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日蓮大聖人『御書』解説

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2019年 09月 23日 ( 8 )


2019年 09月 23日

日蓮は八十万億那由他の諸の菩薩の代官として之を申す、と説いた【寺泊御書】

【寺泊御書】
■出筆時期:文永八年(西暦1271年)十月二十二日 五十歳 御作。
■出筆場所:越後国(現在の新潟県)、寺泊(佐渡渡航の港)にて。
■出筆の経緯:日蓮大聖人は竜の口法難の後、本間重連の屋敷に一時預かりとなる。そして10月10日佐渡へ出立、10月21日に越後・寺泊に到着するが、あいにく海は荒れ、数日寺泊にとどまる事を余儀なくされた。本書は寺泊到着の翌日、信徒の重鎮・土(富)木常忍に宛てた手紙で、常忍が大聖人の佐渡へのお供として遣わした入道を、(あなたの)志は有難いが費用もかかるのでここで帰ってもらいますと、本書を持たせて常忍の元へ戻されている。また本書の内容は、法華経勧持品に説かれている「及び刀杖を加うる者」を、日蓮は此の経文を読めりと断じ、最後にこの度の難で獄中にいる僧たちにも、(あなたの)都合の良い時早々に、ここに書いた法門を伝えて欲しいと、自身同様、不遇の境遇に置かれている弟子を気遣って本書を結ばれておられる。
■ご真筆:中山法華経寺 所蔵(完存)
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真筆箇所:(下)

此入道佐渡国可為御供之由承申之。可然用途云かたがた有煩之故還之。
御志始不及申之。人人如是申給。但囹僧等懸心候。便宜之時早々可聴之。穴賢穴賢。
十月二十二日酉時 日 蓮 花押
土木殿



[寺泊御書 本文]

鵞目一結(ゆい)給び了んぬ、心ざしあらん諸人は一処にあつまりて御聴聞あるべし。 
今月十月なり十日、相州愛京(あいこう)郡依智(えち)の郷(ごう)を起つて武蔵の国久目河(くめがわ)の宿に付き十二日を経て越後の国寺泊(てらどまり)の津に付きぬ、此れより大海を亘(わた)つて佐渡の国に至らんと欲するに、順風定まらず其の期(ご)を知らず。道の間の事心も及ぶこと莫く、又筆にも及ばず但暗に推し度(はか)る可し。又本より存知の上なれば始めて歎く可きに非ざれば之を止む。

法華経の第四に云く「而も此の経は如来の現在にすら猶怨嫉(おんしつ)多し況んや滅度の後をや」、第五の巻に云く「一切世間怨(あだ)多くして信じ難し」、涅槃経の三十八に云く「爾(そ)の時に一切の外道の衆咸(ことごと)く是の言を作さく、○大王今は唯・一(ひとり)の大悪人有り瞿曇沙門(くどんしゃもん)なり、○一切の世間の悪人利養の為の故に其の所(もと)に往き集り、而も眷属(けんぞく)と為つて善を修すること能わず、呪術力(じゅじゅつりき)の故に迦葉及び舎利弗、目犍連(もっけんれん)等を調伏す」云云。此の涅槃経の文は、一切の外道、我が本師たる二天三仙の所説の経典を、仏陀に毀(やぶ)られて出す所の悪言なり。法華経の文は仏を怨(あだ)と為す経文には非ず、天台の意に云く「一切の声聞、縁覚並に近成(ごんじょう)を楽(ねが)う菩薩」等云云。

 聞かんと欲せず、信ぜんと欲せず、其の機に当らざるは言を出して謗(そし)ること莫(な)きも皆怨嫉の者と定め了(おわ)んぬ。在世を以て滅後を推すに、一切諸宗の学者等は皆外道の如し。彼等が云う一大悪人とは日蓮に当れり、一切の悪人、之に集まるとは日蓮が弟子等是なり。彼の外道は先仏の説教流伝の後、之を謬(あやま)つて後仏を怨と為せり。今諸宗の学者等も亦復是くの如し。所詮仏教に依つて邪見を起す、目の転ずる者大山転ずと欲(おも)う。
 
