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日蓮大聖人『御書』解説

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2019年 11月 13日 ( 6 )


2019年 11月 13日

法華経は、草木が大地を母とし華さき菓なるが如く<略>一切衆生を養ひ給ふと断じた【曾谷殿御返事】

【曾谷殿御返事(輪陀王御書)】
■出筆時期:弘安二年(西暦1279年) 八月十一日 五十八歳 御作。
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:本抄は、曾谷入道が焼米二俵をご供養されたことへの返書となっております。大聖人は本抄で、法華経と法華経の行者と俗信徒である檀那の関係を「法華経は燈(ともしび)の如く行者は油の如し、檀那は油の如く行者は燈の如し」と記し、「三千大千世界(宇宙)にても買うことができない程大切な命」を継ぐ米を供養した曾谷入道の志を、たたえておられます。
さらに「法華経は何故ぞ諸経に勝れて一切衆生の為に用いる事なるぞ」と問いかけ「譬えば草木は大地を母とし虚空を父とし甘雨を食とし風を魂とし日月をめのと(乳母)として生長し華さき菓なるが如く、一切衆生は実相を大地とし無相を虚空とし一乗を甘雨とし已今当第一の言を大風とし、定慧力荘厳を日月として妙覚の功徳を生長
し、大慈大悲の華さかせ安楽仏果の菓(このみ)なつて一切衆生を養ひ給ふ」と断じ、法華経へのさらなる信仰に励むよう諭されております。
 また文末では、この年の三月の仏事に曾谷殿が多大な鵞目(銭)の供養されたおかげで、百余人の弟子達が「法華経をよましめ談義して候ぞ」と記し、この事は「末代悪世には一えんぶだい(全世界)第一の仏事にてこそ候へ<中略>釈尊は孝養の人を世尊となづけ給へり貴辺あに世尊にあらずや」とまで賛嘆されておられます。
■ご真筆:現存していない。

[曾谷殿御返事(輪陀王御書) 本文]
焼米二俵給畢(たまいおわん)ぬ、米は少(すこし)と思食(おぼしめ)し候へども人の寿命を継ぐ者にて候、命をば三千大千世界にても買はぬ物にて候と仏は説かせ給へり。米は命を継ぐ物なり譬えば米は油の如く命は燈(ともしび)の如し、法華経は燈の如く行者は油の如し檀那は油の如く行者は燈の如し、一切の百味の中には乳味と申して牛の乳(ちち)第一なり、涅槃経の七に云く「猶諸味の中に乳最も為(こ)れ第一なるが如し」云云。乳味をせんずれば酪味となる酪味をせん(煎)ずれば乃至醍醐味となる醍醐味は五味の中の第一なり、法門を以て五味にたとへば儒家の三千・外道の十八大経は衆味の如し。

阿含経は醍醐味なり、阿含経は乳味の如く観経等の一切の方等部の経は酪味の如し、一切の般若経は生蘇味・華厳経は熟蘇味・無量義経と法華経と涅槃経とは醍醐のごとし又涅槃経は醍醐のごとし、法華経は五味の主(しゅ)の如し。

 妙楽大師云く「若し教旨を論ずれば法華は唯開権顕遠を以つて教の正主(しょうしゅ)と為す独り妙の名を得る意此に在り」云云、又云く「故に知んぬ法華は為(こ)れ醍醐の正主」等云云、此の釈は正(まさし)く法華経は五味の中にはあらず此の釈の心は五味は寿命をやしなふ寿命は五味の主なり、天台宗には二(ふたつ)の意あり一には華厳・方等・般若・涅槃・法華は同じく醍醐味なり、此の釈の心は爾前と法華とを相似せるににたり世間の学者等此の筋のみを知りて法華経は五味の主と申す法門に迷惑せるゆへに諸宗にたぼらかさるるなり、開未開・異(こと)なれども同じく円なりと云云是は迹門の心なり、諸経は五味・法華経は五味の主と申す法門は本門の法門なり、此の法門は天台・妙楽粗書かせ給い候へども分明ならざる間・学者の存知すくなし、此の釈に若論教旨とかかれて候は法華経の題目を教旨とはかかれて候、開権と申すは五字の中の華の一字なり顕遠とかかれて候は五字の中の蓮の一字なり独得妙名とかかれて候は妙の一字なり。意在於此(いざいおし)とかかれて候は法華経を一代の意と申すは題目なりとかかれて候ぞ、此れを以て知んぬべし。

法華経の題目は一切経の神(たましい)・一切経の眼目なり、大日経等の一切経をば法華経にてこそ開眼供養すべき処に大日経等を以て一切の木画(もくえ)の仏を開眼し候へば日本国の一切の寺塔の仏像等・形は仏に似れども心は仏にあらず九界の衆生の心なり、愚癡(ぐち)の者を智者とすること是より始まれり、国のついへ(費)のみ入て祈とならず還て仏変じて魔となり鬼となり国主乃至万民をわづらはす是なり。今法華経の行者と檀那との出来する故に百獣の師子王をいとひ草木の寒風をおそるるが如し。

是は且くをく、法華経は何故ぞ諸経に勝れて一切衆生の為に用いる事なるぞと申すに、譬えば草木は大地を母とし虚空を父とし甘雨を食とし風を魂とし日月をめのと(乳母)として生長し華さき菓(このみ)なるが如く一切衆生は実相を大地とし無相を虚空とし一乗を甘雨とし已今当第一の言(ことば)を大風とし、定慧力(じょうえりき)荘厳を日月として妙覚の功徳を生長し大慈大悲の華さかせ安楽仏果の菓(このみ)なつて一切衆生を養ひ給ふ。

