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日蓮大聖人『御書』解説

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2019年 10月 20日 ( 12 )


2019年 10月 20日

『妙法蓮華経』の体(実体)は、十界の依正であることをあかした書【当体義抄】 その三

[当体義抄 本文] その三
問う如来の在世に誰か当体の蓮華を証得せるや、答う四味三教の時は三乗・五乗・七方便・九法界・帯権(たいごん)の円の菩薩並びに教主乃至法華迹門の教主総じて本門寿量の教主を除くの外は本門の当体蓮華の名をも聞かず何(いか)に況んや証得せんをや、
開三顕一の無上菩提の蓮華尚四十余年には之を顕さず、故に無量義経に終不得成無上菩提とて迹門開三顕一の蓮華は爾前に之を説かずと云うなり、何に況んや開近顕遠・本地難思・境智冥合・本有無作(ほんぬむさ)の当体蓮華をば迹化弥勒(しゃくけみろく)等之を知る可きや、

問う何を以て爾前の円の菩薩・迹門の円の菩薩は本門の当体蓮華を証得せずと云う事を知ることを得ん、答う爾前の円の菩薩は迹門の蓮華を知らず迹門の円の菩薩は本門の蓮華を知らざるなり、天台云く「権教の補処(ふしょ)は迹化の衆を知らず迹化の衆は本化の衆を知らず」文、

伝教大師云く「是直道(これじきどう)なりと雖も大直道ならず」云云、或は云く「未だ菩提の大直道を知らざるが故に」云云此の意なり、爾前迹門の菩薩は一分断惑証理の義分有りと雖も本門に対するの時は当分の断惑にして跨節(かせつ)の断惑に非ず未断惑と云わるるなり、然れば菩薩処処得入と釈すれども二乗を嫌うの時一往得入の名を与うるなり、故に爾前迹門の大菩薩が仏の蓮華を証得する事は本門の時なり真実の断惑は寿量の一品を聞きし時なり、

天台大師・涌出品の五十小劫・仏の神力の故に・諸の大衆をして半日の如しと謂わしむの文を釈して云く「解者(げしゃ)は短に即して長・五十小劫と見る惑者(わくしゃ)は長に即して短・半日の如しと謂(おも)えり」文、妙楽之を受けて釈して云く「菩薩已に無明を破す之を称して解と為す大衆仍お賢位(けんい)に居す之を名けて惑と為す」文、釈の意分明なり爾前迹門の菩薩は惑者なり地涌の菩薩のみ独り解者なりと云う事なり、然るに当世天台宗の人の中に本迹の同異を論ずる時・異り無しと云つて此の文を料簡するに解者の中に迹化の衆入りたりと云うは大なる僻見(びゃっけん)なり経の文・釈の義分明なり何ぞ横計(おうけい)を為す可けんや、文の如きは地涌の菩薩五十小劫の間如来を称揚するを霊山迹化の衆は半日の如く謂えりと説き給えるを天台は解者惑者を出して迹化の衆は惑者の故に半日と思えり是れ即ち僻見なり、地涌の菩薩は解者の故に五十小劫と見る是れ即ち正見なりと釈し給えるなり、妙楽之を受けて無明を破する菩薩は解者なり未だ無明を破せざる菩薩は惑者なりと釈し給いし事文に在つて分明なり、
迹化の菩薩なりとも住上(じゅうじょう)の菩薩は已に無明を破する菩薩なりと云わん学者は無得道の諸経を有得道(うとくどう)と習いし故なり、爾前迹門の当分に妙覚の位有りと雖も本門寿量の真仏に望むる時は惑者仍お賢位に居ると云わるる者なり権教の三身未だ無常を免れざる故は夢中の虚仏(こぶつ)なるが故なり、

爾前と迹化の衆とは未だ本門に至らざる時は未断惑の者と云われ彼に至る時正しく初住に叶うなり、妙楽の釈に云く「開迹顕本皆初住に入る」文、仍(なお)賢位に居すの釈之を思い合すべし、爾前迹化の衆は惑者未だ無明を破せざる仏菩薩なりと云う事真実なり真実なり、故に知ぬ本門寿量の説顕れての後は霊山一会(りょうぜんいちえ)の衆皆悉く当体蓮華を証得せしなり、二乗・闡提(せんだい)・定性・女人・悪人等も本仏の蓮華を証得するなり、伝教大師一大事の蓮華を釈して云く「法華の肝心・一大事の因縁は蓮華の所顕なり、一とは一実相なり大とは性広博なり事とは法性の事なり一究竟事は円の理教智行、円の身(しん)・若(にゃ)・達(たつ)なり一乗・三乗・定性・不定性・内道・外道・阿闡(あせん)・阿顛(あてん)・皆悉く一切智地(ちじ)に到る是の一大事仏の知見を開示し悟入して一切成仏す」女人・闡提・定性・二乗等の極悪人霊山に於て当体蓮華を証得するを云うなり。

 問う末法今時誰れ人か当体蓮華を証得せるや、答う当世の体を見るに大阿鼻地獄の当体を証得する人之れ多しと雖も仏の蓮華を証得せるの人之れ無し其の故は無得道の権教方便を信仰して法華の当体真実の蓮華を毀謗(きぼう)する故なり、仏説いて云く「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば則ち一切世間の仏種を断ぜん乃至其の人命終して阿鼻獄に入らん」文、天台云く「此の経は遍く六道の仏種を開く若此の経を謗せば義・断ずるに当るなり」文、日蓮云く此の経は是れ十界の仏種に通ず若し此の経を謗せば義是れ十界の仏種を断ずるに当る是の人無間に於て決定して堕在す何ぞ出ずる期を得んや、然るに日蓮が一門は正直に権教の邪法・邪師の邪義を捨てて正直に正法・正師の正義を信ずる故に当体蓮華を証得して常寂光の当体の妙理を顕す事は本門寿量の教主の金言を信じて南無妙法蓮華経と唱うるが故なり、問う南岳・天台・伝教等の大師法華経に依つて一乗円宗の教法を弘通し給うと雖も未だ南無妙法蓮華経と唱えたまわざるは如何、若し爾らば此の大師等は未だ当体蓮華を知らず又証得したまわずと云うべきや、

 答う南岳大師は観音の化身・天台大師は薬王の化身なり等云云、若し爾らば霊山に於て本門寿量の説を聞きし時は之を証得すと雖も在生の時は妙法流布の時に非ず、故に妙法の名字を替えて止観と号し一念三千・一心三観を修し給いしなり。

 但し此等の大師等も南無妙法蓮華経と唱うる事を自行真実の内証と思食(おぼしめ)されしなり、南岳大師の法華懺法(せんぽう)に云く「南無妙法蓮華経」文、天台大師の云く「南無平等大慧一乗妙法蓮華経」文、又云く「稽首妙法蓮華経」云云、又「帰命(きみょう)妙法蓮華経」云云、伝教大師の最後臨終の十生願の記に云く「南無妙法蓮華経」云云、問う文証分明(ふんみょう)なり何ぞ是くの如く弘通したまわざるや、答う此れに於て二意有り一には時の至らざるが故に二には付属に非ざるが故なり、凡そ妙法の五字は末法流布の大白法(だいびゃくほう)なり地涌千界の大士の付属なり是の故に南岳・天台・伝教等は内に鑑(かんが)みて末法の導師に之を譲りて弘通(ぐつう)し給わざりしなり。

【当体義抄送状】

 問う当体の蓮華解し難し故に譬喩を仮りて之を顕すとは経文に証拠有るか、答う経に云く「世間の法に染まらざること蓮華の水に在るが如し地より而も涌出す」云云、地涌の菩薩の当体蓮華なり、譬喩は知るべし以上後日に之を改め書すべし、此の法門は妙経所詮の理にして釈迦如来の御本懐・地涌の大士に付属せる末法に弘通せん経の肝心なり、国主信心あらん後始めて之を申す可き秘蔵の法門なり、日蓮最蓮房に伝え畢んぬ。
                                                           日蓮花押




by johsei1129 | 2019-10-20 21:41 | 重要法門(十大部除く) | Trackback | Comments(0)
2019年 10月 20日

『妙法蓮華経』の体(実体)は、十界の依正であることをあかした書【当体義抄】 その二

[当体義抄 本文] その二
 問う劫初(こっしょ)より已来何人(このかたなんびと)か当体の蓮華を証得せしや、答う釈尊五百塵点劫(ごひゃくじんてんごう)の当初(そのかみ)、此の妙法の当体蓮華を証得して世世番番に成道を唱え能証所証の本理を顕し給えり、今日又・中天竺摩訶陀国(まかだこく)に出世して此の蓮華を顕わさんと欲(おぼ)すに機無く時無し故に一法の蓮華に於て三の草華を分別し三乗の権法を施し擬宜誘引(ぎぎゆういん)せしこと四十余年なり、此の間は衆生の根性万差なれば種種の草華を施し設けて終に妙法蓮華を施したまわざる故に、無量義経に云く「我先に道場菩提樹下(ぼだいじゅげ)乃至四十余年未だ真実を顕さず」文、法華経に至つて四味三教の方便の権教・小乗・種種の草華を捨てて唯一の妙法蓮華を説き三の華草を開して一の妙法蓮華を顕す時、四味・三教の権人に初住の蓮華を授けしより始めて開近顕遠(かいごんけんのん)の蓮華に至つて二住・三住乃至十住・等覚・妙覚の極果の蓮華を得るなり。

 問う法華経は何れの品何れの文にか正しく当体譬喩の蓮華を説き分けたるや、答う若し三周の声聞に約して之を論ぜば方便の一品は皆是当体蓮華を説けるなり、譬喩品・化城喩品(けじょうゆほん)には譬喩蓮華を説きしなり、但方便品にも譬喩蓮華無きに非ず余品にも当体蓮華無きに非ざるなり、問う若し爾らば正く当体蓮華を説きし文は何れぞや答う方便品の諸法実相の文是なり、問う何を以て此の文が当体蓮華なりと云う事を知ることを得るや、答う天台妙楽今の文を引て今経の体を釈せし故なり、又伝教大師釈して云く「問う法華経は何を以て体と為すや、答う諸法実相を以て体と為す」文、此の釈分明なり当世の学者此の釈を秘して名を顕さず然るに此の文の名を妙法蓮華と曰う義なり、又現証は宝塔品の三身(さんじん)是れ現証なり、或は涌出の菩薩・竜女の即身成仏是なり、地涌の菩薩を現証と為す事は経文に如蓮華在水と云う故なり菩薩の当体と聞(きこえ)たり、竜女を証拠と為す事は霊鷲山に詣で千葉の蓮華の大いさ車輪の如くなるに坐しと説きたまう故なり、又妙音・観音の三十三・四身なり是をば解釈(げしゃく)には法華三昧の不思議・自在の業を証得するに非ざるよりは安(いずくん)ぞ能く此の三十三身を現ぜんと云云、或は「世間相常住」文、此等は皆当世の学者の勘文なり、然りと雖も日蓮は方便品の文と神力品の如来一切所有之法等の文となり、此の文をば天台大師も之を引いて今経の五重玄を釈せしなり、殊更(ことさら)此の一文正しき証文なり。

