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日蓮大聖人『御書』解説

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カテゴリ:血脈・相伝・講義( 30 )


2019年 12月 05日

末法本門「法華寿量品の久遠の受戒」の化儀・作法を著された書【本門戒体抄】

【本門戒体抄】

■出筆時期:弘安二年(西暦1279) 五十八歳御作
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:末法の本仏日蓮大聖人の法門を受戒する際の化儀・作法を示された書です。
百六箇抄種の本迹二十一、下種の戒体の本迹 に、「爾前迹門の戒躰は権実雑乱(ぞうらん)、本門の戒躰は純一無雑の大戒なり。勝劣は天地・水火尚及ばず、具に戒躰抄の如し云云」とあり、本抄がそれにあたります。大聖人は小乗の戒、大乗戒を具に示すとともに、末法本門の受戒について、第一不殺生戒から第十不謗三宝戒まで、十項目の受戒の化儀・作法を示されておられます。
■ご真筆:現存しておりません。

【本門戒体抄 本文】

 大乗戒並びに小乗戒の事。
 凡(およ)そ二百五十戒を受くれば大僧の名を得るなり。受戒は辺国は五人、中国は十人なり。十人とは三師七証なり。三師とは和尚と阿闍梨(あじゃり)と教授となり。十人共に五徳を具す。二百五十戒を別解脱戒と云ひ、亦は具足戒とも云ふなり。小乗の五戒を受くるを優婆塞(うばそく)・優婆夷(うばい)と云ふなり。八斎戒も亦是くの如し。五戒を受くるに必ず二師有り。二師とは和尚と阿闍梨となり。八斎戒も亦是くの如し。小乗戒は経巻有りと雖(いえど)も師資相承無き者には戒を授けざるなり。菩薩の前にしても仏の前に非ざれば戒を授けざるなり。
 大乗戒の事。師は必ず五徳を具する僧なり。常には一師二師なり。一師とは名目梵網経に出づ。二師とは和尚と阿闍梨となり。
 具に十重禁戒を受くるを大僧と名づくるなり。亦具足戒とも云ふなり。一戒二戒を受くるをば具足戒とは云はざるなり。日本国には伝教大師より始めて一向大乗戒を立つるなり。伝教已前には通受戒なり。

通受戒とは、小乗戒を受けては威儀を正し、大乗戒を受けては成仏を期するなり。大小乗の戒を兼ね受くるを通受戒と云ふ。日本国には小乗の別解脱戒の弘まることは鑑真和尚の時より始まれり。鑑真已前は沙弥戒なり。
千里の内に五徳を具せし僧無くんば自誓受戒す。自誓受戒とは道場に座して一日二日乃至一年二年罪障を懺悔す。普賢文殊等来たりて告げて、毘尼薩(びにさ)毘尼薩と云はん時自誓受戒すべし。即ち大僧と名づく。

毘尼薩毘尼薩とは滅罪滅罪と云ふ事なり。若し五徳を具する僧有れば、好相を見ざれども受戒するなり。十重禁戒を破る者も懺悔すれば之を授く。四十八軽も亦復是くの如し。五逆七逆は論なり。経文分明ならず、授けざるは道理なり。
仏は則ち盧舎那仏・二十余の菩薩・羅什三蔵・南岳・天台乃至道邃・伝教大師等なり。達磨・不空は天竺より此の戒を受けたり。已上常人の義なり。  

日蓮云はく、彼は梵網の意か。伝教大師の顕戒論に云はく「大乗戒に二有り。一には梵網経の大乗。二には普賢経の大乗なり。普賢経は一向自誓受戒なり」と。常人は梵網千里の外の自誓受戒と普賢経の自誓受戒と之同じと思へるなり。日蓮云はく、水火の相違なり。所以は何ん。伝教大師の顕戒論に二義有り。一には梵網経の十重戒、四十八軽戒の大僧戒。二には普賢経の大僧戒なり。梵網経の十重禁・四十八軽戒を以て眷属戒と為すなり。法華経・普賢経の戒を以て大王戒と為すなり。小乗の二百五十戒等は民戒、梵網経の戒は臣戒、法華経普賢経の戒は大王戒なり云云。

普賢経の戒師は、千里の外にも千里の内にも、五徳有るも五徳無きも、等覚已下の生身の四依の菩薩等を以て全く伝受戒師に用ふべからず。受戒には必ず三師一証一伴なり。已上五人なり。三師とは一は生身の和尚は霊山浄土の釈迦牟尼如来なり。響きの音に応ずるが如く、清水に月の移るが如く、法華経の戒を自誓受戒する時必ず来たり給ふなり。然れば則ち何ぞ生身の釈迦牟尼如来を捨てゝ更に等覚の元品未断の四依等を用ゐんや。若し円教の四依有らば伝戒の為に之を請ずべし、伝受戒の為には之を用ふべからず。
  疑って云はく、小乗の戒、梵網の戒に何ぞ生身の如来来たらざるや。答へて云はく、小乗の釈迦は灰身滅智の仏なり、生身既に破れたり。譬へば水瓶に清水を入れて他の全瓶に移すが如し、本瓶は既に破れぬ。小乗の釈迦は五分法身の水を以て迦葉・阿難等の全瓶に移して、仏既に灰断(けだん)に入り了んぬ。乃至仏・四果・初果・四善根・三賢及以(および)博地(はくじ)の凡夫、二千二百余年の間、次の瓶に五分法身の水を移せば前瓶は即ち破壊す。是くの如く展転するの程に、凡夫の土器の瓶に此の五分法身の水を移せば、未だ他瓶に移さゞるの前に五分法身の水漏失す。更に何れの水を以てか他の瓶に移さんや。小乗の戒体も亦復是くの如し。正像既に尽きぬ。末法の濁乱には有名無実なり。二百五十戒の僧等は、但土器の瓶のみ有りて全く五分法身の水無きなり。是くの如き僧等は、形は沙門に似れども戒体無きが故に天之を護らず。唯悪行のみを好みて愚人を誑惑するなり。

 梵網大乗の戒は、譬へば金銀の瓶に仏性法身の清水を入れて亦金銀の瓶に移すが如し。終には破壊すべしと雖も瓦器土器に勝れて其の用強し。故に小乗の二百五十戒の僧の持戒よりも、梵網大乗の破戒の僧は国の依怙と為る。然りと雖も此の戒も終に漏失すべきものなり。
普賢経の戒は、正像末の三時に亘って生身の釈迦如来を以て戒師と為す。故に等覚已下の聖凡の師を用ゐざるなり。小乗の劣応身、通教の勝応身、別教の台上の盧遮那、爾前の円教の虚空為座の毘盧遮那仏、猶以て之を用ゐず。何に況んや其の已下の菩薩・声聞・凡夫等の師をや。但法華迹門の四教開会の釈迦如来、之を用ゐて和尚と為すなり。二は金色世界の文殊師利菩薩、之を請じて阿闍梨と為す。四味三教並びに爾前の円教の文殊には非ず。此は法華迹門の文殊なり。三は都史多天宮の弥勒慈尊、之を請じて教授と為す。小乗未断惑の弥勒、乃至通・別・円等の弥勒には非ず。亦無著菩薩、阿輸舎国に来下して授けし所の大乗師の弥勒にも非ず。此は迹門方便品を授くる所の弥勒なり。已上三師なり。一証とは十方の諸仏なり。此は則ち小乗の七証に異なるなり。一伴とは同伴なり。同伴とは同じき受戒の者なり。法華の序品に列なる所の二乗・菩薩・二界八番の衆なり。今の戒は、小乗の二百五十戒等並びに梵網の十重禁・四十八軽戒・華厳の十無尽戒・瓔珞の十戒等を捨てゝ、未顕真実と定め畢って、方便品に入って持つ所の五戒・八戒・十善戒・二百五十戒・五百戒乃至十重禁戒等なり。経に「是名持戒」とは則ち此の意なり。迹門の戒は爾前大小の諸戒には勝ると雖も而も本門戒には及ばざるなり。
  
十重禁とは、一には不殺生戒、二には不偸盗戒、三には不邪淫戒、四には不妄語戒、五には不酒戒、六には不説四衆過罪戒、七には不自讃毀他戒、八には不慳貪戒、九には不瞋恚戒、十には不謗三宝戒なり。
  
第一に不殺生戒とは、爾前の諸経の心は仏は不殺生戒を持つと説けり。然りと雖も法華経の心は爾前の仏は殺生第一なり。所以は何。爾前の仏は一往世間の不殺生戒を持つに似たりと雖も、未だ出世の不殺生戒を持たず。二乗・闡提・無性有情等の九界の衆生を殺して成仏せしめず。能化の仏未だ殺生罪を免れず、何に況んや所化の弟子をや。然るを今の経に悉く成仏せしむ云云。
今身より仏身に至るまで、爾前の殺生罪を捨て、法華寿量品の久遠の不殺生戒を持つや不や、持つと三返。

第二に不偸盗戒とは、爾前の諸経の心は仏は不偸盗戒を持つと説けり。然りと雖も法華の心は爾前の仏は偸盗第一なり。所以は何。爾前の仏は一往世間の不偸盗戒を持つに似たりと雖も、未だ出世の不偸盗戒を持たず。二乗・闡提等の九界の衆生の仏性の玉を盗んで成仏せしめず。能化の仏未だ偸盗罪を免れず、何に況んや所化の弟子をや。然るを今の経に悉く成仏せしむ云云。
今身より仏身に至るまで、爾前の偸盗罪を捨て、法華寿量品の久遠の不偸盗戒を持つや不や、持つと三返。

第三に不邪淫戒とは、爾前の諸経の心は仏は不邪淫戒を持つと説けり。然りと雖も法華の心は爾前の仏は邪淫第一なり。所以は何。爾前の仏は一往世間の不邪淫戒を持つに似たりと雖も、未だ出世の不邪淫戒を持たず。二乗・闡提等の九界の衆生の仏性の智水を犯して成仏せしめず。能化の仏未だ邪淫罪を免れず、何に況んや所化の弟子をや。然るを今の経に悉く成仏せしむ云云。今身より仏身に至るまで、爾前の邪淫罪を捨て、法華寿量品の久遠の不邪淫戒を持つや不や、持つと三返。

第四に不妄語戒とは、爾前の諸経の心は仏は不妄語戒を持つと説けり。然りと雖も法華の心は爾前の仏は妄語第一なり。所以は何。爾前の仏は一往世間の不妄語戒を持つに似たりと雖も未だ出世の不妄語戒を持たず。二乗・闡提等の九界の衆生の色心を破りて成仏せしめず。能化の仏未だ妄語罪を免れず、何に況んや所化の弟子をや。然るを今の経に悉く成仏せしむ云云。今身より仏身に至るまで、爾前の妄語罪を捨て、法華寿量品の久遠の不妄語戒を持つや不や、持つと三返。

第五に不酤酒(ふこしゅ)戒とは、爾前の諸経の意は仏は不酤酒戒を持つと説けり。然りと雖も法華経の心は爾前の仏は酤酒第一なり。所以は何。爾前の仏は一往世間の不酤酒戒を持つに似たりと雖も、未だ出世の不酤酒戒を持たず。二乗・闡提等の九界の衆生をして無明の酒を飲ましめて成仏せしめず。能化の仏未だ酤酒罪を免れず、何に況んや所化の弟子をや。然るを今の経に悉く成仏せしむ云云。今身より仏身に至るまで、爾前の酤酒罪を捨て、法華寿量品の久遠の不酤酒戒を持つや不や、持つと三返。

第六に不説四衆過罪戒とは、爾前の諸経の心は仏は不説過罪戒を持つと説けり。然りと雖も法華経の心は爾前の仏は説過罪第一なり。所以は何。爾前の仏は一往世間の不説過罪戒を持つに似たりと雖も、未だ出世の不説過罪戒を持たず。二乗・闡提等の九界の衆生の過罪を説きて成仏せしめず。能化の仏未だ説過罪を免れず、何に況んや所化の弟子をや。然るを今の経に悉く成仏せしむ云云。今身より仏身に至るまで、爾前の説過罪を捨て、法華寿量品の久遠の不説過罪戒を持つや不や、持つと三返。

第七に不自讃毀他戒とは、爾前の諸経の心は仏は不自讃毀他戒を持つと説けり。然りと雖も法華の意は、爾前の仏は自讃毀他第一なり。所以は何。爾前の仏は一往世間の不自讃毀他戒を持つに似たりと雖も、未だ出世の不自讃毀他戒を持たず。二乗・闡提等の九界の衆生を毀りて成仏せしめず。能化の仏未だ自讃毀他罪を免れず、何に況んや所化の弟子をや。然るを今の経に悉く成仏せしむ云云。
今身より仏身に至るまで、爾前の自讃毀他罪を捨て、法華寿量品の久遠の不自讃毀他戒を持つや不や、持つと三返。

第八に不慳貪戒とは、爾前の諸経の心は仏は不慳貪戒を持つと説けり。然りと雖も法華の心は爾前の仏は慳貪第一なり。所以は何。爾前の仏は一往世間の不慳貪戒を持つに似たりと雖も、未だ出世の不慳貪戒を持たず。二乗・闡提等の九界の衆生の仏性の玉を慳みて成仏せしめず。能化の仏未だ慳貪罪を免れず、何に況んや所化の弟子をや。然るを今の経に悉く成仏せしむ云云。
今身より仏身に至るまで、爾前の慳貪罪を捨て、法華寿量品の久遠の不慳貪戒を持つや不や、持つと三返。

第九に不瞋恚戒とは、爾前の諸経の心は仏は不瞋恚戒を持つと説けり。然りと雖も法華の意は、爾前の仏は瞋恚第一なり。所以は何。爾前の仏は一往世間の不瞋恚戒を持つに似たりと雖も、未だ出世の不瞋恚戒を持たず。二乗・闡提等の九界の衆生を瞋りて成仏せしめず。能化の仏未だ瞋恚罪を免れず、何に況んや所化の弟子をや。然るを今の経に悉く成仏せしむ云云。
今身より仏身に至るまで、爾前の瞋恚罪を捨て、法華寿量品の久遠の不瞋恚戒を持つや不や、持つと三返。

第十に不謗三宝戒とは、爾前の諸経の心は仏は不謗三宝戒を持つと説けり。然りと雖も法華の意は、爾前の仏は謗三宝第一なり。所以は何。爾前の仏は一往世間の不謗三宝戒を持つに似たりと雖も、未だ出世の不謗三宝戒を持たず。二乗・闡提等の九界の衆生の三宝を謗りて成仏せしめず。能化の仏未だ謗三宝罪を免れず、何に況んや所化の弟子をや。然るを今の経に悉く成仏せしむ云云。
今身より仏身に至るまで、爾前の謗三宝罪を捨て、法華寿量品の久遠の不謗三宝戒を持つや不や、持つと三返。





by johsei1129 | 2019-12-05 21:48 | 血脈・相伝・講義 | Trackback | Comments(0)
2019年 12月 01日

唯受一人本門弘通の大導師と定めた直弟子日興上人に与えられた血脈相承書【法華本門宗血脈相承事】四

法華本門宗血脈相承事(本因妙抄) 本文]その四

 若し末法に於て本迹一致と修行し所化等に教ゆる者ならば、我が身も五逆罪を造らずして無間に堕ち、其れに随従せんともがらも、阿鼻に沈まん事疑無き者なり。
此の書一見の人人は、理普賢文殊一言の薩埵(さった)・生死絶断の際、定光覚悟の大菩薩なり。

 伝教云く「文殊の利剣は六輪に通じ十二の生類を切断す、一刀を下して妙法万方に勅するに自然(じねん)に由(な)お三諦を出だす、見聞覚知に明なり」
此の一言の三際を示すに一言に如かず、若し未達の者も一頌(じゅ)を開くに題目三般三諦同じく通知せざること無し。
 
 生仏自ら一現なる、是を一言の妙旨・一教の玄義と謂う云云。天台の云く「一 言三諦・刹那成道・半偈成道」と云云。伝教の云く「仏界の智は九界を境と為し九界の智は仏界を境と為す、境智互に冥薫(みょうくん)して凡聖常恒(ぼんしょうじょうごう)なる、是を刹那(せつな)成道と謂う。三道即三徳と解れば諸悪儵(たちまち)に真善なる、是を半偈成道と名く」
今会釈して云く、諸仏菩薩の定光三昧も凡聖一如の証道・刹那半偈の成道も、我が家の勝劣修行の南無妙法蓮華経の一言に摂し尽す者なり。

 此の血脈を列ぬる事は、末代浅学の者の予が仮字の消息を蔑如(べつじょ)し天台の漢字の止観を見て眼目を迷わし心意を驚動し或は仮字を漢字と成し、或は止観明静(みょうじょう)・前代未聞の見に耽(ふけ)り本迹一致の思を成す。我が内証の寿量品を知らずして止観に同じ但自見の僻見を本として、予が立義を破失して悪道に堕つ可き故に、天台三大章疏の奥伝に属す。

 天台伝教等の秘し給える正義、生死一大事の秘伝を書き顕し奉る事は、且(かつ)は恐れ有り、且は憚(はばか)り有り。広宣流布の日、公亭に於て応に之を披覧(ひらん)し奉るべし。会通を加える事は、且は広宣流布の為、且は末代浅学の為なり。又天台伝教の釈等も予が真実の本懐に非ざるか、未来嬰児(えいじ)の弟子等、彼を本懐かと思うべきものか。

 去る文永の免許の日爾前迹門の謗法を対治し、本門の正義を立て被(らる)れば、不日(ぶじつ)に豊歳(ぶさい)ならむと申せしかば聞く人毎に舌を振い耳を塞(ふさ)ぐ。其の時、方人(かたうど)一人も無く、唯我と日蓮与我日興計りなり。

 問うて云く寿量品、文底の大事と云う秘法如何。答えて云く、唯密の正法なり、秘す可し秘す可し。一代応仏のいきをひかえたる方は、理の上の法相なれば一部共に理の一念三千、迹の上の本門寿量ぞと得意(とくい)せしむる事を、脱益の文の上と申すなり。
 
 文の底とは久遠実成の名字の妙法を余行にわたさず直達の正観、事行の一念三千の南無妙法蓮華経是なり。権実は理今日本迹理なり。本迹は事久遠本迹事なり、亦権実は約智約教一代応仏本迹、本迹は約身約位名字身・久遠本迹、亦云く雖脱在現・具騰本種といへり。

 釈尊・久遠名字即の位の御身の修行を、末法今時・日蓮が名字即の身に移せり、理は造作(ぞうさ)に非ず、故に天真と曰い、証智円明(しょうちえんみょう)の故に独朗と云うの行儀、本門立行の血脈(けちみゃく)之を注す、秘す可し秘す可し。

