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日蓮大聖人『御書』解説

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2019年 11月 12日 ( 9 )


2019年 11月 12日

総じて日蓮が弟子と云つて法華経を修行せん人人は日蓮が如くにし候へ、と説いた【四菩薩造立抄】

【四菩薩造立抄】
■出筆時期:弘安二年(1279年)五月十七日 五十八歳御作
■出筆場所:身延山中の草庵にて。
■出筆の経緯:本抄は富木常忍から「本門久成の教主釈尊を造り奉り、脇士(きょうじ)には久成(くじょう)地涌の四菩薩を造立し奉るべしと兼て聴聞仕り候いき、然れば聴聞の如くんば何(いずれ)の時かと」問われたことへの返書となっております。勿論これは、中央に南無妙法蓮華経をしたため、その脇士に釈迦牟尼仏、多宝如来の二仏、並びに上行、無辺行、浄行、安立行の地涌の四菩薩を配した大御本尊になります。この事については大聖人は佐渡流罪中に「観心本尊抄」 で「此の時地涌千界出現して本門の釈尊を脇士と為す一閻浮提第一の本尊此の国に立つ可し」と説き明かし、富木常忍に宛てて弟子・信徒に送られておられます。

富木常忍は恐らく当時の本尊に対する一般的な考えで、大聖人が釈迦の立像を造立されるのではと思われていたようです。富木常忍は下総国の守護千葉氏の文官として、自ら開基した中山法華経寺に大聖人のご真筆を数多く残された功績は大きなものがありますが、大聖人の法門への深い理解までは到達していなかったように思われます。

また本抄後段では「御状に云く、大田方の人人一向に迹門に得道あるべからずと申され候由、其の聞え候と、是は以ての外(ほか)の謬(あやまり)なり」と断じ、大聖人が法華経を本門と迹門に分別して説かれたことを誤解し、迹門つまり方便品を読誦しても得道がないと申していることを咎め「総じて日蓮が弟子と云つて法華経を修行せん人人は日蓮が如くにし候へ」と厳しく指導されておられます。

尚、本抄冒頭で富木常忍が「薄墨染衣一・同色の袈裟一帖」をご供養されたことが記されておられますが、この当時大聖人が、普段から薄墨の染め色の衣・袈裟を身につけていたことが分かります。この事は日興上人の残された[日興遺誡置文] にも「一、衣の墨・黒くすべからざる事。一、直綴(じきとつ)を着す可からざる事」と記されていることでも分かります。この薄墨の法衣・袈裟を身につける意味は、釈尊及び当時の弟子達が出家するとき、世俗の垢を払いのけるがごとく王侯貴族としての華美な服装を脱ぎ捨て、糞掃衣(ふんぞうえ)[ボロ布を洗ってつづり合わせて作った衣]をまとった事と相通じるものがあります。
■ご真筆:現存しておりません。

[四菩薩造立抄 本文]

白小袖一・薄墨染衣(うすずみすみごろも)一・同色の袈裟一帖・鵞目一貫文給び候、今に始めざる御志言(ことば)を以て宣(の)べがたし何れの日を期してか対面を遂げ心中の朦朧(もうろう)を申し披(ひらかん)や。

一御状に云く本門久成(くじょう)の教主釈尊を造り奉り脇士には久成地涌の四菩薩を造立し奉るべしと兼て聴聞仕りいき、然れば聴聞の如くんば何(いずれ)の時かと云云、夫れ仏・世を去らせ給いて二千余年に成りぬ、其の間・月氏・漢土・日本国・一閻浮提の内に仏法の流布する事・僧は稲麻(とうま)のごとく法は竹葦(ちくい)の如し、然るに・いまだ本門の教主釈尊並に本化(ほんげ)の菩薩を造り奉りたる寺は一処も無し三朝の間に未だ聞かず、日本国に数万の寺寺を建立せし人人も本門の教主・脇士を造るべき事を知らず上宮太子・仏法最初の寺と号して四天王寺を造立せしかども阿弥陀仏を本尊として脇士には観音等・四天王を造り副(そ)えたり、伝教大師・延暦寺を立て給うに中堂には東方の鵞王(がおう)の相貌(そうみょう)を造りて本尊として久成の教主・脇士をば建立し給はず、南京(なら)七大寺の中にも此の事を未だ聞かず田舎の寺寺以て爾(しか)なり、かたがた不審なりし間・法華経の文を拝見し奉りしかば其の旨顕然なり、末法・闘諍堅固の時にいたらずんば造るべからざる旨分明(ふんみょう)なり、正像に出世せし論師・人師の造らざりしは仏の禁(いましめ)を重んずる故なり、若し正法・像法の中に久成の教主釈尊・並びに脇士を造るならば夜中に日輪出で日中に月輪(げつりん)の出でたるが如くなるべし、末法に入つて始めの五百年に上行菩薩の出でさせ給いて造り給うべき故に正法・像法の四依の論師・人師は言(ことば)にも出させ給はず、竜樹・天親こそ知らせ給いたりしかども口より外へ出させ給はず、天台智者大師も知らせ給いたりしかども迹化の菩薩の一分なれば一端は仰せ出させ給いたりしかども其の実義をば宣べ出させ給はず、但ねざめの枕に時鳥(ほととぎす)の一音(ひとこえ)を聞きしが如くにして夢のさめて止(やみ)ぬるやうに弘め給い候ぬ、夫れより已外の人師はまして一言をも仰せ出し給う事なし、此等の論師・人師は霊山にして迹化(しゃっけ)の衆は末法に入らざらんに正像二千年の論師・人師は本門久成の教主釈尊並に久成の脇士・地涌上行等の四菩薩を影ほども申出すべからずと御禁(おんいましめ)ありし故ぞかし。

今末法に入れば尤も仏の金言の如くんば造るべき時なれば本仏・本脇士造り奉るべき時なり、当時は其の時に相当れば地涌の菩薩やがて出でさせ給はんずらん、先ず其れ程に四菩薩を建立し奉るべし尤も今は然るべき時なりと云云、されば天台大師は後の五百歳遠く妙道に沾わんとしたひ、伝教大師は正像稍過ぎ已て末法太だ近きに有り法華一乗の機今正に是れ其の時なりと恋いさせ給う。

日蓮は世間には日本第一の貧しき者なれども仏法を以て論ずれば一閻浮提第一の富(とめ)る者なり、是れ時の然らしむる故なりと思へば喜び身にあまり感涙押(おさ)へ難く教主釈尊の御恩報じ奉り難し、恐らくは付法蔵の人人も日蓮には果報は劣らせ給いたり天台智者大師・伝教大師等も及び給うべからず最も四菩薩を建立すべき時なり云云、問うて云く四菩薩を造立すべき証文之れ有りや、答えて云く涌出品に云く「四の導師有り一をば上行と名け二をば無辺行と名け三をば浄行と名け四をば安立行と名く」等云云、問うて云く後五百歳に限るといへる経文之れ有りや、答えて云く薬王品に云く「我が滅度の後後の五百歳の中に閻浮提に広宣流布して断絶せしむること無けん」等云云。

一御状に云く大田方の人人一向に迹門に得道あるべからずと申され候由・其の聞え候と是は以ての外の謬(あやまり)なり、御得意(こころえ)候へ本・迹二門の浅深・勝劣・与奪・傍正は時と機とに依るべし、一代聖教を弘むべき時に三あり機もつて爾なり、仏滅後・正法の始の五百年は一向小乗・後の五百年は権大乗・像法一千年は法華経の迹門等なり、末法の始には一向に本門なり一向に本門の時なればとて迹門を捨つべきにあらず、法華経一部に於て前の十四品を捨つべき経文之れ無し本迹の所判は一代聖教を三重に配当する時・爾前・迹門は正法・像法或は末法は本門の弘まらせ給うべき時なり。