 問う次上に引く所の文証・現証・殊勝なり何ぞ神力の一文に執するや、答う此の一文は深意有る故に殊更に吉(よき)なり、問う其の深意如何、答う此の文は釈尊・本眷属地涌の菩薩に結要(けっちょう)の五字の当体を付属すと説きたまえる文なる故なり、久遠実成(くおんじつじょう)の釈迦如来は我が昔の所願の如き今は已に満足す、一切衆生を化して皆仏道に入ら令むとて御願已に満足し、如来の滅後・後五百歳中・広宣流布の付属を説かんが為地涌の菩薩を召し出し本門の当体蓮華を要を以て付属し給える文なれば釈尊出世の本懐・道場所得の秘法・末法の我等が現当二世を成就する当体蓮華の誠証は此の文なり。

故に末法今時に於て如来の御使より外に当体蓮華の証文を知つて出す人都て有る可からざるなり、真実以て秘文なり真実以て大事なり真実以て尊きなり、南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経 爾前の円の菩薩等の今経に大衆八万有つて具足の道を聞かんと欲す云云、是なり。
問う当流の法門の意は諸宗の人来つて当体蓮華の証文を問わん時は法華経何れの文を出す可きや、答う二十八品の始に妙法蓮華経と題す此の文を出す可きなり。
問う何を以て品品の題目は当体蓮華なりと云う事を知ることを得るや、故は天台大師今経の首題を釈する時・蓮華とは譬喩を挙ぐると云つて譬喩蓮華と釈し給える者をや、
答う、題目の蓮華は当体譬喩を合説す天台の今の釈は譬喩の辺を釈する時の釈なり、玄文第一の本迹の六譬(ろっぴ)は此の意なり、同じく第七は当体の辺を釈するなり、故に天台は題目の蓮華を以て当体譬喩の両説を釈する故に失(とが)無し、問う何を以て題目の蓮華は当体譬喩合説すと云う事を知ることを得んや、南岳大師も妙法蓮華経の五字を釈する時「妙とは衆生妙なるに故に、法とは衆生法なる故に、蓮華とは是れ譬喩を借るなり」文。

南岳天台の釈既に譬喩蓮華なりと釈し給う如何、答う南岳の釈も天台の釈の如し云云、但当体・譬喩合説すと云う事経文分明ならずと雖も南岳天台既に天親・竜樹の論に依て合説の意を判釈せり、所謂法華論に云く「妙法蓮華とは二種の義有り一には出水の義、乃至泥水(でいすい)を出るをば諸の声聞・如来大衆の中に入つて坐し諸の菩薩の如く蓮華の上に坐して如来無上智慧・清浄の境界を説くを聞いて如来の密蔵を証するを喩うるが故に・二に華開とは諸の衆生・大乗の中に於て其心怯弱(こうじゃく)にして信を生ずること能わず故に如来の浄妙法身を開示して信心を生ぜしめんが故なり」文、諸の菩薩の諸の字は法華已前の大小の諸菩薩法華経に来つて仏の蓮華を得ると云う事法華論の文分明なり、故に知ぬ菩薩処処得入とは方便なり、天台此の論の文を釈して云く今論の意を解せば若し衆生をして浄妙法身を見せしむと言わば此れ妙因の開発するを以つて蓮華と為るなり、若し如来大衆に入るに蓮華の上に坐すと言わば此は妙報の国土を以て蓮華と為るなり、

又天台が当体譬喩合説する様を委細に釈し給う時、大集経の我今仏の蓮華を敬礼すと云う文と法華論の今の文とを引証して釈して云く「若し大集に依れば行法の因果を蓮華と為す、菩薩上に処すれば即ち是れ因の華なり、仏の蓮華を礼すれば即ち是れ果の華なり、若し法華論に依れば依報の国土を以て蓮華と為す復菩薩・蓮華の行を修するに由つて報・蓮華の国土を得当に知るべし依正(えしょう)因果悉く是れ蓮華の法なり、何ぞ譬をもつて顕すことをもちいん鈍人の法性の蓮華を解せざる為の故に世の華を挙げて譬と為す亦何の妨げかあるべき」文、又云く若し蓮華に非んば何に由つて遍く上来の諸法を喩えん、法譬雙(ほっぴ・なら)べ弁ずる故に妙法蓮華と称するなり、

次に竜樹菩薩の大論に云く「蓮華とは法譬並びに挙ぐるなり」文、伝教大師が天親・竜樹の二論の文を釈して云く「論の文但妙法蓮華経と名くるに二種の義あり唯蓮華に二種の義有りと謂うには非ず、凡そ法喩とは相い似たるを好しと為す若し相い似ずんば何を以てか他を解せしめん、是の故に釈論に法喩並び挙ぐ一心の妙法蓮華は因華・果台・倶時に増長す此の義解し難し喩を仮れば解し易し此の理教を詮ずるを名けて妙法蓮華経と為す」文、
此等の論文釈義分明なり文に在つて見る可し包蔵せざるが故に合説の義極成(ごくじょう)せり、凡そ法華経の意は譬喩即法体・法体即譬喩なり、故に伝教大師釈して云く「今経は譬喩多しと雖も大喩は是れ七喩なり、此の七喩は即ち法体・法体は即ち譬喩なり、故に譬喩の外に法体無く法体の外に譬喩無し、但し法体とは法性の理体なり譬喩とは即ち妙法の事相の体なり、事相即理体なり理体即事相なり、故に法譬一体とは云うなり、是を以て論文山家の釈に皆蓮華を釈するには法譬並べ挙ぐ」等云云、釈の意分明なる故重ねて云わず。

[当体義抄 本文] その三に続く




by johsei1129 | 2019-10-20 21:40 | 重要法門(十大部除く) | Trackback | Comments(0)
2019年 10月 20日

『妙法蓮華経』の体(実体)は、十界の依正であることをあかした書【当体義抄】 その一

【当体義抄(とうたいぎしょう】
■出筆時期:文永十年、五十二歳御作(西暦1273年)
■出筆場所:佐渡ヶ島 一谷(いちのさわ)にて述作
■出筆の経緯:妙法蓮華経の体(実体)について、十界の依正[一切衆生及び国土(自然)]が、すなわち妙法蓮華経の当体であることを明かしている。尚、依正とは、依報・正報の事で、仏法では人間と、それをとりまく国土(自然)は相互に密接に影響し合っている存在で、このことを「依正不ニ」と言い表している。
■本書は佐渡で大聖人に帰依した最蓮房に与えられている。最蓮房はもともと天台宗の学僧で、文永九年の一月十六日、十七日の二日間、大聖人が既存諸宗派・数百人の僧侶と法論された「塚原問答」を聴聞し、大聖人の確信に触れ、翌二月初旬に大聖人の弟子となり、日浄の名を頂いている。
■ご真筆: 現存していない。

[当体義抄 本文] その一

日蓮之を勘う

 問う妙法蓮華経とは其の体何物ぞや、答う十界の依正(えしょう)即ち妙法蓮華の当体なり、問う若爾(しか)れば我等が如き一切衆生も妙法の全体なりと云わる可きか、答う勿論なり、経に云く「所謂諸法(しょいしょほう)・乃至(ないし)・本末究竟等(ほんまつくきょうとう)」云云。
 妙楽大師釈して云く「実相は必ず諸法・諸法は必ず十如・十如は必ず十界・十界は必ず身土(しんど)」と云云、天台云く「十如十界三千の諸法は今経の正体なるのみ」云云、南岳(なんがく)大師云く「云何(いか)なるを名けて妙法蓮華経と為すや答う妙とは衆生妙なるが故に法とは即ち是れ衆生法なるが故に」云云、又天台釈して云く「衆生法妙」と云云。
 
 問う一切衆生の当体即妙法の全体ならば地獄乃至九界の業因業果も皆是れ妙法の体なるや。
答う、法性(ほっしょう)の妙理に染浄(せんじょう)の二法有り、染法は熏(くん)じて迷(まよい)と成り、浄法(じょうほう)は熏じて悟(さとり)と成る。悟は即ち仏界なり迷は即ち衆生なり。
 此の迷悟(めいご)の二法、二なりと雖も然も法性真如(ほっしょうしんにょ)の一理なり、譬えば水精(すいしょう)の玉の日輪に向えば火を取り、月輪に向えば水を取る、玉の体一なれども縁に随て其の功同じからざるが如し。
 真如の妙理も亦復(またまた)是くの如し。一妙真如の理なりと雖も、悪縁に遇(あ)えば迷と成り、善縁に遇えば悟と成る、悟は即ち法性なり迷は即ち無明(むみょう)なり。
譬えば人、夢に種種の善悪(ぜんなく)の業を見、夢覚めて後に之を思えば、我が一心に見る所の夢なるが如し。
一心は法性真如の一理なり、夢の善悪は迷悟の無明法性なり、是くの如く意得(こころう)れば、悪迷の無明を捨て善悟の法性を本と為す可きなり。

大円覚修多羅了義経に云く「一切諸の衆生の無始の幻無明(げんむみょう)は皆諸の如来の円覚の心従(よ)り建立す」云云、天台大師の止観(しかん)に云く「無明癡惑(むみょう・ちわく)・本是(もとこ)れ法性なり癡迷(ちめい)を以ての故に法性変じて無明と作(な)る」云云、妙楽大師の釈に云く「理性(りしょう)体無し全く無明に依る、無明体無し全く法性に依る」云云、無明は所断の迷・法性は所証の理なり、何ぞ体一なりと云うやと云える不審をば此等の文義を以て意得(こころう)可きなり、大論九十五の夢の譬(たとえ)・天台一家の玉の譬誠に面白く思うなり、正く無明法性其の体一なりと云う証拠は法華経に云く「是の法は法位に住して世間の相常住なり」云云、大論に云く「明と無明と異無く別無し、是くの如く知るをば是を中道と名く」云云、但真如の妙理に染浄(せんじょう)の二法有りと云う事・証文之れ多しと雖も華厳経に云く「心仏及衆生是三無差別」の文と法華経の諸法実相の文とには過ぐ可からざるなり、南岳大師の云く「心体に染浄の二法を具足して而も異相無く一味平等なり」云云、又明鏡の譬真実(まこと)に一二(つまびらか)なり、委くは大乗止観の釈の如し又能き釈には籤(せん)の六に云く「三千理に在れば同じく無明と名け三千果成(じょう)すれば咸(ことごと)く常楽と称す三千改むること無ければ無明即明・三千並に常なれば倶体倶用(くたいくゆう)なり」文、此の釈分明(ふんみょう)なり。