 今八宗、十宗等多門の故に諍論を至す。涅槃経の第十八に贖命重宝(しょくみょうじゅうほう)と申す法門あり、天台大師の料簡(りょうけん)に云く、命とは法華経なり、重宝とは涅槃経に説く所の前三教なり。但し涅槃経に説く所の円教は如何、此の法華経に説く所の仏性常住を重ねて之を説いて帰本(きほん)せしめ、涅槃経の円常を以て法華経に摂す。涅槃経の得分(とくぶん)は但、前三教に限る。天台の玄義の三に云く「涅槃は贖命の重宝なり重ねて掌(て)を抵(う)つのみ」文。籤(せん)の三に云く「今家の引意は大経の部を指して以て重宝と為す」等云云。天台大師の四念処(ねんじょ)と申す文に法華経の「種種の道を示すと雖も」の文を引いて、先ず四味を又重宝と定め了(おわ)んぬ。若し爾らば法華経の先後の諸経は法華経の為の重宝なり。世間の学者の想(おもわく)に云く、此れは天台一宗の義なり、諸宗は之を用いず等云云。日蓮之を案じて云く、八宗十宗等は皆仏滅後より之を起し、論師人師之を立つ、滅後の宗を以て現在の経を計る可からず、天台の所判は一切経に叶うに依つて一宗に属して之を弃(す)つ可からず。諸宗の学者等、自師の誤りを執する故に、或は事を機に寄せ、或は前師に譲り、或は賢王を語らい、結句(けっく)最後には悪心強盛にして闘諍(とうじょう)を起し、失無き者を之を損(そこな)うて楽と為す。

 諸宗の中に真言宗殊に僻案(びゃくあん)を至す、善無畏、金剛智等の想(おもわく)に云く、一念三千は天台の極理一代の肝心なり、顕密二道の詮たる可きの心地(しんち)の三千は且く之を置く、此の外、印と真言とは仏教の最要等云云。其の後真言師等事を此の義に寄せて、印、真言無き経経をば之を下すこと外道の法の如し。或る義に云く、大日経は釈迦如来の外の説なりと、或る義に云く教主釈尊第一の説なりと、或る義には釈尊と現じて顕経を説き、大日と現じて密経を説くと。道理を得ずして無尽の僻見(びゃっけん)之を起す。譬えば乳の色を弁(わきま)えざる者、種種の邪推(じゃすい)を作(な)せども本色(ほんしき)に当らざるが如く、又象の譬の如し。今汝等知る可し、大日経等は法華経已前ならば華厳経等の如く、已後ならば涅槃等の如し。

 又天竺の法華経には印、真言有れども訳者之を略して、羅什(らじゅう)は妙法経と名づけ、印、真言を加えて善無畏は大日経と名づくるか。譬えば正法華・添品(てんぽん)法華・法華三昧・薩云分陀利(さつうんふんだり)等の如し。仏の滅後、天竺に於いて此の詮を得たるは竜樹菩薩、漢土に於いて始めて之を得たるは天台智者大師なり。真言宗の善無畏等、華厳宗の澄観(ちょうかん)等・三論宗の嘉祥(かじょう)等・法相宗の慈恩等名は自宗に依れども其の心は天台宗に落ちたり其の門弟等此の事を知らず、如何ぞ謗法の失(とが)を免(まぬが)れんや。

或る人日蓮を難じて云く、機を知らずして麤議(あらぎ)を立て難に値うと。或る人云く、勧持品の如きは深位(じんい)の菩薩の義なり、安楽行品に違すと。或る人云く、我も此の義を存すれども言わずと云云。或る人云く、唯教門計りなりと。具(つぶさ)に我之を存すと雖も、卞和(べんか)は足を切られ清丸(きよまろ)は穢丸(けがれまろ)と云う名を給うて死罪に及ばんと欲す、時の人之を咲(わら)う。然りと雖も其の人未だ善き名を流さず、汝等が邪難も亦爾る可し。

 勧持品に云く「諸の無智の人有つて悪口罵詈(あっくめり)し」等云云。日蓮此の経文に当れり、汝等何ぞ此の経文に入らざる。「及び刀杖を加うる者」等云云、日蓮は此の経文を読めり、汝等何ぞ此の経文を読まざる「常に大衆の中に在つて我等が過(とが)を毀(そし)らんと欲す」等云云、「国王大臣婆羅門居士に向つて」等云云、「悪口して顰蹙(ひんじゅく)し数数擯出(しばしばひんずい)せられん」数数とは度度(たびたび)なり日蓮擯出衆度流罪は二度なり。

