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日蓮大聖人『御書』解説

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カテゴリ:大田乗明・尼御前( 12 )


2019年 11月 09日

飢えた世に蔵を開いて全てを民に施した金色大王に匹敵すると称えられた【大田殿女房御返事】

【大田殿女房御返事】
■出筆時期:弘安元年(西暦1278年)九月二十四日 五十七歳御作
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:本書は鎌倉幕府問註所(現在の裁判所)に勤めていた強信徒の大田乗明の夫人に宛てられた書です。大田乗明は富城常忍と共に下総国での中心となる強信徒で大聖人の外護に務められ、三大秘法抄を与えられるなど、大聖人の法門への理解も深かったと思われます。また子息は出家し日高の名を賜り中山法華経寺の開基に尽力しております。

大聖人は本抄で金色王経に説かれている金色大王の謂れを説いて、大田入道夫妻のご供養は金色大王に匹敵し、「現世には福人となり後生には霊山浄土へまいらせ給うべし」と称えられておられます。

金色大王の謂れとは「金色大王が治めていた波羅奈国が旱魃による飢饉で民が飢えていた時、大王は蔵を開いて民に施し、最後に残された大王の一日分の米も全て衆僧に供養し、まさに飢え死にせんとするその時「天より飲食雨のごとくふりて大国一時に富貴せり」となったとのことです。これは本抄を記された弘安元年も前年から続く疫病のため日本中がまさに金色王経で説かれている「宅中には死人充満し道路には骸骨充満せり」の状況だったと思われます。
■ご真筆:現存しておりません。

[大田殿女房御返事 本文]

 八木(米)一石、付たり十合。
者(ていれば=というわけで)大旱魃の代に、かは(渇)ける物に水をほどこしては大竜王と生れて雨をふらして人天をやしなう。うえたる代に食をほどこせる人は国王と生れて其の国ゆたかなり。

過去の世に金色と申す大王ましましき、其の国をば波羅奈(はらない)国と申す。十二年が間旱魃ゆきて人民うえ死ぬ事おびただし、宅中には死人充満し道路には骸骨充満せり。
其の時大王一切衆生をあはれみて、おおくの蔵(くら)をひらきて施をほどこし給いき。蔵の中の財つきて唯一日の御供(くご)のみのこりて候いし、衆僧をあつめて供養をなし王と后と衆僧と万民と皆うえ死なんとせし程に、天より飲食(おんじき)雨のごとくふりて大国一時に富貴せりと金色王(こんじきおう)経にとかれて候。

此れも又かくのごとし、此の供養によりて現世には福人となり後生には霊山浄土へまいらせ給うべし。恐恐謹言。

九月二十四日  日 蓮 花押
大田入道殿女房御返事





by johsei1129 | 2019-11-09 21:05 | 大田乗明・尼御前 | Trackback | Comments(0)
2019年 11月 07日

法華経如来寿量品は一代聖教の肝心、三世諸仏の説法の大要なりと説いた【太田左衛門尉御返事】

【太田左衛門尉御返事】
■出筆時期:弘安元年四月二十三日(西暦1278年) 五十七歳 御作。
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:本書を送られた太田左衛門尉(太田乗明)は、祖父が鎌倉幕府の問注所(幕府直轄の司法機関)の執事(長官)を努め、自身も問注所の役人を勤めていた。元は真言信徒であったが、松葉ケ谷の法難で大聖人が近隣の富木常忍のもとに身を寄せられた際、大聖人の説法に触れ帰依することになる。その後は富木常忍ともども大聖人の熱心な信徒となり『三大秘法抄』『転重軽受法門』等の重要法門を記した御書を送られている。本書は太田乗明が五十七になり大厄の年を迎え身心に苦労多く出来(しゅったい)候と伝えた手紙に対しての返書となっている。大聖人は法華経の肝心である方便品、寿量品を説き、また「法華経と申す御経は身心の諸病の良薬なり」と、一層法華経への信仰に励むよう激励されている。
尚、乗明の子は出家し日高となり、富木常忍が下総・葛飾郡若宮に開基した法華経寺の二代目となり、後に太田家が葛飾郡中山に本妙寺を開基すると若宮の法華経寺と合併させ、現在の中山法華経寺となっている。
■ご真筆: 現存していない。

[太田左衛門尉御返事 本文]

当月十八日の御状同じき廿三日の午(うま)の剋計りに到来、軈(やがて)拝見仕り候い畢んぬ。御状の如く御布施鳥目十貫文・太刀・五明(おうぎ)一本・焼香廿両給い候。抑専ら御状に云く、某今年は五十七に罷り成り候へば大厄(たいやく)の年かと覚え候。なにやらんして正月の下旬の比より卯月の此の比に至り候まで身心に苦労多く出来候。本より人身を受くる者は必ず身心に諸病相続して五体に苦労あるべしと申しながら更(ことさら)に云云。

此の事最第一の歎きの事なり。十二因縁と申す法門あり、意は我等が身は諸苦を以て体と為す。されば先世に業を造る故に諸苦を受け、先世の集・煩悩が諸苦を招き集め候。過去の二因・現在の五果・現在の三因・未来の両果とて三世次第して一切の苦果を感ずるなり。在世の二乗が此等の諸苦を失はんとて空理に沈み、灰身滅智(けしんめっち)して菩薩の勤行・精進の志を忘れ、空理を証得せん事を真極(しんごく)と思うなり。仏、方等の時、此等の心地を弾呵し給いしなり。然るに生を此の三界に受けたる者苦を離るる者あらんや。羅漢の応供(おうぐ)すら猶此くの如し、況や底下の凡夫をや。さてこそいそぎ生死を離るべしと勧め申し候へ。

此等体(これらてい)の法門はさて置きぬ。御辺は今年は大厄と云云。昔伏羲の御宇に黄河と申す河より亀と申す魚、八卦と申す文(ふみ)を甲に負て浮出たり。時の人此の文を取り挙げて見れば、人の生年より老年の終りまで厄(やく)の様を明したり。厄年の人の危き事は少水に住む魚を鴟鵲(とび・からす)なんどが伺ひ、燈の辺に住める夏の虫の火中に入らんとするが如くあやうし。鬼神ややもすれば此の人の神(たましい)を伺ひなやまさんとす。神内(しんない)と申す時は諸の神、身に在り万事心に叶う。神外と申す時は諸の神、識の家を出でて万事を見聞するなり。当年は御辺は神外と申して諸神他国へ遊行すれば慎んで除災得楽を祈り給うべし。又、木性の人にて渡らせ給へば今年は大厄なりとも春夏の程は何事か渡らせ給うべき。至門性経に云く「木は金に遇つて抑揚し火は水を得て光滅し、土は木に値いて時に痩せ金は火に入つて消え失せ、水は土に遇つて行かず」等云云。

