1 2019年 11月 08日
【種種物御消息】 ■出筆時期:弘安元年(1287年)七月七日 五十七歳御作 ■出筆場所:身延山中の草庵にて。 ■出筆の経緯:本消息を送られた南条平七郎は駿河国富士方面の信徒で、恐らく南条時光の縁戚と思われます。平七郎は本消息を賜る二年前には[本尊供養御書]を賜っておられます。 大聖人は本書の前段で「今の天台の座主・東寺<中略>法華経を信じ読むに似たれども、其の根本をたづぬれば弘法大師・慈覚大師・智証大師・善導・法然等が弟子なり。源にごりぬれば流(ながれ)きよからず、天くもれば地くらし<中略>日本六十六ケ国の比丘・比丘尼等の善人等・皆無間地獄に堕つべきなり」と断じ、さらに「此の法門は当世日本国に一人も知りて候人なし、ただ日蓮一人計りにて候へば、此れを知つて申さずば日蓮、無間地獄に堕ちて浮かぶ期なかるべし」と説いて法華経信仰を貫くことを諭されておられます。 また後段では当時の身延山中の状況を「雨はしのをたてて三月におよび、川はまさりて(増水の意)九十日、山くづれ、道塞さがり、人も通わず、かつて(食料の意)も絶えて、いのち(命)かうにて候いつるに、この種々のもの給いて法華経の御飢えをも継ぎ、釈迦仏の御命をも助け参らせ給いぬ」と長雨が三ヶ月も続き厳しい環境の中、種々のご供養をされた平七郎は釈迦仏の御命助けるのと同様の功徳だと讃えられておられます。 ■ご真筆:東京都妙法寺所蔵(末尾1紙)、他2箇所にて断簡所蔵。古写本:日興上人筆全文(富士大石寺蔵)。 ![]() ご真筆本文箇所:さかひは、山たかく河ふかく~七月七日 日蓮花押 迄。 [種種物御消息 本文] しなしな(種種)のもの(物)をく(送)り給びて法華経にまいらせて候。 抑日本国の人を皆やしないて候よりも父母一人やしないて候は功徳まさり候、日本国の皆人をころして候は七大地獄に堕ち候、父母をころせる人は第八の無間地獄と申す地獄に堕ち候。 人ありて父母をころし釈迦仏の御身よりち(血)をいだして候人は、父母をころすつみにては無間地獄に堕ちず、仏の御身よりち(血)をいだすつみにて無間地獄に堕ち候なり。又十悪・五逆をつくり十方・三世の仏の身より、ち(血)をいだせる人の法華経の御かたきとなれるは、十悪・五逆・十方の仏の御身より、ちをいだせるつみにては阿鼻地獄へは入る事なし。ただ法華経不信の大罪によりて無間地獄へは堕ち候なり。 又十悪・五逆を日日につくり、十方の諸仏を月月にはう(謗)ずる人と、十悪・五逆を日日につくらず十方の諸仏を月月にはう(謗)せず候人、此の二人は善悪はる(遥)かにかわりて候へども、法華経を一字一点も、あひそむき(背き)ぬれば、かならず・おなじやうに無間地獄へ入り候なり。 しかればいまの代の海人(あま)・山人(かりうど)・日日に魚鹿等をころし、源家・平家等の兵士(つわもの)等のとしどしに合戦をなす人人は、父母をころさねば・よも無間地獄には入り候はじ。 便宜(びんぎ)候はば法華経を信じて、たまたま仏になる人も候らん。今の天台の座主・東寺・御室・七大寺の検校・園城寺の長吏等の真言師・並びに禅宗・念仏者・律宗等は眼前には、法華経を信じよむにに(似)たれども、其の根本をたづぬれば弘法大師・慈覚大師・智証大師・善導・法然等が弟子なり。 源にごりぬれば流きよ(清)からず、天くもれば地くら(暗)し、父母謀反をおこせば妻子ほろぶ、山くづるれば草木た(倒)ふるならひなれば、日本六十六ケ国の比丘・比丘尼等の善人等・皆無間地獄に堕つべきなり。 されば今の代に地獄に堕つるものは、悪人よりも善人、善人よりも僧尼、僧尼よりも持戒にて智慧かしこき人人の阿鼻地獄へは堕ち候なり。 此の法門は当世・日本国に一人もし(知)りて候人なし、ただ日蓮一人計りにて候へば、此れを知つて申さずば・日蓮・無間地獄に堕ちて・うかぶ期(ご)なかるべし。 譬へば謀反のものを・しりながら国主へ申さぬとが(失)あり、申せばかたき雨のごとし風のごとし・むほんのもののごとし・海賊・山賊のもののごとし、かたがた・しのびがたき事なり。 