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日蓮大聖人『御書』解説

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2019年 11月 03日 ( 8 )


2019年 11月 03日

会い難き法華経の共に離れずば我が身仏に成るのみならず背きし親をも導びきなん、と説いた兵衛志殿御返事】

【兵衛志殿御返事】
■出筆時期:建治三年(1277年)十一月二十日 五十六歳御作
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■執筆の経緯:本抄は池上兄弟の弟宗長に送られた数多くの消息の中で、最も厳しく且つ大聖人の慈愛あふれる指導が記された消息です。
大聖人は兄宗仲が二度目の勘当を受けたことを聞き、「このたびゑもんの志どの(兄宗仲)かさねて親のかんだうあり・とのの御前にこれにて申せしがごとく一定かんだうあるべし、ひやうへの志(さかん)殿をぼつかなし、ごぜんかまへて御心へあるべしと申して候しなり。今度はとのは一定を(落)ち給いぬとをぼうるなり、をち給はんをいかにと申す事はゆめゆめ候はず、但地獄にて日蓮をうらみ給う事なかれ、しり候まじきなり」と記し、この度はとの(宗長)はおちる(退転)だろうが、地獄で日蓮を恨むでないと、宗長の退路を断つべく非情とも言える指導をなされておられます。
さらに本文中段では「武蔵の入道そこばくの所領所従等をすてて遁世あり。ましてわどのばらがわづかの事をへつらひて心うすくて悪道に堕ちて日蓮をうらみさせ給うな」と記され、僅かの利益のため親や世間にへつらって信仰心が薄くて悪道に落ちて日蓮を恨むなと、重ねて厳しく指導されておられます。

しかし一方で「必ず三障四魔と申す障いできたれば賢者はよろこび愚者は退くこれなり。此の事はわざとも申し又びんぎにと・をもひつるに御使ありがたし、堕ち給うならば・よもこの御使は・あらじと・をもひ候へば・もしやと申すなり」と記され、本当に退転するならこの度供養を使わせることはないだろうから、もしや退転しないのではと思うから申し上げるのですと、厳しさの中にも慈愛あふれる言葉をかけられておられます。
さらに文末では「よくよくをもひ切つて一向に後世をたのまるべし、かう申すとも・いたづらのふみなるべしと・をもへば、かくも・ものうけれども・のちのをもひでにしるし申すなり」と、宗長が現世の利益を求めるのでなく、あくまで後生善処を願う決断をすることを促されておられます。
※尚、この池上兄弟の勘当の顛末については小説日蓮<71弟の宗長を諌暁> を参照してください。

■ご真筆:京都市 妙覚寺(全16紙)所蔵。他一箇所にて第11紙末尾2行の断簡所蔵。
会い難き法華経の共に離れずば我が身仏に成るのみならず背きし親をも導びきなん、と説いた兵衛志殿御返事】_f0301354_18403812.jpg

[真筆本文:下記緑字箇所]

[兵衛志殿御返事 本文]  [英語版]

かたがたのものふ(物夫)二人をもつて、をくりたびて候。その心ざし弁殿の御ふみに申すげに候。
さてはなによりも御ために第一の大事を申し候なり、正法・像法の時は世もいまだをとろへず聖人・賢人も・つづき生れ候き天も人をまほり給いき、末法になり候へば人のとんよく(貪欲)やうやくすぎ候て主と臣と親と子と兄と弟と諍論ひまなし。まして他人は申すに及ばず、これに・よりて天も・その国をすつれば三災七難乃至一二三四五六七の日いでて草木か(枯)れうせ小大河もつ(尽)き大地はすみのごとく・をこり大海はあぶらのごとくになり・けつくは無間地獄より炎(ほのお)いでて上梵天まで火炎・充満すべし、これてい(是体)の事いでんとて・やうやく世間はをと(衰)へ候なり。

皆人のをもひて候は父には子したがひ臣は君にかなひ弟子は師にゐ(違)すべからずと云云、かしこき人もいやしき者もしれる事なり、しかれども貪欲瞋恚愚癡と申すさけ(酒)にえいて主に敵し親をかろしめ師をあな(侮)づるつねにみへて候、但師と主と親とに随いてあしき事をば諌(いさめ)ば孝養となる事はさきの御ふみにかきつけて候いしかばつねに御らむあるべし。

ただこのたびゑもんの志どの(兄宗仲)かさねて親のかんだうあり・とのの御前にこれにて申せしがごとく一定かんだうあるべし、ひやうへの志殿をぼつかなしごぜん(御前)かまへて御心へあるべしと申して候しなり。今度はとのは一定をち給いぬとをぼうるなり、をち給はんをいかにと申す事はゆめゆめ候はず、但地獄にて日蓮をうらみ給う事なかれしり候まじきなり。

千年のかるかや(苅茅)も一時にはひ(灰)となる百年の功も一言にやぶれ候は法のことわりなり。
さえもんの大夫殿は今度・法華経のかたきに・なりさだまり給うとみへて候。えもんのたいうの志殿は今度法華経の行者になり候はんずらん。
とのは現前の計(はからい)なれば親につき給はんずらむ。ものぐるわしき人人はこれをほめ候べし。宗盛が親父(おや)入道の悪事に随いてしのわら(篠原)にて頚を切られし、重盛が随わずして先(さき)に死せし、いづれか親の孝人なる。
法華経のかたきになる親に随いて一乗の行者なる兄をすてば親の孝養となりなんや。せんするところひとすぢにをもひ切つて兄と同じく仏道をな(成)り給へ。

親父は妙荘厳王(みょうしょうごんのう)のごとし兄弟は浄蔵浄眼なるべし、昔と今はかわるとも法華経のことわりは・たがうべからず、当時も武蔵の入道そこばくの所領所従等をすてて遁世あり。ましてわどの(和殿)ばらがわづかの事をへつらひて心うすくて悪道に堕ちて日蓮をうらみさせ給うな。

かへすがへす今度とのは堕(おつ)べしとをぼうるなり。此の程心ざしありつるがひきかへて悪道に堕ち給はん事がふびんなれば申すなり。百に一つ千に一つも日蓮が義につかんとをぼさば、親に向つていい切り給へ。

親なれば・いかにも順いまいらせ候べきが法華経の御かたきになり給へば・つきまいらせては不孝の身となりぬべく候へば、すてまいらせて兄につき候なり。兄をすてられ候わば兄と一同とをぼすべしと申し切り給へ、すこしも・をそるる心なかれ、過去遠遠劫より法華経を信ぜしかども仏にならぬ事これなり。しを(潮)のひると・みつと月の出づると・いると・夏と秋と冬と春とのさかひ(境)には必ず相違する事あり凡夫の仏になる又かくのごとし。
必ず三障四魔と申す障(さわり)いできたれば賢者はよろこび愚者は退くこれなり。此の事はわざとも申し又びんぎ(便宜)にと・をもひつるに御使ありがたし、堕ち給うならば・よもこの御使は・あらじと・をもひ候へば・もしやと申すなり。

仏になり候事は此の須弥山にはり(針)をたてて彼の須弥山よりいと(糸)をはなちて、そのいとの・すぐにわたりて・はりのあな(穴)に入るよりもかたし。
いわうや・さかさまに大風のふきむかへたらんは・いよいよかたき事ぞかし。

