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日蓮大聖人『御書』解説

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カテゴリ:南条時光(上野殿)( 53 )


2019年 12月 01日

自らの病をおして大病に臥した南条時光を見舞った時の書【莚(むしろ)三枚御書】

【莚(むしろ)三枚御書】
■出筆時期:弘安五年(西暦1282)三月 六十一歳御作。
■出筆場所:身延山中 館にて。
■出筆の経緯:本書は大病に臥した南條時光の見舞うため、大聖人自ら訪問されたときのことを記した書と思われます。
 大聖人は「三月一日より四日にいたるまでの御あそびに心なぐさみて、やせやまいもなをり虎とるばかりをぼへ候」と認められ、四日間の滞在で時光の病状の回復を見届け、自らの痩せ病も「虎を射止めることができる程良くなった」と、時光の回復を非常に喜ばれていることが文面に現れております。大聖人はこの書に先立つ二月二十五日には日興上人に時光に護符を与えるよう指示し、さらに二十八日には同じく伯耆房(日興上人)への手紙(法華証明抄)で「天魔、外道が病をつけてをどさんと試み候か」と、時光を励まされておられます。後に大石寺の開基檀那となった南條時光を、如何に大切な信徒として思われていたかが本書でもよくわかります。尚本書の文末部は残念ながらかけております。
■ご真筆: 富士大石寺 断簡所蔵
自らの病をおして大病に臥した南条時光を見舞った時の書【莚(むしろ)三枚御書】_f0301354_21452286.jpg

[莚(むしろ)三枚御書 本文]

 莚(むしろ)三枚・生和布(わかめ)一篭(こ)・給い了んぬ。
抑三月一日より四日にいたるまでの御あそ(遊)びに心なぐさみて、やせやまい(痩病)もなをり、虎と(捕)るばかりをぼへ候上、此の御わかめ給びて師子にの(乗)りぬべくをぼへ候。

 さては財はところ(処)により人によつてかわ(異)りて候。此の身延の山には石は多けれども餅なし。こけ(苔)は多けれどもうちしく物候はず、木の皮をは(剝)いでしき物とす、むしろ(筵)いかでか財とならざるべき。

 億耳居士(おくじこじ)と申せし長者は足のうらに、け(毛)のを(生)いて候いし者なり。ありき(歩行)のところ、いへ(家)の内は申すにをよばず、わた(綿)を四寸しきて、ふみし人なり。
これは、いかなる事ぞと申せば、先世にたうとき僧にくま(熊)のかわをしかせしゆへとみへて候。

いわうや日本国は月氏より十万より(余里)をへだてて候、辺国なる上、へびす(夷)の島、因果のことはり(理)も弁えまじき上、末法になり候いぬ、仏法をば信ずるやうにてそし(謗)る国なり。

しかるに法華経の御ゆへに名をたたせ給う上、御むしろを法華経にまいらせ給い候いぬれば。 

 

by johsei1129 | 2019-12-01 14:57 | 南条時光(上野殿) | Trackback | Comments(0)
2019年 12月 01日

末法に法華経を信じる者は過去に十万億の仏を供養せる故であることを説いた書【法華証明抄】

【法華証明抄(ほっけしょうめいしょう】
■出筆時期:弘安五年(西暦1282年)二月二十八日、六十一歳。
■出筆場所:身延山 草庵。
■出筆の経緯:本書は伯耆房(日興上人)を通して富士上野郷の地頭で強信徒の南条時光に宛てられた御書です。南条時光は大聖人に帰依した鎌倉幕府の役人(番役)で、後に富士上野郷の地頭となる南条兵衛七郎の次男として誕生する。幼くして父を失うが母とともに大聖人への信仰を貫き、後に上野郷の地頭職を引き継ぐ。富士熱原の法難の時は、日興上人を支え法華宗の頭領として幕府に睨(にら)まれながらも、大聖人門下の僧・信徒を庇護された。それらの獅子奮迅の活動の影響もあり、時光は二十四歳の時重病に陥る。
そのことを聞きつけた大聖人は、「すでに仏になるべしと見へ候へば、天魔・外道が病をつけてをどさんと心み候か、命はかぎりある事なり・すこしも・をどろく事なかれ」と、天魔に負けず法華経の信仰を貫くよう激励されている。大聖人による直々の励ましもあり時光は大病を克服、74歳で天寿を全うしている。大聖人はこの時光の深い信仰心に対し、「上野賢人殿」の称号を贈っている。

大聖人滅後、日興上人は波木井実長との信仰上の相違で身延山を離山するが、日興上人を師兄と慕う時光は日興上人を自領内に迎え入れ、正応3年(1290年)一帯の土地を寄進。富士・大石寺の開基檀那となる。さらに正中元年(1323年)には、亡くなった妻・妙蓮の一周忌供養のため、下条堀之内の自邸を改め妙蓮寺(現・日蓮正宗 妙蓮寺)を建立した。また、日興上人の後を継いだ三祖・日目上人は南条時光の甥にあたる。

尚、本御書で特筆すべきは、大聖人は本文の前に「法華経の行者 日蓮 花押」と認められていることだ。このように本文の前に○○日蓮と記す御書は、現在伝えられている四百数十編以上に及ぶ御書の中で、例えば『観心本尊抄(本朝沙門 日蓮 選)』、『選時抄(釈子 日蓮 述ぶ)』、「法華取要抄(扶桑沙門 日蓮これを述ぶ)』等、極めて限られた重要法門を説いた御書しか存在していない。この点だけ見ても、如何に大聖人が南条時光を大事に思われ、大病回復を強く願われていたかが偲ばれる。

