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日蓮大聖人『御書』解説

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カテゴリ:四条金吾・日眼女( 37 )


2019年 11月 15日

日蓮は首題の五字を汝にさづく、法華経受持の者を守護せん、と説いた【法華経兵法事】

【四条金吾殿御返事(法華経兵法事)】
■出筆時期:弘安二年(西暦1279年)十月二十三日 五十八歳御作。
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:本書は、四条金吾が主君である江馬入道の御勘気が解け、さらに以前より領地を加増されたことを恨んだ者から大聖人が度々心配されていたとおり襲われる事態が起きたが、無事対処できたことを直ちに大聖人に報告され、そのことへの返書となっております。
大聖人は「日蓮は首題の五字(妙法蓮華経)を汝にさづく、法華経受持のものを守護せん事疑あるべからず」と記すとともに法華経法師功徳品を引いて、法華経を受持する者は諸天が必ず守護するので「ふかく信心をとり給へ、あへて臆病にては叶うべからず候」と諭されております。
■ご真筆: 現存していない。

[四条金吾殿御返事(法華経兵法事)本文]

 先度強敵ととりあひ(取合)について御文給いき委(くわし)く見まいらせ候、さても・さても・敵人にねらはれさせ給いしか。前前の用心といひ又けなげといひ、又法華経の信心つよき故に難なく存命せさせ給い目出たし目出たし。

 夫れ運きはまりぬれば兵法もいらず、果報つきぬれば所従もしたがはず、所詮運ものこり果報もひかゆる故なり。ことに法華経の行者をば諸天・善神・守護すべきよし、属累(ぞくるい)品にして誓状をたて給い、一切の守護神・諸天の中にも我等が眼に見へて守護し給うは、日月天なり、争か信をとらざるべき。ことに・ことに日天の前に摩利支天まします、日天・法華経の行者を守護し給はんに、所従の摩利支天尊すて給うべしや。

序品の時・名月天子・普光天子・宝光天子・四大天王・与其眷属(よごけんぞく)・万天子倶(まんてんじぐ)と列座し給ふ。まりし天は三万天子の内なるべし、もし内になくば地獄にこそおはしまさんずれ。

 今度の大事は此の天のまほりに非ずや、彼の天は剣形(けんぎょう)を貴辺にあたへ此(ここ)へ下(くだ)りぬ。此の日蓮は首題の五字を汝にさづく、法華経受持のものを守護せん事疑あるべからず。まりし天も法華経を持ちて一切衆生をたすけ給う。「臨兵闘者皆陣列在前(りんぴょうとうしゃ・かいじんれつざいぜん)」の文も法華経より出でたり、「若説俗間経書治世語言 資生業等 皆順正法」とは是なり。

 これに・つけても・いよいよ強盛に大信力をいだし給へ、我が運命つきて諸天守護なしとうらむる事あるべからず。
 将門は・つはものの名をとり兵法の大事をきはめたり、されども王命にはまけぬ、はんくわひ(樊噲)・ちやうりやう(張良)もよしなし・ただ心こそ大切なれ、いかに日蓮いのり申すとも不信ならばぬ(濡)れたる・ほくちに・火をうちかくるが・ごとくなるべし、はげみをなして強盛に信力をいだし給うべし。

 すぎし存命不思議とおもはせ給へ、なにの兵法よりも法華経の兵法をもちひ給うべし。「諸余怨敵・皆悉摧滅」の金言むなしかるべからず、兵法剣形の大事も此の妙法より出でたり、ふかく信心をとり給へ。あへて臆病にては叶うべからず候、恐恐謹言。

十月二十三日 日 蓮 花押
四条金吾殿御返事

【妙法蓮華経 法師功徳品第十九】
復次常精進 若善男子 善女人 如来滅後 受持是経
若読 若誦 若解説 若書写 得千二百意功徳
以是清浄意根 乃至聞一偈一句 通達無量無辺之義
解是義已 能演説一句一偈 至於一月四月 乃至一歳
諸所説法 随其義趣 皆与実相 不相違背
若説俗間経書 治世語言 資生業等 皆順正法

(和訳)
また次に常精進(菩薩)よ、もし善男子、善女人が如来の滅後、この経を受持し
一偈一句でも、若しは読み、誦じ、解説し、書写ずんば、千二百の意(こころ)の功徳を得る。
この清浄な意根をもって、(この経の)一偈一句を聞かんば、無量無辺の義を通達する。
この義を已に解し、一句一偈をも能く演説すること一月、四月、乃至一年に至らんに、
諸々説く所の法は、其の義趣に随して、皆、実相と相違背せず。
同様に、若し俗世(仏法以外)の間の経書、治世(政治に関する)の語言、資生(経済に関する)の業等を説いたとしても、皆正法(法華経)に順ずる。

by johsei1129 | 2019-11-15 21:51 | 四条金吾・日眼女 | Trackback | Comments(0)
2019年 11月 14日

能く此の経を説き、能く此の経を持つ人は、則ち如来の使なりと説いた【源遠長流御書】

【四条金吾殿御返事(源遠長流御書)】
■出筆時期:弘安二年(西暦1279年)九月十五日 五十八歳 御作。
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:本書は四条金吾が主君からの御勘気により所領を召し上げられたもかかわらず、法華経信仰を貫き再び所領を賜ったことについて大聖人は「此れ程の不思議は候はず此れ偏に陰徳あれば陽報ありとは此れなり」と讃えられておられる。
また熱原の法難で寝返った大進阿闍梨、三位房について、金吾が皆に問題がある弟子であることを話していた通り罰を受けたことについて「大進阿闍梨の死去の事、末代のぎば(耆婆)いかでか此れにすぐべきと皆人、舌をふり候なり。さにて候いけるやらん、三位房が事さう四郎が事、此の事は宛も符契符契と申しあひて候」と記し、金吾の洞察力が優れていることに感嘆されている。
さらに法華経法師品第十を引いて「凡夫にて候へども口に南無妙法蓮華経と申せば如来の使に似たり、過去を尋ぬれば不軽菩薩に似たり<中略>これをやしなはせ給う人人は豈浄土に同居するの人にあらずや」と記し、日蓮を供養し助けてくれる金吾とは、かならず浄土で同居つまり再び見えるであろうと金吾に慈愛の言葉をかけられておられる。
■ご真筆: 身延山久遠寺 曽存(明治8年の大火で消失)
[四条金吾殿御返事(源遠長流御書) 本文]

 
銭一貫文給いて頼基がまいらせ候とて法華経の御宝前に申し上げて候。定めて遠くは教主釈尊、並に多宝、十方の諸仏、近くは日月の宮殿にわたらせ給うも御照覧候ぬらん。さては人のよにすぐれんとするをば賢人、聖人とをぼしき人人も皆そねみ、ねたむ事に候。いわうや常の人をや。

 漢皇の王昭君をば三千のきさき(后)是をそねみ、帝釈の九十九億那由佗のきさきは橋尸迦(きょうしか)をねたむ。前(さき)の中書王をば、をの(小野)の宮の大臣(おとど)是をねたむ。北野の天神をば時平のおとど(大臣)是をざんそう(讒奏)して流し奉る。此等をもてをぼしめせ。入道殿の御内は広かりし内なれども、せばくならせ給いきうだち(公達)は多くわたらせ給う。内のとしごろ(年来)の人人、あまたわたらせ給へば、池の水すくなくなれば魚さわがしく、秋風立てば鳥こずえをあらそう様に候事に候へば、いくそばくぞ御内の人人そねみ候らんに、度度の仰せをかへし、よりよりの御心にたがはせ給へばいくそばくのざんげんこそ候らんに、度度の御所領をかへして今又所領給はらせ給うと云云。此れ程の不思議は候はず、此れ偏に陰徳あれば陽報ありとは此れなり。

 我が主に法華経を信じさせまいらせんと、をぼしめす御心のふかき故か。阿闍世王は仏の御怨(おんあだ)なりしが、耆婆大臣の御すすめによつて法華経を御信じありて代(よ)を持ち給う。妙荘厳王は二子(ふたりのみこ)の御すすめによつて邪見をひるがへし給う。此れ又しかるべし、貴辺の御すすめによつて今は御心もやわらがせ給いてや候らん、此れ偏に貴辺の法華経の御信心のふかき故なり。