 又日文字の口伝・産湯(うぶゆ)の口決(くけつ)・二箇は両大師の玄旨にあつ、本尊七箇の口伝は七面の決に之を表す。教化弘経(きょうけぐきょう)の七箇の伝は弘通者の大要なり。又此の血脈並に本尊の大事は日蓮嫡嫡座主(ちゃくちゃく・ざす)伝法の書、塔中相承の稟承唯授(ほんじょうゆいじゅ)一人の血脈なり、相構え相構え秘す可し秘す可し伝う可し。

 法華本門宗血脈相承事

弘安五太歳壬午十月十一日                日 蓮 在御判





by johsei1129 | 2019-12-01 18:58 | 血脈・相伝・講義 | Trackback | Comments(0)
2019年 12月 01日

唯受一人本門弘通の大導師と定めた直弟子日興上人に与えられた血脈相承書【法華本門宗血脈相承事】三

法華本門宗血脈相承事(本因妙抄) 本文]その三

 第六に住教顕観
 七に住教非観
 八に覆教顕観(ふきょうけんかん)
 九に住教用観
 十に住観用教
 此の五重は上の五重の如し思惟す可し。

 問うて云く本迹雖殊(すいしゅ)不思議一・本迹の教に於て別して不思議の観理を顕わす故にと云云、機情に約すれば本迹に於て久近の異有る可し、是れ一往の浅義なり、内証に約して之を論ずれば勝劣有る可からず再往の深義は不思議一なり云云如何が意を得可けんや、答えて云く住教顕観は煩悩即菩提・住教非観は法性寂然・覆教(ふきょう)顕観は名字判教・住教用観は不思議一・住観用教は以顕妙円(いけんみょうえん)と申す大事是なり、教観不思義・天然本性の処に独一法界の妙観を立つ是を不思議の本迹勝劣と云う亦絶対不思議の内証・不可得・言語道断の勝劣は天台・妙楽・伝教の残す所・我が家の秘密・観心直達(じきたつ)の勝劣なり、迹と云う名ありといえども有名(うみょう)無実・本無今有(ほんむこんぬ)の迹門なり、実に不思議の妙法は唯寿量品に限る故に不思議一と釈するなり、迹門の妙法蓮華経の題号は本門に似ると雖も義理・天地を隔(へだ)つ成仏亦水火の不同なり、久遠名字の妙法蓮華経の朽木書(くちぎがき)なる故を顕さんが為に一と釈するなり末学疑網を残すこと勿れ、日蓮・霊山会上・多宝塔中(たっちゅう)に於て親たり釈尊より直授し奉る秘法なり、甚深甚深秘す可し秘す可し伝う可し伝う可し。

 摩訶止観七面口决とは依名判義・附文元意・寂照一相・教行証・六九二識・絶諸思慮(ぜっしょしりょ)・出離生死の一面已上、伝教大師云はく「一切諸法・従本已来・不生不滅・性相凝然(しょうそうぎょうねん)・釈迦閉口・身子絶言云云」、是は迹門天台・止観の内証なり、本門日蓮の止観は釈迦は口を開き文殊は言語(ことば)す迹門不思議・不可説・本門不思議可説の証拠の釈是なり。
 
 又三大部に於て一同十異・四同六異之有り、伝教仏立寺より之を口决す、一同とは名同なり、十異とは名同義異・所依異・観心異・傍正異・用教異(ゆうきょうう)・対機異・顕本理異・修行異・相承異・元旨異なり。

 四同とは名同・義同・所依同・所顕同なり、六異とは釈異・大綱網目異・本末異・観心異・教内外観異・自行化他異・是なり。

 今要を以て之を言わば迹本観心・同名異義なり始終・本末共に修行も覚道も時機も感応も皆勝劣なり。

 此の下・二十四番勝劣なり。

 一に彼の本門は我が迹門。二に彼の勝は此の劣。三に彼の深義は予が浅義。四に彼の深理は此の浅理。五に彼が極位(ごくい)は此の浅位。六に彼の極果は此の初心。七に彼の観心は此の教相。八に彼は台星の国に出生し、此れは日天の国に出世す。九に彼は薬王此れは上行。十に彼は解了(げりょう)の機を利し、此れは愚悪の機を益(やく)す。十一に彼の弘通は台星所居の高嶺なり、此の弘経は日王能住の高峰なり。十二に彼は上機に教え、此れは下機を訓ず。十三に彼は一部を以て本尊と為し、此れは七字を本尊と為す。十四に彼は相対開会(かいえ)を表と為し、此れは絶対開会を表と為す。十五に彼は熟脱・此れは下種。十六に彼は衆機の為に円頓者初縁実相と示し、此れは万機の為に南無妙法蓮華経と勧む。十七に彼は悪口怨嫉、此れは遠島流罪(おんとうるざい)。十八に彼は一部を読誦すと雖も二字を読まざること之在り、此れは文文句句悉く之を読む。十九に彼は正直の妙法の名を替えて一心三観と名く有の儘(まま)の大法に非ざれば帯権の法に似たり、此れは信謗彼此(しんぼうひし)・決定(けつじょう)成菩提・南無妙法蓮華経と唱え懸(か)く。二十に彼は諸宗の謬義(みょうぎ)を粗書き顕すと雖も・未だ言説せず、此れは身命を惜まず他師の邪義を糺(ただ)し三類の強敵を招く。二十一に彼は安楽普賢の説相に依り、此れは勧持不軽の行相を用ゆ。二十二に彼は一部に勝劣を立て、此れは一部を迹と伝う。二十三に彼は応仏のいきをひかう、此れは寿量品の文底を用ゆ。二十四に彼は応仏昇進の自受用報身の一念三千一心三観、此れは久遠元初の自受用報身無作本有(むさほんぬ)の妙法を直に唱う。

 此れ等の深意(じんい)は迹化の衆・普賢・文殊・観音・薬王等の大菩薩にも付属せざる所の大事なれば知らざる所の秘法なり況や凡師に於てをや。

法華本門宗血脈相承事(本因妙抄) 本文]その四に続く


by johsei1129 | 2019-12-01 18:46 | 血脈・相伝・講義 | Trackback | Comments(1)
2019年 12月 01日

唯受一人本門弘通の大導師と定めた直弟子日興上人に与えられた血脈相承書【法華本門宗血脈相承事】二

法華本門宗血脈相承事(本因妙抄) 本文]その二

 文句(もんぐ)の七面の决とは、一に依名(えみょう)の一面・其の義上の如し、二に感応(かんのう)の一面・三時弘経(ぐきょう)に亘る可し、爾前迹門の正像二千年弘経の感応より本門末法弘通の感応は真実真実勝るなり、三に四教の一面・四に五時の一面・五に本迹の一面・六に体用(たいゆう)の一面・七に入己心の一面・悉く皆其の心前に同じ、智威大師の伝には玄義文句の両部には爾前迹門に各三十重の浅深を以て口决(ぐけつ)し給えり、具(つぶさ)には伝教大師七面决の如し。

 又摩訶止観一部には十重顕観を立てて是を通じ給えり、一は待教(たいきょう)立観・爾前・本・迹の三教を破して不思議実理の妙法蓮華経の観を立つ、文に云く円頓者初縁実相と云云、迹門を理具の一念三千と云う脱益(だっちゃく)の法華は本迹共に迹なり、本門を事行の一念三千と云う下種の法華は独一の本門なり、是を不思議実理の妙観と申すなり、二に廃教立観・心は権教並に迹執(しゃくしゅう)を捨て本門首題の理を取つて事行に用いよとなり、三に開教顕観・文に云く一切諸法・本是仏法・三諦の理を具するを名けて仏法と為す、云何(いか)んぞ教を除かん云云、文意は観行理観の一念三千を開して名字事行の一念三千を顕す、大師の深意・釈尊の慈悲・上行所伝の秘曲(ひきょく)・是なり、四に会教顕観(えきょうけんかん)・教相の法華を捨てて観心の法華を信ぜよと、五に住不思議顕観・文に云く理は造作(ぞうさ)に非ず故に天真と曰う・証智円明(しょうちえんみょう)なるが故に独朗と云う云云、釈の意は口唱(くしょう)首題の理に造作無し、今日熟脱の本迹二門を迹と為し久遠名字の本門を本と為す、信心強盛(ごうじょう)にして唯余念(ただよねん)無く南無妙法蓮華経と唱え奉れば凡身即仏身なり、是を天真独朗の即身成仏と名く。

 問うて曰く前代に此の法門を知れる人之有りや、答えて曰く之有り、求めて云く誰人ぞや、示して云く釈尊是なり、尋ねて云く仏を除き奉つて余に之を知れる人師論師有りや、答えて曰く天台の云く「天親竜樹・内鑒冷然(ないがんれいねん)・外適時宜(げちゃくじぎ)」と、今日南無妙法蓮華経は南岳・天台・妙楽・伝教の内鑒冷然・外適時宜なり、内鑒冷然外適時宜の修行の日は本迹一致なり、有智無智を嫌わず円頓者初縁実相の理は造作に非ざる故に天真と曰う、証智円明の故に独朗と曰うと云つて理位観行に趣(おもむ)かしめ利益を為し末法の時を待つ者なり、故に天台云く「但当時大利益を獲(う)るのみに非ず後五百歳遠く妙道に霑(うるお)う」と云云、天台・章安・妙楽・伝教等の大聖は内証は本迹勝劣・外用は本迹一致なり、其の故は教相も観心も相似観行解了(そうじかんぎょうげりょう)の人師・時機亦像法なり、付属は即妄授余人(もうじゅよにん)・御身も亦迹化の衆・観音・妙音・文殊・薬王等の化身(けしん)なり、今末法は本化の薩埵(さった)たる上行等の出世の境・本門流宣の時尅(じこく)なり、何ぞ理観を用いて事行を修せざらんや、予が所存は内証・外用(げゆう)共に本迹勝劣なり、若し本迹一致と修行せば本門の付属を失う物怪(もっけ)なり。

 本迹の不同は処処に之を書す、然りと雖も宿習拙(つたな)き者本迹に迷倒(めいとう)せんか、若し本迹勝劣を知らずんば未来の悪道最も不便(ふびん)なり宿業を恥じず還つて予を恨む可きか、我が弟子等の中にも天台伝教の解了の理観を出でず、本迹に就て一往勝劣再往一致の謬義(みょうぎ)を存して自他を迷惑せしめんの条宿習の然らしむる所か、閻浮提第一の秘事(ひじ)為りと雖も万年救護(くご)の為に之を記し留る者なり、我が未来に於て予が仏法を破らん為に一切衆生の元品(がんぽん)の大石・第六天の魔王・師子身中の蝗蟲(いなむし)と成つて名を日蓮に仮りて本迹一致と云う邪義を申し出して多の衆生を当に悪道に引くべし、若し道心有らん者は彼等の邪師を捨てて宜く予が正義に随うべし、正義とは本迹勝劣の深秘・具騰本種(ぐとうほんしゅ)の実理なり、日蓮一期(ご)の大事なれば弟子等にも朝な夕なに教え亦一期の所造等悉く此の義なり、然りと雖も迹執を出でず・或は軽見惑或は蔑(べつ)思惑或は癡(ち)塵沙惑或は迷(めい)無明惑、故に日蓮が立義を用いざるか、予が教相・観心は理即・名字・愚悪愚見の為なり。

 日蓮は名字即の位弟子檀那は理即の位なり、上行所伝結要付属(けっちょうふぞく)の行儀は教観判乗・皆名字即(かいみょうじそく)・五味の主の修行なり、故に教相の次第・要用に依る可し、唯大綱(たいこう)を存する時は余は網目を事とせず彼は網目・此れは大綱・彼は網目の教相の主・此れは大綱・首題の主・恐くは日蓮の行儀には天台伝教も及ばず、何に況や他師の行儀に於てをや、唯在世八箇年の儀式を移して滅後・末法の行儀と為す、然りと雖も仏は熟脱の教主・某(それがし)は下種の法主なり、彼の一品二半は舎利弗等の為には観心たり、我等・凡夫の為には教相たり、理即・短妄(たんもう)の凡夫の為の観心は余行に渡らざる南無妙法蓮華経是なり、是くの如く深義を知らざる僻人(びゃくにん)・出来(しゅったい)して予が立義は教相辺外(はずれ)と思う可き者なり、此等は皆宿業の拙(つたな)き修因感果の至極せるなるべし、彼の天台大師には三千人の弟子ありて章安一人朗然なり、伝教大師は三千人の衆徒を置く義真已後は其れ無きが如し、今以て此くの如し数輩(すうはい)の弟子有りと雖も疑心無く正義を伝うる者は希(まれ)にして一二の小石の如し秘す可きの法門なり。

法華本門宗血脈相承事(本因妙抄) 本文]その三に続く




by johsei1129 | 2019-12-01 18:33 | 血脈・相伝・講義 | Trackback | Comments(0)
2019年 12月 01日

唯受一人本門弘通の大導師と定めた直弟子日興上人に与えられた血脈相承書【法華本門宗血脈相承事】一

【法華本門宗血脈相承事(別名:本因妙抄)(ほっけほんもんけちみゃくそうじょうじ)】
■出筆時期:弘安五年十月十一日(西暦1282年)  六十一歳御作
■出筆場所:豪信徒 池上宗仲の館にて
■出筆の経緯:弘安五年十月十三日に池上宗仲の館にて大聖人がご入滅なされる。その二日前に、唯受一人本門弘通の大導師と定めた直弟子日興上人に、大聖人の法門を血脈相承するために認められた書である。
■ご真筆: 現存しておりません。時代写本:日時書写本(大石寺所蔵)


[法華本門宗血脈相承事(本因妙抄) 本文]その一

本因妙の行者日蓮 之を得、之を記す。

予が外用(げゆう)の師・伝教大師生歳四十二歳の御時・仏立寺天台山仏隴寺の大和尚に値い奉り義道を落居(らくこ)し生死一大事の秘法を決したもうの日、大唐の貞元(ていげん)二十一年太歳乙酉五月三日・三大章疏を伝え各七面七重の口決を以て治定し給えり、所謂玄義七面の決とは正釈五重列名に約して決したもう。

一に依名判義(えみょうはんぎ)の一面・名(みょう)とは法の分位に於いて施設(せせつ)す・体とは宰主を義と為す・宗とは所作の究竟なり、受持本因の所作に由つて口唱(くしょう)本果の究竟を得、用(ゆう)とは証体本因本果の上の功能(くのう)徳行なり、教とは誡を義と為す誡とは本の為の迹為(な)れば迹は即ち有名(うみょう)無実・無得道なるを実相の名題(みょうだい)は本迹同じければ本迹一致と思惟す可き事を大に誡(いましめ)んが為に三種の教相を起て種熟脱の論不論を立つる者なり、経文解釈(げしゃく)明白なり、此くの如く文文・句句の名・妙正の深義・本迹勝劣の本意を顕し給う者なり、然りと雖も天台伝教の御弘通は偏に理の上の法相(ほっそう)・迹化付属・像法の理位・観行五品の教主なれば迹を表と為して衆を救い、本を隠して裏に用る者なり甚深甚深秘す可し秘す可し。

二に仏意(ぶっち)・機情・二意の一面、仏意は観行・相似(そうじ)を本と為し機情は理即・名字を本と為す、何れも体用(たいゆう)を離れず体用は法華の心智に依つて一代五時の次第浅深を開拓す、次に機情とは大通結縁の衆の為に四味の調養を設け法華に来入す、本迹二門乃至文文・句句此の二意を以て分別す可き者なり。

三に四重浅深の一面、名の四重有り・一には名体無常の義・爾前の諸経諸宗なり、二には体実名仮(みょうけ)・迹門・始覚無常なり、三には名体倶実(くじつ)・本門本覚常住なり、四には名体不思議是れ観心直達(かんじんじきたつ)の南無妙法蓮華経なり、湛然(たんねん)の云く「雖脱在現(すいだつざいげん)・具騰本種(ぐとうほんしゅ)」云云、次に体の四重とは一に三諦隔歴(さんたいきゃくりゃく)の体・爾前権教なり、二に理性円融の体・迹門十四品なり、三に三千本有の体・本門十四品なり、四に自性不思議の体・我が内証の寿量品・事行の一念三千なり、次に宗の四重とは一に因果異性(いしょう)の宗・方便権教なり、二に因果同性の宗・是れ迹門なり、三に因果並常(びょうじょう)の宗・即ち本門なり、四に因果一念の宗・文に云く「芥爾(けに)も心有れば即ち三千を具す」と、是れ即ち末法純円・結要(けっちょう)付属の妙法なり云云、次に用の四重とは一に神通幻化(じんずうげんけ)の用・今経已前に明かす所の仏・菩薩・出仮利生(しゅっけりしょう)の事、二に普賢色身の用・即ち一身の中に於て十界を具する事なり本迹一代五時に亘る、三に無作常住の用・証道八相有り無作自在の事なり、四に一心の化用・或説己身等なり、次に教の四重とは一には但顕隔理(たんけんきゃくり)の教・権小なり、二には教即実理の教・迹門なり、三には自性会中の教・応仏の本門なり、四には一心法界の教・寿量品の文の底の法門・自受用報身如来(じじゅゆうほうしんにょらい)の真実の本門・久遠一念の南無妙法蓮華経・雖脱在現具騰本種の勝劣是なり。

第四に八重浅深の一面なり、名の八重とは一に名体永別(ようべつ)の名・二に名体不離の名・三に従体流出(じゅうたいるしゅつ)の名・四に名体具足の名・五に本分常住の名・六に果海妙性(かかいみょうしょう)の名・七に無相不思議の名・八に自性己己(ここ)の名・乃至教知る可し云云、文に任せて思惟す可きなり。

第五に還住当文(げんじゅうとうもん)の一面、四八の浅深を以て本迹勝劣を知る可し。

第六に但入己心の一面、始め大法東漸より第十の判教に至るまで文の生起を閣(さし)おき一向に心理の勝劣に入れて正意を成ず可し、謂く大法とは即ち行者の己心の異名なり云云、釈の意は文義の広博(こうばく)を離れて首題の理を専にすと釈し給うなり。

第七に出離生死の一面、心は一代応仏の寿量品を迹と為し内証の寿量品を本と為し釈尊久遠名字即の身と位とに約して南無妙法蓮華経と唱え奉る是を出離生死の一面と名く、本迹約身約位(やくしんやくい)の釈之を思う可き者なり已上。

玄文畢る。

[法華本門宗血脈相承事(本因妙抄) 本文]その二に続く


by johsei1129 | 2019-12-01 18:21 | 血脈・相伝・講義 | Trackback | Comments(0)
2019年 12月 01日

