日蓮大聖人『御書』解説

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カテゴリ:御義口伝( 169 )


2018年 12月 15日

末法の本仏の立場で法華経一部二十八品を直弟子日興上人に口伝した書【御義口伝 下】要点解説(20)

【寿量品二十七箇の大事】

第二十 得入無上道等の事(注)

御義口伝に云く、無上道とは寿量品の無作の三身(注)なり。
此の外に成就仏身之れ無し。

今、日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉る者は成就仏身、疑無きなり云云。




得入無上道等

妙法蓮華経二十八品の極説「如来寿量品第十六」の最終段の以下の偈。

[原文] 
毎自作是念 以何令衆生 得入無上道 速成就仏身
[和訳]
(仏は)毎自(つね)に是の念を為せり。『以何にして衆生を、無上道(仏道)に入らしめて、速に仏身を成就せざらん』と。

無作の三身
無作とは有作の反対で、つくろわず、はたらかさず、ありのままの意で仏の境涯を示す。

三身とは、法・報・応の三身を示す。

仏法では命とは法身(ほっしん=魂魄)、報身(ほうしん=根底の境涯)、応身(おうじん=現実の姿(色心))の三身を具していると説く。

この三身を喩えとして「水」で示すと、酸素の原子、水素原子が魂魄つまり法身とすると、ある作用で酸素と水素原子が結びつき【H2O】の水の分子ができるとする。これが報身と見なせば、水は現実の実際の姿は外部の条件により水、氷、雪、水蒸気などど現実に目に見える姿に変化する。この姿が応身と見なすことができる。

釈尊は如来寿量品第十六の長行(※)で、途方も無いほどの過去世に菩薩の修行をして仏になり、それ以降三千大千世界(宇宙)に存在する無数の仏国土で衆生を化道してきており、そして今、娑婆世界のインドに釈迦族の王子として応誕し、修行して仏になる姿を衆生に見せたのだと説いた。

 この場合、遥か久遠に菩薩行を為した結果として成道した境涯が報身で、釈迦族の王子として応誕した現実の色心は応身となる。
つまり法身は無始無終で存在し、報身は、一度仏として成道した以降は永遠に仏として存在する。つまり報身は有始無終で、応身は生まれもあれば死もある有始有終の存在として実存する。

日蓮大聖人は御義口伝「南無妙法蓮華経如来寿量品第十六の事」「惣じて伏惑を以て寿量品の極とせず、唯凡夫の当体本有の儘を此の品の極理と心得可きなり。無作の三身の所作は何物ぞと云う時南無妙法蓮華経なり云云」と解き明かしている。


如来寿量品第十六の長行の該当する文文
(原文)
我成仏已来 復過於此 百千万億那由佗 阿僧祇劫。
自従是来 我常在此娑婆世界 説法教化 亦於余処
百千万億 那由佗 阿僧祇国 導利衆生
(和訳)
我は成仏して已来 復た此に過ぎること、百千万億那由佗 阿僧祇劫(はるか久遠)なり。
是より以来、我は常に此の娑婆世界に在りて 説法教化し、亦た余処の 百千万億 那由佗 阿僧祇(ほぼ無数の)仏国土にても
衆生を導き利してきたのだ。



【御義口伝 下】要点解説(21)に続く




by johsei1129 | 2018-12-15 22:21 | 御義口伝 | Trackback | Comments(0)
2018年 12月 13日

末法の本仏の立場で法華経一部二十八品を直弟子日興上人に口伝した書【御義口伝 下】要点解説(19)

【寿量品二十七箇の大事】


第十九 毎自作是念の事(注)

御義口伝に云く、毎とは三世(注)なり。自とは別しては釈尊、惣じては十界なり。

是念とは無作本有の南無妙法蓮華経の一念なり。作とは此の作は有作の作に非ず、無作本有の作なり云云。

 

 広く十界本有に約して云わば、自とは万法己己の当体なり、是念とは地獄の呵責の音、其の外一切衆生の念念、皆是れ自受用報身の智なり、是を念とは云うなり。


今、日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る念は、大慈悲の念なり云云。


毎自作是念

法華経二十八品の極説、如来寿量品第十六の最終段の以下の偈。

[原文]