 問う一切衆生皆悉く妙法蓮華経の当体ならば我等が如き愚癡闇鈍(ぐちあんどん)の凡夫(ぼんぷ)も即ち妙法の当体なりや、答う当世の諸人之れ多しと雖も二人を出でず、謂(いわ)ゆる権教の人・実教の人なり、而も権教方便(ごんきょうほうべん)の念仏等を信ずる人は妙法蓮華の当体と云わる可からず、実教の法華経を信ずる人は即ち当体の蓮華・真如の妙体是なり、涅槃経に云く「一切衆生大乗を信ずる故に大乗の衆生と名く」文、南岳大師の四安楽行(しあんらくぎょう)に云く「大強精進経に云く、衆生と如来と同共一法身(どうぐいちほっしん)にして清浄妙無比なるを妙法華経と称す」文、又云く「法華経を修行するは此の一心一学に衆果普(しゅうか・あまね)く備わる、一時に具足(ぐそく)して次第入(しだいにゅう)に非ず亦蓮華の一華に衆果を一時に具足するが如し、是を一乗の衆生の義と名く」文、又云く「二乗声聞(しょうもん)及び鈍根の菩薩は方便道の中の次第修学なり、利根の菩薩は正直に方便を捨て次第行(しだいぎょう)を修せず、若し法華三昧(ざんまい)を証すれば衆果悉く具足す、是を一乗の衆生と名く」文。

南岳の釈の意は次第行の三字をば当世の学者は別教なりと料簡(りょうけん)す、然るに此の釈の意は法華の因果具足(いんがぐそく)の道に対して方便道を次第行と云う故に爾前(にぜん)の円・爾前の諸大乗経並びに頓漸(とんぜん)大小の諸経なり・証拠は無量義経に云く「次に方等(ほうどう)十二部経・摩訶般若(まかはんにゃ)・華厳海空(けごんかいくう)を説いて菩薩の歴劫修行(りゃっこうしゅぎょう)を宣説す」文、利根の菩薩は正直に方便を捨てて次第行を修せず、若し法華経を証する時は衆果悉く具足す是を一乗の衆生と名くるなり・此等の文の意を案ずるに三乗・五乗・七方便・九法界・四味三教・一切の凡聖(ぼんしょう)等をば大乗の衆生妙法蓮華の当体(とうたい)とは名く可からざるなり、設(たと)い仏なりと雖も権教の仏をば仏界の名言(みょうごん)を付く可からず、権教の三身(さんじん)は未だ無常を免れざる故に、何に況や其の余の界界の名言をや、故に正(しょう)・像(ぞう)二千年の国王・大臣よりも末法の非人は尊貴なりと釈するも此の意なり、南岳釈して云く「一切衆生・法身(ほっしん)の蔵を具足して仏と一にして異り有ること無し」、是の故に法華経に云く「父母所生清浄常眼耳鼻舌身意亦復如是」文、又云く「問うて云く仏・何れの経の中に眼(げん)等の諸根を説いて名けて如来と為(する)や、答えて云く大強精進経の中に衆生と如来と同じく共に一法身にして清浄妙無比なるを妙法蓮華経と称す」文、他経に有りと雖も下文(げもん)顕れ已(おわ)れば通じて引用することを得るなり。

大強精進経の同共(どうぐ)の二字に習い相伝するなり、法華経に同共して信ずる者は妙経の体なり不同共(ふどうぐ)の念仏者等は既に仏性法身如来に背くが故に妙経の体に非ざるなり、所詮妙法蓮華の当体とは法華経を信ずる日蓮が弟子檀那(だんな)等の父母所生の肉身是なり。
正直に方便を捨て但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる人は煩悩(ぼんのう)・業(ごう)・苦(く)の三道・法身(ほっしん)・般若(はんにゃ)・解脱(げだつ)の三徳と転じて三観・三諦(さんたい)・即一心に顕われ其の人の所住の処は常寂光土(じょうじゃっこうど)なり。能居所居(のうごしょご)・身土(しんど)・色心(しきしん)・倶体倶用(くたいくゆう)・無作三身(むささんじん)の本門寿量の当体蓮華の仏とは日蓮が弟子檀那等の中の事なり、是れ即ち法華の当体・自在神力の顕わす所の功能なり。敢(あえ)て之を疑う可からず之を疑う可からず。

問う天台大師・妙法蓮華の当体譬喩(ひゆ)の二義を釈し給えり、爾れば其の当体譬喩の蓮華の様は如何、答う譬喩の蓮華とは施開廃(せかいはい)の三釈委(くわし)く之を見るべし、当体蓮華の釈は玄義第七に云く「蓮華は譬えに非ず当体に名を得・類せば劫初(こっしょ)に万物名無し、聖人理を観じて準則して名を作るが如し」文、又云く「今蓮華の称は是れ喩(たとえ)を仮(か)るに非ず乃ち是れ法華の法門なり、法華の法門は清浄にして因果微妙(みみょう)なれば此の法門を名けて蓮華と為す、即ち是れ法華三昧(ざんまい)の当体の名にして譬喩(ひゆ)に非ざるなり」

又云く「問う蓮華定めて是れ法華三昧の蓮華なりや定めて是れ華草(けそう)の蓮華なりや、答う定めて是れ法蓮華なり法蓮華解し難し故に草花を喩と為す、利根は名に即して理を解し譬喩を仮らず但法華の解を作す、中下は未だ悟らず譬を須(もち)いて乃ち知る易解(いげ)の蓮華を以て難解(なんげ)の蓮華に喩う、故に三周の説法有つて上中下根に逗(かな)う、上根に約すれば是れ法の名・中下に約すれば是れ譬の名なり、三根合論し雙(なら)べて法譬(ほっぴ)を標す、是くの如く解する者は誰とか諍(あらそ)うことを為さんや」云云。

此の釈の意は至理(しり)は名無し、聖人理を観じて万物に名を付くる時・因果倶時(ぐじ)・不思議の一法之れ有り之を名けて妙法蓮華と為す、此の妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足して闕減(けつげん)無し、之を修行する者は仏因・仏果・同時に之を得るなり。
聖人此の法を師と為して修行覚道し給えば妙因・妙果・倶時に感得し給うが故に妙覚果満の如来と成り給いしなり、故に伝教大師云く「一心の妙法蓮華とは因華(いんげ)・果台(かだい)・倶時(ぐじ)に増長す、三周各各当体譬喩有り。

総じて一経に皆当体譬喩あり別して七譬(しちひ)・三平等・十無上の法門有りて皆当体蓮華有るなり、此の理を詮(せん)ずる教を名けて妙法蓮華経と為す」云云、妙楽大師の云く「須(すべから)く七譬を以て各蓮華権実(ごんじつ)の義に対すべし○何者(いかんとなれば)蓮華は只是れ為実施権(いじつせごん)・開権顕実(かいごんけんじつ)・七譬皆然なり」文、又劫初(こっしょ)に華草(けそう)有り聖人理を見て号(ごう)して蓮華と名く、此の華草・因果倶時なること妙法蓮華に似たり、故に此の華草同じく蓮華と名くるなり、水中に生ずる赤蓮華(しゃくれんげ)・白蓮華(びゃくれんげ)等の蓮華是なり、譬喩の蓮華とは此の華草の蓮華なり、此の華草を以て難解(なんげ)の妙法蓮華を顕す、天台大師の妙法は解し難し譬を仮(か)りて顕れ易しと釈するは是の意なり。
 
[当体義抄 本文] その二に続く





by johsei1129 | 2019-10-20 15:20 | 重要法門(十大部除く) | Trackback | Comments(0)
2019年 10月 20日

此の曼陀羅は<略>三世の諸仏の御師一切の女人の成仏の印文なり、と説いた【妙法曼陀羅供養事】

【妙法曼陀羅供養事】
■出筆時期:文永十年(西暦1273年) 五十二歳 御作。
■出筆場所:佐渡・一谷、一谷入道の屋敷にて。
■出筆の経緯:本書は佐渡で日蓮大聖人と念仏僧らとの法論「塚原問答」に立ち会い、念仏信仰をその場で捨て、大聖人に帰依した阿仏房の女房、千日尼に送られと書と思われる。阿仏房と千日尼は人目を忍んで、夜間食料などを塚原三昧堂に運んで大聖人を外護された。その志を称え大聖人はご本尊を夫妻に下付したものと思われ、本書で御本尊の意義について「日本国一同に一闡提大謗法の者となる<中略>末代の一切衆生にとって大医、良薬」であると断じておられる。
■ご真筆: 現存していない。


[妙法曼陀羅供養事 本文]

 妙法蓮華経の御本尊供養候いぬ。此の曼陀羅(まんだら)は文字は五字七字にて候へども三世の諸仏の御師一切の女人の成仏の印文なり。冥途(めいど)にはともしびとなり死出(しで)の山にては良馬(りょうめ)となり・天には日月の如し、地には須弥山(しゅみせん)の如し、生死海の船なり、成仏得道の導師なり。、
 此の大曼陀羅は仏滅後・二千二百二十余年の間・一閻浮提(いちえんぶだい)の内には未だひろまらせ給はず、病によりて薬あり軽病には凡薬をほどこし、重病には仙薬をあたうべし。

 仏滅後より今までは二千二百二十余年の間は人の煩悩(ぼんのう)と罪業の病軽かりしかば・智者と申す医師(くすし)たち・つづき出でさせ給いて病に随つて薬をあたえ給いき。所謂倶舎(いわゆる・くしゃ)宗・成実(じょうじつ)宗・律宗・法相(ほっそう)宗・三論宗・真言宗・華厳宗・天台宗・浄土宗・禅宗等なり。彼の宗宗に一一に薬あり。所謂・華厳の六相十玄・三論の八不(はっぷ)中道・法相の唯識観(ゆいしきかん)・律宗の二百五十戒・浄土宗の弥陀の名号・禅宗の見性成仏・真言宗の五輪観・天台宗の一念三千等なり。