経に云く「億億万劫より不可議に至る時に乃ち是の法華経を聞くことを得、億億万劫より不可議に至る諸仏世尊時に是の経を説きたもう・是の故に行者仏滅後に於て是くの如きの経を聞いて疑惑を生ずること勿れ」等云云
、此の経文は法華経二十八品の中に・ことにめづらし。

序品より法師品にいたるまで等覚已下の人天・四衆・八部・其のかずありしかども仏は但釈迦如来一仏なり重くてかろきへんもあり。宝塔品より嘱累品にいたるまでの十二品は殊に重きが中の重きなり、其の故は釈迦仏の御前に多宝の宝塔涌現せり月の前に日の出でたるがごとし、又十方の諸仏は樹下に御はします十方世界の草木の上に火をともせるがごとし。此の御前にてせん(選)せられたる文なり。

涅槃経に云く「昔無数無量劫より来(このか)た常に苦悩を受く、一一の衆生一劫の中に積む所の骨は王舎城の毘富羅(びふら)山の如く飲む所の乳汁(ちち)は四海の水の如く身より出す所の血は四海の水より多く、父母兄弟妻子眷属の命終に哭泣(こうきゅう)して出す所の目涙(なんだ)は四大海より多く、地の草木を尽くして四寸の籌(かずとり)と為し以て父母を数うも亦尽くすこと能わじ」云云。

此の経文は仏最後に雙林の本(もと)に臥(ふし)てかたり給いし御言(みことば)なりもつとも心をとどむべし、無量劫より已来(このかた)生(うむ)ところの父母は十方世界の大地の草木を四寸に切りてあ(推)てかぞうとも・たるべからずと申す経文なり、此等の父母にはあ(値)ひしかども法華経にはいまだ・あわず、されば父母はまうけやすし法華経はあひがたし、今度あひやすき父母のことばを・そむきて・あひがたき法華経のとも(友)にはなれずば我が身・仏になるのみならず・そむきしをや(親)をもみちびきなん。

例せば悉達太子は浄飯王の嫡子なり国をもゆづり位にもつけんと・をぼして・すでに御位につけまいらせたりしを御心をやぶりて夜中城をにげ出でさせ給いしかば不孝の者なりと・うらみさせ給いしかども仏にならせ給うては・まづ浄飯王・麻耶夫人をこそ・みちびかせ給いしか。

をや(親)という・をやの世をすてて仏になれと申すをやは一人もなきなり、これは・とによせ・かくによせて・わどのばらを持斎・念仏者等が・つくり・をとさんために・をやを・すすめをとすなり、両火房は百万反(べん)の念仏をすすめて人人の内をせ(塞)きて法華経のたねを・たたんと・はかるときくなり、極楽寺殿はいみじかりし人ぞかし、念仏者等にたぼらかされて日蓮を怨ませ給いしかば我が身といい其の一門皆ほろびさせ給う・ただいまは・へちご(越後)の守殿(こうどの)一人計りなり、両火房を御信用ある人はいみじきと御らむあるか、なごへの一門の善光寺・長楽寺・大仏殿立てさせ給いて其の一門のならせ給う事をみよ、又守殿は日本国の主にてをはするが、一閻浮提のごとくなる・かたきをへ(得)させ給へり。

わどの兄をすてて・あにがあとを・ゆづられたりとも千万年のさかへ・かたかるべし、しらず又わづかの程にや・いかんが・このよ(此世)ならんずらん、よくよくをもひ切つて一向に後世をたのまるべし、かう申すとも・いたづらのふみ(文)なるべしと・をもへば、かくも・もの(懶)うけれども・のちのをもひでに・しるし申すなり、恐恐謹言。

十一月二十日  日 蓮 花 押
兵衛志殿御返事

by johsei1129 | 2019-11-03 22:56 | 池上兄弟 | Trackback | Comments(0)
2019年 11月 03日

冬の身延ですごす大聖人を思いやり、棉入りの小袖を供養された大田入道の妻を称えられた消息【太田殿女房御返事】

【太田殿女房御返事】
■出筆時期:建治三年(1277年)十一月十八日 五六歳御作
■出筆場所:身延山中の草庵にて。
■出筆の経緯:本抄は、太田入道の妻が大聖人に当時では貴重な十両(銭六十貫以上に相当)に及ぶ棉入の小袖を供養されたことへの返書となっております。本抄を記されたのは現在の十二月末頃で、太田入道の妻は身延の厳しい冬を過ごされている大聖人を思いやって十両もの綿が入った小袖を供養されたと思われます。

大聖人は「憍曇弥(きょうどんみ)と申せし女人は、仏にきんばら衣をまいらせて、一切衆生喜見仏となり給ふ」と、仏伝の謂れを示すとともに、大田入道の妻の志について「今法華経に衣をまいらせ給ふ女人あり。後生には八寒地獄の苦をまぬがれさせ給ふのみならず、今生には大難をはらひ、其の功徳のあまりを男女のきんだち、きぬにきぬをかさね、いろにいろをかさね給ふべし」と称えられておられます。
■ご真筆:現存しておりません。

【太田殿女房御返事 本文】

 柿(柳)のあをうら(青裏)の小袖、わた十両に及んで候か。
此の大地の下に二つの地獄あり。一には熱地獄。すみ(炭)ををこし、野に火をつけ、せうまう(焼亡)の火、鉄(くろがね)のゆ(湯)のごとし。罪人のやくる事は、大火に紙をなげ、大火にかなくづ(木屑)をなぐるがごとし。この地獄へは、やきとり(焼取)と、火をかけてかたきをせめ、物をねたみて胸をこがす女人の堕つる地獄なり。二には寒地獄。此の地獄に八あり。

涅槃経に云はく「八種の寒氷地獄あり。所謂阿波波地獄・阿吒吒(あたた)地獄・阿羅羅地獄・阿婆婆地獄・優鉢羅(うはら)地獄・波頭摩(はずま)地獄・拘物頭(くもず)地獄・芬陀利(ふんだり)地獄」云云。此の八大かん地獄は、或はかんにせめられたるこえ(声)、或は身のいろ等にて候。此の国のすは(諏訪)の御(み)いけ、或は越中のたて(立)山のかへし、加賀の白山(しろやま)のれい(嶺)のとり(鳥)のはね(羽)をとぢられ、やもめをうな(寡婦)のすそ(裾)のひゆる、ほろゝ(雉子)の雪にせめられたるをもてしろしめすべし。

かん(寒)にせめられて、をと(頤)がいのわなめく等を阿波波・阿咤・阿羅羅等と申す。
かん(寒)にせめられて、身のくれないににたるを紅蓮・大紅蓮等と申すなり。いかなる人の此の地獄にをつるぞと申せば、此の世にて人の衣服をぬすみとり、父母師匠等のさむげなるをみまいらせて、我はあつくあたゝかにして昼夜をすごす人々の堕つる地獄なり。

六道の中に天道と申すは、其の所に生ずるより衣服とゝのをりて生まるゝところなり。人道の中にも商那和修・鮮白比丘尼等は悲母の胎内より衣服とゝのをりて生まれ給へり。是はたうとき人々に衣服をあたへたるのみならず、父母・主君・三宝にきよ(清)くあつ(厚)き衣(きぬ)をまいらせたる人なり。商那和修と申せし人は、裸形なりし辟支仏に衣(きぬ)をまいらせて、世々生々に衣服身に随ふ。

