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日蓮大聖人『御書』解説

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2019年 11月 09日 ( 16 )


2019年 11月 09日

法華経を供養する人は十方の仏菩薩を供養する功徳と同じきなり、と説いた【千日尼御前御返事】

【千日尼御前御返事】
■出筆時期:弘安元年(1281)十月十九日 五十七歳御作。
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:本書は阿仏坊の妻千日尼が「青鳧一貫文・干飯一斗」などの数々のご供養を送られたことへの返書となっております。大聖人は「法華経を供養する人は十方の仏菩薩を供養する功徳と同じきなり」と説いて、「(千日尼が)夫を御使として御訪いあり定めて法華経釈迦多宝十方の諸仏・其の御心をしろしめすらん」とその志を讃えられておられます。
■ご真筆:現存していない。

[千日尼御前御返事 本文]

青鳧(ぜに)一貫文・干飯(ほしいい)一斗・種種の物給い候い了んぬ。仏に土の餅を供養せし徳勝童子は阿育(あそか)大王と生れたり、仏に漿(こんず)を・まひらせし老女は辟支仏(ひゃくしぶつ)と生れたり。法華経は十方三世の諸仏の御師なり、十方の仏と申すは東方善徳仏・東南方無憂徳仏・南方栴檀徳仏・西南方宝施(ほうせ)仏・西方無量明仏・西北方華徳(けとく)仏・北方相徳仏・東北方三乗行仏・上方広衆徳仏・下方明徳仏なり。

三世の仏と申すは、過去・荘厳劫の千仏・現在・賢劫の千仏・未来・星宿劫の千仏・乃至華厳経・法華経・涅槃経等の大小・権実・顕密の諸経に列(つらな)り給へる一切の諸仏・尽十方世界の微塵数の菩薩等も、皆悉く法華経の妙の一字より出生し給へり。故に法華経の結経たる普賢経に云く「仏三種の身は方等より生ず」等云云。方等とは月氏の語(ことば)・漢土には大乗と翻ず、大乗と申すは法華経の名なり。阿含経は外道の経に対すれば大乗経、華厳・般若・大日経等は阿含経に対すれば大乗経、法華経に対すれば小乗経なり。法華経に勝(すぐ)れたる経なき故に一(ひとり)大乗経なり。

例せば南閻浮提・八万四千の国国の王王は其の国国にては大王と云う、転輪聖王に対すれば小王と申す。乃至(ないし)六欲・四禅の王王は大小に渡る、色界の頂の大梵天王独り大王にして小の文字をつくる事なきが如し、仏は子なり法華経は父母なり。譬えば一人の父母に千子有りて一人の父母を讃歎すれば千子悦びをなす、一人の父母を供養すれば千子を供養するになりぬ。又法華経を供養する人は十方の仏菩薩を供養する功徳と同じきなり、十方の諸仏は妙の一字より生じ給へる故なり。

譬えば一(ひとつ)の師子に百子あり・彼の百子・諸の禽獣に犯さるるに・一の師子王吼(ほゆ)れば百子力を得て諸の禽獣皆頭七分にわ(破)る、法華経は師子王の如し一切の獣(けもの)の頂きとす、法華経の師子王を持つ女人は一切の地獄・餓鬼・畜生等の百獣に恐るる事なし、譬えば女人の一生の間の御罪は諸の乾草(かれくさ)の如し法華経の妙の一字は小火の如し、小火を衆草につきぬれば衆草焼け亡(ほろ)ぶるのみならず大木大石皆焼け失せぬ、妙の一字の智火以て此くの如し諸罪消ゆるのみならず衆罪かへりて功徳となる毒薬変じて甘露となる是なり。

譬えば黒漆に白物(おしろい)を入れぬれば白色となる、女人の御罪は漆の如し南無妙法蓮華経の文字は白物(おしろい)の如し人は臨終の時地獄に堕つる者は黒色となる上其の身重き事千引(ちびき)の石の如し善人は設ひ七尺八尺の女人なれども色黒き者なれども臨終に色変じて白色となる又軽き事鵞毛(がもう)の如し軟らかなる事兜羅緜(とろめん)の如し。佐渡の国より此の国までは山海を隔てて千里に及び候に女人の御身として法華経を志しましますによりて年年に夫(おっと)を御使として御訪(とぶら)いあり定めて法華経釈迦多宝十方の諸仏・其の御心をしろしめすらん。

譬えば天月は四万由旬なれども大地の池には須臾に影浮び雷門の鼓(つづみ)は千万里遠けれども打ちては須臾に聞ゆ、御身は佐渡の国にをはせども心は此の国に来れり、仏に成る道も此くの如し、我等は穢土に候へども心は霊山に住(すむ)べし、御面(おかお)を見てはなにかせん心こそ大切に候へ、いつか(早晩)いつか釈迦仏のをはします霊山会上にまひりあひ候はん、南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経、恐恐謹言。

弘安元年後十月十九日                 日 蓮 花 押
千日尼御前御返事




by johsei1129 | 2019-11-09 22:32 | 阿仏房・千日尼 | Trackback | Comments(0)
2019年 11月 09日

日本国中が飢饉で苦しむ中、絶えることなくご供養を続ける時光の信仰心を称えた書【上野殿御返事】

【上野殿御返事(三災御書)】
■出筆時期:弘安元年(西暦1278)十月十二日 五十七歳御作。
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:本抄は前年(建治3年)から全国に疫病が蔓延、さらにこの年「八月九月の大雨大風に日本一同に不熟ゆきてのこれる。万民冬をすごしがたし」と記されたように、飢饉で日本国中が苦しんでいた。その中で自らの生活も苦しい中、時光は大聖人への供養を絶えることなく続け。その志を大聖人は「かかるよにいかなる宿善にか・ 法華経の行者をやしなわせ給う事ありがたく候、ありがたく候」と称えられております。
■ご真筆: 現存していない。古写本:日興筆(富士大石寺所蔵)

[上野殿御返事(三災御書) 本文]

 いゑのいも一駄・かうじ(柑子)一こ・ぜに六百のかわり御(ご)ざのむしろ(筵)十枚給び畢んぬ。

 去(こぞ)今年は大えき(疫)此の国にをこりて人の死ぬ事大風に木のたうれ大雪に草のおるるがごとし、一人ものこるべしともみへず候いき。しかれども又今年の寒温時にしたがひて、五穀は田畠にみち草木はやさん(野山)におひふさがりて尭舜の代のごとく成劫のはじめかとみへて候いしほどに・八月九月の大雨大風に日本一同に熟らず、ゆきてのこれる万民冬をすごしがたし。去ぬる寛喜・正嘉にもこえ、来らん三災にも・おとらざるか。

