が領民をかりたてていた。海岸線に沿って防塁を築くためである。この石積みの壁は高いもので三メートル、長さ二十キロにわたった。

 文永の役では蒙古兵を上陸させて敗北を喫した。この苦い経験から、水際で蒙古を防ごうとしたのである。

 兵士もふんどし姿で岩石をはこぶが疲労の色が濃い。博多にはさらに新たな兵隊がぞくぞくと到着していた。


 いっぽう日蓮が弟子らと暮らす甲斐の国身延にはこの喧騒はとどかない。

 身延の地は高い山に囲まれていた。西に七面の山、東に天子の岳、北は身延山、南は鷹取の山である。ここに四つの川が流れる。富士河、早河、大白河、身延河だった。

 このふもと、一町ばかりの土地に日蓮の庵室があった。

 この身延山の様子を伝えた手紙がのこっている。宛先は新池(にいけ)左衛門尉という。新池氏は遠江国磐田郡新池、いまの静岡県袋井市に住んでいた。鎌倉幕府の直参で、伯耆房の折伏により日蓮に帰依したという。

 新池は米三石をはるばる身延の山へ送った。日蓮は山中のけわしさをつづる。

其の上遠江国(とおとうみのくに)より甲州波木井(はきり)郷身延山へは道三百余里に及べり。宿々のいぶせさ、嶺に昇れば日月をいたゞき、谷へ下れば穴へ入るかと覚ゆ。河の水は矢を射るが如く早し。大石ながれて人馬むかひ難し。船あやうくして紙を水にひた()せるが如し。男は山がつ、女は山母(やまうば)の如し。道は縄の如くほそく、木は草の如くしげし、かかる所へ尋ね入らせ給いて候事、何なる宿習なるらん、釈迦仏は御手を引き、帝釈は馬となり、梵王は身に随ひ、日月は眼となりかはらせ給いて入らせ候いけるにや、ありがたしありがたし。    『新池殿御消息


 林の中で、土地の百姓たちの笑い声がひびいた。

 彼らは車座になって話しこんでいた。

「むくりが攻めてくるじゃと。こんな山奥にくるわけがなかろう」

「いや、わからんぞ。鎌倉では、こんど攻めてきたら勝ち目はないと、もっぱらのうわさというぞ。兵隊がぞくぞくと筑紫へ行くのを見たが、皆、今生の見納めだとばかり町並みを見渡していた。残された妻子のことを思うと人ごととはいえ、不憫でならない

「もし攻めてきたら、この山奥も逃げる者でいっぱいになるかもな」

「ところでどうじゃ。あの坊様は」

「日蓮とかいう人か。ほんにこんな山奥へよくきたもんじゃ。食べるものにも困っているそうな。あれでえらい坊様なのかえ」

 百姓がうなずいた。

「なんでも鎌倉様が大きな寺を建ててやるという誘いを蹴って、この山へきたということだ」

「鎌倉殿と、そりがあわなかったのかのう」

「だが、気さくな方じゃ。このあいだもな、ぶらっとわしの家にきて、あの山の名はなんという、あの河はなんという、今年の作柄はどうか、こまごま聞いてきおった。あんまりうちとけた話をされるので思わず話が長くなったわ」

「しかしあの坊様、いつまでもつかのう。波木井(はきり)様がついているとはいえ、夏は草茂く、冬は雪深い。ひもじい思いはつのるはず。なみの坊主なら、そろそろ逃げだすところだぞ」


 唱題の声が古びた堂にひびいた。日蓮と弟子たちが題目を唱えていた。

 唱題が終わり、日蓮は講義をはじめた。

 すでに室内は若い弟子であふれている。旅姿の者もいる。

 日蓮の頭はすっかり白くなっていた。その口調はいつになく強かった。

「教主釈尊が涅槃したまいて二千年、末法の世となった。いま末法にはいり二百年である。釈迦の予言のとおりならば、仏法の中において言訟(ごんしょう)がおき闘諍(とうじょう)がはじまり、釈尊の法が滅尽する時である。仏の未来記がまことならば、必ずこの世界に闘諍がおきる。

 伝え聞く。かの漢土において三百六十ヶ国、二百六十州はすでに蒙古にうち破られた。都はすでに破られて徽宗・欽宗の二人の皇帝は北の(えびす)に生け捕りとなり世を去った。徽宗の孫、高宗皇帝は長安を攻め落とされて田舎の臨安に落ちさせたまい、今に数年があいだ都を見ていないという。高麗六百余国も新羅・百済の諸国も、みな蒙古皇帝に攻めおとされた。このたびの壱岐、対馬そして筑紫のように。仏の予言は地に落ちていない。あたかも海が潮時を(たが)わないのと同じである。

 これをもって案ずるに、釈迦の仏法が隠れ、法華経の大白法が日本国ならびに一閻浮提(いちえんぶだい)()()することも疑いはない。大地がおどりあがろうと、高山がくずれおちようと、春のあとに夏はきたらずとも、日が東へかえるとも、月が地におつるとも、この事は一定(いちじょう)である」

 伯耆房らの弟子が真剣に聞いた。逆に三位房、大進房はうわの空で天井をながめていた。

「このために念仏・禅・真言の邪宗を責めて国主にも訴えたが、三たび諫言しても聴き入れられなかった。賢人の習い、三度いさめて用いられずば山林に交われという。よって最後にはこの山にこもることとなった。日蓮は身延の山を離れることはない。もしここから出ることになれば、末もとおらぬ者と後世の人は笑うであろう。ならば大海の底の千曳(ちびき)の岩は動くとも、日蓮はここをはなれることはない。みなには手塩にかけて教えたつもりである。法華経の肝心、南無妙法蓮華経が流布するかどうかは、おのおのにかかっている」

 伯耆房が日蓮に誓った。

「上人、われらは法華経の肝心である妙法蓮華経の五字を、必ず弘めてまいります」

 日蓮はうなずいて弟子たちに弘教の地を指図した。

「ではそれぞれの受けもつところを告げる。伯耆房は駿河の地に」

「はい、わたしは岩本実相寺と熱原滝泉寺を拠点に活動してまいります。かならず妙法の種をまいてまいります」

「日朗は鎌倉へ」

「はい、鎌倉には四条金吾殿はじめ、縁戚の池上兄弟など、強信徒が多数おります。私はこの人たちと手を携え、とともに妙法をひろめてまいります」

「学浄房は佐渡へ」

「はい、佐渡の阿仏房様、国府入道様のもとで布教してまいります。守護代の本間様にも協力を仰ぎます」

 弟子たちが旅姿で出発した。

 日蓮がわらじのひもを結ぶ伯耆房に声をかけた。

「駿河は幕府の所領が多い。わかっておるな」

「はい」

「ことに富士の一帯は北条の後家尼御前の土地だ。気をつけよ。彼らの行きずりにも、富士鹿島の辺に立ちよることはひかえよ」

 伯耆房が澄みとおる目でほほえんだ。

「ご安心ください」

 彼は颯爽とでていった。この第一歩から伯耆房日興の猛烈な折伏が始まった。大石寺五十九世の(にち)(こう)は特筆する。 


 文永十一年六月、鎌倉より身延山に嚮導(きょうどう)し、大聖人の草庵なるや富士地方の指導に当られ、甲斐に於ては南部波木井(はきり)の残族を化了し甲斐源氏の中で小笠原・秋山等の諸武人を化導し、波木井一族より播磨(はりま)公越前公、甲斐源氏よりは日華(秋山氏)日仙(小笠原氏)日伝(大井氏)日妙等次第に改宗す、甲斐中部は柏尾の蓮長、伊豆は新田家其の地より土佐房、駿河に在りては上野の南条七郎次郎及び葛西(かさい)の松野、興津(おきつ)、松野より日持、南条より日位が門下に加わり、実相寺の筑前房・豊前房・四十九院の日源・竜泉寺の日秀・日弁・日禅等弟子となり、遠江(とおとうみ)に延びて新池(にいけ)相良(さがら)等の武人を教化せらる、此等の中に最も長く住せられしは四十九院・実相寺・上野の南条家等にして最も弘教に心血を(そそ)がれしは熱原竜泉寺の僧分の指導及び其れに依って入信せる在家への慈教である。「弟子檀那等列伝」