毎自作是念 以何令衆生 得入無上道 速成就仏身

[和訳]

(仏は)毎自(つね)に是の念を為せり、『以何にして衆生を無上道(仏道)に入らしめて、速に仏身を成就せざらん』と。


三世

過去世、現世、未来世を意味する。

仏法では有情非情に渡り、死して肉体は滅しても魂魄は不滅で、現世の善行・悪行に応じ、未来世にその報いとしての境遇でこの世に生まれると説き明かされている。


人と人との遺伝子の差異は0.1%程度と言われているが、生まれた時の境遇の差は非常に大きい。平和な日本に生まれる人、戦争のさなかの難民キャンプで生まれる人。五体満足で生まれる人、障害を持って生まれる人。仏法ではこの事を衆生個々の過去世の善行・悪行の報いと捉える。それ故、現世で妙法蓮華経で仏道の修行し、己の己心に善行の因を積むことで未来世で自らが望む境遇で生まれることが叶うと説かれている。




by johsei1129 | 2018-12-13 22:50 | 御義口伝 | Trackback | Comments(0)
2018年 12月 13日

末法の本仏の立場で法華経一部二十八品を直弟子日興上人に口伝した書【御義口伝 下】要点解説(18)

【寿量品二十七箇の大事】


第十八 行道不行道の事 (注)

御義口伝に云く、十界の衆生の事を説くなり。

 行道は四聖(注)、不行道は六道なり。(注)

 又云く行道は修羅・人・天、不行道は三悪道(地獄・餓鬼・畜生)なり。


所詮、末法に入つては、法華の行者は行道なり、謗法の者は不行道なり。

 道とは法華経なり、天台云く「仏道とは別して今の経(注)を指す」と。


今、日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉るは、行道なり、唱えざるは不行道なり
云云。


行道不行道

妙法蓮華経 寿量品第十六の「自我偈」終段のある下記の偈。

[原文]

我常知衆生 行道不行道 随応所可度 為説種種法 

毎自作是念 以何令衆生 得入無上道 速成就仏身

[和訳]

我、常に衆生が(仏)道を行じ、行ぜざるかを知りて(衆生を)済度すべき所に随って、為に種種の法を説けり。 

(我は)毎自(つね)に是の念を為せり、『以何にして衆生を、無上道(仏道)に入らしめて、速に仏身を成就せざらん』と。


四聖・六道

釈尊は妙法蓮華経で、衆生の境涯は十の行(界)ーに分別されると解き明かした。

常には六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)を巡り巡る。これを六道輪廻と称する。この六道輪廻から脱却したのが四聖の境涯である。四聖は声聞・縁覚・菩薩・仏となる。


 声聞は仏の声を聞く、つまり仏の説法を理解し、又それを衆生に聞かせる境涯を示し、縁覚は縁に触れて自らの力て一定の悟りを得る境涯を示す。例えばニュートンが、林檎が木から落ちるのを見て「万有引力」の法則を発見したような境涯。

菩薩は他者を救済しようとするを示し、菩薩行を経て仏の道に入るとする。


日蓮大聖人は衆生が十界の境涯を持つことを「観心本尊抄」で次のように解き明かしている。

「今数ば他面を見るに但人界に限つて余界を見ず、自面も亦復是くの如し。如何が信心を立てんや。

 答う、数ば他面を見るに或時は喜び或時は瞋り或時は平に或時は貪り現じ、或時は癡現じ或時は諂曲なり。

 瞋るは地獄・貪るは餓鬼・癡は畜生・諂曲なるは修羅・喜ぶは天・平かなるは人なり、他面の色法に於ては六道共に之れ有り。四聖は冥伏して現われざれども委細に之を尋ねば之れ有る可し。 

