日蓮大聖人『御書』解説

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カテゴリ:御義口伝( 96 )


2018年 05月 19日

末法の本仏の立場で法華経一部二十八品を直弟子日興上人に口伝した書【御義口伝 上】要点解説(58)

【法師品十五箇の大事】


第八 欲捨諸懈怠 応当聴此経の事
(諸の懈怠を捨てようと欲すれば、 応に此の経(法華経)を聴くべし)


  御義口伝に云く、諸の懈怠とは、四十余年の方便の経教(注)なり。

 悉く皆、懈怠の経なり。 此経とは題目なり(注)。

今、日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉るは、是れ即ち精進なり。

応当聴此経は是なり。応に、日蓮に此の経を聞くべしと云えり云云。


四十余年の方便の経教

釈迦は十九歳で、釈迦族の王宮を出て出家し、バラモンの難行苦行をへて、菩提樹の下で己心を内観し三十歳で成道した。その後、四十数年間、「八萬法蔵」と言われる諸経を説いたが、法華経の開教「無量義経」で、「四十余年未見真実」と説いた後、霊鷲山で直弟子千二百人に妙法蓮華経を八年間、説き続けた。

つまり四十余年の方便の経教とは、法華経を説く以前の、小乗経(阿含経)、権大乗経(華厳経・阿弥陀経・般若経)等々を意味する。


此経とは題目(南無妙法蓮華経)なり

日蓮大聖人は【上野殿御返事(法要書)】にて
今末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし。但南無妙法蓮華経なるべし。かう申し出だして候も、わたくしの計にはあらず。釈迦・多宝・十方の諸仏・地涌千界の御計なり。此の南無妙法蓮華経に余事をまじへば、ゆゆしきひが事なり。日出でぬれば・とほしびせんなし、雨のふるに露なにのせんかあるべき。嬰児に乳より外のものをやしなうべきか。良薬に又薬を加えぬる事なしと断じておられます。


【御義口伝 上】要点解説(59)に続く








by johsei1129 | 2018-05-19 20:03 | 御義口伝 | Comments(0)
2018年 05月 18日

末法の本仏の立場で法華経一部二十八品を直弟子日興上人に口伝した書【御義口伝 上】要点解説(58)

【法師品十五箇の大事】

第七 衣座室の事
 

御義口伝に云く、衣座室(注)とは法報応の三身(注)なり。

 空仮中の三諦(注)、身口意の三業(注)なり。


 今、日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は、此の三軌を一念に成就するなり。

 衣とは柔和忍辱の衣、当著忍辱鎧是なり。

 座とは不惜身命の修行なれば、空座に居するなり。

 室とは慈悲に住して弘むる故なり。母の子を思うが如くなり、豈(あに)、一念に三軌を具足するに非ずや。



(注)

衣座室(の三軌) 仏の滅後に法華経を弘通するための三種の心得をいう。

妙法蓮華経 法師品で次のように説かれている。

「若し善男子、善女人有って、如来の滅後に、四衆(出家の男女、俗信徒の男女)の為に、是の法華経を説かんと欲せば、云何が応に説くべき。

 是の善男子、善女人は、如来の室に入り、如来の衣を著き、如来の座に坐して、爾して乃し、四衆の為に広く斯この経を説くべし。

如来の室とは、一切衆生の中の大慈悲心、是なり。如来の衣とは柔和忍辱の心、是なり。如来の座とは一切法は空、是なり」


[解説]
一切法は空とは、例えば潮の満ち引きという現象は、月と太陽の引力によっておきる。つまり海水という因が月という縁によって潮の満ち引

が生じているのであり、万有引力という法則そのものに実体はなく、現象のみが生じる空の状態であると認識して、法華経を説くべきであるとしている。

この例で分かるように、飛行機が空を飛ぶ為の揚力、車が道路を走行するためのタイヤと路面との摩擦力等々の、森羅万象の諸法の実相は、全て因が縁に触れて生じる空の状態であると、仏は覚知した。


法報応の三身

妙法蓮華経では人の身を、法身・報身・応身の三身と解き明かしている。

法身は無始無終の魂魄。

報身は過去世の行により得た報いとしての身(境涯)、妙法蓮華経如来寿量品第十六で、釈迦は久遠に菩薩の行をして仏の境涯を得たと解き明かしている。一旦仏の境涯を得ると永遠にその境涯から後退することはないので、報身如来は有始無終である。