            六十二、山中の日蓮 につづく


中巻目次



by johsei1129 | 2017-07-22 22:39 | 小説 日蓮の生涯 中 | Trackback | Comments(0)
2017年 07月 22日

六十、 三度の高名(こうみょう)

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      (身延草庵跡)

 鎌倉の日妙の家は質素な作りだった。
 日妙は少年の荷造りを手伝っていた。少年の頭はきれいに剃られている。

そばで娘の(おと)御前が色とりどりの貝殻で遊んでいる。

少年はこれから甲斐身延の日蓮のもとへ所化として修行に行く。一人旅だった。

日妙が母親の目で、あどけない少年につげた。

「さあできましたよ。気をつけていくのですよ。病気がはやっています。気をつけて。生水をのんではいけません。命とりになります。よいですか」

「承知しました。それではいってまいります」

少年が日妙に頭をさげた。

「いままで親がわりになっていただき、ありがとうございました。このことは上人にもお伝えいたします。しばらくのあいだ留守にいたします。日妙さまもお元気で」

少年が旅立つ。

日妙はその後姿に、佐渡へ旅した自分を重ねあわせた。彼女は少年の背中に手をあわせた。

「どうか上人様のところへ無事つきますように。どうか立派な日蓮上人の弟子になりますように。どうか国をひきいる上人になれますように・・」

少年が小さくなっていく。その姿は十二の歳で旅立った日蓮と似ているようだった。

遊んでいた乙御前が心配した。

「お母さま。どうかしましたか」

 日妙がほほえむ。

「なんでもありません。さあお勤めしましょう」

 お勤めとは勤行のことである。

乙御前がふくれた。

「お母さま。わたしはいま遊んでおります」

母が娘と目をあわせた。

「お勤めしたら、いくらでも遊んでよいですよ。さあ祈りましょう。御本尊様に祈って、かなわぬことはないのです。わたしたちの行く末も、国の未来も」

日蓮は佐渡流罪中に、彼女に手紙を送っている。

日妙婦人は千里の海山をこえて罪人の自分をたずねにきた。日蓮の日妙への慈愛は娘の乙御前にもそそがれた。日妙のよろこびはいかばかりであったろう。

をとごぜんがいかにひと(成人)ゝなりて候らん。法華経にみやづ(宮仕)かわせ給ふほうこう(奉公)をば、をとごぜんの御いのちさい()わいになり候はん。いまは法華経をしのばせ給ひて仏にならせ給ふべき女人なり。かへすがへす、ふみ()ものぐ(物臭)さき者なれども、たびたび申す。又御房たちをもふびん(不便)にあたらせ給ふとうけ給わる。申すばかりなし。『乙御前母御書

若い弟子たちを養育する日妙に感謝している。「申すばかりなし」とは最大級の賛辞である。ふるい立つものがあったろう。

日妙親子が手をあわせ、題目を唱えはじめた。見つめるのは命がけの旅でさずかった御本尊だった。

日妙はこのあとも長く鎌倉にいた。そして幼い弟子たちを物心両面で支えていく。

宵の月が幕府被官、宿屋入道光則の館をてらす。

宿屋は縁側に立って月を見ていた。
 彼は物思いにふけった。やがて正座し、月にむかって手をあわせ、弱々しい声で唱えはじめた。

「南無妙法蓮華経」

宿屋は立正安国論を北条時頼に取りついだ人物である。彼は日蓮の強烈な個性に圧倒されていた。

 のちに宿屋は入信し、彼の屋敷は光則寺として今も鎌倉にのこる。

鎌倉では四条金吾が本尊に題目を唱えていた。妻日眼女と子の月満御前が唱和した。

金吾の骨太な声がひびく。彼は唱えながら日蓮の言葉をかみしめた。

苦をば苦とさとり、楽をば楽とひらき、苦楽ともに思ひ合はせて、南無妙法蓮華経とうち()なへ()させ給へ。これあに自受法楽にあらずや。いよいよ強盛の信力をいた()し給へ。 『四条金吾殿御返事

下総の富木常忍邸に勇ましい太鼓の音がひびいた。

富木常忍と太田乗明、そして部屋をうめた信徒が一幅の本尊に題目をあげる。

常忍の子は出家して日蓮の弟子となり、日頂と名のった。その若い日頂が導師をつとめる。

一人一人が本尊を見つめ唱和した。その声が空にひびく。

佐渡ヶ島は雪のまじる波が音をたてていた。南無妙法蓮華経と唱える声が、吹雪の寒々とした音をかき消すかのように聞こえてくる。

館には阿仏房と妻千日尼、国府入道夫妻そのほか島の信徒が、所せましと正座し、日蓮が図現した本尊に向かい題目をあげていた。日蓮がはるか甲斐から阿仏房に送ったのである。

その阿仏房への手紙にしるす。

あまりにありがたく候へば宝塔をかきあらはしまいらせ候ぞ。子にあらずんばゆづ()る事なかれ。信心強盛の者に非ずんば見する事なかれ。出世の本懐とはこれなり。阿仏房さながら北国の導師とも申しつべし。  『阿仏房御書

宝塔とは御本尊のことである。

佐渡は日蓮が去ったあとも法華経の勢いはやまなかった。弾圧をのりこえた信心は、いやがうえにも強固となった。しかし念仏者との確執は今もつづいている。

みな必死の形相で祈る。全員の題目が空にひびきわたった。

いっぽう甲斐山中では、うっそうと茂る森林に沢の音がひびく。

館では日蓮が本尊に力強い題目を唱えていた。日蓮は祈りながら、五十三年の生涯をふりかえった。

やるべきことはやりとげたのだ。とりわけ国主を三たび諌めたことは誇らしかった。三度の諫暁で自分の名を後代にとどめることができた。この満足感はたとえようもない。そしてこれを可能にした法華経の力。日蓮は悦びをおさえきれない。

外典に云はく、未萌(みぼう)をしるを聖人という。内典に云はく、三世を知るを聖人という。余に三度のかう()()うあり。一つには()にし文応元年七月十六日に立正安国論を最明寺殿に(そう)したてまつりし時、宿屋(やどや)の入道に向かって云はく、禅宗と念仏宗とを(うしな)ひ給ふべしと申させ給へ。此の事を御用ひなきならば、此の一門より事をこりて他国にせめられ給ふべし。二つには去にし文永八年九月十二日(さる)の時に平左衛門尉に向かって云はく、日蓮は日本国の棟梁(とうりょう)なり。予を失ふは日本国の柱を倒すなり。只今に自界(じかい)逆難(ほんぎゃくなん)とてどし(同士)()ちして、他国侵逼難(たこくしんぴつなん)とて此の国の人々他国に打ち殺さるゝのみならず、おおくいけどりにせらるべし。建長寺・寿福寺・極楽寺・大仏・長楽寺等の一切の念仏者・禅僧等が寺塔をば()きはらいて彼等が頸を()()はま()にて切らずば、日本国必ず滅ぶべしと申し候ひ(おわ)んぬ。第三には去年(こぞ)文永十一年四月八日左衛門尉に語って云はく、王地に生まれたれば身をば(したが)へられたてまつるやうなりとも、心をば随へられたてまつるべからず。念仏の無間獄、禅の天魔の所為(しょい)なる事は疑ひなし。殊に真言宗が此の国土の大なるわざわひにては候なり。大蒙古国を調伏せん(こと)真言師には仰せ付けらるべからず。()し大事を真言師調伏(じょうぶく)するならば、いよいよ此の国ほろぶべしと申せしかば、(より)(つな)問うて云はく、いつごろかよせ候べき。予言はく、経文にはいつとは()へ候はねども、(てん)御気色(みけしき)いかりすくなからず、()うに見えて候。よも今年はすごし候はじと語りたりき。此の三つの大事は日蓮が申したるにはあらず。(ただ)(ひとえ)に釈迦如来の御神(みたましい)我が身に入りかわせ給ひけるにや。我が身ながらも悦び身にあまる。  『撰時抄
                       