憍曇弥と申せし女人は、仏にきんばら衣(え)をまいらせて、一切衆生喜見仏となり給ふ。今法華経に衣(きぬ)をまいらせ給ふ女人あり。後生には八寒地獄の苦をまぬがれさせ給ふのみならず、今生には大難をはらひ、其の功徳のあまりを男女のきんだち、きぬ(衣)にきぬをかさね、いろ(色)にいろをかさね給ふべし。
穴賢穴賢。

十一月十八日               日 蓮 花押
太田入道殿女房御返事



 


by johsei1129 | 2019-11-03 22:34 | 大田乗明・尼御前 | Trackback | Comments(0)
2019年 11月 03日

銅の御器二つ供養された池上宗長の女房を釈迦仏が成道するとき乳粥を捧げた牧牛女に匹敵すると称えた【兵衛志殿女房御返事】

【兵衛志殿女房御返事】
■出筆時期:建治三年弘安二年(1277)十一月七日 五十六歳御作
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:本抄は池上兄弟の弟兵衛志殿(池上宗長)の女房から、銅製の器二つをご供養されたことへの返書となっております。
銅製の器二つとは、おそらく身延の草庵の宝殿の左右に据える仏具であろうと思われ、鎌倉時代としては非常に高価なものであったと推察されます。

大聖人は釈尊が仏になる時の修行中、バラモンの難行苦行では悟れないと、その修行を放棄し弱った体を休めていた時「牧牛女(もくごにょ)と申せし女人(仏伝では村長の娘スジャータ)」から牛の乳の粥を供養され体力を回復、その後菩提樹のもとで瞑想し成道したという謂れを説いて、この度銅器二つをはるばる身延の宝前まで届けた兵衛志殿女房は、その牧牛女に匹敵すると称えられておられます。
■ご真筆:現存しておりません。

【兵衛志殿女房御返事 本文】

銅(かね)の御器二つ給び畢ぬ。
釈迦仏三十の御年、仏になり始(そめ)てをはし候時、牧牛(もくご)女と申せし女人、乳(ち)のかい(粥)をに(煮)て仏にまいらせんとし候ひし程に、いれてまいらすべき器なし。
毘沙門天王等の四天王、四鉢を仏にまいらせたりし、其の鉢をうちかさねてかい(粥)をまいらせしに仏にはならせ給ふ。
其の鉢、後には人もも(盛)らざりしかども、常に飯(いい)のみ(満)ちしなり。後に馬鳴菩薩と申せし菩薩、伝へて金銭三貫にほう(報)じたりしなり。
今御器二を千里にをくり、釈迦仏にまいらせ給へば、かの福のごとくなるべし。委しくは申さず候。
十一月七日  日蓮花押 
兵衛志(さかん)殿女房御返事 




by johsei1129 | 2019-11-03 22:12 | 池上兄弟 | Trackback | Comments(0)
2019年 11月 03日

日蓮は少より今生のいのりなし、只仏にならんとをもふ計りなり、と説いた【世雄御書】

【[四条金吾殿御返事(世雄御書)】
■出筆時期:建治三年(西暦1277年)秋 五十六歳御作。
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:建治三年六月九日、鎌倉桑ヶ谷で当時評判だった竜象房の説法の場で大聖人の直弟子日行と論争になり、日行は竜象房を完璧に破折する。その時四条金吾も参加していたが竜象房はこのことを根に持ち、極楽寺良観に訴える。そして半月後の六月二十五日、金吾の主君江間氏から下し文が届けられる。内容は1.桑ヶ谷で狼藉を働いた。2.主君が信仰している良観、竜象房を批判。3.主君の考えに従わない。4.今後法華信仰を止めるという起請文を書くこと、さもなければ所領を没収、家臣として追放するという厳しいものだった。金吾はその日のうちに事の顚末と江間氏からの下し文とを添え、起請文は絶対に書かないと記した文を急使を立てて大聖人に届けた。この書は翌々日には身延草庵の大聖人の元に届く。その時の返書が「頼基陳状」である。本書はその後不遇の生活に陥る金吾に対し「仏法と申すは道理なり道理と申すは主に勝つ物なり<中略>いかに所領を、をししとをぼすとも死しては他人の物、すでにさかへて年久し、すこしも惜む事なかれ」と励まし、法華経の信仰を貫けば必ず主に勝と諭されている。金吾は、大聖人の指導の通り主君に誠実に対応を続け、翌年一月には主君の御勘気も解け、以前を上回る所領を賜ることができた。
■ご真筆: 現存しておりません。
[四条金吾殿御返事(世雄御書) 本文]

御文(ふみ)あらあらうけ給わりて長き夜のあけ・とをき道をかへりたるがごとし、夫れ仏法と申すは勝負をさきとし、王法と申すは賞罰を本とせり、故に仏をば世雄と号し王をば自在となづけたり、中にも天竺をば月氏という我国をば日本と申す一閻浮提・八万の国の中に大なる国は天竺・小なる国は日本なり、名のめでたきは印度第二・扶桑第一なり、仏法は月の国より始めて日の国にとどまるべし、月は西より出で東に向ひ日は東より西へ行く事天然のことはり、磁石と鉄(てつ)と雷(らい)と象華とのごとし、誰か此のことはりを・やぶらん。

 此の国に仏法わたりし由来をたづぬれば天神七代・地神五代すぎて人王の代となりて第一神武天皇・乃至第三十代欽明天皇と申せし王をはしき、位につかせ給いて三十二年治世し給いしに第十三年壬申(みずのえさる)十月十三日辛酉(かのととり)に此の国より西に百済国と申す州あり日本国の大王の御知行の国なり、其の国の大王・聖明王と申せし国王あり、年貢(みつぎ)を日本国にまいらせし・ついでに金銅の釈迦仏・並に一切経・法師・尼等をわたし・たりしかば天皇大に喜びて群臣に仰せて西蕃(せいばん)の仏を・あがめ奉るべしや・いなや、蘇我の大臣いなめ(稲目)の宿禰(すくね)と申せし人の云く西蕃の諸国みな此れを礼す・とよあきやまと(豊秋日本)あに独り背(そむかん)やと申す、物部の大むらじをこし(尾輿)中臣のかまこ(鎌子)等奏して曰く我が国家・天下に君たる人は・つねに天地しやそく(社稷)百八十神(ももやそのかみ)を春夏秋冬に・さいはい(祭拝)するを事とす、しかるを今更あらためて西蕃の神を拝せばおそらくは我が国の神いかりをなさんと云云、爾の時に天皇わかちがたくして勅宣す、此の事を只心みに蘇我の大臣(おとど)につけて一人にあがめさすべし、他人用いる事なかれ、蘇我の大臣うけ取りて大に悦び給いて此の釈迦仏を我が居住のおはた(小墾田)と申すところに入(いれ)まいらせて安置せり、物部(もののべ)の大連(おおむらじ)・不思議なりとて・いきどをりし程に日本国に大疫病おこりて死せる者・大半に及ぶ・すでに国民尽きぬべかりしかば、物部の大連・隙(ひま)を得て此の仏を失うべきよし申せしかば勅宣なる、早く他国の仏法を棄つべし云云、物部の大連・御使として仏をば取りて炭をもつてをこし・つち(槌)をもつて打ちくだき・仏殿をば火をかけて・やきはらひ僧尼をば・むち(笞)をくわう、其の時天に雲なくして大風ふき・雨ふり、内裏天火にやけあがつて大王並に物部の大連・蘇我の臣・三人共に疫病あり・きるがごとく・やくがごとし、大連は終に寿(いのち)絶えぬ・蘇我と王とは・からくして蘇生す、而れども仏法を用ゆることなくして十九年すぎぬ。