日蓮の名号は富士山の実名・大日蓮華山、及び日本の日に由来することを日興上人に口伝した【産湯相承事】

【産湯相承事(うぶゆそうじょうじ】
■出筆時期:弘安五年十月八日(西暦1282年)、六十一歳。大聖人より日興上人に口伝される。
■出筆場所:大聖人が御遷化なされてた池上仲宗邸にて口伝により相伝される。
■出筆の経緯:弘安五年九月十八日に大聖人は池上仲宗邸に到着、そして翌月十月十三日に御遷化なされるが、その間後を託した日興上人に、本因妙抄、身延山附属書等の血脈相承書を託されているが、そのなかで自身の出生についての謂れ、日蓮の日文字の由来等についても口伝されている。
■ご真筆: 現存しない。時代写本:左京日教筆(富士大石寺所蔵)


[産湯相承事 本文]

                                                日興之を記す
御名乗りの事、始めは是生(ぜしょう)実名は蓮長と申し奉る・後には日蓮と御名乗り有る御事は、母梅菊女童女の御名なり平の畠山殿の一類にて御座す云云。法号妙蓮禅尼の御物語之(これ)ある事は、我に不思議の御夢想あり、清澄寺に通夜申したりし時、汝が志真に神妙なり一閻
                      
 
父母夫婦先表の口伝
浮提第一の宝を与えんと思うなり。東条の片海(かたうみ)に三国(みくに)の太夫(たゆう)と云う者あり是を夫(おとこ)と定めよと云云。七歳の春三月二十四日の夜なり、正(たしかに)今も覚え侍(はべ)るなり。我父母に後れ奉りて已後、詮方なく遊女(たわれ

                        聖人托胎の口伝
め)の如くなりし時御身の父に嫁(とつ)げり。或夜の霊夢(れいむ)に曰く、叡山(えいざん)の頂(いただき)に腰をかけて近江の湖水を以て手を洗ひ、富士の山より日輪の出でたもうを懐(いだ)き奉ると思うて、打ち驚いて後月水(がっすい)留ると夢物語りを申し侍(はべ)れば、父の太夫我も不思議なる御夢想を蒙むるなり。虚空蔵菩薩貌吉児(みめよきちご)を御肩に立て給う。

                聖人上行菩薩の口伝、並びに是生の口伝
此の少人(しょうじん)は我が為には上行菩提薩捶(さった)なり。日の下(もと)の人の為には生財摩訶薩捶なり。亦一切有情(うじょう)の為には行く末三世常恒(じょうごう)の大導師なり。是を汝に与えんとの給うと見て後、御事(おこと)懐妊の由を聞くと語り相(あ)いたりき。さてこそ御事(おこと)は聖人なれ。

        聖人の御生まれ仏の御誕生に殊ならざる口伝
 又産生(うまれ)たまふべき夜の夢に、富士山の頂に登つて十方を見るに、明なる事掌(たなごころ)の内を見るが如く三世明白なり。梵天・帝釈・四大天王等の諸天悉く来下(らいげ)して、本地自受用報身如来の垂迹(すいじゃく)上行菩薩の御身を凡夫地に謙下(けんげ)し給う。御誕生は唯今なり、無熱池(むねっち)の主阿那婆達多竜王(あるじ・あなばだったりゅうおう)、八功徳水を汲み来るべきなし、当に産湯(うぶゆ)に浴(ゆあみ)し奉るべしと諸天に告げ給えり。仍て竜神王・即時に青蓮華(しょうれんげ)を一本荷(ひともとにな)い来れり。其の蓮より清水を出して御身を浴(ゆあみ)し進(まい)らせ侍りけり。其の余れる水をば四天下に灑(そそ)ぐに、其の潤(うるお)いを受くる人畜・草木・国土世間悉く金色の光明を放ち、四方の草木花発(ひ)らき菓(このみ)成る。
男女座を並べて有れども煩悩(ぼんのう)無し。淤泥(おでい)の中より出づれども塵泥(じんでい)に染まざること、譬(たと)えば蓮華の泥より出でて泥に染まざるが如し。人・天・竜・畜共に白き蓮を各手に捧(ささ)げて、日に向つて「今此三界(こんしさんがい)、皆是我有(かいぜがう)、其中衆生(ごちゅうしゅじょう)、悉是吾子(しつぜごし)、唯我一人(ゆいがいちにん)、能為救護(のういくご)」と唱え奉ると見て驚けば、則ち聖人出生し給えり。「毎自作是念(まいじさねん)、以何令衆生(いがりょうしゅじょう)、得入無上道(とくにゅうむじょうどう)、速成就仏身(そくじょうじゅぶっしん)」と苦我渧(くがな)き給う。

 我と少し寐(まどろ)みし様なりし時、梵帝等の諸天一同音に唱えて言く、善哉(ぜんざい)善哉・善日童子、末法教主勝釈迦仏と三度唱えて作礼而去(さらいにこ)し給うと寤(うつつ)に見聞きしなりと、慥(たしか)に語り給いしを聞(きこ)し食(め)し、さては某は日蓮なりと言(のたま)ひしなり。
聖人重ねて曰(のたま)う様は、日蓮が弟子檀那(だんな)等悲母の物語りと思うべからず、即ち金言なり。其の故は予が修行は兼(か)ねて母の霊夢(れいむ)にありけり。日蓮は富士山自然(じねん)の名号なり。富士は郡名(ぐんみょう)なり、実名をば大日蓮華山と云うなり、我(われ)中道を修行する故に是くの如し。国をば日本と云ひ、神をば日神と申し、仏の童名をば日種(にっしゅ)太子と申し、予が童名をば善日、仮名は是生(ぜしょう)、実名は即ち日蓮なり。

 久遠下種の南無妙法蓮華経の守護神の我国に天下り始めし国は出雲なり。出雲に日御崎(ひのみさき)と云う所あり。天照太神始めて天下り給う故に日の御崎と申すなり。

                                        生仏法界一如の口伝
 我が釈尊・法華経を説き顕し給いしより已来(このかた)十羅刹女と号したてまつる。十羅刹と天照太神と釈尊と日蓮とは一体異名にして本地垂迹の利益広大なり、日神と月神とを合して文字を訓(くん)ずれば十なり。十羅刹と申すは、諸神を一体に束(たば)ね合せたる深義なり。日蓮の日は即日の神、昼なり。蓮は即月の神、夜なり。月は水を縁とす、蓮は水より生ずる故なり。又是生とは日の下の人を生むと書きたり。

    本門下種の口伝 
 日蓮天上天下一切衆生の主君なり、父母なり。師匠なり。今久遠下種の寿量品に云く「今此三界皆是我有主君の義なり其中衆生悉是吾子父母の義なり而今此処多諸患難(にこんししょたしょげんなん)国土草木唯我一人能為救護師匠の義なり」と云えり。

三世常恒(じょうごう)に日蓮は今此三界の主なり。「日蓮大恩、以希有事(いけうじ)、憐愍教化、利益我等、無量億劫、誰能報者(すいのうほうしゃ)」なるべし。
若し日蓮が現在の弟子並びに未来の弟子等の中にも、日文字を名乗の上の字に置かずんば、自然の法罰を蒙(こうむ)るべし。予が一期の功徳は日文字に留め置くと御説法ありし儘(まま)、日興謹んで之を記し奉りしなり。
  聖人言く、此の相承は日蓮嫡嫡(ちゃくちゃく)一人の口決、唯授一人の秘伝なり、神妙神妙と言給(のたま)ひて留め畢んぬ。

[産湯相承事 本文] 完。




by johsei1129 | 2019-12-01 15:57 | 血脈・相伝・講義 | Trackback | Comments(0)
2019年 12月 01日

日蓮大聖人が釈尊より『妙法蓮華経の五字』を口決相承されたことを明らかにした書【三大秘法禀承事】

【三大秘法禀承事(さんだいひほうぼんしょうじ】
■出筆時期:弘安五年四月八日(西暦1282年) 六十一歳御作 与大田金吾
■出筆場所:身延山中 草庵
■出筆の経緯:大聖人が御入滅される約半年前に、鎌倉武士で強信徒の大田金吾に宛てられた書。大聖人滅後、残された弟子・信徒への遺言と言っても良い御書である。法華経第七神力品に説かれている「如来の一切の所有の法、如来の一切の自在の神力、如来の一切の秘要の蔵、如来の一切の甚深の事」の実体である三大秘法『本門の本尊、本門の題目、本門の戒壇』は、二千余年の当初(そのかみ)・地涌(じゆ)千界の上首として日蓮慥(たし)かに教主大覚世尊より口決(くけつ)相承せしなり、と明らかにしている。
■ご真筆: 現存していない。古写本:日時上人筆(大石寺 所蔵)、日向上人筆(身延山久遠寺 所蔵)、日親上人筆(京都本法寺 所蔵)

[三大秘法禀承事 本文]

 夫れ法華経の第七神力品に云く「要を以て之を言ば如来の一切の所有の法、如来の一切の自在の神力、如来の一切の秘要の蔵、如来の一切の甚深の事(じ)、皆此経に於て宣示顕説す」等云云、釈に云く「経中の要説の要四事に在り」等云云、問う所説の要言の法とは何物ぞや、答て云く夫れ釈尊初成道より四味三教乃至法華経の広開三顕一の席を立ちて略開近顕遠(りゃくかいごんけんのん)を説かせ給いし涌出品まで秘せさせ給いし実相証得の当初修行し給いし処の寿量品の本尊と戒壇と題目の五字なり、教主釈尊此の秘法をば三世に隠れ無き普賢文殊等にも譲り給はず況や其の以下をや、されば此の秘法を説かせ給いし儀式は四味三教並に法華経の迹門十四品に異なりき、所居(しょご)の土は寂光本有(ほんぬ)の国土なり能居(のうご)の教主は本有無作(ほんぬむさ)の三身なり所化以て同体なり、かかる砌(みぎり)なれば久遠称揚(くおんしょうよう)の本眷属・上行等の四菩薩を寂光の大地の底よりはるばると召し出して付属し給う、道暹(どうせん)律師云く「法是れ久成(くじょう)の法なるに由る故に久成の人に付す」等云云、問て云く其の所属の法門仏の滅後に於ては何れの時に弘通し給う可きか、答て云く経の第七薬王品に云く「後の五百歳の中に閻浮提に広宣流布して断絶せしむること無けん」等云云、謹んで経文を拝見し奉るに仏の滅後正像二千年過ぎて第五の五百歳・闘諍堅固・白法隠没(おんもつ)の時云云、問て云く夫れ諸仏の慈悲は天月の如し機縁の水澄めば利生の影を普く万機の水に移し給べき処に正像末の三時の中に末法に限ると説き給わば教主釈尊の慈悲に於て偏頗(へんぱ)あるに似たり如何、答う諸仏の和光・利物(りもつ)の月影は九法界の闇を照すと雖も謗法一闡提の濁水には影を移さず正法一千年の機の前には唯小乗・権大乗相叶へり、像法一千年には法華経の迹門・機感相応せり、末法の始の五百年には法華経の本門・前後十三品を置きて只寿量品の一品を弘通すべき時なり機法相応(きほうそおうおう)せり。

今此の本門寿量の一品は像法の後の五百歳・機尚(なお)堪えず況や始めの五百年をや、何(いか)に況や正法の機は迹門・尚日浅し、増して本門をや、末法に入て爾前迹門は全く出離生死の法にあらず、但専ら本門寿量の一品に限りて出離生死の要法なり、是を以て思うに諸仏の化導(けどう)に於て全く偏頗(へんぱ)無し等云云、問う仏の滅後正像末の三時に於て本化(ほんげ)・迹化(しゃっけ)の各各の付属分明(ふんみょう)なり但寿量の一品に限りて末法濁悪の衆生の為なりといへる経文未だ分明ならず慥(たしか)に経の現文を聞かんと欲す如何、答う汝強(あなが)ちに之を問う、聞て後堅く信を取る可きなり、所謂寿量品に云く「是の好き良薬を今留めて此に在(お)く汝取て服す可し差(いえ)じと憂うる勿(なか)れ」等云云。

 問て云く寿量品専ら末法悪世に限る経文顕然(けんねん)なる上は私に難勢(なんせい)を加う可らず、然りと雖も三大秘法其の体如何、答て云く予が己心の大事之に如(し)かず汝が志無二なれば少し之を云わん、寿量品に建立する所の本尊は五百塵点の当初(そのかみ)より以来此土有縁深厚本有無作三身の教主釈尊是れなり、寿量品に云く「如来秘密神通之力」等云云、疏(じょ)の九に云く「一身即三身なるを名けて秘と為し三身即一身なるを名けて密と為す又昔より説かざる所を名けて秘と為し唯仏のみ自ら知るを名けて密と為す仏三世に於て等しく三身有り諸教の中に於て之を秘して伝えず」等云云、

題目とは二の意有り所謂正像と末法となり、正法には天親菩薩・竜樹菩薩・題目を唱えさせ給いしかども自行ばかりにしてさて止(やみ)ぬ、像法には南岳天台等亦南無妙法蓮華経と唱え給いて自行の為にして広く他の為に説かず是れ理行の題目なり、末法に入て今日蓮が唱る所の題目は前代に異り自行化他に亘(わた)りて南無妙法蓮華経なり名体宗用教の五重玄の五字なり。

戒壇とは王法仏法に冥じ仏法王法に合して王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて有徳王(うとくおう)・覚徳比丘の其の乃往(むかし)を末法濁悪の未来に移さん時勅宣並に御教書(みきょうしょ)を申し下して霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か時を待つ可きのみ、事(じ)の戒法と申すは是なり、三国並に一閻浮提の人・懺悔(ざんげ)滅罪の戒法のみならず大梵天王・帝釈等も来下(らいげ)して蹋(ふみ)給うべき戒壇なり、此の戒法立ちて後・延暦寺の戒壇は迹門の理戒なれば益あるまじき処に、叡山に座主始まつて第三・第四の慈覚・智証・存の外に本師伝教・義真に背きて理同事勝の狂言を本として我が山の戒法をあなづり戯論とわらいし故に、存(ぞん)の外に延暦寺の戒・清浄無染(むぜん)の中道の妙戒なりしが徒(いたずら)に土泥(どでい)となりぬる事云うても余りあり歎きても何かはせん、彼の摩黎(まり)山の瓦礫(がりゃく)の土となり栴檀林(せんだんりん)の荊棘(いばら)となるにも過ぎたるなるべし、夫れ一代聖教の邪正偏円を弁えたらん学者の人をして今の延暦寺の戒壇を蹋(ふ)ましむべきや、此の法門は義理を案じて義をつまびらかにせよ、

此の三大秘法は二千余年の当初(そのかみ)・地涌千界の上首として日蓮慥(たし)かに教主大覚世尊より口決相承せしなり、今日蓮が所行は霊鷲山の禀承(ぼんじょう)に芥爾(けに)計りの相違なき色も替らぬ寿量品の事の三大事なり。

  問う一念三千の正(まさ)しき証文如何、答う次に出し申す可し此に於て二種有り、方便品に云く「諸法実相・所謂諸法・如是相・乃至欲令衆生開仏知見」等云云、底下(ていげ)の凡夫・理性所具の一念三千か、寿量品に云く「然我実成仏已来(ねんがじつじょうぶついらい)・無量無辺」等云云、大覚世尊・久遠実成(くおんじつじょう)の当初(そのかみ)証得の一念三千なり。
 今、日蓮が時に感じて此の法門広宣流布するなり予年来(よ・としごろ)己心に秘すと雖も此の法門を書き付て留め置ずんば門家の遺弟(ゆいてい)等定めて無慈悲の讒言(ざんげん)を加う可し、其の後は何と悔ゆとも叶うまじきと存ずる間貴辺に対し書き送り候、一見の後・秘して他見有る可からず口外も詮無し、法華経を諸仏出世の一大事と説かせ給いて候は此の三大秘法を含めたる経にて渡らせ給えばなり、秘す可し秘す可し。 

弘安四年卯月(うづき)八日            日 蓮 花 押
大田金吾殿御返事




by johsei1129 | 2019-12-01 15:15 | 血脈・相伝・講義 | Trackback | Comments(0)
2019年 11月 25日

日蓮大聖人が晩年六老僧に法華経を講説しそれを日向が書き記した【御講聞書(おんこうききがき)】その三

【御講聞書 本文】その三

一枯槁衆生の事
 仰に云く、法華経を持ち奉る者は、枯槁(ここう)の衆生に非ざるなり、既に法華経の種子を受持し奉るが故なり、謗法不信の人は下種無き故に枯槁の衆生なり、されば、妙楽大師の云く、余教を以て種と為さず文。

一等雨法雨の事
 仰に云く等とは平等の事なり、善人・悪人、二乗・闡提(せんだい)、正見・邪見等の者にも、妙法の雨を惜まず平等にふらすと云う事なり、されば法の雨を雨すと云う時は、大覚世尊ふらしてに成り給えり、さて、法の雨ふりてとよむ時は、本より実相平等の法雨は、常住本有の雨なれば、今始めてふるべきに非ず、されば、諸法実相を、譬喩品の時は風月に譬えたり、妙楽大師は何ぞ隠れ何ぞ顕れんと釈せり、実相の法雨は三世常恒にして、隠顕更に無きなり、所詮、等の字はひとしくとよむ時は、釈迦如来の平等の慈悲なり、さて、ひとしきとよむ時は、平等大慧の妙法蓮華経なり、ひとしく法の雨をふらすとは、能弘(のうぐ)につけたり、ひとしき法の雨ふりたりと読む時は、所弘(しょぐ)の法なり、所詮法と云うは、十界の諸法なり、雨とは十界の言語・音声の振舞なり、ふるとは自在にして地獄は洞燃猛火(どうねんもうか)、乃至仏界の上の所作音声を、等雨法雨とは説けり、此の等雨法雨は法体(ほったい)の南無妙法蓮華経なり、今末法に入つて、日蓮等の類いの弘通する題目は、等雨法雨の法体なり、此の法雨・地獄の衆生・餓鬼・畜生等に至るまで同時にふりたる法雨なり、日本国の一切衆生の為に付属し給う法雨は題目の五字なり、所謂日蓮建立の御本尊・南無妙法蓮華経是なり云云、方便品には本末究竟等と云えり、譬喩品には等一大車と云えり、此の等の字を重ねて説かれたり、或は如我等無異と云えり、此の等の字は宝塔品の如是如是と同じなり、所詮等とは南無妙法蓮華経なり、法雨をふらすとは今身より仏身に至るまで持つや否やと云う受持の言語なり云云。

