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日蓮大聖人『御書』解説

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2019年 11月 16日 ( 3 )


2019年 11月 16日

人の心を貫く妙法蓮華経は宇宙に遍満し一体であると明した【三世諸仏総勘文教相廃立】三

[三世諸仏総勘文教相廃立 本文] その三

 安楽行品には末法に入つて近来(このごろ)・初心の凡夫・法華経を修行して成仏す可き様を説き置かれしなり、身も安楽行なり口も安楽行なり意も安楽行なり自行の三業も誓願安楽の化他の行も同じく後の末世に於て法の滅せんと欲する時と云云、此は近来の時なり已上四所に有り薬王品には二所に説かれ勧発品には三所に説かれたり、皆近来を指して譲り置かれたる正しき文書を用いずして凡夫の言に付き愚癡の心に任せて三世諸仏の譲り状に背き奉り永く仏法に背かば三世の諸仏・何(いか)に本意無く口惜しく心憂く歎き悲しみ思食(おぼしめ)すらん、涅槃経に云く「法に依つて人に依らざれ」と云云、痛ましいかな悲しいかな末代の学者仏法を習学して還つて仏法を滅す、弘決に之を悲しんで曰く「此の円頓を聞いて崇重(そうじゅう)せざることは良に近代大乗を習う者の雑濫に由るが故なり況や像末情澆(こころ・うす)く信心寡薄(すくなく)・円頓の教法蔵に溢れ函(はこ)に盈(み)つれども暫くも思惟せず便ち目を瞑(ふさ)ぐに至る徒(いたず)らに生し徒らに死す一に何ぞ痛ましき哉」已上、同四に云く「然も円頓の教は本と凡夫に被(こう)むらしむ若し凡を益するに擬せずんば仏・何ぞ自ら法性の土に住して法性の身を以て諸の菩薩の為に此の円頓を説かずして何ぞ諸の法身の菩薩の与(ため)に凡身を示し此の三界に現じ給うことを須(もち)いんや、乃至一心凡に在れば即ち修習す可し」已上。

 所詮、己心と仏身と一なりと観ずれば速かに仏に成るなり、故に弘決に又云く「一切の諸仏己心は仏心と異ならずと観し給うに由るが故に仏に成ることを得る」と
已上。此れを観心と云う実に己心と仏心と一心なりと悟れば臨終を礙(さ)わる可き悪業も有らず生死に留まる可き妄念も有らず、一切の法は皆是れ仏法なりと知りぬれば教訓す可き善知識も入る可らず思うと思い言うと言い為すと為し儀(ふるま)いと儀う行住坐臥(ぎょうじゅうざが)の四威儀の所作は皆仏の御心と和合して一体なれば過(とが)も無く障りも無き自在の身と成る此れを自行と云う、此くの如く自在なる自行の行を捨て跡形も有らざる無明妄想なる僻思の心に住して三世の諸仏の教訓に背き奉れば冥きより冥きに入り永く仏法に背くこと悲しむ可く悲しむ可し、只今打ち返えし思い直し悟り返さば即身成仏は我が身の外には無しと知りぬ。

 我が心の鏡と仏の心の鏡とは只一鏡なりと雖も、我等は裏に向つて我が性の理を見ず、故に無明と云う。如来は面(おもて)に向つて我が性の理を見たまえり、故に明と無明とは其の体、只一なり。
 鏡は一の鏡なりと雖も向い様に依つて明昧(みょうまい)の差別有り、鏡に裏有りと雖も面(おもて)の障りと成らず、只向い様に依つて得失の二つ有り。相即融通して一法の二義なり、化他の法門は鏡の裏に向うが如く、自行の観心は鏡の面に向うが如し。化他の時の鏡も自行の時の鏡も、我が心性の鏡は只一にして替ること無し。鏡を即身に譬え、面に向うをば成仏に譬え、裏に向うをば衆生に譬う。
 鏡に裏有るをば性悪を断ぜざるに譬え、裏に向う時・面の徳無きをば化他の功徳に譬うるなり。衆生の仏性の顕れざるに譬うるなり。自行と化他とは得失の力用(りきゆう)なり。


玄義の一に云く「薩婆悉達(さるばしった)・祖王の弓を彎(ひい)て満るを名けて力と為す七つの鉄鼓(てっく)を中(やぶ)り一つの鉄囲山(てっちせん)を貫ぬき地を洞(とお)し水輪に徹(とお)る如きを名けて用(ゆう)と為す、自行の力用なり。諸の方便教は力用(りきゆう)の微弱なること凡夫の弓箭の如し、何となれば昔の縁は化他の二智を禀けて理を照すこと遍からず、信を生ずること深からず、疑を除くこと尽さず已上化他

 今の縁は自行の二智を禀(う)けて仏の境界を極め法界の信を起し、円妙の道を増し、根本の惑を断じ、変易(へんにゃく)の生を損す。
但だ生身(しょうしん)及び生身得忍の両種の菩薩、倶(とも)に益するのみに非ず、法身と法身の後心との両種の菩薩も亦以て倶に益す、化の功(こう)広大に利潤弘深(りにんぐじん)なる蓋(けだ)し玆(こ)の経の力用なり、已上自行」

 自行と化他との力用勝劣分明なること勿論なり、能く能く之を見よ、一代聖教を鏡に懸(かけ)たる教相なり。
極仏境界とは十如是の法門なり、十界に互に具足して十界・十如の因果・権実の二智・二境は我が身の中に有つて一人も漏るること無しと通達し解了し、仏語を悟り極むるなり。起法界信とは十法界を体と為し十法界を心と為し十法界を形と為したまえりと本覚の如来は我が身の中に有りけりと信ず、増円妙道とは自行と化他との二は相即円融の法なれば珠と光と宝との三徳は只一の珠の徳なるが如し、片時も相離れず仏法に不足無し、一生の中に仏に成るべしと慶喜(きょうき)の念を増すなり。

