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日蓮大聖人『御書』解説

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2019年 09月 06日 ( 7 )


2019年 09月 06日

立正安国論で予知した他国侵逼難の現実化を恐れ幕府の重鎮に送った書【宿屋入道再御状】

【宿屋入道再御状】
■出筆時期:文永五年(1268年)九月  四十七歳 御作
■出筆場所:鎌倉 草庵にて。
■出筆の経緯:大聖人は八年前の文応元に、立正安国論を幕府・寺社奉行の宿屋入道を通じて、時の最高実力者・前執権の北条時頼に提出しました。そして本状を著した文永五年の一月十八日、蒙古の使者が皇帝の牒状を携えて鎌倉に到着します。この事実を把握した大聖人は八月二十一日宿屋入道に対し「今年大蒙古国より牒状之有る由・風聞す等云云、経文の如くんば彼の国より此の国を責めん事必定なり、而るに日本国の中には日蓮一人当に彼の西戎を調伏するの人たる可しと兼て之を知り論文に之を勘う、君の為・国の為・神の為・仏の為・内奏を経らる可きか」と認めて書状(宿屋入道許御状)を送ります。しかし、九月になっても返答がなく、大聖人は再び本状を記されて宿屋入道に送られました。尚、本状のご真筆は後半部分が欠損しているため、その箇所の内容は不明となっております。
■ご真筆:京都市本圀寺 所蔵。
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[宿屋入道再御状 本文]  [英語版]


 去ぬる八月の比、愚札を進ぜしむるの後、今月に至るも是非に付け返報を給はらず、鬱念(うつねん)散じ難し。
 忽々(そうそう)の故に想亡せしむるか。軽略せらるるの故に、此の一行を慳(おし)むか。
 
本文に云はく、「師子は少兎(しょうと)を蔑(あなど)らず大象を畏れず」等云云。
 若し又万一他国の兵、此の国を襲ふ事出来せぱ、知りて奏せざるの失、偏に貴辺に懸るべし。
 
 仏法を学ぶの法は、身命を捨て国恩を報ぜんが為なり。全く自身の為に非ず。
 本文に云はく、「雨を見て竜を知り、蓮を見て池を知る」等云云。
 災難急を見る故に度々之を驚かす。用ひざるに而も之を諫む。
 強(以下欠損している) 

 

by johsei1129 | 2019-09-06 22:04 | 立正安国論(御書五大部) | Trackback | Comments(0)
2019年 09月 06日

蒙古からの国書到来を受け幕府要人宿屋入道に執権北条時宗との見参を迫った書【宿屋入道許御状】

【宿屋入道許御状】
■出筆時期:文永五年(1268年)八月二十一日 四十七歳御作
■出筆場所:鎌倉 草庵にて。
■出筆の経緯:本抄を宛てられた宿屋左衛門入道は鎌倉幕府の重鎮で寺社奉行を勤めており、鎌倉時代に書かれた歴史書『吾妻鏡』巻五十一には下記の通り、第五代執権北条時頼の臨終の際、出入りを許された七人の中に宿屋左衛門の名が見られます。
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[吾妻鏡 巻五十一] 弘長三年
十一月二十日 丁酉
 早旦北殿に渡御す。偏に御終焉の一念に及ぶ。昨日厳命を含むの両人、固くその旨を守り人々の群参を制禁するの間、頗る寂寞たり。御看病の為六七許輩祇候するの外人無し。所謂、武田の五郎三郎・南部の次郎・長崎次郎左衛門の尉・工藤三郎左衛門の尉・尾籐太・宿谷左衛門の尉・安東左衛門の尉等なり。
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大聖人は幕府の宗教政策、他宗派の動向に関する情報は、この宿屋入道から主に得ていたのではと推察されます。また立正安国論を北条時頼に献上する際も宿屋入道を通じて行っており、本状を記された文永五年の一月十八日には蒙古国から牒状が鎌倉幕府に到来、立正安国論で予言した「他国侵逼難」が現実になった事態を受け、本状にて宿屋入道に対し「君の為、国の為、神の為、仏の為、(執権北条時宗への)内奏を経らるべきか。委細の旨は見参を遂げて申すべく候」と迫られておられます。