 根ふかければ枝さかへ、源遠ければ流長しと申して、一切の経は根あさく流ちかく、法華経は根ふかく源とをし。末代・悪世までも、つきず・さかうべしと天台大師あそばし給へり。

 此の法門につきし人あまた候いしかども、をほやけ(公)わたくしの大難・度度重なり候いしかば、一年・二年こそつき候いしが、後後には皆或はをち、或はかへり矢をいる。或は身はをちねども心をち、或は心はをちねども身はをちぬ。

 釈迦仏は浄飯王の嫡子、一閻浮提を知行する事・八万四千二百一十の大王なり。一閻浮提の諸王・頭をかたぶけん上、御内に召しつかいし人十万億人なりしかども、十九の御年・浄飯王宮を出でさせ給いて檀特山に入りて十二年、其の間御とも(伴)の人五人なり。所謂拘鄰(くりん)と頞鞞(あび)と跋提(ばつだい)と十力迦葉と拘利(くり)太子となり。此の五人も六年と申せしに二人は去りぬ、残りの三人も後の六年にすて奉りて去んぬ。但一人残り給うてこそ仏にはならせ給いしか。法華経は又此れにもすぎて人信じがたかるべし、難信難解此れなり。又仏の在世よりも末法は大難かさなるべし。此れをこらへん行者は我が功徳には・すぐれたる事、一劫とこそ説かれて候へ。

 仏滅度後・二千二百三十余年になり候に、月氏一千余年が間・仏法を弘通せる人・伝記にのせて・かくれなし。漢土一千年・日本七百年・又目録にのせて候いしかども、仏のごとく大難に値える人人少し。我も聖人・我も賢人とは申せども、況滅度後の記文に値える人一人も候はず。竜樹菩薩・天台・伝教こそ仏法の大難に値える人人にては候へども、此等も仏説には及ぶ事なし。此れ即代(代)のあが(上)り法華経の時に生れ値はせ給はざる故なり。

 今は時すでに後五百歳・末法の始なり。日には五月十五日・月には八月十五夜に似たり。天台・伝教は先(さき)に生れ給へり、今より後は又のちぐへ(後悔)なり。大陣すでに破れぬ、余党は物のかずならず。今こそ仏の記しをき給いし後五百歳・末法の初・況滅度後の時に当りて候へば、仏語むなしからずば一閻浮提の内に定めて聖人出現して候らん。聖人の出ずるしるしには一閻浮提第一の合戦をこるべしと説かれて候に、すでに合戦も起りて候にすでに聖人や一閻浮提の内に出でさせ給いて候らん。きりん(麒麟)出でしかば孔子を聖人としる、鯉社な(鳴)つて聖人出で給う事疑なし。仏には栴檀の木を(生)ひて聖人としる。老子は二五の文を蹈(ふ)んで聖人としる。

 末代の法華経の聖人をば何を用つてかしるべき。経に云く「能説此経・能持此経の人・則如来の使なり」八巻・一巻・一品・一偈の人乃至題目を唱うる人・如来の使なり。始中終すてずして大難を・とをす人・如来の使なり。
 
日蓮が心は全く如来の使にはあらず、凡夫なる故なり。但し三類の大怨敵にあだまれて二度の流難に値へば如来の御使に似たり。心は三毒ふかく一身凡夫にて候へども、口に南無妙法蓮華経と申せば如来の使に似たり。過去を尋ぬれば不軽菩薩に似たり。現在を・とぶらうに加刀杖瓦石(かとうじょうがしゃく)にたがう事なし。未来は当詣道場疑いなからんか。これをやしな(養)はせ給う人人は、豈浄土に同居するの人にあらずや。事多しと申せどもとどめ候心をもて計らせ給うべし。

 ちごのそらう(所労)よくなりたり悦び候ぞ。又大進阿闍梨の死去の事、末代のぎば(耆婆)いかでか此れにすぐべきと皆人、舌をふり候なり。さにて候いけるやらん、三位房が事さう四郎が事、此の事は宛(あたか)も符契符契と申しあひて候。日蓮が死生をばまかせまいらせて候。全く他のくすしをば用いまじく候なり。

九月十五日                 日 蓮 花押
四条金吾殿


【妙法蓮華経 法師品第十】

我滅度後。能窃為一人。説法華経。乃至一句。当知是人。
則如来使。如来所遣。行如来事。何況於大衆中。広為人説。
(和訳)
我滅度の後、よく窃(ひそ)かに一人の為に、法華経の一句でも説けば、この人は即ち如来の使いにして、如来に遣わされ、如来の事(仕事)を行ずる人である。まして大衆の中において広く説くとするなら、尚更である。

by johsei1129 | 2019-11-14 20:28 | 四条金吾・日眼女 | Trackback | Comments(0)
2019年 11月 12日

「陰徳あれば陽報あり」と、四条金吾の生活指導をなされた書【四条金吾殿御返事】

【四条金吾殿御返事(不孝御書)】
■出筆時期:弘安二年(1279年)四月二十三日 五十八歳御作
■出筆場所:身延山中の草庵にて。
■出筆の経緯:本抄は従来「不孝御書」と「陰徳陽報御書」とに分かれていましたが、不幸御書が陰徳陽報御書の前半部分であることが判明、「四条金吾殿御返事」としてまとめられました。尚、全体で12紙のご消息であったと思われますが、第1紙~第9紙の所在は不明です。
本抄は、主君の江間氏からの御勘気を前年に解かれ、所領も再び賜った四条金吾に対し、大聖人がまるで我が子のように「陰徳あれば陽報あり」との古来の格言を引用し、今後の対処について、兄弟・女性達・主君それぞに分けて細々と指導されておられます。

四条金吾は本抄の他、いくつもの消息を大聖人から送られ、法華経信仰への指導と合わせて普段の生活についても指導も受けられておられます。その甲斐もあり、四条金吾は本抄を送られた半年後の十月に、めでたく江馬氏より所領を加増されておられます。
■ご真筆:京都市妙覚寺(第10紙)、京都市妙顕寺(第11.12紙)各所蔵。
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[御真筆第10紙本文:下記緑字箇所]

[四条金吾殿御返事(不孝御書) 本文]

 なによりも人には不孝が、をそ(恐)ろしき事に候ぞ。との(殿)ゝあに(兄)をとゝ(弟)は、われと法華経のかたきになりて、とのをはな(離)れぬれば、かれこそ不孝のもの、とのゝみ(身)にはとがなし。をうなるい(女類)どもこそ、とのゝはぐく(育)み給はずば、一定(いちじょう)不孝にならせ給はんずらんとをぼへ候。

所領もひろくなりて候わば、我がりゃう(領)えも下しなんどして、一身すぐるほどはぐくませ給へ。さだにも候わば過去の父母定んでまぼ(守)り給ふべし。
 
 日蓮がきせい(祈請)も
いよいよ、かない(叶)候べし。いかにわるくとも、きかぬやうにてをはすべし。この事をみ(見)候に申すやうに、だにもふ(触)れまわせ給ふならば、なをなをも所領もかさ(重)なり、人のをぼへもいできたり候べしとをぼへ候。

さきざき申し候ひしやうに、陰徳あれば陽報ありと申して、皆人は主にうたへ、主もいかんぞをぼせしかども、わどの(金吾殿)の正直の心に主の後生をたすけたてまつらむとをもう心がうじゃう(強盛)にして、すねん(数年)をすぐれば、かかるりしゃう(利生)にもあづからせ給ふぞかし。此は物のはしなり。大果報は又来たるべしとをぼしめせ。
 
 又此の法門の一門いかなる本意なき事ありとも、みず、きかず、いわずしてむつばせ給へ。大人にいのりなしまいらせ候べし。上に申す事は私の事にはあらず。外典三千、内典五千の肝心の心をぬきてかきて候。あなかしこあなかしこ。恐々謹言。