一切衆生又食するによりて寿命を持つ、食に多数あり土を食し水を食し火を食し風を食する衆生もあり、求羅(ぐら)と申す虫は風を食す・うぐろもち(鼹鼠)と申す虫は土を食す、人の皮肉・骨髄等を食する鬼神もあり、尿糞等を食する鬼神もあり、寿命を食する鬼神もあり、声を食する鬼神もあり、石を食するいを(魚)くろがね(鉄)を食するばく(獏)もあり、地神・天神・竜神・日月・帝釈・大梵王・二乗・菩薩・仏は仏法をなめて身とし魂とし給ふ、例せば乃往(むかし)過去に輪陀王と申す大王ましましき一閻浮提の主なり賢王なり、此の王はなに物をか供御(とも)とし給うと申せば白馬の鳴声(いななくこえ)をきこしめして身も生長し身心も安穏にしてよをたもち給う、れいせば蝦蟆(かえる)と申す虫の母のなく声を聞いて生長するがごとし、秋のはぎ(萩)のしか(鹿)の鳴くに華のさくがごとし、象牙草のいかづち(雷)の声にはらみ柘榴(じゃくろ)の石にあふて・さかうるがごとし、されば此の王・白馬を・をほくあつめて・かはせ給ふ、又此の白馬は白鳥をみてなく馬なれば、をほくの白鳥をあつめ給いしかば我が身の安穏なるのみならず百官・万乗もさかへ天下も風雨・時にしたがひ他国もかうべ(頭)をかたぶけて・すねん(数年)すごし給うにまつり事のさをい(相違)にやはむべりけん・又宿業によつて果報や尽きけん・千万の白鳥一時にうせしかば又無量の白馬もなく事やみぬ、大王は白馬の声をきかざりしゆへに華のしぼめるがごとく月のしよく(蝕)するがごとく、御身の色かはり力よはく六根もうもう(朦朦)としてぼ(耄)れたるがごとくありしかば、きさき(后)ももうもうしくならせ給い百官万乗も・いかんがせんとなげき、天もくもり地もふるひ大風かんぱち(旱颰)し・けかち(飢渇)やくびように人の死する事肉はつか(塚)骨はかはら(瓦)とみへしかば他国よりも・をそひ来れり、此の時大王いかんがせんと・なげき給いしほどに・せんする所は仏神にいのるには・しくべからず、此の国に・もとより外道をほく国国をふさげり、又仏法という物を・をほくあがめをきて国の大事とす、いづれにてもあれ白鳥をいだして白馬をなかせん法をあがむべし、まづ外道の法に・をほせつけて数日をこなはせけれども白鳥一疋もいでこず白馬もなく事なし、此の時外道のいのりを・とどめて仏教に・をほせつけられけり、其の時馬鳴(めみょう)菩薩と申す小僧一人あり・めしいだされければ此の僧の給はく国中に外道の邪法をとどめて仏法を弘通し給うべくば馬をなかせん事やすしといふ、勅宣に云くをほせのごとくなるべしと、其の時に馬鳴菩薩・三世十方の仏にきしやう(起請)し申せしかば・たちまちに白鳥出来せり、白馬は白鳥を見て一こへなきけり、大王・馬の声を一こへ・きこしめして眼を開き給い白鳥二ひき乃至百千いできたりければ百千の白馬一時に悦びなきけり、大王の御いろ・なをること日しよくの・ほん(本)にふく(復)するがごとし、身の力・心のはかり事・先先(さきざき)には百千万ばいこへたり、きさきも・よろこび大臣公卿いさみて万民もたな心をあはせ他国も・かうべをかたぶけたりとみへて候。

今のよ(世)も又是にたがうべからず、天神七代・地神五代・已上十二代は成劫のごとし・先世のかいりき(戒力)と福力とによつて今生のはげみなけれども国もおさまり人の寿命も長し、人王のよ(代)となりて二十九代があひだは先世のかいりきも・すこしよはく今生のまつり事もはかなかりしかば国にやうやく三災・七難をこりはじめたり、なを・かんど(漢土)より三皇五帝の世を・をさむべきふみ(文書)わたりしかば其をもつて神をあがめて国の災難をしづむ、人王第三十代欽明天王の世となりて国には先世のかいふく(戒福)うすく悪心がうじやうの物をほく出来て善心をろかに悪心はかしこし、外典のをしへ(教)はあさしつみ(罪)もをもきゆへに外典すてられ内典になりしなり、れいせばもりや(守屋)は日本の天神七代・地神五代が間の百八十神(ももやそがみ)をあがめたてまつりて仏教をひろめずして・もとの外典となさんといのりき。

聖徳太子は教主釈尊を御本尊として法華経・一切経をもんしよ(文書)として両方のせうぶ(勝負)ありしに・ついには神はまけ仏はかたせ給いて神国はじめて仏国となりぬ、天竺・漢土の例のごとし、今此三界・皆是我有の経文あらはれさせ給うべき序(ついで)なり、欽明より桓武にいたるまで二十よ代・二百六十余年が間・仏を大王とし神を臣として世ををさめ給いしに仏教はすぐれ神はをとりたりしかども未だよ(代)をさまる事なし。