 自界叛逆して盗賊国に充満し、他界きそいて合戦に心をつひやす。民の心不孝にして父母を見る事他人のごとく、僧尼は邪見にして狗犬と猨猴(えんこう)とのあへるがごとし。慈悲なければ天も此の国をまほらず・邪見なれば三宝にもすてられたり。又疫病もしばらくは・や(止)みてみえしかども、鬼神かへり入るかのゆへに・北国も東国も西国も南国も一同にや(病)みなげくよしきこへ候。

 かかるよ(世)にいかなる宿善にか・法華経の行者をやしなわせ給う事ありがたく候ありがたく候、事事見参の時申すべし、恐恐謹言。
      
 弘安元年後十月十二日        日  蓮  花 押
     上野殿御返事

by johsei1129 | 2019-11-09 22:22 | 南条時光(上野殿) | Trackback | Comments(0)
2019年 11月 09日

いかなる大科ありとも法華経をそむかせ給はず候いし<略>仏にならせ給うべしと説いた【四条金吾殿御返事】

【四条金吾殿御返事(所領書)】
■出筆時期:弘安元年(1278年)十月 五十七歳御作
■出筆場所:身延山中の草庵にて。
■出筆の経緯:四条金吾はこの年の一月頃、主君江馬氏から御勘気を解かれ、さらに十月に入り所領を再び賜ることができたと大聖人に見参し報告したことへの返書となっております。金吾は与えられた所領が、以前与えられた所領ではなく佐渡の辺鄙な場所であったことに不満を感じ愚痴を述べたようです。

それに対し大聖人は「よくよく其の処をしりて候が申し候は・三箇郷の内に・いかだと申すは第一の処なり。田畠はすくなく候へども・とく(徳)ははかりなしと申し候ぞ」と、わざわざ人づてに調べて徳はかなりある所領であると金吾をなだめておられます。さらに「よきところと申し給はば又かさねて給はらせ給うべし。わろき処・徳分なしなむど候はば天にも人にも・すてられ給い候はむずるに候ぞ、御心へあるべし」と記し、主君の計らいであるから、不満を言わないで良い所であると申しておれば更に所領の加増もあるであろうと諭されておられます。実際に大聖人の本書の指導通り、その後金吾は本来の所領も再度賜っておられます。

更に竜の口の法難の時、四条金吾が大聖人が乗った馬の口にとりつき相模依智までお供をしたことを称え「日蓮が御勘気をかほりし時・馬の口にとりつきて鎌倉を出でてさがみのえちに御ともありしが、一閻浮提第一の法華経の御かたうどにて有りしかば<中略>法華経はいのりとはなり候いけるぞ。あなかしこ、あなかしこ、いよいよ道心堅固にして今度・仏になり給へ」と、金吾を励まされておられます。これら大聖人の金吾に対する思いは、単に一人の信徒に対するものを超えた我が子に対する慈愛そのものであり、仏とは人間を超越した存在というより最も人間らしい存在であると感じざる得ません。
■ご真筆:現存しておりません。
[四条金吾殿御返事(所領書) 本文]

鵞目一貫文給い候い畢んぬ、御所領・上(かみ)より給わらせ給いて候なる事まこととも覚へず候、夢かとあまりに不思議に覚へ候。

御返事なんどもいかやうに申すべしとも覚へず候、其の故はとのの御身は日蓮が法門の御ゆへに日本国・並にかまくら中(じゅう)御内の人人きうだち(公達)までうけず・ふしぎにをもはれて候へば其の御内にをはせむだにも不思議に候に御恩をかうほらせ給へば・うちかへし・又うちかへしせさせ給へばいかばかり同れいどもも・ふしぎとをもひ・上(かみ)もあまりなりとをぼすらむ。

さればこのたびは・いかんが有るべかるらんと・うたがひ思い候つる上、御内の数十人の人人うつた(訴)へて候へばさればこそいかにも・かなひがたかるべし。あまりなる事なりと疑候いつる上・兄弟にもすてられてをはするに・かかる御をん(恩)面目申すばかりなし。

かの処は・とのをか(殿岡)の三倍とあそばして候上さどの国のものの・これに候がよくよく其の処をしりて候が申し候は・三箇郷の内に・いかだと申すは第一の処なり。田畠はすくなく候へども・とく(徳)ははか(量)りなしと申し候ぞ、二所はみねんぐ千貫・一所は三百貫と云云、かかる処なりと承はる、なにとなくとも・どうれい(同隷)といひ・したしき人人と申しす(捨)てはてられて・わらひよろこびつるにとのをかに・をとりて候処なりとも御下し文(ぶみ)は給(たび)たく候つるぞかしまして三倍の処なりと候。いかにわろくとも・わろきよし人にも又上(かみ)へも申させ給うべからず候、よきところ・よきところと申し給はば又かさねて給はらせ給うべし。わろき処・徳分なしなむど候はば天にも人にも・すてられ給い候はむずるに候ぞ、御心へあるべし。

阿闍世王は賢人なりしが父を・ころせしかば即時に天にも・すてられ大地も・やぶれて入りぬべかりしかども・殺されし父の王・一日に五百りやう五百りやう(輌)数年が間・仏を供養しまいらせたりし功徳と後に法華経の檀那となるべき功徳によりて天もすてがたし地もわれず・ついに地獄にをちずして仏になり給いき、とのも又かくのごとし・兄弟にもすてられ同れいにも・あだまれ・きうだちにもそば(窄)められ日本国の人にも・にくまれ給いつれども、去ぬる文永八年の九月十二日の子丑の時・日蓮が御勘気をかほりし時・馬の口にとりつきて鎌倉を出でてさがみのえち(依智)に御ともありしが、一閻浮提第一の法華経の御かたうどにて有りしかば梵天・帝釈もすてかねさせ給へるか、仏にならせ給はん事も・かくのごとし。

いかなる大科ありとも法華経をそむかせ給はず候いし、御ともの御ほうこう(奉公)にて仏にならせ給うべし、例せば有徳国王の覚徳比丘の命(いのち)にかはりて釈迦仏とならせ給いしがごとし、法華経はいのり(祈)とはなり候いけるぞ。あなかしこ・あなかしこ、いよいよ道心堅固にして今度・仏になり給へ
御一門の御房たち又俗人等にも・かかるうれしき事候はず、かう申せば今生のよく(欲)とをぼすか、それも凡夫にて候へば・さも候べき上(うえ)慾をも・はなれずして仏になり候ける道の候けるぞ。