日蓮が唱える。

弟子たちがつづいて唱和していった。

「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経・・・」

 すべての題目が満月の輝く澄みきった空に響きわたった。



          六十一、弟子たちの布教 につづく


中巻目次



by johsei1129 | 2017-07-22 22:00 | 小説 日蓮の生涯 中 | Trackback | Comments(0)
2017年 07月 22日

五十九、蒙古襲来

http://pds.exblog.jp/pds/1/201405/25/54/f0301354_00214272.jpg?w=1920&h=648                                      竹崎季長 蒙古襲来絵詞 

     

時は文永十一年十月になった。

北九州の博多湾に物見やぐらがそびえていた。やぐらは湾を一望できるように立っていた。

兵士がその頂上で海のかなたをにらんでいる。

武士団がぞくぞくとあつまり、騎馬の武士や兵隊でうめつくされた。

武士団といっても組織だってはいない。組織化されるのはずっとあとの戦国時代である。この当時、形態はばらばらだった。何十人の軍団もあれば、主従二人だけというのもある。刀の鍛錬をする者、弓をひいて腕をためす者、輪をつくって酒をくみかわす者、それぞれが戦いを前に意気ごんでいた。

ここには親子の武士もいた。二人ともに古びた鎧をつけている。父親が幼い武者姿の子供をさとした。

「このたびのいくさは、わが一族にとって千載一遇の好機であるぞ。大いに力を発揮すれば、失いし所領をとりもどすことができよう。敵の首を見事にうちとれば恩賞は思うままだ。ここでわが一族の進退がきまる。よいか一番乗りをはたすのだ。おくれるでないぞ」

子供が口元をひきしめた。

鎌倉時代は個人戦である。武士の一人一人が自分の功名のために戦う。名声を得るためなのだが、目的は恩賞である。そのためには自分の名前をアピールしなければならない。名を知られずに華々しく戦ってもなんの意味もなかった。だが乱戦になれば敵味方の区別さえわからなくなる。そこで彼らは(かぶと)(よろい)自分の名をしるした布をぶらさげたり、弓の一本一本に自分の名を書いた。戦功をのこすためだった。勇ましいわりには細かい。だがこれらは後日、軍目付が証拠として採用するための目印となった。最終的な軍務評定は軍奉行がくだし恩賞が決定した。この文永の役の奉行は安達泰盛である。

武者はたがいに酒をくみかわし大いに笑った。

中央に大将の大友頼康、副将の少弐(しょうに)(すけ)(よし)がいる。

まわりに武者が大勢でひかえた。みな荒々しくどう猛だった。

大友頼康は豊後守護職を世襲し、一族は北九州一帯にひろがっていた。少弐資能も父親の職を世襲して筑前・肥前・豊前・壱岐・対馬の五カ国を支配している。

品の良い二人とちがって、あらくれ武者が息まく。

「なにむくりだと。北の(えびす)どもではないか。この日本刀でけ散らしてくれるわ。あやつらは草原で名をはせたと聞いておる。わざわざ船に乗ってなにをするというのだ」

「蒙古などわれらの敵ではないわ。まことわれら御家人が九州くんだりやってくることはないのだわ。鎌倉殿も心配性だのう。これでは幕府がいつまでもつか、おぼつかぬわ」

 一同が笑った。えらく威勢がよい。

じっさい当初の日本軍の士気はこんなものだった。異常ともいえる熱気である。いまだ見たこともない敵にあたるときは、おごり高ぶるものらしい。

興奮した武士が立つ。

「そこで相談じゃが。蒙古の大将の首はこのわしがとる。その首をとって鎌倉殿に献上するつもりじゃ。おのおのがた、そう心得よ」

一同が立ちあがって非難ごうごうとなった。光景は野獣とかわらない。

大将の大友が手をあげて静まらせた。

「おのおのがた。油断はならぬぞ。相手は高麗を滅ぼした蒙古なのだ。どれだけの力をもっているのか見当もつかぬ。いずれにせよ、ここは鎌倉武士の強さを見せつける時だ。ぬかりはないな」

伝令が走ってきた。

「ただいま偵察船から伝令がまいりました。蒙古の船団が対馬を攻め、壱岐に押しよせたとのこと」
「いよいよ蒙古がやってきたぞ」
「蒙古なにするものぞ」

一同が口々に雄叫びをあげ、それぞれの守備位置に散っていった。


蒙古は数十艘の大型船を中心に玄界灘を進んでいた。これまたどう猛な蒙古兵が船に乗っている。

船が風をうけ、波をかきわけすすむ。

巨大な蒙古船は壱岐の港に着岸した。

漁民や武士や女までがなにごとかと港にあつまった。

好奇心からである。

島民は目の前で巨大な船が、ゆっくりと停泊するのをながめていた。

船上にはだれも見えなかった。しかし突然、甲板に蒙古兵があらわれ、弓でいっせいに射撃を開始した。

島民や武士たちが悲鳴をあげて逃げまどう。女たちが泣き叫んで逃げていった。

一方鎌倉では、蒙古来襲を告げる早馬が時宗のもとへ駆けこんだ。時宗の横には泰盛と頼綱がひかえる。

時宗が思わず立った。

「なに蒙古が船出したと」

「しかり。まず対馬を攻め、つぎに壱岐を攻めた様子であります」 

「壱岐のつぎはどこに上陸する」

「船の進行からみて、九州北岸と思われまする」

伝令が去っていく。

頼綱がうなった。

「やはり博多か。読んだとおりだ」

時宗が西の空を見あげにらむ。

「ここから博多まで何日かかる」

頼綱がこたえた。

「早くとも二十日」

 時宗がはやる。

「もう勝敗は決したかもしれぬ。泰盛、じっとしてはおれぬ、馬を出せ。わしも出陣するぞ」

泰盛がとめた。

「殿、おちついてくだされ。殿は幕府の大将でござるぞ。いま九州へ下向なさるとなれば関東が留守になりまする。そのすきをねらって名越のような者が鎌倉を攻めないともかぎりませぬ。こらえてくだされ」

時宗が空を見てくやしがった。

「なにもするなというのか。ただ運命をまてというのか」
 
 暗闇の博多湾に数百艘の蒙古船が音もなくおしよせてきた。

蒙古兵がぞくぞくと小舟で着岸して砂浜にあがった。上陸した兵士は点呼とともに整列していった。

夜が明けてきた。

日本の偵察隊が蒙古の軍団を見つけて注進した。

蒙古の船腹には対馬・壱岐の島民がつながれていた。彼らは手に穴をあけられて数珠つなぎになっていた。二つの島は全滅したのである。

蒙古軍団の三万が整列した。

爆薬を積んだ発射砲がならべられた。爆薬は日本史上、はじめて登場した。

そこに日本軍が騎馬団を先頭に対峙した。 

日本国の大将と蒙古の将軍との目があった。

やがて両軍がじわじわと進軍し、差をつめていく。

この時、日本側から数騎の武士が飛びだして大音声で挑発した。

ぬけがけである。

「遠からん者は音にも聞け、近からん人は目にも見たまえ。われこそは鎮西奉行、豊前の守、少弐資能なるぞ。いざ打ちよってかかってこよ。相手いたす」

「物の数にては候わねども、筑前大友の家来、仙波十郎なるぞ。尋常に立ちあえ」

しかし蒙古軍は相手にせず、ひたすら日本軍にむかってくる。

馬上の武士がいらだった。

「おぬしら、いくさの作法を知らんのか。ではまいるぞ」

騎馬が駆けようとしたとたん、空中で爆弾が炸裂した。

そのすさまじい音で馬が悲鳴をあげて立ちあがり、武士がふりおとされた。

日本人がはじめて聞く音だった。兵士が動揺する。

この瞬間、蒙古軍がいっせいに襲いかかった。

対する日本側は一騎打ちで戦う。反対に蒙古軍は組織戦である。武士をかこみ、めった刺しにしていった。

「おのれ卑怯な」

武士は弓で攻めたが蒙古兵は盾で防ぐ。

かわりに蒙古兵は短弓の銃でつぎつぎと馬上の武士を倒していく。木製の銃は弓よりも回転率が高い。機関銃のように飛んできた。装備がまるでちがう。両者の激突は文明の差をそのままあらわした。