いかなる事にやと・うたがはりし程に桓武の御宇に伝教大師と申す聖人出来して勘えて云く神はまけ仏はかたせ給いぬ、仏は大王・神は臣か(下)なれば上下あひついで・れいぎ(礼儀)ただしければ国中をさまるべしと・をもふに国のしづかならざる事ふしん(不審)なるゆへに一切経をかんがへて候へば道理にて候けるぞ、仏教に・をほきなるとがありけり、一切経の中に法華経と申す大王をはします、ついで華厳経・大品経・深密経・阿含経等はあるいは臣の位あるいはさふらい(侍)のくらい・あるいはたみ(民)の位なりけるを或は般若経は法華経にはすぐれたり三論宗・或は深密経は法華経にすぐれたり法相宗・或は華厳経は法華経にすぐれたり華厳宗・或は律宗は諸宗の母なりなんど申して一人として法華経の行者なし、世間に法華経を読誦するは還つてをこつ(笑)き・うしなうなり、「之に依つて天もいかり守護の善神も力よはし」云云、所謂「法華経を・ほむといえども返つて法華の心をころす」等云云、南都七大寺・十五大寺・日本国中の諸寺諸山の諸僧等・此のことばを・ききて・をほきにいかり天竺の大天・漢土の道士・我が国に出来せり所謂最澄と申す小法師是なり、せんする所は行きあはむずる処にてかしら(頭)をわれ・かた(肩)をきれ・をとせ・う(打)ての(詈)れと申せしかども桓武天皇と申す賢王たづね・あきらめて六宗はひが事なりけりとて初めてひへい山をこんりうして天台法華宗とさだめをかせ円頓の戒を建立し給うのみならず、七大寺・十五大寺の六宗の上に法華宗をそ(副)へをかる、せんする所・六宗を法華経の方便となされしなり、れいせば神の仏にまけて門(かど)まほりとなりしがごとし、日本国も又又かくのごとし法華最第一の経文初めて此の国に顕れ給い能竊為一人(のうせついいちにん)・説法華経の如来の使初めて此の国に入り給いぬ、桓武・平城・嵯峨の三代・二十余年が間は日本一州・皆法華経の行者なり、しかれば栴檀には伊蘭・釈尊には提婆のごとく伝教大師と同時に弘法大師と申す聖人・出現せり、漢土にわたりて大日経・真言宗をならい日本国にわたりて・ありしかども伝教大師の御存生の御時はいたう法華経に大日経すぐれたりといふ事はいはざりけるが、伝教大師去ぬる弘仁十三年六月四日にかくれさせ給いてのち・ひまをえたりとや・をもひけん、弘法大師去ぬる弘仁十四年正月十九日に真言第一・華厳第二・法華第三・法華経は戯論の法・無明の辺域・天台宗等は盗人なりなんど申す書(ふみ)どもをつくりて、嵯峨の皇帝(みかど)を申しかすめたてまつりて七宗に真言宗を申しくはえて七宗を方便とし真言宗は真実なりと申し立て畢んぬ。

其の後・日本一州の人ごとに真言宗になりし上・其の後又伝教大師の御弟子・慈覚と申す人・漢土にわたりて天台真言の二宗の奥義をきはめて帰朝す、此の人・金剛頂経・蘇悉地経の二部の疏をつくりて前唐院と申す寺を叡山に申し立て畢んぬ、此れには大日経第一・法華経第二・其の中に弘法のごとくなる過言(かごん)かずうべからず、せむぜむに・せうせう申し畢んぬ、智証大師又此の大師のあとをついで・をんじやう寺に弘通せり、たうじ(当時)、寺とて国のわざはい(禍)とみゆる寺是なり、叡山の三千人は慈覚・智証をはせずば真言すぐれたりと申すをば・もちいぬ人もありなん、円仁大師に一切の諸人くち(口)をふさがれ心をたぼらかされて・ことばをいだす人なし、王臣の御きえ(帰依)も又伝教・弘法にも超過してみへ候へば・えい山・七寺・日本一州・一同に法華経は大日経にをとりと云云、法華経の弘通の寺寺ごとに真言ひろまりて法華経のかしらとなれり、かくのごとくしてすでに四百余年になり候いぬ、やうやく此の邪見ぞうじやう(増上)して八十一乃至五の五王すでにうせぬ仏法うせしかば王法すでにつき畢んぬ。
あまつさへ禅宗と申す大邪法・念仏宗と申す小邪法・真言と申す大悪法・此の悪宗はな(鼻)をならべて一国にさかんなり、天照太神はたましい(魂)をうしなつて・うぢご(氏子)をまほらず八幡大菩薩は威力よはくして国を守護せず・けつくは他国の物とならむとす。

日蓮此のよしを見るゆへに仏法中怨・倶堕地獄等のせめをおそれて粗国主にしめせども、かれらが邪義にたぼらかされて信じ給う事なし還つて大怨敵となり給いぬ。法華経をうしなふ人・国中に充満せりと申せども人しる事なければただぐち(愚癡)のとがばかりにてある事今は又法華経の行者出来(しゅったい)せり日本国の人人癡(おろか)の上にいかりををこす邪法をあい(愛)し正法をにくむ、三毒がうじやうなる一国いかでか安穏なるべき。

壊劫(えこう)の時は大の三災をこる、いはゆる火災・水災・風災なり、又減劫の時は小の三災をこる、ゆはゆる飢渇・疫病・合戦なり。飢渇は大貪よりをこり・やくびやうは・ぐちよりをこり・合戦は瞋恚よりをこる。
今日本国の人人四十九億九万四千八百二十八人の男女人人ことなれども同じく一(ひとつ)の三毒なり、所謂南無妙法蓮華経を境としてをこれる三毒なれば人ごとに釈迦・多宝・十方の諸仏を一時にの(罵)りせ(責)め流しうしなうなり、是れ即ち小の三災の序(ついで)なり。しかるに日蓮が一るいいかなる過去の宿しう(習)にや法華経の題目のだんなとなり給うらん。是をもつてをぼしめせ今梵天・帝釈・日月・四天・天照太神・八幡大菩薩・日本国の三千一百三十二社の大小のじんぎは過去の輪陀王のごとし。白馬は日蓮なり・白鳥は我らが一門なり・白馬のなくは我等が南無妙法蓮華経のこえなり。此の声をきかせ給う梵天・帝釈・日月・四天等いかでか色をましひかりをさかんになし給はざるべき、いかでか我等を守護し給はざるべきと・つよづよと・をぼしめすべし。