 第三十一代の敏達天皇は欽明第二の太子・治十四年なり左右の両臣は一(ひとり)は物部の大連が子にて弓削(ゆげ)の守屋・父のあとをついで大連に任ず蘇我の宿禰の子は蘇我の馬子と云云、此の王の御代に聖徳太子生(うまれ)給へり・用明の御子・敏達のをい(甥)なり御年二歳の二月・東に向つて無名の指(ゆび)を開いて南無仏と唱へ給へば御舎利・掌(みて)にあり、是れ日本国の釈迦念仏の始めなり、太子八歳なりしに八歳の太子云く「西国の聖人・釈迦牟尼仏の遺像末世に之を尊めば則ち禍(わざわい)を銷(け)し・福を蒙る・之を蔑れば則ち災を招き寿を縮む」等云云、大連物部の弓削・宿禰の守屋等いかりて云く「蘇我は勅宣を背きて他国の神を礼す」等云云、又疫病未だ息まず人民すでにたえぬべし、弓削守屋又此れを間奏す云云、勅宣に云く「蘇我の馬子仏法を興行す宜く仏法を卻(しり)ぞくべし」等云云、此に守屋中臣の臣勝海(おみ・かつみ)大連等両臣と、寺に向つて堂塔を切(きり)たうし仏像を・やきやぶり、寺には火をはなち僧尼の袈裟をはぎ笞をもつてせ(責)む・又天皇並に守屋馬子等疫病す、其の言に云く「焼くがごとし・きるがごとし」又瘡(かさ)をこる・はうそう(疱瘡)といふ、馬子歎いて云く「尚三宝を仰がん」と・勅宣に云く「汝独り行え但し余人を断てよ」等云云、馬子欣悦し精舎を造りて三宝を崇(あが)めぬ。

 天皇は終八月十五日・崩御云云、此の年は太子は十四なり第三十二代・用明天皇の治二年・欽明の太子・聖徳太子の父なり、治二年丁未(ひのとひつじ)四月に天皇疫病あり、皇(みかど)勅して云く「三宝に帰せんと欲す」云云、蘇我の大臣詔に随う可しとて遂に法師を引いて内裏に入る豊国(とよくに)の法師是なり、物部の守屋・大連等・大に瞋(いか)り横に睨んで云く天皇を厭魅(えんみ)すと終に皇(みかど)隠れさせ給う・五月に物部の守屋が一族・渋河(しぶかわ)の家にひきこもり多勢をあつめぬ、太子と馬子と押し寄せてたたかう、五月・六月・七月の間に四箇度・合戦す、三度は太子まけ給ふ第四度めに太子・願を立てて云く「釈迦如来の御舎利の塔を立て四天王寺を建立せん」と・馬子願て云く「百済より渡す所の釈迦仏を寺を立てて崇重すべし」と云云、弓削なの(名乗)つて云く「此れは我が放つ矢にはあらず我が先祖崇重の府都(ふと)の大明神の放ち給ふ矢なり」と、此の矢はるかに飛んで太子の鎧に中(あた)る、太子なのる「此は我が放つ矢にはあらず四天王の放ち給う矢なり」とて迹見(とみ)の赤梼(いちい)と申す舎人(とねり)に・いさせ給へば矢はるかに飛んで守屋が胸に中(あた)りぬ、はだのかはかつ(秦川勝)をちあひて頚をとる、此の合戦は用明崩御・崇峻未だ位に即き給わざる其の中間なり。

 第三十三・崇峻天皇・位につき給う、太子は四天王寺を建立す此れ釈迦如来の御舎利なり、馬子は元興(がんご)寺と申す寺を建立して百済国よりわたりて候いし教主釈尊を崇重す、今の代に世間第一の不思議は善光寺の阿弥陀如来という誑惑これなり、又釈迦仏にあだを・なせしゆへに三代の天皇・並に物部(もののべ)の一族むなしく・なりしなり又太子・教主釈尊の像・一体つくらせ給いて元興寺に居せしむ今の橘寺(たちばなでら)の御本尊これなり、此れこそ日本国に釈迦仏つくりしはじめなれ。

漢土には後漢の第二の明帝・永平七年に金神の夢を見て博士蔡愔(さいいん)・王遵等の十八人を月氏につかはして仏法を尋ねさせ給いしかば・中天竺の聖人摩騰迦(まとぎゃ)・竺法蘭と申せし二人の聖人を同永平十年丁卯(ひのとう)の歳迎へ取りて崇重ありしかば、漢土にて本(もと)より皇の御いのりせし儒家・道家の人人数千人此の事をそねみて・うつたへしかば、同永平十四年正月十五日に召し合せられしかば漢土の道士悦びをなして唐土の神・百霊を本尊としてありき、二人の聖人は仏の御舎利と釈迦仏の画像と五部の経を本尊と恃怙(たの)み給う、道士は本より王の前にして習いたりし仙経・三墳・五典・二聖・三王の書を薪に・つみこめて・やきしかば古はやけざりしが・はい(灰)となりぬ、先(さき)には水にうかびしが水に沈みぬ、鬼神を呼(よび)しも来らず、あまりのはづかしさにちょ褚善信(ちょぜんしん)・費叔才なんど申せし道士等はおもい死にししぬ、二人の聖人の説法ありしかば舎利は天に登りて光を放ちて日輪みゆる事なし、画像の釈迦仏は眉間(みけん)より光を放ち給う、呂慧通(りょけいつう)等の六百余人の道士は帰伏して出家す、三十日が間に十寺立ちぬ、されば釈迦仏は賞罰ただしき仏なり、上(かみ)に挙ぐる三代の帝(みかど)・並に二人の臣下・釈迦如来の敵とならせ給いて今生は空く後生は悪道に堕ちぬ。

 今の代も又これに・かはるべからず、漢土の道士・信費等・日本の守屋等は漢土・日本の大小の神祇を信用して教主釈尊の御敵となりしかば神は仏に随い奉り行者は皆ほろびぬ、今の代も此くの如く上に挙ぐる所の百済国の仏は教主釈尊なり、名を阿弥陀仏と云つて日本国をたぼらかして釈尊を他仏にかへたり、神と仏と仏と仏との差別こそあれども釈尊をすつる心はただ一なり、されば今の代の滅せん事又疑いなかるべし、是は未だ申さざる法門なり秘す可し秘す可し、又吾一門の人人の中にも信心も・うすく日蓮が申す事を背き給はば蘇我が如くなるべし、其の故は仏法日本に立ちし事は蘇我の宿禰(すくね)と馬子との父子二人の故ぞかし、釈迦如来の出世の時の梵王・帝釈の如くにてこそあらまじなれども、物部と守屋とを失いし故に只一門になりて位もあがり国をも知行し一門も繁昌せし故に高挙(たかあがり)をなして崇峻天皇を失いたてまつり王子を多く殺し結句は太子の御子二十三人を馬子がまご(孫)入鹿の臣下失ひまいらせし故に、皇極天皇は中臣の鎌子が計いとして教主釈尊を造り奉りてあながちに申せしかば入鹿の臣(おみ)並に父等の一族一時に滅びぬ。