 今の世は既に末法にのぞみて諸宗の機(き)にあらざる上、日本国一同に一闡提大謗法(いっせんだい・だいほうぼう)の者となる。又物に譬(たと)うれば父母を殺す罪・謀叛(むほん)ををこせる科(とが)・出仏身血(すいぶつしんけつ)等の重罪等にも過ぎたり。三千大千世界の一切衆生の人の眼をぬける罪よりも深く、十方世界の堂塔を焼きはらへるよりも超えたる大罪を・一人して作れる程の衆生・日本国に充満せり。されば天は日日に眼をいからして日本国をにらめ、地神は忿(いか)りを作して時時に身をふるうなり。然るに我が朝の一切衆生は皆我が身に科(とが)なしと思ひ・必ず往生すべし・成仏をとげんと思へり。赫赫(かくかく)たる日輪をも目無き者は見ず知らず、譬えばたいこ(鼓)の如くなる地震をも・ねぶれる者の心には・おぼえず、日本国の一切衆生も是くの如し、女人よりも男子の科(とが)はををく・男子よりも尼のとがは重し・尼よりも僧の科(とが)はををく・破戒の僧よりも持戒の法師のとがは重し。持戒の僧よりも智者の科はをもかるべし、此等は癩病(らいびょう)の中の白癩病・白癩病の中の大白癩病なり。

 末代の一切衆生はいかなる大医いかなる良薬を以てか治す可きとかんがへ候へば、大日如来の智拳(ちけん)の印並びに大日の真言・阿弥陀如来の四十八願・薬師如来の十二大願・衆病悉除(しゅびょうしつじょ)の誓(ちかい)も此の薬には及ぶべからず、つやつや病・消滅せざる上・いよいよ倍増すべし。

 此等の末法の時のために教主釈尊・多宝如来・十方分身の諸仏を集めさせ給うて一の仙薬をとどめ給へり、所謂(いわゆる)妙法蓮華経の五の文字なり。此の文字をば法慧(ほうえ)・功徳林・金剛薩埵(さった)・普賢(ふげん)・文殊(もんじゅ)・薬王・観音等にもあつらへさせ給はず、何(いか)に況(いわん)や迦葉(かしょう)・舎利弗(しゃりほつ)等をや、上行菩薩(じょうぎょうぼさつ)等と申して四人の大菩薩まします、此の菩薩は釈迦如来・五百塵点劫(ごひゃくじんてんごう)よりこのかた御弟子とならせ給いて一念も仏を・わすれず・まします大菩薩を召し出して授けさせ給へり。されば此の良薬を持たん女人等をば此の四人の大菩薩・前後左右に立(たち)そひて・此の女人たたせ給へば此の大菩薩も立たせ給ふ乃至(ないし)此の女人・道を行く時は此の菩薩も道を行き給ふ。

 譬(たと)へば・かげと身と水と魚と声とひびきと月と光との如し。此の四大菩薩南無妙法蓮華経と唱えたてまつる女人をはな(離)るるならば・釈迦・多宝・十方分身の諸仏の御勘気(ごかんき)を此の菩薩の身に蒙(こうむ)らせ給うべし。提婆(だいば)よりも罪深く瞿迦利(くぎゃり)よりも大妄語のものたるべしと・をぼしめすべし。
 あら悦ばしや・あら悦ばしや、南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経。

                                               日 蓮 花押

by johsei1129 | 2019-10-20 13:15 | 阿仏房・千日尼 | Trackback | Comments(0)
2019年 10月 20日

はるばる佐渡に見参された乙御前母を、章安、伝教大師にもすぐると称えた【乙御前母御書】

【乙御前母御書】
■出筆時期:文永十年(西暦1273)十一月三日 五十二歳 御作。
■出筆場所:佐渡 一の谷入道の屋敷にて。
■出筆の経緯:本書は寡婦の身でありながら、幼い女の子(乙御前)を連れて佐渡の大聖人の元へ見参された乙御前母(日妙)に与えられた書です。大聖人は中国の章安大師がインドへ、日本の伝教大師が中国へと、過去の偉人達がはるばる遠くから法華経を求めた例を引いて、あなたは女の身でありながらはるばる鎌倉から佐渡まで来られたことを「道のとをきに心ざしのあらわるるにや」と賞賛されております。また幼い乙御前も法華経に宮仕えをされているので、後々幸福になるであろうと励まされています。尚、大聖人は前年の文永九年五月二十五日に与えられた書では、信徒として唯一日妙に聖人の称号を送られております。
■ご真筆: 尼崎市・長遠寺全文所蔵(尼崎市指定文化財)
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[乙御前母御書 本文]

なによりも女房のみ(身)として、これまで来りて候いし事、これまでながされ候いける事は、さる事にて御心ざしのあらわるべきにやありけんと、ありがたくのみをぼへ候。

 釈迦如来の御弟子あまたをわしし、なかに十大弟子とて十人ましまししが、なかに目犍連(もっけんれん)尊者と申せし人は神通第一にてをはしき。四天下と申して、日月のめぐり給うところを、かみすぢ(髪筋)一すぢき(切)らざるにめぐり給いき。これはいかなるゆへぞとたづぬれば、せんしやう(先生)に千里ありしところを、かよいて仏法を聴聞(ちょうもん)せしゆへなり。又天台大師の御弟子に章安と申せし人は、万里をわけて法華経をきかせ給へり。伝教大師は二千里をすぎて止観をならい、玄奘(げんじょう)三蔵は二十万里をゆきて般若(はんにゃ)経を得給へり。道のとをきに心ざしのあらわるるにや、かれは皆男子なり権化の人のしわざなり。今御身は女人なり、ごんじち(権実)はしりがたし・いかなる宿善にてやをはすらん。昔女人すいをと(好夫)をしのびてこそ、或は千里をもたづね、石となり、木となり、鳥となり、蛇となれる事もあり。

十一月三日           日 蓮 花 押
をとごぜんのはは

をとごぜんが・いかに尼となり候いつらん。法華経にみやづか(宮仕)わせ候ほうこう(奉公)をば・をとごぜんの尼は・のちさいわいになり候はん。
いまは法華経をしらせ給いて、仏にならせ給うべき女人なり。かへすがへすふみ(文)ものぐさき者なれども、たびたび(度度)申す。又御房たちをも、ふびん(不便)にあたらせ給うとうけ給わる、申すばかりなし。




by johsei1129 | 2019-10-20 12:58 | 弟子・信徒その他への消息 | Trackback | Comments(0)
2019年 10月 20日

設い日蓮死生不定為りと雖も、妙法蓮華経の五字の流布は疑い無き者か、と説いた【土木殿御返事】

【土木殿御返事】
■出筆時期:文永十年(西暦1273年)七月六日 五十二歳 御作。
■出筆場所:佐渡・一谷、一谷入道の屋敷にて。
■出筆の経緯:本書は土木殿(富木常忍)と大田乗明の二人が佐渡の大聖人へ銭二貫をご供養されたことへの返書となっている。
大聖人は最初に、佐渡流罪が二年になろうとしてることについて信徒に対し「御勘気ゆりぬ事、御歎き候べからず候。当世日本国、子細之れ有る可き由之を存ず。定めて勘文の如く候べきか」と、勘文(立正安国論)の通りになるので、嘆くでないと諭すとともに「設い日蓮死生不定為りと雖も妙法蓮華経の五字の流布は疑い無き者か」と断じている。さらに「仏滅後二千二百二十余年、今に寿量品の仏と肝要の五字とは流布せず」と説いて、妙法蓮華経を図現した末法の本尊を日蓮が流布することを示唆しておられる。
尚、本書に出てくる大聖人のもとへ富木常忍が遣わした伊与房は、母親が富木常忍と再婚し常忍の養子となり、幼くして出家、後に六老僧の一人となる日頂その人である。晩年は日興上人を慕い、重須本門寺の学頭となっている。
■ご真筆:中山法華経寺 所蔵(重要文化財)。
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[土木殿御返事 本文]

 鵞目(がもく)二貫給(たび)候い畢(おわ)んぬ、太田殿と其れと二人の御心喜び候。伊与房(いよぼう)は機量物(きりょうもの)にて候ぞ、今年留め候い畢んぬ、御勘気ゆりぬ事・御歎き候べからず候。当世・日本国子細之れ有る可き由之を存ず定めて勘文の如く候べきか、設(たと)い日蓮死生不定為りと雖(いえど)も妙法蓮華経の五字の流布は疑い無き者か。

 伝教大師は御本意の円宗を日本に弘めんとす、但し定慧は存生に之を弘め円戒は死後に之を顕す事法為(た)る故に一重大難之れ有るか。仏滅後二千二百二十余年、今に寿量品の仏と肝要の五字とは流布せず、当時果報を論ずれば恐らくは伝教・天台にも超え竜樹・天親にも勝れたるか、文理無くんば大慢豈(あに)之に過んや。章安大師天台を褒(ほ)めて云く「天竺の大論尚(なお)其の類(たぐい)に非ず、真旦(しんたん)の人師何ぞ労(わずらわ)しく語るに及ばん、此れ誇耀(こよう)に非ず法相の然らしむるのみ」等云云。

 日蓮又復是くの如し、竜樹天親等尚其の類に非ず等云云。此れ誇耀に非ず法相の然らしむるのみ。故に天台大師日蓮を指して云く「後の五百歳遠く妙道に沾(うるお)わん」等云云。伝教大師当世を恋いて云く「末法太(はな)はだ近きに有り」等云云。

 幸いなるかな我が身「数数見擯出(さくさくけんひんずい)」の文に当ること悦ばしいかな悦ばしいかな、諸人の御返事に之を申す故に委細(いさい)、恐恐。

七月六日                    日 蓮  花押
土木殿御返事

by johsei1129 | 2019-10-20 12:46 | 富木常忍・尼御前 | Trackback | Comments(0)
2019年 10月 20日

末法の法華経流布を予見した釈尊の未来記と合わせ、末法の本仏としての未来記を明かした書【顕仏未来記】

【顕仏未来記(けんぶつみらいき】
■出筆時期:文永十年五月十一日(西暦1273年)、日蓮大聖人52歳御作。
■出筆場所:佐渡ヶ島 一谷(いちのさわ)入道の屋敷にて。
■出筆の経緯:本文中に「世の人疑い有らば委細の事は弟子に之を問え」とある。本書を出筆された佐渡では同時期、すでに弟子にあてて「開目抄」をしたため、自身が末法の本仏であることを深く掘り下げた法門として示している。恐らく本書は檀那(出家しない世俗の信徒)にあて、より平易に自身が法華経に記されてる末法の本仏であることを示したものと考えられる。
■ご真筆:身延山久遠寺 曽存(明治8年の大火で焼失)

[顕仏未来記 本文] 