一等雨法雨の事
 仰に云く此の時は妙法実相の法雨は十界三千・下は地獄・上は非想非非想まで横に十方・竪に三世に亘つて妙法の功徳をふるを等とは云うなり、さてふるとは一切衆生の色心・妙法蓮華経と三世常住ふるなり云云、一義に云く、此の妙法の雨は九識本法の法体なり、然るに一仏現前して説き出す所の妙法なれば、法の雨をふらすと云うなり、其の故は、ふらすと云うは・上より下へふるを云うなり、仍つて従果向因の義なり、仏に約すれば、第十の仏果より九界へふらす、法体にては・ふる処も・ふらす処も、真如の一理なり識分にては八識へふり下りたるなり、然らば今日蓮等の類い南無妙法蓮華経を日本国の一切衆生の頂上にふらすを法の雨をふらすと云うなり云云。

一如従飢国来忽遇(こつぐう)大王膳の事
 仰に云く此の文は中根の四大声聞・法華に来れる事、譬えばうえたる国より来りて大王のそなえに値うが如くの歓喜なりと云えり、然らば此の文の如くならば法華已前の人は餓鬼界の衆生なり、既に飢国来と説けり、大王膳とは醍醐味なり、中根の声聞・法華に来つて一乗醍醐の法味を得て忽に法王の位に備りたり、忽(こつ)の字は爾前の迂廻道(うえどう)の機に対して忽と云うなり、速疾頓成の義を忽と云うなり、仮令外用(たとえげゆう)の八相を唱うる事は所化をして仏道に進めんが為なり、所詮末法に入つては謗法の人人は餓鬼界の衆生なり、此の経に値い奉り・南無妙法蓮華経に値い奉る事は併(しかしなが)ら大王膳たり、忽遇の遇の字肝要たり、釈に云く、成仏の難きには非ず、此の経に値うをかたしとすと云えり、不軽品に云く復遇(ぶぐう)常不軽と云云、厳王品に云く生値(しょうち)仏法云云、大王の膳に値いたり、最も以て南無妙法蓮華経を信受し奉る可きなり、此の経文の如くならば法華より外の一切衆生はいかに高貴の人なりとも餓鬼道の衆生なり、十羅刹女は餓鬼界の羅刹なれども法華経を受持し奉る故に餓鬼に即する一念三千なり、法華へ来らずんば何れも餓鬼飢饉の苦みなるべし、所詮必ず中根の声聞領解の言に我身を餓鬼に類する事は餓鬼は法界に食(じき)ありと云えども食する事を得ざるなり、諸法実相の一味の醍醐の妙法あれども終に開覚(かいかく)に能(あた)はざる間・四十余年食にうえたり云云、一義に云く序品方便より諸法実相の甘露顕れて南無妙法蓮華経あれども広略二重の譬説段まで悟らざるは餓鬼の満満とある食事をくらわざるが如し、所詮日本国の一切衆生は餓鬼界の衆生なり、大王膳とは所謂南無妙法蓮華経是なり、遇の字には人法を納めたり、仍つて末に如飢須教食(にょけしゅきょうじき)と云えり、うえたるとも大王のをしえを待ちて醍醐を食するが如しと云えり、今南無妙法蓮華経有れども・今身より仏身に至るまでの受持をうけずんば成仏は之れ有るべからず、教とは爾前無得道・法華成仏の事なり、此の教をうけずんば法華経を読誦すとも大王の位に登る事・之れ有る可からず醍醐は題目の五字なり云云。

一大通智勝仏十劫坐道場仏法不現前不得成仏道の事
 仰に云く此経文は一切衆生の本法流転を説かれたり、されば釈にも出世以前と判ぜり、此は大通仏出世し給えども十小劫の間・一経も説給わずと云う経文なり、仍て仏法も現前せざる故に不得成仏と云えり、されども釈を見るに出世以前と云う時は、此の経文は何なる事ぞ、此は本法の重を説かれたり、一仏出世すれば流転門となる、一仏も出世無き時は、本法不思議の体なり、迷悟もなく、生仏もなく、成仏もなく、不成仏もなきなり、仍つて不得成仏道と云えり、抑(そもそ)も本法と申すは水があつくなり、火がつめたくならば流転門なるべし、水はいつもつめたく、火はいつもあつく、地獄は何も火焔・餓鬼はいつも飢渇・其の外・万法己己の当位・当位の儘(まま)なるを本法の体と云うなり、此の重を説き顕したる経文なり、此の本法の重は法華経なり、権教は流転なり、此の流転の衆生を本法の重に引入せられんとての仏の出世なり、其の本法と云うは此の経なり、所詮此の経文・本法とは大通智勝仏と云うは我等衆生の色心なり、十劫と云うは十界なり、坐道場と云うは十界の住所其の儘道場なり、道場なれば寂光土なり、法界寂光土にして、十界の衆生悉く諸法実相の仏なれば一仏現ずべきに非ず、迷の衆生無ければ説く可き法も無し、仍つて仏法不現前と云えり、不得成仏道とは始覚本覚の成仏と云う事も無し、本法不思議の体にして万法本有なり、之れに依つて釈には出世以前と判ぜり、然らば、其の本法の体とは、所詮南無妙法蓮華経なり、此の本法の内証に引入(いんにゅう)せんが為に、仏は四十余年誘引し、終に第五時の本法を説き給えり、今末法に入つて上行所伝の本法の南無妙法蓮華経を弘め奉る、日蓮・世間に出世すと云えども、三十二歳までは、此の題目を唱え出さざるは、仏法不現前なり、此の妙法蓮華経を弘めて、終には本法の内証に引入するなり日蓮・豈大通智勝仏に非ずや、日本国の一切衆生こそ十劫坐道場とて十界其の儘・本法の南無妙法蓮華経へ引入するなり、所詮信心を出だして南無妙法蓮華経と唱え奉る可き者なり云云。

一貧人見此珠其心大歓喜の事
 仰に云く此珠とは一乗無価の宝珠なり、貧人とは下根の声聞なり、惣じて一切衆生なり、所詮末法に入つて此珠とは南無妙法蓮華経なり、貧人とは日本国の一切衆生なり、此の題目を唱え奉る者は心大歓喜せり、されば見宝塔と云う見と此珠とは同じ事なり所詮此珠とは我等衆生の一心なり、一念三千なり此の経に値い奉る時、一念三千と開くを珠を見るとは云うなり、此の珠は広く一切衆生の心法なり此の珠は体中にある財用なり、一心に三千具足の財(たから)を具足せり、此の珠を方便品にして諸法実相と説き、譬喩品にては大白牛車・三草二木・五百由旬の宝塔、共に皆一珠の妙法蓮華経の宝珠なり、此の経文・色心の実相歓喜を説けり・見此珠(けんししゅ)の見は色法なり、其心大(ごしんだい)と云うは心法なり、色心共に歓喜なれば大歓喜と云うなり、所詮此珠と云うは我等衆生の心法なり、仍つて一念三千の宝珠なり、所謂妙法蓮華経なり、今末代に入つて此の珠を顕す事は日蓮等の類いなり所謂未曾有の大曼荼羅こそ正しく一念三千の宝珠なれ、見の字は日本国の一切衆生、広くは一閻浮提の衆生なり、然りと雖も其心大歓喜と云う時は、日蓮が弟子檀那等の信者をさすなり、所詮煩悩即菩提・生死即涅槃と体達する、其心大歓喜なり、されば、我等衆生・五百塵点の下種の珠を失いて、五道・六道に輪廻し、貧人となる、近くは三千塵点の下種を捨てて備輪諸道(びりんしょどう)せり、之れに依つて貧人と成る、今此の珠を釈尊に値い奉りて見付け得て本の如く取り得たり、此の故に心大歓喜せり、末法当今に於いて妙法蓮華経の宝珠を受持し奉りて、己心を見るに、十界互具・百界千如・一念三千の宝珠を分明に具足せり、是れ併ら末法の要法たる題目なり云云。

一如甘露見潅(にょかんろけんかん)の事
 仰に云く甘露とは天上の甘露なり、されば妙楽大師云く実相常住は甘露の如し是れ不死の薬云云、此の釈の心は諸法実相の法体をば甘露に譬えたり、甘露は不死の薬と云えり、所詮妙とは不死の薬なり、此の心は不死とは法界を指すなり、其の故は森羅三千の万法を不思議と歎じたり、生住異滅の当位当位・三世常恒なるを不死と云う、本法の徳として・水はくだりつめたく火はのぼりあつし、此れを妙と云う、此れ即ち不思議なり、此の重を不死とは云うなり、甘露と妙とは同じ事なり、然らば法界の儘(まま)に閣(さしお)いて妙法なりと説くを本法とも甘露とも云えり、火は水にきゆる本法にして不死なり、十界己己の当位・当位の振舞・常住本有なるを甘露とも妙法とも不思議とも本法とも止観とも云えり、所詮末法に入つて甘露とは南無妙法蓮華経なり、見潅とは受持の一行なり云云。

一若有悪人以不善心等の事
 仰に云く悪人とは在世にては提婆・瞿伽利等なり、不善心とは悪心を以て仏を罵詈(めり)し奉る事を説くなり、滅後には悪人とは弘法・慈覚・智証・善導・法然等是なり、不善心とは謗言なり此の謗言を書写したる十住心等・選択集等の謗法の書どもなり、さて末法に入て善人とは日蓮等の類いなり善心とは法華弘通の信心なり所謂南無妙法蓮華経是なり云云。

一如是如是の事
 仰に云く釈に云く法相の是に如し根性の是に如するなり文、法相の是に如すとは諸法実相を重ねて如是と説かれたり、根性の是に如すとは、九法界を説かれたり、然れば機法共に釈迦如来の所説の如く真実なりと証明し給えり、始の如是は教一開会なり次の如是は人一開会なり、権教の意は諸法を妄法ときらいし隔別不融(きゃくべつふゆう)の教なり、根性に於ては性欲不同(しょうよくふどう)なれば種種に説法し給えり、仍つて人も成仏せず、今の経の心は諸法実相の御経なれば十界平等に授くる所の妙法なり、根性は不同なれども同じく如是性の一性なり、所詮今末法に入つての如法相是は塔中相承の本尊なり如根性是也と云うは十界宛然(おんねん)の尊像なり法相(ほっそう)は南無妙法蓮華経なり、根性は日本国の一切衆生広くは一閻浮提の衆生なり云云。

一是真仏子住淳善地の事
 仰に云く末法当今に於て釈迦如来の真実の御子と云うは法華経の行者なり、其の故は上の文に能於来世読持此経と説けり来世とは末法なり、読むと云うは法華経の如説修行の行者なり、弘法・慈覚・智証・善導・法然等読みて云く第三の劣・戯論(けろん)の法・捨閉閣抛(しゃへいかくほう)・理同事勝等と読むは謗法にして三仏の御舌を切るに非ずや何に況や持たんをや、伝教大師云く法華経を讚むると雖も還つて法華の心を死(ころ)すとは是なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る人は、読持此経の人なり、豈是真仏子に非ずや淳善地(じゅんぜんじ)は寂光土に非ずや、是真仏子の子の字は十界の衆生なり、所詮此の子の字は法華経の行者に限る、悉是吾子の子は孝不孝を分別せざる子なり、我等皆似仏子の子は中根の声聞・仏子に似たりと説かれたり、為治狂子故の子は、久遠の下種を忘れたれば物にくるう子なり、仍つて釈尊の御子にも物にくるう子もあり、不孝の子もあり、孝養の子もあり、所謂法華経の行者・真実の釈尊の御子なりと、釈迦・多宝・分身・三千三百万億那由佗の世界に充満せる諸仏の御前にして孝・不孝の子を定めをき給えり、父の業をつぐを以て子とせり、三世の諸仏の業とは南無妙法蓮華経是なり、法師品に行如来事と説けり云云、法華経は母なり釈尊は父なり我等衆生は子なり、無量義経に云く諸仏の国王と是の経の夫人と和合して共に是の菩薩の子を生み給う文、菩薩とは法華経の行者なり、法師品に云く在家出家行菩薩道云云。

一非口所宣非心所測の事
 仰に云く非口所宣は色法・非心所測(ひしんしょしき)は心法なり、色心の二法を以て大海にして教化したる衆生を宣測(せんしき)するに非ずと云えり、末に至つては広導諸群生と説かれたり云云。

一不染世間法如蓮華在水従地而涌出の事
 仰に云く、世間法とは全く貪欲等に染せられず、譬えば蓮華の水の中より生ずれども淤泥(おでい)にそまざるが如し、此の蓮華と云うは地涌の菩薩に譬えたり、地とは法性の大地なり所詮法華経の行者は蓮華の泥水に染まざるが如し、但だ唯一大事の南無妙法蓮華経を弘通するを本とせり、世間の法とは国王大臣より所領を給わり官位を給うとも夫には染せられず、謗法の供養を受けざるを以て不染世間法とは云うなり、所詮蓮華は水をはなれて生長せず水とは南無妙法蓮華経是なり、本化の菩薩は蓮華の如く過去久遠より已来・本法所持の菩薩なり蓮華在水とは是なり、所詮此の水とは我等行者の信心なり、蓮華は本因本果の妙法なり信心の水に妙法蓮華は生長せり、地とは我等衆生の心地なり涌出とは広宣流布の時一閻浮提の一切衆生・法華経の行者となるべきを涌出とは云うなり云云。

一願仏為未来演説令開解の事
 仰に云く此の文は弥勒菩薩等末法当今の為に我従久遠来教化是等衆の言を演説令開解せしめ給えと請じ奉る経文なり、此の請文に於て寿量品は顕れたり五百塵点の久遠の法門是なり、開解とは教主釈尊の御内証に此の分ををさえ給うを願くは開かしめ給え同じく一会の大衆の疑をも解かしめ給えと請するなり、此の開解の語を寿量品にして汝等当信解と誡め給えり、若し開解し給わずんば大衆皆法華経に於て疑惑を生ず可しと見給えり、疑を生ぜば三悪道に堕つべしと既に弥勒菩薩申されたり、此の時寿量品顕れずんば即当堕悪道すべきなり寿量品の法門大切なるは是なり、さて此の開解の開に於て二あり、迹門の意は諸法を実相の一理と会したり、さては諸法を実相と開きて見れば十界悉く妙法実相の一理なりと開くを開仏智見と説けり、さて本門の意は十界本有と開いて始覚のきづなを解きたり、此の重を開解と申されたり仍つて演説の二字は釈尊・開解の両字は大衆なり、此の演説とは寿量品の久遠の事なり、終に釈尊・寿量品を説かせ給いて一切大衆の疑惑を破り給えり云云。

一譬如良医智慧聰達の事
 仰に云く良医とは教主釈尊・智慧とは八万法蔵・十二部経なり聡達(そうだつ)とは三世了達なり薬とは妙法の良薬なり、さて寿量品の意は十界本有と談ぜり、されば此の薬師とは一切衆生の事なり、智慧とは万法己己の自受用報身(じじゅゆうほうしん)の振舞なり聡達とは自在自在に振舞うを聡達とは云うなり、所詮末法・当今の為の寿量品なれば法華経の行者の上の事なり、此の智慧とは南無妙法蓮華経なり、聡達とは本有無作三身なりと云う事なり、元品の無明の大良薬は南無妙法蓮華経なり、智とは一切衆生の力なり、慧とは一切衆生の言語音声なり、故に偈頌(げじゅ)に云く我智力如是慧光照無量と云えり云云。

一一念信解の事
 仰に云く此の経文は一念三千の宝珠(ほうじゅ)を納めたる函(はこ)なり此れは現在の四信の初の一念信解なり、さて滅後の五品の初の十心具足初随喜品も一念三千の宝を積みたる函なり、法華経の骨髄・末法に於て法華経の行者の修行の相貌分明(そうみょうふんみょう)なり、所詮信と随喜とは心同じなり随喜するは信心なり信心するは随喜なり一念三千の法門は信心随喜の函に納りたり、又此の函とは所謂南無妙法蓮華経是なり又此の函は我等が一心なり此の一心は万法の総体なり総体は題目の五字なり、一念三千と云うが如く一心三千もあり釈に云く介爾(けに)も心有れば即ち三千を具すと、又宝函(ほうかん)とは我等が色心の二法なり。本迹両門・生死の二法・止観の二法なり所詮信心の函に入れたる南無妙法蓮華経の函なり云云。

一見仏聞法信受教誨(きょうかい)の事
 仰に云く此の経文は一念随喜の人は五十の功徳を備うべし、然る間見仏聞法の功徳を具足せり、此の五十展転の五十人の功徳を随喜功徳品には説かれたり、仍つて世世・生生の間見仏聞法の功徳を備えたり、所詮末法に入つては仏を見るとは寿量品の釈尊・法を聞くとは南無妙法蓮華経なり、教誨とは日蓮等の類い教化する所の諸宗無得道の教誡なり、信受するは法華経の行者なり、所詮・寿量開顕の眼の顕れては、此の見仏は無作の三身なり、聞法は万法己己の音声なり、信受教誨は本有(ほんぬ)随縁真如の振舞なり、是れ即ち色心の二法なり、見聞とは色法なり、信受は信心領納(しんじんりょうのう)なれば心法なり、所謂色心の二法に備えたる南無妙法蓮華経是なり云云。

一若復有人以七宝満是人所得其福最多の事
 仰に云く此の経文は七宝を以て三千大千世界に満てて四聖を供養せんよりは法華経の一偈を受持し奉らんにはをとれりと説かれたり、天台大師は生養成栄(しょうようじょうえい)の四の義を以て、法華経の功徳を釈し給えり、所詮末法に入つては題目の五字即ち是なり、此の妙法蓮華経の五字は万法能生の父母なり、生養成栄も亦復是くの如きなり、仍て釈には法を以つて本と為すと釈せり、三世十方の諸仏は、妙法蓮華経を以て父母とし給えり、此の故に四聖を供養するよりも法華経を持つは勝れたり、七宝は世間の財宝なり、四聖は滅に帰する仏菩薩羅漢なり、さて妙法の功徳は一得永不失(いっとくようふしつ)なれば朽失(くしつ)せざる功徳なり、此の故に勝れたり云云。

一妙音菩薩の事
 仰に云く妙音菩薩とは、十界の語言音声なり、此の音声悉く慈悲なり、菩薩とは是れなり。

一爾時無尽意菩薩の事
 仰に云く此の菩薩は空仮中の三諦なり、意の一字には一切の法門を摂得するなり意と云うは中道の事なり無は空諦なり尽とは仮諦なり、所謂意と云うは南無妙法蓮華経なり、一切諸経の意三世の諸仏の題目の五字なり所詮法華の行者は信心を以て意とせり云云。

一観音妙智力の事
 仰に云く妙とは不思議なり、智とは随縁真如の智力なり、森羅三千の自受用智なり、観音は円観なり、円観とは一念三千なり、観音とは法華の異名なり、観音と法華とは眼目の異名と釈する間法華経の異名なり、観とは円観・音は仏機なり、仍つて観音の二字は人法一体なり、所謂一心三観・一念三千是なり云云。