 此をもつて御推察あるべし、又我が此の一門の中にも申しとをらせ給はざらん人人は・かへりて失あるべし、日蓮をうらみさせ給うな少輔房・能登房等を御覧あるべし、かまへて・かまへて此の間はよ(余)の事なりとも御起請かかせ給うべからず・火は・をびただしき様なれども暫くあればしめ(滅)る・水はのろ(鈍)き様なれども左右なく失いがたし、御辺は腹あしき人なれば火の燃るがごとし一定・人にすかされなん、又主のうらうら(遅遅)と言(ことば)和かにすか(賺)させ給うならば火に水をかけたる様に御わたりありぬと覚ゆ、きたはぬ・かねは・さかんなる火に入るればとくと(蕩)け候、冰をゆ(湯)に入るがごとし、剣(つるぎ)なんどは大火に入るれども暫くはとけず是きたへる故なり、まへ(前)にかう申すはきたうなるべし、仏法と申すは道理なり道理と申すは主に勝つ物なりいかに・いと(愛)をし・はなれじと思うめ(妻)なれども死しぬれば・かひなし・いかに所領を・をししと・をぼすとも死しては他人の物、すでに・さかへて年久し・すこしも惜む事なかれ、又さきざき申すがごとく・さきざきよりも百千万億倍・御用心あるべし。

 日蓮は少(わかき)より今生のいのりなし只仏にならんとをもふ計りなり、されども殿の御事をば・ひまなく法華経・釈迦仏・日天に申すなり其の故は法華経の命(いのち)を継ぐ人なればと思うなり。

 穴賢・穴賢あらかるべからず・吾が家に・あらずんば人に寄合(よりあう)事なかれ、又夜廻(よまわり)の殿原は・ひとりも・たのもしき事はなけれども・法華経の故に屋敷を取られたる人人なり、常はむつ(昵)ばせ給うべし、又夜の用心の為と申しかたがた・殿の守りとなるべし、吾方の人人をば少少の事をば・みずきかずあるべし・さて又法門なんどを聞(きか)ばやと仰せ候はんに悦んで見(まみ)え給うべからず、いかんが候はんずらん、御弟子共(ども)に申してこそ見候はめと・やわやわ(和和)とあるべし・いかにも・うれしさに・いろに顕われなんと覚え聞かんと思う心だにも付かせ給うならば火をつけて・もすがごとく天より雨の下(ふ)るがごとく万事をすてられんずるなり。
 又今度いかなる便(たより)も出来せば・したため候し陳状を上げらるべし、大事の文(ふみ)なれば・ひとさはぎ(一騒)は・かならずあるべし、穴賢穴賢。

四条金吾殿                       日 蓮 花押






by johsei1129 | 2019-11-03 22:08 | 四条金吾・日眼女 | Trackback | Comments(0)
2019年 11月 03日

教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ、穴賢・穴賢、賢きを人と云い、はかなきを畜といふ。と説いた【崇峻天皇御書】

【崇峻天皇御書】
■出筆時期:建治三年(1277年)九月十一日 五十六歳御作。
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:本消息は四条金吾が主君の江間氏よりを謹慎を命じられていた時に、大聖人は短気な金後に対し、崇峻天皇が聖徳太子の諫言を守らず蘇我の馬子に殺害された故事を引いて、主君や同僚を恨むことなく謹慎がとけるまで自重して事にあたるよう様々な生活指導されておられます。
また竜ノ口の法難で金吾が大聖人と共に殉死しようとされたことについて「返す返す今に忘れぬ事は頚切れんとせし時、殿はともして馬の口に付きて・なきかなしみ給いしをば・いかなる世にか忘れなん。設い殿の罪ふかくして地獄に入り給はば日蓮をいかに仏になれと釈迦仏こしらへさせ給うとも用ひまいらせ候べからず。同じく地獄なるべし」と、金吾の大聖人に随順する思いを称えられておられます。

さらに文末では「一代の肝心は法華経・法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり<中略>教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ、穴賢・穴賢、賢きを人と云いはかなきを畜といふ」と記され、法華経の信徒として賢き振る舞いをするよう諭されておられます。
※尚、本消息の経緯については『小説日蓮の生涯(下) 66 金吾の奉行所対決』を参照して下さい。
■ご真筆:身延久遠寺に存在したが明治八年の大火で焼失しております。

【崇峻天皇御書 本文】

白小袖一領・銭一ゆひ・又富木殿の御文(ふみ)のみ・なによりも・かきなし(柿梨)なまひ(干)じきひるひじき・やうやうの物うけ取りしなじな御使にたび候いぬ、さては・なによりも上の御いたはり(所労)なげき入つて候、たとひ上は御信用なき様に候へども・との(殿)其の内にをはして其の御恩のかげにて法華経をやしなひ・まいらせ給い候へば偏に上の御祈とぞなり候らん、大木の下の小木・大河の辺(ほとり)の草は正しく其の雨にあたらず其の水をえずといへども露をつたへ・いき(気)をえて・さか(栄)うる事に候。

此れもかくのごとし、阿闍世王は仏の御かたきなれども其の内にありし耆婆大臣・仏に志ありて常に供養ありしかば其の功大王に帰すとこそ見へて候へ、仏法の中に内薫外護と申す大なる大事ありて宗論にて候、法華経には「我深く汝等を敬う」涅槃経には「一切衆生悉く仏性有り」馬鳴菩薩の起信論には「真如の法常に薫習するを以ての故に妄心即滅して法身顕現す」弥勒菩薩の瑜伽論には見えたり、かく(隠)れたる事のあら(顕)はれたる徳となり候なり、されば御内の人人には天魔ついて前より此の事を知りて殿の此の法門を供養するをささ(支)えんがために今度の大妄語をば造り出だしたりしを御信心深ければ十羅刹たすけ奉らんがために此の病はをこれるか、上は我がかたきとは・をぼさねども一たん・かれらが申す事を用い給いぬるによりて御しよらうの大事になりて・ながしら(長引)せ給うか、彼等が柱とたのむ竜象すでにたうれぬ、和讒せし人も又其の病にをかされぬ、良観は又一重の大科の者なれば大事に値うて大事を・ひきをこして・いかにもなり候はんずらん、よもただは候はじ。

