2019年 11月 05日
【二十八品は悉く南無妙法蓮華経の事】 一 嘱累品 御義口伝に云く、此の品には三摩(さんま)の付属を説いて此の妙法を滅後に留め給うなり。是れ又妙法の付属なれば、十界三千皆付属の菩薩なり。又三摩する事は能化所具の三観三身(さんがんさんじん)の御手を以て所化の頂上に明珠(みょうじゅ)を灌(そそ)ぐと云う心なり。凡そ頂上の明珠は覚悟知見なり。頂上の明珠とは南無妙法蓮華経なり云云。 一 薬王品 御義口伝に云く、此の品は薬王菩薩の仏滅後に於ける法華経弘通なり。所詮焼身焼臂(しょうしんしょうひ)とは焼は照の義なり、照は智慧の義なり。智能く煩悩の身生死の臂(ひじ)を焼くなり。凡そ天台大師も本地は薬王菩薩なり。能説については釈迦なり。衆生の重病を消除(しょうじょ)する方は薬王薬師如来なり。又利物の方にて薬王と云い、自悟の方にては薬師と云う。薬王薬師出世の時は天台大師なり。薬王も滅後に弘通し、薬師如来も像法転時の利益有情なり。時を以て身体を顕し、名を以て義を顕はしたまう事仏の習いなり。薬王菩薩は止観の一念三千の法門を弘め給う。其の一念三千とは所謂 南無妙法蓮華経なり云云。 一 妙音品 御義口伝に云く、此の菩薩は法華弘通の菩薩なり。故に三十四身を現じて十界互具の徳を顕して利益説法するなり。是れ又妙法の妙音なれば十界の音声は皆妙音なり。又十界悉く三十四身の所現の妙音なり。又蓮華の妙音なれば十界三千の音声皆無染清浄なり。されば慈覚大師をば妙音の出世と習うなり。之に依つて唐決の時、引声(いんじょう)の妙音を伝え給えり。何の故有ってか法華を誹謗して大日経等に劣りたりと云うや。所謂法界の音声・南無妙法蓮華経の音声に非ずと云う事なし云云。 一 観音品 御義口伝に云く、此の品は甚深の秘品なり。息災延命(そくさいえんめい)の品なり。当途王(とうずおう)経と名くるなり。されば此の品に就て職位法門を継ぐと習うなり。天台も三大部の外に観音玄と云う疏を作り、章安大師は両巻の疏を作り給えり。能く能くの秘品なり。観音・法華・眼目異名と云いて、観音即ち法華の体なり。所謂南無妙法蓮華経の体なり。 一 陀羅尼品 御義口伝に云く、此の品は二聖・二天王・十羅刹女、陀羅尼(だらに)を説いて持経者を擁護(おうご)し給うなり。所詮妙法陀羅尼の真言なれば十界の語言・音声皆陀羅尼なり。されば伝教大師「「妙法の真言は他経に説かず、普賢(ふげん)の常護(じょうご)は他経に説かず」と。陀羅尼とは南無妙法蓮華経の用なり。此の五字の中には妙の一字より陀羅尼を説き出だしたり。 一 厳王品 御義口伝に云く、此の品は二子の教化に依つて父の妙荘厳王邪見をあらためて正見に住したり。沙羅樹王仏(しゃらじゅおうぶつ)と成るなり。沙羅樹王とは梵語なり。此(ここ)には熾盛光(しじょうこう)と翻ず。一切衆生は是皆、熾盛光より出生したる一切衆生なり。此の故に十界衆生の父なり。熾盛光とは、或は大黒天神とも、或は土宮神とも云うなり。然れども父母交会の一念なり。法華の意は自受用智(じじゅゆうち)なり。忽然火起焚焼舎宅(こつねんかき・ぼんしょうしゃたく)とは是なり。煩悩の一念の火起りて迷悟不二の舎宅を焼くなり。邪見とは是なり。此の邪見を邪見即正と照したるは南無妙法蓮華経の智慧なり。所謂六凡は父なり。四聖は子なり。四聖は正見、六凡は邪見。故に六道の衆生は皆是れ我が父母とは是なり云云。 一 勧発品 御義口伝に云く、此の品は再演法華(さいえんほっけ)なり。本迹二門の極理此の品に至極(しごく)するなり。慈覚大師云く、十界の衆生は発心修行と釈し給うは此の品の事なり。所詮此の品と序品とは生死の二法なり。序品の品は我等衆生の生なり、此の品は一切衆生の死なり。生死一念なるを妙法蓮華経と云うなり。序品の題号は生なり、終の第号は死なり。此の法華経は生死生死と転(めぐ)りたり。生の故に始に如是我聞と置く。如は生の義なり。死の故に終りに作礼而去(さらいにこ)と結したり。去は死の義なり。作礼の言は生死の間に成しと成す処の我等衆生の所作なり。此の所作とは妙法蓮華経なり。礼とは不乱の義なり。法界妙法なれば不乱なり。天台大師云く「体の字は礼に訓ず。礼は法なり。各其の親を親とし、各其の子を子とす。出世の法体も亦復是の如し」と。 体とは妙法蓮華経の事なり。先づ体玄義を釈するなり。体とは十界の異体なり。是を法華経の体とせり。此等を作礼而去とは説かれたり。法界の千草万木地獄餓鬼等、何の界も諸法実相の作礼に非ずという事なし。是れ即ち普賢菩薩(ふげんぼさつ)なり。普とは法界、賢とは作礼而去なり。此れ即ち妙法蓮華経なり。爰を以て品品の初めにも五字を以て記し、終りにも五字を以て結したり。前後・中間・南無妙法蓮華経の七字なり。末法弘通の要法は唯此の一段に爾ず。若し此等の心を失うて要法に結せずんば末法弘通の法には足らざる者なり。剰(あまつさ)え日蓮が本意を失う可し。日蓮が弟子檀那別の広才無益(むやく)なり。妙楽大師云く「子父の法を弘む世界の益有り」と。子とは地涌の菩薩なり父とは釈尊なり、世界とは日本国なり、益とは成仏なり、法とは南無妙法蓮華経なり。今又以て此くの如し。父とは日蓮なり、子とは日蓮が弟子檀那なり、世界とは日本国なり、益とは受持成仏なり、法とは上行所伝の題目なり。 六老僧の所望に依って老期たりと雖も、日蓮が本意の一端護義せしめ畢んぬ。是併ら私に最要文を集めて読誦せしむる所なり。然る間法華諸要の文書き付け畢んぬ。この意は或は文を陰して義を取り、或は義を隠して文を取り、或は文義共に顕し、或は文義共に隠し講談するなり。 委は註法華経(御義口伝)を拝見すべし。然りと謂も文義甚深の間、愚昧に及ぶべからざるなり。広宣流布の要法、豈此の註法華経に過ぎんや。 就法華経口伝下((御義口伝 巻下) 弘安元年戊寅正月一日 日蓮 在御判 執筆 日興 ▲