 指して引き申すべき経文にはあらざれども、予が法門は四悉檀を心に懸けて申すならば強(あなが)ちに成仏の理に違わざれば、且らく世間普通の義を用ゆべきか。然るに法華経と申す御経は身心の諸病の良薬なり。されば経に云く「此の経は則ち為閻浮提(これ・えんぶだい)の人の病の良薬なり若し人病有らんに是の経を聞くことを得ば病即消滅して不老不死ならん」等云云。又云く「現世は安穏にして後生には善処ならん」等云云。又云く「諸余の怨敵皆悉く摧滅せん」等云云。取分(とりわけ)奉る御守り方便品・寿量品同じくは一部書きて進らせ度候へども、当時は去り難き隙(ひま)ども入る事候へば略して二品奉り候。相構え、相構えて御身を離さず重ねつつ(包)みて御所持有るべき者なり。此の方便品と申すは迹門の肝心なり。此の品には仏、十如実相の法門を説きて十界の衆生の成仏を明し給へば、舎利弗等は此れを聞いて無明の惑を断じ、真因の位に叶うのみならず、未来華光如来と成りて、成仏の覚月を離垢世界の暁の空に詠ぜり。十界の衆生の成仏の始めは是なり。当時の念仏者・真言師の人人、成仏は我が依経に限れりと深く執するは、此等の法門を習学せずして、未顕真実の経に説く所の名字計りなる授記を執する故なり。

貴辺は日来(ひごろ)は此等の法門に迷い給いしかども、日蓮が法門を聞いて賢者なれば本執を忽に飜し給いて法華経を持ち給うのみならず、結句は身命よりも此の経を大事と思食す事、不思議が中の不思議なり。是れは偏に今の事に非ず、過去の宿縁開発せるにこそ、かくは思食(おぼし)すらめ有り難し有り難し。次に寿量品と申すは本門の肝心なり。又此の品は一部の肝心、一代聖教の肝心のみならず三世の諸仏の説法の儀式の大要なり。教主釈尊、寿量品の一念三千の法門を証得し給う事は、三世の諸仏と内証等しきが故なり。但し此の法門は釈尊一仏の己証のみに非ず諸仏も亦然なり。我等衆生の無始已来、六道生死の浪に沈没せしが、今教主釈尊の所説の法華経に値い奉る事は、乃往(むかし)過去に此の寿量品の久遠実成の一念三千を聴聞せし故なり。有り難き法門なり。華厳・真言の元祖・法蔵・澄観・善無畏・金剛智・不空等が釈尊・一代聖教の肝心なる寿量品の一念三千の法門を盗み取りて、本より自(みずから)の依経に説かざる華厳経・大日経に一念三千有りと云つて取り入るる程の盗人にばかされて、末学深く此の見(けん)を執す墓無し墓無し。結句は真言の人師の云く「争つて醍醐を盗んで各自宗に名く」と云云。又云く「法華経の二乗作仏、久遠実成は無明の辺域、大日経に説く所の法門を明の分位」等云云。華厳の人師云く「法華経に説く所の一念三千の法門は枝葉、華厳経の法門は根本の一念三千なり」云云。是跡形も無き僻見なり。真言華厳経に一念三千を説きたらばこそ一念三千と云う名目をばつかはめおかし、おかし亀毛兎角(きもうとかく)の法門なり。正しく久遠実成の一念三千の法門は前四味並びに法華経の迹門十四品まで秘(ひめ)させ給いて有りしが、本門正宗に至りて寿量品に説き顕し給へり。此の一念三千の宝珠をば妙法五字の金剛不壊の袋に入れて、末代貧窮の我等衆生の為に残し置かせ給いしなり。正法像法に出でさせ給いし論師・人師の中に、此の大事を知らず唯竜樹・天親こそ心の底に知らせ給いしかども色にも出ださせ給はず。天台大師は玄・文・止観に秘せんと思召ししかども、末代の為にや止観・十章・第七正観の章に至りて粗書かせ給いたりしかども、薄葉(うすは)に釈を設けてさて止み給いぬ。但理観の一分を示して事の三千をば斟酌し給う。

 彼の天台大師は迹化(しゃっけ)の衆なり。此の日蓮は本化の一分なれば盛に本門の事の分を弘むべし。然に是くの如き大事の義理の篭らせ給う御経を書きて進らせ候へば弥信を取らせ給うべし。勧発品に云く「当に起つて遠く迎えて当に仏を敬うが如くすべし」等云云。安楽行品に云く「諸天昼夜に常に法の為の故に而も之を衛護す、乃至天の諸の童子以て給使を為さん」等云云。譬喩品に云く「其の中の衆生は悉く是れ吾が子なり」等云云。法華経の持者は教主釈尊の御子なれば争か梵天・帝釈・日月・衆星も昼夜・朝暮に守らせ給はざるべきや。厄の年災難を払はん秘法には法華経に過ぎずたのもしきかな・たのもしきかな。

 さては鎌倉に候いし時は細細(こまごま)申し承わり候いしかども、今は遠国に居住候に依りて面謁(めんえつ)を期する事更になし。されば心中に含みたる事も使者玉章(たまぐさ)にあらざれば申すに及ばず、歎かし歎かし。当年の大厄をば日蓮に任せ給へ。釈迦・多宝・十方・分身の諸仏の法華経の御約束の実不実は是れにて量るべきなり。又又申すべく候。

弘安元年戊寅(つちのえとら)四月廿三日 日 蓮 花押
太田左衛門尉殿御返事

by johsei1129 | 2019-11-07 07:06 | 大田乗明・尼御前 | Trackback | Comments(0)
2019年 11月 03日

冬の身延ですごす大聖人を思いやり、棉入りの小袖を供養された大田入道の妻を称えられた消息【太田殿女房御返事】

【太田殿女房御返事】
■出筆時期:建治三年(1277年)十一月十八日 五六歳御作
■出筆場所:身延山中の草庵にて。
■出筆の経緯:本抄は、太田入道の妻が大聖人に当時では貴重な十両(銭六十貫以上に相当)に及ぶ棉入の小袖を供養されたことへの返書となっております。本抄を記されたのは現在の十二月末頃で、太田入道の妻は身延の厳しい冬を過ごされている大聖人を思いやって十両もの綿が入った小袖を供養されたと思われます。