 断根本惑とは一念無明の眠を覚まして本覚の寤に還れば生死も涅槃も倶に昨日の夢の如く跡形も無きなり、損変易生(そんへんにゃくしょう)とは同居土の極楽と方便土の極楽と実報土の極楽との三土に往生せる人・彼の土にて菩薩の道を修行して仏に成らんと欲するの間・因は移り果は易りて次第に進み昇り劫数を経て成仏の遠きを待つを変易の生死と云うなり。下位を捨つるを死と云い上位に進むをば生と云う是くの如く変易する生死は浄土の苦悩にて有るなり、

爰(ここ)に凡夫の我等が此の穢土に於て法華を修行すれば、十界互具・法界一如なれば浄土の菩薩の変易の生は損し、仏道の行は増して変易の生死を一生の中に促(つづ)めて仏道を成ず故に、生身及び生身得忍の両種の菩薩・増道損生するなり。
 法身の菩薩とは生身を捨てて実報土に居するなり。後心(ごしん)の菩薩とは等覚の菩薩なり、但し迹門には生身及び生身得忍の菩薩を利益するなり、本門には法身と後身との菩薩を利益す。

 但し今は迹門を開して本門に摂めて一の妙法と成す故に、凡夫の我等穢土の修行の行の力を以て浄土の十地、等覚の菩薩を利益する行なるが故に、化の功広大なり 化他の徳用、利潤弘深 自行の徳用 とは円頓の行者は自行と化他と一法をも漏(もら)さず一念に具足して横に十方法界に遍するが故に弘きなり。
 竪には三世に亘つて法性の淵底を極むるが故に深きなり、此の経の自行の力用、此くの如し。
化他の諸経は自行を具せざれば鳥の片翼(へんよく)を以て空を飛ばざるが如し、故に成仏の人も無し。

 今、法華経は自行・化他の二行を開会して不足無きが故に、鳥の二翼を以て飛ぶに障り無きが如く成仏滞(とどこお)り無し。

 薬王品には十喩を以て自行と化他との力用(りきゆう)の勝劣を判ぜり。第一の譬に云く、諸経は諸水の如く法華は大海の如し云云 取意。、実に自行の法華経の大海には化他の諸経の衆水(しゅすい)を入るること、昼夜に絶えず入ると雖も増ぜず減ぜず不可思議の徳用(とくゆう)を顕す。

 諸経の衆水は片時の程も法華経の大海を納るること無し、自行と化他との勝劣是くの如し、一を以て諸(しょ)を例せよ、上来の譬喩は皆仏の所説なり、人の語を入れず此の旨を意得(こころう)れば一代聖教、鏡に懸けて陰り無し。此の文釈(もんしゃく)を見て誰の人か迷惑せんや、三世の諸仏の総勘文なり、敢て人の会釈を引き入る可からず、三世諸仏の出世の本懐なり、一切衆生・成仏の直道なり。

 四十二年の化他の経を以て立る所の宗宗は華厳・真言・達磨・浄土・法相・三論・律宗・倶舎・成実等の諸宗なり、此等は皆悉く法華より已前の八教の中の教なり、皆是方便なり
兼・但・対・帯の方便誘引なり、三世諸仏の説教の次第なり此の次第を糾して法門を談ず、若し次第に違わば仏法に非ざるなり、一代教主の釈迦如来も三世諸仏の説教の次第を糾して、一字も違わず我も亦是くの如しとて・経に云く「三世諸仏の説法の儀式の如く我も今亦是くの如く無分別の法を説く」已上。

 若し之に違えば永く三世の諸仏の本意に背く、他宗の祖師各我が宗を立て法華宗と諍うこと誤りの中の誤り迷いの中の迷いなり。

 徴佗学(ちょうたがく)の決に之を破して云く山王院「凡そ八万法蔵・其の行相を統(す)ぶるに四教を出でず頭辺(はじめ)に示すが如し蔵通別円は即ち声聞・縁覚・菩薩・仏乗なり真言・禅門・華厳・三論・唯識・律業・成倶(じょうく)の二論等の能所の教理争でか此の四を過ぎん若し過ぐると言わば豈外邪(あに・げじゃ)に非ずや若し出でずと言わば便ち他の所期を問い得よ即ち四乗の果なり、然して後に答に随つて極理を推(たず)ね徴(せ)めよ我が四教の行相を以て並べ検(かんが)えて決定せよ彼の所期の果に於て若し我と違わば随つて即ち之を詰めよ、且く華厳の如きは五教に各各に修因・向果有り初・中・後の行・一ならず一教一果是れ所期なるべし若し蔵通別円の因と果とに非ざれば是れ仏教ならざるのみ、三種の法輪・三時の教等・中(なか)に就て定む可し汝(なんじ)何者を以てか所期の乗と為るや若し仏乗なりと言わば未だ成仏の観行を見ず若し菩薩と言わば此れ亦即離の中道の異なるなり、汝正しく何れを取るや設(も)し離の辺を取らば果として成ず可き無し、如(も)し即是を要せば仏に例して之を難ぜよ謬つて真言を誦すとも三観一心の妙趣を会せずんば恐くは別人に同じて妙理を証せじ所以(ゆえ)に他の所期の極を逐うて理に準じて 我が宗の理なり 徴(せむ)べし、因明(いんみょう)の道理は外道と対す多くは小乗及以(およ)び別教に在り若し法華・華厳・涅槃等の経に望むれば接引門(しょういんもん)なり権(か)りに機に対して設けたり終に以て引進するなり邪小の徒をして会して真理に至らしむるなり所以(ゆえ)に論ずる時は四依撃目(きゃくもく)の志を存して之を執着すること莫れ又須らく他の義を将(も)つて自義に対検して随つて是非を決すべし執して之を怨むこと莫れ 大底・他は多く三教に在り円旨至つて少きのみ」先徳大師の所判是の如し、諸宗の所立(しょりゅう)鏡に懸けて陰り無し末代の学者何ぞ之を見ずして妄りに教門を判ぜんや大綱の三教を能く能く学す可し、頓と漸と円とは三教なり是れ一代聖教の総の三諦なり頓・漸の二は四十二年の説なり円教の一は八箇年の説なり合して五十年なり此の外に法無し何に由つてか之に迷わん、衆生に有る時には此(これ)を三諦と云い仏果を成ずる時には此れを三身と云う一物の異名なり之を説き顕すを一代聖教と云い之を開会(かいえ)して只一の総の三諦と成ずる時に成仏す此こを開会と云い此を自行と云う、又他宗所立の宗宗は此の総の三諦を分別して八と為す各各に宗を立つるに依つて円満の理を闕(か)いて成仏の理無し是の故に余宗には実の仏無きなり故に之を嫌う意(こころ)は不足なりと嫌うなり。