耳をつんざく音が空中で鳴る。馬が悲鳴をあげる。

子供をさとした老武士が果敢に蒙古軍の中央を突進し、敵の武将を斬りたおした。子供もつづく。

だが勇ましいのはここまでだった。

大将の大友と少弐がおびえて逃げてしまったのである。

兵士はそれにもかかわらず懸命にふせいだが、全軍が総くずれとなり後退していった。

蒙古軍が勢いにのって博多の町に突入し、火をつけまわった。町全体が焦土と化した。彼らはさらに九州の首都である大宰府にも突入して焼きはらった。

史上最強の蒙古軍団が中国、高麗につづいて日本の国土を蹂躙していった。

博多湾に一日が終わろうとしていた。

蒙古兵がぞくぞくと船に引きあげていく。夜戦になれば不利とみたからだった。

蒙古の船内では武将同士がテーブルをはさんで言い争っていた。

船内のすみには高麗の役人が膝をかがめてひかえている。

ろうそくの明かりがモンゴル人を不気味にうつした。

「さらに攻めよう。この勢いでいけば、日本国を占領できる」

「いやひきあげるべきだ。日本軍は侮れぬ。食料の不安もある。ここはいったん帰るべきだ」

「よく考えろ。日本の将軍は二十そこそこの若僧というではないか。好機はいまだ。せめてこの港をおさえて城をつくるのだ」

「ならぬ。たしかにわれわれは最初の戦で勝利した。だがこのあとはわからぬぞ。日本軍の手の内は把握できたのだ。高麗にひきかえし、日本を完全に支配する準備をとるのだ」

武将同士が激論のあげく、つかみかかろうとしたが将軍があいだにはいった。

将軍は冷静だった。

「深追いをやめ、高麗にもどろう。だが最初の一撃で日本軍に勝利したのは大きい。皇帝陛下もさぞお喜びであろう。われらはこの勝利をもって引きあげればよい。不満もあろう。だがわれわれは高麗との連合軍だ。もし高麗人が裏切れば、無敵のわれらが危険な目にあわないともかぎらぬ」

将軍はそういって高麗の役人をにらんだ。

「つぎは日本の滅亡となるであろう」

雨が甲板をたたきだした。風と波が船をゆるがす。

伝令がおりてきた。

「波が荒くなってまいりました」

大将は満足した。

「これが潮時だな。引きあげるぞ」

蒙古の船隊が強風と雨の中を去っていった。

文永の役の敗北は日本のあらゆる人々に衝撃をあたえた。

幕府は日本軍の敗走をひたかくしにしたが、眼前の事実はかくせない。またたく間に国中にひろまった。

それは甲斐の山にいる日蓮にも伝わった。のこされた消息が生々しく伝える。

十月に大蒙古国よせて壱岐・対馬の二箇国を打ち取らるゝのみならず、大宰府もやぶられて(しょう)()の入道・大友等()()げに()げ、其の外の兵者(つわもの)ども其の事ともなく大体打たれぬ。又今度()せるならば、いかにも此の国()()はと見ゆるなり。種々御振舞御書

去ぬる文永十一年十月に蒙古国より筑紫によせて有りしに、対馬の者か()めて有りしに宗の総馬尉(そうまのじょう)逃げければ、百姓等は男をば或は殺し、或は生け取りにし,女をば或は取り集めて手を()おして船に()い付け、或は生け取りにす。一人も助かる者なし。壱岐によせても又是くの如し。船おしよせて有りけるには、奉行入道豊前の前司は逃げて落ちぬ。松浦党(まつらとう)は数百人打たれ、或は生け取りにせられしかば、寄せたりける浦々の百姓ども壱岐・対馬の如し。又今度(このたび)()(かん)が有るらん。彼の国の百万億の(つわもの)、日本国を引き(めぐ)らして寄せて有るならば如何に成るべきぞ。 一谷入道御書

全滅した壱岐・対馬の惨状を知らせている。日蓮はいずれ、日本の全土が壱岐・対馬のようになるという。

人々はいやがうえにも覚悟しなければならないことを知った。


        六十、 三度の高名 につづく


中巻目次



by johsei1129 | 2017-07-22 21:45 | 小説 日蓮の生涯 中 | Trackback | Comments(0)
2017年 07月 22日

五十八、日蓮、身延山中へ入る

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五月の晴れわたる空の下、日蓮と弟子の日向(にこう)街道を歩いていた。

二人が汗をふきながら長い道をゆく。

日蓮は鎌倉を西に出て、駿河をぬけ甲斐にむかった。

甲斐には波木井(はきり)(さね)(なが)という地頭がいる。日蓮はこの波木井のもとに身をよせるつもりだった。波木井は伯耆房(ほうきぼう)()(どう)した人物である。まちがいはなかろう。鎌倉を去った今となって、この地頭をたよるしかなかった。

日蓮は酒匂(さかわ)(小田原)をとおり、箱根の坂を避けて北上し竹ノ下についた。ここを南下して富士を右に見なが車返(くるまがえし)(沼津)に着く。ここから西にすすみ、富士宮をとおり甲斐にはいった。富士山の南を半周する道のりである。

駿河は日蓮の信徒が多く住む。行けばかならず歓待されるはずだった。だが日蓮は会おうともせずに素通りした。

駿河に長くはいられない事情があった。この土地は北条時宗の管轄であり、ことに富士の一帯は幕府御家人の後家尼御前の所領が多かったのである。彼女たちは日蓮を目のかたきとし、法華宗の信徒を白い目でみていた。日蓮が来たとわかれば、ひと騒ぎはかならずおこる。駿河の信徒をまきぞえにはできなかったのである。

その駿河の信徒、高橋入道にあてた手紙がのこる。高橋は賀島(富士市)に住んでいた。妻は伯耆房日興の叔母である。強信者であり富士地方の中心的な存在だった。日蓮はこの高橋にも会わずに通りすぎた。

のちに高橋入道にあてた手紙の中で、佐渡から鎌倉に帰り、幕府に諫言して鎌倉を去った様子をしるしている。くわえて日蓮は駿河を素通りする時の苦しい胸の内をしるす。

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 たす()けんがために申すを(これ)程まであだ()まるゝ事なれば、()りて候ひし時()()の国よりいかなる山中海辺にもまぎれ入るべかりしかども、此の事をいま一度平左衛門に申しきかせて、日本国にせめのこされん衆生をたすけんがためにのぼりて候ひき。又申しきかせ給ひし後はかまくらに有るべきならねば、足にまかせていでしほどに、便宜(びんぎ)にて候ひしかば、(たと)ひ各々はいと()わせ給ふとも、今一度はみたてまつらんと千度(ちたび)()もひしかども、心に心をたゝかいてすぎ候ひき。そのゆへはするが(駿河)の国は(こう)殿(どの)の御領、ことにふじ(富士)なんどは後家尼ごぜんの内の人々多し。故最明寺(さいみょうじ)殿・極楽寺殿の御かたきといきどをらせ給ふなれば、きゝつけられば各々の御なげ()きなるべしとをもひし心(ばか)りなり。いまにいたるまでも不便(ふびん)をも()ひまいらせ候へば御返事までも申さず候ひき。 『高橋入道殿御返事