普賢経に法華経の肝心を説きて候「煩悩を断ぜず五欲を離れず」等云云、天台大師の摩訶止観に云く「煩悩即菩提・生死即涅槃」等云云、竜樹菩薩の大論に法華経の一代にすぐれて・いみじきやうを釈して云く「譬えば大薬師の能く毒を変じて薬と為すが如し」等云云、「小薬師は薬(くすり)を以て病(やまい)を治す大医は大毒をもつて大重病を治す」等云云。

弘安元戊寅年十月 日    日 蓮 花押
四条金吾殿御返事

by johsei1129 | 2019-11-09 22:16 | 四条金吾・日眼女 | Trackback | Comments(0)
2019年 11月 09日

日蓮が法門は第三の法門なり<略>天台妙楽伝教も粗之を示せども未だ事了えず、と断じた【常忍抄】

【常忍抄(稟権出界抄・ほんごんしゅっかいしょう)】
■出筆時期:弘安元年(1287年)十月一日 五十七歳御作
■出筆場所:身延山中の草庵にて。
■出筆の経緯:本抄は富木常忍から、天台宗の了性房との法論で論破したことを報告した手紙を受け取り、それへの返書となっております。文末で「此の使いそぎ候へばよる(夜)かきて候ぞ」と記されておられるように、常忍の手紙を届けた使いの者が急いで帰る時き、夜にも関わらず直ぐに本消息を書かれたことが伺えます。

大聖人は本抄で「総じて御心へ候へ、法華経と爾前と引き向えて勝劣・浅深を判ずるに当分・跨節の事に三つの様有り、日蓮が法門は第三の法門なり<中略>第三の法門は天台・妙楽・伝教も粗之を示せども未だ事了えず、所詮末法の今に譲り与えしなり」と記され、日蓮の法門は天台をも超過していると断じておられます。また今後の法論については「此れより後は下総にては御法門候べからず、了性・思念をつめつる上は他人と御論候わば、かへりてあさくなりなん」と記し、下総の天台宗の重鎮、了性・思念を論破したのだから、さらに他の者と法論すると、かえって今回の法論の価値が軽くなってしまうと指導なされておられます。尚文末で大進房についての常忍報告について「悪鬼入其身は、よもそら(空)事にては候はじ」と、引き続き注意するよう諭されておられます。しかし大聖人の指導にも関わらず、大聖人門下に反逆、翌年九月の熱原法難では法華経に帰依した農民達を逮捕しようとして落馬。それが原因で苦しみながら死亡したと言われております。
■ご真筆:中山法華経寺所蔵(十紙)。
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真筆本文箇所(第五紙):又云不信者不堕地獄云云~彼廣学多聞乃者也 迄。

[常忍抄(稟権出界抄) 本文]

御文粗拝見仕り候い了んぬ。
御状に云く常忍の云く記の九に云く「権を禀(う)けて界を出づるを名けて虚出(こしゅつ)と為す」云云、了性房云く全く以て其の釈無し云云、記の九に云く寿量品の疏「無有虚出より昔虚為実故(しゃくこいじつこ)に至るまでは為の字は去声権を禀けて界を出づるを名けて虚出と為す三乗は皆三界を出でずと云うこと無し人天は三途を出でんが為ならずと云うこと無し並に名けて虚と為す」云云、文句の九に云く「虚より出でて而も実に入らざる者有ること無し、故に知んぬ昔の虚は去声実の為の故なり」と云云。

寿量品に云く「諸の善男子・如来諸の衆生小法を楽う徳薄垢重の者を見て乃至以諸衆生乃至未曾暫廃」云云、此の経の文を承けて、天台・妙楽は釈せしなり。

此の経文は初成道の華厳の別円より乃至法華経の迹門十四品を或は小法と云い或は徳薄垢重・或は虚出等と説ける経文なり、若し然らば華厳経の華厳宗・深密経の法相宗・般若経の三論宗・大日経の真言宗・観経の浄土宗・楞伽経の禅宗等の諸経の諸宗は依経の如く其の経を読誦すとも三界を出でず三途を出でざる者なり何に況や或は彼を実と称し或は勝る等云云。此の人人・天に向つて唾を吐き地をつかんで忿(いかり)を為す者か。

此の法門に於て如来滅後・月氏一千五百余年・付法蔵の二十四人・竜樹・天親等知つて未だ此れを顕さず、漢土一千余年の余人も未だ之を知らず但天台・妙楽等粗之を演(の)ぶ。然りと雖も未だ其の実義を顕さざるか、伝教大師以て是くの如し。

今日蓮粗之を勘うるに法華経の此の文を重ねて涅槃経に演べて云く「若し三法に於て異の想を修する者は当に知るべし是の輩は清浄の三帰則ち依処(えしょ)無く所有の禁戒皆具足せず終に声聞・縁覚・菩薩の果を証することを得ず」等云云。此の経文は正しく法華経の寿量品を顕説せるなり、寿量品は木に譬え爾前・迹門をば影に譬うる文なり。経文に又之有り、五時・八教・当分・跨節・大小の益は影の如し本門の法門は木の如し云云。又寿量品已前の在世の益は闇中の木の影なり、過去に寿量品を聞きし者の事なり等云云。又不信は謗法に非ずと申す事。又云く不信の者地獄に堕ちずとの事、五の巻に云く「疑を生じて信ぜざらん者は則ち当に悪道に堕つべし」云云。

総じて御心へ候へ、法華経と爾前と引き向えて勝劣・浅深を判ずるに当分・跨節の事に三つの様有り、日蓮が法門は第三の法門なり。世間に粗夢の如く一二をば申せども第三をば申さず候、第三の法門は天台・妙楽・伝教も粗之を示せども未だ事了(お)えず、所詮末法の今に譲り与えしなり、五五百歳は是なり。

但し此の法門の御論談は余は承らず候、彼は広学多聞の者なりはばか(憚)り・はばかり・み(見)た・みたと候いしかば、此の方のまけなんども申しつけられなば・いかんがし候べき。但し彼の法師等が彼の釈を知り候はぬは・さてをき候いぬ、六十巻になしなんど申すは天のせめなり謗法の科の法華経の御使に値うて顕れ候なり。

又此の沙汰の事を定めて・ゆへありて出来せり・かしま(賀島)の大田次郎兵衛・大進房・又本院主(ほんいんしゅ)もいかにとや申すぞ・よくよくきかせ給い候へ。此れ等は経文に子細ある事なり、法華経の行者をば第六天の魔王の必ず障(ささ)うべきにて候、十境の中の魔境此れなり魔の習いは善を障えて悪を造らしむるをば悦ぶ事に候、強いて悪を造らざる者をば力及ばずして善を造らしむ、又二乗の行をなす物をば・あながちに怨をなして善をすすむるなり。