一自在之業の事
 仰に云く此の自在之業とは自受用報身の智力なり、森羅三千の諸法作業をさして云うなり、其の所作のまま法華経の意は不思議の自在之業なりと説けり、此の自在之業の本は南無妙法蓮華経是なり云云。

一妙法蓮華経陀羅尼(だらに)の事
 仰に云く妙法蓮華経陀羅尼とは正直捨方便・但説無上道なり、五字は体なり陀羅尼は用なり妙法の五字は我等が色心なり、陀羅尼は色心の作用なり、所詮陀羅尼とは呪(じゅ)なり、妙法蓮華経を以て煩悩即菩提・生死即涅槃と呪(まじな)いたるなり、日蓮等の類い南無妙法蓮華経を受持するを以て呪とは云うなり、若有能持即持仏身とまじないたるなり、釈に云く陀羅尼とは諸仏の密号と判ぜり、所詮法華折伏破権門理の義遮悪持善(しゃあくじぜん)の義なり云云。

一六万八千人の事
 仰に云く六とは六根なり、万とは六根に具わる処の煩悩なり八とは八苦の煩悩なり千とは八苦に具足する煩悩なり、是れ即ち法華経に値い奉りて六万八千の功徳の法門と顕るるなり、所詮日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る外に六万八千の功徳の法門之れ無きなり云云。

一妙荘厳王の事
 仰に云く邪見即正の手本なり、所詮森羅三千の万法・妙を以て荘厳したる王なり妙とは称歎(しょうたん)の語(ことば)なり荘厳とは色法なり王とは心法なり諸法の色心を不思議とほめたり、然れば、妙荘厳王の言・三千の諸法・三諦法性の当位なり、所詮日蓮等の類南無妙法蓮華経を以て色心を荘厳したり、此の荘厳とは別してかざり立てたるには非ず当位即妙の荘厳なり、煩悩即菩提・生死即涅槃是なり云云。

一華厳大日観経等の凡夫の得道の事
 仰に云く彼等の衆皆各各其の経経の得道に似たれども真実には法華の得道なり、所謂三五下種の輩なり経に云く「始めて我が身を見、我は所説を聞く」文、妙楽大師云く脱は現に在りと雖も具(つぶさ)に本種を騰(あ)ぐと云えり本種と云うは南無妙法蓮華経是なり云云。

一題目の五字を以て下種の証文と為すべき事
 仰に云く経に云く教無量菩薩畢竟(ひっきょう)住一乗文、妙楽大師の云く余教を以て種と為さず文、無量の菩薩とは日本国の一切衆生を菩薩と開会して題目を教えたり、畢竟とは題目の五字に畢竟するなり住一乗とは乗此宝乗直至道場是なり文、下種とはたねを下すなり種子とは成仏の種の事なり、上の経文に教無量菩薩の教の一字は下種の証文なり教とは題目を授くる時の事なり、権教無得道・法華得道と教うるを下種とは云うなり、末法に入つて此の経文を出ださん人は有る可からざるなり慥(たしか)に塔中相承(たっちゅうそうじょう)の秘文なり下種の証文秘す可し云云。

一題目の五字末法に限つて持つ可きの事
 仰に云く経に云く、悪世末法時・能持是経者文、此の経とは題目の五字なり、能の一字に心を留めて之れを案ずべし云云、末代悪世・日本国の一切衆生に持てと云う経文なり云云。

一天台云く是我弟子応弘我法の事
 仰に云く我が弟子とは上行菩薩なり我が法とは南無妙法蓮華経なり、権教・乃至始覚等は・随他意なれば他の法なり、さて此の題目の五字は五百塵点より已来、証得し給える法体(ほったい)なり故に我が法と釈せり、天台云く此の妙法蓮華経は本地甚深の奥蔵なり、三世の如来の証得し給える所とは是れなり。

一色心を心法と云う事
 仰に云く玄の十に云く請を受けて説く時只だ是れ教の意を説く教意は是れ仏意なり仏意は即ち是れ仏智なり仏智至つて深し是の故に三止四請す此くの如きの艱難・余経に比するに余経は則ち易し云云、此の釈の意分明なり教意と仏意と仏智とは何れも同じ事なり、教は二十八品なり意は題目の五字なり惣じて仏意とは法華経の異名なり、法華経を以て一切経の心法とせり又題目の五字を以て一代説教・本迹二門の神(たましい)とせり、経に云く妙法蓮華経如来寿量品是なり、此の題目の五字を以て三世の諸仏の命根とせり、さて諸経の神法華経なりと云う証文は妙法蓮華経方便品と題したる是なり云云。

一無作の応身我等凡夫也と云う事
 仰に云く釈に云く凡夫も亦三身の本を得たりと云云、此の本の字は応身の事なりされば本地無作本覚の体は無作の応身を以て本とせり仍つて我等凡夫なり、応身は物に応(かな)う身なり其の上寿量品の題目を唱え出し奉るは真実に応身如来の慈悲なり云云。

一諸河無鹹(むかん)の事
 仰に云く此無鹹の事をば諸教無得道に譬えたり大海のしをはゆきをば法華経の成仏得道に譬えたり、又諸経に一念三千の法門無きは、諸河にうしをの味無きが如く死人の如し、法華経に一念三千の法門有るは・うしをの大海にあるが如く生きたる人の如し、法華経を浅く信ずるは・あわのうしをの如し、深く信ずるは、海水の如し、あわはきえやすし、海水は消えざるなり、如説修行最も以て大切なり、然りと雖も、諸経の大河の極深なるも、大海のあわのしをの味をば具足せず、権教の仏は法華経の理即の凡夫には百千万倍劣るなり云云。

一妙楽大師の釈に末法之初冥利不無の釈の事
 仰に云く此の釈の心は末法に於て冥の利益・迹化の衆あるべしと云う事なり、此の釈は薬王品の此経即為閻浮提人病之良薬若人有病得聞是経病即消滅不老不死云云、此の経文の意を底に含めて釈せり、妙楽云く然るに後五百は、且らく一往に従う、末法の初冥利無きにあらず、且く大教の流行す可き時に拠る、故に五百と云う文、仍つて本化の菩薩は顕の利益・迹化は冥の利益なるべし云云。

一爾前経瓦礫国の事
 仰に云く法華経の第三に云く、如従飢国来忽遇大王饍と云云、六の巻に云く我此土安穏天人常充満我浄土不毀云云、此の両品の文の意は権教は悉く瓦礫の旅の国なり、あやまりて本国と思いて都と思わん事迷の故なり、一往四十二年住したる国なれば衆生皆本国と思えり、本国は此の法華経なり、信解品に云く遇向本国(ぐうこうほんごく)と、三五の下種の所を指して本国とも浄土とも大王饍とも云うなり、下種の心地即ち受持信解の国なり云云。

一無明悪酒の事
 仰に云く無明の悪酒に酔うと云う事は弘法・慈覚・智証・法然等の人人なり、無明の悪酒と云う証文は勧持品に云く、悪鬼入其身是なり、悪鬼と悪酒とは同じ事なり悪鬼の鬼は第六天の魔王の事なり悪酒とは無明なり無明即魔王魔王即無明なり、其身の身とは日本国の謗法の一切衆生なり、入ると呑むとは同じ事なり、此の悪鬼入る人は阿鼻に入る、さて法華経の行者は入仏知見道故と見えて仏道に入る、得入無上道とも説けり、相構え相構えて無明の悪酒を恐るべきなり云云。

一日蓮己証の事
 仰に云く寿量品の南無妙法蓮華経是れなり、地涌千界の出現・末代の当世の別付属の妙法蓮華経の五字を一閻浮提の一切衆生に取次ぎ給うべき仏勅使の上行菩薩なり云云、取次とは取るとは釈尊より上行菩薩の手へ取り給うさて上行菩薩又末法当今の衆生に取次ぎ給えり是を取次ぐとは云うなり、広くは末法万年までの取次なり、是を無令断絶とは説かれたり、又結要の五字とも申すなり云云、上行菩薩取次の秘法は所謂南無妙法蓮華経なり云云。

一釈尊の持言秘法の事
 仰に云く持言の秘法の経文とは寿量品に云く、毎自作是念の文是なり、毎の字は三世常住なり、是念の念とは、わすれ給わずして内証に具足し給えり故に持言なり、秘法とは南無妙法蓮華経是なり秘す可し秘す可し云云。

一日蓮門家の大事の事
 仰に云く此の門家の大事は涌出品の前三後三の釈なり、此の釈無くんば本化迹化の不同・像法付属・末法付属・迹門・本門等の起尽之れ有る可からず、既に止(やみね)善男子の止の一字は日蓮門家の大事なり秘す可し秘す可し、総じて止の一字は正しく日蓮門家の明鏡の中の明鏡なり口外も詮無し、上行菩薩等を除いては総じて余の菩薩をば悉く止の一字を以て成敗(せいばい)せり云云。

一日蓮が弟子臆病にては叶う可からざる事
 仰に云く此の意は問答対論の時は爾前迹門の釈尊をも用う可からざるなり、此れは臆病にては釈尊を用いまじきかなんど思うべき故なり、釈尊をさえ用う可からず何に況や其の以下の等覚の菩薩をやまして謗法の人人に於ておや、所謂南無妙法蓮華経の大音声を出だして諸経諸宗を対治すべし、巧於難問答其心無所畏とは是なり云云。

一妙法蓮華経の五字を眼と云う事
 仰に云く法華第四に云く、仏滅度後能解其義是諸天人世間之眼と云云、此の経文の意は、法華経は人天・二乗・菩薩・仏の眼目なり、此の眼目を弘むるは日蓮一人なり、此の眼には五眼あり、所謂肉眼・天眼・慧眼・法眼・仏眼なり、此の眼をくじりて別に眼を入れたる人あり、所謂弘法大師是なり、法華経の一念三千・即身成仏・諸仏の開眼を止めて、真言経にありと云えり、是れ豈法華経の眼を抽(くじ)れる人に非ずや、又此の眼をとじふさぐ人あり所謂法然上人是れなり、捨閉の閉の文字は、閉眼(へいげん)の義に非ずや、所詮能弘の人に約しては、日蓮等の類い世間之眼なり、所弘の法に随えば、此の大乗経典は、是れ諸仏の眼なり、所詮眼の一字は一念三千の法門なり、六万九千三百八十四字を此の眼の一字に納めたり、此の眼の字顕われて見れば煩悩即菩提・生死即涅槃なり、今末法に入つて、眼とは所謂未曾有(みぞうう)の大曼荼羅なり、此の御本尊より外には眼目無きなり云云。

一法華経の行者に水火の行者の事
 仰に云く総じて此の経を信じ奉る人に水火の不同あり、其の故は火の如きの行者は多く水の如き行者はまれなり、火の如しとは此の経のいわれをききて火炎のもえ立つが如く貴く殊勝に思いて信ずれども・やがて消失す、此れは当座は大信心と見えたれども・其の信心の灯・きゆる事やすし・さて水の如きの行者と申すは水は昼夜不退に流るるなり少しもやむ事なし、其の如く法華経を信ずるを水の行者とは云うなり云云。

一女人と妙と釈尊と一体の事
 仰に云く女人は子を出生す、此の出生の子・又子を出生す此くの如く展転して無数の子を出生せり、此の出生の子に善子もあり・悪子もあり端厳美麗(たんごんびれい)の子もあり・醜陋(しゅうる)の子もあり・長(たけ)のひくき子もあり・大なる子もあり・男子もあり・女子もあり云云、所詮・妙の一字より万法は出生せり地獄もあり・餓鬼もあり・乃至仏界もあり・権教もあり・実教もあり・善もあり・悪もあり・諸法を出生せり云云、又釈迦一仏の御身より一切の仏・菩薩等悉く出生せり、阿弥陀・薬師・大日等は悉く釈尊の一月より万水に浮ぶ所の万影なり、然らば女人と妙と釈尊との三全く不同無きなり、妙楽大師の云く妙即三千・三千即法云云、提婆品に云く有一宝珠価直(けじき)三千大千世界是なり云云。

一置不呵責(ちふかしゃく)の文の事
 仰に云く此の経文に於ては日蓮等の類(たぐい)のおそるべき文字一字之れ有り、若し此の文字を恐れざれば縦い当座は事なしとも未来無間の業たるべし、然らば無間地獄へ引き入る獄卒なるべし夫れは置の一字是なり云云、此の置の一字は獄卒なるべし謗法不信の失を見ながら聞きながら云わずして置かんは必ず無間地獄へ堕在す可し、仍つて置の一字・獄卒・阿防羅刹(あぼうらせつ)なるべし尤も以て恐る可きは置の一字なり云云、所詮此の経文の内に獄卒の一字を恐るべきなり云云、此の獄卒の一字を深く之を思う可し、日蓮は此の字を恐る故に建長五年より今弘安年中まで在在所所にて申しはりしなり只偏に此の獄卒を脱れんが為なり、法華経には若人不信とも生疑不信者とも説き給えり、法華経の文文句句をひらき涅槃経の文文句句をひらきたりとも置いていわずんば叶う可からざるは此の置の一字より外に獄卒は無きなり云云。

一異念無く霊山浄土へ参る可き事
 仰に云く異念とは不信の事なり、若し我が心なりとも不信の意出来せば忽に信心に住すべし、所詮不信の心をば師となすべからず信心の心を師匠とすべし浄心信敬に法華経を修行し奉るべきなり、されば能持是経能説此経と説きて能の字を説かせ給えり霊山ここにあり四土一念皆常寂光とは是なり云云。

一不可失本心の事
 仰に云く此の本心と云うは法華経の信心の事なり、失と申すは謗法の人にすかされて法華経を捨つる心の出来するを云うなり、されば天台大師云く若し悪友に値えば則ち本心を失うと云云、此の釈に悪友とは謗法の人の事なり、本心とは法華経なり、法華経を本心と云う意は諸法実相の御経なれば十界の衆生の心法を法華経とは申すなり、而るに此の本心を引きかえて迷妄の法に着するが故に本心を失うなり、此の本心に於ては三五の下種の法門なり、若し善友に値う時んば失う所の本心を忽に見得するなり、所謂迦葉・舎利弗等是なり、善友とは釈迦如来・悪友とは第六天の魔王・外道・婆羅門是なり、所詮末法に入つて本心とは日蓮弘通の南無妙法蓮華経是なり、悪友とは法然・弘法・慈覚・智証等是なり、若し此の題目の本心を失せんに於ては又三五塵点を経べきなり、但、如是展転至無数劫なるべし、失とは無明の酒に酔いたる事なり仍て本心を失うと云うなり、此の酔をさますとは権教を捨てしむるを云うなり云云。

一天台大師を魔王障礙せし事
 仰に云く此の事は随分の秘蔵なり、其の故は天台大師・一心三観・一念三千の観法を説き顕さんとし給いしかば父母・左右の膝に住して悩まし奉り障礙し給いしなり、是れ即ち第六天の魔王が父母の形を現じて障礙せしなり、終に魔王に障礙せられ給わずして摩訶止観の法門起れり、何に况や今日蓮が弘むる南無妙法蓮華経は三世の諸仏の成道の師・十方薩埵(さった)の得道の師匠たり、其の上・正像二千年の仏法は爾前迹門なれば、魔王自身・障礙(しょうげ)をなさずともなるべし、今末法の時は、所弘の法は、法華経・本門の事の一念三千の南無妙法蓮華経なり、能弘の導師は本化地涌の大菩薩にてましますべし、然る間魔王自身下りて障礙せずんば叶う可からざるなり、仍つて自身下りたる事分明なり、所謂道隆・良観・最明寺等是なり、然りと雖も諸天善神等は日蓮に力を合せ給う故に竜口(たつのくち)までもかちぬ、其の外の大難をも脱れたり、今は魔王もこりてや候うらん、日蓮死去の後は残党ども軍を起すべきか、故に夫れも落居(らっこ)は叶う可からざるなり、其の故は第六天の魔王の眷属日本国に四十九億九万四千八百二十八人なりしが・今は日蓮に降参したる事多分なり、経に云く悪鬼入其身とは是なり、此の合戦の起りも、所詮南無妙法蓮華経是なり、魔王に於て体の魔王・用(ゆう)の魔王あり、体の魔王とは法性同共(ほっしょうどうぐ)の魔王なり妙法の法是なり、用の魔王とは此れより出生する第六天の魔王なり、用の魔王は障礙をなす、然れども体用同共の諸法実相の一理なり、唯有一門の智慧の門に入り、無明法性一体なるべきなり云云、所謂摩訶止観の大事の法門是なり、法華経の一代説教に勝れたるは此の故なり、一念三千とは是なり、法華経第三に云く魔及魔民皆護仏法云云。

一法華経極理の事
 仰に云く迹門には二乗作仏・本門には久遠実成此をさして極理と云うなり、但し是も未だ極理にたらず、迹門にして極理の文は諸仏智慧甚深無量の文是れなり、其の故は此の文を受けて文句の三に云く竪に如理の底に徹し横に法界の辺を窮むと釈せり、さて本門の極理と云うは如来秘密神通之力の文是なり、所詮日蓮が意に云く法華経の極理とは南無妙法蓮華経是なり、一切の功徳法門・釈尊の因行果徳の二法・三世十方の諸仏の修因感果・法華経の文文句句の功徳を取り聚めて此の南無妙法蓮華経と成し給えり、爰を以て釈に云く惣じて一経を結するに唯だ四のみ、其の枢柄(すうへい)を撮(と)つて之を授与す云云、上行菩薩に授与し給う題目の外に法華経の極理は無きなり云云。

一妙法蓮華経五字の蔵の事
 仰に云く此の意は妙法の五字の中には一念三千の宝珠あり五字を蔵と定む、天台大師玄義の一に判ぜり、所謂此の妙法蓮華経は本地甚深の奥蔵なり云云、法華経の第四に云く是れ法華経蔵と云云、妙華厳阿含方等般若涅槃、又云く妙涅槃法般若蓮方等華阿含経華厳、已上妙法蓮華経の五字には十界三千の宝珠あり、三世の諸仏は此の五字の蔵の中より或は華厳の宝を取り出だし或は阿含方等般若の宝を取り出だし種種説法し給えり、加之(しかのみならず)・論師・人師等の疏釈も悉く此の五字の中より取り出だして一切衆生に与え給えり、此等は皆五字の中より取り出だし給えども妙法蓮華経の袋をば持ち給わず、所詮五字は上行菩薩の付属にして更に迹化の菩薩・諸論師いろはざる題目なり、仍つて上行所伝の南無妙法蓮華経は蔵なり、金剛不壊の袋なり此の袋をそのまま日本国の一切衆生には与え給えり、信心を以て此の財宝を受取るべきなり、今末法に入つては日蓮等の類い受取る所の如意宝珠なり云云。

