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日蓮大聖人『御書』解説

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2016年 09月 02日 ( 1 )


2016年 09月 02日

日蓮大聖人が比叡山延暦寺にて修行中にしたためられた貴重な書【色心二法抄】

【色心二法抄】

■出筆時期:寛元二年(1244)九月一七日  二十三歳御作。
■出筆場所:京都 比叡山延暦寺にて。
■出筆の経緯:日蓮大聖人が是生房連長と名乗っておられた二十三歳の時、修学中の比叡山にてに「色心の二法」について述作された貴重な書。
■ご真筆:現存しておりません。古写本:日春筆(沼津市 光長寺所蔵)

【色心二法抄 本文】
先づ止観・真言に付いて此の旨を能く能く意得べきなり。先づ此の旨を意得ば、大慈悲心・菩提心を意得べし。其の故如何となれば、世間の事を案ずるも、猶心をしづめざれば意得難し。何に況んや、仏教の道、生死の二法を覚らんことは、道心を発こさずんば協ふべからず。道心とは、無始より不思議の妙法蓮華経の色心、五輪・五仏の身を持ちながら迷ひける事の悲しきなり。如何にしても此の旨を能く能く尋ぬべきなり。三世の諸仏も世に出でましましては、先づ如何にしても此の理を説き知らせばやと思し食す。又大日如来も是を一大事と思し食して、五輪・五仏の旨を説き、即身成仏の理を顕はし給ふ。されば釈迦如来も大日如来も強ちに歎き思し食しける事は、中々一切衆生の迷ひの凡夫、妙法蓮華経の色心をも離れ、五戒・五智・五仏の正体をも隔てずば、あながちに仏も歎き思し食すまじきを、妙法蓮華経の色心を持ちながら、五戒・五智・五仏の正体に無始より迷ひける事を歎き思し食しけるなり。されば如何にしても迷ひの時も悟りの仏にてありけるぞと、此の旨を能く能く意得べきなり。
 
 諸法多しと雖も十界に過ぐべからず。十界とは一に地獄、二に餓鬼、三に畜生、四に阿修羅、五に人、六に天、七に声聞、八に縁覚、九に菩薩、十に仏なり。此の十界は東西南北中央の五方天地には過ぐべからず。此の中に十界の理が三世にしつらはれて有るなり。此の十界は迷ひの十界・悟りの十界とて二法有ること無し。故に此の十界皆悟らざる時も妙法蓮華経の色心にて有りけるなり。所以は何、地獄の衆生も皆五根五臓を以て造る。其の五根五臓とは、眼根は東方、大円鏡智、阿?仏なり。耳根こんは北方、成所作智、釈迦如来なり。鼻根は西方、妙観察智、阿弥陀如来なり。舌根は南方、平等性智、宝性仏なり。身根は中央、法界体性智、大日如来なり。是又東西南北中央の五方、是又五戒なり。眼は不殺生戒、耳は不邪淫戒、鼻は不偸盗戒、舌は不飲酒戒、口は不妄語戒なり。又此の五根は五行なり。眼は木、耳は水、鼻は金、舌は火、身は土なり。又是五色きなり。眼は青色、耳は黒色、鼻は白色、舌は赤色、身は黄色なり。又是五竜なり。眼は青竜、耳は黒竜、鼻は白竜、舌は赤竜、身は黄竜なり。又是五常なり。眼は仁の徳、耳は礼の徳、鼻は義の徳、舌は智の徳、身は信の徳、故に此仁義礼智信とて五つの振る舞ひなり。又是五臓なり。眼は肝臓、耳は腎臓、鼻は肺臓、舌は心臓、身は脾臓なり。又是の五臓に五つの神あり。魂・志・魄・意・神是なり。此の五つの神は天の五星、地の五岳、束ねて五神は五智の如来なり。迷へる凡夫の身中にしては五つの神と云はれ、此の五つを五智の如来なりと悟れば、五仏果徳の仏なり。爰に知んぬ、地獄の依報正報が皆五智五仏の正体なりと云ふことを。地獄の大地は中央、法界体性智、大日如来の土なり。地獄の薪は東方、大円鏡智、阿?仏の木なり。地獄の炎は南方、平等性智、宝性仏の火なり。地獄の釜は西方、妙観察智、阿弥陀仏の金なり。地獄の水は北方、成所作智、釈迦如来の水なり。