尚、本状を記される四ヶ月ほど前の四月五日には法鑒御房(平頼綱の実父)に【安国論御勘由来】を送り「但偏に国の為法の為人の為にして身の為に之を申さず。復禅門(宿屋入道)に対面を遂ぐ故に之を告ぐ之を用いざれば定めて後悔有る可し」と、宿屋入道との対面を依頼されておられます。しかし宿屋入道からの回答はなく、九月には【宿屋入道再御状】を送り、最終的に十月十一日、書状をしたため北条時宗他幕府要人、鎌倉の諸寺院計十一箇所に日興上人始め弟子達により直接届けられます。この書が後に【十一通御書】と称されております。
■ご真筆:現存しておりません。

【宿屋入道許御状 本文】 【英語版】

其の後書絶えて申さず、不審極まり無く候。
抑(そもそも)去(い)ぬる正嘉元年丁巳 八月二十三日戌亥の刻の大地震、日蓮諸経を引いて之を勘へたるに、念仏宗と禅宗等とを御帰依有るがの故に、日本守護の諸大善神、瞋恚を作して起こす所の災ひなり。
 
若し此を御対治無くんば、他国の為に此の国を破らるべきの由、勘文一通之を撰し、正庚申七月十六日、御辺に付け奉りて故最明寺入道殿へ之を進覧す。
其の後九箇年を経て、今年大蒙古国の牒状之有る由風聞す等云云。経文の如くんば、彼の国より此の国を責めん事必定なり。

而るに日本国中、日蓮一人彼の西戎を調伏すべきの人に当たり、兼ねて之を知り論文に之を勘ふ。
君の為、国の為、神の為、仏の為、内奏を経らるべきか。
委細の旨は見参を遂げて申すべく候。恐々謹言。

文永五年八月二十一日    日蓮 花押
宿屋左衛門入道殿





by johsei1129 | 2019-09-06 21:57 | 弟子・信徒その他への消息 | Trackback | Comments(0)
2019年 09月 06日

文永五年一月十八日、蒙古国から牒状が鎌倉幕府に到来、立正安国論で予言した「他国侵逼難」が現実になった事態を受け幕府の要人に送られたと思われる書【正嘉地震大瑞御書】

【正嘉地震大瑞御書】
■出筆時期:文永五年(1268) 四月頃と思われます。四十七歳御作
■出筆場所:鎌倉 草庵と思われます。
■出筆の経緯:本抄は一部断簡が伝えられてますが、書き出しが文永五年四月五日に平頼綱の父法鑒御房に送られた【安国論御勘由来】と内容を一にしており、安国論御勘由来と同様、立正安国論の「他国侵逼難」予言的中を受け鎌倉幕府の要人に対面を申し出たのではと強く推察されます。
尚、文中「故最明寺入道殿に奉る勘文の如し」とは、北条時頼に「立正安国論」を献じた事を示しておられます。
■ご真筆:京都市 本圀寺(断簡)所蔵。
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【正嘉地震大瑞御書 本文】

去ぬる正嘉元年丁巳、大地震此の大瑞日本の日記に見ざるか
日蓮諸経を引き勘ふるに、念仏宗と禅宗等との邪法、此の国に出現し、存の外に国中の上下鎮護国家の為の大法を蔑如(べつじょ)せしむるに依って、法華・真言の国中守護の諸大善神瞋恚(しんに)を為し、悉く他国に向かふが故に起こる所の災難なり。

此の国将に他国に襲はるべし等云云。
具には故最明寺入道殿に奉る勘文の如し、谷土野(やどや)禅門之を尋ぬべし。
念仏者並びに檀那等之を聞きて怨を成すこと、譬へば不軽菩薩の増上慢の四衆の如し。
(以下の部分は残されておられません)




by johsei1129 | 2019-09-06 21:55 | 弟子・信徒その他への消息 | Trackback | Comments(0)
2019年 09月 06日