例せば威音王仏の末の不軽菩薩のごとし歓喜仏のすえの覚徳比丘のごとし、天台のごとし・伝教のごとし。又かの人人よりも・かたきすぎたり、かの人人は諸人ににくまれたりしかども、いまだ国主にはあだまれず、これは諸人よりは国主にあだ(怨)まるる事・父母のかたきよりも・すぎたるをみよ。 かかるふしぎの者をふびん(不便)とて御くやう候は、日蓮が過去の父母か、又先世の宿習か、おぼろげの事にはあらじ。其の上雨ふり・かぜふき・人のせい(制)するにこそ心ざしはあらわれ候へ。 此れも又かくのごとし。ただ(平)なる時だにも、するが(駿河)とかい(甲斐)とのさかひ(境)は、山たかく河ふかく・石おほくみち(路)せば(狭)し。いわうや・たうじ(当時)は、あめ(雨)はしの(篠)をたてて三月におよび、かわ(川)はまさりて九十日、やまくづれ・みちふさがり・人もかよはず、かつて(糧)もた(断)えて・いのちか(乞)うにて候いつるに、このすず(種種)のもの給いて法華経の御うえ(飢)をもつぎ・釈迦仏の御いのちをも、たすけまいらせ給いぬ御功徳、ただをしはからせ給うべし、くはしくは又又申すべし、恐恐。 七月七日 日 蓮 花 押 ▲
by johsei1129
| 2019-11-08 23:08
| 弟子・信徒その他への消息
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2019年 11月 08日
【六難九易抄((妙法尼御前御返事)】 ■出筆時期:弘安元(1278)七月三日 五十七歳 御作 ■出筆場所:鎌倉 草庵にて。 ■出筆の経緯:本抄の対告衆は、ご真筆が残されていなため確定ではありませんが、古来より駿河国岡宮に住んでいた妙法尼と言われております。妙法尼はおそらく夫の頼みだと思われますが、法華経について大聖人に質問され、本抄はその問への返書となっております。 大聖人は冒頭で「先法華経につけて御不審をたてて其趣を御尋ね候事ありがたき大善根にて候<中略>末法のけふこのごろ法華経の一句一偈のいはれをも尋ね問う人はありがたし<中略>爰に知んぬ若し御持ちあらば即身成仏の人なるべし」と記すとともに、「今此の御不審は法華経宝塔品の六難九易の六の難き事の内なり」と、妙法尼を称えられておられます。 さらに妙法尼の質問の趣旨について「南無妙法蓮華経と唱うる計りにて仏になるべしやと、此の御不審所詮に候」と記し、「一切の事につけて所詮・肝要と申す事あり。法華経一部の肝心は南無妙法蓮華経の題目にて候、朝夕御唱え候はば正く法華経一部を真読にあそばすにて候」と「法華経の肝心の南無妙法蓮華経の題目を唱ることが肝要である」と諭されておられます。 末尾に「委くは見参に入り候て申すべく候と申させ給へ」と記されておられますので、法門の詳しいことは見参された時に申しますので、そのように伝えてください」と、尼御前の夫に見参を促されておられます。 尚、本書を送られた二年後に、妙法尼が夫が臨終の際「妙法蓮華経を昼夜唱え、臨終間際には二声大きな声で唱え、生前より色も白く、形も損なわなかった」と大聖人に知らせた手紙への大聖人り返書 [妙法尼御前御返事]が残されております。 ■ご真筆:現存しておりません。 [六難九易抄(妙法尼御前御返事) 本文] 先(まず)法華経につけて御不審をたてて其趣を御尋ね候事ありがたき大善根にて候、須弥山を他方の世界へつぶてにな(擲)ぐる人よりも・三千大千世界をまりの如くにけあ(蹴上)ぐる人よりも無量の余の経典を受け持ちて人に説ききかせ聴聞の道俗に六神通をえせしめんよりも、末法のけふこのごろ(今日・比頃)法華経の一句一偈のいはれをも尋ね問う人はありがたし、此の趣を釈し給いて人の御不審をはらさすべき僧もありがたかるべしと、法華経の四の巻・宝塔品と申す処に六難九易と申して大事の法門候、今此の御不審は六(むつ)の難き事の内なり、爰に知んぬ若し御持ちあらば即身成仏の人なるべし、此の法華経には我等が身をば法身如来・我等が心をば報身如来・我等がふるまひをば応身如来と説かれて候へば、此の経の一句一偈を持ち信ずる人は皆此の功徳をそなへ候。 