by johsei1129
| 2019-11-05 21:58
| 御義口伝
|
Trackback
|
Comments(0)
2019年 11月 05日
【二十八品は悉く南無妙法蓮華経の事】 一 涌出品 御義口伝に云く、此の品は迹門流通の後・本門開顕(ほんもんかいけん)の序分なり。故に先ず先ず本地無作の三身を顕さんが為に、釈尊所具の菩薩本化の弟子を召すなり。是れ又妙法の従地なれば十界の大地なり。妙法の涌出なれば十界皆涌出なり。十界妙法の菩薩なれば皆饒益有情界(みなにょうやくうじょうかい)の慈悲深重(じんじゅう)の大士なり。蓮華の大地なれば十界の大地なり。蓮華の大地なれば十界涌出の菩薩本来清浄なり。所詮悟道(しょせん・ごどう)に約する時は従地とは十界の衆生の大浮所生なり。涌出とは十界の衆生の出胎の相なり。菩薩とは十界の衆生本有の慈悲なり。此の菩薩に本法の妙法蓮華経を付属せんが為に従地涌出(じゅうちゆじゅつ)するなり。日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は従地涌出の菩薩なり、外に求むること無かれ云云。 一 寿量品 御義口伝に云く、寿量品とは十界の衆生の本命なり。此の品を本門と云う事は本入門と云う事なり。凡夫の血肉の色心を本有と談ずるが故に本門とは云うなり。此の重に至らざるを始覚(しかく)と云い迹門と云うなり。是を悟るを本覚と云い本門と云うなり。所謂南無妙法蓮華経は一切衆生の本有の在所なり。爰元を経に我実成仏已来とは云うなり。 一 分別功徳品 御義口伝に云く、此の品は上の品の時本地無作の三身如来の寿を聞く故に、今品にしては上の無作の三身を信解するなり。其の功徳を分別するなり。十界己己当体の三毒煩悩を此の品の時其の儘妙法蓮華経の功徳と分別するなり。其の功徳とは本有の南無妙法蓮華経是なり云云。 一 随喜功徳品 御義口伝に云く、妙法の功徳を随喜する事を説くなり。五十展転(てんでん)とは五とは妙法の五字なり、十とは十界の衆生なり、展転とは一念三千なり。教相の時は第五十人の随喜(ずいき)の功徳を校量(きょうりょう)せり。五十人とは一切衆生の事なり。妙法の五十人、妙法の展転なるが故なり。所謂南無妙法蓮華経を展転するなり云云。 一 法師功徳品 御義口伝に云く、無作の三身も如来の寿も分別功徳も随喜も、我が身の上の事なり。然らば父母所生の六根は清浄にして自在無碍(じざいむげ)なり。妙法の六根なれば十界三千の六根皆清浄なり。蓮華所具の六根なれば全く不浄に非ざるなり。此の六根にて南無妙法蓮華経と見聞覚知(けんもんかくち)する時本来本有として六根清浄なり云云。 一 不軽品 御義口伝に云く、此の菩薩の礼拝(らいはい)の行とは一切衆生の事なり。自他一念の礼拝なり。父母果縛(ふぼかばく)の肉身を妙法蓮華経と礼拝するなり。仏性も仏身も衆生の当体の色心なり。故に直ちに礼拝を行ずるなり。止観の第二云く、一切衆生の順逆十二因縁を以て二十四の尊像と釈し給うは此の故なり。皆当作仏の四字は南無妙法蓮華経の種子に依るなり云々。 一 神力品 御義口伝に云く、十種の神力を現じて上行菩薩に妙法蓮華経の五字を付属し給うなり。神力とは十界三千の衆生の神力なり。凡夫は体の神力、三世の諸仏は用の神力なり。神とは心法、力とは色法なり。力は法なり、神は妙なり。妙法の神力なれば十界悉く神力なり。蓮華の神力なれば十界清浄の神力なり。惣じて三世の諸仏の神力は此の品に尽くせり。釈尊出世の神力の本意も此の品の神力なり。所謂妙法蓮華経の神力なり。十界皆成(かいじょう)と談ずるより外には諸仏の神力は之れ有る可からず。一切の法門神力に非ずと云う事なし云云。 [御義口伝 下 本文]その二十三に続く ▲
by johsei1129
| 2019-11-05 21:46
| 御義口伝
|
Trackback
|
Comments(0)
2019年 11月 05日
【二十八品は悉く南無妙法蓮華経の事】 一 宝塔品 御義口伝に云く、此の宝塔は宝浄世界より涌現(ゆげん)するなり。其の宝浄世界の仏とは事相(じそう)の義をば且(しば)らく之を置く。証道観心の時は母の胎内是なり。故に父母は宝塔造作(ほうとうぞうさ)の番匠なり。宝塔とは我等が五輪・五大なり。故に詑胎(たくたい)の胎を宝浄世界と云う。故に出胎する処を涌現と云うなり。凡そ衆生の涌現は地輪より出現するなり。故に従地涌出と云うなり。妙法の宝浄世界なれば十界の衆生の胎内は皆是れ宝浄世界なり。蓮華の宝浄(ほうじょう)なれば十界の胎内悉く無垢清浄(むくしょうじょう)の世界なり。妙法の地輪なれば十界に亘るなり。蓮華の地なれば清浄地なり。妙法の宝浄なれば我等が身体は清浄の宝塔なり。妙法蓮華の涌出なれば十界の出胎(しゅったい)の産門、本来清浄の宝塔なり。法界の塔婆にして十法界即塔婆(とうば)なり。妙法の二仏なれば十界三千・皆境智の二仏なり。