 法華経は三世の説法の儀式なり。過去の不軽品は今の勧持品、今の勧持品は過去の不軽品なり。今の勧持品は未来は不軽品為(た)る可し。其の時は日蓮は即ち不軽菩薩為(た)る可し。一部八巻、二十八品、天竺の御経は一由旬(ゆじゅん)に布くと承わる、定めて数品有る可し。今漢土、日本の二十八品は略の中の要なり。正宗は之を置く、流通(るつう)に至つて宝塔品の三箇の勅宣(ちょくせん)は、霊山虚空の大衆に被らしむ。勧持品の二万、八万、八十万億等の大菩薩の御誓言は、日蓮が浅智には及ばず、但し「恐怖悪世中(くふあくせちゅう)」の経文は末法の始を指すなり。此の「恐怖悪世中」の次下の安楽行品等に云く「於末世(おまっせ)」等云云。同本異訳の正法華経に云く「然後末世(ねんごまっせ)」又云く「然後来末世」、添品(てんぽん)法華経に云く「恐怖悪世中」等云云。時に当り当世三類の敵人は、之れ有るに但八十万億・那由他(なゆた)の諸菩薩は一人も見えたまわず、乾(ひ)たる湖の満たず、月の虧(か)けて満ちざるが如し。水清めば月を浮かべ、木を植うれば鳥棲む。日蓮は八十万億那由他の諸の菩薩の代官として之を申す、彼の諸の菩薩の加被(かび)を請う者なり。

 此の入道佐渡の国へ御供為す可きの由、之を申す然る可き用途と云い、かたがた煩(わずらい)有るの故に之を還す、御志し始めて申すに及ばず候、人人に是くの如く申させ給え。但し囹僧(れいそう)等のみ心に懸り候、便宜の時早早之を聴かす可し、穴賢(あなかしこ)穴賢。

十月二十二日 酉(とり)の時             日 蓮  花押
土木殿





by johsei1129 | 2019-09-23 19:46 | 富木常忍・尼御前 | Trackback | Comments(0)
2019年 09月 23日

大聖人が佐渡に出立する前日に、投獄された日郎等を再度励ました書【土籠御書】

【土籠御書】
■出筆時期:文永八年(西暦1271年)十月九日 五十歳御作。
■出筆場所:相模依智、佐渡国守護代・本間重連邸にて。
■出筆の経緯:大聖人は竜の口の法難の後、佐渡国の守護代・相模依智の本間邸に留められる。本書は佐渡への出立日十月十日の前日に、土牢に投獄されていた日郎ら五人の弟子に送った書です。
日郎等は竜の口法難の翌日、九月十三日に投獄されるが、大聖人は翌々日の九月十五日「五人土籠御書」を送り励まされております。いよいよ佐渡に立つことになり改めて本書をしたため、佐渡に出立することを伝えるとともに、法華経安楽行品を引いて「天諸童子 以為給使 刀杖不加 毒不能害(天の諸童子が給仕し、刀杖を加えることもできず、毒で害することもできない」と励まし、「出でさせ給ひ候はば、とくとくきたり給。見たてまつり」と記し、土籠を出られたら直ぐに佐渡に来なさい。会いたいものです。と自愛の言葉をかけられておられます。尚土牢は、後に日蓮に帰依した鎌倉幕府の重鎮、宿屋入道の裏山の敷地にあったと言われております。
■ご真筆: 現存していない。

[土籠御書 本文]

日蓮は明日佐渡の国へまかるなり。今夜のさむ(寒)きに付けても、ろう(牢)のうちのありさま、思ひやられていた(痛)わしくこそ候へ。

あわれ殿は、法華経一部を色身二法共にあそばしたる御身なれば、父母・六親・一切衆生をもたすけ給ふべき御身なり。

法華経を余人のよみ候は、口ばかり、ことば(言葉)ばかりはよめども心はよまず。心はよめども身によまず。色心二法共にあそばされたるこそ貴く候へ。

「天諸童子 以為給使 刀杖不加 毒不能害」と説かれて候へば、別の事はあるべからず。
籠(ろう)をばし出でさせ給ひ候はば、とくとくきたり給へ。見たてまつり、見えたてまつらん。恐恐謹言。