 此くの如く五行は五仏の正体なる故に、既に地獄も五仏の正体なり。故に妙楽大師曰く「阿鼻の依正は全く極聖の自身に処し、毘盧の身土は凡下の一念を逾えず」云云。是を以て思ふに、地獄は遠くもなかりけるなり。衆生の五智・五仏の正体を地獄とは名づくるなり。故に釈に曰く「迷へば則ち三道の流転、悟れば則ち果中の勝用なり」と。地獄の一道を以て余道をも意得べし。仏は九界に遍す、九界は全く仏界の色心なり。此の理をしらずして無始より迷ひける事よ。但し此の身は何よりか生ぜる。東西南北中央の五方、天地・陰陽・日月・五星より生ぜり。彼の天地・陰陽・日月・五星は又何よりか生ぜる。彼の法は万法能生の体にして、過去にも生ぜず、未来にも生ぜず、故に三世常住なり。東西南北中央の五方、日月五星は始まりたる体にあらざれば、又我が身も不生の身なり、法界も不生の体なり。我が母も天地・陰陽・日月・五星・法界の体なるが故に、我も亦法界の体なり。故に生ぜる母もなく、又生ぜられたる我もなし。何を以ての故に、我が母も始めて法界の体をば生ずべからず、倶に法界の体なるが故に。竜樹菩薩云はく「諸法は自よりも生ぜず、亦他よりも生ぜず。又共しても生ぜず、無因にしても生ぜず」と。唯法界不生の体にして不可思議不可得なり。但し生といひ死と云ふ諸法は天地陰陽に過ぐべからず。天の陽気、地の陰気、且く相合する時を生と云ふ、天地の二気本有に還る処を死と云ふ。故に止観八に云はく「天地の二気交合して各五行有り」と。

故に知んぬ、天地の二の気と云ふは我が父母なり。父は天なり、母は地なり。此の天地の父母和合して五色を生ぜり。其の五色とは則ち五方・五星・五仏・五戒・日月衆星の体なり。夫が頭身手足等の六分の形を顕はす。骨は是を以てさゝへ、髄は是を以て長じ、筋は是を以てぬひ、脈は是を以て通じ、血は是を以て湿し、肉は是を以て裹み、皮は是を以て覆ふ。然るに我が身をさゝへたる骨は北方釈迦如来なり。我が身をぬへる筋は東方阿?如来なり。我が身を湿せる血は南方宝性如来なり。我が身を裹める肉は中央大日如来なり。我が身を覆へる皮は西方阿弥陀如来なり。然るに骨のあまりは歯となり、肉の余りは舌となり、筋の余りは爪となり血の余りは髪となる。

 総じて一期の果報、四大・五陰・十二入・十八界具足して成就せり。乃至此の身に天地一切の諸法を備へて、万事にかたどれり。故に弘決の六に云はく「頭の円なるは天なり。足の方なるは地なり。身の中の空なる種は則ち是虚空なり。腹の中の熱きは春夏なり。背の剛きは秋冬なり。四体は四季なり。大骨の十二は十二月、小骨の三百六十は一年の三百六十日なり。鼻の気の出入は山谷の風なり。口の気の出入は虚空の中の風なり。目の二つは日月なり。目を開くは昼なり。目を閉づるは夜なり。髪は空の星なり。眉は北斗なり。血脈は江河なり。骨は石瓦なり。肉は地なり。毛は大地の上に生ひたる草木なり。五臓は天に在っては五星と云はれ、地に在っては五岳と云はれ、陰陽に在っては五行と云はれ、世に在っては五常と云はれ、内に在っては五神と云はる」と。爰に知んぬ、既に一年・十二月・三百六十日、東西南北中央の五方、天地陰陽を以て此の身を造作せりと云ふことを。
 
