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日蓮大聖人『御書』解説

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2018年 05月 18日 ( 2 )


2018年 05月 18日

末法の本仏の立場で法華経一部二十八品を直弟子日興上人に口伝した書【御義口伝 上】要点解説(58)

【法師品十五箇の大事】

第七 衣座室の事
 

御義口伝に云く、衣座室(注)とは法報応の三身(注)なり。

 空仮中の三諦(注)、身口意の三業(注)なり。


 今、日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は、此の三軌を一念に成就するなり。

 衣とは柔和忍辱の衣、当著忍辱鎧是なり。

 座とは不惜身命の修行なれば、空座に居するなり。

 室とは慈悲に住して弘むる故なり。母の子を思うが如くなり、豈(あに)、一念に三軌を具足するに非ずや。



(注)

衣座室(の三軌) 仏の滅後に法華経を弘通するための三種の心得をいう。

妙法蓮華経 法師品で次のように説かれている。

「若し善男子、善女人有って、如来の滅後に、四衆(出家の男女、俗信徒の男女)の為に、是の法華経を説かんと欲せば、云何が応に説くべき。

 是の善男子、善女人は、如来の室に入り、如来の衣を著き、如来の座に坐して、爾して乃し、四衆の為に広く斯この経を説くべし。

如来の室とは、一切衆生の中の大慈悲心、是なり。如来の衣とは柔和忍辱の心、是なり。如来の座とは一切法は空、是なり」


[解説]
一切法は空とは、例えば潮の満ち引きという現象は、月と太陽の引力によっておきる。つまり海水という因が月という縁によって潮の満ち引

が生じているのであり、万有引力という法則そのものに実体はなく、現象のみが生じる空の状態であると認識して、法華経を説くべきであるとしている。

この例で分かるように、飛行機が空を飛ぶ為の揚力、車が道路を走行するためのタイヤと路面との摩擦力等々の、森羅万象の諸法の実相は、全て因が縁に触れて生じる空の状態であると、仏は覚知した。


法報応の三身

妙法蓮華経では人の身を、法身・報身・応身の三身と解き明かしている。

法身は無始無終の魂魄。

報身は過去世の行により得た報いとしての身(境涯)、妙法蓮華経如来寿量品第十六で、釈迦は久遠に菩薩の行をして仏の境涯を得たと解き明かしている。一旦仏の境涯を得ると永遠にその境涯から後退することはないので、報身如来は有始無終である。

応身は時に応じて出現する身。釈迦がインドに釈迦族の王子として応誕し、修行して成道する姿を衆生に見せた有始有終の身。


日蓮大聖人は【四条金吾釈迦仏供養事】で次のように三身を解き明かしている。

『三身とは一には法身如来・二には報身如来・三には応身如来なり。此の三身如来をば一切の諸仏、必ず、あひぐ(相具)す。

譬へば月の体は法身、月の光は報身、月の影は応身にたと(譬)う』と。
因みに我々日蓮正宗の信徒は朝の勤行で方便品第二・如来寿量品の自我偈(二座は長行)を五回、夕勤行で三回読誦するが、方便品の十如是を三回繰り返して読誦する。
この意義について日蓮大聖人は【一念三千法門】で次の様に解き明かしております。
『所謂諸法如是相如云云と読む時は、如は空の義なれば我が身の先業にうくる所の相性体力、其の具する所の八十八使の見惑・八十一品の思惑・其の空は報身如来なり。
所謂諸法如是相云云とよめば、是れ仮の義なれば、我が此の身先業に依つて受けたる相性体力云云、其の具したる塵沙の惑悉く即身応身如来なり。
所謂諸法如是と読む時は、是れ中道の義に順じて業に依つて受くる所の相性等云云、其に随いたる無明皆退いて即身法身の如来と心を開く。
此の十如是、三転によまるる事、三身即一身、一身即三身の義なり、三に分るれども一なり、一に定まれども三なり』と。

空仮中の三諦(空諦、仮諦、中道)
法華経方便品第二に次の偈がある。
[原文]
仏所成就 第一希有 
難解之法 唯仏与仏 乃能究尽 諸法実相
[和訳]
仏が成就せし所の、第一の希有で難解なる法は、唯、仏と仏のみが諸法の実相を、能く究め尽くせばなり。