南無妙法蓮華経と申すは是れ一句一偈にて候、然れども同じ一句の中にも肝心にて候、南無妙法蓮華経と唱うる計りにて仏になるべしやと、此の御不審所詮に候・一部の肝要八軸の骨髄にて候。 人の身の五尺・六尺のたましひ(神)も一尺の面(かお)にあらはれ・一尺のかほ(顏)のたましひも一寸の眼の内におさまり候、又日本と申す二(ふたつ)の文字に六十六箇国の人畜・田畠・上下・貴賤・七珍万宝・一(ひとつ)もかくる事候はず収めて候、其のごとく南無妙法蓮華経の題目の内には一部八巻・二十八品・六万九千三百八十四の文字・一字ももれず・かけずおさめて候。 されば経には題目たり仏には眼たりと楽天ものべられて候、記の八に略して経題を挙ぐるに玄に一部を収むと妙楽も釈しおはしまし候、心は略して経の名計りを挙ぐるに一部を収むと申す文なり。一切の事につけて所詮・肝要と申す事あり。法華経一部の肝心は南無妙法蓮華経の題目にて候、朝夕御唱え候はば正(まさし)く法華経一部を真読にあそばすにて候、二返唱うるは二部乃至百返は百部・千返は千部・加様に不退に御唱え候はば不退に法華経を読む人にて候べく候、天台の六十巻と申す文には此のやうを釈せられて候、かかる持ちやすく行じやすき法にて候を末代悪世の一切衆生のために説きをかせ給いて候。 経文に云く「於末法中・於後末世法欲滅時・受持読誦・悪世末法時・能持是経者・後五百歳中広宣流布」と、此れ等の文の心は当時末法の代には法華経を持ち信ずべきよしを説かれて候、かかる明文を学しあやまりて日本・漢土・天竺の謗法の学匠達皆念仏者・真言・禅・律の小乗・権教には随い行じて法華経を捨てはて候ぬ、仏法にまど(惑)へるをば・しろ(知)しめされず、形まことしげなれば云う事も疑ひあらじと計り御信用候間、をもはざるに法華経の敵・釈迦仏の怨とならせ給いて今生には祈る所願も虚しく命もみじかく後生には無間大城をすみかとすべしと正しく経文に見えて候。 さて此の経の題目は習い読む事なくして大なる善根にて候、悪人も女人も畜生も地獄の衆生も十界ともに即身成仏と説かれて候は、水の底なる石に火のあるが如く百千万年くらき所にも燈を入れぬればあか(明)くなる、世間のあだなるものすら尚加様に不思議あり、何に況や仏法の妙なる御法(みのり)の御力をや、我等衆生悪業・煩悩・生死果縛の身が、正・了・縁の三仏性の因によりて即法・報・応の三身と顕われん事疑ひなかるべし、妙法経力即身成仏と伝教大師も釈せられて候、心は法華経の力にてはくちなは(虵)の竜女も即身成仏したりと申す事なり御疑候べからず委くは見参に入り候て申すべく候と申させ給へ。 弘安元年戊寅七月三日 日 蓮 花押 妙法尼御前御返事 ▲
by johsei1129
| 2019-11-08 22:51
| 妙法比丘尼
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2019年 11月 08日
【米穀御書】 ■出筆時期:弘安元年(1287年)六月 五十七歳歳御作 ■出筆場所:身延山中の草庵にて。 ■出筆の経緯:本抄は全体の一部だけが伝えられており、宛先の詳細は不明ですが、甲斐国富士方面に住まわれていた松野殿の名前が「松野殿にも見参候はば、くはしくかたらせ給へ」と本文に出てきており、さらに文末で「其の国の仏法は貴辺にまかせたてまつり候ぞ」と記され、大聖人が特別な信頼を寄せておられることから、松野殿の縁戚でもある南条時光ではないかと強く推定されます。 本抄で大聖人は米穀を時光が供養されたことに対し「法華の行者をやしなうは慈悲の中の大慈悲の米穀なるべし。一切衆生を利益するなればなり。故に仏舎利変じて米と成るとは是なるべし」と記され、一切衆生を救済するために出現した法華経の行者を養うことは、つまるところ一切衆生を利益することになると時光を称えておられます。 