 但し生と云ひけるは来たる日月を云ひ、死と云ひけるは過ぎ行く日月を以てす。然りと雖も天も改まらず、地も改まらず。東西南北中央の五方、日月五星も替はること無し。然るに天地冥合して有情非情の五色とあらはるゝ処を生と云ひ、五色の色還って本有無相の理に帰する処を死とは云ふなり。都て一代聖教顕密の旨殊なりといへども、生死の二法、色心の二法是大事にてあるなり。此の生死、六道・四生・二十五有に廻りて輪廻今に絶えず。然るに仏は此の生死を離るゝを以て仏と云ふ。此の生死に遷り迷ふを以て凡夫と云ふなり。此の生死を能く能く意得べきなり。止観の五に云はく「無明の癡惑は本是法性なり。癡迷を以ての故に法性変じて無明と作り、諸の顛倒善不善等を起こす。寒さ来たりて水を結び、変じて堅氷と作るが如く、又眠り来たりて心を変じ、種々の夢有るが如し。今当に諸の顛倒は即ち是法性にして、一ならず異ならずと体すべし。顛倒起滅すと雖も旋火輪の如し。顛倒の起滅を信ぜず、唯、此の心但是法性なりと信ぜよ。起は是法性の起、滅は是法性の滅なり。其れを体するに、実に起滅せざるを妄りに起滅すと謂へり。只妄想を指すに悉く是法性なり。法性を以て法性に繋け、法性を以て法性を念ず。常に是法性にして法性ならざる時無し。体達すること既に成ずれば妄想を得ず、亦法性を得ず。源に還り本に反れば法界倶に寂なり。

是を名づけて止と為す」云云。明らかに知んぬ、此の釈の意は無始輪廻の生死の法は悟りの境界なりと釈せり。法性の故に生死ありけるなり。故に弘決の一に云はく「理性有るを以ての故に、故に生死有り、生死は理を用ゆ。生死は即ち是理なりと知らず。故に日に用ひて知らざると名づく」云云。此の釈の意は我等がいとひ悲しめる生死は、法身常住の妙理にて有りけるなり。此の旨を能く能く悟るべし。譬へば我等が生死と云へるは過ぎ行く日月に付いて生死は有るなり。されば此の日月は生死の本体にて有るなり。此の日月に付いて、東西をも弁へ、昨日今日をも分別し、又十二時をも分かち、三十日を一月とし、十二月を一年とする事も、世間の事に於て前後をも乱さず、理をも失はず、月日の過ぎ去るに付いて、残の命幾ならずと云ふ事をも知るなり。明らかに知んぬ、十界の衆生の依正二報の生死は唯此の日月よりをこるなり。又是金胎両部の全体本迹二門の実理なり。此の実理の故に生死は有りけるなり。此の日月の本体の故に有りける生死なるが故に、弘決の一に「仏なる故に生死あり」と釈し給ふなり。止観に云はく「起は是法性の起、滅は是法性の滅」と釈し給ひしも唯此の意なるべし。故に一年十二月は十二因縁の生死なり。正月の生の位より十二月の老死滅の位に至る。又此の滅の位より生の種をついで、十界の因果三世に改まらずして、十界の生死は過ぎ行く日月にて有るなり。又我等衆生の身のみならず、草木も皆此の日月の明け暮れ生死にうつされて、我等と倶に生々死々するなり。譬へば生ずるは心法なり、滅するは色法なり。色心の二法が不二なりと云ふは、譬へばもみを種におろすに、もみは去年の菓なれば心法なり。此の心法を今年種に下ろすに此の種子苗と成る。

心、色と成るが故に心法の形見えず、但色法のみなり。然りと雖も此の色法の全体は心法なる故に、日月の過ぎ行くに随って生長するなり、故に色心不二なり。色心不二なりといへども、又而二なり。此の色法の苗の中より、秋に至りて又本の心法を生ずるなり、故に不二にして而二なり。
 是くの如く、十界の依正、色心の二法、一法二義の理にして、生死常住の故に三世に改まることなし。哀れなる哉、生死の無常を厭ひ悲しみ、身の常住の生死をしらずして厭ひ居る事よ。此の理をしらずして、或は此の生死を厭ひて生死なき浄土をもとめ、或は又此の理をしらずして、生死は虚妄の物なりと観ずる人も之有り。悲しむべし悲しむべし。唯生とは心法なり、滅とは色法なり。故に生死の二法は色心の二法にて有りけるなり。是即ち真言・止観の観法、出離生死の頓証なり。道場所得の妙悟、妙覚朗然の知見なり。最後臨終の時は此の理を思し食し定むべし。
   九月十七日





by johsei1129 | 2016-09-02 20:21 | 重要法門(十大部除く) | Trackback | Comments(0)