此れにつけても殿の御身もあぶなく思いまいらせ候ぞ、一定かたきに・ねらはれさせ給いなん・すぐろく(雙六)の石は二つ並びぬればかけられず車の輪(わ)は二あれば道にかたぶかず、敵も二人ある者をば・い(悒)ぶせがり候ぞ、いかにとが(科)ありとも弟(おと)ども且くも身をはなち給うな、殿は一定・腹あしき相(そう)かを(面)に顕れたり、いかに大事と思へども腹あしき者をば天は守らせ給はぬと知らせ給へ・殿の人にあだまれて・をはさば設い仏には・なり給うとも彼等が悦びと云う、此れよりの歎きと申し口惜しかるべし、彼等が・いかにもせんと・はげみつるに、古よりも上(かみ)に引き付けられまいらせて・をはすれば・外のすがたはしづまりたる様にあれども内の胸は・も(燃)ふる計りにや有らん、常には彼等に見へぬ様にて古よりも家のこ(子)を敬ひ・きうだち(公達)まいらせ給いて・をはさんには上(かみ)の召しありとも且く・つつしむべし、入道殿いかにもならせ給はば彼の人人は・まどひ者になるべきをば・かへりみず、物をぼへぬ心に・との(殿)のいよいよ来るを見ては一定ほのをを胸にたきいきをさかさまにつ(吐)くらん、若しきうだちきり(権)者の女房たち・いかに上の御そろうはと問い申されば、いかなる人にても候へ・膝をかがめて手を合せ某が力の及ぶべき御所労には候はず候を・いかに辞退申せども・ただと仰せ候へば御内の者にて候間・かくて候とてびむ(鬢)をも・かかずひたたれ(直垂)こは(強)からず、さはやかなる小袖・色ある物なんども・き(著)ずして且く・ねう(忍)じて御覧あれ。

返す返す御心へ(得)の上なれども末代のありさまを仏の説かせ給いて候には濁世には聖人も居しがたし大火の中の石の如し、且くは・こら(堪)ふるやうなれども終には・やけくだけて灰となる、賢人も五常は口に説きて身には振舞いがたしと見へて候ぞ、かう(甲)の座をば去れと申すぞかし、そこばくの人の殿を造り落さんとしつるにをとされずして・はやか(勝)ちぬる身が穏便ならずして造り落されなば世間に申すこぎこ(漕漕)ひでの船こ(溢)ぼれ又食の後に湯の無きが如し、上(かみ)よりへやを給いて居して・をはせば其処にては何事無くとも日ぐれ暁なんど入り返りなんどに定めて・ねらうらん、又我が家の妻戸の脇・持仏堂・家の内の板敷の下(した)か・天井なんどをば、あながちに・心えて振舞い給へ、今度はさきよりも彼等は・たばかり賢(かしこ)かるらん、いかに申すとも鎌倉のえがら(荏柄)夜廻りの殿原にはすぎじ、いかに心にあはぬ事有りとも・かたらひ給へ。

義経はいかにも平家をば・せめおとしがたかりしかども・成良(しげよし)をかたらひて平家をほろぼし、大将殿は・おさだを親のかたきとをぼせしかども平家を落さざりしには頚を切り給はず、況や此の四人は遠くは法華経のゆへ近くは日蓮がゆへに命を懸けたるやしきを上へ召されたり、日蓮と法華経とを信ずる人人をば前前・彼の人人いかなる事ありとも・かへりみ給うべし、其の上(うえ)殿の家へ此の人人・常にかようならば・かたきはよる行きあはじと・をぢるべし、させる親のかたきならねば顕われてとは・よも思はじ、かくれん者は是れ程の兵士(つわもの)はなきなり、常にむつばせ給へ、殿は腹悪き人にてよも用ひさせ給はじ、若しさるならば日蓮が祈りの力及びがたし、竜象と殿の兄とは殿の御ためにはあしかりつる人ぞかし天の御計いに殿の御心の如くなるぞかし、いかに天の御心に背かんとはをぼするぞ設い千万の財をみちたりとも上(かみ)にすてられまいらせ給いては何の詮かあるべき・已に上にはをやの様に思はれまいらせ水の器に随うが如くこうし(犢)の母を思ひ老者(おい)の杖をたのむが如く・主のとのを思食されたるは法華経の御たすけにあらずや、あらうら(羨)やましやとこそ御内の人人は思はるるらめ・とくとく此の四人かたらひて日蓮にき(聞)かせ給へ、さるならば強盛に天に申すべし、又殿の故(こ)・御父・御母の御事も左衛門の尉があまりに歎き候ぞと天にも申し入れて候なり、定めて釈迦仏の御前に子細候らん。

返す返す今に忘れぬ事は頚切(くびきら)れんとせし時、殿はともして馬の口に付きて・なきかなしみ給いしをば・いかなる世にか忘れなん、設い殿の罪ふかくして地獄に入り給はば日蓮を・いかに仏になれと釈迦仏こし(誘)らへさせ給うとも用ひまいらせ候べからず同じく地獄なるべし、日蓮と殿と共に地獄に入るならば釈迦仏・法華経も地獄にこそ・をはしまさずらめ、暗(くらやみ)に月の入るがごとく湯に水を入るるがごとく冰(こおり)に火を・たくがごとく・日輪にやみをなぐるが如くこそ候はんずれ、若しすこしも此の事をたがへさせ給うならば日蓮うらみさせ給うな

此の世間の疫病は・とののまうすがごとく年帰りなば上へあがりぬと・をぼえ候ぞ、十羅刹の御計(はから)いか今且く世にをはして物を御覧あれかし、又世間の・すぎえぬ・やうばし歎いて人に聞かせ給うな、若しさるならば賢人には・はづ(外)れたる事なり、若しさるならば妻子があと(後)に・とどまりてはぢを云うとは思はねども、男のわかれのおしさに他人に向いて我が夫のはぢを・みなかたるなり、此れ偏に・かれが失にはあらず我がふるまひのあしかりつる故なり。

人身は受けがたし爪の上の土・人身は持ちがたし草の上の露、百二十まで持(も)ちて名を・くた(腐)して死せんよりは生きて一日なりとも名をあげん事こそ大切なれ、中務(なかつかさ)三郎左衛門尉は主の御ためにも仏法の御ためにも世間の心ねもよかりけり・よかりけりと鎌倉の人人の口にうたはれ給へ、穴賢・穴賢、蔵の財(たから)よりも身の財すぐれたり身の財より心の財第一なり、此の御文(ふみ)を御覧あらんよりは心の財をつませ給うべし。

第一秘蔵の物語あり書きてまいらせん、日本始りて国王二人・人に殺され給う、其の一人は崇峻天皇なり、此の王は欽明天皇の御太子・聖徳太子の伯父(おじ)なり、人王第三十三代の皇(みかど)にて・をはせしが聖徳太子を召して勅宣下さる、汝は聖智の者と聞く朕(ちん)を相してまいらせよと云云、太子三度まで辞退申させ給いしかども頻(しきり)の勅宣なれば止みがたくして敬いて相しまいらせ給う。君は人に殺され給うべき相ましますと、王の御気色かはらせ給いて・なにと云う証拠を以て此の事を信ずべき、太子申させ給はく御眼に赤き筋とをりて候人にあだまるる相なり、皇帝(みかど)勅宣を重ねて下し・いかにしてか此の難を脱れん、太子の云く免脱(のがれ)がたし但し五常と申すつはもの(兵)あり此れを身に離し給わずば害を脱れ給はん、此のつはものをば内典には忍波羅蜜と申して六波羅蜜の其の一なりと云云、且くは此れを持ち給いてをはせしが・ややもすれば腹あしき王にて是を破らせ給いき、或時(あるとき)人・猪の子をまいらせたりしかば・こうがい(笄刀)をぬきて猪の子の眼をづぶづぶと・ささせ給いていつか・にくしと思うやつをかくせんと仰せありしかば、太子其の座にをはせしが、あらあさましや・あさましや・君は一定人にあだまれ給いなん。

