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日蓮大聖人『御書』解説

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2016年 09月 06日 ( 2 )


2016年 09月 06日

現在伝えられている最古の御書【戒体即身成仏義 その四】

【戒体即身成仏義 本文】その四
 
 第三に法華開会の戒体とは、仏因仏果の戒体なり。唐土の天台宗の末学、戒体を論ずるに、或は理心を戒体と云ひ、或は色法を戒体と論ずれども、未だ梵網・法華の戒体の差別に委しからず。法華経一部八巻二十八品・六万九千三百八十四字、一々の文字、開会の法門実相常住の無作の妙色に非ずといふこと莫し。此の法華経は三乗・五乗・七方便・九法界の衆生を皆毘盧遮那の仏因と開会す。三乗は声聞・縁覚・菩薩、五乗は三乗に人天を加へたり。七方便は蔵通の二乗四人、三蔵教の菩薩・通教の菩薩・別教の菩薩三人、已上七人。九法界は始め地獄より終はり菩薩界に至るまで、此等の衆生の身を押へて仏因と開会するなり。其の故は、此等の衆生の身は皆戒体なり。但し疑はしき事は、地獄・餓鬼・畜生・修羅の四道は戒を破りたる身なり、全く戒体無し。人・天・声聞・縁覚の身は尽形寿の戒に酬いたり。既に一業引一生の戒体、因は是善悪、果は是無記の身なり。其の因既に去りぬ。何なる善根か有りて法華の戒体と成るべきや。菩薩は又無量劫を歴て成仏すべしと誓願して発得せし戒体なり。「須臾聞之即得究竟」の戒体と成るべからず。此等の大なる疑ひ有るなり。然るを法華経の意を以て之を知れば、十界共に五戒なり。其の故は、五戒破れたるを四悪趣と云ふ、五戒失せたるに非ず。

 譬へば家を造ってこち置きぬれば材木と云ふ物なり、数の失せたるに非ず、然れども人の住むべき様無し、還って家と成れば又人住むべし。されば四悪趣も五戒の形は失せず。魚鳥も頭有り、四支有るなり。魚のひれ四つ有り、即ち四支なり。鳥は羽と足とあり、是も四支なり。牛馬も四足あり、二つの前の足は即ち手なり。破戒の故に四足と成りてすぐにたゝざるなり。足の多くある者も、四足の多く成りたるにて有るなり。蠕蛇の足なく腹ばひ行くも、四足にて歩むべきことはりなれども、破戒の故に足無くして歩むにて有るなり。畜生道此くの如し。餓鬼道は多くは人に似たり。地獄は本の人身なり。苦を重く受けん為に本身を失はずして化生するなり。大覚世尊も五戒を持ち給へる故に浄飯王宮に生まれ給へり。諸の法身の大士、善財童子・文殊師利・舎利弗・目連も皆天笠の婆羅門の家に生まれて仏の化儀を助けんとて、皆人の形にて御座しましき。梵天・帝釈の天衆たるも、竜神・修羅の悪道の身も、法華経の座にしては皆人身たりき。此等は十界に亘りて五戒が有りければこそ、人身にては有らめ。諸経の座にては四悪趣の衆生、仏の御前にて人身たりし事は不審なりし事なり。

 舎利弗を始めとして千二百の阿羅漢・梵王・帝釈・阿闍世王等の諸王、韋提希等の諸の女人、皆「衆生をして仏知見を開かしめ清浄なることを得せしめんと欲す」と開会せし事は、五戒を以て得たる六根・六境・六識を改めずして、押さへて仏因と開会するなり。竜女が即身成仏は畜生蛇道の身を改めずして、三十二相の即身成仏なり。畜生の破戒にて表色なき身も、三十二相の無表色の戒体を発得するは、三悪道の身即ち五戒たる故なり。されば妙楽大師の釈には五戒を十界に亘し給へり「別して論ずれば、然りと雖も通の意知るべし。余色・余塵・余界も亦爾り。是の故に須く仁譲等の五を明かすべし」云云。余色とは九界の身、余塵とは九界の依報の国土、余界とは九界なり。此の文は人間界を本として、五常・五戒を余界へ亘すなり。但し持たざる五戒は、如何に三悪道には有りけるぞと云ふに、三悪道の衆生も人間に生まれたりし時、五戒を持ちて其の五戒の報を得ずして三途に堕ちたる衆生もあり。此の善根をば未酬の善根と云ふ。又既に人間に生まれたる事もあり、是をば已酬の善根と云ふ。又無始の色心有り。此等の善根を押さへて正・了・縁の三仏性と開会する時、我が身に善根有りと思はざるに、此の身を押さへて「欲令衆生開仏知見使得清浄故」と説かるゝは、人天の果報に住する五戒十善も、権乗に趣ける二乗も菩薩も「皆已に仏道を成ず、汝等行ぜし所は是菩薩道」と説かれたるなり。