又菩薩の行をなす物をば遮(さえぎ)つて二乗の行をすすむ、是後に純円の行を一向になす者をば兼別等に堕(おと)すなり止観の八等を御らむあるべし。又彼が云く止観の行者は持戒等云云、文句の九には初・二・三の行者の持戒をば此れをせいす経文又分明なり。止観に相違の事は妙楽の問答之有り記の九を見る可し、初随喜に二有り利根の行者は持戒を兼ねたり鈍根は持戒之を制止す、又正・像・末の不同もあり摂受・折伏の異あり伝教大師の市の虎の事思い合わすべし。

此れより後は下総にては御法門候べからず、了性・思念を・つ(詰)めつる・上は他人と御論候わば・かへりてあさくなりなん。彼の了性と思念とは年来(としごろ)・日蓮をそしるとうけ給わるる、彼等程の蚊虻(もんもう)の者が日蓮程の師子王を聞かず見ずしてうはのそらに・そしる程のをこじん(嗚呼人)なり。天台法華宗の者ならば我は南無妙法蓮華経と唱えて念仏なんど申す者をば・あれ(彼)はさる事なんど申すだにも・きくわい(奇怪)なるべきに、其の義なき上・偶(たまたま)申す人をそしる・でう(条)・あらふしぎふしぎ、大進房が事さきざき・かきつかわして候やうに・つよづよとかき上(あげ)申させ給い候へ。大進房には十羅刹のつかせ給いて引きかへしせさせ給うとをぼへ候ぞ、又魔王の使者なんどがつきて候いけるが・はなれて候とをぼへ候ぞ、悪鬼入其身はよも・そら事にては候はじ。事事重(しげ)く候へども、此の使いそぎ候へばよる(夜)か(書)きて候ぞ、恐恐謹言。

十月一日              日 蓮  花押

by johsei1129 | 2019-11-09 22:07 | 富木常忍・尼御前 | Trackback | Comments(0)
2019年 11月 09日

末法の本尊とは「法華経の題目を以て本尊とすべし」と明らかにした書【本尊問答抄】その四

[本尊問答抄 本文] その四
是くの如く仏法の邪正乱れしかば王法も漸く尽きぬ結句は此の国・他国にやぶられて亡国となるべきなり、此の事日蓮独り勘え知れる故に仏法のため王法のため諸経の要文を集めて一巻の書を造る仍(よ)つて故最明寺入道殿に奉る立正安国論と名けき、其の書にくはしく申したれども愚人は知り難し、所詮現証を引いて申すべし抑(そもそも)人王八十二代・隠岐の法王と申す王有(おわしまし)き去ぬる承久三年太歳辛巳五月十五日伊賀太郎判官光末(みつすえ)を打捕(うちとり)まします鎌倉の義時をうち給はむとての門出なり、やがて五畿七道の兵(つわもの)を召して相州鎌倉の権の太夫義時を打ち給はんとし給うところに還りて義時にまけ給いぬ、結句・我が身は隠岐の国にながされ太子二人は佐渡の国・阿波の国にながされ給う公卿七人は忽(たちまち)に頚をはねられてき、これはいかにとしてまけ給いけるぞ、国王の身として民の如くなる義時を打ち給はんは鷹(たか)の雉(きじ)をとり猫の鼠を食(は)むにてこそあるべけれこれは猫のねずみにくらはれ鷹の雉にとられたるやうなり、しかのみならず調伏力を尽せり所謂天台の座主・慈円僧正・真言の長者・仁和寺の御室・園城寺の長吏・総じて七大寺・十五大寺・智慧戒行は日月の如く、秘法は弘法・慈覚等の三大師の心中の深密の大法・十五壇の秘法なり、五月十九日より六月の十四日にいたるまであせ(汗)をながしなづき(頭脳)をくだきて行いき最後には御室・紫宸殿にして日本国にわたりていまだ三度までも行はぬ大法・六月八日始めて之を行う程に・同じき十四日に関東の兵軍・宇治勢多をおしわたして洛陽に打ち入りて三院を生け取り奉りて九重に火を放ちて一時に焼失す、三院をば三国へ流罪し奉りぬ又公卿七人は忽に頚をきる、しかのみならず御室の御所に押し入りて最愛の弟子の小児勢多伽(せたか)と申せしをせめいだして終に頚をきりにき御室思いに堪えずして死に給い畢んぬ母も死す童も死す、すべて此のいのりをたのみし人いく千万といふ事をしらず死にきたまたまい(生)きたるもかひなし、御室祈りを始め給いし六月八日より同じき十四日までなかをかぞふれば七日に満じける日なり、此の十五壇の法と申すは一字金輪・四天王・不動・大威徳・転法輪・如意輪・愛染王・仏眼・六字・金剛童子・尊星(そんしょう)王・太元守護経等の大法なり此の法の詮は国敵王敵となる者を降伏して命(いのち)を召し取りて其の魂を密厳浄土へつかはすと云う法なり、其の行者の人人も又軽からず天台の座主慈円・東寺・御室・三井の常住院の僧正等の四十一人並びに伴僧等・三百余人なり云云、法と云ひ行者と云ひ又代も上代なりいかにとしてま(負)け給いけるぞ、たとひかつ事こそなくとも即時にまけおはりてかかるはぢ(恥)にあひたりける事、いかなるゆへといふ事を余人いまだしらず、国主として民を討たん事鷹の鳥をとらんがごとしたとひまけ給うとも一年・二年・十年・二十年もささうべきぞかし五月十五日におこりて六月十四日にまけ給いぬわづかに三十余日なり、権の大夫殿は此の事を兼てしらねば祈祷もなしかまへ(構)もなし。

 然而(しかるに)日蓮小智を以て勘えたるに其の故あり所謂彼の真言の邪法の故なり僻事は一人なれども万国のわづらひなり一人として行ずとも一国二国やぶれぬべし況や三百余人をや国主とともに法華経の大怨敵となりぬ、いかでかほろびざらん、かかる大悪法とし(年)をへてやうやく関東におち下りて諸堂の別当供僧となり連連と行えり本より辺域の武士なれば教法の邪正をば知らずただ三宝をばあがむべき事とばかり思ふゆへに自然としてこれを用いきたりてやうやく年数を経る程に今他国のせめをかうふりて此の国すでにほろびなんとす、関東八箇国のみならず叡山・東寺・園城・七寺等の座主・別当・皆関東の御はからひとなりぬるゆへに隠岐の法皇のごとく大悪法の檀那と成(なり)定まり給いぬるなり、国主となる事は大小皆・梵王・帝釈・日月・四天の御計(はから)いなり、法華経の怨敵となり定まり給はば忽に治罰すべきよしを誓い給へり、随つて人王八十一代・安徳天皇に太政入道の一門与力して兵衛佐頼朝を調伏せんがために、叡山を氏寺と定め山王を氏神とたのみしかども安徳は西海に沈み明雲は義仲に殺さる一門・皆一時にほろび畢んぬ、第二度なり今度は第三度にあたるなり。