 円教を取つて一切諸法を観ずること円融・円満して十五夜の月の如く不足無く、満足し究竟すれば善悪をも嫌わず折節をも撰ばず静処をも求めず人品(じんぴん)をも択(えら)ばず、一切諸法は皆是れ仏法なりと知りぬれば諸法を通達す即ち非道を行うとも仏道を成ずるが故なり、天地水火風は是れ五智の如来なり一切衆生の身心の中に住在して片時も離るること無きが故に世間と出世と和合して心中に有つて心外(しんげ)には全く別の法無きなり故に之を聞く時立所(たちどころ)に速かに仏果を成ずること滞り無き道理至極なり。

 総の三諦とは譬えば珠(たま)と光と宝との如し此の三徳有るに由つて如意宝珠と云う故に総の三諦に譬う、若し亦珠の三徳を別別に取り放さば何の用にも叶う可からず隔別(きゃくべつ)の方便教の宗宗も亦是(か)くの如し、珠をば法身(ほっしん)に譬え光をば報身に譬え宝をば応身に譬う、此の総の三徳を分別して宗を立つるを不足と嫌うなり之を丸(がん)じて一と為すを総の三諦と云う、此の総の三諦は三身即一の本覚の如来なり又寂光をば鏡に譬え、同居(どうこ)と方便と実報の三土をば鏡に遷る像(かたち)に譬う、四土も一土なり三身も一仏なり今は此の三身と四土と和合して仏の一体の徳なるを寂光(じゃっこう)の仏と云う、寂光の仏を以て円教の仏と為し円教の仏を以て寤の実仏と為す余の三土の仏は夢中の権仏なり、此れは三世の諸仏の只同じ語に勘文し給える総の教相なれば人の語も入らず会釈も有らず、若し之に違わば三世の諸仏に背き奉る大罪の人なり天魔外道なり永く仏法に背くが故に、之を秘蔵して他人には見せざれ若し秘蔵せずして妄りに之を披露せば仏法に証理無く二世に冥加無からん、謗ずる人出来せば三世の諸仏に背くが故に二人乍(なが)ら倶に悪道に堕(おち)んと識るが故に之を誡むるなり、能く能く秘蔵して深く此の理(ことわり)を証し三世の諸仏の御本意に相い叶い二聖(にしょう)・二天・十羅刹の擁護を蒙むり、滞り無く上上品の寂光の往生を遂げ須臾の間に九界生死の夢の中に還り来つて身を十方法界の国土に遍じ、心を一切有情の身中に入れて内よりは勧発し外よりは引導し内外相応し因縁和合して自在神通の慈悲の力を施し、広く衆生を利益すること滞り有る可からず。

三世の諸仏は此れを一大事の因縁と思食(おぼしめ)して世間に出現し給えり、一とは中道なり法華なり大とは空諦なり華厳なり、事とは仮諦なり・阿含・方等・般若なり、已上一代の総の三諦なり、之を悟り知る時仏果を成ずるが故に出世の本懐成仏の直道なり因とは一切衆生の身中に総の三諦有つて常住不変なり此れを総じて因と云うなり、縁とは三因仏性は有りと雖も善知識の縁に値わざれば悟らず知らず顕れず善知識の縁に値えば必ず顕るるが故に縁と云うなり、然るに今此の一と大と事と因と縁との五事和合して値い難き善知識の縁に値いて五仏性を顕さんこと何の滞りか有らんや、春の時来りて風雨の縁に値いぬれば無心の草木も皆悉く萠え出生して華敷(はなさ)き栄えて世に値う気色なり、秋の時に至りて月光の縁に値いぬれば草木皆悉く実成熟(み・じょうじゅく)して一切の有情を養育し寿命を続き長養し終に成仏の徳用を顕す、之を疑い之を信ぜざる人有る可しや、無心の草木すら猶以て是くの如し、何に況や人倫に於てをや、我等は迷の凡夫なりと雖も一分の心も有り解(げ)も有り善悪も分別し折節を思知る、然るに宿縁に催されて生を仏法流布の国土に受けたり善知識の縁に値いなば因果を分別して成仏す可き身を以て善知識に値うと雖も猶草木にも劣つて身中の三因仏性を顕さずして黙止(もだ)せる謂(いわ)れ有る可きや、此の度必ず必ず生死の夢を覚まし本覚の寤に還つて生死の紲(きづな)を切る可し、今より已後は夢中の法門を心に懸(か)く可からざるなり、三世の諸仏と一心と和合して妙法蓮華経を修行し障り無く開悟す可し、自行と化他との二教の差別は鏡に懸けて陰(くも)り無し、三世の諸仏の勘文是くの如し、秘す可し秘す可し。

弘安二年己卯(つちのとう)十月 日         日蓮 花押









by johsei1129 | 2019-11-16 15:23 | 血脈・相伝・講義 | Trackback | Comments(0)
2019年 11月 16日

人の心を貫く妙法蓮華経は宇宙に遍満し一体であると明した【三世諸仏総勘文教相廃立】二

[三世諸仏総勘文教相廃立 本文] その二
 二に自行の法とは是れ法華経八箇年の説なり、是の経は寤(うつつ)の本心を説き給う唯衆生の思い習わせる夢中の心地なるが故に夢中の言語を借りて寤の本心を訓(おしう)る故に語は夢中の言語なれども意(こころ)は寤の本心を訓ゆ法華経の文と釈との意此くの如し。

 之を明め知らずんば経の文と釈の文とに必ず迷う可きなり、但し此の化他の夢中の法門も寤の本心に備われる徳用の法門なれば、夢中の教を取つて寤の心に摂むるが故に四十二年の夢中の化他方便の法門も、妙法蓮華経の寤の心に摂まりて心の外には法無きなり此れを法華経の開会とは云うなり。