妙法の一座には三千の心性皆以て二尊の所座なり。妙法蓮華二仏一座なれば不思議なり、清浄なり。妙法蓮華の見なれば十界の衆生・三千の群類・皆自身の塔婆を見るなり。十界の不同なれども己が身を見るは三千具足の塔を見るなり。己の心を見るは三千具足の仏を見るなり。分身とは父母より相続する分身の意なり。迷う時は流転(るてん)の分身なり、悟る時は果中の分身なり。さてこそ分身の起る処を習うには地獄と習うなり。かかる宝塔も妙法蓮華経の五字より外は之無きなり。妙法蓮華経を見れば宝塔なり。宝塔即一切衆生なり。一切衆生即南無妙法蓮華経の全体なり云云。 一 提婆品 御義口伝に云く、此の品には釈尊の本師・提婆達多(だいばだった)の成仏と文殊師利・教化の竜女成仏とを説くなり。是れ又妙法蓮華経の提婆竜女(だいば・りゅうにょ)なれば十界三千皆調達(ちょうだつ)竜女なり。法界の衆生の逆辺は調達なり、法界の貪欲(どんよく)・瞋恚(しんに)・愚癡の方は悉く竜女なり。調達は修徳の逆罪、一切衆生は性徳の逆罪なり。一切衆生は性徳の天王如来なり。調達は修徳の天王如来なり。竜女は修徳の竜女、一切衆生は性徳の竜女なり。所詮釈尊も文殊も提婆も竜女も、一つ種の妙法蓮華経の功能(くのう)なれば本来成仏なり。故に南無妙法蓮華経と唱え奉る時は十界同時に成仏するなり。是を妙法蓮華経の提婆達多と云うなり。十界三千竜女なれば無垢世界に非ずと云う事なし。竜女が一身も本来成仏にして南無妙法蓮華経の当体なり云云。 一 勧持品 御義口伝に云く、此の品の姨母(いも)・耶輸(やしゅ)の記別(きべつ)は十界同時の授記なり。妙法の姨母・妙法の耶輸なる故なり。十界の衆生の心性は所持の経の体なり。是れ即ち勧持の流通なり。心性所持の経を勧持して自行化他に趣くなり。姨母耶輸は女人の成仏なり、二万の大士は男子の流通なり。此の文(もん)・陰陽(いんよう)一体にして南無妙法蓮華経の当体なり云云。 一 安楽行品 御義口伝に云く、妙法の安楽行なれば十界三千悉く安楽行なり。自受用の当体なり。身口意誓願悉く安楽行なり。蓮華の安楽行なれば三千十界清浄の修行なり。諸法実相なれば安楽行に非ざること莫し。本門の心は十界の色心本来本有として真実大安楽行なり。安楽行の体とは所謂上行所伝の南無妙法蓮華経是なり。霊山浄土に安楽に行詣(ぎょうけい)すべきなり云云。 [御義口伝 下 本文]その二十二に続く ▲
by johsei1129
| 2019-11-05 21:41
| 御義口伝
|
Trackback
|
Comments(0)
2019年 11月 05日
【二十八品は悉く南無妙法蓮華経の事】 疏(じょ)の十に云く「惣じて一経を結するに唯四のみ。其の枢柄(すうへい)を撮(と)つて之を授与す」と。 御義口伝に云く、一経とは本迹二十八品なり。唯四とは名用体宗の四なり。枢柄とは唯題目の五字なり。授与とは上行菩薩に授与するなり。之とは妙法蓮華経なりと云へり。今日蓮等の類(たぐい)弘通の南無妙法蓮華経は体なり心なり、廿八品は用なり廿八品は助行なり。題目は正行なり、正行に助行を摂す可きなり。 一 無量義経の事 御義口伝に云く、妙法の序分無量義経なれば十界悉く妙法蓮華経の序分なり。 一 序品 御義口伝に云く、如是我聞の四字を能く能く心得れば一経無量の義は知られ易きなり。十界互具三千具足の妙と聞くなり。此の所聞は妙法蓮華と聞く故に妙法の法界互具にして三千清浄なり。此の四字を以て一経の始終に亘るなり。二十八品の文々句々の義理我が身の上の法門と聞くを如是我聞とは云うなり。其を聞く者は南無妙法蓮華経なり。されば皆成仏道と云うなり。此の皆成の二字は十界三千に亘る可きなり。妙法の皆成なるが故なり。又仏とは我が一心なり。是又十界三千の心なり。道とは能通に名くる故に十界の心心に通ずるなり。此の時皆成仏道と顕るるなり。皆成仏道の法は南無妙法蓮華経なり云々。 一 方便品 御義口伝に云く、此の品には十如是を説く。此の十如是とは十界なり。此の方便とは十界三千なり。既に妙法蓮華経を頂く故に十方仏土中唯有(ゆいう)一乗法なり。妙法の方便、蓮華の方便なれば秘妙なり、清浄なり。妙法の五字は九識、方便は八識なり。八識は迷なり、九識は悟なり。妙法蓮華経方便品と題したれば迷悟(めいご)不二なり。森羅三千の諸法此の妙法蓮華経方便に非ずと云う事無きなり。品は義類同なり、義とは三千なり、類とは互具なり、同とは一念なり。此の一念三千を指して品と云うなり。此の一念三千を三仏合点し給ふなり。仍(よ)つて品品に題せり。所謂南無妙法蓮華経の信の一念より三千具足と聞けたり云云。 一 譬喩品 御義口伝に云く、此の品の大白牛車とは「無明癡惑本是法性(むみょうちわく・ほんぜほっしょう)」の明闇一体(みょうあんいったい)の義なり。即ち三千具足の一乗をかかげたる牛なれば、明闇一体の三千具足の義なり。法界に遍満したる一法なれば一乗と云うなり。此の一乗とは諸乗具足の一乗なり。諸法具足の一法なり。故に白牛は一なりといえども無量の白牛(びゃくご)なり。一切衆生の体、大白牛車なるが故なり。然らば妙法の大白牛車に妙法の十界三千の衆生乗じたり。蓮華の大白牛車なれば、十界三千の衆生も蓮華にして清浄なり。南無妙法蓮華経の法体(ほったい)此くの如し。 一 信解品 御義口伝に云く、此の信解は中根の四大声聞の領解(りょうげ)に限るに非ず。