大聖人は「憍曇弥(きょうどんみ)と申せし女人は、仏にきんばら衣をまいらせて、一切衆生喜見仏となり給ふ」と、仏伝の謂れを示すとともに、大田入道の妻の志について「今法華経に衣をまいらせ給ふ女人あり。後生には八寒地獄の苦をまぬがれさせ給ふのみならず、今生には大難をはらひ、其の功徳のあまりを男女のきんだち、きぬにきぬをかさね、いろにいろをかさね給ふべし」と称えられておられます。
■ご真筆:現存しておりません。

【太田殿女房御返事 本文】

 柿(柳)のあをうら(青裏)の小袖、わた十両に及んで候か。
此の大地の下に二つの地獄あり。一には熱地獄。すみ(炭)ををこし、野に火をつけ、せうまう(焼亡)の火、鉄(くろがね)のゆ(湯)のごとし。罪人のやくる事は、大火に紙をなげ、大火にかなくづ(木屑)をなぐるがごとし。この地獄へは、やきとり(焼取)と、火をかけてかたきをせめ、物をねたみて胸をこがす女人の堕つる地獄なり。二には寒地獄。此の地獄に八あり。

涅槃経に云はく「八種の寒氷地獄あり。所謂阿波波地獄・阿吒吒(あたた)地獄・阿羅羅地獄・阿婆婆地獄・優鉢羅(うはら)地獄・波頭摩(はずま)地獄・拘物頭(くもず)地獄・芬陀利(ふんだり)地獄」云云。此の八大かん地獄は、或はかんにせめられたるこえ(声)、或は身のいろ等にて候。此の国のすは(諏訪)の御(み)いけ、或は越中のたて(立)山のかへし、加賀の白山(しろやま)のれい(嶺)のとり(鳥)のはね(羽)をとぢられ、やもめをうな(寡婦)のすそ(裾)のひゆる、ほろゝ(雉子)の雪にせめられたるをもてしろしめすべし。

かん(寒)にせめられて、をと(頤)がいのわなめく等を阿波波・阿咤・阿羅羅等と申す。
かん(寒)にせめられて、身のくれないににたるを紅蓮・大紅蓮等と申すなり。いかなる人の此の地獄にをつるぞと申せば、此の世にて人の衣服をぬすみとり、父母師匠等のさむげなるをみまいらせて、我はあつくあたゝかにして昼夜をすごす人々の堕つる地獄なり。

六道の中に天道と申すは、其の所に生ずるより衣服とゝのをりて生まるゝところなり。人道の中にも商那和修・鮮白比丘尼等は悲母の胎内より衣服とゝのをりて生まれ給へり。是はたうとき人々に衣服をあたへたるのみならず、父母・主君・三宝にきよ(清)くあつ(厚)き衣(きぬ)をまいらせたる人なり。商那和修と申せし人は、裸形なりし辟支仏に衣(きぬ)をまいらせて、世々生々に衣服身に随ふ。

憍曇弥と申せし女人は、仏にきんばら衣(え)をまいらせて、一切衆生喜見仏となり給ふ。今法華経に衣(きぬ)をまいらせ給ふ女人あり。後生には八寒地獄の苦をまぬがれさせ給ふのみならず、今生には大難をはらひ、其の功徳のあまりを男女のきんだち、きぬ(衣)にきぬをかさね、いろ(色)にいろをかさね給ふべし。
穴賢穴賢。

十一月十八日               日 蓮 花押
太田入道殿女房御返事



 


by johsei1129 | 2019-11-03 22:34 | 大田乗明・尼御前 | Trackback | Comments(0)
2019年 10月 30日

勝れたる経を供養する施主、一生に仏位に入らざらんや、と説いた。【乗明聖人御返事】

【乗明聖人御返事】
■出筆時期:建治三年(1277)四月十二日 五十六歳御作。
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:本抄は、大田乗明夫妻が青鳧(せいふ・銭)二結を供養されたことへの返書となっております。
大聖人は金珠女と金師の夫(迦葉)が、金銭一文を金箔にし仏像に貼ったことで九十一劫も金色の身と為った故事を引いて、「今の乗明法師妙日並びに妻女は銅銭二千枚を法華経に供養す。彼(迦葉)は仏(像)なり、此れ(乗明)は経(ご本尊)なり、経は師なり、仏は弟子なり。涅槃経に云く「諸仏の師とする所は所謂法なり乃至是の故に諸仏恭敬供養す」と記され、諸仏は経を師として仏になった、貴方は経そのものに供養するので「勝れたる経を供養する施主、一生に仏位に入らざらんや」と讃えられておられます。

尚、本抄は比較的短いお手紙ですが、重要な点があります。一つは乗明が幕府問註所(現在の最高裁判所)の役人で漢文の素養があり、大聖人は乗明への消息は全て漢文で認められておられ、本書も同様に漢文で記されておられます。もう一つは宛名が乗明聖人となっていることです。これは信徒に対する尊称としては極めて異例であります。大聖人は弘安五年十月十三日に滅度される半年前に、本門の戒壇建立のご遺命を記された[三大秘法禀承事]を大田乗明に対して書き遺しことでもわかるよに、如何に大聖人の法門への理解が深いかと乗明を高く評価していたかが伺われます。
その三大秘法禀承事の文末では、こう記されておられます。「今日蓮が時に感じて此の法門広宣流布するなり、予年来(としごろ)己心に秘すと雖も此の法門を書き付て留め置ずんば門家の遺弟等定めて無慈悲の讒言を加う可し。其の後は何と悔ゆとも叶うまじきと存ずる間貴辺に対し書き遺し候、一見の後、秘して他見有る可からず口外も詮無し、法華経を諸仏出世の一大事と説かせ給いて候は、此の三大秘法を含めたる経にて渡らせ給えばなり、秘す可し秘す可し」と。
■ご真筆:中山法華経寺所蔵(重要文化財)。
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[真筆本文:本文緑字箇所]
未來光明如來是也
今乘明法師
妙日并妻女銅
錢二千枚供養
法花經 彼佛也 此經也
經師也 佛弟子也 涅槃經云
諸佛所師所謂法也
乃至是故諸佛恭敬
供養 法華經第七云
若復有人以七寶滿三

[乗明聖人御返事 本文]

相州の鎌倉より青鳧二結(せいふ・ふたゆい)甲州身延の嶺に送り遣わされ候い了んぬ。

昔金珠女(こんじゅにょ)は金銭一文を木像の薄と為し九十一劫金色の身と為りき。其の夫(おとこ)の金師(こんし)は今の迦葉、未来の光明如来是なり。
今の乗明法師妙日並びに妻女は、銅銭二千枚を法華経に供養す。
彼は仏なり此れは経なり経は師なり仏は弟子なり、涅槃経に云く「諸仏の師とする所は所謂法なり乃至是の故に諸仏恭敬供養す」と。
法華経の第七に云く「若し復人有つて七宝を以て三千大千世界に満
てて仏及び大菩薩・辟支仏・阿羅漢を供養せし、是の人の得る所の功徳は此の法華経の乃至一四句偈を受持する其の福の最も多きに如かず」、夫れ劣る仏を供養する尚九十一劫に金色の身と為りぬ。勝れたる経を供養する施主・一生に仏位に入らざらんや。