沙門 日蓮 之を勘う

法華経の第七に云く「我が滅度の後・後の五百歳の中に閻浮提(えんぶだい)に広宣流布(こうせんるふ)して断絶せしむること無けん」等云云、予一たびは歎いて云く仏滅後既に二千二百二十余年を隔つ何なる罪業に依つて仏の在世に生れず正法の四依(しえ)・像法(ぞうほう)の中の天台・伝教等にも値(あ)わざるやと、亦一たびは喜んで云く何なる幸あつて後五百歳に生れて此の真文(しんもん)を拝見することぞや、在世も無益(むやく)なり前四味(ぜんしみ)の人は未だ法華経を聞かず正像(しょうぞう)も又由し無し南三北七並びに華厳真言(けごんしんごん)等の学者は法華経を信ぜず、天台大師云く「後の五百歳遠く妙道(みょうどう)に沾(うる)おわん」等云云広宣流布の時を指すか、伝教大師云く「正像稍(やや)過ぎ已(おわ)つて末法太(はなは)だ近きに有り」等云云末法の始を願楽(がんぎょう)するの言(ことば)なり、時代を以て果報を論ずれば竜樹(りゅうじゅ)・天親(てんじん)に超過し天台・伝教にも勝るるなり。

問うて云く後五百歳は汝一人に限らず何ぞ殊に之を喜悦せしむるや、答えて云く法華経の第四に云く「如来の現在にすら猶怨嫉(なおおんしつ)多し況や滅度の後をや」文、天台大師云く「何に況や未来をや理・化し難きに在り」文、妙楽大師云く「理在難化(りざいなんげ)とは此の理を明すことは意(こころ)・衆生の化(け)し難きを知らしむるに在り」文、智度法師(ちどほっし)云く「俗に良薬口に苦しと言うが如く此の経は五乗(ごじょう)の異執(いしゅう)を廃して一極(いちごく)の玄宗(げんしゅう)を立つ、故に凡(ぼん)を斥(しり)ぞけ聖を呵し大を排(はい)し小を破る乃至此くの如きの徒悉(ことごと)く留難(るなん)を為す」等云云。

伝教大師云く「代を語れば則ち像の終り末の始・地を尋れば唐の東・羯(かつ)の西、人を原(たずぬ)れば則ち五濁(ごじょく)の生・闘諍(とうじょう)の時なり、経に云く猶多怨嫉(ゆたおんしつ)・況滅度後(きょうめつどご)と此の言良(ことば・まこと)に以(ゆえ)有るなり」等云云、此の伝教大師の筆跡は其の時に当るに似たれども意は当時を指すなり、正像稍過ぎ已つて末法太だ近きに有りの釈は心有るかな、経に云く「悪魔・魔民・諸天竜・夜叉(やしゃ)・鳩槃荼(くはんだ)等其の便(たよ)りを得ん」云云、言う所の等とは此の経に又云わく「若は夜叉・若は羅刹(らせつ)・若は餓鬼・若は富単那(ふたんな)・若は吉遮(きっしゃ)・若は毘陀羅(びだら)・若は犍駄(けんだ)・若は烏摩勒伽(うまろぎゃ)・若は阿跋摩羅(あばつまら)・若は夜叉吉遮(やしゃきっしゃ)・若は人吉遮(にんきっしゃ)」等云云、此の文の如きは先生(せんしょう)に四味三教・乃至外道(げどう)・人天等の法を持得して今生(こんじょう)に悪魔・諸天・諸人等の身を受けたる者が円実の行者を見聞して留難を至すべき由を説くなり。

疑つて云く正像(しょうぞう)の二時を末法に相対するに時と機と共に正像は殊に勝るるなり、何ぞ其の時機を捨てて偏(ひとえ)に当時を指すや、答えて云く仏意測(ぶっちはか)り難し予未だ之を得ず、試みに一義を案じ小乗経を以て之を勘(かんが)うるに正法千年は教行証(きょうぎょうしょう)の三つ具(つぶ)さに之を備う、像法千年には教行のみ有つて証無し、末法には教のみ有つて行証無し等云云。

法華経を以て之を探るに正法千年に三事を具するは在世に於て法華経に結縁(けちえん)する者か、其の後正法に生れて小乗の教行を以て縁と為し小乗の証を得るなり。像法に於ては在世の結縁微薄(けちえんびはく)の故に小乗に於て証すること無く此の人・権大乗(ごんだいじょう)を以て縁と為して十方の浄土(じょうど)に生ず。

末法(まっぽう)に於ては大小の益共に之無し、小乗には教のみ有つて行証無し、大乗には教行のみ有つて冥顕(みょうけん)の証之無し、其の上正像の時の所立の権小(ごんしょう)の二宗・漸漸・末法に入て執心弥強盛(しゅうしん・いよいよ・ごうじょう)にして小を以て大を打ち権を以て実を破り国土に大体謗法(ほうぼう)の者充満するなり。

仏教に依つて悪道に堕する者は大地微塵(みじん)よりも多く正法を行じて仏道を得る者は爪上(そうじょう)の土よりも少きなり。此の時に当つて諸天善神其の国を捨離(しゃり)し但邪天・邪鬼等有つて王臣・比丘・比丘尼等の身心に入住し、法華経の行者を罵詈(めり)・毀辱(きにく)せしむべき時なり。

爾(しか)りと雖も仏の滅後に於て四味・三教等の邪執(じゃしゅう)を捨て実大乗の法華経に帰せば、諸天善神並びに地涌千界等の菩薩・法華の行者を守護せん、此の人は守護の力を得て本門の本尊・妙法蓮華経の五字を以て閻浮堤に広宣流布せしめんか。例せば威音王仏(いおんのうぶつ)の像法の時・不軽菩薩(ふきょうぼさつ)・我深敬(がじんきょう)等の二十四字を以て彼の土に広宣流布し一国の杖木(じょうもく)等の大難を招きしが如し、彼の二十四字と此の五字と其の語殊なりと雖も其の意是れ同じ、彼の像法の末と是の末法の初と全く同じ。彼の不軽菩薩は初随喜(しょずいき)の人、日蓮は名字(みょうじ)の凡夫(ぼんぷ)なり。

疑つて云く何を以て之を知る汝を末法の初の法華経の行者なりと為すと云うことを、答えて云く法華経に云く「況んや滅度の後をや」又云く「諸の無智の人有つて悪口罵詈(あっくめり)等し及び刀杖(とうじょう)を加うる者あらん」又云く「数数擯出(しばしばひんずい)せられん」又云く「一切世間怨(あだ)多くして信じ難し」又云く「杖木瓦石(じょうもくがしゃく)をもつて之を打擲(ちょうちゃく)す」又云く「悪魔・魔民・諸天竜・夜叉(やしゃ)・鳩槃荼(くはんだ)等其の便りを得ん」等云云、此の明鏡(めいきょう)に付いて仏語を信ぜしめんが為に、日本国中の王臣・四衆の面目に引き向えたるに予よりの外には一人も之無し。

時を論ずれば末法の初め一定(いちじょう)なり、然る間若し日蓮無くんば仏語は虚妄(こもう)と成らん、難じて云く汝は大慢(だいまん)の法師にして大天に過ぎ四禅比丘(しぜんびく)にも超えたり如何、答えて云く汝日蓮を蔑如(べつじょ)するの重罪又提婆達多(だいばだった)に過ぎ無垢論師(むくろんし)にも超えたり、我が言は大慢に似たれども仏記(ぶっき)を扶(たす)け如来の実語を顕さんが為なり、然りと雖も日本国中に日蓮を除いては誰人を取り出して法華経の行者と為さん、汝日蓮を謗(そし)らんとして仏記を虚妄にす豈(あに)大悪人に非ずや。

疑つて云く如来の未来記汝に相当れり、但し五天竺(てんじく)並びに漢土等にも法華経の行者之有るか如何、答えて云く四天下(してんげ)の中に全く二の日無し四海の内豈(あに)両主有らんや、疑つて云く何を以て汝之を知る、答えて云く月は西より出でて東を照し日は東より出でて西を照す、仏法も又以て是くの如し正像には西より東に向い末法には東より西に往く、妙楽大師(みょうらくだいし)の云く「豈中国に法を失いて之を四維(しい)に求むるに非ずや」等云云、天竺に仏法無き証文なり、漢土に於て高宗(こうそう)皇帝の時北狄東京(ほくてき・とんきん)を領して今に一百五十余年仏法王法共に尽き了んぬ、漢土の大蔵の中に小乗経は一向之れ無く大乗経は多分之を失す、日本より寂照(じゃくしょう)等少少之を渡す然りと雖も伝持の人無れば猶木石(もくせき)の衣鉢(えはつ)を帯持(たいじ)せるが如し、故に遵式(じゅんしき)の云く「始西より伝う猶月の生ずるが如し今復(また)東より返る猶日の昇るが如し」等云云、此等の釈の如くんば天竺漢土に於て仏法を失せること勿論なり。

問うて云く月氏漢土(がっし・かんど)に於て仏法無きことは之を知れり、東西北の三洲に仏法無き事は何を以て之を知る、答えて云く法華経の第八に云く「如来の滅後に於て閻浮提の内に広く流布せしめて断絶せざらしめん」等云云、内の字は三洲を嫌う文なり、問うて曰く仏記既に此くの如し汝が未来記如何、答えて曰く仏記に順じて之を勘うるに既に後五百歳の始に相当れり仏法必ず東土の日本より出づべきなり、其の前相必ず正像に超過せる天変地夭(てんぺんちよう)之れ有るか、所謂仏生(ぶっしょう)の時・転法輪(てんぽうりん)の時・入涅槃(にゅうねはん)の時、吉瑞(きちずい)・凶瑞(きょうずい)共に前後に絶えたる大瑞なり。

仏は此れ聖人の本なり、経経の文を見るに仏の御誕生の時は五色の光気・四方に遍くして夜も昼の如し、仏御入滅の時には十二の白虹(はくこう)・南北に亘り大日輪光り無くして闇夜の如くなりし。其の後正像二千年の間・内外(ないげ)の聖人・生滅有れども此の大瑞(だいずい)には如かず、而るに去ぬる正嘉(しょうか)年中より今年に至るまで或は大地震・或は大天変・宛(あた)かも仏陀(ぶつだ)の生滅の時の如し、当に知るべし仏の如き聖人生れたまわんか。大虚(おおぞら)に亘つて大彗星(ほうきぼし)出づ、誰の王臣を以て之に対せん、当瑞(とうずい)大地を傾動して三たび振裂(しんれつ)す、何れの聖賢を以て之に課(おお)せん。