 されば天台の御釈に云はく「昔は方便未だ開せざれば果報に住すと謂へり。今方便の行、即ち是縁因仏性と開するに、能く菩提に趣かしむ」云云。妙楽大師は「権乗の道に趣向せし者も、一実の観・一大の弘願を以て之を体し之を導く」云云。是くの如く意得る時、九界の衆生の身を仏因と習へば、五戒即仏因なり。法華已前の経には此くの如き説なき故に、凡夫・聖人の得道は名のみ有りて実無きなり。されば此の経に云はく「但虚妄を離るゝを名づけて解脱と為す。その実は未だ一切の解脱を得ず」文。愚かなる学者は、法華已前には二乗計り色心を滅する故に得道を成ぜず、菩薩・凡夫は得道を成ずべしと思へり。爾らざる事なり、十界互具する故に妙法なり、さるにては十界に亘って二乗・菩薩・凡夫を具足せり。故に二乗に成仏せずと云はゞ、凡夫・菩薩も成仏せずと云ふ事なり。法華の意は、一界の成仏は十界の成仏なり。法華已前には仏も実仏に非ず、九界を隔てし仏なる故に。何に況んや九界をや。然るに法華の意は、凡夫も実には仏なり、十界互具の凡夫なる故に。何に況んや仏界をや。されば天台大師は一代聖教を十五遍御覧有りき。陳・隋二代の国師として造り給ひし文は、天笠・唐土・日本に、玄義・文句・止観の三十巻はもてなされたり。御師は六根清浄の人南岳大師なり。此の人の御釈の意一偏に此にあり。此の人を人師と申してさぐるならば、経文分明なり。無量義経に云はく「四十余年未だ真実を顕はさず」云云。法華已前は虚妄方便の説なり。法華已前にして一人も成仏し、浄土にも往生してあらば、真実の説にてこそあらめ。又云はく「無量無辺不可思議阿僧祇劫を過ぎて、終に無上菩提を成ずることを得ず」文。

 法華経には「正直に方便を捨てゝ但無上道を説く」云云。法華已前の経は不正直の経、方便の経。法華経は正直の経、真実の経なり。法華已前に衆生の得道があらばこそ、行じ易き観経に付きて往生し、大事なる法華経は行じ難ければ行ぜじと云はめ。但釈迦如来の御教の様に意得べし、観経等は此の法華経へ教へ入れん方便の経なり。浄土に往生して成仏を知るべしと説くは、権教の配立、観経の権説なり。真実には此の土にて我が身を仏因と知って往生すべきなり。此の道理を知らずして、浄土宗の日本の学者、我が色心より外の仏国土を求めさする事は、小乗経にもはづれ大乗にも似ず。師は魔師、弟子は魔民、一切衆生の其の教を信ずるは三途の主なり。法華経は理深解微にして我が機に非ず、毀らばこそ罪にてはあらめと云ふ。是は毀るよりも法華経を失ふにて、一人も成仏すまじき様にて有るなり。設ひ毀るとも、人に此の経を教へ知らせて、此の経をもてなさば、如何かは苦しかるべき。毀らずして此の経を行ずる事を止めんこそ、弥怖ろしき事にては候へ。此を経文に説かれたり。「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば、則ち一切世間の仏種を断ぜん。或は復顰蹙して疑惑を懐かん、其の人命終して阿鼻獄に入らん。地獄より出でて当に畜生に堕すべし、若しは狗・野干、或は驢の中に生まれて身常に重きを負ふ。此に於て死し已って更に蟒身を受けん。常に地獄に処すること園観に遊ぶが如く、余の悪道に在ること己が舎宅の如くならん」文。此の文を各御覧有るべし。

【戒体即身成仏義 本文】その五に続く。





by johsei1129 | 2016-09-06 22:21 | 重要法門(十大部除く) | Trackback | Comments(0)
2016年 09月 06日

現在伝えられている最古の御書【戒体即身成仏義 その三】

【戒体即身成仏義 本文その三】
 第二に権大乗経の戒体とは、諸経に多しと云へども、梵網経・瓔珞経を以て本と為す。梵網経は華厳経の結経、瓔珞経は方等部浄土の三部経等の結経なり。されば法華已前の戒体をば此の二経を以て知るべし。梵網経の題目に云はく「梵網経盧舎那仏説菩薩心地戒品」文。此の題目を以て人天二乗を嫌ひ、仏因仏果の戒体を説かずと知るべきなり。されば天台の御釈に云はく「所被の人は唯大士の為にして二乗の為にせず」と。又云はく「既に別に部の外に菩薩戒経と称す」文。又云はく「三教の中に於ては即ち是頓教なり、仏性常住一乗の妙旨を明かす」文。三教と申すは頓教は華厳教、漸教は阿含・方等・般若、円教は法華・涅槃なり。一乗と申すは未開会の一乗なり。法華の意を以て嫌はん時は、宣説菩薩歴劫修行と下すべきなり。又梵網経に云はく「一切発心の菩薩も亦誦すべし十信之に当たる十発趣十住十長養十行十金剛十向」と。又云はく「十地仏性常住妙果」已上。四十一位又は五十二位。此の経と華厳経には四十一位又五十二位の論之有り。此の経を権大乗と云ふ事は、十重禁戒・四十八軽戒を七衆同じく受くる故に小乗経には非ず。又疑ふべき処は華厳梵網の二経には別円二教を説く。別教の方は法華に異なるべし、円教の方は同じかるべし。されば華厳経には「初発心の時便ち正覚を成ず」と。梵網経には「衆生仏戒を受くれば即ち諸仏の位に入る。位大覚に同じうし已はらば、真に是諸仏の子なり」文。