 抑貴辺の去ぬる三月の御仏事に鵞目其の数有りしかば今年一百よ人の人を山中にやしなひて十二時の法華経をよましめ談義して候ぞ、此れらは末代悪世には一えんぶだい第一の仏事にてこそ候へ、いくそばくか過去の聖霊も・うれしくをぼすらん、釈尊は孝養の人を世尊となづけ給へり貴辺あに世尊にあらずや、故大進阿闍梨の事なげかしく候へども此れ又法華経の流布の出来すべきいんえん(因縁)にてや候らんとをぼしめすべし、事事命ながらへば其の時申すべし。

弘安二年己卯(つちのとう)八月十七日 日 蓮 花 押
曾谷入道殿御返事

by johsei1129 | 2019-11-13 22:39 | 曾谷入道 | Trackback | Comments(0)
2019年 11月 13日

法華経は草木を仏となし給う、いわうや心あらん人をや、と説いた【上野殿御返事】

【上野殿御返事】
■出筆時期:弘安二年(1279年)八月八日 五十八歳御作
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:南条時光(上野殿)が、使者を使わして銭、塩、芋、生姜を供養されたことを称える返書となっております。大聖人は文中で「ぜに又かくのごとし、漢土に銅山と申す山あり・彼の山よりいでて候ぜになれば・一文もみな三千里の海をわたりて来るものなり」と記し、当時日本の銅銭(宋銭)は中国から輸入していたことを示しておられます。
文末では「法華経は草木を仏となし給う、いわうや心あらん人をや、法華経は焼種の二乗を仏となし給う、いわうや生種の人をや、法華経は一闡提を仏となし給う、いわうや信ずるものをや」と記し法華経は草木、二乗(声聞・縁覚)、一闡提(仏法誹謗者)さえ仏に為す経であると諭されておられます。、
■ご真筆:現存しておりません。古写本:日興上人筆(富士大石寺蔵)。

[上野殿御返事 本文]

鵞目一貫・しほ一たわら・蹲鴟(いものかしら)一俵・はじかみ(薑)少少・使者(つかい)をもつて送り給び畢んぬ。

あつきには水を財(たから)とす・さむきには火を財とす・けかちには米を財とす、いくさには兵杖を財とす・海には船を財とす・山には馬をたからとす・武蔵下総に石を財とす、此の山中には・いえのいも(芋)・海のしほ(塩)を財とし候ぞ、竹の子・木の子等候へども・しほなければそのあぢわひつちのごとし、又金(こがね)と申すもの国王も財とし民も財とす、たとへば米のごとし・一切衆生のいのちなり。

ぜに又かくのごとし、漢土(もろこし)に銅山と申す山あり・彼の山よりいでて候ぜに(銭)なれば・一文もみな三千里の海をわたりて来るものなり、万人皆たま(玉)とおもへり、此れを法華経にまいらせさせ給う。

釈まなん(摩男)と申せし人のたな(掌)心には石変じて珠となる・金ぞく(粟)王は沙(いさご)を金となせり。
法華経は草木を仏となし給う・いわうや心あらん人をや、法華経は焼種の二乗を仏となし給う・いわうや生種の人をや、法華経は一闡提を仏となし給う・いわうや信ずるものをや、事事つくしがたく候、又又申すべし、
恐恐謹言。

八月八日              日 蓮花押
上野殿御返事

by johsei1129 | 2019-11-13 22:05 | 南条時光(上野殿) | Trackback | Comments(0)
2019年 11月 13日

大聖人が、法華経の御使いとして蒙古襲来への覚悟を弟子に示した書【蒙古事】

【蒙古事】
■出筆時期:弘安二年(1279年)八 月 六 日 五十八歳御作
■出筆場所:身延山中の草庵にて。
■出筆の経緯:本抄は従来「異体同心事」の後半部分として収録されておりましたが、二つの異なる御書が一つにまとめられたことが分かり、前半部分は「異体同心事」とし、後半の箇所は本書の「蒙古事」と名付けられております。
対告衆は、文中に弁阿闍梨日向上人の名が出てきており、また「さては各各としのころ・・・」という記載がありますので、信徒ではなく弟子に向けて著された書と推知致します。

内容も蒙古襲来の時期が迫って来たと記されるとともに、「我が国のほろびん事はあさましけれども、これだにもそら事になるならば・日本国の人人いよいよ法華経を謗して万人無間地獄に堕つべし」と、大胆に大聖人の本意を述べられておられることからも、弟子達に「蒙古襲来にあたって、法華経の御使いとしての覚悟」を明確に説いた手紙であると拝すことができます。
■ご真筆:現存しておりません。
[蒙古事 本文]  [英語版]

さては各各としのころ・いかんがとをぼしつる、もうこ(蒙古)の事すでにちかづきて候か。

我が国のほろ(亡)びん事はあさましけれども、これだにもそら(虚)事になるならば・日本国の人人いよいよ法華経を謗して万人無間地獄に堕つべし、

かれだにもつよ(強)るならば国はほろぶとも謗法はうすくなりなん。譬へば灸治(やいと)をしてやまいをいやし針治(はりたて)にて人をなをすがごとし、当時はなげくとも後は悦びなり。