当に知るべし通途(つうず)世間の吉凶の大瑞には非ざるべし、惟(こ)れ偏(ひとえ)に此の大法興廃の大瑞なり。天台云く「雨の猛きを見て竜の大なるを知り、華の盛なるを見て池の深きを知る」等云云、妙楽の云く「智人は起を知り蛇は自ら蛇を識る」等云云。

日蓮此の道理を存して既に二十一年なり、日来(ひごろ)の災・月来(つきごろ)の難・此の両三年の間の事既に死罪に及ばんとす、今年・今月万が一も脱がれ難き身命(しんみょう)なり、世の人疑い有らば委細(いさい)の事は弟子に之を問え、幸なるかな一生の内に無始(むし)の謗法(ほうぼう)を消滅せんことを、悦ばしいかな未だ見聞せざる教主釈尊に侍(つか)え奉らんことよ。願くは我を損ずる国主等をば最初に之を導かん、我を扶(たす)くる弟子等をば釈尊に之を申さん、我を生める父母等には未だ死せざる已前(いぜん)に此の大善を進めん、但し今夢の如く宝塔品(ほうとうほん)の心を得たり。

此の経に云く「若し須弥(しゅみ)を接(と)つて他方の無数の仏土(ぶつど)に擲(な)げ置かんも亦未だ為(これ)難しとせず、乃至若し仏の滅後に悪世の中に於て能く此の経を説かん是れ則ち為(これ)難し」等云云。
伝教大師云く「浅きは易く深きは難しとは釈迦の所判なり、浅きを去つて深きに就くは丈夫の心なり、天台大師は釈迦に信順し法華宗を助けて震旦(しんたん)に敷揚(ふよう)し・叡山の一家は天台に相承(そうじょう)し法華宗を助けて日本に弘通す」等云云、安州の日蓮は恐くは三師に相承し法華宗を助けて末法に流通す、三に一を加えて三国四師と号(なず)く、南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経。

文永十年太歳癸酉後(たいさい・みずのととり・のちの)五月十一日 桑門日蓮之を記す





by johsei1129 | 2019-10-20 12:35 | 重要法門(十大部除く) | Trackback | Comments(0)
2019年 10月 20日

末法の法華経の行者に難が降りかかるのは必定と、門下の弟子・信徒を諭した書【如説修行抄】

【如説修行抄(にょせつしゅぎょうしょう】
■出筆時期:文永十年(西暦1273年)五月、五十二歳御作 門下一同に与えた御書。
■出筆場所:佐渡ヶ島 一谷(いちのさわ)
■出筆の経緯:大聖人に数々の大難が降りかかり佐渡に流罪になると、弟子・信徒の中に動揺し信仰を止める動きが起こる。この事態に対し、大聖人は法華経を引用し「末法流布の時・生を此の土に受け此の経を信ぜん人は如来の在世より猶多怨嫉の難甚しかるべしと見えて候なり」と末法の法華経の行者に難が降りかかるのは必定であり、それに耐えて布教に励むことにより「万民一同に南無妙法蓮華経と唱え奉らば吹く風枝をならさず雨壤(つちくれ)を砕かず、代は羲農(ぎのう)の世となりて今生には不祥の災難を払ひ長生の術を得、人法共に不老不死の理顕れん時を各各御覧ぜよ」と伝え、弟子たちに妙法蓮華経の布教に励むよう諭す目的で本書をしたためた。
■ご真筆:現存しておりません。古写本:日尊書写(茨城県富久寺所蔵)。

[如説修行抄 本文] 

夫れ以(おも)んみれば末法流布の時・生を此の土に受け此の経を信ぜん人は如来の在世より猶多怨嫉(なおおんしつ)の難甚しかるべしと見えて候なり、其の故は在世は能化の主は仏なり弟子又大菩薩・阿羅漢なり人天・四衆・八部・人非人等なりといへども調機調養(じょうきじょうよう)して法華経を聞かしめ給ふ猶怨嫉(おんしつ)多し、何(いか)に況(いわん)んや末法今の時は教機時刻当来すといへども其の師を尋ぬれば凡師なり弟子又闘諍堅固(とうじょうけんご)・白法隠没(びゃくほうおんもつ)・三毒強盛の悪人等なり、故に善師をば遠離し悪師には親近す、其の上真実の法華経の如説修行の行者の師弟檀那とならんには三類の敵人決定せり。
 されば此の経を聴聞し始めん日より思い定むべし況滅度後(きょうめつどご)の大難の三類甚しかるべしと、然るに我が弟子等の中にも兼て聴聞せしかども大小の難来る時は今始めて驚き肝をけして信心を破りぬ、兼て申さざりけるか経文を先として猶多怨嫉況滅度後・況滅度後と朝夕教へし事は是なり・予が或は所を・をわれ或は疵(きず)を蒙(こうむ)り・或は両度の御勘気を蒙りて遠国に流罪せらるるを見聞くとも今始めて驚くべきにあらざる物をや。

 問うて云く如説修行の行者は現世安穏なるべし何が故ぞ三類の強敵盛んならんや、答えて云く、釈尊は法華経の御為に今度・九横の大難に値(あ)ひ給ふ、過去の不軽(ふぎょう)菩薩は法華経の故に杖木瓦石(じょうもくがしゃく)を蒙り・竺(じく)の道生(どうしょう)は蘇山に流され法道三蔵は面(かお)に火印をあてられ、師子尊者は頭をは(刎)ねられ天台大師は南三・北七にあだまれ伝教大師は六宗ににくまれ給へり、此等の仏菩薩・大聖等は法華経の行者として而も大難にあひ給へり、此れ等の人人を如説修行の人と云わずんばいづくにか如説修行の人を尋ねん、然るに今の世は闘諍堅固・白法隠没なる上悪国悪王悪臣悪民のみ有りて正法を背きて邪法・邪師を崇重すれば国土に悪鬼乱れ入りて三災・七難盛に起れり、かかる時刻に日蓮仏勅を蒙(こうむ)りて此の土に生れけるこそ時の不祥なれ、法王の宣旨背(そむ)きがたければ経文に任せて権実二教のいくさを起し忍辱(にんにく)の鎧(よろい)を著て妙教の剣(つるぎ)を提(ひっさ)げ、一部八巻の肝心・妙法五字の旗を指上て未顕真実の弓をはり正直捨権の箭(や)をはげて、大白牛車(だいびゃくごしゃ)に打乗つて権門をかつぱと破りかしこへ・おしかけ・ここへ・おしよせ、念仏・真言・禅・律等の八宗・十宗の敵人をせむるに或はにげ或はひきしりぞき或は生取られし者は我が弟子となる、或はせめ返し・せめをとしすれども・かたきは多勢なり法王の一人は無勢なり今に至るまで軍(いくさ)やむ事なし。

 法華折伏・破権門理の金言なれば終に権教権門の輩(やから)を一人もなく・せめをとして法王の家人となし天下万民・諸乗一仏乗と成つて妙法独り繁昌せん時、万民一同に南無妙法蓮華経と唱え奉らば、吹く風枝をならさず雨壤(つちくれ)を砕かず、代は羲農(ぎのう)の世となりて今生には不祥の災難を払ひ長生の術を得、人法共に不老不死の理(ことわり)顕れん時を各各御覧ぜよ、現世安穏の証文疑い有る可からざる者なり。

 問うて云く如説修行の行者と申さんは何様(いかよう)に信ずるを申し候べきや、答えて云く当世・日本国中の諸人・一同に如説修行の人と申し候は諸乗一仏乗と開会しぬれば何れの法も皆法華経にして勝劣浅深ある事なし、念仏を申すも真言を持つも・禅を修行するも・総じて一切の諸経並びに仏菩薩の御名を持ちて唱るも皆法華経なりと信ずるが如説修行の人とは云われ候なり等云云、予が云く然らず、所詮・仏法を修行せんには人の言を用う可らず只仰いで仏の金言をまほるべきなり、我等が本師・釈迦如来は初成道の始より法華を説かんと思食(おぼしめ)しかども衆生の機根未熟なりしかば先ず権教たる方便を四十余年が間説きて後に真実たる法華経を説かせ給いしなり、此の経の序分無量義経にして権実のはうじ(榜示)を指て方便真実を分け給へり、所謂以方便力・四十余年・未顕真実是なり、大荘厳等の八万の大士・施権(せごん)・開権(かいごん)・廃権(はいごん)等のいはれを心得分け給いて領解(りょうげ)して言く、法華経已前の歴劫(りゃっこう)修行等の諸経は終不得成・無上菩提と申しきり給ひぬ、然(しか)して後正宗の法華に至つて世尊法久後・要当説真実と説き給いしを始めとして無二亦(やく)無三・除仏方便説・正直捨方便・乃至不受余経一偈(いちげ)と禁め給へり、是より已後は唯有一仏乗の妙法のみ一切衆生を仏になす大法にて法華経より外の諸経は一分の得益も・あるまじきに、末法の今の学者・何れも如来の説教なれば皆得道あるべしと思いて或は真言・或は念仏・或は禅宗・三論・法相・倶舎(ぐしゃ)・成実・律等の諸宗・諸経を取取に信ずるなり。

 是くの如き人をば若人不信・毀謗此経(きぼうしきょう)・即断一切世間仏種・乃至其人命終(ごにんみょうじゅう)・入阿鼻獄と定め給へり、此等のをきて(約)の明鏡を本として一分もたがえず唯有一乗法と信ずるを如説修行の人とは仏は定めさせ給へり。