卯月二十三日 日蓮花押
御返事





by johsei1129 | 2019-11-12 21:35 | 四条金吾・日眼女 | Trackback | Comments(0)
2019年 11月 12日

女人は一代五千・七千余巻の経経に仏にならずと嫌われまします、但法華経ばかりに女人仏になると説かれて候、と説いた【日眼女造立釈迦仏供養事】

【日眼女造立釈迦仏供養事】
■出筆時期:弘安二年(1271年)二月二日 五十八歳御作。
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:本抄は四条金吾の妻日眼女が三十七歳の厄年にあたり一体三寸の釈尊の木像を造立しその開眼を願いで銭三貫を供養されたことへの返書となっておられます。大聖人は夫の四条金吾が父母の追善供養のため釈尊の木像を造立した時も開眼供養されておられます。※参照:【四条金吾釈迦仏供養事】

この釈尊の木像は一体三寸と記されておられるように高さが9cm程の小さいもので、信仰の対象としての本尊ではなく、大聖人が冒頭で記されておられるように、あくまで普段肌身離さず身に付けるお守りの意味であると拝されます。
大聖人も伊豆流罪の時、重病に苦しんでいた地頭伊東八郎の願いで病気平癒の祈念し、無事回復したお礼として漁師が海中から引き上げた釈迦仏像を供養され、生涯身につけておられました。※参照:【船守弥三郎殿許御書】

大石寺二十六世の日寛上人は大聖人が信徒の釈迦仏造立を許された理由について『末法相応抄・下』 で次のように説かれておられます。
「今謹んで案じて曰わく、本尊に非ずと雖も而も之を称歎す。略して三意有り。一には猶是れ一宗弘通の初めなり是の故に用捨時宜に随うか。二には日本国中一同に阿弥陀仏を以て本尊と為す、然るに彼の人々適(たまたま)釈尊を造立す豈称歎せざらんや。三には吾が祖の観見の前には一体仏の当体全く是れ一念三千即自受用の本仏の故なり。学者宜(よろしく)善く之を思うべし」
■ご真筆:身延久遠寺に存在したが明治八年の大火で焼失。

[日眼女造立釈迦仏供養事 本文]

御守書てまいらせ候、三界の主(あるじ)教主釈尊一体三寸の木像造立の檀那日眼女・御供養の御布施前に二貫今一貫云云。

法華経の寿量品に云く「或は己身を説き或は他身を説く」等云云、東方の善徳仏・中央の大日如来・十方の諸仏・過去の七仏・三世の諸仏・上行菩薩等・文殊師利・舎利弗等・大梵天王・第六天の魔王・釈提桓因(しゃくだいかんにん)王・日天・月天・明星天・北斗七星・二十八宿・五星・七星・八万四千の無量の諸星・阿修羅王・天神・地神・山神・海神・宅神・里神・一切世間の国国の主とある人何れか教主釈尊ならざる・天照太神・八幡大菩薩も其の本地は教主釈尊なり。

例せば釈尊は天の一月・諸仏・菩薩等は万水に浮べる影なり、釈尊一体を造立する人は十方世界の諸仏を作り奉る人なり、譬えば頭をふればかみ(髪)ゆるぐ心はたらけば身うごく、大風吹けば草木しづかならず・大地うごけば大海さはがし、教主釈尊をうごかし奉れば・ゆるがぬ草木やあるべき・さわがぬ水やあるべき。

今の日眼女は三十七のやくと云云、やくと申すは譬えばさい(賽)にはかど(廉)、ます(升)にはすみ(角)、人にはつぎふし(関節)、方には四維(よすみ)の如し、風は方よりふけばよはく・角より吹けばつよし・病は肉より起れば治しやすし節(ふし)より起れば治しがたし、家にはかき(垣)なければ盗人いる・人には・とがあれば敵便(たより)をうく、やくと申すはふしぶしの如し、家にかきなく人に科あるがごとし、よ(吉)きひやうし(兵士)を以てまほらすれば盗人をからめとる、ふしの病をかぬて治すれば命ながし。

今教主釈尊を造立し奉れば下女が太子をうめるが如し国王・尚此の女を敬ひ給ふ何に況や大臣已下をや、大梵天王・釈提桓因王・日月等・此の女人を守り給ふ況や大小の神祇をや、昔優填(うでん)大王・釈迦仏を造立し奉りしかば大梵天王・日月等・木像を礼しに参り給いしかば木像説いて云く「我を供養せんよりは優填大王を供養すべし」等云云、影堅(ようげん)王の画像の釈尊を書き奉りしも又又是くの如し、法華経に云く「若し人仏の為の故に諸の形像(ぎょうぞう)を建立す是くの如き諸人等皆已に仏道を成じき」云云、文の心は一切の女人釈迦仏を造り奉れば現在には日日・月月の大小の難を払ひ後生には必ず仏になるべしと申す文なり。

抑(そもそも)女人は一代五千・七千余巻の経経に仏にならずと・きらはれまします、但法華経ばかりに女人・仏になると説かれて候、天台智者大師の釈に云く「女に記せず」等云云、釈の心は一切経には女人仏にならずと云云、次下に云く「今経は皆記す」と云云、今の法華経にこそ竜女仏になれりと云云、天台智者大師と申せし人は仏滅度の後一千五百年に漢土と申す国に出でさせ給いて一切経を十五返まで御覧あそばして候いしが法華経より外の経には女人仏にならずと云云、妙楽大師と申せし人の釈に云く「一代に絶えたる所なり」等云云、釈の心は一切経にたえたる法門なり、法華経と申すは星の中の月ぞかし人の中の王ぞかし山の中の須弥山・水の中の大海の如し、是れ程いみじき御経に女人仏になると説かれぬれば一切経に嫌はれたるに・なにか・くるしかるべき、譬えば盗人・夜打・強盗・乞食・渇体(かったい)にきらはれたらんと国の大王に讃(ほめ)られたらんと何れかうれしかるべき、日本国と申すは女人の国と申す国なり、天照太神と申せし女神(めがみ)のつきいだし給える島なり。

此の日本には男十九億九万四千八百二十八人・女は二十九億九万四千八百三十人なり、此の男女は皆念仏者にて候ぞ皆念仏なるが故に阿弥陀仏を本尊とす現世の祈りも又是くの如し、設い釈迦仏をつくりかけども阿弥陀仏の浄土へゆかんと思いて本意の様には思い候はぬぞ、中中つくりかかぬには・をとり候なり。

今日眼女は今生の祈りのやうなれども教主釈尊をつくりまいらせ給い候へば後生も疑なし、二十九億九万四千八百三十人の女人の中の第一なりとおぼしめすべし、委くは又又申すべく候、恐恐謹言。

弘安二年己卯二月二日  日 蓮 花 押
日眼女御返事

【妙法蓮華経 方便品第二】

 乃至童子戲 聚沙為仏塔 如是諸人等 皆已成仏道
 若人為仏故 建立諸形像 刻彫成衆相 皆已成仏道
  <中略>
若人散乱心 入於塔廟中 一称南無仏 皆已成仏道
[和訳]

 乃至童子が戲に、砂で仏塔を為しても、是如き人は、皆已に仏道を成ずる。
 もし人、仏のために形像を建立し仏の衆相を彫刻し成せば、皆已に仏道を成ずる。
<中略>
 たとえ取り乱した心であっても、塔廟の中で一度南無仏と唱えれば皆已に仏道を成ずる。





by johsei1129 | 2019-11-12 07:25 | 四条金吾・日眼女 | Trackback | Comments(0)
2019年 11月 10日

法華経はよきつるぎなれども使う人によりて物をきり候か、と説いた【石虎将軍御書】

【四条金吾殿御返事(石虎将軍御書)】
■出筆時期:弘安元年(1278)十月二十二日 五十七歳御作
■出筆場所:身延山中 草案にて。
■出筆の経緯:本書は四条金吾が身延の草庵に見参し、病状の大聖人を見舞った後に送られたご消息文です。                                            
 この時金吾は一年半前に蒙った主君江間氏の御勘気が解け、所領も再度賜るなど一時の苦境を乗り越えていた。
大聖人はこのことについて、江間氏の同僚の家来たちが金吾を妬み、亡き者にしようと金吾を狙うことを、わが子のように心配されている。
その思いは、金吾が身延の草庵から鎌倉に無事帰ったか、身延に来る人ごとに金吾の安否を尋ねたことを記した本書でもよく伺える。
当時の僧侶の習いで生涯独り身を貫いた大聖人にとって、弟子、信徒に対しては厳しい師匠でもあり、一面では我が子同然の慈愛を持っていたことがよくわかる御書となっている。             
                                