■ご真筆: 西山本門寺など三寺に分在。時代写本:日興上人筆(富士大石寺所蔵)

末法に法華経を信じる者は過去に十万億の仏を供養せる故であることを説いた書【法華証明抄】_f0301354_10461396.gif

[ご真筆 冒頭部※花押が余白に認められている。]

[法華証明抄(別名:死活抄) 本文]

              法華経の行者 日蓮 花押

 末代悪世に法華経を経のごとく信じまいらせ候者をば、法華経の御鏡にはいかんがう(浮)かべさせ給うと拝見つかまつり候へば、過去に十万億の仏を供養せる人なりとたしかに釈迦仏の金口の御口より出でさせ給いて候を、一仏なれば末代の凡夫はうたが(疑)いやせんずらんとて、此より東方に、はるかの国をすぎさせ給いておはします宝浄世界の多宝仏、わざわざと行幸(みゆき)ならせ給いて釈迦仏にをり向いまいらせて、妙法華経皆是真実と証明せさせ給い候いき。此の上はなにの不審か残るべき。なれどもなをなを末代の凡夫はをぼつかなしとをぼしめしや有りけん。十方の諸仏を召しあつめさせ給いて、広長舌相と申して無量劫よりこのかた永くそらごと(虚言)なきひろくながく大なる御舌を、須弥山のごとく虚空(おおぞら)に立てならべ給いし事は、をびただ(夥)しかりし事なり。かう候へば、末代の凡夫の身として法華経の一字・二字を信じまいらせ候へば、十方の仏の御舌を持(たも)つ物ぞかし。いかなる過去の宿習にて・かかる身とは生るらむと悦びまいらせ候上、経文は過去に十万億の仏にあいまいらせて供養をなしまいらせて候いける者が、法華経計りをば用いまいらせず候いけれども、仏くやう(供養)の功徳莫大なりければ、謗法の罪に依りて貧賤の身とは生れて候へども、又此の経を信ずる人となれりと見へて候。此れをば天台の御釈に云く「人の地に倒れて還つて地より起(た)つが如し」等云云。地にたうれたる人はかへりて地よりを(起)く。法華経謗法の人は三悪並びに人天の地にはたうれ候へども、かへりて法華経の御手にかかりて仏になるとことわられて候。

しかるにこの上野の七郎次郎は末代の凡夫、武士の家に生れて悪人とは申すべけれども心は善人なり。其の故は日蓮が法門をば上(かみ)一人より下万民まで信じ給はざる上、たまたま信ずる人あれば或は所領或は田畠等にわづらひをなし、結句は命に及ぶ人人もあり。信じがたき上、ちち・故上野は信じまいらせ候いぬ。又此の者敵(嫡)子となりて、人もすすめぬに心中より信じまいらせて、上下万人にあるいはいさ(諫)め或はをどし候いつるに、ついに捨つる心なくて候へば、すでに仏になるべしと見へ候へば、天魔・外道が病をつけてをど(威)さんと心み候か。命はかぎりある事なり。すこしもをどろく事なかれ。又鬼神め(奴)らめ、此の人をなやますは、剣をさかさま(逆)にのむか、又大火をいだくか、三世十方の仏の大怨敵となるか、あなかしこ・あなかしこ、此の人のやまい(病)を忽になをして・かへりてまほり(守)となりて鬼道の大苦をぬくべきか。其の義なくして現在には頭破(ずは)七分の科(とが)に行われ、後生には大無間地獄に堕つべきか。永くとどめよ・とどめよ。日蓮が言(ことば)をいやしみて後悔あるべし、後悔あるべし。

二月廿八日
伯耆房に下す。

[法華証明抄(別名:死活抄) 本文] 完。

by johsei1129 | 2019-12-01 12:22 | 南条時光(上野殿) | Trackback | Comments(0)
2019年 12月 01日

南条時光の所領・上野郷の殿原一同からお正月に供養されたもちいを「金のもちゐ」と称えられた書【上野郷主等御返事】

【上野郷主等御返事】
■出筆時期:弘安五年(1282年)一月十一日 六十一歳御作
■出筆場所:身延山中の草庵にて。
■出筆の経緯:本消息は大聖人御遷化なされる年の正月十一日に認められた消息です。
上野郷は南条時光が支配する所領で、本消息の宛名が「上野郷主等の殿原(武士達の尊称)」となっておられるので、南条時光と配下の武士一同でもちゐ二十枚をご供養されたものと思われます。
大聖人は、徳勝童子が土のもちゐを仏にまいらせて一閻浮提の主となった謂れを引いて、上野郷主の殿原一同のご供養をいたく喜ばれ「金のもちゐを法華経の御前にさゝげたり。後生の仏は疑ひなし」と称えられておられます。
■ご真筆:身延久遠寺にかって存在したが明示八年の大火で焼失。 高知市要法寺に形木所蔵。

【上野郷主等御返事 本文】

昔の徳勝童子は土のもちゐ(餅)を仏にまいらせて一閻浮提の主となる。
今の檀那等は二十枚の金のもちゐを法華経の御前にさゝげたり。
後生の仏は疑ひなし。なんぞ今生にそのしるし(験)なからむ。恐々。

正月十一日            日 蓮 花押
上ののがうす(郷主)等のとのばら


by johsei1129 | 2019-12-01 12:02 | 南条時光(上野殿) | Trackback | Comments(0)
2019年 12月 01日