一我等衆生の成仏は打かためたる成仏と云う証文の事
 仰に云く経に云く無上宝聚不求自得の文是なり、我等凡夫即極とはたと打かためたる成仏なり所謂不求自得する所の南無妙法蓮華経なればなり云云。

一爾前法華の能くらべの事
 仰に云く爾前の経にして十悪・五逆等の成仏の能なし、今法華経に十界皆成・分明なり、爾前の経の無能と云う証文とは方便品に云く但以仮名字引導於衆生の文是なり、さて法華経は能と云う証文は諸法実相の文是なり、今末法に入つて第一の能たる南無妙法蓮華経是なり云云。

一授職の法体の事
 仰に云く此の文は唯仏与仏の秘文なり輙(たやす)く云う可からざる法門なり、十界三千の諸法を一言を以て授職する所の秘文なり、其の文とは神力品に云く皆於此経宣示顕説の文是なり、此の五字即十界同時に授職する所の秘文なり十界己己の当体・本有妙法蓮華経なりと授職したる秘文なり云云。

一末代譲状の事
 仰に云く末代とは末法五百年なり、譲状とは手継(てつぎ)の証文たる南無妙法蓮華経是なり此れを譲るに二義之れ有り、一には跡をゆずり二には宝をゆずるなり、一に跡を譲ると云うは釈迦如来の跡を法華経の行者にゆずり給えり、其の証文に云く如我等無異の文是なり、次に財宝をゆずると云うは釈尊の智慧戒徳を法華経の行者にゆずり給えり、其の証文に云く無上宝聚不求自得の文是なりと云云、さて此の題目の五字は譲状なり云云。

一本有止観と云う事
 仰に云く本有の止観と云うは大通を以て習うなり、久遠実成道の仏と大通智勝仏と釈尊との三仏を次の如く仏法僧の三宝と習うなり、此の故に大通は本有の止観なれば即ち三世の諸仏の師範と定めたり、仍つて大通仏を法と習う、此の法は妙法蓮華経是なり、仍つて証文に云く大通智勝仏十劫坐道場の文是なり十劫は即ち十界なり云云。

一入末法四弘誓願の事
 仰に云く四弘誓願をば一文に口伝せり、其の一文とは所謂神力品に云く於我滅度後応受持斯経是人於仏道決定無有疑と云云、此の経文は法華経の序品より始て四弘誓願の法門を説き終りてさて上行菩薩に妙法蓮華経を付属し給う時・妙法の五字に四弘誓願を結びて結句に説かせ給えり滅後とは末法の始の五百年なり、衆生無辺誓願度と云うは是人の人の字なり、誓願は地涌の本化の上行菩薩の誓願に入らんと此れ即ち仏道の二字度脱なり、煩悩無辺なれども煩悩即菩提・生死即涅槃と体達す、仏道に入つては煩悩更になし受持斯経の所には法門無尽誓願知分明なり無上菩提誓願証と云うは是人於仏道決定無有疑と定めたる四弘誓願分明なり、教主釈尊・末法に入つて四弘誓願も此の文なり、上行菩薩の四弘誓願も此の文なり深く之を思案す可し云云。

一四弘誓願応報如理と云う事
 仰に云く衆生無辺誓願度は応身なり、煩悩無辺誓願断は報身なり、法門無尽誓願知は智法身なり、無上菩提誓願証は理法身なり、所詮誓願と云うは題目弘通の誓願なり、釈に云く彼が為に悪を除くは即ち是れ彼が親なりと是なり云云。

一本来の四弘の事
 仰に云く諸法の当体本来四弘なり、其の故は衆生と云うは法界なり、所詮法界に理智慈悲の三を具足せり、応報法の三身・諸法の自体なり、無作の応身を以て衆生無辺誓願度と云うなり、無作の報身には智徳断徳の二徳を備えたり、煩悩無辺誓願断を以て本有の断徳とは定めたり、法門無尽誓願知を以て本有の智徳とす、無上菩提誓願証を以て無作の法身と云うなり、所詮四弘誓願の中には衆生無辺誓願度を以て肝要とするなり、今日蓮等の類いは南無妙法蓮華経を以て衆生を度する此より外は所詮なきなり、速成就仏身是なり云云、所詮四弘誓願は一念三千なり、さて四弘の弘とは何物ぞ、所謂上行所伝の南無妙法蓮華経なり、釈に云く四弘能所泯すと云云、此の釈は止観に前三教を釈せり、能と云うは如来なり所とは衆生なり能所各別するは権教の故なり、法華経の心は能所一体なり泯(みん)すと云うは権教の心は機法共に一同なれば能所泯すと云うなりあえて能所一同して成仏する所を泯(みん)すと云うには非ざるなり、今末法に入つて法華経の行者は四弘能所感応の即身成仏の四弘なり云云。

高祖日蓮大聖人御講聞書上三帖内

自弘安元年三月十九日連連御講至同三年五月二十八日也仍記之畢  日向記之
御講聞書




by johsei1129 | 2019-11-25 22:23 | 血脈・相伝・講義 | Trackback | Comments(0)
2019年 11月 24日

日蓮大聖人が晩年六老僧に法華経を講説しそれを日向が書き記した【御講聞書(おんこうききがき)】その二

【御講聞書 本文】その二

一自証無上道大乗平等法の事
仰に云く末法当今に於て大乗平等の法を証せる事・日蓮等の類いに限れり、されば此の経文は教主大覚世尊・法華経の極理を証して番番に出世し給いて説き給うなり、所詮此の自証と云うは三十成道の時を指すなり、其の故は教主釈尊は十九出家・三十成道なり、然る間・自証無上道等文、所詮此の品の心は十界皆成の旨を明せり、然れば自証と云うは十界を諸法実相の一仏ぞと説かれたり、地獄も餓鬼も悉く無上大乗の妙法を証得したるなり、自は十界を指したり、恣(ほしい)ままに証すと云う事なり、権教は不平等の経なり、法華経は平等の経なり、今日蓮等の類いは真実自証無上道・大乗平等法の行者なり、所謂南無妙法蓮華経の大乗平等法の広宣流布の時なり云云。

一我始坐道場観樹亦経行の事
 仰に云く、此の文は教主釈尊・三十成道の時を説き給えり、観樹の樹と云うは十二因縁の事なり、所詮十二因縁を観じて経行すと説き給えり、十二因縁は法界の異名なり又法華経の異名なり、其の故は樹木は枝葉華菓あり是れ即ち生住異滅の四相なり、大覚世尊・十二因縁の流転を観じ・経行し給えり、所詮末法当今も一切衆生・法華経を謗じて流転す可きを観じて日本国を日蓮経行して南無妙法蓮華経と弘通する事・又又此(かく)の如くなり、法華の行者は悉く道場に坐したる人なり云云。

一今我喜無畏の事
 仰に云く此の文は権教を説き畢らせ給いて法華経を説かせ給う時なれば喜びておそれなしと観じ給えり、其の故は爾前の間は一切衆生を畏れ給えり、若し法華経を説かずして空しくやあらんずらんと思召して畏れ深くありと云う文なり、さて今は恐るべき事なく時節・来つて説く間・畏れなしと喜び給えり、今日蓮等の類も是くの如く日蓮も三十二までは畏れありき、若しや此の南無妙法蓮華経を弘めずして・あらんずらんと畏れありき、今は即ち此の恐れ無く既に末法当時・南無妙法蓮華経の七字を日本国に弘むる間恐れなし、終には一閻浮提に広宣流布せん事一定なるべし云云。

一我聞是法音疑網皆已除の事
仰に云く法音とは南無妙法蓮華経なり、疑網とは最後品の無明を云うなり、此の経を持(たも)ち奉れば悉く除くと説かれたり、此の文は舎利弗が三重の無明・一時倶尽(くじん)する事を領解(りょうげ)せり、今日本国の一切衆生・法華経の法音を聞くと云えども未だ能く信ぜず豈疑網皆已に除かんや、除かざれば入阿鼻獄は疑無きなり、

疑の字は元品の無明の事なり此の疑を断つを信とは云うなり、釈に云く無疑曰信(むぎわっしん)と云えり身子は此の疑無き故に華光仏と成れり、今日蓮等の類は題目の法音を信受する故に疑網更に無し、如我等無異とて釈迦同等の仏にやすやすとならん事疑無きなり、疑網と云うは色心の二法に有る惑障なり、疑は心法にあり・網は色法にあり、此の経を持ち奉り信ずれば色心の二法共に悉く除くと云う事なり、此の皆已の已の字は身子尊者・広開三顕一を指して已とは云うなり、今は領解の文段なり、身子・妙法実相の理を聴聞して心懐大歓喜せしなり、所詮舎利弗尊者程の智者・法華経へ来つて華光仏となり、疑網を断除せり、何に況んや末法当時の権人謗法の人人此の経に値わずんば成仏あらんや云云。

一以本願故説三乗法の事
 仰に云く此の経文は身子尊者・成道の国・離垢(りく)世界にて三乗の法は悪世には非ず、然りと雖も身子本願の故に説くと云えり、其の本願と云うは身子菩薩の行を立てしに乞眼の婆羅門に眼を抉(く)じられて、其の時・菩薩の行を退転したり、此の菩薩の行を百劫立てけるに、六十劫なして今四十劫たらざりき、此の時・乞眼に眼を抉じられて其の時・菩薩の行を退して願成仏日・開三乗法の願を立てたるなり、上品浄土・不須開漸(ふしゅかいぜん)なれば三乗の法を説く事は更に以てあるまじけれども以本願故の故にて三乗の法を説くなり、此の行は禅多羅仏の所にして立つるなり、此の事は身子が六住退とて大なる沙汰なり、重重の義勢之れ在り輙(たやす)く心得難きの事なり、或は欲怖地前の意、或は権者退云云、所詮は六住退とは六根・六境に菩薩の行を取られたりと云う事なり、之を以て之を思うに末法当今・法華経を修行せんには、必ず身子が退転の如くなるべし、所詮身子が眼を取らるるは菩薩の智慧の行を取らるるなり、今日蓮等の類い・南無妙法蓮華経の眼を持ち奉るに謗法の諸人に障礙(しょうげ)せらるる・豈眼を抉(くじ)り取らるるに非ずや、所詮彼の乞眼の婆羅門・眼を乞いしは身子が菩薩の行を退転せしめんが為に乞いて蹈みつぶして捨てたり、全く菩薩の供養の方を本として眼をば乞わざりしなり、只だ退転せしめん為なり、身子は一念菩薩の行を立ててかかる事に値えり、向後(こうご)は菩薩の行をば立つ可からず二乗の行を立つ可しと云つて後悔せし故に成仏の日・説三乗法するなり、所詮乞眼婆羅門の責を堪えざるが故なり、法華経の行者・三類の強敵を堪忍して妙法の信心を捨つ可からざるなり信心を以て眼とせり云云。

一有大長者の事
 仰に云く此の長者に於いて天台大師・三の長者を釈し給えり、一には世間の長者・二には出世の長者・三には観心の長者是なり、此の中に出世観心の長者を以て、此の品の長者とせり、長者とは釈迦如来の事なり、観心の長者の時は一切衆生なり、所詮法華経の行者は男女共に長者なり、文句の五に委しく釈せり、末法当今の長者と申すは日蓮等の類い・南無妙法蓮華経と唱え奉る者なり、されば三の長者を釈する時、文句五に云く、二に位号を標するに三と為す、一は世間の長者・二は出世の長者・三は観心の長者なり、世に十徳を備う、一には姓貴(しょうき)・二には位高・三には大富・四には威猛・五には智深・六には年耆(ねんぎ)・七には行浄・八には礼備(らいび)・九には上歎・十には下帰(げき)なり云云、又云く、出世の長者は、仏は三世の真如実際の中より生ず、功成り、道著われて、十号極り無し、法財万徳、悉く皆具(つぶさ)に満せり、十力雄猛にして、魔を降し外(げ)を制す、一心の三智通達せずと云うこと無し、早く正覚を成じて、久遠なること斯くの如し、三業智に随つて、運動して失(とが)無し、仏の威儀を具して、心大なること海の如し、十方の種覚・共に称誉する所なり、七種の方便・而も来つて依止す、是を出世の仏大長者と名く、三に観心とは、観心の智実相より出で生じて仏家にあり、種性真正(しゅしょうしんしょう)なり、三惑起らず、未だ真を発(おこ)さずと雖も是れ如来の衣を着れば、寂滅忍と称す、三諦に一切の功徳を含蔵す、正観の慧(え)・愛見(あいけん)を降伏す、中道双べ照して権実並に明なり、久く善根を積みて・能く此の観を修す、此の観七方便の上に出でたり、此の観・心性を観ずるを上定と名くれば、即ち三業過無し、歴縁(りゃくえん)対境するに威儀失無し、能く此くの如く観ず、是れ深信解の相、諸仏皆歓喜して持法の者を歎美したもう、天竜・四部・恭敬供養す、下の文に云く、仏子是の地に住すれば、即ち是れ仏受用し給い、経行し及び坐臥(ざが)し給わんと、既に此の人を称して仏と為す、豈観心の長者と名けざらんやと此の釈分明に観心の長者に十徳を具足すと釈せり、所謂引証の文に、分別功徳品の則是仏受用(そくぜぶつじゅゆう)の文を引けり、経文には仏子住此地とあり、此の字を是の字にうつせり、経行若坐臥の若を及(ぎゅう)の字にかえたり、又法師品の文を引けり、所詮仏子とは法華経の行者なり、此地とは実相の大地なり、経行若坐臥とは法華経の行者の四威儀の所作の振舞、悉く仏の振舞なり、我等衆生の振舞の当体、仏の振舞なり、此の当体のふるまいこそ長者なれ、仍つて観心の長者は我等凡夫なり、然るに末法当今の法華経の行者より外に、観心の長者無きなり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者、無上宝聚不求自得の長者に非ずや、既称此人為仏(きしょうしにんいぶつ)の六字に心を留めて案ずべきなり云云。

一多有田宅'たうでんたく)の事
 仰に云く田宅とは、長者の財宝なり、所詮田と云うは命なり、宅とは身なり、文句の五に田宅をば身命と釈せり、田は米なり、米は命をつぐ、宅は身をやどす是は家なり、身命の二を安穏にするより外に財宝は無きなり、法門に約すれば田は定・宅は慧なり、仍つて定は田地の如し、慧は万法の如し、我等一心の田地より諸法の万法は起れり、法華一部方寸知るべしと釈して八年の法華も一心が三千と開きたるなり、所詮田は定なれば妙の徳、宅は慧の徳なれば法の徳、又は本迹両門なり、止観の二法なり、教主釈尊・本迹両門の田宅を以つて一切衆生を助け給えり、田宅は我等衆生の色心の二法なり、法華経に値い奉りて、南無妙法蓮華経と唱え奉る時・煩悩即菩提・生死即涅槃と体達するなり、豈多有田宅の長者に非ずや、多有と云う心は心法に具足する心数なり、色法に具足する所作なり、然らば多有田宅の文は一念三千の法門なり、其の故は一念は定なり、三千は慧なり、既に釈に云く、田宅は別譬(べっぴ)なり、田は能く命を養う、禅定の般若を資するに譬う、宅は身を栖(す)ます可し、実境の智の所託と為るに譬う云云、此の釈分明なり、田宅は身命なり、身命は即ち南無妙法蓮華経なり、此の題目を持ち奉る者は豈多有田宅の長者に非ずや、今末法に入つて日蓮等の類・多有田宅の本主として如説修行の行者なり云云。

一等一大車の事
仰に云く此の大車とは直至道場(じきしどうじょう)の大白牛車にして其の疾(はや)きこと風の如し、所詮南無妙法蓮華経を等一大車と云うなり、等と云うは諸法実相なり、一とは唯有一乗法なり、大とは大乗なり、車とは一念三千なり、仍つて釈には等の字を子等車等と釈せり、子等の等と如我等無異の等とは同なり、車等の等は平等大慧の等なり、今日蓮等の類い・南無妙法蓮華経と唱え奉る者は男女・貴賤共に無上宝聚・不求自得の金言を持つ者なり、智者愚者をきらわず共に即身成仏なり云云、疏の五に云く一に等子・二に等車・子等しきを以ての故に則ち心等し、一切衆生等しく仏性有るに譬う、仏性同じきが故に等しく是れ子なり、第二に車等とは法等しきを以ての故に仏法に非ざること無し、一切法皆摩訶衍(まかえん)なるに譬う、摩訶衍同じきが故に等しく是れ大車なり、而して各賜と言うは各々本習に随う、四諦六度無量の諸法・各各旧習(おのおの・くじゅう)に於て真実を開示す、旧習同じからず故に各と言う、皆摩訶衍なり故に大車と言う云云。

一其車高広(ごしゃこうこう)の事
 仰に云く此の車は南無妙法蓮華経なり、即ち我等衆生の体なり、法華一部の総体なり、高広とは仏知見なり、されば此の車を方便品の時は諸仏智慧と説き其の智慧を甚深無量と称歎(しょうたん)せり、歎の言には甚深無量とほめたり、爰(ここ)には其車と説いて高広とほめたり、されば文句の五に云く其車高広の下は如来の知見深遠なるに譬う、横に法界の辺際(へんざい)に周く・堅(たて)に三諦の源底(げんてい)に徹す故に高広と言うなりと、所詮此の如来とは一切衆生の事なり、既に諸法実相の仏なるが故なり、知見とは色心の二法なり知は心法・見は色法なり、色心二法を高広と云えり、高広即本迹二門なり此れ即ち南無妙法蓮華経なり云云。

一是朽故宅属于一人の事
 仰に云く此の文をば文句の五に云く出火の由を明す文、此の宅とは三界の火宅なり、火と云うは煩悩の火なり、此の火と宅とをば属于一人(しょくういちにん)とて釈迦一仏の御利益なり、弥陀・薬師・大日等の諸仏の救護(くご)に非ず、教主釈尊一仏の御化導なり、唯我一人・能為救護とは是なり、此の属于一人の文を重ねて、五巻提婆品に説いて云く「三千大千世界を観るに乃至芥子(けし)の如き許(ばか)りも是菩薩にして身命を捨てたまう処に非ざること有ること無し。衆生の為の故なり」文、妙楽大師此の属于一人の経文を釈する時・記の五に云く、咸く長者に帰す・一色一香・一切皆然なりと判ぜり、既に咸帰長者(げんきちょうじゃ)と釈して法界に有りとある一切衆生の受くる苦悩をば、釈尊一人の長者に帰すと釈せり、一色一香一切皆然なりとは、法界の千草万木(せんそうまんもく)・飛華落葉(ひけらくよう)の為体(ていたらく)、是れ皆無常遷滅の質(すがた)と見て仏道に帰するも、属于一人の利益なり、此の利益の本源は南無妙法蓮華経の内証に引入れしめんが為なり、所詮末法に入つて属于一人の利益は日蓮が身に当りたり、日本国の一切衆生の受くる苦悩は、悉く日蓮一人が属于一人なり、教主釈尊は唯我一人・能為救護、日蓮は一人能為救護に云云、文句の五に云く「是朽故宅属于一人の下、第二に一偈有り、失火の由を明す、三界は是れ仏の化応の処発心已来誓つて度脱せんと願う、故に属于一人と云う」と、此の釈に発心已来誓願度脱の文、豈日蓮の身に非ずや云云。