 問うて曰く六道に於て分明ならずと雖も粗之を聞くに之を備うるに似たり、四聖は全く見えざるは如何。

 答えて曰く前には人界の六道之を疑う、然りと雖も強いて之を言つて相似の言を出だせしなり四聖も又爾る可きか。

 試みに道理を添加して万か一之を宣べん。所以に世間の無常は眼前に有り、豈人界に二乗界(声聞・縁覚)無からんや。無顧の悪人も猶妻子を慈愛す菩薩界の一分なり。

 但仏界計り現じ難し、九界を具するを以て強いて之を信じ疑惑せしむること勿れ。

 
法華経の文に人界を説いて云く「衆生をして仏知見を開かしめんと欲す」、涅槃経に云く「大乗を学する者は肉眼有りと雖も名けて仏眼と為す」等云云。

 末代の凡夫出生して法華経を信ずるは、人界に仏界を具足する故なり」と。


今の経

已今当の三説の中の今教を示す。

妙法蓮華経法師品第十で釈尊は次のように解き明かした。

「我が説く所の経典は無量千万億にして、已[すで]に説き、今[いま]説き、当[まさ]に説くべし。而も其の中に於いて、此の法華経は最も為れ難信難解なり」


已説は法華経以前に説かれて爾前経(にぜんきょう:華厳経・般若経等)を指し、今経は法華経(妙法蓮華経)、当説は妙法法華経以降に説いた、普賢経、涅槃経を指す。



【御義口伝 下】要点解説(19)に続く




by johsei1129 | 2018-12-13 00:11 | 御義口伝 | Trackback | Comments(0)
2018年 12月 09日

末法の本仏の立場で法華経一部二十八品を直弟子日興上人に口伝した書【御義口伝 下】要点解説(17)

【寿量品二十七箇の大事】


第十七 放逸著五欲 堕於悪道中の事(注)

御義口伝に云く、放逸とは謗法の名なり、入阿鼻獄、疑無き者なり。

今、日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉る者は、此の経文を免離せり云云。


放逸著五欲 堕於悪道中

 

如来寿量品第十六 自我偈の最終段にある下記の偈。

[原文]

我亦為世父 救諸苦患者 為凡夫顛倒 実在而言滅

以常見我故 而生憍恣心 放逸著五欲 墮於悪道中 

我常知衆生 行道不行道 随応所可度 為説種種法 

毎自作是念 以何令衆生 得入無上道 速成就仏身

[和訳]

我(釈尊)、亦、世の父と為りて、諸の苦み患う者を救わん。凡夫は顛倒せし為に、実には在れど而して滅すと言えり。

常に我を見るを以ての故に、而して驕恣(おごり)の心を生じ、放逸(注)し五欲に著して、悪道の中に於いて堕せん。 

我、常に衆生が(仏)道を行じ、行ぜざるかを知りて、(衆生を)済度すべき所に随って、為に種種の法を説けり。 

(我は)毎自(つね)に是の念を為せり、『以何にして衆生を、無上道(仏道)に入らしめて、速に仏身を成就せざらんと』


放逸(ほういつ)
煩悩の一つで、仏道修行においてだらしなく、精進を怠る事。
放逸に似た煩悩に懈怠(けたい)があるが、懈怠は単に修行を怠ける事を意味するが、放逸はさらに(身なり、所作等の諸々の行動の)だらしなさが加わる。









by johsei1129 | 2018-12-09 21:17 | 御義口伝 | Trackback | Comments(0)
2018年 12月 08日

末法の本仏の立場で法華経一部二十八品を直弟子日興上人に口伝した書【御義口伝 下】要点解説(16)

【寿量品二十七箇の大事】


第十六 我亦為世父の事 (注)


御義口伝に云く、我とは釈尊、一切衆生の父なり、主師親に於て仏に約し経に約す。 

仏に約すとは迹門の仏の三徳は今此三界の文是なり。本門の仏の主・師・親の三徳は、主の徳は我此土安穏の文なり、師の徳は常説法教化の文なり、親の徳は此の我亦為世父の文是なり。
 妙楽大師は、寿量品の文を知らざる者は不知恩の畜生と釈し給えり。
経に約すれば、諸経中王は主の徳なり、能救一切衆生は師の徳なり。

  又、如大梵天王一切衆生之父の文は父の徳なり。

今、日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は一切衆生の父なり、無間地獄の苦を救う故なり云云。