本書を記された弘安元年は、日興上人及び南条時光の駿河方面の布教が活発化し、後の熱原の三烈士・神四郎、弥五郎、弥六郎の兄弟が入信しております。本文で「治部房・下野房等来り候はば、いそぎいそぎつかはすべく候」と記されておられるのは、時光の布教活動への支援をする為の大聖人の配慮であると拝します。 尚、文末の「仏種は縁に従つて起る是の故に、一乗を説くなるべし」は法華経方便品第二の文で、恐らく法華経に曰く、若しくは法華経方便品第二に曰くのご文があったのではと、推知致します。尚、治部房は駿河に在住した日位であろうと思われます。日興上人の『弟子分本尊目録』には「一、駿河國四十九院の住治部房は、蓮華闍梨の弟子也。仍て日興之を申し与う、但し聖人御滅後に背き了ぬ」し記されており、晩年は残念ながら日興上人に違背されたと思われます。 ■ご真筆:現存しておりません。 [米穀御書 本文] 米穀も又又かくの如し、同じ米穀なれども謗法の者をやしなうは仏種をた(断)つ、命をついで弥弥(いよいよ)強盛の敵人となる。又命をたすけて終に法華経を引き入るべき故か。 又法華の行者をやしなうは慈悲の中の大慈悲の米穀なるべし。一切衆生を利益するなればなり。故に仏舎利変じて米と成るとは是なるべし。 かかる今時分人をこれまでつか(遣)はし給う事、うれしさ申すばかりなし。釈迦仏・地涌の菩薩・御身に入りかはらせ給うか。 其の国の仏法は貴辺にまか(任)せたてまつり候ぞ。(法華経方便品に曰く)仏種は縁に従つて起る是の故に、一乗を説くなるべし。 又治部房・下野房等来り候はば、いそぎいそぎつかはすべく候。松野殿にも見参候はば・くはしくかたらせ給へ。 【妙法蓮華経 方便品第二】 諸仏本誓願 我所行仏道 普欲令衆生 亦同得此道 未来世諸仏 雖説百千億 無数諸法門 其実為一乗 諸仏両足尊 知法常無性 仏種従縁起 是故説一乗 [和訳] 諸仏の本(本来)の誓願は、我(仏)が行ぜし所の仏道を、 普く衆生をして、亦(仏と)同じく此の道を得させるしめんと欲するなり。 未来世の諸仏は、百千億の、 無数の諸々の法門を説くと謂えど、その実は一乗(仏乗)の為也。 諸々の諸仏・両足尊(※仏の尊称)は、法は常に無性にして、 仏種は縁に従つて起る是の故に、一乗を説くなるべし。 ▲
by johsei1129
| 2019-11-08 22:38
| 南条時光(上野殿)
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2019年 11月 08日
【窪尼御前御返事】 ■出筆時期:弘安元年(西暦1278)六月二十七日 五十七歳御作。 ■出筆場所:身延山中 草庵にて。 ■出筆の経緯:本抄は日興上人のおばで駿河・富士郡の故高橋入道の御家尼・窪尼御前御が種々のご供養されたことへの返書となっております。 本抄を著された弘安元年は前年の建治三年末頃から疫病が大流行し、建治四年二月二十九日には、建治四年から弘安元年に改元される程でした。 さらに鎌倉幕府は五月二十六日、国内二十二の社司を召して疫病の祈願を執り行います。その渦中に、窪尼が種々のご供養をなされたことに大聖人は「大風の草をなびかし、(雷)の人ををどろかすやうに候」と窪尼の変わらぬ志に驚嘆され、「よの中にいかにいままで御しんようの候いけるふしぎさよ」と讃えられておられます。 また大聖人はこの弘安元年の四月から七月の四ヶ月間で、現存するだけで二十一通の消息を南条時光、四条金吾、大田乗明、富木常忍、妙法尼、池上宗長、千日尼らの主だった信徒に送られ、法華経信仰を貫くよう励まされておられます。 ■ご真筆:現存しておりません。古写本:日興上人筆(富士大石寺所蔵) 【窪尼御前御返事 本文】 すず(種種)の御供養送り給い了んぬ。 大風の草をなびかし・いかづち(雷)の人ををどろかすやうに候。 よの中にいかにいままで御しんようの候いけるふしぎさよ。 ね(根)ふかければ、は(葉)かれず、いづみ(泉)に玉あれば水たえずと申すやうに、 御信心のねのふかく、いさぎ(潔)よき玉の心のうちにわた(渡)らせ給うか。 たうとしたうとし、恐恐。 六月二十七日 日 蓮 花 押 くぼの尼御前御返事 ▲