文永八年辛未十月九日    日 蓮 花押

【妙法蓮華経 安楽行品第十四】
 今正是時 為汝等説 我滅度後 求仏道者
 欲得安穏 演説斯経 応当親近 如是四法
 読是経者 常無憂悩 又無病痛 顔色鮮白
 不生貧窮 卑賎醜陋 衆生楽見 如慕賢聖
 天諸童子 以為給使 刀杖不加 毒不能害

 [和訳]
 今正にこの時なれば、汝に説くなり。我(釈尊)が滅度の後、仏道を求む者
 安穏に此の経を演説せんと欲せば、まさにかくの如き、四法に親近すべし。
 此の経を読まん者は、常に憂悩なく、又 病痛もなく、顔色は鮮白にして、
 貧窮・卑賎・醜陋に生まれざらん。衆生はまみえんと願うこと、賢聖を思が如くにして、
 天の諸の童子が、以て給使を為さん。刀杖も加えられず、毒も害すること能わず。

by johsei1129 | 2019-09-23 19:15 | 弟子・信徒その他への消息 | Trackback | Comments(0)
2019年 09月 23日

仏になる道は、必ず身命をすつるほどの事ありてこそ仏にはなり候らめ、と説いた【佐渡御勘気抄】

【佐渡御勘気抄】
■出筆時期:文永八年(西暦1271年)十月初旬 五十歳 御作。
■出筆場所:相模依智、本間重連の屋敷て。
■出筆の経緯:本書述作の前月、九月十二日に日蓮大聖人は竜の口で処刑されるという生涯最大の難に遭われている。光り物(巨大な隕石と思われる)の出現で処刑できなかった結果、大聖人は一ヶ月ほど相模依智の本間重連(佐渡守護代)の屋敷に預かりの身となる。
本書は佐渡に出立した十月十日の直前に、幼少時代に修行した清澄寺の兄弟子、浄顕房・義浄房に、佐渡流罪となり、十月十日に佐渡に向け出立することを伝えたご消息文となります。大聖人は浄顕房・義浄房に「身命をすつるほどの事ありてこそ仏にはなり候らめ」と説き、さらに「法華経の御故に捨てまいらせん事、あに石に金をかふるにあらずや。各各なげかせ給うべからず」と諭しておられる。
■ご真筆: 現存していない。

[佐渡御勘気抄 本文]   [英語版]

 九月十二日に御勘気を蒙(こうむり)て、今年十月十日佐渡の国へまかり候なり。本より学文し候し事は、仏教をきはめて仏になり、恩ある人をもたすけんと思ふ。仏になる道は、必ず身命をすつるほどの事ありてこそ仏にはなり候らめと、をしはからる。既に経文のごとく悪口(あっく)・罵詈(めり)・刀杖(とうじょう)・瓦礫(がりゃく・数数見擯出(さくさくけんひんずい)と説かれてかかるめに値い候こそ、法華経をよむにて候らめと、いよいよ信心もおこり後生(ごしょう)もたのもしく候。

 死して候はば、必ず各各をもたすけたてまつるべし。天竺(てんじく)に師子尊者と申せし人は檀弥羅(だんみら)王に頚(くび)をはねられ提婆(だいば)菩薩は外道(げどう)につきころさる。漢土に竺の道生(どうしょう)と申せし人は、蘇山(そざん)と申す所へながさる。法道三蔵は面にかなやき(火印)をやかれて江南と申す所へながされき。是れ皆法華経のとく(徳)仏法のゆへなり。

日蓮は日本国・東夷(とうい)・東条・安房の国・海辺の旃陀羅(せんだら)が子なり。いたづらにく(朽)ちん身を、法華経の御故に捨てまいらせん事、あに石に金(こがね)をかふるにあらずや各各なげかせ給うべからず。道善の御房にもかう申しきかせまいらせ給うべし。領家(りょうけ)の尼御前へも御ふみと存じ候へども、先かかる身のふみなればなつかしやと・おぼさざるらんと申しぬると、便宜あらば各各御物語り申させ給い候へ。



十月 日          日  蓮  花押

by johsei1129 | 2019-09-23 19:09 | 弟子・信徒その他への消息 | Trackback | Comments(0)
2019年 09月 23日