妙法の信解なるが故に十界三千の信解なり。蓮華の信解なるが故に十界三千の清浄の信解なり。此の信解の体とは南無妙法蓮華経是なり云云。 一 薬草喩品 御義口伝に云く、妙法の薬草なれば十界三千の毒草(どくそう)・蓮華の薬草なれば本来清浄(しょうじょう)なり。清浄なれば仏なり。此の仏の説法とは南無妙法蓮華経なり云云。されば此の品には種相体性(しゅそうたいしょう)の種の字に種類種(しゅるいじゅ)・相対種の二の開会之れ有り。相対種とは三毒即三徳なり。種類種とは始の種の字は十界三千なり、類とは互具なり、下の種の字は南無妙法蓮華経なり。種類の種なり。十界三千の草木各各なれども、只南無妙法蓮華経の一種なり。毒草も毒木も悉く清浄の草木にして薬草なり云云。 一 授記品 御義口伝に云く、十界己己の当体の言語一法の授記なれば本来の授記なり。蓮華の清浄の授記なり。清浄なれば十界三千の仏なり。爰を以て仏なれば南無妙法蓮華経の授を記するなり。 一 化城喩品 御義口伝に云く、妙法の化城なれば十界同時に無常なり。蓮華の化城なれば十界三千の開落(かいらく)なり。常住無常倶に妙法蓮華経の全体なり。化城宝処は生死本有なり。生死本有の体とは南無妙法蓮華経なり。釈に云く「起は是れ法性の起滅は是れ法性の滅」と。 一 五百品 御義口伝に云く、此の品には五百弟子授記作仏(じゅきさぶつ)すと現文に見えたり。然りと雖も妙法の五百なれば十界三千皆五百の弟子なり。蓮華の弟子なれば又清浄なり。所詮十界三千南無妙法蓮華経の弟子に非ずと云う事なし。此の経の授記是なり云云。 一 人記品 御義口伝に云く、此の品には学・無学の聖者来つて成仏するなり。既に妙法頂戴(ちょうだい)の学・無学なれば十界互具・三千具足の学・無学なり。妙法の学・無学なるが故に不思議十界煩悩未尽なり。蓮華の学・無学なれば十界三千清浄の開落なり。此の学・無学何物ぞや。学とは法なり、無学とは妙なり。所謂題目なり云云。 一 法師品 御義口伝に云く、妙法の法師なれば十界皆妙法受持の一句一偈の法師なり。蓮華の法師なれば十界三千・清浄の法師なり。十界衆生の色法は能持の人なり。十界の心性は所持の法なり。仍つて色心共に法師にして自行化他を顕すなり。所謂南無妙法蓮華経の法師なるが故なり云云。 [御義口伝 下 本文]その二十一に続く ▲
by johsei1129
| 2019-11-05 21:25
| 御義口伝
|
Trackback
|
Comments(0)
2019年 11月 05日
【二十八品に一文充の大事 】 宝塔品 受持也 則為疾得 無上仏道 凡夫即極也 此の文は持者即ち円頓(えんどん)の妙戒なれば、等・妙二覚一念開悟なれば疾得(しっとく)と云うなり。所謂南無妙法蓮華経と唱え奉るは疾得なり。 提婆品 三惑 三諦 忽然之間 変成男子 此の文の心は三惑の全体三諦と悟るを変と説くなり。所謂南無妙法蓮華経と唱え奉るは三惑即三徳なり。 勧持品 我不愛身命 但惜無上道 此の文は色心幻化(しきしんげんけ)四大五陰本(ごおん・もと)より嘘妄なり。然るに本覚真如は常住なり。所謂南無妙法蓮華経なり。 安楽行品 一切諸法 空無所有 無有常住 亦無起滅 此の文は任運に常住の妙法なる故に、六道の生滅、本来不生と談ず故に起滅無し。所謂南無妙法蓮華経本来無起滅なり云云。 涌出品 生死二 昼夜常精進 為求仏道故 此の文は一念に億劫(おくごう)の辛労(しんろう)を尽せば、本来無作の三身念念に起るなり。所謂南無妙法蓮華経は精進行なり。 寿量品 厭離生死 如来如実知見 三界之相 無有生死 此の文は万法を無作の三身と見るを如実知見と云う。無作の覚体なれば何に依つて生死有りと云わんや。 分別功徳品 持此一心福 願求無上道 此の文は一切の万行万善、但一心本覚の三身を顕さんが為なり。善悪一如なれば一心福とは云うなり。所謂南無妙法蓮華経は一心福なり。 随喜功徳品 言此経深妙 千万劫難遇ヒイタテマツルコト 此の文は、一切衆生の妙法なれば、一心の深底より顕はさん事甚深不思議なり。所謂南無妙法蓮華経不思議なり。 法師功徳品 静 散 十界なり 入禅出禅者 聞香悉能知 不変死 随縁生 題目五字なり 此の文は一心静なる時は入禅、一心散乱する時は出禅、静散即本覚と知るを悉能知と云うなり。所謂南無妙法蓮華経は入禅出禅なり云云。 不軽品 応当一心 広説此経 世世値ヒタテマツリ仏 疾成仏道 此の文は法界皆本来三諦一心に具わる事を顕せば、己心の念念仏に値う事を即ち世世値仏(せせちぶつ)と云うなり。所謂南無妙法蓮華経是なり。 神力品 十界なり 断破元品無明 是人於仏道 決定無有疑 此の文は十界各各本有本覚の十如是なれば、地獄も仏界も一如なれば成仏決定するなり。所謂南無妙法蓮華経の受持なり云云。 囑累品 信如来知慧者 当演説 此法華経 此の文は釈迦如来の悟の如く一切衆生の悟と不同有ること無し。故に如来の智慧を信ずるは即ち妙法なり。所謂南無妙法蓮華経の智慧なり云云。 薬王品 是真精進 是名真法 供養シタテマツルト如来 此の文は色香中道の観念懈(おこた)ること無し。是を即ち真法供養如来と名くるなり。所謂南無妙法蓮華経唯有一乗(ゆいういちじょう)の故に真法なり。世間も出世も純一実相なり云云。 妙音品 久遠 寂光 身不動揺 而入三昧 此の文は即ち久遠を悟るを身不動揺(しんふどうよう)と云うなり。