■ご真筆: 現存していない。

[四条金吾殿御返事(石虎将軍御書) 本文]

今月二十二日・信濃より贈られ候いし物の日記・銭三貫文・白米能米俵一(ひとつ)・餅五十枚・酒大筒一・小筒一・串柿五把・柘榴十。
 夫れ王は民を食とし民は王を食とす衣は寒温をふせぎ食は身命をたすく、譬ば油の火を継ぎ水の魚を助くるが如し。鳥は人の害せん事を恐れて木末(こずえ)に巣くふ、然れども食のために地にを(下)りてわな(羂)にかかる。魚は淵(ふち)の底に住みて浅き事を悲しみて穴を水の底に掘りてすめども、餌(え)にばかされて鉤(はり)をのむ。

 飲食と衣薬とに過ぎたる人の宝や候べき。而るに日蓮は他人にことなる上、山林の栖・就中(なかんずく)今年は疫癘飢渇(えきれい・けかち)に春夏は過越(すご)し秋冬は又前にも過ぎたり。
又身に当りて所労大事になりて候つるを、かたがたの御薬と申し小袖、彼のしなじなの御治法にやうやう験(しる)し候て今所労平愈し、本よりもいさぎよくなりて候。

弥勒菩薩の瑜伽論、竜樹菩薩の大論を見候へば、定業の者は薬変じて毒となる。法華経は毒変じて薬となると見えて候。
日蓮不肖の身に法華経を弘めんとし候へば、天魔競ひて食をうばはんとするかと思いて歎かず候いつるに、今度の命たすかり候は偏に釈迦仏の貴辺の身に入り替らせ給いて御たすけ候か。

是はさてをきぬ、今度の御返りは神(たましい)を失いて歎き候いつるに、事故なく鎌倉に御帰り候事悦びいくそばくぞ。余りの覚束(おぼつか)なさに鎌倉より来る者ごとに問い候いつれば、或人は湯本にて行き合せ給うと云い、或人はこうづ(国府津)にと或人は鎌倉にと申し候いしにこそ心落居(おちい)て候へ。是より後はおぼろげならずば御渡りあるべからず。大事の御事候はば御使にて承わり候べし。返す返す今度の道はあまりにおぼつかなく候いつるなり。

敵と申す者はわす(忘)れさせてねら(狙)ふものなり。是より後に若(もし)やの御旅には御馬をおしましませ給ふべからず。よき馬にのらせ給へ。又供の者ども、せん(詮)にあひぬべからんもの又どうまろ(胴丸)もちあげぬべからん・御馬にのり給うべし。

 摩訶止観第八に云く、弘決(ぐけつ)第八に云く「必ず心の固きに仮つて神の守り則ち強し」云云。神の護ると申すも人の心つよきによるとみえて候。法華経はよきつるぎ(剣)なれども、つかう人によりて物をきり候か。
 されば末法に此の経をひろめん人人、舎利弗と迦葉と観音と妙音と文殊と薬王と此等程の人やは候べき。二乗は見思を断じて六道を出でて候、菩薩は四十一品の無明を断じて十四夜の月の如し。
然れども此等の人人にはゆづり給はずして地涌の菩薩に譲り給へり。されば能く能く心をきた(鍛)はせ給うにや。
李広将軍と申せしつはものは虎に母を食(くわ)れて虎に似たる石を射しかば其の矢羽(や・はね)ぶくらまでせめぬ。後に石と見ては立つ事なし。後には石虎将軍と申しき。
貴辺も又かくのごとく、敵はねらふらめども法華経の御信心強盛なれば大難もかねて消え候か。是につけても能く能く御信心あるべし、委く紙には尽しがたし、恐恐謹言。

弘安元年戊寅後十月二十二日                   日 蓮 花押
四条左衛門殿御返事

by johsei1129 | 2019-11-10 09:41 | 四条金吾・日眼女 | Trackback | Comments(0)
2019年 11月 09日

いかなる大科ありとも法華経をそむかせ給はず候いし<略>仏にならせ給うべしと説いた【四条金吾殿御返事】

【四条金吾殿御返事(所領書)】
■出筆時期:弘安元年(1278年)十月 五十七歳御作
■出筆場所:身延山中の草庵にて。
■出筆の経緯:四条金吾はこの年の一月頃、主君江馬氏から御勘気を解かれ、さらに十月に入り所領を再び賜ることができたと大聖人に見参し報告したことへの返書となっております。金吾は与えられた所領が、以前与えられた所領ではなく佐渡の辺鄙な場所であったことに不満を感じ愚痴を述べたようです。

それに対し大聖人は「よくよく其の処をしりて候が申し候は・三箇郷の内に・いかだと申すは第一の処なり。田畠はすくなく候へども・とく(徳)ははかりなしと申し候ぞ」と、わざわざ人づてに調べて徳はかなりある所領であると金吾をなだめておられます。さらに「よきところと申し給はば又かさねて給はらせ給うべし。わろき処・徳分なしなむど候はば天にも人にも・すてられ給い候はむずるに候ぞ、御心へあるべし」と記し、主君の計らいであるから、不満を言わないで良い所であると申しておれば更に所領の加増もあるであろうと諭されておられます。実際に大聖人の本書の指導通り、その後金吾は本来の所領も再度賜っておられます。

更に竜の口の法難の時、四条金吾が大聖人が乗った馬の口にとりつき相模依智までお供をしたことを称え「日蓮が御勘気をかほりし時・馬の口にとりつきて鎌倉を出でてさがみのえちに御ともありしが、一閻浮提第一の法華経の御かたうどにて有りしかば<中略>法華経はいのりとはなり候いけるぞ。あなかしこ、あなかしこ、いよいよ道心堅固にして今度・仏になり給へ」と、金吾を励まされておられます。これら大聖人の金吾に対する思いは、単に一人の信徒に対するものを超えた我が子に対する慈愛そのものであり、仏とは人間を超越した存在というより最も人間らしい存在であると感じざる得ません。
■ご真筆:現存しておりません。
[四条金吾殿御返事(所領書) 本文]

鵞目一貫文給い候い畢んぬ、御所領・上(かみ)より給わらせ給いて候なる事まこととも覚へず候、夢かとあまりに不思議に覚へ候。

御返事なんどもいかやうに申すべしとも覚へず候、其の故はとのの御身は日蓮が法門の御ゆへに日本国・並にかまくら中(じゅう)御内の人人きうだち(公達)までうけず・ふしぎにをもはれて候へば其の御内にをはせむだにも不思議に候に御恩をかうほらせ給へば・うちかへし・又うちかへしせさせ給へばいかばかり同れいどもも・ふしぎとをもひ・上(かみ)もあまりなりとをぼすらむ。

さればこのたびは・いかんが有るべかるらんと・うたがひ思い候つる上、御内の数十人の人人うつた(訴)へて候へばさればこそいかにも・かなひがたかるべし。あまりなる事なりと疑候いつる上・兄弟にもすてられてをはするに・かかる御をん(恩)面目申すばかりなし。

かの処は・とのをか(殿岡)の三倍とあそばして候上さどの国のものの・これに候がよくよく其の処をしりて候が申し候は・三箇郷の内に・いかだと申すは第一の処なり。田畠はすくなく候へども・とく(徳)ははか(量)りなしと申し候ぞ、二所はみねんぐ千貫・一所は三百貫と云云、かかる処なりと承はる、なにとなくとも・どうれい(同隷)といひ・したしき人人と申しす(捨)てはてられて・わらひよろこびつるにとのをかに・をとりて候処なりとも御下し文(ぶみ)は給(たび)たく候つるぞかしまして三倍の処なりと候。いかにわろくとも・わろきよし人にも又上(かみ)へも申させ給うべからず候、よきところ・よきところと申し給はば又かさねて給はらせ給うべし。わろき処・徳分なしなむど候はば天にも人にも・すてられ給い候はむずるに候ぞ、御心へあるべし。