日蓮がいさめを御用いなくて真言の悪法を以て大蒙古を調伏せられば日本国還つて調伏せられなむ還著於本人と説けりと申すなり、然らば則ち罰を以て利生を思うに法華経にすぎたる仏になる大道はなかるべきなり現世の祈祷は兵衛佐殿・法華経を読誦する現証なり。

 此の道理を存ぜる事は父母と師匠との御恩なれば父母はすでに過去し給い畢んぬ、故道善御房は師匠にておはしまししかども法華経の故に地頭におそれ給いて心中には不便とおぼしつらめども外にはかたきのやうににくみ給いぬ、後にはすこし信じ給いたるやうにきこへしかども臨終にはいかにやおはしけむおぼつかなし地獄まではよもおはせじ又生死をはなるる事はあるべしともおぼへず中有にやただよひましますらむとなげかし、貴辺は地頭のいかりし時・義城房とともに清澄寺を出でておはせし人なれば何となくともこれを法華経の御奉公とおぼしめして生死をはなれさせ給うべし。

 此の御本尊は世尊説きおかせ給いて後二千二百三十余年が間・一閻浮提の内にいまだひろめたる人候はず、漢土の天台日本の伝教ほぼしろしめしていささかひろめさせ給はず当時こそひろまらせ給うべき時にあたりて候へ経には上行・無辺行等こそ出でてひろめさせ給うべしと見へて候へどもいまだ見へさせ給はず、日蓮は其の人に候はねどもほぼこころえて候へば地涌の菩薩の出でさせ給うまでの口ずさみにあらあら申して況滅度後のほこさきに当り候なり、願わくは此の功徳を以て父母と師匠と一切衆生に回向し奉らんと祈請仕り候、其の旨をしらせまいらせむがために御不審を書きおくりまいらせ候に他事をすてて此の御本尊の御前にして一向に後世をもいのらせ給い候へ、又これより申さんと存じ候、いかにも御房たちはからい申させ給へ。

  日蓮花押





by johsei1129 | 2019-11-09 21:48 | 御書十大部(五大部除く) | Trackback | Comments(0)
2019年 11月 09日

末法の本尊とは「法華経の題目を以て本尊とすべし」と明らかにした書【本尊問答抄】その三

[本尊問答抄 本文] その三
 日本国は人王三十代・欽明の御時・百済国より仏法始めて渡りたりしかども始は神と仏との諍論こわ(強)くして三十余年はすぎにき、三十四代推古天皇の御宇に聖徳太子始めて仏法を弘通し給う慧観・観勒の二(ふたり)の上人・百済国よりわたりて三論宗を弘め、孝徳の御宇に道昭・禅宗をわたす文武の御宇に新羅国の智鳳・法相宗をわたす第四十四代元正天皇の御宇に善無畏三蔵・大日経をわたす然而(しかるに)弘まらず、聖武の御宇に審祥(しんじょう)大徳・朗弁僧正等・華厳宗をわたす人王四十六代・孝謙天皇の御宇に唐代の鑒真和尚・律宗と法華経をわたす律をばひろめ法華をば弘めず、第五十代桓武天皇の御宇に延暦二十三年七月・伝教大師勅宣を給いて漢土に渡り妙楽大師の御弟子・道邃・行満に値い奉りて法華宗の定慧を伝え道宣律師に菩薩戒を伝え順暁和尚と申せし人に真言の秘教を習い伝えて日本国に帰り給いて、真言・法華の勝劣は漢土の師のおしへに依りては定め難しと思食しければここにして大日経と法華経と彼の釈と此の釈とを引き並べて勝劣を判じ給いしに大日経は法華経に劣りたるのみならず大日経の疏は天台の心をとりて我が宗に入れたりけりと勘え給へり。

 其の後・弘法大師・真言経を下されける事を遺恨とや思食(おぼしめ)しけむ真言宗を立てんとたばかりて法華経は大日経に劣るのみならず華厳経に劣れりと云云、あはれ慈覚・智証・叡山・園城にこの義をゆるさずば弘法大師の僻見は日本国にひろまらざらまし、彼の両大師・華厳・法華の勝劣をばゆるさねど法華・真言の勝劣をば永く弘法大師に同心せしかば存外に本の伝教大師の大怨敵となる、其の後日本国の諸碩徳(せきとく)等各智慧高く有るなれども彼の三大師にこえざれば今四百余年の間・日本一同に真言は法華経に勝れけりと定め畢んぬたまたま天台宗を習へる人人も真言は法華に及ばざるの由存ぜども天台の座主御室等の高貴におそれて申す事なしある(或)は又其の義をもわきまへぬかのゆへにからくして同の義をいへば一向真言師はさる事おもひもよらずとわらふなり。

 然らば日本国中に数十万の寺社あり皆真言宗なりたまたま法華宗を並ぶとも真言は主の如く法華は所従の如くなり若しくは兼学の人も心中は一同に真言なり、座主・長吏・検校・別当・一向に真言たるうへ上(かみ)に好むところ下皆したがふ事なれば一人ももれず真言師なり、されば日本国・或は口には法華経最第一とはよめども心は最第二・最第三なり或は身口意共に最第二三なり、三業相応して最第一と読める法華経の行者は四百余年が間一人もなしまして能持此経の行者はあるべしともおぼへず、如来現在・猶多怨嫉・況滅度後の衆生は上一人より下万民にいたるまで法華経の大怨敵なり。