日蓮は法華経の御使い、日本国の人人は大族王の一閻浮提の仏法を失いしがごとし、蒙古国は雪山(せっせん)の下王(げおう)のごとし天の御使として法華経の行者をあだむ人人を罰せらるるか。

又現身に改悔(かいげ)ををこしてあるならば、阿闍世王の仏に帰して白癩(びゃくらい)をや(治)め、四十年の寿(いのち)をのべ無根の信と申す位にのぼりて現身に無生忍をえたりしがごとし。恐恐謹言。

八 月 六 日               日 蓮 花 押

by johsei1129 | 2019-11-13 22:00 | 弟子・信徒その他への消息 | Trackback | Comments(0)
2019年 11月 13日

願くは此の功徳を以て普く一切に及ぼし我等と衆生と皆共に仏道を成ぜんと説いた【盂蘭盆御書】

【盂蘭盆御書】
■出筆時期:弘安二年(1279年)五十八歳御作
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:本抄は六老僧の一人蓮華阿闍梨日持の弟子で後に大聖人の直弟子となった治部房日位の祖母が、盂蘭盆にあたり白米・焼米・瓜(うり)・茄子(なすび)などを大聖人に供養したことへの返書となっております。

大聖人は本書で、釈尊の十大弟子の一人目連尊者が、地獄に落ちている亡き母を救うため釈尊の説法通り「七月十五日に十方の聖僧をあつめて百味をんじき(飲食)をととのへて」母のく(苦)をは救うべしと、「盂蘭盆」の謂われを記されるとともに、「目連尊者と申す人は法華経と申す経にて正直捨方便とて小乗の二百五十戒立ちどころになげすてて南無妙法蓮華経と申せしかばやがて仏になりて<中略>目連が色身仏になりしかば父母の身も又仏になりぬ」と、南無妙法蓮華経と唱えることが真の盂蘭盆供養であると諭されておられます。

さらに文末では「貴女は治部殿と申す孫を僧にてもち給へり、此僧は無戒なり無智なり二百五十戒一戒も持つことなし三千の威儀一も持たず、智慧は牛馬にるいし威儀は猿猴ににて候へども、あをぐところは釈迦仏・信ずる法は法華経なり<中略>父母・祖父・祖母・乃至七代の末までも・とぶらうべき僧なり、あわれ・いみじき御たからは・もたせ給いてをはします女人かな」と、法華経に帰依した僧を孫に持つことは七代の末まで弔うことになると励まされておられます。しかし残念ながら日興上人の御本尊分与帳には「一、駿河國四十九院の住治部房は、蓮華闍梨の弟子也。仍て日興之を申し与う、但し聖人御滅後に背き了ぬ」と記されており、大聖人御遷化後には日興上人に違背されたと思われます。
■ご真筆:京都市妙覚寺(全文)所蔵(重要文化財)。
願くは此の功徳を以て普く一切に及ぼし我等と衆生と皆共に仏道を成ぜんと説いた【盂蘭盆御書】_f0301354_2155273.jpg

[真筆(第六紙)本文:下記緑字箇所]

[盂蘭盆(うらぼん)御書 本文]

盂蘭盆と申し候事は仏の御弟子の中に目連尊者と申して、舎利弗にならびて智慧第一・神通第一と申して須弥山に日月のならび大王に左右の臣のごとくにをはせし人なり、此の人の父をば吉懺(きっせん)師子と申し母をば青提女(しょうだいにょ)と申す、其の母の慳貪(けんどん)の科(とが)によつて餓鬼道に堕ちて候しを目連尊者のすくい給うより事をこりて候、其の因縁は母は餓鬼道に堕ちてなげき候けれども・目連は凡夫なれば知ることなし、

幼少にして外道の家に入り四ゐ(韋)陀・十八大経と申す外道の一切経をならいつくせども・いまだ其の母の生所をしらず、其の後十三のとし舎利弗とともに釈迦仏にまいりて御弟子となり、見惑をだん(断)じて初果の聖人となり修惑を断じて阿羅漢となりて三明をそなへ六通をへ(得)給へり、天眼をひらいて、三千大千世界を明鏡のかげ(影)のごとく御らむありしかば、大地をみとお(見透)し三悪道を見る事冰(こおり)の下に候魚を朝日にむかいて我等がとを(透)しみるがごとし、其の中に餓鬼道と申すところに我が母あり、の(飲)む事なし食うことなし、皮はきんてう(金鳥)をむしれるがごとく骨はまろき石をならべたるがごとし、頭はまり(鞠)のごとく頚はいと(糸)のごとし腹は大海のごとし、口をはり手を合せて物をこ(乞)へる形は・う(餓)へたるひる(蛭)の人のか(香)をかげるがごとし、先生(せんじょう)の子をみてな(泣)かんとするすがた・う(飢)へたるかたちたとへ(譬)を・とるに及ばず、いかんがかな(悲)しかりけん。