但真言・禅宗・念仏者等の謗法の供養を除き去るべし。譬えば修羅を崇重しながら帝釈を帰敬するが如きのみ、恐恐謹言。

卯月十二日                    日 蓮 花押
乗明聖人御返事


【妙法蓮華経 薬王菩薩本事品 第二十三】
 若復有人 以七宝満 三千大千世界
 供養於仏 及大菩薩 辟支仏 阿羅漢
 是人所得功徳 不如受持 此法華経
 乃至一四句偈 其福最多

 [和訳]
 若し復た人有りて、七宝を以て三千大千世界(宇宙)に満たし
 仏及び大菩薩、辟支仏(縁覚)、阿羅漢(声聞)を供養する
 是の人が得る所の功徳は、此の法華経の
 乃至、一四句偈をも受持する、其の福の最も多きには及ばないのである。



by johsei1129 | 2019-10-30 06:51 | 大田乗明・尼御前 | Trackback | Comments(0)
2019年 10月 25日

大聖人が『三大秘法禀承事』を送られた程法門に理解の深かった大田乗明の罪障消滅を祈られた事を記 された【除病御書】

【除病御書】
■出筆時期:建治元年(1275) 五十四歳御作。
■出筆場所:身延山中の草庵にて。
■出筆の経緯:本抄は前半部分が伝えられておらず、正確な著作日等不明ですが、建治元年、大田乗明に与えられた消息と思われます。
内容は大田乗明が病に倒れた事を知らされた大聖人は、大田乗明のために法華経(御本尊)に過去世・今世の謗法の積もった罪障消滅を祈った所、今日無事に除病したと聞いて「喜悦何事か之に過ぎん。事事見参を期せん」と喜ばれるととともに、身延に見参するよう指導されておられます。

尚、大聖人は御遷化なされる半年前に、本門の戒壇建立の御遺命を記された『三大秘法禀承事』を大田乗明に送られており、門下の中で最も大聖人の法門に理解のある信徒のであると認められおられたと推察されます。
大田乗明はこのあと八年間寿命を延ばし、大聖人御遷化の翌年弘安六年四月二十六日、大聖人に随順した尊い七十六歳の生涯を終えられます。
■ご真筆:現存しておりません。

【除病御書 本文】

其の上日蓮の身並びに弟子又過去謗法の重罪未だ尽きざるの上、現在多年の間謗法の者と為り、亦謗法の国に生る。
当時信心深からざらんか、豈之を脱れんや。

但し貴辺此の病を受くるの理(ことわり)、或人之を告ぐ。
予(日蓮大聖人)日夜朝暮に法華経に申し上げ朝暮に青天に訴う、除病の由今日之を聞く、喜悦何事か之に過ぎん。
事事見参を期せん、恐恐。




by johsei1129 | 2019-10-25 21:26 | 大田乗明・尼御前 | Trackback | Comments(0)
2019年 10月 24日

法華は秘密なり譬えば大薬師の能く毒を変じて薬と為すが如し、と説いた【太田入道殿御返事】

【太田入道殿御返事】
■出筆時期:建治元年(西暦1275年)十一月三日 五十四歳御作
■出筆場所:身延山中 草庵。
■出筆の経緯:本書は下総国の幕府(問註所)役人大田乗明に与えられた書である。太田乗明が病にかかったことを報告した手紙への返書となっている。本書で大聖人は病の原因として「病の起る因縁を明すに六有り。一には四大順ならざる故に病む、二には飲食節ならざる故に病む、三には坐禅調わざる故に病む、四には鬼便りを得る、五には魔の所為、六には業の起るが故に病む」と説き、その中でも「第六の業病最も治し難し・・・中略・・・法蓮華経の第七に云く「此の経は則ち為れ閻浮提の人の病の良薬なり若し人病有らんに是の経を聞くことを得ば病即ち消滅して不老不死ならん」と諭し、業病へは妙法蓮華経こそ良薬であると断じている。
■ご真筆: 大分・法心寺ほか五箇所に断簡所蔵。
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[太田入道殿御返事(転重軽受事)本文]

 貴札之を開いて拝見す。御痛みの事一たびは歎き二たびは悦びぬ。維摩詰経に云く「爾の時に長者維摩詰自ら念ずらく寝(い)ねて牀(とこ)に疾(や)む云云。爾の時に仏、文殊師利に告げたまわく。汝維摩詰に行詣して疾を問え」云云。大涅槃経に云く「爾の時に如来乃至身に疾有るを現じ、右脇にして臥したもう彼の病人の如くす」云云。法華経に云く「少病少悩」云云。止観の第八に云く「若し毘耶(びや)に偃臥(えんが)し疾に託(つ)いて教を興す、乃至如来滅に寄せて常を談じ病に因つて力を説く」云云。又云く「病の起る因縁を明すに六有り、一には四大順ならざる故に病む、二には飲食節ならざる故に病む、三には坐禅調わざる故に病む、四には鬼便りを得る、五には魔の所為、六には業の起るが故に病む」云云。

 大涅槃経に云く「世に三人の其の病治し難き有り一には大乗を謗ず、二には五逆罪、三には一闡提。是くの如き三病は・世の中の極重なり」云云。又云く「今世に悪業成就し乃至必ず地獄なるべし乃至三宝を供養するが故に地獄に堕せずして現世に報を受く、所謂頭と目と背との痛(なや)み」等云云。止観に云く「若し重罪有つて乃至人中に軽く償うと、此れは是れ業が謝せんと欲する故に病むなり」云云。
 
 竜樹菩薩の大論に云く「問うて云く若し爾れば華厳経乃至般若波羅蜜は秘密の法に非ず、而も法華は秘密なり等、乃至譬えば大薬師の能く毒を変じて薬と為すが如し」云云、天台此の論を承けて云く「譬えば良医の能く毒を変じて薬と為すが如く乃至今経の得記は即ち是れ毒を変じて薬と為すなり」云云、故に論に云く「余経は秘密に非ず法華を秘密と為すなり」云云。