応身は時に応じて出現する身。釈迦がインドに釈迦族の王子として応誕し、修行して成道する姿を衆生に見せた有始有終の身。


日蓮大聖人は【四条金吾釈迦仏供養事】で次のように三身を解き明かしている。

『三身とは一には法身如来・二には報身如来・三には応身如来なり。此の三身如来をば一切の諸仏、必ず、あひぐ(相具)す。

譬へば月の体は法身、月の光は報身、月の影は応身にたと(譬)う』と。
因みに我々日蓮正宗の信徒は朝の勤行で方便品第二・如来寿量品の自我偈(二座は長行)を五回、夕勤行で三回読誦するが、方便品の十如是を三回繰り返して読誦する。
この意義について日蓮大聖人は【一念三千法門】で次の様に解き明かしております。
『所謂諸法如是相如云云と読む時は、如は空の義なれば我が身の先業にうくる所の相性体力、其の具する所の八十八使の見惑・八十一品の思惑・其の空は報身如来なり。
所謂諸法如是相云云とよめば、是れ仮の義なれば、我が此の身先業に依つて受けたる相性体力云云、其の具したる塵沙の惑悉く即身応身如来なり。
所謂諸法如是と読む時は、是れ中道の義に順じて業に依つて受くる所の相性等云云、其に随いたる無明皆退いて即身法身の如来と心を開く。
此の十如是、三転によまるる事、三身即一身、一身即三身の義なり、三に分るれども一なり、一に定まれども三なり』と。

空仮中の三諦(空諦、仮諦、中道)
法華経方便品第二に次の偈がある。
[原文]
仏所成就 第一希有 
難解之法 唯仏与仏 乃能究尽 諸法実相
[和訳]
仏が成就せし所の、第一の希有で難解なる法は、唯、仏と仏のみが諸法の実相を、能く究め尽くせばなり。

つまり仏法では、森羅万象はすべからく諸々の法で貫かれており、その法を究め悟られたのが仏であるとする。
諸法を悟れば仏になれるので、仏は、三千大千世界(宇宙)に存在する国土(星)は無数に存在し、仏が衆生を導く仏国土も無数に存在するとする。
その諸法を捉えた概念が「一念三千」であり、本抄の「空仮中の三諦」となる。
一例として「水」で空仮中の三諦を説明すると、水は置かれている環境(縁※主に温度)により、液体の水、固体の氷、気体の水蒸気と変化する。この状態は仮に和合した姿、つまり仮諦である。固体でも雪、あられ、氷と変化する。これも
諦である事を示している。
其の水は見た目の姿が変われど、分子式"H2O"で表される水の本質は共通であり、100度で気体、0度で凍るという絶対的な性質・法則を持つ。しかしこの法則そのものを人の目では見ることはできないが、我々は現象として認識できる。此の水の本質を空諦としてみる。
そしてH20としての性質を持ち、温度の変化により刻々と姿を変える水の当体そのものを中道としてみる。

身口意の三業(しんくいのさんごう)
仏教では衆生の様々な振る舞いを身業・口業・意業の三つに分別する。
身業とは、身体の動作や振る舞い、口業とは言葉で発する事、意業とは心に思ったり想念することことをいいます。
とは、これらの振舞の結果が己の命に刻まれ積み重なり、その結果、未来の境遇(報い)が定まることになります。


【御義口伝 上】要点解説(59)に続く






by johsei1129 | 2018-05-18 22:48 | 御義口伝 | Comments(0)
2018年 05月 18日

末法の本仏の立場で法華経一部二十八品を直弟子日興上人に口伝した書【御義口伝 上】要点解説(57)

【法師品十五箇の大事】

第六 聞法信受 随順不逆の事
 

御義口伝に云く、聞とは名字即(注)なり。

法とは題目なり、信受とは受持なり。

随順不逆とは本迹二門に随順するなり。


今、日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉る者の事なり。



名字即

天台は「摩訶止観」で、法華経への信仰が深まって、仏の境涯=仏界を覚知していく段階を「六即」の概念で、以下のように説いた。


理即
 法華経を信仰していなくとも、全ての衆生に、理の段階で仏界が存在するとした。

名字即  始めて法華経の偈(名字)を聞き、信仰を始めた段階。名字卽から、仏の境涯を目指し仏道に入ることになる。

観行即  観行とは己心を観ずる行で、経(名字)を学び、修行で己心に仏性を観じ、一切の法は皆仏法であると知る位をいいます。

相似即 勧行の修行の結果、見思 ・塵沙じんじゃの二惑を断じ、仏の覚りに相似した六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)清浄の位をいいます。