答へて云はく、法華已前の円の戒体を受けて、其の上に生身得忍を発得するなり。或は法華已前の円の戒体は別教の摂属なり。法華の戒体は受不受を云はず。開会すれば戒体を発得する事復是くの如し。此の経の十重禁戒とは、第一不殺生戒・第二不偸盗戒・第三不邪婬戒・第四不妄語戒・第五不酤酒戒・第六不説四衆過罪戒・第七不自讃毀他戒・第八不慳貪戒・第九不瞋恚戒・第十不謗三宝戒なり。又瓔珞経の戒は、題目に菩薩瓔珞本業経と云へり。此の経も梵網経の如く菩薩戒なり。此の経に五十二位を説く。経に云はく「若しは退き若しは進むとは十住以前の一切の凡夫、若しは一劫二劫乃至十劫、十信を修行して十住に入ることを得」云云。又云はく「十住・十行・十廻向・十地・等覚・妙覚」云云。此の経は一々の位に多劫を歴て仏果を成ず。菩薩は十信の位にして仏果の為に十無尽戒を持つ、二乗と成らん為に非ず。故に住前十信の位にして退すれば悪道に堕つ。又人天に生じて生を尽くせども戒体は失はず、無量劫を歴て仏果に至るまで、壊れずして金剛の如くにて有るなり。

此の経に云はく「凡聖の戒は尽く心を体となす。是の故に心亦尽くれば戒も亦尽く。菩薩戒は受法のみ有りて而も捨法無く、犯有れども失せず、未来際を尽くす」と。又云はく「心無尽

なる故に戒も亦無尽なり」文。又云はく「仏子無尽戒を受け已はれば、其の受くる者四魔を過度し三界の苦を越え、生より生に至るまで此の戒を失はず、常に行人に随ひ乃至成仏す」文。

天台大師云はく「三蔵は寿を尽くし、菩薩は菩提に至る。爾の時に即ち廃す」文。此の文は小乗戒は凡夫・聖人・二乗の戒共に尽形寿の戒、菩薩戒は凡夫より仏果に至るまで、その中間に無量無辺劫を歴れども、戒体は失せずと云ふ文なり。されば此の戒は持って犯すれども、猶二乗・外道に勝れたり。故に経に云はく「有ちて犯する者は、無くして犯さゞるに勝れたり、有つは犯するも菩薩と名づけ、無きは犯さゞるも外道と名づく」文。此の文の意は、外道は菩薩戒を持たざれば戒を犯さゞれども菩薩とは名づけず、菩薩は戒を破犯すれども仏果の種子は破失せざるなり。此の梵網・瓔珞の二経は心を戒体と為す様なれども、実には色処を戒体と為すなり。小乗には身口を本体と為し、大乗には心を本体と為すと申すは一往の事なり、実には身口の表を以て戒体を発す。戒体は色法なり、故に大論に云はく「戒は是色法なり」文。故に天台の梵網経疏に「正しく戒体を出だす。第二に体を出だすとは、初めに戒体とは起こさずんば而已なん。起こさば即ち性なる無作の仮色なり」文。「起こさずんば而已なん」とは、表なければ戒体発せずと云ふなり。

「起こさば即ち性なる無作の仮色なり」とは、戒体は色法と云ふ文なり。近来唐土の人師、梵網・法華の戒体の不同を弁へず、雑乱して天台の戒体を談じ失へり。瓔珞経の十無尽戒とは、第一不殺生戒・第二不偸盗戒・第三不邪淫戒・第四不妄語戒・第五不酤酒戒・第六不説四衆過罪戒・第七不慳貪戒・第八不瞋恚戒・第九不自讃毀他戒・第十不謗三宝戒なり。梵網・瓔珞の十重禁戒・十無尽戒も初めに五戒を連ねたり。大小乗の戒は五戒を本と為す。

故に涅槃経には具足根本業清浄戒とは是五戒の名なり。一切の戒を持つとも、五戒無ければ諸戒具足すること無し。五戒を持てば諸戒を持たざれども、諸戒を持つに為りぬ、諸戒を持つとも五戒を持たざれば諸戒も持たれず、故に五戒を具足根本業清浄戒と云ふ。されば天台の釈に云はく「五戒は既に是菩薩戒の根本なり」と。諸戒の模様を知らんと思はゞ、能く能く之を習ふべし。


【戒体即身成仏義 本文その四】に続く





by johsei1129 | 2016-09-06 00:08 | 重要法門(十大部除く) | Trackback | Comments(0)