惑障(わくしょう)を尽くさずして寂光に入るを三昧とは云うなり。所謂南無妙法蓮華経の三昧なり云云。 普門品 慈(あわれみ)ノ眼視 衆生 福聚海無量 此の文は法界の依正妙法なる故に平等一子の慈悲なり。依正福智共に無量なり。所謂南無妙法蓮華経福智の二法なり云云。 陀羅尼品 未来顕 修行是経者 令得安穏 現在顕 此の文は五種妙行を修すれば、悟の道に入つて嶮路(けんろ)に入らざるなり。此れは安穏(あんのん)と云う事なり。所謂・南無妙法蓮華経即安穏なり云云。 厳王品 宿福深厚 生値仏法 此の文は一句妙法に結縁すれば、億劫にも失はずして大乗無価(だいじょうむげ)の宝珠を研(みが)き顕すを生値(しょうち)仏法と云うなり。所謂南無妙法蓮華経の仏法なり。 勧発品 是人命終 為千仏授手令メタマフコト 不恐怖不堕悪趣 此の文は妙法を悟れば、分段の身(み)即常寂光と顕るるを命終と云うなり。千仏とは千如御手とは千如具足なり。故に不堕悪趣(ふだあくしゅ)なり。所謂南無妙法蓮華経の御手なり。 已上品々について別伝の事畢んぬ。 [御義口伝 下 本文]その二十に続く ▲
by johsei1129
| 2019-11-05 21:19
| 御義口伝
|
Trackback
|
Comments(0)
2019年 11月 05日
【二十八品に一文充の大事 】 合せて二十八箇条の大事秘す可し云云 序品 十界也 始覚 於無漏実相 心已得通達 妙法 不変 随縁 此の文は我が心本より覚なりと始めて覚るを成仏と云うなり。所謂(いわゆる)南無妙法蓮華経と始めて覚る題目なり。 方便品 真諦 俗諦 迹門 本門 是法住法位 世間相常住 此の文衆生の心は本来仏なりと説くを常住と云うなり。万法元より覚の体なり。 譬喩品 大白牛車 凡夫即極 住処即寂光なり 乗此宝乗 直至道場 極果の処也 此の文は自身の仏乗を悟つて自身の宮殿に入るなり。所謂(いわゆる)南無妙法蓮華経と唱え奉るは自身の宮殿に入るなり。 信解品 一念三千なり をのずから十界なり 無上宝珠 不求自得 題目五字なり 此の文は無始色心本是(もとこれ)理性妙境妙智なれば、己心より外に実相を求む可からず。所謂南無妙法蓮華経は不求自得なり。 薬草喩品 三世 一切衆生なるべし 又諸仏子 専心仏道 常行慈悲 自知作仏(自らの知をもって仏に作る) 如我等無異([衆生を]我[仏]が如く等しくして異なること無からしむ) 此の文は当来の成仏顕然なり。所謂南無妙法蓮華経なり。 授記品 十界実相仏 三世常住 煩悩即菩提 生死即涅槃 於諸仏所 常修梵行 於無量劫 奉持仏法 一切業障 此の文に常と云い無量劫と云う即ち本有所具の妙法なり。所謂南無妙法蓮華経なり。 化城喩品 三千塵点 観彼久遠 猶如今日 今日の化導末法を指して今日と心得るべきなり。此の文は元初の一念一法界より外に、更に六道四聖とて有る可からざるなり。所謂南無妙法蓮華経は三世一念なり。 五百品 日本国の一切衆生なり 心法色法 貧人 見此珠 其心大歓喜 住 此の文は始めて我心本来の仏なりと知るを即ち大歓喜(だいかんぎ)と名く。所謂南無妙法蓮華経は歓喜の中の大歓喜なり。 人記品 題目
安住於仏法 以求無上道 要 此の文は本来相即の三身の妙理を初めて覚知するを、以求無上道(いぐむじょうどう)とは云うなり。所謂南無妙法蓮華経なり。 法師品 当知如是人 自在所欲生 此の文は我等が一念の妄心の外に仏心無ければ、九界の生死が真如なれば即ち自在なり。所謂南無妙法蓮華経と唱え奉る即ち自在なり。 [御義口伝 下 本文]その十九に続く ▲
by johsei1129
| 2019-11-05 21:11
| 御義口伝
|
Trackback
|
Comments(0)
2019年 11月 05日
[御義口伝 下 本文]その十七 【普賢経五箇の大事】 第一 普賢経の事 題号をば仏説観普賢菩薩行法経と云云。
御義口伝に云く此の法華経は十界互具・三千具足の法体なれば三千十界悉(ことごと)く普賢なり、法界一法として漏(も)るる義之れ無し故に普賢なり、妙法の十界蓮華の十界なれば依正の二法悉く法華経なりと結し納めたる経なれば此の普賢経を結経とは云うなり、然らば十界を妙法蓮華経と結し合せたり云云。 第二 不断煩悩 不離五欲 得浄諸根 滅除諸罪の事 御義口伝に云く此の文は煩悩即菩提生死即涅槃を説かれたり、法華の行者は貪欲(とんよく)は貪欲のまま瞋恚(しんに)は瞋恚のまま愚癡(ぐち)は愚癡のまま普賢菩薩の行法なりと心得可きなり云云。 第三 六念の事 念仏 念法 念僧 念戒 念施 念天なり 御義口伝に云く念仏とは唯我一人の導師なり、念法とは滅後は題目の五字なり念僧とは末法にては凡夫僧なり、念戒とは是名持戒(ぜみょうじかい)なり、念施とは一切衆生に題目を授与するなり、念天とは諸天昼夜常為法故而衛護之(しょてんちゅうや・じょういほうこ・にえごし)の意(こころ)なり、末法当今の行者の上なり之を思う可きなり云云。 第四 一切業障海 皆従妄想生 若欲懺悔者 端坐 思実相 衆罪如霜露 慧日能消除の事 御義口伝に云く衆罪とは六根に於て業障(ごうしょう)降り下る事は霜露(そうろ)の如し、然りと雖も慧日を以て能く消除すと云えり、慧日とは末法当今・日蓮所弘の南無妙法蓮華経なり、慧日とは仏に約し法に約するなり、釈尊をば慧日大聖尊と申すなり法華経を又如日天子能除諸闇(うにょにってんじ・のうじょあん)と説かれたり、末法の導師を如日月光明等と説かれたり。 第五 正法治国不邪枉(ふじゃおう)人民の事 御義口伝に云く末法の正法とは南無妙法蓮華経なり、此の五字は一切衆生をたぼらかさぬ秘法なり、正法を天下一同に信仰せば此の国安穏ならむ、されば玄義に云く「若し此の法に依れば即ち天下泰平」と、此の法とは法華経なり法華経を信仰せば天下安全たらむ事疑有る可からざるなり。 已上二百二十九箇大事 [御義口伝 下 本文]その十八に続く ▲