涅槃経に云く「一切衆生の異の苦を受くるは、悉く是れ如来一人の苦」と云云。

日蓮が云く、一切衆生の異の苦を受くるは悉く是れ日蓮一人の苦なるべし。





我亦為世父
妙法蓮華経如来寿量品 自我偈の最後にある下記の文。

[原文]
我亦為世父 救諸苦患者 為凡夫顛倒 実在而言滅
以常見我故 而生?恣心 放逸著五欲 墮於悪道中
我常知衆生 行道不行道 随応所可度 為説種種法
毎自作是念 以何令衆生 得入無上道 速成就仏身

[和訳]
我(仏)、亦、世の父と為りて、諸の苦み患う者を救わん。凡夫は顛倒せし為に、実には在れど而して滅すと言えり。
常に我を見るを以ての故に、而して驕恣(おごり)の心を生じ、放逸し五欲に著して、悪道の中に於いて堕せん。 
我、常に衆生が(仏)道を行じ、行ぜざるかを知りて、 度すべき所に随って、為に種種の法を説き、 
毎自(つね)に是の念を為せり『以何にして衆生を、無上道(仏道)に入らしめて、速に仏身を成就せざらんと』


 釈尊は妙法蓮華経で自身のことを「我仏なり」とは一度も語っていない。妙法蓮華経で仏の尊称は「世尊、仏、如来、世雄、大聖尊」などが記されているが、これは弟子側から釈尊を敬って称されており、釈尊が自身を語る時は「我亦為世父」のように世の父、衆生の父、諸人の父と語っている。

日蓮大聖人も末法の「人本尊開顕」の書と言われる「開目抄」の冒頭で、「夫れ一切衆生の尊敬すべき者三あり、所謂主師親これなり」と断じ、最終段で「日蓮は日本国の諸人にしうし(主師)父母なり」と宣言し、自身が末法の本仏であることを暗示為されておられが、開目抄の後に佐渡の地で認められた【観心本尊抄】では、全ての御書の中で唯一自身の事を『仏』と宣言されておられる。是こそ日蓮大聖人が久遠元初の自受用報身如来(くおんがんじょのじじゅゆうほうしんにょらい)であることの明確な証左と言えよう。

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[御真筆:中山法華経所蔵(国宝)]

『一念三千を識らざる者には大慈悲を起し五字の内に此の珠を裹み、末代幼稚の頚に懸けさしめ給う(御本尊の御下付を意味している)、四大菩薩の此の人を守護し給わんこと太公周公の文王を摂扶し四皓が恵帝に侍奉せしに異ならざる者なり』

文永十年太歳癸酉卯月二十五日                
       日蓮之を註す







by johsei1129 | 2018-12-08 23:30 | 御義口伝 | Trackback | Comments(0)
2018年 12月 07日

末法の本仏の立場で法華経一部二十八品を直弟子日興上人に口伝した書【御義口伝 下】要点解説(15)

【寿量品二十七箇の大事】

第十五 衆生見劫尽、~ 而衆見焼尽の事

御義口伝に云く、本門寿量の一念三千を頌する文なり。
大火所焼時とは実義には煩悩の大火なり。
我此土安穏とは国土世間なり、衆生所遊楽とは衆生世間なり、宝樹多華菓とは五陰世間なり(注)。

 是れ即ち一念三千(注)を分明に説かれたり、又云く上の件の文は十界なり。
 大火とは地獄界なり、天皷とは畜生なり。人と天とは、人天の二界なり、天と人と常に充満するなり。
 雨曼陀羅華とは声聞界なり、園林とは縁覚界なり、菩薩界とは及の一字なり、仏界とは散仏なり。
  修羅と餓鬼界とは憂怖諸苦悩如是悉充満の句に摂するなり。

此等を是諸罪衆生と説かれたり。然りと雖も此の寿量品の説、顕われては、則皆見我身とて一念三千なり。

今、日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者、是なり云云。


国土世間、衆生世間、五陰世間

合わせて三世間と称する。世間とは区別・違いを意味する。

一念三千は、衆生の己心の一念に三千の諸法が貫かれているとする妙法蓮華経の核心の法門となる。

全ての衆生は己心に十界(地獄界~仏界)の生命を有し、縁に触れてその生命を現す。一例として、他人にばかにされて事を縁として怒りの命(修羅界)を現すなどである。
更に十界は基盤の十の境涯(仏界とか人界)を基盤として、各十界の命を瞬間瞬間に表出させる。つまり仏も縁に触れて地獄の命から、菩薩、仏の命を現す。
つまり仏と言えど、時には権力者の横暴に対して修羅の命を表出して権力者を叱責する。
この十界が互いに具することで百界となる。