今の時は正には本門・傍には迹門なり、迹門無得道と云つて迹門を捨てて一向本門に心を入れさせ給う人人はいまだ日蓮が本意の法門を習はせ給はざるにこそ以ての外の僻見(びゃっけん)なり、私ならざる法門を僻案せん人は偏に天魔波旬(はじゅん)の其の身に入り替りて人をして自身ともに無間大城に堕つべきにて候、つたなしつたなし、此の法門は年来(としごろ)貴辺に申し含めたる様に人人にも披露あるべき者なり、総じて日蓮が弟子と云つて法華経を修行せん人人は日蓮が如くにし候へ、さだにも候はば釈迦・多宝・十方の分身・十羅刹も御守り候べし、其れさへ尚人人の御心中は量りがたし。

一、日行房死去の事不便(ふびん)に候、是にて法華経の文読み進(まい)らせて南無妙法蓮華経と唱へ進らせ願くは日行を釈迦・多宝・十方の諸仏・霊山へ迎へ取らせ給へと申し上げ候いぬ、身の所労いまだきらきら(快然)しからず候間省略せしめ候、又又申す可く候、恐恐謹言。

弘安二年五月十七日               日 蓮 花押
富木殿御返事





by johsei1129 | 2019-11-12 22:12 | 富木常忍・尼御前 | Trackback | Comments(0)
2019年 11月 12日

法華経は仏にまさらせ給う事、星と月とともしびと日とのごとし、又御心ざしもすぐ れて候、と説かれた【窪尼御前御返事】

【窪尼御前御返事(虚御教書)】
■出筆時期:弘安二年(西暦1279)五月四日 五十八歳御作。
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:本抄は日興上人のおばで駿河・富士郡の故高橋入道の御家尼・窪尼御前御がご供養の品々をご供養されたことへの返書となっております。

大聖人は5月(現在では6月)という農家の繁忙期で、さらに宮の造営(富士浅間神社)という経済的にも負担の大きい時期に、窪尼が身延の大聖人のことを思いやり数々のご供養を為された事を、徳勝童子が釈迦仏に砂の餅を供養されたことで阿育大王になった謂れを引かれて「御志殊にふかし」と称えられておられます。

また「法華経は仏にまさらせ給う事、星と月とともしびと日とのごとし、又御心ざしもすぐれて候。されば故入道殿も仏にならせ給うべし。又一人をはする姫御前も、命も長く幸いも有りてさる人の娘なりと聞こえさせ給うべし」と記され、衆生を仏に為す法華経は、ともしびと日との如く仏に優っており、法華経の宝前に供養された窪尼の供養も優れている」と、故高橋入道と残された一人娘に思いを馳せ、窪尼を励まされておられます。
■ご真筆:山梨県妙了寺(断簡) 所蔵。古写本:日興上人筆(富士大石寺(全文)所蔵)
法華経は仏にまさらせ給う事、星と月とともしびと日とのごとし、又御心ざしもすぐ  れて候、と説かれた【窪尼御前御返事】_f0301354_18535317.jpg




















[真筆本文:下記緑字箇所]
[窪尼御前御返事 本文]

御供養の物数のままに慥(たしか)に給い候、当時は五月の比(ころ)おひにて民のいとまなし、其の上宮の造営にて候なり。かかる暇(いとま)なき時、山中の有り様思ひやらせ給いて送りたびて候事、御志殊にふかし。

阿育大王と申せし王はこの天の日のめぐらせ給う一閻浮提を大体しろしめされ候いし王なり。此の王は昔徳勝とて五(いつつ)になる童(わらべ)にて候いしが、釈迦仏にすな(砂)のもち(餅)ゐをまいらせたりしゆへに、かかる大王と生れさせ給う。此の童はさしも心ざしなし・たわふれなるやうにてこそ候いしかども、仏のめでたくをはすればわづかの事も、ものとなりて・かかるめでたき事候。まして法華経は仏にまさらせ給う事、星と月とともしびと日とのごとし、又御心ざしもすぐれて候。されば故入道殿も仏にならせ給うべし。又一人をはする・ひめ御前も、いのちもながく・さひわひ(幸)もありて・さる人の・むすめなりと・きこえさせ給うべし。当時もおさなけれども母をかけてすごす女人なれば父の後世をもたすくべし。

から(唐)国にせいし(西施)と申せし女人は、わかなを山につ(摘)みて、を(老)ひたるはわ(母)をやしなひき。天あはれみて越王と申す大王のかり(狩)せさせ給いしが、みつけてきさき(妃)となりにき。これも又かくのごとし・をやを・やしなふ女人なれば天もまほらせ給うらん仏もあはれみ候らん。一切の善根の中に孝養父母は第一にて候なれば・まして法華経にてをはす、金(こがね)のうつわ(器)ものに・きよき水を入れたるがごとく・すこしもも(漏)るべからず候、めでたし・めでたし、恐恐謹言。

五月四日日 蓮 花 押
くぼの尼御前御返事





by johsei1129 | 2019-11-12 22:01 | 弟子・信徒その他への消息 | Trackback | Comments(0)
2019年 11月 12日

法華経は随自意なり一切衆生を仏の心に随へたり、と説いた御書【新池殿御消息】

【新池殿御消息(にいけどのごしょうそく)】
■出筆時期:弘安2年(西暦1279年)5月2日 五十八歳御作
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■鎌倉幕府直参武士(御家人)で地頭であった新池左衛門尉が、亡くなった子の追善のため米三石(現在の約300㌔)をご供養されたことへの返書となっております。新池左衛門尉は遠江国磐田郡新池(現静岡県袋井市)に居住されていて、日興上人の教化により妻の新池尼ともども大聖人に帰依されたと思われます。本書で大聖人は「諸経は随他意なり仏一切衆生の心に随ひ給ふ故に、法華経は随自意なり一切衆生を仏の心に随へたり、諸経は仏説なれども是を信ずれば衆生の心にて永く仏にならず、法華経は仏説なり仏智なり一字一点も是を深く信ずれば我が身即仏となる」と法華経への一途な信仰をするよう諭されておられます。尚、新池左衛門尉は弘安三年二月には長文の 「新池御書」を送られているほどの強信徒でありました。
■ご真筆: 現存しておりません。

[新池殿御消息 本文]

八木(こめ)三石送り給い候。今一乗妙法蓮華経の御宝前に備へ奉りて南無妙法蓮華経と只一遍唱えまいらせ候い畢んぬ、いとをしみ(最愛)の御子を霊山浄土へ決定無有疑と送りまいらせんがためなり。
抑(そもそも)因果のことはりは華と果(このみ)との如し。千里の野の枯れたる草に螢(ほたる)火の如くなる火を一つ付けぬれば、須臾に一草・二草・十・百・千万草につきわたりても(燃)ゆれば十町・二十町の草木、一時にやけつきぬ。竜は一渧(てい・しずく)の水を手に入れて天に昇りぬれば三千世界に雨をふらし候。小善なれども法華経に供養しまいらせ給いぬれば功徳此くの如し。