by johsei1129
| 2019-11-08 22:34
| 弟子・信徒その他への消息
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2019年 11月 08日
【兵衛志殿御返事(味噌一桶御書)】 ■出筆時期:弘安元年(西暦1278年)六月二六日 五十七歳 御作。 ■出筆場所:身延山中 草庵にて。 ■出筆の経緯:本抄は短いご消息文ですが、池上兄弟の弟・宗長から味噌一桶を供養されたことへの返書となっております。本書で大聖人は、晩年苦しめられた持病の下り腹が四条金吾の調合した薬で回復し、また宗長から送られた味噌でさらに心持ちも良くなったと喜ばれ、最後には「今年御つゝがなき事をこそ、法華経に申し上げまいらせ候」と、宗長の安全を祈ったと伝えておられます。尚大聖人はこの書をしたためた前後、六月二十五日から二十七日の三日間で、日女御前、富木常忍、四条金吾、池上宗長、窪尼御前と五通ものご消息文を信徒に送られておられ、信徒を精力的に励まされており、この事実からこの時期、病状が回復していたことがうかがわれます。 ■ご真筆:越前市 妙勧寺 所蔵。 ![]() [兵衛志殿御返事((味噌一桶御書) 本文] [英語版] みそをけ一(ひとつ)給び了んぬ。はらのけ(下痢)はさゑもん殿(四条金吾)の御薬になを(治)りて候。 又このみそをな(嘗)めていよいよ心ちなをり候ひぬ。 あわれあわれ今年御つゝがなき事をこそ、法華経に申し上げまいらせ候へ。恐々謹言。 六月廿六日 日 蓮 花 押 兵 衛 志 (さかん) 殿 御 返 事 ▲
by johsei1129
| 2019-11-08 22:32
| 池上兄弟
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2019年 11月 08日
【中務左衛門尉殿御返事(二病抄)】 ■出筆時期:弘安元年(西暦1278年)六月二十六日 五十七歳 御作。 ■出筆場所:身延山中 草庵にて。 ■出筆の経緯:本抄は中務左衛門尉殿つまり四条金吾に当てられたご消息文です。大聖人は医療の心得のある金後に対し「夫れ人に二病あり」と記し、身の病は「方薬をもつて此れを治す」ことができるが、「心の病所謂(いわゆる)三毒は、仏に有らざれば二天・三仙も治しがたし」と記すとともに、法華経譬喩品を引いて、法華経を毀謗する者の病の重さを示しております。文末では、自身の下り腹が「貴辺の良薬を服してより已来日日月月に減じて今百分の一となれり」と喜ばれると共に、金吾の薬は「教主釈尊の入りかわり・まいらせて日蓮をたすけ給うか」と強く称えられております。 ■ご真筆:京都市 立本寺 所蔵。 ![]() [第四紙/六紙] [中務左衛門尉殿御返事(二病抄) 本文] 夫れ人に二病あり。一には身の病所謂地大百一・水大百一・火大百一・風大百一・已上四百四病。 此の病は治水・流水・耆婆・偏鵲(へんじゃく)等の方薬をもつて此れを治す。二には心の病所謂三毒・乃至八万四千の病なり。仏に有らざれば二天・三仙も治しがたし、何に況や神農黄帝の力及ぶべしや。又心の病に重重の浅深分れたり、六道の凡夫の三毒・八万四千の心の病をば、小乗の三蔵・倶舎・成実・律宗の仏此れを治す。 大乗の華厳・般若・大日経等の経経をそしりて起る三毒八万の病をば、小乗をもつて此れを治すればかへりては増長すれども平愈(へいゆ)全くなし、大乗をもつて此れを治すべし。 又諸大乗経の行者の法華経を背きて起る三毒・八万の病をば、華厳・般若・大日経・真言三論等をもつて此れを治すれば、いよいよ増長す。