蒙古襲来という国難を調伏すべき方を知るは日本国で日蓮ただ一人であると宣言された書【安国論御勘由来】

【安国論御勘由来】
■出筆時期:文永五年(西暦1268年)四月五日 四十七歳御作 
■出筆場所:鎌倉にて
■出筆の経緯:本書ではこの年の一月十八日、蒙古国から牒状が鎌倉幕府に到来、大聖人が立正安国論で予言してから九年を経て「他国侵逼難」が現実になった事態を受け、「日蓮復之を対治するの方之を知る、叡山を除いて日本国には但一人なり」と断言。この国難を打開するためには日蓮を用いる事であると迫っている。さらに「文永元年の七月五日、彗星東方に出で余光大体一国土に及ぶ、此れ又世始まりてより已来無き所の凶瑞なり内外典の学者も其の凶瑞の根源を知らず、予弥(いよい)よ悲歎を増長す」と、日本に難が及んでいることに警鐘を鳴らしている。
尚、本書の対告衆・法鑒(ほうがん)御房は平頼綱の父と言われており、本文に「禅門(宿屋左衛門入道光則)に対面を遂ぐ故に之を告ぐ。之を用ひざれば定めて後悔有るべし」とあることから、宿屋左衛門と近しい関係にあったと推察されます。
■ご真筆: 中山法華経寺 所蔵
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[安国論御勘由来 本文]

 正嘉元年太歳丁巳八月廿三日戌亥(いぬい)の時、前代に超え大に地振す。同二年戊午八月一日大風・同三年己未大飢饉・正元元年己未大疫病同二年庚申四季に亘つて大疫已まず、万民既に大半に超えて死を招き了んぬ。而る間国主之に驚き内外典に仰せ付けて種種の御祈祷有り。爾りと雖も一分の験(しるし)も無く還つて飢疫等を増長す。

  日蓮世間の体を見て粗一切経を勘うるに御祈請験無く還つて凶悪を増長するの由、道理文証之を得了んぬ。終に止むこと無く勘文一通を造り作して其の名を立正安国論と号す。文応元年庚申七月十六日辰時屋戸野(やどや)入道に付けて古最明寺入道殿に奏進申し了んぬ。此れ偏に国土の恩を報ぜんが為なり。其勘文の意は日本国・天神七代・地神五代百王百代・人王第卅代欽明天皇の御宇に始めて百済国より仏法此の国に渡り、桓武天皇の御宇に至つて其の中間五十余代・二百六十余年なり。其の間一切経並びに六宗之れ有りと雖も天台真言の二宗未だ之れ有らず。桓武の御宇に山階寺の行表僧正の御弟子に最澄と云う小僧有り、後に伝教大師と号す。已前に渡る所の六宗並に禅宗之を極むと雖も未だ我が意に叶わず、聖武天皇の御宇に大唐の鑒真(がんじん)和尚渡す所の天台の章疏・四十余年を経て已後始めて最澄之を披見し粗仏法の玄旨を覚り了んぬ。最澄、天長地久の為に延暦四年叡山を建立す。桓武皇帝之を崇め天子本命の道場と号し六宗の御帰依を捨て一向に天台円宗に帰伏し給う。

  同延暦十三年に長岡の京を遷して平安城を建つ。同延暦廿一年正月十九日高雄寺に於て南都七大寺の六宗の碩学・勤操(きんそう)・長耀(ちょうよう)等の十四人を召し合せ勝負を決談す。六宗の明匠・一問答にも及ばず口を閉ずること鼻の如し、華厳宗の五教・法相宗の三時・三論宗の二蔵・三時の所立を破し了んぬ。但自宗を破らるるのみに非ず皆謗法の者為ることを知る。同じき廿九日皇帝勅宣を下して之を詰(なじ)る。十四人謝表を作つて皇帝に捧げ奉る。其の後代代の皇帝叡山の御帰依は孝子の父母に仕うるに超え、黎民(れいみん)の王威を恐るるに勝れり。或御時は宣明を捧げ或御時は非を以て理に処す等云云。殊に清和天皇は叡山の恵亮(えりょう)和尚の法威に依つて位に即き、帝王の外祖父・九条右丞相は誓状を叡山に捧げ、源の右将軍は清和の末葉なり。鎌倉の御成敗是非を論ぜず叡山に違背す天命恐れ有る者か。