 止観に云く「法華能く治す復称して妙と為す」云云。妙楽云く「治し難きを能く治す所以に妙と称す」云云。大経に云く「爾の時に王舎大城の阿闍世王其の性弊悪にして乃至父を害し已つて心に悔熱を生ず、乃至心悔熱するが故に遍く体瘡(きず)を生ず。其の瘡臭穢にして附近すべからず。爾の時に其の母韋提希と字(なづ)く種種の薬を以て而も為に之を傅(つ)く、其の瘡遂に増して降損有ること無し。王即ち母に白(もう)す是くの如きの瘡は心よりして生ず四大より起るに非ず、若し衆生能く治する者有りと言わば是の処(ことわり)有ること無けん云云。爾の時に世尊・大悲導師・阿闍世王のために月愛三昧に入りたもう、三昧に入り已つて大光明を放つ其の光り清凉にして往いて王の身を照すに身の瘡即ち愈えぬ」云云。平等大慧 已上上の諸文を引いて惟(ここ)に御病を勘うるに六病を出でず、其の中の五病は且らく之を置く、第六の業病最も治し難し。将た又業病に軽き有り重き有りて多少定まらず、就中・法華誹謗の業病最第一なり。神農・黄帝・華佗・扁鵲も手を拱(こまね)き持水・流水・耆婆・維摩も口を閉ず。但し釈尊一仏の妙経の良薬に限つて之を治す。

  法華経に云く上の如し。大涅槃経に法華経を指して云く「若し是の正法を毀謗するも能く自ら改悔し還りて正法に帰すること有れば乃至此の正法を除いて更に救護すること無し、是の故に正法に還帰すべし」云云。
荊谿(けいけい)大師の云く「大経に自ら法華を指して極と為す」云云。又云く「人の地に倒れて還つて地に従りて起つが如し。故に正の謗を以て邪の堕を接す」云云。世親菩薩は本(もと)小乗の論師なり、五竺の大乗を止めんが為に五百部の小乗論を造る、後に無著(むじゃく)菩薩に値い奉りて忽に邪見を飜えし一時此の罪を滅せんが為に著(じゃく)に向つて舌を切らんと欲す。著止(とど)めて云く汝其の舌を以て大乗を讃歎せよと、親忽に五百部の大乗論を造つて小乗を破失す。又一の願を制立せり我一生の間小乗を舌の上に置かじと、然して後罪滅して弥勒の天に生ず。馬鳴菩薩は東印度の人、付法蔵の第十三に列(つらな)れり本(もと)外道の長たりし時、勒比丘と内外の邪正を論ずるに其の心言下(げんか)に解けて重科を遮(しゃ)せんが為に自ら頭を刎ねんと擬す。所謂(いわく)我・我に敵して堕獄せしむ。勒比丘・諌め止めて云く汝頭を切ること勿れ、其の頭と口とを以て大乗を讃歎せよと。鳴(みょう)急に起信論を造つて外小を破失せり、月氏の大乗の初なり。嘉祥寺の吉蔵大師は漢土第一の名匠・三論宗の元祖なり。呉会に独歩し慢幢最も高し天台大師に対して已今当の文を諍い、立処(たちどころ)に邪執を飜破(ほんぱ)し謗人・謗法の重罪を滅せんが為に百余人の高徳を相語らい、智者大師を屈請して身を肉橋と為し頭に両足を承(う)く。七年の間・薪を採り水を汲み講を廃し衆を散じ慢幢を倒さんが為法華経を誦せず。大師の滅後隋帝に往詣(おうけい)し雙足(そうそく)をきょう摂(しょう)し涙を流して別れを告げ古鏡を観見して自影を慎辱(しんじょく)す。業病を滅せんと欲して上の如く懺悔す。夫れ以みれば一乗の妙経は三聖の金言(きんげん)・已今当の明珠諸経の頂に居す。経に云く「諸経の中に於て最も其の上に在り」又云く「法華最第一なり」伝教大師の云く「仏立宗」云云。

 予随分・大・金・地等の諸の真言の経を勘えたるに、敢えて此の文の会通の明文無し。但畏・智・空・法・覚・証等の曲会に見えたり。是に知んぬ釈尊・大日の本意は限つて法華の最上に在るなり。而るに本朝真言の元祖たる法・覚・証等の三大師入唐の時、畏・智・空等の三三蔵の誑惑を果・全等に相承して帰朝し了んぬ。法華・真言弘通の時三説超過の一乗の明月を隠して真言両界の螢火を顕し、剰え法華経を罵詈して曰く戯論なり無明の辺域なり。自害の謬誤(みょうご)に曰く、大日経は戯論なり無明の辺域なり本師既に曲れり末葉豈直ならんや。源濁れば流清からず等是れ之を謂(い)うか。之に依つて日本久しく闇夜と為り扶桑終に他国の霜に枯れんと欲す。

  抑貴辺は嫡嫡の末流の一分に非ずと雖も、将た又檀那の所従なり。身は邪家に処して年久しく心は邪師に染みて月重なる。設い大山は頽れ、設い大海は乾くとも此の罪は消え難きか。然りと雖も宿縁の催す所又今生に慈悲の薫ずる所存(ぞんじ)の外に貧道に値遇して、改悔を発起(ほっき)する故に未来の苦を償うも現在に軽瘡出現せるか。彼の闍王の身瘡は五逆誹法の二罪の招く所なり。仏月愛三昧に入つて其の身を照したまえば悪瘡忽に消え三七日の短寿を延べて四十年の宝算を保ち、兼ては又千人の羅漢を屈請(くつじょう)して一代の金言を書き顕し、正像末に流布せり。此の禅門の悪瘡は但謗法の一科なり。所持の妙法は月愛に超過す。豈軽瘡を愈して長寿を招かざらんや。此の語徴(しるし)無くんば声を発して一切世間眼は大妄語の人・一乗妙経は綺語の典なり、名を惜しみ給わば世尊験を顕し・誓を恐れ給わば諸の賢聖来り護り給えと叫喚したまえと爾(し)か云う、書は言を尽さず言は心を尽さず事事見参の時を期せん、恐恐。

十一月三日                 日  蓮  花押
太田入道殿御返事

by johsei1129 | 2019-10-24 22:32 | 大田乗明・尼御前 | Trackback | Comments(0)
2019年 10月 21日