竜の口の法難は、法華経勧持品の「刀杖を加え乃至数数擯出せられん」である、と説いた【転重軽受法門】

【転重軽受法門】
■出筆時期:文永八年(西暦1271年)十月五日 五十歳御作
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:本書の述作の前月の九月十二日、日蓮は竜の口で断首という生涯最大の難に遭われている。光り物の出現で処刑できなかった結果、大聖人は一ヶ月ほど相模依智の本間重連(佐渡守護代)の屋敷に預かりのみとなる。本書は本間重連邸から佐渡に出立した翌月十日の五日前に、下総方面の強信徒・大田乗明、曾谷入道、金原法橋御房の3人に宛てた御消息文である。大聖人は弟子・信徒に及んだ今度の難について「先業の重き今生につきずして未来に地獄の苦を受くべきが、今生にかかる重苦に値い候へば地獄の苦みぱつときへて死に候へば人天・三乗・一乗の益をうる事の候」と三人の信徒を励まされている。
■ご真筆: 中山法華経寺 所蔵。
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[転重軽受法門 本文]

修利槃特(すりはんどく)と申すは兄弟二人なり、一人もありしかば・すりはんどくと申すなり。各各三人は又かくのごとし一人も来らせ給へば三人と存じ候なり。

 涅槃(ねはん)経に転重軽受(てんじゅうきょうじゅ)と申す法門あり。先業の重き今生につきずして未来に地獄の苦を受くべきが、今生にかかる重苦に値(あ)い候へば、地獄の苦みぱつときへて死に候へば、人天・三乗・一乗の益をうる事の候。

  不軽(ふぎょう)菩薩の悪口罵詈(あっくめり)せられ、杖木瓦礫(じゅもくがりゃく)をかほるもゆへなきにはあらず、過去の誹謗正法のゆへかとみへて「其罪畢已(ございひっち)」と説れて候は、不軽菩薩の難に値うゆへに過去の罪の滅するかとみへはんべり是一
 
 又付法蔵の二十五人は、仏をのぞきたてまつりては、皆仏のかねて記しをき給える権者なり、其の中に第十四の提婆(だいば)菩薩は外道にころされ、第二十五師子尊者は檀弥栗王(だんみりおう)に頚(くび)を刎(はね)られ、其の外仏陀密多(ぶつだみった)竜樹菩薩なんども多くの難にあへり。又、難なくして王法に御帰依いみじくて法をひろめたる人も候。これは世に悪国善国有り、法に摂受(しょうじゅ)折伏あるゆへかと、みへはんべる。正像猶かくのごとし、中国又しかなり。これは辺土なり末法の始なり。かかる事あるべしとは先にをもひさだめぬ、期(ご)をこそまち候いつれ是二。

 この上(かみ)の法門は、いにしえ申しをき候いきめづらしからず、円教の六即の位に観行即と申すは、所行如所言、所言如所行と云云。理即名字(りそくみょうじ)の人は円人なれども、言(ことば)のみありて真なる事かたし。例せば外典(げてん)の三墳五典(さんぷんごてん)には読む人かずをしらず。かれがごとくに世ををさめふれまう事、千万が一つもかたしされば世のをさまる事も又かたし。法華経は紙付(かみつき)に音をあげてよめども、彼の経文のごとくふれまう事かたく候か。

譬喩品(ひゆほん)に云く「経を読誦(どくじゅ)し書持すること有らん者を見て軽賤憎嫉(きょうせんぞうしつ)して結恨(けっこん)を懐(いだ)かん」、法師品に云く「如来現在すら猶怨嫉(なおおんしつ)多し況や滅度の後をや」、勧持品(かんじほん)に云く「刀杖を加え乃至数数擯出(しばしばひんずい)せられん」安楽行品に云く「一切世間怨(あだ)多くして信じ難し」と。

 此等は経文には候へども、何世(いつのよ)にかかるべしともしられず、過去の不軽菩薩、覚徳比丘なんどこそ身にあたりてよみまいらせて候いけると、みへはんべれ。現在には正像二千年はさてをきぬ、末法に入つては此の日本国には当時は日蓮一人みへ候か。昔の悪王の御時、多くの聖僧の難に値(あ)い候いけるには又所従、眷属等、弟子檀那等いくぞばくかなげき候いけんと、今をもちてをしはかり候。今日蓮、法華経一部よみて候、一句一偈に猶受記をかほ(蒙)れり、何(いか)に況(いわん)や一部をやと。いよいよたのもし。但おほけなく国土までとこそ、をもひて候へども、我と用いられぬ世なれば力及ばず。しげきゆへにとどめ候い了んぬ。