一諸鬼神等揚声大叫(ようしょうだいきょう)の事
  仰に云く諸鬼神等と云うは親類部類等を鬼神と云うなり、我等衆生死したる時・妻子眷属あつまりて悲歎するを揚声大叫とは云うなり、文句の五に云く諸鬼神等の下・第四に一行半は被焼の相を明す、或は云く親属を鬼神と為し・哭泣(こくきゅう)を揚声と為すと。

一乗此宝乗直至道場の事
 仰に云く此の経文は我等衆生の煩悩即菩提・生死即涅槃を明せり、其の故は文句の五に云く、此の因易(かわ)ること無きが故に直至と云う、此の釈の心は爾前の心は煩悩を捨てて生死を厭(いと)うて別に菩提涅槃を求めたり、法華経の意は煩悩即菩提・生死即涅槃と云えり、直と即とは同じ事なり、所詮日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者の、住処即寂光土と心得可きなり、然れば此の実乗に乗じて、忽ちに妙覚極果の位に至るを直至道場とは云うなり、直至と云う文の意は、四十二位を爰にて極めたり、此の直の一字は、地獄即寂光・餓鬼即寂光土なり、法華経の行者の住処、山谷曠野なりとも、直至道場なり、道場とは究竟(くきょう)の寂光なり、仍つて乗此宝乗の上の乗は法華の行者、此の品の意にては中根の四大声聞なり、惣じて一切衆生の事なり、今末法に入つては日蓮等の類いなり、宝乗の乗の字は大白牛車の妙法蓮華経なり、然れば上の乗は能乗・下の乗は所乗なり、宝乗は蓮華なり、釈迦・多宝等の諸仏も、此の宝乗に乗じ給えり、此れを提婆品に重ねて説く時・若在仏前蓮華化生と云云、釈迦・多宝の二仏は我等が己心なり、此の己心の法華経に値い奉つて成仏するを顕わさんとして釈迦・多宝・二仏・並座(びょうざ)して乗此宝乗・直至道場を顕わし給えり、此の乗とは車なり、車は蓮華なり、此の蓮華の上の妙法は、我等が生死の二法・二仏なり、直至の至は此れより彼へいたるの至るには非ず住処即寂光と云うを至とは云うなり、此の宝乗の宝は七宝の大車なり、七宝即ち頭上の七穴・七穴即ち末法の要法・南無妙法蓮華経是なり、此の題目の五字、我等衆生の為には、三途の河にては船となり、紅蓮地獄(ぐれんじごく)にては寒さをのぞき、焦熱地獄にては凉風となり、死出の山にては蓮華となり、渇せる時は水となり・飢えたる時は食となり、裸かなる時は衣となり、妻となり、子となり、眷属となり、家となり、無窮(むぐう)の応用を施して一切衆生を利益し給うなり、直至道場とは是なり、仍つて此の身を取りも直さず寂光土に居るを直至道場とは云うなり、直の字心を留めて之を案ず可し云云。

一若人不信毀謗此経則断一切世間仏種の事
 仰に云く此の経文の意は小善成仏を信ぜずんば一切世間の仏種を断ずと云う事なり、文句の五に云く、今経に小善成仏を明す、此れは縁因を取つて仏種と為す、若し小善の成仏を信ぜずんば、即と一切世間の仏種を断ずるなり文、爾前経の心は小善成仏を明さざるなり、法華経の意は一華・一香の小善も法華経に帰すれば大善となる、縦い法界に充満せる大善なりとも此の経に値わずんば善根とはならず、譬えば諸河の水・大海に入りぬれば鹹(うしほ)の味となる、入らざれば本の水なり、法界の善根も、法華経へ帰入せざれば善根とはならざるなり、されば釈に云く、断一切仏種とは浄名には煩悩を以て如来の種と為す、此れ境界性(きょうがいしょう)を取るなり、此の釈の心は浄名経の心ならば我等衆生の一日一夜に作(な)す所の罪業・八億四千の念慮を起す、余経の意は皆三途の業因と説くなり、法華経の意は、此の業因・即ち仏ぞと明せり、されば煩悩を以て如来の種子とすと云うは此の義なり、此の浄名経の文は、正しく文在爾前・義在法華の意なり、此の境界性と云うは、末師釈する時、能生煩悩・名境界性と判ぜり、我等衆生の眼耳等(げんにとう)の六根に妄執を起すなり、是を境界性と云うなり、権教の意は此の念慮を捨てよと説けり、法華経の心は、此の境界性の外に、三因仏性の種子なし、是れ即ち三身円満の仏果となるべき種性なりと説けり、此の種性を、権教を信ずる人は之を知らず此の経を謗るが故に、凡夫即極の義をも知らず、故に一切世間の仏種を断ずるなり、されば六道の衆生も三因仏性を具足して、終に三身円満の尊容(そんよう)を顕す可き所に、此の経を謗ずるが故に、六道の仏種をも断ずるなり、されば妙楽大師云く、此の経は遍く六道の仏種を開す、若し此の経を謗ずるは、義・断に当るなりと、所詮日蓮が意は一切の言は十界をさす、此の経を謗ずるは十界の仏種を断ずるなり、されば、誹謗の二字を大論に云く、口に謗(そし)るを誹と云い、心に背くを謗と云うと、仍つて色心三業に経て、法華経を謗じ奉る人は入阿鼻獄疑い無きなり、所謂弘法・慈覚・智証・善導・法然・達磨等の大謗法の者なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る、豈三世の諸仏の仏種を継ぐ者に非ずや云云。

一捨悪知識親近善友の事
 仰に云く悪知識とは在世にては善星(ぜんしょう)・瞿伽利(くぎゃり)・提婆等是なり、善友とは迦葉・舎利弗・阿難・目連等是なり、末法当今に於て悪智識と云うは法然・弘法・慈覚・智証等の権人謗法の人人なり、善智識と申すは日蓮等の類の事なり、惣じて知識に於て重重之れ有り、外護の知識・同行の知識・実相の知識是なり、所詮実相の知識とは所謂(いわゆる)南無妙法蓮華経是なり、知識とは形をしり、心をしるを云うなり、是れ即ち色心の二法なり、謗法の色心を捨てて法華経の妙境・妙智の色心を顕すべきなり、悪友は謗法の人人なり、善友は日蓮等の類いなり。

一無上宝聚不求自得の事
  仰に云く、此の無上宝聚に於て一には釈尊の因行・果徳の万行(まんぎょう)・万善(まんぜん)の骨髄を宝聚と云うなり、二には妙法蓮華経の事なり、不求とは中根の四大声聞は此くの如き宝聚を任運自在と得たり此実我子我実其父の故なり、総じては一切衆生の事なり、自得と云うは自は十界の事なり、此れは自我得仏来の自と同じ事なり、得も又同じ事なり末法に入つては自得とは日蓮等の類いなり、自とは法華経の行者、得とは題目なり、得の一字には師弟を含みたり、与うると得るとの義を含めり、不求とは仏法に入るには修行・覚道の辛労あり、釈迦如来は往来娑婆八千反の御辛労にして求め給う功徳なり、さて今の釈迦牟尼仏と成り給えり、法華経の行者は求めずして此の功徳を受得せり仍て自得とは説かれたり、此の自の字は一念なり得は三千なり、又自は三千・得は一念なり、又た自は自なり得は他なり、総じて自得の二字に法界を尽せり、所詮此の妙法蓮華経を自(おのづ)より得たり、自とは釈尊なり、釈尊は即ち我が一心なり、一心の釈迦より受得し奉る南無妙法蓮華経なり、日蓮も生年三十二にして自得し奉る題目なり云云。

一薬草喩品の事
 仰に云く薬とは是好良薬の南無妙法蓮華経なり、妙法を頂上にいただきたる草なれば、薬に非ずと云う事なし、草は中根の声聞なれども、惣じては一切衆生なり、譬えば土器に薬をかけたるが如し、我等衆生・父母果縛の肉身に南無妙法蓮華経の薬をかけたり、煩悩即菩提・生死即涅槃は是なり云云、此の分を教うるを喩とは申すなり、釈に云く、喩とは暁訓なりと、提婆・竜女の畜生・人間も、天帝(てんたい)・羅漢・菩薩等も、悉く薬草の仏に非ずと云う事なし、末法当今の法華の行者の日蓮等の類い、薬草にして日本国の一切衆生の薬王なり云云。

一現世安穏後生善処の事
 仰に云く所詮此の妙法蓮華経を聴聞し奉るを現世安穏とも後生善処とも云えり、既に上に聞是法已(もんぜほうい)と説けり、聞は名字即の凡夫なり妙法を聞き奉る所にて即身成仏と聞くなり、若有能持即持仏身とは是なり、聞く故に持ち奉るの故に三類の強敵来る来るを以て現世安穏の記文顕れたり、法華の行者なる事疑無きなり、法華の行者はかかる大難に値うべしと見えたり、大難に値うを以て後生善処の成仏は決定せり、是れ豈現世にして安穏なるに非ずや、後生善処は提婆品に分明に説けり、所詮現世安穏とは法華経を信じ奉れば三途八難の苦をはなれ善悪上下の人までも皆教主釈尊・同等の仏果を得て自身本覚の如来なりと顕す、自身の当体・妙法蓮華経の薬草なれば現世安穏なり、爰を開くを後生善処と云うなり、妙法蓮華経と云うは妙法の薬草なり、所詮現世安穏は色法・後生善処は心法なり、十界の色心・妙法と開覚するを現世安穏・後生善処とは云うなり、所詮法華経を弘むるを以て現世安穏・後生善処と申すなり云云。

一皆悉到於一切智地の事
  仰に云く一切智地と云うは法華経なり、譬えば三千大千世界の土地・草木・人畜等・皆大地に備りたるが如くなり、八万法蔵・十二部経・悉く法華に帰入せしむるなり、皆悉の二字をば善人も悪人も迷も悟も一切衆生の悪業も善業も其の外薬師・大日・弥陀並びに地蔵・観音・横に十方・竪に三世有りとある諸仏の具徳・諸菩薩の行徳・惣じて十界の衆生の善悪・業作等を皆悉と説けり、是を法華経に帰入せしむるを一切智地の法華経と申すなり、されば文句の七に云く「皆悉到於一切智地とは、地とは実相なり、究竟して二に非ず故に一と名くるなり、其の性広博なり、故に名けて切と為す、寂にして常照なり、故に名けて智と為す、無住の本より一切の法を立す、故に名けて地と為す、此れ円教の実説なり、凡そ所説有るは皆衆生をして此の智地に到らしむ」云云、此の釈は一切智地の四字を委しく判ぜり、一をば究竟と云い、切をば広博と釈し、智をば寂而常照(じゃくにじょうしょう)と云い、地をば無住之本と判ぜり、然るに凡有所説(ぼんぬしょせつ)は約教を指し・皆令衆生(かいりょうしゅじょう)は機縁を納るるなり、十界の衆生を指して切と云い凡有所説を指して、究竟非二故名一也と云えり、一とは三千大千世界・十方法界を云うなり、其の上に人畜等あるは地なり、記の七に云く、切を衆に訓ずと文、仍つて一切の二字に法界を尽せり、諸法は切なり実相は一なり、所詮・法界実相の妙体・照而常寂の一理にして十界三千・一法性に非ずと云う事なし是を一と説くなり、さて三千の諸法の己己に本分なれば切の義なり、然らば一は妙・切は法なり、妙法の二字・一切の二字なり、無住之本は妙の徳・立一切法は法の徳なり、一切智地とは南無妙法蓮華経是なり一切智地・即一念三千なり、今末法に入つて一切智地を弘通するは日蓮等の類い是なり、然るに一とは一念なり切とは三千なり、一心より松よ桜よと起るは切なり、是は心法に約する義なり、色法にては手足等は切なり、一身なるは一切なり、所詮色心の二法・一切智地にして南無妙法蓮華経なり云云。

一此の一切智地の四字
 に法華経一部八巻文文句句を収めたり、此の一切智地とは三諦・一諦・非三非一なり、三智に約すれば空智なり、さては三諦とは云い難し、然りと雖も三諦・一諦の中の空智なり、されば三諦に於て三三九箇の三諦あり、先ず空諦にて三諦を云う時は空諦と呼出だすが仮諦・空諦なるは空諦なり・不二するは中道なり、三諦同じく此くの如く心得可きなり、所詮此の一切智地をば九識法性と心得可きなり、九識法性をば、迷悟不二・凡聖一如なれば空と云うなり、無分別智光を空と云うなり、此の九識法性とは、いかなる所の法界を指すや、法界とは十界なり、十界即諸法なり、此の諸法の当体・本有の妙法蓮華経なり、此の重に迷う衆生の為に、一仏現じて分別説三するは、九識本法の都を立出ずるなり、さて終に本の九識に引入する、夫れを法華経とは云うなり、一切智地とは是れなり、一切智地は我等衆生の心法なり心法即ち妙法なり一切智地とは是なり云云。

一根茎枝葉(こんきょうしよう)の事
 仰に云く此の文をば釈には信戒定慧と云云、此の釈の心は草木は此の根茎枝葉を以て増長と云うなり、仏法修行するも又斯(か)くの如し、所詮我等衆生・法華経を信じ奉るは根をつけたるが如し、法華経の文の如く是名持戒の戒体を本として、正直捨方便・但説無上道の如くなるは戒なり、法華経の文相にまかせて、法華三昧を修するは定なり、題目を唱え奉るは慧なり、所謂法界悉く生住異滅するは信・己己本分は戒・三世不改なるは定なり、各各の徳義を顕したるは慧なり、是れ即ち法界平等の根茎枝葉なり、是れ即ち真如実相の振舞なり、所謂戒定慧の三学・妙法蓮華経なり、此れを信ずるを根と云うなり、釈に云く三学倶に伝うるを名けて妙法と曰うと云云。

一根茎枝葉の事
  仰に云く此れは我等が一身なり、根とは心法なり茎とは我等が頭より足に至るまでなり、枝とは手足なり、葉とは毛なり、此の四を根茎枝葉と説けり、法界三千此の四を具足せずと云う事なし、是れ即ち信戒定慧の体にして実相一理の南無妙法蓮華経の体なり、法華不信の人は根茎枝葉ありて増長あるべからず枯槁(ここう)の衆生なるべし云云。







by johsei1129 | 2019-11-24 21:20 | 血脈・相伝・講義 | Trackback | Comments(0)
2019年 11月 24日

日蓮大聖人が晩年六老僧に法華経を講説しそれを日向が書き記した【御講聞書(おんこうききがき)】その一

【御講聞書】
■出筆時期:弘安三年(1255年)五月二十八日 日向記す。
■出筆場所:身延山中の草庵にて。
■出筆の経緯;日蓮大聖人が晩年六老僧に法華経の講義を為し、それを日向(にこう)が筆録したのが本書となります。尚、日興上人が筆録し大聖人の裁可を得たのが【御義口伝】となります。

日向は大聖人滅後日興上人が別当を務めた身延久遠寺の学頭に就きますが、地頭の波木井実長共々神社に参詣するなど謗法に陥り日興上人から厳しく断罪され義絶されます。他の老僧も日向の信仰を批判し、日昭と日朗とが遣り取りした書簡では、日昭から弟子を比叡山の戒壇で得度させても良いか相談を受けた際に日朗が「富士の戒壇で日興を戒師として得度させるべきであると助言し、身延の日向の法門は禅念仏にも劣る」と書かれておられるとのことです。
この日向の謗法の詳細については『小説日蓮の生涯(下)101地頭の謗法』を参照して下さい。
■ご真筆:現存しておりません。古写本:京都要法寺所蔵。

【御講聞書 本文】その一

自弘安元年三月十九日連連御講至同三年五月二十八日也仍記之畢  日向記之

凡そ法華経と申すは一切衆生皆成仏道の要法なり、されば大覚世尊は説時未至故(みしこ)と説かせ給いて説く可き時節を待たせ給いき、例せば郭公(ほととぎす)の春をおくり鶏鳥(にわとり)の暁を待ちて鳴くが如くなり、此れ即ち時を待つ故なり、されば涅槃経に云く以知時故名大法師と説かれたり、今末法は南無妙法蓮華経の七字を弘めて利生得益(とくやく)あるべき時なり、されば此の題目には余事を交えば僻事(ひがごと)なるべし、此の妙法の大曼荼羅を身に持ち心に念じ口に唱え奉るべき時なり、之に依つて一部二十八品の頂上に南無妙法蓮華経序品第一と題したり。

一妙法蓮華経序品第一の事
 玄旨伝に云く、一切経の惣要とは謂く妙法蓮華経の五字なり、又云く、一行一切行恒(つね)に此の三昧を修す文、云う所の三昧とは即ち法華の有相無相の二行なり、此の道理を以て法華経を読誦せん行者は即ち法具の一心三観なり云云、此の釈に一切経と云うは近くは華厳・阿含・方等・般若等なり、遠くは大通仏より已来(このかた)の諸経なり、本門の意は寿量品を除いて其の外の一切経なり、惣要とは天には日月・地には大王・人には神(たましい)・眼目の如くなりと云う意を以つて釈せり、此れ即ち妙法蓮華経の枝葉なり、一行とは妙法の一行に一切行を納めたり、法具とは題目の五字に万法を具足すと云う事なり、然る間・三世十方の諸仏も上行菩薩等も・大梵天王・帝釈・四王・十羅刹女・天照太神・八幡大菩薩・山王二十一社・其の外・日本国中の小神・大神等・此の経の行者を守護すべしと・法華経の第五巻に分明に説かれたり、影と・身と・音と・響との如し、法華経二十八品は影の如く響の如し、題目の五字は体の如く音(こえ)の如くなり、題目を唱え奉る音(こえ)は十方世界にとずかずと云う所なし、我等が小音なれども、題目の大音に入れて唱え奉る間、一大三千界にいたらざる所なし、譬えば小音なれども貝(ばい)に入れて吹く時・遠く響くが如く、手の音はわずかなれども鼓を打つに遠く響くが如し、一念三千の大事の法門是なり、かかる目出度き御経にて渡らせ給えるを、謗る人何ぞ無間に堕在せざらんや、法然弘法等の大悪知識是なり。