 譬えば衆流を大海に納むるが如きなり仏の心法妙・衆生の心法妙と此の二妙を取つて己心に摂むるが故に、心の外に法無きなり。己心と心性と心体との三は己身の本覚の三身如来なり是を経に説いて云く「如是相応身如来、如是性報身如来、如是体法身如来」此れを三如是と云う、此の三如是の本覚の如来は十方法界を身体と為し十方法界を心性と為し十方法界を相好(そうごう)と為す是の故に我が身は本覚三身如来の身体なり、法界に周編して一仏の徳用なれば一切の法は皆是仏法なりと説き給いし
時、其の座席に列(つらな)りし諸の四衆・八部・畜生・外道等一人も漏れず皆悉く妄想の僻目(ひがめ)・僻思(ひがおもい)・立所(たちどころ)に散止して本覚の寤に還つて皆仏道を成ず。

 仏は寤の人の如く衆生は夢見る人の如し、故に生死の虚夢(こむ)を醒して本覚の寤に還るを即身成仏とも平等大慧とも無分別法とも皆成仏道とも云う只一つの法門なり。
 十方の仏土は区(まちまち)に分れたりと雖も通じて法は一乗なり、方便無きが故に無分別法なり、十界の衆生は品品に異りと雖も実相の理(ことわり)は一なるが故に無分別なり、百界千如・三千世間の法門殊なりと雖も十界互具するが故に無分別なり。夢と寤と虚と実と各別異(おのおのべつい)なりと雖も一心の中の法なるが故に無分別なり。

 過去と未来と現在とは三なりと雖も一念の心中の理なれば無分別なり、一切経の語は夢中の語とは、譬えば扇と樹との如し法華経の寤の心を顕す言(ことば)とは譬えば月と風との如し、故に本覚の寤の心の月輪の光は無明の闇を照し実相般若の智慧の風は妄想の塵を払う故に夢の語の扇と樹とを以て寤の心の月と風とを知らしむ是の故に夢の余波(なごり)を散じて寤の本心に帰せしむるなり、故に止観に云く「月・重山(じゅうざん)に隠るれば扇を挙げて之に類し風大虚(たいこ)に息(や)みぬれば樹を動かして之を訓ゆるが如し」文、弘決に云く「真常性(しんじょうしょう)の月煩悩の山に隠る煩悩一に非ず故に名けて重と為す円音教(えんのんぎょう)の風は化を息めて寂に帰す寂理無礙なること猶大虚の如し四依の弘教は扇と樹との如し乃至月と風とを知らしむるなり已上、夢中の煩悩の雲・重畳せること山の如く其の数八万四千の塵労にて心性本覚の月輪を隠す扇と樹との如くなる経論の文字言語の教を以て月と風との如くなる本覚の理を覚知せしむる聖教なり故に文と語とは扇と樹との如し」文、上釈は一往の釈とて実義に非ざるなり月の如くなる妙法の心性の月輪と風の如くなる我が心の般若の慧解とを訓え知らしむるを妙法蓮華経と名く、故に釈籤(しゃくせん)に云く「声色(しょうしき)の近名(ごんみょう)を尋ねて無相の極理に至る」と已上。

 声色の近名とは扇と樹との如くなる夢中の一切経論の言説なり。無相の極理とは月と風との如くなる、寤の我が身の心性の寂光の極楽なり。
 此の極楽とは十方法界の正報の有情と十方法界の依報の国土と和合して、一体三身即一なり、四土不二にして法身の一仏なり。十界を身と為すは法身(ほっしん)なり、十界を心と為すは報身なり、十界を形と為すは応身なり。
 十界の外に仏無し仏の外に十界無くして依正不二(えしょうふに)なり、身土不二なり、一仏の身体なるを以て寂光土と云う。是の故に無相の極理とは云うなり。

 生滅無常の相を離れたるが故に無相と云うなり法性(ほっしょう)の淵底(えんでい)・玄宗の極地なり故に極理と云う、此の無相の極理なる寂光の極楽は一切有情の心性の中に有つて清浄無漏(むろ)なり之を名けて妙法の心蓮台とは云うなり、是の故に心外無別法と云う、此れを一切法は皆是仏法なりと通達解了すとは云うなり。

 生と死と二つの理は生死の夢の理なり妄想なり顛倒なり本覚の寤を以て我が心性を糾せば生ず可き始めも無きが故に死す可き終りも無し既に生死を離れたる心法に非ずや、劫火にも焼けず水災にも朽ちず剣刀にも切られず弓箭にも射られず芥子の中に入るれども芥子も広からず心法も縮まらず虚空の中に満つれども虚空も広からず心法も狭からず善に背くを悪と云い悪に背くを善と云う、故に心の外に善無く悪無し此の善と悪とを離るるを無記と云うなり、善悪無記・此の外には心無く心の外には法無きなり故に善悪も浄穢も凡夫・聖人も天地も大小も東西も南北も四維も上下も言語道断し心行所滅す、心に分別して思い言い顕す言語なれば心の外には分別も無分別も無し、言(ことば)と云うは心の思いを響かして声を顕すを云うなり凡夫は我が心に迷うて知らず覚らざるなり、仏は之を悟り顕わして神通と名くるなり神通とは神(たましい)の一切の法に通じて礙(さわり)無きなり。

 此の自在の神通は一切の有情の心にて有るなり、故に狐狸も分分に通を現ずること皆心の神の分分の悟なり、此の心の一法より国土世間も出来する事なり、一代聖教とは此の事を説きたるなり此れを八万四千の法蔵とは云うなり是れ皆悉く一人の身中の法門にて有るなり、然れば八万四千の法蔵は我身一人の日記文書なり、此の八万法蔵を我が心中に孕み持ち懐き持ちたり我が身中の心を以て、仏と法と浄土とを我が身より外に思い願い求むるを迷いとは云うなり此の心が善悪の縁に値うて善悪の法をば造り出せるなり、