by johsei1129
| 2019-11-05 21:06
| 御義口伝
|
Trackback
|
Comments(0)
2019年 11月 05日
[御義口伝 下 本文]その十六 【無量義経六箇の大事】 第一 無量義経徳行品第一の事 御義口伝に云く無量義の三字を本迹観心(ほんじゃくかんじん)に配する事、初の無の字は迹門なり其の故は理円を面とし不変真如の旨を談ず、迹門は無常の摂属(しょうぞく)なり常住を談ぜず但し「是法住法位世間相常住」と明かせども是れは理常住にして事常住に非ず理常住の相を談ずるなり、空は無の義なり但し此の無は断無の無に非ず相即の上の空なる処を無と云い空と云うなり、円の上にて是を沙汰(さた)するなり、本門の事常住無作の三身に対して迹門を無常と云うなり、守護章には有為(うい)の報仏は夢中の権果・無作の三身は覚前(かくぜん)の実仏と云云、今日蓮等の類(たぐ)い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は無作の三身覚前の実仏なり云云。 第二 量の字の事 御義口伝に云く量の字を本門に配当する事は量とは権摂(はかりおさむる)の義なり、本門の心は無作三身を談ず此の無作三身とは仏の上ばかりにて之を云わず、森羅万法を自受用身の自体顕照(じたいけんしょう)と談ずる故に迹門にして不変真如の理円を明かす処を改めずして己が当体無作三身と沙汰するが本門事円三千の意なり、是れ即ち桜梅桃李(おうばいとうり)の己己の当体を改めずして無作三身と開見すれば是れ即ち量の義なり、今日蓮等の類(たぐ)い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は無作三身の本主なり云云。 第三 義の字の事 御義口伝に云く義とは観心なり、其の故は文は教相義は観心なり所説の文字を心地に沙汰するを義と云うなり、就中(なかんずく)無量義は一法より無量の義を出生すと談ず、能生は義・所生は無量なり是は無量義経の能生・所生なり、法華経と無量義経とを相対する能所に非ざるなり無相不相名為実相の理より万法を開出すと云う、源が実相なる故に観心と云うなり、此くの如く無量義の三字を迹門・本門・観心に配当する事は法華の妙法等の題と今の無量義の題と一体不二の序正なりと相承の心を相伝せむが為なり。 第四 処の一字の事 御義口伝に云く処の一字は法華経なり、三蔵教と通教とは無の字に摂(せっ)し別教は量の字に摂し円教は義の字に摂するなり、此の爾前の四教を所生と定めさて序分の此の経を能生と定めたり、能生を且く処と云い所生を無量義と定めたり、仍つて権教に相対して無量義処を沙汰するなり云云。 第五 無量義処の事 御義口伝に云く、法華経八巻は処なり、無量義経は無量義なり。 無量義は三諦・三観・三身・三乗・三業なり。 法華経に於一仏乗・分別説三と説いて法華の為の序おな分と成るなり。 爰を以て隔別(きゃくべつ)の三諦は無得道・円融の三諦は得道と定むる故に、四十余年未顕真実と破し給えり云云。 第六 無量義経の事 御義口伝に云く無量義処とは一念三千なり、十界各各無量に義処(ことわりい)たり、此の当体其の儘(まま)実相の一理より外は之れ無きを諸法実相と説かれたり、其の為の序なる故に一念三千の序として無量義処と云うなり、処は一念無量義は三千なり、我等衆生朝夕吐(は)く所の言語も依正二法共に無量に義処(ことわ)りたり、此れを妙法蓮華経とは云うなり然る間法華の為の序分開経なり云云。 [御義口伝 下 本文]その十七に続く ▲
by johsei1129
| 2019-11-05 20:58
| 御義口伝
|
Trackback
|
Comments(0)
2019年 11月 05日
【普賢品六箇の大事】 第一 普賢(ふげん)菩薩の事 文句の十に云く勧発とは恋法の辞なりと。 御義口伝に云く勧発(かんぱつ)とは勧は化他発は自行なり、普とは諸法実相・迹門の不変真如の理なり、賢とは智慧の義なり本門の随縁真如の智なり、然る間経末に来つて本迹二門を恋法し給えり、所詮(しょせん)今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は普賢菩薩の守護なり云云。 第二 若法華経 行閻浮提(えんぶだい)の事 御義口伝に云く此の法華経を閻浮提に行ずることは普賢菩薩の威神の力に依るなり、此の経の広宣流布することは普賢菩薩の守護なるべきなり云云。 第三 八万四千天女の事 御義口伝に云く八万四千の塵労門なり、是れ即ち煩悩即菩提生死即涅槃なり七宝の冠(かんむり)とは頭上の七穴なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者是なり云云。 