 然るに日蓮は東海道・十五箇国の内・第十二に相当る安房の国長狭の郡・東条の郷・片海の海人(あま)が子なり、生年十二同じき郷の内・清澄寺(きよずみでら)と申す山にまかり登り住しき、遠国なるうへ寺とはなづけて候へども修学の人なし然而(しかるに)随分・諸国を修行して学問し候いしほどに我が身は不肖なり人はおしへず十宗の元起勝劣たやすくわきま(弁)へがたきところに、たまたま仏菩薩に祈請して一切の経論を勘て十宗に合せたるに倶舎宗は浅近(せんごん)なれども一分は小乗経に相当するに似たり、成実宗は大小兼雑して謬誤(みょうご)あり律宗は本は小乗・中比(なかごろ)は権大乗・今は一向に大乗宗とおもへり又伝教大師の律宗あり別に習う事なり、法相宗は源(もと)権大乗経の中の浅近の法門にてありけるが次第に増長して権実と並び結句は彼の宗宗を打ち破らんと存ぜり譬えば日本国の将軍将門・純友等のごとし下に居て上を破る、三論宗も又権大乗の空の一分なり此れも我は実大乗とおもへり、華厳宗は又権大乗と云ひながら余宗にまされり譬えば摂政関白のごとし然而(しかるに)法華経を敵となして立てる宗なる故に臣下の身を以て大王に順ぜんとするがごとし、浄土宗と申すも権大乗の一分なれども善導法然が・たばかりかしこくして諸経をば上げ観経をば下し正像の機をば上げ末法の機をば下して末法の機に相叶える念仏を取り出して機を以て経を打ち一代の聖教を失いて念仏の一門を立てたり譬えば心かしこくして身は卑しき者が身を上げて心はかなきものを敬いて賢人をうしなふがごとし、禅宗と申すは一代聖教の外に真実の法有りと云云譬えばをや(親)を殺して子を用い主を殺せる所従のしかも其の位につけるがごとし、真言宗と申すは一向に大妄語にて候が深く其の根源をかくして候へば浅機の人あらはしがたし一向に誑惑せられて数年を経て候先(ま)ず天竺に真言宗と申す宗なし然(しか)れども有りと云云、其の証拠を尋ぬ可きなり所詮大日経ここにわたれり法華経に引き向けて其の勝劣を見候処に大日経は法華経より七重下劣の経なり証拠彼の経・此の経に(分明ふんみょう)なり此(ここ)に之を引かずしかるを或は云く法華経に三重の主君・或は二重の主君なりと云云以ての外の大僻見なり、譬えば劉聡(りゅうそ)が下劣の身として愍帝(びんてい)に馬の口をとらせ超高が民の身として横(よこしま)に帝位につきしがごとし又彼の天竺の大慢婆羅門が釈尊を床(ゆか)として坐せしがごとし漢土にも知る人なく日本にもあやしめずしてすでに四百余年をおくれり。

[本尊問答抄 本文] その四に続く


by johsei1129 | 2019-11-09 21:39 | 御書十大部(五大部除く) | Trackback | Comments(0)
2019年 11月 09日

末法の本尊とは「法華経の題目を以て本尊とすべし」と明らかにした書【本尊問答抄】その二

[本尊問答抄 本文] その二
問うて云く法華経を本尊とすると大日如来を本尊とするといづれか勝るや、答う弘法大師・慈覚大師・智証大師の御義の如くならば大日如来はすぐれ法華経は劣るなり。
問う其の義如何、答う弘法大師の秘蔵宝鑰十住心に云く「第八法華・第九華厳・第十大日経」等云云。是は浅きより深きに入る、慈覚大師の金剛頂経の疏(じょ)・蘇悉地経の疏・智証大師の大日経の旨帰等に云く「大日経第一・法華経第二」等云云。
問う汝が意如何、答う釈迦如来・多宝仏・総じて十方の諸仏の御評定に云く已今当の一切経の中に法華最為第一なり云云。

問う今日本国中の天台・真言等の諸僧並びに王臣・万民疑つて云く日蓮法師めは弘法・慈覚・智証大師等に勝るべきか如何、答う日蓮反詰して云く弘法・慈覚・智証大師等は釈迦・多宝・十方の諸仏に勝るべきか是一、今日本の国王より民までも教主釈尊の御子なり釈尊の最後の御遺言に云く「法に依つて人に依らざれ」等云云、法華最第一と申すは法に依るなり、然るに三大師等に勝るべしやとの給ふ諸僧・王臣・万民・乃至所従牛馬等にいたるまで不孝の子にあらずや是二、問う弘法大師は法華経を見給はずや、答う弘法大師も一切経を読み給へり、其の中に法華経・華厳経・大日経の浅深・勝劣を読み給うに法華経を読給う様に云く文殊師利此の法華経は諸仏如来秘密の蔵なり諸経の中に於て最も其の下に在り、又読み給う様に云く薬王今汝に告ぐ我が所説の諸経あり而も此の経の中に於て法華最第三云云、又慈覚智証大師の読み給う様に云く諸経の中に於て最も其の中に在り又最為第二等云云、釈迦如来・多宝仏・大日如来・一切の諸仏・法華経を一切経に相対して説いての給はく法華最第一、又説いて云く法華最も其の上に在り云云、所詮釈迦十方の諸仏と慈覚・弘法等の三大師といづれを本とすべきや、但し事を日蓮によせて釈迦・十方の諸仏には永く背きて三大師を本とすべきか如何。

問う弘法大師は讃岐の国の人勤操僧正の弟子なり、三論・法相の六宗を極む、去る延暦二十三年五月桓武天皇の勅宣を帯(お)びて漢土に入り順宗皇帝の勅に依りて青竜寺に入りて慧果和尚に真言の大法を相承し給へり慧果和尚は大日如来よりは七代になり給う人はかはれども法門はをなじ譬えば瓶の水を猶瓶にうつすがごとし、大日如来と金剛薩た・竜猛・竜智・金剛智・不空・慧果・弘法との瓶は異なれども所伝の智水は同じ真言なり此の大師・彼(か)の真言を習いて三千の波涛をわたりて日本国に付き給うに平城・嵯峨・淳和(じゅんな)の三帝にさづけ奉る、去る弘仁十四年正月十九日に東寺を建立すべき勅を給いて真言の秘法を弘通し給う然らば五畿・七道・六十六箇国・二の島にいたるまでも鈴(れい)をとり杵(しょ)をにぎる人たれかこの末流にあらざるや。

 又慈覚大師は下野(しもつけ)の国の人・広智菩薩の弟子なり、大同三年・御歳十五にして伝教大師の御弟子となりて叡山に登りて十五年の間・六宗を習い法華真言の二宗を習い伝え承和五年御入唐・漢土の会昌(かいしょう)天子の御宇なり、法全・元政・義真・法月・宗叡・志遠(しおん)等の天台・真言の碩学に値い奉りて顕密の二道を習い極め給う、其の上殊に真言の秘教は十年の間功を尽し給う大日如来よりは九代なり嘉祥(かじょう)元年・仁明天皇の御師なり、仁寿・斉衡(さいこう)に金剛頂経・蘇悉地経の二経の疏(じょ)を造り叡山に総持院を建立して第三の座主となり給う天台の真言これよりはじまる。