さらに妙法蓮華経方便品第二に説かれた因果律、つまり十如是(如是相・性・体・力・作・因・縁・果・報・本末究竟等)を掛けると千如是となる。
千如是は全ての有情非情に貫かれている共通の法則である。
それに対し全ての衆生の命の差異いを説いたのが三世間になり、この三世間を千如是にかけ合わせると、一念三千となる。

尚、国土世間は衆生を取り巻く外部環境(都市、田舎、戦地等々)の違いを意味する。

衆生世間は衆生をとりまく人々(親、兄弟、学友、同僚等)の違いを意味し、五陰(色・受・想・行・識)世間は、個人が生まれつき有する個性・特質の違いを意味する。

妙法蓮華経で三世間は、あくまで個々の衆生の過去世の善行・悪行の報いとしてその差異が生じると説き明かしている。

平和な日本に生まれる人々、戦火に囲まれた難民キャンプ所で生まれるみ命。これらの命もも全てそれぞれの衆生の過去世の報いであるから、未来世で自らが望んだ国土世間、衆生世間、五陰世間の境涯を得るためには、現世で妙法蓮華経を修行する事で実現する。
末法今日においては、日蓮大聖人が図現なされた十界曼荼羅の御本尊に「南無妙法蓮華経」と唱える事でそれが叶うことになる。









by johsei1129 | 2018-12-07 18:27 | 御義口伝 | Trackback | Comments(0)
2018年 12月 06日

末法の本仏の立場で法華経一部二十八品を直弟子日興上人に口伝した書【御義口伝 下】要点解説(14)

【寿量品二十七箇の大事】

第十四 時我及衆僧  倶出霊鷲山の事(注)


 御義口伝に云く、霊山一会 儼然未散の文なり。

時とは感応末法の時なり。我とは釈尊、及とは菩薩、聖衆を衆僧と説かれたり。
倶とは十界なり、霊鷲山(注)とは寂光土なり。時に我も及も衆僧も倶に霊鷲山に出ずるなり、秘す可し秘す可し。

本門事の一念三千の明文なり、御本尊(注)は此の文を顕し出だし給うなり。
されば倶とは不変真如の理なり、出とは随縁真如の智なり、倶とは一念なり、出とは三千なり云云。

  又云く、時とは本時娑婆世界の時なり。下は十界宛然の曼陀羅を顕す文なり。
 其の故は、時とは末法第五時の時(注)なり。

 我とは釈尊、及は菩薩、衆僧は二乗、倶とは六道なり。出とは霊山浄土に列出するなり。 
 霊山とは、御本尊並びに日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住所を説くなり云云。



時我及衆僧  倶出霊鷲山

下記如来寿量品の偈にある文文

[原文]
時我及衆僧 倶出霊鷲山 我時語衆生 常在此不滅
以方便力故 現有滅不滅 余国有衆生 恭敬信楽者
我復於彼中 為説無上法

[和訳]
時に我、及び衆僧は、倶に霊鷲山に出ずるなり。我は時に衆生に次のように語れり、常にここ(娑婆世界)に有りて滅せずとも、
方便力を以ての故に、滅、不滅有りと現ぜり。余国(他の仏国土)の衆生ありて、(仏を)恭敬し信楽せし者有れば、
我(仏)復た、彼の中(余国)に於いて、為に無上の法(法華経)を説かん。

霊鷲山
釈尊が晩年の八年間で妙法蓮華経を直弟子千二百人に説いた、現存する小高い山。
サンスクリットの音訳で耆闍崛山(ぎじゃくっせん)とも称される。

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[霊鷲山]現在でも世界中の仏教徒が訪れている。

末法第五時の時

釈尊は自身滅後の仏法弘通の次第を、「大集経」で次のように説いた。其の中で末法の始りは、第5番目の五百年に当る。

正法千年(正しい法が伝わる時代:東南アジアに小乗経が伝わる)
1.解脱堅固 五百年 煩悩の繋縛から解脱する修行が広まる。
2.禅定堅固 五百年  禅定(端座し瞑想)して己心を内観する修行が広まる。