一妙法
 の二字は一切衆生の色心の二法なり、一代説教の中に法の字の上に妙の字を置きたる経は一経もなし、涅槃経の題目にも大涅槃経と云いて大の字あれども妙の字なし、但し大は只是れ妙と云えり然れども大と妙とは不同なり、同じ大なれども華厳経の大方広仏華厳経と云える題号の大と、涅槃経の大と天地雲泥なり、華厳経の大は無得道の大なり。涅槃経の大は法華同醍醐味の大なり、然れども然涅槃尚劣と云う時は法華経には劣れり、此の事は涅槃経に分明に法華経に劣ると説かれたり、涅槃経に云く「法華の中の八千の声聞、記莂(きべつ)を受くることを得て大果実を成ずるが如く、秋収冬蔵して更に所作無きが如し」云云、此の文分明に我と法華経に劣れりと説かせ給えり。

一蓮華
 とは本因本果なり、此の本因本果と云うは一念三千なり、本有(ほんぬ)の因・本有の果なり、今始めたる因果に非ざるなり、五百塵点の法門とは此の事を説かれたり、本因の因と云うは下種の題目なり、本果の果とは成仏なり、因と云うは信心領納(りょうのう)の事なり、此の経を持ち奉る時を本因とす、其の本因のまま成仏なりと云うを本果とは云うなり、日蓮が弟子檀那の肝要は本果より本因を宗とするなり、本因なくしては本果有る可からず、仍て本因とは慧(え)の因にして名字即の位なり、本果は果にして究竟即の位なり、究竟即とは九識本覚の異名なり、九識本法の都とは法華の行者の住所なり、神力品に云く若しは山谷(せんごく)曠野等と説けり即ち是れ道場と見えたり豈法華の行者の住所は生処・得道・転法輪・入涅槃の諸仏の四処の道場に非ずや。

一本因本果の事
 法界悉く常住不滅の為体(ていたらく)を云うなり、されば妙楽大師・此の事を釈する時・弘決(ぐけつ)に云く当知身土一念三千・故成道時称此本理一身一念遍於法界云云、此の釈分明に本因本果を釈したり、身と云うは一切衆生なり、土と云うは此の一切衆生の住処なり一念とは此の衆生の念念の作業なり、故成道時称此本理とは本因本果の成道なり、本理と本因本果とは同じ事なり法界とは五大なり、所詮法華経を持ち奉る行者は若在仏前蓮華化生なれば称此本理の成道なり、本理に称(かな)うとは妙法蓮華経の本理に称うと云う事なり、法華経の本理に叶うとは此の経を持ち奉るを云うなり、若有能持則持仏身とは是なり。

一爾前無得道の事
 此の法門は蓮華の二字より起れり、其の故は蓮華の二字を以て云うなり、三世の諸仏の成道を唱うるは蓮華の二字より出でたり、権教に於て蓮華の沙汰無し若しありと云うとも有名無実の蓮華なるべし、三世の諸仏の本時の下種を指して華と名け、此の下種の華によつて成仏の蓮を取る、妙法蓮華即ち下種なり、下種即ち南無妙法蓮華経なり、華は本因・蓮は本果なれば華の本因を不信謗法の人豈具足せんや、経に云く若人不信毀謗此経則断一切世間仏種云云、此の蓮華に迷う故に十界具足無し、十界具足せざれば一念三千跡形無きなり、一切の法門は蓮華の二字より起れり、一代説教に於て無得道と云うも蓮華の二字より起れり深く之を案ず可し。

一序品の事
 此の事は、教主釈尊・法華経を説き給わんとて先ず瑞相の顕れたる事を云うなり、今末法に入つて南無妙法蓮華経の顕われ給うべき瑞相は彼には百千万倍勝るべきなり、其の故は雨は竜の大小により蓮華は池の浅深に随つて其の色不同なるが如くなるべし。

一品と云う事
 品とは、釈に云く義類同と云えり、此の法華経は三仏寄合い給いて定判し給えり、三仏とは釈迦・多宝・分身是なり、此の三仏・評定してのたまわく一切衆生皆成仏道は法華経に限りて有りと、皆是真実の証明・舌相梵天の誠証(じょうしょう)・要当説真実の金言・此等を義類同して題したる品の字なり、天竺には跋渠(ばっこ)と云う此には品と云えり、釈迦・多宝・分身の三仏の御口を以て指し合せ同音に定判し給える我等衆生の成仏なり、譬えば鳥の卵の内より卵をつつく時・母又同じくつつきあくるに・同じき所をつつきあくるが如し、是れ即ち念慮の感応する故なり、今法華経の成仏も此くの如くなり、三世諸仏の同音に同時に定め給える成仏なり、故に経に云く従仏口生如従仏口等云云。

一如是我聞の事
 仰に云く如と云うは衆生の如と仏の如と一如にして無二如なり、然りと雖も九界と仏界と分れたるを是と云うなり、如は如を不異に名く即ち空の義なりと釈して少しも・ことならざるを云うなり、所詮法華経の意は煩悩即菩提・生死即涅槃・生仏不二・迷悟一体といえり、是を如とは云うなり、されば如は実相・是は諸法なり、又如は心法・是は色法・如は寂・是は照なり、如は一念・是は三千なり、今経の心は文文・句句・一念三千の法門なり、惣じて如是我聞の四字より外は今経の体全く無きなり 如と妙とは同じ事・是とは法と又同じ事なり、法華経と釈尊と我等との三・全く不同無く・如我等無異なるを如と云うなり、仏は悟り・凡夫は迷なりと云うを是とは云うなり、我聞と云うは、我は阿難なり、聞とは耳の主(じゅ)と釈せり、聞とは名字即なり、如是の二字は妙法なり、阿難を始めて霊山一会(りょうぜんいちえ)の聴衆・同時に妙法蓮華経の五字を聴聞せり仍つて我も聞くと云えり、されば相伝の点には如は是なりきと我れ聞くといえり、所詮末法当今には南無妙法蓮華経を我も聞くと心得べきなり、我は真如法性の我なり、天台大師は同聞衆と判ぜり同じ事を聞く衆と云うなり、同とは妙法蓮華経なり、聞は即身成仏・法華経に限ると聞くなり云云。

一如是の二字
 を約教の下(しも)に釈する時・文句の一に又一時に四箭(せん)を接して地に堕せしめざるも未だ敢て捷(はや)しと称せず、鈍驢(どんろ)に策(むちう)つて跋鼈(はべつ)を駈る尚し一をも得ず何に況や四をや云云、記の一に云く、大経に云く迦葉菩薩問うて云く云何(いかなる)か智者・念念の滅を観ずと、仏の言(のたまわ)く譬えば四人皆射術を善(よく)し聚(あつま)つて一処に在りて・各一方を射るに念言すらく・我等は四の箭(や)・倶に射て倶に堕せんと、復人有りて念ずらく・其の未だ堕せざるに及んで我れ能く一時に手を以て接取せんというが如し、仏の言く、捷疾鬼(しょうしっき)は復是の人よりも速なり是くの如く、飛行鬼(ひぎょうき)・四天王・日月神・堅疾天(けんしつてん)は展転して箭(や)よりも疾し、無常は此れに過ぎたりと、此の本末の意は他師・此の経の如是に付て釈を設くと云えども・更に法蓮華の理に深く叶わざるなり、一二だも義理を尽さざるなり況や因縁をや、何に況や約教・観心の四をやと破し給えり、所詮法華経は速疾頓成(そくしつとんじょう)を以て本とす、我等衆生の無常のはやき事は捷疾鬼よりもはやし、爰を以て出ずる息は入る息を待たず、此の経の如是は爾前の諸経の如是に勝れて超八の如是なり、超八醍醐の如是とは速疾頓成の故なり、妙楽大師云く若し超八の如是に非ずんば、安ぞ此の経の所聞と為さんと云云。

一耆闍崛山(ぎしゃくっせん)の事
 仰に云く耆闍崛山とは霊鷲山なり、霊とは三世の諸仏の心法なり必ず此の山に仏法を留め給う、鷲とは鳥なり此の山の南に当つて尸陀林(しだりん)あり死人を捨つる所なり、鷲此の屍を取り食うて、此の山に住むなり、さて霊鷲山とは云うなり、所詮今の経の心は迷悟一体と談ず、霊と云うは法華経なり、三世の諸仏の心法にして悟なり、鷲と云うは畜生にして迷なり、迷悟不二と開く中道即法性の山なり、耆闍崛山中と云うは迷悟不二・三諦一諦・中道第一義空の内証なり、されば法華経を行ずる日蓮等が弟子檀那の住所はいかなる山野なりとも霊鷲山なり、行者豈釈迦如来に非ずや、日本国は耆闍崛山・日蓮等の類は釈迦如来なるべし、惣じて一乗南無妙法蓮華経を修行せん所は・いかなる所なりとも常寂光の都・霊鷲山(りょうじゅせん)なるべし、此の耆闍崛山中とは煩悩の山なり、仏菩薩等は菩提の果なり・煩悩の山の中にして法華経を三世の諸仏説き給えり、諸仏は法性の依地(えじ)・衆生は無明の依地なり、此の山を寿量品にしては本有の霊山と説かれたり、本有の霊山とは此の娑婆世界なり、中にも日本国なり、法華経の本国土妙・娑婆世界なり、本門寿量品の未曾有の大曼荼羅建立の在所なり云云、瑜伽論(ゆがろん)に云く東方に小国有り、其の中唯大乗の種姓のみ有り、大乗の種姓とは法華経なり法華経を下種として成仏すべしと云う事なり、所謂南無妙法蓮華経なり小国とは日本国なり云云。

一与大比丘衆の事
 仰に云く文句の一に云く釈論に明す、大とは亦(また)は多と言い亦は勝と言う、遍く内外の経書を知る故に多と言う、又数一万二千に至る故に多と言う、今明さく大道有るが故に・大用有るが故に・大知有るが故に・故に大と言う、勝とは道勝(どうすぐ)れ・用勝(ゆうすぐ)れ・知勝る、故に勝(しょう)と言う、多とは道多く・用多く・知多し故に多と言う、又云く含容一心(がんよういっしん)・一切心なり、故に多と名くるなり、記の一に云く一心一切心と言うは心境倶に心にして各一切を摂す、一切三千を出でざるが故なり、具に止観の第五の文の如し、若し円心に非ざれば三千を摂せず、故に三千惣別咸(ことごと)く空仮中(くうけちゅう)なり、一文既に爾なり他は皆此れに准ぜよ、此の本末の心は心境義の一念三千を釈するなり、止観の第五の文とは夫一心具十法界乃至不可思議境の文を指すなり、心境義の一念三千とは此の与大比丘衆の大の字より釈し出だせり、大多勝の三字・三諦・三観なり、円頓行者起念の当体・三諦三観にして大多勝なり、此の釈に惣と云うは一心の事なり、別とは三千なり、一文とは大の一字なり、今末法に入つては法華経の行者・日蓮等の類、正しく大多勝の修行なり、法華経の行者は釈迦如来を始め奉りて悉く大人の為に敬い奉るなり誠に以て大曼荼羅の同共(どうぐ)の比丘衆なり、本門の事の一念三千・南無妙法蓮華経・大多勝の比丘衆なり、文文・句句・六万九千三百八十四字の字ごとに大多勝なり、人法一体にして即身成仏なり、されば釈に云く大は是れ空の義・多は是れ仮の義・勝は是れ中の義と、一人の上にも大多勝の三義・分明に具足す、大とは迹門・多とは本門・勝とは題目なり、法華経の本尊を大多勝の大曼荼羅と云うなり、是れ豈(あに)与大比丘衆に非ずや、二界・八番の雑衆悉く法華の会座の大曼荼羅なり、法華経の行者は二法の情を捨てて唯妙法と信ずるを大というなり、此の題目の一心に一切心を含容するを多と云うなり、諸経・諸人に勝れたるが故に勝と云うなり、一切心に法界を尽す一心とは法華経の信心なり、信心即一念三千なり云云。

一爾時世尊の事
 仰に云く世尊とは釈迦如来・所詮世尊とは孝養の人を云うなり、其の故は不孝の人をば世尊とは云わず教主釈尊こそ世尊の本にては御座候(おわしましそうら)え、父浄飯王・母摩耶夫人を成道せしめ給うなり・されど今経の座には父母御座(おわしま)さざれば方便土へ法華経をば送らせ給うなり、彼土(ひど)得聞とは是なり、但し法華経の心は十方仏土中・唯有一乗法なり忉利天(とうりてん)に母摩耶夫人生じ給えり、忉利天に即したる寂光土なり、方便土に即したる寂光土なり、四土一念・皆常寂光なれば、何れも法華経の説処なり、虚空会の時の説法華に豈忉利天もるべきや寂光土の説法華に豈方便土もるべきや、何れも法華経の説所なれば同聞衆の人数なり云云。

一浄飯王摩耶夫人成仏証文の事
 仰に云く方便品に云く我始坐道場・観樹亦経行の文是なり、又寿量品に云く、然我実成仏已来の文是なり、教主釈尊の成道の時・浄飯王も摩耶も得道するなり、本迹二門の得道の文是なり云云、此の文日蓮が己心の大事なり、我始と我実との文・能く能く之を案ず可し、其の故は爾前経の心は父子各別の談道なり、然る間成仏之れ無し、今の経の時・父子の天性を定め父子一体と談ぜり・父母の成仏即ち子の成仏なり、子の成仏・即ち父母の成仏なり、釈尊の我始坐道場の時・浄飯王・摩耶夫人も同時に成道なり、釈尊の我実成仏の時・浄飯王・摩耶夫人同時なり始本共に同時の成道なり、此の法門は天台・伝教等を除いて知る人一人も之れ有る可からず、末法に入つて日蓮等の類・堅く秘す可き法門なり、譬えば蓮華の華菓の相離せざるが如くなり、然れば法華経の行者は男女悉く世尊に非ずや、薬王品に云く於一切衆生中亦為第一文、此れ即ち世尊の経文に非ずや、是真仏子なれば法王の子にして世尊第一に非ずや。

一方便品の事
 妙法蓮華経の五字とは名体宗用教の五重玄義なり、されば止観に十章を釈せり此の十章即ち妙法蓮華経の能釈(のうしゃく)なり、夫れとは釈名は名玄義なり、体相摂法(せっぽう)の二は体玄義なり、偏円の一は教玄義なり、方便・正観・果報の三は宗玄義なり、起教の一は用玄義なり、始の大意の章と終の旨帰との二をば之を除く、此の意は止観一部の所詮は大意と旨帰とに納れり無明即明の大意なる故なり、無明とも即明とも分別せざるが旨帰なり、今妙法蓮華経の五重玄義を修行し奉れば・煩悩即菩提・生死即涅槃の開悟を得るなり、大意と旨帰とは法華の信心の事なるべし、以信得入・非己智分とは是なり。

 我等衆生の色心の二法は妙法の二字なり無始色心・本是理性・妙境妙智と開覚するを大意と云うなり、大は色法の徳・意は心法の徳なり大の字は形に訓ぜり、今日蓮等の類・南無妙法蓮華経と唱え奉る男女・貴賤・等の色心本有の妙境妙智なり、父母果縛の肉身の外に別に三十二相・八十種好(しゅごう)の相好之れ無し即身成仏是なり、然る間大の一字に法界を悉く収むるが故に法華経を大乗と云うなり、一切の仏菩薩・聖衆・人畜・地獄等の衆生・の智慧を具足し給うが故に・仏意と云うなり、大乗と云うも同じ事なり是れ即ち妙法蓮華経の具徳なり、されば九界の衆生の意を以て仏の意とす、一切経の心を以て法華経の意とす、於一仏乗分別説三とは是なり、かかる目出度き法華経を謗じ奉る事・三世の諸仏の御舌を切るに非ずや、然るに此の妙法蓮華経の具徳をば仏の智慧にてもはかりがたく何に況や菩薩の智力に及ぶ可けんや、之に依つて大聖塔中偈の相伝に云く、一家の本意は只一言を以て本と為す云云、此の一言とは寂照不二の一言なり或は本末究竟等の一言とも云うなり、真実の義には南無妙法蓮華経の一言なり、本とは凡夫なり、末とは仏なり、究竟とは生仏一如なり、生仏(しょうぶつ)一如の如の体は所謂南無妙法蓮華経是なり云云。

一仏所成就第一希有難解之法唯仏与仏の事
 仰に云く仏とは釈尊の御事なり、成就とは法華経なり、第一は爾前の不第一に対し・希有は爾前の不希有に対し・難解之法は爾前の不難解に対したり、此の仏と申すは諸法実相なれば十界の衆生を仏とは云うなり、十界の衆生の語言音声成就にして法華経なり、三世の諸仏の出世の本懐の妙法にして、優曇華の妙文なれば第一希有なり、九界の智慧は及ばざれば難解の法なり、成就とは我等衆生の煩悩即菩提・生死即涅槃の事なり、権教の意は終に不成仏なれば成就には非ず、迹門には二乗成仏顕れたり、是れ即ち成就なり、是を仏所成就とは説かれたり、されば唯仏とは釈迦・与仏とは多宝なり、多宝涌現なければ与仏とは云いがたし、然りと雖も終には出現あるべき故に・与仏を多宝というなり、所詮日蓮等の類いの心は・唯仏は釈尊・与仏は日蓮等の類いの事なるべし、其の故は唯仏の唯を重ねて譬喩品には唯我一人と説けり、与仏の二字を重ねて、方便品の末に至つて若遇余仏(にゃくぐよぶつ)と説けり、釈には深く円理を覚るは、之れを名けて仏と為すと釈せり、是れ即ち与仏と云うは法華経の行者男女の事なり、唯我一人の釈尊に与(くみ)し上(たてまつ)る仏なり、此の二仏寄り合いて、乃能究尽する所の諸法実相の法体なり、されば十如是と云うは十界なり、十界即十如是なり、十如是は即ち法華経の異名なり云云。

一十如是の事
 仰に云く此の十如是は法華経の眼目・一切経の惣要たり、されば此の十如是を開覚しぬれば諸法に於て迷悟無く、実相に於て染浄無し、之れに依つて天台大師は止観の十章も此の十如是より釈出せり、然る間・十如是に過たる法門更に以て之れ無し、爰を以て和尚授けて云く十大章は是れ全く十如是・若し大意を覚る時・性如是の意を以て下の玄如の図を分別す可し、十如是を十大章に習う事は性如是は大意・相如是は釈名・体如是は体相・力如是は摂法・作如是は偏円・縁如是は方便・因如是は正観・果報如是は果報・本末究竟如是は旨帰なり、此の中に起教の章は化他利物果上化用(かじょうけゆう)と云うなり云云。





by johsei1129 | 2019-11-24 19:35 | 血脈・相伝・講義 | Trackback | Comments(0)