阿闍世王は賢人なりしが父を・ころせしかば即時に天にも・すてられ大地も・やぶれて入りぬべかりしかども・殺されし父の王・一日に五百りやう五百りやう(輌)数年が間・仏を供養しまいらせたりし功徳と後に法華経の檀那となるべき功徳によりて天もすてがたし地もわれず・ついに地獄にをちずして仏になり給いき、とのも又かくのごとし・兄弟にもすてられ同れいにも・あだまれ・きうだちにもそば(窄)められ日本国の人にも・にくまれ給いつれども、去ぬる文永八年の九月十二日の子丑の時・日蓮が御勘気をかほりし時・馬の口にとりつきて鎌倉を出でてさがみのえち(依智)に御ともありしが、一閻浮提第一の法華経の御かたうどにて有りしかば梵天・帝釈もすてかねさせ給へるか、仏にならせ給はん事も・かくのごとし。

いかなる大科ありとも法華経をそむかせ給はず候いし、御ともの御ほうこう(奉公)にて仏にならせ給うべし、例せば有徳国王の覚徳比丘の命(いのち)にかはりて釈迦仏とならせ給いしがごとし、法華経はいのり(祈)とはなり候いけるぞ。あなかしこ・あなかしこ、いよいよ道心堅固にして今度・仏になり給へ
御一門の御房たち又俗人等にも・かかるうれしき事候はず、かう申せば今生のよく(欲)とをぼすか、それも凡夫にて候へば・さも候べき上(うえ)慾をも・はなれずして仏になり候ける道の候けるぞ。

普賢経に法華経の肝心を説きて候「煩悩を断ぜず五欲を離れず」等云云、天台大師の摩訶止観に云く「煩悩即菩提・生死即涅槃」等云云、竜樹菩薩の大論に法華経の一代にすぐれて・いみじきやうを釈して云く「譬えば大薬師の能く毒を変じて薬と為すが如し」等云云、「小薬師は薬(くすり)を以て病(やまい)を治す大医は大毒をもつて大重病を治す」等云云。

弘安元戊寅年十月 日    日 蓮 花押
四条金吾殿御返事

by johsei1129 | 2019-11-09 22:16 | 四条金吾・日眼女 | Trackback | Comments(0)
2019年 11月 08日

心の病所謂三毒乃至八万四千の病なり、仏に有らざれば<略>治しがたしと説いた【中務左衛門尉殿御返事】

【中務左衛門尉殿御返事(二病抄)】
■出筆時期:弘安元年(西暦1278年)六月二十六日 五十七歳 御作。
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:本抄は中務左衛門尉殿つまり四条金吾に当てられたご消息文です。大聖人は医療の心得のある金後に対し「夫れ人に二病あり」と記し、身の病は「方薬をもつて此れを治す」ことができるが、「心の病所謂(いわゆる)三毒は、仏に有らざれば二天・三仙も治しがたし」と記すとともに、法華経譬喩品を引いて、法華経を毀謗する者の病の重さを示しております。文末では、自身の下り腹が「貴辺の良薬を服してより已来日日月月に減じて今百分の一となれり」と喜ばれると共に、金吾の薬は「教主釈尊の入りかわり・まいらせて日蓮をたすけ給うか」と強く称えられております。
■ご真筆:京都市 立本寺 所蔵。
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[第四紙/六紙]


[中務左衛門尉殿御返事(二病抄) 本文]

 夫れ人に二病あり。一には身の病所謂地大百一・水大百一・火大百一・風大百一・已上四百四病。

 此の病は治水・流水・耆婆・偏鵲(へんじゃく)等の方薬をもつて此れを治す。二には心の病所謂三毒・乃至八万四千の病なり。仏に有らざれば二天・三仙も治しがたし、何に況や神農黄帝の力及ぶべしや。又心の病に重重の浅深分れたり、六道の凡夫の三毒・八万四千の心の病をば、小乗の三蔵・倶舎・成実・律宗の仏此れを治す。
大乗の華厳・般若・大日経等の経経をそしりて起る三毒八万の病をば、小乗をもつて此れを治すればかへりては増長すれども平愈(へいゆ)全くなし、大乗をもつて此れを治すべし。

 又諸大乗経の行者の法華経を背きて起る三毒・八万の病をば、華厳・般若・大日経・真言三論等をもつて此れを治すれば、いよいよ増長す。譬へば木石等より出でたる火は水をもつて消しやすし、水より起る火は水をかくればいよいよ熾盛(さかん)に炎上りて高くあがる。

 今の日本国去(こぞ)今年の疫病は、四百四病にあらざれば華陀偏鵲(かだ・へんじゃく)が治も及ばず、小乗権大乗の八万四千の病にもあらざれば諸宗の人人のいのりも叶はず、かへりて増長するか。設い今年はとどまるとも、年年に止(やみ)がたからむか。いかにも最後に大事出来して後定まる事も候はんずらむ。

 法華経(譬喩品第三)に云く「若し医道を修して方に順つて病を治せば更に他の疾を増し或は復(また)死を至さん而も復増劇せん」
涅槃経に云く「爾の時に王舎大城の阿闍世王○偏体に瘡(かさ)を生じ乃至是くの如き創(きず)は心に従(より)て生ず、四大より起るに非ず、若し衆生能く治する者有りと言はば是の処(ことわり)有ること無けん」云云。

 妙楽の云く「智人は起を知り・蛇は自ら蛇を識る」云云。此の疫病は阿闍世王の瘡(かさ)の如し、彼の仏に非ずんば治し難し此の法華に非ずんば除き難し。

 将又日蓮下痢(くだりはら)去年(こぞ)十二月卅日事起り、今年六月三日四日日日に度'ど)をまし月月に倍増す。定業かと存ずる処に貴辺の良薬を服してより已来(このかた)日日月月に減じて今百分の一となれり、しらず教主釈尊の入りかわりまいらせて日蓮をたすけ給うか。地涌の菩薩の妙法蓮華経の良薬をさづけ給えるかと疑い候なり。くはしくは筑後房(日郎)申すべく候。

 又追つて申す、きくせん(貴方の使者)は今月二十五日戌の時来りて候、種種の物かず(算)へつくしがたし。ときどののかたびらの申し給わるべし。又女房の御ををち(祖父)の御事なげき入つて候よし申し給ふべし、恐恐。

六月廿六日      日 蓮 花 押

中務左衛門尉殿御返事


【妙法蓮華経 譬喩品第三】
又舎利弗 驕慢懈怠 計我見者 莫説此経
 凡夫浅識 深著五欲 聞不能解 亦勿為説 
 若人不信 毀謗此経 則断一切 世間仏種
<中略>
若修医道 順方治病 更増佗疾 或復致死
 若自有病 無人救療 設服良薬 而復増

(和訳) 
 また舎利弗よ、驕慢(おごり)、懈怠(けたい)にして我見を計する者には、この経(法華経)を説くことなかれ。
 愚かで浅はかな者も五欲に執著するため、この経を聞くとも解すること能わざれば、亦、説くことなかれ。
 若し人この経を信ぜずに毀謗すれば、則ち一切の世間の仏種(仏になる因)を断ずる。
 <中略>
(此経を毀謗し仏種を断じた人が)若し医道を修め、正しい方法で病を治すとも、更に他の病を増し、或いは死に至る。
 若し自ら病になっても、救療する人もなく、たとえ良薬を服しても、復痛みを増す。

by johsei1129 | 2019-11-08 22:28 | 四条金吾・日眼女 | Trackback | Comments(0)
2019年 11月 07日