能く法華を持つ者は亦衆生の中の第一なり、と説いた【大田殿許御書】

【大田殿許御書】
■出筆時期:文永十二年(西暦1275)一月二十四日 五十四歳御作
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:本抄は幕府問注所の役人で、強信徒の大田乗明にあてた書で、特に法華経と真言宗の勝劣について詳細に論じている。大聖人は「所詮、天台伝教の如き聖人、公場に於て是非を決せず明帝桓武の如き国主之を聞かざる故か」と記し、天台伝教でさえその勝劣は明確にしていないと断じている。さらに「能く法華を持つ者は亦衆生の中の第一なり」と記し「予が門家等深く此の由を存ぜよ、今生に人を恐れて後生に悪果を招くこと勿れ」と諭されておられる。
■ご真筆: 中山法華経寺蔵(重要文化財)
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[真筆箇所本文:
新春之御慶賀
自他幸甚々。
抑俗諦・眞諦之中以
勝負爲詮 世間・出世
以甲乙爲先歟。而諸經諸
宗勝劣三國聖人共存
之 兩朝群賢同知之歟。
法華經大日經天台宗眞言宗
勝劣月支日本未辯之
西天東土不明物歟。所詮]

[大田殿許御書 本文]

 新春の御慶賀自他幸甚幸甚。
抑俗諦・真諦の中には勝負を以て詮と為し世間・出世とも甲乙を以て先と為すか、而るに諸経・諸宗の勝劣は三国の聖人共に之を存し両朝の群賢同じく之を知るか、法華経と大日経と天台宗と真言宗との勝劣は月支・日本未だ之を弁ぜず西天・東土にも明らめざる物か、所詮・天台伝教の如き聖人・公場に於て是非を決せず明帝桓武の如き国主之を聞かざる故か、所謂善無畏三蔵等は法華経と大日経とは理同事勝等と慈覚・智証等も此の義を存するか、弘法大師は法華経を華厳経より下す等此等の二義共に経文に非ず同じく自義を存するか将(は)た又慈覚・智証等・表を作つて之を奏す申すに随つて勅宣有り、聞くが如くんば真言・止観両教の宗をば同じく醍醐と号し倶に深秘と称す乃至譬えば猶人の両目・鳥の雙翼(そうよく)の如き者なり等云云、又重誡の勅宣有り・聞くが如くんば山上の僧等専ら先師の義に違して偏執の心を成ず殆んど以つて余風を扇揚し旧業を興隆することを顧みず等云云、余生れて末の初に居し学諸賢の終りを禀(う)く慈覚・智証の正義の上に勅宣方方之れ有り疑い有るべからず一言をも出すべからず然りと雖も円仁・円珍の両大師・先師伝教大師の正義を劫略して勅宣を申し下すの疑い之れ有る上・仏誡遁れ難し、随つて又亡国の因縁・謗法の源初(げんしょ)之れに始まるか、故に世の謗を憚からず用・不用を知らず身命を捨てて之を申すなり。

 疑つて云く善無畏・金剛智・不空の三三蔵・弘法・慈覚・智証の三大師二経に相対して勝劣を判ずるの時或は理同事勝或は華厳経より下る等云云、随つて又聖賢の鳳文(ほうぶん)之れ有り、諸徳之を用いて年久し此の外に汝一義を存して諸人を迷惑し剰さえ天下の耳目を驚かす豈増上慢の者に非ずや如何、答えて曰く汝等が不審尤最もなり如意論師の世親菩薩を炳誡(へいかい)せる言は是なり、彼の状に云く「党援の衆と大義を競うこと無く群迷の中に正論を弁ずること無かれと言い畢つて死す」云云、御不審之れに当るか、然りと雖も仏世尊は法華経を演説するに一経の内に二度の流通之れ有り重ねて一経を説いて法華経を流通す、涅槃経に云く「若し善比丘あつて法を壊る者を見て置いて呵責し駈遣し挙処せずんば当に知るべし是の人は仏法の中の怨なり」等云云、善無畏・金剛智の両三蔵・慈覚・智証の二大師大日の権経を以つて法華の実経を破壊せり。

 而るに日蓮・世を恐て之を言わずんば仏敵と為らんか、随つて章安大師末代の学者を諌暁して云く「仏法を壊乱するは仏法の中の怨なり慈無くして詐わり親しむは是れ彼の人の怨なり能く糾治する者は即ち是れ彼が親なり」等云云、余は此の釈を見て肝に染むるが故に身命を捨てて之を糾明するなり。

 提婆菩薩は付法蔵の第十四・師子尊者は二十五に当る或は命を失い或は頭を刎らる等是なり、疑つて云く経経の自讃は諸経・常の習いなり、所謂金光明経に云く「諸経の王」密厳経の「一切経中の勝」蘇悉地経に云く「三部の中に於て此の経を王と為す」法華経に云く「是れ諸経の王」等云云、随つて四依の菩薩・両国の三蔵も是くの如し如何、答えて曰く大国・小国・大王・小王・大家・小家・尊主・高貴・各各分斉有り然りと雖も国国の万民・皆大王と号し同じく天子と称す詮を以つて之を論ぜば梵王を大王と為し法華経を以て天子と称するなり、求めて云く其の証如何、答えて曰く金光明経の是諸経之王の文は梵釈の諸経に相対し密厳経の一切経中勝の文は次上に十地経・華厳経・勝鬘経等を挙げて彼彼の経経に相対して一切経の中に勝ると云云、蘇悉地経の文は現文之れを見るに三部の中に於て王と為す等云云、蘇悉地経は大日経・金剛頂経に相対して王と云云、而るに善無畏等或は理同事勝或は華厳経より下ると等云云、此れ等の僻文は螢火を日月に同じ大海を江河に入るるか。