 仏滅後・一百年と申せしに月氏国に阿育大王と申せし王ましましき、一閻浮提・八万四千の国を四分が一御知行ありき、竜王をしたがへ鬼神を召し仕はせ給う。六万の羅漢を師として八万四千の石塔を立て十万億の金(こがね)を仏に供養し奉らんと誓はせ給いき。かかる大王にてをはせし其の因位の功徳をたづぬれば、ただ土の餅一(ひとつ)・釈迦仏に供養し奉りし故ぞかし。釈迦仏の伯父(おじ)に斛飯(こくぼん)王と申す王をはします。彼の王に太子あり阿那律となづく、此の太子生れ給いしに御器(ごき)一つ持ち出でたり、彼の御器に飯あり食すれば又出でき又出でき終に飯つくる事なし。故にかの太子のをさな(幼)名をば如意となづけたり。法華経にて仏に成り給ふ普明如来是なり。此の太子の因位を尋ぬれば、う(飢)へたる世にひえ(稗)の飯を辟支仏(びゃくしぶつ)と申す僧に供養せし故ぞかし。辟支仏を供養する功徳すら此くの如し、況や法華経の行者を供養せん功徳は無量無辺の仏を供養し進(まい)らする功徳にも勝れて候なり。

抑日蓮は日本国の者なり。此の国は南閻浮提七千由旬の内に八万四千の国あり、十六の大国・五百の中国・十千の小国・無量の粟散(ぞくさん)国あり。其の中に月氏国と申す国は大国なり。彼の国に五天竺あり、其れより東海の中に小島あり日本国是なり。中天竺よりは十万余里の東なり。仏教は仏滅度後正法一千年が間は天竺にとど(留)まりて余国にわたらず、正法一千年の末・像法に入つて一十五年と申せしに漢土へ渡る。漢土に三百年すぎて百済国に渡る、百済国に一百年已上一千四百十五年と申せしに、人王三十代・欽明天皇の御代に日本国に始めて釈迦仏の金銅の像と一切経は渡りて候いき。今七百余年に及び候、其の間一切経は五千余巻或は七千余巻なり。宗は八宗・九宗・十宗なり。国は六十六箇国・二つの島・神は三千余社・仏は一万余寺なり。男女よりも僧尼は半分に及べり、仏法の繁昌は漢土にも勝れ天竺にもまさ(勝)れり。

 但し仏法に入つて諍論あり。浄土宗の人人は阿弥陀仏を本尊とし、真言の人人は大日如来を本尊とす、禅宗の人人は経と仏とをば閣(さしお)いて達磨(だるま)を本尊とす。余宗の人人は念仏者、真言等に随へられ何れともなけれども、つよ(強)きに随ひ多分に押されて阿弥陀仏を本尊とせり。現在の主師親たる釈迦仏を閣(さしお)きて他人たる阿弥陀仏の十万億の他国へにげ行くべきよしを、ねがはせ給い候。阿弥陀仏は親ならず主ならず師ならず。されば一経の内、虚言(そらごと)の四十八願を立て給いたりしを、愚(おろか)なる人人実と思いて物狂はしく金拍子をたたきおど(踊)りはねて念仏を申し、親の国をばいと(厭)ひ出でぬ。来迎(らいごう)せんと約束せし阿弥陀仏の約束の人は来らず、中有のたびの空(そら)に迷いて謗法の業にひかれて三悪道と申す獄屋(ひとや)へおもむけば、獄卒・阿防・羅刹悦びをなし、とら(捉)へから(搦)めてさひなむ事限りなし。

 これをあらあら経文に任せてかたり申せば、日本国の男女、四十九億九万四千八百二十八人ましますが、某(それがし)一人を不思議なる者に思いて、余の四十九億九万四千八百二十七人は皆敵と成りて、主師親の釈尊をもちひぬだに不思議なるに、かへりて或はのり、或はうち、或は処を追ひ、或は讒言して流罪し死罪に行はるれば、貧なる者は富めるをへつらひ、賤き者は貴きを仰ぎ、無勢は多勢にしたがう事なれば、適(たまたま)法華経を信ずる様なる人人も世間をはばかり人を恐れて多分は地獄へ堕つる事不便なり。

 但し日蓮が愚眼にてやあるらん、又宿習にてや候らん、法華経最第一、已今当説難信難解、唯我一人能為救護と説かれて候文は、如来の金言なり敢て私の言にはあらず。当世の人は人師の言を如来の金言と打ち思ひ、或は法華経に肩を並べて斉(ひと)しと思ひ、或は勝れたり或は劣るなれども機にかなへりと思へり。しかるに如来の聖教に随他意随自意と申す事あり。譬えば子の心に親の随うをば随他意と申す、親の心に子の随うをば随自意と申す。諸経は随他意なり、仏一切衆生の心に随ひ給ふ故に。法華経は随自意なり、一切衆生を仏の心に随へたり。諸経は仏説なれども是を信ずれば衆生の心にて永く仏にならず、法華経は仏説なり仏智なり一字一点も是を深く信ずれば我が身即仏となる。譬えば白紙を墨に染むれば黒くなり黒漆(うるし)に白き物を入るれば白くなるが如し。毒薬変じて薬となり、衆生変じて仏となる故に妙法と申す。

 然るに今の人人は高きも賤きも現在の父たる釈迦仏をばかろ(軽)しめて、他人の縁なき阿弥陀、大日等を重んじ奉るは是れ不孝の失(とが)にあらずや、是れ謗法の人にあらずや、と申せば日本国の人、一同に怨ませ給うなり。其れもことはりなり、まがれる木はすなを(直)なる繩をにくみ、いつは(偽)れる者はただ(直)しき政りごとをば心にあはず思うなり。 

 我が朝人王・九十一代の間に謀叛の人人は二十六人なり。所謂大山の王子、大石の小丸、乃至将門すみとも悪左府等なり。此等の人人は吉野とつ(十津)河の山林にこもり筑紫・鎮西の海中に隠るれば、島島のえびす浦浦のもののふどもうたんとす。然れどもそれは貴き聖人、山山・寺寺・社社の法師・尼・女人はいたう敵と思う事なし。日蓮をば上下の男女・尼・法師貴き聖人なんど伝はるる人人は殊に敵となり候。

 其の故は、いづれも後世をば願へども男女よりは僧・尼こそ願ふ由はみえ候へ。彼等は往生はさてをきぬ、今生の世をわたるなかだち(中人)となる故なり。智者聖人又我好我勝(われよし・われすぐれ)たりと申し、本師の跡と申し、所領と申し、名聞利養を重くしてまめやかに道心は軽し。仏法はひがさまに心得て愚癡の人なり。謗法の人なりと言をも惜まず人をも憚らず、当知是人仏法中怨の金言を恐れて、我是世尊使処衆無所畏と云う文に任せていたくせむる間、未得謂為得・我慢心充満の人人争かにくみ嫉(ねた)まざらんや。されば日蓮程天神七代・地神五代、人王九十余代にいまだ此れ程法華経の故に三類の敵人にあだまれたる者なきなり。

 かかる上下万人一同のにくまれ者にて候に、此れまで御渡り候いし事、おぼろげの縁にはあらず宿世の父母か昔の兄弟にておはしける故に思い付かせ給うか。又過去に法華経の縁深くして今度仏にならせ給うべきたね(種)の熟せるかの故に、在俗の身として世間ひまなき人の公事(くじ)のひまに思い出ださせ給いけるやらん。