 然るに後鳥羽院の御宇・建仁年中に法然・大日とて二人の増上慢の者有り。悪鬼其の身に入つて国中の上下を誑惑(おうわく)し代を挙げて念仏者と成り、人毎に禅宗に趣く。存の外に山門の御帰依浅薄なり、国中の法華真言の学者棄て置かれ了んぬ。故に叡山守護の天照太神・正八幡宮・山王七社・国中守護の諸大善神法味を食らわずして威光を失い、国土を捨て去り了んぬ。悪鬼便りを得て災難を致し、結句他国より此の国を破る可き先相勘うる所なり。又其の後文永元年甲子七月五日彗星東方に出で、余光大体一国土に及ぶ。此れ又世始まりてより已来無き所の凶瑞なり。内外典の学者も其の凶瑞の根源を知らず、予弥よ悲歎を増長す。而るに勘文を捧げて已後九ケ年を経て今年後の正月大蒙古国の国書を見るに、日蓮が勘文に相叶うこと宛かも符契(ふけい)の如し。

 仏記して云く「我が滅度の後一百余年を経て阿育(あそか)大王出世し我が舎利を弘めん」と。周の第四昭王の御宇・大史蘇由が記に云く「一千年の外・声教此の土に被(こうむ)らしめん」と。聖徳太子の記に云く「我が滅度の後二百余年を経て山城の国に平安城を立つ可し」と。天台大師の記に云く「我が滅後二百余年の已後(のち)東国に生れて我が正法を弘めん」等云云。皆果して記文の如し。

 日蓮、正嘉(しょうか)の大地震、同じく大風、同じく飢饉、正元元年の大疫等を見て記して云く。他国より此の国を破る可き先相なりと。自讃に似たりと雖も若し此の国土を毀壊(きえ)せば復た仏法の破滅疑い無き者なり。
而るに当世の高僧等、謗法の者と同意の者なり、復た自宗の玄底を知らざる者なり。定めて勅宣御教書(みきょうしょ)を給いて此の凶悪を祈請するか、仏神、弥(いよい)よ瞋恚(しんに)を作し国土を破壊せん事疑い無き者なり。

  日蓮、復之を対治するの方之を知る、叡山を除いて日本国には但一人なり。譬えば日月の二つ無きが如く聖人肩を並べざるが故なり、若し此の事妄言ならば日蓮が持つ所の法華経守護の十羅刹の治罰之を蒙らん、但偏に国の為法の為人の為にして身の為に之を申さず。復禅門に対面を遂ぐ故に之を告ぐ之を用いざれば定めて後悔有る可し、恐恐謹言。

文永五年太歳戊辰四月五日
法鑒御房                 日 蓮 花押





by johsei1129 | 2019-09-06 21:52 | 立正安国論(御書五大部) | Trackback | Comments(0)
2019年 09月 06日

悪知識は善法の為にあだなり、故に畏る可きは大毒蛇悪鬼神よりも弘法善導法然等の流の悪知識を畏 るべし、と断じた【星名五郎太郎殿御返事】

【星名五郎太郎殿御返事】
■出筆時期:文永四年(1267)十二月五日 四十六歳御作。
■出筆場所:下総の富木常忍の邸宅と思われます。
■出筆の経緯:本抄は上総国・興津村の領主・佐久間兵庫亮の家臣・星名五郎太郎に宛てられた消息です。
本抄を記された文永四年は、大聖人の御母妙蓮尼が八月十五日にお亡くなりになり大聖人は故郷安房小湊に戻られておられます。
恐らくその時に主君佐久間兵庫亮(ひょうごのすけ)とともに星名五郎太郎も大聖人に帰依されたと思われます。

本抄は真言の破析を論じられおり、佐久間兵庫亮、星名五郎太郎が以前は真言を信仰していたことを伺わせます。
大聖人は「今法華経には二乗成仏あり真言経には之無しあまつさへあながちに是をきらへり、法華経には女人成仏之有り真言経にはすべて是なし、法華経には悪人の成仏之有り真言経には全くなし、何を以てか法華経に勝れたりと云うべき」と記されるとともに「故に畏る可きは大毒蛇悪鬼神よりも弘法善導法然等の流の悪知識を畏るべし」と断じられておられます。
また文末では「外見あるべからず候、若(もし)命つれなく候はば仰せの如く明年の秋下り候て且つ申すべく候」と記され、この消息は他人には見せてはならないと諭されるともに、もし私の命が変わらず無事であれば明年の秋にはお伺いして法門の事を詳しく申しましょうと約束されておられます。ここでの「若命つれなく候はば」とは「三年前の小松原の法難のようなことが再び起きなければ」との思いを示されておられると拝されます。
■ご真筆:現存しておりません。