「心に心をたゝかいて」とある。弟子檀那の期待に反し、駿河を通りすぎるのは苦渋の選択だった。

日蓮と弟子日向(にこう)は木陰で休んだ。

すでに駿河をとおり甲斐にはいった。国主に見放され、さまよう身である。さすがに疲労の色がこい。

日向が近くの農家で銭をさしだし、米と交換をたのんだがことわられた。
 百姓はみな冷たく言った。

「飢饉でな。売る米はないのじゃ」

日向があきらめてかえってきた。

「困りました」

 日蓮がはげます。

「よいのだ。がまんしよう。伯耆房が待っている。急ごう」

 日向が聞いた。

「身延の波木井(はきり)殿は上人をうけいれてくれるのでしょうか」

「わからぬ」

日蓮は鎌倉にいる富木常忍に消息を書いたあと、気弱に立ちあがった。

消息の内容は、身延までの詳しい日程を記すとともに、米が手に入らず、飢え死にしそうだと率直に窮状を訴えている。

()かち()申すばかりなし。米一合も()らず。がし(餓死)しぬべし。此の御房たちもみな( 帰)へして(ただ)人候べし。このよしを御房たちにもかたらせ給へ。

十二日さかわ(酒匂)、十三日たけ()した()、十四日くるまがへし、十五日を()()や、十六日()()、十七日この()とこ()ろ。いまださだまらずといえども、たいし(大旨)はこの山中心中(しんちゅう)に叶ひて候へば、しばらくは候はんずらむ。結句(けっく)は一人に()て日本国を流浪(るろう)すべき()にて候。又たちとゞまるみならばげざん(見参)に入り候べし。恐々謹言。

十七日         日蓮花押

ときどの                『富木殿御書

富木常忍は日蓮より六歳年上で、立宗宣言の年に入信している日蓮門下最古参の信徒であった。その意味で日蓮は、常忍への消息には率直にその時々の自身の心情を包み隠さず吐露されている。あるいは日蓮は常忍に対しては、師と弟子という外用()の関係を超えた、法友という思いが強かったのではないかと思われる。


鎌倉の町は兵士でごったがえした。蒙古と戦いうため、はるか筑紫へ行く兵士である。

整列した兵隊が甲冑をまとった武将を先頭に出発していく。

妻子や老いた親がむらがり、別れを惜しんだ。兵士も涙にくれるが引きはなされていく。

軍馬がだんだんと遠ざかる。

妻子と眷属はいつまでも見送っていた。

軍馬の列が街道につづいた。

日蓮は沿道でその姿をながめていたが、やがて背をむけるように山中に入っていった。

甲斐の道はうっそうとした林におおわれていた。日蓮が杖をとり登っていく。

すでにその衣は長旅で汚れきっている。すすむ道沿いに渓流の音、野鳥の鳴き声が響きだした。鹿や猿があらわれては消えた。世間とは隔絶した世界だった。

()()()()()()()()()()()()(
)

甲斐身延は四方の山に囲まれたせまい平地だった。

武家の屋敷らしい建物が二三あるほかは、数件の百姓家があるだけである。人里はなれた秘境だった。

伯耆房が日蓮を見つけて駆けてきた。

「上人」

日蓮が目をほそめた。

「伯耆房、またせたな。ご苦労だった」

「お疲れでしたでしょう、さ、こちらでございます」

武家屋敷の主、波木井(さね)(なが)が一族とともに出むかえた。

伯耆房が紹介した。

「こちらが地頭、波木井実長殿でございます。波木井殿は以前、法華経の説法をしたおり、入信されました。このたびは上人様が甲斐にこられるとお聞きになり、ぜひお招きしたいと申されました」

実長が頭をさげた。

「波木井六郎実長でござる。このたびは人里はなれたこの地へ、よくぞおいでになられました。ゆっくりとおすごしくだされ」

話す口調に高慢の響きがある。

「かたじけのうございます」

日蓮は深々と頭をさげた。それはいままで、だれにも見せたことのない姿だった。そしてまわりの山をながめた。

「この場所はわたくしの心にかなっている心持ちがいたします。波木井殿、どこでもよろしい、一軒家をお借りできないでしょうか」

実長がこたえる。

「一軒家でございますか。それは困りましたな・・そうじゃ。使っておらぬ屋敷があったな。古くてもよろしければ」

日蓮がまた深く頭をさげた。

実長が従者に指示した。

「上人様をお連れ申せ。長旅でお疲れのご様子じゃ。ゆっくりと休んでいただこう。さあどうぞ」

日蓮の一行が従者につられ、そのあとに実長がついていく。

地頭の大屋敷から半里ばかりの林だった。後方を大木に囲まれた古い家がある。

伯耆房と日向が暗然としてうらぶれた家屋を見あげた。二人は戸を開いて中を見たが、板敷にひびがはいり、壁にもよごれがしみついている。鎌倉の真新しい屋敷とは正反対だ。いやでも佐渡の三昧堂を思いだした。

実長は自嘲気味だった。

「いや失礼いたした。長年ほおっておいて、思ったよりいたんでおりますな。地頭とはいえ、やりくりはままなりませぬ。年貢をとるのも一苦労でしてな。家の普請も満足にできぬ。高名な上人にとって、このようなところはふさわしくないでしょうな」

日蓮は意外にもにこやかだった。

「いえ、これはよい屋敷ですぞ。ありがたし。しばらくここを借りて修行させてくださらぬか」

伯耆房と日向がおどろいて互いを見た。

実長が笑う。

「ご自由にどうぞ」

波木井という名は甲斐国身延の別名である。波木井氏は名を南部氏ともいった。甲斐の南端の地の意味である。

波木井実長の先祖は波乱に富んでいる。

血筋は河内源氏である。十一世紀なかばに奥州でおこった前九年の役(一〇五一~一〇六二)、後三年の役(一〇八三~一〇八七)で勝利をおさめた源義光が先祖となる。義光の兄は八幡太郎義家。この義家から五代目が鎌倉幕府を開いた源頼朝となる。

いっぽう弟の義光は後三年の役後、常陸守、甲斐守と昇進し、これがきっかけとなって一族は甲斐に根をおろすことになった。

義光の孫には甲斐国守護となる武田信義がおり、弟の遠光は源頼朝の挙兵に参加し、石橋山の戦いで奮戦している。

波木井氏の初代光行はこの遠光の三男だった。所領は富士山の西側のふもと、富士川の右岸の南部領だったので波木井は南部とも名のるようになっていく。

光行はまたのちの東北南部藩の初代といわれる。彼は源頼朝や北条につかえ、その功により陸奥(青森県)の一部を所領とした。彼の子孫は東北で領土をひろげ、のちの南部藩を築いていく。

日蓮を身延山中にむかえた実長はこの光行の三男であった。
 なお日蓮は文永十一年五月十七日に身延・波木井に到着しているが、その一ヶ月後の六月十日に小さな庵室を新たに設けたことが御書に記されている。
 

去文永十一年六月十七日に、この山のなかに、()をうちきりてかりそめにあじち(庵室)をつくりて候いしが、やうやく四年がほど、はし()くち()かき()かべ()をち候へども、なを()す事なくて、よる()()をとぼさねども月のひ()りにて聖教をよみまいらせ、われ()と御経を()きまいらせ候はねども、風を()づから、()()へしまいらせ候いし  庵室修復書



             五十九、蒙古襲来 につづく


中巻目次


  

 外用(げゆう)