像法千年 (正しい法に似た教えが伝わる時、中国、日本に大乗経が伝わる)
3.多聞堅固 五百年(仏典が漢訳され盛んに読誦された)
4.多造塔寺堅固 五百年(仏法が国の理念となり、国主により仏教伽藍が多数建てられた)

末法(万年) 
5. 白法隠没・闘諍堅固 五百年(釈迦仏法の修行法が時代適合でき効力を失い、権力者同士の争いの時代と為る。)

御本尊

日蓮大聖人が佐渡流罪以降に図現された十界曼荼羅の御本尊は、霊鷲山での釈尊の虚空会の儀式を借りて、己心の仏界つまり一切衆生の己心に内在する慈悲心を図現為されておられる。

大聖人は【御義口伝【序品七箇の大事】第四 仏所護念の事】 で次のように説かれている。

「今、日蓮等の類いは護念の体(=妙法蓮華経)を弘むるなり。
(中略)
法体に約するとは、法体とは本有常住なり、一切衆生の慈悲心是なり」と。










by johsei1129 | 2018-12-06 21:58 | 御義口伝 | Trackback | Comments(0)
2018年 11月 27日

末法の本仏の立場で法華経一部二十八品を直弟子日興上人に口伝した書【御義口伝 下】要点解説(13)

【寿量品二十七箇の大事】

第十三 常住此説法の事

御義口伝に云く、常住とは法華経の行者の住処なり。此とは娑婆世界(注)なり、山谷曠野を指して此とは説き給う。

 説法とは、一切衆生の語言の音声が本有の自受用智の説法なり。

 末法に入つて説法とは、南無妙法蓮華経なり。 今、日蓮等の類いの説法、是なり。



娑婆世界

「大地」を意味する梵語 sahāの音訳で、この世つまり地球上の世界を意味する。

 妙法蓮華経如来 寿量品第十六で釈尊は、三千大千世界(銀河系宇宙)に無数の仏国土(惑星)が存在し、仏が有縁の仏国土に出現し、衆生を仏になる道に化導すると解き明かしている。

 近年、ハッブル宇宙望遠鏡の観測により、太陽系外の膨大な数の恒星の周りに生命の存在の可能性のある惑星が存在する事がわかり、
今から三千年前に釈尊によって説かれた【妙法蓮華経 如来寿量品第十六で説かれた事が裏付けられて来ている。







by johsei1129 | 2018-11-27 23:50 | 御義口伝 | Trackback | Comments(0)
2018年 11月 01日

末法の本仏の立場で法華経一部二十八品を直弟子日興上人に口伝した書【御義口伝 下】要点解説(12)

【寿量品二十七箇の大事】

第十二 為度衆生故 方便現涅槃の事 (注)


御義口伝に云く、涅槃経(注)は法華経より出でたりと云う経文なり。

既に方便と説かれたり云云。


 (注)

為度衆生故 方便現涅槃の事

仏が涅槃(滅度)を現ずるのは、あくまで衆生を度する(仏道に導く)為の方便であることを示した下記の偈に在る文。

[原文]

為度衆生故 方便現涅槃 而実不滅度 常住此説法

我常住於此 以諸神通力 令顛倒衆生 雖近而不見

衆見我滅度 広供養舎利 咸皆懐恋慕 而生渇仰心

[和訳]