【星名五郎太郎殿御返事 本文】

漢の明(めい)夜夢みしより迦・竺(か・じく)二人の聖人初めて長安のとぼそに臨みしより以来唐の神武皇帝に至るまで天竺の仏法震旦(しんたん)に流布し、梁(りょう)の代に百済(くだら)国の聖明王より我が朝の人王三十代欽明の御宇に仏法初めて伝ふ、其れより已来一切の経論諸宗皆日域にみてり、幸なるかな生を末法に受くるといへども霊山(りょうぜん)のきき耳に入り、身は辺土に居せりといへども大河の流れ掌に汲めり、但し委(くわし)く尋ね見れば仏法に於て大小権実前後のおもむきあり、若し此の義に迷いぬれば邪見に住して仏法を習ふといへども還つて十悪を犯し五逆を作る罪よりも甚しきなり、爰を以て世を厭ひ道を願はん人先ず此の義を存ずべし、例せば彼の苦岸比丘等の如し、故に大経に云く「若し邪見なる事有らんに命終の時正に阿鼻獄に堕つべし」と云へり。

 問う何を以てか邪見の失を知らん予不肖の身たりといへども随分後世を畏れ仏法を求めんと思ふ、願くは此の義を知らん、若し邪見に住せばひるがへして正見におもむかん、答う凡眼を以て定むべきにあらず浅智を以て明むべきにあらず、経文を以て眼とし仏智を以て先とせん、但恐くは若し此の義を明さば定めていかりをなし憤りを含まん事を、さもあらばあれ仏勅を重んぜんにはしかず、其れ世人は皆遠きを貴み近きをいやしむ但愚者の行ひなり、其れ若し非ならば遠とも破すべし其れ若し理ならば近とも捨つべからず、人貴むとも非ならば何ぞ今用いん、伝え聞く彼の南三北七の十流の学者威徳ことに勝れて天下に尊重せられし事既に五百余年まで有りしかども陳隋二代の比(ころ)天台大師是を見て邪義なりと破す、天下に此の事を聞いて大きに是をにくむ、然りといへども陳王隋帝の賢王たるに依て彼の諸宗に天台を召し決せられ、邪正をあきらめて前五百年の邪義を改め皆悉く大師に帰す。

 又我が朝の叡山の根本大師は南都北京の碩学(せきがく)と論じて仏法の邪正をただす事皆経文をさきとせり、今当世の道俗貴賎皆人をあがめて法を用いず心を師として経によらず、之に依て或は念仏権教を以て大乗妙典をなげすて或は真言の邪義を以て一実の正法を謗ず、是等の類豈大乗誹謗のやからに非ずや、若し経文の如くならば争(いかで)か那落(ならく)の苦みを受けざらんや、之に依て其の流をくむ人もかくの如くなるべし、疑つて云く念仏真言は是れ或は権或は邪義又行者或は邪見或は謗法なりと此の事甚だ以て不審なり、其の故は弘法大師は是れ金剛薩埵(こんごうさった)の化現第三地の菩薩なり。真言は是れ最極甚深の秘密なり、又善導和尚は西土の教主弥陀(みだ)如来の化身なり、法然上人は大勢至菩薩の化身なりかくの如きの上人を豈に邪見の人と云うべきや、答えて云く此の事本より私の語を以て是を難ずべからず経文を先として是をただすべきなり、真言の教は最極の秘密なりと云うは三部経の中に於て蘇悉地(そしっち)経を以て王とすと見えたり、全く諸の如来の法の中に於て第一なりと云う事を見ず、凡そ仏法と云うは善悪の人をゑらばず皆仏になすを以て最第一に定むべし、是れ程の理をば何(いか)なる人なりとも知るべきことなり、若し此の義に依らば経と経とを合せて是を挍(ただ)すべし。

今法華経には二乗成仏あり真言経には之無しあまつさへあながちに是をきらへり、法華経には女人成仏之有り真言経にはすべて是なし、法華経には悪人の成仏之有り真言経には全くなし、何を以てか法華経に勝れたりと云うべき、又若し其の瑞相を論ぜば法華には六瑞あり、所謂(いわゆる)雨華地動し白毫(びゃくごう)相の光り上は有頂を極め下は阿鼻獄を照せる是なり、又多宝の塔大地より出て分身の諸仏十方より来る、しかのみならず上行等の菩薩の六万恒沙(ごうじゃ)五万四万三万乃至一恒沙半恒沙等大地よりわきいでし事此の威儀不思議を論ぜば何を以て真言法華にまされりと云わん、此等の事委(くわし)くのぶるにいとまあらずはづかに大海の一滴を出す。