仏・菩薩などが、衆生の機に応じて現す働き、姿。内証の対比語。

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)




by johsei1129 | 2017-07-22 18:47 | 小説 日蓮の生涯 中 | Trackback | Comments(0)
2017年 07月 22日

五十七、日蓮、鎌倉を去る

 真夏の日ざしが照りつけていた。

市場では物売りがならぶ通りに、いつもの喧噪がはじまっていた。

売り手も買い手も汗にまみれる。

「暑いのう」

「まったくだ。こう雨がふらないと」

田畑の作物も干からびてしおれた。

百姓が笠をかぶり、うらめしそうに空を見あげた。

四月十日。日蓮が平頼綱と対面した二日後だった。

真言宗の僧、阿弥陀堂法印が政所の一室でうやうやしく平伏した。

相手は安達泰盛である。泰盛は扇子をふっていた。四月は旧暦で初夏である。

阿弥陀堂法印は加賀法印ともいう。名は定清。真言宗小野流定清方の祖である。鎌倉阿弥陀堂の別当であったためこの名がついた。

彼は当時の鎌倉仏教で真言宗を代表する僧である。出身は京都の名門東寺。東寺は弘法大師空海が嵯峨天皇よりたまわって以来、真言宗の本山として君臨していた。法印はこの寺で真言の奥義をきわめたといわれる。弘法大師・慈覚大師・智証大師の真言の秘法を鏡にかけ、天台・華厳の諸宗をみな胸にうかべていたという。

法印の顔立ちはりりしい。くわえて身なりに気品があふれていた。

 泰盛が笑顔で歓迎した。
「ようこそまいられた。幕府にとってまことによろこばしい。招いたのはほかでもない。蒙古が年内にも襲ってくるとの知らせもあってな。それに備えるための祈祷を世間にも名高い法印殿に願いたいのじゃ」

法印がうなずき、上品な京なまりで答えた。

「祈りには各種ございます。わが真言宗は弘法大師より四百年つづいた祈祷の法がございます。他宗は足元にもおよびませぬ。手はずさえ整えてくだされば、蒙古を防ぐこと請けあいでございます」

なんという自信であろう。泰盛が喜色をあらわにした。

「よくぞ申された。まことにこのところ、ごたごたがあってな。本来ならばもう一人、祈祷を申しつける僧がいたのだが」

法印が品よくほほえむ。

「日蓮でございますな。およしになってよかったと思われます。日蓮という男、所詮は身分の低い一介の法師、狂信下賤の者でございまする。わが真言の僧にくらべれば、天子と猿、公家と蝦夷(えみし)のちがいにございまする」

泰盛が小気味よく笑った。

「日蓮は猿と蝦夷か。これは面白いこきおろしじゃ。ついては手始めである。法印殿、諸国がいま日照りで困っておる。このまま水不足がつづけば飢饉はまちがいない。そこで相談じゃ。貴殿の祈りで雨をふらせてはもらえぬか。真言の秘法で雨雲をあつめてほしいのじゃ」

法印が手をあわせた。

「わらわでよければ」

「おお、引きうけてくださるか」

「日蓮ができたことを、わらわにできぬわけがございませぬ」

「かたじけない。さっそく準備をいたそう」

熱暑の中、鎌倉阿弥陀堂は戸をすべて閉めきった。

法印は暗い室内で祈祷を開始した。

護摩が炎を舞いあげる。

法印は汗にまみれながら(しょ)を振り、鈴を鳴らした。四百年前の弘法大師そのままの姿だった。

法印の形相が闇にうかびあがった。不気味に、かつ力強く真言の呪文を唱えていった。

鎌倉では人々が外へ出なくなった。外にいても木陰で休息した。田畑では水争いもおきていた。みなため息まじりに空を見あげた。

雨がほしい。

乾いた空が暮れていくが、阿弥陀堂法印はなおも祈りをやめない。真夜中になっても真言はつづいた。法印の顔がやがて鬼のようになっていく。

その翌日である。

不思議なことに鎌倉に黒雲があらわれ、みるみるうちに暗くなった。

雲はやがて空全体をおおい、はげしい雷とともに雨をおとした。

 奇跡だった。

人々が歓喜の顔で雨をあびた。子どもたちも外に出てはしゃぎまわった。

恵みの雨が鎌倉をはじめ国中にふりそそいだ。

北条時宗は縁側で満足そうに雨音を聞いた。

泰盛が得意気にやってきた。つづいて平頼綱が不機嫌な面もちできた。頼綱は泰盛の成功がおもしろくない。

「阿弥陀堂法印がやりました」

興奮するのも無理はない。わずか一日で雨がふった。しかも静かに一日一夜ふりつづけたのだ。

時宗はいつになく上機嫌だった。

「泰盛、よくやった。でかしたぞ。法印殿には長く鎌倉にいてもらおう。そうだ、引き出物をあたえよ。黄金三十両と馬をあたえよ。蒙古対冶の祈りも正式に要請しよう」

時宗が満足そうに空を見あげた。

鎌倉の市場にも静かな雨がそそいだ。

ここに町民が(ひさし)の下で笑いあった。手をたたくほどだった。

「よかった。よかった。雨のおかげで百姓もひとまず安心じゃ。これでわれらも暮らせるというもの。やれやれじゃ」

「それにしても日蓮め、おかしなことを申しおって。首を斬られるところを、すったもんだで許されて、おとなしくなるかと思ったらさにあらず。念仏や禅を(そし)るだけでない。真言も誹るとはな」

「そこにこの雨だ。よせばよかったのに。まことに真言の教えはめでたいのう」

彼らはまた笑い、手をたたいた。

 

日蓮の館では弟子たちが動揺した顔で空を見あげていた。

引っ越しの荷造りの最中だった。これからどこへゆくのか、ただでさえ不安にさいなまれていた。さらにいままで邪宗と非難した真言僧が雨をふらせたことで、疑心がひろがった。

当の日蓮は目を閉じたままでいる。

三位房と大進房がにじりよった。

「上人、真言でも雨をふらせることができましたな」

日蓮は目を閉じたままいう。

「真言はかならず国をほろぼす。真言をもって蒙古調伏を祈れば日本は早くほろぶ」

 三位房が責めるようにいう。

「ではなぜ雨がふったのですか。阿弥陀堂法印の祈祷が法にかなったからではございませぬか」

日蓮が目をひらいた。

「しばしまて。弘法大師の悪義がまこととなって国の祈りとなるならば承久の時、上皇は勝ち幕府は敗れていた。弘法が法華経を華厳経に劣るとしたのは十住心論の文にある。釈尊を凡夫(ぼんぷ)であるとしるしたのは秘蔵(ひぞう)(ほう)(やく)にある。天台大師を盗人と書いたのは二教論にある。かかる僻事(ひがごと)を申す人の弟子、阿弥陀堂法印が日蓮に勝つならば、雨ふらす竜王は法華経のかたきである。梵天、帝釈、四天王に責められるであろう。なにか子細があるはずだ」

三位房と大進房はあきらかに日蓮をさげすんだ。ほかの弟子たちも笑ったという。


弟子どものいはく、いかなる子細のあるべきぞと、( )こづき(嘲笑)し 『種々御振舞御書


弟子たちはあらかさまに嘲笑した。彼らは日蓮を師としていなかったのか。直属の門下でさえこの有様だった。

だが日蓮はつづける。

「中国真言宗の善無畏も金剛智も不空も雨を祈った。雨はふったが暴風となって被害は増した。弘法は三十七日すぎて雨をふらした。これは雨をふらさぬのとおなじである。ひと月以上ふらない雨があろうか。たといふってもなんの不思議があろう。天台大師のように一座でふらすのが尊いのだ。これはなにかあるにちがいない」