日蓮大聖人が晩年の病状をおして、我が子五郎殿を失った上野殿母御前を激励した書【上野殿母御前御返事】

【上野殿母御前御返事(所領抄)】
■出筆時期:弘安四年(西暦1281年)十二月八日 六十歳 御作。
■出筆場所:身延山中 館にて。
■出筆の経緯:本抄は、前年の九月五日に我が子五郎殿(南条時光の弟)を失った、上野殿母御前からご供養の品々を送られたことへの返書となっております。本抄は大聖人が御遷化される約十ヶ月前に書かれたおり、「やせやまい」で体が衰えていることを率直に記されているとともに、そのなかで「この事はあまりになげかしく候へば、ふでをとりて候ぞ。これも、よも(日蓮も)、ひさしくもこのよに候はじ、一定五郎殿にいきあいぬと、をぼへ候。母よりさきにけさん(見参)し候わば、母のなげき申しつたへ候はん」と記し、もし日蓮が母御前より先にあの世に行き五郎殿に会ったならば、あなたの今の子を思う気持ちを伝えましょうと、励まされております。
■ご真筆:富士大石寺 所蔵

[上野殿母御前御返事(所領抄) 本文]

 乃米(しらよね)一だ・聖人(すみざけ)一つつ・二十ひさげか・かつかう・ひとかうぶくろ(一紙袋)おくり給び候い了んぬ。
このところの・やう、せんぜん(前前)に申しふり候いぬ。さては去ぬる文永十一年六月十七日この山に入り候いて今年十二月八日にいたるまで、此の山・出ずる事一歩も候はず、ただし八年が間、やせやまい(病)と申しとし(齢)と申しとしどし(年年)に身ゆわく・心をぼ(溺)れ候いつるほどに、今年は春より此のやまい・をこりて秋すぎ・冬にいたるまで日日をとろへ、夜夜にまさり候いつるが・この十余日はすでに食も・ほと(殆)をととどまりて候上、ゆき(雪)はかさなり・かん(寒)はせめ候、身のひゆる事石のごとし・胸のつめたき事氷のごとし。しかるに・このさけ(酒)はたた(温)かに・さしわかして、かつかうを・はたと・くい切りて一度のみて候へば、火を胸に・たくがごとし、ゆ(湯)に入るににたり、あせ(汗)に・あか(垢)あらい・しづくに足をすすぐ。

此の御志は、いかんがせんと・うれしくをもひ候ところに、両眼より・ひとつのなんだを・うかべて候。
まことや・まことや・去年(こぞ)の九月五日こ五郎殿のかくれにしは・いかになりけると・胸うちさわぎて・ゆび(指)ををりかずへ候へば、すでに二ケ年十六月四百余日にすぎ候が、それには母なれば御をとづれ(音信)や候らむ、いかに・きかせ給はぬやらむ。ふりし雪も又ふれり・ちりし花も又さきて候いき、無常ばかり・またも・かへりきこへ候はざりけるか、あらうらめし・あらうらめし余所(よそ)にても・よきくわんざ(冠者)かな、よきくわんざかな・玉のやうなる男かな男かな、いくせ・をやのうれしく・をぼすらむと見候いしに、満月に雲のかかれるが・はれずして山へ入り、さかんなる花のあやなく・かぜ(風)のちらせるがごとしと・あさましくこそをぼへ候へ。

日蓮は所らう(労)のゆへに、人人の御文(ふみ)の御返事も申さず候いつるが、この事は・あまりになげかしく候へば・ふでをとりて候ぞ。これも・よも・ひさしくも・このよに候はじ。一定(いちじょう)五郎殿にいきあいぬと・をぼへ候、母よりさきに・けさん(見参)し候わば母のなげき申しつたへ候はん。事事又又申すべし、恐恐謹言。

十二月八日              日 蓮 花押
上野殿母御前御返事

by johsei1129 | 2019-12-01 08:26 | 南条時光(上野殿) | Trackback | Comments(0)
2019年 11月 30日

法華経と申すは手に取れば其の手やがて仏に成り、口に唱ふれば其の口即仏なりと説いた【上野尼御前御返事】

【上野尼御前御返事】
■出筆時期:弘安四年(西暦1281)十一月十五日 六十歳御作。
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:本書は南條時光の母が、父上野入道殿の命日に際し「子息多ければ孝養まちまちなり、然れども必ず法華経に非ざれば謗法になるのでしょうか」と問われ、それへの返書となっております。大聖人は漢の書家・烏竜(おりょう)とその息子・遺竜の例えを引いて、「此の経(法華経)を持つ人は百人は百人ながら、千人は千人ながら、一人もかけず仏に成ると申す文なり」と法華経信仰を貫くよう諭されております。烏竜と遺竜の例えとは、烏竜が「法華経を決して書写してはならない」と遺言し、遺竜もこの遺言を固く守ったため、父の烏竜は地獄に落ちる。しかし遺竜の使えた大王の司馬氏は「せめて法華経の題目を書かずば違勅(いちょく)の科(とが)あり」と責めたため、やむなく子の遺竜は法華経の題号を書きしるす。この事により、烏竜が落ちていた無間地獄は常寂光の都と成ったという。
また大聖人は最後に「此の由を、はわきどの(伯耆殿)よみきかせまいらせ給うべし」と記し、日興上人に詳しくお話させますと気を遣われております。
■ご真筆: 京都市本禅寺 断簡所蔵
法華経と申すは手に取れば其の手やがて仏に成り、口に唱ふれば其の口即仏なりと説いた【上野尼御前御返事】_f0301354_23192964.jpg


