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日蓮大聖人『御書』解説

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2019年 04月 30日 ( 2 )


2019年 04月 30日

末法の本仏の立場で法華経二十八品を後継者、日興上人に口伝した書【御義口伝 下】要点解説(109)

【普賢品六箇の大事】

第六 此人不久当詣道場の事 (その三)

さて本門の終りの去は随縁真如にして而二の分なり、仍つて去の字を置くなり。作礼而去(さらいにこ)の去は随縁真如と約束するなり、本門は而二の上の不二なり。
而二不二・常同常別・古今法爾(ここんほうに)の釈之を思う可し。

 此の去の字は彼の五千起去の去と習うなり、其の故は五千とは五住の煩悩と相伝する間、五住の煩悩が己心の仏を礼して去ると云う義なり。
如去の二字は生死の二法なり、伝教云く「去は無来之如来無去之円去」等と云云。

如の字は、一切法是心の義。去の字は、心是一切法の義なり。

一切法是心は迹門の不変真如なり、心是一切法は本門の随縁真如なり。然る間・法界を一心に縮むるは如の義なり、法界に開くは去の義なり、三諦三観の口決相承と意同じ云云。

一義に云く、如は実なり去は相なり、実は心王、相は心数なり。又諸法は去なり、実相は如なり、今経一部の始終諸法実相の四字に習うとは是なり。

釈に云く「今経は何を以て体と為るや、諸法実相を以て体と為す」と。

 今一重立ち入つて日蓮が修行に配当せば、如とは如説修行の如なり。
其の故は結要五字の付属を宣べ給う時、宝塔品に事起り、声徹下方し、近令有在(ごんりょううざい)・遠令有在(おんりょううざい)と云うて、有在の二字を以て本化・迹化の付属を宣ぶるなり。

仍つて本門の密序と習うなり。

 さて二仏並座(注)、分身の諸仏集まつて是好良薬の妙法蓮華経を説き顕し、釈尊十種の神力を現じて四句に結び、上行菩薩に付属し給う其の付属とは妙法の首題(注)なり。

惣別の付属塔中塔外之を思う可し。之に依つて涌出・寿量に事顕れ、神力・属累に事竟る(注)なり。

 此の妙法等の五字を末法・白法隠没の時、上行菩薩・御出世有つて、五種の修行の中には四種を略して但受持の一行にして成仏す可しと経文に親(まのあた)り之れ有り。
夫れば神力品に云く「於我滅度後・応受持斯経・是人於仏道・決定無有疑」云云。此の文明白なり。

 仍つて此の文をば仏の廻向の文と習うなり、然る間此の経を受持し奉る心地は、如説修行の如なり。

 此の如の心地に妙法等の五字を受持し奉り、南無妙法蓮華経と唱え奉れば、忽ち無明煩悩の病を悉く去つて、妙覚極果の膚(はだえ)を瑩(みが)く事を顕す故に、さて去の字を終りに結ぶなり。

 仍つて上に受持仏語と説けり煩悩悪覚の魔王も、諸法実相の光に照されて、一心一念遍於法界と観達せらる。
 然る間、還つて己心の仏を礼す故に作礼而去とは説き給うなり。彼彼三千互遍亦爾(ごへんやくに)の釈之を思う可し、秘す可し秘す可し、唯受一人の相承なり。

口外す可からず、然らば此の去の字は、不去而去(ふこにこ)の去と相伝するを以て至極と為すなり云云。




二仏並座
宝塔品で説かれている、地より湧出した宝塔の上部に多宝如来、釈迦仏が虚空に並んで坐した事を示している。

妙法の首題
妙法蓮華経の五字を意味します。

涌出・寿量に事顕れ、神力・属累に事竟る
釈尊が説いた妙法蓮華経の化導の核心は、無数とも言える地涌の菩薩が涌出した事を記した『従地涌出品第十五』から始まり、核心の教え『如来寿量品第十六』を説き、妙法蓮華経を地涌の菩薩の上首・上行菩薩に別付属した『神力品』と、娑婆世界以外の国土から参集した諸菩薩に総付属した『属累品第二十二』で釈尊の化道が完了した事を示しています










by johsei1129 | 2019-04-30 23:13 | 御義口伝 | Trackback | Comments(0)
2019年 04月 30日

Gosho 信解(しんげ)品六箇の大事 Six important points in the chapter of believing and understanding.

第四(しん)()悔恨(けこん)の事

Point Four, on the words “his heart filled with regret and longing”.

The 4th. ‘Compunction’.

日本国の一切衆生は子の(ごと)く日蓮は父の如し、

The Record of the Orally Transmitted Teachings says: All the various living beings in the country of Japan are comparable to the son, and Nichiren is comparable to the father.

The Orally Conveyed Teachings say: All the various living beings in the country of Japan are comparable to the child, and Nichiren is comparable to the father.

法華不信の(とが)()つて無間(むけん)大城(だいじょう)()ちて返つて日蓮を(うら)みん、

Because they fail to have faith in the Lotus Sutra, the living beings fall into the great citadel of the hell of incessant suffering, but instead of blaming themselves, on the contrary they look upon Nichiren with reproach.

Because they fail to believe in the Lotus Sutra, the living beings fall into the great castle of the hell of incessant suffering, but instead of blaming themselves, on the contrary, they bear a grudge against Nichiren.

(また)日蓮も声も(おし)まず法華を()つ可からずと()うべきものを霊山(りょうぜん)にて(くい)ること()れ有る可きか

For his part, Nichiren has never spared his voice in urging them not to cast aside the Lotus Sutra, and so on Eagle Peak he must have his feelings of regret [for their dwelling in hell].

However, in the Eagle Peak, I either may repent that I should have said with every effort that they must not abandon the Lotus Sutra.


つづく Continued


本文 Original Text  御義口伝目次 Table of Contents



by johsei1129 | 2019-04-30 11:18 | WRITING OF NICHIREN | Trackback | Comments(0)