 其の上遠江の国より甲州波木井の郷身延山へは道三百余里に及べり。宿宿のいぶせさ・嶺に昇れば日月をいただき、谷へ下(くだ)れば穴へ入るかと覚ゆ。河の水は矢を射るが如く早し、大石ながれて人馬むかひ難し。船あやうくして紙を水にひた(浸)せるが如し。男は山かつ女は山母(やまうば)の如し。道は縄の如くほそく、木は草の如くしげし。かかる所へ尋ね入らせ給いて候事、何なる宿習なるらん。釈迦仏は御手を引き帝釈は馬となり梵王は身に随ひ日月は眼となりかはらせ給いて入らせ給いけるにや、ありがたしありがたし。事多しと申せども此の程風おこりて身苦しく候間、留め候い畢んぬ。

弘安二年己卯五月二日 日 蓮 花押
新池殿御返事



by johsei1129 | 2019-11-12 21:55 | 弟子・信徒その他への消息 | Trackback | Comments(0)
2019年 11月 12日

「陰徳あれば陽報あり」と、四条金吾の生活指導をなされた書【四条金吾殿御返事】

【四条金吾殿御返事(不孝御書)】
■出筆時期:弘安二年(1279年)四月二十三日 五十八歳御作
■出筆場所:身延山中の草庵にて。
■出筆の経緯:本抄は従来「不孝御書」と「陰徳陽報御書」とに分かれていましたが、不幸御書が陰徳陽報御書の前半部分であることが判明、「四条金吾殿御返事」としてまとめられました。尚、全体で12紙のご消息であったと思われますが、第1紙~第9紙の所在は不明です。
本抄は、主君の江間氏からの御勘気を前年に解かれ、所領も再び賜った四条金吾に対し、大聖人がまるで我が子のように「陰徳あれば陽報あり」との古来の格言を引用し、今後の対処について、兄弟・女性達・主君それぞに分けて細々と指導されておられます。

四条金吾は本抄の他、いくつもの消息を大聖人から送られ、法華経信仰への指導と合わせて普段の生活についても指導も受けられておられます。その甲斐もあり、四条金吾は本抄を送られた半年後の十月に、めでたく江馬氏より所領を加増されておられます。
■ご真筆:京都市妙覚寺(第10紙)、京都市妙顕寺(第11.12紙)各所蔵。
「陰徳あれば陽報あり」と、四条金吾の生活指導をなされた書【四条金吾殿御返事】_f0301354_14837.jpg
[御真筆第10紙本文:下記緑字箇所]

[四条金吾殿御返事(不孝御書) 本文]

 なによりも人には不孝が、をそ(恐)ろしき事に候ぞ。との(殿)ゝあに(兄)をとゝ(弟)は、われと法華経のかたきになりて、とのをはな(離)れぬれば、かれこそ不孝のもの、とのゝみ(身)にはとがなし。をうなるい(女類)どもこそ、とのゝはぐく(育)み給はずば、一定(いちじょう)不孝にならせ給はんずらんとをぼへ候。

所領もひろくなりて候わば、我がりゃう(領)えも下しなんどして、一身すぐるほどはぐくませ給へ。さだにも候わば過去の父母定んでまぼ(守)り給ふべし。
 
 日蓮がきせい(祈請)も
いよいよ、かない(叶)候べし。いかにわるくとも、きかぬやうにてをはすべし。この事をみ(見)候に申すやうに、だにもふ(触)れまわせ給ふならば、なをなをも所領もかさ(重)なり、人のをぼへもいできたり候べしとをぼへ候。

さきざき申し候ひしやうに、陰徳あれば陽報ありと申して、皆人は主にうたへ、主もいかんぞをぼせしかども、わどの(金吾殿)の正直の心に主の後生をたすけたてまつらむとをもう心がうじゃう(強盛)にして、すねん(数年)をすぐれば、かかるりしゃう(利生)にもあづからせ給ふぞかし。此は物のはしなり。大果報は又来たるべしとをぼしめせ。
 
 又此の法門の一門いかなる本意なき事ありとも、みず、きかず、いわずしてむつばせ給へ。大人にいのりなしまいらせ候べし。上に申す事は私の事にはあらず。外典三千、内典五千の肝心の心をぬきてかきて候。あなかしこあなかしこ。恐々謹言。

卯月二十三日 日蓮花押
御返事





by johsei1129 | 2019-11-12 21:35 | 四条金吾・日眼女 | Trackback | Comments(0)
2019年 11月 12日

法華経勧持品の悪世の行者に刀杖を加えるものあらんを身読したのは日蓮 一人と説いた【上野殿御返事】

【上野殿御返事(勧持品身読事)】
■出筆時期:弘安二年四月二十日 (西暦1279年) 五十八歳 御作。
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:富士郡上野郷の地頭で、この地の信徒の頭領でもあった南条時光に宛てられた書。この書をしたためた同年四月、浅間神社分社に門下の「四郎男」が法敵に襲われ傷害を受ける事件が起きた。恐らく大聖人はこの事件を知り、法華経勧持品第十三に説かれているように、末法の法華経の行者に刀杖を加えるものが出現するのは必定であり「渇して水をしたうがごとく法華経には信心をいたさせ給へ、さなくしては後 悔あるべし」と、あらためて法華経の強い信仰を促されている。
■ご真筆: 現存していない。

[上野殿御返事] 本文。

抑(そもそも)日蓮、種種の大難の中には竜口の頚の座と東条の難にはすぎず。其の故は諸難の中には命(いのち)をすつる程の大難はなきなり。或はのりせめ、或は処をおわれ、無実を云いつけられ、或は面をうたれしなどは物のかずならず。されば色心の二法よりをこりてそし(誹)られたる者は、日本国の中には日蓮一人なり。ただし、ありとも法華経の故にはあらじ。さてもさても、わすれざる事はせうばう(少輔房)が法華経の第五の巻を取りて日蓮がつら(面)をうちし事は、三毒よりをこる処のちやうちやく(打擲)なり。
 天竺に嫉妬の女人あり。男をにくむ故に家内(やうち)の物をことごとく打ちやぶり、其の上にあまりの腹立にや、すがた・けしきかわり、眼は日月の光のごとくかがやき、くちは炎をはくがごとし。すがたは青鬼赤鬼のごとくにて年来(としごろ)・男のよみ奉る法華経の第五の巻をとり、両の足にてさむざむ(散散)にふみける。其の後命つきて地獄にをつ。両の足ばかり地獄にいらず、獄卒鉄杖をもつて・う(打)てどもいらず、是は法華経をふみし逆縁の功徳による。今日蓮をにくむ故にせうぼうが第五の巻を取りて予がをもて(面)をうつ。是も逆縁となるべきか。彼は天竺此れは日本、かれは女人・これはをとこ、かれは両のあし(足)・これは両の手、彼は嫉妬の故・此れは法華経の御故なり。されども法華経第五の巻はをなじきなり。彼の女人のあし(足)地獄に入らざらんに此の両の手・無間に入るべきや。ただし彼は男をにくみて法華経をば・にくまず。此れは法華経と日蓮とをにくむなれば一身無間に入るべし。経に云く「其の人命終して阿鼻獄に入らん」と云云。手ばかり無間に入るまじとは見へず不便なり不便なり。ついには日蓮にあひて仏果をうべきか、不軽菩薩の上慢の四衆のごとし。