爰(ここ)に菩提(ぼだい)心論と云う一巻の文あり竜猛菩薩の造と号す、此の書に云く「唯真言法の中に即身成仏す故に是れ三摩地の法を説く諸教の中に於て闕(か)いて書(し)るさず」と云えり、此の語は大に不審なるに依て経文に就てこれを見るに即身成仏の語は有れども即身成仏の人全くなし、たとひありとも法華経の中に即身成仏あらば諸教の中にをいてかいて而もかかずと云うべからず此の事甚だ以て不可なり、但し此の書は全く竜猛の作にあらず委き旨は別に有るべし、設ひ竜猛菩薩の造なりともあやまりなり、故に大論に一代をのぶる肝要として「般若(はんにゃ)は秘密にあらず二乗作仏なし、法華は是秘密なり二乗作仏あり」と云えり、又云く「二乗作仏あるは是秘密二乗作仏なきは是顕教」と云えり、若し菩提心論の語の如くならば別しては竜樹の大論にそむき総じては諸仏出世の本意一大事の因縁をやぶるにあらずや、今竜樹天親等は皆釈尊の説教を弘めんが為に世に出(い)ず、付法蔵二十四人の其の一なり何ぞ此(か)くの如き妄説をなさんや、彼の真言は是れ般若経にも劣れり、何に況や法華に並べんや、爾(しか)るに弘法の秘蔵宝鑰(やく)に真言に一代を摂するとして法華を第三番に下し、あまつさへ戯論(けろん)なりと云えり、謹んで法華経を披(ひら)きたるに諸の如来の所説の中に第一なりと云えり、又已今当の三説に勝れたりと見えたり、又薬王の十喩(ゆ)の中に法華を大海にたとへ日輪にたとへ須弥山(しゅみせん)にたとへたり、若し此の義に依らば深き事何ぞ海にすぎん明かなる事何ぞ日輪に勝れん高き事何ぞ須弥山に越ゆる事有らん、喩を以て知んぬべし何を以てか法華に勝れたりと云はんや、大日経等に全く此の義なし但己が見に任せて永く仏意に背く、妙楽大師日く「請う眼有らん者は委悉(いしつ)に之を尋ねよ」と云へり、法華経を指て華厳に劣れりと云うは豈(あに)眼ぬけたるものにあらずや、又大経に云く「若し仏の正法を誹謗(ひぼう)する者あらん正に其の舌を断(たつ)べし」と、嗚呼(ああ)誹謗の舌は世世に於て物云うことなく邪見の眼は生生にぬけて見ること無らん、加之(しかのみな)らず「若し人信ぜずして此の経を毀謗(きぼう)せば乃至其の人命終えて阿鼻獄に入らん」の文の如くならば定めて無間大城に堕ちて無量億劫(おくこう)のくるしみを受けん。

善導法然も是に例して知んぬべし、誰か智慧有らん人此の謗法(ほうぼう)の流を汲んで共に阿鼻(あび)の焔(ほのお)にやかれん、行者能く畏(おそ)るべし、此れは是れ大邪見の輩なり、所以に如来誠諦の金言を按ずるに云く「我が正法をやぶらん事は譬えば猟師の身に袈裟(けさ)をかけたるが如し、或は須陀洹(しゅだおん)斯那含(しなごん)阿那含(あなごん)阿羅漢・辟支仏(びゃくしぶつ)及び仏の色身を現じて我が正法を壊(やぶ)らん」といへり。