 難じて云く左様に方便権教たる諸経諸仏を信ずるを法華経と云はばこそ、只一経に限りて経文の如く五種の修行をこらし安楽行品の如く修行せんは如説修行の者とは云われ候まじきか如何、答えて云く凡仏法を修行せん者は摂折(しょうしゃく)二門を知る可きなり一切の経論此の二を出でざるなり、されば国中の諸学者等仏法をあらあら学すと云へども時刻相応の道をしらず四節・四季・取取に替れり、夏は熱く冬はつめたく春は花さき秋は菓なる、春種子を下して秋菓(み)を取るべし秋種子(たね)を下(くだ)して春菓(み)を取らんに豈(あに)取らる可けんや、極寒の時は厚き衣(きぬ)は用なり極熱の夏はなにかせん、凉風は夏の用なり冬はなにかせん、仏法も亦復(またまた)是くの如し小乗の流布して得益あるべき時もあり、権大乗の流布して得益あるべき時もあり、実教の流布して仏果を得べき時もあり、然るに正像二千年は小乗権大乗の流布の時なり、末法の始めの五百年には純円・一実の法華経のみ広宣流布の時なり、此の時は闘諍堅固(とうじょうけんご)・白法隠没(びゃくほうおんもつ)の時と定めて権実雑乱の砌(みぎり)なり、敵有る時は刀杖弓箭(とうじょうきゅうせん)を持つ可し敵無き時は弓箭兵杖何にかせん、今の時は権教即実教の敵と成るなり、一乗流布の時は権教有つて敵と成りて・まぎらはしくば実教より之を責む可し、是を摂折(しょうしゃく)二門の中には法華経の折伏と申すなり、天台云く「法華折伏・破権門理」とまことに故あるかな、然るに摂受たる四安楽の修行を今の時行ずるならば冬種子を下して春菓を求る者にあらずや、雞(にわとり)の暁に鳴くは用なり宵に鳴くは物怪(もっけ)なり、権実雑乱の時法華経の御敵を責めずして山林に閉じ篭り摂受を修行せんは豈法華経修行の時を失う物怪(もっけ)にあらずや、されば末法・今の時・法華経の折伏の修行をば誰か経文の如く行じ給へしぞ、誰人にても坐(おわ)せ諸経は無得道・堕地獄の根源・法華経独り成仏の法なりと音(こえ)も惜まずよばはり給いて諸宗の人法共に折伏して御覧ぜよ、三類の強敵来らん事疑い無し。

 我等が本師・釈迦如来は在世八年の間折伏し給ひ天台大師は三十余年・伝教大師は二十余年・今日蓮は二十余年の間権理を破す其の間の大難数を知らず、仏の九横の難に及ぶか及ばざるは知らず、恐らくは天台・伝教も法華経の故に日蓮が如く大難に値い給いし事なし、彼は只悪口・怨嫉(おんしつ)計りなり、是は両度の御勘気・遠国に流罪せられ竜口の頚の座・頭(こうべ)の疵(きず)等其の外悪口せられ弟子等を流罪せられ篭(ろう)に入れられ檀那の所領を取られ御内を出だされし、是等の大難には竜樹・天台・伝教も争(いかで)か及び給うべき、されば如説修行の法華経の行者には三類の強敵打ち定んで有る可しと知り給へ、されば釈尊御入滅の後二千余年が間に如説修行の行者は釈尊・天台・伝教の三人は・さてをき候ぬ、末法に入つては日蓮並びに弟子檀那等是なり、我等を如説修行の者といはずば釈尊・天台・伝教等の三人も如説修行の人なるべからず、提婆(だいば)・瞿伽利(くぎゃり)・善星・弘法・慈覚・智証・善導・法然・良観房等は即ち法華経の行者と云はれ、釈尊・天台・伝教・日蓮並びに弟子・檀那は念仏・真言・禅・律等の行者なるべし、法華経は方便権教と云はれ念仏等の諸経は還つて法華経となるべきか、東は西となり西は東となるとも大地は持つ所の草木共に飛び上りて天となり天の日月・星宿は共に落ち下りて地となるためしはありとも・いかでか此の理(ことわり)あるべき。

 哀なるかな今・日本国の万民・日蓮並びに弟子檀那等が三類の強敵に責められ大苦に値うを見て悦んで笑ふとも昨日は人の上・今日は身の上なれば日蓮並びに弟子・檀那共に霜露の命の日影を待つ計りぞかし、只今仏果に叶いて寂光の本土に居住して自受法楽せん時、汝等が阿鼻(あび)大城の底に沈みて大苦に値わん時我等何計無慚(いかばかりむざん)と思はんずらん、汝等何計(いかばかり)うらやましく思はんずらん、一期を過ぐる事程も無ければいかに強敵重なるとも・ゆめゆめ退する心なかれ恐るる心なかれ、縦(たと)ひ頚(くび)をば鋸(のこぎり)にて引き切り・どう(胴)をばひしほこ(稜鉾)を以て・つつき・足にはほだしを打つてきり(錐)を以てもむとも、命のかよはんほどは南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経と唱えて唱へ死に死(しぬ)るならば釈迦・多宝・十方の諸仏・霊山会上にして御契約なれば須臾(しゅゆ)の程に飛び来りて手をとり肩に引懸けて霊山(りょうぜん)へ・はしり給はば二聖・二天・十羅刹女(じゅうらせつにょ)は受持の者を擁護(うおいご)し諸天・善神は天蓋(てんがい)を指し、旛(はた)を上げて我等を守護して慥(たし)かに寂光の宝刹(ほうせつ)へ送り給うべきなり、あらうれしや・あらうれしや。

文永十年癸酉五月日     日蓮 花押
人々御中へ
此の書御身を離さず常に御覧有る可く候






by johsei1129 | 2019-10-20 11:38 | 重要法門(十大部除く) | Trackback | Comments(0)
2019年 10月 20日

寿量品の自我偈に云く(略)日蓮が己心の仏界を此の文に依つて顕はすなり、と説いた【義浄房御書】

【義浄房御書】
■出筆時期:文永十年(1273年)五月二十八日 五十二歳御作
■出筆場所:佐渡国一の谷入道の屋敷にて。
■出筆の経緯:本抄は大聖人が清澄寺での修行時代の兄弟子の一人、義浄房からの法華経に関する問について答えられた書となります。大聖人は本書を記された約一か月前に法本尊を開顕した「観心本尊抄」を顕されており、本書でも『寿量品の自我偈に云く「一心に仏を見たてまつらんと欲して自ら身命を惜しまず」云云、日蓮が己心の仏界を此の文に依つて顕はすなり、其の故は寿量品の事の一念三千の三大秘法を成就せる事・此の経文なり秘す可し秘す可し』と記され、自身が末法の本仏である内証を示されておられます。義浄房は大聖人が清澄寺で立宗宣言した後に地頭・東条景信に追われた時、同じ兄弟子の浄顕房とともに清澄寺を下り大聖人を外護されます。その後義浄房は清澄寺に戻りますが、生涯大聖人に帰依し法門についても度々問いかけられています。大聖人は恩ある兄弟子でもあり、大聖人への帰依の志の深さ故、義浄房に内証を明かされたと拝されます。
※参照[報恩抄:日蓮が景信あだまれて清澄山を出でしに、をひてしのび出でられたりしは天下第一の法華経の奉公なり。後生は疑ひおぼすべからず。]
■ご真筆:現存しておりません。

[義浄房御書 本文]

御法門の事委(くわ)しく承はり候い畢んぬ。
法華経の功徳と申すは唯仏与仏(ゆいぶつよぶつ)の境界・十方分身の智慧も及ぶか及ばざるかの内証なり。
されば天台大師も妙の一字をば妙とは妙は不可思議(ふかしぎ)と名くと釈し給いて候なるぞ前前御存知の如し、然れども此の経に於て重重の修行分れたり天台・妙楽・伝教等計りしらせ給う法門なり。就中(なかんず)く伝教大師は天台の後身にて渡らせ給へども人の不審を晴さんとや思(おぼ)し食(め)しけん大唐へ決をつかはし給ふ事多し。されば今経の所詮は十界互具・百界千如・一念三千と云ふ事こそゆゆしき大事にては候なれ、此の法門は摩訶止観(まかしかん)と申す文にしるされて候。次に寿量品の法門は日蓮が身に取つてたのみあることぞかし。天台・伝教等も粗(ほぼ)しらせ給へども言に出して宣べ給はず、竜樹(りゅうじゅ)・天親(てんじん)等も亦是くの如し。

寿量品の自我偈(じがげ)に云く「一心に仏を見たてまつらんと欲して自ら身命を惜しまず」云云、日蓮が己心(こしん)の仏界を此の文に依つて顕はすなり、其の故は寿量品の事の一念三千の三大秘法を成就せる事・此の経文なり秘す可し秘す可し。叡山の大師・渡唐して此の文の点を相伝し給う処なり、一とは一道清浄の義心とは諸法なり、されば天台大師心の字を釈して云く「一月三星・心果清浄」云云。日蓮云く一とは妙なり心とは法なり欲とは蓮なり見とは華なり仏とは経なり、此の五字を弘通せんには不自惜身命(ふじしゃくしんみょう)是なり、一心に仏を見る心を一にして仏を見る一心を見れば仏なり、無作の三身(さんじん)の仏果(ぶっか)を成就せん事は恐くは天台伝教にも越へ竜樹(りゅうじゅ)・迦葉(かしょう)にも勝れたり。相構へ相構へて心の師とはなるとも心を師とすべからずと仏は記し給ひしなり、法華経の御為に身をも捨て命をも惜まざれと強盛に申せしは是なり、南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経。
文永十年五月二十八日     日 蓮 花押
義浄房御返事

【妙法蓮華経 如来寿量品 第十六】
 衆見我滅度 広供養舎利 
 咸皆懐恋慕 而生渇仰心
 衆生既信伏 質直意柔軟 
 一心欲見仏 不自惜身命
 時我及衆僧 倶出霊鷲山 
 [和訳]
 衆(生)は我が滅度を見て、広く舎利を供養し、
 ことごとく皆仏への恋慕を懐き、而して(仏への)渇仰心を生じる。
 衆生は既に(仏に)信伏し、質直で意(心)は柔軟にして、
 一心に仏を見んと欲し、自から身命を惜しまずば、
 時に我(仏)及び衆僧は、倶に霊鷲山に出ずるなり。




by johsei1129 | 2019-10-20 10:57 | 弟子・信徒その他への消息 | Trackback | Comments(0)
2019年 10月 20日

地獄より仏界までの十界の依正の当体悉く一法ものこさず妙法蓮華経のすがたと明かした書【諸法実相抄】

【諸法実相抄(しょほうじっそうしょう】
■出筆時期:文永十年(1273年)五月十七日 五十二歳 御作。
■出筆場所:佐渡ヶ島・一の谷(いちのさわ)の豪族・入道清久の屋敷にて述作
■出筆の経緯:本抄は大聖人が佐渡ヶ島流罪中、同じく流浪中の天台学僧で、前年文永九年の二月に大聖人の弟子となった最蓮房日浄に与へた書となります。

最蓮房は法華経方便品第二に説かれている十如是を解き明かした偈の意味を大聖人に問い、それに対し『下地獄より上仏界までの十界の依正の当体・悉く一法ものこさず妙法蓮華経のすがたなりと云ふ経文なり』と答え、さらに『法界のすがた妙法蓮華経の五字にかはる事なし、釈迦多宝の二仏と云うも妙法等の五字より用の利益を施し給ふ時・事相に二仏と顕れて宝塔の中にして・うなづき合い給ふ、かくの如き等の法門・日蓮を除きては申し出す人一人もあるべからず』と明言、末法の本仏としての内証を説き示しておられます。
■ご真筆: 現存しておりません。