 疑つて云く経経の勝劣之れを論じて何か為ん、答えて曰く法華経の第七に云く「能く是の経典を受持する者有れば亦復是くの如し一切衆生の中に於て亦為第一なり」等云云、此の経の薬王品に十喩を挙げて已今当の一切経に超過すと云云、第八の譬・兼ねて上の文に有り所詮仏の意の如くならば経の勝劣を詮ずるのみに非ず法華経の行者は一切の諸人に勝れたるの由之れを説く、大日経等の行者は諸山・衆星・江河・諸民なり、法華経の行者は須弥山・日月・大海等なり、而るに今の世は法華経を軽蔑すること土の如し民の如し真言の僻人等を重崇して国師と為ること金の如し王の如し之に依つて増上慢の者・国中に充満す青天瞋を為し黄地夭孼(おうじようけつ)を致す涓聚(したたり・あつま)りて墉塹(ようせん)を破るが如く民の愁い積りて国を亡す等是なり、問うて曰く内外の諸釈の中に是くの如きの例之れ有りや、答えて曰く史臣呉競(ごきょう)が太宗に上(たてま)つる表に云く「竊(ひそ)かに惟れば太宗文武皇帝の政化・曠古(こうこ)より之れ求むるに未だ是くの如くの盛なる者有らず唐尭・虞舜・夏禹・殷湯(いんとう)・周の文武・漢の文景と雖も皆未だ逮(およ)ばざる処なり」云云、今此の表を見れば太宗を慢ぜる王と云う可きか政道の至妙・先聖に超えて讃ずる所なり、章安大師天台を讃めて云く「天竺の大論尚其の類に非ず真丹の人師何ぞ労く語るに及ばん此れ誇耀に非ず法相の然らしむるのみ」等云云、従義法師重ねて讃めて云く「竜樹・天親未だ天台には若かず」伝教大師自讃して云く「天台法華宗の諸宗に勝るることは所依の経に拠るが故に自讃毀他ならず庶(こいねがわ)くば有智の君子経を尋ねて宗を定めよ」云云、又云く「能く法華を持つ者は亦衆生の中の第一なり已に仏説に拠る豈自讃ならんや」云云、今愚見を以つて之を勘うるに善無畏・弘法・慈覚・智証等は皆仏意に違うのみに非ず或は法の盗人或は伝教大師に逆える僻人なり、故に或は閻魔王の責を蒙り或は墓墳無く或は事を入定に寄せ或は度度・大火・大兵に値えり権者は辱を死骸に与えざる処の本文に違するか、疑つて云く六宗の如く真言の一宗も天台に落たる状之れ有りや、答う記の十の末に之を載せたり、随つて伝教大師・依憑集を造つて之を集む眼有らん者は開いて之を見よ、冀哉(ねがわしきかな)末代の学者妙楽・伝教の聖言に随つて善無畏・慈覚の凡言を用ゆること勿れ、予が門家等深く此の由を存ぜよ、今生に人を恐れて後生に悪果を招くこと勿れ、恐恐謹言。

正月廿四日               日 蓮  花押
大田金吾入道殿

by johsei1129 | 2019-10-21 18:08 | 大田乗明・尼御前 | Trackback | Comments(0)
2019年 09月 23日

竜の口の法難は、法華経勧持品の「刀杖を加え乃至数数擯出せられん」である、と説いた【転重軽受法門】

【転重軽受法門】
■出筆時期:文永八年(西暦1271年)十月五日 五十歳御作
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:本書の述作の前月の九月十二日、日蓮は竜の口で断首という生涯最大の難に遭われている。光り物の出現で処刑できなかった結果、大聖人は一ヶ月ほど相模依智の本間重連(佐渡守護代)の屋敷に預かりのみとなる。本書は本間重連邸から佐渡に出立した翌月十日の五日前に、下総方面の強信徒・大田乗明、曾谷入道、金原法橋御房の3人に宛てた御消息文である。大聖人は弟子・信徒に及んだ今度の難について「先業の重き今生につきずして未来に地獄の苦を受くべきが、今生にかかる重苦に値い候へば地獄の苦みぱつときへて死に候へば人天・三乗・一乗の益をうる事の候」と三人の信徒を励まされている。
■ご真筆: 中山法華経寺 所蔵。
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[転重軽受法門 本文]

修利槃特(すりはんどく)と申すは兄弟二人なり、一人もありしかば・すりはんどくと申すなり。各各三人は又かくのごとし一人も来らせ給へば三人と存じ候なり。

 涅槃(ねはん)経に転重軽受(てんじゅうきょうじゅ)と申す法門あり。先業の重き今生につきずして未来に地獄の苦を受くべきが、今生にかかる重苦に値(あ)い候へば、地獄の苦みぱつときへて死に候へば、人天・三乗・一乗の益をうる事の候。

  不軽(ふぎょう)菩薩の悪口罵詈(あっくめり)せられ、杖木瓦礫(じゅもくがりゃく)をかほるもゆへなきにはあらず、過去の誹謗正法のゆへかとみへて「其罪畢已(ございひっち)」と説れて候は、不軽菩薩の難に値うゆへに過去の罪の滅するかとみへはんべり是一
 
 又付法蔵の二十五人は、仏をのぞきたてまつりては、皆仏のかねて記しをき給える権者なり、其の中に第十四の提婆(だいば)菩薩は外道にころされ、第二十五師子尊者は檀弥栗王(だんみりおう)に頚(くび)を刎(はね)られ、其の外仏陀密多(ぶつだみった)竜樹菩薩なんども多くの難にあへり。又、難なくして王法に御帰依いみじくて法をひろめたる人も候。これは世に悪国善国有り、法に摂受(しょうじゅ)折伏あるゆへかと、みへはんべる。正像猶かくのごとし、中国又しかなり。これは辺土なり末法の始なり。かかる事あるべしとは先にをもひさだめぬ、期(ご)をこそまち候いつれ是二。

 この上(かみ)の法門は、いにしえ申しをき候いきめづらしからず、円教の六即の位に観行即と申すは、所行如所言、所言如所行と云云。理即名字(りそくみょうじ)の人は円人なれども、言(ことば)のみありて真なる事かたし。例せば外典(げてん)の三墳五典(さんぷんごてん)には読む人かずをしらず。かれがごとくに世ををさめふれまう事、千万が一つもかたしされば世のをさまる事も又かたし。法華経は紙付(かみつき)に音をあげてよめども、彼の経文のごとくふれまう事かたく候か。

譬喩品(ひゆほん)に云く「経を読誦(どくじゅ)し書持すること有らん者を見て軽賤憎嫉(きょうせんぞうしつ)して結恨(けっこん)を懐(いだ)かん」、法師品に云く「如来現在すら猶怨嫉(なおおんしつ)多し況や滅度の後をや」、勧持品(かんじほん)に云く「刀杖を加え乃至数数擯出(しばしばひんずい)せられん」安楽行品に云く「一切世間怨(あだ)多くして信じ難し」と。

 此等は経文には候へども、何世(いつのよ)にかかるべしともしられず、過去の不軽菩薩、覚徳比丘なんどこそ身にあたりてよみまいらせて候いけると、みへはんべれ。現在には正像二千年はさてをきぬ、末法に入つては此の日本国には当時は日蓮一人みへ候か。昔の悪王の御時、多くの聖僧の難に値(あ)い候いけるには又所従、眷属等、弟子檀那等いくぞばくかなげき候いけんと、今をもちてをしはかり候。今日蓮、法華経一部よみて候、一句一偈に猶受記をかほ(蒙)れり、何(いか)に況(いわん)や一部をやと。いよいよたのもし。但おほけなく国土までとこそ、をもひて候へども、我と用いられぬ世なれば力及ばず。しげきゆへにとどめ候い了んぬ。

文永八年辛未(かのとひつじ)十月五日       日 蓮 花押
大田左衛門尉殿
蘇谷入道殿
金原法橋御房
御返事

by johsei1129 | 2019-09-23 19:02 | 大田乗明・尼御前 | Trackback | Comments(0)
2016年 01月 01日