分真即、四十二品ある無明惑のうち、最後の元品の無明を残して迷いを滅し、仏の悟りの一部分を体現している段階。

究竟即 完全なる仏の覚りに到達している段階。


日蓮大聖人は天台の六即を御義口伝で、次の様に簡明に解き明かしております。
『六即の配立の時は此の品の如来は理即の凡夫なり、頭に南無妙法蓮華経を頂戴し奉る時名字即なり、其の故は始めて聞く所の題目なるが故なり。
聞き奉りて修行するは観行即なり、此の観行即とは事の一念三千の本尊を観ずるなり、さて惑障を伏するを相似即と云うなり、化他に出づるを分真即と云うなり、無作の三身の仏なりと究竟したるを究竟即の仏とは云うなり』と。

さらに日蓮大聖人は、自らが図現した十界曼荼羅のご本尊に「南無妙法蓮華経」と唱えることで、己心に冥伏している仏界を開くことができるという、末法における究極の「行」を確立します。
この御本尊の意義についいて、流罪地の佐渡で著した「観心の本尊抄」で次のように解き明かしておられます。

「一念三千(仏界)を識らざる者には、仏(日蓮大聖人は)、大慈悲を起し、五字(妙法蓮華経)の内に此の珠(一念三千)を裹み、末代幼稚の頚に懸けさしめ給う」と。

【御義口伝 上】要点解説(58)に続く





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by johsei1129 | 2018-05-18 00:05 | 御義口伝 | Comments(0)
2018年 05月 16日

末法の本仏の立場で法華経一部二十八品を直弟子日興上人に口伝した書【御義口伝 上】要点解説(56)

【法師品十五箇の大事】


第五 是法華経蔵 深固幽遠 無人能到の事
(注)

 御義口伝に云く、是法華経蔵とは題目なり、深固とは本門なり、幽遠とは迹門なり、無人能到とは謗法なり。

今、日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は、無人能到の者に非ざるなり云云。



是法華経蔵 深固幽遠 無人能到

(訳)
是の法華経の蔵は、深固、幽遠にして、人の能く至ること無けり。



【御義口伝 上】要点解説(57)に続く


by johsei1129 | 2018-05-16 20:03 | 御義口伝 | Comments(0)
2018年 05月 08日

末法の本仏の立場で法華経一部二十八品を直弟子日興上人に口伝した書【御義口伝 上】要点解説(55)

【法師品十五箇の大事】


第四 与如来共宿の事

和訳:(法華経を弘通する人)は、如来と共に宿するなり。


 御義口伝に云く、法華の行者は男女共に如来なり。

 煩悩即菩提、生死即涅槃なり。


今、日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は、与如来共宿の者なり。

傅大士(注)の釈に云く「朝朝・仏と共に起き夕夕仏と共に臥し、時時に成道し、時時に顕本(注)す」と云云。



(注)

傅大士
中国南北朝代の居士(在家仏教徒)で、弥勒菩薩の化身といわれた。大蔵経(八幡法蔵と言われる釈尊の一切経)の閲覧のために、輪蔵(回転本棚)を考案したと言われている。


顕本(発迹顕本(ほっしゃくけんぽん))の事。

意味は、迹を発いて本を顕すこと。


日蓮大聖人は「龍の口の法難」で、上行菩薩の再誕としての迹(仮の姿)を払い、末法の本仏としての本地を顕わされた。

また末法で妙法蓮華経を唱える人は、一人の人間としての迹を払い、末法で衆生を救済する、地涌の菩薩としての本地を顕すことを意味している。



【御義口伝 上】要点解説(56)に続く




by johsei1129 | 2018-05-08 21:29 | 御義口伝 | Comments(1)
2018年 05月 07日

末法の本仏の立場で法華経一部二十八品を直弟子日興上人に口伝した書【御義口伝 上】要点解説(54)

【法師品十五箇の大事】


第三 如来所遣 行如来事の事

「(和訳)是の人は則ち如来の使いなり、如来の所遣として、如来の事を行ずるなり」

 

御義口伝に云く、法華の行者は如来の使に来れり。

 如来(注)とは釈迦、如来事とは南無妙法蓮華経なり。


 如来とは、十界三千の衆生の事なり(注)。


今、日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉るは、真実の御使なり云云。




(注)