つまり仏法では、森羅万象はすべからく諸々の法で貫かれており、その法を究め悟られたのが仏であるとする。
諸法を悟れば仏になれるので、仏は、三千大千世界(宇宙)に存在する国土(星)は無数に存在し、仏が衆生を導く仏国土も無数に存在するとする。
その諸法を捉えた概念が「一念三千」であり、本抄の「空仮中の三諦」となる。
一例として「水」で空仮中の三諦を説明すると、水は置かれている環境(縁※主に温度)により、液体の水、固体の氷、気体の水蒸気と変化する。この状態は仮に和合した姿、つまり仮諦である。固体でも雪、あられ、氷と変化する。これも
諦である事を示している。
其の水は見た目の姿が変われど、分子式"H2O"で表される水の本質は共通であり、100度で気体、0度で凍るという絶対的な性質・法則を持つ。しかしこの法則そのものを人の目では見ることはできないが、我々は現象として認識できる。此の水の本質を空諦としてみる。
そしてH20としての性質を持ち、温度の変化により刻々と姿を変える水の当体そのものを中道としてみる。

身口意の三業(しんくいのさんごう)
仏教では衆生の様々な振る舞いを身業・口業・意業の三つに分別する。
身業とは、身体の動作や振る舞い、口業とは言葉で発する事、意業とは心に思ったり想念することことをいいます。
とは、これらの振舞の結果が己の命に刻まれ積み重なり、その結果、未来の境遇(報い)が定まることになります。


【御義口伝 上】要点解説(59)に続く





by johsei1129 | 2018-05-18 22:48 | 御義口伝 | Trackback | Comments(0)
2018年 05月 18日

末法の本仏の立場で法華経一部二十八品を直弟子日興上人に口伝した書【御義口伝 上】要点解説(57)

【法師品十五箇の大事】

第六 聞法信受 随順不逆の事
 

御義口伝に云く、聞とは名字即(注)なり。

法とは題目なり、信受とは受持なり。

随順不逆とは本迹二門に随順するなり。


今、日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉る者の事なり。


(注)

名字即

天台は「摩訶止観」で、法華経への信仰が深まって、仏の境涯=仏界を覚知していく段階を「六即」の概念で、以下のように説いた。


理即
 法華経を信仰していなくとも、全ての衆生に、理の段階で仏界が存在するとした。

名字即  始めて法華経の偈(名字)を聞き、信仰を始めた段階。名字卽から、仏の境涯を目指し仏道に入ることになる。

観行即  観行とは己心を観ずる行で、経(名字)を学び、修行で己心に仏性を観じ、一切の法は皆仏法であると知る位をいいます。

相似即 勧行の修行の結果、見思 ・塵沙じんじゃの二惑を断じ、仏の覚りに相似した六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)清浄の位をいいます。

分真即、四十二品ある無明惑のうち、最後の元品の無明を残して迷いを滅し、仏の悟りの一部分を体現している段階。

究竟即 完全なる仏の覚りに到達している段階。


日蓮大聖人は天台の六即を御義口伝で、次の様に簡明に解き明かしております。
『六即の配立の時は此の品の如来は理即の凡夫なり、頭に南無妙法蓮華経を頂戴し奉る時名字即なり、其の故は始めて聞く所の題目なるが故なり。
聞き奉りて修行するは観行即なり、此の観行即とは事の一念三千の本尊を観ずるなり、さて惑障を伏するを相似即と云うなり、化他に出づるを分真即と云うなり、無作の三身の仏なりと究竟したるを究竟即の仏とは云うなり』と。

さらに日蓮大聖人は、自らが図現した十界曼荼羅のご本尊に「南無妙法蓮華経」と唱えることで、己心に冥伏している仏界を開くことができるという、末法における究極の「行」を確立します。
この御本尊の意義についいて、流罪地の佐渡で著した「観心本尊抄」で次のように解き明かしておられます。

「一念三千(仏界)を識らざる者には、仏(日蓮大聖人は)、大慈悲を起し、五字(妙法蓮華経)の内に此の珠(一念三千)を裹み、末代幼稚の頚に懸けさしめ給う」と。


【御義口伝 上】要点解説(58)に続く




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by johsei1129 | 2018-05-18 00:05 | 御義口伝 | Trackback | Comments(0)