[妙法尼御前御返事 本文]

 麞牙(しらよね)一駄四斗定あらひいも(洗芋)一俵、送り給びて南無妙法蓮華経と唱へまいらせ候い了んぬ。
 妙法蓮華経と申すは蓮に譬えられて候、天上には摩訶曼陀羅華(まかまんだらけ)、人間には桜の花、此等はめでたき花なれども、此れ等の花をば法華経の譬には仏取り給う事な。一切の花の中に取分(とりわ)けて此の花を法華経に譬へさせ給う事は、其の故候なり、或は前花後菓と申して花は前(さき)に菓(み)は後(あと)なり、或は前菓後花と申して菓(み)は前(さき)に花は後(あと)なり、或は一花多菓、或は多花一菓、或は無花有菓と品品(しなじな)に候へども蓮華と申す花は菓(み)と花と同時なり。一切経の功徳は先(さき)に善根を作(な)して後(のち)に仏とは成ると説く、かかる故に不定なり。法華経と申すは手に取れば其の手やがて仏に成り、口に唱ふれば其の口即仏なり。譬えば天月の東の山の端(は)に出ずれば、其の時即水に影の浮かぶが如く、音とひびきとの同時なるが如し。

 故に経に云く「若し法を聞くこと有らん者は一として成仏せざること無し」云云。文の心は此の経を持つ人は百人は百人ながら、千人は千人ながら、一人もかけず仏に成ると申す文なり。

 抑(そもそも)御消息を見候へば尼御前の慈父(おんちち)、故(こ)松野六郎左衛門入道殿の忌日と云云。子息多ければ孝養まちまちなり、然れども必ず法華経に非ざれば謗法等云云。釈迦仏の金口の説に云く「世尊の法は久しくして後要(かな)らず当に真実を説きたもうべし」と、多宝の証明に云く、妙法蓮華経は皆是れ真実なりと、十方の諸仏の誓に云く舌相梵天に至る云云、これよりひつじさる(未申)の方に大海をわたりて国あり、漢土と名く、彼の国には或は仏を信じて神を用いぬ人もあり、或は神を信じて仏を用いぬ人もあり、或は日本国も始は、さこそ候いしか。

 然るに彼の国に烏竜(おりょう)と申す手書(てかき)ありき、漢土第一の手なり。例せば日本国の道風(どうふう)・行成(こうぜい)等の如し。此の人仏法をい(忌)みて経をかかじと申す願を立てたり、此の人死期来りて重病をうけ臨終にをよんで子に遺言して云く、汝は我が子なり、その跡絶(あとたえ)ずして又我よりも勝れたる手跡なり。たとひいかなる悪縁ありとも法華経をかくべからずと云云。然して後、五根より血の出ずる事、泉(いずみ)の涌くが如し、舌八つにさけ・身くだけて十方にわか(分)れぬ。然れども一類の人人も三悪道を知らざれば地獄に堕つる先相ともしらず。
其の子をば遺竜(いりょう)と申す、又漢土第一の手跡なり。親の跡を追うて法華経を書かじと云う願を立てたり。其の時大王おはします司馬氏と名く、仏法を信じ殊に法華経をあふぎ給いしが、同じくは我が国の中に手跡第一の者に此の経を書かせて持経とせんとて遺竜を召す。竜申さく、父の遺言あり是れ計りは免し給へと云云。
大王父の遺言と申す故に他の手跡を召して一経をうつし畢んぬ、然りといへ共御心(みこころ)に叶い給はざりしかば、又遺竜を召して言はく、汝親の遺言と申せば朕(われ)ま(枉)げて経を写させず、但八巻の題目計りを勅に随うべしと云云。返す返す辞し申すに王瞋(いか)りて云く、汝が父と云うも我が臣なり、親の不孝を恐れて題目を書かずば違勅の科(とが)ありと、勅定度度(ちょくじょうたびたび)重かりしかば、不孝はさる事なれども当座の責をのが(免)れがたかりしかば、法華経の外題を書きて王へ上(ささ)げ、宅に帰りて父のはか(墓)に向いて血の涙を流して申す様は、天子の責重きによつて亡き父の遺言をたがへて、既に法華経の外題を書きぬ。不幸の責免れがたしと歎きて三日の間、墓を離れず食を断ち既に命に及ぶ。三日と申す寅(とら)の時に已に絶死し畢(おわ)つて夢の如し。虚空を見れば天人一人おはします、帝釈を絵(え)にかきたるが如し、無量の眷属、天地に充満せり。爰(ここ)に竜問うて云く、何(いか)なる人ぞ、答えて云く、汝知らずや我は是れ父の烏竜(おりょう)なり。我人間にありし時外典を執し仏法をかたきとし、殊に法華経に敵をなしまいらせし故に無間に堕つ。日日に舌をぬかるる事、数百度、或は死し或は生き、天に仰き地に伏してなげけども叶う事なし。人間へ告げんと思へども便りなし。汝我が子として遺言なりと申せしかば、其の言(ことば)炎と成つて身を責め、剣と成つて天より雨(ふ)り下(くだ)る。汝が不孝極り無かりしかども我が遺言を違へざりし故に、自業自得果うらみがたかりし所に、金色の仏一体、無間地獄に出現して仮使遍法界(けしへんほうかい)・断善諸衆生・一聞法華経・決定成菩提(けつじょうじょうぼだい)と云云。此の仏、無間地獄に入り給いしかば、大水を大火になげたるが如し。少し苦みや(止)みぬる処に、我合掌して仏に問い奉りて何(いか)なる仏ぞと申せば、仏答えて我は是れ汝が子息遺竜(いりょう)が只今書くところの法華経の題目、六十四字の内の妙の一字なりと言(のたも)ふ。八巻の題目は八八六十四の仏、六十四の満月と成り給へば、無間地獄の大闇即大明となりし上、無間地獄は当位即妙・不改本位と申して常寂光の都と成りぬ。我及び罪人とは皆蓮(はちす)の上の仏と成りて只今都率の内院へ上り参り候が、先ず汝に告ぐるなりと云云。遺竜が云く、我が手にて書きけり争(いか)でか君たすかり給うべき、而も我が心より、かくに非ず・いかに・いかにと申せば、父答えて云く、汝はかなし、汝が手は我が手なり、汝が身は我が身なり・汝が書きし字は我が書きし字なり。汝心に信ぜざれども手に書く故に既にたすかりぬ。譬えば小児の火を放つに、心にあらざれども物を焼くが如し。法華経も亦かくの如し、存外に信を成せば必ず仏になる。又其の義を知りて謗ずる事無かれ、但し在家の事なれば、いひしこと故(ことさら)大罪なれども懺悔(さんげ)しやすしと云云。此の事を大王に申す。大王の言く、我が願既にしるし有りとて遺竜弥(いよいよ)朝恩を蒙(こうむ)り、国又こぞつて此の御経を仰ぎ奉る。