願くは法華経のゆへに国主にあだまれて今度生死をはなれ候わばやと説いた【檀越某御返事】

【檀越某御返事(だんおつぼうごへんじ)】
■出筆時期:弘安元年(西暦1278年) 五十七歳御作
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:本御書は四条金吾に当てられた書と思われます。既に伊豆・佐渡と、二度の遠島への流罪を受けている大聖人に、鎌倉幕府によりさらに三度目の流罪の動きがある事を金吾が報告した手紙に対しての返書と思われます。
本書で大聖人は、身を鬼に投げ出して仏の教えを求めた雪山童子、また杖や枝、瓦石をもって迫害された不軽菩薩に自身を儗らへ「願くは法華経のゆへに国主にあだまれて今度・生死をはなれ候わばや」と、どんな策謀にも泰然とした末法の本仏としての無作の三身としての生き様を示すとともに、「御みやづかいを法華経とをぼしめせ、一切世間の治生産業は皆実相と相違背せず」と説き、噂など気にしないで普段の仕事に励むよう金吾を諭されおられます。
■ご真筆: 中山法華経寺所蔵(重要文化財)。
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[真筆部分:本文緑字の箇所]


[檀越某御返事 本文]

 御文(ふみ)うけ給わり候い了んぬ。日蓮流罪して先先(さきざき)にわざわいども重て候に、又なにと申す事か候べきとはをもへども、人のそん(損)ぜんとし候には不可思議の事の候へば、さが(兆)候はんずらむ。

 もしその義候わば用いて候はんには百千万億倍のさいわいなり。今度ぞ三度になり候。法華経も、よも日蓮を・ゆるき行者とはをぼせじ。

 釈迦・多宝・十方の諸仏・地涌千界の御利生、今度みはて(見果)候はん。あわれ・あわれ・さる事の候へかし。雪山童子の跡ををひ、不軽菩薩の身になり候はん。いたづらに・やくびやう(疫病)にや・をかされ候はんずらむ、をいじに(老死)にや死に候はんずらむ、あらあさましあさまし。

 願くは法華経のゆへに国主に
あだまれて、今度・生死をはなれ候わばや。天照太神・正八幡・日月・帝釈・梵天等の仏前の御ちかい今度心み候わばや。事事さてをき候いぬ。各各の御身の事は此れより申しはからうべ。、さでをはするこそ法華経を十二時に行ぜさせ給うにては候らめ。あなかしこあなかしこ。

 御みやづかい(士官)を法華経とをぼしめせ、「一切世間の治生産業は皆実相と相違背せず」とは此れなり。かへす、がへす御文の心こそ、をもいやられ候へ、恐恐謹言。

四月十一日     日 蓮 花 押





by johsei1129 | 2019-11-07 06:54 | 四条金吾・日眼女 | Trackback | Comments(0)
2019年 11月 04日

海にあらざればわかめなし<略>法華経にあらざれば仏になる道なかりける、と説いた【四条金吾殿御書】

【四条金吾殿御書(九思一言事)】
■出筆時期:建治四年(西暦1278)一月二十五日 五十七歳御作。
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:本書は四条金吾が前年の6月23日、主君江間氏よりご勘気を蒙り所領を取り上げられ家来の身分を失っていたが、主君の病を献身的に看病したこともあり、半年後にご勘気が解かれる。大聖人はそのことを金吾から聞くとともに、弟子の円教房から江間氏の息子江間四郎の御共の武士の中で金吾殿が一番であるとが鎌倉中の評判であることを聞き、「法華経の御力にあらずや」と喜ぶとともに、今後は同僚の恨みをかうこともあるだろうから十分日頃の行動に注意するよう細々と指示している。この書は弟子の安否を深く気遣う、人間日蓮の一面を垣間見ることができる貴重なご消息文となっている。
■ご真筆: 現存していない。

[四条金吾殿御書(九思一言事)]

鷹取のたけ(嶽)・身延のたけ・なないた(七面)がれのたけ・いいだに(飯谷)と申し、木のもと・かや(萱)のね(根)・いわ(嶽)の上・土の上いかにたづね候へども・を(生)ひて候ところなし、されば海にあらざれば・わかめなし・山にあらざれば・くさびら(茸)なし、法華経にあらざれば仏になる道なかりけるか

 これは・さてをき候いぬ、なによりも承りて・すず(爽)しく候事は・いくばくの御にくまれの人の御出仕に人かずに・め(召)しぐ(具)せられさせ給いて、一日・二日ならず御ひまもなきよし・うれしさ申すばかりなし、えもんのたいうのをや(親)に立ちあひて上の御一言にてかへりてゆ(許)りたると殿のすねんが間のにくまれ・去年のふゆはかうとききしに・かへりて日日の御出仕の御とも・いかなる事ぞ、ひとへに天の御計(はから)い法華経の御力にあらずや、其の上円教房の来りて候いしが申し候は、えま(江間)の四郎殿の御出仕に御ともの・さふらい二十四・五其の中にしう(主)はさてをきたてまつりぬ、ぬしのせいといひ・かをたましひ・むま(馬)下人までも中務のさえもんのじやう第一なり、あはれ(天晴)をとこや・をとこやと・かまくらわらはべは・つじ(辻)ちにて申しあひて候しとかたり候。

 これに・つけてもあまりにあやしく候、孔子は九思一言・周公旦は浴する時は三度にぎり食する時は三度はかせ給う、古の賢人なり今の人のかがみなり。されば今度はことに身をつつしませ給うべし、よるはいかなる事ありとも一人そとへ出でさせ給うべからず、たとひ上(かみ)の御めし有りともまづ下人をこそ(御所)へ・つかわして、なひなひ一定(いちじょう)を・ききさだめて・はらまき(腹巻)をきて・はちまきし、先後・左右に人をたてて出仕し御所のかたわらに・心よせの・やかたか又我がやかたかに・ぬぎをきて・まいらせ給うべし、家へかへらんにはさき(前)に人を入れてと(戸)のわき、はし(橋)のした、むまや(厩)のしり・たかどの(高殿)一切くらきところを・みせて入るべし・せうまう(焼亡)には我が家よりも人の家よりもあれ・たからを・をしみてあわてて火をけすところへ・づつとよるべからず、まして走り出る事なかれ、出仕より主の御ともして御かへりの時はみかど(御門)より馬より・をりて、いとまの・さしあうよし・はうくわん(判官)に申して・いそぎかへるべし、上(かみ)のををせなりとも・よ(夜)に入りて御ともして御所に・ひさしかるべからず、かへらむには第一・心にふかき・えうじん(用心)あるべし、ここをば・かならず・かたきの・うかがうところなり。

  人のさけたばん(酒賜)と申すともあやしみて・あるひは言をいだし・あるひは用いることなかれ。又御をとと(舎弟)どもには常はふびんのよしあるべし、つねにゆせに(湯銭)ざうりのあたい(値)なんど心あるべし、もしやの事のあらむには・かたきはゆるさじ、我がために・いのちをうしなはんずる者ぞかしと・をぼして、とがありとも・せうせうの失(とが)をば・しらぬやうにてあるべし、又女るひはいかなる失ありとも一向に御けうくんまでも・あるべからず、ましていさか(争)うことなかれ。

 涅槃経に云く「罪極て重しと雖も女人に及ぼさず」等云云。文の心はいかなる失ありとも女のとがををこなはざれ、此れ賢人なり此れ仏弟子なりと申す文なり。

 此の文は阿闍世王・父を殺すのみならず母をあやまたむと・せし時・耆婆(ぎば)・月光の両臣がいさめたる経文なり、我が母心ぐるしくをもひて臨終までも心にかけし・いもうと(女弟)どもなれば失を・めんじて不便というならば母の心やすみて孝養となるべしと・ふかくおぼすべし、他人をも不便(ふびん)というぞかし・いわうや・をとをとどもをや、もしやの事の有るには一所にて・いかにもなるべし、此等こそとどまりゐてなげかんずれば・をもひでにと・ふかくをぼすべし、かやう申すは他事はさてをきぬ、雙六(すごろく)は二(ふたつ)ある石はかけられず、鳥の一(ひとつ)の羽にてとぶことなし、将門(まさかど)さだたふ(貞任)がやうなりし・いふしやう(勇将)も一人は叶わず、されば舎弟等を子とも郎等とも・うちたのみて・をはせば、もしや法華経もひろまらせ給いて世にもあらせ給わば一方のかたうど(方人)たるべし。