 夫れ第五の巻は一経第一の肝心なり。竜女が即身成仏あきらかなり。提婆はこころの成仏をあらはし、竜女は身の成仏をあらはす。一代に分絶たる法門なり。さてこそ伝教大師は法華経の一切経に超過して勝れたる事を十あつめ給いたる中に、即身成仏化導勝とは此の事なり。此の法門は天台宗の最要にして即身成仏義と申して文句(もんぐ)の義科なり。真言・天台の両宗の相論なり。竜女が成仏も法華経の功力なり。文殊師利菩薩は唯常宣説妙法華経とこそかたらせ給へ。唯常の二字は八字の中の肝要なり。菩提心論の唯真言法中の唯の字と、今の唯の字と、いづれを本とすべきや。彼の唯の字はをそらくはあやまりなり。無量義経に云く「四十余年未だ真実を顕さず」。法華経に云く「世尊の法は久くして後に要(かならず)当に真実を説きたもうべし」。多宝仏は皆是真実とて法華経にかぎりて即身成仏ありとさだめ給へり。爾前経にいかように成仏ありともと(説)け、権宗の人人・無量にい(言)ひくる(狂)ふとも、ただほうろく(焙烙)千につち(槌)一つなるべし。法華折伏・破権門理とはこれなり。尤もいみじく秘奥なる法門なり。又天台の学者慈覚よりこのかた玄・文・止の三大部の文をとかくれうけん(料簡)し義理をかまうとも、去年のこよみ昨日の食のごとし。けう(今日)の用にならず。末法の始の五百年に法華経の題目をはなれて成仏ありといふ人は、仏説なりとも用ゆべからず。何に況や人師の義をや。爰に日蓮思ふやう提婆品を案ずるに提婆は釈迦如来の昔の師なり。昔の師は今の弟子なり・今の弟子はむかしの師なり。古今能所不二にして法華の深意をあらわす。されば悪逆の達多には慈悲の釈迦如来師となり、愚癡の竜女には智慧の文殊師となり、文殊・釈迦如来にも日蓮をとり奉るべからざるか。日本国の男は提婆がごとく、女は竜女にあひに(似)たり。逆順ともに成仏を期(ご)すべきなり、是れ提婆品の意なり。
 
 次に勧持品に八十万億那由佗の菩薩の異口同音の二十行の偈は日蓮一人よめり。誰か出でて日本国・唐土・天竺・三国にして仏の滅後によみたる人やある。又我よみたりとなのるべき人なし。又あるべしとも覚へず。及加刀杖の刀杖の二字の中にもし杖の字にあう人はあるべし。刀の字にあひたる人をきかず。不軽菩薩は杖木・瓦石と見えたれば杖の字にあひぬ、刀の難はきかず。天台・妙楽・伝教等は刀杖不加と見えたれば是又か(欠)けたり。日蓮は刀杖の二字ともにあひぬ。剰(あまつさ)へ刀の難は前に申すがごとく東条の松原と竜口となり。一度もあう人なきなり、日蓮は二度あひぬ。杖の難にはすでにせうばう(少輔房)につら(面)をうたれしかども第五の巻をもつてうつ。うつ杖も第五の巻、うたるべしと云う経文も五の巻、不思議なる未来記の経文なり。さればせうばうに日蓮数十人の中にしてうた(打)れし時の心中には法華経の故とはをもへども、いまだ凡夫なればうたて(無情)かりける間、つえ(杖)をもうばひ、ちからあるならばふみをり(踏折)すつべきことぞかし。然れどもつえ(杖)は法華経の五の巻にてまします。

 いまをもひいでたる事あり。子を思ふ故にや、をやつき(親・槻)の木の弓をもつて学文せざりし子にをしへたり。然る間、此の子うたてかりしは父、にくかりしはつき(槻)の木の弓。されども終には修学増進して自身得脱をきわめ・又人を利益する身となり、立ち還つて見ればつぎの木をもつて我をう(打)ちし故なり。此の子そとば(卒塔婆)に此の木をつくり父の供養のためにた(立)ててむけりと見へたり。日蓮も又かくの如くあるべきか。日蓮仏果をえ(得)むに争かせうばう(少輔房)が恩をすつべきや。何に況や法華経の御恩の杖をや。かくの如く思ひつづけ候へば感涙をさへがたし。
  又涌出品は日蓮がためにはすこしよしみある品なり。其の故は上行菩薩等の末法に出現して南無妙法蓮華経の五字を弘むべしと見へたり。しかるに先(まず)日蓮一人出来(しゅったい)す、六万恒沙の菩薩よりさだめて忠賞をかほるべしと思へば、たのもしき事なり。とにかくに法華経に身をまかせ信ぜさせ給へ。殿一人にかぎるべからず、信心をすすめ給いて過去の父母等をすくわせ給へ。  
 日蓮生れし時よりいまに一日片時もこころやすき事はなし。此の法華経の題目を弘めんと思うばかりなり。相かまへて相かまへて自他の生死はし(知)らねども、御臨終のきざみ生死の中間に日蓮かならずむか(迎)いにまいり候べし。三世の諸仏の成道はねうし(子丑)のをわり、とら(寅)のきざみ(刻)の成道なり。仏法の住処、鬼門の方に三国ともにたつなり。此等は相承の法門なるべし委くは又申すべく候、恐恐謹言。

 かつ(餒)へて食をねがひ、渇して水をした(慕)うがごとく、恋いて人を見たきがごとく、病にくすりをたのむがごと く、みめ(形容)かたちよき人べにしろ(紅粉)いものをつくるがごとく、法華経には信心をいたさせ給へ。さなくしては後 悔あるべし、云云。

弘安二年己卯卯月二十日 日 蓮 花押
上野殿御返事

<参照>
妙法蓮華経・勧持品第十三の最後、八十万億那由佗の菩薩による、仏滅後の「妙法華経」弘通を誓う二十行の偈。

唯願不爲慮 於佛滅度後 恐怖惡世中 我等當廣説
有諸無智人 惡口罵詈等 及加刀杖者 我等皆當忍
惡世中比丘 邪智心諂曲 未得謂爲得 我慢心充滿
<以下は上記三行の和訳>
ただ願わくば慮ず、仏滅度の後に於いて、恐怖惡世の中、我ら当に広く説かん。
諸々の無知の人、悪口・罵詈など、及び刀杖加える者あるらん。我ら当に忍べし。
悪世の中の比丘(僧侶)は邪智にして心に諂曲(こびへつらい)にて、未だ得ざるのに是れを得たりと我慢の心充満せり。

<以下和訳略>
或有阿練若 納衣在空閑 自謂行眞道 輕賎人間者
貪著利養故 與白衣説法 爲世所恭敬 如六通羅漢
是人懷惡心 常念世俗事 假名阿練若 好出我等過
而作如是言 此諸比丘等 爲貪利養故 説外道論議
自作此經典 誑惑世間人 爲求名聞故 分別説是經
常在大衆中 欲毀我等故 向國王大臣 婆羅門居士
及餘比丘衆 誹謗説我惡 謂是邪見人 説外道論議
我等敬佛故 悉忍是諸惡 爲斯所輕言 汝等皆是佛
如此輕慢言 皆當忍受之 濁劫惡世中 多有諸恐怖
惡鬼入其身 罵詈毀辱我 我等敬信佛 當著忍辱鎧
爲説是經故 忍此諸難事 我不愛身命 但惜無上道
我等於來世 護持佛所囑 世尊自當知 濁世惡比丘
不知佛方便 随宜所説法 惡口而顰蹙 數數見擯出
遠離於塔寺 如是等衆惡 念佛告敕故 皆當忍是事
諸聚落城邑 其有求法者 我皆到其所 説佛所囑法
我是世尊使 處衆無所畏 我當善説法 願佛安穩住
我於世尊前 諸來十方佛 發如是誓言 佛自知我心

by johsei1129 | 2019-11-12 21:30 | 南条時光(上野殿) | Trackback | Comments(0)
2019年 11月 12日