法勝寺の修(執)行舜観(俊寛)が・いわう(硫黄)の嶋にながされてはだかにてかみ(髪)くびつき(頸付)にうちをい・やせをとろへて海へん(辺)に・やすらいてもくづをとりてこし(腰)にまき魚を・一(ひとつ)みつけて右の手にとり口にかみける時、本つか(仕)いしわらわ(童)のたづねゆきて見し時と、目連尊者が母を見しといづれかをろ(疎)かなるべき、かれはいますこしかなしさわまさりけん。
目連尊者はあまりのかなしさに大神通をげんじ給ひ・はん(飯)をまいらせたりしかば、母よろこびて右の手にははんをにぎり左の手にては・はんをかくして口にをし入れ給いしかば、いかんが・したりけんはん(飯)変じて火となり・やがても(燃)へあがり、とうしび(燈心)をあつめて火をつけたるがごとくぱともへあがり、母の身のごこごことやけ候しを目連見給いて、あまりあわてさわぎ大神通を現じて大なる水をかけ候しかば、其の水たきぎ(薪)となりていよいよ母の身のやけ候し事こそあはれには候しが、其の時目連みづからの神通かなわざりしかば・はしりかへり須臾に仏にまいりてなげき申せしやうは、我が身は外道の家に生れて候しが仏の御弟子になりて阿羅漢の身をへ(得)て、三界の生をはなれ三明六通の羅漢とはなりて候へども、乳母の大苦をすくはんとし候に・かへりて大苦にあわせて候は、心うしとなげき候しかば、仏け説いて云く汝が母は・つみふかし・汝一人が力及ぶべからず、又何(いずれ)の人なりとも天神・地神・邪魔・外道・道士・四天王・帝釈・梵王の力も及ぶべからず、七月十五日に十方の聖僧をあつめて百味をんじき(飲食)をととのへて母のく(苦)をはすくうべしと云云。
目連・仏の仰せのごとく行いしかば其の母は餓鬼道一劫の苦を脱れ給いきと、盂蘭盆経と申す経にとかれて候、其によつて滅後末代の人人は七月十五日に
此の法を行い候なり、此は常のごとし。

日蓮案じて云く目連尊者と申せし人は十界の中に声聞道の人・二百五十戒をかたく持つ事石のごとし、三千の威儀を備えてか(欠)けざる事は十五夜の月のごとし、智慧は日ににたり・神通は須弥山を十四さう(市)まき大山をうごかせし人ぞかし、かかる聖人だにも重報の乳母の恩ほう(報)じがたし、あまさへほうぜんとせしかば大苦をまし給いき、いまの僧等の二百五十戒は名計りにて事をかい(戒)によせて人をたぼらかし一分の神通もなし、大石の天にのぼらんと・せんがごとし、智慧は牛にるい(類)し羊にことならず、設い千万人を・あつめたりとも父母の一苦すくうべしや。

せんするところは目連尊者が乳母の苦をすくわざりし事は、小乗の法を信じて二百五十戒と申す持斎にてありしゆへぞかし、されば浄名経と申す経には浄名居士と申す男目連房をせめて云く汝を供養する者は三悪道に堕つ云云、文の心は二百五十戒のたうとき目連尊者をくやうせん人は三悪道に堕つべしと云云、

此又ただ目連一人がきくみみ(耳)にはあらず、一切の声聞乃至末代の持斎等がきくみみなり、此の浄名経と申すは法華経の御ためには数十番の末への郎従にて候、詮するところは目連尊者が自身のいまだ仏にならざるゆへぞかし、自身仏にならずしては父母をだにもすくいがたし・いわうや他人をや。

しかるに目連尊者と申す人は法華経と申す経にて正直捨方便とて、小乗の二百五十戒立ちどころになげすてて南無妙法蓮華経と申せしかば、やがて仏になりて名号をば多摩羅跋栴檀香仏(たまらばせんだんこうぶつ)と申す、此の時こそ父母も仏になり給へ、故に法華経に云く我が願既に満ち衆の望も亦足る云云、目連が色身は・父母の遺体なり目連が色身仏になりしかば父母の身も又仏になりぬ。

例せば日本国八十一代の安徳天皇と申せし王の御宇に平氏の大将安芸の守清盛と申せし人をはしき。度度の合戦に国敵をほろぼして上(かみ)太政大臣まで官位をきわめ当今はまごとなり。
一門は雲客月卿につらなり、日本六十六国・島二(ふたつ)を掌(たなごころ)の内にかいにぎりて候いしが、人を順うこと大風の草木をなびかしたる・やうにて候しほどに、心をごり身あがり結句は神仏をあなづりて神人と諸僧を手に・にぎらむとせしほどに、山僧と七寺との諸僧のかたきとなりて、結句は去る治承四年十二月二十二日に七寺の内の東大寺・興福寺の両寺を焼きはらいてありしかば・其の大重罪・入道の身にかかりて・かへるとし養和元年潤二月四日身はすみ(炭)のごとく面(かお)は火のごとくすみのをこれるがやうにて結句は炎身より出でてあつちじに(熱死)に死ににき。
其の大重罪をば二男宗盛にゆづりしかば西海に沈むとみへしかども東天に浮び出でて、右大将(うたいしょう)頼朝の御前に縄をつけて・ひきすへて候き、三男知盛は海に入りて魚の糞となりぬ。
四男重衡(しげひら)は其の身に縄をつけて京かまくらを引かれて結句なら七大寺にわたされて、十万人の大衆等・我等が仏のかたきなりとて一刀(ひとたち)づつ・きざみぬ。
悪の中の大悪は我が身に其の苦をうくるのみならず子と孫と末へ七代までもかかり候けるなり。
善の中の大善も又又かくのごとし、目連尊者が法華経を信じまいらせし大善は我が身仏になるのみならず父母仏になり給う。
上七代・下七代・上無量生下無量生の父母等存外に仏となり給う、乃至子息・夫妻・所従・檀那・無量の衆生・三悪道をはなるるのみならず皆初住・妙覚の仏となりぬ。