 然るに故(こ)五郎殿と入道殿とは尼御前の父なり子なり。尼御前は彼の入道殿のむすめなり。今こそ入道殿は都率(とそつ)の内院へ参り給うらめ。此の由をはわき(伯耆)どのよみきかせまいらせ給うべし。事そうそう(怱怱)にてくはしく申さず候。恐恐謹言

十一月十五日                            日 蓮 花押
上野尼御前御返事

by johsei1129 | 2019-11-30 21:57 | 南条時光(上野殿) | Trackback | Comments(0)
2019年 11月 30日

一切の事は国により時による事なり、仏法は此の道理をわきまうべきにて候、と説いた【上野殿御返事 】

【上野殿御返事】
■出筆時期:弘安四年年(1281)九月二十日 六十歳御作
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:本抄をしるされた弘安四年九月は、大聖人が御遷化なされる約一年前で、南条時光(上野殿)も大聖人の病状のことは伝え聞いていたと思われ、滋養に良い、いも・ごぼう・大根を身延山中に届けられます。
本抄はその時光の真心のご供養にいする返書となっております。大聖人は「千金の金をもてる者もう(飢)えてしぬ。一飯をつと(苞)につつめる者に、これをと(劣)れり」と記され、師の体を気遣う時光のご供養の品々は、時に適ったものであると称えられておられます。
さらに結びでは「一切の事は国により時による事なり、仏法は此の道理をわきまうべきにて候」と短いながら自身滅後の広宣流布を託す、時光に重々の指導ををなされておられます。

尚、御年四十一歳(弘長二年二月十日)に流罪地の伊豆・伊東で著された【教機時国抄】では、「仏教を弘めん人は必ず時を知るべし、譬えば農人の秋冬田を作るに種と地と人の功労とは違わざれども一分も益無く還つて損す一段を作る者は少損なり。一町二町等の者は大損なり、春夏耕作すれば上中下に随つて皆分分に益有るが如し、仏法も亦復是くの如し、時を知らずして法を弘めば益無き上還つて悪道に堕するなり」と説かれておられます。
■ご真筆:現存しておりません。

【上野殿御返事 本文】

いゑ(家)のいも(芋)一駄・ごばう(牛蒡)一つと(注:苞)・大根六本。
いもは石のごとし、ごばうは大牛の角のごとし、大根は大仏堂の大くぎ(釘)のごとし。あぢわひは忉利天の甘露のごとし。

石を金にかうる国もあり・土をこめ(米)にうるところもあり。千金の金をもてる者もう(飢)えてしぬ。
一飯をつと(苞)につつめる者に、これをと(劣)れり。

経に云く「うえたるよ(世)には、よね(米)たつとし」と云云。一切の事は国により時による事なり、仏法は此の道理をわきまうべきにて候、又又申すべし、恐恐謹言。

弘安四年九月廿日 日 蓮 花 押
上野殿御返事

※注一つと(苞):食料品を運ぶためにわらなどを束ねたもの。この当時の人々はその苞(つと)に食品を包んで運んだ。



by johsei1129 | 2019-11-30 21:24 | 南条時光(上野殿) | Trackback | Comments(0)
2019年 11月 30日

教主釈尊の一大事の秘法を霊鷲山にして相伝し日蓮が肉団の胸中に秘して隠し持てりと説いた【南条殿御返事】

【南条殿御返事】
■出筆時期:弘安四年(西暦1281年)九月十一日 六十歳御作
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:本書は大聖人が御遷化なされるほぼ一年前、強信徒南条時光(上野賢人)に与えられた書である。本書で大聖人は、ご供養の品々を届けた時光の使いのものより時光が病状であることを聞き、いそぎ療治をして大聖人の下を参詣されるよう促している。また強信徒の時光だからこそ、「教主釈尊の一大事の秘法を霊鷲山にして相伝し日蓮が肉団の胸中に秘して隠し持てり・・・中略・・・かかる不思議なる法華経の行者の住処なればいかでか霊山浄土に劣るべき」と自らが末法の本仏であると言う内証を明らかにしている、極めて重要なご消息文となっている。
■ご真筆: 現存しておりません。