南無妙法蓮華と弥陀念仏は師子と犬と日輪と星との光くらべのごとしと説いた【松野殿後家尼御前御返事】

【松野殿後家尼御前御返事】
■出筆時期:弘安二年三月二十六日(西暦1279年) 五十八歳 御作。
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:本書を送られた松野殿後家尼は六老僧の一人、蓮華阿闍梨日持上人の母であり、また娘は南条兵衛七郎に嫁ぎ、同じく駿河に住む南条家とは姻戚関係にあった。尚、夫松野六郎左衛門は駿河国松野に永精寺(現静岡市蓮永寺)を建立、日持が永精寺一世となっている。 本書は後家尼御前の度々のご供養について「法華経の第四の巻には釈迦仏・凡夫の身にいりかはらせ給いて法華経の行者をば供養すべきよしを説かれて候、釈迦仏の御身に入らせ給い候か」と讃えられると共に、末代に南無妙法蓮華経と唱へることは「仏(釈尊)のたとへを説かせ給うに一眼の亀の浮木の穴に値(あ)いがたきにたとへられる」ほど有難い事であると説いている。
■ご真筆: 現存していない。

[松野殿後家尼御前御返事 本文]

 法華経第五の巻安楽行品に云く、文殊師利此法華経は無量の国の中に於て乃至名字をも聞くことを得べからず云云。此の文の心は我等衆生の三界六道に輪回(りんね)せし事は或は天に生れ、或は人に生れ、或は地獄に生れ、或は餓鬼に生れ、畜生に生れ無量の国に生をうけて無辺の苦しみをうけてたの(楽)しみにあひしかども一度も法華経の国には生ぜず。たまたま生れたりといへども南無妙法蓮華経と唱へず。となふる事はゆめ(夢)にもなし人の申すをも聞かず。仏のたとへを説かせ給うに一眼の亀の浮木の穴に値いがたきにたとへ給うなり。心は大海の中に八万由旬の底(そこ)に亀と申す大魚あり。手足もなくひれ(鰭)もなし、腹のあつき事はくろがねのやけるがごとし、せなか(背中)のこう(甲)のさむき事は雪山ににたり。此の魚の昼夜朝暮のねがひ時時剋剋の口ずさみには腹をひやしこう(甲)をあたためんと思ふ。赤栴檀(しゃくせんだん)と申す木をば聖木と名つく、人の中の聖人なり。余の一切の木をば凡木と申す、愚人の如し。此の栴檀の木は此の魚の腹をひやす木なり。あはれ此の木にのぼりて腹をば穴に入れてひやしこう(甲)をば天の日にあてあた(暖)ためばやと申すなり。自然のことはりとして千年に一度出る亀なり。しかれども此の木に値(あう)事かたし。大海は広し亀はちいさし浮木はまれ(稀)なり。たとひよ(余)のうきき(浮木)にはあへども栴檀にはあはず。あへども亀の腹をえり(彫)はめたる様にがい分に相応したる浮木の穴にあひがたし、我が身をち入りなばこう(甲)をもあたためがたし、誰か又とりあぐべき。又穴せば(狭)くして腹を穴に入れえずんば波にあらひをとされて大海にしづみなむ。たとひ不思議として栴檀の浮木の穴にたまたま行きあへども我一眼のひがめる故に浮木(うきぎ)西にながるれば東と見る、故にいそいでの(乗)らんと思いておよげば弥弥(いよいよ)とをざかる。東に流るを西と見る南北も又此くの如し云云。浮木にはとをざかれども近づく事はなし。是の如く、無量無辺劫にも一眼の亀の浮木の穴にあひがたき事を仏説き給へり。此の喩をとりて法華経にあひがたきに譬ふ、設ひあへどもとな(唱)へがたき題目の妙法の穴にあひがたき事を心うべきなり、大海をば生死の苦海なり亀をば我等衆生にたとへたり。手足のなきをば善根の我等が身にそな(具)はらざるにたとへ、腹のあつきをば我等が瞋恚(しんに)の八熱地獄にたとへ、背のこう(甲)のさむきをば貪欲の八寒地獄にたとへ、千年大海の底にあるをば我等が三悪道に堕ちて浮(うか)びがたきにたとへ、千年に一度浮ぶをば三悪道より無量劫に一度人間に生れて釈迦仏の出世にあひがたきにたとう。余の松木ひ(檜)の木の浮木にはあひやすく栴檀にはあひがたし。一切経には値いやすく法華経にはあひがたきに譬へたり。たとひ栴檀には値うとも相応したる穴にあひがたきに喩うるなり。設ひ法華経には値うとも肝心たる南無妙法蓮華経の五字をとなへがたきにあ(値)ひたてまつる事のかたきにたとう。東を西と見、北を南と見る事をば我れ等衆生かし(賢)こがほに智慧有る由をして勝を劣と思ひ劣を勝と思ふ。得益なき法をば得益あると見る、機にかなはざる法をば機にかなう法と云う。真言は勝れ法華経は劣り、真言は機にかなひ法華経は機に叶はずと見る是なり。

 されば思いよらせ給へ仏、月氏国に出でさせ給いて一代聖教を説かせ給いしに、四十三年と申せしに始めて法華経を説かせ給ふ。八箇年が程、一切の御弟子皆如意宝珠のごとくなる法華経を持ち候き。然れども日本国と天竺とは二十万里の山海をへだてて候しかば、法華経の名字をだに聞くことなかりき。釈尊御入滅ならせ給いて一千二百余年と申せしに漢土へ渡し給ふ。いまだ日本国へは渡らず、仏滅後一千五百余年と申すに日本国の第三十代・欽明天皇と申せし御門(みかど)の御時、百済国より始めて仏法渡る。又上宮太子と申せし人唐土より始めて仏法渡させ給いて其れより以来今に七百余年の間、一切経並に法華経はひろまらせ給いて、上一人より下万人に至るまで心あらむ人は法華経を一部或は一巻或は一品持ちて或は父母の孝養とす。されば我等も法華経を持つと思う。しかれども未だ口に南無妙法蓮華経とは唱へず、信じたるに似て信ぜざるが如し。譬えば一眼の亀のあひがたき栴檀の聖木にはあいたれどもいまだ亀の腹を穴に入れざるが如し。入れざればよしなし須臾に大海にしづみなん。我が朝七百余年の間此の法華経弘まらせ給いて、或は読む人、或は説く人、或は供養せる人、或は持つ人稲麻竹葦よりも多し。然れどもいまだ阿弥陀の名号を唱うるが如く南無妙法蓮華経とすすむる人もなく唱うる人もなし。一切の経一切の仏の名号を唱うるは凡木にあうがごとし。未だ栴檀ならざれば腹をひやさず、日天ならざれば甲をもあたためず、但目をこやし心を悦ばしめて実なし、華さいて菓(このみ)なく言のみ有りてしわざなし。但日蓮一人ばかり日本国に始めて是を唱へまいらする事、去ぬる建長五年の夏のころより今に二十余年の間、昼夜朝暮に南無妙法蓮華経と是を唱うる事は一人なり。念仏申す人は千万なり。予は無縁の者なり、念仏の方人(かたうど)は有縁なり高貴なり。然れども師子の声には一切の獣(けもの)声を失ふ、虎の影には犬恐る。日天東に出でぬれば万星の光は跡形もなし。法華経のなき所にこそ弥陀念仏はいみじかりしかども、南無妙法蓮華経の声出来しては、師子と犬と日輪と星との光くらべのごとし。譬えば鷹と雉(きじ)との・ひとしからざるがごとし、故に四衆とりどりにそねみ上下同くにくむ、讒人国に充満して奸人土(ところ)に多し、故に劣を取りて勝をにくむ。譬えば犬は勝れたり師子をば劣れり、星をば勝れ日輪をば劣るとそし(誹)るが如し。然る間邪見の悪名世上に流布し、ややもすれば讒訴し、或は罵詈せられ、或は刀杖の難をかふる、或は度度流罪にあたる。五の巻の経文にすこしもたがはず。さればなむだ(涙)左右の眼にうかび悦び一身にあまれり。