文永八年辛未(かのとひつじ)十月五日       日 蓮 花押
大田左衛門尉殿
蘇谷入道殿
金原法橋御房
御返事

by johsei1129 | 2019-09-23 19:02 | 大田乗明・尼御前 | Trackback | Comments(0)
2019年 09月 23日

日蓮大聖人が佐渡流罪に出立する直前に、牢獄の弟子達を思いやり宛てられた書【五人土籠御書】

【五人土籠御書】
■出筆時期:文永八年(西暦1271年)十月三日 五十歳 御作。
■出筆場所:相模依智、本間重連の屋敷て。
■出筆の経緯:本書述作の前月、九月十二日に日蓮は竜の口で処刑されるという生涯最大の難に遭われている。光り物の出現で処刑できなかった結果、大聖人は一ヶ月ほど相模依智の本間重連(佐渡守護代)の屋敷に預かりの身となる。
 本書は佐渡に出立した十月十日の七日前、幕府の日蓮門下への弾圧で土籠へ投獄された弟子・信徒ら五人に宛てた書である。自身はこれから極寒の地、佐渡に流罪となる身でありながら、五人が土籠から出られたなら、来年の春には佐渡へ(私日蓮に)会いに来てくださいと励まされている。
■ご真筆: 京都・妙覚寺所蔵(完存)。
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[五人土籠御書 本文]   [英語版]

 今月七日さどの国へまかるなり。各々は法華経一部づゝあそばして候へば、我が身並びに父母・兄弟、存亡等に回向しましまし候らん。

 今夜のかん(寒)ずるにつけて、いよいよ我が身より心くる(苦)しさ申すばかりなし。ろう(牢)をいでさせ給ひなば、明年のはる(春)かならずき(来)たり給へ。み(見)ゝへまいらすべし。

 せうどの(少輔殿)ゝ但(ただ)一人あるやつをつけよかしと、をも(思)う心、心なしとをも(思)う人一人もなければ、しぬまで各々御はぢ(恥)なり。又大進阿闍梨(あじゃり)はこれにさた(沙汰)すべき事かたがた(方々)あり。又をのをの(各々)ゝ御身の上をも、み(見)はてさせんがれう(料)にとゞ(留)めをくなり。
くはしくは申し候はんずらん。恐々謹言。

十月三日          日 蓮 花押
五人御中
  せんあくてご房をばつけさせ給へ。又しらうめ(四郎奴)が一人あらんずるが、ふびんに候へば申す。

by johsei1129 | 2019-09-23 18:48 | 弟子・信徒その他への消息 | Trackback | Comments(0)
2019年 09月 23日

十方仏土の中には法華経より外は全くなきなり、と説いた【四条金吾殿御消息】

【四条金吾殿御消息】
■出筆時期:文永八年(西暦1271年)九月二一日 五十歳御作。
■出筆場所:相模・依智、本間重連の屋敷て。
■出筆の経緯:本書述作の九日前の九月十二日、日蓮大聖人は竜の口で処刑されるという生涯最大の難に遭われている。光り物の出現で処刑できなかった結果、大聖人は翌十三日の正午頃、相模依智の本間重連(佐渡守護代)の屋敷に到着、預かりの身となる。本書は竜の口の処刑場に自らも腹を切る覚悟で馳せ参じた四条金吾に宛てられたご消息文である。大聖人は本書で「日蓮霊山にまいりて、まず四条金吾こそ、法華経の御故に日蓮とをなじく腹切らんと申し候なりと申し上げ候べきぞ」と金吾の師への強い思いを讃えられている。
■ご真筆: 現存していない。

[四条金吾殿御消息 本文]  [英語版]

 度度の御音信(おとづれ)申しつくしがたく候。さても、さても去(いぬ)る十二日の難のとき、貴辺たつのくち(竜口)までつれさせ給い、しかのみならず、腹を切らんと仰せられし事こそ、不思議とも申すばかりなけれ。日蓮過去(世)に妻子・所領・眷属(けんぞく)等の故に、身命を捨てし所いくそばくかありけむ。 或は山にすて、海にすて、或は河、或はいそ等、路のほとりか、然れども法華経のゆへ、題目の難にあらざれば、捨てし身も蒙る難等も成仏のためならず。成仏のためならざれば、捨てし海・河も仏土にもあらざるか。