[南条殿御返事]

塩一駄・大豆一俵、とつさか(鶏冠菜)一袋、酒一筒・給び候。上野の国より御帰宅候後は未だ見参に入らず候。牀敷(ゆかしく)存じ候いし処に品品の物ども取り副(そ)え候いて御音信に預り候事、申し尽し難き御志にて候。

 今申せば事新しきに相似て候へども、徳勝童子は仏に土の餅を奉りて阿育大王と生れて南閻浮提を大体知行すと承り候。土の餅は物ならねども仏のいみじく渡らせ給へば・かくいみじき報いを得たり。然るに釈迦仏は、我を無量の珍宝を以て億劫の間・供養せんよりは・末代の法華経の行者を一日なりとも供養せん功徳は百千万億倍・過ぐべしとこそ説かせ給いて候に、法華経の行者を心に入れて数年供養し給う事有り難き御志かな。金言の如くんば定めて後生は霊山浄土に生れ給うべし、いみじき果報なるかな。

 其の上此の処は人倫を離れたる山中なり。東西南北を去りて里もなし。かかる、いと心細き幽窟(ゆうくつ)なれども教主釈尊の一大事の秘法を霊鷲山にして相伝し、日蓮が肉団の胸中に秘して隠し持てり。されば日蓮が胸の間は諸仏入定の処なり。舌の上は転法輪の所、喉(のんど)は誕生の処、口中は正覚の砌(みぎり)なるべし。かかる不思議なる法華経の行者の住処なれば、いかでか霊山浄土に劣るべき。法妙なるが故に人貴し・人貴きが故に所尊しと申すは是なり。

 神力品に云く「若しは林の中に於ても若しは樹の下に於ても、若しは僧坊に於ても、乃至而般涅槃(はつねはん)したもう」と云云。此の砌(みぎり)に望まん輩(やから)は無始の罪障忽に消滅し、三業の悪転じて三徳を成ぜん。彼の中天竺の無熱池に臨みし悩者(のうしゃ)が心中の熱気を除愈(じょゆ)して其の願を充満する事清涼池の如しとうそぶきしも、彼れ此れ異なりといへども、其の意は争でか替(かわ)るべき。

  彼の月氏の霊鷲山は本朝此の身延の嶺(みね)なり。参詣遥かに中絶せり急急に来臨を企つべし。是にて待ち入つて候べし。哀哀(あわれあわれ)申しつくしがたき御志かな、御志かな。

弘安四年九月十一日 日 蓮 花 押
南条殿御返事

御使の申し候を承り候。是の所労難儀のよし聞え候。いそぎ療治をいたされ候いて、御参詣有るべく候。



by johsei1129 | 2019-11-30 21:21 | 南条時光(上野殿) | Trackback | Comments(0)
2019年 11月 30日

末代悪世に入れば須臾の間も法華経は信じがたき事にて候ぞ、と説いた【上野殿御返事(法華経難信事)】

【上野殿御返事(法華経難信事)】
■出筆時期:弘安四年(1281年)三月十八日 六十歳御作
■出筆場所:身延山中の草庵にて。
■出筆の経緯:本書は上野殿(南条時光)に、四ヶ月前に亡くなられた末の弟・故五郎のことに触れられて与えられた消息ですが、本書を著した五日前にも、時光の母上野尼御前に故五郎のことに触れられて慰めの消息を送られておられます。七ヶ月前に時光は五郎を伴って身延の草庵に見参しており、その時大聖人にお目通りされておられます。
大聖人はその時の五郎の印象が強かったのか、五郎の思い出に触れられた消息は本書を含め八通も残されておられます。

本書で大聖人は「火に入りてやけぬ者はありとも<略>末代悪世に入れば須臾の間も法華経は信じがたき事にて候ぞ<略>法華経の御ゆへに、あやしのとが(尖)にあたらんとおもふ人は候はぬぞ。身にて心みさせ給い候いぬらん。たうとし・たうとし」と記し、熱原の法難以降、時光が幕府の圧力に怯(ひる)むことなく、農民信徒の外護にあたった功績を最大限に讃えられておられます。
尚、冒頭の神主は法華経に帰依したことで非難され時光が保護した浅間神社の神主と思われます。※参照[上野殿御返事]
■ご真筆:現存しておりません。古写本:日興上人筆(富士大石寺蔵:非一般公開)

[上野殿御返事(法華経難信事) 本文]

蹲鴟(いも)一俵給び了んぬ。
又かうぬし(神主)のもとに候、御乳塩(ちしお・白馬と思われます)一疋、並びに口付一人候。

さては故五郎殿の事は・そのなげ(歎)きふ(古)りずとおもへども、(故五郎殿の)御けさん(見参)は・はるかなるやうにこそ・おぼえ候へ。なをも、なをも法華経をあだむ事は・た(断)えつとも見え候はねば、これよりのちも・いかなる事か候はんずらめども、いままでこら(堪)へさせ給へる事まことしからず候。

仏の説いての給はく、火に入りて・やけぬ者はありとも、大水に入りてぬれぬものはありとも、大山は空(そら)へとぶとも、大海は天へあがるとも、末代悪世に入れば須臾の間も法華経は信じがたき事にて候ぞ。