華厳経に云く「心は工(たくみ)なる画師(えし)の種種の五陰を造るが如く一切世間の中に法として造らざること無し心の如く仏も亦爾なり仏の如く衆生も然なり三界唯一心なり心の外に別の法無し心仏及び衆生・是の三差別無し」已上、無量義経に云く「無相・不相の一法より無量義を出生す」已上、無相・不相の一法とは一切衆生の一念の心是なり、文句に釈して云く「生滅無常の相無きが故に無相と云うなり二乗の有余・無余の二つの涅槃の相を離るが故に不相と云うなり」云云、心の不思議を以て経論の詮要と為すなり、此の心を悟り知るを名けて如来と云う之を悟り知つて後は十界は我が身なり我が心なり我が形なり本覚の如来は我が身心なるが故なり之を知らざる時を名けて無明と為す無明は明かなること無しと読むなり、我が心の有様を明かに覚らざるなり、之を悟り知る時を名けて法性と云う、故に無明と法性とは一心の異名なり、名と言とは二なりと雖も心は只一つ心なり斯れに由つて無明をば断ず可からざるなり夢の心の無明なるを断ぜば寤の心を失う可きが故に総じて円教の意は一毫の惑をも断ぜず故に一切の法は皆是れ仏法なりと云うなり、法華経に云く「如是相一切衆生の相好本覚の応身如来・如是性一切衆生の心性本覚の報身如来・如是体一切衆生の身体本覚の法身如来」此の三如是より後の七如是・出生して合して十如是と成れるなり、此の十如是は十法界なり、此の十法界は一人の心より出で八万四千の法門と成るなり、一人を手本として一切衆生平等なること是くの如し、三世の諸仏の総勘文にして御判慥(たし)かに印(おし)たる正本の文書なり仏の御判とは実相の一印なり印とは判の異名なり、余の一切の経には実相の印無ければ正本の文書に非ず全く実の仏無し実の仏無きが故に夢中の文書なり浄土に無きが故なり、十法界は十なれども十如是は一なり譬えば水中の月は無量なりと雖も虚空の月は一なるが如し、九法界の十如是は夢中の十如是なるが故に水中の月の如し仏法界の十如是は本覚の寤の十如是なれば虚空の月の如し、是の故に仏界の一つの十如是顕れぬれば九法界の十如是の水中の月の如きも一も闕減(けつげん)無く同時に皆顕れて体と用(ゆう)と一具にして一体の仏と成る、十法界を互に具足し平等なる十界の衆生なれば虚空の本月も水中の末月も一人の身中に具足して闕くること無し、故に十如是は本末究竟(くきょう)して等しく差別無し、本とは衆生の十如是なり末とは諸仏の十如是なり諸仏は衆生の一念の心より顕れ給えば衆生は是れ本なり諸仏は是れ末なり、然るを経に云く「今此の三界は皆是我が有なり其の中の衆生は悉く是吾が子なり」と已上、

仏成道の後に化他の為の故に迹の成道を唱えて生死の夢中にして本覚の寤を説き給うなり、智慧を父に譬え愚癡を子に譬えて是くの如く説き給えるなり、衆生は本覚の十如是なりと雖も一念の無明眠りの如く心を覆うて生死の夢に入つて本覚の理を忘れ髪筋(かみすじ)を切る程に過去・現在・未来の三世の虚夢を見るなり、仏は寤の人の如くなれば生死の夢に入つて衆生を驚かし給える智慧は夢の中にて父母の如く夢の中なる我等は子息の如くなり、此の道理を以て悉是吾子と言い給うなり、此の理を思い解けば諸仏と我等とは本の故にも父子なり末の故にも父子なり父子の天性(てんせい)は本末是れ同じ、斯れに由つて己心と仏心とは異ならずと観ずるが故に生死の夢を覚まして本覚の寤に還えるを即身成仏と云うなり、即身成仏は今我が身の上の天性・地体なり煩(わずらい)も無く障(さわ)りも無き衆生の運命なり果報なり冥加(みょうが)なり、夫れ以(おもんみ)れば夢の時の心を迷いに譬え寤の時の心を悟りに譬う之を以て一代聖教を覚悟するに跡形も無き虚夢を見て心を苦しめ汗水と成つて驚きぬれば我身も家も臥所(ふしど)も一所にて異らず夢の虚と寤の実との二事を目にも見・心にも思えども所は只一所なり身も只一身にて二の虚(こ)と実との事有り之を以て知んぬ可し、九界の生死の夢見る我が心も仏界常住の寤の心も異ならず九界生死の夢見る所が仏界常住の寤の所にて変らず心法も替らず在所も差わざれども夢は皆虚事なり寤は皆実事なり止観に云く「昔荘周と云うもの有り夢に胡蝶と成つて一百年を経たり苦は多く楽は少く汗水と成つて驚きぬれば胡蝶にも成らず百年をも経ず苦も無く楽も無く皆虚事なり皆妄想なり」已上取意、弘決に云く「無明は夢の蝶の如く三千は百年の如し一念実無きは猶蝶に非ざるが如く三千も亦無きこと年(とし)を積むに非るが如し」已上、此の釈は即身成仏の証拠なり夢に蝶と成る時も荘周は異ならず寤に蝶と成らずと思う時も別の荘周無し、我が身を生死の凡夫なりと思う時は夢に蝶と成るが如く僻目・僻思なり、我が身は本覚の如来なりと思う時は本(もと)の荘周なるが如し即身成仏なり、蝶の身を以て成仏すと云うに非ざるなり蝶と思うは虚事なれば成仏の言は無し沙汰の外の事なり、無明は夢の蝶の如しと判ずれば我等が僻思は猶昨日の夢の如く性体無き妄想なり誰の人か虚夢の生死を信受して疑を常住涅槃の仏性に生ぜんや、止観に云く「無明の癡惑本より是れ法性なり癡迷(ちめい)を以ての故に法性(ほっしょう)変じて無明と作り諸の顛倒の善・不善等を起す寒来りて水を結べば変じて堅冰(けんぴょう)と作るが如く・又眠来りて心を変ずれば種種の夢有るが如し今当に諸の顛倒は即ち是法性なり一ならず異ならずと体すべし、顛倒起滅すること旋火輪の如しと雖も顛倒の起滅を信ぜずして唯此の心・但是れ法性なりと信ず、起は是れ法性の起、滅は是れ法性の滅なり其れを体するに実には起滅せざるを妄りに起滅すと謂えり只妄想を指すに悉く是れ法性なり、法性を以て法性に繋け法性を以て法性を念ず常に是れ法性なり法性ならざる時無し」已上