如来 仏の称号の一つ。妙法蓮華経では仏に対し、様々な尊称(異名)を使っている。 例えば世尊、教師、導師等。

しかしながら釈尊自身が自らを称する時は、如来寿量品の偈「我亦為世父 救諸苦患者(我また、世の父と為りて、諸の苦しみ患らいを救う者なり)」のように「衆生の父」と称している。


日蓮大聖人は佐渡流罪直後に著した「開目抄」の冒頭で「夫れ一切衆生の尊敬すべき者三あり、所謂主師親これなり」と記されるとともに、終段で「日蓮は日本国の諸人にしうし(主師)父母なり」と宣言し、自らが末法の本仏であることを明かされている。


如来とは、十界三千の衆生の事なり。

この文では、すべての衆生の己心に仏界が備わっており、南無妙法蓮華経と唱えることで、誰しもが成仏・得道する事ができると日蓮大聖人は解き明かしている。



【御義口伝 上】要点解説(55)に続く





by johsei1129 | 2018-05-07 20:26 | 御義口伝 | Comments(0)
2018年 05月 03日

末法の本仏の立場で法華経一部二十八品を直弟子日興上人に口伝した書【御義口伝 上】要点解説(53)

【法師品十五箇の大事】

第二 成就大願 愍衆生故 生於悪世 広演此経の事
 (訳) 衆生を愍(あわれむ)故に、悪世に生まれ、 広く此の経(妙法蓮華経)を説くという大願を成就せり。

御義口伝に云く、大願とは法華弘通なり。
愍衆生故とは、日本国の一切衆生なり、生於悪世の人とは日蓮等の類いなり。 

 広とは南閻浮提なり(注)、此経とは題目なり。

今、日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉る者なり。


(注)

南閻浮提
(なんえんぶだい)
閻浮提とも称する。サンスクリットJumbūdvīpaの音訳で、人の住む世界、つまり全世界を意味する。

日蓮大聖人は「顕仏未来記」で次のように説かれておられます。

「月は西より出でて東を照し、日は東より出でて西を照す。
仏法も又以て是くの如し、正像(釈迦滅後二千年)には西より東に向い、末法には東より西に往く。<中略>
法華経の第八に云く「如来の滅後に於て閻浮提の内に広く流布せしめて断絶せざらしめん」等云云。
内の字は三洲を嫌う文なり。

 問うて曰く、仏記既に此くの如し、汝が未来記如何。
答えて曰く、仏記に順じて之を勘うるに、既に後五百歳(末法)の始に相当れり、仏法必ず東土の日本より出づべきなり」と。


【御義口伝 上】要点解説(54)に続く




by johsei1129 | 2018-05-03 20:56 | 御義口伝 | Comments(0)
2018年 05月 02日

末法の本仏の立場で法華経一部二十八品を直弟子日興上人に口伝した書【御義口伝 上】要点解説(52)

【法師品十五箇の大事】
第一  法師の事

 御義口伝に云く、法とは諸法なり。師とは諸法が直ちに師と成るなり。

 森羅三千の諸法が、直ちに師と成り、弟子となるべきなり。 

 
今、日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉る者は、法師の中の大法師なり。

諸法実相の開覚顕れて見れば、地獄の灯燃猛火、乃至仏果に至る迄、悉く具足

して一念三千(注)の法師なり。

 
又云く、法とは題目(南妙法蓮華経)、師とは日蓮等の類いなり。




(注)