といったとたん、どこからか轟音が鳴りだした。それは地響きとともに聞こえてきた。

三位房の笑いがとまった。

家屋の柱と梁がゆれだした。

伯耆房が日蓮をかばった。

みなが絶叫した。嵐だった。鎌倉を突風が襲った。

市場で笑っていた群衆が悲鳴をあげた。竜巻をともなう猛烈な風だった。彼らは売物小屋もろとも吹きとばされた。

大風は鎌倉の大小の神社、堂塔、民家を空に巻きあげ、地におとした。空に巨大な光り物が飛んだという。人々は牛馬とともに浮きあがり、地面にたたきつけられた。

北条時宗邸でも木戸や畳がゆれ、暴風がまきおこった。

時宗は荒れる風にむかって懸命に立っていた。

頼綱がかけよる。

「殿、早く避難を」

時宗が聞かずにいった。

「泰盛を呼べ」

泰盛がほうほうの体でやってきた。時宗はすぐさま命じた。

「祈祷をやめさせよ」

泰盛はなんのことかわからない。

時宗は必死だった。

「わからぬか。この風は法印のせいだ。祈祷をやめさせるのだ」

「さりながら、いましばらく猶予を」

時宗が鬼の形相になった。

「たわけ者。鎌倉中が吹き飛ばされるぞ」

泰盛があわてて出ていく。平頼綱が風をうけながら笑いをこらえた。

真言宗の開祖である善無畏、金剛智、不空の三人は、いずれも雨を祈って失敗している。祈禱のはじめは雨がふって天子を狂喜させたが、すぐさま暴風がおこり、かえって被害は甚大となってしまった。この暴風は祈祷のせいであるとして三人は所を追われている。

真言で祈ると悪風がおこる。日蓮は阿弥陀堂法印の事件を、三人の先達をあげ、きわめてユーモラスに記録している。

この三人の悪風は、漢土日本の一切の真言師の大風なり。さにてあるやらん。()ぬる文永十一年四月十二日の大風は、阿弥陀堂加賀法印、東寺第一の智者の雨のいのりに吹きたりし逆風なり。善無畏・金剛智・不空の悪法を、すこしもたがへず伝へたりけるか。心にくし、心にくし。  『報恩抄

翌朝、鎌倉は破壊された家屋でうまった。被害は鎌倉市街に集中した。

日蓮の真新しい屋形も無惨にかたむいていた。

弟子たちが散らばった木材をかたづける。

三位房と大進房が互いの肩をだいた。

「大丈夫か。よく助かったな」

「まったく。ひどい嵐だった」

大進房がまわりを見まわした。

「上人はどこだ」

旅姿の日蓮と弟子たちが鎌倉の街道を歩いていた。彼らは甲斐国へむかった。

通りすがりの人がふりむいた。

「あれは日蓮上人ではないか」

日蓮の一行が切り通しをすぎた。そして街を見おろす山の上に立った。

師弟が感慨深げに鎌倉を見おろす。

日蓮は北条時宗に見切りをつけた。この六年前、すでに記している。

主君を三度(いさ)むるに用ゐずば山林に交はれとこそ教へたれ  『聖愚問答抄下

国が危うい時、主君をいさめるのは臣下として当然である。いさめなければ不忠不孝となる。しかし三たび諫言しても用いられなければ、もはや諫言した者の罪ではない。喧騒を避けて静かな地で余生を送れとの意味であろう。この時代の賢人の常識だった。日蓮は六年前からこの信条を披露していた。

この処世術は孔子の言葉をあつめた「礼記」からきている。

人臣(にんしん)たるの礼、(あら)はには(いさ)めず、三たび諫めて聴かざれば、則ちこれを()る。   『曲礼下第二』

人の臣たる者の礼として、君のあやまちをあらわにはいさめない。(婉曲にいさめて)三度いさめても聞き入れられないときは地位をしりぞけという。

同じく孔子の「孝経」にも同じ意味の言葉がある。

三たび(いさ)めて()れずんば、身を(ほう)じて以て退(しりぞ)け。

 日蓮は鎌倉の地を離れる理由について、故事に習ったと弟子信徒に説いたが、心の奥底では自身滅後の遥か末法万年の未来を見据えていた。

 高層建築に着手する場合、最初に地下の岩盤、いわゆる支持層まで、建築物を支えるための杭を何本も打ち込んでいく。

 日蓮は未来の広宣流布のためにはその大事業を担う弟子・信徒の教化が必須であると考えていた。

 そのために草庵では弟子を直接指導し、日本各地に点在する信徒へは、連日のように信徒の問いに答える法門を記した消息を送り続けた。

 いわば妙法蓮華経の広宣流布の強固な基盤を作るため、末法の本仏の内証を弟子信徒の心中に打ち込んでいったのだ。

 ちなみに後世、御書と称されることになる日蓮の著作は、立宗宣言から佐渡流罪までは約百十編、佐渡流罪から身延入山までは約五十編、そして身延入山以降入滅するまで約三百三十編もの御書を残している。


鎌倉を離れて以後、日蓮は折伏の矢面に立つことはなくなった。かわりに弟子信徒に懸命の指導をおこなった。これからは弟子たちが表舞台にたつ番だと。

日蓮はこれまで東奔西走し、身の危険をいくどもさらした。はずかしめられ、おとされ、大難もうけたが悔いはない。経文どおりである。かえって胸中に深い充実をおぼえた。

国土世間でふるまうことはすべてやりとげたのだ。これを思えば満足だった。国主を三たびいさめた。用いられずに終ったが、自分の不明が理由なのではない。いつの世にも賢王と愚王の二種類がいる。時宗が賢王ではなかったということだ。

ならばこれ以上世間にいる必要はない。これが節度というものだ。王の都を去るべきだ。

日蓮はさせる(とが)あるべしとはをも()はねども、此の国のならひ、念仏者と禅宗と律宗と真言宗にすか()されぬるゆえ()に、法華経をば上には()うとむよしをふるまひ、心には入らざるゆへに、日蓮が法華経のいみじきよし申せば、威音(いおん)(のう)(ぶつ)の末の末法に、不軽菩薩をにく()みしごとく、上一人より下万民にいたるまで、名をも()かじ、まして形をみる事はをも()ひよらず。さればたとひ(とが)なくとも、かくなさるゝ上はゆるしがたし。ましていわ()うや日本国の人の父母よりも()もく、日月よりもたかく()のみたまへる念仏を無間(むけん)の業と申し、禅宗は天魔の所為、真言は亡国の邪法、念仏者・禅宗・律僧等が寺を()はら()ひ、念仏者どもが(くび)()ねらるべしと申す上、故最明寺(さいみょうじ)・極楽寺の両入()殿(注)を阿鼻(あび)地獄(じごく)()ち給ひたりと申すほどの大禍(だいか)ある身なり。此等程の大事を上下万人に申しつけられぬる上は、(たと)そら()()となりとも此の世にはうかびがたし。いかにいわ()うやこれはみな朝夕に申し、昼夜に談ぜしうへ()(へいの)()衛門(えもんの)(じょう等の数百人の奉行人に申しきかせ、いかに()がに行なはるとも申しやむまじきよし、したゝかに()()かせぬ。されば大海のそこ()ちび(千引)きの石はうかぶとも、天よりふる雨は地に()ちずとも、日蓮はかま( 鎌)くら( 倉)へは(かえ)るべからず。『光日房御書

 こうして日蓮は日本の権力の中枢、鎌倉をはなれた。そして二度と帰ることはなかった。

北条時宗がいらだっていた。

頼綱、泰盛ら幕府のおもだった面々が顔をあげられない。

「嵐の被害は」

「さいわい相模では鎌倉のみが損害をこうむりました。鎌倉の中でも被害が大きかったのは御所、若宮、極楽寺、建長寺。ごくかぎられております」

時宗がいきどおる。

「なんということだ。鎌倉を代表する伽藍ではないか。なぜこんなことになった。だれの責任だ」

頼綱が泰盛をにらむ。

「これはあきらかに阿弥陀堂法印に祈祷を命じたことによりますな」

泰盛は反論した。

「法印は蒙古退治の祈祷にもっともふさわしい法師でござる。わしは最善の選択をしたまでのこと」

沈黙がながれた。失敗につぐ失敗である。これで本番の蒙古にあたれるのか。

宿屋入道が発言した。

「殿、蒙古退治の祈祷のことでございますが、こうなった以上、再度日蓮殿に依頼されるのはいかがでございましょう。日本国にはもう、これといった高僧はございませぬ。不面目ではございますが、恥をしのんで、ふたたび日蓮殿をお迎えしてはいかがでございましょう」