 すでに・きやう(京)のだいり院のごそ(御所)かまくらの御所・並に御うしろみ(後見)の御所・一年が内に二度・正月と十二月とにやけ(焼失)候いぬ、これ只事にはあらず謗法の真言師等を御師とたのませ給う上かれら法華経をあだみ候ゆへに天のせめ法華経・十羅刹の御いさめあるなり、かへりて大ざんげあるならば・たすかるへんも・あらんずらん、いたう天の此の国ををしませ給うゆへに大なる御いさめあるか、すでに他国が此の国をうちまきて国主・国民を失はん上(うえ)仏神の寺社・百千万がほろびんずるを天眼をもつて見下して・なげかせ給うなり、又法華経の御名をいういう(優優)たるものどもの唱うるを誹謗正法の者どもが・をどし候を天のにくませ給う故なり。

あなかしこ・あなかしこ、今年(ことし)かしこくして物を御らんぜよ、山海・空市まぬかるところあらば・ゆきて今年はすぎぬべし、阿私陀仙人が仏の生れ給いしを見て、いのちををしみしがごとし・をしみしがごとし、恐恐謹言。

正月二十五日   日 蓮 花押
中務左衛門尉殿

by johsei1129 | 2019-11-04 10:26 | 四条金吾・日眼女 | Trackback | Comments(0)
2019年 11月 03日

日蓮は少より今生のいのりなし、只仏にならんとをもふ計りなり、と説いた【世雄御書】

【[四条金吾殿御返事(世雄御書)】
■出筆時期:建治三年(西暦1277年)秋 五十六歳御作。
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:建治三年六月九日、鎌倉桑ヶ谷で当時評判だった竜象房の説法の場で大聖人の直弟子日行と論争になり、日行は竜象房を完璧に破折する。その時四条金吾も参加していたが竜象房はこのことを根に持ち、極楽寺良観に訴える。そして半月後の六月二十五日、金吾の主君江間氏から下し文が届けられる。内容は1.桑ヶ谷で狼藉を働いた。2.主君が信仰している良観、竜象房を批判。3.主君の考えに従わない。4.今後法華信仰を止めるという起請文を書くこと、さもなければ所領を没収、家臣として追放するという厳しいものだった。金吾はその日のうちに事の顚末と江間氏からの下し文とを添え、起請文は絶対に書かないと記した文を急使を立てて大聖人に届けた。この書は翌々日には身延草庵の大聖人の元に届く。その時の返書が「頼基陳状」である。本書はその後不遇の生活に陥る金吾に対し「仏法と申すは道理なり道理と申すは主に勝つ物なり<中略>いかに所領を、をししとをぼすとも死しては他人の物、すでにさかへて年久し、すこしも惜む事なかれ」と励まし、法華経の信仰を貫けば必ず主に勝と諭されている。金吾は、大聖人の指導の通り主君に誠実に対応を続け、翌年一月には主君の御勘気も解け、以前を上回る所領を賜ることができた。
■ご真筆: 現存しておりません。
[四条金吾殿御返事(世雄御書) 本文]

御文(ふみ)あらあらうけ給わりて長き夜のあけ・とをき道をかへりたるがごとし、夫れ仏法と申すは勝負をさきとし、王法と申すは賞罰を本とせり、故に仏をば世雄と号し王をば自在となづけたり、中にも天竺をば月氏という我国をば日本と申す一閻浮提・八万の国の中に大なる国は天竺・小なる国は日本なり、名のめでたきは印度第二・扶桑第一なり、仏法は月の国より始めて日の国にとどまるべし、月は西より出で東に向ひ日は東より西へ行く事天然のことはり、磁石と鉄(てつ)と雷(らい)と象華とのごとし、誰か此のことはりを・やぶらん。

 此の国に仏法わたりし由来をたづぬれば天神七代・地神五代すぎて人王の代となりて第一神武天皇・乃至第三十代欽明天皇と申せし王をはしき、位につかせ給いて三十二年治世し給いしに第十三年壬申(みずのえさる)十月十三日辛酉(かのととり)に此の国より西に百済国と申す州あり日本国の大王の御知行の国なり、其の国の大王・聖明王と申せし国王あり、年貢(みつぎ)を日本国にまいらせし・ついでに金銅の釈迦仏・並に一切経・法師・尼等をわたし・たりしかば天皇大に喜びて群臣に仰せて西蕃(せいばん)の仏を・あがめ奉るべしや・いなや、蘇我の大臣いなめ(稲目)の宿禰(すくね)と申せし人の云く西蕃の諸国みな此れを礼す・とよあきやまと(豊秋日本)あに独り背(そむかん)やと申す、物部の大むらじをこし(尾輿)中臣のかまこ(鎌子)等奏して曰く我が国家・天下に君たる人は・つねに天地しやそく(社稷)百八十神(ももやそのかみ)を春夏秋冬に・さいはい(祭拝)するを事とす、しかるを今更あらためて西蕃の神を拝せばおそらくは我が国の神いかりをなさんと云云、爾の時に天皇わかちがたくして勅宣す、此の事を只心みに蘇我の大臣(おとど)につけて一人にあがめさすべし、他人用いる事なかれ、蘇我の大臣うけ取りて大に悦び給いて此の釈迦仏を我が居住のおはた(小墾田)と申すところに入(いれ)まいらせて安置せり、物部(もののべ)の大連(おおむらじ)・不思議なりとて・いきどをりし程に日本国に大疫病おこりて死せる者・大半に及ぶ・すでに国民尽きぬべかりしかば、物部の大連・隙(ひま)を得て此の仏を失うべきよし申せしかば勅宣なる、早く他国の仏法を棄つべし云云、物部の大連・御使として仏をば取りて炭をもつてをこし・つち(槌)をもつて打ちくだき・仏殿をば火をかけて・やきはらひ僧尼をば・むち(笞)をくわう、其の時天に雲なくして大風ふき・雨ふり、内裏天火にやけあがつて大王並に物部の大連・蘇我の臣・三人共に疫病あり・きるがごとく・やくがごとし、大連は終に寿(いのち)絶えぬ・蘇我と王とは・からくして蘇生す、而れども仏法を用ゆることなくして十九年すぎぬ。

 第三十一代の敏達天皇は欽明第二の太子・治十四年なり左右の両臣は一(ひとり)は物部の大連が子にて弓削(ゆげ)の守屋・父のあとをついで大連に任ず蘇我の宿禰の子は蘇我の馬子と云云、此の王の御代に聖徳太子生(うまれ)給へり・用明の御子・敏達のをい(甥)なり御年二歳の二月・東に向つて無名の指(ゆび)を開いて南無仏と唱へ給へば御舎利・掌(みて)にあり、是れ日本国の釈迦念仏の始めなり、太子八歳なりしに八歳の太子云く「西国の聖人・釈迦牟尼仏の遺像末世に之を尊めば則ち禍(わざわい)を銷(け)し・福を蒙る・之を蔑れば則ち災を招き寿を縮む」等云云、大連物部の弓削・宿禰の守屋等いかりて云く「蘇我は勅宣を背きて他国の神を礼す」等云云、又疫病未だ息まず人民すでにたえぬべし、弓削守屋又此れを間奏す云云、勅宣に云く「蘇我の馬子仏法を興行す宜く仏法を卻(しり)ぞくべし」等云云、此に守屋中臣の臣勝海(おみ・かつみ)大連等両臣と、寺に向つて堂塔を切(きり)たうし仏像を・やきやぶり、寺には火をはなち僧尼の袈裟をはぎ笞をもつてせ(責)む・又天皇並に守屋馬子等疫病す、其の言に云く「焼くがごとし・きるがごとし」又瘡(かさ)をこる・はうそう(疱瘡)といふ、馬子歎いて云く「尚三宝を仰がん」と・勅宣に云く「汝独り行え但し余人を断てよ」等云云、馬子欣悦し精舎を造りて三宝を崇(あが)めぬ。