一念三千

天台は法華三部作の頂点である「摩訶止観」で、一瞬の生命に三千の法が働い

ていると論じた。その概要は以下のとおりです。


己心の一念に地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏の十界

の命があり、この命は縁に触れて生じる。

例えば他人に自分の欠点を指摘され、怒り(修羅界)の命が生じたり、好きな人

に褒められて嬉しくなり、天にも昇る心地(天界)の命が生ずる場合などである。

此の十界の命が互いに具する事を十界互具とする。

この十界互具とは、仏は仏の境涯で、地獄界から菩薩界の命を生じ、人は人界

の境涯で、地獄から仏界までの十界の命を生じるとする。


日蓮大聖人は「十界互具」について「観心本尊抄」で次のように解き明かしている。

「世間の無常は眼前に有り、豈人界に二乗界(声聞・縁覚)無からんや。

 無顧の悪人も猶妻子を慈愛す、菩薩界の一分なり。 但仏界計り現じ難し。

九界を具するを以て強いて之を信じ、疑惑せしむること勿れ。
 

 法華経の文に人界を説いて云く「衆生をして仏知見を開かしめんと欲す」、涅槃経に云く「大乗を学する者は肉眼有りと雖も、名けて仏眼と為す」等云云。

 末代の凡夫、出生して法華経(妙法蓮華経)を信ずるは、人界に仏界を具足する故なり」と。


次に、一念がどのような法で外に向かって作用し、その結果生じる果報について、解き明かしたのが「十如是」で、妙法蓮華経・方便品第二で次のように説

かれている。

「仏の成就せる所は、第一の希有で難解の法にして、唯、仏と仏のみ、乃ち能く諸法の実相を究め尽くせばなり。

 謂う所は、諸法の、是の如き相と、是の如き性、是の如き体、是の如き力、是の如き作、是の如き因、是の如き縁、是の如き果、是の如き報、是の如き

末究竟等(注)なり」


 上記の「如是(相・性・体・力・作・因・縁・果・報・本末究竟等)」は、仏も衆生も、有情も非情も、同じ法則で貫かれている事を意味し、釈尊が法華経

で、一切衆生に仏と同様に仏の命があることを説くための、導入部としての役割を果たしている。

 

 この十如是はサンスクリットの原文では「仏だけが諸法の現象の本質、特徴を知り、教示できる」と、大まかに結論を説いているが、
妙法蓮華経を漢訳した天才鳩摩羅什は、釈迦の立場に立ち、サンスクリットの原典の真意を衆生によりわかりやすく伝えるために「諸法の現象の本質」を具体的に「十如是」として展開したものと推測される。


十界互具及び十如是は、有情非情の生命に共通に備わる法則であるが、個々人の境遇の違いを説いたのが「三世間」の法門である。尚、世間とは違い、差別及び区別を意味する。


 三世間の概要は以下のとおりです。

五陰(ごおん)世間 は個人の持って生まれた個性・特質の違いを示す。個人が持つ五陰つまり「色・受・想・行・識」の5つの要素の違いを言う。

衆生世間 自分を取り巻く衆生つまり人々(父母・兄弟・友人・社会で出会う人々等々)の違いを示す。

国土世間 生まれついた自然環境、例えば大都市のビル群で育つ人、海辺、農村で育つ人、戦争のない日本で生まれた人、シリアの難民キャンプで生まれ育

った人等の、取り巻く環境の違い。


以上を集約すると、十界、十界互具で百界、十如是をかけ合わせると千如是、さらに三世間をかけ合わせて三千世間つまり、一念三千の法を構成することに

なる。


本末究竟等 

如是相から如是報までの本と末が、究竟(究極・必定・絶対)的に等しい、つまり仏も衆生も有情も非情も、究極として十如是の法則が等しく働いているとする。



【御義口伝 上】要点解説(53)に続く






by johsei1129 | 2018-05-02 21:07 | 御義口伝 | Comments(0)
2018年 04月 26日

末法の本仏の立場で法華経一部二十八品を直弟子日興上人に口伝した書【御義口伝 上】要点解説(51)

【人記品二箇の大事】
第二 山海慧自在通王仏の事(注)

 御義口伝に云く、山とは煩惱即菩提なり、海とは生死即涅槃なり、慧とは我等が吐く所の言語なり、自在とは無障碍なり、通王とは十界互具百界千如一念三千なり。
又云く、山とは迹門の意なり、海とは本門の意なり、慧とは妙法の五字(注)なり。 


 今、日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は、山海慧自在通王仏なり、全く外に非ざるなり、我等行者の外に阿難之れ無きなり。
阿難とは歓喜なり、一念三千の開覚なり(注)云云。

(注)
山海慧自在通王仏
 本品で釈尊の十大弟子の一人、多門第一と称えられた阿難に対し、釈尊より妙法蓮華経で修行して未来世で山海慧自在通王となるとの記別が与えられた。
山海慧自在通王が出現する仏国土は常立勝旗といい、その時の劫(時代)を妙音徧満と示されている。


阿難とは歓喜なり、一念三千の開覚なり

日蓮大聖人はこの御文で、衆生の己心に内在する仏性つまり一念三千を開覚する事こそが歓喜であると解き明かされておられます。
尚、阿難は27歳の時から釈迦の従者(現在の秘書官)をしており、釈迦の全ての説法に立ち会っていることから、釈迦滅後の仏典結集では経を読み上げる重要な役割を果たしております。その為、釈迦の一切経の始まりは全て「如是我聞(是の如く我つまり阿難が仏から聞きました)で始まります。この様式は仏教史上中興の祖と称えられる竜樹が定めたと伝えられております。