譬へば木石等より出でたる火は水をもつて消しやすし、水より起る火は水をかくればいよいよ熾盛(さかん)に炎上りて高くあがる。 今の日本国去(こぞ)今年の疫病は、四百四病にあらざれば華陀偏鵲(かだ・へんじゃく)が治も及ばず、小乗権大乗の八万四千の病にもあらざれば諸宗の人人のいのりも叶はず、かへりて増長するか。設い今年はとどまるとも、年年に止(やみ)がたからむか。いかにも最後に大事出来して後定まる事も候はんずらむ。 法華経(譬喩品第三)に云く「若し医道を修して方に順つて病を治せば更に他の疾を増し或は復(また)死を至さん而も復増劇せん」 涅槃経に云く「爾の時に王舎大城の阿闍世王○偏体に瘡(かさ)を生じ乃至是くの如き創(きず)は心に従(より)て生ず、四大より起るに非ず、若し衆生能く治する者有りと言はば是の処(ことわり)有ること無けん」云云。 妙楽の云く「智人は起を知り・蛇は自ら蛇を識る」云云。此の疫病は阿闍世王の瘡(かさ)の如し、彼の仏に非ずんば治し難し此の法華に非ずんば除き難し。 将又日蓮下痢(くだりはら)去年(こぞ)十二月卅日事起り、今年六月三日四日日日に度'ど)をまし月月に倍増す。定業かと存ずる処に貴辺の良薬を服してより已来(このかた)日日月月に減じて今百分の一となれり、しらず教主釈尊の入りかわりまいらせて日蓮をたすけ給うか。地涌の菩薩の妙法蓮華経の良薬をさづけ給えるかと疑い候なり。くはしくは筑後房(日郎)申すべく候。 又追つて申す、きくせん(貴方の使者)は今月二十五日戌の時来りて候、種種の物かず(算)へつくしがたし。ときどののかたびらの申し給わるべし。又女房の御ををち(祖父)の御事なげき入つて候よし申し給ふべし、恐恐。 六月廿六日 日 蓮 花 押 【妙法蓮華経 譬喩品第三】 又舎利弗 驕慢懈怠 計我見者 莫説此経 凡夫浅識 深著五欲 聞不能解 亦勿為説 若人不信 毀謗此経 則断一切 世間仏種 <中略> 若修医道 順方治病 更増佗疾 或復致死 若自有病 無人救療 設服良薬 而復増 (和訳) また舎利弗よ、驕慢(おごり)、懈怠(けたい)にして我見を計する者には、この経(法華経)を説くことなかれ。 愚かで浅はかな者も五欲に執著するため、この経を聞くとも解すること能わざれば、亦、説くことなかれ。 若し人この経を信ぜずに毀謗すれば、則ち一切の世間の仏種(仏になる因)を断ずる。 <中略> (此経を毀謗し仏種を断じた人が)若し医道を修め、正しい方法で病を治すとも、更に他の病を増し、或いは死に至る。 若し自ら病になっても、救療する人もなく、たとえ良薬を服しても、復痛みを増す。 ▲
by johsei1129
| 2019-11-08 22:28
| 四条金吾・日眼女
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2019年 11月 08日
【治病大小権実違目】 ■出筆時期:弘安元年(1278年)六月二十六日 五十七歳 御作。 ■出筆場所:身延山中 草庵にて。 ■出筆の経緯:本書は、富木入道(常忍)から消息で、疫病が蔓延している状況の報告があり、それに対し大聖人が「夫れ人に二の病あり」と病についての論を展開されておられます。また追伸で「さへもん殿の便宜の御かたびら給い了んぬ・・・」と記されておられるように、四条金吾が富木殿・太田入道その他方々の供養を取りまとめ身延の草庵を訪問された事が伺えます。恐らくこれは毎月25日に定例で開かれていた「天台大師講(摩訶止観等の講義)」への供養ではないかと思われます。 さらに「此の法門のかたづらは佐衛門尉殿にかきて候、こわせ給いて御らむ有るべく候」と記され、この書で説いた法門のもう片方は四条金吾殿に書いたので、頼んで読んで下さいと記されておられます。 この事は、大聖人の消息を信徒が共有し、皆で読んで信仰を深めなさいという大聖人の強い思いが示されておられるものと拝されます。 尚、ここで記された四条金吾に宛てた消息は[中務左衛門尉殿御返事]になります。 ■ご真筆:中山法華経寺所蔵(重要文化財)。古写本:日時筆(富士大石寺蔵)。 ![]() ※真筆の1行目に小さく「治病大小権實違目」と、富木常忍自ら付記されており、下総国の守護千葉氏の文官としての律儀さが垣間見えます。 [治病大小権実違目 本文] 富木入道殿御返事 日蓮 さへもん殿の便宜の御かたびら給い了んぬ。 今度の人人のかたがたの御さい(斎)ども佐衛門尉殿の御日記のごとく給い了んぬと申させ給い候へ。 太田入道殿のかたがたのもの・ときどのの日記のごとく給い候了んぬ此の法門のかたづら(半面)は佐衛門尉殿にかきて候、こ(乞)わせ給いて御らむ有るべく候。 御消息に云く凡そ疫病弥興盛等と云云、夫れ人に二の病あり一には身の病・所謂地大百一・水大百一・火大百一風大百一・已上四百四病なり、此の病は設い仏に有らざれども・之を治す所謂治水・流水・耆婆・扁鵲等が方薬・此れを治するにゆいて愈(い)えずという事なし、二には心の病・所謂三毒乃至八万四千の病なり、此の病は二天・三仙・六師等も治し難し何に況や神農(しんのう)・黄帝等の方薬及ぶべしや、又心の病・重重に浅深・勝劣分れたり、六道の凡夫の三毒・八万四千の心病は小仏・小乗阿含経・倶舎・成実・律宗の論師・人師此れを治するにゆいて愈えぬべし。 但し此の小乗の者等・小乗を本として或は大乗を背き或は心には背かざれども大乗の国に肩(かた)を並べなんどする其の国其の人に諸病起る、小乗等をもつて此れを治すれば諸病は増すとも治せらるる事なし、諸大乗経の行者をもつて此れを治すれば則ち平愈す、又華厳経・深密経・般若経・大日経等の権大乗の人人・各各劣謂勝見を起して我が宗は或は法華経と斉(ひとし)等或は勝れたりなんど申す人多く出来し或は国主等此れを用いぬれば此れによつて三毒・八万四千の病起る、返つて自の依経をもつて治すれども・いよいよ倍増す、設い法華経をもつて行うとも験(しるし)なし経は勝れたれども行者・僻見の者なる故なり。 法華経に又二経あり所謂迹門と本門となり本迹の相違は水火天地の違目なり、例せば爾前と法華経との違目よりも猶相違あり爾前と迹門とは相違ありといへども相似の辺も有りぬべし、所説に八教あり爾前の円と迹門の円は相似せり爾前の仏と迹門の仏は劣応・勝応・報身・法身異れども始成の辺は同じきぞかし。 今本門と迹門とは教主已に久始(くし)のかわりめ百歳のをきな(翁)と一歳の幼子のごとし、弟子又水火なり土の先後いうばかりなし、而るを本迹を混合すれば水火を弁えざる者なり、而るを仏は分明に説き分け給いたれども仏の御入滅より今に二千余年が間三国並びに一閻浮提の内に分明(ふんみょう)に分けたる人なし、但漢土の天台・日本の伝教・此の二人計りこそ粗分け給いて候へども本門と迹門との大事に円戒いまだ分明ならず、詮ずる処は天台と伝教とは内には鑒み給うといへども一には時来らず二には機なし三には譲られ給はざる故なり、今末法に入りぬ地涌出現して弘通有るべき事なり、今末法に入つて本門のひろまらせ給うべきには小乗・権大乗・迹門の人人・設い科なくとも彼れ彼れの法にては験有るべからず、譬へば春の薬は秋の薬とならず設いなれども春夏のごとくならず何に況や彼の小乗・権大乗・法華経の迹門の人人或は大小権実に迷える上・上代の国主彼れ彼れの経経に付きて寺を立て田畠を寄進せる故に彼の法を下せば申し延べがたき上・依怙(えこ)すでに失(うせ)るかの故に大瞋恚を起して或は実経を謗じ或は行者をあだむ国主も又一には多人につき或は上代の国主の崇重の法をあらため難き故・或は自身の愚癡の故・或は実教の行者を賤しむゆへ等の故彼の訴人等の語を・をさめて実教の行者をあだめば実教の守護神の梵釈・日月・四天等・其の国を罰する故に先代未聞の三災・七難起るべし、所謂去(こぞ)今年・去ぬる正嘉等の疫病等なり。 疑つて云く汝が申すがごとくならば此の国法華経の行者をあだむ故に善神此の国を治罰する等ならば諸人の疫病なるべし何ぞ汝が弟子等又やみ死ぬるや。 