故に法華経の第三に云く「願くは此の功徳を以て普(あまね)く一切に及ぼし我等と衆生と皆共に仏道を成ぜん」云云。

されば此等をもつて思うに貴女(おんな)は治部殿と申す孫を僧にてもち給へり、此僧は無戒なり無智なり二百五十戒一戒も持つことなし三千の威儀一も持たず、智慧は牛馬にるいし威儀は猿猴(ましら)ににて候へども、あをぐところは釈迦仏・信ずる法は法華経なり、例せば蛇の珠をにぎり竜の舎利を戴くがごとし、藤は松にかかりて千尋(ちひろ)をよぢ鶴は羽を恃(たの)みて万里をかける、此は自身の力にはあらず。治部房も又かくのごとし、我が身は藤のごとくなれども法華経の松にかかりて妙覚の山にものぼりなん、一乗の羽をたのみて寂光の空にもかけりぬべし、此の羽をもつて父母・祖父・祖母・乃至七代の末までも・とぶらうべき僧なり、あわれ・いみじき御たからは・もたせ給いてをはします女人かな、彼の竜女は珠をささげて・仏となり給ふ、此女人は孫を法華経の行者となして・みちびかれさせ給うべし、事事そうそう(匆匆)にて候へば・くはしくは申さず、又又申すべく候。恐恐。

七月十三日       日 蓮花押
治部殿うばごぜん御返事
しらげ牙(白米)一俵・やいごめ(焼米)・うり(瓜)・なすび等仏前にささげ申し上候畢んぬ。



by johsei1129 | 2019-11-13 21:51 | 弟子・信徒その他への消息 | Trackback | Comments(0)
2019年 11月 13日

大聖人の草庵があった身延の沢の様子と暮らし向きを詳細に記した消息文【松野殿女房御返事 】

【松野殿女房御返事】
■出筆時期:弘安二年(1279年)六月二十日 五十八歳御作
■出筆場所:身延山中の草庵にて。
■出筆の経緯:本抄は駿州松野に住まわれていた松野入道の妻に与えられた消息です。尚、娘は南条家に嫁ぎ時光を生んでおります。両家は住まいも近く、普段から法華経信仰の上でも交流が深かったと思われます。
本抄は松野殿の女房から種々のご供養を送られたことへの返書となっており、「女人の御身としてかかる濁世末代に法華経を供養しましませば<中略>釈迦仏は霊山より御手をのべて御頂をなでさせ給うらん」とその志を讃えられておられます。

また前段では、身延山中に設けた草庵での大聖人の暮らし向き、また周辺の詳細な状況を記されておられます。この事は、一往は当時の信徒に身延の状況を伝える趣旨ではありますが、再往は、大聖人滅度後の将来の弟子・信徒が、末法の本仏を渇仰する気持に応えるため、実際の暮らしぶりを詳細に記しておいた大聖人の慈悲であると拝します。
■ご真筆筆:福井県本勝寺(13文字の断簡)所蔵。
大聖人の草庵があった身延の沢の様子と暮らし向きを詳細に記した消息文【松野殿女房御返事  】_f0301354_221446.jpg

[真筆本文箇所:あらず、天台大師にてはなけれ]
[松野殿女房御返事 本文]
麦一箱・いゑのいも一篭・うり(瓜)一篭・旁(かたがた)の物、六月三日に給(たび)候しを今まで御返事申し候はざりし事恐れ入つて候。

此の身延の沢と申す処は甲斐の国の飯井野(いいの)・御牧・波木井の三箇郷の内・波木井の郷の戌亥(いぬい)の隅にあたりて候。北には身延の嶽(たけ)・天をいただき南には鷹取が嶽・雲につづき東には天子の嶽日とたけをなじ、西には又峨峨(がが)として大山つづきて・しらね(白根)の嶽にわたれり、猨(ましら)のなく音(こえ)天に響き蝉のさゑづり地にみてり、天竺の霊山此の処に来れり唐土の天台山親(まのあた)りここに見る。

我が身は釈迦仏にあらず天台大師にてはなけれども、まかる・まかる昼夜に法華経をよみ朝暮に摩訶止観を談ずれば霊山浄土にも相似たり・天台山にも異ならず。

但し有待(うだい)の依身(えしん)なれば著(き)ざれば風・身にしみ・食(くらわ)ざれば命持ちがたし。灯に油をつがず火に薪を加へざるが如し、命いかでかつぐべきやらん。命続(つぎ)がたく・つぐべき力絶えては、或は一日乃至・五日既に法華経読誦の音も絶えぬべし、止観のまど(窓)の前には草しげりなん。

かくの如く候にいかにして思い寄らせ給いぬらん、兎(うさぎ)は経行の者を供養せしかば天帝哀みをなして月の中にをかせ給いぬ。

今天を仰ぎ見るに月の中に兎あり。
されば女人の御身としてかかる濁世末代に法華経を供養しましませば、梵王も天眼を以て御覧じ帝釈は掌を合わせてをがませ給ひ、地神は御足をいただきて喜び釈迦仏は霊山より御手(みて)をのべて御頂(おんいただき)をなでさせ給うらん。 南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経、恐恐謹言。

弘安二年己卯六月二十日                   日 蓮花押
 松野殿女房御返事

by johsei1129 | 2019-11-13 21:28 | 弟子・信徒その他への消息 | Trackback | Comments(0)
2019年 11月 13日