衆生を度する為の故に、方便にて涅槃(死)を現ずるが、而して実には滅度せず、常にここに住して法を説けり。

我(仏)は常にここに住して、諸の神通力を以て、顛倒(悩乱)する衆生を近しと言えども、あえて見ざらしめん。

(そのため)衆は我が滅度を見て、広く舎利を供養し、咸く皆、恋慕を懐いて、而して(仏を求める)渇仰の心を生ぜん。


涅槃経

釈尊の最後の布教の旅から入滅に至る迄と、荼毘と舎利塔について説かれている経典。

 
日蓮大聖人は涅槃経を法華経を援護する経文として御書で度々引用されておられます。

【法蓮抄】で『法華経如来寿量品の自我偈の功徳』を、涅槃経でも称えていると、次のように解き明かされておられます。


夫れ法華経は一代聖教の骨髄なり、自我偈は二十八品のたましひなり、三世の諸仏は寿量品を命とし、十方の菩薩も自我偈を眼目とす。

自我偈の功徳をば私に申すべからず、次下に分別功徳品に載せられたり、此の自我偈を聴聞して仏になりたる人人の数をあげて候には小千・大千・三千世界の微塵の数をこそ・あげて候へ、其の上薬王品已下の六品得道のもの自我偈の余残なり。
 涅槃経四十巻の中に集りて候いし五十二類にも、自我偈の功徳をこそ仏は重ねて説かせ給いしか』と。


【御義口伝 下】要点解説(13)に続く






by johsei1129 | 2018-11-01 22:09 | 御義口伝 | Trackback | Comments(0)
2018年 10月 24日

末法の本仏の立場で法華経一部二十八品を直弟子日興上人に口伝した書【御義口伝 下】要点解説(11)

【寿量品二十七箇の大事】

第十一 自我得仏来の事(注)

御義口伝に云く、一句三身(注)の習いの文と云うなり。

自とは九界なり、我とは仏界なり、此の十界は本有無作の三身にして来る仏なりと云えり。
自も我も得たる仏来れり、十界本有の明文なり。
我は法身、仏は報身、来は応身なり。此の三身、無始無終の古仏にして自得なり。無上宝聚不求自得(注)、之を思う可し。

 然らば即ち、顕本遠寿の説は永く諸教に絶えたり。
 今、日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉るは、自我得仏来の行者なり云云。


(注)
自我得仏来
妙法蓮華経 如来寿量品第十六は、「爾時仏告諸菩薩 及一切大衆(その時仏は諸の菩薩及び一切の大衆に告げた)}で始まる長行と、「自我得仏来(我、自ら仏を得て来(以来))で始まる「自我偈(漢字五文字の詩)」と称される、長行の要約文で構成されている。

この長行と偈の構成は、如来寿量品以外の妙法蓮華経の各品も同様の構成と成っており、法華経以外の諸経には見られない特徴となっている。
これは弟子たちが人々に説法するために、詳細に説かれた長行を要約した内容を、詩(偈)の形で、口伝を記憶しやすいようにするために反復して説き明かしたものと思われる。其の意味でも妙法蓮華経は他の諸経とは別格の経典であることを示している。

自我偈の始めの文文
[原文]
自我得仏来 所経諸劫数 無量百千万 億載阿僧祇 
常説法教化 無数億衆生 令入於仏道 爾来無量劫
為度衆生故 方便現涅槃 而実不滅度 常住此説法
[和訳]
我、自ら仏を得て以来、経(へ)たる所の諸の(注)数は無量百千万・億載阿僧祇なり。
(その間)常に無数億の衆生を説法・教化し、仏の道に入ら令め、それ爾来、無量劫なり。
衆生を済度(救済)せんが為の故に、方便にて涅槃(死)を現じ、而して実には滅度せず、常に此、娑婆世界に住して説法を為せり。

サンスクリットのカルパの音訳で、宇宙次元の非常に長い時間。

無上宝聚不求自得
無上の宝聚を求めずして自から得たりと読む。

末法においては、日蓮大聖人が図現された十界の曼荼羅に「南無妙法蓮華経」と唱えることで、己心に内在する「仏界」を湧現させることを意味する。
日蓮大聖人は御義口伝「信解品六個の大事」で次のように解き明かしておられる。
『今、日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と信受領納する故に、無上宝聚不求自得の大宝珠を得るなり。
 信は智慧の種なり、不信は堕獄の因なり。又云く信は不変真如の理なり、其の故は信は知一切法皆是仏法と体達して実相の一理と信ずるなり。解は随縁真如なり自受用智を云うなり』と。




by johsei1129 | 2018-10-24 20:39 | 御義口伝 | Trackback | Comments(0)