是くの如く法性ならざる時の隙(ひま)も無き理の法性に夢の蝶の如く無明に於て実有(じつう)の思を生じて之に迷うなり、止観の九に云く「譬えば眠の法・心を覆うて一念の中に無量世の事を夢みるが如し乃至寂滅真如に何の次位か有らん、乃至一切衆生即大涅槃なり復滅す可からず何の次位・高下・大小有らんや、不生不生(ふしょうぶしょう)にして不可説なれども因縁有るが故に亦説くことを得可し十因縁の法・生の為に因と作(な)る虚空に画き方便して樹を種(うゆ)るが如し一切の位を説くのみ」已上、十法界の依報・正報は法身の仏・一体三身の徳なりと知つて一切の法は皆是れ仏法なりと通達し解了する是を名字即と為す名字即の位より即身成仏す故に円頓の教には次位の次第無し・故に玄義に云く「末代の学者多く経論の方便の断伏を執して諍闘す水の性の冷かなるが如きも飲まずんば安んぞ知らん」已上、天台の判に云く「次位の綱目は仁王・瓔珞に依り断伏の高下は大品・智論に依る」已上、仁王・瓔珞(ようらく)・大品・大智度論是の経論は皆法華已前の八教の経論なり、権教の行は無量劫を経て昇進する次位なれば位の次第を説けり今法華は八教に超えたる円なれば速疾頓成にして心と仏と衆生と此の三は我が一念の心中に摂めて心の外に無しと観ずれば下根の行者すら尚一生の中に妙覚の位に入る・一と多と相即すれば一位に一切の位皆是れ具足せり故に一生に入るなり、下根すら是くの如し況や中根の者をや何に況や上根をや実相の外に更に別の法無し実相には次第無きが故に位無し。

総じて一代の聖教は一人の法なれば我が身の本体を能く能く知る可し之を悟るを仏と云い之に迷うは衆生なり此れは華厳経の文の意なり、弘決の六に云く「此の身の中に具(つぶ)さに天地に倣(なら)うことを知る、頭の円(まど)かなるは天に象(かたど)り、足の方なるは地に象ると知り、身の内の空種(うつろ)なるは即ち是れ虚空なり、腹の温かなるは春夏に法(のっ)とり、背の剛きは秋冬に法とり、四体は四時に法とり、大節の十二は十二月に法とり、小節の三百六十は三百六十日に法とり、鼻の息の出入は山沢渓谷(さんたくけいこく)の中の風に法とり、口の息の出入は虚空の中の風に法とり、眼は日月に法とり、開閉は昼夜に法とり、髪は星辰に法とり眉は北斗に法とり、脈は江河に法とり、骨は玉石に法とり、皮肉は地土に法とり、毛は叢林(そうりん)に法とり、五臓は天に在つては五星に法とり、地に在つては五岳に法とり、陰・陽(おん・よう)に在つては五行に法とり、世に在つては五常に法とり、内に在つては五神に法とり、行を修するには五徳に法とり、罪を治むるには五刑に法とる。

謂く墨(ぼく)・劓(ぎ)・剕(ひ)・宮(きゅう)・大辟(たいへき)此の五刑は人を様様に之を傷ましむ其の数三千の罰有り此を五刑と云う主領(しゅりょう)には五官と為す五官は下の第八の巻に博物誌を引くが如し謂く苟萠(こうぼう)等なり、天に昇つては五雲と曰い化して五竜と為る、心を朱雀(すざく)と為し腎(じん)を玄武と為し肝を青竜と為し肺を白虎(びゃっこ)と為し脾(ひ)を勾陳(こうちん)と為す」又云く「五音・五明・六藝(りくげい)・皆此れより起る亦復当に内治の法を識るべし覚心(かくしん)内に大王と為つては百重の内に居り出でては則ち五官に侍衛(じえい)せ為(ら)る、肺をば司馬と為し肝をば司徒と為し脾をば司空と為し四支をば民子(みんし)と為し、左をば司命と為し右をば司録と為し人命を主司(しゅし)す、乃至臍(ほぞ)をば太一君(たいいっくん)等と為すと禅門の中に広く其の相を明す」。

已上、人身の本体委(くわし)く検(けん)すれば是くの如し、然るに此の金剛不壊(ふえ)の身を以て生滅無常の身なりと思う僻思(ひがおもい)は譬えば荘周が夢の蝶の如しと釈し給えるなり、五行とは地水火風空なり五大種とも五薀(おん)とも五戒とも五常とも五方とも五智とも五時とも云う、只一物・経経の異説なり内典・外典・名目の異名なり、今経に之を開して一切衆生の心中の五仏性・五智の如来の種子と説けり是則ち妙法蓮華経の五字なり、此の五字を以て人身の体を造るなり本有常住なり本覚の如来なり是を十如是と云う此を唯仏与仏・乃能究尽と云う、不退の菩薩と極果の二乗と少分(すこし)も知らざる法門なり然るを円頓の凡夫は初心より之を知る故に即身成仏するなり金剛不壊(ふえ)の体なり、是を以て明かに知んぬ可し天崩(くず)れば我が身も崩る可し地裂けば我が身も裂く可し地水火風滅亡せば我が身も亦滅亡すべし、然るに此の五大種は過去・現在・未来の三世は替ると雖も五大種は替ること無し。

正法と像法と末法との三時殊なりと雖も五大種は是れ一にして盛衰転変無し、薬草喩品の疏には円教の理は大地なり円頓の教は空の雨なり亦三蔵教・通教・別教の三教は三草と二木となり、其の故は此の草木は円理の大地より生じて円教の空の雨に養われて五乗の草木は栄うれども天地に依つて我栄えたりと思知らざるに由るが故に三教の人天・二乗・菩薩をば草木に譬えて不知恩と説かれたり、故に草木の名を得(う)・今法華に始めて五乗の草木は円理の母と円教の父とを知るなり、一地の所生なれば母の恩を知るが如く一雨の所潤(しょにん)なれば父の恩を知るが如し、薬草喩品の意(こころ)・是くの如くなり。