此の御言(みことば)は身を害する剣なりとて太子多くの財を取り寄せて御前に此の言を聞きし者に御ひきで物ありしかども、有人(あるひと)蘇我の大臣・馬子と申せし人に語りしかば馬子我が事なりとて東漢直駒(あずまあやあたいごま)・直磐井(あたいいわい)と申す者の子をかたらひて王を害しまいらせつ、されば王位の身なれども思う事をば・たやすく申さぬぞ、孔子と申せし賢人は九思一言とてここのたび(九度)おもひて一度(ひとたび)申す、周公旦と申せし人は沐(ゆあみ)する時は三度握(みたびにぎ)り食する時は三度はき給いき、たしかに・きこしめせ我ばし恨みさせ給うな仏法と申すは是にて候ぞ。

一代の肝心は法華経・法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり、不軽菩薩の人を敬いしは・いかなる事ぞ教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ、穴賢・穴賢、賢きを人と云い、はかなきを畜といふ。

建治三年丁丑(ひのとうし)九月十一日 日蓮 花押
四条左衛門尉殿御返事





by johsei1129 | 2019-11-03 21:08 | 四条金吾・日眼女 | Trackback | Comments(0)
2019年 11月 03日

在家の御身は余念もなく日夜朝夕・南無妙法蓮華経と唱え候て最後臨 終の時を見させ給へ、妙覚の山に走り登り四方を御覧ぜよ、と記された【松野殿御返事】

【松野殿御返事】
■出筆時期:建治三年(1277年)九月九日 五十六歳御作。
■出筆場所:身延山中の草庵にて。
■出筆の経緯:本消息を宛てられた松野殿は駿河・庵原(いはら)郡松野の郷主で、娘は南条家に嫁ぎ南条時光の母となっており、謂わば時光の外祖父であります。また子息の一人は出家し六老僧の一人日持となります。松野殿は翌年の弘安元年十一月に逝去なされており、本消息を賜った頃はあるいは病身であったのではと思われ、大聖人は本抄で「余念もなく日夜朝夕・南無妙法蓮華経と唱え候て最後臨終の時を見させ給へ、妙覚の山に走り登り四方を御覧ぜよ」と法華経への信心を励まされたのではと推察されます。

松野殿への御消息は十二通伝えられておりますが、その中で建治二年十二月九日に与えられた消息では松野殿が大聖人に「聖人の唱えさせ給う題目の功徳と我れ等が唱へ申す題目の功徳と何程の多少候べきや」と問われ「勝劣あるべからず候、其の故は愚者の持ちたる金も智者の持ちたる金も、愚者の然せる火も智者の然せる火も其の差別なきなり。但し此の経の心に背いて唱へば其の差別有るべきなり。<中略>果を列ぬ悪の因に十四あり」と記され、成仏を妨げる「十四誹謗」を説かれた貴重な御消息【松野殿御返事(十四誹謗抄)】賜っておられます。
尚、追伸の「目連樹十両計り給はり候べく候」とは実を数珠の珠にする目連樹という木を大聖人が上野殿に求めている意味となります。
■ご真筆:現存しておりません。

【松野殿御返事 本文】
鵞目一貫文・油一升・衣一(ころもひとつ)・筆十管(かん)給い候、今に始めぬ御志申し尽しがたく候へば法華経・釈迦仏に任せ奉り候。

先立(さきだって)より申し候、但在家の御身は余念もなく日夜朝夕・南無妙法蓮華経と唱え候て最後臨終の時を見させ給へ、妙覚の山に走り登り四方を御覧ぜよ。
法界は寂光土にして瑠璃を以て地とし・金繩(こがねなわ)を以て八(やつ)の道をさかひ、天(そら)より四種の花ふり虚空に音楽聞え、諸仏・菩薩は皆常楽我浄の風にそよめき給へば・我れ等も必ず其の数に列ならん。
法華経はかかる・いみじき御経にて・をはしまいらせ候。
委細はいそぎ候間申さず候、恐恐謹言。

建治三年丁丑九月九日   日 蓮 花 押
松野殿御返事
追て申し候目連樹(もくれんず)十両計り給はり候べく候




by johsei1129 | 2019-11-03 20:16 | 弟子・信徒その他への消息 | Trackback | Comments(0)
2019年 11月 03日

『我門家 夜断眠 昼止暇案之。 一生空過万歳勿悔』と説いた【富木殿御書】

【富木殿御書】
■出筆時期:建治三年(1277年)八月二十三日 五十六歳御作
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■執筆の経緯:この時期、蒙古の再来襲が確実視される中真言亡国の念を強めた大聖人は、富木常忍他信徒に宛てて本書を送られた。大聖人は文中で「畏るべきは深法を謗ずると及び謗法の知識となり決定して人をして畏るべき阿鼻獄に入らしむ」と記されるともに「今日本国の八宗並びに浄土・禅宗等の四衆<中略>皆一人も無く弘法・慈覚・智証の三大師の末孫・檀越なり」と記し、弘法・慈覚・智証こそ法華経謗法の根幹であると断じておられます。
さらに文末では門下の信徒一同に対し「此等の意を以て之を案ずるに、我が門家は夜は眠りを断ち昼は暇を止めて之を案ぜよ一生空しく過して万歳悔ゆること勿れ」と生涯、破邪顕正を案ずることを厳命されておられます。
この大聖人の思いは日興上人に引き継がれ、さらに現代の我々弟子・信徒に対する指南でもあると拝されます。
■ご真筆:中山法華経寺所蔵。
『我門家 夜断眠 昼止暇案之。 一生空過万歳勿悔』と説いた【富木殿御書】_f0301354_2342619.jpg

[真筆本文(第七紙):下記及び文中緑字箇所]
弘法之御弟子実慧・真済・真
雅等数百人 並八宗十宗等
大師先徳 如日与日月与月与
星与星並出既経歴四百
余年。此等人々一人 不疑此義。
汝以何智難之云云。
以此等意案之 我門家
夜断眠 昼止暇案之。
一生空過万歳勿悔。
恐恐謹言。

[富木殿御書 本文]

妙法蓮華経の第二に云く「若し人信ぜずして此の経を毀謗し経を読誦し書持すること有らん者を見て軽賤憎嫉して結恨を懐かん其人命終して阿鼻獄に入らん乃至是の如く展転して無数劫に至らん」第七に云く「千劫阿鼻獄に於てす」第三に云く「三千塵点」第六に云く「五百塵点劫」等云云。涅槃経に云く「悪象の為に殺されては三悪に至らず悪友の為に殺されては必ず三悪に至る」等云云、賢慧菩薩の法性論に云く「愚にして正法を信ぜず邪見及び傲慢なるは過去の謗法の障りなり。

不了義に執着して供養恭敬に著し唯邪法を見て善知識に遠離して謗法者の小乗の法に楽著(ぎょうじゃく)する是(かく)の如き等の衆生に親近して大乗を信ぜず故に諸仏の法を謗ず。

智者は怨家(おんけ)・蛇・火毒・因陀羅・霹靂(へきれき)・刀杖諸の悪獣・虎狼・師子等を畏るべからず、彼は但能く命を断じて人をして畏るべき阿鼻獄に入らしむること能わず、畏るべきは深法を謗ずると及び謗法の知識となり決定(けつじょう)して人をして畏るべき阿鼻獄に入らしむ。