答えて云く汝が不審最も其の謂(いわれ)有るか但し一方を知りて一方を知らざるか、善と悪とは無始よりの左右の法なり権教並びに諸宗の心は善悪は等覚に限る若し爾(しから)ば等覚までは互に失有るべし、法華宗の心は一念三千・性悪性善・妙覚の位に猶備われり元品の法性は梵天・帝釈等と顕われ元品の無明は第六天の魔王と顕われたり、善神は悪人をあだむ悪鬼は善人をあだむ、末法に入りぬれば自然に悪鬼は国中に充満せり瓦石草木の並び滋(しげき)がごとし善鬼は天下に少し聖賢まれなる故なり、此の疫病は念仏者・真言師・禅宗・律僧等よりも日蓮が方にこそ多くやみ死ぬべきにて候か、いかにとして候やらん彼等よりもすくなくやみ・すくなく死に候は不思議にをぼへ候、人のすくなき故か又御信心の強盛なるか。 問うて云く日本国に此の疫病先代に有りや。 答えて云く日本国は神武天皇よりは十代にあたらせ給いし崇神天皇の御代に疫病起りて日本国やみ死ぬる事半(なかば)にすぐ、王始めて天照太神等の神を国国に崇(あがめ)しかば疫病や(止)みぬ故に崇神天皇と申す、此れは仏法のいまだわたらざりし時の事なり、人王第三十代・並びに一二の三代の国主並びに臣下等疱瘡と疫病に御崩去等なりき、其の時は神にいのれども叶わざりき、去ぬる人王三十代・欽明天皇の御宇に百済国より経・論・僧等をわたすのみならず金銅の教主釈尊を渡し奉る、蘇我の宿禰等崇むべしと申す物部の大連等の諸臣並びに万民等は一同に此の仏は崇むべからず若し崇むるならば必ず我が国の神・瞋りをなして国やぶれなんと申す。 王は両方弁まえがたくをはせしに三災・七難・先代に超えて起り万民皆疫死す、大連等便りを得て奏問せしかば僧尼等をはじ(恥)に及ぼすのみならず金銅の釈迦仏をすみ(炭)ををこして焼き奉る寺又同じ、爾の時に大連や(病)み死ぬ王も隠れさせ給い仏をあがめし蘇我の宿禰もやみぬ、大連が子・守屋の大臣云く此の仏をあがむる故に三代の国主すでに・やみかくれさせ給う我が父もやみ死ぬ、まさに知るべし仏をあがむる聖徳太子・馬子等はをや(親)のかたき公(きみ)の御かたきなりと申せしかば穴部の王子・宅部(やかべ)の王子等・並びに諸臣已下数千人一同によりき(与力)して仏と堂等をやきはらうのみならず、合戦すでに起りぬ結句は守屋討たれ了んぬ、仏法渡りて三十五年が間・年年に三災・七難・疫病起りしが守屋・馬子に討たるるのみならず神もすでに仏にま(負)けしかば災難忽に止み了んぬ、其の後の代代の三災・七難等は大体は仏法の内の乱れより起るなり、而れども或は一人・二人或は一国・二国或は一類・二類或は一処・二処の事なれば神のたたりも有り謗法の故もあり民のなげきよりも起る。 而るに此の三十余年の三災・七難等は一向に他事を雑えず日本・一同に日蓮をあだみて国国・郡郡・郷郷・村村・人ごとに上一人より下万民にいたるまで前代未聞の大瞋恚を起せり。 見思未断の凡夫の元品の無明を起す事此れ始めなり、神と仏と法華経にいのり奉らばいよいよ増長すべし、但し法華経の本門をば法華経の行者につけて除き奉る結句は勝負を決せざらん外は此の災難止み難かるべし、止観の十境・十乗の観法は天台大師説き給いて後・行ずる人無し、妙楽・伝教の御時少し行ずといへども敵人ゆわ(弱)きゆへにさてすぎぬ、止観に三障・四魔と申すは権経を行ずる行人の障りにはあらず今日蓮が時具さに起れり、又天台・伝教等の時の三障・四魔よりもいまひとしを(一入)まさりたり。一念三千の観法に二つあり一には理・二には事なり天台・伝教等の御時には理なり今は事なり観念すでに勝る故に大難又色まさる、彼は迹門の一念三千・此れは本門の一念三千なり天地はるかに殊なりことなりと御臨終の御時は御心へ有るべく候、恐恐謹言。 六月二十六日 日蓮 花押 ▲
by johsei1129
| 2019-11-08 07:03
| 富木常忍・尼御前
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