 今度法華経の行者として流罪・死罪に及ぶ。流罪は伊東、死罪はたつのくち、相州のたつのくちこそ日蓮が命を捨てたる処なれ仏土におとるべしや。其の故はすでに法華経の故なるがゆへなり。 

 経に云く「十方仏土中唯有一乗法」と。此の意なるべきか。此の経文に一乗法と説き給うは法華経の事なり、十方仏土の中には法華経より外は全くなきなり、除仏方便説と見えたり。 若し然らば日蓮が難にあう所ごとに仏土なるべきか。 

娑婆(しゃば)世界の中には日本国、日本国の中には相模の国、相模の国の中には片瀬(かたせ)、片瀬の中には竜口に日蓮が命をとどめをく事は法華経の御故なれば、寂光土ともいうべきか。神力品に云く「若しは林中に於ても、若しは、園中に於ても、若しは山谷曠野にても、是の中に乃至般涅槃したまう」とは是か。

かかる日蓮にともなひて、法華経の行者として腹を切らんとの給う事、かの弘演が腹をさいて主の懿(い)公がきも(肝)を入れたるよりも百千万倍すぐれたる事なり。日蓮、霊山にまいりて、まづ四条金吾こそ法華経の御故に日蓮とをなじく腹切らんと申し候なりと申し上げ候べきぞ。

かまくらどの(鎌倉殿)の仰せとて、内内、佐渡の国へつかはすべき由、承り候。三光天子の中に月天子は光物(ひかりもの)とあらはれ竜口の頚をたすけ、明星天子は四五日已前に下りて日蓮に見参し給ふ。いま日天子ばかりのこり給ふ定めて守護あるべきかとたのもしたのもし。

 法師品に云く「則ち、変化人を遣はして、之が為に衛護と作さん」と、疑あるべからず。安楽行品に云く「刀杖も加へず」普門品に云く「刀尋いて段段に壊れなん」と、此等の経文よも虚事にては候はじ。強盛の信力こそありがたく候へ。恐恐謹言。
       
文永八年九月二十一日         日 蓮  花 押
四条金吾殿

by johsei1129 | 2019-09-23 18:43 | 四条金吾・日眼女 | Trackback | Comments(0)
2019年 09月 23日

14. The purpose of advent in this world.

14. The purpose of advent in this world.

Although 20 farmers were under the yoke of a tyrant, they refused rigidly, and three brothers including Jinshiro were executed.

Nichiren was impressed by the sight of unnamed farmers carrying through the religious belief, at that time, he felt all the people of the world to embrace the marvelous Law, so he erected the real object of worship (Dai-Gohonzon). It was not erected by mere opportunity or relationship, this grand mandala was erected for all people of the whole world. Nichiren drew the Dai-Gohonzon to the surface of the big camphor tree to withstand to 10, 000 years or end of the future in the latter day of the Law.

This Dai-Gohonzon was the ultimate end in his life that needed time, "I was 27 years" from the declaration of the establishing true Buddhism.

“In Nagasa District of Awa country there is a village called Tojo that is now a district. Here is the holy storehouse which was once the second in Japan, now is the highest rank. It was founded by Minamoto-no Yoritomo of the Right Side General, and supplies food for the shrine of the God of the sun. In the private Buddha statue hall inside the various halls which is called Seichoji temple in this district, I first spoke about this doctrine towards the south at noon on the twenty-eight day of April in the fifth year of Kencho (1253). Twenty-seven years have passed since then and it is currently the second year of Kō'an (1279). Shakyamuni Buddha was forty-odd years, the GreatTeacher Tiantai was thirty-odd years, the Great Teacher Dengyou was twenty-oddyears, they had needed these years to accomplish the purpose of their advents.

I have spoken repeatedly of the indescribable persecutions they suffered during those years. It has taken me twenty-seven years. Great persecutions during those years are what everybody knows it”.

The Dai-Gohonzon erected on October 12, 1279 (the second year of Koan Era) is the one Great Secret Law to gather up the Three Great Secret Law that are the radical Gohonzon, the radical sanctuary, and the radical daimoku.