悪知識に近づきて悪心にして仏の血を出だし及び父母を殺害し諸の聖人の命を断じ和合僧を破壊し及び諸の善根を断ずると雖も念を正法に繋(つな)ぐるを以て能く彼の処を解脱せん。若し復余人有つて甚深の法を誹謗せば彼の人無量劫にも解脱を得べからず、若し人衆生をして是の如きの法を覚信せしめば彼は是我が父母亦是れ善知識なり、彼の人は是智者なり如来の滅後に邪見顛倒を廻して正道に入らしむるを以ての故に三宝清浄の信・菩提功徳の業(ごう)なり」等云云。

竜樹菩薩の菩提資糧論に云く「五無間の業を説きたもう乃至若し未解(みげ)の深法(じんぽう)に於て執着を起せるは○彼の前の五無間等の罪聚(ざいじゅ)に之を比するに百分にしても及ばず」云云。

夫れ賢人は安きに居て危きを歎き佞人(ねいじん)は危きに居て安きを歎く、大火は小水を畏怖し大樹は小鳥に値いて枝を折らる智人は恐怖すべし大乗を謗ずる故に、天親菩薩は舌を切らんと云い馬鳴菩薩は頭を刎ねんと願い吉蔵大師は身を肉橋と為し玄奘三蔵は此れを霊地に占い不空三蔵は疑いを天竺に決し伝教大師は此れを異域に求む、皆上に挙ぐる所は経論を守護する故か。

今日本国の八宗並びに浄土・禅宗等の四衆上(かみ)主上・上皇より下(しも)臣下万民に至るまで皆一人も無く弘法・慈覚・智証の三大師の末孫・檀越(たんのつ)なり。

円仁・慈覚大師云く「故に彼と異り」円珍・智証大師云く「華厳・法華を大日経に望むれば戯論と為す」空海弘法大師云く「後に望むれば戯論と為す」等と云云、此の三大師の意は法華経は已・今・当の諸経の中の第一なり然りと雖も大日経に相対すれば戯論の法なり等云云、此の義心有らん人信を取る可きや不(いな)や。

今日本国の諸人・悪象・悪馬・悪牛・悪狗・毒蛇・悪刺(あくせき)・懸岸(けんがん)・険崖・暴水・悪人・悪国・悪城・悪舎・悪妻・悪子・悪所従等よりも此に超過し以て恐怖すべきこと百千万億倍なれば持戒・邪見の高僧等なり、問うて云く上に挙ぐる所の三大師を謗法と疑うか叡山第二の円澄寂光大師・別当光定(こうじょう)大師・安慧大楽(あんねだいぎょう)大師・慧亮(えりょう)和尚・安然和上・浄観僧都・檀那僧正・慧心先徳・此等の数百人、弘法の御弟子実慧(じつえ)・真済(しんぜい)・真雅(しんが)等の数百人並びに八宗・十宗等の大師先徳・日と日と・月と月と・星と星と・並びに出でたるが如し。既に四百余年を経歴するに此等の人人一人として此の義を疑わず汝何なる智を以て之を難ずるや云云。

此等の意を以て之を案ずるに我が門家は夜は眠りを断ち昼は暇(いとま)を止めて之を案ぜよ一生空しく過して万歳悔ゆること勿れ、恐恐謹言。


八月二十三日 日 蓮 花 押
富 木 殿
鵞目一結(ゆい)給び候畢んぬ、志有らん諸人は一処に聚集(じゅしゅう)して御聴聞有るべきか。

by johsei1129 | 2019-11-03 20:12 | 富木常忍・尼御前 | Trackback | Comments(0)
2019年 11月 03日

池上宗長に、いよいよ張り上げて責むべし設ひ命に及ぶとも少しも怯む事なかれと説いた【兵衛志 殿御返事】

【兵衛志殿御返事】
■出筆時期:建治三年(1277年)八月二十一日 五十六歳御作
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■執筆の経緯:本抄は池上兄弟の弟、池上宗長に送られた消息です。
池上兄弟の兄宗仲は、前年に熱心な念仏信者の父により勘当され、弟の宗長が父と兄の狭間で法華経信仰が揺れ動くのをみて、大聖人は本書文末で「此れより後も、いかなる事ありとも、すこしもたゆむ事なかれ。いよいよ、はりあげてせむべし。設ひ命に及ぶともすこしもひるむ事なかれ」と記され、法華経信仰を貫き通すよう厳しく指導されておられます。
尚文中「えもんのたいう(兄宗仲)殿の御文と引き合せて心へさせ給へ」とある御文とは兄弟抄のことと思われます。

大聖人が池上兄弟に送られた消息は、圧倒的に弟・宗長(兵衛志殿)に宛てられた書が多く、これは二度の勘当でも大聖人に帰依し続けた兄・宗仲(衛門太夫)には絶対的な信頼を持っていたことと、弟・宗長の揺れ動く信心を如何に心配されていたか、伺い知ることができます。
■ご真筆:京都市 立本寺所蔵。
池上宗長に、いよいよ張り上げて責むべし設ひ命に及ぶとも少しも怯む事なかれと説いた【兵衛志  殿御返事】_f0301354_20121569.jpg

[真筆本文:下記緑字箇所]

[兵衛志殿御返事 本文]

鵞目二貫文・武蔵房円日を使(つかい)にて給び候い畢んぬ。

人王三十六代・皇極天皇と申せし王は女人にてをはしき、其の時入鹿(いるか)の臣(おみ)と申す者あり、あまり・おごりの・ものぐる(狂)わしさに王位を・うばはんと・ふるまいしを、天皇王子等不思議とはをぼせしかども・いかにも力及ばざりしほどに、大兄(おおえ)の王子・軽(かる)の王子等なげかせ給いて中臣の鎌子と申せし臣に申しあわせさせ給いしかば、臣申さく・いかにも人力はかなうべしとは・みへ候はず、馬子が例をひきて教主釈尊の御力ならずば叶(かなえ)がたしと申せしかば・さらばとて釈尊を造り奉りて・いのりしかば入鹿ほどなく打れにき、此の中臣の鎌子と申す人は後には姓をかへて藤原の鎌足と申し内大臣になり大職冠と申す人・今の一(藤原)の人の御先祖なり、此の釈迦仏は今の興福寺の本尊なり。

されば王の王たるも釈迦仏・臣の臣たるも釈迦仏・神国の仏国となりし事もえもんのたいう殿の御文(ふみ)と引き合せて心へさせ給へ、今代(きんだい)の他国にうばわれんとする事・釈尊を・いるがせにする故なり神の力も及ぶべからずと申すはこれなり。各各は二人は・すでにとこそ人はみ(見)しかどもかくいみじくみへさせ給うは・ひとえに釈迦仏・法華経の御力なりと・をぼすらむ、又此れにもをもひ候、後生のたのもしさ申すばかりなし、此れより後も・いかなる事ありとも・すこしもたゆ(弛)む事なかれ、いよいよ・はりあげてせむべし、設ひ命に及ぶともすこしも・ひるむ事なかれ、あなかしこ・あなかしこ、恐恐謹言。

八月二十一日                    日 蓮 花 押
兵衛志殿御返事


by johsei1129 | 2019-11-03 20:06 | 池上兄弟 | Trackback | Comments(0)