頼綱が止める。

「それはどうかな。あれだけの条件をつけても蹴った男だ。そう簡単にはいくまい」

宿屋は思いきった。

「いかがでござろう。日蓮殿のいうとおり、幕府が法華経を信奉し、他宗を捨てるというのは」

場内がどよめくが、宿屋は冷静だった。

「蒙古に必勝しようとするならば、ここは日蓮殿に従わないわけにはいきますまい。あの法師にさからえば、かならず国に乱れが生じます。国の運不運をわける人物でござる。わが幕府がこぞって他宗をくじき、法華経の大義につけば、日蓮殿は帰ってこられましょう。いかが」

みな時宗に注目した。時宗は苦しそうだった。

「宿屋、残念だがそれはできぬ。日本国始まっていらい、仏法は麻のごとく宗派がわかれている。このわしとて禅宗の僧侶を養っている身だ。日蓮殿一人を立てれば混乱がおき、幕府に非難が集中しよう。宿屋入道、おぬしのいうことは正しいかもしれぬ。だがわしは執権なのだ。わかってくれ」

宿屋が憤然として頭をさげた。

これが時宗の限界だった。

彼は日蓮を用いて他宗を切ることはできなかった。理由はどうあれ、勇気がなかったのである。

現代の日本人は、北条時宗を蒙古に立ちむかった人物として評価している。しかしそれだけである。

ここでもし時宗が日蓮の諫言を聞きいれたなら、どうだったであろう。今とはちがう日本ができたかもしれない。

ちなみに時宗はこの十年後に死去する。わずか三十四歳であった。そして北条幕府は日蓮が鎌倉を去ったあと、わずか六十年たらずで滅亡した。一族の五百名が鎌倉の東勝寺で自決するという悲惨なものだった。

人間の運命というものはわからない。

時宗が一族と日本の未来を見とおせたならば、日蓮を師とする選択肢はあったはずである。

その昔、印度の阿闍世王は釈迦に帰依し、中国の陳隋の皇帝は天台を信奉した。そして日本の桓武天皇は伝教を支持された。いずれも名君として名をのこしている。

時宗が日蓮を用いたならば、彼の名は蒙古退治の勇者だけで終わることはなかったはずである。

消沈とする雰囲気の中、時宗が毅然として立った。

「みなの者、聞け。われらは武士だ。たとえ神仏の助けがなくとも、刀と弓矢で艱難をのりきってきたのだ。頼朝様が武家の世をひらいたのとおなじく、これからもわれら自身が新しい道をひらいてゆこうぞ」

場内に鬨の声があがったが、やぶれかぶれの感がある。

この時、注進がきて時宗に耳うちした。

時宗は一瞬青ざめた。やがて静かにきりだした。

「蒙古軍が動きだした」

場内がどよめく。

「蒙古の大軍が高麗に下っている。このままでいけば、年内にはまちがいなく攻めてくる」

場内に「ついにきたか」の声があがる。日蓮の予言はまたしても的中した。

時宗が立った。

「おのおの持ち場をかためよ。九州出兵を命じられた者は準備ととのい次第、すぐに出陣せよ。忘れるな。日本国を敵から守るのだ。この国土を(えびす)に踏ませるな。ここからが鎌倉武士の見せどころだ」

全員がいっせいに立ちあがった。騒然とした中、みな意気軒昂にでていく。

やがて静けさがおとずれた。

時宗は一人外にでて空をみた。


             五十八、日蓮、身延山中へ入る につづく


中巻目次



 最明寺・極楽寺の両入道

最明寺とは北条時頼、極楽寺は北条重時のこと。ともに日蓮が立正安国論を上呈した時、伊豆流罪を命じて迫害した。



by johsei1129 | 2017-07-22 18:13 | 小説 日蓮の生涯 中 | Trackback | Comments(0)
2017年 07月 22日

五十六、幕府を突きはなす

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                       日蓮大聖人御一代記 より 


 幕府側の全員が威儀ただしく頭をさげた。

平頼綱が場の筆頭として口をひらく。

「日蓮上人殿。よくぞまいられた。佐渡はさぞかし難儀でありましたな。わが幕府も、いささか行きすぎた所あってこのたびの赦免とはなりもうした。本日は幕府の面々をあつめ、上人の慰労をかねてお招きいたした次第。不行届きは許されよ」

意外である。

頼綱は日ごろの傲岸無礼には似つかず、礼儀正しく接している。日蓮はのちに「平左衛門尉は上の御使ひの様」としるした。それもそのはず、頼綱は主君時宗の意向を代表していた。

日蓮が答える。

佐渡の守護代、本間重連殿には大変世話になりもうした。いまとなっては幕府の御沙汰に、いささかの遺恨もございませぬ」

「それを聞いて安堵いたした。じつは蒙古の攻めがいよいよ迫っております。今年とも来年ともいわれておる。いずれにせよ日本にとってこれ以上の難儀はござらぬ。われらも日々憂慮しておるしだいです。ここは蒙古の来襲を見事的中された上人に、教えを請いたいことがございまする()

 日蓮は答える。

「某もこのたびの国難には心を痛めておりまする。さりながら災難のおこるゆえんは仏法の乱れよりおこることは、かつて故最明寺入道殿に献じた立正安国論のとおりである。誹謗正法の輩を戒めて、正法の僧侶を重んずれば、国中は安穏にして天下泰平となる。正法を誹謗する輩とは念仏・禅・律、そして真言の僧侶にほかならなぬ」

 聞きいる御家人は日蓮が真言をも批判したことに驚愕した。

北条光時が口を開く。彼は部下の四条金吾から日蓮の話をいやというほど聞いていた。しかし直接に会うのは初めてである。

「上人、念仏が無間地獄とは、まことでありましょうか」

「いかにも。念仏宗の開祖善導はこの世の苦しみをなげいて自ら首をくくって亡くなった。念仏をよくよく唱えれば自害の心がおきる。そなたらは殺生をいとわぬ武士である。成仏をあきらめて自害の心をおこす念仏を唱えてはなりませぬ」

つづいて北条宣時が聞く。佐渡の守護代、本間重連(しげつら)に偽りの詔勅を発した人物である

「日蓮殿、禅宗が天魔の所為であるとは、仏のどの経文にあるのか、うかがいたいのですが」

日蓮の口調はなめらかだった。

「涅槃経にいわく『法に()って人に依らざれ』。仏の経文をよりどころとし、人師の言葉にたよってはならないということです。(きょう)()別伝と称し経文は無用であるという禅宗は天魔の所為(しょい)です。いくら座禅を組もうと()移ろいやすいおのれの心にしたがっては道にまようばかりです。釈尊の経文をはなれて、どこに成仏の道がありましょう」

じっくり耳をそばだてて聞いていた頼綱は、あたかも感服したかのように、二度三度頭を下げうなずいた

「お見事でござる。では某も伺いたい。上人は法華経のみが成仏の法であるとおおせられる。くわえて上人は法華経以前の諸経は成仏できないとおおせとか。これまことなりや」

日蓮はやさしくこたえる。相手が悪人であっても、聞いてくる者にはていねいに接した。

法華経()()品第三云く『不受(ふじゅ)()(きょう)一偈(いちげ)乃至(ないし)()し人信ぜずして此の経を毀謗(きぼう)せば