大聖人の故郷・下総の古参の強信徒大田乗明を上人と尊称された消息【乗明上人御返事】

【乗明上人御返事】
■出筆時期:弘安二年(西暦1279年)二月十七日 五十八歳御作
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:本消息は富木常忍、曾谷教信と並び下総(千葉)の古参の強信徒、大田乗明が、米一石を大聖人へご供養されたことへの返書となっております。
一紙に大書された短い消息ですが、本消息に特徴的ことは「乗明上人」と在家の信徒に上人という尊称を与えられておられることです。
大田乗明は、代々鎌倉幕府・問註所(現在の裁判所)に務める家系の武士で、信徒の中で最も大聖人の本門への理解が深かったと思われ、大聖人が御遷化なされる半年前の弘安五年四月八日、本門の戒壇建立を御遺命された「三大秘法禀承事」を賜っておられます。また次男は出家し日高の法号を賜り、富木常忍が開基した中山法華経寺の二代目となっております。自身は大聖人御遷化の半年後、後を追うように大聖人に随順した尊い七十六歳の生涯を終えられております。
■ご真筆: 大阪府・長久寺(全文)所蔵。
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【乗明上人御返事】

[原文の漢文]
乗明上人一石送
山中 得福過十
号功徳 恐々謹言
七月廿七日
     日蓮花押
御返事

[和文]
乗明上人一石を山中に送らる。
福十号に過ぐる功徳を得ん。恐々謹言。

七月廿七日    日蓮花押
御返事





by johsei1129 | 2016-01-01 18:07 | 大田乗明・尼御前 | Trackback | Comments(0)
2015年 09月 08日

一歳より六十に及んで多くの物を見る中に悦ばしき事は法華最第一の経文なりと説いた【慈覚大師事】

【慈覚大師事】
■出筆時期:弘安三年(1280年)正月二十七日 五十九歳御作
■出筆場所:身延山中の草庵にて。
■出筆の経緯:本抄は大田入道(乗明)から鵞眼(ががん)三貫・絹の袈裟一帖をご供養されたことへの返書となっております。大田乗明は大聖人が御遷化なされた半年前の弘安五年四月八日に「三大秘法禀承事(ぼんしょうじ)」を賜り、大聖人の法門に深い理解をもった強信徒でした。
本抄で大聖人は「一歳より六十に及んで多くの物を見る中に悦ばしき事は法華最第一の経文なり」と断じ、比叡山延暦寺・第三祖の慈覚大師は「法華経の頭を切りて真言経の頂とせり」と一刀両断に破折されておられます。
さらに文末では「一向真言の座主にて法華経の所領を奪えるなり、しかれば此等の人人は釈迦・多宝・十方の諸仏の大怨敵<中略>我が弟子等此の旨を存じて法門を案じ給うべ」と記し、真言宗の本質を理解するよう諭されておられます。大聖人は三十九歳で立正安国論を著されておられますが、その時期は念仏の破折が根幹にありましたが、四十七歳の時、蒙古から国書が届き立正安国論で予言した他国侵逼難が的中した以降は、「真言亡国」の思いを強くいだき、各信徒への消息でもこの思いを幾度となく認められておられます。
■ご真筆:中山法華経寺(13紙)所蔵(重要文化財)。
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[真筆(第7紙)本文箇所:なる優曇花~夢のごとく勘へ 迄]

[慈覚大師事 本文]

鵞眼三貫・絹の袈裟一帖給い候い了んぬ、法門の事は秋元太郎兵衛尉殿の御返事に少少注して候御覧有るべく候。

なによりも受け難き人身値(あ)い難き仏法に値いて候に五尺の身に一尺の面あり其の面の中三寸の眼二つあり、一歳より六十に及んで多くの物を見る中に悦ばしき事は法華最第一の経文なり。

あさましき事は慈覚大師の金剛頂経の頂の字を釈して云く「言う所の頂とは諸の大乗の法の中に於て最勝にして無過上なる故に頂を以て之れに名づく乃至人の身の頂最も為勝るるが如し、乃至法華に云く是法住法位と今正しく此の秘密の理を顕説す、故に金剛頂と云うなり」云云、又云く「金剛は宝の中の宝なるが如く此の経も亦爾なり諸の経法の中に最為第一にして三世の如来の髻(もとどり)の中の宝なる故に」等云云、此の釈の心は法華最第一の経文を奪い取りて金剛頂経に付くるのみならず、如人之身頂最為勝の釈の心は法華経の頭を切りて真言経の頂とせり。

此れ即ち鶴の頚を切つて蝦(かえる)の頚(くび)に付けけるか、真言の蟆(かえる)も死にぬ法華経の鶴の御頚も切れぬと見え候、此れこそ人身うけたる眼の不思議にては候へ、三千年に一度花開くなる優曇花(うどんげ)は転輪聖王此れを見る。

究竟円満の仏にならざらんより外は法華経の御敵は見しらさんなり、一乗のかたき夢のごとく勘へ出して候、慈覚大師の御はかは・いづれのところに有りと申す事きこへず候、世間に云う御頭(くび)は出羽の国・立石寺(りっしゃくじ)に有り云云、いかにも此の事は頭と身とは別の所に有るか、明雲座主(ざす)は義仲に頚を切られたり、天台座主を見候へば伝教大師は・さてをきまいらせ候いぬ、第一義真・第二円澄・此の両人は法華経を正とし真言を傍とせり、第三の座主・慈覚大師は真言を正とし法華経を傍とせり、其の已後代代の座主は相論にて思い定むる事無し、第五十五並びに五十七の二代は明雲大僧正座主なり、此の座主は安元三年五月日院勘を蒙りて伊豆の国へ配流、山僧・大津にて奪い取りて後治承三年十一月に座主となりて源の右将軍頼朝を調伏せし程に寿永二年十一月十九日義仲に打たれさせ給う、此の人生けると死ぬと二度大難に値えり、生の難は仏法の定例・聖賢の御繁盛の花なり死の後の恥辱は悪人・愚人・誹謗正法の人招くわざわいなり、所謂大慢ばら門・須利等なり。

粗此れを勘えたるに明雲より一向に真言の座主となりて後・今三十余代一百余年が間・一向真言の座主にて法華経の所領を奪えるなり、しかれば此等の人人は釈迦・多宝・十方の諸仏の大怨敵・梵釈・日月・四天・天照太神・正八幡大菩薩の御讎敵なりと見えて候ぞ、我が弟子等此の旨を存じて法門を案じ給うべし、恐恐。

正月二十七日 日 蓮 花押
太田入道殿御返事

by johsei1129 | 2015-09-08 22:53 | 大田乗明・尼御前 | Trackback | Comments(0)