Nichikan(1665-1726), the 26th chief priest in the Fuji Daisekiji temple, says,

"Question; How is the development and conjunction of the Three Great Secret Laws if so?

Answer; To tell the truth, it is the One Great Secret Law. The One Great Secret Law is namely the Gohonzon of the radical teachings. A place of this Ghonzon is named the sanctuary of the radical teachings. It is named the daimoku of the radical teachings that person believes this Gohonzon and chants marvelous Law. Therefore, it is divided and becomes the Three Great Secret Laws. In addition, Gohonzon has a Law with a person, there are theory and fact in the sanctuary, and there are believing and practice in daimoku. Therefore, this unfolds and becomes six categories. These six categories are dispersed and become eighty thousand sutras. For example, the Biography of Famous Priests says; The one mind is the whole of all the Law and one mind is divided to a commandment, a meditation and a wisdom, and these disperse to the practices of every numbers.

You must know, Gohonzon is just the whole of all the Law. Therefore, eighty thousand sutras become six mere categories when these are put together. In addition, these only become the Three Great Secret Laws, when these six categories fit. Besides, it just becomes the Gohonzon of the radical teachings if the Three Great Secret Laws got together. Thus, Gohonzon of the radical teachings is also named Gohonzon including all of Three Great Secret Laws”. ‘Writings which Understands a Sentence from a Meaning’.

Dai-Gohonzon is radical of the Law of Nichiren, and it is placed respectfully in Ho'an Hall of Daisekiji temple of Fuji now.


To be continued


Life of Nichiren. Compact edition.



by johsei1129 | 2019-09-23 10:27 | LIFE OF NICHIREN | Trackback | Comments(0)
2019年 09月 23日

13. The persecution of Atsuhara.

13. The persecution of Atsuhara.

Persecution of Buddhists in Atsuhara happened in September 1279. Nikko of disciple had propagated the Law of Nichiren at Atsuhara of Fuji region extensively. Therefore, the monks of other sect devoted to the Lotus Sutra one after another, faiths spread to farmers.

 Yoritsuna Taira saw this situation seriously and arrested people of 20 farmers who are believing in the Lotus Sutra and pressed them for apostasy of faiths. Yoritsuna could not arrest Nichiren who were permitted, but he aimed at the farmer socially vulnerable instead. This was the great persecution that believers of Nichiren directly received the first time.

Nichiren sends instructions one after another.

“If Hokibo, Sadobo, the others, and the Atsuhara believers have a same mind even if they are different, they will achieve everything. However, in the case of different minds each other, they cannot accomplish anything even if together. This is already proved in more than 3000 scrolls of non-Buddhist. Though King Chou of Yin led seven hundred thousand soldiers into battle, they lost for having different minds each other, to the contrary, King Wu and his only eight hundred men of Chou got victory because they were united with harmony like the one mind. If has two minds, even one individual is certain to end in failure for a mind's conflict. Even if there are 100 or 1000 people, if they are one mind, they can accomplish the purpose by all means. Although there are many people in Japan, they will find it difficult to accomplish anything because they have different minds each other even if they are same. In contrast, though Nichiren and his followers are small numbers and are different each other, because they are same mind, I believe they will accomplish their great purpose and the Lotus Sutra will spread by all means. Though there is much evils, these cannot win to the single good action. For example, just as many fires gathering are quenched by a single water. This is the case about Nichiren and his followers too”.Having a Same Mind even if Different’.

“About the ones in Atsuhara who are ignorant, say and encourage, do not threaten. Tell them to decide themselves, and think good things mysterious, and receive the bad matters for granted. If they complain of hunger, tell them about the sufferings of the hungry world. If they grumble that they are cold, tell them of the eight cold hells. If they say they are frightened, explain to them that a pheasant which is aimed by a hawk, or a mouse stalked by a cat, is not other people's affairs. I have been repeating these things day after day, month after month, year after year. Yet with nun Nagoe, Shobo, Notobo, and Sanmibo were cowardly and did not remember, greedy, and doubting it. My words had no effect to them as like pouring water on lacquer ware or slicing off air! This is a reason to write in detail in this way”.On Persecution Befalling the Saint’.


To be continued.


Life of Nichiren. Compact edition.



by johsei1129 | 2019-09-23 09:34 | LIFE OF NICHIREN | Trackback | Comments(0)