第四 是人命終 為千仏授手の事 御義口伝に云く法華不信の人は命終の時地獄に堕在す可し、経に云く「若人不信毀謗此経即断一切世間仏種其人命終入阿鼻獄(ごにんみょうじゅう・にゅうあびごく)」と、法華経の行者は命終して成仏す可し是人命終為千仏授手(ぜにんみょうじゅうい・せんぶつじゅしゅ)の文是なり、千仏とは千如の法門なり謗法の人は獄卒来迎(ごくそつ・らいごう)し法華経の行者は千仏来迎し給うべし、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は千仏の来迎疑無き者なり云云。 第五 閻浮提内 広令流布(こうりょうるふ)の事 御義口伝に云く此の内の字は東西北の三方を嫌える文なり、広令流布とは法華経は南閻浮提計りに流布す可しと云う経文なり、此の内の字之を案ず可し、今日蓮等の類(たぐ)い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は深く之を思う可きなり云云。 第六 此人不久当詣道場の事 御義口伝に云く此人とは法華経の行者なり、法華経を持ち奉る処を当詣道場と云うなり此(ここ)を去つて彼(かしこ)に行くには非ざるなり、道場とは十界の衆生の住処を云うなり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住処は山谷曠野皆寂光土なり此れを道場と云うなり、「此の因易(あらた)むること無きが故に直至(じきし)と云う」の釈之を思う可し、此の品の時最上第一の相伝あり、釈尊八箇年の法華経を八字に留めて末代の衆生に譲(ゆず)り給うなり八字とは当起遠迎当如敬仏(とうきおんごう・とうにょきょうぶつ)の文なり、此の文までにて経は終るなり当の字は未来なり当起遠迎とは必ず仏の如くに法華経の行者を敬う可しと云う経文なり、法師品には於此経巻敬視如仏と云えり、八年の御説法の口開きは南無妙法蓮華経方便品の諸仏智慧終りは当起遠迎当如敬仏の八字なり、但此の八字を以て法華一部の要路(ようろ)とせりされば文句の十に云く「当起遠迎当如敬仏よりは其の信者の功徳を結することを述す」と、法華一部は信の一字を以て本とせり云云。 尋ねて云く今の法華経に於て序品には首(はじ)めに如の字を置き終りの普賢品には去の字を置く羅什(らじゅう)三蔵の心地何(いか)なる表事の法門ぞや、答て云く今の経の法体は実相と久遠との二義を以て正体と為すなり始の如の字は実相を表し終りの去の字は久遠を表するなり、其の故は実相は理なり久遠は事なり理は空の義なり空は如の義なり之に依て如をば理空に相配するなり、釈に云く「如は不異に名く即ち空の義なり」と久遠は事なり其の故は本門寿量の心は事円の三千を以て正意と為すなり、去は久遠に当るなり去は開の義如は合の義なり開は分別の心なり合は無分別の意なり、此の開合を生仏に配当する時は合は仏界開は衆生なり、序品の始に如の字を顕したるは生仏不二の義なり、迹門は不二の分なり不変真如なる故なり、此の如是我聞の如をば不変真如の如と習うなり、空仮中の三諦には如は空是は中我聞は仮諦迹門は空を面と為す故に不二の上の而二なり、然る間而二の義を顕す時同聞衆を別に列ぬるなり、さて本門の終りの去は随縁真如にして而二の分なり仍(よ)つて去の字を置くなり、作礼而去(さらいにこ)の去は随縁真如と約束するなり、本門は而二の上の不二なり而二不二(ににふに)・常同常別・古今法爾(ここんほうに)の釈之を思う可し、此の去の字は彼の五千起去の去と習うなり、其の故は五千とは五住の煩悩と相伝する間五住の煩悩が己心の仏を礼して去ると云う義なり、如去の二字は生死の二法なり、伝教云く「去は無来之如来無去之円去(むらいのにょらい・むこのえんこ)」等と云云。 如の字は一切法是心の義去の字は心是一切法の義なり、一切法是心は迹門の不変真如なり心是一切法は本門の随縁真如なり、然る間・法界を一心に縮むるは如の義なり法界に開くは去の義なり三諦三観(さんたいさんがん)の口決相承(ぐけつそうじょう)と意同じ云云。 一義に云く如は実なり去は相なり実は心王相は心数なり、又諸法は去なり実相は如なり今経一部の始終諸法実相の四字に習うとは是なり、釈に云く「今経は何を以て体と為るや諸法実相を以て体と為す」と、今一重立ち入つて日蓮が修行に配当せば如とは如説修行の如なり・其の故は結要(けっちょう)五字の付属を宣べ給う時・宝塔品に事起り声徹下方(しょうてつげほう)し近令有在(ごんりょううざい)・遠令有在(おんりょううざい)と云うて有在の二字を以て本化・迹化の付属を宣ぶるなり仍つて本門の密序(みつじょ)と習うなり、さて二仏並座・分身の諸仏集まつて是好良薬の妙法蓮華経を説き顕し釈尊十種の神力を現じて四句に結び上行菩薩に付属し給う其の付属とは妙法の首題なり惣別の付属塔中塔外之を思う可し、之に依つて涌出寿量に事顕れ神力(じんりき)・属累(ぞくるい)に事竟(おわ)るなり、此の妙法等の五字を末法・白法隠没の時上行菩薩・御出世有つて五種の修行の中には四種を略して但受持の一行にして成仏す可しと経文に親(まのあた)り之れ有り、夫(さ)れば神力品に云く「於我滅度後(おがめつどご)・応受持斯経(おうじゅじしきょう)・是人於仏道(ぜにんのぶつどう)・決定無有疑(けつじょうむうぎ)」云云此の文明白なり、仍つて此の文をば仏の廻向の文と習うなり、然る間此の経を受持し奉る心地は如説修行の如なり此の如の心地に妙法等の五字を受持し奉り南無妙法蓮華経と唱え奉れば忽ち無明煩悩の病を悉く去つて妙覚極果(みょうかくごくか)の膚(はだえ)を瑩(みが)く事を顕す故にさて去の字を終りに結ぶなり、仍つて上に受持仏語と説けり煩悩悪覚(ぼんのうあくかく)の魔王も諸法実相の光に照されて一心一念遍於法界と観達(かんたつ)せらる、然る間還つて己心の仏を礼す故に作礼而去(さらいにこ)とは説き給うなり、彼彼三千互遍亦爾(ひひさんぜん・ごへんやくに)の釈之を思う可し秘す可し秘す可し唯受一人(ゆいじゅいちにん)の相承(そうじょう)なり、口外す可からず然らば此の去の字は不去而去の去と相伝するを以て至極と為すなり云云。 ▲