徽宗(きそう)皇帝は漢土の主(ある)じ・蒙古国に・からめとられさせ給いぬ。隠岐の法王は日本国のあるじ(主)・右京の権大夫殿に・せめられさせ給いて・島にてはてさせ給いぬ。法華経のゆへにてだにも・あるならば即身に仏にもならせ給いなん。

わづかの事には身をやぶり命をすつれども、法華経の御ゆへに・あやしのとがにあたらんとおもふ人は候はぬぞ。身にて心みさせ給い候いぬらん。たうとし・たうとし、恐恐謹言。

弘安四年三月十八日       日 蓮 花 押
上野殿御返事

by johsei1129 | 2019-11-30 16:30 | 南条時光(上野殿) | Trackback | Comments(0)
2019年 11月 30日

南無妙法蓮華経と申す女人の思う子にあわずという事はなし、と説いた【上野尼御前御返事】

【上野尼御前御返事】
■出筆時期:弘安四年(1281年)一月十三日 六十歳御作
■出筆場所:身延山中の草庵にて。
■出筆の経緯:本抄は南条時光の母、上野尼御前が新年の祝いで種々のご供養をされたことへの返書となっております。
本抄で大聖人は、四ヶ月ほど前にわずか十六歳で病死した末っ子の七郎五郎(時光の弟)についふれ「ちりし花もさかんとす、かれしくさ(草)もねぐみぬ、故五郎殿もいかでか、かへらせ給はざるべき」と記し、花も草も春になればまた咲き、生えてくるのに、何故故五郎殿は帰ってこないのかと上野尼御前の悲しみを慰められておられます。大聖人は、五郎が急死する三か月前に、時光が五郎を伴い身延に見参した時に会っており「心ね、みめかたち人にすぐれて候いし上<中略>をやの心に随うこと、水のうつわものにしたがい、かげの身にしたがうがごとし」と故五郎が親孝行の子供であったと讃えられておられます。※参照[上野殿御返事(弔慰御書)]
さらに文末では、「やすやすとあわせ給うべき事候、釈迦仏を御使として・りやうぜん(霊山)浄土へまいりあわせ給へ<中略>花はなつにならずとも、南無妙法蓮華経と申す女人のをも(思)う子にあわずという事はなしととかれて候ぞ、いそぎ・いそぎつと(勤)めさせ給へ」と記し、霊山浄土で必ず故五郎に再びまみえることができるので唱題に励むよう諭されておられます。
■ご真筆:富士大石寺所蔵(非一般公開)。

[上野尼御前御返事 本文]

聖人(すみざけ)ひとつつ(一筒)・ひさげ(提子)十か・十字(むしもち)百・あめひとをけ(飴一桶)・二升か・柑子(こうじ)ひとこ(一籠)・串柿十くし・ならびにおくり候い了(おわ)んぬ、春のはじめ御喜び花のごとくひらけ・月のごとくみ(満)たせ給うべきよしうけ給わり了んぬ。
抑(そもそも)故五らうどのの御事こそ・をもいいでられて候へ、ちりし花もさかんとす・か(枯)れしくさもねぐみぬ、故五郎殿もいかでか・かへらせ給はざるべき、あわれ無常の花と・くさ(草)とのやうならば・人丸にはあらずとも花のもとも・はな(離)れじ、いは(繋)うるこま(馬)にあらずとも・草のもとをばよもさ(去)らじ。

経文には子をばかたき(敵)ととかれて候、それもゆわれ(所以)候か・梟(ふくろう)と申すとりは母をくらう・破鏡(はけい)と申すけだものは父をがいす、あんろく(安禄)山と申せし人は師史明と申す子にころされぬ、義朝(よしとも)と申せしつはもの(武夫)は為義(ためよし)と申すちち(父)をころす、子はかたきと申す経文ゆわれて候、又子は財と申す経文あり、妙荘厳王は一期(ご)の後・無間大城と申す地獄へ堕ちさせ給うべかりしが浄蔵(じょうぞう)と申せし太子にすくわれて・大地獄の苦をまぬがれさせ給うのみならず・娑羅樹(しゃらじゅ)王仏と申す仏とならせ給う、生提女(しょうだいにょ)と申せし女人は慳貪(けんどん)のとが(咎)によつて餓鬼道に堕ちて候いしが・目連と申す子にたすけられて餓鬼道を出で候いぬ、されば子を財と申す経文たがう事なし。

故五郎殿はとし十六歳・心ね・みめかたち(容貌)人にすぐれて候いし上・男ののう(能)そなわりて万人に・ほめられ候いしのみならずをや(親)の心に随うこと・水のうつわ(器)ものに・したがい・かげの身に・したがうがごとし、いへにては・はしらとたのみ・道にては・つへ(杖)とをもいき、はこのたからも・この子のため・つかう所従もこれがため、我し(死)なば・になわれて・のぼ(野辺)へゆきなんのちの・あとをもいをく事なしとふかくをぼしめしたりしに・いやなくさきにたちぬれば・いかんにや・いかんにや・ゆめか・まぼろしか・さめなん・さめなんと・をもへども・さめずして・としも又かへりぬ、いつとま(待)つべしとも・をぼへず、ゆきあうべき・ところだにも申しをきたらば・はね(羽)なくとも天へものぼりなん、ふねなくとも・もろこし(唐土)へも・わたりなん、大地のそこに・ありときかば・いかでか地をもほらざるべきと・をぼしめすらむ。
やすやすとあわせ給うべき事候、釈迦仏を御使として・りやうぜん(霊山)浄土へまいりあわせ給へ、若有聞法者無一不成仏(にゃくうもんぽうしゃ・むいつふじょうぶつ)と申して、大地はささば・はづ(外)るとも・日月は地に堕ち給うとも・しを(潮)はみちひ(満干)ぬ世はありとも・花はなつにならずとも・南無妙法蓮華経と申す女人の・をもう子に・あわずという事はなしととかれて候ぞ、いそぎ・いそぎつとめさせ給へ・つとめさせ給へ、恐恐謹言。