 釈迦如来・五百塵点劫の当初(そのかみ)・凡夫にて御坐(おわ)せし時、我が身は地水火風空なりと知(しろ)しめして即座に悟を開き給いき、後に化他の為に世世・番番に出世・成道し在在・処処に八相作仏し王宮に誕生し樹下に成道して、始めて仏に成る様を衆生に見知らしめ、四十余年に方便教を儲け衆生を誘引す。
 其の後方便の諸の経教を捨てて正直の妙法蓮華経の五智の如来の種子の理を説き顕して、其の中に四十二年の方便の諸経を丸(まろ)かし納れて一仏乗と丸(がん)し人一(にんいち)の法と名く一人が上の法なり。
 多人の綺(いろ)えざる正しき文書を造つて慥かな御判の印あり、三世諸仏の手継(てつ)ぎの文書(もんじょ)を釈迦仏より相伝せられし時に、三千三百万億那由佗の国土の上の虚空の中に満ち塞(ふさ)がれる若干(そこばく)の菩薩達の頂を摩(な)で尽して時を指して、末法近来(このごろ)の我等衆生の為に、慥(たし)かに此の由を説き聞かせて仏の譲状(ゆずりじょう)を以て末代の衆生に慥かに授与す可しと慇懃(おんごん)に三度まで同じ御語に説き給いしかば、若干の菩薩達・各数を尽して身を曲げ頭を低(た)れ三度まで同じ言に各我も劣らじと事請(ことうけ)を申し給いしかば、仏・心安く思食して本覚の都に還えり給う。
 三世の諸仏の説法の儀式・作法には、只同じ御言に時を指したる末代の譲状なれば、只一向に後五百歳を指して此の妙法蓮華経を以て成仏す可き時なりと、譲状の面に載せられたる手継(てつ)ぎ証文なり。





by johsei1129 | 2019-11-16 14:50 | 血脈・相伝・講義 | Trackback | Comments(0)
2019年 11月 16日

人の心を貫く妙法蓮華経は宇宙に遍満し一体であると明した【三世諸仏総勘文教相廃立】一

【三世諸仏総勘文教相廃立(さんぜしょぶつそうかんもんきょうそうはいりゅう】
■出筆時期:弘安2年10月(1279)58歳御作 門下の弟子一同にあてられたと思われる。
■出筆場所:身延山中 草庵
■出筆の経緯:
本抄で大聖人は「我が心の妙法蓮華経の一乗は十方の浄土に周編して闕(か)くること無し、十方の浄土の依報・正報の功徳荘厳は我が心の中に有つて片時も離るること無き三身即一の本覚の如来にて是の外には法無し」と述べ、人の心を貫く妙法蓮華経は、人を取り巻く浄土(宇宙)に遍満し心と一体であることを明かし、さらに「此の心の一法より国土世間も出来する事なり、一代聖教とは此の事を説きたるなり。此れを八万四千の法蔵とは云うなり是れ皆悉く一人の身中の法門にて有るなり、然れば八万四千の法蔵は我身一人の日記文書なり」と解き明かし、八万四千法蔵と膨大な釈尊の一代聖教はつまるところ、一人の心を説き明かしている」と明言している。
■ご真筆: 現存していない。

[三世諸仏総勘文教相廃立 本文] その一

                          弘安二年十月 五十八歳御作 日蓮之を撰す

 夫れ一代聖教とは総(す)べて五十年の説教なり是を一切経とは言うなり、此れを分ちて二と為す・一には化他・二には自行なり、一には化他の経とは法華経より前の四十二年の間説き給える諸の経教なり此れをば権教(ごんきょう)と云い亦は方便と名く、此れは四教の中には三蔵教・通教・別教の三教なり・五時の中には華厳・阿含・方等・般若なり法華より前の四時の経教なり、又十界の中には前の九法界なり又夢と寤(うつつ)との中には夢中の善悪なり又夢をば権と云い寤をば実と云うなり、是の故に夢は仮に有つて体性無し故に名けて権と云うなり、寤は常住にして不変の心の体なるが故に此れを名けて実と為す、故に四十二年の諸の経教は生死(しょうじ)の夢の中の善悪の事を説く故に権教と言う夢中の衆生を誘引し驚覚して法華経の寤と成さんと思食(おぼしめ)しての支度方便の経教なり故に権教と言う、斯れに由つて文字の読みを糾して心得可きなり、故に権をば権(かり)と読む、権なる事の手本には夢を以て本と為す又実をば実(まこと)と読む実事の手本は寤(うつつ)なり、故に生死の夢は権にして性体無ければ権なる事の手本なり故に妄想(もうぞう)と云う、本覚の寤は実にして生滅を離れたる心なれば真実の手本なり故に実相と云う、是を以て権実の二字を糾して一代聖教の化他の権と自行の実との差別を知る可きなり、故に四教の中には前の三教と五時の中には前の四時と十法界の中には前の九法界は同じく皆夢中の善悪の事を説くなり故に権教と云う、此の教相をば無量義経に四十余年未顕真実と説き給う已上、未顕真実の諸経は夢中の権教なり故に釈籤(しゃくせん)に云く「性(しょう)・殊なること無しと雖も必ず幻(げん)に藉(よ)りて幻の機と幻の感と幻の応と幻の赴(ふ)とを発(おこ)す・能応と所化(しょけ)と並びに権実に非ず」已上、此れ皆夢幻の中の方便の教なり性雖無殊(しょうすいむしゅ)等とは夢見る心性と寤の時の心性とは只一の心性にして総て異ること無しと雖も夢の中の虚事(こじ)と寤の時の実事と二事一の心法なるを以て見ると思うも我が心なりと云う釈なり、故に止観に云く「前の三教の四弘・能も所も泯(みん)す」已上、四弘とは衆生の無辺なるを度せんと誓願し・煩悩の無辺なるを断ぜんと誓願し・法門の無尽なるを知らんと誓願し・無上菩提を証せんと誓願す此を四弘と云う、能とは如来なり所とは衆生なり此の四弘は能の仏も所の衆生も前三教は皆夢中の是非なりと釈し給えるなり、然れば法華以前の四十二年の間の説教たる諸経は未顕真実の権教なり方便なり、法華に取寄る可き方便なるが故に真実には非ず、此れは仏自ら四十二年の間説き集め給いて後に、今法華経を説かんと欲して先ず序分の開経の無量義経の時・仏自ら勘文し給える教相なれば人の語も入る可からず不審をも生(な)す可からず、故に玄義に云く「九界を権と為し仏界を実と為す」已上、九法界の権は四十二年の説教なり仏法界の実は八箇年の説・法華経是なり、故に法華経をば仏乗と云う九界の生死は夢の理なれば権教と云い仏界の常住は寤の理なれば実教と云う、故に五十年の説教・一代の聖教・一切の諸経は化他の四十二年の権教と自行の八箇年の実教と合して五十年なれば権と実との二の文字を以て鏡に懸けて陰(くもり)無し。