by johsei1129
| 2019-11-05 20:45
| 御義口伝
|
Trackback
|
Comments(0)
2019年 11月 05日
[御義口伝 下 本文]その十四 【厳王品三箇の大事】 第一 妙荘厳王(みょうしょうごんのう)の事 文句の十に云く妙荘厳とは妙法功徳をもつて諸根を荘厳するなりと。 御義口伝に云く妙とは妙法の功徳なり、諸根とは六根なり此の妙法の功徳を以て六根を荘厳(しょうごん)す可き名なり、所詮(しょせん)妙とは空諦なり荘厳とは仮諦なり王とは中道なり、今日蓮等の類(たぐ)い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は悉く妙荘厳王なり云云。 第二 浮木孔(ぶぼくく)の事 御義口伝に云く孔(く)とは小孔大孔の二之れ有り、小孔とは四十余年の経教なり大孔とは法華経の題目なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉るは大孔なり、一切衆生は一眼の亀なり栴檀(せんだん)の浮木とは法華経なり、生死の大海に南無妙法蓮華経の大孔(だいく)ある浮木は法華経に之在り云云。 第三 当品邪見即正の事 御義口伝に云く厳王(ごんのう)の邪見二人の教化に依り功徳を得て邪を改めて正とせり、止の一に辺邪皆中正(へんじゃかいちゅうしょう)と云う是なり、今日本国の一切衆生は邪見にして厳王なり、日蓮等の類(たぐ)い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は二人の如し終に畢竟住一乗して邪見即正なる可し云云。 [御義口伝 下 本文]その十五に続く ▲
by johsei1129
| 2019-11-05 20:20
| 御義口伝
|
Trackback
|
Comments(0)
|
アバウト
カレンダー
カテゴリ
全体 御書 INDEX・略歴 WRITING OF NICHIREN 観心本尊抄(御書五大部) 開目抄(御書五大部) 撰時抄(御書五大部) 報恩抄(御書五大部) 立正安国論(御書五大部) 御書十大部(五大部除く) 血脈・相伝・講義 重要法門(十大部除く) 御義口伝 日興上人 日寛上人 六巻抄 日寛上人 御書文段 小説 日蓮の生涯 上 小説 日蓮の生涯 中 小説 日蓮の生涯 下 LIFE OF NICHIREN 日蓮正宗関連リンク 南条時光(上野殿) 阿仏房・千日尼 曾谷入道 妙法比丘尼 大田乗明・尼御前 四条金吾・日眼女 富木常忍・尼御前 池上兄弟 弟子・信徒その他への消息 釈尊・鳩摩羅什・日蓮大聖人 日蓮正宗 宗門史 創価破析 草稿 検索
以前の記事
2019年 12月 2019年 11月 2019年 10月 2019年 09月 2019年 08月 2019年 07月 2019年 06月 2019年 05月 2019年 04月 2019年 03月 2019年 02月 2019年 01月 2018年 12月 2018年 11月 2018年 10月 2018年 09月 2018年 08月 2018年 07月 2018年 06月 2018年 05月 2018年 04月 2018年 03月 2018年 02月 2018年 01月 2017年 12月 2017年 11月 2017年 10月 2017年 09月 2017年 08月 2017年 07月 2017年 05月 2017年 04月 2017年 03月 2017年 02月 2017年 01月 2016年 12月 2016年 11月 2016年 10月 2016年 09月 2016年 08月 2016年 07月 2016年 06月 2016年 05月 2016年 04月 2016年 03月 2016年 02月 2016年 01月 2015年 12月 2015年 11月 2015年 10月 2015年 09月 2015年 08月 2015年 07月 2015年 06月 2015年 05月 2015年 04月 2015年 03月 2015年 02月 2015年 01月 2014年 12月 2014年 11月 2014年 10月 2014年 09月 2014年 08月 2014年 07月 2014年 06月 2014年 05月 2014年 04月 2014年 03月 2014年 01月 お気に入りブログ
最新のコメント
メモ帳
最新のトラックバック
ライフログ
タグ
最新の記事
外部リンク
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
|
ファン申請 |
||