 又智証大師は讃岐の国の人・天長四年・御年十四・叡山に登り義真和尚の御弟子となり給う、日本国にては義真・慈覚・円澄・別当等の諸徳に八宗を習い伝え去る仁寿元年に文徳天皇の勅を給いて漢土に入り宣宗皇帝の大中年中に法全良しょ和尚等の諸大師に七年の間・顕密の二教習い極め給いて去る天安二年に御帰朝・文徳・清和等の皇帝の御師なり、何れも現の為当の為月の如く日の如く代代の明主・時時の臣民・信仰余り有り帰依怠り無し故に愚癡の一切偏に信ずるばかりなり誠に法に依つて人に依らざれの金言を背かざるの外は争か仏によらずして弘法等の人によるべきや、所詮其の心如何、答う夫れ教主釈尊の御入滅一千年の間・月氏に仏法の弘通せし次第は先(さき)五百年は小乗・後の五百年は大乗・小大・権実の諍(あらそい)はありしかども顕密の定めはかすかなりき、像法に入りて十五年と申せしに漢土に仏法渡る始は儒道と釈教と諍論して定めがたかりきされども仏法やうやく弘通せしかば小大・権実の諍論いできたる、されどもいた(甚)くの相違もなかりしに、漢土に仏法渡りて六百年・玄宗皇帝の御宇善無畏・金剛智・不空の三三蔵・月氏より入り給いて後・真言宗を立てしかば、華厳・法華等の諸宗は以ての外にくだされき上一人自り下万民に至るまで真言には法華経は雲泥なりと思いしなり、其の後・徳宗皇帝の御宇に妙楽大師と申す人真言は法華経にあながち(強)にをとりたりとおぼしめししかども、いたく立てる事もなかりしかば法華・真言の勝劣を弁える人なし。

[本尊問答抄 本文] その三に続く





by johsei1129 | 2019-11-09 21:29 | 御書十大部(五大部除く) | Trackback | Comments(0)
2019年 11月 09日

末法の本尊とは「法華経の題目を以て本尊とすべし」と明らかにした書【本尊問答抄】その一

【本尊問答抄(ほんぞんもんどうしょう】
■出筆時期:弘安元年九月(西暦1278年) 五十七歳御作
■出筆場所:身延山 草庵にて述作
■出筆の経緯:大聖人が幼少の頃修行した清澄寺時代の兄弟子・浄顕房(後に大聖人に帰依)からの本尊についての質問に答えられている。内容は『末代悪世の凡夫は何物を以て本尊と定むべきや、答えて云く法華経の題目を以て本尊とすべし』と、明言されている。
尚、大聖人は五十二歳の時、佐渡の地で末法の法本尊について詳細にあかした【観心本尊抄】を書かれると共に、実際にご本尊を自ら墨にてしたためられている。またその年、ご本尊をご下付された信徒に宛てた書【経王殿ご返事』のなかで、本尊について『日蓮がたましひ(魂)をすみ(墨)にそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給へ。仏の御意(みこころ)は法華経なり。日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし』と書き記し、諸法実相の体としての『妙法蓮華経』を具現した、末法の本仏の魂魄(こんぱく)をしたためたのが「末法の本尊」であることを明らかにしている。
■ご真筆: 現存していない。時代写本:日興上人書写[断片](北山本門寺 蔵)、日興上人書写(日蓮正宗富久成寺 蔵)

[本尊問答抄 本文] その一
 問うて云く末代悪世の凡夫は何物を以て本尊と定むべきや、答えて云く法華経の題目を以て本尊とすべし、問うて云く何れの経文何れの人師の釈にか出でたるや、答う法華経の第四法師品に云く「薬王在在処処に若しは説き若しは読み若しは誦(じゅ)し若しは書き若しは経巻所住の処には皆応に七宝の塔を起てて極めて高広厳飾(こうこうごんじき)なら令むべし復舎利を安んずることを須(もち)いじ所以は何ん此の中には已に如来の全身有(いま)す」等云云、涅槃経の第四如来性品に云く「復次に迦葉諸仏の師とする所は所謂法なり是の故に如来恭敬(くぎょう)供養す法常なるを以ての故に諸仏も亦常なり」云云、天台大師の法華三昧に云く「道場の中に於て好き高座を敷き法華経一部を安置し亦必ずしも形像(ぎょうぞう)舎利並びに余の経典を安(お)くべからず唯法華経一部を置け」等云云。

 疑つて云く天台大師の摩訶止観の第二の四種三昧の御本尊は阿弥陀仏なり、不空三蔵の法華経の観智の儀軌は釈迦多宝を以て法華経の本尊とせり、汝何ぞ此等の義に相違するや、答えて云く是れ私の義にあらず上に出だすところの経文並びに天台大師の御釈なり、但し摩訶止観の四種三昧の本尊は阿弥陀仏とは彼は常坐・常行・非行非坐の三種の本尊は阿弥陀仏なり、文殊問経・般舟(はんじゅ)三昧経・請観音(しょうかんのん)経等による、是れ爾前の諸経の内・未顕真実の経なり、半行半坐三昧には二あり、一には方等経の七仏・八菩薩等を本尊とす彼の経による、二には法華経の釈迦・多宝等を引き奉れども法華三昧を以て案ずるに 法華経を本尊とすべし、不空三蔵の法華儀軌は宝塔品の文によれり、此れは法華経の教主を本尊とす法華経の正意にはあらず、上に挙ぐる所の本尊は釈迦・多宝・十方の諸仏の御本尊・法華経の行者の正意なり。

 問うて云く日本国に十宗あり所謂・倶舎・成実・律・法相・三論・華厳・真言・浄土・禅・法華宗なり、此の宗は皆本尊まちまちなり所謂・倶舎・成実・律の三宗は劣応身の小釈迦なり、法相三論の二宗は大釈迦仏を本尊とす華厳宗は台上のるさな(盧遮那)報身の釈迦如来、真言宗は大日如来、浄土宗は阿弥陀仏、禅宗にも釈迦を用いたり、何ぞ天台宗に独り法華経を本尊とするや、答う彼等は仏を本尊とするに是は経を本尊とす其の義あるべし、問う其の義如何仏と経といづれか勝れたるや、答えて云く本尊とは勝れたるを用うべし、例せば儒家には三皇五帝を用いて本尊とするが如く仏家(ぶっけ)にも又釈迦を以て本尊とすべし。