正月十三日           日 蓮 花押
上野尼御前御返事


【 妙法蓮華経 方便品第二】
 一切諸如来 以無量方便
 度脱諸衆生 入仏無漏智
 若有聞法者 無一不成仏
 諸仏本誓願 我所行仏道
 普欲令衆生 亦同得此道

 [和訳]
 一切の諸の如来は、無量の方便を以て
 諸の衆生を度脱(解脱)し、仏の無漏智(迷いの ない智慧)に入らしめん。
 若し(此の)法を聞く者有らば、一人として成仏せずこと無からん
 諸仏の本の誓願は、我が行ぜし所の仏道を
 普ねく衆生をして、亦、(佛と)同じく此の道(仏道)を得さしめることなのだ。

by johsei1129 | 2019-11-30 16:25 | 南条時光(上野殿) | Trackback | Comments(0)
2019年 11月 30日

地獄と仏とは・・・委細にたづね候へば我等が五尺の身の内に候とみへて候と説いた【十字御書】

【十字御書(むしもちごしょ)】
■出筆時期:弘安4年正月5日弘安三年(西暦1281年) 六十歳御作
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:本書は「重須(おもす)殿女房」すなわち、富士郡重須の地頭・石河新兵衛殿の夫人(南条時光殿の姉)が、年頭に当たり身延の大聖人のもとへ、蒸餅その他の品々を御供養申し上げたことに対する、お礼のご消息文となっております。
このなかで大聖人は「地獄と仏とはいづれの所に候ぞとたづね候へば・・・<中略>・・・委細にたづね候へば我等が五尺の身の内に候とみへて候」と、説くと共に「正月の始に法華経をくやうしまいらせんとをぼしめす御心は、木より花のさき、池より蓮のつぼみ、雪山のせんだんのひらけ、月の始めて出るなるべし」と重須殿女房の厚い志を称えておられます。
尚、十字(むしもち)とは、鎌倉時代に中国から伝来したもので、災いを除き幸いを招くおまじないとしてお正月の祝い食べ物として蒸し餅に紅で「十」の字を記したことがいわれとなっております。
また現在の北山本門寺は、重須殿女房の子、石河孫三郎能忠が開基しております。
■ご真筆: 富士・大石寺所蔵。
地獄と仏とは・・・委細にたづね候へば我等が五尺の身の内に候とみへて候と説いた【十字御書】_f0301354_2345528.jpg



[十字御書 本文]

 十字(むしもち)一百まい、かしひとこ(菓子一籠)給い了んぬ。正月の一日は日のはじめ月の始めとしのはじめ春の始め、此れをもてなす人は月の西より東をさしてみつがごとく、日の東より西へわたりてあきらかなるがごとく、とく(徳)もまさり人にもあいせられ候なり。

 抑(そもそも)地獄と仏とはいづれの所に候ぞとたづね候へば、或は地の下(した)と申す経文もあり、或は西方等と申す経も候。しかれども委細にたづね候へば我等が五尺の身の内に候とみへて候。さもやをぼへ候事は我等が心の内に父をあな(蔑)づり母ををろ(疎)かにする人は、地獄其の人の心の内に候。譬へば蓮のたねの中に花と菓とのみゆるがごとし。仏と申す事も我等の心の内にをはします。譬へば石の中に火あり珠の中に財のあるがごとし。我等凡夫はまつげ(睫)のちかきと虚空のとをきとは見候事なし。我等が心の内に仏はをはしましけるを知り候はざりけるぞ。ただし疑ある事は我等は父母の精血変じて人となりて候へば、三毒の根本婬欲の源なり。いかでか仏はわたらせ給うべきと疑い候へども、又うちかへし、うちかへし案じ候へば、其のゆわ(謂)れもやとをぼへ候。蓮はきよ(清)きもの泥よりいでたり、せんだん(栴檀)はかう(香)ばしき物大地よりをいたり、さくらはをもしろき物、木の中よりさきいづ。やうきひ(楊貴妃)は見めよきもの下女のはら(腹)よりむまれたり。月は山よりいでて山をてらす。わざわい(禍)は口より出でて身をやぶる、さいわい(福)は心よりいでて我をかざる。

 今正月の始に法華経をくやう(供養)しまいらせんとをぼしめす御心は、木より花のさき池より蓮のつぼみ、雪山のせんだんのひらけ、月の始めて出るなるべし。今日本国の法華経をかたきとしてわざわいを千里の外よりまねきよせぬ。此れをもつてをもうに、今又法華経を信ずる人はさいわいを万里の外よりあつむべし。影は体より生ずるもの、法華経をかたきとする人の国は、体にかげのそうがごとくわざわい来るべし。法華経を信ずる人はせんだんにかをばしさのそなえたるがごとし。又又申し候べし。

正 月 五 日        日  蓮  在御 判
をもんす(重須)どのの女房御返事





by johsei1129 | 2019-11-30 16:16 | 南条時光(上野殿) | Trackback | Comments(0)