 ここに衣は身をかくしがたく食は命をささへがたし。例せば蘇武が胡国にありしに雪を食として命をたもつ。伯夷は首陽山にすみし蕨(わらび)ををりて身をたすく、父母にあらざれば誰か問うべき、三宝の御助にあらずんばいかでか一日片時も持つべき、未だ見参にも入らず候人のかやうに度度御をとづれのはんべるはいかなる事にやあやしくこそ候へ。法華経の第四の巻には釈迦仏凡夫の身にいりかはらせ給いて法華経の行者をば供養すべきよしを説かれて候。釈迦仏の御身に入らせ給い候か、又過去の善根のもよをしか。竜女と申す女人は法華経にて仏に成りて候へば、末代に此の経を持ちまいらせん女人をまほらせ給うべきよし誓わせ給いし。其の御ゆかりにて候か、貴し貴し。

弘安二年己卯三月二十六日   日  蓮  花押
松野殿後家尼御前御返事

by johsei1129 | 2019-11-12 21:09 | 弟子・信徒その他への消息 | Trackback | Comments(0)
2019年 11月 12日

父親からの勘当にもめげす法華経信仰を貫いた池上兄弟を称えた書【孝子御書】

■出筆時期:弘安二年(西暦1279年)二月二十八日 五十八歳 御作。
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:本書池上兄弟の弟宗長にあてられたご消息文です。大聖人は池上兄弟の父親が亡くなったとの噂を聞き本当でしょうかと弟の宗長に尋ねられると共に、長年信心に反対してきた父康光を、兄弟が力を合わせて入信させたことを心から喜ばれ、二人の兄弟を真実の孝子であると称えられた書となっております。父康光は幕府の作事奉行を努め、また極楽寺良観の信奉者だったため、大聖人に帰依する長男宗仲を二度も勘当し、弟宗長に家督を譲ることにしたが、宗長も兄に殉じ法華経信仰を貫いたため、ついに父も大聖人に帰依することになった。
■ご真筆: 福井県本妙寺、他二箇所に断簡所蔵。
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[福井県本名寺蔵 ご真筆]

[孝子御書 本文]
御親父御逝去の由、風聞真(まこと)にてや候らん。
貴辺と大夫志(たゆうさかん)の御事は、代末法に入つて生を辺土にうけ、法華の大法を御信用候へば、悪鬼定めて国主と父母等の御身に入りかわり怨(あだ)をなさん事疑なかるべきところに、案にたがふ事なく親父より度度の御かんだう(勘当)をかうほらせ給ひしかども、兄弟ともに浄蔵・浄眼の後身か、将(は)た又薬王薬上の御計らいかのゆへに、ついに事ゆへなく、親父に御かんきをゆりさせ給いて、前(さき)にたてまいらせし御孝養心に任せさせ給いぬるは、あに孝子にあらずや。定めて天よりも悦びをあたへ、法華経十羅刹も御納受あるべし。

其の上貴辺の御事は心の内に感じをもう事候。此の法門、経のごとくひろまり候わば御悦び申すべし。穴賢穴賢、兄弟の御中不和にわたらせ給ふべからず、不和にわたらせ給ふべからず。
大夫志殿の御文(ふみ)にくわしくかきて候きこしめすべし、恐恐謹言。

弘安二年二月二十八日        日 蓮 花 押




by johsei1129 | 2019-11-12 20:52 | 池上兄弟 | Trackback | Comments(0)
2019年 11月 12日

女人は一代五千・七千余巻の経経に仏にならずと嫌われまします、但法華経ばかりに女人仏になると説かれて候、と説いた【日眼女造立釈迦仏供養事】

【日眼女造立釈迦仏供養事】
■出筆時期:弘安二年(1271年)二月二日 五十八歳御作。
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:本抄は四条金吾の妻日眼女が三十七歳の厄年にあたり一体三寸の釈尊の木像を造立しその開眼を願いで銭三貫を供養されたことへの返書となっておられます。大聖人は夫の四条金吾が父母の追善供養のため釈尊の木像を造立した時も開眼供養されておられます。※参照:【四条金吾釈迦仏供養事】

この釈尊の木像は一体三寸と記されておられるように高さが9cm程の小さいもので、信仰の対象としての本尊ではなく、大聖人が冒頭で記されておられるように、あくまで普段肌身離さず身に付けるお守りの意味であると拝されます。
大聖人も伊豆流罪の時、重病に苦しんでいた地頭伊東八郎の願いで病気平癒の祈念し、無事回復したお礼として漁師が海中から引き上げた釈迦仏像を供養され、生涯身につけておられました。※参照:【船守弥三郎殿許御書】

大石寺二十六世の日寛上人は大聖人が信徒の釈迦仏造立を許された理由について『末法相応抄・下』 で次のように説かれておられます。
「今謹んで案じて曰わく、本尊に非ずと雖も而も之を称歎す。略して三意有り。一には猶是れ一宗弘通の初めなり是の故に用捨時宜に随うか。二には日本国中一同に阿弥陀仏を以て本尊と為す、然るに彼の人々適(たまたま)釈尊を造立す豈称歎せざらんや。三には吾が祖の観見の前には一体仏の当体全く是れ一念三千即自受用の本仏の故なり。学者宜(よろしく)善く之を思うべし」
■ご真筆:身延久遠寺に存在したが明治八年の大火で焼失。

[日眼女造立釈迦仏供養事 本文]

御守書てまいらせ候、三界の主(あるじ)教主釈尊一体三寸の木像造立の檀那日眼女・御供養の御布施前に二貫今一貫云云。

法華経の寿量品に云く「或は己身を説き或は他身を説く」等云云、東方の善徳仏・中央の大日如来・十方の諸仏・過去の七仏・三世の諸仏・上行菩薩等・文殊師利・舎利弗等・大梵天王・第六天の魔王・釈提桓因(しゃくだいかんにん)王・日天・月天・明星天・北斗七星・二十八宿・五星・七星・八万四千の無量の諸星・阿修羅王・天神・地神・山神・海神・宅神・里神・一切世間の国国の主とある人何れか教主釈尊ならざる・天照太神・八幡大菩薩も其の本地は教主釈尊なり。

例せば釈尊は天の一月・諸仏・菩薩等は万水に浮べる影なり、釈尊一体を造立する人は十方世界の諸仏を作り奉る人なり、譬えば頭をふればかみ(髪)ゆるぐ心はたらけば身うごく、大風吹けば草木しづかならず・大地うごけば大海さはがし、教主釈尊をうごかし奉れば・ゆるがぬ草木やあるべき・さわがぬ水やあるべき。

