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日蓮大聖人『御書』解説

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2016年 09月 07日 ( 1 )


2016年 09月 07日

現在伝えられている最古の御書【戒体即身成仏義 その五】

【戒体即身成仏義 その五】本文

「若し人信ぜず」と説くは末代の機に協はずと云ふ者の事なり。「此経を毀謗せば」の毀はやぶると云ふ事なり。法華経の一日経を皆停止して称名の行を成し、法華経の如法経を浄土の三部経に引き違へたる、是を毀と云ふなり。権経を以て実経を失ふは、子が親の頚を切りたるが如し。又観経の意にも違ひ、法華経の意にも違ふ。謗と云ふは但口を以て誹り、心を以て謗るのみ謗には非ず。法華経流布の国に生まれて、信ぜず行ぜざるも即ち謗なり。「則ち一切世間の仏種を断ず」と説くは、法華経は末代の機に協はずと云ひて、一切衆生の成仏すべき道を閉づるなり。「或は復顰蹙」と云へるは、法華経を行ずるを見て、唇をすくめて、なにともなき事をする者かな、祖父が大なる足の履(くつ)、小さき孫の足に協(かな)はざるが如くなんど云ふ者なり。

「而も疑惑を懐く」とは、末代に法華経なんどを行ずるは実とは覚えず、時に協はざる者をなんど云ふ人なり。此の比(ごろ)の在家の人毎に、未だ聞かざる先に天台・真言は我が機に協はずと云へるは、只天魔の人にそひて生まれて思はするなり。妙楽大師の釈に云はく「故に知んぬ、心宝所に趣くこと無くんば、化城の路一歩も成ぜす」文。法華経の宝所を知らざる者は、同居の浄土・方便土の浄土へも至るまじきなり。又云はく「縦ひ宿善有ること恒河沙の如くなるも、終に自ら菩提を成ずるの理なし」文。称名・読経・造像・起塔・五戒・十善・色無色の禅定、無量無辺の善根有りとも、法華開会の菩提心を起こさざらん者は、六道四生をば全く出でまじきなり。
 
 法華経の悟りと申すは易行の中の易行なり。只五戒の身を押へて仏因と云ふ事なり。五戒の我が体は即身成仏とも云はるゝなり。小乗の意、権大乗のおきては、表にて無表を発す。此の法華経は三世の戒体なり。已酬・未酬倶に仏因と説いて、三悪道の衆生も戒体を発得す。竜女が三十二相の戒体を以て知んぬべし。況んや人・天・二乗・菩薩をや。法華経一部に列なれる九界の衆生は、皆即身成仏にてこれ有りしなり。止観に云はく「中道の戒は戒として備はざることなし、是を具足と名づく。中道戒を持つなり」云云。中道の戒とは法華の戒体なり。無戒不備とは、律儀・定・道の戒なり。此の五戒を十界具足の五戒と知る時、我が身に十界を具足す。我が身に十界を具すと意得る時「欲令衆生仏之知見」と説いて、自身に一分の行無くして即身成仏するなり。尽形寿の五戒の身を改めずして仏身となる時は、依報の国土も又押へて寂光土なり。妙楽の釈の云はく「豈伽耶(あに・がや)を離れて別に常寂を求めんや、寂光の外に別に娑婆あるに非ず」文。法華已前の経に説ける十方の浄穢土は、只仮説の事に成りぬ。又妙楽大師の釈に云はく「国土浄穢(じょうえ)の差品(しゃほん)を見ず」云云。

 又云はく「衆生自ら仏の依正の中に於て殊見(しゅけん)を生じて苦楽昇沈す。浄穢宛然として成壊斯(ここ)に在り」文。法華の覚りを得る時、我等が色心生滅の身即不生不滅なり。国土も爾(しか)の如し。此の国土の牛馬六畜も皆仏なり、草木日月も皆聖衆なり。経に云はく「是の法は法位に住して世間の相常住なり」文。此の経を意得る者は持戒・破戒・無戒、皆開会の戒体を発得するなり。経に云はく「是を戒を持ち、頭陀(ずだ)を行ずる者と名づく」云云。法華経の悟りと申すは、此の国土と我等が身と釈迦如来の御舎利と一つと知るなり。経に云はく「三千大千世界を観るに乃至芥子(けし)の如き許りも、これ菩薩にして身命を捨てたまふ処に非ざること有ること無し」文。此の三千大千世界は、皆釈迦如来の菩薩にておはしまし候ひける時の御舎利なり。我等も此の世界の五味をなめて設けたる身なれば、又我等も釈迦菩薩の舎利なり。故に経に云はく「今此の三界は皆是我が有なり。其の中の衆生は悉く是吾が子なり」等云云。法華経を知ると申すは、此の文を知るべきなり。

「我が有」と申す有は、其れ真言宗に非ざれば知り難し。但し天台は真性軌と釈し給へり。舎利と申すは天竺の語、此の土には身と云ふ。我等衆生も則ち釈迦如来の御舎利なり。されば多宝の塔と申すは我等が身、二仏と申すは自身の法身なり。真実には人天の善根を仏因と申すは、人天の身が釈迦如来の舎利なるが故なり。

 法華経を是の体に意得る則んば真言の初門なり。此の国土・我等が身を釈迦菩薩成仏の時、其の菩薩の身を替へずして成仏し給へば、此の国土・我等が身を捨てずして、寂光浄土・毘盧遮那仏にて有るなり。十界具足の釈迦如来の御舎利と知るべし。此をこそ大日経の入漫荼羅具縁品には慥かに説かれたるなり。真言の戒体は人之を見て師に依らずして相承を失ふべし。故に別に記して一具に載せず。但標章に載する事は人をして顕教より密教の勝るゝことを知らしめんが為なり。

【戒体即身成仏義】完。







by johsei1129 | 2016-09-07 19:34 | 重要法門(十大部除く) | Trackback | Comments(0)