 問うて云く然らば汝云何ぞ釈迦を以て本尊とせずして法華経の題目を本尊とするや、答う上に挙ぐるところの経釈を見給へ私の義にはあらず釈尊と天台とは法華経を本尊と定め給へり、末代今の日蓮も仏と天台との如く法華経を以て本尊とするなり、其の故は法華経は釈尊の父母・諸仏の眼目なり釈迦・大日総じて十方の諸仏は法華経より出生(しゅっしょう)し給へり故に今能生を以て本尊とするなり、問う其証拠如何、答う普賢経に云く「此の大乗経典は諸仏の宝蔵なり十方三世の諸仏の眼目なり三世の諸の如来を出生する種なり」等云云、又云く「此の方等経は是れ諸仏の眼なり諸仏は是に因つて五眼を具することを得たまえり仏の三種の身は方等より生ず是れ大法印にして涅槃海を印す此くの如き海中より能く三種の仏の清浄の身を生ず此の三種の身は人天の福田応供(おうぐ)の中の最なり」等云云、此等の経文仏は所生・法華経は能生・仏は身なり法華経は神(たましい)なり、然れば則ち木像画像の開眼供養は唯法華経にかぎるべし而るに今木画の二像をまうけて大日仏眼の印と真言とを以て開眼供養をなすはもと(最)も逆なり。

[本尊問答抄 本文] その二に続く


by johsei1129 | 2019-11-09 21:20 | 御書十大部(五大部除く) | Trackback | Comments(0)
2019年 11月 09日

法華経の日本伝来は「人王第三十四代推古の四年なり」と記された書【三論宗御書】

【三論宗御書】
■出筆時期:弘安元年(1278年) 五十七歳御作。
■出筆場所:身延山中の草庵にて。
■出筆の経緯:本書は断簡が伝えられておりますが述作日等の詳細は不明です。内容は弟子・信徒の教化のために、仏教各宗派の日本伝来を論じられた書であると推察されます。
文中で法華経にの伝来について「人王第三十四代推古の四年なり」と記されておられます。
尚「太子」とは推古天皇の摂政であった聖徳太子の事で、聖徳太子は自ら法華経の注釈書である「法華義疏」を述作されたほど法華経への造詣が深かったと思われます。
■ご真筆:富士大石寺(断簡)所蔵(一般非公開)。
法華経の日本伝来は「人王第三十四代推古の四年なり」と記された書【三論宗御書】_f0301354_22113816.jpg












[聖徳太子著作 :法華義疏 真筆]

【三論宗御書 本文】
 三論宗の始めて日本に渡りしは三十四代推古の御宇治(みよ・しろしめ)す十年壬戌(みずのえいぬ)の十月、百済の僧観勒之を渡す。
日本記の太子の伝を見るに異義無し。但し三十七代との事は流布の始めなり。
天台宗律宗の渡れる事は天平(てんぴょう)勝宝六年甲午(きのえうま)二月十六日丁未(ひのとひつじ)乃至四月に京に入り東大寺に入る、天台止観等云云。諸伝之に同じ、人王第四十六代孝謙天皇の御宇なり。聖武は義謬りなり、書き直す可きか。戒壇は以て前に同じ。
大日経の日本に渡れる事は弘法の遺告(ゆいごう)に云く「件の経王は大日本国高市(たけち)郡久米道場の東塔の下に在り」云云。此れ又元政天皇の御宇なり。

法華経の渡り始めし事は人王第三十四代推古の四年なり。太子恵慈法師に謂(い)つて曰く「法華経の中に此の句・落字」と云云。
太子使を漢土に遣わし已前の法華経此の国に有りや。推知するに、欽明の御宇に渡る所の経の中に法華経有るなり。
但し自ら御不審有る大事あり。所謂日本記に云く「欽明天皇十三年壬申冬十月十三日辛酉(かのととり)百済国聖明王始めて金銅釈迦像一躯(いっく)を献ず」等云云。
善光寺流記に云く「阿弥陀並びに観音勢至欽明天皇の御宇治天下(みよ・あめがしたしろしめす)十三年壬申十月十三日辛酉百済国の明王件(くだん)の仏菩薩頂戴」云云。相違如何。





by johsei1129 | 2019-11-09 21:12 | 弟子・信徒その他への消息 | Trackback | Comments(0)
2019年 11月 09日

飢えた世に蔵を開いて全てを民に施した金色大王に匹敵すると称えられた【大田殿女房御返事】

【大田殿女房御返事】
■出筆時期:弘安元年(西暦1278年)九月二十四日 五十七歳御作
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:本書は鎌倉幕府問註所(現在の裁判所)に勤めていた強信徒の大田乗明の夫人に宛てられた書です。大田乗明は富城常忍と共に下総国での中心となる強信徒で大聖人の外護に務められ、三大秘法抄を与えられるなど、大聖人の法門への理解も深かったと思われます。また子息は出家し日高の名を賜り中山法華経寺の開基に尽力しております。

大聖人は本抄で金色王経に説かれている金色大王の謂れを説いて、大田入道夫妻のご供養は金色大王に匹敵し、「現世には福人となり後生には霊山浄土へまいらせ給うべし」と称えられておられます。

金色大王の謂れとは「金色大王が治めていた波羅奈国が旱魃による飢饉で民が飢えていた時、大王は蔵を開いて民に施し、最後に残された大王の一日分の米も全て衆僧に供養し、まさに飢え死にせんとするその時「天より飲食雨のごとくふりて大国一時に富貴せり」となったとのことです。これは本抄を記された弘安元年も前年から続く疫病のため日本中がまさに金色王経で説かれている「宅中には死人充満し道路には骸骨充満せり」の状況だったと思われます。
■ご真筆:現存しておりません。

[大田殿女房御返事 本文]

 八木(米)一石、付たり十合。
者(ていれば=というわけで)大旱魃の代に、かは(渇)ける物に水をほどこしては大竜王と生れて雨をふらして人天をやしなう。うえたる代に食をほどこせる人は国王と生れて其の国ゆたかなり。

過去の世に金色と申す大王ましましき、其の国をば波羅奈(はらない)国と申す。十二年が間旱魃ゆきて人民うえ死ぬ事おびただし、宅中には死人充満し道路には骸骨充満せり。
其の時大王一切衆生をあはれみて、おおくの蔵(くら)をひらきて施をほどこし給いき。蔵の中の財つきて唯一日の御供(くご)のみのこりて候いし、衆僧をあつめて供養をなし王と后と衆僧と万民と皆うえ死なんとせし程に、天より飲食(おんじき)雨のごとくふりて大国一時に富貴せりと金色王(こんじきおう)経にとかれて候。

此れも又かくのごとし、此の供養によりて現世には福人となり後生には霊山浄土へまいらせ給うべし。恐恐謹言。

九月二十四日  日 蓮 花押
大田入道殿女房御返事





by johsei1129 | 2019-11-09 21:05 | 大田乗明・尼御前 | Trackback | Comments(0)