 また阿難は釈迦の養母(実母マヤ姫は釈迦を生んで七日目で亡くなり、実の妹、摩訶波闍波提(マハー・プラジャパティー)が養母となる)が再三出家を願い出るが、修行の妨げなるとして釈迦から出家が許されなかった時、釈迦に「人は誰でも八正道を修行すれば悟れるんですね。摩訶波闍波提はあなたにとって恩ある人です。是非出家を許されてください』と懇願し、摩訶波闍波提の出家を許してもらっている。ここに仏教史上最初の比丘尼が誕生することになる。

慧とは妙法の五字
妙法蓮華経の五字を意味しております。



【御義口伝 上】要点解説(52) に続く。




by johsei1129 | 2018-04-26 17:18 | 御義口伝 | Comments(0)
2018年 04月 25日

末法の本仏の立場で法華経一部二十八品を直弟子日興上人に口伝した書【御義口伝 上】要点解説(50)  

【人記品二箇の大事】(注) 
 
 第一 学無学の事(注)
 
御義口伝に云く学とは無智なり。無学とは有智なり。

今、日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉るは、学無学の人に、如我等無異(注)の記を授くるに非ずや。

色法は無学なり、心法は学なり、又心法は無学なり、色法は学なり。

学無学の人とは日本国の一切衆生なり。智者愚者、をしなべて南無妙法蓮華経の記を説きて、而強毒之(注)するなり。

(注)
人記品
妙法蓮華経・授学無学人記品第九

学無学の事
学は、学ぶ必要がある人の意味で、無学は已に学び終わり、これ以上学ぶ必要がない人の意となります。

如我等無異(我が如く等しくして異なること無からしむ)

仏がこの世に出現した因縁、及び仏の慈悲を解き明かした此の偈は、妙法華経・方便品第二で次の様に説かれている。
[原文]
舎利弗当知 我本立誓願 欲令一切衆 如我等無異 
如我昔所願 今者已満足 化一切衆生 皆令入仏道
[和訳]
舎利弗よ、当に知るべし。我は本より、(次の)誓願を立て、一切の衆生をして、我が如く等しくして異なること無からしめんと欲した。
我が昔、願った所の如きは、今は已に満足し、一切衆生を化して、皆、仏道に入りしめたり。

日蓮大聖人は「日妙聖人御書」で此の文を次のように説いております。
『経に云く「如我等無異」等云云、法華経を心得る者は釈尊と斉等なりと申す文なり』と。

而強毒之(にごうどくし)
悪世末法での布教の原理。毒鼓の縁(どっくのえん)とも言う。
根拠の経典は『涅槃経』巻九の「たとえば人ありて、雑毒薬を以ってこれを用いて太鼓に塗り、大衆の中において、之を撃ちて声を発さしむるが如し。心に聞かんと欲すること無しといえども、之を聞けば皆死す。唯一人、不横死の者(仏)を除く。是の大乗大般涅槃経もまたまた是の如し。在々処々の諸行の衆中、声を聞く者あれば、あらゆる貪欲・瞋恚・愚癡を悉く滅尽する」とある。

日蓮大聖人は「曾谷入道殿許御書」で次のように説いております。
『今は既に末法に入って、(釈迦)の結縁の者は漸々ぜんぜんに衰微して、権実の二機、皆悉ことごとく尽きぬ。彼の不軽菩薩、末世に出現して毒鼓(どっく)を撃うたしむるの時なり』と。
また【法華初心成仏抄】では次のように説いております。
『当世の人、何となくとも法華経に背く失に依りて地獄に堕ちん事疑いなき故に、とてもかくても法華経を強いて説き聞かすべし。信ぜん人は仏になるべし、謗ぜん者は毒鼓の縁となつて仏になるべきなり。
 何にとしても仏の種は法華経より外になきなり、権教をもつて仏になる由だにあらば、なにしにか仏は強いて法華経を説いて、謗ずるも信ずるも利益あるべしと説き、我不愛身命とは仰せらるべきや、よくよく此等を、道心ましまさん人は御心得あるべきなり』と。





by johsei1129 | 2018-04-25 19:51 | 御義口伝 | Comments(0)