今の日眼女は三十七のやくと云云、やくと申すは譬えばさい(賽)にはかど(廉)、ます(升)にはすみ(角)、人にはつぎふし(関節)、方には四維(よすみ)の如し、風は方よりふけばよはく・角より吹けばつよし・病は肉より起れば治しやすし節(ふし)より起れば治しがたし、家にはかき(垣)なければ盗人いる・人には・とがあれば敵便(たより)をうく、やくと申すはふしぶしの如し、家にかきなく人に科あるがごとし、よ(吉)きひやうし(兵士)を以てまほらすれば盗人をからめとる、ふしの病をかぬて治すれば命ながし。

今教主釈尊を造立し奉れば下女が太子をうめるが如し国王・尚此の女を敬ひ給ふ何に況や大臣已下をや、大梵天王・釈提桓因王・日月等・此の女人を守り給ふ況や大小の神祇をや、昔優填(うでん)大王・釈迦仏を造立し奉りしかば大梵天王・日月等・木像を礼しに参り給いしかば木像説いて云く「我を供養せんよりは優填大王を供養すべし」等云云、影堅(ようげん)王の画像の釈尊を書き奉りしも又又是くの如し、法華経に云く「若し人仏の為の故に諸の形像(ぎょうぞう)を建立す是くの如き諸人等皆已に仏道を成じき」云云、文の心は一切の女人釈迦仏を造り奉れば現在には日日・月月の大小の難を払ひ後生には必ず仏になるべしと申す文なり。

抑(そもそも)女人は一代五千・七千余巻の経経に仏にならずと・きらはれまします、但法華経ばかりに女人・仏になると説かれて候、天台智者大師の釈に云く「女に記せず」等云云、釈の心は一切経には女人仏にならずと云云、次下に云く「今経は皆記す」と云云、今の法華経にこそ竜女仏になれりと云云、天台智者大師と申せし人は仏滅度の後一千五百年に漢土と申す国に出でさせ給いて一切経を十五返まで御覧あそばして候いしが法華経より外の経には女人仏にならずと云云、妙楽大師と申せし人の釈に云く「一代に絶えたる所なり」等云云、釈の心は一切経にたえたる法門なり、法華経と申すは星の中の月ぞかし人の中の王ぞかし山の中の須弥山・水の中の大海の如し、是れ程いみじき御経に女人仏になると説かれぬれば一切経に嫌はれたるに・なにか・くるしかるべき、譬えば盗人・夜打・強盗・乞食・渇体(かったい)にきらはれたらんと国の大王に讃(ほめ)られたらんと何れかうれしかるべき、日本国と申すは女人の国と申す国なり、天照太神と申せし女神(めがみ)のつきいだし給える島なり。

此の日本には男十九億九万四千八百二十八人・女は二十九億九万四千八百三十人なり、此の男女は皆念仏者にて候ぞ皆念仏なるが故に阿弥陀仏を本尊とす現世の祈りも又是くの如し、設い釈迦仏をつくりかけども阿弥陀仏の浄土へゆかんと思いて本意の様には思い候はぬぞ、中中つくりかかぬには・をとり候なり。

今日眼女は今生の祈りのやうなれども教主釈尊をつくりまいらせ給い候へば後生も疑なし、二十九億九万四千八百三十人の女人の中の第一なりとおぼしめすべし、委くは又又申すべく候、恐恐謹言。

弘安二年己卯二月二日  日 蓮 花 押
日眼女御返事

【妙法蓮華経 方便品第二】

 乃至童子戲 聚沙為仏塔 如是諸人等 皆已成仏道
 若人為仏故 建立諸形像 刻彫成衆相 皆已成仏道
  <中略>
若人散乱心 入於塔廟中 一称南無仏 皆已成仏道
[和訳]

 乃至童子が戲に、砂で仏塔を為しても、是如き人は、皆已に仏道を成ずる。
 もし人、仏のために形像を建立し仏の衆相を彫刻し成せば、皆已に仏道を成ずる。
<中略>
 たとえ取り乱した心であっても、塔廟の中で一度南無仏と唱えれば皆已に仏道を成ずる。





by johsei1129 | 2019-11-12 07:25 | 四条金吾・日眼女 | Trackback | Comments(0)
2019年 11月 12日

南条時光の求道心を「あいよりもあをく」と称えた書【上野殿御返事(雪中供養御書)】

【上野殿御返事(雪中供養御書)】
■出筆時期:弘安二年(西暦1279)一月三日 五十八歳御作。
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:本抄は南条時光(上野殿)が、当時疫病が発生し民衆の半分が死んだとも言われる厳しい時代にも関わらず、正月の祝いのご供養をされたことへの返書となっております。大聖人は亡き父故上野殿の跡を継ぎ、大聖人への純真な帰依の姿勢を貫く時光に対し、中国の儒家・荀子の格言を引いて「あい(藍)よりもあを(青)く、水よりもつめ(冷)たき冰かなと」とその強い信仰心を称えております。
■ご真筆:三ヶ所(京都市妙覚寺、京都市本法寺、広島県妙丁寺)にて分散所蔵
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[冒頭の第一紙(京都市 妙覚寺所蔵)]

南条時光の求道心を「あいよりもあをく」と称えた書【上野殿御返事(雪中供養御書)】_f0301354_20312942.jpg

[文末の第四紙(京都市 本法寺蔵)]

[上野殿御返事(雪中供養御書) 本文]

 餅九十枚、薯蕷(やまのいも)五十本、わざと御使を以て正月三日未(ひつじ)の時に駿河国富士郡上野郷より甲州波木井)の郷身延山のほら(洞)へおくりたびて候。
 
 夫れ海辺には木を財(たから)とし山中には塩を財とす。旱颰(かんばつ)には水を財とし闇中には灯を財とし、女人は夫を財とし夫は女人を命とし、王は民を親とし民は食を天とす。

 此の両三箇年は日本国の中に大疫(だいえき)起りて人半分減じて候か。去年(こぞ)の七月より大なるけかち(飢渇)にて里市とをき無縁の者と山中の僧等の命(いのち)存しがたし。

 其の上日蓮は法華経誹謗の国に生れて威音王仏の末法の不軽菩薩の如し。将又(はたまた)歓喜増益仏の末の覚徳比丘の如し。王もにく(悪)み民もあだむ、衣(ころも)もうすく食もとぼし、布衣(ぬのこ)はにしき(錦)の如し、草葉をば甘露と思ふ。其の上去年の十一月より雪つもりて山里路たえぬ。

 年返れども鳥の声ならでは、をとづるる人なし。友にあらずばたれか問うべきと心ぼそくて過(すご)し候処に、元三の内に十字(むしもち)九十枚、満月の如し。心中もあきらかに生死のやみもはれぬべし。

 あはれなり・あはれなり、こうへのどの(故上野殿)をこそ、いろあるをとこ(男)と人は申せしに、其の御子なればくれない(紅)のこ(濃)きよしをつたへ給えるか。あい(藍)よりもあを(青)く、水よりもつめたき冰(こおり)かなと、ありがたし・ありがたし、恐恐謹言。
  
正月三日              日 蓮  花 押
   上野殿御返事

by johsei1129 | 2019-11-12 06:56 | 南条時光(上野殿) | Trackback | Comments(0)