 故に三蔵教を修行すること三僧祇・百大劫を歴て終りに仏に成らんと思えば我が身より火を出して灰身(けしん)入滅とて灰と成つて失せるなり、通教を修行すること七阿僧祇・百大劫を満てて仏に成らんと思えば前の如く同様に灰身入滅して跡形も無く失せぬるなり、別教を修行すること二十二大阿僧祇・百千万劫を尽くして終りに仏に成りぬと思えば生死の夢の中の権教の成仏なれば本覚の寤の法華経の時には別教には実仏無し夢中の果なり故に別教の教道には実の仏無しと云うなり、別教の証道には初地に始めて一分の無明を断じて一分の中道の理を顕し始めて之を見れば別教は隔歴不融(きゃくりゃくふゆう)の教と知つて円教に移り入つて円人と成り已つて別教には留まらざるなり上中下三根の不同有るが故に初地・二地・三地・乃至・等覚までも円人と成る故に別教の面(おもて)に仏無きなり、故に有教無人と云うなり、故に守護国界章に云く「有為の報仏は夢中の権果前三教の修行の仏、無作(むさ)の三身は覚前の実仏なり後の円教の観心の仏」又云く「権教の三身は未だ無常を免れず前三教の修行の仏実教の三身は倶体倶用なり後の円教の観心の仏」此の釈を能く能く意得(こころう)可きなり、権教は難行苦行して適(たまたま)仏に成りぬと思えば夢中の権の仏なれば本覚の寤の時には実仏無きなり、極果の仏無ければ有教無人なり況や教法実ならんや之を取つて修行せんは聖教に迷えるなり、此の前三教には仏に成らざる証拠を説き置き給いて末代の衆生に慧解(えげ)を開かしむるなり九界の衆生は一念の無明の眠(ねむり)の中に於て生死の夢に溺れて本覚の寤を忘れ夢の是非に執して冥(くら)きより冥きに入る、是の故に如来は我等が生死の夢の中に入つて顛倒の衆生に同じて夢中の語を以て夢中の衆生を誘(いざな)い夢中の善悪の差別の事を説いて漸漸に誘引し給うに、夢中の善悪の事重畳して様様に無量・無辺なれば先ず善事に付いて上中下を立つ三乗の法是なり、三三九品なり、此くの如く説き已つて後に又上上品の根本善を立て上中下・三三九品の善と云う、皆悉く九界生死の夢の中の善悪の是非なり今是をば総じて邪見外道と為す捜要記の意、此の上に又上上品の善心は本覚の寤の理なれば此れを善の本(もと)と云うと説き聞かせ給し時に夢中の善悪の悟の力を以ての故に寤の本心の実相の理を始めて聞知せられし事なり、是の時に仏説いて言く夢と寤との二は虚事と実事との二の事なれども心法は只一なり、眠の縁に値(あ)いぬれば夢なり眠去りぬれば寤の心なり心法は只一なりと開会せらるべき下地を造り置かれし方便なり此れは別教の中道の理是の故に未だ十界互具・円融相即を顕さざれば成仏の人無し故に三蔵教より別教に至るまで四十二年の間の八教は皆悉く方便・夢中の善悪なり、只暫く之を用いて衆生を誘引し給う支度方便なり此の権教の中にも分分に皆悉く方便と真実と有りて権実の法闕(か)けざるなり、四教一一に各四門有つて差別有ること無し語(ことば)も只同じ語なり文字も異ること無し斯(こ)れに由つて語に迷いて権実の差別を分別せざる時を仏法滅すと云う是の方便の教は唯穢土(えど)に有つて総じて浄土には無きなり法華経に云く「十方の仏土の中には唯一乗の法のみ有つて二無く亦三も無し仏の方便の説をば除く」已上、故に知んぬ十方の仏土に無き方便の教を取つて往生の行と為し十方の浄土に有る一乗の法をば之を嫌いて取らずして成仏す可き道理有る可しや否や、一代の教主釈迦如来・一切経を説き勘文し給いて言く三世の諸仏同様に一つ語(ことば)一つ心に勘文し給える説法の儀式なれば我も是くの如く一言も違わざる説教の次第なり云云、方便品に云く「三世の諸仏の説法の儀式の如く我も今亦是くの如く無分別の法を説く」已上、無分別の法とは一乗の妙法なり善悪を簡(えら)ぶこと無く草木・樹林(じゅりん)・山河・大地にも一微塵の中にも互に各十法界の法を具足す我が心の妙法蓮華経の一乗は十方の浄土に周編して闕くること無し十方の浄土の依報・正報の功徳荘厳は我が心の中に有つて片時も離るること無き三身即一の本覚の如来にて是の外には法無し此の一法計り十方の浄土に有りて余法有ること無し故に無分別法と云う是なり、此の一乗妙法の行をば取らずして全く浄土には無き方便の教を取つて成仏の行と為さんは迷いの中の迷いなり、我仏に成りて後に穢土に立ち還りて穢土の衆生を仏法界に入らしめんが為に次第に誘引して方便の教を説くを化他の教とは云うなり、故に権教と言い又方便とも云う化他の法門の有様大体略を存して斯くの如し。

その二に続く

by johsei1129 | 2019-11-16 12:23 | 血脈・相伝・講義 | Trackback | Comments(0)