 今此の善導法然等は種種の威を現じて愚癡(ぐち)の道俗をたぶらかし如来の正法を滅す、就中(なかんずく)彼の真言等の流れ偏(ひとえ)に現在を以て旨とす、所謂畜類を本尊として男女の愛法を祈り荘園等の望をいのる、是くの如き少分のしるしを以て奇特とす、若し是を以て勝れたりといはば彼の月氏の外道等にはすぎじ、彼の阿竭多(あかだ)仙人は十二年の間恒河(こうが)の水を耳にただへたりき、又耆菟(ぎと)仙人の四大海を一日の中にすひほし、く留外道は八百年の間石となる豈是にすぎたらんや、又瞿曇(くどん)仙人が十二年の程釈身と成り説法せし、弘法が刹那の程にびるさな(毘盧舎那)の身と成りし、其の威徳を論ぜば如何(いかん)、若し彼の変化のしるしを信ぜば即ち外道を信ずべし、当(まさ)に知るべし彼れ威徳ありといへども猶阿鼻の炎をまぬがれず、況(いわん)やはづかの変化にをいてをや況や大乗誹謗にをいてをや、是一切衆生の悪知識なり近付くべからず畏る可し畏る可し。

仏の曰く「悪象等に於ては畏るる心なかれ悪知識に於ては畏るる心をなせ、何を以ての故に悪象は但身をやぶり意をやぶらず悪知識は二共にやぶる故に、此の悪象等は但一身をやぶる悪知識は無量の身無量の意をやぶる、悪象等は但不浄の臭き身をやぶる悪知識は浄身及び浄心をやぶる、悪象は但肉身をやぶる悪知識は法身をやぶる、悪象の為にころされては三悪に至らず悪知識の為に殺されたるは必ず三悪に至る、此の悪象は但身の為のあだなり、悪知識は善法の為にあだなり」と、故に畏る可きは大毒蛇悪鬼神よりも弘法善導法然等の流の悪知識を畏るべし、略して邪見の失(とが)を明すこと畢(おわ)んぬ。

 此の使あまりに急ぎ候ほどにとりあへぬさまにかたはしばかりを申し候、此の後又便宜(びんぎ)に委く経釈を見調(みしら)べてかくべく候、穴賢穴賢、外見あるべからず候、若(もし)命つれなく候はば仰せの如く明年の秋下り候て且つ申すべく候、恐恐。

十二月五日   日蓮 花押
星名五郎太郎殿御返事








by johsei1129 | 2019-09-06 21:33 | 弟子・信徒その他への消息 | Trackback | Comments(0)
2019年 09月 06日

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by johsei1129 | 2019-09-06 17:47 | 小説 日蓮の生涯 上 | Trackback | Comments(0)
2019年 09月 06日

総じて法然が一類八十余人、一人も臨終よきものとてなし、と断じた【念仏者臨終現悪相御書】

【念仏者臨終現悪相御書】
■出筆時期:文永三年(1266) 四十五歳御作。
■出筆場所:安房国 花房蓮華寺と思われます。
■出筆の経緯:本抄は真筆の断簡が伝えられておりますが、前後の文が不明のため対告衆、著作年月日等の詳細は不明です。本文の内容は弟子・信徒教化のための念仏の破析が主題で、大聖人は「総じて法然が一類八十余人、一人も臨終よきものとてなし」と断じられておられます。
■ご真筆:富士宮市 西山本門寺(断簡)所蔵。
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【念仏者臨終現悪相御書 本文】

文はとかれたれども、実には諸行は往生せずと料簡したりけり。この二義世間にひろまりけるほどに、法華経等は一部八巻よむもよだけし。
真言の観念は大事なり。一念は但南無阿弥陀仏と申せばやすし。させる功労をも入らざる故に、在家の諸人は一向称名(いっこうしょうみょう)念仏になりぬ。自然に法然が義つをりて多勢になるほどに、をゝぜいにをとされて、法華経・真言等を行じつる人々も、自義をすてゝ法然が義をならいまねび、心よせにをもい、久修聖行の法華経等をすてゝ三万六万等の念仏者になりぬ。

結句(けっく)はことに天台真言の人々、法華経をすてゝ念仏になる証人となれるなり。ここに第一の不思議あり。法然が一類の一向の念仏者法然・隆観・上光・善恵・南無・薩生(さっしょう)等或は七日・二七日、無記にて死ぬ者もあり、或は悪瘡(あくそう)、或は血をはき、或は遍身にあつきあせをながし、総じて法然が一類八十余人、一人も臨終よきものとてなし。又一向専修の念仏者をもちうる在 





by johsei1129 | 2019-09-06 07:03 | 弟子・信徒その他への消息 | Trackback | Comments(0)