悪縁にあふて還俗の念起る事浅ましき次第なり<略>薬を捨てて毒をとるが如し、と説いた【出家功 徳御書】

【出家功徳御書】
■出筆時期:弘安二年(1279年)五月 五十八歳御作
■出筆場所:身延山中の草庵にて。
■出筆の経緯:本抄の対告衆の詳細は不明ですが、冒頭で「内内還俗の心中、出来候由風聞候ひけるは、実事にてや候らん虚事にてや候らん。心元なく候間一筆啓せしめ候」と記されておられるように、弟子の中で還俗(出家僧から俗の身に戻る)をする噂を大聖人が憂へ、その相手を直接諌めるべく本抄をしたためられたと思われます。   

弘安二年は熱原の法難が勃発した年で、日興上人の教化で、天台宗滝泉寺の僧が次々と大聖人が門下に下りました。そのため院主代の行智はその動きを止めるべく、大聖人の弟子信徒への圧迫を強めます。その際、行智に唆されて大聖人門下の大進坊、三位房が退転するという事態に陥ります。この行智の迫害に恐れをなし、弟子の中に還俗を考えた僧侶が出てきたものと思われます。 大聖人は本抄で「されば人身をうくること難く、人身をうけても出家と成ること尤も難し<中略>還俗の念起る事浅ましき次第なり<略>薬を捨てて毒をとるが如し」と、還俗することを強く諌めておられます。さらに文末では「我が身は天よりもふらず地よりも出でず。父母の肉身を分たる身なり、我が身を損ずるは父母の身を損ずるなり」と記し、還俗は最大の親不孝であると諭されます。またこの出家についてですが、鎌倉時代は宗派を問わず仏教が民衆の精神的支柱であり、世俗の仕事は早めに子供に譲り、自身は出家し仏門に入ることが通例でした。例えば、大聖人が「立正安国論」を献上した北条時頼は、二十九歳で家督を六歳の時宗に譲り、自身は出家し最明寺入道と名乗っております。

それでは現代における出家の意味は、狭義では出家し僧になることですが、広義の意味では大聖人の教えを人生の基盤にすること、つまり入信を意味すると拝せます。また本抄の大聖人の還俗への戒めは、大聖人の教えに背き「退転」することと配すべきと考えられます。
■ご真筆:現存しておりません。
[出家功徳御書 本文]

近日(このごろ)誰やらん承りて申し候は・内内還俗(げんぞく)の心中・出来(しゅったい)候由風聞候ひけるは・実事(まこと)にてや候らん虚事(そらごと)にてや候らん・心元(こころもと)なく候間一筆啓せしめ候、凡(およそ)父母の家を出でて僧となる事は必ず父母を助くる道にて候なり、出家功徳経に云く「高さ三十三天に百千の塔婆を立つるよりも一日出家の功徳は勝れたり」と、されば其の身は無智無行にもあれかみ(髪)をそり袈裟をかくる形(かたち)には天魔も恐をなすと見えたり、大集経に云く「頭を剃り袈裟を著くれば持戒及び毀戒も天人供養す可し則ち仏を供養するに為りぬ」云云、又一(ある)経の文に有人(あるひと)海辺をとをる一人の餓鬼あつて喜び踊れり、其の謂(いわ)れを尋ぬれば我が七世の孫今日出家になれり其の功徳にひかれて出離生死せん事喜ばしきなりと答へたり、されば出家と成る事は我が身助かるのみならず親をも助け上(かみ)無量の父母まで助かる功徳あり、されば人身をうくること難く人身をうけても出家と成ること尤も難し、然るに悪縁にあふて還俗(げんぞく)の念起る事浅ましき次第なり金を捨てて石をとり薬を捨てて毒をとるが如し、我が身悪道に堕つるのみならず六親眷属をも悪道に引かん事不便(ふびん)の至極なり。

其の上在家の世を渡る辛労一方(ひとかた)ならずやがて必ず後悔あるべし、只親のなされたる如く道をちがへず出家にてあるべし、道を違へずば十羅刹女の御守り堅かるべし、道をちがへたる者をば神も捨てさせ給へる理(ことわ)りにて候なり、大勢至経に云く「衆生五の失(とが)有り必ず悪道に堕ちん一には出家還俗の失なり」、又云く「出家の還俗は其の失五逆に過ぎたり」、五逆罪と申すは父を殺し母を殺し仏を打ち奉りなんどする大なる失を五聚(いつつ・あつ)めて五逆罪と云うなり、されば此の五逆罪の人は一中劫の間・無間地獄に堕ちて浮ぶ事なしと見えたり。

然るに今宿善薫発して出家せる人の還俗の心付きて落つるならば・彼の五逆罪の人よりも罪深くして大地獄に堕つべしと申す経文なり、能く能く此の文を御覧じて思案あるべし、我が身は天よりもふらず地よりも出でず父母の肉身を分(わけ)たる身なり、我が身を損ずるは父母の身を損ずるなり、此の道理を弁へて親の命(おおせ)に随ふを孝行と云う親の命(おおせ)に背くを不孝と申すなり、所詮心は兎(と)も角も起れ身をば教の如く一期(ご)出家にてあらば自ら冥加も有るべし、此の理(ことわり)に背きて還俗(げんぞく)せば仏天の御罰を蒙り現世には浅ましくなりはて後生には三悪道に堕ちぬべし、能く能く思案あるべし、身は無智無行にもあれ形(かたち)出家にてあらば里にも喜び某(われ)も祝著たるべし、況や能き僧にて候はんをや、委細の趣・後音を期し候。

弘安二年五月 日  日蓮 花押

by johsei1129 | 2019-11-13 21:22 | 弟子・信徒その他への消息 | Trackback | Comments(0)