 天皇は終八月十五日・崩御云云、此の年は太子は十四なり第三十二代・用明天皇の治二年・欽明の太子・聖徳太子の父なり、治二年丁未(ひのとひつじ)四月に天皇疫病あり、皇(みかど)勅して云く「三宝に帰せんと欲す」云云、蘇我の大臣詔に随う可しとて遂に法師を引いて内裏に入る豊国(とよくに)の法師是なり、物部の守屋・大連等・大に瞋(いか)り横に睨んで云く天皇を厭魅(えんみ)すと終に皇(みかど)隠れさせ給う・五月に物部の守屋が一族・渋河(しぶかわ)の家にひきこもり多勢をあつめぬ、太子と馬子と押し寄せてたたかう、五月・六月・七月の間に四箇度・合戦す、三度は太子まけ給ふ第四度めに太子・願を立てて云く「釈迦如来の御舎利の塔を立て四天王寺を建立せん」と・馬子願て云く「百済より渡す所の釈迦仏を寺を立てて崇重すべし」と云云、弓削なの(名乗)つて云く「此れは我が放つ矢にはあらず我が先祖崇重の府都(ふと)の大明神の放ち給ふ矢なり」と、此の矢はるかに飛んで太子の鎧に中(あた)る、太子なのる「此は我が放つ矢にはあらず四天王の放ち給う矢なり」とて迹見(とみ)の赤梼(いちい)と申す舎人(とねり)に・いさせ給へば矢はるかに飛んで守屋が胸に中(あた)りぬ、はだのかはかつ(秦川勝)をちあひて頚をとる、此の合戦は用明崩御・崇峻未だ位に即き給わざる其の中間なり。

 第三十三・崇峻天皇・位につき給う、太子は四天王寺を建立す此れ釈迦如来の御舎利なり、馬子は元興(がんご)寺と申す寺を建立して百済国よりわたりて候いし教主釈尊を崇重す、今の代に世間第一の不思議は善光寺の阿弥陀如来という誑惑これなり、又釈迦仏にあだを・なせしゆへに三代の天皇・並に物部(もののべ)の一族むなしく・なりしなり又太子・教主釈尊の像・一体つくらせ給いて元興寺に居せしむ今の橘寺(たちばなでら)の御本尊これなり、此れこそ日本国に釈迦仏つくりしはじめなれ。

漢土には後漢の第二の明帝・永平七年に金神の夢を見て博士蔡愔(さいいん)・王遵等の十八人を月氏につかはして仏法を尋ねさせ給いしかば・中天竺の聖人摩騰迦(まとぎゃ)・竺法蘭と申せし二人の聖人を同永平十年丁卯(ひのとう)の歳迎へ取りて崇重ありしかば、漢土にて本(もと)より皇の御いのりせし儒家・道家の人人数千人此の事をそねみて・うつたへしかば、同永平十四年正月十五日に召し合せられしかば漢土の道士悦びをなして唐土の神・百霊を本尊としてありき、二人の聖人は仏の御舎利と釈迦仏の画像と五部の経を本尊と恃怙(たの)み給う、道士は本より王の前にして習いたりし仙経・三墳・五典・二聖・三王の書を薪に・つみこめて・やきしかば古はやけざりしが・はい(灰)となりぬ、先(さき)には水にうかびしが水に沈みぬ、鬼神を呼(よび)しも来らず、あまりのはづかしさにちょ褚善信(ちょぜんしん)・費叔才なんど申せし道士等はおもい死にししぬ、二人の聖人の説法ありしかば舎利は天に登りて光を放ちて日輪みゆる事なし、画像の釈迦仏は眉間(みけん)より光を放ち給う、呂慧通(りょけいつう)等の六百余人の道士は帰伏して出家す、三十日が間に十寺立ちぬ、されば釈迦仏は賞罰ただしき仏なり、上(かみ)に挙ぐる三代の帝(みかど)・並に二人の臣下・釈迦如来の敵とならせ給いて今生は空く後生は悪道に堕ちぬ。

 今の代も又これに・かはるべからず、漢土の道士・信費等・日本の守屋等は漢土・日本の大小の神祇を信用して教主釈尊の御敵となりしかば神は仏に随い奉り行者は皆ほろびぬ、今の代も此くの如く上に挙ぐる所の百済国の仏は教主釈尊なり、名を阿弥陀仏と云つて日本国をたぼらかして釈尊を他仏にかへたり、神と仏と仏と仏との差別こそあれども釈尊をすつる心はただ一なり、されば今の代の滅せん事又疑いなかるべし、是は未だ申さざる法門なり秘す可し秘す可し、又吾一門の人人の中にも信心も・うすく日蓮が申す事を背き給はば蘇我が如くなるべし、其の故は仏法日本に立ちし事は蘇我の宿禰(すくね)と馬子との父子二人の故ぞかし、釈迦如来の出世の時の梵王・帝釈の如くにてこそあらまじなれども、物部と守屋とを失いし故に只一門になりて位もあがり国をも知行し一門も繁昌せし故に高挙(たかあがり)をなして崇峻天皇を失いたてまつり王子を多く殺し結句は太子の御子二十三人を馬子がまご(孫)入鹿の臣下失ひまいらせし故に、皇極天皇は中臣の鎌子が計いとして教主釈尊を造り奉りてあながちに申せしかば入鹿の臣(おみ)並に父等の一族一時に滅びぬ。

 此をもつて御推察あるべし、又我が此の一門の中にも申しとをらせ給はざらん人人は・かへりて失あるべし、日蓮をうらみさせ給うな少輔房・能登房等を御覧あるべし、かまへて・かまへて此の間はよ(余)の事なりとも御起請かかせ給うべからず・火は・をびただしき様なれども暫くあればしめ(滅)る・水はのろ(鈍)き様なれども左右なく失いがたし、御辺は腹あしき人なれば火の燃るがごとし一定・人にすかされなん、又主のうらうら(遅遅)と言(ことば)和かにすか(賺)させ給うならば火に水をかけたる様に御わたりありぬと覚ゆ、きたはぬ・かねは・さかんなる火に入るればとくと(蕩)け候、冰をゆ(湯)に入るがごとし、剣(つるぎ)なんどは大火に入るれども暫くはとけず是きたへる故なり、まへ(前)にかう申すはきたうなるべし、仏法と申すは道理なり道理と申すは主に勝つ物なりいかに・いと(愛)をし・はなれじと思うめ(妻)なれども死しぬれば・かひなし・いかに所領を・をししと・をぼすとも死しては他人の物、すでに・さかへて年久し・すこしも惜む事なかれ、又さきざき申すがごとく・さきざきよりも百千万億倍・御用心あるべし。

 日蓮は少(わかき)より今生のいのりなし只仏にならんとをもふ計りなり、されども殿の御事をば・ひまなく法華経・釈迦仏・日天に申すなり其の故は法華経の命(いのち)を継ぐ人なればと思うなり。

 穴賢・穴賢あらかるべからず・吾が家に・あらずんば人に寄合(よりあう)事なかれ、又夜廻(よまわり)の殿原は・ひとりも・たのもしき事はなけれども・法華経の故に屋敷を取られたる人人なり、常はむつ(昵)ばせ給うべし、又夜の用心の為と申しかたがた・殿の守りとなるべし、吾方の人人をば少少の事をば・みずきかずあるべし・さて又法門なんどを聞(きか)ばやと仰せ候はんに悦んで見(まみ)え給うべからず、いかんが候はんずらん、御弟子共(ども)に申してこそ見候はめと・やわやわ(和和)とあるべし・いかにも・うれしさに・いろに顕われなんと覚え聞かんと思う心だにも付かせ給うならば火をつけて・もすがごとく天より雨の下(ふ)るがごとく万事をすてられんずるなり。
 又今度いかなる便(たより)も出来せば・したため候し陳状を上げらるべし、大事の文(ふみ)なれば・ひとさはぎ(一騒)は・かならずあるべし、穴賢穴賢。

四条金吾殿                       日 蓮 花押






by johsei1129 | 2019-11-03 22:08 | 四条金吾・日眼女 | Trackback | Comments(0)