[諸法実相抄 本文]
                                       日蓮 之を記す

 問うて云く法華経の第一方便品に云く「諸法実相乃至本末究竟等(しょほうじっそうないしほんまつくきょうとう)」云云、此の経文の意如何、答えて云く下地獄より上仏界までの十界の依正の当体・悉く一法ものこさず妙法蓮華経のすがたなりと云ふ経文なり依報あるならば必ず正報住すべし、釈に云く「依報正報・常に妙経を宣ぶ」等云云、又云く「実相は必ず諸法・諸法は必ず十如十如は必ず十界十界は必ず身土」、又云く「阿鼻(あび)の依正は全く極聖(ごくしょう)の自心に処し、毘盧(びる)の身土は凡下の一念を逾(こ)えず」云云、此等の釈義分明なり誰か疑網を生ぜんや、

されば法界のすがた妙法蓮華経の五字にかはる事なし、釈迦多宝の二仏と云うも妙法等の五字より用の利益を施(ほどこ)し給ふ時・事相に二仏と顕れて宝塔の中にして・うなづき合い給ふ。
 かくの如き等の法門・日蓮を除きては申し出す人一人もあるべからず、天台・妙楽・伝教等は心には知り給へども言に出し給ふまではなし・胸の中にしてくらし給へり、其れも道理なり、付嘱なきが故に・時のいまだ・いたらざる故に・仏の久遠の弟子にあらざる故に、地涌の菩薩の中の上首唱導・上行・無辺行等の菩薩より外は、末法の始の五百年に出現して法体の妙法蓮華経の五字を弘め給うのみならず、宝塔の中の二仏並座の儀式を作り顕すべき人なし、是れ即本門寿量品の事の一念三千の法門なるが故なり、されば釈迦・多宝の二仏と云うも用の仏なり、妙法蓮華経こそ本仏にては御座(おわし)候へ、経に云く「如来秘密神通之力」是なり、如来秘密は体の三身にして本仏なり、神通之力は用の三身にして迹仏ぞかし、凡夫は体の三身にして本仏ぞかし。

仏は用の三身にして迹仏なり、然れば釈迦仏は我れ等衆生のためには主師親の三徳を備へ給うと思ひしに、さにては候はず返つて仏に三徳をかふらせ奉るは凡夫なり、其の故は如来と云うは天台の釈に「如来とは十方三世の諸仏・二仏・三仏・本仏・迹仏の通号なり」と判じ給へり、此の釈に本仏と云うは凡夫なり迹仏と云ふは仏なり、然れども迷悟の不同にして生仏・異なるに依つて倶体・倶用の三身と云ふ事をば衆生しらざるなり、さてこそ諸法と十界を挙げて実相とは説かれて候へ、実相と云うは妙法蓮華経の異名なり・諸法は妙法蓮華経と云う事なり、地獄は地獄のすがたを見せたるが実の相なり、餓鬼と変ぜば地獄の実のすがたには非ず、仏は仏のすがた凡夫は凡夫のすがた、万法の当体のすがたが妙法蓮華経の当体なりと云ふ事を諸法実相とは申すなり、天台云く「実相の深理本有の妙法蓮華経」と云云、此の釈の意は実相の名言は迹門に主づけ本有(ほんぬ)の妙法蓮華経と云うは本門の上の法門なり、此の釈能く能く心中に案じさせ給へ候へ。

日蓮・末法に生れて上行菩薩の弘め給うべき所の妙法を先立(さきだち)て粗(ほぼ)ひろめ、つくりあらはし給うべき本門寿量品の古仏たる釈迦仏・迹門宝塔品の時・涌出し給う多宝仏・涌出品の時・出現し給ふ地涌の菩薩等を先(まず)作り顕はし奉る事、予(よ)が分斉(ぶんざい)にはいみじき事なり、日蓮をこそ・にくむとも内証には・いかが及ばん、さればかかる日蓮を此の嶋まで遠流しける罪・無量劫にもきへぬべしとも覚へず、譬喩品に云く「若し其の罪を説かば劫を窮むるも尽きず」とは是なり、又日蓮を供養し又日蓮が弟子檀那となり給う事、其の功徳をば仏の智慧にても・はかり尽し給うべからず、経に云く「仏の智慧を以て籌量(ちゅうりょう)するも多少其の辺を得ず」と云へり、地涌の菩薩のさきがけ日蓮一人なり、地涌の菩薩の数にもや入りなまし、若し日蓮地涌の菩薩の数に入らば豈に日蓮が弟子檀那・地涌の流類に非ずや、経に云く「能く竊かに一人の為めに法華経の乃至一句を説かば当に知るべし是の人は則ち如来の使・如来の所遣として如来の事を行ずるなり」と、豈に別人の事を説き給うならんや、されば余りに人の我をほむる時は如何様(いかよう)にもなりたき意の出来し候なり、是ほむる処の言よりをこり候ぞかし、末法に生れて法華経を弘めん行者は、三類の敵人有つては供養をいたすべきぞ・かた(肩)にかけせなか(背中)にを(負)ふべきぞ・大善根の者にてあるぞ・一切衆生のためには大導師にてあるべしと・釈迦仏多宝仏・十方の諸仏・菩薩・天神七代・地神五代の神神・鬼子母神・十羅刹女・四大天王・梵天・帝釈・閻魔法王・水神・風神・山神・海神・大日如来・普賢・文殊・日月等の諸尊たちにほめられ奉る間、無量の大難をも堪忍して候なり、ほめられぬれば我が身の損ずるをも・かへりみず、そしられぬる時は又我が身のやぶるるをも・しらず、ふるまふ事は凡夫のことはざなり。

 いかにも今度・信心をいたして法華経の行者にてとをり、日蓮が一門となりとをし給うべし、日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか、地涌の菩薩にさだまりなば釈尊久遠の弟子たる事あに疑はんや、経に云く「我久遠より来(この)かた是等の衆を教化す」とは是なり、末法にして妙法蓮華経の五字を弘めん者は男女はきらふべからず、皆地涌の菩薩の出現に非ずんば唱へがたき題目なり、日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人・三人・百人と次第に唱へつたふるなり、未来も又しかるべし、是あに地涌の義に非ずや、剰(あまつさ)へ広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的(まと)とするなるべし、ともかくも法華経に名をたて身をまかせ給うべし、釈迦仏多宝仏・十方の諸仏・菩薩・虚空にして二仏うなづき合い、定めさせ給いしは別(べち)の事には非ず、唯ひとへに末法の令法久住の故なり、既に多宝仏は半座を分けて釈迦如来に奉り給いし時、妙法蓮華経の旛(はた)をさし顕し、釈迦・多宝の二仏大将としてさだめ給いし事あに・いつはりなるべきや、併(しかしなが)ら我等衆生を仏になさんとの御談合なり。

 日蓮は其の座には住し候はねども経文を見候に・すこしもくもりなし、又其の座にもや・ありけん凡夫なれば過去をしらず、現在は見へて法華経の行者なり又未来は決定として当詣道場(とうけいどうじょう)なるべし、過去をも是を以て推するに虚空会にもやありつらん、三世各別あるべからず、此くの如く思ひつづけて候へば流人なれども喜悦はかりなしうれしきにも・なみだ・つらきにもなみだなり涙は善悪に通ずるものなり彼の千人の阿羅漢・仏の事を思ひいでて涙をながし、ながしながら文殊師利菩薩は妙法蓮華経と唱へさせ給へば、千人の阿羅漢の中の阿難尊者は・なきながら如是我聞と答え給う、余の九百九十人はなくなみだを硯(すずり)の水として、又如是我聞の上に妙法蓮華経とかきつけしなり、今日蓮もかくの如し、かかる身となるも妙法蓮華経の五字七字を弘むる故なり、釈迦仏・多宝仏・未来・日本国の一切衆生のために・とどめをき給ふ処の妙法蓮華経なりと、かくの如く我も聞きし故ぞかし、現在の大難を思いつづくるにもなみだ、未来の成仏を思うて喜ぶにもなみだせきあへず、鳥と虫とはな(鳴)けどもなみだをちず、日蓮は・なかねども・なみだひまなし、此のなみだ世間の事には非ず但偏(ひとえ)に法華経の故なり、若しからば甘露のなみだとも云つべし、涅槃経には父母・兄弟・妻子・眷属にはか(別)れて流すところの涙は四大海の水よりもををしといへども、仏法のためには一滴をも・こぼさずと見えたり、法華経の行者となる事は過去の宿習なり、同じ草木なれども仏とつくらるるは宿縁なるべし、仏なりとも権仏となるは又宿業なるべし。

 此文(ふみ)には日蓮が大事の法門ども・かきて候ぞ、よくよく見ほど(解)かせ給へ・意得させ給うべし、一閻浮提第一の御本尊を信じさせ給へ、あひかまへて・あひかまへて・信心つよく候て三仏の守護をかうむらせ給うべし、行学の二道をはげみ候べし、行学た(絶)へなば仏法はあるべからず、我もいたし人をも教化候へ、行学は信心よりをこるべく候、力あらば一文一句なりともかた(談)らせ給うべし、南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経、恐恐謹言。

五月十七日                   日蓮花押

 追申(ついしん)候、日蓮が相承の法門等・前前かき進らせ候き、ことに此の文(ふみ)には大事の事どもしるしてまいらせ候ぞ、不思議なる契約なるか、六万恒沙の上首・上行等の四菩薩の変化か、さだめてゆへあらん、総じて日蓮が身 に当ての法門わたしまいらせ候ぞ、日蓮もしや六万恒沙の地涌の菩薩の眷属にもやあるらん、南無妙法蓮華経と唱へて日本国の男女を・みちびかんとおもへばなり、経に云く一名上行乃至唱導の師とは説かれ候はぬか、まことに宿縁のをふところ予が弟子となり給う、此の文あひかまへて秘し給へ、日蓮が己証(こしょう)の法門等かきつけて候ぞ、とどめ畢(おわ)んぬ。

最蓮房御返事


 【妙法蓮華経 方便品第二】
 唯佛與佛。乃能究盡。諸法實相。所謂諸法。如是相・如是性。如是体。如是力。如是作。如是因。如是縁。如是果。如是報。如是本末究竟等。

 [和訳]
 唯一、仏と仏のみが、すなわち諸法[人(正報)及び人を取り巻く森羅万象(依報)を貫く法]の実相を、能く究め盡くしているからである。いわゆる諸法の実相は、かくの如き相、性、体、力、作、因、縁、果、報が究竟(くきょう)して等しいのである。

by johsei1129 | 2019-10-20 10:37 | 重要法門(十大部除く) | Trackback | Comments(0)